山川 浩(やまかわ ひろし、1845年12月4日弘化2年11月6日) - 1898年明治31年)2月4日)は明治時代の日本軍人。旧会津藩士。最終階級は陸軍少将位階勲等爵位従三位勲三等男爵


陸軍省人員局長兼輜重局長、総務局制規課長、高等師範学校筑波大学の前身の一つ)校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までのは重栄、は士亮、通称大蔵(おおくら)、与七郎。は屠竜子。

生涯
幕末
父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1,000[1])。母は会津藩士・西郷近登之の娘・えん。姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に山川常盤、大山捨松らがいる。


万延
元年(1860年)、父の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)、藩主・松平容保京都守護職拝命に伴って上洛する。慶応2年(1866年)には幕府の使者と同行してロシアへ渡航するが、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を悟ったといわれている。


戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退した。しかし藤原では追撃してくる敵軍を敗走させた。その後、敵軍は中村半次郎が来るまで(日光口からは)会津に突入することは出来なかった[2]会津戦争では、既に包囲された会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じた。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城して妻・トセも爆死している。戦後は禁固謹慎に処せられ、明治3年(1870年)には斗南藩権大参事に就いたものの、藩の実収は少なく藩士の生活も困窮し、自身も妹・咲子(捨松)を函館里子に出すなどの苦労を重ねている。

明治時代

廃藩置県後は青森県に出仕したが、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に八等出仕する。同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、明治7年(1874年)には佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、中佐に昇進する。明治10年(1877年)の西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。選抜隊を率いた山川は、薩摩軍が攻囲し、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功し、救援部隊第1号となった[3]。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。明治13年(1880年)には陸軍大佐に進級した。


明治19年(1886年)、文部大臣森有礼の命により高等師範学校の校長に任じられ、附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。


明治20年(1887年)、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。

「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」[4]

当時の授業料は50で、生徒は六百数十名だったが、授業料を値上げしてもほとんどが在学を望んだため、増収により良い教師を招聘して大いに校風を振起することができた。しかも山川は軍人だから規律が厳しかったので、学校は秩序整然としたものになった[4]


その後は陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入される。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したものの落選するが[5]、同年の9月29日に貴族院議員に勅選され[6]、谷や曾我祐準とともに院内会派懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。


明治31年(1898年1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられる。同年2月4日薨去。戒名は忠烈院殿靖誉桜山大居士。墓は青山霊園にある。


山川男爵家は、妹の常盤と妹婿(婿養子)山川徳治の息子の戈登、次いで戈登の弟の、次いで浩の弟健次郎の四男のが養子入りして跡を継いでいった。

人物
・腕っぷしが強く強情な性格だった。エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけたという。


・妹・捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、邸宅には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対してたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたらしく、晩年まで生活は非常に苦しかったという。また、生涯にわたって会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物で、藩学だった朱子学を嫌って陽明学を学んでいたという。


・幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟・健次郎が完成させたとするのが定説となっている。

栄典・授章・授賞
1898年明治31年)1月26日 - 男爵[7]

位階
1874年(明治7年)

  ・3月26日 - 従六位

  ・6月14日 - 正六位

1880年(明治13年)6月8日 - 従五位

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位

1891年(明治24年)8月13日 - 従三位[8]

勲章等
1878年(明治11年)1月31日 - 勲四等

1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

著作
さくら山集高木盛之輔編纂、長谷川調七、1902年9月

  ・『山川浩』 櫻井懋編、1967年12月 / 『復刻版 山川浩』 歴史春秋出版、2016年6月、ISBN 9784897578811

・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1911年11月

  ・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1912年9月増訂再版 / マツノ書店、2004年7月
  ・京都守護職始末』 郷土研究社、1930年6月

  ・『京都守護職始末 : 旧会津藩老臣の手記』2冊、遠山茂樹校注、金子光晴訳、平凡社東洋文庫〉、1965年8月-1966年2月、ISBN 4582800491 4582800602

・「詩文」「唐依の歌」(前掲 『山川浩』)

脚注
1. 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
2. 中村(2007)、205p.
3. 中村(2007)、208p.
4. a b 『桐陰会創立二十周年記念号』(明治43年12月)p. 8、『創立百年史 筑波大学附属中学校・高等学校』(昭和63年10月08日)p. 12に再録
5. 『ザ・選挙』第1回衆議院議員選挙福島4区
6. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
7. 『官報』 第4368号 1898年1月27日 「授爵叙任及辞令」
8. 『官報』第2439号「叙任及辞令」1891年8月15日。
9. 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
10. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。

詳しいことは、「山川 浩ウィキペディア」をご覧ください ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%B5%A9
(wikiより)

2245   山川浩

山川 浩

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