本牧Jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。

六角広道 ( ろっかく - ひろみち )    
? ~ 明治 37年 12月 15日 ( ? - 1904 )


江戸幕府の高家旗本六角家の幕末の当主。

藤原北家日野流。


公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする高家。

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六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 広島県能美島大柿町(現江田島市)生まれ。

略歴
1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現広島大学教育学部)卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京、東京美術学校(現東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授就任。岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際にも行動をともにし日本美術院の創立に参加。1904年(明治37年)、岡倉に随行して横山大観らとともに渡米。ボストン美術館東洋部、メトロポリタン美術館に勤務し東洋美術品の整理に従事した。その後欧米の日本美術を視察し1908年(明治41年)帰国。母校で後進の指導に当たりながら、正倉院宝物や楽浪漆器など幅広い古典技法の研究と応用作品を発表。1924年(大正13年)教授。1925年(大正14年)パリ万国博覧会受賞。1927年(昭和2年)帝展に工芸部が新設されると審査員、無鑑査として作品を発表、1930年(昭和5年)第11回帝展に出品した「暁天吼号之図漆器」が帝国美術院賞を受賞した。


中尊寺金色堂
厳島神社社殿の修復、古社寺文化財の調査、白漆の発明など、日本の漆工芸界の草分けとして大きな功績を残した。

その他   
キリンビールのラベルの麒麟の図案は、紫水のデザインとされる[注釈 1]

著書・参考書籍
1. キリンビール商品ブランドの歴史より

・「東洋漆工史」自著

・「考古学講座 漆工史」自著

・「漆の精 六角紫水伝」村野夏生著 構想社

関連項目
寺井直次

松田権六  

外部リンク
「“国宝”を創った男 六角紫水展」構成と見所 広島県立美術館 pdfファイル
(wikiより)


1611  六角紫水

六角紫水

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二代目・中村鶴蔵 ( なかむら - つるぞう )
天保 2年 ~ 明治 23年 ( 1831 - 1890 )


歌舞伎役者。

幼名、房二郎。姓、鶴岡。

初名、姉川鬼久蔵。


前名、中村雁八。

俳名、三口。


屋号、舞鶴屋。


父、江戸山谷団子店主鶴岡嘉助。


幼児より芝居を好み、大阪の姉川仲蔵に入門、姉川鬼久蔵を名乗る。


安政 3年 ( 1856 ) ころ江戸に移り、中村鶴蔵の門に入り、中村雁八と名乗る。


慶応 3年 ( 1867 ) 守田座「当九字成着長」に2代目中村鶴蔵を襲名。


明治 20年 ( 1887 ) 天覧劇「六歌山」の三味線で好評を得る。


明治 23年 ( 1890 ) 京都の祇園館に勤める。

東京に戻り、歌舞伎座「相馬平氏二代譚」が最後の舞台となる。60歳没。

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榊原 職直(さかきばら もとなお、天正14年(1586年) - 慶安元年9月1日1648年10月17日))は江戸時代初期の武士旗本。通称は半平、左衛門佐官位は従五位下飛騨守。兄に花房職則。子に職信(左衛門)、職員(八左衛門)。

生涯
天正14年(1586年)、宇喜多氏家臣・花房職之の次男として誕生。母は同じく宇喜多氏家臣・額田三河守の娘。

出家
池上本門寺となっていたが、徳川家康還俗を命じられ慶長元年(1596年)に家康に拝謁、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長4年(1599年)に榊原康政の養子となり、以後「榊原職直」と名乗るようになった。康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される。


慶長19年(1614年)の大坂の陣には父の職之・兄の職則と共に出陣。 職直はのちに兄の職則により、花房家8220石の内から1千石の分与を受け、旗本として独立して取り立てられた。寛永2年(1625年)、1800石を知行し御徒頭となる。寛永9年(1632年)には御書院番頭となり、従五位下飛騨守となった。寛永10年(1633年)、2500石に加増。


寛永
11年(1634年)に長崎奉行に就任。江戸幕府が推進していたキリシタンの弾圧を更に推し進めた。長崎奉行時代に行われた幕府の政策として、唐貿易の許可を長崎のみと限定、日本人の外国渡航の禁止、長崎近在の混血児287人を海外に追放、ポルトガル人出島に移す、などがある。一方、諏訪神社の祭礼(現在の長崎くんち)を始めるなど長崎町人の懐柔を勧めた。


寛永15年(1638年)の島原の乱において職直は、鍋島勝茂軍監を勤めていた。5月、鍋島軍が抜け駆けを行ったの際、職直の子の職信が同時に抜け駆けを行った。職信は城内に突入する戦功を挙げたが、これは軍令違反であるため親子はただちに咎を受けた。同年6月29日に長崎奉行を免職、更に閉門の処分を受けてしまう。その後許され、寛永19年(1642年)には御先鉄砲頭、正保3年(1646年)に近江国水口城(水口御茶屋)城番を務める。


慶安元年(1648年)死去。墓所は東京上野の谷中天王寺墓地。「通性院殿前従五位下道空日華居士」。


子孫は幕府旗本として存続した。幕末剣豪榊原鍵吉東京女子医科大学の教授の榊原仟は、職直の後裔である[1]

脚注
1. 『姓氏』(樋口清之丹羽基二秋田書店1970年)より。
(wikiより)

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長谷川まつ子 ( はせがわ - まつこ )
嘉永 3年 ? ~ 大正 3年 12月 14日 ( 1850? - 1914 )


箱根塔ノ沢温泉「福住楼」の初代女将。

沢村高俊の妻 ( ? )。


塔ノ沢温泉にあった旅館「塔ノ沢福住」を沢村高俊が購入、明治 23年 ( 1890 ) に「福住楼」を創業。

一時大洪水のため旅館が流失したが、近くの旅館「洗心楼玉の湯」を手に入れ「福住楼」の営業を再開。


常連客として、下記の人々がいたという。

福沢諭吉・夏日漱石・島崎藤村・巌谷小波・武島羽衣・大佛次郎・川端康成・里見弴・吉川英治・林芙美子・田村泰次郎・北條秀司・川合玉堂・平福百穂・日下部鳴鶴・中村蘭台 ( 2世 )・坂東妻三郎など。

65歳没。「松泉院慈舟妙安大姉」。

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沢村高俊 ( さわむら - たかとし ) / 沢村南洞 

天保 7年 ~ 明治 44年 3月 20日 ( 1836 - 1911 )


熊本藩士。

76歳没。

正面「南洞沢村高俊之墓」。「性海院仁岳高俊居士」。

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足立 寛(あだち かん、1842年6月14日天保13年5月6日) - 1917年大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師医学者日本陸軍軍医陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。

経歴
遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵適塾福沢諭吉書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。


1917年7月7日、胆嚢炎のため死去。戒名は白楽山院殿静寿実得大居士[1]

栄典
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[2]

1891年(明治24年)12月28日 - 従五位[3]

脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)14頁
2. 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
3. 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。

参考文献
・『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月。(近代デジタルライブラリー

(wikiより)


1603  足立寛

足立 寛

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酒井 忠匡(さかい ただまさ)は、出羽松山藩8代で最後の藩主。左衛門尉酒井家分家8代。7代藩主・酒井忠良の三男。


安政
3年(1856年12月19日生まれ。明治元年(1868年12月、父が戊辰戦争幕府側に与したために強制隠居処分となったため、家督を継いだ。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。このとき、松山を松嶺と改名した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官される。明治17年(1884年華族に列して子爵となる。


明治44年(1911年4月30日、56歳で死去した。
(wikiより)

1602  酒井忠匡

酒井忠匡

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戸塚 静海(とつか せいかい、寛政11年(1799年) - 明治9年(1876年1月29日)は、幕末蘭方医。幕府奥医師。名は維泰。

生涯・人物
寛政11年(1799年)、遠江国掛川宿の医師・戸塚隆珀の三男として生まれる。長崎鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。シーボルト事件に連座。安政5年(1858年)、大槻俊斎伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。同年7月3日、将軍・徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼に叙せらる。


文久
2年(1862年)12月16日、竹内玄同とともに法印に昇叙、静春院と号す。将軍・徳川家茂の没後、和宮が静寛院宮と称したため、「静」の字を避けて杏春院と改名。明治9年(1876年)に没。谷中霊園に葬る。養子・戸塚文海は海軍軍医総監

伊東玄朴・坪井信道とともに、江戸の三大蘭方医と呼ばれた。
(wikiより)

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大野松斎 ( おおの - しょうさい )
文政 2年 4月 17日 ~ 明治 21年 7月 17日 ( 1819 - 1888 )


種痘医。

父、大野与右衛門。

藩医斉藤氏既に師事。

秋田県出身。


4歳で父を亡くし、叔父庄司氏に育てられる。


はじめ久保田藩の藩医斎藤養達に医学を学ぶ。

のち京都で新宮涼庭に、江戸で坪井誠軒に師事。

のち、長崎でモンニッキに種痘法を学ぶ。


浅草に開業し種痘を施す。


皇后・親王・公爵・華族から平民にいたるまで貴賎を問わず扱った。

種痘積善社社長。


嘉永年間から 40年間に亘り 23万人余りに種痘術を施す。


外出時には袂に焼きイモを入れて、子供らに与え種痘を施し広めたという。


70歳没。養子に大野恒徳がいる。

門人に秋田種痘医北島陳直・児玉弘愛がいる。

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日本の俳優。

女優の淡路恵子の三男。


1990年バイク事故死亡。

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〇 将門塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首 ( みしるし ) をお祀りしております。


平将門公は、承平天慶年間 ( 931 ~ 946 ) に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。


弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。


またこの地は神田明神創建の地でもあります。


毎年 9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また 5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。


将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。


現在、同保存会により大切に維持・神事が行われています。


〇 都旧跡 将門塚
平安時代、天慶の乱 ( ~ 940年 ) の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。


通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯籠は現地に保存されている。


嘉元年間 ( 1303 ~ 05 ) 遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。


故跡保存碑は明治三十九年五月建立されたもので、裏面の阪谷芳朗撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。


〇 将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子 将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した。

享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 
将門の首級は京都に送られ 獄門に架けられたが 三日後 白光を放って東方に飛び去り 武蔵国豊島郡芝崎に落ちた

大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという


村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ち この場所であり 将門の首塚と語り伝えられている


その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため 徳治二年時宗二祖真教上人は 将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し 塚前に板石塔婆を建てゝ日輪寺に供養し さらに傍の神田明神に、その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという


天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り 京都では藤原氏が政権をほしいまゝにして我世の春を謳歌していたが 遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ 下僚は収奪に民の膏血をしぼり 加えて洪水や旱魃が相続き 人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった


その為 これらの力の弱い多くの人々が 将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので 今もって 関東地方には数多くの伝説と 将門を祀る神社がある


このことは 将門が歴史上朝敵と呼ばれながら 実は郷土の勇士であったことを証明しているものである

また 天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に 弱きを助け 悪を挫く江戸っ子の気風となって その影響するところは社会的にも極めて大きい茲にその由来を塚前に記す


〇 将門首塚の碑
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍らに将門の首塚と称するものがあった。

現在塚の跡にある石塔婆 ( せきとうば ) は徳治二年 ( 1307 ) に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。


明治二年 ( 1869 ) より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣・阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
(案内板より)

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⇧ 正面から撮影したら・・・・ という事で。

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初代 三遊亭 圓遊嘉永3年5月28日1850年7月7日) - 明治40年(1907年11月26日)は明治時代に活躍した江戸小石川小日向出身の落語家である。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。

来歴・人物
江戸小石川小日向の紺屋「藤屋」竹内清五郎の長男として生まれる。12歳で別の紺屋に奉公に出て17歳で家業を継いだ。しかし19歳の時に病気がきっかけで家業に嫌気がさし、以前から芸事に興味を持っていたために初代三遊亭圓朝に弟子入り志願した。圓朝には弟子入りを断られるが、慶応4年(1868年)ころ、2代目五明楼玉輔に入門し、(雀家?)志う雀を名乗る。このころ新宿で一六の名で太鼓持ちをしていた時期もあるという。明治3年(1870年)、師匠が廃業したため(後に復帰)、明治5年(1872年)ころに改めて夢であった初代三遊亭圓朝門下に移り、圓遊に改名。明治13年(1880年)4月、日本橋の伊勢本で真打の昇進披露を行った。以降門弟も増え三遊派の看板で圓朝、4代目圓生、4代目桂文楽に次ぐ位置にまで活躍。三遊派では圓朝を社長、4代目圓生を頭取に副頭取を務めた。圓朝没後は三遊亭一門で確執もあり上方にも活動を広げ初代笑福亭福松の没後衰退していた三友派の看板としても活躍。日露戦争前後には不景気も重なり寄席の不入りが続き圓遊の人気も落ちその後中風で病み不遇であったが亡くなる1か月前まで高座に上がった。


大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」ともよく呼ばれていた。寄席において、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸が「ステテコ踊り」の異名を得、このために「ステテコの圓遊」の名で呼ばれるようになった[1]。また古典落語を明治風に改作して演じた。明治時代の落語界において中心人物であった。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたという伝説がある。


辞世の句は「散りぎわも 賑やかであれ 江戸の花(鼻)」。墓所は谷中霊園天王寺墓地。戒名は「唱行院圓遊日悟居士」。


人気ゆえに多くのSPレコードも残している。

弟子
初代圓遊は弟子の数も非常に多かった。

初代三遊亭遊三

初代三遊亭小圓遊

・2代目三遊亭圓遊(三遊亭左圓遊から、2代目小圓遊を経て襲名)

三遊亭一圓遊(後に大阪で圓遊を名乗る)

橘家圓六(橋本林蔵)

三遊亭遊林(森彦太郎)

三遊亭清遊

初代三遊亭遊輔

3代目三遊亭圓橘

三遊亭福圓遊

三遊亭遊朝(お茶兼の遊朝)

三遊亭花圓遊

三遊亭花遊

・三遊亭花遊(後の柳の小枝

3代目人情亭錦紅(元:三遊亭遊鶴)

8代目司馬龍生

三遊亭大漁

三遊亭遊寿

三遊亭遊楽


など。3代目春風亭柳朝(「初音屋」)や5代目立川ぜん馬(本名:鳥井兼吉)も一時期圓遊の門下だったことがある。


実の息子(本名:竹内 孝太郎)は15歳頃落語家として父の下に入門し三遊亭清遊を名乗っている。一時期小圓遊を名乗っていたが、技芸未熟のため取り上げられたという説もある。その後日本舞踊若柳流を興した若柳寿童の弟子となり、2世宗家家元・若柳吉蔵と名乗った。

三遊亭圓遊を扱った作品

舞台『すててこてこてこ』
吉永仁郎作。1977年発表、1982年初演[2]。明治の大名人三遊亭円朝と、弟子の「珍芸ステテコ」の三遊亭円遊、時代の流れと二人の関係を描く。


1982年1984年劇団民藝[3] 三遊亭圓朝:大滝秀治 三遊亭圓遊:梅野泰靖 演出:渡辺浩子

1997年蝉の会) 三遊亭圓朝:名古屋章 三遊亭圓遊:風間杜夫 [4] 演出:渡辺浩子

2015年可児市文化創造センター×文学座[5] 三遊亭圓朝:坂部文昭[6] 三遊亭圓遊:千葉哲也  演出:西川信廣 落語指導:三遊亭遊之介 
(wikiより)

1591  初代・三遊亭円遊

初代・三遊亭円遊

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芳野 金陵(よしの きんりょう、享和2年12月20日1803年1月13日) - 明治11年(1878年8月5日)は、江戸時代後期の儒者。名は成育。字は叔果。通称愿三郎、のち立蔵。金陵のほか匏宇と号す。

生涯
下総国葛飾郡松ケ崎村(現:千葉県柏市)の儒医の次男として、小浮気村(現:千葉県成田市)にある母の実家で生まれる。父に句読を学び、22歳の時から亀田綾瀬に師事する。文政9年(1826年)から浅草福井町(現:東京都台東区浅草橋1・2丁目)に私塾逢原堂を開く。その門人帳「執贄録」「登門録」に記載された幕末の入門者は、1400人に上った[1]


弘化
4年(1847年)8月に駿河田中藩主・本多正寛の招聘に応じ、儒員となる。ペリー来航に際し、老中久世広周に国防策を建議し、以後は諮問を受ける。また藩財政の改革と文教の刷新に努める。文久2年(1862年)12月に幕府に召され、御儒者となる。昌平黌の学制改革を建議したが、これは実現に至らなかった。


明治元年(1868年)12月より昌平学校教授となるが、明治3年(1870年)に廃校した後は大塚に引退し77歳で没する。墓は千葉県柏市松ケ崎の覚王寺と東京都台東区谷中天王寺の墓地にある。


当時の儒者の中では、安井息軒藤田東湖と親しく、門弟に小澤酔園近藤南洲信夫恕軒がいる。

家族
・長女:菅子(1837-1915)。福井藩奥向きに仕え「年寄」に進んで、藩主松平茂昭との間に継嗣康荘を生んだ。

・三男:桜陰(1844-72)。出奔して天狗党の乱に参加。

・四男:世経(1849-1927)。私立「逢原学校」を開校するかたわら、東京府会議員、衆議院議員、東京市会議員などを歴任[2]

脚注
1. 『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.38
2. 『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.44

著作
・『金陵詩抄』

金陵文抄 : 譚故書余. 乾之巻(国立国会図書館デジタルコレクション)

金陵遺稿. 1,2(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献
・渡辺政輿『金陵先生行実』(『金陵遺稿』10)

松下忠『江戸時代の詩風詩論』(明治書院、1969年)

亀山聿三・編『芳野金陵先生碑文集』(夢硯堂、1972年)

・二松学舎大学・柏市教育委員会共催『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』二松学舎大学附属図書館、2015年10月。
(wikiより)



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芳野櫻陰 ( よしの - おういん )
弘化元年 ~ 明治 5年 9月 10日 ( 1844 - 1872 )


駿河田中藩儒者。

名、世行。通称、新一郎。

父、芳野金陵 ( 6男 )。


18歳で日知館教授。


安井息軒・塩谷宕陰について経学を学び昌平校助教となる。


元治元年 ( 1864 ) 水戸藩で天狗党の乱が起こると参加しようとするが囚われる。


出獄後は鋸山のふもとで蟄居する。


維新の際は親兵に参加し京都を守護する。

のち、新政府に出仕したが辞して、東京大塚に移住し耕読自楽に過ごした。


29歳没。明治 36年 ( 1903 ) 贈従五位。


弟に衆議院議員芳野世経 ( よしの - せいけい:1849 - 1927 ) がいる。

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大野 右仲(おおの うちゅう、天保7年12月8日1837年1月14日) - 明治44年(1911年6月11日)は、幕末期の唐津藩士、新選組隊士。

生涯
唐津藩大野勘助の長男に生まれ、安政3年(1856年)、21歳より昌平坂学問所で学ぶ。


戊辰戦争
が勃発すると、小笠原長行に従って会津へ入る。5月始めごろには、旧友の越後長岡藩筆頭家老・河井継之助のもとに居り、長岡藩が中立堅持の末に小千谷談判の決裂により新政府軍との開戦に至る現場に居合わせた(『史談会速記録』)。療養中の土方歳三を訪ねて戦況を調査した後、仙台で新選組に入隊(頭取)。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。箱館政権(蝦夷共和国)下では、陸軍奉行並に就任した土方直属の部下(陸軍奉行並添役)となり、二股口の戦いから、箱館総攻撃に至るまで補佐役を務めた。


降伏後、新政府に出仕。明治4年久美浜県権参事豊岡県権参事。ほか、千葉、長野、青森各県の要職を歴任する。また箱館戦争の記録(『函館戦記』)を書き残す。


明治44年(1911年)、死去。享年76。

土方歳三の戦死
著書『函館戦記』によれば、大野は明治2年(1869年)5月11日、千代ヶ岡陣屋で箱館市中に向かう土方歳三と合流し、共に一本木関門へ向かった。箱館港において旧幕府軍蟠竜丸が新政府軍朝陽丸を轟沈させたため、土方に命じられて弁天台場方面へ進撃。敗走する兵が続出していたが、大野は「奉行(土方)が、敗走兵を必ず関門で食い止めてくれる」と信じていたという。しかし、敗走兵が留まる様子が無いことに驚き千代ヶ岡陣屋へ引き返したところ、同役の大島寅雄安富才助らから土方の戦死を知らされた。なお、土方を訪ねて五稜郭へ来た相馬主計に土方の死を伝えたともいわれている。また、大野は弁天台場で新選組隊士らと共に降伏したとされるが、異論もある。

外部リンク
唐津の八偉人/唐津市
(wikiより)


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八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年明治15年)5月15日 - 1966年昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。

略歴
実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ[1]。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという[1]1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する[1]1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。その後、初代中村吉右衛門一座に加わり脇役を勤める。1943年(昭和18年)歌舞伎座『毒茶の丹助』の丹助役で、八代目市川團蔵を襲名。


『松浦の太鼓』の宝井其角、『石切梶原』の六郎太夫、『河内山』の高木小左衛門など、地味ながらも堅実な演技で舞台を支えた。1965年に勲五等双光旭日章を受勲、1966年には第16回芸術選奨を受賞し、賞金と日本俳優協会から贈られた報奨金に自分の金を足して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄付した[2][1]


また、父七代目市川團蔵についての著書『七世市川團蔵』(石原求龍堂、1942)[3]を著し歌舞伎研究に業績を残した。孫九代目市川團蔵には『書写山』の鬼若の型を伝えた。長男は舞踊家の三世柏木衛門で、その子が九代目団蔵。また甥にのちに養子に迎えた五代目市川九蔵がいる。

引退及びその死
1966年(昭和41年)4月に歌舞伎座で引退興行を行ない、『菊畑』の鬼一と『助六』の意休役を演ずる。直後に20年来の夢だった四国巡礼に出かけ、巡礼を終えたあと、小豆島に宿泊し、その帰途、大阪行きの船上で消息を絶つ[2]。船室には、市川のネーム入りの紺の背広上着、中折れ帽、レインコート、懐中時計、文庫本などのほか、「この金を費用にあててください」のメモのついた財布があり、播磨灘に身を投げ自殺したと推測された[2]。遺体は上がっていない[4]。東京には、30年連れ添った60代の妻・宏子、養女にした妻の姪一家、息子の敏雄一家、孫、ひ孫があり、小豆島滞在中に「探さないでくれ」といった遺書を思わせる手紙などが妻宛に送られていた[1]


辞世は「我死なば 香典うけな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」。墓所は谷中霊園戒名は「巌生院釈玲空」。


團蔵の死について三島由紀夫は、「団蔵の死は、強烈、壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評であつた。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世間から思はれてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭けた批評である」[5]と、團蔵を追悼し、その死の意味を考察した論評を書いた。

網野菊は追悼の中篇エッセイ「一期一会」を同年の『群像』11月号に掲載(のちに講談社文芸文庫『一期一会』に収録)[6]。同作は読売文学賞を受賞した。


また、戸板康二は、團蔵の死の旅を後をたどった中篇「団蔵入水」を『小説現代』1971年10月号に発表している(講談社から『団蔵入水』として単行本が刊行)[7]

脚注
1. a b c d e 『一期一会』網野菊
2. a b c 市川団蔵 ―遍路道が最後の花道愛媛県生涯学習センター
3. 七世市川団蔵国立国会図書館デジタルコレクション
4. 永六輔『遠くへ行きたい』p.205(文芸春秋、1972年)。
5. 三島由紀夫『団蔵・芸道・再軍備』(20世紀、1966年9月)。『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)に所収。
6. 濱田研吾『脇役本』(ちくま文庫)P.176
7. 濱田研吾『脇役本』(ちくま文庫)P.177
(wikiより)


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六代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、寛政12年〈1800年〉 - 明治4年10月22日1871年12月4日〉)とは、江戸時代歌舞伎役者。屋号三河屋定紋縦長三升、替紋は結び柏。俳名は三猿、團猿、雅号に市紅庵、松秀舎。

父は四代目市川團蔵の門弟初代市川荒五郎。江戸に生まれ、文化2年(1805年)市川昭世と名乗って初舞台を踏む。文化10年 、七代目市川團十郎の門下に加わり市川三蔵と改名。文化13年には初代市川茂々太郎と改名、この間に子供芝居に出る。上方や九州の舞台にも立ち、天保2年(1831年)、大坂で初代市川白蔵と改名。天保5年、江戸に帰って二代目市川九蔵を襲名する。その後は江戸と上方を往復しながら舞台を務める。嘉永5年8月(1852年)、五代目市川團蔵の未亡人の養子となり、同年10月大坂角の芝居『金烏玉兎倭入船』で六代目市川團蔵を襲名した。


体格は小柄ではあったがいろいろな役をこなした。しかし芸風は地味で人気は上がらなかったという。一方、初代團蔵と二代目團蔵が得意とした演目を「古劇八種」というお家芸にまとめている。養子に七代目市川團蔵がいる。墓所は谷中墓地にある。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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七代目 市川 團藏(いちかわ だんぞう、新字体:団蔵、1836年5月5日天保7年3月20日) - 1911年明治44年)9月11日[1]は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号三河屋定紋縦長三升、替紋は結び柏。俳名に三猿・市紅、雅号に市紅庵がある。現在の團蔵の型を作った。

人物
江戸生まれ、父は料理人の丸屋伊三郎。天保10年(1839年)二代目市川九蔵の養子となり市川銀蔵を名乗る。のち二代目市川茂々太郎を襲名。弘化4年(1847年)2月二代目市川白蔵を襲名。安政元年(1854年)三代目市川九蔵を襲名。この間養父と友に江戸上方の舞台に立つ。九蔵襲名後は江戸に拠点を構え、名人と呼ばれた四代目市川小團次に師事、後々にまで大きな影響を受ける。明治以降は九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎と並ぶ技量を持ちながらも両優と衝突し、小芝居や旅回りの舞台に勤め不遇な時期を送る。だが、才能を惜しんだ興行師田村成義の斡旋で團十郎と和解。明治30年 (1897年)6月明治座『弓張月源家鏑矢』で七代目市川團蔵を襲名。ようやく真価が認められ團十郎・菊五郎とならぶ名優と評された。晩年に歌舞伎座でつとめた『伽羅先代萩』(先代萩)の仁木弾正は名演と評された。


しわがれ声と鋭い目つきが特色で、当り役は、仁木弾正のほか、小團次直伝の『東山桜荘子』(佐倉義民伝)の宗吾・光然、『時今也桔梗旗揚』(馬盥の光秀)の武智光秀、『仮名手本忠臣蔵』(忠臣蔵)の師直・勘平、『東海道四谷怪談』(四谷怪談)の直助権兵衛、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸、『楼門五三桐』(山門)の石川五右衛門など。娟介な性格で周囲との衝突は絶えなかったが、芸熱心で、敵対していた團十郎もその点は高く評価していた。團蔵の仁木に團十郎が男之助で舞台を共にした時、團十郎の政岡と勝元は素晴らしかったとの賛辞に対して、「否々、今度のは全く仁木の客で厶ります。私も久し振りに本当の仁木を見ました」と團十郎は答えている。

義経千本桜』の知盛では、目に紅をつけて血走った様を表し、目を悪くしても止めなかった。『先代萩』仁木では通常は仁木の役の型を完成した五代目松本幸四郎に敬意を表して眉尻にホクロをつけるのを、「幸四郎を見せるのではなく仁木を見せるんだ」と決してホクロをつけなかった。その仁木が花道スッポンからせり上がるとき、額に紅を一滴たらし反身になって出、前を向くと額から紅がたらりと流れて、凄みをみせたという。『馬盥』の光秀では、主君から辱めを受け鉄扇で打たれたとき、額から血を流しながら大きな眼で無念の形相を見せ、反逆児の内面を見事にあらわした。


明治を代表する劇評家の三木竹二は「…頬骨張りし面いかにも一癖あるべく見え、口を結びて折々じろりじろりと上眼に見廻す眼中物凄く、(中略)ねちりねちりと咳枯聲にて言伏する呼吸、また一種の妙味あり。大岡を尻目に見て冷笑ひ、後へ引き下がり少し反身になりての引つ込みいへぬいへぬ」と評した[2]

七代目は團蔵型とよばれる独自の型を作り上げ、観客の支持を受けた。新聞の訃報には「劇界稀に見る娟介の優、技藝以外、何ものにも屈する所」がなかったと賛辞を送っている。墓は東京都台東区谷中天王寺墓地にある[3]


実子は八代目市川團蔵。八代目は『七世市川團蔵』(求龍堂、1943)を著して仔細に七代目の芸を分析している。

脚注
1. 日本人名大辞典(講談社)
2. 三木竹二 「明治25年1月新富座『天一坊大岡政談』伊賀亮役」『観劇偶評』 渡辺保(編)、岩波書店〈岩波文庫〉、平成16年(2004年)6月。ISBN 4-00-311731-X
3. 国史大辞典(吉川弘文館)
(wikiより)


1592  七代目・市川団蔵

七代目・市川団蔵

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伊達孝子:「清照院殿心月慈孝大姉」。

孝子は、伊達宗彰墓に合祀されている。

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伊達 宗彰(だて むねあき、1905年明治38年)3月6日[1] - 1969年昭和44年)11月29日[1])は、日本の華族政治家実業家貴族院侯爵議員


宇和島藩伊達家11代当主。伊達紀隆(ただたか、9代宗徳の三男)の三男。母は北条氏恭の娘・智子。養父は侯爵伊達宗陳。妻は松平慶民の娘・美智子。子に伊達宗礼(12代当主)、伊達宗忠葛城素子葛城茂敬夫人)、渡部順子渡部貞二夫人)。


13代当主は宗礼の子の伊達宗信(1971-)

経歴
初名は彰。1909年(明治42年)、伯父である伊達宗陳の養子となる。養父の死去に伴い1923年(大正12年)3月10日、家督を相続し侯爵を襲爵[1]。家督の相続にともない、1925年(大正14年)3月14日、名前を宗彰に改めた[2]。1927年(昭和2年)、東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。また、斎藤実内閣では、新居善太郎入間野武雄ら二人と共に、内閣総理大臣秘書官の一人として活躍した。1935年3月5日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任[3]火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任[4])。


その後、大蔵事務官、大蔵省広島財務局長などに就任した。


1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下の日はたまたま在局しておらず直撃の難を逃れ、直後に庁舎(財務局は、堅牢建物ということで、袋町の日銀に疎開していた)に駆けつけて職員の救護にあたった。この時、外傷の少ない元気な者を指揮してさまざまな活動(負傷者の看護・移送、遺体の移送火葬など)を行なったが、元気に見えた者が突然鼻血を出して死んでいくのを見て、後年「原爆のことをよく知らなかった。気の毒なことをした」ということを書き残している。昭和42年、この時の部下の手記を集めた「原爆の記」を自費出版したが、これは部数も少なかったため、生き残った旧部下らが昭和55年に新しい手記と伊達局長の思い出の記を加えて再販した。(「広島財務局原爆被災者の記録 原爆の記」庭山慶一郎編 財団法人大蔵財務協会刊)。


1957年に日本不動産銀行常務取締役、1964年に清水建設相談役などに就任した。1949年には宇和島城宇和島市に寄付している。64歳で没すると、家督は嫡男・宗禮が継いだ。

栄典
1937年(昭和12年)5月1日 - 正四位[5]

脚注
1. a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、59-61頁。
2. 『官報』第3770号、大正14年3月19日。
3. 『官報』第2451号、昭和10年3月7日。
4. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』18頁。
5. 『官報』第3101号「叙任及辞令」1937年5月8日。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)

1588  伊達宗彰

伊達宗彰

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伊達納子:「貞芳院殿惠光慈照大姉」。

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相葉 健 ( あいば - たけし )     
明治 26年 1月 8日 ~ 昭和 54年 12月 20日 ( 1893 - 1979 )

陸軍少将。


大正 2年 ( 1913 ) 5月陸軍士官学校卒業。
同年 12月陸軍歩兵少尉。


昭和 14年 ( 1939 ) 3月陸軍歩兵大佐。
同年 8月 ( - 1942. 9 ) 歩兵第 19聯隊長。


昭和 17年 ( 1942 ) 9月南方軍幹部候補生隊長。
同年 10月第 53師団司令部附。


昭和 19年 ( 1944 ) 1月第 3警備司令官。


昭和 20年 ( 1945 ) 6月独立混成第 115旅団長。
同年 6月陸軍少将。

従四位勲三等。

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男谷 信友(おたに のぶとも、寛政10年1月1日1798年2月4日) - 元治元年7月16日1864年8月17日))は、幕末幕臣剣術家直心影流男谷派を名乗った。その実力の高さと温厚な人格から、「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。官位従五位下下総守。通称精一郎は静斎、蘭斎。幼名は新太郎。門下から島田虎之助榊原鍵吉などの名剣士が輩出した。

人物
生い立ち

寛政10年(1798年)、男谷検校(米山検校)の孫・男谷信連(新次郎)の子として生まれる(文化7年(1810年)誕生説もある)。20歳の時に同族(従叔父)の男谷思孝(彦四郎、忠果)の婿養子となる。彦四郎も男谷検校の孫であった。


検校は元々越後国三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)の貧農の出で盲人であったが、雪の夜に奥医師石坂宗哲の門前で行き倒れていた所を助けられた。宗哲から12分の資金を借りて生業を始めた所、利財の才に長け、江戸府内17箇所の地主となり検校の位を買い、大名貸も行うほどになった。

検校の末子平蔵(忠凞)は、安永5年(1776年)に江戸幕府の西丸持筒与力御家人)となり(父に御家人株を買い与えられたという)、後に勘定に昇進し旗本となった。平蔵の長子が彦四郎で、三男が左衛門太郎(小吉)惟寅勝海舟の父である。したがって、信友と勝海舟は血縁では又従兄弟、系図上では従兄弟の間柄になる。

信友は文化2年(1805年)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵兵法を師事、他に宝蔵院流槍術吉田流射術にも熟達した。文政6年(1824年)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。

剣術界を改革
従来の剣術各流派の多くは、主に形稽古を行い、他流試合を禁じていた。直心影流も同様で、やむをえず立ち合うときは、「怪我をしても文句は言わない」旨の誓約書を相手に書かせた上、防具を使わず木刀で立ち合っていた。しかし、松平定信の武芸奨励策以来、他流試合が行われるようになり、信友はこれを積極的に実践して広めた。


見栄えや形式を重んじるあまり沈滞した剣術界を立て直すため、竹刀試合を奨励し、信友自身も申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどであった。試合は、どんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせるが、いかに強敵でも「花」の一本より勝ちを取ることができず、底知れぬ実力と評された。天保から弘化にかけての一時期、島田虎之助大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われた。その信友も、大石進との試合で初戦は勝ったものの、再戦では大石得意の左片手突きをかわすことができなかったという。


水野忠邦時代からの度重なる建議が認められ、安政3年(1856年)、幕臣の武芸訓練機関である講武所が発足した。信友は兵学の重鎮であった窪田清音らと講武所の頭取並に就任し、門下からも榊原鍵吉などが剣術の師範役に就いた。講武所の剣術稽古は信友の方針により、形稽古を廃し、竹刀試合を主とした稽古が激しく行なわれた。また、信友はそれまでまちまちであった竹刀の全長を38と定めた。これらの規定は明治以降の剣術に受け継がれ、現代の剣道に大きな影響を与えた。

人格
・あまりの強さに異常と評されるほど腕が立つが、決して傲慢な態度をとらない温厚な人格者としても知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、「君子の剣」と称された。酒を好んだが、酩酊しても平生に変わるところがなく、翌朝はいつもの時間に違わずに起き、掃除をするのが常であった[1]


諸葛孔明楠木正成を崇拝していた。妻を失ったのちも、楠木にならい、他の女性をめとることはなかった[1]


・「剣客として古今罕覯(かんこう)の技倆(ぎりょう)があったのみならず、頗(すこぶ)る明皙(めいせき)な頭脳の所有者であった」といわれている。(日本剣道史)[要文献特定詳細情報]


・体格はどちらかというと小さい方で、小肥りの温公柔和の人だと『日本剣道史』に書かれている。[要文献特定詳細情報]


経歴
文化2年(1805年)、本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門。


文政6年(1824年)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。


・文政12年(1830年)、男谷彦四郎の養子となる。


天保2年(1833年)、書院番に昇進。


嘉永2年(1849年)、御本丸徒士頭となる。


安政3年(1856年)、講武所が開設され、講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。また師・団野の死により、亀沢町の道場を譲られ、同5年(1858年)に移る。


文久2年(1862年)、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000を与えられた。


・文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねる。


・元治元年(1864年)7月16日、67歳で没。文化7年生まれとの説では享年55となる。深川増林寺に葬られたとされる。


平成15年(2003年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される。

男谷信友を題材にした作品
漫画
横山光輝『竜車の剣』

脚注
1. a b 戸部新十郎『日本剣豪譚 幕末編』124-125頁、光文社

参考文献
綿谷雪『日本剣豪100選』、秋田書店

戸部新十郎『日本剣豪譚 幕末編』、光文社

・勝海舟編「陸軍歴史」(海舟全集7)

・安藤直方「講武所」(東京市史外篇3)

山田次朗吉「剣道集義」(高山書店)

山田次郎吉『日本剣道史』

石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版

・榎本鐘司「幕末剣術の変質過程に関する研究 とくに窪田清音・男谷信友関係資料」(武道学研究)

・「徳川家と江戸時代 尚武の時代 寛永剣術事情」(歴史群像編集部)

大森曹玄『剣と禅』十一章、君子の剣-静山・見山・海舟と、直心から人への系譜p.188
(wikiより)



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渡瀬淳子 ( わたせ - じゅんこ )     
明治 27年 12月 15日 ~ 昭和 5年 1月 2日 ( 1894 - 1930 )・・・1896説あり


芸術座女優。

大阪松竹養成所の 2期生。


島村抱月の芸術座に入団。

のちに沢田正二郎らとともに脱退。


大正 2年 ( 1913 ) 沢田正二郎と結婚し、正二郎の親友ら 11人で「新国劇」を結成。女優として活躍。


大正 13年 ( 1924 ) 離婚。

その後は、新劇で活躍。


没年間際には、銀座裏のジュンバーのマダムをしていた。37歳没。


 明治 45年 ( 1912 ) 3月セイレーンとオデュッセウスの船を表紙に画いた雑誌「シレエネ」が発行されたが、発行人の青木精一郎と共に挿画を描いている。

また、小説家宇野浩二の小説「恋愛合戦」のモデルといわれている。

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大上戸要次郎 ( おおじょうご - ようじろう ) / 吉野山要次郎    
明治 29年 1月 3日 ~ 昭和 31年 2月 6日 ( 1896 - 1956 )


関取。

本姓、清恵波。


富山県下新川郡 ( 黒部市 ) 出身。


最高位、前頭。

立浪部屋に入門。


幕内四股名吉野山。

幕内在位 29場所。


幕内成績 120勝 193敗 2預。

常の花から金星 3個を取る。


昭和 8年 ( 1933 ) 1月引退。


引退後、8代中川を襲名。


昭和 12年 ( 1937 ) 中川部屋を創設するも弟子に恵まれず、昭和 22年 ( 1947 ) 中川部屋を閉じ、立浪部屋に戻る。


監査役を務め、傍ら相撲茶屋「西川家」を経営。

61歳没。「実相院浪角巌導日要居士」


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那須資徳 ( なす - すけのり )     
寛文 12年 ~ 宝永 5年 6月 25日 ( 1672 - 1708 )


下野国烏山藩 2代藩主。

初名、政直。

通称、主殿・与一資徳。

那須家 5代当主・旗本


・父、弘前藩津軽信政 ( 三男 )。
・母、増山弾正少弼正利の娘。
・正室、花房正矩の娘。
・長男、那須資隣。


天和 3年 ( 1683 ) 那須資弥の養子となる。


12歳のとき将軍徳川綱吉に拝謁。


実子があるのに養子を後継ぎとしたことがバレて貞享 4年 ( 1687 ) 改易となる。


改易後は、屋敷・長屋・厩、さらには柳沢吉保への進物代まで津軽家の経済援助を受ける。


元禄 13年 ( 1700 ) 赦されお家再興がなり寄合旗本・小普請になる。


元禄 14年 ( 1701 ) 下野国那須郡内 1000石 ( のち3000石 ) を賜り、宝永元年 ( 1704 ) 那須家存続のため花房右近正矩の娘と結婚し、お初 ( 享保 7年歿:慈妙院 )・豊丸 ( 資隣 )・福原鉄之進 ( 早世 )・おてま ( 早世 ) を設ける。

のち子孫世世寄合に列する。


那須党の上座に列し、老中支配となる。37歳没。

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笹田黙介 ( ささだ - もくすけ )     
弘化 3年 7月 20日 ~ 大正 14年 6月 8日 ( 1846 - 1925 )


秩父「困民党」蜂起事件 ( 秩父事件 ) 時の埼玉県書記官。

山口県出身。


埼玉県 2代白根多助県令を補佐し、庶務・警察・監獄の行政事務を確立。

 
明治 15年 ( 1882 ) 者大埼玉県警部長。


明治 17年 ( 1884 ) 「秩父事件」の処理に当たる。

正五位勲五等。80歳没。


〇 秩父事件
秩父事件
(ちちぶじけん)は、1884年明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡農民政府に対して負債の延納、雑税[1]の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。隣接する群馬県長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。

事件の背景
江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。


国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年(明治6年)から1896年(明治29年)ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年(明治15年)のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、翌1883年(明治16年)にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。


埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。


当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。


1881年
(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件1883年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。


とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16年)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流を図り、同志的結合を強めていく傾向にあった。


そんな中、従来からの路線対立や、加波山事件の処理をめぐる紛糾などから1884年10月29日(秩父事件発生の2日前)、自由党は解党決議を可決するに至っていた(その後同党は1890年に再結成されるが、以後も解散・再結成・再編等を繰り返す。詳細は自由党 (日本 1890-1898)の項参照)。なお、秩父事件の指導部は蜂起時点ではこの自由党解党の情報を認知していなかったと考えられている。

概要
秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(文献により、秩父困民党・秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。


自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した。


しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。一部の急進派は長野県北相木村出身の自由党員で代言人菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町馬流駅付近)で高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。この事件で警察官5人が殉職した。


事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助加藤織平新井周三郎高岸善吉坂本宗作菊池貫平井上伝蔵の7名には死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。

詳しいことは「秩父事件ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)

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9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。


周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要なことから嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。またロセンが大きいことでも知られた。


稲荷町(現:台東区東上野)の長屋に住み、3代目柳家小さん門下だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分であり家も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠4代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。


得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸10代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」などである。

芸歴
東京日本橋小伝馬町の生まれ。

  ・実家は魚屋。


十思小学校を卒業。

1904年錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。

1915年橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵となる。

1918年12月、7代目翁家さん馬(のちの8代目桂文治)門下に移って翁家さん好と改名する。

・後に立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなる。

1921年

  ・大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。

    ・大阪時代は、その後の持ちネタとなる多くの噺を学び、また初代桂春團治に接し大きな影響をうけるなど彼自身にとって一つの転機となった。

  ・帰京。文治門下に復帰する。

・翌1922年11月、桂文七に改名するが、師匠文治との関係が悪化し止むなく小さん一門に移る。

1925年10月、真打昇進し柳家さん輔に改名。

1938年4月、前師匠文治の前名9代目翁家さん馬襲名。

・戦後は文化放送専属でラジオ寄席中継に出るようになり、その芸が認めらるようになる。

1960年4月、9代目桂文治襲名。

1972年3月、友人彦六、彦六の「天敵」と呼ばれた6代目三遊亭圓生とともに落語協会顧問就任。落語界最長老として活躍する。

1976年1月24日脳溢血に倒れる。

1978年3月8日死去。85歳没。墓所は谷中玉林寺。

奇想天外なクスグリ
「留さん文治」は、一見前師匠8代目文治を引き継いだ非常に怖そうな老大家のようだが、その芸風はひょうひょうとした軽い語り口の中に不思議な英語、微妙にアナクロな現代語を織り込んだものであった。そのため歴代の文治の流れからすると異色である感は否めないものの、寄席には絶対に欠かせない芸人であった。以下は「留さん文治」の名文句集である。


・「心中するのにサーベルもって行くやつがあるかい。バグダッドの盗賊じゃねぇんだぞ」(「小言幸兵衛」)


・「エデンの東のほうから来たんじゃねぇのかい」(「小言幸兵衛」)


・「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」(「大蔵次官」)


・「顔面にホワイトのペンキを塗り」(「大蔵次官」→10代目文治も使っていたクスグリ)


・「(ケネディ大統領が暗殺された話で)殺された場所がよくねぇ、テキサス州ってんでしょう。敵を刺すってんですからね。ダラスって町でしょ。だらすがない。殺したやつがオズワルドってので、自分の了見じゃねぇ、人におすわるとそういうことをする」


・「『悶え』っていう映画を観てると体が悶えてくる。あの映画に出てる若尾文子って女優がね。すけべったらしい目つきでね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんすよ」(「現代の穴」)

ドケチの逸話
落語界屈指の吝嗇家であり、師匠小さんの曾孫弟子7代目立川談志(自身もケチで有名であった)、彦六の弟子林家木久扇(芸人では珍しい節約家)をして賞賛せしめるほどの「ケチの文治」として有名で、数々の「ドケチ」の逸話を残す。


・寄席の席亭に「毎週、これこれの日は早く高座に上がらせて下さい」と要請。刺身好きな文治は、アメ横の魚屋の特売日に、早く高座を上がって帰りたかっためである。

  ・なお、買ってきた魚は、当時としては珍しい電気冷蔵庫に入れていた。しかし自分のではなく、隣に住む友人の彦六宅の冷蔵庫である。


・新聞は毎日、彦六宅で読んでいた。


・呼ばれたお座敷で出されたご馳走を腹一杯食べてから寄席に回ってきたが、食い過ぎで腹痛を起こして楽屋で七転八倒しだしたので、噺家仲間が「今日は休んで帰ったらどうですか? タクシー呼びますよ」と言うと、文治はいきなりしゃんとなり「いいえ地下鉄で帰ります」


  ・仕方がないので若い前座に荷物を持たせ、地下鉄の駅まで送ってやることになった。駅で別れ際に「取っておきなさい」と文治の渡した小さな包みを、前座が後で開いてみると、中身はタクシー代よりも多額のチップだった。「ドケチ」と言われてはいたが、単なる吝嗇家ではなかった。


・普段から大切な義理事への出費は惜しまず、むしろ他人よりも多く包むことを厭わなかったという。「美学のある吝嗇家」であった。

弟子
10代目翁家さん馬(文治の養子)

7代目桂才賀(文治没後は3代目古今亭志ん朝一門に移籍)
(wikiより)

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杉山 誠 ( すぎやま - まこと )     
明治 40年 5月 1日 ~ 昭和 43年 12月 30日 ( 1907 - 1968 )


演劇評論家。

杉山栄の養子。


岐阜県出身。

東京大学文学部卒業。


昭和のはじめ新関良三に師事し、演劇史を研究。


同人誌「劇と評論」に演劇批評を執筆。


日本大学芸術科講師。


陸軍中尉として支那事変に従軍。


尾上菊五郎劇団文芸部長。


昭和 22年 ( 1947 ) 俳優座入団。

のち付属養成所主事として 18年間新劇俳優の育成にかかわる。


昭和 29年共立女子大学教授、演劇論や演劇史を講じる。


また、演劇雑誌に欧米の新しい演劇運動の紹介をした。

 
晩年は、「毎日新聞」の劇評を執筆。

昭和 43年 ( 1968 ) 劇団民芸の忘年会で挨拶中に急逝した。

近代戯曲の翻訳:「イプセン」、「ストリンドベリ」、ハロルド ビンター「帰郷」など。61歳没。

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清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身の元大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。 5代伊勢ヶ濱

来歴
1893年11月1日秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。


1917年
5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。それでも清瀬川の繰り出す技は「業師」と愛称が付くほど俊敏かつ抜群の切れ味で、さらに土俵度胸の良さもあって上位陣、とりわけ栃木山守也常ノ花寛市大ノ里萬助などを苦しめたが、関脇まで昇進しても勝ち越せずに大関昇進は果たせなかった[1]


現役時代から内弟子を取り、熊ヶ谷部屋の後継者を争っていたが敗れたため、楯山部屋へ転属した。1929年1月場所9日目の関脇・玉錦三右エ門戦で、取組中に右目上を負傷して流血したが、行司・勝負検査役が共に流血を確認しても取組を中断させずに続けさせたことに不満を感じ、突如として引退届を提出した。しかし、日本相撲協会から熱心に慰留されたことで引退届を撤回し、次の同年9月場所まで出場して現役を引退した。


現役引退後は、年寄・伊勢ヶ濱(5代)を襲名し、幡瀬川邦七郎たちを引き連れて伊勢ヶ濱部屋を創設した。部屋では自身の現役時代と同じような技能派力士を多数育成した。特に同郷の後輩で遠縁でもある照國萬藏を横綱へ昇進させたことは、功績として数えられる。照國は清瀬川が師匠を務めていた頃の伊勢ヶ濱部屋について「ウチの部屋の力士といえば、みんな体が小さくて、四つ身になったら勝てるような力士がいなかった。だから、みんながうるさく、前さばきについては言われたでしょう。事実、これについてはそれこそ、寝ずに研究をしたものですよ」と語っている[2] 1953年1月場所が終わった後、同場所限りで現役を引退した照國萬藏へ部屋を譲り、自身は出羽海と共に日本相撲協会の相談役を務めたほか、1960年には、翌年1月に施行された停年制を前に勇退し、蔵前国技館で引退披露大相撲を開催した(年寄の引退相撲は史上初だった)。

1967年7月1日に死去、73歳没。

詳しいことは「清瀬川敬之助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E7%80%AC%E5%B7%9D%E6%95%AC%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

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安立綱之 ( あだち - つなゆき )    
安政 6年 ~ 昭和 13年 12月 2日 ( 1859 - 1938 )


第 15代警視総監・貴族院議員。

名、彦七。


父、旧鹿児島藩士国分市右衛門 ( 二男 )。

養父、第 2代福井県知事である安立利綱。

国分友諒の弟。鹿児島県出身。


明治 19年 ( 1886 ) 警視、以後愛媛・福岡・長崎各県警部長。

佐賀県書記官。


明治 33年 ( 1900 ) 再び警視となり、下谷警察署長。

警視総監官房主事。


明治 35年 ( 1902 ) 内務省警保局長、明治 36年 ( 1903 ) 第 15代警視総監。


明治 38年 ( 1905 ) 日露講和条約からみで多数の警察や派出所が焼かれた日比谷焼打事件の責任をとって辞任。


明治 42年 ( 1909 ) 貴族院議員。

正四位勲二等。80歳没。


〇 日比谷焼打事件
日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年9月5日東京市麹町区(現在の東京都千代田区日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本暴動事件。日比谷焼打ち事件[1]日比谷焼き打ち事件日比谷焼討事件日比谷焼き討ち事件といった表記揺れがある。

概要
1905年ポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社交番などが焼き討ちされる事件が起こった[2]。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。

原因
1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍ロシア海軍バルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介の下、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行われることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。  


相手は強大国・ロシアであり当時の日本には戦争を継続するだけの余力はすでになかった。しかしながら日本国内では政府の情報統制により連戦連勝報道がなされ、戦費を賄うために多額の増税・国債の増発もなされていた(戦費17億円は国家予算6年分。外債8億、内債・増税9億)。ロシアに戦争継続されれば日本は負ける可能性が高く、国民にその内情までも伝えればロシアにも情報が漏れる可能性があるため日本政府は機密にしていた。そのため国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると信じていた。


しかし、ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎8月29日樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。


この条件は、朝日新聞などの予想記事から国民が考えていた講話条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。


長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、9月3日大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「国務大臣閣僚)と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。

日比谷の暴動
9月5日東京日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。


しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、棍棒丸太で裏門からも襲われた。銀座からの群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった[3]


この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[4]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[5]


これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日日本政府戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き[6]、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである(戒厳令廃止は11月29日[7])。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。このうち裁判にかけられた者は104名[8]、有罪となったのは87名であった。


なお、各地で講和反対の大会が開かれ、神戸9月7日)、横浜9月12日)でも暴動が起こった。

その後
暴動収拾後も人々の反発は収まらず、桂首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新内務大臣原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。

被害にあった建物
内務大臣官邸

外務省

国民新聞社


キリスト教関係
・駒形町福音伝道館

・三軒町美以教会

・黒船町聖約翰教会

・森下町救世軍分営

・芝崎町浅草美以教会・牧師館(現・日本基督教団浅草教会

・横川町天主教会・付属小学校

・吉田町天主教信者鈴木房次郎宅

・松倉町同盟教会講義所(現・日本同盟基督教団

・向島小梅町同盟教会(現・日本同盟基督教団

・両国矢ノ倉町日本基督教会(現・日本基督教団永福町教会

・御士町日本基督教会(現・日本基督教団豊島岡教会

・日本基督明星教会(現・日本基督教団小石川明星教会

・車坂町美以教会(現・日本基督教団下谷教会

注釈
1. *江村栄一・中村政則編『国権と民権の相克』、三省堂、1974年、288頁。
2. 新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.487-492
3. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、224-225頁
4. 出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』191~194頁、岩波新書(1996年:第一刷) ISBN 9784004304586
5. 『日本キリスト教歴史大事典』p.1164
6. 明治38年勅令第205号「東京府内一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」(『官報』号外、明治38年9月6日、p.1
7. 明治38年勅令第242号「明治三十八年勅令第二百五号及第二百六号廃止」(『官報』号外、明治38年11月29日、p.1
8. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、225頁

参考文献
・『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

中筋直哉『群集の居場所―都市騒乱の歴史社会学』新曜社、2005年、ISBN-13: 978-4788509368

藤野裕子『都市と暴動の民衆史:東京・1905-1923年』有志舎、2015年

関連項目
日露戦争

ポーツマス条約

対外硬派

外部リンク
日比谷焼打事件報道資料集

The Hibiya Riot - アンドルー・ゴードンハーバード大学教授)による講義(英語)

訟庭論草 国民大会事件を論ず 花井卓蔵、 (春秋社, 1931)
(wikiより)


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三浦守治 ( みうら - もりはる )    
安政 4年 5月 11日 ~ 大正 5年 2月 2日 ( 1857 - 1916 )


病理学者・歌人・東京帝国大学名誉教授。


父、三春藩士村田七郎兵衛(二男)。

和歌号、移岳。


福島県出身。

尺八古琴流演奏家三浦琴堂の兄。

幼いとき三浦義純の養子となる。


明治元年 ( 1868 ) 三春学校に入り、明治 5年 ( 1872 ) 東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。


明治 6年 ( 1873 ) 大学東校に入り、明治 14年 ( 1881 ) 東京大学医学部卒業し、内科助手となる。


明治 15年 ( 1882 ) ドイツのライブチッヒ大学に留学しコーンハイム教授に師事。


翌年ベルリン大学に移り、ウイルヒョウ教授に師事。

病理学を専攻し、ドクトル・デル・メチチーネの学位を得て明治 20年 ( 1887 ) 帰国。

医科大学教授。


明治 24年 ( 1891 ) 医学博士。


明治 35年 ( 1902 ) 再び欧州各国で病理学を研究。


明治 38年 ( 1905 ) 陸軍省御用掛を兼ね日露戦争の際、現地で脚気病を調査。帰国後医師を開業。


明治 39年 ( 1906 ) 帝国学士院会員。

従二位勲二等瑞宝章。


大正 3年 ( 1914 ) 東京帝国大学名誉教授。

著書:「剖検法」、「脚気治療法」、「脚気の病理」。

その他論文多数。

歌集「移岳集」。61歳没。

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三浦琴童 ( みうら - こどう ) / 三浦純一 ( みうら - じゅんいち )     
明治 8年 12月 18日 ~ 昭和 15年 3月 11日 ( 1875 - 1940 )


尺八古琴流演奏家。


本名、三浦純一。

号、琴童。


東京出身。

三浦守治の弟。

海城中学校卒業。


帝国大学予備門を目指したが、病気のため断念し、東海銀行に入社。


傍ら明治 30年 ( 1897 ) 初代 ( 2代とも ) 荒木古童 ( 竹翁:1823 - 1906 ) に尺八を師事。

「琴童」名を給う。


おなじ荒木古童の弟子の上原六四郎に点符式尺八楽譜を習得、伝承の曲の作譜に努める。


明治 35年 ( 1902 ) 「レツロ会」を創設。


大正元年 ( 1912 ) 「琴古会」を主宰し、水野呂童らの門弟を排出した。


大正 2年 ( 1913 ) 東海銀行を退社し、尺八古琴流演奏家として一家をなす。


著書:「拍子記号附琴古流尺八本曲楽譜」。65歳没。

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色川誠一 ( いろかわ - せいいち )     
嘉永 3年 ~ 明治 42年 7月 14日 ( 1850 - 1909 )


富士製紙常務取締役。

茨城県土浦出身。


伯父・父共に国学者として有名。


阿佐田哲也の祖父。


団々珍聞社に入り、一切経の予約出版をする。


明治 20年 ( 1887 ) 廣瀬誠一郎と共に利根運河会社設立に尽力し、明治 23年 ( 1890 ) 2月 25日全線通水となり、5月 10日すべての工事が完成した。


この事業の熱意から広瀬誠一郎・人見寧らと共に「利根運河の三狂生」と言われた。


またサッポロビールの会社設立にも関与。


60歳没。妻は、綾子。後妻は、仁子。

「嶺高院忠誉雄誠宗英大居士」。

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石黒敬七 ( いしぐろ - けいしち )    
明治 30年 8月 10日 ~ 昭和 49年 10月 1日 ( 1897 - 1974 )


放送タレント・随筆家・柔道家。

新潟県柏崎比角出身。


家業の縮み商の七男として生まれたため"敬七"と命名された。


早稲田大学柔道部にて主将を務め毎年一段ずつ昇段し五段になる。


警視庁・拓殖大学・法政大学などで師範を務める。


大正 13年 ( 1924 ) 27歳のとき自ら"石黒敬七君を渡仏させる会"をつくり、資金を集め渡仏をはたす。

フランスでは、画家の藤田嗣治らと交流、またパリのオペラ座で柔道のエキジビジョンを行う。


またパリで新聞「巴里週報」を発刊。

また、サロンド・トンヌ展に入選。


体育系と文系の両面を持つ。


昭和 8年 ( 1933 ) 帰国し講道館審査員。


戦後はNHKのラジオ番組「とんち教室」に参加し人気者となった。


写真のコレクターとしても知られる。77歳没。

息子は、石黒敬章。

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中山信安 ( なかやま - のぶやす )    
天保 3年 7月 27日 ~ 明治 33年 6月 19日 ( 1832 - 1900 )


新潟権令・茨城権令。


旧名、修輔。

父、中山信民。

静岡県浜松出身。


蘭学を緒方洪庵に学び、開国の必要性を説く。


文久年間新徴組取締。


元治元年 ( 1864 ) 佐渡組頭・御蔵奉行・佐渡鉱山取締などを歴任、鉱山事務を改革し、諸種の産業を奨励した。


慶応の末年、各藩兵・脱兵が来て軍資金を要求する事態があり、金・食糧を支給して諭し、事なきを得る。


戊辰後、佐渡県が置かれ佐渡県権判事となる。


明治 2年 ( 1869 ) 佐渡県の廃止で江戸に帰る。


明治 4年 ( 1871 ) 新潟県参事。


明治 7年 ( 1874 ) 新潟県権令。


明治 9年 ( 1876 ) ころ茨城県権令。

地租改正に反対する暴動を鎮圧したが、陸軍・司法両省は、越権行為として弾劾したため、辞官し、再び士官しなかった。


正六位。69歳没。


夫人は、慈善家の中山幸子。養子、幸子の連れ子中山信重 ( 実父、嵯峨根不二郎 )。

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松浦律翁 ( まつうら - りつおう ) / 松浦 啓     
文化 12年 2月 ~ 明治 13年 ( 1815 - 1880 )


肥前平戸藩第 10代藩主松浦熈 ( まつうら - ひろむ:1791 - 1867 ) の二男。

兄松浦曜 ( まつうら - てらす:1812 - 1858 ) は、11代藩主。


名、啓。平戸藩士。

松浦信恵の養子となる。

小姓組、書院番頭。

従五位、越前守。


のち加賀守。室、石丸宮子。66歳没。

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松浦信正 ( まつうら - のぶまさ )     
? ~ 明和 6年 5月 11日 ( ? - 1769 )


松浦家第 26代当主で肥前国平戸藩初代藩主・松浦鎮信 ( まつうら - しげのぶ:1549 - 1614 ) の二男。


母、朝鮮女性の小麦様。


兄松浦久信 ( まつうら - ひさのぶ:1571 - 1602 ) は、第2代藩主。


松浦鎮信が豊臣秀吉に朝鮮出兵を命じられ、朝鮮の首都漢城 ( ソウル ) を占領したおりに、小麦畑の中に隠れていた美しい女性を家臣が連れてきて鎮信に差し出し、鎮信は妾にし、小麦様と呼ばれた。


小麦様は、朝鮮から帰国の途中に男子を生み、のちに 2人の男子を生む。

そのうちの一人が松浦信正と言われている。


その後、松浦信正は、平戸藩の家老河内守となり、根獅子・獅子・生月に 3000石の領地を与えられた。


慶長 12年 ( 1607 ) の朝鮮通信使の接待役となった折に母のことを尋ねたとされる。


また、小麦様は、根獅子で、その生涯を閉じたという。

かなり伝説的な内容であるが、信正は、かなりの高齢まで生きたということになる。

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三好 政勝 ( みよし - まさかつ、天文 5年 ( 1536年 ) - 寛永 8年 12月 10日 ( 1632年 1月 31日 )) は、戦国時代から江戸時代の武将。

三好政長の子。三好政康の弟。

官位は右衛門大夫、因幡守。一任斎と号す。子に可正。


三好長慶と細川晴元の対立の中で、天文 18年 ( 1549年 )、父が長慶に殺害 ( 江口の戦い ) されると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底して戦ったという。

しかし長慶の死後は、三好一族として三好氏をよく補佐した。


やがて織田信長が入京してくると、一度は三好三人衆らと共に、和泉の織田方の城を落したり、足利義昭を本圀寺に攻めたり ( 本圀寺の変 ) と反信長の行動に追従しているが、元亀元年 ( 1570年 ) の野田城・福島城の戦いの最中に信長に降伏し、その家臣となって摂津の知行を安堵された。

しかし、元亀 3年 ( 1572年 ) には松永久秀・三好義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている ( 永禄以来年代記 )。


この記録を最後に、しばらく資料上からはぷっつりと姿を消す。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に資料に登場するのは天正 20年 ( 1592年 ) の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻としてである ( 太閤記 )。

秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は 2020石を領したと言われている。

その後は徳川方として大坂の陣にも出陣し、96歳という長寿を保った。


このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の 1人・三好伊三入道のモデルとされている。

実際に、政勝の法名は「為三」である。

しかし、実際には政勝は真田氏と何の縁もない。

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室田義文 ( むろた - よしあや )     
弘化 4年 9月 19日 ~ 昭和 13年 9月 5日 ( 1847 - 1938 )


全権大使。


父、旧水戸藩士室田平八 ( 二男 )。


弘化 4年 ( 1847 ) 分家して一家を立てる。


外務省洋学校に入学。


明治 2年 ( 1869 ) 外務省出仕。


太政官政府の初期官僚の一人となる。


外務権少録。

領事・総領事・外務書記官・外務省会計局長・メキシコおよびペルー駐在特命全権公使など歴任。


特命全権大使となり、退官後実業界に転身。


百十銀行頭取・北海道炭鉱汽船・大日本人造肥料各取締役会長。


蓬莱生命保険・鐘淵紡績・三共・南米拓殖各監査役。


三井財閥の重鎮として昭和初期まで鐘紡の大陸進出に尽力。


明治 34年 ( 1901 ) 貴族院議員。

錦鶏間祗候。


従四位勲二等。92歳没。

夫人久良子は、中根正邦の娘。


 明治 42年清国ハルビン駅頭で狙撃された伊藤博文に首席随行、狙撃現場に居て、自らも被弾し負傷する。

この事件は室田の証言もあるが、犯人の解明がなされておらず、ミステリーのままとなっている。


 初代駐ペルー公使となった室田義文と森岡商会の田中貞吉の努力によって初めての日本人集団移民が許可になったが、それは明治 26年 ( 1893 ) ペルーと日本間に通商条約が改定され、室田義文メキシコ公使がペルーの公使も兼ねることにはじまる。


明治 32年 ( 1899 ) 2月に最初の邦人 790人が日本からペルーへサクラ丸で移住していった。


しかし、新天地といわれたところは、過酷な労働と風土病などの厳しい生活で、初期に入植した日本人は、ほとんど亡くなってしまったという。


室田義文は、現地調査に出向いたが、官僚特有のおざなりな報告だったという。

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関根痴堂 ( せきね - ちどう )     
天保 12年 ~ 明治 23年 9月 21日 ( 1841 - 1890 )


明治中期の儒者にして漢詩人。


名、柔。通称、録三郎。号、痴堂。

愛知県豊橋出身。


小野湖山に認められ、大沼枕山にも劣らずといわれた。


晩年「東京新詠」を発行。

風俗・人情を歌う。


高野山に登り”世のさまの見えすく寺の木立かな”と詠む。


渡辺華山の次男、渡辺小華の漢学詩文の師として知られる。50歳没。

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渡辺 小崋(わたなべ しょうか、天保6年1月7日1835年2月4日) - 明治20年(1887年12月29日)は、幕末・明治期の三河国田原藩家老で、日本画家渡辺崋山の次男。は諧(かのう)で、通称は舜治。小崋(後に「小華」)は雅号。

略歴
江戸麹町の田原藩邸で生まれる。父・崋山が蛮社の獄で国許・田原に蟄居した際には、小崋を含む家族も共に移り住んだ。7歳のときに崋山は自害した。


藩校
成章館で学んだ後に、弘化4年(1847年)13歳の時、彼の将来を慮った父の門人福田半香の勧めで江戸に出てる。同じく崋山門下の椿椿山の弟子となり、その画塾琢華堂で絵画を学んだ。その頃の琢華堂では毎月門下生に無落款で提出させ、これを批評し最優秀作には賞を与えていたのだが、小崋の作品は優秀作になることはなく、毎回小崋より年は上だが入門は後の野口幽谷が賞を受けていた。小崋は自分の非才を悩み、内密に幽谷の粉本を貰い、これを模して提出すると門下中最低点を付けられてしまう。この後、椿山は小華を招き「汝は塾内では卓抜な腕前であるが、まだまだ親の崋山には及びもつかない。亡き崋山の画業を継承し、その名声を辱める不肖の子とならないように」と戒めたという逸話が残る。


嘉永4年(1851年)江戸田原藩邸で世子三宅康寧のお伽役として絵画の相手を命じられる。安政元年(1854年)椿山が亡くなると画家として独立し、安政3年(1856年)、田原藩側用人であった兄・渡辺立(一学)が25歳で急逝したため、家督を相続する。文久元年(1861年)に師・椿山の養女・須麿を妻に迎えた。元治元年(1864年)に田原藩家老に任命される。当時の藩主三宅康保の父友信はかつて崋山に当主に推された経緯があり、また筆頭家老村上範致は崋山の推挙を受けたことから、小崋は重んじられた。特に戊辰戦争に際しては老齢の村上に代わって対応するところが大きく、明治に入ると小崋が参事となり藩政の実務を執ることになった。


廃藩置県
後に藩の残務整理を終えると、明治7年(1874年豊橋に移り住んで画家として生計を立てる決意を固める。以後、上京するまでを小華が滞在した吉田神社の前庭「百花園」にちなんで百花園時代という。明治6年(1873年ウィーン万国博覧会に「果疏図」「鶤鶏図」を出品、明治10年(1877年第一回内国勧業博覧会において「烟草綿花ノ図」で花紋賞を受賞するなど、父・崋山の画才を受け継いだ彼の絵が次第に認められる。明治15年(1882年))には拠点を東京に移して、同年の第一回内国絵画共進会で「蓮郡虫」「鵞」を出品、銅賞を受けて一流の画家の仲間入りを果たした。明治17年7月に川辺御楯らと東洋絵画会を結成する。明治19年には野口幽谷らと皇居の杉戸絵揮毫の栄誉に授かるが、持病のリューマチが酷く、一部を門人の山下青涯に代筆させたという(翌年完成)。明治20年(1887年)12月旅行した際、腸チフスに感染し、53歳で没す。法名は文雄院諧誉小華居士。城宝寺崋山墓所に葬られる。


師・椿山譲りの花鳥画に優れ、地元の東三河遠州の画家に大きな影響を与えた。

詳しいことは「渡辺小崋ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B0%8F%E5%B4%8B
(wikiより)

1564  渡辺小崋

渡辺小崋

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青木龍峰 ( あおき - りゅうほう )     
天保元年 ~ 明治 42年 9月 13日 ( 1830 - 1909 )


書家・福井藩士。


名、脩。号、龍峰。

父、福井藩砲術家青木吉蔵右衛門 ( 長男 )。

福井県敦賀出身。


藩儒高野真斎に経史を学び、のち書を正木龍珉に学ぶ。


下曽根金三郎に砲術を学ぶ。


書は諸書体をこなし、とくに大篆を得意とする。

松平春嶽に気に入られる。


明治 2年 ( 1869 ) 福井藩書師。

のち東京に出て、文部省警保寮左院に出仕。


明治 7年 ( 1722 ) 青木孝亮・大熊貞章らと内務省 12等出仕。

以降、内務 3等属に昇進。


明治 17年 ( 1732 ) 辞官。

その後は、もっぱら書道を教授する。80歳没。

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近藤民之助 ( こんどう - たみのすけ )    
文政 9年 1月 28日 ~ 明治 29年 10月 31日 ( 1826 - 1896 )


「三斗小屋の超惨殺事件」の当事者とされる人物。


松代藩士。

名、章康。通称、民之助。


北征の役 ( 戊辰の役の一部 ) で藩監軍兼参謀。


越奥に転戦し、明治元年 ( 1868 ) 10月に松代に戻り、朝廷より 78石を賜う。


明治 5年 ( 1872 ) 8月司法官。


松代藩は新政府側であり、墓碑裏の記述もこのようになっているが、資料によっては、会津藩士 ( 幕府側 ) であり、北征の役で官軍に追われ、那須の三斗小屋まで逃げたが、官軍に命令され板室まで道案内した名主の源右衛門を惨殺したというもの。

しかし、事実は藪の中。

資料の一部だが、「源右エ門の皮を剥ぎ、股の肉を削り取り串に挿し、炙りて食し、又一片を源右エ門の口に押し込み、己が肉食らいといいたりきと。源右エ門の痛激悲泣の声山谿に響き渡り、聞くも無惨の有様なり」とある。

同姓同名の人物がいたのかも知れない。71歳没。

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二代目 河原崎権十郎 ( にだいめ かわらざき - ごんじゅうろう、1880年 ( 明治 13年 ) 8月 6日 - 1955年 ( 昭和 30年 ) 1月 11日 )

歌舞伎役者。

本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。


日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。

九代目市川團十郎門人となり、明治 18年  ( 1885 ) 市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。

その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。

明治 38年 ( 1905 ) 大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。


大阪での修業ののち帰京、大正 8年 ( 1919 ) 4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。

浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』 ( め組の喧嘩 ) の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。

それが縁で羽左衛門や六代目尾上菊五郎に目をかけられ大劇場に脇役で出演。

晩年は菊五郎劇団に加わり老役や大阪での修業を活かした丸本物によい味を出した。

三代目河原崎権三郎は長男。三代目河原崎権十郎は次男。


主な出演映画

残菊物語  松竹京都  ... 五代目菊五郎 1939. 10. 10 

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淡島 椿岳(あわしま ちんがく、1823年文政6年)7月 - 1889年明治22年)9月21日)は、幕末から明治初期の画家小林椿岳の名でも知られる。1824年(文政7年)2月8日生まれともいわれる。 明治時代作家画家・蒐集家の淡島寒月は椿岳の実子である。親子揃ってマルチな趣味人・独自の方向性を持った自由人として知られた。また、幕末の大富豪・伊藤八兵衛は椿岳の実兄である。

略歴
椿岳は、武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、富裕な農家・内田善蔵の三男として生まれた。本姓は小林、後に淡島を称す[1]。幼名は米三郎。通称は城三。吉梵、南平堂と号す。幼少期より絵を好み、その才があった。


米三郎は長じると長兄と共に川越を発ち江戸に出て、蔵前札差・伊勢屋長兵衛の元で奉公する。「伊勢屋」は当代きっての幕府の御用商人で、長兄は伊勢屋一族の伊藤家の娘婿となり、伊藤八兵衛と改名する。これが幕末期に江戸一の大富豪に上り詰めた伊藤八兵衛である。後に渋沢栄一は八兵衛の元で商売を学び、八兵衛の次女・兼子は渋沢栄一の妻となった。また八兵衛の娘たちは皆、伯爵夫人となる。


如才ない三男の米三郎(椿岳)は、兄・八兵衛を良く助けたが、日本橋馬喰町の有名軽焼屋・「淡島屋」を営む豪商・服部喜兵衛の元に婿入りし、淡島屋の屋号から淡島姓を名乗る[2]。その後、生活に困らない米三郎は大枚を叩いて水戸藩御家人株を買って小林城三と改姓した。


絵の道に憧れていた城三(椿岳)は、蔵前で画塾を開いていた大西椿年大和絵を学び、師の一字をもらって椿岳と号する[3]。さらに谷文晁高久隆古に師事した。椿岳は日本画の形式に拘らず、洋画も川上冬崖高橋由一らの交流を通して学んだ。


1859年安政6年)に寒月が生まれるが、「妾160人」とも言われた椿岳の奔放な女道楽が続く。1870年明治3年)、愛人とともに浅草寺境内の伝法院に住む。椿岳の奇人・変人と称された伝説的な生活が始まる。椿岳は西洋画を購入し浅草寺で「西洋目鏡」と名づけた見世物小屋を開く[4]。料金2銭と安くしたため客が押しかけ、西郷隆盛も見学しに来るほどであった。椿岳は次に浅草寺境内の淡島堂に移り、頭を丸めてデタラメなお経をあげるにわか坊主になる。ここで泥絵による洋画風の風景画や風俗画を書き、これが評判を呼んだ。浅草絵の創始である。また鳥羽僧正鳥獣戯画の影響を受けて、独自の「椿岳漫画」を制作、漫画でも一家を成した。また、明治初期、牛込円福寺に大幅を描いている。


1884年明治17年)、椿岳は向島弘福寺門前に梵雲庵を建て移り住み、易者の真似事などをする。1889年明治22年)、一ヶ月放浪して帰宅した直後に梵雲庵で死去した。墓石には「吉梵法師」と刻まれた。

辞世の句は「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれは初めて

脚注
1. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、30p。
2. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、31p。
3. 
内田魯庵『思ひ出す人々』春秋社、1925年、185p。
4. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、33p。

参考資料
山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)ISBN 4000029665

内田魯庵『思ひ出す人々』(春秋社、1925年)

外部リンク
淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド内田魯庵、「きのふけふ」博文館、1916(大正5)年3月
(wikiより)

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淡島椿岳

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安達 顕 ( あだち - けん / あだち - あきら )    
天保 9年 2月 ~ 大正 3年 9月 24日 ( 1838 - 1914 )


刑法草案審査局メンバー。

従五位。


幼名、鎌次郎のち文一郎。

父、名古屋藩士族安達成善 ( 和平 )( 長男 )。


尊皇攘夷の志をもって脱藩し、尾張藩家老・田宮如雲 ( たみや - じょうん ) に仕え京警護に赴き、公卿、諸藩名士間を周旋。


明治維新後は、広島県出仕、のち大蔵省を歴任。

 
明治 11年 3月 8日 ~ 明治 13年 2月 17日元老院 ( 立法をする所 ) 御用掛となり伊藤博文を長とした刑法草案審査局メンバーとなる。


実業界に転じ、東京博全会社社長・釧路炭鉱取締役。


明治 35年 ( 1902 ) 9月維新の功により従五位に叙す。77歳没。

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春いまださわがしからぬ空のいろに

        辛夷の花は白く咲きたり


                徳壽

橋本徳壽は明治二十七年 ( 1894 ) 神奈川県横浜市に生まれた。


短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。


昭和二年 ( 1927 ) 短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。


千樫亡き後は、青垣会を六十年間にわたり牽引すると共に、宮中歌会始の選者、明治記念綜合歌会の選者を務める等、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。


歌碑に刻まれた歌は、歌集『桃園』に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。


なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。


平成元年 ( 1989 ) 死去。
(案内板より)

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島村鼎甫 ( しまむら - ていほ ) / 島村紫軒    
天保元年 ~ 明治 14年 2月某日 ( 1830 - 1881 )


医家・洋学者。

名、鉉仲。通称、貞蔵、のち鼎甫。号、紫軒。


岡山出身。姓、平 ( のち島村家を継ぐ )。


若くして姫路の仁寿校で漢文を学ぶ。


大阪で後藤松陰に漢籍を、緒方洪庵に蘭医学を学ぶ。


嘉永 4年 ( 1851 ) 江戸で伊東玄朴に師事。

翌年適塾に入門。


わずか 1年で徳島藩侍医となる。


文久 2年 ( 1862 ) 幕府医学所教授。


明治元年 ( 1868 ) 新政府の医学校教授。


明治 2年 ( 1869 ) 文部大学少博士・東校教授。


明治 4年 ( 1871 ) 文部中教授。


明治 5年 ( 1872 ) 退官。


訳書:「生理発蒙」、「瘡痍新説」など。


兄に津下精斎 ( 1826 - 1899 ) がいる。

子に医学博士・島村俊一がいる。

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