生涯
宝暦8年(1758年)4月25日、第6代藩主・細川重賢の次男として生まれる。幼名は胤次、のち元服して父・重賢より1字を与えられて初名の賢年[1](かたとし)を名乗る。天明5年(1785年)、父の死去により家督を継ぎ、将軍・徳川家治より偏諱を賜って治年と改名。父の「宝暦の改革」を引き継いだ藩政を行なったが、翌天明6年(1786年)から天災が起こって、米価高騰により藩内で打ちこわしが起こるなどの苦境に立たされ、そのような中で、天明7年(1787年)9月16日に死去した。享年30。
長岡年和(としかず、1781-1800)をはじめ男子が皆早世していたために嗣子がなく、正室・謡台院(埴姫)の同母弟で、支藩の宇土藩主の細川立礼(改め斉茲)が養子に入り跡を継いだ。これにより、細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった。
妻・子女
・正室: 謡台院 (1755-1803、埴姫、細川興文の娘)
・(※子を授かっていたが流産。)
・側室: 登恵崎(織田氏)
・娘: 寿姫(1779-1795、寧子、咸姫、松平頼説室)
・嫡男: 長岡年和(1781-1800、幼名:雄次)- 早世。
・息子: 応五郎(1786-1791)- 夭折。
・側室: 妙雲院 千木(浅尾氏)
・息子: 浄丸(1785)- 夭折。
・娘: 就姫(1787-1847、美子、久我通明室)
・嗣子
・養子:細川斉茲(義弟(謡台院の同母弟))
出典
1. 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図およびこちらのページより。
(wikiより)
細川治年