本牧Jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。

権平直方後妻墓 ( 福冨氏女 )


明治二十六年 三月 二十四日没 六十四才

1680a

1680b

1680c

1680d



権平直方後妻 ( 大石氏女 )


萬延元年 八月 二十五日没 三十七才


1679a

1679b

1679c

1679d



三代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1913年大正2年)12月16日 - 1978年昭和53年)9月27日)は、昭和時代に活躍した新派女優舞踊家歌舞伎舞踊市川流三世家元。本名は堀越 喜久榮(ほりこし きくえ)。

来歴・人物
東京都東京市京橋区築地の生まれ。父は歌舞伎役者五代目市川新之助、母は九代目市川團十郎の次女の二代目市川旭梅二代目市川翠扇は伯母にあたる。千代田区高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)卒業。


1929年(昭和4年)6月歌舞伎座戻り駕』の禿で市川紅梅(いちかわ こうぎょく)を名乗って初舞台。翌年日本俳優学校の1期生となる。(昭和6年)11月より新派に参加。長く名脇役として活躍し、新派が本流新派と新生新派に分かれてからも両方に出演した。1957年(昭和32年)5月新橋演舞場で三代目市川翠扇を襲名して市川流三世家元を継承、同時に新派の大幹部に昇格した。花柳章太郎の死後は初代水谷八重子をたすけ、新派の副将格として活躍した。


1970年(昭和45年)に『蛍』のおよし役と『巷談宵宮雨』のおいち役の演技で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

出演作品

舞台の当たり役
・『婦系図』の小芳

・『皇女和の宮』の待女夕秀

・『風流深川唄』の文字力

映画
・『本日休診』(1952年、松竹) - 豊子夫人 役

・『香華』(1964年、松竹) - 女将 役

・『肉体の学校』(1965年、東宝)- 室町秀子 役

テレビドラマ
・『東芝日曜劇場』(TBS)

  ・第2話「命美わし」(1956年)

  ・第3話「新婚旅行」(1956年)

  ・第9話「熊と人と」(1957年)

  ・第21話「菜種河童」(1957年)

  ・第26話「鶴亀」(1957年)

  ・第50話「ある決闘」(1957年)

  ・第76話「お桂ちゃん」(1958年)

  ・第85話「吹きだまり」(1958年)

  ・第86話「荒濤」(1958年)

  ・第89話「新橋夜話」(1958年)

  ・第98話「春がすみ」(1958年)

  ・第100話「近松物語」(1958年)

  ・第453話「花火」(1965年)

  ・第613話「橋づくし」(1968年)

  ・第1019話「母上様」(1976年)

  ・第1048話「花嫁」(1977年)

  ・第1080話「愛してます」(1977年)

  ・第1114話「おんなの家8」(1978年)

  ・第1120話「女の指輪」(1978年)

・『ウロコ座』(KR)

  ・第39話「黄楊の櫛」(1957年)

  ・第62・63話「小判狐」(1957年)

  ・第81・82話「鬼の面」(1958年)

  ・第89話「細君三日天下」(1958年)

  ・第100 - 102話「晴小袖」(1958年)

  ・第109 - 111話「江戸の挽歌」(1958年)

・『お好み日曜座』(NHK)

  ・「故郷の声」(1958年)

  ・「はるあき」(1958年)

  ・「残菊物語」(1959年)

  ・「目ざまし時計」(1959年)

  ・「西郷と豚姫」(1959年)

・『東芝家族劇場』(NET)

  ・第6話「星みがき」(1959年)

  ・第13話「片恋」(1959年)

  ・第15話「大いに笑う淀君」(1959年)

・『NECサンデー劇場』(NET)

  ・「紫陽花」(1959年)

  ・「女の決闘」(1959年)

  ・「地熱」(1959年)

  ・「文士劇 鬼ぎやかね組の喧嘩」(1960年)

  ・「横綱以上」(1960年)

  ・「金の簪」(1960年)

  ・「大砲と撫子」(1960年)

  ・「訪問客」(1960年)

  ・「防風林」(1960年)

  ・「顔」(1960年)
  ・「青眉抄」(1961年)

  ・「盆の月」(1961年)

・『指名手配』(NET)

  ・第2話「静かなる殺人者」(1959年)

・『ここに人あり』(NHK)

  ・第120話「ツケ打ちさん」(1959年)

・『女の四季』(NTV)

  ・第9・10話「新日本橋」(1960年)

  ・第21・22話「花嫁衣装」(1960年)

・『名作菊五郎劇場』(NET)

  ・「浮世の常」(1960年)

  ・「堀川波の鼓」(1961年)

・『テレビ指定席』(NHK)

  ・「帽子」(1961年)

・『おかあさん』(TBS)

  ・第122話「裂けた日」(1962年)

・『講談ドラマ』(NHK)

  ・「弥次郎兵衛喜多八」(1962年)

・『シャープ火曜劇場』(CX)

  ・第57話「秋の太鼓」(1962年)

・『ポーラ名作劇場』(NET)

  ・第3話「亭主日記」(1963年)

・『嫁ぐ日まで』(CX)

  ・第14話「姉と弟」(1963年)

  ・第22話「女の館」(1963年)

・『テレビ劇場』(NHK)

  ・「釣堀にて」(1963年)

・『七人の刑事』(TBS)

  ・第110話「張り込み」(1963年)

・『文芸劇場』(NHK)

  ・第96話「冬」(1963年)

・『こども劇場』(NHK)

  ・第35話「幼年時代」(1964年)

・『NHK劇場』(NHK)

  ・「巷談本牧亭」(1964年)

・『夫婦百景』(NTV)

  ・第314話「関白女房」(1964年)

・『風雪』(NHK)

  ・「大久保利通と車夫」(1964年)

  ・「歌舞伎開花」(1964年)

  ・「鹿鳴館前後」(1964年)

  ・「よろず重宝 吟香と涙香」(1965年)

・『日産スター劇場』(NTV)

  ・「やなぎ・さくら」(1964年)

  ・「おいろけ説法」(1964年)

・『三匹の侍』第4シリーズ(CX)

  ・第14話「新宿七福神」(1967年)

・『遠山の金さん』(NTV、1967年)

・『青空に叫ぼう』(NET)

  ・第28話「二十歳の振袖」(1968年)
(wikiより)

2233   三代目・市川翠扇

三代目・市川翠扇

2233a

2233b




小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年明治8年)3月22日 - 1961年昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。


第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。


簡斎と号する。

経歴
明治8年(1875年)旧金沢藩士裁判官小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。


第四高等学校
を経て、明治30年(1897年東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省に入省。土木監督署事務官となる。山口県参事官の時、大学の先輩で農商務省出身の鈴木馬左也(後の住友総理事)から誘われ、明治32年(1899年)退官。住友に入社する。


住友総理事の伊庭貞剛日本銀行理事から住友に転進した河上謹一に目をかけられる。大正7年(1918年)住友本店理事長。大正10年(1921年)住友本店を合資会社に改組し、常務理事となる。昭和5年(1930年)住友合資会社総理事に就任、住友財閥の最高経営者となる。以後10年、住友財閥の総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。昭和12年(1937年)本社の株式会社化を実現したのをはじめとして、グループ各社の株式会社化を断行していった。


この間、昭和8年(1933年貴族院議員に勅選される。第2次近衛内閣で無任所の国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣として入閣している。小倉は自由経済を信念としており、統制経済には反対であったが、戦時経済への移行を余儀なくされる。1942年に戦時金融金庫初代総裁。これらの経歴により、終戦後公職追放となる。昭和26年(1951年)に追放解除となったが、第一線には復帰しなかった。


戦後の道徳荒廃を嘆き、石門心学会長、修養団後援会会長として日本人の道徳復興を目指し、個人的にも剣禅一致の精神修養に励んだ。大正5年(1916年)に鈴木馬左也に随行して訪中して以来、中国の史蹟を訪ね、様々な人士と交流した。アジア文化図書館建設委員会委員長として全アジア各国との文化交流事業に尽力した。昭和36年(1961年)死去。86歳。


長女の恒は、日本興業銀行日産化学を経て日銀特融のときの山一證券社長を務めた日高輝に嫁いだ。

栄典
1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[1]

親族
白石正邦 - 妹の夫。歴史学者。

関連項目
懐徳堂記念会

住友財閥

修養団

無窮会

外部リンク
住友グループ広報委員会
(wikiより)

2234 小倉正恒

小倉正恒

2234a

2234b



河合 操(かわい みさお、1864年10月26日元治元年9月26日) - 1941年10月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将

経歴
杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年8月から1897年2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。


日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。ドイツ駐在、陸大教官、陸大幹事、陸軍省軍務局歩兵課長を経て、1910年11月、陸軍少将に進級し、歩兵第7旅団長、人事局長、陸大校長を歴任。1915年8月、陸軍中将となり、第1師団長、関東軍司令官を歴任。1921年4月、陸軍大将となり、軍事参議官、参謀総長を務め、1926年3月に予備役に編入。1927年5月から没するまで枢密顧問官を務めた。

栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[1][2]

1892年(明治25年)1月27日 - 従七位[1][3]

1894年(明治27年)12月18日 - 正七位[1][4]

1900年(明治33年)2月10日 - 従六位[1][5]

1904年(明治37年)9月13日 - 正六位[1][6]

1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[1][7]

1911年(明治44年)2月10日 - 正五位[1][8]

1915年(大正4年)9月10日 - 従四位[1][9]

1917年(大正6年)10月1日 - 正四位[1][10]

1920年(大正9年)10月11日 - 従三位[1][11]

1923年(大正12年)12月10日 - 正三位[1][12]

1930年(昭和5年)3月15日 - 従二位[1][13]

1937年(昭和12年)4月1日 - 正二位[1][14]

1941年(昭和16年)10月11日 - 従一位[1][15]

勲章等
1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[1]

1896年(明治29年)4月11日 - 功五級金鵄勲章勲六等瑞宝章[1][16]

1899年(明治32年)3月31日 - 勲五等双光旭日章[1][17]

1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[1][18]

1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章勲三等旭日中綬章明治三十七八年従軍記章[1]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[1]

1915年(大正4年)

  ・8月28日 - 勲二等瑞宝章[1][19]

  ・11月7日 - 旭日重光章大正三四年従軍記章[1][20]

  ・11月10日 - 大礼記念章(大正)[1][21]

1919年(大正8年)

  ・5月7日 - 金杯一個[1][22]

  ・12月15日 - 戦捷記章[1]

1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等瑞宝章大正三年乃至九年戦役従軍記章[1][23]

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[1][24]

1924年(大正13年)12月25日 - 旭日大綬章[1][25]

1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[1]

1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章[1][26]

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[27]

1941年(昭和16年)10月11日 - 旭日桐花大綬章[1][28]

外国勲章佩用允許
1924年(大正13年)5月27日 - チリ共和国:有功第一等記章[1][29]

1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国大満洲国建国功労章[1]

1938年(昭和13年)7月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章[1][30]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 河合操』 アジア歴史資料センター Ref.A06051181000 
2. 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
3. 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
4. 『官報』第3444号「叙任及辞令」1894年12月19日。
5. 『官報』第4981号「叙任及辞令」1900年2月12日。
6. 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。
7. 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
8. 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
9. 『官報』第934号「叙任及辞令」1915年9月11日。
10. 『官報』第1551号「叙任及辞令」1917年10月2日。
11. 『官報』第2460号「叙任及辞令」1920年10月13日。
12. 『官報』第3392号「叙任及辞令」1923年12月12日。
13. 『官報』第967号「叙任及辞令」1930年3月24日。
14. 『官報』第3073号「叙任及辞令」1937年4月2日。
15. 『官報』第4433号「叙任及辞令」1941年10月15日。
16. 『官報』号外「叙任及辞令」1896年4月23日。
17. 『官報』第4744号「叙任及辞令」1899年4月28日。
18. 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
19. 『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。
20. 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
21. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
22. 『官報』第2026号「叙任及辞令」1919年5月8日。
23. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
24. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
25. 『官報』第3706号「叙任及辞令」1924年12月27日。
26. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
27. 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
28. 『官報』第4433号「叙任及辞令」1941年10月15日。
29. 『官報』第3529号「叙任及辞令」1924年5月30日。
30. 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)

2235 河合操

河合 操

2235a

2235b

2235c



角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日嘉永3年2月12日) - 1905年12月13日)は、幕末会津藩士、明治期の日本海軍軍人。最終階級は海軍中将戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。

経歴
会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。翌月「雲揚」乗組となり、江華島事件に際会。陸戦隊を率いて上陸し、砲台を占領した[1]。同年12月、海軍少尉任官。「清輝」乗組として西南戦争に従軍し、同藩出身の雪下熊之助の戦死を見届けている。「孟春」乗組を経て、再度「清輝」乗組となり、日本艦船初のヨーロッパ巡航に航海長として参加した。


東艦」副長、「扶桑艦」乗組、水雷練習所副長、水雷局副長、長崎水雷営長、横須賀鎮守府水雷司令、「浪速艦長、佐世保知港事、佐世保海兵団長などを歴任。日清戦争前に初代・軍令部第1局長(のちの作戦部長)に就任した。山本権兵衛が開戦直前に海上作戦の重要性を参謀本部に説明に訪れた際は、角田が同行している[2]。戦中は大本営幕僚でもあった。


台湾総督府
海軍局長を経て、1895年8月、海軍少将に進級し、台湾総督府において参謀副長兼海軍局長、軍務局海軍部長海軍参謀長を歴任。1897年12月、佐世保鎮守府予備艦隊司令官、以後、呉鎮守府艦隊司令官、常備艦隊司令官を経て、1900年5月、海軍中将となった。さらに艦政本部長将官会議議員を経て、常備艦隊司令長官に就任した。同艦隊の司令長官はその前身時代から、草創期における海軍の主体を成した薩摩藩長州藩佐賀藩の出身者が占めていた。角田はその三藩以外から初めて就任したのである。前任は東郷平八郎、後任は日高壮之丞であった。


日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めたが、1905年12月に戦病死した[3]。その生前の功績により、1907年10月、嗣子角田武雄男爵が追贈された。

栄典・授章・授賞
位階
1900年(明治33年)8月20日 - 従四位[4]

勲章
1895年(明治28年)

  ・10月18日 - 旭日小綬章功四級金鵄勲章[5]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[6]

・1905年(明治38年)12月13日 - 勲一等旭日大綬章


角田の談話

角田は戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩の出身である。草創期の海軍に入り、同藩出身者として最初の海軍将官となった。角田は当初、会津藩が激しく対立した薩摩藩長州藩に強い敵愾心を抱いていたが、その心境に変化があったことを示す同郷の後輩鈴木寅彦に語った談話を下記に引用する。

余は亡国の士なり、故国の滅亡は、薩長の為す所なり、余は当事心に誓て、其復讐を為さんと欲し、志を決して海軍に入りたり、然るに一たび海軍に入るに及びては、均しく、天皇陛下の軍人なれば、恩讐の観念は頓に消滅し、唯共に、陛下に対して身命を擲つを以て、軍人の本分と為すに至れり — 会津会会報第12号


脚注
1. 『海は白髪なれど』「奥羽諸藩の海軍進出」
2. 『大海軍を想う』第一章「山本、閣議に爆弾を投ず」
3. 「海軍中将角田秀松」読売新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 第十二卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
4. 『官報』第5141号「叙任及辞令」1900年8月21日。
5. 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
6. 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。

参考文献
・会津会会報第12号、1918年。

・『第8号 戦時大本管海軍々人軍属官職姓名表』 アジア歴史資料センター Ref.C08040569800 

伊藤正徳 (軍事評論家)『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。

松野良寅『海は白髪なれど』博文館新社、1992年。

・『立身致富信用公録 第13編』国鏡社、1903年。

関連項目
稚松会
(wikiより)


2236 角田秀松

角田秀松

2236a

2236b

2236c



関 如来 (せき ‐ にょらい )
( 1866 ‐ 1938 )


明治 - 大正時代の新聞記者、美術評論家。

慶応 2年 11月 16日生まれ。

関 鑑子 ( あきこ ) の父。

読売新聞記者、のち美術評論家として活躍。

大正 3年日本美術院再興の際には横山大観とともに画壇革新に尽力した。

昭和 13年 2月 20日死去。73歳。

大和 ( 奈良県 ) 出身。

本名は巌二郎。

著作に「明治大正美術側面史」。

2237a

2237b



矢代 操(やしろ みさお、嘉永5年6月20日1852年8月5日) - 明治24年(1891年4月2日)は、日本の民法学者。明治法律学校(のちの明治大学)の創立者の1人である。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。

経歴
1852年越前国(現福井県)にて鯖江藩士松本伝互の三男として生まれる。初名は美太(よしふと)。後に鯖江藩士矢代家の養子となった。


藩校進徳館で学び、維新後、貢進生に選ばれ後に大学南校を経て司法省法学校に進む。卒業後、法律系出版社時習社を設立、また法律学校である講法学社の幹事となる。ここで留学から帰国した岸本辰雄宮城浩蔵と知己となり、1881年明治法律学校を創立した。同年に元老院書記官、1890年7月に貴族院書記官、同年9月に貴族院議事課長となったが[1]1891年に39歳で死去。


明治大学の創立者の中で39歳という若さで亡くなっており、他の2人に比してあまり目立たないのは、このためでもある。


生地である鯖江市の鯖江資料館に胸像が建つ。

著書
・『私犯法講義:仏国民法』 講法会出版

・『仏国民法契約編講義』 明治法律学校講法会、1890年

・『仏国民法 射幸契約、代理、保証、和解、質 編講義』 明治法律学校講法会、1890年

・『仏国民法夫婦財産契約篇講義』 明治法律学校講法会、1890年

・『仏蘭西民法相続及贈遺遺嘱編講義』 明治法律学校講法会、1890年

・『仏国民法:相続、贈遺、遺嘱篇講義』 明治法律学校講法会、1891年

・『民法財産取得編講義 巻之一』 共著、明治法律学校講法会、1895年

・『民法財産取得編講義 巻之二』 共著、明治法律学校講法会、1895年

脚注
1. 『明治大学小史―人物編』 9頁
2. 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。

参考文献
・明治大学を創った三人の男 (時事通信社 2010年)
・明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3

外部リンク
矢代 操(1852-1891) – めがねのまちさばえ 鯖江市
(wikiより)


2238 矢代操

矢代 操

2238a

2238b

2238c



林 友幸(はやし ともゆき、文政6年2月6日1823年3月18日) - 明治40年(1907年11月8日)は、日本の武士政治家元老院議官貴族院議員、枢密顧問官を歴任。通称は周次郎、半七。栄典勲一等旭日桐花大綬章伯爵林博太郎の祖父。

来歴
萩藩士林周蔵と冬子の長男として長門国に生まれる。宝蔵院流槍術の名手で、文久3年(1863年奇兵隊の参謀となり、翌年の下関戦争で活躍。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも活躍。新政府の会計官権判事として盛岡藩に派遣され、旧藩体制を解体し新体制への移行を進めるなど行政手腕にも優れたものを見せた。


明治2年(1869年会計官権判事、盛岡県大参事九戸県権知事、同3年(1870年)民部大丞兼大蔵大丞、同7年(1874年)内務大丞兼土木頭、同8年(1875年)内務少輔となる。同9年(1876年明治天皇の北陸巡幸に同行。同13年(1880年元老院議官、同23年(1890年貴族院議員、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[1]。明治33年(1900年枢密顧問官に就任。また富美宮泰宮の養育主任も務める。同40年(1907年)、84歳で死去した。

栄典
位階
1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[2]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[3]

1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[4]

1902年(明治35年)10月31日 - 従二位[5]

1907年(明治40年)11月8日 - 正二位[6]

爵位
1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[7]

1907年(明治40年)11月8日 - 伯爵[8]

勲章等
・1887年(明治20年)7月21日 - 銀製黄綬褒章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1893年(明治26年)12月28日 - 勲一等瑞宝章[11]

1905年(明治38年)6月24日 - 旭日大綬章[12]

・1907年(明治40年)11月5日 - 旭日桐花大綬章[13][14]

逸話
佐々木高行とは同じ保守派で仲が良かったといわれている。

脚注
1. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
2. 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
3. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
4. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
5. 『官報』第5800号「叙任及辞令」1902年11月1日。
6. 『官報』第7311号「叙任及辞令」1907年11月9日。
7. 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
8. 『官報』第7311号「叙任及辞令」1907年11月9日。
9. 『官報』第1219号「彙報」1887年7月22日。
10. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
11. 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
12. 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
13. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧
14. 『官報』第7309号「叙任及辞令」1907年11月7日。
(wikiより)

2239 林友幸

林 友幸

2239a

2239b



四条 隆平(しじょう たかとし)は、江戸時代後期の公家、明治期の内政官僚政治家。第一次奈良県令元老院議官貴族院男爵議員錦鶏間祗候

経歴
権大納言四条隆生の三男として生まれる。嘉永6年12月1854年1月)、兄・四条隆謌の養子となる。安政元年12月1855年1月)に元服し昇殿を許された[2]


元治
元年6月1864年7月)、横浜鎖港督励の三八卿連署、慶応2年8月1866年9月)、朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり、同年10月(11月)、差控となる。慶応3年12月1868年1月)、執筆御用掛に就任。慶応4年1月(1868年2月)、鳥羽・伏見の戦いにおいて津藩陣営に赴き朝廷側に帰順し参戦させることに尽力[2][3]。その後、北陸道鎮撫副総督、参与、先鋒副総督兼鎮撫使、新潟裁判所総督兼北陸道鎮撫副総督、越後国柏崎県知事越後府知事を歴任[4]


明治2年5月18日1869年6月27日)、民部官副知事心得・岩代国巡察使に就任。同年6月2日(7月10日)、戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された。同年9月3日(10月7日)、若松県知事兼若松城守に就任。以後、五條県知事、第一次奈良県令を歴任[4]


1879年9月、宮内省御用掛。1882年5月、太政官権少書記官兼元老院権少書記官に就任し、1886年1月に非職となる。1888年3月、元老院議官となり、その1890年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。1894年6月10日、依願免錦鶏間祗候[5]。同年同月、事情により四条侯爵家を廃嫡となり分家した[1][2]1898年7月20日、その勲功により男爵を叙爵[6]。同年8月2日、再度、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[7]1899年5月23日の醍醐忠敬殺害事件では現場に居合わせ、犯人の醍醐格太郎を取り押さえた[8]1904年7月25日、貴族院男爵議員に当選し、死去するまで在任した[5][9]

奈良県令としての治績
隆平は1872年1月2日(明治4年11月22日)から1873年11月2日まで奈良県令に在任したが[4]、この間、明治政府の方針に従い開化政策を進めた[10]興福寺一乗院内に置かれた奈良県庁では、机と椅子で執務し、官吏は断髪、脱刀、洋装で、室内は土足とした[10]。教育政策では、県学校に洋学の導入や婦女子の入学を許可したり、明治5年6月(1872年)学制の発布前に「奈良県就学告諭」を布達し、学校の設立と就学を奨励した[11]。殖産興業政策では、亀瀬越新路の開設、協力開路会所の設立、勧業所の設置、若草山山麓での乳牛の放牧と牛乳販売、興福寺旧境内での官営市の開催を行った。民衆教化政策では、社会、風俗の弊風の改善を求め、「肩ぬぎまるはだかの禁止」、「往来及び家まわりの清掃」の奨励、「措髪戴帽」の奨励、「風俗を乱す芝居浄瑠璃などの禁止」、「祈祷神降梓巫などの禁止」などの布達を出した[12]。また、1873年6月、他県に先駆けて天皇の写真の下賜を願出て、興福寺南大門跡に遥拝所を設置し、天皇像の民衆への浸透に努めた[13]

鹿に対する政策の変遷
近世における奈良の鹿の保護は興福寺と奈良奉行所(江戸幕府)が担っていたが、明治維新となり、また廃仏毀釈で興福寺が衰退すると、鹿は野放しの状態となった[14]。隆平は県令に着任すると、奈良の鹿が「神鹿」であるとの「迷信の打破」ともいうべき行為を行った[15]。それは、春日野で鹿狩りを行い大鍋ですき焼きをしたり、県庁の出勤時に捕獲した大鹿に馬車を引かせたりして、鹿を殺しても天罰が無いことなどを示そうとした[15]。また、鹿の農作物への被害を防止するため、1873年4月に「鹿園」を設置して700頭以上の鹿を収容した[16]。当時の農民たちは隆平の政策を、農作物被害が減り、また鹿が高値で取引されていたので歓迎したと伝えられている[16]。しかしこの政策によって鹿の数は隆平が県令を退任する1873年11月時点で38頭に激減した[17]。その原因として、鹿が狭い柵内の環境に適応出来なかったこと、餌の不足、疫病の発生、野犬による咬殺などが挙げられている[17]1874年、鹿園が春日神社に引き渡され飼育が続けられたが、狼による被害が発生し、また、奈良の風情が失われるとの意見もあり、1876年に鹿は解放され、現在まで続く開放式管理が始まった[17]

栄典
1888年(明治21年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[18]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[19]

1890年(明治23年)12月26日- 勲三等瑞宝章[20]

系譜
1. a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、713-714頁。
2. a b c 『明治維新人名辞典』479-480頁。
3. 『幕末維新大人名事典』上巻、626頁。
4. a b c 『百官履歴 下巻』315-317頁。
5. a b 「正三位勲三等男爵四条隆平」
6. 『官報』第4517号、明治31年7月21日。
7. 『官報』第4528号、明治31年8月3日。
8. 『明治・大正・昭和 華族事件録』17頁。
9. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。
10. a b 『奈良市史 通史4』63頁。
11. 『奈良市史 通史4』63-64頁。
12. 『奈良市史 通史4』64頁。
13. 『奈良市史 通史4』64-65頁。
14. 『奈良の鹿』178-179頁。
15. a b 『奈良の鹿』179頁。
16. a b 『奈良の鹿』180-181頁。
17. a b c 『奈良の鹿』182頁。
18. 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
19. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
20. 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。

参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。

・修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。

・奈良市史編集審議会編『奈良市史 通史4』奈良市、1995年。

・奈良の鹿愛護会監修『奈良の鹿:「鹿の国」の初めての本』京阪奈情報教育出版、2010年。

千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』新人物往来社、2002年。

・『正三位勲三等男爵四条隆平』 アジア歴史資料センター Ref.A10112717100 

外部リンク
・“NHK総合 歴史秘話ヒストリア 2016/05/13(金)放送”. TVでた蔵 (2016年5月13日). 2016年5月23日閲覧。
(wikiより)


2240   四条隆平

四条隆平

2240a

2240b



金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日1833年10月30日) - 明治40年(1907年5月13日)は幕末期の志士明治期の官僚、書家。通称は文八郎[1]。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候

経歴
1833年9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・烏洲の四男として生まれる。金井氏新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。幼少の頃から文学を好み、またもよくした。1867年新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵を企てるが、事が露顕して投獄される。1868年9月、東京府市政局に出仕。


1869年
8月、太政官少史。1874年1月、権少内史。1882年、内閣大書記官。1888年元老院議官1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[2]1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[3]。同年4月15日、貴族院勅選議員[4]1907年浜松で客死。

人物
書は初め中沢雪城に学び、のち貫名菘翁の書風に傾倒した[5]。明治書壇の有数の大家であり、日本書道会・書道奨励会の会長等を歴任し、明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴とともに席書を行った。


大久保利通
に渡った際は、井上毅らとともに随行している。

栄典・授章・授賞
位階
1874年(明治7年)2月18日 - 従六位[6]

1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[7]

1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[8]

勲章等
1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[9]

1889年(明治22年)

  ・11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

  ・12月27日 - 勲三等瑞宝章[11]


筆跡
高野長英の碑

 岩手県奥州市水沢区にある高野長英誕生の地の碑[12]

北条時宗偉功碑

 建碑は1885年、中沢雪城、私淑した貫名菘翁をへて、この顔法に至っている[13]

山田方谷遺蹟碑

 岡山県新見市大佐小阪部上町にある臨終の地にある碑。

この他全国に150基以上の石碑を残している[14]


著書
・『高山操志』

脚注
1. 成田山 P.57
2. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
3. 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
4. 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
5. 書道辞典(飯島) P.120
6. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
7. 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
8. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
9. 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
10. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
11. 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
12. 書道辞典(西川) P.28
13. 近藤 P.194
14. 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「金井金洞石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)

参考文献
・奥山錦洞 『日本書道史』藤森書店、1982年(清教社、1943年の覆刻版)

西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)

・「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)

  ・近藤高史 「名品鑑賞 明治」

・飯島春敬ほか 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)

・『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』勝山城博物館発行 林淳著 2017年4月

成田山書道美術館編『日本の書 維新〜昭和初期』(二玄社、初版2009年)ISBN 978-4-544-01079-4

長谷川伸『相楽総三とその同志』(講談社学術文庫、2015年2月10日)ISBN 978-4-06-292280-7

関連項目
日本の書道史
(wikiより)


2241 金井之恭

金井之恭

2241a

2241b



宮地宣蔵(ぎぞう)は天保9年10月能津村本村に生れる。


能津村庄屋・田村覚衛門の長男であるが、故あって宣蔵は姉の夫である芳生野村郷士・宮地慶太郎の籍となり、宮地氏を名乗る。


高知の城下にて、竹村節之進及び間崎哲馬に従学。


時に吉村寅太郎もまた間崎の門下にあったので、二人は意気投合して深い交わりをなした。


文久元年、武市半平太が江戸より帰り、攘夷を説くにあたり、これに同意して、奔走した。


同2年3月寅太郎と曽和伝左衛門とともに脱藩した。(坂本竜馬脱藩の18日前)


宣蔵はやがて長州、豊後、京都と諸処を奔走し、謀って京都所司代を討ち取ろうとしたが、寺田屋の変の為事破れて大阪邸に抑留せられ、ついに高知獄屋につながれたが、間もなく許され、その後、少将姉小路公知の随員(高官につき従ってその仕事を助ける人)となる。


その活躍が認められ、孝明天皇より鳥帽子、布衣を賜った。


少将・姉小路公知が殺害された後、三条中納言実美の護衛に付いたが、急な病のため死亡した。享年26歳であった。

1570a



水口藩士。

明治三(1870)年2月14日死去。

他詳細不明。

1569a



1843年。

岡山県出身。

幕末の志士。

1567a



勤王志士。

近江甲賀郡池田の人。

通称謙次、号は有秋・蛟潭。

池田屋事件の時は水口におり難を免れた。

慶応元年(1865)歿、34才。

1566a



愛媛県松山出身。

元治元年春上洛、六月五日池田屋にて闘死。

1565a



川瀬太宰。

近江膳所藩家老戸田五左衛門の五男。
         
慶応元年会津藩の捕吏は、大津に帰る途中の彼を捕えました。

1年余り獄につないだ後、慶応2年6月7日、京都町奉行の手で斬に処しました。

1564a



駒井躋庵 ( こまい - せいあん )
( 1810 ‐ 1866 )

幕末の尊攘(そんじょう)運動家。

文化7年生まれ。

加賀金沢藩医。

京都で医学を学ぶ。

医師・駒井氏の家を継ぎ、京都の政情を金沢藩の勤王派に通報する。

元治(げんじ)元年(1864)の禁門の変の後、金沢藩で勤王派弾圧がはじまると捕らえられ金沢へ送られる。

慶応2年8月9日獄死した。57歳。

本姓は柴田。名は定勝。通称は弥次、源次。

1563a



広岡 浪秀(ひろおか なみほ、天保12年1月1日1841年1月23日) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末尊皇攘夷志士長州藩大嶺神社(美祢市)の神主。諱は正恭。変名、広分彦也


尊皇攘夷を志した広岡は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、関西から関東までを遊説。

長州藩の賊軍汚名返上に尽力して廻っていたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇して負傷。

池田屋を逃れて長州藩邸付近で絶命した。享年24。

京都大和小路三条縄手の三縁寺に埋葬される。

1562a



北添 佶磨(きたぞえ きつま、天保6年(1835年) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士佶麿(よしまろ)、源五郎とも。変名は本山七郎池田屋事件の「階段落ち」で知られる。


土佐藩
高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男で、西田可蔵の弟。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。


開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)、本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学ぶ。その後、安岡直行能勢達太郎小松小太郎と共に奥州蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。なお、この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。


その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって斬殺されたと思われていたが、近年の研究によって自刃して果てたことが判明している。享年30。


明治
24年(1891年)、従四位を贈られた。

フィクション 
子母澤寛の『新選組始末記』においては、池田屋事件の際、新撰組の近藤勇によって北添佶摩が斬られ、2階階段から壮絶に転がり落ちるいわゆる階段落ちのシーンが生々しく描かれており、このシーンはつかこうへい戯曲蒲田行進曲』においても重要なプロットとなっている。しかし、これは上述の通り近年では池田屋事件の際は自刃しており、子母澤の創作であると考えられている。

関連作品
漫画
・『お~い!竜馬

小説
・『新選組始末記

映画
・『蒲田行進曲
(wikiより)


1561a



池田屋殉難長州人の変名か? 詳細不明。

1560a



武林八郎 ( たけばやし - はちろう )
( 1839 ‐ 1864 )

幕末の尊攘(そんじょう)運動家。

天保(てんぽう)10年生まれ。

文久3年天誅(てんちゅう)組の挙兵に参加して捕らえられるが、元治(げんじ)元年釈放。

同年禁門の変に際し長州軍に加わって闘い、7月19日戦死した。26歳。

河内(かわち)(大阪府)出身。

本姓は八木。名は章広。通称は別に八兵衛。

1559a



関 義臣(せき よしおみ、1839年5月22日天保10年4月10日) - 1918年大正7年)3月30日)は、日本武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵

略歴
1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。


藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年慶応2年)、長崎坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。この頃より「関龍二」を名乗る。直後に英国への渡航を行うが、長崎から出帆した船が台風に遭遇して遭難し、上海を経由して長崎に帰還した。その後は京都の越前藩屋敷に出仕するが、藩の中心人物らと上手く行かず、大阪などで新政府の官吏として活躍していたが、これは藩の許可は得ていなかった。


1868年
(明治元年)には、大阪の舎密局で舎長を務めたが、新政府の中心人物らと福井藩の人物らとの間に軋轢が生じるようになると、新政府方で活躍していた関の存在は福井藩に疎ましく思われ始めた。身柄は福井藩士のままであった関は福井藩に呼び戻されるも応じなかったため、福井藩により捕縛され、福井に強制帰還させられ府中の兄の家に幽閉される。


1870年
(明治3年)の武生騒動に関与したとして捕縛され、藩は死刑を求刑するも、新政府はこれを認めず、後に釈放される。


大阪府権判事をはじめ、鳥取県権令や宮城控訴院検事長、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院勅選議員などを歴任。1902年2月25日、錦鶏間祗候となる[1]1907年(明治40年)9月、日露戦争の功により男爵を授けられる。1918年3月、肺炎のため麻布一本松邸で死去。享年79。

栄典
位階
1874年(明治7年)2月23日 - 正六位[2]

1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[3]

1890年(明治23年)8月6日従四位[4]

1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[5]

1903年(明治36年)12月1日 - 従三位[6]

勲章等
1885年(明治18年)4月7日 - 勲六等単光旭日章[7]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]

1900年(明治33年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[9]

1907年(明治40年)9月23日 - 男爵[10]

1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[11]


著作
秋声窓詩抄別集国立国会図書館に所蔵されている。

親族
・妻:邨子(むらこ、久米貞元五女)[12]

・男子

  ・義寿(貴族院男爵議員)[12]

  ・義胤(東乙彦養子)[12]

  ・義長(三菱電機社長)[12]

・女子

  ・貞子(東乙彦夫人)[12]

     ・淑子(上野景明夫人)[12]

脚注
1. 『官報』第5591号、明治35年2月26日。
2. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号124
3. 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
4. 『官報』第2136号「叙任及辞令」1890年8月12日。
5. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
6. 『官報』第6126号「叙任及辞令」1903年12月2日。
7. 『官報』第538号「賞勲叙任」1885年4月21日。
8. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
9. 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
10. 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
11. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
12. a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、783-784頁。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
(wikiより)


2242 関義臣

関 義臣

2242a

2242b






出羽 重遠(でわ しげとお、安政2年12月10日1856年1月17日) - 昭和5年(1930年1月27日)は、日本海軍軍人華族。最終階級は海軍大将栄典正二位勲一等功二級男爵

経歴
陸奥国会津若松城下に、会津藩士である出羽佐太郎重信[1]を父として誕生。幼名は房吉。戊辰戦争では白虎隊に属して戦った。戦後、父が会津松平家御用掛として上京したのに伴われ、秋月悌次郎らから教育を受けている。


明治
11年(1878年)8月16日、海軍兵学寮5期)を卒業。同期に三須宗太郎大将。 防護巡洋艦浪速の回航委員として英国出張を命ぜられ、航海長として帰国。防護巡洋艦高千穂の分隊長、巡洋艦高雄の副長、砲艦赤城の艦長など現場経験を重ねるとともに、海軍省第一局第一課長(後の軍務局第一課長)、大臣官房人事課長といった軍政関係に配置された。


日清戦争西海艦隊参謀長として迎え、明治27年(1894年)12月27日、大佐に昇進すると同時に連合艦隊参謀長へ異動。連合艦隊司令長官である伊東祐亨中将の補佐にあたる。日清戦争後は再び軍務局第一課長、軍務局軍事課長を務める。明治31年(1898年山本権兵衛海軍大臣に就任するとその次官に望まれた。出羽は斎藤實を推薦し、自らは装甲巡洋艦常磐の回航委員長となった[2]。明治33年(1900年)5月20日、少将へ昇進[3]と同時に常備艦隊司令官に補され、続いて軍務局長兼軍令部次長という軍政軍令の要職を兼任する稀な経験をしている[4]

日露戦争に第三戦隊司令官として参戦。巡洋艦4隻を率いて、日本海海戦まで第一戦隊とともに第一艦隊に属して戦い、その後樺太作戦のために編成された第四艦隊の司令長官を務めた。日露戦争後、第二艦隊および佐世保鎮守府の各司令長官・教育本部長を務め、第一艦隊司令長官在任中の明治45年(1912年)7月9日大将へ昇進した。それまで有栖川宮威仁親王以外の13人の海軍大将は全て旧薩摩藩出身者であり、加えて賊軍といわれた会津藩出身であったことから当時の新聞報道でも大きく扱われた。その後軍事参議官在任中にシーメンス事件査問委員長を務めている。


妻は会津藩士であった大沼親誠の娘。妻の妹は鈴木貫太郎夫人とよ[5]。妻の弟が大沼龍太郎である。長男の重夫は海軍兵学校(34期)出身の海軍軍人で、海軍大尉で死去。次男の泰邦は加藤定吉の養嗣子、四男重芳は貴族院議員となった。重夫の娘は寺垣猪三與倉守之助(機関少将)の養女となる[6]

年譜
1872年10月3日明治5年9月1日)、海軍兵学寮 入寮

1874年(明治7年)10月、高雄丸 乗組

1876年(明治9年)10月、筑波 乗組

1878年(明治11年)

  ・8月16日、任 海軍少尉補

  ・9月9日扶桑 乗組

1879年(明治12年)2月7日、鳳翔乗組

1880年(明治13年)

  ・8月12日、任 海軍少尉

  ・12月4日龍驤 乗組

1883年(明治16年)

  ・2月27日、任 海軍中尉

  ・10月4日天城 乗組

1884年(明治17年)1月29日浅間 乗組

1885年(明治18年)

  ・4月27日浪速 回航事務取扱委員(英国出張)

  ・11月20日、浪速 航海長

1886年(明治19年)

  ・4月7日、任 海軍大尉

  ・6月26日、帰国

  ・10月15日高千穂 分隊

1887年(明治20年)10月27日常備小艦隊司令官参謀

1889年(明治22年)7月29日高雄 副長[7]

1890年(明治23年)

  ・3月1日、高雄 副長心得[8]

  ・10月16日、任 海軍少佐、高雄 副長

1891年(明治24年)6月17日海軍省第1局第1課長

1893年(明治26年)

  ・5月20日、海軍省大臣官房人事課長

  ・9月12日赤城 艦長

1894年(明治27年)

  ・5月5日、免 赤城 艦長、龍田 回航委員長[9]

  ・6月5日、龍田 艦長、英国出張[10]

  ・7月13日警備艦隊参謀長心得

  ・7月19日西海艦隊参謀長心得

  ・12月7日、任 海軍大佐、西海艦隊参謀長
  ・12月17日常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長

1895年(明治28年)7月25日、海軍省軍務局第1課長

1896年(明治29年)5月27日、海軍省軍務局第1課長・臨時建築部部員

1897年(明治30年)

  ・4月1日、海軍省軍務局軍事課長[11]

  ・6月7日、賜 一級俸[12]

1898年(明治31年)

  ・4月5日、海軍省軍務局軍治課長 兼 臨時海軍建築部部員 免職。英国出張仰付。常磐回航委員長 任命[13]

  ・10月3日、常磐艦長

1899年(明治32年)7月16日、帰国

1900年(明治33年)5月20日、任 海軍少将、常備艦隊司令官

1901年(明治34年)

  ・7月3日横須賀鎮守府艦政部長

  ・10月18日、横須賀鎮守府軍法会議判士長 被免[14]

1902年(明治35年)10月29日、海軍省軍務局長・軍令部次長海軍将官会議議員

1903年(明治36年)

  ・9月5日、免 軍令部次長
  ・10月27日、常備艦隊司令官

  ・10月29日、免 東京軍法会議判士[15]

  ・12月28日第一艦隊司令官

1904年(明治37年)6月6日、任 海軍中将

1905年(明治38年)

  ・6月14日第四艦隊司令長官

  ・12月20日第二艦隊司令長官

1906年(明治39年)

  ・9月13日伏見宮博恭王清国差遣に付き随行[16]

  ・11月22日海軍教育本部長・将官会議議員

1907年(明治40年)7月20日、練習艦隊特命検閲使[17]

1908年(明治41年)5月26日、第2艦隊司令長官

1909年(明治42年)2月1日佐世保鎮守府司令長官

1911年(明治44年)12月1日、第1艦隊司令長官

1912年(明治45年)7月9日、任 海軍大将

1913年大正2年)12月1日軍事参議官、免 第1艦隊司令長官[18]

1914年(大正3年)

  ・1月28日、シーメンス事件査問委員長

  ・3月20日、特命検閲使[19]

1915年(大正4年)1月7日パナマ運河開通式、並びにパナマ太平洋万国博覧会開会式に帝国政府代表者として参列。小林躋造海軍中佐と上田良武海軍少佐が随行[20]

1916年(大正5年)9月6日、特命検閲使[21]

1919年(大正8年)3月21日、特命検閲使[22]

1920年(大正9年)12月17日後備役

1925年(大正14年)12月17日、退役

1937年(昭和5年)1月27日薨去 享年74

詳しいことは、「出羽重遠ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E9%87%8D%E9%81%A0
(wikiより)

2243 出羽重遠

出羽重遠

2243a

2243b

2243c




高崎 五六(たかさき ごろく / いつむ、1836年4月4日天保7年2月19日) - 1896年(明治29年)5月6日)は、江戸時代末期の薩摩藩士明治時代の官僚錦鶏間祗候爵位男爵仮名を猪太郎または兵部と名乗り、のちを友愛。高崎正風は従兄弟にあたる。

来歴
1836年(天保7年)、薩摩藩士の高崎善兵衛友道の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在川上村(現在の鹿児島県鹿児島市川上町)に生まれる[1]安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに入京。朝廷に奏聞しようとしたが失敗する。1862年(文久2年)、藩命により上京。藩士有馬新七らが島津久光の命に背いて伏見寺田屋に集会するのを察知し、久光に急告して騒擾を事前に食い止めた(寺田屋事件)。元治元年、長州征伐が起こり、西郷隆盛と協議のうえ朝稲兵助と変名して長州に入り、藩要人と議論を交わし、さらには長州藩謝罪恭順のために周旋した。


維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官東京府知事等を任じられた。1887年(明治20年)5月24日、勲功により男爵位を授けられ[2]1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる[3]1896年(明治29年)、病没した。享年61。亡くなった日を5月7日とする文献もある。

栄典
位階
1885年(明治18年)2月6日 - 従四位[4]

勲章等
1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[5]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

親族
子に、長男高崎安彦、三男弓彦がいる。安彦の跡は、弓彦、秀博と続く。

脚注
1. さつま人国誌「高崎正風と高崎五六」 - 南日本新聞 2013年4月18日閲覧。
2. 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
3. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
4. 『官報』第483号「賞勲叙任」1885年2月13日。
5. 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
6. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
(wikiより)

2244 高崎五六

高崎五六

2244a

2244b




山川 浩(やまかわ ひろし、1845年12月4日弘化2年11月6日) - 1898年明治31年)2月4日)は明治時代の日本軍人。旧会津藩士。最終階級は陸軍少将位階勲等爵位従三位勲三等男爵


陸軍省人員局長兼輜重局長、総務局制規課長、高等師範学校筑波大学の前身の一つ)校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までのは重栄、は士亮、通称大蔵(おおくら)、与七郎。は屠竜子。

生涯
幕末
父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1,000[1])。母は会津藩士・西郷近登之の娘・えん。姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に山川常盤、大山捨松らがいる。


万延
元年(1860年)、父の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)、藩主・松平容保京都守護職拝命に伴って上洛する。慶応2年(1866年)には幕府の使者と同行してロシアへ渡航するが、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を悟ったといわれている。


戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退した。しかし藤原では追撃してくる敵軍を敗走させた。その後、敵軍は中村半次郎が来るまで(日光口からは)会津に突入することは出来なかった[2]会津戦争では、既に包囲された会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じた。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城して妻・トセも爆死している。戦後は禁固謹慎に処せられ、明治3年(1870年)には斗南藩権大参事に就いたものの、藩の実収は少なく藩士の生活も困窮し、自身も妹・咲子(捨松)を函館里子に出すなどの苦労を重ねている。

明治時代

廃藩置県後は青森県に出仕したが、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に八等出仕する。同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、明治7年(1874年)には佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、中佐に昇進する。明治10年(1877年)の西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。選抜隊を率いた山川は、薩摩軍が攻囲し、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功し、救援部隊第1号となった[3]。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。明治13年(1880年)には陸軍大佐に進級した。


明治19年(1886年)、文部大臣森有礼の命により高等師範学校の校長に任じられ、附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。


明治20年(1887年)、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。

「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」[4]

当時の授業料は50で、生徒は六百数十名だったが、授業料を値上げしてもほとんどが在学を望んだため、増収により良い教師を招聘して大いに校風を振起することができた。しかも山川は軍人だから規律が厳しかったので、学校は秩序整然としたものになった[4]


その後は陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入される。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したものの落選するが[5]、同年の9月29日に貴族院議員に勅選され[6]、谷や曾我祐準とともに院内会派懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。


明治31年(1898年1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられる。同年2月4日薨去。戒名は忠烈院殿靖誉桜山大居士。墓は青山霊園にある。


山川男爵家は、妹の常盤と妹婿(婿養子)山川徳治の息子の戈登、次いで戈登の弟の、次いで浩の弟健次郎の四男のが養子入りして跡を継いでいった。

人物
・腕っぷしが強く強情な性格だった。エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけたという。


・妹・捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、邸宅には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対してたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたらしく、晩年まで生活は非常に苦しかったという。また、生涯にわたって会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物で、藩学だった朱子学を嫌って陽明学を学んでいたという。


・幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟・健次郎が完成させたとするのが定説となっている。

栄典・授章・授賞
1898年明治31年)1月26日 - 男爵[7]

位階
1874年(明治7年)

  ・3月26日 - 従六位

  ・6月14日 - 正六位

1880年(明治13年)6月8日 - 従五位

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位

1891年(明治24年)8月13日 - 従三位[8]

勲章等
1878年(明治11年)1月31日 - 勲四等

1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

著作
さくら山集高木盛之輔編纂、長谷川調七、1902年9月

  ・『山川浩』 櫻井懋編、1967年12月 / 『復刻版 山川浩』 歴史春秋出版、2016年6月、ISBN 9784897578811

・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1911年11月

  ・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1912年9月増訂再版 / マツノ書店、2004年7月
  ・京都守護職始末』 郷土研究社、1930年6月

  ・『京都守護職始末 : 旧会津藩老臣の手記』2冊、遠山茂樹校注、金子光晴訳、平凡社東洋文庫〉、1965年8月-1966年2月、ISBN 4582800491 4582800602

・「詩文」「唐依の歌」(前掲 『山川浩』)

脚注
1. 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
2. 中村(2007)、205p.
3. 中村(2007)、208p.
4. a b 『桐陰会創立二十周年記念号』(明治43年12月)p. 8、『創立百年史 筑波大学附属中学校・高等学校』(昭和63年10月08日)p. 12に再録
5. 『ザ・選挙』第1回衆議院議員選挙福島4区
6. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
7. 『官報』 第4368号 1898年1月27日 「授爵叙任及辞令」
8. 『官報』第2439号「叙任及辞令」1891年8月15日。
9. 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
10. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。

詳しいことは、「山川 浩ウィキペディア」をご覧ください ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%B5%A9
(wikiより)

2245   山川浩

山川 浩

2245a

2245b



宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日安政2年9月4日) - 1928年昭和3年)4月18日[1])は、三重県津市出身の法学者法学博士東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。

人物
1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生[2]藩校有造館で漢籍国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京[2]日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している[3]

経歴
1855年(安政2年)9月4日 - 伊勢国安濃郡津新道(現三重県津市)に津藩藤堂氏重臣藤堂主膳家老宮崎八郎右衛門(篤斎)の第四子として生まれる。

1870年(明治3年) - 開成学校入学。

1880年(明治13年) - 東京大学法学部卒業。文部省御用掛官立学務局勤務。

1881年(明治14年) - 東京大学御用掛兼務。東京大学法学部助教授。

1882年(明治15年) - 鹿児島県士族木場清生の娘・よし(木場貞長の妹)と結婚。

1884年(明治17年) - 文部省留学生としてドイツへ留学(沿革法理学・民法総論修業)。ハイデルベルク大学入学。

1885年(明治18年) - ライプツィヒ大学に転学。

1886年(明治19年) - ゲッティンゲン大学に学ぶ。

1887年(明治20年) - ライプツィヒ大学に戻る。

1888年(明治21年) - 帰国。帝国大学法科大学教授就任(日本法制史・比較法制史・ローマ法)。

1889年(明治22年) - 日本法律学校(現在の日本大学)創立者総代となる。

1891年(明治24年) - 法学博士号を取得。

1898年(明治31年) - 東京学士会院会員に選出される。

1912年(明治45年) - 帝国学士院幹事。

1922年(大正11年) - 東京帝国大学退官。東京帝国大学名誉教授

1928年(昭和3年)4月18日 - 逝去(72歳)、正三位、勲一等。

栄典・授章・授賞
位階
1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[4]

1898年(明治31年)12月10日 - 正五位[5]

1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[6]

1914年(大正3年)4月10日 - 従三位[7]

勲章等
1903年(明治36年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[8]

1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[9]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]

1920年(大正9年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[11]

詳しいことは、「宮崎道三郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%81%93%E4%B8%89%E9%83%8E
(wikiより)

2247 宮崎道三郎
宮崎道三郎

2247a

2247b



北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日嘉永5年12月20日) - 1931年昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者・教育者実業家。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。


貴族院
議員を務め、位階勲等従二位勲一等男爵医学博士、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)[1]、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学医学科(現・慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長、テルモ株式会社の設立者である[2]


名字の読みは出生地の小国町や北里柴三郎記念館などでは「きたざと」と発音するが[3]、学校法人北里研究所(北里大学)、紙幣デザインに選ばれた際の財務省の発表、それを受けたテレビ局などでは「きたさと」と濁らず発音している[3]。これは北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらうために、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、英語圏では「きたさと」と発音され、一般的となっていったためである[3][4][5]

人物
出生から
肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる[6]。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されなかった。実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た。1869年、細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止され、熊本医学校に入学した。そこで教師のマンスフェルトに出会ったことをきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった。特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている[7]


1875年明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。1883年(明治16年)に医学士となる。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[8]。卒業時の成績は26名中8位であった[9]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。

留学時代
同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホに面会し期待の大きさを目のあたりにした石黒は、異動命令を撤回した[10]1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。


1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 1]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[11]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[11][注 2]


論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した。

帰国後
ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈したため、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国の寄付により内務省管轄の国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績を上げた。


かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。長年の東大との対立が背景であるといわれ、。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。柴三郎はこれに反発し所長を辞し、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・学校法人北里研究所北里大学の母体)を設立。狂犬病インフルエンザ赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。


諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。


また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した。その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

経歴
1853年嘉永5年)- 肥後国北里村で代々総庄屋を務めた北里氏の支流の家に生まれる。

・1866年(慶応2年) - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門。

・1869年(明治2年)- 12月、熊本藩藩校時習館に入寮。学問・武芸に励む。

・1871年(明治4年) - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。蘭医のコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事。

・1875年(明治8年)- 4月、22歳で東京医学校(1877年、東京大学医学部と改称)に入学[注 3]

・1883年(明治16年)

  ・4月、松尾臣善(第6代日銀総裁)の長女・乕と結婚。

  ・7月、東京大学医学部卒業[12](予科3年、本科5年の課程を7年半で修了)。

  ・11月、内務省衛生局に奉職。

・1885年(明治18年)- 11月、ドイツ留学を命じられる。

・1886年(明治19年)- 1月、ドイツベルリン大学コッホ研究室に入り研究を開始。

1889年(明治22年)- ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功。

1890年(明治23年)- 世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発する。12月、肺結核治療研究のため皇室から金一千円を下賜され、留学期間を1年延長(内務省は休職)。

1891年(明治24年)- 8月、医学博士の学位を受ける[13]。日本に戻り福澤諭吉らの援助により伝染病研究所を設立[注 4]
・1894年(明治27年)- 2月、伝染病研究所を芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始。5月には日本政府により香港へ調査派遣され、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見した。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。

・1899年(明治32年)- 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。4月、所長に就任。

1901年(明治34年)- 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる[14]

・1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。

・1908年(明治41年)- 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。

・1913年(大正2年)- 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任。

1914年(大正3年)- 伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京帝国大学に合併される際、移管に反対して所長を辞任。このとき、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。11月5日に私費を投じて北里研究所を設立。初代所長。

・1915年(大正4年)- 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる。

・1916年(大正5年)- 11月、府県の医師会を統合して大日本医師会を設立、会長に就任。

1917年(大正6年)- 慶應義塾大学医学部の創立に尽力し初代学部長となる(医学科であったが1920年(大正9年)に医学部と改称)。

・1923年(大正12年)- 日本医師会を創設。初代会長に就任。

・1924年(大正13年)- 2月、男爵叙爵。

・1928年(昭和3年)- 5月、医学部長を辞任、顧問就任。

1931年(昭和6年)- 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年80。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。

詳しいことは、「北里柴三郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8C%E6%9F%B4%E4%B8%89%E9%83%8E
(wikiより)

2248 北里柴三郎

北里柴三郎

2248a

2248b



4代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治19年1886年5月21日 - 昭和10年(1935年7月23日)は、落語家。本名:中島市太郎。妻はな(旧姓:土方はな)

人物
大阪府大阪市北浜株屋の出身で「天狗連」で腕を磨き3代目桂文三の門で小文となりセミプロとなった。


一攫千金を狙って東京に出向き、兜町で株式仲買の店に住み込みで働いたが株の暴落で倒産、撞球屋のボーイやプロの連珠師となるも商売としてうまく行かず噺家に戻った。同じ上方出身でもあった初代桂小南の口利きで1909年10年初代三遊亭圓右の内輪になって初代三遊亭右女助となった。


1913年3月に人形町末広亭で真打昇進。以降所属は会社派、睦会、などを転々とする。所帯を持った頃、両国の米沢町に「とらや横町」という処があってそこの2階に居を構え弟子達(桃助(後の5代目古今亭今輔))を居候させていた。


その後上野黒門町に居を移し、1923年関東大震災の時には、妻はなをはじめ大勢の弟子たちを連れて関西へ巡業に行っていた。東京が大地震に見舞われたと聞いて急いで戻ってみると、当時留守番を任せていた「爺や」と呼ばれていた人物が、大八車に家財道具一式を積み込んで上野のお山(上野公園)に避難していた。 この「爺や」というのは妻はなの係累の者で、年相応に所帯も持たずいわば一族の厄介者だった。今輔はそれを引き取って下男として使っていたのであったが、この大震災の時の功労でその後「爺や」には大層手厚くしてやったと言う。


やがて徐々に人気も出て1926年10月に5代目柳亭左楽の斡旋で4代目今輔を襲名。一方今輔夫婦には実子がなく、はなの甥にあたる土方勇(いさむ)(1996年5月6日、77歳没)を大層かわいがっていた。幼い勇をよく高座へ連れて行ったり、勇の方も言われるままに落語の真似事をしては今輔に気に入られていた。


しかし今輔は1934年咽頭癌を患って声帯を手術したために声が聞こえなくなる。土方勇の話では、この時病院のベッドの上に正座している今輔の姿が写真入りで新聞に載り、「あの今輔が噺家としての命である声を失った」と報じられたと言う。 同年6月29日日本橋倶楽部で引退披露興行を行った。翌1935年7月23日死去。49歳没。墓所は文京区忠綱寺。戒名は「釈真浄」。


その後、「今輔」の名跡は弟子であった桃助が五代目として襲名した。


前名である「右女助」は恩人・初代小南の孫弟子であった桂文七が二代目を、四代目今輔自身の孫弟子である古今亭今之輔が三代目が襲名し、現在は二代目右女助の孫弟子が四代目を名乗っている


東京で上方落語を演じる数少ない人物で地味な口調の人物でもあった。SPレコードも数枚吹き込んでいる。


弟子には恵まれなかったが、後年妻はなのもとへ、今輔の前の名前である「右女助」を襲名することになったと言って、若い孫弟子がはるばる挨拶に来てくれたことがあったという。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
(wikiより)

2249b



川村 景明(かわむら かげあき、嘉永3年2月26日1850年4月8日) - 大正15年(1926年4月28日)は、日本陸軍軍人華族東京衛戍総督鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵

経歴
薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争戊辰戦争に従軍、明治2年(1869年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。


明治
4年(1871年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。明治5年(1872年)7月、陸軍少尉近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。この間に石本新六から仏語を学ぶ一方で陸軍に勧誘する。1874年(明治7年)4月、陸軍大尉広島鎮台勤務を命ぜられる。1876年(明治9年)4月、歩兵第11連隊大隊長心得を拝命し萩の乱に出征する。翌年2月から征討第3旅団隷下として西南戦争に出征、戦中の4月に陸軍少佐に進み歩兵第11連隊大隊長となる。1882年(明治15年)2月、陸軍中佐歩兵第4連隊長の後熊本鎮台参謀長第6師団参謀長、参謀本部第1局長を経験し階級は陸軍大佐に昇る。


明治23年(1890年)6月、陸軍少将・歩兵第8旅団長を命ぜられ、同27年(1894年)8月、近衛歩兵第1旅団長に移り日清戦争に出征する。功により明治28年(1895年)12月、男爵を授けられ華族に列せられる。明治30年(1897年)10月、陸軍中将第1師団長に就任。明治34年(1901年)4月、伏見宮貞愛親王の後任として第10師団長に就任する。明治37年(1904年)5月から日露戦争に出征し、この戦役の際、陸軍大将・鴨緑江軍司令官に就任し奉天会戦に参加。戦後、軍事参議官兼東京衛戍総督となり、勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章を賜る。明治40年(1907年)9月、子爵に陞爵する。大正4年(1915年)1月には元帥府に列せられる栄誉を賜る。


大正8年(1919年)12月から帝国在郷軍人会会長を務める。大正15年(1926年)4月28日、会長在任中に薨去。薨去に際し大勲位菊花大綬章が贈られた。墓所は東京都港区南青山青山霊園

鴨緑江軍司令官としての活躍
日露戦争中、新たに鴨緑江軍が編成された。この軍団は満州軍とは別に行動できる部隊として、第3軍(司令官・乃木希典)から、勇猛で知られた第11師団を引き抜き、参謀本部が直接指揮に関与できる部隊として編成された軍団である(これには長岡外史のアイデアを採用したと言われる)。これに対し、現地軍の司令官であった大山巌は不満を述べたが、鴨緑江軍司令官に就任した川村は、大山と会談した際に「総司令部(満州軍)の指揮に従います」と明言し、事実上満州軍指揮下の軍団として作戦行動を共にすることになる。しかし鴨緑江軍は、実戦経験が豊富な第11師団を主軸とはしていたが、実際の主力は老兵(30歳以上の兵)を中心とした後備役第1師団の兵であり、編成当時から実戦で使えるものかどうか疑問の声が多かった。


川村は士気も戦闘力も劣ると思われていた鴨緑江軍を、第一線の部隊並にすべく行動を始める。あえて草鞋を履いた姿で前戦の塹壕に出かけ、各兵士に気さくに声を掛けて回り兵士を鼓舞した。兵士たちも屈託のない川村の姿に親しみを寄せるようになったと言われる。


川村の工夫と努力によって、役立たずと思われていた鴨緑江軍は良く戦い、特に奉天会戦では、ロシア軍を指揮するアレクセイ・クロパトキンに日本軍主力部隊と誤認させるほどの活躍を見せた[1]

逸話
・日露戦争中、野津軍司令官の指示に対して首を縦に振らないことが度々あった。その都度、上原勇作参謀長が説得にあたったが、仕舞には「貴官にして攻撃せんと欲せば、自ら之を敢行するほかあるまい」と川村が言うので上原は閉口するしかなかったという。


・三塊石山の戦闘において第10師団は敵前で旋回運動を行うという危険な戦術を実行した。折しも川村が乗馬した馬や副官が被弾するという緊迫した情勢であったにもかかわらず、野津軍司令官が師団視察に訪れた。最前線視察は野津の持病ともいうべきもので、各師団長は皆これを嫌がっていた。川村は野津を出迎えたが、野津の傍らにいた上原に向かって「誰が司令をここに連れてきたか!ここは軍司令官が来るべき場所ではない!」と怒鳴りつけた。野津に対しては「司令官は速やかに帰還されたい」と言ったので二人は黙々として第4軍司令部に戻った。後にも先にも野津に面と向かって諫言した師団長はいなかったため、第10師団の参謀たちは川村を敬ったという。上原は戦後、「川村元帥には日露戦役中、2回叱責された。」と述べている。


・叱責の翌日、視察を命じられたのは参謀の町田経宇中佐であった。ロシア語が堪能な町田は川村から捕虜にした敵連隊長の尋問を命じられる。はたしてそれは町田の旧友のクリンゲンベルヒ中佐であった。「自分の無事を妻に電報で知らせてほしい。妻の写真をなくし、結婚指輪を日本兵に奪われたので探してほしい。」と町田に泣きついた。町田は「打電したり、探したりすることはできないことである。貴下は自身が戦場にあることを忘れたのか。戦場泥棒の仕業であり、軍紀を生命とする日本兵には泥棒をなすがごとき不心得者はいない。」と語気を強めた。川村は恐縮して黙ったままのクリンゲンベルヒに同情し、腰からブランデーの入った水筒を外して「これを飲ませてやってくれ。」と町田に手渡している。


シベリア出兵の際、総司令官を上原参謀総長から打診されたが固辞している。代わりに大谷喜久蔵が派遣軍司令官に選ばれた。

栄典・授章・授賞
位階
1891年(明治24年)6月13日 - 従四位[2]

1910年(明治43年)5月21日 - 従二位[3]

勲章等
1895年(明治28年)12月4日 - 男爵功三級金鵄勲章勲二等瑞宝章[4]

1906年(明治39年)4月1日 - JPN Kinshi-kunsho 1Class BAR.svg 功一級金鵄勲章JPN Kyokujitsu-sho Paulownia BAR.svg 旭日桐花大綬章明治三十七八年従軍記章[5]

1907年(明治40年)9月21日 - 子爵 [6]

1915年(大正4年)

  ・1月9日 - 元帥元帥徽章

  ・11月7日 - 金杯一組大正三四年従軍記章[7]

  ・11月10日 - 大礼記念章(大正)[8]

1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組大正三年及至九年戦役従軍記章[9]

・1926年(大正15年)4月28日(没後叙勲)- JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg 大勲位菊花大綬章

外国勲章佩用允許
1926年(大正15年)3月26日 - POL Virtuti Militari Komandorski BAR.svg 2等ヴィルッチ・ミリタリ勲章英語版[10]

Legion Honneur GO ribbon.svg レジオンドヌール勲章グラントフィシエ

Cavaliere di gran Croce Regno SSML BAR.svg 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ

United-kingdom514.gif ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス


親族
・後を嗣子の景一が継ぐ。景一は陸軍士官学校を28期で卒業し陸軍大佐に至る。

・娘は陸軍中将成田正峰、陸軍少将藤津準一、陸軍大尉松岡政寛に嫁ぐ。

脚注
1. 宝島社刊 『別冊宝島・激闘!日露戦争 日本人がもっとも輝いた戦い』P83~87記述より
2. 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
3. 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
4. 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
5. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
6. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
7. 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
8. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
9. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
10. 『官報』第4077号、大正15年3月30日

参考文献
『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正12年9月1日調)13コマに記載あり。
(wikiより)

2250 川村景明

川村景明

2250a

2250b



浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1月10日)は、明治時代の細菌学者、医学博士北里柴三郎に師事し、ジフテリア破傷風などの血清研究に功績を残した。生前は日本の免疫学の第一人者であり、丹念に追求していくその研究手法は「探偵的研究」とも呼ばれた。日本細菌学会賞の一つに、その功績を記念する浅川賞がある。

人物
1865年慶応元年)1月に、土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。県立医学校で医学を学び、卒業後上京して、済生学舎で造詣を深めた。1889年に郷里に戻って開業、1890年高知病院に招かれ、副院長となる。


1894年
に再び上京して、北里柴三郎に師事。1896年に、浅川丹毒治療法と呼ばれる丹毒の治療法を開発。北里が新たに伝染病研究所を開いたときに助手となり、ジフテリア血清療法の研究に師事して大きく貢献した。また、血清薬院が創設されると、その製造を担当した。


1899年
4月に国立伝染病研究所部長となり、講習を担当して後輩を指導した。1900年にはビダール反応チフス菌診断に応用し、浅川診断液を製造他にも破傷風の毒素の作用を研究し、破傷風菌の毒素が神経中枢を侵すことを原因まで突き止めた。余暇に『實習細菌學』などを著し、1901年医学博士の学位を授かる。


1907年
1月10日に病気で死亡。北里は彼の業績を記念して浅川賞を設立した。

著書
・『虎列刺のむし』(大和田篤治・出版 1891年7月)[1]

・『實習細菌學』(1896年4月)[2]

・『実布垤里亜血清応用論』(細菌学雑誌社 1897年4月)[3]

参考文献
・東京経済雑誌社『日本人名辞書』1921年 この記述には、パブリックドメインの本書の翻案を含む。

志賀潔・著 田口文章編『細菌学を創ったひとびと ~大発見にまつわるエピソード』、2008年3月2日閲覧。

・田口文章『北里精神』、2002年3月22日。
(wikiより)

2251a

2251b



小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日1844年4月2日) - 1922年大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。

経歴
三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。


1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる[1]


1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。1868年(明治元年)箱館に向かい、同地において官軍と戦い負傷する。五稜郭を嬰守するに至りて事のなすべからざるを知り、江戸に護送され、岡崎で謹慎を命ぜられる[2]


1870年(明治3年)に上京、英学者乙骨太郎乙の学僕となる。大学南校で学び慶應義塾に転じるも、廃藩置県により藩費が途絶したため、1872年(明治5年)、九州の柳川英学校に英語教師として赴任する。同年中に岡崎に戻り英語塾を開いた。


1873年(明治6年)1月、横浜丸屋商店(丸善の前身)に入社。1877年(明治10年)3月、大阪支店の支配人となる。1892年(明治15年)7月、東京支社に転ずる。


1900年(明治33年)2月、丸善取締役社長に就任。1916年(大正5年)まで同社の社長を務めた。また、大日本図書株式会社の重役や東京書籍の監査役にも就いている。 1922年(大正11年)6月21日、死去。78歳没。

1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[3]

人物
・1882年(明治15年)8月、最初の新体詩集とされる『新体詩抄』が丸屋善七(現・丸善)から刊行された。同書の刊行は、著者の一人外山正一から恩を受けていた小柳津の快諾により実現したという[1]


・丸善社長時代、小柳津は洋書の輸入販売に力を入れ、内外に信用を得て「洋書の丸善」の基礎を確立した。その実績は海外にも知られ、当時イギリスで出版された『世界実業家人名録』にも名が載った[1]


・1912年(明治45年)8月5日、郷里岡崎で岡崎町立通俗図書館(現・岡崎市立中央図書館)が開館。創立当時の蔵書の多くは小柳津が寄贈したものであった[4][1]

脚注
1. a b c d 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、115頁、116頁。
2. 『八丁味噌を愛した著名人』~小柳津要人~ (PDF)”. カクキュー. 2018年12月14日閲覧。
3. 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、615頁
4. 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、94頁

参考文献
・『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、231-232頁。(近代デジタルライブラリー
(wikiより)


2252 小柳津要人

小柳津要人

2252a

2252b



狩野永眞立信

幕末・明治の画家。

中橋狩野家15世。

14世祐清邦信の養嗣子、木挽町狩野家6代伊川院の六男。

初名は信光、幼名は熊五郎、号は永悳・晴雪斎。

安政4年法眼に叙せられ、維新後は帝国博物館監査掛等を歴任、帝室技芸員となる。

明治24年(1891)歿、78才。

1641a

1641b



狩野英信・高信共に個別にお墓が有るのですが・・・

〇 狩野高信
「狩野高信」( 1740 ~ 1795 )

戒名・聽受院殿治部卿永徳法眼高信成文斎日意大居士 中橋狩野家 12代目。

1640a

1640b



狩野英信・高信共に個別にお墓が有るのですが・・・ 

〇 狩野英信
「狩野英信」( 1717 ~ 1763 )

戒名・如川院殿大蔵卿法印如滴斎祐清日淨大居士 中橋狩野家宗家
 
憲信の弟である。

中橋狩野家宗家五代目になり、後に法印となる。

1640a

1640b



狩野泰信 ( かのう ‐ やすのぶ )
( 1767 ‐ 1798 )

江戸時代後期の画家。

明和4年6月7日生まれ。

狩野高信の長男。

父の跡をうけて中橋狩野家を継ぐ。

寛政10年9月11日死去。32歳。

号は永賢。

1639a

1639b



狩野高信 ( かのう ‐ たかのぶ )
( 1740 ‐ 1795 )

江戸時代中期の画家。

元文5年9月19日生まれ。

狩野英信の長男。

父の跡をうけて中橋狩野家を継ぐ。

安永2年(1773)法眼(ほうげん)となった。

寛政6年12月29日死去。55歳。

号は永徳。

1638a

1638b



狩野英信 ( かのう ‐ ひでのぶ )
( 1717 ‐ 1763 )

江戸時代中期の画家。

享保(きょうほう)2年5月13日生まれ。

中橋狩野家の憲信(のりのぶ)の弟で、兄の子永羽にかわってその跡を継ぐ。

朝鮮への贈呈屏風や日光東照宮の装飾などを手がけた。

のち法印となった。

宝暦13年6月21日死去。47歳。

号は祐清。

1637a

1637b



狩野邦信 ( かのう ‐ くにのぶ )
( 1788 ‐ 1840 )

江戸時代後期の画家。

天明7年12月13日生まれ。

狩野探牧の次男。

中橋狩野家の泰信の養子となり、その跡を継ぐ。

朝鮮への贈呈屏風や江戸城西の丸の障壁画の制作などに参加。

天保(てんぽう)2年(1831)法眼(ほうげん)。

天保11年2月20日死去。54歳。

号は探芳、祐清。

1636a

1636b



狩野 安信(かのう やすのぶ、慶長18年12月1日1614年1月10日) - 貞享2年9月4日1685年10月1日))は江戸時代狩野派絵師である。幼名は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。狩野孝信の三男で、狩野探幽狩野尚信の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。

略歴
元和9年(1623年)危篤に陥った宗家当主の狩野貞信狩野光信の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『古画備考』所載で、安信の弟子・狩野昌運が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えば、ある時、三兄弟が老中から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が浅草観音堂天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる[1]


そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年(1655年普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品がある。寛文2年(1662年)には法眼に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年(1674年)の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。安信は晩年になっても、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け[2]、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている[3]。しかし、延宝6年(1678年)に息子の時信に先立たれてしまう。そのため、時信の子・永叔主信を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなった。菩提寺は本門寺。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。


弟子は、英一蝶狩野昌運狩野宗信松江藩に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、徳川光圀黒田綱政光子内親王森川許六ら19名が記されている。



画論『画道要訣』
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年(1680年)に弟子の狩野昌運に筆記させた『画道要訣』である[4]。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。

安信の作品と評価
安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っている。しかし、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の個性や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している。筆墨による繊細な表現が重要な水墨画を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない。一方、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる。


安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄二人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の近衛家熈は、尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。曰く、「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」[5]、「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」[6]


蘭方医杉田玄白も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、医学を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)[7]

詳しいことは、「狩野安信ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%AE%89%E4%BF%A1
(wikiより)

1634a

1634b



狩野孝信 ( かのう - たかのぶ )
生年:元亀2.11.25(1571.12.11)
没年:元和4.8.30(1618.10.18)

桃山時代の画家。

狩野永徳の次男として京都に生まれる。

名を右近、のちに右近将監という。

織田信長の家臣・佐々成政の娘を妻に迎えたと伝える。

兄・光信の没後は狩野派の中心となり、慶長18(1613)年の内裏造営では総帥として活躍し、この折描いた「賢聖障子」が仁和寺に伝わっており、基準作とされている。

近年各地で孝信作品が発掘され、それによると光信様式の華麗さに加え力強い筆法がみられ、探幽様式の基礎的な線質を準備した画家であったと思われる。

墓は京都妙覚寺にあり,法名を円大院孝信日養という。


狩野孝信の墓塔

この宝篋印塔(ほうきょういんとう)の反花(かえりばな)つき基礎正面に、「慈父円大院孝信日養霊」と刻まれている。

狩野孝信は、江戸時代初期著名な画家・狩野探幽(たんゆう)の父である。


また、本塔の北隣の石塔は孝信の子、尚信(なおのぶ)や甥貞信の墓塔である。


本塔は、当代第一流の巨匠、江戸鍛冶橋(かじばし)狩野家が構築したものと考えられる。


相輪(そうりん)や隅飾(すみかざ)りの精巧さ、各所に陽刻(ようこく)された文様の美しさなど、この完備した豊麗(ほうれい)さは、当時他に類例を見ない傑作といえよう。
(案内板より)

1632a

1632b

1632c



狩野 尚信(かのう なおのぶ、慶長12年10月6日1607年11月25日) - 慶安3年4月7日1650年5月7日))は江戸時代初期の狩野派絵師狩野孝信の次男で、狩野探幽の弟、狩野安信の兄。子に狩野常信がいる。通称は主馬、自適斎と号した。

略歴
慶長12年(1607年)京都に生まれる。元和元年(1623年徳川家光上洛の際、17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられた。元和4年(1618年)父・孝信が亡くなると、5歳年長の探幽は既に別家したため、尚信が父の跡を継ぐことになる。


兄探幽に続き、寛永7年(1630年江戸に召され、竹川町に屋敷を拝領し、幕府の御用絵師となる。同族の狩野甚之丞の娘と婚姻し、息子・常信が生まれる。探幽の画風を素早く習得し、二条城聖衆来迎寺知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した。


私生活においては、ふらりと京都に旅行に出て小堀遠州を訪ねたり、実際は病死したと伝えられるが、失踪して中国に行こうとした、あるいは魚釣りに出かけて溺死したという逸話が作られるなど、飄々と生きた趣味の自由人といった人柄を伝えている。


弟子は多くなかったとされ、子の常信を除くと、林作之丞信春、狩野徳入信吉、平戸松浦藩御用絵師・片山尚景の3名のみが挙げられている(『古画備考』)。

作風
探幽の画風に多くを学びつつも、そこから一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもち、次男という自由な立場故か、余白や構図にも探幽を超える大胆さを垣間見せる作品が残っている。大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した。近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化しようとする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたと伝えられる。ただし、尚信の代表作には障壁画以外に濃彩画が残っておらず、尚信は着色金碧画には余り興味を持たなかったとされる。


探幽の弟子・木村探元著の『三暁庵雑志』では、「探幽絵などとは違い、別て筆ずくなに書し画にて候」と評し、不出来な作品は破り捨てていたため寡作だったという。現存する尚信の作品は多くはないが、江戸時代には探幽と同程度の人気があった。反面、作品数は少ないため、しばしば贋作が作られるほどだった。

詳しいことは、「狩野尚信ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%B0%9A%E4%BF%A1
(wikiより)

1630   狩野主馬尚信
狩野主馬尚信

1630a

1630b



粟屋良之助 ( あわや - りょうのすけ )
( 1841 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保(てんぽう)12年生まれ。

近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)藩士。

京都で長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の岡村簣斎(きさい)に学ぶ。

のち脱藩し、尊攘(そんじょう)運動に加わる。

禁門の変に参加して、元治(げんじ)元年7月19日戦死した。24歳。

名は達道、良臣。号は訥庵。

1558a



小橋友之輔 ( こばし - とものすけ )
( 1846 ‐ 1864 )

幕末の武士。

弘化(こうか)3年生まれ。

小橋安蔵(やすぞう)の4男。

讃岐(さぬき)高松藩士。

文久3年(1863)父とともに天誅(てんちゅう)組に参加しようとして発覚、長門(ながと)(山口県)に逃れる。

禁門の変で京都に入った長州軍に加わり、元治(げんじ)元年7月19日戦死した。19歳。

名は以義。

1557a



津田愛之助 ( つだ - あいのすけ )
( 1847 ‐ 1864 )

幕末の武士。

弘化(こうか)4年生まれ。

対馬(つしま)(長崎県)府中藩士。

元治(げんじ)元年周防(すおう)(山口県)三田尻に行き七卿を護衛する。

萩(はぎ)藩の忠勇隊に加わって京都に行き、同年7月19日禁門の変で戦死した。18歳。

肥前基肄(きい)郡(佐賀県)出身。

名は政信。通称は別に積蔵。

1556a



青木与三郎 ( あおき - よさぶろう )
( 1836 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保(てんぽう)7年生まれ。

対馬(つしま)(長崎県)府中藩領の生地肥前養父(やぶ)郡(佐賀県)に住み、藩士となる。

文久4年1月脱藩して、長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士と交わり、禁門の変のとき萩藩士と共に京都に入り、元治(げんじ)元年7月19日戦死。29歳。

名は良晴。

1555a



内田弥三郎 ( うちだ - やさぶろう )
( 1841 ‐ 1864 )

幕末の尊攘(そんじょう)運動家。

天保(てんぽう)12年生まれ。

肥後(熊本県)玉名郡の医師の子。

松村大成に学ぶ。

薩摩(さつま)の有志と行動を共にしようと、文久2年竹志田熊雄と京都へ行く。

元治(げんじ)元年長州方に加わり、禁門の変で7月19日戦死した。24歳。

名は秀行。

1554a



中平 龍之助 ( なかひら - りょうのすけ )
( 1842 ~ 1864 ) 天保13年 ~ 元治元年


天保13年4月3日、高岡郡梼原村の地下浪人・中平佐平の長男として龍之助は生まれています。

名を定雄、定確。


龍之助は幼少の頃より梼原村で武術の道場を開いていた那須俊平の門人となり剣術修行をおこないます。

那須信吾は俊平の養子となり、道場にも出ており、龍之助は信吾と交流があったのだと思われます。

文久元年に土佐勤王党が結成されると信吾と共に勤王党に加盟しているのですが、現在残されている土佐勤王党の加盟者連判書には龍之助の名前はなく、何らかの理由、事情により削除されたようです。
 
その後勤皇活動に奔走しますが、文久3年9月に首領武市半平太が投獄され土佐勤王党の弾圧が始まると土佐藩内での活動の限界を感じた者や身の危険を感じた同志らは次々と脱藩しはじめ、龍之助も同志の安藤真之助、尾崎幸之進田所壮輔らと文久3年11月6日に土佐を脱藩して長州へ入ります。


先に土佐藩を脱藩した同志の松山深蔵が隊長を務める長州藩の浪士部隊忠勇隊に中岡慎太郎らと所属。

元治元年6月、前年の公武合体派らのクーデターにより都落ちしていた長州軍は京での復権を願い京都周辺に進軍して、赦免を嘆願するのですが、この時龍之助ら忠勇隊もこれに加わっていたのです。

そして入京を拒む薩摩藩ら幕府軍と衝突する事態となり、熱くなった長州軍は元治元年7月19日一斉に京市中へ進軍して戦闘が行われます。

龍之助も忠勇隊士としてこの禁門の変と呼ばれた戦闘に参加していましたが、重傷を負ってしまい、前関白・鷹司邸内で龍之助は自決しています。

1553a



中村恒次郎 ( なかむら - つねじろう )
( 1841 ‐ 1864)

幕末の武士。

天保(てんぽう)12年11月14日生まれ。

長兄・中村用六の養子。

筑前(ちくぜん)福岡藩士。

勤王の志を持ち、元治(げんじ)元年脱獄した次兄・円太のあとを追い、脱藩して周防(すおう)(山口県)に行き三条実美(さねとみ)に従う。

同年7月19日京都禁門の変で戦死。24歳。

名は無可。変名は野口逸麿。

1552a



原道太 ( はら - みちた )
( 1838 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保(てんぽう)9年生まれ。

筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くるめ)藩士。

真木和泉(いずみ)に師事し、尊攘(そんじょう)運動に加わる。

文久3年七卿(しちきょう)に随伴し、京都から周防(すおう)(山口県)三田尻に移る。

元治(げんじ)元年真木に従って京都へ行き、同年7月19日禁門の変で負傷、自刃(じじん)した。27歳。

名は盾雄。

1551a



↑このページのトップヘ