本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2020/05

伊達 宗彰(だて むねあき、1905年明治38年)3月6日[1] - 1969年昭和44年)11月29日[1])は、日本の華族政治家実業家貴族院侯爵議員


宇和島藩伊達家11代当主。伊達紀隆(ただたか、9代宗徳の三男)の三男。母は北条氏恭の娘・智子。養父は侯爵伊達宗陳。妻は松平慶民の娘・美智子。子に伊達宗礼(12代当主)、伊達宗忠葛城素子葛城茂敬夫人)、渡部順子渡部貞二夫人)。


13代当主は宗礼の子の伊達宗信(1971-)

経歴
初名は彰。1909年(明治42年)、伯父である伊達宗陳の養子となる。養父の死去に伴い1923年(大正12年)3月10日、家督を相続し侯爵を襲爵[1]。家督の相続にともない、1925年(大正14年)3月14日、名前を宗彰に改めた[2]。1927年(昭和2年)、東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。また、斎藤実内閣では、新居善太郎入間野武雄ら二人と共に、内閣総理大臣秘書官の一人として活躍した。1935年3月5日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任[3]火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任[4])。


その後、大蔵事務官、大蔵省広島財務局長などに就任した。


1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下の日はたまたま在局しておらず直撃の難を逃れ、直後に庁舎(財務局は、堅牢建物ということで、袋町の日銀に疎開していた)に駆けつけて職員の救護にあたった。この時、外傷の少ない元気な者を指揮してさまざまな活動(負傷者の看護・移送、遺体の移送火葬など)を行なったが、元気に見えた者が突然鼻血を出して死んでいくのを見て、後年「原爆のことをよく知らなかった。気の毒なことをした」ということを書き残している。昭和42年、この時の部下の手記を集めた「原爆の記」を自費出版したが、これは部数も少なかったため、生き残った旧部下らが昭和55年に新しい手記と伊達局長の思い出の記を加えて再販した。(「広島財務局原爆被災者の記録 原爆の記」庭山慶一郎編 財団法人大蔵財務協会刊)。


1957年に日本不動産銀行常務取締役、1964年に清水建設相談役などに就任した。1949年には宇和島城宇和島市に寄付している。64歳で没すると、家督は嫡男・宗禮が継いだ。

栄典
1937年(昭和12年)5月1日 - 正四位[5]

脚注
1. a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、59-61頁。
2. 『官報』第3770号、大正14年3月19日。
3. 『官報』第2451号、昭和10年3月7日。
4. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』18頁。
5. 『官報』第3101号「叙任及辞令」1937年5月8日。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)

1588  伊達宗彰

伊達宗彰

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伊達納子:「貞芳院殿惠光慈照大姉」。

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相葉 健 ( あいば - たけし )     
明治 26年 1月 8日 ~ 昭和 54年 12月 20日 ( 1893 - 1979 )

陸軍少将。


大正 2年 ( 1913 ) 5月陸軍士官学校卒業。
同年 12月陸軍歩兵少尉。


昭和 14年 ( 1939 ) 3月陸軍歩兵大佐。
同年 8月 ( - 1942. 9 ) 歩兵第 19聯隊長。


昭和 17年 ( 1942 ) 9月南方軍幹部候補生隊長。
同年 10月第 53師団司令部附。


昭和 19年 ( 1944 ) 1月第 3警備司令官。


昭和 20年 ( 1945 ) 6月独立混成第 115旅団長。
同年 6月陸軍少将。

従四位勲三等。

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男谷忠友 ( おたに - ただとも )    
弘化 3年 ~ 大正 5年 9月 6日 ( 1846 - 1916 )

    
明治期の外務省官僚。

父、江戸後期の旗本・剣客であった男谷精一郎信友 ( 下総守、1798? - 1864 ) で、「幕末の剣聖」と言われ、勝海舟の従兄 ( 精一郎の父の弟・勝小吉の子 ) にあたる。

父・精一郎は江戸に直心影流の道場を開いていた。勝海舟は門弟でもあった。

忠友は維新後は太政官に勤務した。

明治 13年 3月 25日から明治 14年 11月 26日 ( 1880 - 1881 ) 内閣権少


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渡瀬淳子 ( わたせ - じゅんこ )     
明治 27年 12月 15日 ~ 昭和 5年 1月 2日 ( 1894 - 1930 )・・・1896説あり


芸術座女優。

大阪松竹養成所の 2期生。


島村抱月の芸術座に入団。

のちに沢田正二郎らとともに脱退。


大正 2年 ( 1913 ) 沢田正二郎と結婚し、正二郎の親友ら 11人で「新国劇」を結成。女優として活躍。


大正 13年 ( 1924 ) 離婚。

その後は、新劇で活躍。


没年間際には、銀座裏のジュンバーのマダムをしていた。37歳没。


 明治 45年 ( 1912 ) 3月セイレーンとオデュッセウスの船を表紙に画いた雑誌「シレエネ」が発行されたが、発行人の青木精一郎と共に挿画を描いている。

また、小説家宇野浩二の小説「恋愛合戦」のモデルといわれている。

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大上戸要次郎 ( おおじょうご - ようじろう ) / 吉野山要次郎    
明治 29年 1月 3日 ~ 昭和 31年 2月 6日 ( 1896 - 1956 )


関取。

本姓、清恵波。


富山県下新川郡 ( 黒部市 ) 出身。


最高位、前頭。

立浪部屋に入門。


幕内四股名吉野山。

幕内在位 29場所。


幕内成績 120勝 193敗 2預。

常の花から金星 3個を取る。


昭和 8年 ( 1933 ) 1月引退。


引退後、8代中川を襲名。


昭和 12年 ( 1937 ) 中川部屋を創設するも弟子に恵まれず、昭和 22年 ( 1947 ) 中川部屋を閉じ、立浪部屋に戻る。


監査役を務め、傍ら相撲茶屋「西川家」を経営。

61歳没。「実相院浪角巌導日要居士」


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那須資徳 ( なす - すけのり )     
寛文 12年 ~ 宝永 5年 6月 25日 ( 1672 - 1708 )


下野国烏山藩 2代藩主。

初名、政直。

通称、主殿・与一資徳。

那須家 5代当主・旗本


・父、弘前藩津軽信政 ( 三男 )。
・母、増山弾正少弼正利の娘。
・正室、花房正矩の娘。
・長男、那須資隣。


天和 3年 ( 1683 ) 那須資弥の養子となる。


12歳のとき将軍徳川綱吉に拝謁。


実子があるのに養子を後継ぎとしたことがバレて貞享 4年 ( 1687 ) 改易となる。


改易後は、屋敷・長屋・厩、さらには柳沢吉保への進物代まで津軽家の経済援助を受ける。


元禄 13年 ( 1700 ) 赦されお家再興がなり寄合旗本・小普請になる。


元禄 14年 ( 1701 ) 下野国那須郡内 1000石 ( のち3000石 ) を賜り、宝永元年 ( 1704 ) 那須家存続のため花房右近正矩の娘と結婚し、お初 ( 享保 7年歿:慈妙院 )・豊丸 ( 資隣 )・福原鉄之進 ( 早世 )・おてま ( 早世 ) を設ける。

のち子孫世世寄合に列する。


那須党の上座に列し、老中支配となる。37歳没。

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笹田黙介 ( ささだ - もくすけ )     
弘化 3年 7月 20日 ~ 大正 14年 6月 8日 ( 1846 - 1925 )


秩父「困民党」蜂起事件 ( 秩父事件 ) 時の埼玉県書記官。

山口県出身。


埼玉県 2代白根多助県令を補佐し、庶務・警察・監獄の行政事務を確立。

 
明治 15年 ( 1882 ) 者大埼玉県警部長。


明治 17年 ( 1884 ) 「秩父事件」の処理に当たる。

正五位勲五等。80歳没。


〇 秩父事件
秩父事件
(ちちぶじけん)は、1884年明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡農民政府に対して負債の延納、雑税[1]の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。隣接する群馬県長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。

事件の背景
江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。


国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年(明治6年)から1896年(明治29年)ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年(明治15年)のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、翌1883年(明治16年)にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。


埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。


当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。


1881年
(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件1883年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。


とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16年)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流を図り、同志的結合を強めていく傾向にあった。


そんな中、従来からの路線対立や、加波山事件の処理をめぐる紛糾などから1884年10月29日(秩父事件発生の2日前)、自由党は解党決議を可決するに至っていた(その後同党は1890年に再結成されるが、以後も解散・再結成・再編等を繰り返す。詳細は自由党 (日本 1890-1898)の項参照)。なお、秩父事件の指導部は蜂起時点ではこの自由党解党の情報を認知していなかったと考えられている。

概要
秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(文献により、秩父困民党・秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。


自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した。


しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。一部の急進派は長野県北相木村出身の自由党員で代言人菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町馬流駅付近)で高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。この事件で警察官5人が殉職した。


事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助加藤織平新井周三郎高岸善吉坂本宗作菊池貫平井上伝蔵の7名には死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。

詳しいことは「秩父事件ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)

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9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。


周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要なことから嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。またロセンが大きいことでも知られた。


稲荷町(現:台東区東上野)の長屋に住み、3代目柳家小さん門下だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分であり家も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠4代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。


得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸10代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」などである。

芸歴
東京日本橋小伝馬町の生まれ。

  ・実家は魚屋。


十思小学校を卒業。

1904年錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。

1915年橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵となる。

1918年12月、7代目翁家さん馬(のちの8代目桂文治)門下に移って翁家さん好と改名する。

・後に立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなる。

1921年

  ・大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。

    ・大阪時代は、その後の持ちネタとなる多くの噺を学び、また初代桂春團治に接し大きな影響をうけるなど彼自身にとって一つの転機となった。

  ・帰京。文治門下に復帰する。

・翌1922年11月、桂文七に改名するが、師匠文治との関係が悪化し止むなく小さん一門に移る。

1925年10月、真打昇進し柳家さん輔に改名。

1938年4月、前師匠文治の前名9代目翁家さん馬襲名。

・戦後は文化放送専属でラジオ寄席中継に出るようになり、その芸が認めらるようになる。

1960年4月、9代目桂文治襲名。

1972年3月、友人彦六、彦六の「天敵」と呼ばれた6代目三遊亭圓生とともに落語協会顧問就任。落語界最長老として活躍する。

1976年1月24日脳溢血に倒れる。

1978年3月8日死去。85歳没。墓所は谷中玉林寺。

奇想天外なクスグリ
「留さん文治」は、一見前師匠8代目文治を引き継いだ非常に怖そうな老大家のようだが、その芸風はひょうひょうとした軽い語り口の中に不思議な英語、微妙にアナクロな現代語を織り込んだものであった。そのため歴代の文治の流れからすると異色である感は否めないものの、寄席には絶対に欠かせない芸人であった。以下は「留さん文治」の名文句集である。


・「心中するのにサーベルもって行くやつがあるかい。バグダッドの盗賊じゃねぇんだぞ」(「小言幸兵衛」)


・「エデンの東のほうから来たんじゃねぇのかい」(「小言幸兵衛」)


・「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」(「大蔵次官」)


・「顔面にホワイトのペンキを塗り」(「大蔵次官」→10代目文治も使っていたクスグリ)


・「(ケネディ大統領が暗殺された話で)殺された場所がよくねぇ、テキサス州ってんでしょう。敵を刺すってんですからね。ダラスって町でしょ。だらすがない。殺したやつがオズワルドってので、自分の了見じゃねぇ、人におすわるとそういうことをする」


・「『悶え』っていう映画を観てると体が悶えてくる。あの映画に出てる若尾文子って女優がね。すけべったらしい目つきでね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんすよ」(「現代の穴」)

ドケチの逸話
落語界屈指の吝嗇家であり、師匠小さんの曾孫弟子7代目立川談志(自身もケチで有名であった)、彦六の弟子林家木久扇(芸人では珍しい節約家)をして賞賛せしめるほどの「ケチの文治」として有名で、数々の「ドケチ」の逸話を残す。


・寄席の席亭に「毎週、これこれの日は早く高座に上がらせて下さい」と要請。刺身好きな文治は、アメ横の魚屋の特売日に、早く高座を上がって帰りたかっためである。

  ・なお、買ってきた魚は、当時としては珍しい電気冷蔵庫に入れていた。しかし自分のではなく、隣に住む友人の彦六宅の冷蔵庫である。


・新聞は毎日、彦六宅で読んでいた。


・呼ばれたお座敷で出されたご馳走を腹一杯食べてから寄席に回ってきたが、食い過ぎで腹痛を起こして楽屋で七転八倒しだしたので、噺家仲間が「今日は休んで帰ったらどうですか? タクシー呼びますよ」と言うと、文治はいきなりしゃんとなり「いいえ地下鉄で帰ります」


  ・仕方がないので若い前座に荷物を持たせ、地下鉄の駅まで送ってやることになった。駅で別れ際に「取っておきなさい」と文治の渡した小さな包みを、前座が後で開いてみると、中身はタクシー代よりも多額のチップだった。「ドケチ」と言われてはいたが、単なる吝嗇家ではなかった。


・普段から大切な義理事への出費は惜しまず、むしろ他人よりも多く包むことを厭わなかったという。「美学のある吝嗇家」であった。

弟子
10代目翁家さん馬(文治の養子)

7代目桂才賀(文治没後は3代目古今亭志ん朝一門に移籍)
(wikiより)

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杉山 誠 ( すぎやま - まこと )     
明治 40年 5月 1日 ~ 昭和 43年 12月 30日 ( 1907 - 1968 )


演劇評論家。

杉山栄の養子。


岐阜県出身。

東京大学文学部卒業。


昭和のはじめ新関良三に師事し、演劇史を研究。


同人誌「劇と評論」に演劇批評を執筆。


日本大学芸術科講師。


陸軍中尉として支那事変に従軍。


尾上菊五郎劇団文芸部長。


昭和 22年 ( 1947 ) 俳優座入団。

のち付属養成所主事として 18年間新劇俳優の育成にかかわる。


昭和 29年共立女子大学教授、演劇論や演劇史を講じる。


また、演劇雑誌に欧米の新しい演劇運動の紹介をした。

 
晩年は、「毎日新聞」の劇評を執筆。

昭和 43年 ( 1968 ) 劇団民芸の忘年会で挨拶中に急逝した。

近代戯曲の翻訳:「イプセン」、「ストリンドベリ」、ハロルド ビンター「帰郷」など。61歳没。

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清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身の元大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。 5代伊勢ヶ濱

来歴
1893年11月1日秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。


1917年
5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。それでも清瀬川の繰り出す技は「業師」と愛称が付くほど俊敏かつ抜群の切れ味で、さらに土俵度胸の良さもあって上位陣、とりわけ栃木山守也常ノ花寛市大ノ里萬助などを苦しめたが、関脇まで昇進しても勝ち越せずに大関昇進は果たせなかった[1]


現役時代から内弟子を取り、熊ヶ谷部屋の後継者を争っていたが敗れたため、楯山部屋へ転属した。1929年1月場所9日目の関脇・玉錦三右エ門戦で、取組中に右目上を負傷して流血したが、行司・勝負検査役が共に流血を確認しても取組を中断させずに続けさせたことに不満を感じ、突如として引退届を提出した。しかし、日本相撲協会から熱心に慰留されたことで引退届を撤回し、次の同年9月場所まで出場して現役を引退した。


現役引退後は、年寄・伊勢ヶ濱(5代)を襲名し、幡瀬川邦七郎たちを引き連れて伊勢ヶ濱部屋を創設した。部屋では自身の現役時代と同じような技能派力士を多数育成した。特に同郷の後輩で遠縁でもある照國萬藏を横綱へ昇進させたことは、功績として数えられる。照國は清瀬川が師匠を務めていた頃の伊勢ヶ濱部屋について「ウチの部屋の力士といえば、みんな体が小さくて、四つ身になったら勝てるような力士がいなかった。だから、みんながうるさく、前さばきについては言われたでしょう。事実、これについてはそれこそ、寝ずに研究をしたものですよ」と語っている[2] 1953年1月場所が終わった後、同場所限りで現役を引退した照國萬藏へ部屋を譲り、自身は出羽海と共に日本相撲協会の相談役を務めたほか、1960年には、翌年1月に施行された停年制を前に勇退し、蔵前国技館で引退披露大相撲を開催した(年寄の引退相撲は史上初だった)。

1967年7月1日に死去、73歳没。

詳しいことは「清瀬川敬之助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E7%80%AC%E5%B7%9D%E6%95%AC%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

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安立綱之 ( あだち - つなゆき )    
安政 6年 ~ 昭和 13年 12月 2日 ( 1859 - 1938 )


第 15代警視総監・貴族院議員。

名、彦七。


父、旧鹿児島藩士国分市右衛門 ( 二男 )。

養父、第 2代福井県知事である安立利綱。

国分友諒の弟。鹿児島県出身。


明治 19年 ( 1886 ) 警視、以後愛媛・福岡・長崎各県警部長。

佐賀県書記官。


明治 33年 ( 1900 ) 再び警視となり、下谷警察署長。

警視総監官房主事。


明治 35年 ( 1902 ) 内務省警保局長、明治 36年 ( 1903 ) 第 15代警視総監。


明治 38年 ( 1905 ) 日露講和条約からみで多数の警察や派出所が焼かれた日比谷焼打事件の責任をとって辞任。


明治 42年 ( 1909 ) 貴族院議員。

正四位勲二等。80歳没。


〇 日比谷焼打事件
日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年9月5日東京市麹町区(現在の東京都千代田区日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本暴動事件。日比谷焼打ち事件[1]日比谷焼き打ち事件日比谷焼討事件日比谷焼き討ち事件といった表記揺れがある。

概要
1905年ポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社交番などが焼き討ちされる事件が起こった[2]。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。

原因
1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍ロシア海軍バルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介の下、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行われることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。  


相手は強大国・ロシアであり当時の日本には戦争を継続するだけの余力はすでになかった。しかしながら日本国内では政府の情報統制により連戦連勝報道がなされ、戦費を賄うために多額の増税・国債の増発もなされていた(戦費17億円は国家予算6年分。外債8億、内債・増税9億)。ロシアに戦争継続されれば日本は負ける可能性が高く、国民にその内情までも伝えればロシアにも情報が漏れる可能性があるため日本政府は機密にしていた。そのため国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると信じていた。


しかし、ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎8月29日樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。


この条件は、朝日新聞などの予想記事から国民が考えていた講話条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。


長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、9月3日大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「国務大臣閣僚)と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。

日比谷の暴動
9月5日東京日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。


しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、棍棒丸太で裏門からも襲われた。銀座からの群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった[3]


この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[4]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[5]


これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日日本政府戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き[6]、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである(戒厳令廃止は11月29日[7])。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。このうち裁判にかけられた者は104名[8]、有罪となったのは87名であった。


なお、各地で講和反対の大会が開かれ、神戸9月7日)、横浜9月12日)でも暴動が起こった。

その後
暴動収拾後も人々の反発は収まらず、桂首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新内務大臣原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。

被害にあった建物
内務大臣官邸

外務省

国民新聞社


キリスト教関係
・駒形町福音伝道館

・三軒町美以教会

・黒船町聖約翰教会

・森下町救世軍分営

・芝崎町浅草美以教会・牧師館(現・日本基督教団浅草教会

・横川町天主教会・付属小学校

・吉田町天主教信者鈴木房次郎宅

・松倉町同盟教会講義所(現・日本同盟基督教団

・向島小梅町同盟教会(現・日本同盟基督教団

・両国矢ノ倉町日本基督教会(現・日本基督教団永福町教会

・御士町日本基督教会(現・日本基督教団豊島岡教会

・日本基督明星教会(現・日本基督教団小石川明星教会

・車坂町美以教会(現・日本基督教団下谷教会

注釈
1. *江村栄一・中村政則編『国権と民権の相克』、三省堂、1974年、288頁。
2. 新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.487-492
3. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、224-225頁
4. 出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』191~194頁、岩波新書(1996年:第一刷) ISBN 9784004304586
5. 『日本キリスト教歴史大事典』p.1164
6. 明治38年勅令第205号「東京府内一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」(『官報』号外、明治38年9月6日、p.1
7. 明治38年勅令第242号「明治三十八年勅令第二百五号及第二百六号廃止」(『官報』号外、明治38年11月29日、p.1
8. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、225頁

参考文献
・『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

中筋直哉『群集の居場所―都市騒乱の歴史社会学』新曜社、2005年、ISBN-13: 978-4788509368

藤野裕子『都市と暴動の民衆史:東京・1905-1923年』有志舎、2015年

関連項目
日露戦争

ポーツマス条約

対外硬派

外部リンク
日比谷焼打事件報道資料集

The Hibiya Riot - アンドルー・ゴードンハーバード大学教授)による講義(英語)

訟庭論草 国民大会事件を論ず 花井卓蔵、 (春秋社, 1931)
(wikiより)


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三浦守治 ( みうら - もりはる )    
安政 4年 5月 11日 ~ 大正 5年 2月 2日 ( 1857 - 1916 )


病理学者・歌人・東京帝国大学名誉教授。


父、三春藩士村田七郎兵衛(二男)。

和歌号、移岳。


福島県出身。

尺八古琴流演奏家三浦琴堂の兄。

幼いとき三浦義純の養子となる。


明治元年 ( 1868 ) 三春学校に入り、明治 5年 ( 1872 ) 東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。


明治 6年 ( 1873 ) 大学東校に入り、明治 14年 ( 1881 ) 東京大学医学部卒業し、内科助手となる。


明治 15年 ( 1882 ) ドイツのライブチッヒ大学に留学しコーンハイム教授に師事。


翌年ベルリン大学に移り、ウイルヒョウ教授に師事。

病理学を専攻し、ドクトル・デル・メチチーネの学位を得て明治 20年 ( 1887 ) 帰国。

医科大学教授。


明治 24年 ( 1891 ) 医学博士。


明治 35年 ( 1902 ) 再び欧州各国で病理学を研究。


明治 38年 ( 1905 ) 陸軍省御用掛を兼ね日露戦争の際、現地で脚気病を調査。帰国後医師を開業。


明治 39年 ( 1906 ) 帝国学士院会員。

従二位勲二等瑞宝章。


大正 3年 ( 1914 ) 東京帝国大学名誉教授。

著書:「剖検法」、「脚気治療法」、「脚気の病理」。

その他論文多数。

歌集「移岳集」。61歳没。

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三浦琴童 ( みうら - こどう ) / 三浦純一 ( みうら - じゅんいち )     
明治 8年 12月 18日 ~ 昭和 15年 3月 11日 ( 1875 - 1940 )


尺八古琴流演奏家。


本名、三浦純一。

号、琴童。


東京出身。

三浦守治の弟。

海城中学校卒業。


帝国大学予備門を目指したが、病気のため断念し、東海銀行に入社。


傍ら明治 30年 ( 1897 ) 初代 ( 2代とも ) 荒木古童 ( 竹翁:1823 - 1906 ) に尺八を師事。

「琴童」名を給う。


おなじ荒木古童の弟子の上原六四郎に点符式尺八楽譜を習得、伝承の曲の作譜に努める。


明治 35年 ( 1902 ) 「レツロ会」を創設。


大正元年 ( 1912 ) 「琴古会」を主宰し、水野呂童らの門弟を排出した。


大正 2年 ( 1913 ) 東海銀行を退社し、尺八古琴流演奏家として一家をなす。


著書:「拍子記号附琴古流尺八本曲楽譜」。65歳没。

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色川誠一 ( いろかわ - せいいち )     
嘉永 3年 ~ 明治 42年 7月 14日 ( 1850 - 1909 )


富士製紙常務取締役。

茨城県土浦出身。


伯父・父共に国学者として有名。


阿佐田哲也の祖父。


団々珍聞社に入り、一切経の予約出版をする。


明治 20年 ( 1887 ) 廣瀬誠一郎と共に利根運河会社設立に尽力し、明治 23年 ( 1890 ) 2月 25日全線通水となり、5月 10日すべての工事が完成した。


この事業の熱意から広瀬誠一郎・人見寧らと共に「利根運河の三狂生」と言われた。


またサッポロビールの会社設立にも関与。


60歳没。妻は、綾子。後妻は、仁子。

「嶺高院忠誉雄誠宗英大居士」。

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石黒敬七 ( いしぐろ - けいしち )    
明治 30年 8月 10日 ~ 昭和 49年 10月 1日 ( 1897 - 1974 )


放送タレント・随筆家・柔道家。

新潟県柏崎比角出身。


家業の縮み商の七男として生まれたため"敬七"と命名された。


早稲田大学柔道部にて主将を務め毎年一段ずつ昇段し五段になる。


警視庁・拓殖大学・法政大学などで師範を務める。


大正 13年 ( 1924 ) 27歳のとき自ら"石黒敬七君を渡仏させる会"をつくり、資金を集め渡仏をはたす。

フランスでは、画家の藤田嗣治らと交流、またパリのオペラ座で柔道のエキジビジョンを行う。


またパリで新聞「巴里週報」を発刊。

また、サロンド・トンヌ展に入選。


体育系と文系の両面を持つ。


昭和 8年 ( 1933 ) 帰国し講道館審査員。


戦後はNHKのラジオ番組「とんち教室」に参加し人気者となった。


写真のコレクターとしても知られる。77歳没。

息子は、石黒敬章。

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中山信安 ( なかやま - のぶやす )    
天保 3年 7月 27日 ~ 明治 33年 6月 19日 ( 1832 - 1900 )


新潟権令・茨城権令。


旧名、修輔。

父、中山信民。

静岡県浜松出身。


蘭学を緒方洪庵に学び、開国の必要性を説く。


文久年間新徴組取締。


元治元年 ( 1864 ) 佐渡組頭・御蔵奉行・佐渡鉱山取締などを歴任、鉱山事務を改革し、諸種の産業を奨励した。


慶応の末年、各藩兵・脱兵が来て軍資金を要求する事態があり、金・食糧を支給して諭し、事なきを得る。


戊辰後、佐渡県が置かれ佐渡県権判事となる。


明治 2年 ( 1869 ) 佐渡県の廃止で江戸に帰る。


明治 4年 ( 1871 ) 新潟県参事。


明治 7年 ( 1874 ) 新潟県権令。


明治 9年 ( 1876 ) ころ茨城県権令。

地租改正に反対する暴動を鎮圧したが、陸軍・司法両省は、越権行為として弾劾したため、辞官し、再び士官しなかった。


正六位。69歳没。


夫人は、慈善家の中山幸子。養子、幸子の連れ子中山信重 ( 実父、嵯峨根不二郎 )。

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松浦律翁 ( まつうら - りつおう ) / 松浦 啓     
文化 12年 2月 ~ 明治 13年 ( 1815 - 1880 )


肥前平戸藩第 10代藩主松浦熈 ( まつうら - ひろむ:1791 - 1867 ) の二男。

兄松浦曜 ( まつうら - てらす:1812 - 1858 ) は、11代藩主。


名、啓。平戸藩士。

松浦信恵の養子となる。

小姓組、書院番頭。

従五位、越前守。


のち加賀守。室、石丸宮子。66歳没。

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松浦信正 ( まつうら - のぶまさ )     
? ~ 明和 6年 5月 11日 ( ? - 1769 )


松浦家第 26代当主で肥前国平戸藩初代藩主・松浦鎮信 ( まつうら - しげのぶ:1549 - 1614 ) の二男。


母、朝鮮女性の小麦様。


兄松浦久信 ( まつうら - ひさのぶ:1571 - 1602 ) は、第2代藩主。


松浦鎮信が豊臣秀吉に朝鮮出兵を命じられ、朝鮮の首都漢城 ( ソウル ) を占領したおりに、小麦畑の中に隠れていた美しい女性を家臣が連れてきて鎮信に差し出し、鎮信は妾にし、小麦様と呼ばれた。


小麦様は、朝鮮から帰国の途中に男子を生み、のちに 2人の男子を生む。

そのうちの一人が松浦信正と言われている。


その後、松浦信正は、平戸藩の家老河内守となり、根獅子・獅子・生月に 3000石の領地を与えられた。


慶長 12年 ( 1607 ) の朝鮮通信使の接待役となった折に母のことを尋ねたとされる。


また、小麦様は、根獅子で、その生涯を閉じたという。

かなり伝説的な内容であるが、信正は、かなりの高齢まで生きたということになる。

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三好 政勝 ( みよし - まさかつ、天文 5年 ( 1536年 ) - 寛永 8年 12月 10日 ( 1632年 1月 31日 )) は、戦国時代から江戸時代の武将。

三好政長の子。三好政康の弟。

官位は右衛門大夫、因幡守。一任斎と号す。子に可正。


三好長慶と細川晴元の対立の中で、天文 18年 ( 1549年 )、父が長慶に殺害 ( 江口の戦い ) されると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底して戦ったという。

しかし長慶の死後は、三好一族として三好氏をよく補佐した。


やがて織田信長が入京してくると、一度は三好三人衆らと共に、和泉の織田方の城を落したり、足利義昭を本圀寺に攻めたり ( 本圀寺の変 ) と反信長の行動に追従しているが、元亀元年 ( 1570年 ) の野田城・福島城の戦いの最中に信長に降伏し、その家臣となって摂津の知行を安堵された。

しかし、元亀 3年 ( 1572年 ) には松永久秀・三好義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている ( 永禄以来年代記 )。


この記録を最後に、しばらく資料上からはぷっつりと姿を消す。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に資料に登場するのは天正 20年 ( 1592年 ) の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻としてである ( 太閤記 )。

秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は 2020石を領したと言われている。

その後は徳川方として大坂の陣にも出陣し、96歳という長寿を保った。


このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の 1人・三好伊三入道のモデルとされている。

実際に、政勝の法名は「為三」である。

しかし、実際には政勝は真田氏と何の縁もない。

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室田義文 ( むろた - よしあや )     
弘化 4年 9月 19日 ~ 昭和 13年 9月 5日 ( 1847 - 1938 )


全権大使。


父、旧水戸藩士室田平八 ( 二男 )。


弘化 4年 ( 1847 ) 分家して一家を立てる。


外務省洋学校に入学。


明治 2年 ( 1869 ) 外務省出仕。


太政官政府の初期官僚の一人となる。


外務権少録。

領事・総領事・外務書記官・外務省会計局長・メキシコおよびペルー駐在特命全権公使など歴任。


特命全権大使となり、退官後実業界に転身。


百十銀行頭取・北海道炭鉱汽船・大日本人造肥料各取締役会長。


蓬莱生命保険・鐘淵紡績・三共・南米拓殖各監査役。


三井財閥の重鎮として昭和初期まで鐘紡の大陸進出に尽力。


明治 34年 ( 1901 ) 貴族院議員。

錦鶏間祗候。


従四位勲二等。92歳没。

夫人久良子は、中根正邦の娘。


 明治 42年清国ハルビン駅頭で狙撃された伊藤博文に首席随行、狙撃現場に居て、自らも被弾し負傷する。

この事件は室田の証言もあるが、犯人の解明がなされておらず、ミステリーのままとなっている。


 初代駐ペルー公使となった室田義文と森岡商会の田中貞吉の努力によって初めての日本人集団移民が許可になったが、それは明治 26年 ( 1893 ) ペルーと日本間に通商条約が改定され、室田義文メキシコ公使がペルーの公使も兼ねることにはじまる。


明治 32年 ( 1899 ) 2月に最初の邦人 790人が日本からペルーへサクラ丸で移住していった。


しかし、新天地といわれたところは、過酷な労働と風土病などの厳しい生活で、初期に入植した日本人は、ほとんど亡くなってしまったという。


室田義文は、現地調査に出向いたが、官僚特有のおざなりな報告だったという。

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関根痴堂 ( せきね - ちどう )     
天保 12年 ~ 明治 23年 9月 21日 ( 1841 - 1890 )


明治中期の儒者にして漢詩人。


名、柔。通称、録三郎。号、痴堂。

愛知県豊橋出身。


小野湖山に認められ、大沼枕山にも劣らずといわれた。


晩年「東京新詠」を発行。

風俗・人情を歌う。


高野山に登り”世のさまの見えすく寺の木立かな”と詠む。


渡辺華山の次男、渡辺小華の漢学詩文の師として知られる。50歳没。

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渡辺 小崋(わたなべ しょうか、天保6年1月7日1835年2月4日) - 明治20年(1887年12月29日)は、幕末・明治期の三河国田原藩家老で、日本画家渡辺崋山の次男。は諧(かのう)で、通称は舜治。小崋(後に「小華」)は雅号。

略歴
江戸麹町の田原藩邸で生まれる。父・崋山が蛮社の獄で国許・田原に蟄居した際には、小崋を含む家族も共に移り住んだ。7歳のときに崋山は自害した。


藩校
成章館で学んだ後に、弘化4年(1847年)13歳の時、彼の将来を慮った父の門人福田半香の勧めで江戸に出てる。同じく崋山門下の椿椿山の弟子となり、その画塾琢華堂で絵画を学んだ。その頃の琢華堂では毎月門下生に無落款で提出させ、これを批評し最優秀作には賞を与えていたのだが、小崋の作品は優秀作になることはなく、毎回小崋より年は上だが入門は後の野口幽谷が賞を受けていた。小崋は自分の非才を悩み、内密に幽谷の粉本を貰い、これを模して提出すると門下中最低点を付けられてしまう。この後、椿山は小華を招き「汝は塾内では卓抜な腕前であるが、まだまだ親の崋山には及びもつかない。亡き崋山の画業を継承し、その名声を辱める不肖の子とならないように」と戒めたという逸話が残る。


嘉永4年(1851年)江戸田原藩邸で世子三宅康寧のお伽役として絵画の相手を命じられる。安政元年(1854年)椿山が亡くなると画家として独立し、安政3年(1856年)、田原藩側用人であった兄・渡辺立(一学)が25歳で急逝したため、家督を相続する。文久元年(1861年)に師・椿山の養女・須麿を妻に迎えた。元治元年(1864年)に田原藩家老に任命される。当時の藩主三宅康保の父友信はかつて崋山に当主に推された経緯があり、また筆頭家老村上範致は崋山の推挙を受けたことから、小崋は重んじられた。特に戊辰戦争に際しては老齢の村上に代わって対応するところが大きく、明治に入ると小崋が参事となり藩政の実務を執ることになった。


廃藩置県
後に藩の残務整理を終えると、明治7年(1874年豊橋に移り住んで画家として生計を立てる決意を固める。以後、上京するまでを小華が滞在した吉田神社の前庭「百花園」にちなんで百花園時代という。明治6年(1873年ウィーン万国博覧会に「果疏図」「鶤鶏図」を出品、明治10年(1877年第一回内国勧業博覧会において「烟草綿花ノ図」で花紋賞を受賞するなど、父・崋山の画才を受け継いだ彼の絵が次第に認められる。明治15年(1882年))には拠点を東京に移して、同年の第一回内国絵画共進会で「蓮郡虫」「鵞」を出品、銅賞を受けて一流の画家の仲間入りを果たした。明治17年7月に川辺御楯らと東洋絵画会を結成する。明治19年には野口幽谷らと皇居の杉戸絵揮毫の栄誉に授かるが、持病のリューマチが酷く、一部を門人の山下青涯に代筆させたという(翌年完成)。明治20年(1887年)12月旅行した際、腸チフスに感染し、53歳で没す。法名は文雄院諧誉小華居士。城宝寺崋山墓所に葬られる。


師・椿山譲りの花鳥画に優れ、地元の東三河遠州の画家に大きな影響を与えた。

詳しいことは「渡辺小崋ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B0%8F%E5%B4%8B
(wikiより)

1564  渡辺小崋

渡辺小崋

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青木龍峰 ( あおき - りゅうほう )     
天保元年 ~ 明治 42年 9月 13日 ( 1830 - 1909 )


書家・福井藩士。


名、脩。号、龍峰。

父、福井藩砲術家青木吉蔵右衛門 ( 長男 )。

福井県敦賀出身。


藩儒高野真斎に経史を学び、のち書を正木龍珉に学ぶ。


下曽根金三郎に砲術を学ぶ。


書は諸書体をこなし、とくに大篆を得意とする。

松平春嶽に気に入られる。


明治 2年 ( 1869 ) 福井藩書師。

のち東京に出て、文部省警保寮左院に出仕。


明治 7年 ( 1722 ) 青木孝亮・大熊貞章らと内務省 12等出仕。

以降、内務 3等属に昇進。


明治 17年 ( 1732 ) 辞官。

その後は、もっぱら書道を教授する。80歳没。

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近藤民之助 ( こんどう - たみのすけ )    
文政 9年 1月 28日 ~ 明治 29年 10月 31日 ( 1826 - 1896 )


「三斗小屋の超惨殺事件」の当事者とされる人物。


松代藩士。

名、章康。通称、民之助。


北征の役 ( 戊辰の役の一部 ) で藩監軍兼参謀。


越奥に転戦し、明治元年 ( 1868 ) 10月に松代に戻り、朝廷より 78石を賜う。


明治 5年 ( 1872 ) 8月司法官。


松代藩は新政府側であり、墓碑裏の記述もこのようになっているが、資料によっては、会津藩士 ( 幕府側 ) であり、北征の役で官軍に追われ、那須の三斗小屋まで逃げたが、官軍に命令され板室まで道案内した名主の源右衛門を惨殺したというもの。

しかし、事実は藪の中。

資料の一部だが、「源右エ門の皮を剥ぎ、股の肉を削り取り串に挿し、炙りて食し、又一片を源右エ門の口に押し込み、己が肉食らいといいたりきと。源右エ門の痛激悲泣の声山谿に響き渡り、聞くも無惨の有様なり」とある。

同姓同名の人物がいたのかも知れない。71歳没。

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二代目 河原崎権十郎 ( にだいめ かわらざき - ごんじゅうろう、1880年 ( 明治 13年 ) 8月 6日 - 1955年 ( 昭和 30年 ) 1月 11日 )

歌舞伎役者。

本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。


日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。

九代目市川團十郎門人となり、明治 18年  ( 1885 ) 市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。

その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。

明治 38年 ( 1905 ) 大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。


大阪での修業ののち帰京、大正 8年 ( 1919 ) 4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。

浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』 ( め組の喧嘩 ) の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。

それが縁で羽左衛門や六代目尾上菊五郎に目をかけられ大劇場に脇役で出演。

晩年は菊五郎劇団に加わり老役や大阪での修業を活かした丸本物によい味を出した。

三代目河原崎権三郎は長男。三代目河原崎権十郎は次男。


主な出演映画

残菊物語  松竹京都  ... 五代目菊五郎 1939. 10. 10 

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淡島 椿岳(あわしま ちんがく、1823年文政6年)7月 - 1889年明治22年)9月21日)は、幕末から明治初期の画家小林椿岳の名でも知られる。1824年(文政7年)2月8日生まれともいわれる。 明治時代作家画家・蒐集家の淡島寒月は椿岳の実子である。親子揃ってマルチな趣味人・独自の方向性を持った自由人として知られた。また、幕末の大富豪・伊藤八兵衛は椿岳の実兄である。

略歴
椿岳は、武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、富裕な農家・内田善蔵の三男として生まれた。本姓は小林、後に淡島を称す[1]。幼名は米三郎。通称は城三。吉梵、南平堂と号す。幼少期より絵を好み、その才があった。


米三郎は長じると長兄と共に川越を発ち江戸に出て、蔵前札差・伊勢屋長兵衛の元で奉公する。「伊勢屋」は当代きっての幕府の御用商人で、長兄は伊勢屋一族の伊藤家の娘婿となり、伊藤八兵衛と改名する。これが幕末期に江戸一の大富豪に上り詰めた伊藤八兵衛である。後に渋沢栄一は八兵衛の元で商売を学び、八兵衛の次女・兼子は渋沢栄一の妻となった。また八兵衛の娘たちは皆、伯爵夫人となる。


如才ない三男の米三郎(椿岳)は、兄・八兵衛を良く助けたが、日本橋馬喰町の有名軽焼屋・「淡島屋」を営む豪商・服部喜兵衛の元に婿入りし、淡島屋の屋号から淡島姓を名乗る[2]。その後、生活に困らない米三郎は大枚を叩いて水戸藩御家人株を買って小林城三と改姓した。


絵の道に憧れていた城三(椿岳)は、蔵前で画塾を開いていた大西椿年大和絵を学び、師の一字をもらって椿岳と号する[3]。さらに谷文晁高久隆古に師事した。椿岳は日本画の形式に拘らず、洋画も川上冬崖高橋由一らの交流を通して学んだ。


1859年安政6年)に寒月が生まれるが、「妾160人」とも言われた椿岳の奔放な女道楽が続く。1870年明治3年)、愛人とともに浅草寺境内の伝法院に住む。椿岳の奇人・変人と称された伝説的な生活が始まる。椿岳は西洋画を購入し浅草寺で「西洋目鏡」と名づけた見世物小屋を開く[4]。料金2銭と安くしたため客が押しかけ、西郷隆盛も見学しに来るほどであった。椿岳は次に浅草寺境内の淡島堂に移り、頭を丸めてデタラメなお経をあげるにわか坊主になる。ここで泥絵による洋画風の風景画や風俗画を書き、これが評判を呼んだ。浅草絵の創始である。また鳥羽僧正鳥獣戯画の影響を受けて、独自の「椿岳漫画」を制作、漫画でも一家を成した。また、明治初期、牛込円福寺に大幅を描いている。


1884年明治17年)、椿岳は向島弘福寺門前に梵雲庵を建て移り住み、易者の真似事などをする。1889年明治22年)、一ヶ月放浪して帰宅した直後に梵雲庵で死去した。墓石には「吉梵法師」と刻まれた。

辞世の句は「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれは初めて

脚注
1. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、30p。
2. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、31p。
3. 
内田魯庵『思ひ出す人々』春秋社、1925年、185p。
4. 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、33p。

参考資料
山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)ISBN 4000029665

内田魯庵『思ひ出す人々』(春秋社、1925年)

外部リンク
淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド内田魯庵、「きのふけふ」博文館、1916(大正5)年3月
(wikiより)

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淡島椿岳

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安達 顕 ( あだち - けん / あだち - あきら )    
天保 9年 2月 ~ 大正 3年 9月 24日 ( 1838 - 1914 )


刑法草案審査局メンバー。

従五位。


幼名、鎌次郎のち文一郎。

父、名古屋藩士族安達成善 ( 和平 )( 長男 )。


尊皇攘夷の志をもって脱藩し、尾張藩家老・田宮如雲 ( たみや - じょうん ) に仕え京警護に赴き、公卿、諸藩名士間を周旋。


明治維新後は、広島県出仕、のち大蔵省を歴任。

 
明治 11年 3月 8日 ~ 明治 13年 2月 17日元老院 ( 立法をする所 ) 御用掛となり伊藤博文を長とした刑法草案審査局メンバーとなる。


実業界に転じ、東京博全会社社長・釧路炭鉱取締役。


明治 35年 ( 1902 ) 9月維新の功により従五位に叙す。77歳没。

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春いまださわがしからぬ空のいろに

        辛夷の花は白く咲きたり


                徳壽

橋本徳壽は明治二十七年 ( 1894 ) 神奈川県横浜市に生まれた。


短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。


昭和二年 ( 1927 ) 短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。


千樫亡き後は、青垣会を六十年間にわたり牽引すると共に、宮中歌会始の選者、明治記念綜合歌会の選者を務める等、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。


歌碑に刻まれた歌は、歌集『桃園』に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。


なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。


平成元年 ( 1989 ) 死去。
(案内板より)

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島村鼎甫 ( しまむら - ていほ ) / 島村紫軒    
天保元年 ~ 明治 14年 2月某日 ( 1830 - 1881 )


医家・洋学者。

名、鉉仲。通称、貞蔵、のち鼎甫。号、紫軒。


岡山出身。姓、平 ( のち島村家を継ぐ )。


若くして姫路の仁寿校で漢文を学ぶ。


大阪で後藤松陰に漢籍を、緒方洪庵に蘭医学を学ぶ。


嘉永 4年 ( 1851 ) 江戸で伊東玄朴に師事。

翌年適塾に入門。


わずか 1年で徳島藩侍医となる。


文久 2年 ( 1862 ) 幕府医学所教授。


明治元年 ( 1868 ) 新政府の医学校教授。


明治 2年 ( 1869 ) 文部大学少博士・東校教授。


明治 4年 ( 1871 ) 文部中教授。


明治 5年 ( 1872 ) 退官。


訳書:「生理発蒙」、「瘡痍新説」など。


兄に津下精斎 ( 1826 - 1899 ) がいる。

子に医学博士・島村俊一がいる。

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吉田悦子 ( よしだ - えつこ )     
嘉永 5年 ~ 大正 6年 8月 15日 ( 1852 - 1917 )


明治期の天才女性棋匠。

父、日太左衛門。


尾張国中島郡中島村 ( 愛知県 ) 出身。

父、太左衛門 ( 二女 )。


11歳で初段。

大垣藩士族戸田三弥の支援により、江戸で本因坊秀和の門に入る。


6年ののち累進し囲碁 4段となる。


慶応 3年 ( 1867 ) に帰郷。


大阪で、大久保・寺島・吉井諸公と対局。

ついで上京し、岩倉・徳大寺・西郷・後藤の諸公と対局。


碑文は、女性棋匠・吉田妙子撰文・菅原時保書。

吉田妙子墓は隣りにある。

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相島虚吼 ( あいしま / あいじま - きょこう )    
慶応 3年 12月 19日 ~ 昭和 10年 4月 4日 ( 1867 - 1935 )


ジャーナリスト・俳人。

本名、勘次郎。

茨城県筑波郡出身。


「大阪毎日新聞」記者・編集主任・副幹事・顧問。


のち国会に出、憲改擁護、閥族打破に活躍。


また従軍記者として帰国の際に同船した正岡子規と知りあい、俳句界に入る。

正岡子規・高浜虚子門の俳人だった。


昭和 5年 ( 1930 ) 引退し、「ほととぎす」の同人として亡くなるまで俳句を作り続け、大阪にて没する。69歳。


勲四等瑞宝章。

著書:「虚吼句集」。

辞世の句: 「大桜十日の春を全うす」。

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戸塚機知 ( とつか - みちとも )     
明治元年 ~ 明治 43年 7月 31日 ( 1868 - 1910 )


明治期の医師。

「征露丸」の考案者。

父、幕府医師・戸塚静甫。


細菌学研究でドイツに留学。

軍医学校教官。勲五等瑞宝章。2等軍医正。

従四位勲四等。43歳没。


※ 軍医学校教官 ( 3等軍医正 ) 時代に、腸チフス菌と大腸菌の分離培養中に、たまたまクレオソートを内服している者の便から培養した大腸菌が、腸チフス菌に対して普通の大腸菌より著しく制圧作用があることに気づき、2等軍医正の白岩六郎とクレオソート丸として戦地出征兵士に配られたという話があり、これが「征露丸」の原点とする説がある。

 
〇 正露丸
正露丸
(せいろがん)は、医薬品で日局木クレオソート(別名日局クレオソート)を主成分とした胃腸薬止瀉薬)である。旧称は『忠勇征露丸』または『征露丸』。『正露丸』(もしくは『セイロガン糖衣A』)は大幸薬品登録商標であるが、裁判で普通名称化したことが認められ、他社からも同様の製品(類似品)が多く販売されている。

概要
日局木クレオソート(にっきょく・もくクレオソート)を主成分とする一般用医薬品。製造するメーカーや製品によって、多少の配合の違いがある。


正露丸の名称は、大幸薬品の登録商標であるが、普通名称化したとの判決が1974年2008年の二度にわたり最高裁で確定しており、どの会社が「正露丸」を商品名として使用しても本商標権の効力は及ばず、権利侵害にはあたらない。よって、ラッパのマーク(大幸薬品の製造・販売)でない正露丸も多数存在する(和泉薬品工業富士薬品大阪医薬品工業常盤薬品工業[1]本草日本薬品製造キョクトウなど)。パッケージの色調・デザインは各メーカーともほぼ共通しており、多くはオレンジ色の箱で中央に赤字で「正露丸[2]」と縦書き[3]で名称の上に各メーカー独自のロゴマークが付いている[4]。胃腸薬、保険常備薬、整腸剤、止瀉薬など、品目カテゴリは各メーカーによって差異がある。

詳細は「#商標登録と審決取消請求事件」および「#不正競争行為差止等請求事件」を参照

大幸薬品の正露丸CMで使われているラッパ曲は、旧陸海軍で信号ラッパを用いて伝達用に吹奏されていた「喇叭(らっぱ)譜・食事」(通称・食事ラッパ)[5]。現在でも自衛隊で「喇叭譜」は用いられているが、CMで使用されている旧陸軍のものとはメロディが異なっている。なお、商標法の改正によって従来登録が不可能だった「音」についても商標登録が可能となったことから、2015年4月1日に大幸薬品はラッパ曲を商標登録出願し、2017年10月6日に登録された(第5985746号)。



性質
「効能」は以下の通りである。
1. 軟便下痢食あたり水あたりはき下し、くだり腹、消化不良による下痢[6]

2. おもにの調子を整える

3. 歯髄炎による虫歯の痛み[注釈 1][注釈 2][10]


なお、正露丸の主成分である木クレオソートは「アニサキスの活動を抑える効果」があるとして、大幸薬品が2014年に特許を取得しているが[11][12][13]薬機法上の効能としては認められていない[14]

詳しいことは「正露丸ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%9C%B2%E4%B8%B8
(wikiより)

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阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日1852年1月20日) - 大正3年(1914年8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。


浅野懋昭安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵

生涯
安芸広島藩第12代藩主・浅野長勲の実弟として生まれる。初名は浅野元次郎。戊辰戦争最中の慶応4年(1868年)、18歳で備後福山藩第9代藩主・阿部正方の養子となり、名を正桓と改め、5月20日に福山城へ入って家督を継ぐ。実際には、正方は前年末に死去しており、それを隠しての入嗣であった。そのため、正方の死は翌月6月になって公表された。なお、この強引ともいえる養子縁組は、新政府の福山藩存続を許す条件であったといわれる。


同年の福山藩は、年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城に始まり、伊予国松山への出兵、播磨国西宮の警護、大阪府天保山砲台の警護など新政府軍への対応に追われており、芸州藩(新政府)の半ば占領状態であったが、正桓も藩主就任直後の明治元年(1868年)9月に箱館戦争への出兵を命じられた。


度重なる兵力動員に藩財政は実質的に破産状態にあったが、元々は徳川譜代の重鎮であった負い目から新政府の要求を拒否することはできず、10月2日に総督・岡田伊衛門、参謀・江木鰐水以下696名がから船に乗り、函館(北海道)へと向かった(この戦いは明治2年(1869年)5月まで続いた)。


翌明治2年(1869年)2月、正桓は版籍奉還を願い出て、同年8月に福山藩知藩事(藩知事)に任命される。こうした中、正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して、従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め、人事も刷新した。


しかし明治4年(1871年)7月、廃藩置県により正桓は知藩事を罷免され、同時に東京府への上京を命じられることになった。そして同年9月に正桓が福山を出立しようとしたところ、この上京に反対した民衆が福山城下に集まり、一部が暴徒化して藩兵に鎮圧される事件が発生した。しかも騒動はこれで収まらず、藩内各地に飛び火して打ちこわしや放火が相次いで発生した。これに対し、正桓は自ら説得に当たるなどし、結局出発は11月まで延期されることになった。


東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に移り住んだ正桓は、明治17年(1884年伯爵に叙される。明治18年(1885年)9月、福山教育義会会長として旧藩校誠之館の維持に努める。


大正3年(1914年)、従二位に叙され、同年に死去した。享年64。


養子として旧姫路藩主酒井伯爵家に入った次男・忠正は、農林大臣などを歴任した。

栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[1]

1885年(明治18年)7月13日 - 勲四等旭日小綬章[2]

1900年(明治33年)6月20日 - 従三位[3]

妻子
・正室:寿子(1850年-1884年)(福山藩第7代藩主・阿部正弘六女、福井藩主・松平茂昭の養女)

・継室:篤子(1867年-1941年)(蓮池藩主・鍋島直紀女。華族女学校[4]愛国婦人会会長などを務めた[5]

    ・長女:貞子(1887年-1966年)-小笠原長幹

    ・長男:正直(1891年-1966年)

    ・次男:酒井忠正(1893年-1971年)

  ・養子:正義


養子の正義は、明治13年(1880年)に福井士族狛家から迎えた養子で、妻は先代阿部正方の妹・恪子。明治22年(1889年)に離縁し、分家の旧旗本阿部家の養子となった。

脚注
1. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
2. 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
3. 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
4. 阿部正直『華族家庭録. 昭和11年12月調』
5. 『国民年鑑』1817年、p400

外部リンク
福山城(福山城博物館)

備後歴史探訪倶楽部特別版「福山城」

福山誠之館同窓会
(wikiより)



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阿部正桓



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杵屋 勘五郎 ( きねや - かんごろう ) は、長唄三味線方の名跡。近世初期以来のもので 6代を数える。

( 文化 12年 ( 1815年 ) - 1877年 8月 7日 )


10代目杵屋六左衛門の子。

初代杵屋栄蔵、5代目杵屋三郎助を経て、文久元年 ( 1861年 ) 11代目六左衛門、慶応 4年 ( 1868年 ) 義弟に六左衛門を譲り 3代目勘五郎となる。

根津の勘五郎と呼ばれ、また稀音家照海、大薩摩節から正式に名が譲られた大薩摩絃太夫の名を兼名。

音曲の故事研究家でもあり、『大薩摩杵屋系図』『大倭三絃甲乙図』などを著した。

作曲に「紀州道成寺」「土蜘」「綱館」「橋弁慶」などがある。


住いから「根岸の勘五郎」と称された。


正式な大薩摩家元名は十二世大薩摩絃太夫藤原直光浄空。

従五位下杵太夫平正則を拝受。

別号を稀音家照海、風見庵。俳号は絃中庵吐一。著作は上記の外「囃子系図」「中村座囃子日記」「露の転文」がある。

墓地は谷中墓地甲 9号 1側 6にあり、山岡鉄舟書銘で「中村勘五郎墳墓」とある。

伝承されている曲 ⇒ 神園千代寿。四季花里。紅葉詣。枕慈童。紀州道成寺。( 外に秘曲道成寺がある )。喜。四季山姥。竹生島。土蜘 ( 上中下 )。王子みやげ。三曲松竹梅。福の神。日本七福神。 新小鍛冶 ( 根岸小鍛冶 )。見月。月下の鶴。羅生門。綱館。七騎落。朝比奈。橋弁慶。安宅新関。今様松廼寿。大望月。 宮比御神楽。朝顔。  ( 稀音家義丸補足 )

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浅井梅次郎 ( あさい - うめじろう )    
? ~ 明治 14年 2月 27日 ( ? - 1881 )


園芸家・菊人形師。

団子坂菊人形の祖。


団子坂 ( 文京区千駄木 3丁目 ) は、寛永寺法主輪王子宮とも懇意であった園芸家初代森田六三郎の家業の場があったところで、明治 9年 ( 1876 ) 頃、近隣の浅井梅次郎は森田六三郎 ( 三代目 ) を自宅に同居させていたことがある。


菊人形展は文化年間 ( 1804 - 1881 ) に巣鴨の染井で始まり、何回かのブームがあり、安政 3年 ( 1856 ) からは菊人形展の中心は団子坂に移った。


維新期に一時下火になったが明治 20年ころから再び盛んになったが、両国国技館ができ電気仕掛けや活動写真を併用するなど派手な菊人形が流行り、団子坂の菊人形展は明治 44年 ( 1911 ) で終了した。

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川勝広一 ( かわかつ - ひろかず )    
文政 11年 ~ 明治 8年 6月 29日 ( 1828 - 1875 )


東京府参事。

名、広一。号、縫伝助。


父、越前勝山城主小笠原長貴 ( 5男 )。


嘉永 4年 ( 1851 ) 幕府旗本川勝蓬仙の養子となる。


徳川家に仕え、目付役・勘定奉行・陸軍奉行・大目付・若年寄を歴任。

従五位丹波守、のち正六位。


明治 6年 ( 1873 ) 東京府参事、のち参事。


明治 5年 ( 1872 ) 9月 12日の新橋・横濱間鉄道開通式当日の状況を日本鉄道史には、下記のようにある ( お召列車の話しHPより )。


当日天皇直衣を召させられ、四頭の馬車に御乗午前 9時御出門あらせられ東京府知事代理権参事川勝広一騎馬にて先導し皇族、太政大臣、参議、各郷以下皆直衣にて供奉し陸軍諸兵路上に整列す、新橋鉄道館においては国旗を掲揚し山尾工部少輔、井上鉄道頭以下奉迎し館内に入御、勅任官、琉球公子、各国公使等に謁を賜ひ鉄道頭は鉄道図一巻を奉献す。・・・以下略

 川勝蓬仙 ( かわかつ - ほうせん ):江戸幕末の権臣、「蓬仙茶話 ( ほうせんちゃわ ) 」の著者。


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ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場 ( 池之端七軒町 ) のあった場所です。


昭和 30年代の都電全盛期の時代には、20系統 ( 江戸橋 ~ 須田町 )、37系統 ( 三田 ~ 千駄木二丁目 )、40系統 ( 神明町車庫前 ~ 銀座七丁目 ) と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和 42年 ( 1967年 ) 12月に 37、40系統が廃止、昭和 46年 ( 1971年 ) 3月には 20系統も廃止になり、池之端七軒町 ( 廃止時は池之端二丁目に改称 ) の停留場は姿を消しました。


平成 20年 3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。
(案内板より)


都電 7500形 ( 7506号車 )
ここに展示された都電は 7500形といわれる形式で、昭和 37年に製造された旧 7500形を車体更新したものです。


旧 7500形は昭和 59年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され現在の 7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。


この車両は、平成 20年 1月まで都電荒川線 ( 三ノ輪橋から早稲田 ) を走行し、平成 20年 2月 1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。
(案内板より)

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邇幣姫 ( にべひめ ) 神社


所在地 大田市三瓶町池田字浮布池中嶋


祭神 邇幣姫命 ( にべひめのみこと ) 多紀理昆賣命 狭依昆賣命 多岐都賣命


由緒
白鳳十三年 ( 684 ) 十月、大地震により 佐比賣山 ( 三瓶山の古名 ) の西崖崩れ落ち 忌部の里を埋めて浮布池が生まれた。


この時、三つの瓶が飛び出て、一は川合町に鎮座の石見一宮 物部神社地内に、二の瓶は この池の東部亀隠 ( かめかくれ ) に沈んだ。


それ以来、浮布池は池田を始め川合、吉永、行恒、稲用、延里、静間の集落の水田、数百ヘクタールを潤して日本海に 漕いでいる静間川の水源地となった。


流域の人々は、この池を霊池と敬い神徳を讃えて亀隠 ( かめがくれ ) の小丘、古宮郷 ( ふるみやごう ) に邇幣姫 ( にべひめ = 二幣姫 ) 神社を創建した。


宝亀五年 ( 774 ) には現在地の中ノ嶋に移し延喜式内社に列せられた。


降って承応四年 ( 1655 ) 当地方の領主・加藤内蔵之助は 社殿を再建し神田を寄付して自筆「霊池」の扁額を献納した。


天和二年 ( 1662 ) 加藤氏は近江国水口へ天封となり、天領石見銀山領に編入されたが、歴代・大森代官の崇敬篤くしばしば参詣したと伝えられている。


明治五年 ( 1872 ) 二月、石見地方を襲った大地震により 本殿を始め幣殿、拝殿などが大破むした為、大森大区役所願出て邇摩、安濃両郡の村々の寄進を受け、明治十一年 ( 1878 ) 現在の社殿を再建した。


社は、いつの頃からか市杵島姫命、竜神の二柱の神を合祀して浮布弁財天社とも称え、五穀豊穣、病害虫退散の社として年四度の祭礼には 近郷からの参詣で賑わった。


また旱ばつの年には流域の村々から「池落とし」と言って手に手に鍬を携えて集まり、長雨続き洪水等の時には「水留祭」と称えて参詣祈願したという。


浮布池は、初夏の頃、朝夕のひと時、中の嶋より一ノ鳥居沖まで幅二メートル余りの水面が、あたかも白布を浮かべたように見えるところから 名付けたとつたえられている。


『 麻訶津日能加勢波婦久土母宇岐奴乃遠 ( まかつひのかぜはふくともうきぬのを )
 
  左良勢流美都仁須女留津喜可計 ( さらせるみづにすめるつきかげ )
(読人知らず)

 
君かため浮沼 ( ぬ ) の池の菱つむと

 わが染めし紬濡れにけるかも
 
柿本人麿 ( 万葉集巻七 )
(案内板より)

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この「鬱金 ( うこん ) 桜」は別名「浅黄 ( あさき ) 桜」とも呼ばれており、花の開花はソメイヨシノより二週間程度遅く、四月中旬ごろに淡黄緑色の八重の花が楽しめます。


旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、二代目歌川広重が描いた「江戸名勝図会 天王寺」のなかで「谷中天王寺・・・中略・・・境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の名木あり」と評され、江戸庶民に愛されていました。


浅黄桜は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、第九回谷中花のフェスティバルを機に、この鬱金桜を植樹したものです。
(案内板より)

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足立八蔵 ( あだち - はちぞう ) / 安立正声 ( あだち - まさな )    
天保 12年 9月 22日 ~ 明治 40年 4月 19日 ( 1841 - 1907 )


明治期の宮内省書記官・掃苔家。

本名、足立正声。字、興卿。通称、八蔵。号、老狸・碌碌山・天瀑・楽石山人。


父、因幡鳥取藩士足立中和(二男)。

鳥取県出身。

鳥取藩士。男爵。


文久元年 ( 1861 ) 大西正虎と共に江戸で芳野金陵に師事。


文久 2年 ( 1862 ) 鳥取藩国事周旋方。


尊王の志を抱き、王事に奔走、京都本圀寺の重臣暗殺事件に参加。


文久 3年 ( 1863 ) 「鳥取 20士事件」に連座し、鳥取荒尾家に幽閉されるが、慶応 2年 ( 1866 ) 幽閉中同志と共に脱出、長門に行き山口明ロ倫館で兵学を修める。


のち大村益次郎に西洋軍学を学ぶ。

新国隊副督。


明治 3年 ( 1870 ) 伊那・浜田両県大参事。


京都在謹の折、海江田弾正大忠の不在に乗じて大村益次郎暗殺犯人薩摩藩某を四条河原で斬首の刑に処して官を免ぜられる。


明治 7年 ( 1874 ) ころ教部省7等に出仕。


明治 8年 ( 1875 ) 教部少丞。


明治 10年 ( 1877 ) 内務少書記官に還り寺社局長。


明治 11年 ( 1878 ) 宮内権少書記官。


明治 15年 ( 1882 ) 宮内権大書記官となり、狩猟官頭兼諸陵頭。


明治 21年 ( 1888 ) 宮内書記官となり東宮亮。

など歴任。

明治 39年 ( 1906 ) 男爵。


画人だが考古学にも興味を持っていた蓑虫山人 ( みのむしさんじん:土岐源吾:1836 - 1900 ) とも親交があり、古墳の発掘を共にした。

正四位勲三等。67歳没。

著書:「剥蘓集」、「礫室遺草」、「桜花集」。

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足立美堅 ( あだち - よしかた )     
明治 7年 11月 12日 ~ 明治 37年 11月 28日 ( 1874 - 1904 )


農学士。

号、水石。

父、足立正声(長男)。母、大谷氏。継母波多野氏。

東京出身。


小中高等学校から帝国大学?農科に進み、農学士となる。

三重県農会講師。


明治 35年 ( 1902 ) 兵役のため近衛歩兵第1連隊入営。


明治 37年 ( 1904 ) 出征し、203高地第4回総攻撃に際し、中隊長代理を勤めて突撃し、砲創を受け誠京野戦病院にて死亡。


第 1師団後備歩兵第 15連隊第 4中隊第 2小隊長。


正三位勲五等功五級金鶏勲章。31歳没。

著書:「農業補習読本」、「小学農業教科書」、「水産教科書」。


 墓碑周りには、三島毅撰文・日下部東作書の略歴がある。

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若柳 壽童、または寿童(わかやぎ じゅどう)は、日本舞踊若柳流名跡の一つである。若柳流の流祖である初世宗家若柳吉松が1905年(明治38年)に名乗った名前に由来する。

初生
初世壽童(1845年7月27日弘化2年6月23日) - 1917年7月22日)は、本名は若林勇吉(わかばやし ゆうきち)と言い、12歳で花柳流初世花柳壽輔の弟子となり、15歳で壽輔の幼名である芳松の名を与えられ花柳芳松(はなやぎ よしまつ)となる。

壽輔と共同で多くの振付に携わり、また3代目花柳芳次郎と共に中村座の振付を担うなど花柳流の高弟に数えられていたが、壽輔との間で意見の相違が生じ1893年に破門される。

その後若柳吉松(わかやぎ きちまつ)と改名し若柳流を創流すると、舞台の振付から離れ花柳界に勢力を求め、柳橋花街を中心に地盤を築いた。1905年に、還暦を機にで壽童と改名した。


墓所は谷中霊園。かつては浅草妙音寺にあったが戦争の空襲で焼失。

戒名は「園林院壽童日宝居士」。
(wikiより)

 子の市太郎に継ぐ意思がなく、高弟若柳吉蔵に家元を継がせた。

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渡部 朔 ( わたなべ - さく )     
文久 2年 ~ 昭和 5年 3月 11日 ( 1862 - 1930 )


東京府会議員。

父、渡部温(長男)。


明治 13年 ( 1880 ) 内務省感農局に入る。

ついで農務省に異動。


明治 22年 ( 1889 ) 農務省技師補となりドイツに渡る。


明治 24年 ( 1891 ) 帰国し、農務省技師。


明治 26年 ( 1893 ) 農事試験場技師兼務。


明治 29年 ( 1896 ) 貿易品陳列館商議委員。


明治 32年 ( 1899 ) 実業界に転身。


日本塗料社長。


亜細亜護謨・日本電気黒煙取締役。


東京カーボン・東京瓦斯・東京製鋼各監査役。


東京府議会議員。

従六位。69歳没。


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渡部 温(わたなべ おん、天保8年6月20日1837年7月22日) - 明治31年(1898年8月7日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本英学者教育者実業家。旧名一郎。姓は渡辺とも表記される[5]

経歴・人物
幕臣で漢学者の渡部重三郎の子として江戸に生まれた。銈一郎と名づけられたが、元服時に一郎と改めた。幕臣の父の転勤に従って長崎下田に住み、洋学を学んだ[6]。幕府の洋書調所(後に開成所)で英語を教え、大政奉還の後は幕臣を中心として開かれ、西周を頭取(校長)とする沼津兵学校の教授となった(この頃までは旧名「一郎」を用い、維新後に「温」を名乗る)。


廃藩置県
後に東京に戻り、新政府に出仕、大蔵省などを経て東京外国語学校校長などを務めた後、漢学の世界に戻って「康煕字典」の校訂をほとんど独力で成し遂げた。


その後、実業界に転じ、渋沢栄一等と共に東京製綱株式会社の設立に参画、同社の初代社長となる。また東京瓦斯(都市ガス普及以前の時代であるが、ガス灯の需要が大きかった)や横浜船渠の開業にも関係している。


生涯に一度も欧米の土を踏んだことがないにもかかわらず、その語学力は群を抜いており、多くの分野での翻訳実績を作った。地学、軍事、経済(アダム・スミスに最初に言及した一人と言われる)などの多方面に及んでいるが、もっとも知られているのが、イソップ物語を翻訳した「通俗伊蘇普物語」であり、これがベストセラーとなり、修身の教育にも採り上げられたために、「イソップで蔵が建った」と噂されるほどの財を築いた。

多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈
・明治初年の実質4年足らずの短期間であったが、渡部温は沼津兵学校の教授として幕臣人脈の中心にいた。この時、彼は妻の貞(旧姓・成澤)の一家を沼津に呼び寄せ、自邸に住まわせて、自らの長男、朔と併せて学問の手ほどきをした。沼津に帯同したのは、貞の父、成澤良作(知恒、元幕府の工兵指図役)、良作の長男(貞の弟)の成澤知行(甚平)(成沢知行)、その弟の鋠(しん)(後の山口鋠)であった。


・年長の知行(甚平、1848-1929 維新時20歳)は慶應年間に柳河春三の「中外新聞」のスタッフの一人として活動した後、沼津兵学校に学び、後に陸軍中佐となった。


・児童であった渡部朔は兵学校の付属小学校に学び、まず農芸化学者としてドイツ留学、お雇い外国人マックス・フェスカの「肥培論」を翻訳の傍ら欧州の農協・信用組合の金融機能(ライファイゼン型)に注目し、政府への提言なども行なうが、後に父を継いで東京瓦斯の役員となり、資産家として名高い。


・最年少の鋠は沼津時代は学齢以前だったが、後に東京外国語学校(フランス語)から陸軍士官学校陸軍戸山学校に学び、陸軍少佐。養子に出たため姓が「山口」となる。1902年の「八甲田雪中行軍遭難事件」の大隊長として責任を問われた「山口少佐」とは、この山口鋠のことである。


・渡部・成澤両家が東京に戻った後に生れた温の次男、渡部康三は、東京音楽学校に学び、1901年3月の、瀧廉太郎留学の送別演奏会で、当日唯一人の管楽器奏者としてコルネットを演奏した。また1903年にケーベル博士らの指導で行なわれた日本人最初のオペラ公演、グルック作曲「オルフェウス」の実現を、主に裏方から支えた。この上演の費用は、実際にはほとんど渡部朔(温の没後、康三にとっては父親代りの存在)が出している。さらに台本の翻訳スタッフだった乙骨三郎は、渡部温の沼津での同僚、乙骨太郎乙の息子であり、二代にわたっての幕臣人脈のつながりが見られる。しかし康三は音楽家としては大成せず、後に造船業に転じている。なお卒業演奏でヴィクトル・ネスラーのオペラ「ゼッキンゲンの喇叭手」からの一部を採り上げているが、その全幕上演は2006年の瀧井敬子企画による山形県長井市まで実現されなかった。(→cf.瀧井敬子漱石が聴いたベートーヴェン中公新書1735)


・なお、渡部温の妻・貞の妹を通じての義兄弟に羽賀可伝前島密の助手として国際郵便制度に貢献するも夭折)、娘婿には高松豊吉(化学)、野坂嘗治(経済学・貿易論)などがいる。

著作
訳書
・『陸軍 士官必携』 無尽蔵、1867年(慶応3年・全10冊)

  Patrick Leonard MacDougall. The Theory of War. の翻訳。


・『通俗 伊蘇普物語』 渡部温、1873年4月巻之一-三 / 1873年12月巻之四-六

  Thomas James. Aesop's Fables, 1848. および George Fyler Townsend. Aesop's Fables, 1868. の抄訳。


・『改正増補 通俗伊蘇普物語』 渡部温、1888年12月


吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第十四巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1927年10月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第二十二巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1967年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十五巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4-535-04255-1


海後宗臣編纂 『日本教科書大系 近代編第一巻 修身(一)』 講談社、1961年11月


・谷川恵一解説 『通俗伊蘇普物語』 平凡社東洋文庫693〉、2001年9月、ISBN 4-582-80693-7

編書
・『標註 訂正康煕字典』 無尽蔵書房、1887年4月(全17冊)
  ・『標註訂正 康煕字典』 講談社、1977年11月、ISBN 4061210335
・『康煕字典考異正誤』 渡部温、1887年9月(上下巻)
  ・『康煕字典考異正誤』 井田書店、1943年7月

詳しいことは「渡部 温ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%B8%A9
(wikiより)

1439  渡部温


渡部 温

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吉田昭彦 ( よしだ - あきひこ ) 
昭和 5年 ~ 昭和 57年 9月 4日 ( 1930 - 1982 )


明治生命保険取締役。

「明徳院殿昭雲亮道居士」。

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吉田 貢 ( よしだ - みつぐ )
明治 32年 ~ 昭和 18年 4月 3日 ( 1899 - 1943 )


東京帝国大学助教。

父、伊予田実 ( 三男 )。

吉田義輝の養子。

埼玉県出身。

文部省技師。


建築家勤務兼東大営繕課勤務を経て、東京帝国大学助教。


正五位勲五等。

45歳没。「謙徳院殿文堂宗貢居士」。

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吉田義輝 ( よしだ - よしてる )
明治 7年 ~ 昭和 18年 12月 22日 ( 1874 - 1943 )


富国徴兵保険社長。

山形県出身。


明治 31年 ( 1898 ) 第一徴兵保険に入社し、のち東京支店長。


太平生命保険専務。


東京湾汽船取締役。


理研特殊鉄鋼監査。


日本殖産興業・南海鉄道・寿重工業・精養軒各取締役。


関東瓦斯・松竹映画都市・日本蒸留工業各監査役。


朝鮮機械製作所・横山工業各相談役。

70歳没。「富国院殿一水道輝居士」。

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古屋周斎 ( ふるや - しゅうさい )
享和 3年? ~ 明治 12年 1月 11日 ( 1803? - 1879 ) ・・・1801説あるも墓碑の享年は 77歳。


江戸後期明治初期の漢学者・神職。

名、保真。字、継志。通称、権之晋。

父、古屋蜂城 ( ほうじょう )。


甲斐東八代郡一宮村 ( 山梨県 ) 出身。


幼少にして播磨に遊学。


帰郷して一宮神官となり、丹宮と称す。


明治 5年 ( 1872 ) 国幣中社甲斐浅間神社の禰宜兼権少講義となる。


傍ら、父の「蜂城塾」を継ぎ、子弟を集め、筆蹟および句読を教授し、生徒は 3000人にも及んだという。


学制発布後、家塾を廃し東京に移る。


学制発布後家塾を廃し上京。


説文 ( せつもん ) を研究、「玉篇」および「文選字引」を訂正した。


書は最も篆書を得意とした。77歳没。

著書:「画引説文」、「六書備覧」。

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十寸見 河東 ( ますみ - かとう ) は、河東節の家元の名跡。

現在は長らく途絶えていて十寸見会が名跡の管理を行なっている。


11代目 十寸見 河東
( 天保 12年 ( 1841年 ) - 大正 8年 ( 1919年 ) 4月 11日 ) 本名は伊藤秀二郎。

幼名は九十郎。


9代目河東の子。

山彦秀示、4代目山彦源四郎を経て 11代目河東を襲名。

後隠居し山彦秀翁を名乗る。

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