宮地宣蔵(ぎぞう)は天保9年10月能津村本村に生れる。


能津村庄屋・田村覚衛門の長男であるが、故あって宣蔵は姉の夫である芳生野村郷士・宮地慶太郎の籍となり、宮地氏を名乗る。


高知の城下にて、竹村節之進及び間崎哲馬に従学。


時に吉村寅太郎もまた間崎の門下にあったので、二人は意気投合して深い交わりをなした。


文久元年、武市半平太が江戸より帰り、攘夷を説くにあたり、これに同意して、奔走した。


同2年3月寅太郎と曽和伝左衛門とともに脱藩した。(坂本竜馬脱藩の18日前)


宣蔵はやがて長州、豊後、京都と諸処を奔走し、謀って京都所司代を討ち取ろうとしたが、寺田屋の変の為事破れて大阪邸に抑留せられ、ついに高知獄屋につながれたが、間もなく許され、その後、少将姉小路公知の随員(高官につき従ってその仕事を助ける人)となる。


その活躍が認められ、孝明天皇より鳥帽子、布衣を賜った。


少将・姉小路公知が殺害された後、三条中納言実美の護衛に付いたが、急な病のため死亡した。享年26歳であった。

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