本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
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2019/08

江戸時代の医師・文化人であり、とくに古書籍の考証に深い見識を示した伊澤信恬 ( のぶさだ )、号蘭軒は安永六年 ( 1777 ) 十一月十一日に江戸本郷で生まれました。


儒学・医学・本草 ( ほんぞう ) を学び、とくに泉豊州の塾では同窓に狩谷棭斎 ( えきさい ) がおり、親交を結び、ともに考証学の道に進みました。


のちに棭斎の孫娘が蘭軒の子・柏軒に嫁し、また蘭軒の女が棭斎の養孫・矩之に嫁し、姻戚関係をも重ねることとなりました。


父、信階 ( のぶしな ) のあとをうけて、備後福山藩主・阿部氏の侍医となりましたが、足疾のため表医師にうつり、儒官を兼ねました。


彼の校勘 ( こうかん ) 解題 ( 古典の写本などを比べてその誤りや異同を調べ、できるだけ原本の形に再現した解説書 ) の主なものとしては「医心方 ( いしんほう )」・「元板 ( げんばん ) 千金方」・「元板千金翼方」・「弘安本考経」とその跋 ( あとがき ) が挙げられます。


文政十二年 ( 1829 ) 三月十七日没。五十三歳。


法名は「芳桜軒自安信且恬居士」といいます。


森鴎外は史伝小説「伊澤蘭軒」を執筆し、埋没していた蘭軒の業績を探し求め、明らかにしました。
(案内板より)

〇 伊沢蘭軒
伊沢 蘭軒(いざわ らんけん、安永6年11月11日1777年12月10日) - 文政12年3月17日1829年4月20日))は、江戸時代末期の医師、儒者[1][2]。名は信恬、号は蘭軒、通称は辞安、堂号は酌源堂


備後福山藩藩医の子として江戸本郷に生まれた。儒学医学本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山頼山陽狂歌で知られる幕臣大田南畝、書家の亀田鵬斎考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。


藩主(阿部家)の信任が厚く、晩年に病で足が不自由になった後も特例として輦で城内に出仕することを許されたという。


多くの子弟を育てたが、榛軒・柏軒[3]の二子のほか、蘭門五哲(清川玄道森立之岡西玄亭山田椿庭渋江抽斎)と呼ばれる五人が著名である[4]

文政12年(1829年)没し、麻布長谷寺に葬る。


伝記
森鴎外晩年の史伝伊沢蘭軒[5]


脚注
1. 伊沢蘭軒 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

2. 伊沢蘭軒 デジタル版 日本人名大辞典+Plus

3. 伊澤磐安。福山藩典医を辞し後に幕府に仕える。黒田藩口中典医を勤める本家伊澤道盛に医を教え、後に一子伊澤信平を道盛の養子とした。

4. 岡西玄亭以外は幕府お目見得医師に列している。

5. 『鴎外全集』などに所収。新版『鴎外歴史文学集』第6巻 - 第9巻、岩波書店には村上哲見等による詳注が付されている。
(wikiより)

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会津藩士・飯沼猪兵衛一正 ( 禄 450 石 ) 二男。


慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同志と共に自刃。


偶然救助され唯一人蘇生した。


後、白虎隊自刃の顛末を手記にし、歴史の貴重な証言者となる。


明治 5年 ( 1872 ) 逓信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の通信・電話網の架設に尽力した。


この間、明治 27 ~ 28年 ( 1894 ~ 1895 ) に日清戦争に出征し、朝鮮半島の軍用電信架設を成功させた。


明治 30 ~ 37年 ( 1897 ~ 1904 ) に仙台郵便局勤務、後、札幌郵便局を経て、明治 43年 ( 1910 ) に仙台逓信管理局工務部長となり、以降仙台に住んだ。


大正 2年 ( 1913 ) 退官。従 5位勲 4等。


昭和 6年 ( 1931 ) 没。享年 78歳。


この墓は、輪王寺第四十一世中興福定無外和尚が貞雄没後 1周期に建立した。貞雄の戒名は「白巌院殿孤虎貞雄居士」とされ、『白虎』と貞雄の雅号『孤虎』が織り込まれている。


貞吉の出陣に際して、母・ふみの ( 雅号・玉章 / たまずさ ) が詠んだ歌が色紙にのこされている。


あずさゆみ  むかふ矢先はしげくとも  ひきなかへしそ  武士の道

貞吉の出撃するときに  よみてつかはしける   玉章


2013年 9月 貞雄孫飯沼○浩、同一〇、同〇元 建立 ( 個人名は、伏字にしました)
(案内板より)


〇 飯沼貞吉
飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日1854年4月22日) - 昭和6年(1931年2月12日)は白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。


年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。


生涯
出生
嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。時衛は物頭を務め、家禄450石、家紋はからおしきにちがい鷹羽。母文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもあった。家族は、両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥会津松平家家宰)。他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は父の妹[1]山川大蔵(浩)、山川健次郎大山捨松山川二葉らの山川兄弟姉妹は従兄弟(母同士が姉妹)。


10歳で藩校日新館に入学。二経塾一番組に編入され、15歳で止善堂に入った。学業・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を1歳偽って申請し入隊できた(従兄妹の山川健次郎は同年生まれであるが、幼年白虎隊だった)。


白虎隊
白虎士中二番隊出陣の慶応4年8月22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八(18歳)も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より(母方の)祖母との面会を許された。貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。


重き君軽き命と知れや知れ おその媼(おうな)のうへはおもはで


玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもある母は、短冊に一首したためた。


梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道


旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下で戦ったが敗走。飯盛山に至り、城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。


彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医阿部宗達、吉見雲台(吉見乾海の父)が治療し一命をとり止めた。


その後、新政府軍に捕らわれ、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られる。頼三は彼を長門国(現在の美祢市)へ連れて帰り、東厚保町小杉の庄屋、高見家に預けて庇護したが、会津方にも長州方にも養育していることが知られると不都合が生じるため、飯沼の母に生存のみを知らせ、自らの家族や知人以外には存在を秘匿した。当初飯沼は何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に生き直すよう説き伏せられ、勉学に励むようになったという[1]


その後の貞吉
その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾(静岡学問所、静岡市)に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、翌年藤沢(志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢の3男)の書生となり、明治5年(1872年)に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征。この間、1892年(明治25年)6月18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永7年に改正している。1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。正五位勲四等を受章。会津会の会員[2]でもあった。


飯沼貞雄は1881年(明治14年)に広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚、1882年(明治15年)に長男一雄、1885年(明治18年)に長女浦路、1897年(明治30年)に二男一精と3人の子に恵まれた。しかし、一雄が日露戦争に出征して帰還した直後の1906年(明治39年)に札幌で長男を失った。原因は赤痢という。一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。なお孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇[3]国際医療福祉大学大学院教授・飯沼一浩に大正期から昭和の終戦直後に掛けて内務官僚貴族院議員などを歴任した飯沼一省がいる。

詳しいことは、「飯沼貞吉ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E6%B2%BC%E8%B2%9E%E5%90%89
(wikiより)

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飯沼貞雄

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⇧ 社務所に寄って、お茶と御線香を持って来ました。

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慶長七年~延宝二年 ( 1602 ~ 1674 )。


孝子は三代将軍・徳川家光の正室。


前関白・鷹司 ( たかつかさ ) 信房の娘、元和九年 ( 1623 ) 京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。


寛永二年 ( 1625 )家 光と結婚するが公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。
(案内板より)

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左から浅野内匠頭長矩公夫人・瑶泉院殿供養塔、浅野内匠頭・長直 ( 長矩の祖父 ) 公夫人・高光院殿之墓、浅野大学・長廣 ( 長矩の弟 ) 公夫人・蓮光院殿之墓がある。


〇 瑤泉院
瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり)、阿久理・阿久利とも。


夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を古代の呉音で「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは漢音で「ようぜんいん」と読む。


人物
初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。


生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5年9月(1677年10月)に婚約が成立、延宝6年4月9日(1678年5月29日)には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移った。天和3年正月(1683年2月)に婚儀が執り行われて同年4月9日(5月5日)に正式に長矩室となった。子には恵まれず元禄8年12月(1696年1月)に長矩の弟浅野長広を養子としていた。


しかし元禄14年3月14日(1701年4月21日)、長矩が江戸城殿中で高家肝煎吉良義央(上野介)に刃傷に及ぶと、殿中抜刀の罪により即日切腹、赤穂藩は改易となる。阿久里は16日には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られ、落飾して夫の菩提を弔った。


元赤穂藩家老の大石良雄らが吉良邸討ち入りを決定すると、瑤泉院は自身の化粧料である赤穂の塩田から上がった運上銀を大石に託し、彼らの生活を陰ながら支えた。吉良を討ち取り後幕命により切腹となった赤穂浪士の遺児たちのうち、伊豆大島へ流された吉田伝内・間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の赦免運動にも尽力し、宝永3年8月(1706年9月)将軍家綱の二十七回忌の機に前年に病死した間瀬を除く3名の恩赦を実現させた。


正徳4年(1714年)、三次浅野家下屋敷で死去。享年41。夫と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。戒名は瑤泉院殿良瑩正燈大姉。生まれ故郷の三次の鳳源寺に、瑤泉院を供養した五輪の遺髪塔がある。


「南部坂雪の別れ」
討ち入り直前に赤穂藩家老の大石良雄が赤坂南部坂の瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」は、『忠臣蔵』など赤穂事件を題材にした創作作品によく描かれるシーンだが、事実ではない。


浅野家改易後に大石が瑤泉院に拝謁したのは、討ち入りからだいぶ前の元禄14年11月14日(1701年12月13日)の一度のみだった。これは、大石が瑤泉院の結婚時の持参金を、浅野家の家名再興や討入りの運動資金として使用し、討入り直前にその収支決算書を瑤泉院の用人・落合勝信に提出したことが元になっているようである。討ち入り前夜にこれらの書類を大石良雄の命で届けたのは、後世に「義僕」と呼ばれた近松行重の家僕の甚三郎である。


そもそも瑤泉院は当時、南部坂には住んでおらず、同じ赤坂の今井町にあるお里方の三次浅野家の下屋敷に引き取られていた。この瑤泉院自前の三次領からの収益を、大石らの討ち入り費用に用立てたとする説もある。


生年に関する異説
瑤泉院の生年、享年については『赤穂義士事典』の「浅野長矩年譜」、平尾孤城『人間赤穂浪士』、また瑤泉院の墓所の泉岳寺も享年41説で、延宝2年生まれということが定説となっている。


これに対し、赤穂大石神社宮司を務め、 赤穂義士研究者でもあった飯尾精が異説を紹介している。飯尾によると、全浅野家の記録で、浅野宗家に伝わる「三次分家済美録」では瑤泉院は寛文9年(1669年)生まれであるという[1]


これが正しいとすれば、瑤泉院の享年は46で、夫の長矩とは2歳違いである。他の義士研究団体『中央義士会』もこの説を踏襲している[2]


出典
1. 『忠臣蔵の真相』 飯尾精 著、1988年。

2. 『忠臣蔵四十七義士全名鑑(完全版)』 財団法 中央義士会 特別監修、2007年


関連項目
氷川神社 (東京都港区赤坂)

(wikiより)

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⇧ 右側の大きい墓石が、高光院殿のお墓になります。


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澤 為量(さわ ためかず、1812年4月25日文化9年3月14日) - 1889年明治22年)8月9日)は幕末明治初期の公卿。官位は参議外務卿正二位子爵


生涯
父は治部大輔澤量行朝臣。母は家女房。子に澤宣種(養子・澤宣嘉の養子となる)。文政4年(1821年)、従五位下。文政8年(1825年)、元服して正五位武蔵兼介。天保10年(1836年)、従四位民部大輔嘉永元年(1848年)、正三位安政2年(1855年)、従二位。


安政5年(1858年)、養子の宣嘉とともに廷臣八十八卿列参事件に加わり、日米修好通商条約勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。


戊辰戦争では、慶応4年(1868年)2月に奥羽鎮撫使総督に挙げられ、ついで九条道孝の総督就任とともに副総督となって出陣した。奥羽各地を転戦して10月凱旋する。明治2年(1869年)6月、軍功により賞典禄200石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年(1870年)11月に退官して宣嘉に家督を譲った。しかし明治6年(1873年)9月、宣嘉の薨去により再度家督を継承し、明治16年(1883年)9月特旨をもって従二位に叙せられた。


明治17年(1884年)7月7日、華族令により子爵。明治22年(1889年)薨去。死に先立って正二位に叙せられた。後に澤家は伯爵に陞爵する。


栄典
1889年(明治22年)

  ・8月8日 - 正二位[1]

  ・8月9日 - 勲二等旭日重光章[1]


家族
・父:澤量行

 ・養子:澤宣嘉姉小路公遂5男)

 ・長女:藤子(宣嘉妻)

 ・次女:延子(石山基正妻)(※基正は宣嘉の実弟・石山基文の子)

  ・子に石山基則、正子(北畠通城久我建通男)室)

 ・長男:澤宣種(宣嘉養子)

 ・三女:忠子(岡崎国有妻)

 ・四女:久子岩倉具定妻)


脚注
1. ab『官報』第1835号「叙任及辞令」1889年8月10日。


参考文献
・神宮滋『戊辰戦争出羽戦線記―澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から』無明舎出版、ISBN4-89544-479-8


関連事項
澤家

(wikiより)



⇧ 澤 為量

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小島小学校敷地内に、松前藩・江戸上屋敷があったそうです。


松前藩・江戸上屋敷と言えば、永倉新八さんですね。

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1873(明治6)年7月2日、中国の福州を出航したR.J.ロベルトソン号がオースロラリアに向け航行中、洋上で台風にあい、同年7月11日、この碑の東約1km沖にあるウプピシ(大きな干瀬)に座礁して遭難した。 


宮国地区の人々は台風で荒れ狂う激浪の中、翌7月12日、危険をおかして乗組員8名全員を救助し、37日間にわたり親切丁寧に手厚くもてなし帰国させた。 


このことは、いちはやくドイツの新聞に取り上げられ、ドイツ政府は宮国の人々の純情に感激し、時の皇帝ウィルヘルム1世は1876(明治9)年、軍艦を派遣し平良市西里(親腰)に博愛記念碑を建てた。 

この美談は、昭和12年の文部省発行教科書”尋常小学修身書巻4”に「博愛」という題で載せられ全国の小学校で教材となった。 


このドイツ商船遭難之地碑は、宮国の人々の美しい心と勇気ある行動をいつまでも讃えるために、ロベルトソン号遭難から63年目の1936(昭和11)年に近衛文麿公の筆により刻まれた。
(案内板より)

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この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外神田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われていました。


井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。


慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子、直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで大老職に任じられる名家でもありました。

幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。


明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
(案内板より)

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大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日1824年5月30日) - 明治2年11月5日1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。


長州征討戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六良庵(または亮庵)、のちに益次郎雅号良庵良安亮安永敏(ながとし)。位階は贈従三位、後に従二位。家紋丸に桔梗


生涯

村医

周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。


嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。


江戸出府・講武所教授

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国ペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。


宇和島に到着した大村は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。このとき藩主伊達宗城参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。


大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。イネは後年、大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃、村田蔵六と改名する。


安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。


その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(大村のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫大槻俊斎桂川甫周福澤諭吉大鳥圭介といった蘭学者洋学者や旧友とも付き合いがあった。

長州征討
文久3年(1863年)10月、へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。


長州藩では、その風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は、周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された益次郎本人のメモしか知ることが出来ないため仔細は不明のままである。


福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、

「(福沢が)『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」

と、長州藩士になりたての益次郎が過激な攘夷論を吐いたことに驚き

「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」

と解釈している。益次郎自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、諭吉と益次郎は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある[1]


晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、益次郎にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をそれぞれとっている。


このころ、益次郎は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に益次郎の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここで益次郎はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。


慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、益次郎は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され名実共に藩士となる。


益次郎は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。さらに、5月26日、青木群平を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃を購入させようとするが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する。


6月に戦闘が開始された。益次郎は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、益次郎の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。6月16日、益次郎は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩の救援を心配したが、益次郎は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない。」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。


益次郎は征討終了後、山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐した。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。

戊辰戦争
慶応3年(1867年)、討幕王政復古を目指し西郷隆盛大久保利通薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。藩内では討幕か否かに分立したが、益次郎は禁門の変下関戦争の失敗から、薩摩の動きには用心すべきでもあり、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えた。だが、9月に大久保が長州に来て討幕を説得したことで藩内の世論は出兵論に傾く。10月27日、益次郎は掛助役に左遷され、出兵の実務に携わるが、「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった。」と時局を見抜けない無知を反省する弁を残している。


徳川慶喜
による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に益次郎は随行する形で用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着する。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府軍防事務局判事加勢として朝臣となる。益次郎は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。


4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。このころ益次郎は岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れる形で益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられた。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。


このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを示したが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していた。新政府は益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとしたのである。果して益次郎は制御不能となっていた大総督府の組織を再編成すべく、目黒の火薬庫を処分し、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打っていった。さらに5月外国官判事大隈重信の意見を受け、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てている。また5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、いよいよ市中の全警察権を収めた。


こうして満を持した益次郎は討伐軍を指揮し、5月15日、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で益次郎が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。佐賀藩出身で軍監の江藤新平は自藩への手紙で「まことにもって天運なり。大武力御立て遊ばされ候らへば、これよりは御号礼も、さきざき相行われ申すべくと存じ奉り罷りあり候。西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」述べているように、この戦闘はそれまで世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものであった。


同年6月4日、鎮台府の民政会計をも兼任し従四位となる。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を行った。ここでは、前線から矢のように来る応援部隊や、武器補充の督促を益次郎独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもあった。また、白河方面の作戦を巡って益次郎は西郷と対立し、以降益次郎単独での作戦指導が行われた。戦争は官軍優位のまま続き、10月2日に軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられる。同日の、妻・琴への手紙に「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示している。


明治2年(1869年)、函館五稜郭榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏し戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい明治時代が開かれた。

詳しいことは、「大村益次郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
(wikiより)

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〇 余部鉄橋の歩み
計画 ~ 建設
余部鉄橋の建設計画については、鉄道院米子出張所の岡村信三郎技師が余部詰所勤務となった際、潮風害による腐食と将来の保守の困難性を考慮し、鉄筋コンクリートアーチ橋案を鉄道院に上申した。


しかし、建設費の低減や欧米での前例がないことなどから、最終的に鉄橋案が採用されたといわれている。


鉄橋の設計は、鉄道院技術研究所技師 古川晴一 ( 兵庫県出身 ) が行った。


余部鉄橋に採用されたトレッスル式橋脚は 19世紀末の米国で広範に採用されており、古川は明治 40年 ( 1907 ) 7月より 1年間欧米に出張し、技術的に可能なことを確認した上で、帰国後トレッスル橋の採用を決定している。


橋脚鋼材はアメリカンブリッジカンパニーのペンコイド工場で製作され、はるばる海を渡り九州の門司に到着。


そこで日本海回りの汽船・弓張丸に積み替え、明治 43年 8月下旬に余部沖でハシケに移し余部浜から陸揚げされた。


組み立ては、明治 44年 5月からわずか 5ヶ月という短期間で行われた。


橋桁鋼材は石川島造船所で制作され、明治 44年 9月上旬に工事列車を仕立て、神戸から陸路で鎧駅まで輸送された後、鎧駅構内において昼夜兼行で組み立てられた。


〇 工事完成
険しい山に囲まれ複雑に入り組んだ海岸線の地形に阻まれた香住 ~ 浜坂間は、山陰西線建設工事の中で最難関にして最後の工事区間であった。


余部鉄橋建設工事は明治 42年 12月 16日着工、45年 1月 13日竣工とその工事期間は実に 2年 2ヶ月。


当時約 33万円もの巨額の建設費と延べ 25万人もの人工を投じて敢行され、明治の最高の土木技術を結集して見事に完成した。


1月 28日には機関車 2両で試運転が行われ、3月 1日、余部鉄橋の完成により山陰本線全線が開通することとなった。


〇 保守の足跡
余部鉄橋は、日本海からの強い潮風にさらされるため、サビから鉄を守らなければならないという宿命にあった。


鉄橋完成から 3年後にはペイント塗装工事が始められ、腐食した部材の取替えも行われてきたが、太平洋戦争中は資材が欠乏し、鉄橋の荒廃は極みに達していた。


戦後になってペイント塗装工事が再開されるとともに修繕工事も始められ、昭和 32年から 3次にわたる修繕計画が立てられるなど、地道な維持管理が行われてきた。


一方、大正 6年には専属の塗装工として、鉄橋建設当時から十字していた日本ペイント製造の社員、望月保吉と上倉音吉が鉄道院に採用され、いわゆる「繕 ( つくろ  ) いケレン」が続けられてきた。


これは、衣服の繕いと同様に、鋼材の小さな異状部分の塗膜をワイヤーブラシ等で取り除き、直ちに下塗り・中塗り・上塗りをするという一連の作業をさす。


高所であり、常に転落の危険と隣り合わせの命懸けの作業であった。


完成から約 100年間、余部鉄橋が現役であり続けた陰には、地道な営みを続けてきた「橋守」と呼ばれる人たちの努力があったことを忘れてはならない。
(案内板より)


〇 余部鉄橋列車転落事故
1986 ( 昭和 61 ) 年 12月 28日、お座敷列車「みやび」の回送列車 ( DD 51形ディーゼル機関車+ 14系客車 7両 ) が山陰本線鎧駅 ~ 餘部駅間にある余部鉄橋を時速約 50キロメートルで走行中の午後 1時 25分頃、日本海からの強風にあおられて客車がすべて鉄橋より転落し、機関車のみ橋梁上に残った。


転落した車両は真下にあった食品加工場 ( 蟹加工工場 ) を直撃し、工場の従業員 5名と車掌 1名が死亡、車内販売員 1名と工場の従業員 5名が重軽傷を負った。転落した客車「みやび」は全車廃車となった。


この列車を運転していた機関士は鉄橋通過中に、非常ブレーキが動作したのを感じて後方を確認したが、この時すでに客車は転落していて、鉄橋上には台車の一部が残されたのみだった。


非常ブレーキが動作したのは、機関車と客車をつなぐブレーキホースが引きちぎられたためであると考えられている。


列車運行を規制するために沿線には風速計が設置されているが、この設置が不十分だったことや、地形的な理由などから、列車運行に支障を及ぼす強風を予測しきれなかったことが主な原因と見られている。


当時から現在に至るまで現場の風速計は、この地方特有の突風で頻繁に動作し、列車遅れの原因となっていた。


そのため、台風の接近により連続的な強風となっていた当日も、運転指令ではいつもと同じ突風と勘違いをして列車を進行させたとも言われている。


単線区間では列車を長時間止めると、ダイヤを正常に戻すのに長時間かかることも警報軽視の遠因であろうと推測されている。


事故後、国鉄は運行規制基準を見直し、風速毎秒 20メートル以上の風が吹くと自動で列車の運行を停止するように改善した。


なお、余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから 2010 ( 平成 22 ) 年完成を目指し架け替えが予定されている。


事故後、関係者 5人が送検され、神戸地裁で、当時の国鉄福知山鉄道管理局CTC指令長と指令員 2人に執行猶予付きの禁固刑 ( 2年 6月から 2年 ) の判決が言い渡された。


この事故の背景には、分割民営化を 3か月後に控え、運行停止を頻発させると、JRになった後の再雇用に不利になるという風潮が現場にあったのではないかと考えられている。

詳しいことは、「余部鉄橋ウィキペディア」をご覧ください ⇩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E9%83%A8%E6%A9%8B%E6%A2%81
(wikiより)

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⇧⇩ 余部鉄橋を下から望む

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⇧⇩ いままで使用されていた鉄橋です。

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⇧ 犠牲者の慰霊塔

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会津藩家老・西郷頼母近悳の長男。通称吉十郎。
 
戊辰時 11歳で、母と姉妹ら 21人は 8月 23日自害し、吉十郎はその前に家を出て城に入城し、父・頼母に連れられ、籠城中の若松城を脱出し、仙台から箱館へ向かう。


父が五稜郭に入城のときに箱館ギリシャ正教神父・沢田琢磨に預けられる。
 
戦後、西郷隆盛の援助でアメリカ留学の説あったが、病のため東大医学部病院で死去。

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相馬大作 ( そうま - だいさく )
[生]寛政10(1798).盛岡
[没]文政5(1822).8.29. 江戸,小塚原

江戸時代末期,文政4 (1821) 年に起った南部騒動 (檜山騒動 ) の首謀者南部 (盛岡) 藩士下斗米 (しもどまい) 総兵衛の子。通称秀之進。相馬大作はその変名

もと南部家の家臣だった津軽家が小田原征伐のとき主家を欺いて独立し,江戸時代になると南部家以上の権勢をふるった。

これに不満をもつ相馬大作らは,津軽藩主の弘前入部の途中,矢立嶺,六郷川畔でこれを襲撃しようとしたが失敗し,江戸で捕えられ処刑された。

〇 相馬大作事件
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。


秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。

経緯
事件の背景
弘前藩主・津軽氏盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏)と同じく、南部氏の一族だった。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していた。


1714年
(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。この処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。


事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬従四位下)が39歳で死去(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。

相馬大作について
通称相馬大作、本名は下斗米将真(まさざね)である。下斗米氏は本姓は平氏、平将門の子孫である相馬師胤の末裔である。相馬師胤の8世の子孫である光胤の4男胤茂の子胤成が正平年間、南部氏につかえて南部の家中になった。下斗米というのは、今の岩手県福岡から7、8km西北にある村であるが、ここに住み知行百両で郷名を取って下斗米氏を名乗るようになった。その後、数代を経て下斗米宗兵衛常高に至る[1]。下斗米宗兵衛常高(寛政六年1794年死去)は紙蝋漆を扱う平野屋を興し一代で豪商となり、さらに安永年間数度の献金により二百石となり盛岡支配福岡居住となる。下斗米宗兵衛の子が下斗米総兵衛である。


陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、病弱であった兄が父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱藩して1806年(文化3年)に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった美濃屋に4ヶ月ほど世話になった後、知り合いの紹介で夏目家に入門することにした。


相馬大作は夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修めたが、1年ほどで夏目が1808年正月に文化露寇への対応で仙台藩兵2千名と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵(夏目は平山の高弟)に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。


父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設。相馬大作の姉婿の田中館栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司[2]、一条小太郎などの人々数十人が入門した。同塾では武家町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、馬場水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる[3]


ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎[4]が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた[5]

事件の経過
1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告した。[6]。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い[7]付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助[8]、下斗米惣蔵[9]、一条小太郎[10]、徳兵衛、案内人の赤坂市兵衛[11]らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだとされている(未使用)。


秀之進の父、総兵衛は大吉[12]と喜七[13][14]と徳兵衛[15]という仙台藩出身の刀鍛冶を雇っていた。しかし、彼らは代金が払われないために仙台藩に帰郷できないでいた。そのうち秀之進の計画を知り、さらに身の危険を感じ、事件の計画を津軽藩に密告した。大吉と喜七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる[16]


暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていたと言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛[17])に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。


一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩した。参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められたためとも噂されたが、寧親は久保田で何日か滞在しており、その間に道筋変更の願いを提出したとする記録がある[16]。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された[18]


なお、この事件と前後して、盛岡藩内では当主替玉相続作戦(前年に家督相続したばかりの南部利用(南部吉次郎)が、事故による負傷のため急死。未だ将軍御目見得前であったため、改易・減封をおそれた家臣団は、吉次郎に年格好が似た従兄の南部善太郎をひそかに「南部利用」として擁立した。)などを行っていて、津軽藩の家格云々どころではなかった上に、「現役の自藩士による他藩藩主襲撃未遂事件」が露呈すると、藩の存続自体がますます危うくなる状況だった。


津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるものであるという。秀之進と関以外の関係者は事件後情報が漏れないように、牢につながれた[19]。また、秀之進の息子と弟は南部藩に保護された[16]

その後
老中青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場上から秀之進に同情を寄せたという話も残っている。

当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は後世になって講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。


この事件は水戸藩藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』を著した。さらに長州藩吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、暗殺が成功したか地元住民に訊ね、また長歌を詠じて秀之進を称えた[20]吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。平戸藩主・松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。


盛岡藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士・相馬大作の顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に与ろうと石塔を砕いてお守りにする者が後をたたなかったという。黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。


妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。また、秀之進の供養のために1852年(嘉永5年)10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。妙縁寺感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。斬首で使用された刀「延寿國時」(南北朝時代の作)は、青森県弘前市指定文化財として市内に現存する。


また、東京都台東区谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。

講談
江戸時代講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。1884年(明治17年)の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が1885年(明治18年)に刊行された。1888年(明治21年)には講談『檜山麒麟の一声』が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。相馬大作事件が大衆に知られて人気が出たのは、柴田の高座からであると言われている[21]。また、『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南龍邑井一邑井貞吉などの講釈師によって演じられた。


しかし、この弘前藩を一方的に悪者に仕立てたこれらの講談に対し不満を抱いた旧弘前藩士らは抗議し、訴訟にまでなった。警視庁は公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表向きの看板をはずした中で興行はつづいた。1923年(大正12年)、東京八丁堀では講釈師・神田魯山が興行を行った。1927年(昭和2年)には東京神田での宝井琴慶浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという。

詳しいことは、「相馬大作事件ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)

107 相馬大作

⇧ 相馬大作

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江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字を子拍といった。

五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。


また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。


小伝馬町三丁目の旅館糟屋七兵衛 ( 画名を石川豊信 ) の子として生まれ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。


しかし強訴 ( ごうそ ) を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩郡不忠に住むようになった。


彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。


著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯著小説類も数種ある。


文政十三年 ( 1830 ) 閏三月二十四日没。年七十八。
(案内板より)


〇 石川雅望
石川 雅望(いしかわ まさもち、宝暦3年12月14日1754年1月7日) - 文政13年閏3月24日1830年5月16日))は、江戸時代後期の狂歌師国学者戯作者(げさくしゃ)。狂名、宿屋飯盛(やどやのめしもり)。

生涯
浮世絵師石川豊信(いしかわとよのぶ、宿屋の主人、糟谷七兵衛[1])の五男として江戸に生まれる。通称は石川五郎兵衛。号は六樹園、五老山人など。


家業の宿屋を江戸小伝馬町で営むかたわら、狂歌の先達大田南畝(四方赤良、よものあから)のもとで狂歌を学ぶ。天明年間初期(1781年 - 1789年)、狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)から多くの狂歌絵本を出版。絵は北尾政演(きたおまさのぶ)[2]


寛政3年(1791年)宿屋の営業許可をめぐり贈収賄の嫌疑をうけ、江戸払い[3]となる。この間、国学研究に打ち込み、雅語用例集『雅言集覧』や『源氏物語』の注釈書『源註余滴』などを書く。


文化5年ごろから狂歌師として復活。雅望のグループを伯楽連[要出典][4]と称し、天明狂歌界を席巻する一方、俳諧歌を主張した鹿津部真顔(しかつべのまがお)と対立。狂歌の軽妙さと諧謔性を重んじ、文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となった。国学者としても知られる。


著書は他に、撰集『万代狂歌集』、和文集『都の手ぶり』、読本飛騨匠物語』、『近江県(おおみあがた)物語』などがある。このうち、『都の手ぶり』は、江戸の両国橋や、馬喰町の様子などを、ほぼ、ひらがな文で記述した随筆である[5]。文政13年(1830年)死去。享年78。


人気作『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』で知られる柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の師。

著作
・「都の手ぶり」『日本随筆大成』第3巻 吉川弘文館、1927

・「こがねぐさ」同第10巻

・「ねざめのすさび」同第3期第1巻

・『石川雅望集』塚本哲三校 有朋堂文庫 1934

・『万代狂歌集』宿屋飯盛撰 粕谷宏紀 校 古典文庫 1972

・『石川雅望集』叢書江戸文庫 稲田篤信校訂 国書刊行会 1993

  ・「近江県物語」「天羽衣」「飛弾匠物語」「とはずがたり」

・『飛騨匠物語』六樹園作 葛飾北斎画 現代語訳江戸の伝奇小説 須永朝彦訳 国書刊行会 2002

脚注
1.
石川雅望「都の手ぶり」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年、1頁
2. 戯作者山東京伝の画号。
3. 所払い
4. 絵本譬喩節(えほん たとえのふし)頭光(つむりのひかる)…の社中を伯楽連と称した。」(和泉屋 楓、『絵双紙屋』) 2011年7月31日閲覧、参考情報。
5. 石川雅望「都の手ぶり」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年、251 - 268頁



参考文献
粕谷宏紀「石川雅望」(『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年、67 - 68頁)

関連文献
・粕谷宏紀『石川雅望研究』角川書店 1985

・稲田篤信『江戸小説の世界 秋成と雅望』ぺりかん社 1991

関連項目
狂歌

狂歌の例

戯作者

大田南畝

山東京伝

蔦屋重三郎

柳亭種彦

鹿津部真顔

国学

国学者

源氏物語  
(wikiより)

1213 石川雅望

石川雅望

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三代将軍・家光二男 亀松君


正保 4年 ( 1647 ) 没


月渓院殿華屋尊英大童子

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墓石には大正14年(1925)の年号が刻まれている


麻布一本松狩野派は、狩野是信が祖である。

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「梅の花
   
    不肖なれども
        
           梅の花」


夏目漱石は、明治二十三年二月五日に「兄の死」と題し一高で英語の演説をし、墓参の心境と境内の情景を語った。


二十九年正月松の内には本法寺で「展先妣墓」として「梅の花 不肖なれども 梅の花」と詠んだ。


名作「坊ちゃん」の清の墓のモデルも他ならぬ小日向の菩提寺のこの墓である。


平成十四年三月吉日
         早稲田大学総長
           奥島孝康 識


高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、眞宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。

夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。


明治14年1月に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。

それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。


亡き母を詠んだ句もある。

兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。


蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。

作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。

境内には、早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。
(案内板より)


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ゴジラは、日本東宝1954年昭和29年)に公開した特撮怪獣映画ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品及び、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品のことを「ゴジラ映画」と呼ぶこともある。


本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は後述のリストを参照のこと。


概要
1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上にわたって製作されている怪獣映画。演技者がぬいぐるみ着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった[注 1]。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊等の周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも放映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。


ゴジラ映画の変遷
第1期・昭和ゴジラシリーズ
シリーズの特徴・経緯
1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている[1]。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている[2]。観客動員数は961万人を記録。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』で描かれた「怪獣同士の対決」は以後のゴジラ映画のフォーマットとなった。7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』では、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1255万人を動員。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。


しかし、第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方として扱われて以降、ゴジラは恐怖の対象としての側面が薄まっていった。新作の度に次第に娯楽作品へのシフトが進み、ゴジラの擬人化的演出も見られ、本来のテーマであるSFとしてのリアリティも希薄になっていった。そして第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以降は完全に子供たちのヒーローとして描かれた。


当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていき[注 2]、それに合わせて上映時間が短縮され、制作費も縮小された。そのためビル街などの大掛かりなセットが製作できず、山林のセット主体の作品が続き、怪獣の戦闘場面に流用シーンが多用されるようになる。そして1973年に公開された第13作『ゴジラ対メガロ』で観客動員数が100万人を割り(98万人)、 1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』でそれを下回る97万人を記録。歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。


第2期・平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)
シリーズの経緯
1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに製作されたシリーズ第16作『ゴジラ』では、第1作を踏まえ、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。この作品においてゴジラは1954年に一度だけ日本を襲った怪獣とされ、第1作の直接の続編という形をとっており、第2作以後の作品すべてをリセットした。また第1作当時と異なり、ゴジラの設定サイズの50メートルより高い高層ビルが多くなっており、それらに合わせゴジラのサイズを80メートルに設定。後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降はサイズは100メートルとなった。


5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開された。以降「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。


第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーも大人向けであり、リアル路線であった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々に子供でも楽しめるシンプルなファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やSF要素が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が内容では高い評価を得たものの動員数が伸びなかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる[3]。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。


ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定によりシリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』でシリーズ終了となった[注 3]。劇中でゴジラの死を描き、以降は休止期間となる。

詳しいことは、「ゴジラウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9
(wikiより)

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⇧⇩ 以前は「この像」でした。

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⇧ いまは「この像」です。




伊能忠敬北海道最初の測量地碑


五月二十八日 新暦七月十九日


土用 朝五つ迄曇る 


夫より晴天江戸出立後の上天気なり 


併し山々白雲おほし 


箱館山に登て所々の方位を測 


夜も晴測量……
 
寛政十二年 一八〇〇年
  
伊能忠敬測量日誌より

昭和三十二年四月 函館市
(石碑碑文より)

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正岡子規生い立ちの家跡

子規は俳句・和歌の革新を行い、写生文を提唱して俳聖と仰がれている。


二歳から明治一六年一七歳で上京するまで

住んだ家がここにあった。


くれないの
  
   梅散るなへに故郷 ( ふるさと ) に

      
      つくしつみにし春し思ほゆ


子規最初の歌碑で、昭和二六年子規五十年祭のとき、子規の育った屋敷跡に建立した。


明治三五年三月十日午後四時過ぎ、門人の歌人・伊藤左千夫が紅梅の下に土筆 ( つくし ) などを植えた盆栽を贈った。


それを眺めて朝な夕なに作った歌一一首を明治三五年三月二六日、新聞「日本」に発表した。


この歌はその一首。


「なへに」は「・・・につれて」の意。


文字は『仰臥漫録 ( ぎょうがまんろく )』の自筆の拡大
(道路真ん中の案内板より)


子規の家は、子規が生まれた翌年に湊 ( みなと ) 町四丁目一番地にかわっている。


市内ながら灌漑 ( かんがい ) 用の小川がながれている。


川幅二メートルほどで、中ノ川といい、石手川のえだ川であり、水が飲めるほどうつくしい。


子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映し、東側に土塀がつづき、表門がある。


屋敷地のひろさは百八十坪ほどであった。


司馬遼太郎著『坂の上の雲』( 文芸春秋 ) 単行本: 1巻より


正岡家の住居は、子規誕生地からこの地に移り、正岡子規は 2歳から上京する 17歳まで過ごした。


子規にとっては、良き師良き友に恵まれた少年時代だった。
(案内板より)

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田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日元治元年6月22日) - 1929年昭和4年)9月29日)は、日本陸軍軍人、政治家。階級陸軍大将勲等勲一等功級功三級爵位男爵


陸軍大臣貴族院議員内閣総理大臣第26代)、外務大臣第42代)、内務大臣第45代)、拓務大臣初代)などを歴任した。

生涯
生い立ち
萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。13歳で萩の乱に参加。若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。

軍人として
陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。


また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。


日露戦争
では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。


1910年明治43年)、在郷軍人会を組織した。


1915年大正4年)、参謀次長原内閣第2次山本内閣陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。


1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動中国語版など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、西原借款問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。


1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。

政党政治家へ
将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。


1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。

当初、伊東巳代治田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。


田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追及されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった[注釈 1]。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。


折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨西園寺公望原敬らの側近であった横田は板垣退助自由党以来の自由主義伊藤博文立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は勅撰貴族院議員となった[1]


さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士原嘉道司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣小川平吉外務政務次官森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。

2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。


鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。


田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。

詳しいことは、「田中義一ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
(wikiより)

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田中義一

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伴 百悦(ばん ひゃくえつ、文政10年(1827年) - 明治3年6月22日1870年7月20日))は幕末会津藩士。

経歴
会津藩上級藩士伴佐太郎宗忠(500石)の長男として郭内本四ノ丁三日町口郭門西で生まれる。伴家は代々藩の鷹番頭であった。


戊辰戦争
で、萱野右兵衛隊組頭として越後口で奮戦、のち朱雀隊(18-35歳まで)寄合二番隊中隊頭を務める。長岡城陥落後会津に戻り、篭城戦で活躍。国内史上最大の内戦となった同戦争では東軍死者は4,680人、うち会津の死者は2,557人(女194人)に上った[1]

曲折の埋葬作業
明治元年(1868年)9月22日の開城後、10月1日に民政局が設置される。2000余の会津藩士の遺体は賊軍という汚名のもと埋葬することも許されず、腐乱するがままになったと巷間言われているが、同月4日には郭外に放置されている遺体を城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた「遺体埋葬令」が出された(会津若松史6巻)ものの、降雪と12月までに頻発した一揆のため作業が中断されたとするのが実情で、この間「『彼我』の戦死者一切に対して決して何等の処置をも為すべからず、もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との会津若松での明治新政府通達が出され、会津側だけでなく、新政府側兵士の遺体も野ざらしにされたという。


当時若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ[2]、「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など16ヶ所に総数1634 の遺体が、2ヶ月にわたり埋葬されたという。

束松事件
満足して滝沢村に帰ってきた伴らであったが、待っていたのは民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。当時全国的に横行していたニセ金ニセ札つくりは会津でも例外ではなく、容疑者を捕らえると久保村はろくに調べもせず斬首する圧政者として若松城下では誰知らぬ者はなかった。 その久保村は、明治2年民生局の廃止で職を免ぜられ、7月に故郷越前に帰藩することになる。久保村出発の日を探り出した 伴は高津仲三郎思案橋事件で刑死)ら同志とともに束松峠会津坂下町)で待ち伏せして斬殺、越後方面に逃亡、大安寺村(現・新潟県新津市)の坂口津右衛門のもとに身を寄せた。翌3年6月22日、伴の潜伏する大安寺村の慶雲庵に村松藩の捕吏が殺到、伴は捕吏の一人を板戸越しに刺した後相手方の怯んだ隙に自刃して果てたという。

墓地
伴の遺体は村人の手により慶雲庵に埋葬され自然石の墓標が建てられたが、その後慶雲庵もなくなり荒れるにまかされていた墓地は昭和41年(1966年)3月、越後交通社長柏村毅会津会会長)の手によって整備改修され、墓碑も設けられた。同62年(1987年)4月、元国鉄会津線管理所長伴亨一郎は、当初の墓碑が腐朽したため仙台石に墓誌を刻み建立した。平成11年(1999年)10月、茶道表千家流教授伴京悦(悦子)と、弟で国鉄塩釜駅長伴和郎が祖霊追善供養のため慶雲庵より百悦の遺骨を分骨、会津若松市大窪山麓に佇む祥雲山善龍寺に墓碑とともに墓石を建立。法名修功院殿百法勇悦居士。釈迦と渾名された剣の達人であった。


1. 明治史要
2. 東日本部落解放研究所「東日本の部落史 第2巻」130p.

参考文献
・「萩と会津 畑敬之助、歴史春秋」会津史学会編

・「武士道残照-鳥居三十郎と伴百悦その死」中島欣也 恒文社

・「幕末維新人名事典」新人物往来社

・「その名は町野主水」中村彰彦 新人物往来社
(wikiより)

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田中 玄宰(たなか はるなか)は、江戸時代後期の会津藩家老。

生涯
寛延元年(1748年)、田中玄興の子として誕生。初名は玄堅(はるかた)。


12歳で家を継ぎ、天明元年(1781年)に34歳で家老に任じられた後、会津藩5代藩主・松平容頌、6代藩主・容住、7代藩主・容衆の3代の藩主に仕えた。


当時会津藩に打撃を与えた天明の大飢饉、利根川や荒川の改修、江戸城の手伝い普請、江戸会津藩邸の消失などの窮地を乗り越えるため、財政、産業、軍制、教育など藩政の全てにおいて改革を断行した。特に、会津藩は天明の大飢饉によって財政も窮乏化しており、玄宰は藩主・容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して家老を辞職した。


その間、兵学や経済などについて研究して1年後に復権すると「天明の大改革」建議書を上申、大きな成果をあげた。また、殖産興業の奨励が図られ、農民や町人に養蚕・薬用人参・紅花・藍・棉等の栽培・漆器・酒造り・絵ろうそく等の栽培や製造を推奨実行し、今日の会津地方の伝統産業の基礎が築かれた。更に藩校日新館の創設し教育改革を行うなど、会津藩が天下の雄藩となる基礎を築いた。隣藩・白河藩主で江戸幕府老中も務めた松平定信は家臣に対し、「会津の田中三郎兵衛に笑われることなかれ」と訓戒するほど高く評価された。


文化
5年(1808年)、ロシアの攻撃に備えて約1600名の藩士ともに樺太警備にあたり(会津藩の北方警備)、その活躍に幕府をはじめ諸藩から絶賛を得たが、同年、樺太にて死去。享年61。「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」との遺言により、墓はそれらを見渡せる小田山の山頂に設けられた。家督は長男・玄成が相続するも早世し、一瀬家の養子となっていた次男・玄古が帰家してその跡を相続した。


幕末
の会津藩家老田中玄清は長男玄成の孫、政治活動家の田中清玄は玄宰の叔父玄通の子孫。

田中玄宰をあつかった作品
中村彰彦『花ならば花咲かん』(PHP研究所)

関連項目
日新館   
(wikiより)

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高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、眞宗大谷派に属し、夏目漱石 ( 金之助 ) の菩提寺である。


夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。


明治十四年年一月に母、二十年三月に長兄、六月に次兄が本法寺に葬られた。


それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。


亡き母を詠んだ句もある。


兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。


蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。


作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。


境内には、早稲田大学第十四代総長・奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。
 
早稲田大学創立 125周年記念
「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」


明治 25年 ( 1892 ) 5月、漱石は東京専門学校 ( 現早稲田大学 ) の講師となった。
 
「おやぢの葬式の時に、小日向の養源寺の座敷にかゝってた懸物は此の顔によく似て居る。坊主に聞いて見たら韋駄天 ( いだてん ) と云ふ怪物ださうだ。」
 
『坊っちゃん』( 1993年版 )より

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網野 菊(あみの きく、1900年1月16日 - 1978年5月15日)は明治から昭和にかけて活躍した女流作家志賀直哉に見いだされ、芸術選奨文部大臣賞、女流文学賞、読売文学賞、芸術院賞を受賞した。日本芸術院会員。別名・相原菊子。

経歴
東京市麻布区谷町(現・六本木1、2丁目)で馬具製造業の父・亀吉(1875-)とふじのの長女として生まれた[1][2][3]。亀吉は信州の農家の出だが、赤坂田町の馬具辰こと金子辰五郎に奉公して馬具職人となり、戦争需要で成功し、馬具革具軍需品一式製造販売のほか東京電線株式会社の監査役も務めた[4]。菊が生まれた頃は貧民街にあった元人力車夫の祖父の家で暮らしていたが、家計が豊かになるにつれ、赤坂表町麹町区三番町(現・九段南、九段北)へと転居し、菊は小学生の途中から番町小学校で学んだ[3][4]。取引先の若い店員との不倫により母親が姦通罪で実刑となり両親が離婚したため実母とは7歳で生き別れ、3人の継母を迎え、腹違いの異母弟妹に囲まれるという複雑な家庭で育つ[5][6]。13歳ごろ腹膜炎・肋膜炎を患い、叔母の家で病臥する[7]


千代田高女を経て、1916年に日本女子大学英文科に入学し、同年実母への複雑な心境を描いた「二月」を執筆し、1920年に同作を含む『秋』を国文堂書店より自費出版して作家デビュー[7][1][8]。同級生に宮本百合子、児童文学作家の丹野てい子(野町禎子)がおり、丹野とは生涯親交した。大学を卒業したのち、母校で教師を務める。1922年から二年あまり早稲田大学露文科の聴講生となる。


友人の湯浅芳子と旅行中に関東大震災が起こり、東京に戻れなくなったため湯浅の故郷京都に滞在し、当時粟田口に住んでいた志賀直哉を一期の思いで訪ねたところ、持参した『光子』を志賀に認められて弟子となり、志賀の斡旋で1925年に『文芸春秋 』に『家』を、翌年『中央公論』に『光子』を発表。1926年から二年間志賀の転居先である奈良に住んだ[7]。志賀を通じて武者小路実篤滝井孝作はじめ多くの文人と交流した[8]。新たな母の輿入れが引き金となり、1929年に発作的に服毒自殺を図り、翌年には密かに心を寄せていた画家の中村研一の結婚に打撃を受ける[9]

作品を読んで感激したという京大哲学科卒の教師相原信作から手紙で求婚されてすぐ承諾し、お互い顔を知らないまま1930年に結婚[10]満洲奉天満州医科大学予科教室にドイツ語教師として勤務していた相原とともに奉天で暮らす[11]。しばらく文筆から遠ざかるが、帰国後の1938年に離婚し[12]、1940年に『汽車の中で』で復帰。失敗した結婚をもとに『肥る』『風呂敷』『妻たち』『おかしな結婚』などを執筆[13]。私小説、随筆風の作品が多い。ロシアの児童文学、民話などの翻訳もある。戦中は東京で一人暮らしをし、吉屋信子池田小菊らと親交する一方、両手を重症の水虫に冒され、リウマチに悩まされるなど不調も抱えた[14]


1962年「さくらの花」で芸術選奨文部大臣賞および女流文学賞。1968年、『一期一会』で読売文学賞。同年、日本芸術院賞[15]、1969年芸術院会員。1971年に護国寺裏の直居アパートに転居、同所には広津和郎の仕事場があり、広津の娘でのちに網野の生涯を綴った広津桃子と親しくなる。


1978年5月15日、東京都渋谷区千駄ヶ谷東京勤労者医療会代々木病院において、腎不全のため78歳で死去[16]。墓所は青山霊園。網野菊旧居跡(1942年から空襲で焼けるまで居住)として千代田区四番町図書館(四番町1番地)に記念プレートが設置されている[17]

著作
・『秋』国文堂書店 1921

・『光子』新潮社 1926 - 継母の死を題材にしたもの

・『汽車の中で』春陽堂 1940

・『若い日』全国書房「女流作家叢書」1942

 他は、池田小菊、壺井栄中里恒子佐多稲子真杉静枝

・『妻たち』東晃社 1943 - 奉天での結婚生活について

・『雪の山』昭南書房 1943

・『海辺』三島書房 1947

・『街の子供』東京出版 1947

・『花束』雄鶏社 1948

・『幸福ということ』竜南書房 1958

・『さくらの花』新潮社 1961 - 腹違いの妹との確執をもとにしたもの

・『冬の花』三月書房 1962

・『ゆれる葦』講談社 1964

・『一期一会』講談社 1967 - 引退後入水自殺した八代目市川團蔵を偲び題材にした

・『白文鳥』土筆社 1967

・『網野菊全集』全3巻 講談社 1969

・『遠山の雪』皆美社 1971

・『心の歳月』新潮社 1972

・『雪晴れ 志賀直哉先生の思い出』皆美社 1973

・『陽のさす部屋』講談社 1975 - 短編集・表題作ほかは以下を収録

 入れ歯・自分の家・抱き人形・ばあばいや・新茶・巣立つ・幸せな晩年・夏期寮・ひとの恋文・見学旅行・海・清香・猫・菩提樹の葉

・『時々の花』木耳社 1978

・『一期一会・さくらの花』講談社文芸文庫 1993

・『ゆれる葦』講談社文芸文庫 1994

・『おん身は花の姿にて 網野菊アンソロジー』山下多恵子編 未知谷 2011

・『網野菊・芝木好子・中里恒子』角川書店女性作家シリーズ〉1999

詳しいことは、「網野 菊ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E8%8F%8A
(wikiより)

1176 網野菊墓

網野 菊

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享禄元年 ~ 慶長七年 ( 1528 ~ 1602 )。

徳川家康生母。三河 ( 愛知県 ) 刈屋の城主・水野忠政の娘。


天文十年 ( 1541 ) 岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む

のちに離婚して阿古屋 ( あこや ) 城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。


法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼 ( でんつういんでんよこうがくちこうだいぜんじょうに ) にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。
(案内板より)


〇 於大の方
於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日1602年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」、または「太」「たい」[注釈 1]。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。

生涯
享禄元年(1528年)、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)。


父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ(於富の方所生とされる子達の出生年からこれを否定する説もある)、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した[1]

天文12年2月3日、三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念した[2]


忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文13年(1544年)に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城(現刈谷市)に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。於大は天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には3男3女を儲ける。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けた。


永禄
3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。天正3年12月(1576年1月)、於大の兄の水野信元が謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、尾張国の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子で、於大の子ではない)も信長に謀反を疑われて大坂四天王寺で自害し、所領は没収された。於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した[3]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。慶長7年(1602年)には、高台院後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏豊臣氏に敵意がないことを示した。


同年8月28日、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区山城伏見城で死去[4]。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は伝通院殿光岳蓉誉智光[5]


なお、於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。

子女
・松平広忠との間の子

  ・徳川家康

・久松俊勝との間の子

  ・松平康元

  ・松平康俊

  ・松平定勝

  ・多劫姫松平忠正夫人(後に松平忠吉(忠正実弟)・保科正直に再嫁)

  ・松姫、松平康長夫人

  ・天桂院、松平家清夫人

登場する作品
テレビドラマ

徳川家康1983年、NHK大河ドラマ、 演:大竹しのぶ

葵 徳川三代2000年、NHK大河ドラマ、演 : 山田五十鈴

おんな城主 直虎2017年、NHK大河ドラマ、演 :栗原小巻

脚注
注釈
1. 実名は江戸初期編纂『寛永諸家系図伝』「水野氏」の忠政の女子に「御太方(たいはう)」とあり、同時期寛永18年(1641年)に幕府に提出された「水野勝成覚書」には甥の勝成が「たいほう」と冒頭系図に書き記している。朝廷から贈られた名前「大子」も読みは「たいこ」であろう。

出典
1.  中村 1965, p. 55.
2. 中村 1965, p. 58.
3. 「由緒・沿革」浄土宗西山深草派 楠林山和合院 安楽寺
4. 中村 1965, p. 341.
5. 中村 1965, p. 343.

参考文献
・中村孝也 『徳川家康公傳』 東照宮社務所、1965年。

関連項目
久松氏

乾坤院

徳川家康の影武者説

長勝院 - 『知立市史』によると外姪にあたる。
(wikiより)


於大の方


⇧ 於大の方 

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⇧⇩ 新たに設置された説明版 ( 2023年 1月 28日撮影 )

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品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日1843年11月20日)- 明治33年(1900年2月26日)は、日本武士長州藩士)、政治家[1]栄典従二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。は扇洲。別称に橋本八郎松本清熊などがある。

経歴
天保14年(1843年)、長州藩足軽品川弥市右衛門池田六左衛門の長女まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。


明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツイギリスに留学する。内務大書記官や内務少輔農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。


明治24年(1891年)に第1次松方内閣内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。


民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。


明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去[2]。享年58。

人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる。

・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している。

・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年(1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[3]

・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した。品川の死後、山口県下関市功山寺にも建立されている。

東京都千代田区九段南田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲の監督によるという。

大日本山林会初代幹事長を務めた。

大日本水産会 第一次幹事長(初代会長に相当)を務めた(任期:明治15年(1882年)2月12日 - 同19年(1886年4月26日[4]

大日本農会初代幹事長を務めた。

・1885年(明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている。

詳しいことは、「品川弥二郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E
(wikiより)

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品川弥二郎

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旧稲生神社の創建時期は明らかではありませんが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に稲生神社が描かれていることから、庭園内に稲荷社が古く祭られていたことが知られています。


現在の建物は、前身となる社殿が明治二十七年(1894)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため、翌年に当時の宮内省 内匠寮(たくみりょう)の手によって、同規模・同形式で再建されたものです。


一方、内部に祭られている宮殿は、その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。


建立から現在に至るまで、幾度か修理の手が加えられたことが、調査によって判明しています。


なかでも、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では大きく破損し、倒壊は免れたようですが、昭和6年(1931)に同じく内匠寮によって大修理が行われました。


そして、平成17年には文化財としての大掛かりな修理を行い、ここに明治時代の創建当時の姿を伝えています。

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空風火水地五層の石塔で「元亨 四年」の銘がある ( 3月 24日 ) 。


元亨 4年は ( 1324年 ) で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。
(案内板より)

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明治十一年(1878)五月一四朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿・大久保利通が暗殺されました。


現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。


また大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二一年(1888)五月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。


「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると六・二七メートルにもなります。

石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は、硬砂岩と思われます。


「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人たちの痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。


大久保公記念碑の裏面碑文内容の説明


ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。


突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。

昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。


大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。

大久保公の死は、宮古の人たちは勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。

大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。


大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとはしません。

ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。
(案内板より)

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江戸時代の寛文年間 この地は酒井雅楽頭の上屋敷であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
(案内板より)

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新井 忠雄(あらい ただお、天保6年[1]2月7日1835年3月5日) - 明治24年(1891年[1]2月15日)は、幕末新選組隊士。諸士調役兼監察[2][3]、撃剣師範[1][2]は一業(かずなり)[1]


変名に新井俊蔵、新井陸之助、成尾退蔵を使用した[1]

人物
陸奥国磐城平藩出身。母方の新井家を継ぐ。18歳より江戸で生活し、元治元年(1864年)頃[1]、31歳で新選組に入隊。大酒飲みだったといわれ、慶応2年(1866年)9月の三条制札事件の際にも大量の酒を飲んだ後で、泥酔状態のまま現場へ向かって戦闘に及んだという。


慶応2年(1866年)9月の三条制札事件に出動後は慶応3年(1867年)1月に伊東甲子太郎と共に九州を遊説、3月に帰京[1]。その後、伊東らと共に新選組を離脱して御陵衛士を結成、高台寺の塔頭月真院を屯所としたため伊東らを筆頭に16名が高台寺党とも呼ばれた[3]。高台寺党を結成した16名は伊東、新井の他に伊東の実弟である三木三郎藤堂平助服部武雄篠原泰之進阿部十郎富山弥兵衛内海二郎加納鷲雄橋本皆助毛内監物清原清佐原太郎中西昇斎藤一だった[4]


油小路事件
で御陵衛士が崩壊すると薩摩藩邸に逃げ込んで存命した。


鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍に属し出陣[1]戊辰戦争では新政府軍に所属し庄内および新潟で戦った[1]


維新後、司法省官吏として明治政府に出仕、行部省官僚となった[1]。明治24年(1891年)死去。享年57。


脚注
1. a b c d e f g h i j 歴史群像2010, p. 264.
2. a b 鈴木2007, p. 122.
3. a b 中村2015.
4. 木村2003.


参考文献
鈴木亨再現・新選組―見直される青春譜三修社、2007年12月1日。ISBN 978-4384041439

中村彰彦新選組紀行PHP研究所、2015年7月3日。ISBN 978-4569763989

木村幸比古新選組日記PHP研究所、2003年6月16日。ISBN 978-4569630083

歴史群像編集部全国版幕末維新人物事典学習研究社、2010年3月3日。ISBN 978-4054044630。 
(wikiより)


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蒲生君平は、明治五年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。

通称・伊三郎、字を君平、修静または修静庵と号した。


姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将・蒲生氏郷(うじさと)の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。

高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。


幼児から学問に励み、長じて水戸藩士・藤田幽谷(ゆうこく)を知り、節義と憂国の感化を受けた。

寛政(1789~1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)『山陵志』を寛政させた。

これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。


後、江戸を出て著述に専念し、文化十年(1813)に没した。

「蒲生君平墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。

昭和十七年国史跡に指定された。


山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。
(案内板より)


〇 蒲生君平
蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩林子平上野国郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。赤貧と波乱の人生を送りながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平はで、は秀実、通称は伊三郎。に修静庵。

生涯
幼年期
下野国宇都宮新石町(栃木県宇都宮市小幡一丁目)の生まれ。父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む[1]。祖母から祖先が立派な武士(蒲生氏郷)だと聞かされた時「幼い胸は高鳴り感激で夜も眠れないほどだった、しかし今は町人の子でどうにもならない、学問で身を立て立派な祖先に恥じない人になる決意をした」。6歳の頃から近所の泉町にある延命院で、時の住職・良快和尚の下で読書、習字、四書五経の素読を学び、この折に筆写した蒲生氏の『移封記』が今も伝えられる。君平の読書好きは、近所の火事の明かりの元、屋根に上って読書をしたという逸話にも伝えられる。良快和尚は君平9歳の折に死去するが、その後も延命院で修学したとされる。



青年期
14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋の麗澤舎に入塾した[1]昌平黌で学んだ石橋は当時29歳であった。君平は、毎日鹿沼まで3里の道を往復し、国史・古典を学んだ[1]黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩き、「狂人」と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した。塾では『太平記』を愛読し、楠木正成新田義貞らの後醍醐天皇への忠勤に感化され、勤皇思想に傾斜した。この頃、黒羽藩士の鈴木為蝶軒にも学んだ。


君平はしばしば水戸に往来し、水戸藩の勤王の志士藤田幽谷と交わり、その影響を受けた[1]寛政2年(1790年)、23歳の時、高山彦九郎を慕ってその後を追い、陸奥を旅し、帰路、当時53歳の林子平を仙台城下に訪ねた[注釈 1]。その際、子平は君平の名を知っていたが、君平のあまりに粗末な身なりを見て、銭でも乞いに来たのかと思い「落ちぶれ儒者、その無様さは何だ」と言って笑った。そこで君平は憤然とし、「この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな」と怒鳴って引き返したという、寛政の奇人同士の出会いとして有名な逸話がある。

海防調査と天皇陵調査の旅
寛政4年(1792年)、『今書』2巻を著して時弊を論じた[1]ロシア軍艦の出現を聞き、寛政7年(1795年)には北辺防備の薄さを憂えて再び陸奥への旅に出た[1]。帰路、会津で先祖蒲生氏郷蒲生帯刀の墓に額づいている。


寛政8年(1796年)、『山陵志』論述のために京都に赴いた[1]。寛政11年(1799年)11月28日、再び上京して歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、天皇陵(古墳)を研究する[1]。父・正栄の喪が明けた32歳の時、河内大和和泉摂津にある歴代天皇陵を全て実際に踏査した[1][2]。帰途、伊勢松阪本居宣長を訪れ、大いに激励を受け、佐渡島順徳天皇陵を拝した[1]。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立に行き、日本海散骨したという話は有名である。寛政12年5月24日、下野に帰った。この時、師の鈴木石橋に挨拶に行ったが、身なりは粗末で疲労困憊していたという。

著述と晩年
調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込に塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら、享和元年(1801年)に『山陵志』を完成させた[1]。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから現在も用いられる前方後円墳の用語が生まれた。ついで、『職官志』の編纂に着手した[1]


文化
4年(1807年)、北辺防備を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕閣(若年寄水野忠成)に献上したが、幕府の警戒するところとなり喚問を受けて閑居させられる。


文化7年(1810年)、居を江戸に移し、同年、『職官志』を一部刊行した[1]。江戸では、大学頭林述斎に文教振興を建議している。構想していた9志のうち出版できたのは『山陵志』『職官志』だけであり、それも借財を背負ってのことである。


文化10年(1813年)6月、病に伏し、赤痢を併発して46歳で病没。現在の東京都台東区の臨江寺に葬られた。



没後
明治2年(1869年)12月、君平はその功績を賞され、明治天皇勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友により勅旌碑(ちょくせいひ)が建てられた(宇都宮市花房3丁目と東京谷中臨江寺)。さらに明治14年(1881年)5月には正四位が贈位されている。宇都宮市では蒲生神社1925年創建)に祭神として祀られているほか、生家跡を示す碑が建てられている[3]。また『蒲生君平全集』(東京出版社)が1911年に出版されている。



人物・交友関係
蒲生君平は、しばしば単純な皇室至上主義者と見られがちであるが、必ずしもそうではない。享和元年(1801年)の『山陵志』も文化7年(1810年)一部刊行の『職官志』も対外的危機が迫るなか、危機に対処可能な国家と国家機構のあり方を模索した営みであった[4]。かれは、彰考館総裁立原翠軒や盟友藤田幽谷から影響を受け、水戸藩に代わって制度史を編纂しようとしたのである[2]


平田篤胤は君平の友であり、水戸学の藤田幽谷とは互いに多大な影響を与え合う関係にあった[2][4]。江戸では、曲亭馬琴の知遇を得ている。

詳しいことは、「蒲生君平ウィキペディア」をご覧ください ⇩



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%90%9B%E5%B9%B3
(wikiより)

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蒲生君平

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⇧⇩ 明治初年政府が建立したものである。

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矢野正倫 ( やの - まさとも )
( ? - 1614 )

江戸時代前期の武将。

伯耆(ほうき)(鳥取県)米子(よなご)藩士。

慶長 14年藩主中村忠一 ( ただかず ) が急死し後嗣なしとして家が断絶となった時、幼い跡継ぎがいることを幕府に訴えたが認められなかった。

豊臣秀頼のもとで主家の再興を期したが、慶長 19年 11月 26日大坂冬の陣で戦死した。


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棚橋絢子(たなはし - あやこ)   
天保10年2月24日~昭和14年9月21日(1839-1939)

明治~昭和期の教育者。

大阪出身。

幼名、貞。号、梅香・梅巷・梅庵。

父、大阪の酒造業牛尾田庄右衛門(長女)。

奥野小山に漢学を、三瓶信庵に書を学ぶ。

安政4年(1857)19歳のとき美濃国伊自良郡松尾村(山県市松尾)の代官棚橋真吾右衛門の息子で視覚障害者である漢学者棚橋大作(下記)と結婚、絢子と改める。

5年ほどして棚橋家は諸事情で録を失い生活に困窮、絢子が寺子屋や裁縫の師匠をして生計を立てた。

転々と住居を移し、明治5年(1872)名古屋の十番小学校教員となり、のち東京女子師範学校、学習院女子部などで訓導・教鞭を執り、明治19年(1886)私立金声小学校を経営するも明治23年(1890)閉校。

明治27年(1894)成立学舎女子部教頭。

明治29年(1896)名古屋高等女学校校長を経て、明治33年(1900)愛敬女学校校長。

明治36年(1903)高等女学校令による府下最初の4年制女子学校である私立東京高等女学校を棚橋一郎(下記)らが創立し、その初代校長に迎えられる。

岩倉家、徳川家など十数家もの子女教育もおこなう。

昭和13年(1938)100歳まで教壇に立ったが、高齢のため校長を辞す。

その他、大日本婦人会・海軍協会婦人部などに関与した。101歳没。

「霊雲院梅巷妙蘂大姉」。

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高松実村( たかまつ - さねむら )
天保13年~明治40年10月12日(1842-1907)


偽官軍高松隊隊長・子爵。

父、公家高松保実(三男)。京都出身。


安政6年(1859)叙爵。


万延元年(1860)元服、昇殿を許され元治元年(1864)刑部大輔。


慶応元年(1865)左兵衛権佐、正五位下。


慶応4年(1868)1月小沢雅楽之助(おざわうたのすけ)に担ぎ上げられ甲府城攻略を目的とした「高松隊」を結成。


諸国鎮撫の勅使を名乗って甲州入りするが、その実、金穀、および兵員を裕福な町家から強請した。


慶応4年(1868)3月3日新政府軍によって偽勅使とばれ下諏訪郊外で雅楽らは処刑されたが、公家は処刑を免れ、謹慎となったが、許されて女御入内前馳を奉し。


皇后宮少進となり明治5年(1872)若松県史生。


明治7年(1874)内務省に出仕。


明治9年(1876)宇津木克孝・吉田久らと内務権少録。


明治17年(2884)子爵。同年退官。


明治20年(1887)従四位。のち正三位。嗣子に高松公秋(海軍少佐・正五位勲五等)。

著書:「高松子爵甲信地方に脱せられし事実」。


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「桜の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩・井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が彫ったと伝えられている。


三連式釣瓶井戸で、縦約一・八メートル、横約三メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を尾と訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。


江戸名所図会に絵入りで紹介され、歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保十四年(1843))(図)にも描かれている。


安政七年(1860)三月三日には大老・井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。


大正七年(1918)史蹟に定められ、東京都は昭和三十年(1955)旧跡指定。


昭和四十三年(1968)道路工事のため交差点内から原形のまま十メートル離れた現在地に移設復元された。

平成十九年(2007)彦根城築城 四〇〇年祭りと東京金亀会設立九十周年に記す。
(案内板より)

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蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学教育研究機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。


概要
ペリー来航後、蘭学に止まらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)「洋学所」を開設した。しかしこれが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、1856年3月17日(安政3年2月11日)「蕃書調所」と改称し、古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫・杉田成卿らを教授として、同年末(安政4年1月)に開講した。


幕臣の子弟を対象に(安政5年以降は藩士の入学も認めた)、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当し、1862年(文久2年)には学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。同年6月15日(旧暦5月18日)「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌1863年10月11日(文久3年8月29日)「開成所」と改称された。以降は開成所を参照。


所在地
前身である洋学所は神田小川町に所在していたが、これが壊滅したため、蕃書調所は新たに九段坂下に講舎を新築し開講した。その後井伊直弼政権期には洋学軽視政策の影響で、1860年(万延元年)小川町の狭隘な講舎に移転されたが、1862年に一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転、これが後身機関である開成所・開成学校・東京大学法理文三学部に継承された。最初に蕃書調所が置かれた九段坂下(現在の九段南)には「蕃書調所」跡の碑が建立されている。

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荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼(うっそう)とした森が広がっていました。


人々からは水神の森とも浮洲(うきす)の森とも呼ばれて親しまれていました。


昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。


水神の森は、『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。


川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。


その後、震災・戦災にも消失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
(案内板より)


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本樹は幹周り5.35メートル、樹高25メートル、推定樹齢約600年という古木であるが、整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。


本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。


また約600年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。
(案内板より)

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官営品川硝子製造所跡

所在 北品川4丁目11番5号 三共株式会社

指定 昭和53年11月22日(第8号)


日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社こうぎょうしゃである。

興業社は、明治9年(1876)に工部省こうぶしょうに買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。

明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治25年(1892)に解散した。

昭和36年(1961)に官営時代の建物は取り片付けられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。


平成6年3月31日
品川区教育委員会
(案内板より)


近代硝子工業発祥の地碑

此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル

同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル

然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ

同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子會社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ已ムナキニ至ッタ

其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢献シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所頗ル大ナルモノガアッタ

吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式會社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ

斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傳フルヲ得タノデアル
(碑文より)

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千利休の 200回忌の折りに建てられたそうです。

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狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日1828年2月27日) - 明治21年(1888年11月5日)は、幕末から明治期の日本画家近代日本画の父幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦[1]と共に、日本画において江戸時代明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。

伝記
生い立ち
1828年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。


芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。弘化3年(1846年)19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)に学ぶ。嘉永3年(1850年)には弟子頭となり、同年同日入門[2]し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。

芳崖として
その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。安政4年(1857年)近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期には、戦勝祈願の絵馬「武内宿禰投珠図」(忌宮神社蔵)や、「馬関海峡測量図」(下関市立長府図書館蔵)を描くなど、当時の社会と密接した芳崖の活動がうかがえる。この頃、自ら旧套を脱し一頭地を出る意味を持つ雅号を探り、の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた伝えられる。


明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。

フェノロサとの出会い
同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた[3]「仁王捉鬼図(におうそうきず)」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった[4]。フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。


フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。墓所は東京谷中長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。


弟子に、芳崖四天王と呼ばれた歴史画を良くした岡倉秋水岡倉覚三(天心)の甥)、山水画に特色がある本多天城、「仏画師」と称した高屋肖哲、草花図を得意とした岡不崩など。芳崖死後、明治29年の『太陽』(二巻二号)には、河鍋暁斎菊池容斎と共に「近世の三大画家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの画に不満だったらしく、「北斎や暁斎は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容斎や是真なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている[5]


詳しいことは、「狩野芳崖ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E8%8A%B3%E5%B4%96
(wikiより)

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狩野芳崖

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井上 正鉄井上 正鐵、いのうえ まさかね、寛政2年8月4日1790年9月12日) - 嘉永2年2月18日1849年3月12日))は幕末国学者神道家

経歴
1790年 - 上野国館林藩安藤真鉄(あんどうまかね)の子として江戸日本橋浜町に出生。母方の縁者の養子に入り井上姓となる。

1834年 - 京都に上り白川伯王家に入門。伯家神道を修める。

1836年 - 白川伯王家から神拝式許状を得る。

1838年 - 白川伯王家の神職許状と天津祝詞太祝詞三種祓等の奥旨皆伝を受けた。

1840年 - 江戸に戻り、足立郡梅田神明宮の神職となる。独自の神道を唱え、妻の安西男也、門弟三浦隼人・智善夫妻とともに布教を始める。

1841年 - 寺社奉行より邪教(新義異流)の嫌疑がかけられ、妻の男也、門弟三浦夫妻とともに入牢。

1843年 - 三宅島に流される。

1849年 - 三宅島で没す。

1868年 - 白川伯王家より「禊祓霊社」の神号が贈られ、梅田神明宮内に「井上神社」を創建。神として祀られる。



没後
明治維新後、門人の坂田鉄安らによってその思想が纏められ、正鉄を教祖とする教派神道禊教」が立教された。

天保の大飢饉の折、「我、一飯(いっぱん)を捧げて人々の飢えを救わん」と説き、救済活動を行った。現在新宗教を中心に行われている「一食(いちじき)を捧げる運動[1]」(立正佼成会)や「副食を献じる運動[2]」(解脱会)の起源という。

備考
・独自の呼吸法で大音声を発することができたといわれる。

・三宅島では釣りを楽しんだといわれ、釣りにまつわる歌を幾つか残している。
  ・轟ろ打つ波もこさじな大海の沖の小島に釣りをたれつつ

  ・荒磯の沖の小島に釣りたれて神代のままの秋の夕暮れ

・教団関係者は、「井上正鐵」の表記を用いている(例えば、[1])。

参考文献
・禊教経典研究所編『井上正鐵神御文書』禊教本院、1982

関連事項
水野南北

伯家神道

身曾岐神社

松平宗秀   


脚注
1.  一食を捧げる運動の歴史一食を捧げる運動 2018年 立正佼成会
2. 社会に向けた貢献、支援活動2015年 解脱会

外部リンク
梅田神明宮(公式サイト)  
(wikiより)


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石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけ よしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤(かもんづつみ)築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。


その実績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。


これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(とおとうみのくに 静岡県)石出の出身とされる。


のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(一五九二~九六)本木に移って土地開発をし、慶長三年(一五九八)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。


元和(げんな)二年(一六一六)、鷹狩に来訪した徳川家康にこの地に延長二キロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。


また『南安達郡誌』(大正五年版)には、大永二年(一五二二)に千葉日向守幸胤(ちばひゅうがのかみゆきたね)の長子として小田原に生まれたとある。


北条氏家臣であったが、天正十八年(一五九〇)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。


文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十二日に九十七歳(数え年)で没したと記述している。


大正五年(一九一六)、従五位(じゅごい)を追贈された。


石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。


現在の墓石は後年子孫が建立したものである。


昭和五十八年十二月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
(案内板より)

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宮城玄魚(みやぎ - げんぎょ/みやぎ - はるな)・桜素亭玄魚/梅素亭玄魚/宮城梅素(みやぎ - ばいそ) 
文化 13年 12月 ~ 明治 13年 2月 7日( 1816 - 1880 )・・・文化 14年説あり


書画家・経師屋。

本名、宮城喜三郎。父、宮城彦三郎。

東京日本橋石町 4丁目で生まれ浅草に住む。

名、貞雄。号、整軒・桃園・科斗子・水仙子・小井居・梅素・楓阿弥等。


黄表紙や浮世絵の絵や文章には梅素亭玄魚を名乗った。


15歳で浅草の書画骨董家万屋金子吉兵衛の丁稚となる。


御家流(おいえりゅう)書家武田交米に師事。


また、国学者で歌人の岸本由豆流 ( きしもと - ゆずる:1789 - 1846 ) の門に入り、和歌でも有名となる。


父の老いにより 20歳で家に戻り父の家業を手伝うが、書画の版下を得意とし、注文も多かったことから、経師職を辞め専らこれに従事し、小説の版下でも有名となった。


活字の秀英体B型仮名書風の版下を作り、活版印刷の成立に大きな貢献をした。


また、千社札・絵ビラに使われる江戸文字を創った。


発句を守村抱儀に師事、狂歌を良く詠み、狂文も綴った。


なお、仮名垣魯とも交流があった。64歳没。

著書:「大工注文往来」、「 開化漢語用文」 。

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正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。


江戸城の門は、敵の侵入を八間する使節であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「桝形門」の形式をとっています。


赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。


赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主・黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。


江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。


明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。

現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
(案内板より)

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『御府内備考』に"御成(おなり)道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう"とあります。

筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流五十メートルの所あたりに見附橋が架かっていました。


御成道の名は将軍が上野寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。

見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。


八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。

また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。


江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。

明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。


また太々餅(だいだいもち)で売り出した有名な店もありました。
(案内板より)

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千葉周作は、ここに玄武館を開いて、北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政四年・東條一堂は瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授した。
(案内板より)

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日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治二十四年(1891)五月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。


設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(1856~1922)。


建物は石造で平屋建。建築面積一四・九三㎡で、軒高三・七五m、総高四・三m。

正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とぺディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。


日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
(案内板より)


〇 日本水準原点について

日本水準原点は 全国の土地の標高をきめる基になるもので 明治24年5月国がここに設けたものです


水準原点の位置は この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で その標高は24.4140メートルと定められています


この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです  建設省国土地理院
(碑文より)

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昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島[1]に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。

湯島聖堂」も参照

沿革
もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。


ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。


昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱に際して一時閉鎖、その後新政府に接収され慶応4年6月29日(1868年8月17日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年7月12日(1870年8月8日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校東京医学校東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しか持ち得なかったのである。

廃止後
前述のように、昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校[2])や東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[3])の源流ともなった。さらに学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[4]


昌平坂学問所のあった湯島聖堂の構内において、文部省国立博物館[5]の他、先述した東京師範学校と東京女子師範学校[6]が同居していた時期もあった。


後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(しかし附属学校は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは、源流と目される昌平黌が湯島聖堂構内に所在していたことに由来する。


このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学明治大学日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。

詳しいことは、「昌平坂学問所ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80
(wikiより)

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