本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2019/07

平安名(びゃうな)のマムヤ 新生(あらんま)り乙女(みやらび)

                  野城按司(ぬぐすくあず)の 崎山坊や


で謡い出す「マムヤのあやぐ」は、野城按司との悲恋を歌った物語です。

このあやぐや民話になれは、マムヤはニフニリ(香草の名)の芳しい香りのする絶世の美女として伝える。


妻子ある野城按司は、マムヤを見染めて恋仲になるが、「将来の事を思えばマムヤよりは糞尿(フスユスパイ)の臭いがしても妻のほうがいい」と諭されてマムヤを見捨てる。


按司の心変わりを知ったマムヤは平安名崎の断崖から身を投じる。

非観にくれた母親は再びこの村に美人が生まれないようにと神に祈願した。と伝えられています。


いつの頃からか、この巨石はマムヤの霊を弔う「マムヤの墓」として伝えられています。


およそ400米西側にあるマムヤが機織りしたと伝えられる岩穴は「マムヤの機織り場」として文化財に指定(平成三年四月九日)されています。
(案内板より)

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渋川春海は、寛永十六年(1639)に京都で生れ、十四歳で父の跡をついで幕府の碁所(ごどころ)となり安井算哲(やすいさんてつ (二代目))と称した。


囲碁の研鑽(けんさん)の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。


その頃、日本では中国の宣明暦(せんみょうれき)を使っていたが、二日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい暦を作った。


これが貞享元年(1684)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦(じょうきょうれき)として後の太陰暦の基本となったのである。


貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府最初の天文方に任ぜられ、本所((ほんじょ)墨田区)に、宅地を設けて天体の観測にあたった。

これが江戸で最初の天文台である。


春海は正徳(しょうとく)五年(1715)十月六日に七十七歳で亡くなり、この地に葬られた。
(案内板より)

〇 渋川春海
渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日1639年12月27日) - 正徳5年10月6日1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者囲碁棋士神道家。幼名は六蔵、は都翁(つつち)、は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。

生涯
江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)、父の死によって二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井(後に改字)姓を名乗った。これより、秋冬は江戸に、春夏は京に住んだ。


そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。この後、算知、弟の知哲、算知の弟ともいわれる春知などとともに御城碁に出仕する。延宝6年(1678年)に本因坊道策碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。


数学
暦法を池田昌意(まさおき)に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道山崎闇斎に、土御門神道土御門泰福に学んだ。当時の日本は貞観4年(862年)によりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで21歳(1659年)の時に中国授時暦に基づいて中国や四国の各地の緯度経度を計測し[1]、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。当時用いられていた宣明暦は、月食・日食の予報が天の運行に二日も遅れていたので、彼は、1670年(寛文10年)32歳の時、天体を日夜観測し、新暦の作成に向かった[2]


春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた朱子学者中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往の家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[3]が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。


この功により貞享元年12月1日1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。


囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10年10月17日1670年11月29日)の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をあきらめることとなった。


貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められた。1690年、52歳の時、日本で最初の地球儀(直径25センチメートル)を造った。

1697年にも直径33センチメートルの地球儀を作っている[4]。元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移された。著書に天文暦学においては『日本長暦』『三暦考』『貞享暦書』『天文瓊統』、神道においては『瓊矛拾遺』がある。 また、朝鮮の天象列次分野之図(1395)を参考に「天象列次之図」(1670)、「天文分野之図」(1677)という星図を著し、さらに星の位置を測定して「天文瓊統」に示すとともに,子の昔伊と作成した「天文成象」(1699)で図に表した[5]。 改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、地球儀をはじめ、天球儀渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成している。


後に嫡男である昔尹に天文方の地位を譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死すると、春海も後を追うように死去した。渋川家と天文方は春海の弟・知哲の次男敬尹が継承した。法号は本虚院透雲紹徹居士。墓は東京都品川区東海寺大山墓地にある。明治40年(1907年)に改暦の功績によって従四位が贈位された。平成24年(2012年)、第9回囲碁殿堂入りが決まる。

詳しいことは、「渋川春海ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7
(wikiより)

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佐々木古信 ( ささき - ひさのぶ )
( 1826 - 1899 )

江戸後期 - 明治時代の歌人。


文政 9年生まれ。


長門 ( ながと )( 山口県 )萩 ( はぎ ) 藩士。


維新後、陸軍に入る。


近藤芳樹、仲田顕忠 ( あきただ ) らに学ぶ。


明治 32年 11月 8日死去。74歳。


通称は勝次郎。号は梅屋。


歌集に「梅屋歌集」「かしらの雪」。

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酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日1870年11月24日) - 昭和3年(1928年8月1日)は、明治時代から昭和時代前期の華族。忠稠系小浜藩酒井家別家、越前国敦賀藩第8代藩主・酒井忠経の長男。幼名は松之助。正室は松平康英の娘鉚。子は酒井忠英、義男。


東京に生まれ、明治17年(1884年)7月8日の華族令により子爵となる。学習院高等科、帝国大学法科を卒業。明治34年(1901年)、貴族院議員に選出され、研究会に属し常務委員を務めた。大正2年(1913年)3月15日、伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社が設立され、取締役会長となる。横浜正金銀行、高砂商事、海外興産等の役員を務めた。昭和3年(1928年)、59歳で死去した。子の忠英が跡を継いだ。

栄典

位階

1895年(明治28年)12月20日 - 正五位[1]


勲章等
1928年(昭和3年)8月1日 - 勲二等旭日重光章[2]

脚注
1. 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
2. 『官報』第488号「叙任及辞令」1928年8月11日。

参考文献
・日本人名大辞典(講談社)

・新訂 政治家人名事典 明治〜昭和(日外アソシエーツ、2003年)
(wikiより)

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御徒士町狩野家。  

狩野長信を祖とする表絵師の家系。


※ 表絵師:徳川幕府の御用絵師で、狩野家奥絵師の一族や門人が独立して一家をかまえたもので、奥絵師よりは一段低い格式。


駿河台狩野家をはじめとし、御徒士町・猿屋町代地・山下・深川水場・麻布一本松・根岸御行松・神田松永町・芝愛宕下・築地小田原・金杉片町・分家・本所緑町・稲荷町・勝田の 15狩野家があった。


〇 狩野玉円永信 ( かのう ぎょくえんながのぶ )・七代目 
文化 13年 ~ 明治 13年 11月 30日 ( 1816 - 1880 )


日本画家。
御徒町家・七代目。

父、六代目・狩野休伯満信。

「鷲山院玉円日揮居士」。

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福原 信辰 ( ふくはら - しんたつ )
明治 25年 ~ 昭和 21年 ( 1892 - 1946 )


写真家。資生堂副会長。


父、福原有信 ( 四男 )。

千葉県出身。


文学研究のためフランスに留学。


のち、兄・信三を助け写真界に貢献。


資生堂石鹸常務取締役など。

「敬光院法篤正信居士」。

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この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な同様の一つです


東くめ女史が明治三十四年に観音さまの境内に於いて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります・・・・・・・
(碑文より)

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彰仁親王は伏見宮邦家親王第八王子。


安政五年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(1867)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。


同四年一月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。


ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。


明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。


同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。


同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。


同三十六年一月十八日、五十八歳で没。


銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。


作者は文展審査員の大熊氏廣。


『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
(案内板より)

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パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420~3421番)に新しくビルを建てるために掘削により発見されました。


東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。


ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。


当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。


戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
(案内板より)

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この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。


『武江年表』同年の項に、『下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く』とある。


境内の"富士山建設之誌碑"によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。


東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。


富士山信仰は室町末期頃に起り江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。


それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。

しかし、いまに伝わる塚は少ない。


ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。


塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。


原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。


昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
(案内板より)

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お祭佐七 ( おまつり - さしち )

歌舞伎 ( かぶき ) 劇中の登場人物。


俗謡に「本町二丁目糸屋の娘」と歌われた娘お糸と手代佐七の情話は、浄瑠璃 ( じょうるり )、歌舞伎に脚色され「小糸佐七物」という一系統をなしているが、その佐七を「お祭り」と異名のある威勢のいい鳶 ( とび ) の者に仕立てたもの。


四世・鶴屋南北の『心謎解色糸 ( こころのなぞとけたいろいと )』で創作され、3世・河竹新七の『江戸育御祭佐七 ( えどそだちおまつりさしち )』では主人公として活躍、その脚本の通称にもなっている。

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井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日1843年8月25日) - 明治43年(1910年8月2日)は、日本幕末から明治にかけて活躍した武士長州藩士)、官僚正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。

生涯
長州藩士時代
天保14年(1843年)、長州藩士・井上勝行(1807年 - 1893年)の3男として萩城下に生まれる。幼名は卯八と名付けられたが、これは干支癸卯で8月生まれにちなんだためである。父は大身200の藩士で、母久里子は同じ長州藩士田坂家の出身だが、弘化元年12月22日1845年1月29日)に卯八が1歳の時に死別している。また、兄の井上勝一(1831年 - 1886年)は後に父の家督を継承、弟の赤川雄三(1850年 - 1904年)と湯浅光正(? - 1870年)はそれぞれ他家に養子へ出されたが、いずれも卯八に先立ち亡くなっている[1]


天保19年(1848年)に野村作兵衛の養嗣子となり野村弥吉と改名し藩校明倫館で勉強、開明派で蘭学重視の父に従い西洋学を学ぶことを志す。嘉永6年(1853年)の黒船来航に伴う相模警備に江戸幕府から長州藩が命令され、安政2年(1855年)に沿岸警備に駆り出された父と共に宮田(現在の神奈川県横須賀市)へ赴任、そこで伊藤博文と出会い親交を結ぶ。翌3年(1856年)に萩へ戻った後は安政5年(1858年)に藩命で長崎へ遊学、再会した伊藤と共に1年間洋学兵法を学び取ったが、それだけで飽き足らず、帰郷から間もない安政6年(1859年)に藩命で江戸蕃書調所へ入学、航海術を中心に勉強した。しかしまだ満足出来なかった弥吉は、万延元年(1860年)に船で箱館へ向かい武田斐三郎の塾を訪問、航海術と英語を取得したが、翌文久元年(1861年)に養父の希望で萩へ戻ることになった。それでも学問への意欲は尽きず、養父を説得して文久2年(1862年)に再び江戸に到着、英学修業のため横浜と江戸を往復しつつ外国留学を考えるようになっていった。


文久3年(1863年3月10日ジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した船・癸亥丸の船長に任命され、測量方の山尾庸三らと共に横浜から京都まで航行、23日兵庫港へ到着した。そこに藩家老・周布政之助の工作で藩主毛利敬親から外国旅行を命じられ、5月12日に脱藩。イギリス総領事による斡旋の下、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれることとなる井上馨・山尾・遠藤謹助・伊藤とジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)に密航し渡英、上海ホワイト・アッダー号に乗り換え長期間船旅を過ごした末に10月にロンドンへ到着、明治元年(1868年)までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。


途中、元治元年(1864年)に井上と伊藤が帰国、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩第一次英国留学生と出会い日本人同士の交流を喜んだのもつかの間、藩からの費用が少なくなり困窮、慶応2年(1866年)に遠藤も病気の悪化で帰国するなど苦境が続く中で明治元年9月に無事卒業を果たした。同年、木戸孝允の「母国で技術を役立てるように」との再三の要請により11月に山尾と共に帰国。


長州藩へ戻り実家と復縁し、父の名前から1字取り井上勝と改名、長州藩から鉱山管理の仕事を任されていたが、明治2年(1869年)に木戸の呼びかけに応じ新政府に出仕、10月に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり(当時大蔵省・民部省は合併していた)、先に大蔵省へ出仕していた伊藤に仕え近代事業に携わることになる[2]


鉄道事業の推進
大蔵省に勤務してからは伊藤や大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想を発表する。とはいえ、当初は鉄道技術が日本にないためイギリスのお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日岩倉具視澤宣嘉とイギリス公使ハリー・パークスの会見に出席して岩倉らの通訳を務めていたが、まだ鉄道に関する方針に踏み込めなかった。続いてパークスが紹介したホレーショ・ネルソン・レイと伊藤らとの交渉で、イギリスが外債および技師と建設材料を提供して鉄道敷設を進めることになった。しかしレイは日本国債ロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにした。政府はレイとの交渉を打ち切り、外債をとりつける新しい交渉相手を決めた。1845年に香港で創立されたオリエンタル・バンクである。


政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷くことを始め、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後に桜木町駅に改称)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と共に工部権大丞となり、翌明治4年(1871年7月23日に工部大丞に昇進、8月15日に鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(後に鉄道頭を専任)、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。


明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設は鉄道頭では無かったため直接関与はほとんどなかったが、鉄道建設を反対する一般国民や政治家達(黒田清隆など)の説得に当たり、海上に線路を敷くために手掛けた築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継ぎ工事を継続させるなど間接的に工事を推進、明治5年(1872年9月12日に全線開通させ日本の鉄道開業に尽くした。また、明治3年7月30日に開始された神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)に続く明治4年6月15日の大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わり、お雇い外国人が見積もった金額より安い算出で工事変更を工部省に願い出て許可され、鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らない物になった。


だが、工部少輔となり上司になっていた山尾と対立、明治6年(1873年7月22日に辞任した。関東の鉄道事業が一段落付き、次の仕事に大阪へ出張させて現場指揮を執らせ、鉄道寮も大阪へ移転してくれるよう提案したが、山尾に却下されたことに怒ったこと、山尾の干渉に耐えられなかったのが理由だったといわれる。この問題は岩倉使節団に加わりヨーロッパを外遊していた伊藤が勝の辞任をしたためた手紙を受け取り、帰国し工部卿として山尾の上司になった伊藤の説得で勝が明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められたことで解決した。以後しばらく関西方面の鉄道敷設に集中していくことになる[3]


明治7年5月11日に神戸 - 大阪間がお雇い外国人の手で開通、明治10年(1877年2月5日に大阪 - 京都間も開通。ひとまず関西方面も開拓されたが、この間に士族反乱が相次ぎ(佐賀の乱萩の乱西南戦争など)政府は財政難と治安悪化に直面した。勝は事態打開のため明治9年(1876年)に伊藤に更なる鉄道網の延長を迫り、計画は京都から大津へ東の延伸が決定されたが、西南戦争で工事どころではなくなり明治10年中に敷設は行われなかった。代わりに日本人の鉄道技術者育成は認められ、明治10年1月に鉄道寮が鉄道局に改称し勝が鉄道局長に就任、5月に大阪駅構内で工技生養成所を設立し飯田俊徳トーマス・シャービントンの2人と協力して技師を養成、長谷川謹介国沢能長らを輩出した。やがて工部省が創設した工部大学校からも技術者が養成されると、目標を達成したとして明治15年(1882年)に閉鎖したが、明治10年からお雇い外国人を順次解雇して養成所卒業生と入れ替え、彼らと力を合わせ鉄道工事に傾注していく。


明治11年(1878年)4月に政府の国債発行で資金調達の当てが出来ると8月21日に京都 - 大津駅間(後に浜大津駅に改称、18.2km)の工事に取り掛かり、逢坂山トンネルを着工。作業は全体を4区に振り分け、飯田俊徳を総監督に長谷川・国沢・武者満歌千島九一佐武正章三村周南清ら養成所の第1回入学生に実習を兼ねた工事作業をやらせ、自らも草鞋・脚絆を履いて現場を指揮、鶴嘴を振るい開拓した。外国人を排除しての作業は逢坂山を掘り進める区間が難航、明治12年(1879年8月20日に落盤事故が発生して4人が死亡することもあったが、明治13年(1880年7月15日に完成、日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる。


更なる延伸も検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まっていない財政難の状況で、琵琶湖南岸の大津から直接東へ進出するのは無理があったため、大津からの工事は中断、代案として京都 - 大津間は途中の馬場駅(現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅へ到着、琵琶湖を鉄道連絡船太湖汽船で渡り湖東の長浜駅まで航行する手段が採用され、明治15年5月から藤田伝三郎の企画で太湖汽船会社が創業、連絡船巡航が始められた。これに先立ち、明治12年に琵琶湖から敦賀港に接続する路線測量を実行、明治13年4月に着工され4年後の明治17年(1884年4月16日に長浜駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間が開通した。工事は京都 - 大津間の時と同じく飯田が総監督を請け負い、長谷川ら養成所出身の技師が工事を手掛けて着工、逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネルを開いたことは確実に日本人技師が自立していることを示していた[4]

中山道工事の中断
京都から東京へ繋ぐ線路の道筋は中山道東海道どちらを選ぶか当初から保留したまま、両所の端から敷設作業を進める方針で着工していた。きっかけは明治3年に小野友五郎佐藤政養の2人が東海道を測量調査し、報告書に「陸・海どちらからでも運行可能な東海道より、険峻で村々の交通が不便な中山道に鉄道を通して流通を発達させた方が経済発展に繋がる」と提言、モレルの後任として来日していたリチャード・ボイルも明治7年から翌8年(1875年)の中山道調査および明治9年の報告書で同様の主張をしたため、政府も態度を決めかねていたのである。この頃士族反乱が頻発、財政難であったことも躊躇の理由に入っていた。


勝は中山道に沿って進める目的で明治14年(1881年)6月に政府に企画書を提出、長浜から東へ進み関ヶ原までの敷設を主張したが却下されたため、明治15年2月に工部卿佐々木高行に宛てて建白書を提出、前年に発足した私鉄の日本鉄道会社が東京 - 青森駅間の敷設を企画している点に触れ、鉄道推進に繋がることを歓迎しながら途方も無い計画を批判、途中の高崎までのルートが中山道を通るためその重要性を指摘、長浜 - 関ヶ原間と東京 - 高崎間両方の敷設工事を自分に任せ、合わせて敦賀方面の工事を作業していた従業員の失業を避けるための必要性も取り上げた。佐々木の認可は3月に下り、6月から翌16年(1883年5月1日にかけて長浜 - 関ヶ原駅間を開通させた。一方、東京から高崎までの計画は停滞、明治16年5月に工部省代理山縣有朋に宛てて関ヶ原から東側の大垣 - 加納までの延長を希望したが、実現までの見通しは立たなかった。


同年8月、政府から路線の内定を求められ、ボイルの報告書を元に中山道ルートが最適と具申、高崎 - 大垣間の両端から漸次測量・着工すべきと方針を固めた。9月に政府の中山道ルート決定が下りて国債も募集され、勝は同年7月に工部大輔兼工部技監になったため東京へ戻り、東京と中部地方を行き来することになる。明治15年6月5日から明治17年8月20日まで日本鉄道会社に代わり上野駅 - 高崎駅間の工事を進め(日本鉄道会社に鉄道のノウハウが無いため、資金を提供する代わりに鉄道局に工事を委託した)、明治18年(1885年3月1日に上野から南は赤羽駅 - 品川駅まで延長、10月15日に高崎から西へ横川駅を開通させ、大垣から四日市四日市港)までの敷設にも取り組んでいる。


中山道路線着工は神戸港から資材を船で運び、四日市で水揚げして名古屋経由で現場へ届ける目的から、明治17年5月に四日市から大垣まで資材運搬路線を敷く所から始まったが(同月に関ヶ原 - 大垣駅が開通)、四日市からの路線が揖斐川長良川木曽川など川を渡る場所が多く、橋の建設が難しくなることが予想され断念、計画を修正して翌明治18年3月に四日市から東の半田港を選択した上で大垣 - 名古屋駅 - 半田駅路線に変更して工事を推し進め、明治19年(1886年)3月に半田線(後の武豊線)を開通させた。だが、この頃から中山道路線に疑問を感じるようになり、明治17年5月から2ヶ月かけて高崎から中山道を辿り神戸まで往復して実地調査、中山道の険しい道のりで工事の進み辛さを実感、明治18年2月には部下の原口要に密かに東海道調査を命じて変更の可能性を探らせた。


やがて懸念は現実の物になり、横川から先は標高552mにおよぶ碓氷峠の急勾配が建設上の難問になり、機関車が登りにくい峠にこだわり、長い期間をかけて多くのトンネルや橋を作るか、長距離迂回して線路を通すかの選択に悩まされた勝は、一旦碓氷峠を後回しにして向こう側の軽井沢駅から上田駅を繋げ、上田から北の直江津港直江津駅)も繋げた直江津線の構想を先に計画した。5月から直江津線の測量に取り組んだが、難工事で一向に進展しない状況はこちらも変わらず、原口が持ち帰った東海道の調査報告を読んで路線の変更を決断した。明治19年3月に第1次伊藤内閣に提出した変更の書類は却下されたため、部下の南清らを中山道に派遣して工事困難の理由を纏め、首相となっていた伊藤と山縣の了解を取り付けた上で7月に内閣へ再提出、変更許可を貰った上で東海道路線敷設に取り掛かった。放棄された直江津 - 上田 - 軽井沢間は明治21年(1888年)12月に全通している[5]
中山道幹線」も参照



路線を東海道へ変更、完成
原口と南に任せた東海道測量が11月に仕上がると直ちに着工、原口・南・国沢・飯田・長谷川など腹心達を揃えて工事を進め、明治20年(1887年)7月に横浜 - 国府津駅が開通、そこから西の山北駅 - 御殿場駅間を阻む箱根峠越えは苦戦したが、トンネル掘りの玄人・南一郎平が箱根のトンネル開通に尽力したおかげで、山北 - 御殿場 - 沼津駅 - 静岡駅まで線路が繋がった。以後も西へ工事を延長、同年5月から翌明治21年9月まで豊橋駅 - 大府駅が開通、富士川大井川天竜川にも鉄橋を架け、明治22年(1889年2月1日に静岡駅で開業式が行われ、4月16日に横浜 - 大府間が開通した。そして7月1日に大津 - 長浜間も開通し東海道本線(397.4km)が全線開通した。


16日
に勝は伊藤に代わり首相になった黒田清隆に東海道線開通を報告、19年前の事業開始からの苦心談や開通の喜び、部下達の功労を称えた内容を送った。また、外務大臣になっていた大隈重信にも書簡を送り、鉄道敷設を決定した大隈と伊藤を褒め称えた。東海道線開通で勝は勲一等に叙せられ瑞宝章を授けられ、明治20年に子爵に叙せられていた関係で明治23年(1890年)7月に貴族院議員となり、9月6日に鉄道局が鉄道庁と改称され内務省に移管されると共に鉄道庁長官となった。この後も鉄道敷設に意欲を燃やし、1度挫折した横川 - 軽井沢間に線路を通すため仙石貢松本荘一郎本間英一郎やシャービンドンらの力を借り明治24年(1891年)に着工、翌明治25年(1892年)12月に完了した[6]


東海道線完成後は日本鉄道会社の監督・指揮を行い東京 - 青森間の開通に尽力、第1区線(東京 - 高崎)から延伸する大宮駅 - 白河駅の第2区線を明治18年1月5日から明治20年7月16日の2年で完了、白河 - 仙台駅に伸びる第3区線も明治19年8月から明治20年12月15日に完成させた。その後も北進を続け第4区線の仙台 - 盛岡駅は明治23年11月1日に、最後の第5区線(盛岡 - 青森)は明治24年9月1日に繋がり、現在の東北本線も全線開通させ、鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力した。


この間、明治24年に小野義眞岩崎弥之助らと共に小岩井農場を設立している。それは鉄道敷設と共に美田を潰した償いからだと後に語っているが、華族として授かった名誉を維持するため、大農場を元手に財産を築き、経済基盤を固める必要性に迫られたからともされる。経営は同年から始まったが、雪や冷害が酷い上に土地も生産力が弱いため作物が実る可能性は低かった。おまけに勝も農業知識が無いまま桑や牛馬を投入しては数を減らし、多忙のため管理を任せた人間も農業が不得意で、牧畜の飼料が高くかかり売却しても割に合わない赤字経営に陥った。完全に経営に行き詰った勝は藤波言忠新山荘輔に相談の上で明治31年(1898年1月30日に牧場を岩崎弥之助の甥久弥に譲り経営から手を引き、小岩井農場は彼らに委ねられることになる[7]

詳しいことは、「井上 勝ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D
(wikiより)

2403   井上勝

井上 勝

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宝生新(ほうしょう あらた/しん、1870年11月16日明治3年10月23日) - 1944年昭和19年)6月10日)はワキ方宝生流能楽師。ワキ方宝生流十世宗家。本名、宝生朝太郎。


九世宗家宝生金五郎の子として東京日本橋に生まれる。八世宝生新朔は伯父に当たる[1]。明治・大正・昭和期に活躍し、名人と謳われる。夏目漱石に謡を教えたことでも知られる。


子に宝生哲。女婿に森茂好、孫に森常好。次女の女婿に宝生弥一、孫に宝生閑

著書
・『宝生新自伝』能楽書林、1949年

逸話
犬が好きで飼育していた。子犬を一匹、弟子が風呂敷に包んで電車にて夏目家に運搬し、これを漱石が引き取った[2]。ただし後年そのことを忘れていたともとれる発言をしている。[3]

脚注
1. 宝生新 コトバンク
2. 夏目漱石『硝子戸の中』
3. 宝生新『謡曲の稽古』
(wikiより)

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小河吉三郎 ( おがわ - きちさぶろう )
(1837 - 1863 )

幕末の武士。
天保 ( てんぽう ) 8年生まれ。


常陸 ( ひたち ) 水戸藩士。


万延元年 林忠左衛門らと江戸の鹿児島藩邸で攘夷 ( じょうい ) の実行を訴えたが、水戸に送還されて禁固処分となる。


釈放後京都で同志と交わる。
 
沢宣嘉の挙兵 ( 生野の変 ) に加わり文久 3年 10月 14日戦死。27歳。

変名は大川藤蔵。

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四代目・山木検校
弘化 3年 ~ 大正 10年 6月 24日 ( 1846 - 1921 )


山田流筝曲家元。

本姓、小林勝太郎。千賀。

76歳没。


門下に越野栄松や藤井千代賀がいる。


作曲:「稀の寿」、「四季の遊び」。

「聞法院千賀日悟居士」。

隣接する「山木家先祖代々有縁無縁諸精霊位菩提塔」の墓誌にも名がある。

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五代目・杉本忠惠/杉本良献 ( すぎもと - よしのり )
享保 20年 ~ 天明元年 7月 11日 ( 1735 - 1781 )


医師。

名、安次郎。父、宮村永庵富良 ( 2男 )。

良貞が病のため養子となる。


寛延 3年 ( 1750 ) 16歳で相続。


明和 6年 ( 1769 ) 番医。

「聚徳院道勇日惠居士」。

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山岡松子 ( やまおか - まつこ )     
文久 2年 1月 ~ 昭和 19年 11月 21日 ( 1862 - 1944 )


著述家?。


父、山岡鉄舟 ( 長女 )。


山岡直記の姉。


鉄舟似で、娘時代には自ら竹刀をもって道場に通い山岡無刀流の修行をする。


写真師と結婚したが死別する。


その後は、筑前琵琶などを弾いて暮した。


東京日日新聞社会部の「戊辰物語」を編著。


これでは、語り部として 50年前の世代・武家の生活・山岡無刀流道場での稽古などについて語っている。


著書:「戊辰物語」。83歳没。

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この土塁は、蒲生氏郷が会津に入部し、文禄元年 ( 1592年 ) 若松城の改築に着手した際に築造されたとされ、若松城の追手として最重要地点であった。


また、外郭と内郭を区画した若松城の土塁の遺構で、市内に現存するものは、わずかであり貴重なものである。

今回、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三ヶ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたものである。
(案内板より)

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日本最初の喫茶店発祥の地
日本最初の喫茶店「可否茶館 ( かひさかん )」跡地

明治 21年 ( 1888年 ) 4月 13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶 ( 別名・西村鶴吉 ) によりこの地に設立された。
 
二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。


一階には『トランプ, 玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。


コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していた。
ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。
 
設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戦」で有名な鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場 ( コーヒーハウス ) とすることを理念としての開店であった。


可否茶館開業報條

遠からん者は鉄道馬車に乗ッて来たまへ近くは鳥渡寄ッて一杯を喫したまへ抑下谷西黒門町二番地 ( 警察署 ) 隣へ新築せし可否茶館と云ツパ広く欧米の華麗に我国の優美を加減し此処に商ふ珈琲の美味なる思はず腮を置き忘れん事疑ひ無し館中別に文房室更衣室あるは内外の遊技場を整へマッタ内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて其価の厳なる只よりも安し咲き揃ふ花は上野か浅草へ歩を運はべらるゝ紳士貴女幸ひ来館を忝ふして当館の可否を品評し給へかしと館主に代りて鴬里の思案外史敬って白す


定価カヒー 一碗金壱銭半間牛乳入金弐銭

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土佐藩・鮫洲抱 ( さめずかかえ ) 屋敷跡


土佐藩・浜川 ( はまかわ ) 砲台跡


浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱 ( かかえ ) 屋敷であった。


幕府への「指出 ( さしだし )」によると 869坪が抱屋敷の広さである。( 抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。)


ここは土佐から送られて来る荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。


ペリー来航の嘉永六年 ( 1853 ) と茶飯は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。


砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2,300坪に拡大させている。

砲台は 8門を設置していた。


警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。


浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約 200メートルである。


若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。
(案内板より)

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裕軒川本幸民略歴

文化七年  摂津国有馬郡三田城下に生まれ、裕軒はその号、代々九鬼藩医を勤める

文政十二年 藩主承烈公より異例の命を受け、江戸に至り西洋産科医足立長雋の門に入り蘭医方を学ぶ

天保元年  誠軒坪井信道に入門し、緒方洪庵、青木周弼等と蘭学を学び、同四年学なり三田に帰り京阪神の有名医家を訪ねる

天保五年  藩医に列し、同六年七月芝露月町に医を開く、同年十二月伊藤玄朴の媒酌により、坪井師の義妹で且つ高野長英の義姉である水戸藩西学都青地林宗の三女秀と結婚する

嘉永四年  青地林宗の著を増補し「気海観覧広義」を著述し、同六年「遠西奇器述」を著し警世した

安政三年  藩所調所教授手伝出役、同四年開成所教授職並、同六年教授職に進む、この間島津斉彬公の知遇を得、公の為に訳しまた試作した物多い、同四年五月公は幸民を西洋学藩校の学頭にと薩摩藩に入籍させたが、公翌年俄に薨去し夢果たされず

幸民は、物理・化学を研究し
一、  科学書に初めて「科学」という文字を用いた
一、  「マッチ」、「ビール」を試作した
一、  「銀板写真」を成功など


文久二年  幕臣となり、訳書三冊を献じた

慶応四年  三田に帰り、科学書を編纂し、清一と共に英蘭学の塾を開く

明治三年  清一大政奉還出仕となり、共に上京したが、翌四年六月一日没する、享年六十一歳
(碑文より) 


〇 川本幸民

川本 幸民(かわもと こうみん、1810年(文化7年) - 1871年7月18日(明治4年6月1日) )は、幕末明治維新期の医師および蘭学者。名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安[1][2]。その業績から、日本化学の祖とも言われる[3][4]


幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、白砂糖[注釈 1][5]マッチ[6][7]銀板写真[6]の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。 幸民は日本で初めてビール醸造したと推定されている[注釈 2][1][5][3][6]。 また当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたことでも知られている[13]

来歴
川本幸民は摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)で1810年に生まれた[1][14][6]


数え年
で10歳のとき藩校で学び始めた。1827年からは木梨村(現在の加東市)で1年間、漢方医学を学んだ[14]


2年後の1829年、三田藩藩主の九鬼隆国に命ぜられ、西洋医学を学ぶため江戸(現在の東京)に留学した。足立長雋坪井信道らに蘭学を学び、物理化学に精通した[14][6][11]


1833年
三田に帰郷し、父と同じ藩医に任じられた。同年、青地林宗の娘、秀子と結婚した。しかしながら、その翌年に傷害事件に関係したことで6年間の蟄居を余儀なくされた。蟄居から解放された後も、2度ほど火事にあっており、文字通り幸民にとっては不遇の時代であった[14][6]


対照的に、1840年代後半から科学技術の分野で大きな業績を残し続けた。幸民の『裕軒随筆』によれば、1848年白リンマッチを試作している。また幸民は1851年の『気海観瀾広義』を皮切りに多くの翻訳を含めた著作を出版した[6]薩摩藩藩主の島津斉彬に見出されると、1854年には薩摩藩籍となった。また薩摩藩校学頭も務めた。さらに造船所建造の技術指導のため実際に薩摩に赴いたとも伝えられている[1][14][6]。この頃の弟子に、松木弘安(寺島宗則)、橋本左内等がいる。


1859年東京大学の前身である蕃書調所の教授となった[14]1861年には幸民の有名な著作『化学新書』を出版し、近代化学を日本に移入した。宇田川榕菴の『舎密開宗』と並び江戸時代の重要な化学書の一つとされる。化学新書は蕃書調所において教科書として用いられた[13]


1868年
、幸民は三田に帰郷し、私塾の英蘭塾を開校すると、分校が出来るほど盛況となる[14][15]。その後、息子の清二郎が太政官出仕となり、共に再び東京に戻った[14][5]1871年6月1日、東京にて62歳で亡くなった[1][5][14]

死後
1953年、三田市立三田小学校正門前に顕彰碑が建てられた[10][16]


2008年
キリンビールは「ビール5000年の旅探究プロジェクト」の一環として幸民が醸造したとされるビールを取り上げ、プロモーションに用いた[17]2010年には、生誕200周年を記念して、幸民が醸造したとされるビールが小西酒造により復刻された。幸民の訳書『化学新書』などを参考に当時の原料や醸造法で醸造された。このビールは「幸民麦酒」として販売されている[3][18][19]


日本学士院は『化学新書』を含む多くの関連する資料を所蔵している。これらの資料は2011年日本化学会により化学遺産に認定された[20]

詳しいことは、「川本幸民ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E6%B0%91
(wikiより)

1067   川本幸民

川本幸民

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中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、1867年12月20日慶応3年11月25日) - 1927年昭和2年)3月1日)は、日本の官僚実業家政治家である。南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した。


作家・夏目漱石の親友としても知られ[1]、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。

生涯
出身と名前
安芸国佐伯郡五日市村(現・広島県広島市佐伯区五日市町)に酒造業柴野宗八の五男として生まれる。兄は大審院検事鈴木宗言[2][3]。養子先が岩国(山口県)の中村家だったので山口出身とも紹介されることも多い。


名前は、初めは柴野姓で、幼名は登一(といち)、名を是公(よしこと)と読むが皆、「ぜこう」と呼んだ。第一高等中学校(のちの一高)で同期であった夏目漱石なども「ぜこう、ぜこう」と呼び捨てにし、是公は是公で漱石のことを「金ちゃん」と呼んだ[注 1]。是公の次男・小次郎によると、是公が外国旅行に使った鞄にはY.NAKAMURAとあったという。「これきみ」とも呼ばれた。

大蔵官僚から台湾総督府へ
五日市小学校から、広島尋常中学(現・広島国泰寺高等学校)から第一高等中学校を経て明治26年(1893年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入省[3]。中村家に養子にいくことになったのは第一高等中学校の在学時。


秋田県収税長を経て、台湾総督府に赴任する。ここで、民政局長(のちに民政長官)として赴任してきた後藤新平との出会いが是公の一生を左右した。是公は祝辰巳宮尾舜治とともに後藤腹心の三羽烏といわれ、台湾総督府事務官、臨時台湾土地調査局長、専売局長などを歴任し、総督府の総務局長財務局長に抜擢される。後藤との深い信頼関係は一生続くこととなる[4]

満鉄時代
1904年(明治37年)、日露戦争が始まり、1905年(明治38年)、ポーツマス条約が結ばれる。その結果、日本は現在中国遼東半島の租借権と、長春以南の東清鉄道つまり南満州鉄道の利権をロシアから引き継ぐことになった。


台湾統治で実績を挙げていた後藤は、半官半民の国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁となり、40そこそこの是公を副総裁に抜擢した。後藤は「午前八時の男でやろう」と是公に人事を任せ、若い人材を登用させた。三井物産門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはわずか32歳であったが、人物・識見を買われて理事となった。是公は後藤の意向で一時関東都督府民政長官となり、同時に満鉄副総裁の事務も取り扱った[注 2][5]


1908年、後藤が2年で逓信大臣に抜擢されて満鉄を去ることになると、彼は若すぎるとの批判を押し切って是公を第2代満鉄総裁に据えた。満鉄総裁としては一番長く5年間務め上げ、後藤のプランに従って満鉄の基礎を作った。後藤が「大風呂敷」といわれたのに対し、その仕事ぶりは「ジミ主義」(東京朝日新聞)といわれた。


1909年、ハルビン事件で伊藤博文が暗殺された現場に居合わせ、中村にも銃弾が2発かすったが、ほぼ無傷だった。


1913年大正2年)12月、第1次山本内閣内務大臣だった立憲政友会原敬の横車で、心ならずも職を追われることになった。満鉄に対する政党の介入のはじめであった。副総裁の国沢新兵衛ら、ほとんどの役員が是公に殉じて辞めた。


菊池寛は「満鉄外史」で次のように是公の業績を総括している。

極めて短期間の後藤一代といふものは、ただ例の、景気のいいかけ声で、事業の厖大なアウトラインだけを描いたに過ぎなかった。
すべての仕事をぱたぱたと着手したのは中村二代目からである。
――本社の造営、埠頭制度、港湾土木、倉庫施設、大連市街その他付属地の経営、ホテル事業、病院設備、学校創立、満鉄本線改修、安奉鉄道敷設、上海・営口・安東の各埠頭造営、海運事業創始、電鉄・瓦斯の施設、中央と各地の試験所開始、公所・地方事務所の設置、各種工場、公園、図書館、満蒙産業調査機関、その他いろいろの施設――以上悉く是公の敏腕によつて作り出されたものであった。(以上引用)

また是公は夏目漱石の大学予備門以来の親友としても知られるが、満鉄総裁時代に夏目を満州に招待し、夏目はその経験を「満韓ところどころ」に発表した。



鉄道院時代
1917年(大正6年)5月16日、終身の貴族院議員に勅撰された[6]。これは寺内内閣内務大臣鉄道院総裁であった後藤新平の働きかけによるものだった。後藤は自らの鉄道広軌化の方針を推進するため議会対策として腹心の是公を貴族院に送り込んだわけである。まもなく同年5月21日、後藤は是公を鉄道院副総裁に任じ、脇を固めることになった。


1918年(大正7年)4月23日、後藤が外務大臣に横滑りすると、後藤が兼任していた鉄道院総裁には、是公が就任した。しかし9月29日、寺内内閣は総辞職し、是公はわずか半年で鉄道院総裁を追われることになった。

東京市長時代
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生した。1924年(大正13年)10月8日、後藤の強い推薦により、第9代東京市長となり、震災後の東京の復興に取り組んだ[7]。大正15年(1926年)6月の市会議員選挙で憲政会が圧勝したのを機に辞職した。その後、しばらく悠々自適の生活を送るが、1927年(昭和2年)3月1日、親友漱石と同じ胃潰瘍で急死した。享年60。

邸宅
中村は1915年大正4年)、東京・渋谷町(後の渋谷区羽澤町、現在の渋谷区広尾)に、敷地面積約3,000坪の自邸を構えた。


この土地・家屋は中村の死後所有者を代え、1950年昭和25年)からは「羽澤ガーデン」として営業、囲碁将棋の名勝負の舞台として、また結婚式場、レストランなどとして親しまれた。その後、羽澤ガーデンは2005年平成17年)12月をもって営業を終了した。跡地については分譲マンションの開発が提示されたため、再開発の差し止めと保全を求める運動が起こり訴訟にも発展したが、最終的に建物や庭園の一部を保存することで和解が成立した。


詳しいことは、「中村是公ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%AF%E5%85%AC
(wikiより)

1065 中村是公

中村是公

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3代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1839年天保10年)(逆算) - 1881年明治14年)8月16日)は、落語家。本名、嶋岡(野本?)新兵衛。

人物
当初歌舞伎役者で、本名兵衛にちなんで「のしん」と名乗ったので、後に「のしん」の圓生と渾名(あだな)されたとされていたが、誰の役者の弟子だったのか、旧幕府時代に既に野本という名字のある身分だったのかなどについて何も傍証となるものがなく、さらに本名を嶋岡と載せている文献もあるので、その由緒については疑問がある。一方で天狗連の真打格で、○○連の真打を略して「のしん」が渾名されたという説もある。

安政の末に役者から転じて、江戸噺家4代目桂文治門下で万治(萬治)となったとされるが、確証はない。明治維新前後に三遊亭圓朝門下に移り、初代にあたる三遊亭圓楽を名乗る。


圓朝の下でめきめきと頭角を現し、演芸評論家関根黙庵によると、初代三遊亭圓馬初代三遊亭圓橘3代目三遊亭圓喬(後の4代目三遊亭圓生)と並んで「圓朝四天王」の一人に数えられたという。関根黙庵の説では、1872年両国立花家杮落としに際して、圓朝が素噺に転じるために芝居噺の道具を圓楽に全て譲って、3代目圓生を襲名させたと言う。しかし、実際はもう少し早く1869年から1870年ころ襲名したのではないかとも思われる。


1881年
に、43歳で死去した。


弟子は初代三遊亭圓丸ら大勢いた。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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二代目・廣瀬辰五郎 
明治 10年 ~ 昭和 21年 10月 5日 ( 1877 - 1946 )


江戸千代紙「いせ辰」二代目。名、芳太郎。


東京日本橋出身。


父を手伝い明治 3年 ( 1870 ) 店を神田に移し、文明開化の波を読み、築地居留地や横浜外国商館に千代紙細工や錦絵などを販売、商売を広げ、欧州に輸出も手掛けた。


河鍋暁斎・柴田是真らの画家と交流し、その公私の趣味は 3代目に大きく影響した。

「雲晴院辰誉吉祥居士」。

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高木一三 ( たかぎ - いちぞう )
( 1888 - 1950 )

大正 - 昭和時代の養蚕学者。


明治 21年生まれ。


東京高等蚕糸教授、東京農工大教授を歴任。


日本で最初に桑の栽培について理論的体系を築いた。


昭和 25年 1月 19日死去。62歳。

静岡県出身。東京帝大卒。

著作に「栽桑学」。

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大友 義方(おおとも よしまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本


高家旗本であった実兄大友義珍の養子となる。

寛政元年(1789年)5月15日、将軍徳川家斉御目見する。

寛政6年(1794年)10月20日、高家見習に召し出される。

同年10月23日、従五位下・侍従・因幡守に叙任する。

同年閏11月26日、高家職に就く。

享和
3年(1803年)3月27日、義珍の隠居により家督を相続する。

文化12年(1815年)7月20日、病気を理由に辞職する。

文化13年(1816年)3月29日、隠居し養子(甥)の義智に家督を譲る。

文化14年(1817年)7月23日死去、71歳。法名は仙齢院。
(wikiより)

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本野 一郎(もとの いちろう、1862年3月23日文久2年2月23日) - 1918年大正7年)9月17日)は明治大正外交官政治家である。子爵

来歴
肥前国佐賀久保田徳万村生まれ。11歳で渡仏し、3年間パリで学ぶ。横浜の小学校を卒業後、東京外語学校へ進学。18歳で横浜貿易商会に入社し、リヨン支店に赴任。務めの傍ら、富井政章梅謙次郎と共にフランスのリヨン大学で法学を学び、法学博士の学位を得る。特に梅謙次郎とは同じ下宿で暮らし、同時に学位を得た[1]


フランス滞在が8年ほど過ぎたころ、外務大臣だった大隈重信に誘われ帰国し、陸奥宗光外務大臣の秘書官となる。同時に、帝大などで国際法を教える。その後、ベルギーフランスロシア公使を経て、ロシア大使に就任。10年に渡るロシア駐在中の功績から子爵が授けられ、寺内内閣外務大臣へと出世したが、胃癌を発病し辞職、57歳で亡くなる。[1]

人物
・フランスの銀行家で富豪のアルベール・カーンと家族ぐるみの交友があり、しばしばカーンの南仏の別荘でバカンスを楽しんだ[2]

家族
父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者早稲田大学教授本野英吉郎京都帝国大学教授の本野亨建築家本野精吾がいる。妻は、野村靖の娘で、万里小路正秀男爵(万里小路正房八男)の元妻だった久子(1868-)。長男の本野盛一(1895-)も外交官(外務省情報部第二課長、子爵)[3]。孫に元駐フランス大使の本野盛幸がいる。

年譜
1873年 単身フランスパリに留学[1]

1876年 帰国し、東京外国語学校入学[1]

1880年 横浜貿易商会入社[1]

1881年 フランス・リヨン大学法学部入学[1]

1889年 法学博士の学位を授与され、帰国[1]

1890年 外務省翻訳官[4]

1893年 法学博士(帝国大学)、法典調査会委員[1]。久子と結婚

1895年 長男・盛一誕生

1896年 ロシア公使館一等書記官[4]

1898年 ベルギー公使[4]

1901年 フランス公使[4]

1905年 3月1日奉天会戦に際し、フランス外務大臣テオフィール・デルカッセを通じて講和の打診を受ける

1906年 ロシア公使。日露戦争後の日露協約締結に尽力

1907年9月14日 男爵となり勲一等旭日大綬章受章

1908年5月 ロシア大使

1916年

  ・7月14日 子爵となる

  ・10月9日 外務大臣寺内内閣)に就任

1917年 ロシア革命に対しシベリア出兵を強硬に主張

1918年

  ・4月23日 外務大臣を辞職 [4]

  ・9月17日 死去。勲一等旭日桐花大綬章追贈

詳しいことは、「本野一郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)

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本野一郎

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胡録神社御由緒
當社は 永禄四年八月四百年前 川中島合戦の折 上杉の家臣・高田嘉左衛門 ( たかだかさえもん ) なるもの戦 ( いくさ ) に敗れ、計 ( はか ) らずも集りたる十二名の同志と関東に厄 ( えき ) 難を のがれて落ちのび當地の汐入に竹内、杉本、杉山等数名と永住の地と定めて土着し 村落生活の安寧を祈願するため守護神 ( しゅごしん ) として享保四年九月十九日今より弐百五十余年前 面足尊と惶根尊の両神を一祠に奉齋 ( ほうさい ) 崇敬 ( すうけい ) されたと伝えられる。
       
當社は古くは大六天と稱したが 明治二年太政官達により神佛分離がされた際 往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事とまた當地汐入特業として盛んであった胡粉 ( ごふん ) 作の胡の字と大六天の六にあやかり御社号を胡録神社と改稱された


神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたるものであるが現在の拝殿の改築並に神楽殿社務所の新築造営工事は昭和貮年六月に竣工された


明治百年を奉祝いたし記念碑を建立する
(碑文より)

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千光寺の御堂へのぼる石段は

      
                わが旅よりも長かりしかな


東京の人、昭和十一年、五十一才のとき、四国路、中国路、瀬戸内に歌行脚を試みたが、その途中、尾道を訪れて浄土寺や千光寺に詣でたときの一首
(案内板より)

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河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。

来歴
江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本芝居台本川柳狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当されてしまう。貸本屋手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。


やがて「芳芳」の雅号で狂歌俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、芝宇田川町踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ げんぞう)と名を改める。そもそも抜群の記憶力があり、『勧進帳』などは若い頃から読み尽くしているので、その全科白を暗記して難役・弁慶をつとめる七代目市川團十郎後見、これで認められるようになる。天保12年 (1841年) 芝 晋輔(しば しんすけ)、天保14年(1843年)には二代目 河竹 新七(にだいめ かわたけ しんしち)を襲名し立作者となる。嘉永4年(1851年)11月江戸河原崎座顔見世狂言『升鯉滝白籏』(えんま小兵衛)が好評で注目される。


立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが[注釈 1]四代目市川小團次と出逢ったことが大きな転機となる。嘉永7年(1853年)に小團次のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。幕末には小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなった。


慶応2年(1866年)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。


生涯に書いた演目は300余。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤した坪内逍遙でさえ、新七のことになると「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁」と手放しで絶賛した。一方新七の方はというと、はじめのうちは九代目に乞われて活歴物をいくつか書いてはみたものの、その九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさしてそろそろ作者家業もおっくうになってきた。明治14年(1881年)、團菊左のために散切物の『島鵆月白浪』(島ちどり)を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言し、さらにその名を黙阿弥(もくあみ)と改めた。


しかし黙阿弥に匹敵するような作者は当時他にはいなかった。結局黙阿弥は引退後も「スケ」(助筆)の名で事実上の立作者であり続けたのである。黙阿弥の存在はそれほど偉大だった。演劇改良運動の推進者ひとりだった依田学海は、自ら文化人を自負する漢学者だったこともあり黙阿弥を「馬鹿」と酷評したこともあったが、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)で主人公の宗五郎が最愛の妹を殺されて禁酒を破り酔態に陥ってゆくくだりを目の当たりにすると、「あのように書けるものではない。天才だ!」と絶賛している。やがて演劇改良運動が活歴の失敗という形で幕を下ろすと、黙阿弥改メ古河黙阿弥(ふるかわ もくあみ)の意欲的な創作活動は以前にも増して活発になった。そしてそれは最晩年まで変わることはなかった。


明治26年(1893年)1月東京歌舞伎座『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、本所二葉町の自宅で脳溢血のため[2]死去した。享年76(満年齢)。浅草北清島町・源通寺に葬る。法号は釋黙阿居士[3]

作風
黙阿弥の作品の特徴としてまず第一にあげられるのが、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる華美な科白にある。たとえば『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚の場」の「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三の独白は、「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」と朗々と唄い上げる極めて洗練されたもので、しかも類語掛詞を駆使した七五調の句が観客を魅了する。〆句の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」とは、実は通りすがりの夜鷹を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合が言い表されているのだが、ここで強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが黙阿弥の真骨頂である。


黙阿弥が特にその本領を発揮したのは世話物で、特に盗賊を主人公に添えた一連の演目は「白浪物」として一つの分野を確立するまでに至った。黙阿弥の白浪物に登場する悪人は、いずれも小心者だったり因果に翻弄される弱者であり、そこがふてぶてしい極悪人が最後に高笑いするような大南北の作品と大きく異なる点である。


黙阿弥はまた、現実的な内容をあくまでも写実的に、それでいてどこまでも叙情的に描くことに秀でていた。黙阿弥の演目の多くは市井の人、それも社会の底辺で喘ぎながら、毎日を綱渡りのようにして暮らしをしている者を主人公としている。それでいて下座音楽浄瑠璃が多用されているため、全体の雰囲気が陰鬱さに包まれることがなく、情緒豊かで印象的な叙事詩に仕上げられている。


明治以後は『船弁慶』や『紅葉狩』などの松羽目物の作詞も行った。晩年には自作の演目を全集としてまとめた『狂言百種』を発行している。

詳しいことは、「河竹黙阿弥ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%B9%E9%BB%99%E9%98%BF%E5%BC%A5
(wikiより)

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河竹黙阿弥

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巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。池田、後にを名襲名。大任致遠または起巌菱湖で、別号に弘斎通称右内と称した。


五言律詩行書双幅

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『五仙騎五羊』

2518   巻菱湖書


業績
明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている[1]

略歴
幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職にの手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書とを学んだ。以後、楷書欧陽詢褚遂良行書李邕王羲之草書を『孝経』・『書譜』・『十七帖』・『絶交書』、隷書を『曹全碑』に範をとり、以前の書法に傾倒した。


29歳の時、『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。

菱湖流
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。

菱湖書体
現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つが菱湖体である。タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多い。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、阪田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。

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巻菱湖書の将棋駒


門弟
門弟に菱湖四天王萩原秋巌中沢雪城大竹蒋塘生方鼎斎)や巻鴎洲(-おうしゅう、1814年 - 1869年)、中根半仙などがある。鴎洲は菱湖の子で、優れた才能を持ちながら病弱のため早世した。巻菱潭(-りょうたん、1846年 - 1886年)は鴎洲の門人で、鴎洲没後、養子となり跡をついだ。[2]



脚注
1.  林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「巻菱湖石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)
2. 飯島春敬 P.759 - 760

参考文献
・「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)

・藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X

・飯島春敬 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)

・林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)

関連項目
日本の私塾一覧

日本の書道史


外部リンク
巻菱湖記念時代館
駒の詩 書体への誘い2~菱湖
(wikiより)

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大久保湘南 ( おおくぼ - しょうなん )
( 1865 ‐ 1908 )


明治時代の漢詩人。

慶応元年10月19日生まれ。

円山溟北 ( めいほく ) に学ぶ。

内務省属官、函館日日新聞記者などを務める。

明治 37年上京して随鴎 ( ずいおう ) 吟社を創立し、漢詩文の添削指導をした。

明治 41年 2月 9日死去。 44歳。

佐渡 ( 新潟県 ) 出身。名は達。字 ( あざな ) は雋吉 ( しゅんきち )。

著作に「随鴎集」「湘南詩稿」など。

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大場 一真斎(おおば いっしんさい、享和3年(1803年) - 明治4年1月15日1871年3月5日))は、江戸時代幕末)の水戸藩家老である。父は大場景命、母は稲葉通義の娘。熊之助・弥右衛門・景淑・風軒。


享和3年(1803年)に生まれる。天保2年(1831年)に家督を継いで徳川斉昭に仕え、その藩政改革に協力した。斉昭から重用されて大番頭・大寄合頭にまで任じられるが、弘化元年(1844年)に斉昭が幕命により隠居させられるに伴って失脚した。しかし斉昭が復帰すると同時に家老として復帰を許される。


斉昭の没後は徳川慶篤に仕え、斉昭没後に政争が激化した水戸藩の混乱収拾に尽力したが、水戸藩浪士が引き起こした東禅寺襲撃事件の責任を問われて家老職を解任させられ、謹慎に処された。


しかしやがて復帰を許され、慶篤に従って上洛する。慶篤の実弟・徳川慶喜が第15代将軍になると慶喜から直臣として迎えられ、二条城留守居役を任された。そのまま明治4年(1871年)に亡くなるまで京都で余生を送ったといわれる。享年69。

関連項目
大場氏
(wikiより)

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御徒士町狩野家。  


狩野長信を祖とする表絵師の家系。


 表絵師:徳川幕府の御用絵師で、狩野家奥絵師の一族や門人が独立して一家をかまえたもので、奥絵師よりは一段低い格式。


駿河台狩野家をはじめとし、御徒士町・猿屋町代地・山下・深川水場・麻布一本松・根岸御行松・神田松永町・芝愛宕下・築地小田原・金杉片町・分家・本所緑町・稲荷町・勝田の 15狩野家があった。


● 五代目・狩野玉栄在信 ( かのう ぎょくえいありのぶ ) 

享保 15年 ~ 文化元年 6月 21日 ( 1730 - 1804 )


日本画家。御徒町家・五代目。名、在信。号、玉栄・長墨斎。


父、四代目・狩野玉燕季信 ( 3男 )。兄、休伯寿信の養子となり跡を継ぐ。


寛政 9年 ( 1797 ) 隠居。


戒名「三絶院殿通霊日状居士」。

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佐野幸吉 ( さの - こうきち ) 
明治 39年? ~ 平成 6年 8月 7日 ( 1906? - 1994 )


化学冶金学者。


昭和 46年 ( 1971 - 1972 ) 日本金属学会第 20代会長。

名古屋工業大学長。高岡短期大学創設に参画。88歳没。


著書:「日本人の特異体質がもたらすわが国科学技術における効用」。

「慈山院殿誠徳日幸居士」。

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2代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、文化3年(1806年、逆算) - 文久2年8月12日1862年9月5日))は、落語家。本名、尾形 清治郎(清次郎とも)または盤蔵。


本所は竪川に出生。当初は袋物渡世を営んでいた。父は尾形源蔵。最初は初代 三升亭小勝の門下で三升屋しげ次といい声色師だったともいわれる、初代 三遊亭圓生の門下で初代竹林亭虎生、三遊亭花生を経て初代立花屋圓蔵となった。


天保
12年(1841年)ころ、2代目 立川焉馬の後ろ盾で2代目三遊亭圓生襲名。


始め四谷に住み頭部の形が木魚に似ているところから「よつもくの圓生」と呼ばれた。後に湯島の大根畑に移った。


弟子には初代 橘屋圓太郎三遊亭圓朝父子がいる。圓生は圓朝につらく当たり、弟子である圓朝の出し物を先に演じてしまうなどの妨害をしたため、かえって圓朝に創作力が付いたといわれている。他に2代目 立花屋圓蔵圓次郎(のちの三遊亭圓麗2代目 三遊亭小圓朝の実父))、桃月庵白酒(のちの5代目 朝寝坊むらく)、三遊亭圓太(のちの初代 三遊亭新朝)、3代目竹林亭虎生(のちの6代目 船遊亭扇橋)、初代 三遊亭圓馬らがいた。


圓朝全集』の中では、『雨夜の引窓』『畳水練』が圓生作で、他にも『累双紙』も圓生の作だという。落咄の作は2代目 立川焉馬編『昔噺 当世推故伝』(1848年)などでも知られる。怪談咄も得意とし『雪駄直し長五郎』『佐倉宗五郎』なども演じた。芸に対して熱心だったことが三遊亭圓朝の『名人くらべ』に伝えられている。


晩年は病がちになり不如意な生活を送ったが、その際、圓朝は怨みを忘れて手当てを贈った。没後も遺言に従い、三遊派が勢いを盛り返した慶応元年(1865年3月21日(初代圓生の命日)に本葬を行なった。三遊亭圓志(本名未詳)は養子。盲目の娘は、終生圓朝が世話をしたという。


なお圓生の名跡は圓朝の弟子の初代 三遊亭圓楽が襲名した。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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山岡鉄雄 ( やまおか - てつお )     
明治 30年 2月19日 ~ 昭和 18年 5月 24日 ( 1897 - 1943 )

子爵。

山岡鉄舟の孫 ( 長男子爵直記の子 )。

昭和 2年 ( 1927 ) 襲爵。

昭和 18年 ( 1943 ) の没後は、女戸主となり爵位継承権喪失。正五位。47歳没。

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長命寺(ちょうめいじ)は、東京都墨田区にある天台宗の寺院。山号は宝寿山。院号は遍照院。本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神のうち弁財天を安置している。「長命寺桜もち」で知られる。


由緒
この寺の創建年代等については不詳であるが、平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 – 1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。

文化財

・区指定有形文化財

  ・松尾芭蕉「いざさらば」の句碑

  ・勝川春英翁略伝の碑

・区指定有形民俗文化財

  ・庚申塔1659年建立)

・区指定史跡

  ・橘守部・橘冬照墓

・区指定無形民俗文化財

  ・隅田川七福神めぐり

月香楼
1888年明治21年)の夏、境内にあった桜もち月香楼の二階に、正岡子規が仮寓していたことがある。子規は三か月あまり滞在して、『七草集』を書いたが、その「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の作品に登場するシテの女のモデルが、月香楼の一人娘山本陸(やまもとろく)である。陸は当時15,6歳で、子規の思慕の対象として噂の種となった。[1]

所在地
・東京都墨田区向島五丁目4番4号

門前
長命寺のある向島は、徳川吉宗ゆかりの桜の名所「墨堤の桜」を抱え、花見や隅田川花火大会でにぎわう。関東風の桜もち発祥の地とされる「長命寺桜もち」や、言問橋の名称の由来となったとの説もある「言問団子」が並ぶ。

脚注
1. 『子規全集』第18巻175ページ

外部リンク
墨田区文化財

(wikiより)


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浅草文庫は、明治七年 ( 1874 ) 七月に創設された官位の図書館である。


翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。


当寺の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊とも十三万余冊ともいわれている。


現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣・三条実美 ( さねとみ ) の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。


明治十四年五月に閉鎖。


跡地は翌十五年に設立の東京職工学校 ( 旧東京高等学校、現・東京工業大学 ) の敷地の一部となった。


関東大震災後の大正十三年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。


昭和三年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。


高さ四メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和十五年十一月建立された。
(案内板より)

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この地は、真光寺 ( 戦災にあい世田谷に移転 ) の境内であった。


伝えによれば、寛文十年 ( 1670 ) ここに薬師堂が建立された。


当時御府内に奇病猖獗 ( しょうけつ ) し、病にたおれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して病気が治まったといわれている。


本来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。


以来人々に深く信仰された。


「本郷夜市 ( よみせ ) は著名なり。

連夜商人露天を張る。

毎月八日・十二日・二十二日は薬師の縁日なり。

縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり・・・」
(新選東京名所図絵より)


本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大へん賑やかであった。


牛込神楽坂善国寺の毘沙門天縁日と共に大変有名であった。


御堂は戦災で消失したが、昭和二十二年に改築され、さらに昭和五十三年に新築された。
(案内板より)

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三代目・杉本忠惠/杉本良英 ( すぎもと - よしふさ )
元禄 11年 ~ 寛保 2年 4月 2日 ( 1698 - 1742 )

医師。

3代目・杉本忠惠。

名、元慎。


享保 9年 ( 1724 ) 8代将軍・徳川吉宗に初拝謁。


本科を専門とし小石川養生所で治療に当たる。

「能治院是好日差居士」。

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佐野 実(さの みのる、1951年4月4日 - 2014年4月11日[1][2][3][4])は、日本の料理人実業家で、ラーメン店「支那そばや」創業者。神奈川県横浜市戸塚区出身。血液型A型。メディアに多数出演し、「ラーメンの鬼」の異名で知られた[5]

経歴・人物
神奈川県横浜市戸塚区に4人兄妹の次男として生まれた。家が貧しくつねに空腹だったため、幼いころから「将来の夢はラーメン屋か寿司屋になること」と言っていたらしい(本人は記憶していない)[6]


父親は酒乱気味で、少年時代の佐野に度々暴力を振るっており、時には庭の樹木に縛り付けた事もあったと言う。その影響からか、本人も短気ですぐ「キレる」性格故、同級生への暴力行為を理由に幼稚園を退園処分になった事もあった。


横浜市立戸塚小学校
横浜市立戸塚中学校時代は新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして小遣いを稼ぎ、そのでラーメン屋に通った。中学生のとき初めてラーメンを作って家族にふるまい、旨いと褒められた。また、母親は本人を身籠っていた時からラーメンを食べ続けており、本人曰く「ラーメンが胎教代わりだった」との事。


中学生時代のクラブ活動は園芸部。当時好きな女子生徒に近付きたくてその女子生徒と同じ園芸部に入ったという。これがきっかけでが好きになり、将来は育種家か園芸家になろうと思って[7]神奈川県立平塚農業高等学校園芸科を受験したが不合格となった[8]。なお、花は派手な物、大きな物よりもあまり目立たないような小ぢんまりしたような物を好み、一番好きな花はミヤコワスレであるとも述べている[9]。また、アルバイトで飲食業の仕事を始めたのはこの頃で、金がかかる園芸の資金稼ぎにと甘味屋や純喫茶などで仕事をするうち、だんだん飲食業が楽しくなっていったという[7]


私立藤沢商業高等学校(現:藤沢翔陵高等学校)に進学し、野球部に所属してプロ野球を目指したが、チームメイトに後に読売ジャイアンツなどで投手として活躍した小俣進がいたため、実力の差を知り、プロ野球への夢を諦めた。その小俣とは高校卒業後もずっと親交が深く[10]、小俣は佐野の店に時々ラーメンを食べに来たりもしていた[11]。なお、野球部退部後、高校を卒業するまで応援団に所属して活動しており、小俣が不甲斐ない成果を見せた時は叱咤激励していたとのこと[11]。学校の近くに好きなラーメン屋があり、毎日のように登校前と昼休みの2回食べに行った[6]


高校卒業後、横浜ドリームランド内の不二家レストランに就職。同店のカレーライスが好きで、1ヶ月近く通い詰めるほど旨かったからという[12]。以後ずっと洋食の世界ですごし、28歳から34歳までは管理職(店長)を務める傍ら趣味でラーメン店の食べ歩きを重ねていたが、独立してラーメン店を開きたいという思いが募り、「修業はした方がいい」と言う地元・戸塚の飲食店組合融資部長が斡旋した湯河原の青竹手打ち麺が売り物のラーメン店で1週間修業したのち[13]、実兄の資金援助を受けて1986年8月に藤沢市鵠沼海岸7丁目に「支那そばや」を開店した。店名については、自分の原体験から「ラーメン」より「支那そば」という名称の方が馴染みがあったとのことで、前述の融資部長のアドバイスも受け入れた上で決めた[13]


初めは思うような味が作れず、客も少なく、厨房で涙を拭った事もあるという。店の経営がようやく軌道に乗りはじめたのは、2年後の1988年ごろである。2000年からは藤沢の店舗は佐野の弟子に譲ったが、その弟子も辞めてしまった上に後継者も居なかった為、2004年に閉店している[14][15]


ラーメンの世界で唯一頭が上がらない人物として、旧「東池袋大勝軒」店主の山岸一雄の名を挙げている[16]

2000年以降、2008年11月に自身の出身地である横浜市戸塚区に移転した「支那そばや」本店と、新横浜ラーメン博物館店を営業している。本店の開店と同時に、「「ラーメンの鬼」佐野実の厳選ブログ」を開設した[17]


2009年
5月に駒沢オリンピック公園で行われた「ラーメンShow in Tokyo 2009」など、近年のラーメン関係のイベントでは、「佐野JAPAN」[18]というチーム名で出店している。これは、佐野を師と仰ぐラーメン店の店主たちが集まったチームであり、支那そばや同様あっさり系スープの店が多い。イベントではHEY!たくちゃんにものまねされることも多い。なお、弟子については授業料をもらう代わりに技術を教え、独立した時には佐野自身が食材の斡旋をしていた。独立以後の弟子についてあまりこだわらなかったところ、閉店する店も出て来たため、この反省を踏まえて「最低3年から5年は修業してもらい、自分が納得するまでは独立させない」方針に転換した。「俺のと同じ味は作れないが、俺のよりうまいラーメンは作れる」と教えていたと言う[19]


人前で涙を見せることはなかった佐野だが、弟子の一人であるHEY!たくちゃんが『東京ラーメンショー2011』の『NRA杯 ラーメンコンテスト バトプリ2011』で優勝したという連絡を受けた時、トイレに駆け込んで一人でこっそり泣いていたとのことで、佐野の妻で株式会社エヌアールフード代表取締役である佐野しおりは「夫が泣いている姿を見たのはその時だけ」だったという[20]


2014年
4月11日午前2時57分、多臓器不全のため川崎市の病院で死去。関係者によると、2006年頃から10年近くに亘り糖尿病を患っており、同年2月中旬より体調を崩していたという。63歳没[1][2][3][4]。亡くなる数日前に佐野自身が最後に口にした物もやはりラーメンで、本人が病室のベッドの上で「ラーメンを食いたい」と発言し、病室のベッドの上で佐野の弟子らが作ったラーメンのスープをやや薄めた物を食していたと言う。その際、本人は「薄くて不味い、毎日店でこんな物出しているのか」と言いながらも最後までそのラーメンを食していた。


私生活では2度結婚している。佐野しおりとは知人の紹介で2004年に再婚。息子と娘が一人ずつ居り、佐野の店舗は娘とTBS系列「ガチンコ!」のコーナー「ガチンコラーメン道」の第2シリーズの優勝者と戸塚に移転してからの佐野の弟子が継いでいる。息子は愛媛県今治市でイタリア料理店を経営している。



こだわり
麺は自家製麺を使用しており、新しい麺の開発にも積極的である。新横浜ラーメン博物館店で使用している「絹越和伊麺」(きぬこしわいめん)[21]は、イタリア産のデュラムセモリナ粉と、国産小麦『ハルユタカ』をブレンドしたものを用いている。製麺機から出来た麺は木箱に入れ、2〜4分間、少し蓋を開けて放置。その後高湿冷蔵庫(高級蕎麦屋で使われている)でひと晩保管して熟成させる[22][23]


戸塚本店では、スープに使う鶏ガラは名古屋コーチン[24]、麺に使うかん水モンゴル[25][26]。具のネギは九条ネギ[25]、醤油味と塩味で分けている器は有田焼などと、高価なものを使用している[27]。他に具材は、豚肉は中型のヨークシャー種中心[28]、スープ材に焼きアゴ(アゴとはトビウオの幼魚)を使用しているとも述べている[29]。スープに使われている水もスープのコクを生み出す為にセラミックスを用いてアルカリ性に変換している。その為、価格設定も他の同業界に比べかなり高めとなっている。


藤沢時代は、香水の匂いが強い人の入店・店内での私語・喫煙携帯電話の使用・ベビーカーを引き連れての乳幼児との入店が一切禁止とされていたが[30]、こういったことは佐野自身が決めたわけではなく「私語が出来ないような雰囲気の店である」ことをマスコミが演出した結果こうなったらしいともされており[31]、佐野自身は「香水・私語・携帯電話・タバコの煙はラーメン作りの全てを台無しにしてしまう物。自分の作っているラーメンを客には最高の状態で味わってもらうべき」と主張を持っていた。店内の私語については「当店のラーメンは麺が細麺で伸びやすいから食事中は静かにと言っているだけ」と述べているほか、香水については「香水の匂いがきつい女性客が来店した事があったからでその匂いがラーメンの風味を壊している」とコメントしている[31]。その旨の注意喚起の張り紙も店内に掲示されていた。また、過去には泥酔した客に対して刃物を振り回して「お前らは客じゃない、金は取らないから出て行け」と追い出した事もあった[32][33]


その他、麺の出来に納得いかない時は店を臨時休業したり[34]、スープを残す客に対して「残すなら最初から食うな」と本人が発言している[33]。又、営業時間も昼間の数時間のみと非常に短いほか、他のラーメン店で見られる様な餃子チャーハンといったサイドメニューの提供も無い。

詳しいことは、「佐野 実ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%AE%9F
(wikiより)

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宝生金五郎 ( むろう - きんごろう ) 英周
? ~ 明治 38年 2月 1日 ( ? - 1905 )


能楽師・宝生家 9世。

宝生新朔の弟。65歳没。

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上村英輔 ( かみむら - えいすけ )
明治 33年 ~ 昭和 62年 8月 17日 ( 1900 - 1987 )


石油統制会理事・日本石油社長・石油連盟会長。


大正 6年 ( 1917 ) 逗子開成小学校卒業。第七高等学校造士館卒業。


大正 14年 ( 1925 ) 日本石油に入社。


昭和 20年 ( 1945 ) 石油統制会理事。


昭和 21年 ( 1946 ) 日本石油運送専務。


昭和 24年 ( 1949 ) 常務。


昭和 36年 ( 1961 - 1970 ) 日本石油社長。


昭和 38年 ( 1963 ) 6月日本LPガス協会会長。


昭和 44年 ( 1969 - 1981 ) 逗子開成小学校第 3代理事長。


正四位勲二等旭日重光章。87歳没。

著書:「生き残り放談」。
 
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横山 由清(よこやま よしきよ、文政9年5月[1]1826年) - 明治12年(1879年12月2日[2])は、江戸時代明治時代国学者歌人である。本姓は小野[3][4]従六位。通称は保三、号は月舎[2]

人物
略歴
塚越敬明の子として江戸に生まれる[2]横山桂子の養子となって国学を本間游清伊能穎則に、和歌を義母や井上文雄に学ぶ[2]


始め和学講談所教授となる[2]が、明治2年(1869年昌平学校史料編修に任ぜられる[2]。また宇都宮義綱瀬脇為好とともに[3]大学中助教となる。また制度局御用掛語箋編輯として法律制度の整備に携わる[2]


明治3年9月18日1870年10月12日)少史に任じられ従七位に[1]、明治4年7月29日1871年9月13日)左院に転じ権少史となり、同年12月12日1872年1月21日)正七位となる[1][3]。明治5年10月8日1872年11月8日)左院五等議官に就任[1]


明治7年(1874年)10月10日には左院四等議官となり、明治8年(1875年)2月24日、従六位に進む[1]。同年4月に元老院と改組されると、同年5月24日、少書記官となり[1]、このころ黒川真頼らと『旧典類纂』田制篇などの書物の編著をしている[2]


明治10年(1877年)1月19日、元老院を依願免本官となるが、同年3月1日、元老院御用掛、同年8月20日、文部省兼勤、同年10月25日には元老院権少書記官に任じられた[1][3]。晩年は東京大学で古代法制史を講じた[2]


明治12年(1879年)12月2日病死。墓は東京の谷中天王寺にある[2]

著書

法制史・国学

・『皇位継承篇』

・『編輯御系図』

・『尚古図録』

・『田制篇』

・『日本田制篇』

和歌

・『月舎集』歌集

・『歌林雑考』歌学書

脚注
1. a b c d e f g 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』234-236頁。
2. a b c d e f g h i j 鈴木淳.『日本近世人名辞典』1103頁。
3. a b c d 『明治過去帳』新訂初版、136頁。
4. 『江戸文人辞典』406頁。

参考文献
・大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。

・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。

・石川洋他編『江戸文人辞典 : 国学者・漢学者・洋学者』東京堂出版、1996年。

・竹内誠・深井雅海編『日本近世人名辞典』吉川弘文館、2005年。
(wikiより)

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⇧ 横山由清

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福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年明治16年) - 1948年昭和23年))は日本実業家写真家資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長である。また、弟に写真家の福原路草がいる。

来歴
東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座[1]で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。


中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ[1]千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学[1]。卒業後はドラッグストアや化粧品工場で2年間働き、帰国して兄・信一と二人三脚で資生堂の経営をしていくこととなる。


経営にあたっては、資生堂を本格的に化粧品事業へ移行させ、また1916年(大正5年)には他の企業に先駆けて意匠部(現在の宣伝部)を発足させた。 意匠部では美術学校の学生や若手画家をスタッフにしてポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを行った。


「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。

家業を受継ぎ実業界で活躍する一方で、芸術をこよなく愛する文化人でもあった。現在の資生堂のシンボルマークである「花椿」をデザインしたのも福原信三である。

写真家としての活動
日本近代写真の黎明期に「写真芸術」の確立をめざして活動した。東洋写真会で宮内幸太郎の指導を受けた後、1921年大正10年)、大阪の上田竹翁の次男である箸尾文雄、写真家の不動健治らとともに「藝術冩眞社」を興した。続いてピクトリアリズムの作風よりも写真本来の機能を重視した方向にむかい「冩眞藝術社」を作る。1922年には写真集『巴里とセイヌ』を刊行。また『写真芸術』誌を創刊するなど、アマチュア写真家のリーダーとして活躍した。誌上で発表された論文『光と其諧調』(1923年)は多くの写真家に影響を与えた。1924年には日本写真会を結成し会長に就任[1]。1939年(昭和14年)には野島康三とともに国画会に写真部創設などの活動を行った[1]

脚注
1. a b c d e 福原信三 日本写真会 2018年7月15日閲覧。

関連項目
資生堂

福原有信 

福原義春 甥で父は五男信義

東京都写真美術館 

日本写真会
(wikiより)

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麁香神社は石浜神社の摂社(せっしゃ)で、本殿西野中庭内にある。


祭神は手置帆負命(ておきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。


この二神は工匠守護の祖神で、江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。


ここに立つ天保五年(1834)銘の麁香社建立の碑、安政四年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。


このほか、安永三年(1774)銘の由来を記した板、安政(1854~60)の銘の扁額(へんがく)がある。
(案内板より)

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石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。


江戸時代の初期、寛文年間 ( 1661 ~ 1672 ) 新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。


采女は悲しんで浅茅ケ原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。


翌朝、草刈りの人たちが


『名をそれとしらずともしれさる沢の
     あとをかがみが池にしずめば』


としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
 
浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目のあたりを指し、『江戸名所図会』によると、鏡が池の面積は、文政 ( 1818 ~ 1829 ) の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。


碑は、文化元年 ( 1804 ) 大田南畝ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびている。
(案内板より)

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境内の鳩豆屋が死んだ鳩の慰霊のため、昭和 35年建立。

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ここは明治文壇の天才樋口一葉舊居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。


今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。


菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和11年7月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。


昭和20年3月、この辺一帯焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。


有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。


愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。


唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。


僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
                 森田春鶴刻

昭和 24年 3月
               菊  池   寛 撰
               小島政二郎補並書
               森田春鶴刻

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