本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

※ 御注意  ※ 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有りますが、その場合は『 生前墓 』と表示してあります。

すでに『 撤去 』された墓石もあります 確認が取れたものには『 撤去済み 』と表示してありますが、撤去済みで確認が取れていないものについては「 表示されていません 」

画像は再訪したときに再撮影して差し替える場合もあります。

※ 申し訳御座いませんが『 画像の転用 』は絶対に禁止とさせて頂きます。

皆様から拍手をいただけるとめっちゃモチベーションが上がります。

コメントは原則公開させていただいております

質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては「ブロック」します ブロックした場合解除する事は有りません。

皆様と楽しみながらブログを続けて行ければ幸いです 宜しくお願いします。

※ ブログ記事につきましては、撮影時のウィキペディアを引用しているため現在とは違う場合も有ります。

時代江戸時代後期
生誕寛政12年(1800年
死没文久3年10月28日1863年12月8日
改名:正裕・子寛、号:顔山
墓所光源寺
幕府江戸幕府
長州藩

坪井 九右衛門(つぼい くえもん)は、江戸時代後期の長州藩士。佐藤家(内閣総理大臣岸信介佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ(信介、栄作は兄の玄孫)、幼少時に坪井家の養子になった。

経歴
村田清風藩政改革に協力して功を挙げた。清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界した。このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。

後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。
(wikiより)

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 食事系ブログ記事を移動します
今後は こういう記事も続くかと思いますが宜しくお願いします。



安永の初年(今より百八十有余年前)山口縣長州萩港の沖、日本海の孤島で青海島大日比(オオミジマオオヒビ)と云う村落ありて、男性の入門を禁じられた尼僧修行道場で有名な尼寺があります。

その尼寺の海辺に一つの珍らしい果実が漂着せるを拾いてその種子を撒附けたものが発芽成育したもので、初めは「宇樹橘(ユズキチ)」と呼び、何人も食用に供した者もなく、然るにその後文化の初年、夏期に食して美味なる事を初めて覚り、「夏橙(ダイダイ)」と名付けて大日比より萩町江向の士族、楢崎壱十郎兵衛へ贈った。

その贈られた果実の種子を蒔きて愛育したるもの、之が萩町に於ける種子蒔きの創初であります。

明治の初年、廃藩置縣の為め、萩城での士族は食禄を失はんとする當り、藩主、毛利公の奨励に従い競って種子を需め庭園と畑地とを問はず栽培して、活路を開き初めました。

 當時、萩町河添区の住民、小幡髙政は”祖式宗助””宍戸某等”らと相謀って、同志を募り、萩地方は夏蜜柑栽培に最も適し恵まれたる地質と気候とが相俟って、之が産業的計画に基づき栽培を施く奨励しまして、終に長州本場夏蜜柑と名附けて広く全国に輸出をするに至ったのであります。

日本最初夏蜜柑の原樹は史蹟及び、天然記念物に指定されて、山口縣長州青海島の大日比村落に老樹の子木、今尚生存して居ります。 
(お店のhpより)


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光圀本店 ホームページ







佐世一清 ( させ - いっせい )

嘉永 5 ( 1852 ) 年 ~ 明治 9 ( 1876 ) 年 12月 3日 江戸時代末期・明治期の萩藩士の子。

萩の乱で敗れ斬首される。

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生年天保5年3月20日1834年4月28日
生地長門国・土原村
没年1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位


前原 一誠
(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

出自
本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗

経歴
天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、

吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。

またその戯句に

これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]

評価
吉田松陰        
 ・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]        
 ・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]
渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]
曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]         

親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注
1. 前原一誠』 - コトバンク     
2. 
中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁   
3. 
『松陰とその門下』
4. 
a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 
『大村先生逸事談話』P73   
6. 
海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。

登場作
花神 - 1977年、演:江原正士     
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣      
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一      
炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭      
花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太       
戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記     

関連項目
佐藤信寛     

外部リンク
佐世氏系譜      
前原一誠年譜・解説      

(wikiより)

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前原一誠

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保2年2月13日1831年3月26日
死没安政2年1月11日1855年2月27日
別名名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太
墓所山口県萩市北古萩町 保福寺
官位正五位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:茂左衛門、母:つる
養父:金子氏

金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末長州藩士である。名は重輔とも。

経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。

同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。

日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によってへ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

登場する主な作品
花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人    
龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣     
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保2年2月13日1831年3月26日
死没安政2年1月11日1855年2月27日
別名名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太
墓所山口県萩市北古萩町 保福寺
官位正五位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:茂左衛門、母:つる
養父:金子氏

金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末長州藩士である。名は重輔とも。

経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。

同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。

日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によってへ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。


脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

登場する作品
花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人     
龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣     
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希   
(wikiより)

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正保 2年 ( 1645 ) 9月 17日夜、藩士・岩倉孫兵衛 ( 大組・禄高 200石 ) は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門 ( 大組・禄高 200石 ) の家に切り込み、家族を殺傷した。

この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。

野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

なお、現在の指定地は獄の一部分である。

幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者・金子重之助 ( 重輔 ) 岩倉獄に投ぜられた。

松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っている。

野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派 ( 革新派 )・俗論派 ( 保守派 ) 双方の藩が投ぜられ、処刑された場所でもある。
(案内板より)

〇 野山獄
野山獄(いわくらごく)は、江戸時代長州藩によってに設けられた獄屋敷である。

概要
長州藩には士分武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。

長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。

切り込まれた野山家側に非はないとして、野山獄は上牢とされた。12室の独房が6室ずつ向かい合わせの構造で、検視小屋や刑場も設けられた。幕末には吉田松陰が収容され、獄内で教育活動を行ったほか、高杉晋作など正義派の志士、正義派と対立した俗論党椋梨藤太などが収容されていた。また、両派の関係者が処刑されたことでも知られる。

現在は史跡として整備され、記念碑が建てられている。

関連項目
萩市観光協会公式サイト 野山獄跡
(wikiより)

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正保 2年 ( 1645 ) 9月 17日夜、藩士・岩倉孫兵衛 ( 大組・禄高 200石 ) は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門 ( 大組・禄高 200石 ) の家に切り込み、家族を殺傷した。

この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。

野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

なお、現在の指定地は獄の一部分である。

幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者・金子重之助 ( 重輔 ) 岩倉獄に投ぜられた。
(案内板より)

〇 岩倉獄
岩倉獄(いわくらごく)は、江戸時代長州藩によってに設けられた獄屋敷である。

概要
長州藩には士分武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。

長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。

切り込んだ岩倉家側に非があるとして、岩倉獄は下牢とされた。野山獄とは異なり環境が劣悪で、着物や食べ物が満足に与えられなかったため、吉田松陰と共に黒船で密航を企てた金子重之輔は岩倉獄で病死している。

現在は史跡として整備され、重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられている。

関連項目
萩市観光協会公式サイト 岩倉獄跡       
(wikiより)


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山縣 周南(やまがた しゅうなん、貞享4年(1687年) - 宝暦2年8月12日1752年9月19日))は、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠の高弟であり、長州藩藩校明倫館の二代目学頭。漢詩、国史に精通し、教育者としても名声を博した。

名は孝孺(こうじゅ)。周南と号する。字は次公、少介。徂徠学派は中国風に名乗る風習があり縣次公、縣孝孺などと称した。

生涯
周防国の南方、右田鈴屋村(現山口県防府市)に山縣良斎の次男として生まれる。号の周南はこの生地にちなむ。父、良斎は毛利家一門毛利就信に仕える儒者。父の教育は厳しく、高楼上で学問をさせられ、必要が無ければ降ろしてもらえなかった。

8歳の時、父良斎の転勤に伴い萩へ移住。19歳で江戸へ遊学し荻生徂徠の門を叩く。3年で卒業し萩へ帰るが、以後江戸出張の際や書簡において頻繁に徂徠の薫陶を受ける。

26歳の時、朝鮮通信使が赤間関に来訪。長州藩の学者として朝鮮の学者と詩文の応酬を行う。詩才を高く評価され、朝鮮通信使正使に特別に接見を許される。この出来事が周南と、徂徠学派の文名を世に知らしめる一因となった。

31歳、藩主侍講となり、藩主に従い度々萩と江戸を往復する。また、藩校明倫館開学にあたって館の儀式・学規等を制定する。明倫館の初代学頭小倉尚斎没後は、二代目学頭に就任。学者、医者、官吏など多くの人材を育成した。また藩要人も多く門下にあり、藩政にも関与した。

59歳頃川魚を食べて体を壊し病に伏せるようになる。自身の文業について服部南郭に後事を託した後、66歳で没した。萩の保福寺(山口県萩市北古萩)に葬られる。

行状によると温厚な性格であったという。川遊びを好み、江戸で徂徠や南郭ら大勢の蘐園一門を招いて川遊びを挙行した。また没する直前、やや病が回復した際にも京都で川遊びを行っている。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[1]

学統
徂徠が未だ名を成さない頃から従った愛弟子であり、長州藩に、また西日本に徂徠学(古文辞学)を普及させる一大要因となった。末流といえる広瀬淡窓の儒林評では格別に古文辞を固守するようなところは無いとされ、彼自身仁斎学にも共感を示し、伊藤東涯と度々交渉を持つなど開けた学問交流を行っていた。ただし、日野龍夫によれば、その詩文の作風については古文辞風という以外に格別の特徴はないという。

また、京都の古医方派と親しく、香川修庵山脇東洋吉益東洞などの医師と交流が深かったことも特筆される。

著作
・『周南文集』 明倫館の設立次第を記した「長門国明倫館記」や周南先生行状等多くの詩文を載せる。なお、周南文集の稿本が存在し、周南続稿とも異なる周南の文章が収録されている。
・『為学初問』 小論文集。
・『作文初問』 明古文辞派の主張をその中心とする漢文手引書。
・『講学日記』 学問上の覚え書きを収録したもの。
・『宣室夜話』 周南の作ではないという説がある
・『周南続稿』 「周南文集」に収録された詩文数十編と、外に未収録の詩文を収録。 
・『周南先生医談』
・『江氏家譜』 藩命によって編纂した毛利家の系譜。

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35

参考文献 
・河村一郎『長州藩徂徠学』私家版
・藤井明・久富木成大『山井崑崙 山県周南』明徳出版社

(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保9年(1838年
死没元治元年6月6日1864年7月9日
別名諱:律義(のりよし)、号:寒翠・寒緑
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩

杉山 松助(すぎやま まつすけ)は、幕末長州藩士。諱は律義(のりよし)。名は松介とも。

略伝
安政5年(1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。文久2年(1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許された。

元治元年6月5日、池田屋事件に遭遇。脱出して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した。享年27。明治24年(1891年)、従四位を贈られる[1]

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
(wikiより)

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時代江戸時代末期
生誕文政2年5月1日1819年6月22日
死没文久3年2月6日1863年3月24日
別名雅楽、与之助、与左衛門、隼人、右近
戒名庸軒誠義英剣居士
墓所海潮寺山口県萩市
主君毛利敬親
長州藩
氏族大江姓長井氏
父母父:長井泰憲 母:福原利茂の女
貞子

長井 雅楽(ながい うた、文政2年5月1日1819年6月22日〉 - 文久3年2月6日1863年3月24日〉)は、日本江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、時庸(ときつね)。

長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。

略歴
萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれた。文政5年(1822年)、4歳の時に父が病死したため、家督を継いだが、このとき幼少のためということで家禄を半分に減らされた。その後、藩校明倫館で学び、時の藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなった。そして安政5年(1858年)、長州藩の重役である直目付となる。

当初から雅楽は開国論者であったため、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白し、これが藩論となされた[1]。その後、朝廷や幕府の公武合体派にこれを歓迎され、11月には藩主・敬親と共に江戸に入り老中・久世広周安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、藩内の吉田松陰とその門下生が主流である尊皇攘夷派とは対立関係にあり、井伊直弼安政の大獄で松陰が捕縛され、後の江戸護送に対しても強硬な対抗策を取らなかったため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞前原一誠らに暗殺を計画される。当時の藩の事情を考慮すれば長井のとった方針はごく自然なものであり、また松陰が江戸に護送された際には様々にその処遇について気を使っていた側面もうかがえる。

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

辞世の句
・今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
・君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
・君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん

評価
野村靖 「長井雅楽は敵ながらも天晴れな男で、風采は坂東彦三郎そっくりで、弁舌は今の金子堅太郎を一層調子強くしたものだ」[2]   


演じた俳優
テレビドラマ
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:小栗一也
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:渥美国泰
・『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:渥美国泰
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:羽場裕一


脚注
注釈
出典
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。
2. 『実録維新十傑 第十巻』

外部リンク
長井氏
毛利福原氏
国立国会図書館 憲政資料室 長井雅楽関係文書(MF:個人蔵)    
(wikiより)


236 長井雅楽


長井雅楽

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渡辺 内蔵太(わたなべ くらた、天保7年2月3日1836年3月19日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末)の萩藩士。長嶺内蔵太(ながみね くらた)とも。甲子殉難十一烈士の一人。

1862年御楯組結成に参加。

その後、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵大和弥八郎楢崎弥八郎らと共に斬罪に処される。
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年(1843年1月
死没文久3年10月14日1863年11月24日
別名別名:南八郎
墓所兵庫県朝来市山口護国神社
山口県萩市長寿寺
下関市櫻山神社
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:河上繁完

河上 弥市(かわかみ やいち)は、幕末の長州藩士。河上繁完の子。

人物
高杉晋作が中心となって立ち上げた奇兵隊の第2代総監を務めた。

討幕の先駆けとなり、七卿落ちの公家である沢宣嘉を主将に奉じ、幕府直轄地生野銀山のある生野代官所を占拠するため、但馬国平野国臣多田弥太郎、美玉三平、北垣晋太郎進藤俊三郎らと挙兵するが、生野の変で敗死した。享年21。

生野の変は、土佐藩出身の吉村虎太郎を中心に挙兵した天誅組の変に呼応した挙兵であった。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]

辞世の句
「奉献 議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を余所に見る馬鹿、皇国草莽臣 南八郎」
(南八郎は河上弥市の別名)


高杉は、吉村寅太郎と河上の死を知り、「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」と悼んだという。

「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲 に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」
(東行遺稿。東行とは高杉のこと)

墓所
河上ら十三士は、兵庫県朝来市山口にある山口護国神社に、幕末以降の戦役での戦没者とともに祀られている。また、高杉晋作の発議により建立された櫻山神社に、吉田松陰や晋作らと共に祀られている。

親族
再従弟の山田顕義は、萩市にある河上弥市碑の文を書いている。山田は河上弥市最期の地となった朝来市山口の妙見山麓に建立された忠魂碑に参ったのち、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま没した。

弥市亡き後、顕義の弟の繁栄が、弥市の妹の梅子と結婚し、河上家の名跡を継いだ。一方、のちに顕義の跡を繁栄の子の久雄が、さらにその跡を繁栄自身が継いだ。その他の一族・親類に、村田清風(大伯父)、山田亦介(父の従兄弟)らがいる。

脚注
1.田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6

関連項目
奇兵隊#長州奇兵隊      

関連作品
秋山香乃『晋作 蒼き烈日』(日本放送出版協会

外部リンク
・萩市 萩博物館 『萩の維新関係碑文拓本集 「河上弥市碑」
・朝来市 『明治維新の魁 生野義挙
『東行先生遺文』(高杉晋作)大正期 - ウィンベル教育研究所
日本大学 日本大学の歴史『日大を作った先人たち 「学祖 山田顕義」』    
萩の人物データベース 河上弥市     
(wikiより)


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保8年4月5日1837年5月9日
死没元治元年7月19日1864年8月20日
別名:弘致、弘毅、通称:万吉、杉蔵、:子遠、変名:河島小太郎
戒名精節軒弘致子遠居士
墓所上善寺京都府京都市北区
長寿寺山口県萩市
官位正四位
長州藩
氏族入江氏
父母父:入江嘉伝次、母:満智(村上与三右衛門の長女)
兄弟九一野村靖伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)
粂(堀音右衛門の娘)
養子:音次郎貫一

入江 九一(いりえ くいち)は、日本武士長州藩士)。別名は河島小太郎

生涯
天保8年(1837年4月5日、長州藩の足軽である入江嘉伝次・満智(村上与三右衛門の長女)夫妻の長男として生まれた。弟に野村靖(和作)、妹に伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)がいる。妻は九一の父の同僚である堀音右衛門の娘・粂。

松下村塾
安政3年(1856年)に父が死去し、家督を継いだ。安政4年(1857年)に弟の和作が吉田松陰松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるべき立場であるため通う暇を作れず、安政5年(1858年)になって遅れて入門した。同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。

同年、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中間部詮勝暗殺計画を企んだ。この時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。その際に松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。そのため、後に松陰が安政の大獄で処刑された後も、九一は師匠の遺志を受け継いで間部詮勝暗殺計画を実行に移そうとしている。

同年、伏見にて藩主を拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に岩倉獄に投獄された。これにより入江家は困窮し、九一は獄中で内職を行って家計を助けた。

奇兵隊と禁門の変
松陰の処刑から半年後、兄弟も万延元年(1860年)に釈放され、文久3年(1863年)には吉田稔麿らと共に足軽から士分[1]に取り立てられたが、無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。京都尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加した。

元治元年(1864年7月19日禁門の変では久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加したが敗れて久坂は自刃。久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったが、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。享年28。

首級は福井藩士が松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後長らく長州藩側に忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した事をきっかけに、明治30年代に碑石が修築された。

死後
後に木戸孝允大村益次郎たちによって[要出典]長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。山口県萩市「長寿寺」にも入江家の父母、妻の粂らと共に墓碑がある。九一の没後、妻の弟の音次郎を養嫡子にしたが、アメリカへ官費留学した翌年の明治6年(1873年)に病で客死したため、九一の弟・野村靖の次男である貫一を明治13年(1880年)に養子に迎え入江家を継がせた[2]ニュージャージー州ニューブランズウィックウィロー・グローブ墓地には、幕末に同地のラトガース大学で学び、同地にて客死した日下部太郎の墓があり、それと並んで入江音次郎の墓碑がある(墓碑では1874年、19歳没)[3]。日下部家は旧福井藩士である。

明治24年(1891年)に正四位を贈られた。家紋は丸に並び鷹の羽。

著作
・「伝言録」
・「入江子遠遺稿」

脚注
1. 武士の身分。長州藩制では足軽と士分には明確な身分差があった。
2.
家系図九一会
3. 
Changing our World for the BetterWHEEL OF DHARMA, Buddhist Churches of America, AUGUST 2010

関連作品
テレビドラマ
・『花神』(1977年NHK大河ドラマ)演:今村民路    
・『奇兵隊』 (1989年日本テレビ年末時代劇スペシャル、 演:岡野進一郎)
・『花燃ゆ』(2015年NHK大河ドラマ、演:要潤
(wikiより)

233 入江九一

入江九一

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⇧ 中央の墓石が入江九一 その左が夫人の墓。

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歌碑)「家ごとに池を構えて水を引き朝夕清き藍場川流る 八郎」と刻されています。

竹内八郎先生は、1899年 7月萩浜崎待ちに出生。

萩中を経て、1923年同志社大学法学部卒業。

間もなく萩商業学校に奉職し、1955年教頭として同校を辞任されるまで実に 30年間、郷土の後進育成に専念された。

此の間、大東亜戦には陸軍歩兵注意として中国の山野に転戦された。

歌人としての先生は、県主催の短歌会は勿論、県内内外の歌会の選者として活躍、一方短歌誌の発展にも尽粋され、就中 1954年以降「あらつち主管としての活躍は特筆すべきである。

先生は少年時代から作歌されたが、本格的な研鑚は、1918年覇王樹入会、橋田東声、臼井大翼両氏の指導に始まり、多くの優れた作をものされた。

歌集「樹空」の上■は 1968年である。
(石碑文より)

 ■は判読不可。

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竹内八郎

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明治維新後、3回にわたって内閣総理大臣を務めた桂 太郎の旧宅。

桂 太郎は、萩藩士・桂 與一右衛門の長男として、萩城下・平安古に生まれ、3歳の時に川島に移り住みました。

この旧宅は、明治 42年 ( 1909 ) に新築したもので、主屋は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。

藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内には桂太郎公銅像が建っています。

また、縁側には水琴窟(すいきんくつ)があり、澄んだ音色を楽しむことができます。

ここにはガイドが常駐し、施設の説明を行っています。 

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勤王。 

行年 28歳。

没年 元治 2年 1月 6日。

戒名 : 自光軒義山稲彦居士。

奇兵隊小隊司令となり絵堂にて戦死す。

別名 正臣。
(案内板より)

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儒者。 

行年 72歳。

行年 明治 25年 8月 23日。

戒名 : 一貫斎文藻道哲居士。

大組士。

64石。

市川仁五衛門の養子。実は平佐二蔵の子。

維新後、川島に私塾 ( 新選塾 ) を開きのち、新堀小学、椿町小学校の校長を務める。
(案内板より)

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儒者。

行年 48歳。

没年 天明 6年 9月 4日。

戒名 : 玉山季有居士。

藩士。

実は山県周南の第五子。

儒学に造詣深く藩の典故に詳し、藩の史局の長となる。
(案内板より)

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医師。 

行年 66歳。

没年 昭和12年 12月 5日。

戒名 : 清廉院東陽自適居士。

京都、萩にて開業の最初の歯科医師 ( 東田町 ) のち朝鮮京城に赴き、京都にて病没。 楢崎家分家。
(案内板より)  

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従四位勲三等功四級。

軍人。

行年 63歳。

没年 昭和 10年 11月 24日。

戒名 : 諦観院殿義山誠道大居士。

平安古。陸軍少将。謙道の子。
(案内板より)

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志士。 

行年 27歳。

没年 明治 9年 12月 3日。

戒名 : 雲凌院英岩俊彦居士。

大組士。 87石余。

横山彦七の養子、実は三戸市之亟の二男。前名 新之亟。

明治 9年、萩の大区長となり、前原一誠等反乱首謀者の一人として獄中にて斬首される。
(案内板より)

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贈正四位。 

志士。

行年 元治元年 12月 19日。

戒名 : 節庵清義居士。

大組士。

源次郎の嫡子。

文久 3年 9月 政務役となり、国事に奔走し禁門の変後、俗論派政府のため野山獄に投ぜられ、獄中にて斬刑に処せらる。
(案内板より)

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画家。 

行年 49歳。

没年 安政 8年 11月 5日。

戒名 : 雲山緑水居士。

大組士。53石。

林百非および田村竹田に学び南画家として聞ゆ。
(案内板より)

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画家。 

行年 73歳。

没年 安永 3年 7月 17日。

戒名 : 雲谷庵声応等琳大徳。

絵師。 雪舟流、等直の妹驚、中島小兵衛利茂の三男。初名 弥八。

原景光、雲谷等直より画業をゆずり受く。
(案内板より)

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政治家。 

行年 65歳。

没年 明治 33年 2月 9日。

戒名 : 顯光院泉水峰自澄居士。

江向、境翁介の養子。実は、斎藤謙蔵の二男、前名 栄蔵

吉田松陰および塩谷右陰に学び長府藩主の侍講となる。

廃藩後、島根県令。

明治 16年帰省してはじめて松下村塾の保存を提唱す。
(案内板より)

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歌人。

行年 72歳。

没年 明治 19年 12月 3日。

戒名 : 月渓院久清爽秋居士。

大組士。43石5斗。

維新後、宮内省内膳少司令となる。
(案内板より)

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画家。 

行年 47歳。

没年 大正 15年 4月 23日。

戒名 : 太鼓堂天倫西湖居士。

日本画家、田総百山、山元春挙に学ぶ、花鳥及び人物に長ず。

萩町公会堂に虎の襖絵を揮毫す。萩にて病没。
(案内板より)

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儒者。 

行年 39歳。

没年 宝暦 8年 4月 15日。

戒名 : 源了軒天峰全柱居士。

藩士。 山県周南門下の高足にて儒学に造詣深し。

灞山詩集あり。
(案内板より)

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贈従五位。

志士。

没年 元治元年 7月 19日。

戒名 : 正巌直一居士。

池田屋の変にて捕えられ斬らる。贈位諸賢伝は 20日没と記す。

行年 24歳か。
(案内板より)

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医師。 

没年 安政 4年 5月 2日。

戒名 : 千秋庵嘯月吟風居士。

田村為右衛門の長男、医師、俳人 ( 芭蕉堂公成門人か)。

村田正明、田村耕斎の兄。
(案内板より)

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従六位勲四等。 

軍人。

行年 明治 30年 11月 2日。

戒名 : 尚幽院壽外武居士。

陸軍歩兵大尉。
(案内板より)

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正三位勲三等功三級。軍人。

行年 65歳。

没年 大正 4年 1月 24日。

戒名 : 剱光院殿至誠道幹大居士。

江向、陸軍少将、八代萩町長 ( 明治 41年 6月 2日 ~ 43年 11月 19日 )
(案内板より)

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勇士。

行年 38歳。

没年 元和 4年 8月 25日。

戒名 : 覚林院月庭清秋大禅貞門。

吉見廣頼の二男、初名 広行。

毛利輝元公より一万石を賜って大井浦に居住したが出奔して本領断絶、のち帰萩して罪を謝すも、その行動を輝元に疑われ、討手を向けられて自刃す。

毛利輝元 ( 甥 )。
(案内板より)

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江戸時代初めの茶人・古田織部が考案した灯篭

この灯篭の特色として竿の部分が角柱状で上部が分厚い円盤状になっており、正面にそれぞれ人物形と文学風の刻みを入れるものもある。

竿を十字架に見立ててキリシタン灯篭という説もある。
(案内板より)

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長州藩士・山田宇右衛門は、増野茂左衛門吉の 3男として生まれ、山田三郎右衛門の養子となりました。

吉田大助に山鹿流兵学を学び、大助の死後は、松陰の後見人となりました。

また、藩内では、兵学教授や参政首座などを務め、桂小五郎らと藩政改革にもあたりました。

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天保 9 ( 1838 ) 年、萩藩中間・山県有稔の次男として川島に生まれる。

幼名は小輔、狂介などを名乗り、維新後有朋と改名。

早くから志をたてて文武に励み、特に槍術 ( 宝蔵院流 ) に長じた。

吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作率いる奇兵隊に入隊。

長州藩の中心人物の一人として活躍し、維新後は明治政府の軍備面に精力を注いだ。

欧州視察等を経て、大村益次郎の唱えた軍制を具体化、参謀本部の創設など日本陸軍の建設に当たった。

総理大臣となり、明治 22年 ( 1889 ) 第 1次内閣を組閣。

枢密院議長、日清戦争に際して第一司令官、陸軍大臣、次いで陸軍元帥にすすみ、明治 31年 ( 1898 ) 第 2次内閣を組閣した。

大正 11年 ( 1922 ) 85歳でこの世を去るまで、長州出身の長老として長きに渡り明治政府の中心的な存在であり続けました。

誕生地は現在、「元帥公爵山縣有朋誕生地」と刻まれた石碑が建てられている。

また、中央公園には北村西望作の銅像がある。 

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所在地山口県萩市椿4132
位置北緯34度23分43.5秒 東経131度23分8.9秒
山号霊椿山
宗旨臨済宗
宗派南禅寺派
創建年明暦2年
開基毛利綱広
札所等中国三十三観音霊場第20番
文化財本堂、鐘楼門、庫裏、書院、経蔵、木造赤童子立像(重要文化財)
萩藩主毛利家墓所(国の史跡)
公式サイト大照院

大照院(だいしょういん)は、山口県萩市にある臨済宗南禅寺派寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。

歴史
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。

寺は延享4年(1747年)に火災に遭い、現存する本堂等は、その後6代藩主宗広によって再建されたものである。

境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。

ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。

文化財
重要文化財
・本堂 - 入母屋造、桟瓦葺きの方丈形式の仏堂。延享4年(1747年)の火災後、寛延3年(1750年)頃までに再建された。鐘楼門、庫裏、書院も同じ頃の建築である。
・鐘楼門 - 江戸時代中期(1750年)の建立。三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・庫裏 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造。平成14年(2002年)5月23日指定。
・書院 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・経蔵 - 江戸時代後期(1755年)の建立。土蔵造、正面6.2m、側面6.2m、一重、宝形蔵、向拝一間、桟瓦葺、八角輪蔵付、北面及び西面張出し附属。平成14年(2002年)5月23日指定。
・木造赤童子立像 - 南北朝時代の作品。明治35年(1902年)7月31日指定。

国の史跡
萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。

毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651年)に萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は亡父のため、承応3年(1654年)歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656年)に完工した。この時、秀就の法号大照院にちなんで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年(1747年)に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年(1750年)に再建した。

東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年(1690年)に創建した黄檗宗の寺である。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院と両寺に交互に葬られることとなった。すなわち、大照院には初代秀就・2代綱広・4代吉広・6代宗広・8代治親・10代斉熙・12代斉広の7人が、東光寺には3代吉就・5代吉元・7代重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5人が葬られた。

大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主正室、一族、殉死者などのものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族などの2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれは特に大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また墓所内には、605基の石燈籠がある。この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年(1871年))、毛利家の所有となり、現在に至っている。

毛利輝元は、寛永2年(1625年)に没すると天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。

萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。

昭和56年(1981年)5月11日指定。

所在地
・山口県萩市椿4132

拝観
・4~11月 8~17時
・12~3月 8~16時30分
拝観料 200円

隣の札所
中国三十三観音霊場
19 功山寺 -- 20 大照院 -- 21 観音院

外部リンク
霊椿山大照院のホームページ        
国指定文化財等データベース     
(wikiより)

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時代江戸時代幕末) - 明治時代初期
生誕天保12年1月21日1841年2月12日
死没明治9年(1876年12月3日
別名:居正、号:弘毅斎
官位従五位
長州藩
父母父:奥平清兵衛

奥平 謙輔(おくだいら けんすけ)は、幕末から明治時代初期の長州藩士、志士萩の乱の首謀者の一人。

経歴
天保12年(1841年)2月12日、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡新発田新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士・秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年2人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団工兵大隊長を務めた小川亮である。

明治2年(1869年)に越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年8月には職を辞している。

郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876年)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日に斬首となった。享年36。

大正5年(1916年)、従五位を追贈された[1]

秋月悌次郎を通じて会津との交流、会津藩の子弟を教育したことが縁となり、平成7年(1995年)には当時の会津市長であった山内日出夫が奥平謙輔の墓に参っている。

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.40

参考資料
松本次郎『増補 萩の乱前原一誠とその一党』マツノ書店 1996年
一坂太郎『長州奇兵隊』中公新書 2002年
・山川健次郎「奥平謙輔先生」『男爵山川先生遺稿』所載
(wikiより)

207  Okudaira_Kensuke

奥平謙助


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明治 9年に、新政府に不満をもつ士族らを率いた前原一誠が萩市内で反乱を起こした激戦地にこの慰霊碑が建つ。

新政府では徴兵制を推し進める木戸孝充、山縣有朋らに反発して、下野して萩に帰郷した。

萩の乱では、約 40日間の萩市内での戦闘で、政府軍に敗れ、前原一誠は斬首刑となった。享年 43歳。

生年天保5年3月20日1834年4月28日
生地長門国・土原村
没年1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位

〇 前原一誠

前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

出自
本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗

経歴
天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、

吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。

またその戯句に、

これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]

評価
吉田松陰
 ・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]
 ・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]      
渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]      
曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]     

親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注
1. 前原一誠』 - コトバンク   

2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁
3. 
『松陰とその門下』
4. 
a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 
『大村先生逸事談話』P73 
6. 
海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。

登場作品
花神 - 1977年、演:江原正士
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一
炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭
花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太
戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記   

関連項目
佐藤信寛      

外部リンク
佐世氏系譜

前原一誠年譜・解説    

206 前原騒動

前原一誠

〇 萩の乱
萩の乱(はぎのらん)は、1876年明治9年)に山口県で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。

1876年10月24日熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣第26代田中義一も当時13歳で反乱に参加している。

206 前原騒動慰霊碑

『萩一戦録』(
早川松山画)

概要
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。

その後
別行動をとった一誠・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、一誠は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり、萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある)。この処罰には司法卿大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。

乱による松下村塾への影響
この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。

脚注
1. a b 原 剛 2002, p. 47.

参考文献
原 剛 『明治期国土防衛史』錦正社、2002年2月。ISBN 4-7646-0314-4

関連項目
日本史の出来事一覧

外部リンク
山口伝報記 高瀬茂顕 (温故堂, 1877)

(wikiより)


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天保 14年 ( 1843 ) 萩藩足軽・品川弥市右衛門の子として生まれる。

松下村塾に学び、高杉晋作らと共に尊王攘夷運動に参加した。

英国公使館焼き打ちをはじめ、禁門の変や戊辰の役に参加し、大きな役割を果たしている。

明治維新後は政府高官としてヨーロッパ諸国に滞在、内務少輔、農商務大輔、ドイツ公使などを歴任。

海運業の発展を計り、生糸の輸出を奨励した。

また、信用組合法を制定して庶民の金融機関を確立し、特に農村振興に関する諸制度も創建するなど「殖産興業の神」と称せられた。

後の松方内閣政権では、内務大臣を務めている。

晩年は吉田松陰の遺志を継ぎ、京都に尊攘堂を建設し京都大学に寄贈した。

明治 33 ( 1900 ) 年、57歳で死去。

現在は、誕生地跡には石碑が建てられている。 

生年月日1843年11月20日
天保14年閏9月29日
出生地長門国阿武郡椿郷東分村
(現在の山口県萩市
没年月日1900年2月26日(56歳没)
死没地東京府(現在の東京都
出身校松下村塾
前職武士長州藩士
所属政党国民協会
称号正二位
勲一等旭日大綬章
子爵
配偶者品川静子
子女品川弥一(長男)
親族池田六左衛門(祖父)
品川弥市右衛門(父)
品川清太郎(孫)

日本の旗 第3代 内務大臣
内閣第1次松方内閣
在任期間1891年6月1日 - 1892年3月11日

〇 品川弥二郎
品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年2月26日)は、日本官僚政治家[1]栄典正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。は扇洲。別称に橋本八郎松本清熊などがある。

経歴
天保14年(1843年)、長州藩足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。

明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツイギリスに6年間留学する[2]。内務大書記官や内務少輔農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。

明治24年(1891年)に第1次松方内閣内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。

民間にあっては、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)や旧制京華中学校(現在の京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している[2]

明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去[3][4]。享年58。

人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる[要出典]
・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している[要出典]
・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年(1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[5]
・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した[要出典]。品川の死後、山口県下関市功山寺にも建立されている[要出典]
東京都千代田区九段南田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲の監督によるという[要出典]
大日本山林会初代幹事長を務めた[要出典]
大日本水産会 第一次幹事長(初代会長に相当)を務めた(任期:明治15年(1882年)2月12日 - 同19年(1886年4月26日[6]
大日本農会初代幹事長を務めた[要出典]
・1885年(明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている[2]

栄典
位階
1885年(明治18年)10月31日 - 正四位[7]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[8]
1891年(明治24年)6月15日 - 従二位[9]                 
1900年(明治33年)2月26日 - 正二位[10]

勲章等
1884年(明治17年)7月17日 - 子爵[11]
1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[12]               
1900年(明治33年)2月26日 - 勲一等旭日大綬章[13]

系譜
品川氏
弥一右衛門━━弥二郎━━弥一━━清太郎

脚注
1. 日本大百科全書(ニッポニカ)「品川弥二郎」   
2. 
a b c 品川弥二郎の旧念仏庵|那須塩原市” (日本語). www.city.nasushiobara.lg.jp2021年12月5日閲覧。
3. 
新聞集成明治編年史』 11巻、林泉社、1940年、31頁。
4. 
服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)140頁
5. 
鳥谷部春汀 『明治人物評論・正』博文館、1898年、22-30p頁。
6. 
『大日本水産会百年史』社団法人大日本水産会、1982年。
7. 
『官報』第711号「叙任」1885年11月12日。
8. 
『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
9. 
『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
10. 
『官報』第4995号「叙任及辞令」1900年2月28日。
11. 
『官報』第316号「叙任及辞令」明治17年7月18日。
12. 
『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
13. 
『官報』第4994号「叙任及辞令」1900年2月27日。

関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:岡本富士太
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:荒川太郎
・『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演:天田俊明
・『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:廣田高志
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:音尾琢真

参考文献
・池田さなえ 『皇室財産の政治史: 明治二〇年代の御料地「処分」と宮中・府中』人文書院、2019年3月。ISBN 978-4409520765

関連項目
第2回衆議院議員総選挙            
本山白雲九段坂公園にある品川弥二郎の銅像の作者)

外部リンク
品川弥二郎 | 近代日本人の肖像
品川 弥二郎(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)
品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館 憲政資料室
品川弥二郎関係文書(その2)|国立国会図書館 憲政資料室
(wikiより)

204 品川弥二郎

品川弥二郎

204a

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安永 5年 ( 1776 ) に 7代藩主・毛利重就が、江戸千家の元祖・川上不白の献上した花月楼の設計図に基づいて三田尻 ( 防府市  ) の別邸内に建築した茶室である。

御茶道・竹田休和が文化 2年 ( 1805 ) に平安古の自邸内に移し、さらに明治 21年 ( 1888 ) に品川弥二郎が松本橋のたもとの自宅内に移した。

昭和 34年 ( 1959 ) に現在地に移築、県の有形文化財に指定されている。 

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郡司家は萩藩お抱えの鋳物師で、鍋・犂・梵鐘のほか大砲などの兵器の鋳造を営んでいました。

嘉永 6年 ( 1853 ) のペリー来航をきっかけとして幕府が公布した「洋式砲術令」によって、同年 11月、萩藩は郡司鋳造所を藩営の大砲鋳造所に指定し、大量の青銅製大砲を鋳造しました。

ここで鋳造された大砲は、江戸湾防備のため三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ、また文久 3年 ( 1863 )、下関海峡での外国船砲撃、元治元年 ( 1864 )、同海峡での英・仏・蘭・米連合艦隊の戦争 ( 下関戦争 ) にも使用されました。

郡司鋳造所は在来技術である「こしき炉」によって西洋式大砲を鋳造しており、近代技術へと移行する過渡期を物語る産業遺構として貴重なものです。

なかでも、西洋式の青銅大砲を鋳造し、一番深いところで 4.5mある巨大な石組み大砲鋳造遺構は日本でも唯一です。 

〇 郡司鋳造所
郡司鋳造所(ぐんじちゅうぞううしょ)とは、にあった長州藩鋳造所で、幕末には大型の大砲の鋳造も行われた。

概要
郡司家は三田尻に居住し、大内氏に仕える鋳物師であった。大内氏滅亡後、江戸時代前期に大砲鋳造の技術により長州藩に召し抱えら萩に移った。江戸時代を通じて、すき先など生活用具、梵鐘などを製造していた。

幕末、長州藩は郡司源之允を長崎高島秋帆のもとに派遣して、洋式砲術を研究させた。さらに幕府から三浦半島警護の命令を受けると鋳物師を江戸に派遣し、嘉永7年(1854年)に佐久間象山の指導のもとに18ポンド砲を鋳造させた。この大砲は後に下関に移され、下関戦争で使用されている。

幕府が諸藩に洋式砲術の採用を奨励すると、長州藩は郡司家の細工場を大砲鋳造所とし、郡司喜平治(1804年-1882年)を大砲鋳造用掛に命じた。鋳造所では「こしき炉」と「たたら」とによる、在来の技術を用いた方法により洋式大砲の鋳造が行われた。下関戦争では、ここで製造された24ポンド砲や32ポンド砲が使用されている。このときフランス軍によって鹵獲された長州藩の大砲の何門かがパリ廃兵院に保管されていたが、現在は下関に貸与されている。またロンドン近郊の王立大砲博物館(The Royal Artillery Museum)、アメリカのワシントン海軍工廠にも保存されている。

平成12年度(2000年)に山口県埋蔵文化財センターが行った発掘調査では、巨大な石組の大砲鋳造遺構が確認され、また実際に使われた鋳型も多数発見された。現在は元の場所から北東50m程度離れた場所に、郡司鋳造所遺構広場として復元されている。

郡司家
萩藩の家臣として藩の軍事面(大筒打鋳物師)にたずさわり、江戸時代より萩藩の代表的な鋳物師として知られた。17世紀中ごろには郡司家中興の祖・郡司讃岐長左衛門信久が萩藩初代藩主・毛利秀就に三田尻からに召し出され、松陰神社にほど近い月見川沿いの松本(東萩駅南東)に鋳造所を設け、隠居後には青海(萩駅南西)にも郡司鋳造所を設けて、鍋などの生活用具、犂先など農具、梵鐘などの工芸品、大砲などの兵器といった鉄・青銅製品の鋳造を歴代にわたり行った。

明和期には郡司姓を名乗る家が7家あり、うち郡司源七家など4家が大筒打に、郡司喜兵衛家と郡司四郎左衛門家の2家が鋳物師として鋳砲にあたった。幕末期に欧米列強に対する軍備強化のため、萩藩の要請を受けて大砲鋳造や砲術指導に深く関わった。ペリー来航の数か月後の1853年11月、郡司右平次率いる郡司鋳造所は藩営の銃砲鋳造所に指定され、青銅製カノン砲が生産された。[1]

脚注
1. 
長州の科学技術幕末長州科学技術史研究会、平成15年8月23日

参考文献
萩博物館編『幕末長州藩の科学技術 大砲づくりに挑んだ男たち』2006年2月
・郡司鋳造所跡、説明板

関連項目
湯島大小砲鋳立場:幕府の兵器鋳造工場

外部リンク
80ポンドボンベカノン諸規則。文化遺産オンライン
郡司鋳造所遺構広場。萩市観光協会公式サイト
(wikiより)

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文久 2年 ( 1862 ) 年 1月、土佐藩士坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山の書簡をもって久坂玄瑞を訪ね来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。

たまたま薩摩藩士・田上藤七 ( たがみ - とうしち ) も同藩士・樺山三円 ( かばやま - さんえん ) の書簡を持参して来ていた。

図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士が一堂に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。

久坂の武市瑞山宛の、書簡によれば、「諸侯も公卿も恃むに足らず、草莽の志士を糾合し、義挙の外 ( ほか ) はとても策無し」と述べられており、松陰の「草莽崛起論」に通ずる内容を語りあったと思われる。

この石碑は、明治百年記年の昭和 43年 ( 1968 ) に建立。

向かって右から「薩州・田上藤七、長州・久坂玄瑞、土佐・坂本龍馬」、左側に文久二年一月、鈴木勘蔵宿之跡」とある。

元総理大臣 岸信介 揮毫
(案内板より)

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松浦松洞は幕末の画家。魚商の子。

幼児から絵に秀で、画家・羽様西崕に学び、上京して四条派の小田海僊に師事する。

安政 3年 ( 1856 )、吉田松陰主宰の松下村塾に入る。

安政 5年 ( 1858 )、江戸に遊学し芳野金陵に漢籍を学び、帰萩。

安政 6年 ( 1859 ) 5月には、江戸に送られる直前の松陰の肖像を描いた。

文久 2年 ( 1862 )、久坂玄瑞らとともに上京、公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を計画するが失敗。

時事に憤慨し、京都粟田山の山中で自決した。享年 26歳。
(案内板より)

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保8年(1837年
死没文久2年4月13日1862年5月11日
別名温古(諱)、亀太郎(通称)、知新、無窮、松田和介
官位正五位
長州藩陪臣
〇 松浦松洞
松浦 松洞(まつうら しょうどう)は、江戸時代末期(幕末)の画家長州藩志士温古通称亀太郎

生涯
魚商人の子として生まれる。のちに才覚を認められ、長州藩寄組根来主馬の家臣として仕える。安政3年(1856年吉田松陰松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加。江戸に出て漢学を修める。安政5年(1858年江戸で渡米を企てるものの、松陰が「勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない」と反対したため、取り止めている。文久2年(1862年)4月13日、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体開国派であった長州藩士・長井雅楽暗殺を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹した。切腹の原因は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に乗り、佐幕派の支柱となって、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議として、死を以って諌めたとも言われている。

幼少より絵画を志し、画家としては四条派羽様西崕に師事しており、安政6年(1859年安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残している。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

登場する作品
・『花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:内野謙太    

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
・『日本人名大辞典』講談社
・『コンサイス日本人名事典』
三省堂               
(wikiより)

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吉田稔麿は、1841年 ( 天保 12 )、足軽の長男としてこの地に生まれた。

松下村塾に入門し、高杉晋作らとともに松陰門下の四天王といわれた。

吉田松陰の死後、尊王攘夷運動に参加し、屠勇隊 ( とゆうたい )( 有志の部隊 ) を組織した。

1864年 ( 元治元年 )、京都三条の池田屋旅館で他藩の志士と会談中、新選組に襲われ負傷し、24歳の若さで死去した。
(案内板より)

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保12年1月24日1841年3月16日
死没元治元年6月5日1864年7月8日
改名吉田栄太郎→吉田稔麿
別名雅号:風萍軒(ふうひょうけん)
墓所京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)
護国山山口県萩市椿東椎原)
桜山神社山口県下関市上新地町)
朝日山護国神社山口県山口市秋穂二島
官位従四位
主君毛利敬親
長州藩
氏族吉田氏
父母父:吉田清内
〇 吉田稔麿
吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。

久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称され、さらに入江九一を入れて松門四天王ともいう。

生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年1月24日(1841年3月16日)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。

また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する。

松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。

安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩。しかし、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。

文久3年(1863年)4月、兵数を増やすために「穢多非人・屠勇」(現在でいう被差別部落民)の兵士取り立てを建策する[1]。同年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。

最後
元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、「長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした」とされている。また別の説として、「池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した」という話もある。満23歳没。

墓所
墓は京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]

人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。
以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より
山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]
・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]

評価
吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[3]
渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[4]         
品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」
伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」
近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[5]     

脚注
注釈
1. 
松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2. 山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。(第8豪快「山県有朋稔麿の人物を問ふ」段)
3. 
嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。(拾遺「吉田稔麻呂」段)

出典
1. 前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40,昭和59,p24-29,
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
3. 『松陰とその門下』
4. 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13

関連作品
テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年NHK大河ドラマ、演:石川雄亮
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史

小説
伊東潤『池田屋乱刃』(講談社2014年
木内昇『火影に咲く』(集英社2018年

ゲーム
・『龍が如く 維新!』(セガ2014年、声:石川英郎
(wikiより)

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伊藤博文は、天保12(1841)年熊毛郡束荷村の農家に生まれた。幼名は利助、のち春輔、そして“博文”と改めた。

木戸孝允の義弟・栗原良蔵の紹介で松下村塾に入り「なかなか周旋家になりそうな」と吉田松陰の評価を得る。

品川御殿山の英国公使館焼き打ちをはじめ、尊攘運動に参加。

文久3年(1863)5月、井上聞多(馨)らと英国に密航留学する。

明治新政府では参与、兵庫県令などを歴任。

明治 4年 ( 1871 ) 条約改正のため、岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪。

帰朝後、参議、工部卿などの要職を経て明治 18年 ( 1885 ) 初代内閣総理大臣となる。

以後、4度内閣を組閣。

日露戦争後、初代韓国総監となり、明治 42 ( 1909 ) 年、枢密院議長として満州訪問の途上、ハルビン駅頭で安重根に狙撃され、69歳でこの世を去った。

旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約 29坪の小さな家。

萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅であったが、安政元 ( 1854 ) 年に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて居住。

伊藤博文が明治元年に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家でもある。

旧宅そばには、萩焼でつくられた伊藤博文の陶像が建つ。 

生年月日天保12年9月2日1841年10月16日
出生地日本の旗 日本 周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市
没年月日1909年10月26日(68歳没)
死没地Flag of China (1889–1912).svg 吉林省浜江庁(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市南崗区
出身校松下村塾卒業
前職武士長州藩士
所属政党立憲政友会
称号従一位
JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg 大勲位菊花章頸飾
JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg 大勲位菊花大綬章
JPN Toka-sho BAR.svg 勲一等旭日桐花大綬章
JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg 勲一等旭日大綬章
公爵
名誉博士イェール大学
校賓早稲田大学
配偶者伊藤すみ子(先妻)
伊藤梅子(継妻)
子女貞子(長女)
生子(次女)
朝子(三女)
文吉(長男・庶子
眞一(次男・庶子)
親族
サインItoH kao.png
〇 伊藤博文
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日1841年10月16日〉- 明治42年〈1909年10月26日)は、明治時代日本政治家[1]位階勲等爵位従一位大勲位公爵

明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣初代[2]5代7代10代)を務めたことで知られる。一次内閣時には明治憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清講和条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた[1]。他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監元老などを歴任した[3][1]

博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。「越智宿禰博文」とも名乗った。幼名利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。

概要
周防国百姓の子として生まれる。父が長州藩足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。

吉田松陰私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[4][3]1864年ロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[3]

明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として外遊する。この間に大久保利通の信任を得た[3]

1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議工部卿に就任した[1]1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[3][1]1882年(明治15年)にドイツオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[3]

1885年太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅伊東巳代治金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範貴族院令衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[3][1]

1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[1]1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[1]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[3]

同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[3]

日露戦争開戦には慎重だったが[5]、日露戦争後の朝鮮満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[3]韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[6]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[5]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[1]

開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[1]

生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父がへ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩蔵元付中間水井武兵衛養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[7]

松下村塾入門
安政4年(1857年2月江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。

渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[8]        

翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。

松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。

文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]加藤甲次郎を暗殺する[10]など、尊王攘夷の志士として活動した[11]。筋肉質の体躯であったとされる。

イギリス留学
文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。

9月23日ロンドン到着後、ヒュー・マセソン英語版の世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

元治元年(1864年)3月、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。

6月10日横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金江戸幕府に要求するようになる[12]

挙兵
オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。

11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。

慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事となり、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余す形になった。

慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され、神戸事件堺事件の解決に奔走。これが出世の足がかりとなった[13]

詳しい事は「伊藤博文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87     
(wikiより)

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伊藤博文

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⇧⇩ 伊藤博文像

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⇧⇩ 伊藤博文旧宅

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片山東熊
( 1854 ~ 1917 )

明治期に活躍した建築家。

12歳で騎兵隊に入隊し、明治元年 ( 1868 ) 15歳で戊辰戦争に従軍する。

明治 6年 ( 1873 )、工学寮 ( 現在の東京大学工学部 ) に入り、造家学科で日本人建築家の養成を行うべく来日したジョサイア・コンドルに学ぶ。

明治 12年 ( 1879 )、第一期性として卒業、有栖川宮熾仁親王に従い渡欧。

明治 23年 ( 1890 ) に完成した東宮御所 ( 赤坂離宮 ) は壮麗な洋風宮殿で、現在迎賓館 ( 国宝 ) として使用されている。

代表作品は東京国立博物館表慶館、奈良・京都の国立博物館本館など ( いずれも重要文化財 )。
(案内板より)

生誕1854年1月18日
(旧暦嘉永6年12月20日)
長門国萩(現 山口県萩市
死没1917年10月24日
出身校工部大学校
職業建築家
受賞勲一等旭日大綬章
所属宮内省
建築物帝国京都博物館(現 京都国立博物館
東宮御所 (現 迎賓館
デザイン歴史主義建築
〇 片山東熊

片山東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日1854年1月18日)- 1917年大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等正三位勲一等は晩晴。

山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。

宮内省赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。

日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。

代表作である旧東宮御所(現・迎賓館)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。

経歴
1854年安政元年) - 長州藩下級藩士の父片山文左、母伊丹ハルの四男として生まれる。
1865年慶応元年) - 奇兵隊に入隊。
   戊辰戦争に参戦。
1879年明治12年)
 ・11月 - 工部大学校卒業し、工学士となる。辰野金吾曽禰達蔵らと同期。
 ・12月 - 工部省営繕課に勤務。
1882年(明治15年) - 有栖川邸建設のため、有栖川宮熾仁親王とともに欧州視察。
1886年(明治19年) - 宮内省勤務となる。皇居御造営局で明治宮殿建設に関わる、宮殿装飾調査のために翌年までドイツ出張。
1887年(明治20年)10月 - 帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)の渡辺洪基辰野金吾藤本寿吉らとともに、「工手学校」(現・工学院大学)を設立。
1889年(明治22年) - 宮内省内匠寮の匠師に昇進。
1897年(明治30年) - 東宮御所建設のため、翌年まで欧米を視察。
1899年(明治32年) - 東宮御所着工
1904年(明治37年) - 宮内省内匠頭に任ぜられ、東宮御所御造営局技監を兼任
1909年(明治42年) - 東宮御所竣工。
1912年大正元年) - 明治天皇葬祭場などの建設に関わる。
1915年(大正4年) - 宮内省内匠寮に在職30年の間、大小様々な工事の実現に尽くした功績に依り宮中顧問官となり、従三位勲一等旭日大綬章を授けられる。
1917年(大正6年)10月23日 - 病となり特旨をもって正三位を叙せられ、同日薨去享年65。
 ・同月28日 - 青山霊園に葬られ、勅使が弔った。

エピソード
・片山は奇兵隊の少年従士であり、また、兄の湯浅則和兵部省山城屋事件で長州閥の山縣有朋をかばい辞職。このため山縣は生涯片山を引き立てたという。明治12年ごろ、山縣が麹町区五番町に自宅を新築する際には、片山が在籍する工部大学校造家学科第1期生の4名で学生コンペを行ない、片山案を採用し、片山の処女作として木造家屋を建設した[1]。この山縣の後ろ盾のおかげで、就職の際も担当教授であるジョサイア・コンドルに頼らずとも、宮内省への道が開かれた[2]
・東宮御所の建設に心血を注ぎ、完成の報告を明治天皇に行ったところ、一言「贅沢すぎる」と言われてショックを受け、病気がちとなったという。

親族
妻は琵琶湖疏水を築いたことで有名な土木技術者田辺朔郎の姉鑑子で、子供はいないため、長兄湯浅則和の子鉱三郎を養子とした。その後も鎮熊、東彦と続く。

栄典・授章・授賞
位階
1887年(明治20年)1月8日 - 正七位[3]
1903年(明治36年)9月30日 - 従四位[4]
1908年(明治41年)10月10日 - 正四位[5]
1917年(大正6年)10月23日 - 叙正三位(従三位勲一等工学博士片山東熊)[6]           

勲章等
1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[7]
1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章[8]
1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[9]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]
1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等旭日大綬章[11]     


詳しい事は「片山東熊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%86%8A

(wikiより)

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片山東熊

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松下村塾は,吉田松陰の叔父である玉木文之進が 1842 ( 天保 13 ) 年 ) に設立した私塾 ( 第 1代 ) で,松陰自身もここで学んでいる。

その後玉木が藩に抜擢され官職に就いたため、松陰の母方の叔父にあたる久保五郎左衛門に代わった ( 第 2代 )。

ペリー来航の際に 松陰はアメリカに密航を企てたため捕らえられ、萩の野山獄に幽囚された。

出獄後も自宅に幽閉されていたが、その間に近隣の子弟を集めて孟子の講義をはじめ、やがて松下村塾を主宰していた叔父までが聴講するようになり、自然に松下村塾の主宰は松陰に移った ( 1855 = 安政 2年。第 3代松下村塾 )。ここで 高杉晋作をはじめ 維新の指導者となる多くの人材が育った。

 松陰はその 3年後に、幕府の老中・間部詮勝の暗殺を企て、そのため再度捕らえられ斬首刑に処された。 

〇 松下村塾
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

変遷
1842年天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門した。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった。松下村塾は武士町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽中間なども入学できなかったのと対照的であった。1857年安政4年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ。名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。

著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。 1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。

以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。

萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民治が塾を再開した。1892年明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾した。

著名な塾生
伊藤博文 政治家
山縣有朋 陸軍軍人、政治家
品川弥二郎 官僚、政治家
山田顕義 武士、政治家、陸軍軍人
野村靖 武士、政治家、子爵
松本鼎 長州藩士、官僚、政治家
岡部富太郎 長州藩士、尊王攘夷派志士
正木退蔵 官僚、外交官、教育者
前原一誠 長州藩士
飯田俊徳 官僚、技術者
渡辺蒿蔵天野清三郎)官僚、造船技術者、実業家
松浦松洞 画家、長州藩士
増野徳民  尊攘運動家、医師
有吉熊次郎 長州藩士、 尊王攘夷派武士
時山直八 長州藩士
駒井政五郎 長州藩士
中村精男 気象学者
玉木彦助 長州藩士
飯田正伯 長州藩士
杉山松助 長州藩士
久保清太郎 長州藩士、官僚
生田良佐 長州藩士
境二郎 長州藩士、官僚
宍戸璣 長州藩士、政治家、官僚、子爵
久坂玄瑞 長州藩士
吉田稔麿 長州藩士
入江九一 長州藩士
寺島忠三郎 長州藩士、 尊王攘夷派志士
高杉晋作  尊王攘夷派志士

関係者
玉木文之進 - 松下村塾を開塾。
吉田松陰 - 講師
木戸孝允(桂小五郎)- 塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けていた。
乃木希典 - 玉木家の親戚にあたり、塾生ではないが一時玉木家に住み込んで文乃進から指導を受けた。
富永有隣 - 講師
杉民治 - 松下村塾を再開。

建物
萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存する。建物は木造かわらぶき平家建(床面積45.51㎡、天保年月日不詳新築、安政5年3月11日増築)の小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものである。

1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存することとした。1922年大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されている[1]。管理団体は松陰神社である。

2009年平成21年)1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。

2020年令和2年)10月27日に山口県土地家屋調査士会により法務局へ建物表題登記がされた。

模築
下記のところに松下村塾の模築がある。
松陰神社(東京) - 東京都世田谷区
玉川学園玉川大学) - 東京都町田市広瀬淡窓咸宜園の模築と並んでいる)
山口県立奈古高等学校 - 山口県阿武郡阿武町
竹村記念公園 - 秋田県大館市(当時安田生命相談役であった竹村吉右衛門が奔走して、実現となったもの)
徳山大学 - 山口県周南市
山口放送本社 - 山口県周南市
道の駅萩往還 - 山口県萩市(松陰記念館内)

脚注
1. 
「塾ハ爾来僅カニ修理ヲ加へタルモ完全ニ旧態ヲ維持ス」 山口県編  史蹟名勝天然記念物調査報告概要. 1925年(大正14年)

関連項目
松陰神社     
ザメディアジョン(「月刊 松下村塾」を全国発売している)

外部リンク
松下村塾 - 文化遺産オンライン文化庁
松下村塾 - 国指定文化財等データベース(文化庁
吉田松陰.com(幕末の私塾・松下村塾について)   
萩市松陰神社公式サイト 松下村塾(世界遺産)  
(wikiより)

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玉木文之進 ( 1810 ~ 76 ) は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家 ( 大組 40石 ) を継いだ。

生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。

この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政 2年 ( 1855 ) には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。

建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか 4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
(案内板より)

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