本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2020/02

細川 治年(ほそかわ はるとし)は、肥後熊本藩の第7代藩主。熊本藩細川家8代。

生涯
宝暦8年(1758年)4月25日、第6代藩主・細川重賢の次男として生まれる。幼名は胤次、のち元服して父・重賢より1字を与えられて初名の賢年[1](かたとし)を名乗る。天明5年(1785年)、父の死去により家督を継ぎ、将軍徳川家治より偏諱を賜って治年と改名。父の「宝暦の改革」を引き継いだ藩政を行なったが、翌天明6年(1786年)から天災が起こって、米価高騰により藩内で打ちこわしが起こるなどの苦境に立たされ、そのような中で、天明7年(1787年)9月16日に死去した。享年30。


長岡年和(としかず、1781-1800)をはじめ男子が皆早世していたために嗣子がなく、正室・謡台院(埴姫)の同母弟で、支藩の宇土藩主の細川立礼(改め斉茲)が養子に入り跡を継いだ。これにより、細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった。

妻・子女
・正室: 謡台院 (1755-1803、埴姫、細川興文の娘)

  ・(※子を授かっていたが流産。)  

・側室: 登恵崎(織田氏

  ・娘: 寿姫(1779-1795、寧子、咸姫、松平頼説室)

  ・嫡男: 長岡年和(1781-1800、幼名:雄次)- 早世。

  ・息子: 応五郎(1786-1791)- 夭折。  

・側室: 妙雲院 千木(浅尾氏)

  ・息子: 浄丸(1785)- 夭折。  

  ・娘: 就姫(1787-1847、美子、久我通明室)

・嗣子

  ・養子:細川斉茲(義弟(謡台院の同母弟))

出典
1. 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図およびこちらのページより。
(wikiより)


0347 九代目・細川治年

細川治年

0347a

0347b




細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。

紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。


初めは父・宣紀より1字を与えられて長岡紀雄[1](ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。改名後の「重」の字は将軍徳川家重より偏諱を賜ったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。

生涯
家督相続
享保5年12月26日(新暦1721年1月23日)に生まれる。享保17年(1732年)、父・宣紀が死去すると、兄・宗孝が跡を継ぐ。宣紀の時に既に40万両近い借財を抱え、宗孝の時代には大藩故の過度な出費、宗孝治世のほとんどを襲った凶作などにより収入は激減し、藩財政は転げるように落ち込んでいく。当時の熊本藩の困窮ぶりは「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されるほどであった。

寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請」も参照


重賢も、部屋住み時代には質屋に通ったと言われるほどで、この時の質札を生涯手元に置いておいたという逸話が残っている。


延享4年(1747年)8月15日、江戸城本丸大広間において、兄・宗孝が旗本板倉勝該に背後から襲われるという事件が発生する。家紋の九曜紋が似ていることからの人違いで起きた事件である。殿中での刃傷や死は理由を問わず御法度(喧嘩両成敗)であり、細川家はお家取り潰し・無嗣改易の危機に陥った。しかし仙台藩伊達宗村の機転を利かせた指示で、すでに死んでいた宗孝はまだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され、翌日死亡したことにされた。幸いに細川家にお咎めはなく、宗孝には世嗣がなかったことから、弟の重賢が末期養子とされて家督が回ってくることになった。

宝暦の改革
新たに藩主についた重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。宝暦2年(1752年)、堀勝名(通称・平太左衛門(へいたざえもん))を筆頭奉行に、蒲池正定(蒲池崑山)を奉行に登用し、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。


重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸の費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。また、重賢は米だけに依存することに限界を感じており、堀と意見が一致する。堀に殖産興業を命じ、楮、生糸、などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し、製蝋施設を設立させた。また、領内でたびたび検地を行うなどした。


藩内で出来た製品を加島屋を通じて大量に販売させるなどし、宝暦年間末頃には藩財政の好転が始まっていく。また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済にあたった。



節約のエピソード
・3年の猶予を与え、宝暦8年正月より男女共に袷、木綿のほかは着てはいけないとした。世子・治年の生母・比井も同様であった。また、客の馳走の質を減らした。入浴の際に湯を毎日替えるのは無駄とされたが、家来がいさめたので打水につかった。[2]

改革の成果
細川重賢の宝暦の改革によって、地方が一定の権限と財源が与えられた。後に作られた通潤橋のみならず、多くの橋、用水路、新田開発を行っている。肥後藩の公共事業のシステムについては、3つの要素があった。


・藩庁の様々な部局に手持ちの資金があり、貨殖(公共ローン)を行っていた。

・当時の税金の一部を積み立てていた(官銭)。

・地方の有力者の献金(寸志)があった。


また地方のエリート少年が、役場に入り庄屋の見習いになり、その後に幹部役人になれるシステムができていた。これらが宝暦の改革の成果といえる。熊本藩は54万石といわれたが、幕末には実質100万石となった。

教育、司法制度の革新
重賢の改革は財政だけに留まらず、宝暦4年(1754年)には熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に関係なく入校が出来た。江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされる。今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力した。これらは急激な改革による不満対策と、文武両道の武士教育の意味がある。また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の二本木)に創設、翌年開校した。その付属の薬草園も現在の薬園町に作った。[3][4]

藩校時習館」および「再春館 (学校)」も参照


また『刑法叢書』を採用した。それまで死刑か追放刑という刑罰内容だったものを変更し、追放刑を笞刑(むちで打つ)と徒刑(懲役)に減刑した。罪人の二の腕に入れ墨を入れていたのを廃止し、代わりに眉を剃らせ、罪人の社会復帰を容易にした。これも急激な改革に対する犯罪増加や不満対策である。この『刑法叢書』は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本から多くの人材が司法畑に採用された。

蘭癖大名
重賢は蘭学に傾倒し、薩摩島津重豪久保田(秋田)佐竹義敦らとともに蘭癖大名と称された。

死去
重賢は天明5年(1785年)10月26日に江戸の龍口亭で死去した。品川の東海寺塔頭の妙解院に葬られる。諡を霊感院徹厳宗院という。なお、遺髪と落歯は熊本市横手の北岡公園内妙解寺にある[5]。享年66。跡を長男・治年が継いだ。

参考文献
根岸鎮衛耳嚢』全3冊(長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年) - 江戸時代の随筆。細川越中守(重賢)についての逸話を収録。

川口恭子 『重賢公逸話』(熊本日日新聞社、2008年) ISBN 978-4-87755-313-5

・『細川重賢公事略』 (細川家政所、1934年)

細川護熙 『細川家の700年 永青文庫の至宝』2008 新潮社 ISBN 978-4-10-602180-0

出典
1. 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。
2. 『重賢公逸話』
3. 『重賢公逸話』p168
4. 山崎正董『肥後医育史』p6 (鎮西医海時報社 1929年/2006年に熊本大学医学部から原版の通り発行)
5. 『細川重賢公事略』
(wikiより)


0346 細川重賢



細川重賢

0346a

0346b



細川 宗孝(ほそかわ むねたか)は、江戸時代中期の大名肥後国熊本藩5代藩主。熊本藩細川家6代当主。官位従四位下侍従越中守。院号は隆徳院。

生涯
4代藩主・細川宣紀の四男で、6代藩主・細川重賢の兄にあたる。幼名は六丸、初名は紀逵(のりみち)または紀達[1](のりたつ)。また、初めは長岡姓であったが、兄たちが夭折したために嫡男となり、細川に改姓した。正室は紀州藩6代藩主・徳川宗直の娘・友姫。


享保17年(1732年)、父・宣紀の死去に伴い16歳で家督を相続、まもなく8代将軍徳川吉宗(元・紀州藩5代藩主)より偏諱を賜い宗孝(「孝」は祖先の細川藤孝(幽斎)より1字を取ったものであろう)と改名。当時の熊本藩は、父・宣紀の時代から洪水・飢饉・旱魃などの天災に悩まされて、出費が著しいものとなっていた。また、宗孝が藩主となった翌年には参勤交代に使用される大船・「波奈之丸」の建造費、さらには洪水・飢饉・疫病などの天災が起こり、その治世は多難を極めた。

寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請」も参照

人違いにより横死
延享4年(1747年)8月15日、月例拝賀式のため登城し、大広間脇のに立った際、旗本寄合席板倉勝該に突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年31。


勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。ところが細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。


これにより、細川家は窮地に陥った。31歳になったばかりの宗孝にはまだ子がおらず、養子も立てていなかったのである。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては細川家は改易必至だった。


この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。これを受けて家臣たちは、宗孝の遺体を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主宗孝の弟・紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。


墓所は京都府京都市大徳寺高桐院

細川の「七つ紋」
宗孝横死の報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして


九つの星が十五の月に消え 剣先が九曜にあたる十五日


と詠んでいる。「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である。


家紋の見間違いが人違いの原因となったことから、事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常はの両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」[2]と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。

脚注
1. 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。
2. 家紋World - 細川七つ紋

参考史料・家紋についてのコラム1 - 家紋ネット
(wikiより)


0345 七代目・細川宗孝

細川宗孝

0345a

0345b



細川 宣紀(ほそかわ のぶのり)は、江戸時代中期の大名肥後国熊本藩4代藩主。熊本藩細川家5代。官位従四位下侍従越中守

治世
熊本新田藩主・細川利重の次男として誕生。幼名は竹之助、のち初名の利武(としたけ)を名乗る。元禄10年(1697年)、宗家熊本藩から5000石を分与されるが、熊本藩第3代藩主であった伯父(利重の実兄)の細川綱利の嫡子だった吉利が早世したため、綱利の甥である利武がその養嗣子に迎えられた。正徳2年(1712年)に綱利から家督を譲られて熊本藩藩主となり、まもなく6代将軍・徳川家宣より偏諱を授かって宣紀と改名する(隠居した綱利は2年後に死去する)。


治世の大半で、熊本藩には旱魃飢饉虫害イナゴの大発生、洪水、疫病、台風と天災が立て続きに起こり、綱利時代の浪費財政も影響して、その治世は多難を極めた。


特に享保7年(1722年)からは連年のように天災が起こり、イナゴが大発生した享保17年(1732年)には、凶作で餓死者が6000人近くも出たと言われている。しかも同年、熊本藩は幕命によって利根川普請で15万両の支出負担を担い、藩財政は破綻寸前となった。


このように天災が起こり、熊本藩が混乱する中での享保17年(1732年)、57歳で死去した。跡を四男・宗孝が継いだ。墓所は京都府京都市大徳寺高桐院

系譜
・父:細川利重 - 熊本新田藩初代藩主。

・母:葉山氏

・異母兄: 細川利昌 - 熊本新田藩第2代藩主。

・養父:細川綱利 - 熊本藩第3代藩主。利重の実兄(宣紀の伯父)にあたる。

・養兄・従兄:細川吉利 - 綱利の嫡男。藩主を継ぐことなく早世。

・細川宣紀(利武)


・側室: 與幾(小田野氏)

  ・長男: 竹之助 - 3歳で夭折。

  ・次女: 亀姫 - 6歳で夭折。

  ・三女: 名世姫 - 5歳で夭折。

  ・次男: 万次郎 - 1歳で夭折。


・側室: 際(映心院、鳥井氏)

  ・長女: 蔵姫 - 6歳で夭折。

  ・三男: 八三郎 - 6歳で夭折。

  ・五女: 富姫(1716年 - 1718年)

  ・四男: 細川宗孝(初名:長岡紀逵/紀達) - 熊本藩第5代藩主。

  ・八女: 喜和姫(1720年 - 1754年、禰々姫、香厳院、宗義如正室)

  ・九女: 千代姫(1722年 - ?、三千姫、照姫、安藤信尹正室)

  ・五男: 龍五郎 - 家老・木村豊持の養子となるが、3歳で夭折(代わりに利昌の子・豊幸が豊持の養子に迎えられた)。


・側室: ?(不明)

  ・四女: 村姫(1714年 - 1716年) - 夭折。


・側室: 民(安野氏)

  ・六女: 勝姫 - 3歳で夭折。

  ・七女: 花姫(1720年 - 1778年、八代姫、清操院、讃岐高松藩主松平頼恭正室)

  ・十一女: 衛世姫(悦姫、寿鏡院、家老(米田氏)長岡是福是容の曽祖父)室)

  ・十三女: 津與姫(小笠原長軌室、長軌は家老小笠原家の第6代当主で小笠原秀清(少斎)の子孫にあたる)

  ・八男: 長岡興彭(おきちか、幼名:長七郎、初名:長岡紀近(のりちか)) - 家老(細川(長岡)刑部家)長岡興行の養子。


・側室: 利加(岩瀬氏)

  ・六男: 細川重賢(初名:長岡紀雄) - 熊本藩第6代藩主。

  ・十女: 豊姫(1723年 - 1746年、常姫、岑姫、織田信旧(信舊)正室)

  ・十二女: 幾姫(1725年 - 1794年、以久姫、成姫、軌姫、清源院、宇土細川興里正室)


・側室: 佐衛(友成氏)

  ・七男: 長岡紀休(のりよし、幼名:伊三郎、初名:長岡紀豊(のりとよ))


上記の通り、宣紀には多くの子女がいたが、その大半(主に初めの方に生まれた子)は早世している。
(wikiより)

0344 六代目・細川宣紀

細川宣紀

0344a

0344b



細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。

吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。

生涯

正保2年(1645年)11月11日、将軍徳川家光に初御目見する。慶安2年(1649年)12月28日に父・光尚が死去したが、六丸こと綱利は6歳と幼かったため、通常であれば細川家は改易されかねないところであった。しかし光尚が、幕府に対して肥後領地返上の遺言をしたためており、徳川家の覚えがめでたかったことと、細川家臣の懸命の奔走もあって、綱利へ相続させるべきか否か幕府内で議論された。結局、慶安3年(1650年)4月18日に綱利への相続が認められたが、領地の支配は幕府目付と親戚の小笠原忠真豊前小倉藩主)の監督を受けた。承応2年(1653年)12月11日に将軍徳川家綱から偏諱を受け、父の旧名の一字と組み合わせて、綱利と改名した。また従四位下侍従・越中守に叙任した。


寛文
2年(1662年)3月には弟利重に5,000石を分与し、さらに寛文6年(1666年)7月には新田3万5,000石を内分支給する形で江戸鉄砲洲に定府熊本新田藩を立藩させた。


寛文3年(1663年)6月、正室・犬姫と結婚した。元禄9年(1696年)11月5日、左近衛権少将の官位を加えられた。また元禄10年(1697年)6月、熊本新田藩主利昌の弟(綱利の甥)利武に5,000石を分与した。

宝永3年(1706年)4月、嫡男・吉利が死去したため、利武(宣紀と改名する)を養子に迎える願いを出し、宝永5年(1708年)1月に認められた。


正徳2年(1712年)7月11日に隠居した。正徳4年(1714年)11月13日に死去した。享年72。熊本の護国山妙解寺に葬られた。

赤穂浪士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田兼亮富森正因の2名と別れて、ほかは主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。


一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より、大石良雄はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。


この間、綱利は義士たちを一目みたいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。


綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。


しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く。この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として、大石良雄は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている。


このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も、江戸の庶民の評価に閉口したのか、細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる。


しかし、延享4年(1747年)、江戸城中で細川宗孝が板倉勝該に斬殺された。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては細川家は改易必至だった(吉良家が同様の処分)。さらに、板倉の動機は乱心でなく「遺恨」[1]、勝該は切腹したが家臣は残っていた。


細川家の窮地を救ったのが浅野家と絶縁関係だった仙台藩主・伊達宗村である。細川家は内匠頭と赤穂浪士への評価を一変させ、赤穂浪士の墓や供養施設が悉く破却されており、当時の遺構は殆ど残っていない[2]

明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、平成10年(1998年)に泉岳寺と中央義士会など有志による設置の「大石良雄外十六人忠烈の跡」石碑などがある。

登場する作品
元禄繚乱 - 平成11年(1999年NHK大河ドラマ、演:菅原文太

脚注
1. 大谷木醇堂『醇堂叢稿』、『旗本御家人』 200~210頁。人違い説もあるが、刃傷の動機は同様に逆恨みによる遺恨とされる。
2. 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」

関連項目
水前寺成趣園
(wikiより)


0343 五代目・細川綱利

細川綱利

0343a

0343b



細川 光利 / 細川 光尚(ほそかわ みつとし / ほそかわ みつなお)は、江戸時代初期の大名肥後熊本藩の第2代藩主。熊本藩細川家3代。初代藩主・細川忠利の長男。

経歴
元和5年(1619年)9月19日、肥後熊本藩初代藩主・細川忠利の長男として誕生。母は小笠原秀政の娘(徳川秀忠の養女)・千代姫(保寿院)。幼名は六丸。江戸幕府第3代将軍徳川家光より偏諱を受け、光利と名乗った。


寛永14年(1637年)、父・忠利とともに島原の乱に参陣して武功を挙げた。寛永18年(1641年)、父の死去により家督を継ぎ、名を光尚に改めた。翌年、阿部弥一右衛門の遺族による反乱が起こり、これを2月21日までに鎮圧した。この顛末が後に『阿部茶事談』に脚色され、同書を元にした森鴎外の『阿部一族』の題材となった。


正保2年(1645年)末、祖父・忠興が死去した際に、忠興の遺言によって従弟の細川行孝に3万石を分与し、宇土藩を立藩させた。慶安元年(1648年)、伯父・長岡忠隆の一族を熊本藩の一門家臣家とする。また、家老制度や役人などの官制改革も積極的に行ない、藩政の基礎を固めた。


慶安2年(1649年)12月26日、31歳で死去。跡を長男・綱利が継いだが、7歳と幼かったため、家督相続を幕府に認めてもらうために細川家中で奔走して、取り潰しを免れた。なお、病床の光尚は、幼い息子・綱利は転封、減封、改易の恐れありとして幕府に伺いを提出、「我が子は幼いので出仕に堪えず、如何様になっても公儀の望み通りに願いたい」という願書を提出し、これが心がけ神妙なりとして公儀の好感を得て、綱利相続に決まったとされる。
(wikiより)

0342 四代目・細川光尚

細川光尚

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細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩の初代主。

生涯
生い立ち
細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子。幼名は光千代。はじめ長岡姓を称したが、慶長5年(1600年)に徳川家康の命で細川へ復姓し、細川内記を名乗った[注釈 1]。幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教洗礼を受けさせたともいわれている。同母兄に細川忠隆(細川内膳家)、細川興秋

熊本藩主
世子だった長兄の忠隆慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃嫡されたために、江戸に人質に出されて第2代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が慶長9年(1604年)に世子となった。次兄の興秋は翌年の慶長10年(1605年)に細川家を出奔した。弟の家督相続の決定に不満を持ったためとされる[注釈 2]


慶長13年(1608年)、小笠原秀政登久姫松平信康の娘)の次女で徳川秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、千代姫は慶長14年(1609年4月24日、豊前国中津城に輿入れした。元和5年(1619年)、長男光利(のち光尚と改名)が誕生。


元和6年(1620年)に父から家督を譲られて小倉藩主となる。元和8年(1622年)には、慶長12年(1607年)に出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちには家老にした。


寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された(後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任した)。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。寛永14年(1637年)の島原の乱にも参陣し、武功を挙げている。

寛永18年(1641年)、父に先立って死去した。享年55。長男の光利(光尚と改名)が跡を継いだ。墓所は熊本県熊本市の妙解寺。

人物
・父親の忠興から栄養配分を徹底した食事をとるように諌められた書状を送られている。実際に忠利が病にかかった時には、忠興から同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告され、鶏卵によくないこと、疱瘡が大毒であることを指摘されている[1]


・忠利は江戸で人質となっていたため関ヶ原の戦いでは功績がなく、また2人の実兄を差し置いて世子となったことを気にしていたという。残された手紙[2]をみると、徳川家や父・忠興はもちろん、廃嫡された長兄・忠隆ほか叔父・叔母などに細やかに心遣いをしている様子がうかがえる。


・武の時代から幕藩体制に移りつつあった新しい時代に、妻の実家・徳川家と個性の強い父・忠興との間の調和に心労しつつも、細川家を大名家として保つのに成功した。


・父の忠興に名刀「大三原」を所望したが、与えられず不満でいるところ、二代将軍徳川秀忠が一計を案じて忠興を水浴に誘い、忠興が脱ぎ捨てた大三原を手にとって、将軍が仲介するなら忠興も文句も言うまい、と気を利かせて忠利に与えたという逸話がある(詳細は正家#幽斎大三原)。


・加藤家改易後の熊本藩を任されたように幕府からも信頼されており、「いずれ藤堂高虎のように江戸に常駐するのではないか」という噂が立つほどであった。寛永11年(1634年)には参勤交代の改善策を幕閣に提案し、それが採用されてもいる。忠利が死んだ際、徳川家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いている。


外様大名でありながら幕府側の代理者として行動することが多かったため、他の大名には煙たがられたという話も伝わっている。


・徳川家光の乳母春日局明智氏の縁者であり、明智氏の血を引く忠利に対しては好意的であったとされる。


・少年時代に江戸に居たため、秀忠の代の幕府の有力な旗本たちと幼なじみであったことも、結果的には忠利に有利に働き、旗本たちとの太いパイプを利用して幕府の動向を掴んでいた[3]


・武芸に熱心で、特に剣術においては柳生宗矩に師事し、大名の中では鍋島元茂と並ぶ柳生新陰流の代表的な剣士の一人である。宗矩も忠利を高く評価し、秘伝である「兵法家伝書」を与えている。また、晩年の宮本武蔵を招き、客人として遇したことでも知られている。


・ワインを好み、輸入するだけではなく、家臣に命じて自らの領地であった豊前小倉藩(現在の北九州市等)で日本初の国産ワインを造っていた。[4]


・遺言により、熊本市の岫雲院 (春日寺)にて荼毘に付されたが、愛養の鷹が二羽殉死したと伝えられている。


・鋳銭事業を寛永元年(1624年)から寛永5年(1628年)まで実施した。これは、幕府による寛永通宝の導入に先立って行われた、大名領主が行った本格的な銭貨鋳造であった。そして、この頃に行われた細川小倉藩での銭貨鋳造は複数の銭屋による競争的な請負制をとり、技術面では隣国の萩藩の鋳銭職人集団を招聘し、先進的な鋳銭技術を導入して行われた。また、こうして鋳造された細川小倉藩の新銭は、その一部が貿易品としてベトナムなどにも輸出され、ベトナムにおいて上質の銭貨としてすでに流通し、需要があった京銭とともに、精銭範疇に属する「大銭」として流通し、使用された[5]

伝記
山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』〈講談社学術文庫〉、2004年、新版。
春名徹『細川三代 幽斎・三斎・忠利』藤原書店、2010年。

細川忠利が登場する作品
・斎藤光顕『細川忠利兵法異聞』(郁朋社、2012)

脚注
注釈
1. 父・忠興は大坂夏の陣後まで長岡姓を称しており、称号として羽柴姓も名乗っていた。
2. 興秋は剃髪の後、京の祖父細川幽斎を頼り、のち大坂の陣豊臣氏に与して大坂城に籠城し敗戦して逃走、慶長20年(1615年)に自害

出典
1. 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』中央労働災害防止協会、2002年、142頁。
2. 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』〈講談社学術文庫〉、2004年、新版。
3. 山本博文「細川家、情報戦を制す」『芸術新潮』10月号、新潮社、2007年。
4. 日本産ワインは400年前に作られていたことが明らかに”. 熊本大学. 2017年4月13日閲覧。
5. 古賀康士「近世初期細川小倉藩の鋳銭事業」『史学雑誌』125巻1号、2016年、p42-68

関連項目
阿部一族

熊本城

水前寺成趣園

辛子蓮根

西岸寺 (熊本市)

岫雲院 (春日寺)

(wikiより)


0341 三代目・細川忠利

細川忠利


0341a

0341b



細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。幽斎は雅号。法名を玄旨という。


初め室町幕府13代将軍足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を逐われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。

生涯
幕臣時代
天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となったという。しかし、晴員とともに12代将軍足利義晴の近臣であった細川晴広を養父と見る説も近年有力視されている(#系譜)。天文15年(1546年)、13代将軍義藤(後の義輝)の偏諱を受け、藤孝を名乗る。幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。


永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長和田惟政仁木義政米田求政らと協力してこれを救出し、近江国六角義賢若狭国武田義統越前国朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。


その後、明智光秀を通じて尾張国織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。藤孝は山城勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国摂津国を転戦した。

信長家臣時代
義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱くふしがあることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡 藤孝と名乗った。


8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い越前一向一揆征伐、石山合戦紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。


天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信とともに出陣。


信長は正月12日付の藤孝宛ての黒印状で、知多半島で取れた鯨肉を朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝に裾分けする旨を述べており、鯨は多くの人に分ける習慣があったことが指摘されている[1]

本能寺の変以後
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされる[2]


その後も光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。


幽斎は千利休木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。


幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条中院通勝烏丸光広勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。


忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩39万9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 

死後
幽斎の所領6000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の興元下野茂木藩1万石立藩の足しとして、あるいは慶長9年(1604年)に忠興から廃嫡された幽斎の孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料(3000石)として、受け継がれた。

墓所
京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓がある。その他に、孫で忠興の子忠利以降、子孫が肥後熊本藩54万石の藩主となったことから、熊本の立田山の麓に建立された細川家菩提寺の泰勝寺(現・立田自然公園)にも廟所が造営された。


また、幽斎の菩提所として忠興により大徳寺山内に建立された塔頭が高桐院である。

人物
剣術等の武芸百般、和歌茶道連歌蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁料理猿楽などにも造詣が深く[3]、当代随一の教養人でもあった。剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘吉田雪荷から弓術印可を、弓馬故実武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。また、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたという。


三条西実枝古今伝授を受け、その子三条西公国とさらにその子(実枝の孫)三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承した。当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いの際、後陽成天皇が勅命により幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためだといわれる。


・門人には後陽成天皇の弟八条宮智仁親王、公家の中院通勝烏丸光広などがおり、また松永貞徳木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が足利義昭に仕えていた頃から交流があった。


・八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、幽斎の孫で熊本藩主となった細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)に大正時代に移築され、平成22年(2010年)には熊本で幽斎没後四百年祭が開催された。また翌平成23年(2011年)には水前寺成趣園内に銅像が建てられている[4]


・足利義昭が後に幕府を追われ、死去した後葬儀を執り行う者もいなかったため、見かねた幽斎が葬儀を主催した。

系譜
江戸時代後期に編修された『寛政重修諸家譜』によれば、幽斎の父は三淵晴員和泉半国守護細川元常の弟)[5]、母は智慶院(儒学者・国学者の清原宣賢の娘)である。同書の小記や享保年間に成立した『細川全記』などは、智慶院が将軍足利義晴の子をみごもったまま晴員に嫁いで幽斎を生んだと記しており[6]、事実ならば足利義輝、義昭の庶兄にあたる。


『寛政重修諸家譜』は、幽斎は7歳で伯父の細川元常の養子になったとする[5]。江戸時代前期に編纂された『寛永諸家系図伝』では、祖父の細川元有の養子となったとされる[5]が、元有は明応9年(1500年)に戦死しており年代が合わない。また、元常の実子とされる細川晴貞を養父と見る説もある[7]。この細川晴貞は天文19年(1550年)までは存在が記録されているため、(晴貞が元常の実子ならば)その生存中に元常がはたして幽斎を養子に迎えたかという疑問が生じるためである。


いずれにしろ幽斎は三淵氏から和泉守護細川氏の養子に入ったと長い間考えられていたが、そうではなく淡路守護細川氏につながる系統を継いだと考える説が近年有力になっている。『寛永諸家系図伝』編纂の際に息子の細川忠興幕府に提出した文書には、「幽斎ハ、細川伊豆トヤラン、細川刑部少輔トヤランニヤシナハレ、御供衆ニ罷成候」とある。この「細川刑部少輔」については、従来『細川系図』の記載によって細川元常と理解されていた[8]が、三淵晴員も仕えていた将軍義晴の近臣(御供衆)に刑部少輔を称する細川晴広がおり、その父の細川高久が伊豆守を称している事実から、彼らが幽斎の養父・養祖父だったとする説である[9]。伊豆守高久の父細川政誠近江源氏佐々木一族の大原氏の出身であり、8代将軍足利義政が政誠を近臣に加えるために足利一門の細川名字を名乗らせるべく淡路守護細川氏の養子となるよう命じたという。この指摘によるならば、幽斎が養子となって継いだのは、和泉守護家とは系統の異なる淡路守護家の支流ということになる。


なお、幽斎の実父三淵晴員についても細川元常の弟とする説を疑問視して、播磨国に下向していた幕臣の三淵孫三郎(現在の系譜には記載されていないが、当時の文書から天文年間の三淵氏当主であった可能性が高い)の弟であったとする説[10]もある。この指摘が事実ならば、幽斎は実方においても和泉守護細川氏にはつながらない可能性がある。

父母

・実父:三淵晴員

・実母:清原宣賢の娘

・養父:細川元常(?)

兄弟・姉妹

・宮川尼(武田信高 (若狭武田氏)[注釈 1]室)

三淵藤英

・女子(佐々木越中守[注釈 2]室)

玉甫紹琮(高桐院開山)

・梅印元仲

長岡好重

・女子(土御門久脩室)


・正室:沼田光兼の娘・麝香(光壽院)

子女
細川忠興
細川興元
・伊也(一色義有のち吉田兼治室)
細川幸隆
・千(長岡孝以のち小笠原長良室)
細川孝之
・加賀(木下延俊室)
・栗(長岡好重室)
仁伊(夭逝)

詳しいことは、「細川藤孝ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
(wikiより)


0340 細川藤孝

細川藤孝

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0340b

0340c

0340d



高桐院にある細川家歴代の墓です。

・ 初代・細川藤孝 ( 泰勝院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E


・ 三代・細川忠利 ( 妙解院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9


・ 四代・細川光尚 ( 真源院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%B0%9A


・ 五代・細川綱利 ( 妙應院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%88%A9


・ 六代・細川宣紀 ( 霊雲院 )  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%A3%E7%B4%80


・ 七代・細川宗孝 ( 隆徳院 )  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AD%9D


・ 八代・細川重賢 ( 霊感院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E8%B3%A2


・ 九代・細川治年 ( 大詢院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%B9%B4


・ 十代・細川齋樹 ( 諦観院 )  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%A8%B9


・ 十一代・細川齋慈 ( 諦了院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%8C%B2


・ 十二代・細川齋護 ( 泰巌院 ) ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%AD%B7



0339a

⇧ この画像奥には、歌舞伎で有名な 「 出雲阿国 」のお墓が有りますが非公開となっております。

0339b



この地に江戸時代中期の尊王論者・藤井直明 ( なおあき = 右門 ) の居宅があった。


右門は播州赤穂藩の遺臣・藤井又左衛門の子で、赤穂取り潰しの後、父が見を寄せていた越中国射水 ( 現在の富山県射水市 ) で享保五年 ( 1720 ) に生まれた。
 
京都に出て竹内式部 ( たけのうち - しきぶ ) らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。


宝暦 ( ほうれき ) 八年 ( 1758 ) 幕府が右門ら尊王論者を弾圧した「宝暦事件」がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弐 ( やまがた - だいに ) のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。


しかし、幕府は明和 ( めいわ ) 三年 ( 1766 )、ある事件にかこつけて右門と大弐を捉え処刑した。


世にいう「明和事件」である。

右門享年 48歳。


それから約百年、右門らの唱えた尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。


右門の旧宅は、現在の同志社大学の地に薩摩藩邸があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、幕末維新の史蹟としても忘れがたい。


屋敷は大正十一年 ( 1922 ) 区画整理のため取り壊されたが、その翌年、右門の顕彰碑が建てられた。
                   
京都市
(説明板より)

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佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者思想家。松代三山の一人。通称修理(しゅり)、国忠(くにただ)、のちに(ひらき)、子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階正四位象山神社祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。

家系
真武内伝』を著した竹内軌定によると佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を2度にわたって破った名将として名高い村上義清に8,000石で仕えた佐久間大学という。大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩3万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて250石を食んだ。その後、信政が真田信之の世継として松代藩を継いだため、国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて100石を食んだ[注 1]。 この国品が佐久間家中興の祖とされている。


しかし佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は桓武平氏であり、桓武天皇の曾孫である高望王の末裔に佐久間家村という者がいた(安房国佐久間荘に居住したことから佐久間を姓にしたという)。家村から14代目の孫が佐久間盛次であり、その盛次の長男が尾張国戦国大名として有名な織田信長に仕えた盛政である。盛次の4男で盛政の実弟である勝之は信濃長沼藩で1万3,000石を領したが罪を得て改易された。この勝之の家臣に岩間又兵衛清重という400石取りがいて勇気も才能もあったので勝之の兄である安政の娘婿になった。しかし清重には男子が無かったため、鶴田清右衛門の子の与作を養子に迎え、その孫が前述した佐久間国品にあたるという[2]。だが国品に男子が無かったため、林覚左衛門の子の幾弥を婿養子に迎えた。だが、その子の岩之進が夭折したため佐久間家は改易された。しかし松代藩は国品の長年の功績を評価して国品の甥である村上彦九郎の息子である彦兵衛国正を養子にして家名を再興させ5人扶持とした(のちに5両5人扶持)。しかし国正にも子が無く、松代藩士であった長谷川千助善員の次男である佐久間一学国善を養子にして家督を継がせた。この国善が佐久間象山の実父である[3]


このように『真武内伝』と『佐久間氏略譜』では家系やその経歴が大いに異なりどちらを信ずべきかは不明である。佐久間家の菩提所を調査した大平喜間太は国品以前の墓所が一基もないことから国品以前の家系には多くの疑問があり信を置くに足らないとしている[4]


象山の父・国善の父である長谷川善員は斎藤仁左衛門の次男であり、この斎藤家は越後国上杉謙信に仕えて「越後の鍾馗」と謳われた斎藤朝信を祖としており、象山の書状によると国善は朝信から数えて6代の孫であり、象山は7代目の孫であると称している[注 2]

生涯
幼少期
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる[注 3]


前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たる。象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという[7]


門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸(約175㎝)くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯(けいけい)と輝きあたかもの眼のようであった[8]ため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。

学者への道、そして 仕官 - 国元での活動
象山の烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久という郷里の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である[注 4]


1824年、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、1826年、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同年、藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称したという。また水練河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという[10]


文政11年(1828年)、家督を継いだ[11]天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している[12]。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山は漢文100篇を作って鎌原桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。


天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず、象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである[13]。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。

江戸出府と兵学家の地位確立
天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び[14]山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。


天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫老中兼任で海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争 (1840 - 42) での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、魏源『海国図志』などを元に『海防八策』を上書、さらにこれを機に蘭学の修得の必要に目覚め、弘化元年(1844年)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。これにより主君幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は塾を閉じ江川英龍の下で兵学を学ぶことになる。


温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法では支障があった。このため象山は、意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り学習を進めた。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。象山自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断っている。


学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。

  宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。

  鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。

  近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、

  まさに以って我が聖学を資くる足る。

しかし真理に忠実であろうとする象山の態度は、当時の体制及び規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。


象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟吉田松陰坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している[15]


嘉永6年(1853年)にペリー浦賀来航した時も、象山は藩の軍議役として浦賀の地を訪れた。この報告は江戸幕府老中阿部正弘に『急務十条』として奏上され、この機に松陰に暗に外国行きを勧めたとされる[15]

失脚からその死まで
嘉永7年(1854年)、門弟の吉田松陰が再び来航したペリーの艦隊で密航を企て失敗するという事件を起こした。松陰から相談をもちかけられた象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。


元治
元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。


現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

人物・逸話
・象山は自信過剰なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の多大な業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのもその性格に由来するところが大きいともいわれる。しかし当時の日本において象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。更に彼の門弟には前述の松陰をはじめ、小林虎三郎勝海舟河井継之助橋本左内岡見清熙加藤弘之山本覚馬坂本龍馬などと、及び他にも多数の日本を担う人材を輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。象山が横浜開港を徳川幕府に主張したことにより横浜港が開かれた。後に幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され明治の世が到来するきっかけを残した人物である。その他、福沢諭吉が慶應義塾を創設するにあたっても象山の功績の影響があった。その影響は今日の日本の姿にまで及ぶといって過言ではない。

・自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし、象山の子・啓之助は素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走するなど失態が多かった。

・勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、傲慢な象山を『氷川清話』の中では、あまり高く評価していない。「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。だが、象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。」とその死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を「殿」「氏」と付けていたのを、象山だけに「先生」と敬称をつけていた。また自らの号とした、象山揮毫の「海舟書屋」の扁額を掲げ続けたことも事実で、勝の象山に対する評価はひと通りではない。

和歌漢詩書画に長じていた。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴一絃琴も好んで奏でていたという[16]

・嘉永4年(1851年)に松前藩からの依頼で鋳造した洋式大砲の演習を江戸で行ったが、砲身が爆発して大砲は全壊してしまい、観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられてしまう。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としており、更には「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて(大砲の)稽古をさせるべきだ」と豪語して役人達を呆れさせたという。この事件を笑った落首に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。

評価
勝海舟

  ・「佐久間象山は物識りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしめたらどうだろうか・・・。何とも保障ができない。顔つきからして既に一種奇妙なのに、平生緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、如何にもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強いおとこだから、漢学者が来ると洋学を以て威しつけ、洋学者が来ると漢学を以て威しつけ、一寸書生が尋ねてきても、直きに叱り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」[17]

  ・「あれだけの男で、随分軽率のチョコチョコした男だったが、時勢に駆られたからでもあろう」[18]

高杉晋作 「あれは一個の法螺吹きだ」[19]

石黒忠直 「先生は総髪にして、美しき鬚長く、色白くして、眼は四方白にて面長なり。年五十二なれど、打見には四十七八と見ゆ。白の下着の上に、丸に二ッ引の黒紋付の小袖を重ね、紫色の被布の如きものをその上に着し、短刀をその傍らに置き、身辺、書籍短銃、もしくは文具等雑然たり」[20]


詳しいことは、「佐久間象山ウィキペディア」をご覧ください ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
(wikiより)


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 佐久間象山

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鶴田 浩二(つるた こうじ、1924年(大正13年)12月6日 - 1987年(昭和62年)6月16日)は、日本俳優歌手。本名は小野 榮一(おの えいいち)。兵庫県西宮市出生。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。

また、歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。

人物
戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた抜群の風貌で一躍トップスターに躍り出た。初期はその甘い表情でアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争物でみせた渋い魅力で、日本映画を代表する大スターとして長らく君臨した。また、独特の哀愁を帯びた声と歌唱法により、歌手としても人気が高かった。

家族
女優の鶴田さやかは三女。他に次女の長男・清元節三味線方の清元斎寿(1人目の夫との子)と次男・歌舞伎役者の二代目尾上右近(再婚相手の7代目清元延寿太夫との子)は実孫にあたる。


また、弟と称していた俳優の北斗学(北十学)は、若い頃の恋人とのあいだに生まれた実子である。

経歴
生い立ち
戸籍上の出身地は、静岡県浜松市


西宮時代、が結婚していなかったのは、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と婚姻した[注釈 1]。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は、鶴田の母を産んだ際栄養失調によって失明。祖母との二人暮らしは極貧そのもので、洗面器を炊いていたという。

程なく、祖母が他界。家でたった一人の生活となる。母会いたさに遊廓へ一人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。そのうえ、義父は博打好きであった。


こうした幼少期の思い出から、鶴田は嫌いなものに夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういった仄々とした話題が全くなかったとしている。

少年時代
14歳のときに、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。此花商業学校から19歳で関西大学専門部商科に入学するがその年に学徒出陣令により徴兵[注釈 2]。終戦まで海軍航空隊に所属し、その体験が人生に多く影響を及ぼした。また、22歳のときに薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画『地獄の血闘』に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」という独特の歌唱スタイルになった。他にも右手小指を立て、マイクを白いハンカチで包んで持つ歌唱スタイルでも有名である。

トップスターへ
1948年(昭和23年)、高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。


1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のプロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。


1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロを興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子(後に石原裕次郎を発掘しプロデュース)らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した、戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。

襲撃事件
1953年(昭和28年)1月6日午後7時頃、大阪・天王寺鶴田浩二襲撃事件が発生した。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、ひばりの後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件であった。後に田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深めることになっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。


1955年
(昭和30年)、マネージャーの兼松廉吉が青酸カリを飲み死亡。1956年(昭和31年)1月15日、元山口組興行部の西本一三が関西汽船「ひかり丸」から海に落ち死亡。いずれも自殺とされているが、原因ははっきりしない。


映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねると酷い目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。

新境地
凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)夏、『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束であった。因みにこの年の映画館の入場料は80円であった。尤も松竹入社駆け出しの頃は1本が15万円という薄給だった苦痛も味わっており、それが松竹退社と独立プロ設立につながったとマキノ雅弘監督はコメントしている。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、平凡明星でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。裕次郎以前の映画界において抜群の集客力であった。


新生プロは『ハワイの夜』の他『弥太郎笠』などヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ鶴田は独立プロの難しさを実感し、フリーとなり、松竹新東宝大映東宝の各映画会社で主演した。だが東宝のプロデューサー藤本真澄稲垣浩監督&三船敏郎主演「宮本武蔵三部作」で佐々木小次郎を演じさせるために松竹から引き抜いたとコメントしており真偽は不明である。


1953年には海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。


東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同するなどの条項が入っていた。鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかし、それは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーは勿論、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝ではスタッフの反発を招いた。1955年の『宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島』では佐々木小次郎役の準主演者鶴田が、宮本武蔵役の主演者三船を差し置いてクレジットのトップとなった。


1955年(昭和30年)、大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれている。しかし、1956年(昭和31年)の『日本橋』(市川崑監督。原作は同じく泉鏡花)にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取る、というスキャンダルを起こし[1]、降板となる。


1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は『旅姿鼠小僧』で岡本喜八監督『暗黒街の顔役』と『暗黒街の対決』は興行的にも作品評価も高い成功作だが、いずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。


1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のち、同社社長)が[2]、第二東映の設立による役者不足を補うため、「現代劇も時代劇も出来るいい役者はいないか」と俊藤浩滋に相談し、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と俊藤が鶴田を口説き[3][4][注釈 3]、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、東映に円満移籍となった[4]。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた[4]。低予算映画ばかり出され腐っていた[5]


1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる[6][7]。鶴田を主演で起用した岡田茂プロデューサーのカンのよさが、鶴田を任侠映画のスターに押し上げた[6][8]。カムバックに成功し[5]、ここから世に言う任侠映画ブームが始まる[9]。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」『明治侠客伝 三代目襲名』「関東シリーズ」「博奕打ちシリーズ」『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。


1970年代に入って歌「傷だらけの人生」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。第二次世界大戦中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。


一方、テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ『男たちの旅路』シリーズ(山田太一原作)は大ヒットとなった。


ただ、鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる[注釈 4]。撮影所において宇野重吉加藤泰三國連太郎とは口も利かなかったという。

何か伝言しなくてはならないときには人を介し行った。その場合丹波哲郎が多かった[10]山城新伍は鶴田の存命中からラジオ番組で 「殺したい俳優がいて鶴田浩二という」 など実名をあげて非難していた。一例として 「あの人は必ず遅れてくる、それもわざと。あの人が大スターだというのは誰でも知っている。それをみんなの前でやらないと気が済まないんだ。1時間、2時間経っても鶴田さんが来ない。監督も痺れを切らして次の撮影に移行する。そうすると判で押したように鶴田さんが来て監督の横に椅子を置き撮影を見ている。おもむろに 〝監督、俺は誰だ?〟 はい? 〝俺は誰だと聞いているんだ?〟 鶴田浩二さんです。〝鶴田浩二だろう? 俺の撮影を先にやろう!〟 と言って現在の撮影をストップさせ自分の撮影に入らせる。そして悠然と撮影所を後にする。それの繰り返しで、それをみんなの前でわざとやるんだよ、あの人は!」と述べている。[要出典]山城は自著で「当時は、新人俳優が楽屋周りを掃除することが慣習的になっていたが、“俺は芝居をやりに来たんだ。掃除しに来たんじゃねぇ!”って突っ張って一切の雑務を行わなかったし、若山先生側にいたこともあって、鶴田さんとか先輩からかなり嫌われた。かなりとんがってたからね」と述懐した。


反面、頼まれれば引立て役として若手を育てるため助演するのも厭わず、東宝移籍時に助監督だった福田純が監督昇進した第一作『電送人間』に主演したり、佐原健二が『空の大怪獣ラドン』撮影中に大怪我をした際に撮影を強行したことを知った鶴田は“佐原健二を殺す気か!”と撮影所長に怒鳴り込んだ。東映でも松方弘樹梅宮辰夫などを公私にわたり可愛がり、松方は俳優だけでなく人生の師匠としても鶴田を慕い、葬儀では号泣した。

晩年と没後
1985年(昭和60年)にガンが判明したが、本人には本当の病名を伏せていた。翌1986(昭和61)年に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が、彼の遺作となった。その後、闘病生活が続いたものの、1987(昭和62)年6月16日に肺癌のため62歳で死去。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せたうえ、棺を旭日旗(いわゆる軍艦旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。故人の遺志により墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。墓所は鎌倉霊園。


なお、鶴田の死去からわずか1か月後の1987年7月17日、鶴田と同じく昭和の大スターだった石原裕次郎が、52歳の若さで肝細胞癌により亡くなっている。また、鶴田とも親交が深かった美空ひばりは当時入院中で、同年8月3日に一旦退院したものの、1989(平成元)年3月に再入院、同年6月24日に間質性肺炎呼吸不全のため、石原と同じ52歳でこの世を去った。


鶴田の没後、少年期の多彩な女性関係や、母親の証言による衝撃的な出生のいわれ、財産分与等についてのスキャンダラスな報道がマスコミで報道され、家族は精神的な痛手を蒙った。

人物像
無類の野球好きとしても知られ、鶴田ヤンガースなる私設野球チームを率いたこともある。


生前の右派的言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から右翼と評されることもあり、実際に右翼の宣伝車による街頭行動の際、彼が唄う曲が流されることも多い。「博奕打ち 総長賭博」を絶賛していた鶴田ファンの三島由紀夫と雑誌で対談して以来、同い年ということもあり親交を暖めるようになる。反面、戦争責任者を憎むこと甚だしく、「東條英機は切腹するべきであった」、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判してもいた(軍歌『同期の櫻』を唄う際には、涙ぐみながら唄う姿が見られた)。


特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼び合う仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。

「特攻崩れ」の虚実
上の記述の通り元海軍軍人である。若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953)に主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。


特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環ででっち上げ、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。しかし、特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じ、『男たちの旅路』においてはこのイメージが最大限に活用された。

詳しいことは、「鶴田浩二ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%94%B0%E6%B5%A9%E4%BA%8C
(wikiより)

0328 鶴田浩二

鶴田浩二

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石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日1986年2月8日)は、新潟県出身の俳人小説家編集者。俳誌「」の二代目主宰。本名は友次。

経歴
北蒲原郡笹岡村生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。32年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。


俳句は当初秋桜子の「馬酔木」に投句。1937年、石田波郷を主宰として「」を創刊、発行編集者となり、のちに波郷が応召された際には代選も務めた。1940年、『俳句研究』3月号に「方寸虚実」80句、9月号に「心塵半歳」135句を発表し注目を浴びる。1941年結婚。1942年、自身の結婚を題材とした短編小説「松風」(『文學界』1942年2月号)が第15回芥川賞候補となる。同作で1943年池谷信三郎賞受賞。1944年5月、空襲を受け新潟に疎開。9月、川端康成に勧められ鎌倉文庫に入社、上京。鎌倉稲村ケ崎に仮寓する。


戦後復刊した「鶴」では毎号に随筆「日遣番匠(ひやりばんしょう)」を掲載、1969年に波郷が没してより同主宰を継承した。1980年、第29回神奈川文化賞(文学部門)受賞。代表句に「百方に借りあるごとし秋の暮」などがあり、日々の生活を題材とし、私小説的な世界がそのまま俳句となるような句境を開いた。1986年2月8日、気管支炎による心不全のため死去、79歳。

著書
・百万 三省堂 1940 (俳苑叢刊)

・方寸虚実 甲鳥書林 1941 (昭和俳句叢書)

・冬鶯 協栄出版社 1943

・松風 小山書店 1943

・青春 小山書店 1944

・渚にて 角川書店 1947

・青野 海口書店 1948

・橋守 改造社 1948

・光塵 句集 一橋書房 1954

・とぼけ旅人 俳句随筆 北辰堂 1956

・日遣番匠 学文社 1973

・田螺の唄 永田書房 1973

・磊磈 五月書房 1976

・石塚友二集 俳人協会 1977

・石塚友二句集 自選自解 白凰社 1979

・玉縄抄 句集 四季出版 1985

・玉縄抄以後 竹頭社 1987

・俳句の話 宝文館出版 1992

参考文献
・『現代俳句大事典』 稲畑汀子大岡信鷹羽狩行監修、三省堂、2005年

・清田昌弘 『石塚友二伝』 沖積舎、2001年

関連文献
村沢夏風編 『石塚友二の世界』 梅里書房、1990年

外部リンク
・現代俳句人名事典における石塚友二の俳句現代俳句協会

石塚友二の句の鑑賞清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』)
(wikiより)


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恋川春町 ( 1744 ~ 1789 ) は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格、俗称を寿平という。


江戸時代小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。


多くの書に挿絵などを描いていたが、安政四年 ( 1775 ) 自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。


墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が


生涯苦楽四十六年 
  
     即今脱却浩然帰天 
    
     我も万た身はなきものとおもひしが
      
          今ハのきハハさ此しかりけり

と記されている。
(案内板より)


〇 恋川春町
恋川 春町(こいかわ はるまち、延享元年(1744年)- 寛政元年7月7日1789年8月27日))は、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師である。酒上不埒(さけのうえのふらち)という名で狂歌も詠んだ。鳥山石燕について浮世絵を学び、画もほぼ自ら描いた。また、勝川春章にも私淑していた。


本名は倉橋 格(くらはし いたる)。は初め勝睴、後に格。本姓は源氏、幼名は亀之助、通称は初め隼人、後に寿平。は寿山人・寿亭、春町坊。駿河小島藩滝脇松平家年寄本役として藩中枢に関与していた。石高は最終的に120石。江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けた[1]安永4年(1775年)『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、のちに黄表紙といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。安永天明期に自画自作の黄表紙を多数残し、洒落本滑稽本などの挿絵も見られるが、錦絵は希少である。

経歴
延享元年(1744年)に紀州徳川家附家老安藤次由(帯刀)の家臣である桑島勝義(九蔵)の次男として誕生。宝暦13年(1763年)に召しだされて金6両2人扶持で小島藩士となり、中小姓格右筆見習書役兼帯となる。同年、同じく小島藩士で父方伯父の倉橋勝正の養子となる。明和4年(1767年)に通称を隼人から寿平と改名。

その後、小納戸格、刀番となり、明和8年(1771年)に藩主松平昌信が死去して松平信義が藩主になるとさらに出世して、『高慢斎行脚日記』を執筆した安永5年(1776年)には取次兼留守居添役となり、養父の隠居を受けて家督相続し、石高100石となると内用人に就任。


その後も側用人用人方助ヶ、用人、年寄格加判之惣となり、藩政中枢に参与するようになる。天明5年(1785年)の小島藩年貢割付状に倉橋寿平名義の署名がある。天明7年(1787年)には年寄本役、石高120石となる。


しかし、その翌年に執筆した黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)、定信に呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、まもなく同年7月7日(1789年8月27日)に死去したという。自殺と推測する著書もある。享年46。墓は東京都新宿区新宿二丁目成覚寺にあり、新宿区指定史跡となっている。法名は寂静院廓誉湛水居士。子は倉橋敬忠(忠蔵、生没年は天明元年(1781年)-享和3年(1803年))

人物・交流
10歳近く年上の狂歌・戯作仲間の朋誠堂喜三二(実は久保田藩江戸留守居)とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多い。再婚相手も喜三二の取り持ちという。鹿津部真顔は門弟。

代表作
・『当世風俗通』 洒落本 朋誠堂喜三二作 (1773年

・『金々先生栄花夢』{きんきんせんせいえいがのゆめ}(1775年) 自画作

・『高慢斎行脚日記』{こうまんさいあんぎゃにき}(1776年) 自画作

・『鸚鵡返文武二道』{おうむがえしぶんぶのふたみち}(1788年

・『無益委記』{むだいき}

・『詩句市窓』{しくしそう}

・『其返報怪談』

・「布袋川渡りの図」 細判 錦絵

刊本
・「金々先生栄花夢」水野稔訳『古典日本文学全集 第28 (江戸小説集 上)』筑摩書房 1960年

・『黄表紙集1』水野稔編 古典文庫 1969年

  ・「うどん・そば 化物大江山」「古今名筆 其返報怪談」「参幅対紫曽我」「夫八本歌是八狂哥 万載集著微来歴」「吉原大通会」「其昔竜神噂」

・「遺精先生夢枕」『国文学解釈と鑑賞臨時増刊 秘められた文学4』尾崎行信監修、至文堂、1970年

・『評釈江戸文学叢書』第8巻 講談社 1970年(1935年刊の復刻)

  ・「金々先生栄花夢」「夫ハ楠木是ハ嘘木無益委記」

・『日本古典文学全集 黄表紙・川柳・狂歌』小学館、1971年

  ・「金々先生栄花夢」「夫ハ楠木是ハ嘘木無益委記」「鸚鵡返文武二道」浜田義一郎校注

・「金々先生栄華夢」杉森久英訳『日本の古典 25 (江戸小説集 2)』河出書房新社 1974年

・「金々先生栄華夢」「化物大江山」『江戸の戯作絵本』第1巻 小池正胤ほか編 社会思想社・現代教養文庫 1980年

・「万載集著微来歴」同第2巻、1981年

・「悦贔屓蝦夷押領」同第3巻、1982年

・「高漫斉行脚日記」「参幅対紫曽我」「吉原大通会」同続第1巻、1984年

・「風流裸人形、大通惣本寺杜選大和尚無頼通説法」『洒落本大成』第8巻 中央公論社 1980年

・『新編日本古典文学全集 黄表紙・川柳・狂歌』小学館、1999年

  ・「金々先生栄花夢」「鸚鵡返文武二道」棚橋正博校注

脚注
1. 享保17年(1732年)の須原屋版武鑑以降、小島藩主家世良田(滝脇)松平家の江戸藩邸上屋敷が小石川富坂にあると表記されている。それ以前の宝永7年(1710年)武鑑では「小石川」、享保3年(1718年)の須原屋版武鑑でも「小石川」となっている。

参考文献
日本浮世絵協会編『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年、83頁。

・『三百藩家臣人名事典4』新人物往来社。小島藩の執筆は川崎文昭。

・橋本博編『大武鑑 中巻』名著刊行会。

関連項目
蔦屋重三郎

外部リンク
金々先生栄花夢. 上 国ば国会図書館デジタルライブラリー ※大正時代に刊行されたもの
(wikiより)

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※ 報国寺の竹林奥に、足利家時他一族の墓 ( やぐら ) があります。

〇 足利家時
足利 家時(あしかが いえとき)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府御家人である。

系譜
父は足利頼氏、母は上杉重房の娘。彼女は頼氏の側室であったと考えられ、源頼朝の重臣であった足利義兼以来の北条氏の娘を母としない足利氏当主となった(父・頼氏の正室については今までは不明であったが、北条氏の傍流佐介時盛の娘であるとする系譜が発見されている)。 足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった[1]が、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時が家督を継いだ。これまでの足利嫡流家歴代当主の足利義氏以来、泰氏北条泰時からの偏諱[1]頼氏北条時頼からの偏諱[1]通字の「氏」を付けるといったように、「北条氏得宗家当主の偏諱+「氏」」で構成されていた[2]のに対して家時に「氏」が付かないのはこのためであると主張する説[1]があるが、代わりに用いられた「時」の字は北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとも考察されている[3]。ただし、通常は目上の人から受けた偏諱の字は「時○」のように頭に持って来るべきものであり、時宗からの偏諱では無いという説もある。一方の「家」の字については正確には不明であるが、頼氏の死後家時の成長まで当主代行を務めていた伯父(頼氏の兄)・斯波家氏からの偏諱と考察する説[4]がある。

生涯
生没年および享年に関する研究史
家時の生没年や没年齢(=享年)については諸説ある。


1. 『尊卑分脉』の家時の傍注では「早世廿五才」(享年25)とする(生没年については明記なし)。


2. 『続群書類従』所収「足利系図」では、文保元年(1317年6月25日に切腹(享年35=逆算すると弘安6年(1283年)生まれ)とする。


3. 「新田足利両家系図」や鑁阿寺位牌では命日を延慶2年(1309年2月21日とする。


4. 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)では、「弘安七年廿五日薨、廿七歳」原文ママとする(没月が不明だが、逆算すると正嘉2年(1258年)生まれ)。


5. 「滝山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊予守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五歳、」とあり[5]、逆算すると文応元年(1260年)生まれ。


まず、臼井信義の説(1969年)に基づいて記述する。嫡男の貞氏については、元弘元年(1331年9月5日に59歳で亡くなった[6]とする『尊卑分脉』の記載により文永10年(1273年)生まれと分かる[7]ので、2の説を採った場合は子の貞氏が親の家時よりも10年も早く生まれたことになって矛盾する。その他、2の没年月日に1の享年25を採用した場合は家時が永仁元年(1293年)生まれ、3の説を採用した場合は建治元年(1275年、享年35の場合)または弘安8年(1285年、享年25の場合)生まれとなるので、いずれでも矛盾する。また、現存する古文書によって家時の活動期間をおおよそ文永6年(1269年)~弘安6年(1283年)と推定できるので、このことも生没年や生きた年代を特定する根拠となる。そして、当主としての文書発行の年齢を考えた時、文永6年の段階で15歳と仮定すると建長7年(1255年)生まれとなるので、享年35とした場合は正応2年(1289年)死去となる。正応2年は将軍・惟康親王が廃されて次の久明親王鎌倉へ迎えられた年であり、臼井は家時の死(自殺)をこれに関連したものと推測された。


その後の小谷俊彦の説(1977年)では、弘安7年(1284年)7月26日広橋兼仲の日記『勘仲記』による、後述参照)から史料上での貞氏の初見である永仁2年(1294年[8]までに家時の死およびそれに伴う当主交代があったと推定された。その間、弘安9年(1286年3月2日に足利氏の執事・高師氏高氏、法名:心仏)の奉書が発給されており、その他の執事奉書とは違って足利氏当主の袖判がないが、これは足利氏当主が年少でまだ自身の花押を有していなかったからであると考えられる。従って、家時の没年月日は弘安7年7月26日から同9年3月2日の間に推定することができ、その間弘安8年(1285年)に起きた霜月騒動に連座して亡くなったと推測される。


以上のような小谷説はその後、足利家準菩提寺の滝山寺(三河国額田郡)に残る「滝山寺縁起」[9]の、正安3年(1301年)に貞氏が亡父の17年忌法要に際して滝山寺へ額田郡[10]内の所領を寄進して如法堂を建立したとする記録によってその正確性が証明された。これが、「滝山寺縁起」を信憑性の高いものと認定し、その記載により弘安7年6月25日(1284年8月7日)に25歳で亡くなったとする、5の説(新行紀一[11]による)である。これについては、『勘仲記』同年7月26日条の段階で橘知顕[12]が伊予守に補任されていることが確認でき、これは前任者の家時がこの時までに亡くなったからであるとのことで、前述の臼井による正応2年(1289年)死去説は否定された[13]。新行の弘安7年死去説は、のちの前田治幸論文(2010年)等でも採用されて、最新の説となっている[14]


尚、従来までは2の文保元年(1317年)死去説が通説であった[15]が、2の没年月日は『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(4と同史料)における家時の孫(貞氏の子)・高義のそれ[16]にほぼ一致しており混同したものとみられる。

当主としての活動
家時の活動の初見は文永3年(1266年4月24日に被官倉持忠行に袖判下文を与えたことである[4](田中説に従えばこの時7歳程度であったことになる)。


文永6年(1269年)氏寺である足利鑁阿寺に寺規を定めるなど同寺の興隆に力を注いでいる[4]。寺規を定めるといった行為は家督交替の直後に行われることが多いことから、1266~1269年の間に伯父の家氏が亡くなり、それに伴って家時が名実ともに足利家当主となったとされる[4]


文永10年(1273年)、14歳の時に常盤時茂の娘との間に嫡男(足利貞氏)を儲ける。同年高野山金剛三昧院の僧法禅と所領を巡って訴訟となって争ったが、弘安2年(1279年)に敗訴している。この為か、幕府に対して批判的になっていったといわれる。その一方で、この裁判の過程で作成された建治2年(1276年)に幕府が作成した裁許状[17]の文中に「足利式部大夫家時」とあり、当時17歳であった家時が既に式部大夫従五位下式部丞)であった事が注目される。仮に17歳で叙爵されたとしても、同時期の武家では北条分家の有力者赤橋義宗と同年齢で叙爵を受けていたことになる(これより早いのは北条時宗宗政兄弟のみ)。更に弘安5年(1282年11月25日には23歳で伊予守に補任されているが、武家の国守補任においては15歳で相模守となった時宗を例外とすれば最も若かった。しかも、武家での伊予守補任は源義経以来で家時の後も鎌倉時代を通じて北条一門の甘縄顕実のみで、当時の元寇に際して有力武家である足利氏の協力が必要と言う背景があったとしても、幕府からは破格の厚遇を受けていたとする指摘もある[18]


また、建治元年(1275年)の六条八幡新宮造営の負担金は北条氏に次ぐ金額(二百貫)を割り当てられている[19]

自害
後述するが、弘安7年(1284年)6月25日に死去したとされる[20]。死因は自害[21]


この頃、鎌倉幕府内では執権・時宗の公文所執事(内管領)であった平頼綱御家人の実力者であり幕府の重臣であった安達泰盛の争いが激化し、時宗没後の弘安8年(1285年)11月には霜月騒動と呼ばれる武力衝突が起こり、泰盛は敗死し、以後頼綱の専制政治が始まる。足利氏はこの泰盛に接近し、霜月騒動では一族吉良氏の足利上総三郎(吉良満氏か)が泰盛に与同している。家時もこれに連座して自害したとの説もあったが、前年(弘安7年、1284年)の7月26日に橘知顕が伊予守に補任されている(『勘仲記』同日条)のは、それまでに前任者の家時が亡くなり闕官となっていたものが補われたものとみるべきであり、前掲「滝山寺縁起」温室番帳によってその1ヶ月前となる6月25日に亡くなったと考えられている[22]


家時の死の背景について、後世の歴史学者である本郷和人は泰盛の強力な与党であった北条一門佐介時国(義理の外叔父)の失脚に連座・関連して自害したのではないかとする説を提示している[23]。これとは別に、同じく後世の歴史学者である田中大喜は、家時は将軍惟康親王に近侍して執権北条時宗と結びつけた側近的存在であり、元寇を受けて強まった「源氏将軍」を待望する空気の高揚を嫌い、北条時宗に殉死することで得宗家への忠節を示し、これにより鎌倉幕府最末期まで足利氏が(排除されることなく)北条得宗家に重用される一因になったとする説を提示している[24]


墓所は鎌倉の功臣山報国寺で、家時は開基とされるが、報国寺の開基は南北朝期の上杉重兼宅間上杉家祖)である。家時と関係の深い上杉氏が供養したのであろう。

置文伝説
足利氏には、先祖に当たる平安時代源義家が書き残したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害し、三代の子孫(つまり孫)にあたる足利尊氏直義兄弟はこれを実見し、今川貞世(了俊)もこれを見たと、貞世の著作である『難太平記』には記されている。尊氏と直義は後に鎌倉幕府を滅ぼして、後醍醐天皇建武政権樹立に多大な貢献をしたが、最後の得宗北条高時の子北条時行中先代の乱を起こして鎌倉を占拠したのに対し、天皇に無断で鎌倉に下って乱を平定したのを機に、建武政権から離反して再び武家政権を樹立する運動を開始している。家時の願文が尊氏挙兵の動機とも考えられている。


源義家の置文が実在した可能性は低い。そもそも源義家の置文が傍流である足利氏に継承されたという点で疑問があるし、嫡流と言える義家四代後の子孫源頼朝は、征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いている。義家がこのような置文を残したのが事実であったとすると、義家が七代目に生まれ変わる前に、四代目で既に天下取りは成就済という事になる。


そのため、源義家の置文には偽作説も唱えられている。しかしながら家時が執事高師氏に遣わした書状を、師氏の孫で尊氏の執事となった高師直の従兄弟である高師秋が所持しており、直義がこれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文を送って正文は自分の下に留め置いた、という文書が残っている。『難太平記』のいう置文は、実際にはこの文書を指している可能性があるが、詳細は不明である。 そのため、置文の実際の作者は義家では無く、家時自身だと推測されている。

登場する作品
・テレビドラマ

  ・1991年 太平記 - 演 : 小形竹松

  ・2001年 北条時宗 - 演 : 内山昂輝俊藤光利


脚注
1. a b c d 田中、2013年、p.67、臼井論文。
2. 田中大喜 「総論 中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、p.25)。
3. 田中、2013年、p.131、小谷論文。年代を考慮すれば北条時宗から下賜されたものと思われる。
4. a b c d 田中、2013年、P.167、吉井論文。尚、家氏との関係は、『前田本源氏系図』で家時が「尾張守家氏子云々」(田中、2013年、P.211、前田論文)とされるほどである。
5. 田中、2013年、P.402(「下野足利氏関係史料」)。
6. 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(4に同じ)では同日に死去時の年齢(享年)を60、『常楽記』では命日を9月6日とする。
7. 小谷俊彦は、『北条九代記』(『鎌倉年代記』)により貞氏の外祖父(家時の舅)である北条時茂が文永7年(1270年)に30歳で亡くなったことも考慮の上で、建治3年(1277年)生まれとする見解を示している(田中、2013年、P.126)。
8. 同年1月2日付「足利貞氏吉書」(『陸奥倉持文書』、『鎌倉遺文』第24巻・18446号)。
9. この史料については、小林吉光「史料紹介~『滝山寺縁起』」(『岡崎市史研究』創刊号、1979年)に紹介されている。また、本文については田中、2013年、「下野足利氏関係史料」(P.389-404)で見ることができる。
10. 『倉持文書』により足利家が同郡の地頭職を保有していたことが確認される(田中、2013年、P.169)。
11. 新行紀一「足利氏の三河額田郡支配 ―鎌倉時代を中心に―」(初出は1980年、田中、2013年、P.276・286)、同「足利氏と三河国」(所収:千田孝明『足利氏の歴史~尊氏を生んだ世界』、1985年)。
12. 『尊卑分脉』によれば、敦明親王―敦貞親王―敦輔王―通季―式季王―兼式王―兼資王―兼康王―知宣(橘広房の子・以実の養子)―知仲―知茂―知嗣―知顕刑部卿正四位下昇殿)。
13. 田中、2013年、P.286、新行論文。
14. 田中、2013年 の巻末「下野足利氏関係年表」でもこの説が採用されている。
15. 田中、2013年、P.65、臼井論文。
16. 同系図は田中、2013年、「下野足利氏関係史料」(P.382-388)に掲載されている。それによると、高義は文保元年(1317年)6月24日に亡くなっている。これについては、1314年と1318年に貞氏、1315年に高義の当主としての活動が確認されることにより正確なものとされる。詳細は足利高義の項を参照。
17. 建治2年8月2日付「関東下知状案」(『紀伊金剛三昧院文書』、『鎌倉遺文』第16巻・12437号)。
18. 以上、前田治幸の見解による。田中、2013年、P.189・202-204を参照のこと。
19. 「造六条八幡新宮用途支配事」国立歴史民俗博物館所蔵。足利左馬頭入道跡
20. 前掲「滝山寺縁起」温室番帳、『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」より。
21. 前掲『続群書類従』所収「足利系図」。
22. 田中、2013年、P.286(新行論文)。
23. 本郷和人「霜月騒動再考」(『史学雑誌』112-12号、2003年)。同じく後世の歴史学者である田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、P.46)でもこの説が紹介されている。
24. 田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、P.23)。

参考文献
田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0

 ・P.6-51:田中大喜「中世前期下野足利氏論」

 ・P.54-73:臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(初出:『日本歴史』257号、1969年)

 ・P.117-133:小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(初出:『近代足利市史 第一巻』、足利市、1977年)

 ・P.157-178:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(初出:吉井功兒『中世政治史残篇』トーキ、2000年)

 ・P.179-228:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』、日本史史料研究会、2010年)

 ・P.273-298:新行紀一「足利氏の三河額田郡支配 ―鎌倉時代を中心に―」(初出:『芳賀幸四郎先生古希記念 日本社会史研究』、笠間書院、1980年)

 ・P.381-413:田中大喜「下野足利氏関係史料」・「下野足利氏関係年表」

・『鎌倉遺文

関連項目
足利氏
(wikiより)


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〇見延山への道標
これは、耀海寺の末寺、石塔寺にあったものです。


ここから国道を東へ約 1km、東海道と見延道との分岐点にあり、見延道入口の目印でした。


この地には、日蓮大聖人から帝都弘通を任された日像上人・江戸時代の名僧深草の元政上人の足跡が残されています。


この道標は、大阪の俳人安井 ( 大伴 ) 大江丸が享和元年 ( 1801 ) に建立した、自筆のものです。


大江丸は与謝蕪村と親交があり、小林一茶に影響を与えた人です。


また、町飛脚問屋の主人でもあり、大阪め江戸間の道中の安全を祈願し寄進しました。


石塔寺は明治 7年 ( 1874 ) に廃寺となり、本寺の耀海寺に統合されました。


明治 13年 ( 1880 ) の中宿 ( 現 興津中町 ) の大火で、この道標も高熱のため折損してしまいました。


縁者により耀海寺に移され、上部は境内に保存されました。


しかし、下部は長い間不明となっていました。


平成 17年 ( 2005 ) 永代供養墓建設の際、発掘され復元されました。


( 右面 )
これより御山へのぼる事十三里 ( ? )
ふじ川ばた いわぶちへ出るみち ( ? )


( 正面 )
ミ ( み ) のぶさんけ ( い ? )


( 裏面 )
享和元年辛酉十月十三日建立
        八十三翁 大江丸拝書


( 左面 )
江戸 嶋谷       江戸 松井利兵衛
京都 大黒屋庄治郎   主願 万屋宗八
大阪 津國屋十右衛門
(案内板より)

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「甲州武田軍団二十四将軍之一人 今福丹波守子孫の家」と刻して有りました。

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樗牛の名作歴史小説である「滝口入道」の供養碑であります。


悲恋物語の主人公「滝口時頼」と「曹司横笛」の霊を慰めるため樗牛博士 60年祭の砌、文学愛好の有志が文学碑として建てた物であります。
(案内板より)

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尾崎孝子 ( おざき - こうこ )

( 1897 - 1970 )

大正 - 昭和時代の歌人。

明治 30年 3月 25日生まれ。

吉植庄亮 ( しょうりょう ) に師事、「橄欖 ( かんらん )」同人となる。

昭和 7年短歌月刊社から短歌新聞「歌壇新報」を継承、主宰。

22年新人発掘のため「新日光」を創刊した。

昭和 45年 4月 22日死去。73歳。

福島県出身。

旧姓は山口。本名はカウ。

歌集に「ねむの花」「女人秘抄」「草木と共に」など。

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円光寺(えんこうじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派寺院。山号は瑞巌山(ずいがんさん)、開山は閑室元佶(三要)、開基(創立者)は徳川家康。正式には圓光寺と表記する。


当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた。

歴史
家康の命により慶長6年(1601年)に足利学校の第9代の庠主(しょうしゅ、学頭)であった閑室元佶を招き伏見城下に円光寺を建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移る。


さらに寛文7年(1667年)に現在地に移された[1]

文化財
円光寺は学校の役割も果たし、家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』(こうしけご)『貞観政要』(じょうがんせいよう、貞観参照)、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約5万個にのぼり日本最古の活字であり重要文化財となっている」[2]。他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などがある。

重要文化財
・紙本墨画竹図(雨竹風竹図) 六曲屏風一双 円山応挙筆

・絹本著着色元佶和尚像 自賛あり

・伏見版木活字 52,320個(附 摺刷盤2面)

拝観
2017年現在拝観料は大人500円・中高校生400円・小学生300円。9時から17時まで開門。


十牛の庭と呼ばれる庭園には洛北で最も古いと言われる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟がある。普段は比較的静かな寺院であるが、秋は紅葉の名所となり多くの人が訪れる。以前は紅葉期の夜間ライトアップも行われていたが、2008年以降は休止となっている。要予約・有料(2017年現在1000円)で紅葉期のみ7時30分から約1時間の早朝拝観ができる。また、境内には宝物館があり、伏見版木活字や円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などが常時見学できる。境内奥の山の上には、家康を祀った東照宮があり、そこからの洛北地域の展望が良い。境内の禅堂では日曜日の朝6時から2時間にわたり日曜坐禅会が行われており、要予約・志納でだれでも座禅だけでなく、作務(境内掃除の修行)や法話・粥坐(朝粥を食べるのも修行のひとつとされている)を体験できる。

近隣
詩仙堂

狸谷山不動院

八大神社

鷺森神社

曼殊院



交通アクセス
・車 拝観者専用の無料駐車場がある。途中の道が狭隘なので注意を要する。

・バス 京都市営バス5北8系統、京都バス1856系統 「一乗寺下り松町」下車 東へ約400m。詩仙堂前を左折してすぐ。

・鉄道 叡山電鉄叡山本線一乗寺駅下車 東へ約700m

脚注
1. 『京都の禅寺散歩』、p.90
2. 『月刊文化財』346号、p.47


参考文献
・竹貫元勝『京都の禅寺散歩』、雄山閣、1994

・「新指定の文化財」『月刊文化財』346号、1992

「京都の出版」(京都市歴史資料館サイト)

関連項目
日本の寺院一覧

日本の寺の画像一覧

伏見版

印刷博物館

サイド・オマール - 第二次世界大戦中、日本に留学していたマレーシア出身の留学生(南方特別留学生)で、広島で被爆し京都で死去。境内に墓がある。

外部リンク
京都 洛北 圓光寺
(wikiより)


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徳川(松平)忠長供養塔
( 1606 - 1633 )


徳川二代将軍秀忠の三男、幼名を国松あるいは国千代。


慶長十一年六月に二代将軍秀忠の三男として江戸で生まれた。


生母は正室お江与の方で、家光が乳母の春日局に育てられたのとは違い忠長は正室みずからが育てた。


幼少の忠長は、兄家光よりも活発で資質も器量もすぐれていたとみられていた。


秀忠夫婦とくにお江与の方の忠長に対する寵愛は特別なもので、この問題は将軍の世継ぎという幕府をゆるがす大問題となった。


春日局は慶長十五年伊勢神宮参拝を名分に駿府の家康のもとに出向き、世継ぎのきまりを直訴した。


家康は鷹狩りと称して江戸城へ赴き万座の中で家光を将軍家の跡継ぎであると宣言した。


これにて三代将軍は家光と決まったのである。


元和六年 ( 1620 ) 九月に竹千代十七才・国千代十五才で元服しそれぞれ家光・忠長と名付けられた。


家光は正三位権大納言、忠長は従四位下参議兼右近衛権中将となった。


元和九年秀忠は家光を連れて上洛し、将軍職を家光に譲った。


忠長は家光の将軍就任の翌年の寛永元年、甲斐・駿河・遠江の五十五万石の大大名となり従二位権大納言となった。


しかし、忠長は将軍の弟としてもっと禄高があってもいいと思い、父の秀忠に百万石もしくは大阪城を賜りたいと懇願したが聞き入れられなかった。


忠長は徐々に驕慢な行いが多くなり、寛永三年に母お江与の方が亡くなるとますます乱れて、酒を飲んで暴れたり、諌言する家臣を手打ちにしたり、殺生を禁止している浅間山で猿狩りをしたりしたついに寛永八年五月に幕府から甲府に蟄居せよとの命令が下された。


寛永九年正月に父秀忠が没するとますます事態は悪くなり、十月に領地没収され上州高崎安藤右京亮重長に預けられ寛永十年 ( 1633 ) 十二月六日自刃して果てた。享年二十八であった。


戒名は峯巌院殿前亜相晴徹暁雲大居士で墓は高崎の大信寺に造られたが、春日局はこの一件に関して責任の一端はあるとしてお江与の供養塔を建立したのを機会に忠長の供養塔も建立した。
(案内板より)

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 此方のお墓が「 本墓 」となります。

村山 たか
(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。

生涯
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮侍女となる。


20歳になり京都に上って、祇園芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であったために自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。


1860年
安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられるも女性ということで殺害を免れたが、三条河原に3日3晩晒された。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩士・長州藩士によって斬殺され、首を晒されている。


その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。墓は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。


長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年平成23年)の末、京都市東山区の井伊美術館で、直弼がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られている[1]

脚注
1. “井伊直弼、生身の恋文 東山の美術館発見”. 京都新聞 (京都新聞). (2012年2月13日). http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120212000068 2012年2月13日閲覧。 
(wikiより)

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村山たか女

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応仁の乱の最中、後花園天皇が文明 2年 ( 1471 ) 12月 27日この地で崩御した。


この地に有った悲田院で火葬にされたという塚です。


〇 後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日応永26年6月18日〉- 1471年1月18日文明2年12月27日〉)は、日本の第102代天皇(在位:1428年9月7日正長元年7月28日〉- 1464年8月21日寛正5年7月19日〉)。彦仁(ひこひと)。


本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、三従兄弟にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代(称徳天皇光仁天皇以来)658年ぶりであり、2019年(令和元年)現在最後の事例である。以後、この皇統が今日の皇室に連なっている。

生涯
応永26年(1419年)6月18日貞成親王の第一王子として生まれた。


応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。


正長
元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。


同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日践祚し、翌永享元年(1429年12月27日即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父の貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。


即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、同11年(1439年)6月には勅撰和歌集二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。


天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った[2]。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった[2]。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった[2]


嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。


文安元年(1444年)2月、同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月に父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。


長禄
元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には朝廷へ返還された。ここに全ての神器が天皇の手中に帰することになる。


寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。


同5年(1464年7月19日、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。


応仁
元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年9月20日出家法名円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている[2]。この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた[2]


文明
2年(1470年12月27日中風のため室町第で崩御した。享年53。翌3年(1471年1月2日高辻継長の勘申によって後文徳院追号されたが、漢風諡号文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、2月19日後花園院と改められた。

人物
後花園天皇は足利義満の皇位簒奪未遂以降、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物であると評されている[2]


天皇は詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集したほか、歌集『後花園院御製』がある。日記に『後花園院御記』。闘鶏猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。


寛正2年(1461年)春、天皇が長禄・寛正の飢饉の最中に御所改築など奢侈に明け暮れる将軍・足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である(『長禄寛正記』)[3]。その義政とは蹴鞠を通じて親交があり、崩御の際には同じ室町第にいたという事情もあったが、足利義政・日野富子夫妻がその最期を看取り、義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀から四十九日の法要まで全てに参列している[4]

系譜
伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は、庭田経有の娘・幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日1428年8月27日)に後小松天皇猶子となる。伏見宮家持明院統嫡流に当たる。


女院藤原(大炊御門)信子(嘉楽門院、1411-1488) - 藤原孝長女、大炊御門信宗養女

  ・第一皇女:観心女王(1434-1490) - 安禅寺

  ・第一皇子:成仁親王(後土御門天皇、1441-1500)

典侍藤原(日野)郷子 - 日野秀光

  ・皇女(真乗寺宮、?-1482) - 真乗寺

・後宮:藤原(三条)冬子(1441-1489) - 三条実量

・生母不詳

  ・皇女:照厳女王(?-1464) - 大聖寺門跡

詳しいことは、「後花園天皇ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87
(wikiより)

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後花園天皇

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・ 生田春月の詩碑


わが空しくも斃れなば   
   
あまたの友よあとつぎて
    
われにまされる詩を書けよ


ジヤン・コクトオやワ゛レリイの


伊達のすさびをやめにして


書けよ心の血の叫び     
                春月
(石碑文より)

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 『 お寺の方に御聞きしたところ、此方に有る物は「お墓ではない」という事です。』

蔦屋 重三郎
(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日1750年2月13日) - 寛政9年5月6日1797年5月31日))は、江戸時代版元出版人)である。朋誠堂喜三二山東京伝らの黄表紙洒落本喜多川歌麿東洲斎写楽浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し、歌麿とともに吉原連に属した。

人物
父(丸山氏)は江戸の吉原遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、のちに喜多川氏の養子になった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わっていった。安永3年(1774年)に遊女評判記『一目千本』、翌安永4年(1775年)に吉原細見『籬の花』を出版している。後に通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、嘉永頃に浅草寺中梅園院地借り市右衛門店に移った。


安永9年(1780年)に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。かねてから付き合いのあった狂歌師[1]たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し(現代で言うプロデューサー業)、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本黄表紙狂歌本絵本錦絵を出版するようになる。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長渓斎英泉歌川広重らの錦絵を出版している。


しかし自由な気風を推し進めていた田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。


その後も、寛政6年(1794年)には東洲斎写楽の役者絵を出版するなどしていたが、寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。


面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽をはじめ曲亭馬琴十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。


なお、2代目は番頭の勇助が継いでおり、初代同様、狂歌本を多数出版した。享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本『潮来(いたこ)絶句集』を出版すると、装丁が華美ということで処罰された。耕書堂は5代、明治初期まで続いた。

作品
・北尾重政 『一目千本花すまひ』 吉原細見 安永3年(1774年)

・鳥居清長 「雪月花東風流」 中判 錦絵揃物 天明末ころ

・喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』 黄表紙 志水燕十作 天明1年(1781年)

・喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本 天明8年(1788年)

・喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物 寛政3年‐寛政4年頃

・北尾政演 『錦之裏』 洒落本 山東京伝作 寛政3年(1791年)

・喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物 寛政5年頃

・栄松斎長喜 「四季美人」 大判 錦絵揃物 寛政中期

・東洲斎写楽の版画全作品 寛政6年5月 - 寛政7年1月

・北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本 寛政10年(1798年)

・渓斎英泉 「新吉原八景」 大判8枚揃 錦絵 文政初期

・歌川広重 「諸国六玉河」 横大判6枚揃 錦絵 天保6年(1835年)‐天保7年(1836年)

・歌川広重 「膝栗毛道中雀」 横大判 錦絵揃物

2代歌川国輝 「東京築地ホテル館」 大判3枚続 錦絵

注釈
1. 天明年間は田沼時代とよばれ、江戸市中は潤沢な資金により商人隆盛の豊かな時期が続き、娯楽として狂歌が大流行していた。

参考資料
鈴木俊幸『蔦重出版書目』(日本書誌学大系、1998年、青裳堂書店) - 安永3年(1774年)から没後の天保年間末(1840年代)まで800点以上の書目が挙げられている。

・「蔦屋重三郎の仕事」(別冊『太陽』、1995年、平凡社)

佐藤薫「写楽と秋田藩」(伊藤公一大阪大学名誉教授退職記念論集 帝塚山法学)



関連書籍
吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年 ※154 - 155頁

松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社、1988年 のち講談社学術文庫

小林忠 大久保純一 『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年 ※210頁

倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』れんが書房新社 1997年

・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』若草書房、1998年 のち平凡社ライブラリー

矢嶋道文監修『忠臣蔵蔦屋重三郎 江戸風雲録』文化図書 2011年

増田晶文『稀代の本屋 蔦屋重三郎』草思社 2016年

関連項目

カルチュア・コンビニエンス・クラブ - 書店・レンタルビデオ大手TSUTAYAの運営企業。2019年現在、TSUTAYAの名の由来のひとつとして蔦屋重三郎にあやかったことを挙げている。しばしば「越後屋」と「三越百貨店」との関係同様数百年来の血脈・組織資本を同社が直接受け継いでいると利用客から誤解を受けることがある。

モーニング (漫画雑誌) - 重三郎を主人公とした漫画「じょなめけ」が連載された(2007年-)。

フランキー堺 - 1995年篠田正浩監督映画『写楽』で企画総指揮を務めると同時に、重三郎を自ら演じた。

外部サイト
書評『蔦屋重三郎』
(wikiより)

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蔦屋重三郎

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花井 お梅(はない おうめ、1863年元治元年) - 1916年大正5年)12月13日[1])は、幕末から大正時代にかけての女性。芸妓などで生計を立てていたが、1887年(明治20年)に犯した殺人事件が、色々な演芸に脚色され、演じられた。

生涯
本名ムメ。佐倉藩の下級武士、専之助の娘に生まれ、9歳のとき、養女に売られた。15歳で柳橋芸妓小秀となり、18歳のとき、新橋へ移って『秀吉』を名乗った。豊臣秀吉のように大成しよう意気込みからと言われる。一時寄席へ出て噺家をしていたこともあった[2]


美貌で気っぷがよかった反面、勝ち気で酒癖が悪く、切れ易かった。座敷でお梅を見かけたベルツは、そのヒステリックな性格から「人殺しでもしかねない女だ」と言ったという(事件後、この話が広まり、ベルツは人相占いができると騒がれた)[3]


第百三十三国立銀行の頭取某の世話になりながら、四代目沢村源之助に惚れて貢いだ。そして源之助と悶着を起こし、その件で付き人を解雇された八杉峰三郎(峯三郎、峰吉、峯吉とも書かれる)を、自分の箱屋(お座敷へ行くときに、三味線の箱を持って従う男)に雇った。


1887年(明治20年)5月(24歳)、頭取某から浜町2丁目に待合『酔月(酔月楼)』を宛われ(『水月』ともある[4][5])、主人となる[6]


翌月6月9日の夜、浜町河岸でお梅は峰三郎を刺し、峰三郎は逃げてのち死に、お梅は父親に連れられて自首した。美人芸妓の殺人に新聞が飛びつき[7]、お梅は『毒婦』に仕立てられたが、犯行直後の当人は、動顛して歩けないほどだった。刺した動機は、「ホンのハズミ」[8]、「峯吉の陰口への腹立ち」[9]、「峰吉に横恋慕される鬱陶しさと彼に待合を乗っ取られるのではの疑心」[10]など、ノンフィクションの資料にもまちまちである。峯吉の亡骸は、麻布長谷寺に葬られたあと、1888年に浅草今戸町本龍寺に改葬され、歌舞伎役者や芸妓、同業の箱屋などが一堂に会して法要が行なわれた[11]


大岡育造らが弁護に立ち、無期徒刑となり、服役中の動静が新聞だねになった。15年後の1903年4月釈放された。出獄を見ようと群がる野次馬を避けて、早めに刑務所の裏口から出た。40歳だった。


その9月、浅草千束町(現、台東区千束)に汁粉屋を、続いて神田連雀町(現、神田須田町神田淡路町の一部)に洋食屋を開いたが、お梅を見に来る一過性の野次馬客が去って店仕舞いし、牛込岩戸町(現、新宿区岩戸町)で小間物屋を始め、これも続かなかった。


1905年(明治38年)秋、42歳、峰三郎殺しの芝居の旅回りを始めた。


1916年(大正5年)夏、53歳、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗った。その12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった精研堂病院で没した。嘗て源之助を巡る恋敵だった芸妓喜代次が看取った。


墓は西麻布2丁目の長谷寺にある。戒名は『戒珠院梅顔玉永大姉』。かたわらに、1935年の流行歌『明治一代女』を作詞した藤田まさとの歌碑が建てられている。


  十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり


関連作品
評伝
朝倉喬司 『毒婦伝 高橋お伝、花井お梅、阿部定中公文庫、2013年

音曲
五代目富士松加賀太夫:『梅雨衣酔月情話』(新内)、(1888)

・藤田まさと作詞、大村能章作曲:『明治一代女』(流行歌)、(1935)

演劇
( )内の西暦は、初演年次。

・秋葉亭霜楓:『花井於梅酔月奇聞』(1888)作、(上演実績不詳)

河竹黙阿弥:『月梅薫朧夜』、 五代目尾上菊五郎一座(1889)

伊原青々園:『仮名屋小梅』、新派河合武雄喜多村緑郎一座(1919)

川口松太郎:『明治一代女』、新派の花柳章太郎ら(1935)

伊原青々園:『小梅と一重』、新派合同公演(1940)

北条秀司:『振袖紅梅』、劇団新派(1976)

映画
・川口吉太郎監督:『花井お梅』、松竹蒲田撮影所(1922)、五代目沢村源之助ほか出演

吉野二郎監督:『花井お梅』、松竹蒲田撮影所(1926)、川田芳子ほか出演

・丘虹二監督:『花井お梅』、河合映画製作社 (1929)、鈴木澄子ほか出演

・蔦見丈夫監督:『仮名屋小梅』、発声映画社(1930)、五月信子ほか出演

田坂具隆監督:『明治一代女』、日活多摩川撮影所(1935)、入江たか子島耕二ほか出演

伊藤大輔監督:『明治一代女』、新東宝 (1955)、木暮実千代田崎潤ほか出演

衣笠貞之助監督:『情炎』、大映東京撮影所(1959)、山本富士子勝新太郎船越英二ほか出演

脚注
1. 命日は墓碑による。
2. 『浮世だんご』三遊亭金馬(つり人ノベルズ、1993)p54
3. 『欧州大戦当時の独逸』ベルツ花子著、審美書院、昭和8
4. 出典1のp.23ほか
5. 出典2のp.23
6. 花井お梅の下調べ新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936-1940
7. 出典3のp.411
8. 出典1のp.23
9. 出典1のp.35
10. 出典2のp.23
11. 死んで花咲く箱屋峯吉新聞集成明治編年史第七卷、林泉社、1936-1940

出典
1. 篠田鉱造:『明治百話 下』、岩波文庫(1996)ISBN 4003346939
2. 戸板康二:『泣きどころ人物誌』、文春文庫(1987)ISBN 4167292076
3. 紀田順一郎:『幕末明治風俗逸話事典』、東京堂出版(1993)ISBN 4490103387
4.朝日新聞社編:『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社(1994)ISBN 4023400521

外部リンク
花井お梅の箱屋殺し - 『日本橋名鑑』帝京タイムス社 編 (帝京タイムス社, 1932)

藝妓の箱屋殺し - 『文明開化. 4 裁判篇』 宮武外骨著 (半狂堂, 1926)
(wikiより)

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花井お梅

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清水の次郎長が英語塾に使ったとされる明徳館跡。

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甲州廻米置き場から北側は船溜まりになっていて、その周囲は甲州が土地を買い上げ、倉庫が建てられました。で、今でも山梨県の土地ということになっています。


幕府献上米は、米として輸送する以外に、換金して収めてもいました。

その業務は本町の北村家が(恐らく石倉ギャラリーをやってる北村さんでしょうか)仲介業者として一手にさばいていたそうです。

ちなみに幕府専用倉庫は清水小学校の場所にあり、それを改築して清水小学校が建てられました。

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明治 2年 5月 ( 1869 ) 次郎長の留守中、徳川浪士に斬られる。

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少年時代の清水の次郎長が学んだ寺子屋跡。

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7代目(ただし自称5代目)立川 談志(たてかわ だんし、1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。


古典落語
に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。初高座は新宿末廣亭における『浮世根問』。


自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は「あの町この町」「木賊刈」(とくさがり)。5代目三遊亭圓楽3代目古今亭志ん朝5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。

参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。

来歴
入門〜真打昇進
1936年1月2日東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。終戦後は結婚まで大森区鵜の木に居住していた。


1952年、東京中学校卒業。先輩に安藤鶴夫牧伸二がいる。同年4月、東都高等学校を中退後、16歳で5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホール新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。


1962年
、3月に入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い5代目三遊亭圓楽にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から5代目柳家つばめも真打に昇進した。


なお、松岡が立川談志の「5代目」(実際は7代目とも)を自称した経緯は次の通りである。


明治時代寄席で人気を博していた4代目(談志)が『初代(談志)』を称しており、小ゑん(松岡)の先代にあたる6代目(談志)がそれに倣って『4代目(談志)』と称していたようなので、小ゑんは『5代目』というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、『5代目談志』を名乗ることになった」[1]

『笑点』立ち上げ

1966年5月15日、『笑点』(日本テレビ)が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。後に、『笑点』放送100回記念放送では桂歌丸と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。


初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『いつみても波瀾万丈』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという[2]。落語ではなく敢えて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという[3]。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた[3]。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ。」[3]との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で、隔週金曜深夜に放送された番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、後にどちらとも談志に統一された[注釈 1]。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた[2]。しかし視聴率が伸び悩み、またこれに伴い、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、最終的には暫時的な新レギュラー期間を挟んで、談志自身が降板を余儀なくされた[2][4]。なお、歴代笑点の司会者で(就任時点で)落語協会に所属していた人物は、現在まで談志のみである。


談志は降板後も特別番組の時には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置き、そのまま他界した。番組で不定期に行われている『真打昇進披露口上』には一度も登場しなかった[注釈 2]。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという[5]


一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年 - 2003年頃には『特冊新鮮組』(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年元日に日本テレビで放送された『同名番組』とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『談志の遺言』(TBSラジオ番組)には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。

政治活動
1969年第32回衆議院議員総選挙東京8区から無所属で出馬するも落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。


同年、ニッポン放送にて、月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)と木魚を叩きながらナンセンスなやりとりをするラジオ番組『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、1973年まで放送された[6](のちに、舞台やテレビ番組などで、何度も「再現」している)。


1971年第9回参議院議員通常選挙全国区から無所属で出馬、初当選。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党した(本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた佐藤栄作が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという)。国会質疑ではNHK受信料問題などを取り上げた。


1975年12月26日三木内閣沖縄開発政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務ととどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と返したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対し、退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。この時、親交がある石原慎太郎[注釈 3]から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。


参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。


政治思想的には保守寄りであった。在任中は日本共産党議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感したわけではなく、本人は判官贔屓としている)と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。

談志も、国会の決算委員会で国鉄問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている[8])。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。


その反面、元社会党衆議院・参議院議員上田哲の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、医師作家なだいなだの提唱した老人党に賛同、談志・西丸震哉と「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。

落語立川流創設
1978年6代目三遊亭圓生三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説(5代目圓楽は著書で、新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。金原亭伯楽の著書にも同趣旨が記述されている。


1983年落語協会真打昇進試験制度運用をめぐり、当時落語協会会長であった師匠・小さんと対立。同年、落語協会を脱会し、落語立川流を創設して家元となる。


1992年
瀬戸内海ホホジロザメが人を襲う事件があり、そのサメを自ら退治しょうと行動を取り、当時明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動を謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成。鮫のぬいぐるみのついた野球帽を被って現地入りした。しかし現地の人達からはこの行動に対し「一体、何考えてるんだ!」「ふざけてるのか!」等と激怒し、談志らは痛烈な批判と罵声を浴びた。その為何も出来ずに帰京をせざるを得なくなり、発足した「シャークハンター必殺隊」は特に活動する事も無く自然消滅した形で解散した。当時のワイドショーでもこの談志らの無謀な行動に対して否定的に報じており、コメンテーターからも厳しい意見が飛んだ。

1995年新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市西蒲区夏井)に田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降、田植えと稲刈りをほぼ毎年行い、年によっては岩室温泉での落語会も行った。


1997年食道癌を外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やすことになる。しかし、この時は白板症と診断され「癌もどき」と自嘲した。術後、医者から止められていたにもかかわらず、記者会見では堂々とタバコを吸った。ただし、その後は毎月定期健診に行くなどして健康には人一倍気を遣っていたという(5代目圓楽の著書による)。


1999年長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。後日、その客がその高座の主催者を相手取り、「落語を聴く権利を侵害された」として民事訴訟を起こすも、請求は棄却された。


2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、立川流の前座門弟、立川キウイ、立川談修、立川志加吾(現雷門獅篭)、立川談号(現雷門幸福)、立川談大、立川談吉を破門。その後2003年5月に破門者の復帰試験を実施した。

メディアへの再登場
2004年TOKYO MXにて、野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』を開始。番組は2008年まで4年間続いた。同番組は2007年6月からYouTubeでも公式に視聴することが可能となっている。同番組の共演者である吉村作治との交流が深まり、その縁で吉村が学長を務めるサイバー大学では客員教授を務めた。受け持ち科目は共通科目の「落語と文化・文明論」であった。


2005年
4月、NHKラジオ第1放送にて、ラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(『おしゃべりクイズ疑問の館』の枠で月一回放送)が放送開始され、番組レギュラーを毒蝮三太夫山藤章二松尾貴史、その他ゲストと共に務めた。


2007年
10月6日爆笑問題太田光とともに『立川談志・太田光 今夜はふたりで』に出演。番組は2008年3月30日まで続いた。以前は2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月 - 3月)に放送されていた『おとなの時間割談志の遺言」』(TBSラジオ火曜21時 - 22時)に出演していた。また過去に、文化放送で放送された『立川談志 最後のラジオ』にも出演していた。


2007年に入ってからテレビで再びコメントを求められるようになり、『筑紫哲也NEWS23』に出演、「私の多事争論」で病欠の筑紫哲也をサポートしてみせた。『情報プレゼンター とくダネ!』では、直接ではないものの5代目柳家小さんの孫・柳家花緑と共演している(花緑の受け持ちコーナー「温故知人〜天国からのメッセージ」で生前親交のあった横山ノックを取り上げた際、ゆかりの人物としてVTR出演した)。


2008年
3月9日NHK BShiで『立川談志 きょうはまるごと10時間』放送。以前放送された『わが心の旅』『HV特集 71歳の反逆児・素顔をドキュメント』、毎日放送(MBS)『情熱大陸』を含む、インタビューや密着ドキュメント、『居残り佐平次』の高座などが放送された。

闘病と死
2008年5月、喉にポリープの疑いがあると診断され、検査を受ける。6月3日、自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われる。6月18日、退院。入院の間は病院から落語会やテレビ収録に行っていたという。この頃以降、高座でもそれ以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。10月14日喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。


2009年
8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日NHKラジオ第1放送公開収録番組『新・話の泉』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。


2010年3月2日6代目三遊亭円楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した桂歌丸は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ[9]


同年4月13日には8か月ぶりに高座に復帰し『首提灯』を披露するも、11月に声門癌再発を確認。この時は声帯摘出手術を本人が拒否した。12月には『芝浜』ほか3席を熱演したが、「3席もった喉と体に素直に感謝しています」といつもの談志節は鳴りを潜め、落語家としての無上の喜びを打ち明けた。


2011年3月6日川崎市・麻生市民館麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて、咳き込みながら『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。これが談志にとって生涯最後の高座となった。3月21日に入院し、翌日に手術が行われた。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術で声を失うことになった[10]。本人の希望で4月18日に退院後は自宅で療養する[11]が、以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、現実に後述の『週刊現代』の連載の執筆を除き、その死まで一切仕事は行わなかった。


5月21日の『立川キウイ真打昇進記念パーティー』は演芸関係者だけではなく一般参加者の募集も行われ、事務所の「すべての予定のキャンセル」発表後も談志出席のまま告知が続けられていた。さらにキウイも問い合わせに対し「師匠からは出席の返事をいただいています。」と回答していたため、パーティへの出席の期待は高かった。しかし談志は会場に姿を見せず、「(5月2日に死亡したとされる)ビンラディンの喪に服するため」との欠席理由が発表された[注釈 4]。続くキウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)にも登場が告知されていたが、会場に足を運ぶことはなく、弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した唯一の例外となった。ただし、談志は5月のパーティーと7月の真打披露興行の数日後にキウイのアルバイト先であり、かつ自身の行きつけの店でもある東京・銀座のバーに足を運び、直接キウイにメッセージを送っている[13]


自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院[14]10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて喉頭癌のため死去[15]。75歳だった。

没後の反応
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた立川談吉[16]を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を挙行し、11月23日に落合斎場にて荼毘に付され、家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。23日に所属事務所である談志役場(息子・慎太郎の会社)が死の事実をプレス・リリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ[17]立川談慶[18]ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが複数出た。


一方、死の直後からTwitterWikipediaなどに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題を記述し、情報操作を試みた。


談志の死去を受けて、11月23日、8代目橘家圓蔵林家木久扇が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の3代目桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した[19]。弟弟子で落語協会会長(当時)の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ[20]。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長(当時)の桂三枝(現:6代桂文枝)も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。


報道各紙による訃報の見出しは「談志が死んだ」であった。生前、談志は「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と言っていた(本人他一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本もあった)。また、同年に死去したウサーマ・ビン・ラーディンムアンマル・アル=カッザーフィー金正日と合わせ、「2011年は独裁者が死ぬ年」と言われた。


葬儀の際、談志が生前かわいがっていたライオンのぬいぐるみ「ライ坊」が談志とともに荼毘に付されたという情報が流れた。このため、ライ坊が原因で破門騒動[注釈 5]に巻き込まれた立川志らくは、24日放送の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にて大いに嘆き、高田文夫が大笑いする一幕があった。しかし、その後談吉が明かしたところによると、荼毘に付されたのは別のクマのぬいぐるみであり、ライ坊は無事だった。


墓所は文京区向丘の浄心寺本郷さくら霊園で、墓石の正面には談志の筆による「立川談志」の名が、側面には生前自ら考えた戒名「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」が刻まれている[22]。生前から公開していた戒名が原因で受け入れてくれるお寺が見つからなかったといい、納骨が行われたのは2012年12月2日だった[23]。生前からの希望により遺骨の一部が海に散骨されたが、直後に魚が集まってきて撒かれた遺骨を食べてしまったという[24]。長女の松岡ゆみこは、談志が生前埋葬を希望していなかったことを受け、遺骨の一部を手元で保管している[25]


2014年
、長女・ゆみこが、談志の長年の住まいであった練馬区の自宅のリフォームを『大改造!!劇的ビフォーアフター』(朝日放送)に依頼し、リフォーム後は志らく夫妻が住むことになった[26]


2013年
にはNHK BSプレミアムで、過去のドキュメンタリー映像や弟子のインタビューと木皿泉脚本によるドラマ(青年期を小出恵介、壮年期を中山秀征、全盛期と晩年を田中泯が演じた)を組み合わせた『人生、成り行き』が放送された。また、2015年には立川談春のエッセイを題材にしたドラマ『赤めだか』がTBSで放送され、ビートたけしが談志を演じた。2018年には生前の言動などをAIに導入し、談志を再現したアンドロイドが太田光、志らくとトークを行う特別番組『天国からのお客さま』が放送された。

詳しいことは、「立川談志ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97
(wikiより)

0450 立川談志

立川談志

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 此方の御寺は『 寺内通常非公開 』です。

石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日1594年10月8日))は、安土桃山時代盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。


従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。


江戸時代
に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。

一般に知られる大盗賊「石川五右衛門」
安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。

史料に残る五右衛門
下記に石川五右衛門に関する記述がある史料を示す。史料に残された石川五右衛門の記録は、何れも彼の処刑に関わるものである。

ペドロ・モレホン
まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』[1]によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、

「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」

と記している[2]

山科言経
また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。

続本朝通鑑
また、(以下、「」、「」、「」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』には、

「頃年、有石川五右衛門者、或穿窬或強盗不止矣、秀吉令京尹前田玄以遍捜一レ之、遂捕石川、且縛二其母竝同類二十人許一烹殺之三条河原
                                              — 續本朝通鑑

とある。

歴朝要紀
『歴朝要紀』には、

「所司代法印前田玄以、捕賊石川五右衛門竝其母及其党二十殺于三条河原
                                                — 歴朝要紀

とある。

伝説の五右衛門
出生地は伊賀国遠江国(現浜松市)・河内国丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者抜け忍百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。


丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。


また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。

様々な伝説
前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。


・幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。


百地三太夫百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。


・その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていた事もあり、庶民の英雄的存在になっていた。


金の鯱(名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わるが、これは別の盗賊談の混同かと思われる。(柿木金助参照)


・京都市伏見区の藤森神社に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石がある。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせた。そのお礼として宇治塔の島の石造十三重塔(現重要文化財)の笠石を盗んで台石として寄進したものという。そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は他のものに比べて新しいのだという。


・五右衛門の隠れ家は、東山大仏(方広寺)門前にあった大仏餅屋にあったという。そこから鴨川河原に通じる抜け穴もあったという。


・秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。


・三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。


・有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。


・鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった。


・処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の歌を詠んだという。(古今和歌集仮名序に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か。)


・処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある[3]

創作文芸
江戸時代には伝説の大泥棒として認知されている。盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者の豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたことにもよるであろう。また徳川政権の下では権力者の象徴として前政権の秀吉が適当だった為と考えられる。


歌舞伎『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。ただし実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。この作品で五右衛門は明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児という設定となっている。この場面の、金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。


戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。


一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。

詳しいことは、「石川五右衛門ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
(wikiより)


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石川五右衛門

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延享二年 ( 1745年 )、岡山城下下備中鴨方藩邸内で生まれる。


本名孝弼 ( たかすけ )、字は君輔 ( きんすけ )、通称は兵右衛門、三十五歳の時より自ら愛用の七絃琴の銘に因み、玉堂琴士と号す。


藩務の傍ら、琴を弾き、詩を詠し、筆を執って墨書し、酒に酔い絵を描くというという文人として自適の生活を送る。


五十歳の時、春琴・秋琴の二子を連れ、岡山を出奔し、諸国放浪の旅に出る。


自由人として生きる精神は日々研ぎ澄まされ、独自の境地に達し、我が国、近代絵画の頂点を極める。


晩年は京都に定住し、文政三年 ( 1820年 ) 没。


代表作に国宝「東雲篩雪図 ( とううんしせつず ) 故川端康成蔵」


重要文化財「山雨染衣図 ( さんうせんいず )」等がある。
(案内板より)

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桃中軒風右衛門 ( 岡本峰吉 )


演芸・浪曲家・桃中軒雲右衛門三男。

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北向雲竹は寛永 9年 ( 1632 ) に生まれ、楷書に優れた大師流の書家で、僧侶でもあった。


俳人・松尾芭蕉の書の師であり、芭蕉とは長く交流が密であったことは、芭蕉の日記や数多く残された書簡からもうかがえる。


元禄16年 ( 1703 ) 5月 12日没、72歳。

法名「良苑林観明誉了海雲竹法師」。

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頼母木真六 ( たのもぎ - しんろく )    
昭和 32年 1月 26日 ~ 昭和 43年 8月 3日 ( 1899 - 1968 )

    
政治家・ジャーナリスト。

旧姓、関。父、関源二 ( 六男 )。

逓信大臣・頼母木桂吉の養子。

東京出身。

慶応大学中退。

カリフォルニア州「日米新聞」記者。大阪朝日新聞サンフランシスコ特派員。東京朝日新聞記者。

昭和 6年 ( 1931 ) 日本放送協会に入り、国際課長・宣伝部長・国際部長。

昭和 17年 ( 1942 ) 養父桂吉の後を継ぎ総選挙に出て当選、衆議院議員となる。運輸大臣秘書。戦後、公職追放後、改進党副幹事長。日本民主党相談役。69歳没。

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元弘 3年 ( 1333年 ) 5月 22日新田義貞の鎌倉攻めで、執権・北条高時に殉じた北条軍将士の墓という五輪塔がある。


境内入り口付近に北条・新田合戦の時の両軍戦死者を弔うため無数の五輪塔がある。


数年前に由比ヶ浜の地下駐車場工事現場から発掘された無数の遺骨も鎌倉攻防戦の戦死者としてこの地に納められている。


〇 北条・新田合戦 追悼歌碑

追悼歌
いさをしも槍も刃も埋れて 梢に寒し松風の音  華の世を所業つたなく散る君に香一片を焚きておろがむ

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藩祖・頼房( よりふさ)の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。


ここにある西行の歌碑は、九代・斉昭( なりあき)の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。


なおこの堂は戦災により焼失した。
(案内板より)

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北野神社 は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神 と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。


縁起によると、寿永元年(一一八二)源頼朝 が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。

夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(一一八四)ここに社殿を造営したという。

また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)


境内の南側に、中島歌子(一八四四~一九〇三)の歌碑がある。

歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。


門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人一、〇〇〇余人がいた。

樋口一葉、三宅花圃 らはその門弟である。


歌碑は歌子の死後、明治四二年(一九〇九)門下生によって建てられた。


雪中竹

  ゆきのうちに 根ざしかためて若竹の
 
                  生ひ出むとしの光をぞ 思ふ
(案内板より)


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野口英世は、明治九年十一月九日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。三十一年、北里柴三郎主宰の伝染病研究助手となり、三十三年十二月に渡米、三十七年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。


大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和三年五月二十一日、現在のアフリカ・ガーナのアクラで没した。享年五十三歳。
  
野口英世銅像は総高約四・五メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
  
銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和二十二年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和二十五年には東京都教育委員会山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
  
昭和二十六年三月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月二十一日に除幕式が行われた。
  
なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和四十六年に会津会が設置したものである。
(碑文より)  

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本名:桝井 長四郎(ますい ちょうしろう)、東京府生れ。明治9年(1876年11月26日 - 昭和20年(1945年3月10日

経歴
1876年明治9年)11月、東京銀座(現在の東京都中央区)の袋物商の家「富田屋」に生まれる。

・11歳の時に4代目一龍斎貞山に入門し3代目貞花を名乗る。

・師が没し、5代目一龍斎貞山門へ移る。

初代村邑井吉瓶初代伊藤痴遊の後見で3代目貞丈を襲名し21歳の時に昼席で真打昇進。

1907年明治40年)、6代目一龍斎貞山を襲名。

1940年、初代講談落語協会会長に就任。

1945年昭和20年)3月10日、アメリカ軍による東京大空襲に被災し隅田川で死去。

人物
大正から昭和初期に、3代目神田伯山2代目大島伯鶴と共に売り出し確固たる地位を築き、ラジオ放送の出演回数もトップクラスだった。


多様な演目を持っていたが中でも「義士伝」はお家芸であった。


また、講釈師であるのに、講釈の席はもちろん「落語協会」の頭取をつとめて勢力をふるい、出世するのも落ち目になるのも貞山次第という勢いだった。色物の寄席にも積極に出演した。
(wikiより)

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渥美 清(あつみ きよし、1928年昭和3年)3月10日 - 1996年平成8年)8月4日)は、日本コメディアン俳優。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。代表作『男はつらいよ』シリーズで下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞。

生涯
幼少期
1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。


1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。


1940年に板橋城山高等小学校[注釈 1]に入学。第二次世界大戦中の1942年巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家[注釈 2]に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

役者稼業
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。中央大学商学部[2][3]入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。“渥美”は愛知県渥美半島から採ったとされる。


1951年、東京浅草六区ストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。2年後の1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、生涯の親友となる(後述参照)。1954年肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。


1956年
にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一関敬六スリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻丹波哲郎三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。「男はつらいよ」のイメージからはうかがえないが、最初は松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で[4]、東映で"喜劇路線"を敷こうとした[5]岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ[6][7]、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「喜劇列車シリーズ」などに主演した[6][8][9]。東映とは水が合わなかったが[4]、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる[10]沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる[4][11]。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。

車寅次郎
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。


1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。


1979年(昭和54年)4月14日NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役・榎津巌役でオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている[要出典]。1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目『男はつらいよ 寅次郎紅の花』。

晩年、死
晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年末公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年末公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。


病気については、1991年肝臓癌が見つかり、1994年には転移しているのが分かった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月に49作の映画化の件で話し合い高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年平成8年)8月4日、午後5時10分、転移性肺癌のため東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。撮影現場には二日後の6日の夕方、秋からの制作が決定していた第49作の制作打ち合わせに来たスタッフへ妻より告げられ、訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。


そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田が

5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

との弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。


妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていたことが明らかになっている。


2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。

人物

経歴についての異説
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。


巣鴨学園
関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。


永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であった。

実像
「寅さん」の演技で見せる社交性のある闊達さとは対照的に、実像は公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避けていた。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。さらに渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事を一切プライベートに持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。


家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[12][注釈 3]。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。


芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、黒柳徹子関敬六谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[12]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[12]


そんな渥美であったが、脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)及び、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。渥美の俳句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ。渥美はナレーション担当で、遍路がモチーフになっており、舞台は前述の愛媛県北条市)および早坂への想いであると思われる[誰によって?]。このことが実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。[13]渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。これらの内容からも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが窺われる。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美自身も何とか抜け出そうとの思いがあったが、結局「寅さん」の縛りから抜け出すことはできなかった。


1985年(昭和60年)頃、渥美は俳人尾崎放哉を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本の大筋も完成した。ところが寸前にNHK松山放送局で放哉がドラマ化されたため(『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役は橋爪功で、第23回ギャラクシー賞奨励賞を受賞[14])、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成した。にもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌ったこととの軋轢かと思われる[誰によって?]。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。しかし、早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。


上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていくクレージーキャッツハナ肇と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。なお、ハナからは後年、結果的に山田洋次作品のレギュラー主役の座を奪う形となった。


渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた[15]。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。


山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[16]


2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている(シナリオ作家協会発行「シナリオ」1968年8月号収録)が、映像化はされていない。


黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席し、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。


永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のきっかけとなったとされている)。


プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場の同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。


野村芳太郎・山田洋次系以外のスタッフでは脚本家鈴木尚之が度々異色企画の脚本を執筆しており、信頼が厚かったことを窺わせる。ただし渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあり、これを境に渥美は山田作品へほぼ専心した。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットになったが、松竹と角川書店角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったこともこの流れを決定づけた。

長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった[注釈 4]。一方で健太郎は、講談社月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。


晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

出演
男はつらいよシリーズ(1969年 - 1995年、1997年、2019年 全50作)- 車寅次郎

 ・男はつらいよ(1969年)

 ・続・男はつらいよ(1969年)

 ・男はつらいよ フーテンの寅(1970年)

 ・新・男はつらいよ(1970年)

 ・男はつらいよ 望郷篇(1970年)

 ・男はつらいよ 純情篇(1971年)

 ・男はつらいよ 奮闘篇(1971年)

 ・男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971年)

 ・男はつらいよ 柴又慕情(1972年)

 ・男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年)

 ・男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年)

 ・男はつらいよ 私の寅さん(1973年)

 ・男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(1974年)

 ・男はつらいよ 寅次郎子守唄(1974年)

 ・男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)

 ・男はつらいよ 葛飾立志篇(1975年)

 ・男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年)

 ・男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年)

 ・男はつらいよ 寅次郎と殿様(1977年)

 ・男はつらいよ 寅次郎頑張れ!(1977年)

 ・男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく(1978年)

 ・男はつらいよ 噂の寅次郎(1978年)

 ・男はつらいよ 翔んでる寅次郎(1979年)

 ・男はつらいよ 寅次郎春の夢(1979年)

 ・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)

 ・男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980年)

 ・男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎(1981年)

 ・男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年)

 ・男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋(1982年)

 ・男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年)

 ・男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983年)

 ・男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎(1983年)

 ・男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎(1984年)

 ・男はつらいよ 寅次郎真実一路(1984年)

 ・男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(1985年)

 ・男はつらいよ 柴又より愛をこめて(1985年)

 ・男はつらいよ 幸福の青い鳥(1986年)

 ・男はつらいよ 知床慕情(1987年)

 ・男はつらいよ 寅次郎物語(1987年)

 ・男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日(1988年)

 ・男はつらいよ 寅次郎心の旅路(1989年)

 ・男はつらいよ ぼくの伯父さん(1989年)

 ・男はつらいよ 寅次郎の休日(1990年)

 ・男はつらいよ 寅次郎の告白(1991年)

 ・男はつらいよ 寅次郎の青春(1992年)

 ・男はつらいよ 寅次郎の縁談(1993年)

 ・男はつらいよ 拝啓車寅次郎様(1994年)

 ・男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年)

 ・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花特別編(1997年)

 ・男はつらいよ お帰り 寅さん(2019年)

映画
おトラさん大繁盛(1958年)- 八田

若社長と爆発娘(1960年)- 大井社長

唄祭ロマンス道中(1960年)- 三吉

縞の背広の親分衆(1961年)- 胴脇

腰抜け女兵騒動(1961年)- 三木本二等兵

水溜り(1961年)- 中年の男

抱いて頂戴(1961年)- 教祖

漫画横丁 アトミックのおぼん スリますわヨの巻(1961年)- マッハのズラ公

地獄に真紅な花が咲く(1961年)- ドスキンの政

図々しい奴(1961年)- 衛兵司令

投資令嬢(1961年)- 野崎

漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻(1961年)- マッハのズラ公

東海一の若親分(1961年)- 関東綱五郎

伴淳・森繁のおったまげ村物語(1961年)- 西向の三八

南の島に雪が降る(1961年)- 青田上等兵

喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年)- お巡りさん

若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)- 関東綱五郎

大江戸評判記 美男の顔役(1962年)- 暗闇の丑松

喜劇団地親分(1962年)- 佐々木

サラリーマン一心太助(1962年)- 葵光男

おったまげ人魚物語(1962年)- 銀二

東京さのさ娘(1962年)- 杉本勘太郎
あいつばかりが何故もてる(1962年)- 小山田善六

太平洋の翼(1963年)- 丹下一飛曹

歌え若人達(1963年)- 運転手

無宿人別帳(1963年)- 市兵衛

つむじ風(1963年)- 陣内陣太郎

拝啓天皇陛下様(1963年)- 山田正助

女弥次喜多 タッチ旅行(1963年)- 大八

おかしな奴(1963年)- 三遊夢歌笑

続・拝啓天皇陛下様(1964年)- 山口善助

馬鹿まるだし(1964年)- 万やん

現代金儲け物語(1964年)- 上野留吉

拝啓総理大臣様(1964年)- 鶴川角丸

僕はボディガード(1964年)- 北一平

散歩する霊柩車(1964年)- 毛利三郎

風来忍法帖(1965年)- 悪源太なり平

ブワナ・トシの歌(1965年)- トシ(片岡俊男)

望郷と掟(1966年)- 山根

何処へ(1966年)- 野口長太郎

沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)- 身延の朝吉

かあちゃんと11人の子ども(1966年)- 吉田貞治

喜劇急行列車(1967年)- 青木吾一

喜劇団体列車(1967年)- 山川彦一

・父子草(1967年)- 平井義太郎

男なら振りむくな(1967年)- 山角のおやじ

喜劇初詣列車(1968年)- 上田新作

経営学入門より ネオン太平記(1968年)- ゲイボーイ・カオル

風来忍法帖 八方破れ(1968年)- 悪源太なり平

喜劇爬虫類(1968年)- 関元三郎

燃えつきた地図(1968年)- 田代

白昼堂々(1968年)- 渡辺勝次

祇園祭(1968年)- 伊平

スクラップ集団(1968年)- ホース

でっかいでっかい野郎(1969年)- 南田松次郎

喜劇 女は度胸(1969年)- 桃山勉吉

ひばり・橋の花と喧嘩(1969年)- 参竜斉清山

明日また生きる(1970年)- 木村

喜劇 男は愛嬌(1970年)- オケラの五郎

トラ・トラ・トラ!(1970年)- 炊事兵 ※日本公開版のみ

家族(1970年)- 連絡船の男

あゝ声なき友(1972年)- 西山民次

故郷(1972年)- 松下松太郎

東京ド真ン中(1974年)- 安夫の叔父・金之助

砂の器(1974年)- ひかり座の支配人

ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)- 日本語版ナレーター

同胞(1975年)- 消防団団長

友情(1975年)- 矢沢源太郎

幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長

八つ墓村(1977年)- 金田一耕助

皇帝のいない八月(1978年)- 久保

俺たちの交響楽(1979年)- 西本

遙かなる山の呼び声(1980年)- 近藤

キネマの天地(1986年)- 喜八

二十四の瞳(1987年)- ナレーター

ダウンタウン・ヒーローズ(1988年)- 春之助

学校(1993年)- 八百屋の親父

詳しいことは、「渥美 清ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85
(wikiより)



0284 渥美清

⇧ 渥美 清

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市河万庵 ( いちかわ - まんあん ) / 市河三兼 ( いちかわ - さんけん )
天保 9年 ~ 明治 40年 11月 10日 ( 1838 - 1907 )


書家。


名、三兼。字、叔並。通称、昇六。号、萬庵。


父、市河米庵 ( 末子 )。東京出身。


幕府に仕え江川太郎左衛門、高島秋帆 ( 高島四郎太夫 ) に洋式砲術を学び鉄砲方となる。また、同時に海保酔茗に師事し篆刻を学ぶ。


明治 3年 ( 1870 ) ロンドンで印刷する我が国の紙幣の文字を担当。


父の業を継いで篆書・隷書を得意とし、更に篆刻・弾琴・点茶・挿花も好んだ。


下谷池之端で書道塾を開く。


門人・狩野金五郎を養子にし、与力の株を譲る。


のち下谷練堀町に移り、維新後は大蔵省に 24年間勤め明治 3年 ( 1870 ) にロンドンで印刷した日本の紙幣の文字を書いた書家として知られる。


著書:「金洞余韻」、「吟杖自在巻」、「百絶百律百古」。


法名 「大悟院実相古道居士」。

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市河遂庵 ( いちかわ - すいあん )
文化元年 ~ 明治 18年 9月 27日 ( 1804 - 1885 )


幕末・明治の書家。


名、三治。字、士成。通称、三治郎。別号、三山居士・靖所。


父、加賀大聖寺藩の藩医士・横井百翁 ( 二男 )。市川米庵の養子・市河恭斎没後、市河米庵の養子となる。


米庵に学び、詩書を得意とした。子に市河得庵がいる。


得庵は加賀前田家第 13代藩主・斉泰に仕えているので、遂庵も大聖寺藩前田家に仕えたと思われる。


法名「友竹院遂庵日清居士」。

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五十嵐与助 ( いがらし - よすけ )
明治 11年 ~ 昭和 32年 3月 1日 ( 1878 - 1957)


我が国冷蔵倉庫業の鼻疽。


はじめ柏崎において北洋漁業と冷凍魚介類の輸出を主な事業としていたが、欧米諸国の冷凍施設を歴訪視察し、大正 11年( 1922 ) 3月芝浦に日米水産株式会社を設立。


昭和 23年 ( 1948 ) 7月、五十嵐冷蔵株式会社に改称。80歳没。


妻・スイは、江森三郎の 4女。


 柏崎市大久保から年金ホーム越路荘へ行く途中に「与助道路」という碑があるが、この道路は、昭和 15年 ( 1940 ) に五十嵐与助が道路建設費を寄付したために命名されたもの。


「宝珠院悟法日与大居士/宝蓮院妙光日華大姉」。

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筒井 政憲(つつい まさのり)は、江戸時代後期の旗本通称は右馬助、佐次右衛門。官位伊賀守和泉守紀伊守肥前守目付長崎奉行南町奉行大目付を歴任した。

生涯
旗本久世三四郎広景の次男として誕生。母は旗本内藤信庸の娘。戦国大名の末裔である旗本筒井家(1000石)を継いだ。子に政循下曽根信敦がいる。下曽根信之は孫。


柴野栗山
に学問を学び、昌平坂学問所で頭角を顕わす。目付、長崎奉行を経て、文政4年(1821年)より南町奉行を20年間務めた。


文政11年(1828年)、シーボルト事件が起こった際には、大目付村上大和守、目付本目帯刀と共に高橋景保を捕縛、尋問した。近藤富蔵の殺人事件や河内山宗春を裁いたのも政憲であった。


天保年間は、但馬国出石藩お家騒動仙石騒動に巻き込まれ町奉行を免職の上、西丸留守居役に左遷された。左遷の背後には水野忠邦の暗躍があったという。さらに弘化2年(1845年)には、町奉行在任中の与力仁杉五郎左衛門の市中米買付に関係する不正が暴露され、当時の責任者として責任を問われ、留守居役を免ぜられ、小普請に左遷される。ただ、学問に優れた政憲はこの間も御儒役として大学頭林復斎に代わり12代将軍徳川家慶に進講するなどし、2年後には老中阿部正弘の命で西丸留守居役に復職となる。幕政にも関与しており、弘化3年(1846年)にフランス艦隊が琉球に来航、貿易を求めた事件で解決のために幕府と薩摩藩島津斉興斉彬父子との折衝を行い、阿部から異国船打払令の復活の是非についての諮問を受けたり、株仲間の再興を提言したりしている。


嘉永6年(1853年)にはロシアプチャーチンが国書を携えて長崎に来航し、樺太千島の日露国境確定と交易開始の要望を日本に呈した。幕府は政憲と川路聖謨を交渉全権代表に任命して長崎に派遣。併せて、西丸留守居役では重みにかけるとして儒役はそのまま、幕府内の席次を大目付格に昇叙となる。長崎での日露交渉は不調に終わり、ロシア側も船舶が故障したことやクリミア戦争発生で一時日本を離れたが、安政元年(1854年)には下田に再来日した。


幕府はやはり交渉委員を長崎同様政憲、川路とし、補佐役として下田奉行伊沢政義、目付松本十郎兵衛、勘定吟味役村垣範正、儒者古賀謹一郎をつけた。 交渉は無事妥結し、開港関係は日米和親条約を骨子とし、千島列島の国境を択捉島ウルップ島(得撫島)間と定め、ロシア船の下田・箱館(現、函館)への寄港、薪水食糧の供給を決めた。この時の交渉で、樺太では1852年以前からの日本人(大和民族アイヌ民族)の居住地は日本領とされたが、国境は未定であった。これが、後に日本人の居住地にまでロシア人が侵入する原因となる。


安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82。墓所は東京都新宿区日蓮宗常円寺にあり、新宿区の史跡に指定されている。


子の信敦は講武所の砲術師範になったが、孫の信之は長崎海軍伝習所へ赴任、江戸へ戻って同じく講武所の砲術師範に任命されたため、父子は混同されて信之は信敦の別名とされている。

人物評
安積艮斎は、下情に精通し少しも私曲がなく、統率力があって迅速、公平な裁きを下し、人々から敬愛される人物であったと評した。外国奉行栗本鋤雲は、大岡忠相根岸鎮衛に比肩する名奉行であると称賛した。[1]幕臣大八木醇堂は、遠山景元とはまた違った形の名奉行であると称えた。[2]木村芥舟は、人柄は温厚で、趨勢を熟慮して深淵な手を打つ奥深い人物と評した。[3]   

年表
安永6年(1778年5月21日 - 旗本久世広景の次男として生まれる。

寛政10年(1798年) - 旗本筒井正盈の養子となる。

文化12年(1815年) - 目付

・文化14年(1817年) - 長崎奉行

文政4年(1821年) - 南町奉行

天保12年(1841年) - 西丸留守居

弘化2年1845年) - 学問所御儒役

・弘化4年(1847年) - 西丸留守居

嘉永6年(1853年)7月 - プチャーチン長崎に来航、交渉委員となる。大目付

安政元年(1854年) - 槍奉行も兼務する。10月15日、プチャーチン下田に来航、再び交渉代表。

・安政2年(1855年12月21日 - 下田長楽寺日露和親条約が締結

・安政6年(1859年6月8日 - 死亡(享年82)

系譜
・父:久世広景

・母:内藤信庸

・養父:筒井正盈

・室:不詳

・生母不明の子女

  ・男子:筒井政循

    ・次男:下曽根信敦(1806-1874) - 旗本下曽根信親の養子

脚注
1. 遺老瑣談
2. 醇堂叢稿
3. 燭籥記


参考文献
丹野顯『江戸の名奉行』新人物往来社、2008年。


土居良三『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』未來社、2000年。

筒井政憲が登場する作品
ご存じ金さん捕物帳(1974年 - 1975年、NET東映) - 演:山村聰

  ・橋幸夫演じる遠山金四郎の上司。
江戸特捜指令(1976年 - 1977年、毎日放送三船プロダクション) - 演:栗塚旭

   第22話「唐拳!危うし遊び人奉行」(昭和52年(1977年)2月26日放送)に登場。この作品での政憲は、「遠山の金さん」ばりの遊び人姿を披露している。
達磨大助事件帳(1977年 - 1978年、テレビ朝日国際放映前進座) - 演:鈴木瑞穂

   中村梅之助演じる達磨大助の上司。準レギュラー。

必殺仕事人・激突!(1991年 - 1992年、朝日放送松竹

   第4話(平成3年(1991年)10月29日放送)・第8話(平成3年12月24日放送)に、名前のみ登場。
維新の嵐 - 光栄(現:コーエーテクモゲームス)が開発・発売したパソコン用ゲームに要人として登場している。

御宿かわせみ - 平岩弓枝の書いた小説であるが、文庫版第11巻「二十六夜待の殺人」の「源三郎子守歌」に、南町奉行として名が記されている。

関連項目
不平等条約
(wikiより)


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池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日文久4年2月5日)– 1912年2月28日)は、明治期日本ジャーナリスト。本名は吉太郎は任道、は重遠、別に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けといわれる。

人物・生涯
肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ。


池辺吉十郎、母 世喜の長男として生まれる。父 吉十郎は熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた。吉太郎が14歳の時であり、これからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。慶應義塾に学んだが、中退して佐賀県の役人となる[1]


大阪朝日新聞
東京朝日新聞主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。公明正大で高い識見の言論は、政治思想文芸など多方面に影響を与えた。陸羯南徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。二葉亭四迷夏目漱石を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した。

年譜
・1864年(文久4年) 熊本に生まれる。


1877年(明治10年) 父吉十郎、西南戦争敗戦後処刑される。


1881年(明治14年) 父の友人鎌田景弼(かまたかげすけ)の援助で上京。中村敬宇(正直)の私塾 同人社に入る。同人社では、のちの刑事検察の大御所である小林芳郎と出会う。小林の方が7歳ほど年上であった[2]。後に慶應義塾に転校。


1884年(明治16年) 学費不足と病気のため佐賀県令(知事)となった鎌田景弼の招きを受けて佐賀県学務課に勤務。慶應義塾中退。


1889年(明治21年) 条約改正反対を唱え、大坂の「経世評論」に入り、東海散士らとともに主筆を務める。


1891年(明治23年) 再び上京を果たし、日本新聞社の客員記者となる。


1893年(明治26年) 細川護茂に伴われてフランス留学ヨーロッパ5カ国を訪問。鉄崑崙の筆名で新聞「日本」に書き送った「巴里通信」が評判を呼んだ。


1896年(明治29年) 帰国。大阪朝日新聞社に主筆として入社。 


1897年(明治30年) 東京朝日新聞社の主筆となる。


1904年(明治37年) 日露戦争開戦(2月6日)


1905年(明治38年) 日露講和条約調印(ポーツマス条約)(9月5日) 


1906年(明治39年) 10月二葉亭四迷が小説『其面影』を連載開始。


1907年(明治40年) 2月夏目漱石が東京朝日に入社。同6月、小説『虞美人草』を連載開始。


1911年(明治44年) 東京朝日を退職。


1912年(明治45年) 母・世喜、死去。三山も同年2月28日に後を追うように心臓発作で死去。享年49。母の喪に服すために肉食を断ったことで、持病の脚気を悪化させたことが原因と言われる。

思想・主義
三山は温かい人柄で知られ、漱石をはじめ多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受ける。

  「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」

  「文章は平明で達意であるべし」


このような彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした。

主な著作(再刊)
・『巴里通信 他』 朝日新聞社、1951年(解題・西部敬治

・『明治維新 三大政治家 大久保・岩倉・伊藤論』 中央公論社中公文庫〉、初版1975年、復刊2005年。ISBN 4122045096

・『文学者の日記 池辺三山』 全3巻:日本近代文学館資料叢書、博文館新社、2001~03年。ISBN 4891779713ほか

関連書籍
池辺一郎富永健一共著 『池辺三山──ジャーナリストの誕生』 みすず書房、1989年、ISBN 4622033321

  ・増訂版、中公文庫、1994年、ISBN 4122020891、池辺一郎は長男で画家。富永健一は孫で社会学者

司馬遼太郎 『坂の上の雲』 文藝春秋、および文春文庫

廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(上)(慧文社)2016年 ISBN 978-4-86330-170-2

廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(下)(慧文社)2016年 ISBN 978-4-86330-171-9   

脚注
1. 宮部敬治・編『巴里通信 他』朝日新聞社、1984年、164p。
2. 『小林芳郎翁伝』 (望月茂、壷誠社、1940年)

外部リンク
・『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、97-98頁。(近代デジタルライブラリー
(wikiより)


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池辺三山

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大田蜀山人は、名は覃 ( ふかし )、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。


寛延 2年 ( 1749 ) に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大阪銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。


また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。


明和 4年 ( 1767 ) に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万戴狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。


文化 9年 ( 1812 ) に当地に移り住み、文政 6年 ( 1823 ) に没するまで過ごしています。
(案内板より)

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岩崎彌之助は嘉永 4年 ( 1851 ) 土佐国に生まれ、明治 7年 ( 1874 ) 後藤象二郎の長女・早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。


明治 18年 ( 1885 ) に三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。


彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。


また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。


彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。
(案内板より)


 歴史案内板に使われている煉瓦はこの地にあった岩崎彌之助邸の擁壁に使われていたものを再利用したものです。

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昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設です。


林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げました。


自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号となりました。


館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されています。


また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」を開催しています。


ねぎし三平堂オフィシャル・ホームページ
http://www.sanpeido.com/f01_goannai.htm

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