本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2020/06

三好汝圭 ( みよし - にょけい? )    
明和 2年 ~ 天保 13年 6月 18日 ( 1765 - 1842 )

南画家。

名、光久。字、偕蔵・太復。号、復庵・盤磚居士。

十河一存 ( そごう - かずまさ:1532 - 1561 ) の子孫。

父、修験師暁古十河民部少輔。

江戸出身。

深川大島町に住む。

撃剣・兵法を修めるために絵画を研究した。

風景画を得意とした。78歳没。

正面「三好汝圭翁墓」。「蓮葉院浄円汝圭居士」。

1823a

1823b

1823c



有元 利夫(ありもと としお、1946年9月23日 - 1985年2月24日)は、日本の画家。妻は日本画家、陶芸家の有元容子。

経歴
1946年 - 岡山県津山市疎開先)に生まれる。有元家は美作菅氏の末裔。


1953年 - 台東区立谷中小学校入学。在学中から油彩を始める。


1962年 - 駒込高等学校入学。絵の道を志す。


1969年 - 4浪の後東京芸術大学美術学部デザイン科入学。後の夫人・渡辺容子と出会う。


1972年 - 結婚。


1973年 - 電通に就職。デザイナーとして菓子箱や雑誌広告などを手がけつつ個展開催。


1976年 - 退社。東京芸大の非常勤講師に。


1978年 - 『花降る日』で安井賞特別賞。


1981年 - 『室内楽』で安井賞。


1983年 - 長男誕生。


1985年 - 肝臓癌で没した。墓は長久院墓地(東京都台東区谷中6-2-16)にある。

作家像
イタリアルネッサンス期のジョットピエロ・デラ・フランチェスカや、日本の古仏、「平家納経」などを敬愛し、それら「古典」や「様式」のもつ力強さに惹かれ、影響を受けた。生涯に制作したタブローは400点にみたない。それらは岩絵具や顔料を色材とし、アクリル、膠等の媒剤を用いて、ごく少数の例外を除きみなキャンバスに描かれている。女神を思わせる人物像をモチーフとした作品がほとんどで、雲、花弁、トランプ、カーテン等をモチーフを彩る素材として好んだ。タブロー以外では、塑像や木彫、版画等の制作に意欲を見せ、水性絵具による素描も残している。またバロック音楽を好み、自身でリコーダーの演奏もした。わずかだが作曲も試みている。

業績と評価
卒業制作ではピエロ・デッラ・フランチェスカらの作品を引用しつつ独自のスタイルを探る連作を出品し、作品は大学買い上げとなった。若くして安井賞を受賞し、画壇に華々しく迎えられたが独自のペースで制作を続け、作風にも表立って大きな変化はない。初期には額も自分で制作していた。絵画のほかに素朴な木彫やブロンズも制作した。2001年から翌年にかけて回顧展「花降る時の彼方に」が開催された。

代表作
絵画
・こもりく (1975)

・花降る日 (1977)

・望郷 (1978)

・遥かなる日々 (1978)

・春 (1979)

・室内楽 (1980)

・厳格なカノン (1980)

・ポリフォニー (1982)

・音楽 (1982)

・出現 (1984)

出版物
・『有元利夫 女神たち』美術出版社 1981年

・『有元利夫作品集』美術出版社 1981年

・『THE WORKS OF TOSHIO ARIMOTO 1979-1984』弥生画廊 1984年

・『一千一秒物語』新潮社 1984年

・『有元利夫全作品 1973-1984』新潮社 1991年

関連項目
幻視芸術

幻想絵画
(wikiより)

1822a



藤堂高虎継室熊 / 松寿院 ( しょうじゅいん)
? ~ 慶安元年 9月 2日 ( ? - 1648 )


藤堂高次の母。

父、能登の豪族長連久。


関ヶ原の戦いでは西軍の人質となっていた。

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藤堂高重 ( とうどう - たかしげ ) / 宝樹院 ( ほうじゅいん )
?~ 寛永 8年 4月 10日 ( ? - 1631 )


父、藤堂高虎 ( 二男 )。

役職、佐兵衛佐。


寛永 2年 ( 1625 ) 5月徳川秀忠に拝謁。

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立原 道造(たちはら みちぞう、1914年大正3年)7月30日 - 1939年昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒立原杏所などがいる。学歴東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。

詩人
1914年(大正3年)、立原貞治郎、とめ夫妻の次男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。家系桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏一門 鹿島氏庶流 立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという。1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校・附属中学校)から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した[1]1931年(昭和6年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。翌1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。

一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった[2]。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。


1937年(昭和12年)、石本建築事務所[3]に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。1938年(昭和13年)11月、九州へ旅行するが、12月6日に長崎で発熱・喀血する。12月26日に東京市中野区江古田の市立療養所へ入院[4]1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したが、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。


詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄高木東六高田三郎別宮貞雄三善晃などが作曲している[5]

立原道造全集
最初の全集は、山本書店で1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)にかけ刊行。戦後は角川書店で3度刊行(1950-51年、1957-59年、1971-73年)。


決定版全集は、筑摩書房(全5巻 順に詩Ⅰ・詩Ⅱ・手記・建築図面・書簡)で、2006年(平成18年)より2010年(平成22年)にかけ刊行された。編集委員は中村稔安藤元雄宇佐美斉鈴木博之

立原道造記念館
1997年(平成9年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立された。記念館は、2011年2月20日に閉館。


2011年2月、信濃デッサン館内に「立原道造記念展示室」を新設。

ヒアシンスハウス
立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市別所沼公園に竣工された[6]

主な作品

・『優しき歌 I』『優しき歌 II』は、詩人の没後に複数人によって編纂されたもの。『I』は『II』の後に編まれたことに注意。


・『優しき歌 II』は角川書店から1947年に『優しき歌』として出版された。詩人の生前の構想を、中村真一郎の証言によって堀辰雄が復元したものである。『優しき歌 I』は、第三次角川書店版全集(1971-73年)にあたって復元されたものである。『II』の出版後に発見された立原のメモに基づいている。


筑摩書房版『立原道造全集』(全5巻)では、「立原の死の時点で彼の作品が残されていた状態をなるべく正確に再現するように」(第一巻、p.582)という目的から、2種の『優しき歌』は採用されていない。

『萱草に寄す』
「わすれぐさによす」と読む。

・SONATINE NO.1

 1. はじめてのものに

 2. またある夜に

 3. わかれる昼に

 4 のちのおもひに

・夏花の歌

 1. その一

 2. その二

・SONATINE NO.2

 1. 虹とひとと

 2. 夏の弔ひ

 3. 忘れてしまつて

『暁と夕の詩』

 1. I 或る風に寄せて

 2. II やがて秋‥‥

 3. III 小譚詩

 4. IV 眠りの誘ひ

 5. V 真冬の夜の雨に

 6. VI 失はれた夜に

 7. VII 溢れひたす闇に

 8. VIII 眠りのほとりに

 9. IX さまよひ

 10. X 朝やけ

『優しき歌 I』
・燕の歌

・うたふやうにゆつくりと‥‥薊の花のすきな子に
 1. I 憩らひ

 2. II 虹の輪

 3. III 窓下楽

 4. IV 薄 明

 5. V 民 謡
・鳥啼くときに

・甘たるく感傷的な歌ひとり林に‥‥


 1. I ひとり林に‥‥

 2. II 真冬のかたみに‥‥
・浅き春に寄せて

『優しき歌 II』
・序の歌

 1. I 爽やかな五月に

 2. II 落葉林で

 3. III さびしき野辺

 4. IV 夢のあと

 5. V また落葉林で

 6. VI 朝に

 7. VII また昼に

 8. VIII 午後に

 9. IX 樹木の影に

 10. X 夢見たものは……

備考
・立原道造が生前、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)時代に東京市電(現在の東京都電車)の切符収集の趣味を持っており、自らコレクションした東京市電切符3,000枚が現存している。その切符などが「立原道造記念館」で、2010年3月から9月までの特別展覧会にて一般公開された[7]


・立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を堀辰雄が執筆している[8]


関連人物
・立原蘭渓

立原翠軒

立原杏所

立原朴次郎

・水戸部アサイ

津村信夫

杉浦明平

寺田透

生田勉   


脚註
1.  神保光太郎「立原道造の生涯ー覚え書として」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))
2. 『立原道造と生田勉―建築へのメッセージ』 立原道造記念館(1998年3月)
3. 岸田日出刀「立原道造君のことども」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))によれば、石本より「設計の堪能な人」を求められ、岸田が立原を推薦した。
4. 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)142頁
5. 『国文学解釈と鑑賞』別冊立原道造特集(2001年5月)掲載「立原道造の詩による作曲一覧」
6. ヒアシンスハウス ヒアシンスハウスの会
7. 夭逝の詩人・立原道造 元祖“乙女系男子”は元祖鉄道オタク!? 産経新聞 2010年5月12日閲覧
8. 『新潮日本文学アルバム17 堀辰雄』(新潮社、1984年)

外部リンク
立原 道造:作家別作品リスト青空文庫

立原道造記念館

日本詩人愛唱歌集-立原道造 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
(wikiより)


1819  立原道造

立原道造

1819a

1819b

1819c



日下 誠 ( くさか - まこと )
( 1764 - 1839 )

江戸時代後期の和算家。


明和元年生まれ。

江戸の人。


寛永寺の寺侍。


安島直円 ( あじま - なおのぶ ) に関流を学ぶ。


麻布 ( あざぶ ) 日窪 ( ひがくぼ ) に家塾を開いて、内田五観 ( いつみ )、長谷川寛らの和算家を育てた。


天保 ( てんぽう ) 10年 6月 3日死去。76歳。


通称は貞八郎。号は五瀬 ( ごらい )。初名は鈴木誠政。

1818a

1818b

1818c



菱田縫子 ( ひしだ - ぬいこ ) 
( 1750 - 1801 )

江戸時代中期 - 後期の歌人。


寛延 3年 11月 14日生まれ。


荷田蒼生子 ( かだの - たみこ ) に学ぶ。


蒼生子の遺著「杉のしつ枝」を編集。


加藤千蔭らと親交をむすんだ。


享和元年 5月 16日死去。52歳。

江戸出身。

本姓は河合。

1817a

1817b

1817c



向井勝幸 ( むかい - かつゆき )    
万延元年 10月 24日 ~ 明治 40年 5月 8日 ( 1860 - 1907)

彫金家。

通称、繁太郎。

東京千駄木出身。

高田馬場に住む。

17歳で海野勝珉 ( うんの - しょうみん ) に師事。

明治 23年 ( 1890 ) 東京美術学校設立時に助手となる。

明治 27年 ( 1894 ) 大婚祝賀のための逓信省献上の花瓶・明治 33年 ( 1900 ) 東宮御慶事の際、衆議院献上の鉄形花瓶等を作る。

明治 39年 ( 1906 ) 東京美術学校教授。

その他、多くの作品に好評を得る。48歳没。

1816a

1816b



小絲 源太郞(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎1887年明治20年)7月13日 - 1978年昭和53年)2月6日)は、洋画家版画家東京府東京市下谷区(現東京都台東区)生まれ。

経歴
小絲源四郎、はなの長男として東京市下谷区上野元黒門町20番地に生まれる。生家は料理屋で、「揚げ出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業した年に、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ[1]


1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。1933年(昭和8年)帝室審査員、木版画を岡田清次郎の彫り、西村熊吉の摺りにより発表する。

金沢美術工芸大学
教授、東京芸術大学教授を務めた。当初は、印象派に影響を受けた画風であったが、大正末年には写実的で穏健な画風となり、明快で強い画風に変えてから、評価されるようになった。晩年には簡潔な形態と色彩のはっきりした画面によって独自の画風を作った。1954年(昭和29年)、日本芸術院賞受賞、1959年(昭和34年)、日本芸術院会員。1961年(昭和36年)、日展常務理事。1965年(昭和40年)、文化勲章受章(同日文化功労者)。同年の第16回NHK紅白歌合戦で審査員の一人を務めた。作品に「春雪」、「冬の虹」等。

作品
・「不忍の富士」 木版画 1933年 岡田清次郎彫り、西村熊吉摺り

画集
・『小糸源太郎画集』 美術工芸会、1935年

・日本現代画家選『小糸源太郎』 美術出版社、1957年

・『小糸源太郎作品集』 美術出版社、1965年

・『小糸源太郎』 三彩社、1971年

・『現代日本の美術 7 岡田三郎助・小糸源太郎』 集英社、1975年

展覧会
・「小絲源太郎展」 東急百貨店、1976年

・「小糸源太郎展 油彩で描く日本の『いき』」 西武美術館、1988年

脚注
1. 伊藤道人・編『美術特集・米寿を迎えた小絲源太郎』アサヒグラフ別冊1975年秋、1975年、98p。

参考文献
町田市立国際版画美術館編 『浮世絵モダーン 深水・五葉・巴水…伝統木版画の隆盛』 町田市立国際版画美術館、2005年
(wikiより)

1815a

1815b



塩田 三郎(しおだ さぶろう、天保14年11月6日1843年12月26日) - 明治22年(1889年5月12日[1])は、日本の武士外交官。本名は篤信。号は松雲。 

来歴
塩田順庵の三男として江戸に生まれ、宮川氏に養子に出される。箱館奉行栗本鋤雲に漢学、メルメ・カションに英仏両語を習う。幕府の通弁御用となり文久3年(1863年)には遣仏横浜鎖港談判使節団に随行と共に、兄が病没したため塩田氏に戻る。2年後、再び英仏に渡る。元治2年(1865年)に幕府が横浜仏語伝習所を設立すると、実質的な校長であったカションからの依頼で助手を務めた。慶応3年(1867年)に外国奉行支配組頭に進む。維新後、民部省に出仕した後外務省に出仕し、明治6年(1873年)に外務大丞。その後、外務少輔になり、井上馨外務卿の条約改正交渉を補佐する。同18年(1885年)に清国への特命全権公使として従三位勲二等、旭日重光章を賜り清国に駐在するが、同22年(1889年)、北京にて死去。享年47。

官歴
・明治3年4月17日 - 民部省出仕[1]

  ・6月23日 - 任 民部権少丞。補 鉄道御用専務[1]

  ・8月20日 - 任 外務権少丞[1]

  ・9月13日 - ヨーロッパ出張[1]

  ・閏10月2日 - 任 外務権大記。鮫島少弁務使と共にイギリス、フランス、ドイツ北部聯邦に出張し、書記翻譚の事務取扱をする[1]


・明治4年6月5日 - 特例弁務使として電信会議のためローマへ出張[1]

  ・8月10日 - 任 外務大記[1]

  ・10月8日 - 特命全権大使欧米出張に付き、一等書記官として随行[1]


・明治5年10月14日 - 外務省中廃大少記[1]

  ・10月17日 - 外務省六等出仕、兼任 二等書記官[1]


1873年(明治6年)4月5日 - 帰国[1]

  ・4月14日 - 左局副長[1]

  ・5月18日 - 任 外務少丞[1]

  ・5月19日 - 秘書史 兼務[1]

  ・7月13日 - 外務省四等出仕[1]

  ・12月22日 - 任 外務大丞[1]


1874年(明治7年)6月24日 - 本局出仕[1]

  ・8月20日 - イギリス商民より日本政府に対する7件の訴訟裁判事務格別勉勤に付き其の賞として金参百円下賜[1]


1875年(明治8年)4月4日 - 電信御用に付き理事官としてロシアへ出張[1]

  ・4月19日 - ロシア出張に付き、純子二巻、白羽二重二疋を下賜される[1]


1876年(明治9年)1月5日 - 帰国[1]

  ・2月27日 - 汽船衝突事件臨時裁判所開廷に付き審判となる[1]

  ・12月18日 - アメリカ人バッチェルドル訴訟。大幸丸仲裁の一件において外務省答弁書に記名調印する[1]


1877年(明治10年)1月11日 - 廃官[1]

  ・1月23日 - 任 外務大書記官[1]

  ・6月6日 - 宗則 京都出張のため随行する[1]

  ・9月5日 - 翻譚局長兼本局掛[1]


1878年(明治11年)7月4日 - 大幸丸仲裁の一件格別勉勤に付き其の賞として金百円下賜[1]

  ・8月31日 - 千葉県へ出張[1]


1879年(明治12年)11月21日 - 条約改正取調掛 兼務[1]


1880年(明治13年)3月18日 - 外務省三等出仕[1]

  ・11月15日 - 取調局長[1]


1881年(明治14年)6月28日 - 農商工上等会員[1]

  ・10月21日 - 任 外務少輔[1]


1882年(明治15年)1月25日 - 条約改正予議会副委員[1]


1884年(明治17年)3月1日 - 任 参事院議官、三等官相当 年俸三千五百円下賜[1]

  ・3月2日 - 司法部勤務[1]

  ・4月21日 - 免 条約改正予議会副委員[1]

  ・4月25日 - 内務部勤務[1]

  ・5月13日 - 新潟県令及同県会具状、地方郵便費予算の件審理委員。新潟県令及同県会具状、町村土木補助費支出の件審理委員[1]

  ・5月24日 - 会社条例編纂委員[1]

  ・6月9日 - 制度取調局御用掛 兼勤[1]

  ・8月16日 - 法制部勤務[1]


1885年(明治18年)3月4日 - 破産法編纂委員[1]

  ・12月22日 - 廃官、任 特命全権公使[1]

  ・12月28日 - 清国北京在勤、内閣二等官相当 二等年俸下賜[1]


1886年(明治19年)3月16日 - 改交際官官制勅任一等[1]

  ・7月12日 - 下級年俸下賜[1]


1887年(明治20年)7月8日 - 帰国[1]

  ・11月9日 - 任地の清国へ戻る[1]


1889年(明治22年)5月11日 - 特旨を以位階被進[1]

  ・5月12日 - 清国にて薨去[1]

栄典・授章・授賞
・明治3年6月23日 - 正七位[1]

・明治4年12月9日 - 従六位[1]

1873年(明治6年)

  ・6月25日 - 正六位[1]

  ・11月15日 - 従五位[1][2]

1880年(明治13年)3月18日 - 正五位[1]

1886年(明治19年)

  ・7月8日 - 従四位[1][3]

  ・10月20日 - 従三位[1][4]

1889年(明治22年)5月11日 - 正三位[1][5]

勲章等
1882年(明治15年)8月8日 - 勲二等旭日重光章[1]

外国勲章佩用允許
1883年(明治16年)7月23日 - イタリア王国:イタリヤ勲章グランコルドーネ[1]

1884年(明治17年)2月23日 - スペイン王国:エザベラカトレーキ勲章グランドクロス[1][6]

1885年(明治18年)

  ・5月8日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第一等勲章[7]

  ・6月7日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章[1]

  ・5月11日 - ベルギー王国:レオポール勲章グランドフィシェ[1][8]

1886年(明治19年)2月10日 - 波斯国:獅子太陽第一等勲章[1][9]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo 『官報』第1760号「彙報 - 故塩田特命全権公使履歴」1889年5月15日。
2. 『太政官日誌』明治6年、第152号
3. 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
4. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
5. 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。
6. 『官報』第196号「賞勲叙任」1884年2月27日。
7. 『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。
8. 『官報』第557号「賞勲叙任」1885年5月13日。
9. 『官報』第781号「官庁事項」1886年2月12日。

関連項目
レオン・ロッシュ

メルメ・カション

栗本鋤雲

井上馨
(wikiより)


1814  塩田三郎

塩田三郎

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酒巻立兆 ( さかまき - りっちょう )
( 1791-1858 ) 

江戸時代後期の画家。
 
寛政 3年生まれ。


江戸下谷に住み「倹約重宝記」などの画を書いた。


安政 4年 12月 9日死去。67歳。下

野 ( しもつけ )( 栃木県 ) 出身。

字 ( あざな ) は天瑞。号は釣翁蓑、笠釣者。

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勝 承夫(かつ よしお、1902年明治35年)1月29日 - 1981年昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

来歴
旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。


また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船岡村二一岡本潤角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]


1927年(昭和2年)に東洋大学を卒業した後は報知新聞社に入社し記者となるも、1943年(昭和18年)には退社し、文筆活動に専念するようになる。


戦後は音楽教育活動にも参画し、日本音楽著作権協会会長を歴任。また、全国の小・中学校、高等学校の校歌の作詞を数多く手がけ、勝承夫が作詞し、平井康三郎が作曲したものが多くみられる。


1960年(昭和35年)と1975年(昭和50年)に学校法人東洋大学理事長に就任。


1953年(昭和28年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。

主な詩集
・『惑星』 1922年

・『風の微風』 1923年

・『白い馬』 1933年

・『航路』 1947年

・『勝承夫詩集』 1981年

主な作詞
故郷の人々 - フォスター作曲。

・歌の町

・海を渡る荒鷲

小ぎつね

・さんぽ

夜汽車

・そうだん

・密林進撃 1942年

・突撃喇叭鳴り渡る

・灯台守

・小鳥の旅 - 三善晃作曲。こどものための合唱曲集「光のとおりみち」所収。

・いつも心に - 長谷川良夫作曲。第19回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲。

・若い日の歌 - 石桁真礼生作曲。第20回同高等学校の部課題曲。

・ともだちの歌 - 高田三郎作曲。第26回同中学校の部課題曲。

校歌
東洋大学附属牛久中学校・高等学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

東洋大学附属姫路中学校・高等学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

千葉大学 校歌 - 平井康三郎作曲。

東京水産大学 校歌 - 下総皖一作曲。

東京工芸大学 校歌 - 平井康三郎作曲。

鎌倉学園 応援歌 - 小村三千三作曲。

江東区立数矢小学校 校歌 - 信時潔作曲。

葛飾区立道上小学校 校歌 - 芥川也寸志作曲。

葛飾区立二上小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

文京区立茗台中学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

宇都宮市立陽北中学校 校歌 - 石桁真礼生作曲。

・宇都宮市立星が丘中学校 校歌 - 下総皖一作曲。

越谷市立北中学校 校歌 - 宍戸睦郎作曲。

越谷市立中央中学校 校歌 - 宍戸睦郎作曲。

川島町立中山小学校 校歌 - 下総皖一作曲。

深谷市立藤沢小学校 校歌 - 下総皖一作曲。

川口市立根岸小学校 校歌 - 中田喜直作曲。

川越市立仙波小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

川越市立大塚小学校 校歌 - 小林秀雄作曲。

船橋市立船橋小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

船橋市立三咲小学校 校歌 - 小林三千三作曲。

松戸市立矢切小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

市川市立国府台小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

横浜市立菊名小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

横浜市立桜岡小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立山下小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立戸塚小学校 校歌 - 井上武士作曲。

横浜市立中山中学校校歌 - 小村三千三作曲。

・横浜市立西谷中学校校歌 - 井上武士作曲。

・横浜市立東高等学校校歌

平塚市立大野小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

平塚市立花水小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

長野市立三陽中学校 校歌 - 平井康三郎作曲。

長野市立櫻ヶ岡中学校 校歌 - 團伊玖磨作曲。

長野市立川中島中学校 校歌 - 團伊玖磨作曲。

上田市立豊殿小学校 校歌

・喜多方市立第三中学校 校歌 - 平井康三郎 作曲

・東京都立武蔵丘高等学校 校歌-安部孝明 作曲。

・紋別市立紋別小学校 校歌 - 下總皖一 作曲。

東京都立鷺宮高等学校 校歌‐平井康三郎作曲。

法政大学 学生歌(青春の烽火(のろし))‐平井康三郎作曲。

酒田南高等学校 校歌 - 中山晋平作曲。

・大津市立堅田中学校 校歌 - 下總皖一 作曲。

・足利市立坂西中学校 校歌 - 石桁 真礼生作曲。

・那珂川町立馬頭小学校 校歌 - 平井康三郎作曲。
(wikiより)

1812  勝承夫

勝 承夫

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杉山 和一(すぎやま わいち、慶長15年(1610年) - 元禄7年5月18日1694年6月10日))は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師検校であることから「杉山検校」とも称される。の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始するとともに、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。伯父は杉山四郎右衛門杉山左門。弟子に三島安一がいる。大正13年(1924年)に正五位追贈された。

略歴
津藩家臣、杉山重政の長男として誕生。幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し家を義弟である杉山重之に譲り江戸で検校、山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。


実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる(この話は江の島においては同地で起こった出来事と伝えられ、躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている)。その後、山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。


入江流を極めた和一は江戸で開業し大盛況となった。61歳で検校となり、72歳で将軍・徳川綱吉の鍼治振興令を受けて鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。綱吉との本所一つ目の話は有名である(#本所一つ目参照)。


和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織のひとつ)の再編にも力を入れた。

それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄2年(1689年)に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、綱吉から賜った本所一つ目の屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、これ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった。

視覚障害者教育施設開設年の比較

・日本:「杉山流鍼治導引稽古所」(江戸1680年前後)

・海外:アユイによる視覚障害者教育(パリ1784年


(世界初の聾学校:「ド=レペの聾学校」(パリ・1760年

杉山流鍼治導引稽古所
糀町(こうじまち)から道三河岸、鷹匠町の後、 元禄6年(1693年)から本所一つ目弁財天社内に開設された。この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した約1,900坪の土地の約半分で現在は江島杉山神社東京都墨田区)となっている。

ここでの教育は系統的になされており、学ぶ教科書や内用によって次の4段階にわかれていた。


・初期教育(~18歳位):


  按摩・鍼各3年(計6年)の基礎教育。杉山三部書(療治之大概集・選鍼三要集・医学節用集)が教科書。


・中期教育(~28歳位):


  現在の管鍼法の技術レベルまでの教育。杉山真伝流の表の巻が中心となる教科書。


・後期教育(~32歳位):


  杉山流鍼学を他人に伝授できるレベルまでの教育。杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻)を教科書とし、終了時には門人神文帳一冊が伝授された。


・最終教育(~50歳位):


  杉山真伝流秘伝一巻が伝授された。

江の島弁才天道標
杉山和一は元禄2年(1689年)頃、全部で48基の江の島弁才天道標を江の島道沿いに建てたといわれ、川柳にも詠まれている。全て高さ120 cm程度、幅・奥行き20cm程度と共通の規格を持った安山岩製の尖塔角柱型道標で、正面に弁才天種子である「सु(ソ)」と「恵乃之満遍(草書体)」、右面に「一切衆生」左面に「二世安樂」と彫られている。この種の石造物としては彫りが深い。これは、目の不自由な人のためといわれ、いかにも検校の建てたものらしい。開発による破壊や好事家による盗難に遭い、現在残るものは少ないが、藤沢市の江の島弁才天道標12基は昭和41年(1966年)1月17日に市指定重要文化財(建造物)に指定された。現存の江の島弁才天道標は次の通り。


・藤沢市西富1-4 遊行寺眞徳寺の庭内(上半部のみ。移設)

・藤沢市藤沢40先 国道467号神奈川県道306号藤沢停車場線分岐点

・藤沢市藤沢115先 藤沢市役所新館脇(藤沢市藤沢1丁目から移設)

・藤沢市藤沢115先 藤沢市役所新館脇(藤沢市辻堂2-15-11先から移設)

・藤沢市片瀬2-14 藤沢市立片瀬小学校南門脇

・藤沢市片瀬3-6-5先 密蔵寺の先三叉路。側面に「左ゑのし満遍」と彫られた庚申供養塔と並立

・藤沢市片瀬3-9-6 片瀬市民センター前(移設。藤沢市史第五巻には2基を掲載)

・藤沢市片瀬3-10-15先 「西行の戻り松」脇(「西行のもどり松」と裏面に刻む。本蓮寺前より移設。裏向きに設置)

・藤沢市片瀬海岸1-9-12先 州鼻通り旧なぎさ整備事務所前(170m南の地中から掘り出されたもの。頭部が一部欠落)

・藤沢市江の島2-3-8 江島神社辺津宮参道石段右脇の福石前(移設?)

・藤沢市藤沢2-4-7 白旗神社境内(移設。この他周辺に集められた庚申塔には「ゑのしまみち」と側面に彫られたもの2基あり)

・藤沢市鵠沼神明2-2-24 法照寺入口脇(藤沢市鵠沼神明1丁目から移設。いたずらにより「一切衆生」が「二切衆生」となる)

・藤沢市鵠沼海岸七丁目 民家の庭(藤沢市道鵠沼海岸線工事で破棄されそうだったものを保護移設)

・鎌倉市腰越864 鎌倉市腰越行政センター(腰越漁協付近から移設)

本所一つ目
杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答えた。綱吉は(本所一つ目)の方1町(約12,000平方メートル)を和一に与え、同地屋敷内には江ノ島弁財天の分霊を勧請した弁財天社が祀られた。 慶応2年(1866年)には和一が修行した江の島岩屋を模した岩窟も造られている。 戦後、杉山自身を祀る末社との合祀が行われ、同地に江島杉山神社として現存する。

墓所
弥勒寺:東京都指定旧跡となっている。

・藤沢市江の島江島神社下方、江の島市民の家裏手「西浦霊園墓地」にも笠塔婆型墓石がある。墓の前方左右にある灯篭は元禄13年に柳沢吉保室(正室)が寄進したものである。

参考文献
森銑三『新編 おらんだ正月』(岩波文庫

・藤沢市教育委員会 『藤沢の文化財(復刻版)』

関連項目
江の島

江の島道

江島杉山神社

江島三重塔 天保年間に杉山和一が建立。明治初年の神仏分離で破却されたという。

外部リンク
かつて江の島に三重塔がそびえ立っていた?記事内で杉山和一を紹介
(wikiより)


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勝海舟 九才の時 大怪我の際妙見山大士の御利生により九死に一生を得 ( 狂犬に睾丸を噛まれて 70日間 ( 50日間とも ) 生死の境をさまよっている (「夢酔独言」 )。

このとき父の小吉は水垢離 ( みずごり ) をして息子の回復を祈願した。

これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという。)

その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を煮永く後世に伝へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた
(案内板より)


1810  勝海舟

勝海舟

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西舘孤清 ( にしだて - こせい )
( 1829年 - 1892年 )


弘前藩の京都屋敷御用人


孤清の最大の功績は 1868年に鳥羽・伏見の戦いで勃発した戊辰戦争でのこと。


当時、弘前藩は官軍と幕府軍、どちらにつくかで意見が割れていた。


京にいた孤清は官軍の優勢を見てとり、それをいち早く国元に伝えようと腐心する。


官軍の勢いはすさまじく、戦火の拡大を恐れた孤清は陸路を断念し、5500両もの大金を投じて米国汽船をチャーター、海路で十三湊から津軽に入った。
 
孤清の情勢判断を踏まえた弘前藩は明治新政府の支持を決め、城は取り壊しを免れたという。


幕末の藩論統一に顕著な業績を残したことで 1988に江東区の史跡指定を受けている。


戊辰戦争で旧幕府軍についた藩は相次いで戦いに敗れ、降伏する。


仙台城、会津若松城、米沢城、長岡城、盛岡城など、どれだけの城が戊辰戦争で焼失、廃城したことか。


確かに孤清の功績は大きい。

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二代目 歌川豊国(にだいめ うたがわ とよくに、生没年不詳[1] )とは、江戸時代浮世絵師

来歴
初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎(文政11 - 12年)、一暎斎(文政11年頃以降)、後素亭(文政11年頃 - 天保5年)、満穂庵、また一龍斎と号す。文政の初め頃、初代豊国に入門し当初は国重(くにしげ)と称したという。

のちに豊重(とよしげ)と名を改め、豊国忰豊重とも称した。文政7年(1824年)以前には初代豊国の養子となり、初代の没後、翌文政8年に二代豊国を襲名する。しかしこの襲名について『名人忌辰録』は「同門不承知」であったと伝えており(「歌川豊国二世」の項、ただしこの豊国とは歌川国貞のこと)、また『狂歌人名辞書』も「一たび豊国の号を継ぎしが物議の為め再び元の国重に復す」とあり、豊重の豊国襲名が当時の歌川派の中で問題になっていたらしいことが伺える。ちなみに弘化元年(1844年)、兄弟子の国貞が豊国の名跡を継いでいるが、なぜか本来は三代目にあたるにもかかわらず、二代目豊国の存在を無視して自らを「二代豊国」と称した。


画業は忠実に師の画風を受け継ぎ、堅実な作風で合巻の挿絵や美人画、役者絵、芝居絵を描いた。文政11年(1828年)頃には本郷春木町に住んだことから、後に二代目歌川豊国を称した国貞と区別するため「本郷豊国」と呼ばれる。天保5年(1834年)頃を境に作品は見られなくなる。『名人忌辰録』によれば豊国襲名が「同門不承知」だったことからついに絵師を廃業し、本郷三丁目で陶器商を営んだという。門人に二代目歌川国重歌川国盛歌川国鶴がいる。

作品

合巻挿絵
・『傾城水滸伝』 ※曲亭馬琴作、文政8年 - 天保6年刊行。初編の挿絵を二代目豊国が担当

・『笹色猪口暦手』 ※柳亭種彦作、文政9年刊行

・『誂織八丈縮緬』 ※山東京山作、文政10年刊行

・『尾上松緑百物語』 ※三代目尾上菊五郎作、文政9年刊行

・『今昔虚実録』 ※桜川慈悲成作、文政14年刊行



錦絵
・「定助実ハ笹野権三・市川団十郎」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※文政8年正月、江戸中村座『御国入曽我中村』より。「豊国伜豊重画」の落款あり

・「稲の谷半兵衛・坂東三津五郎」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※「豊国伜豊重画」の落款あり

・「道具屋与兵衛実ハ田代孫三郎・三枡源之助」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※「一龍斎豊重画」の落款あり

・「名勝八景」 横大判8枚揃 国立国会図書館所蔵 ※天保5年頃

・「新製錦手猪口」 大判錦絵揃物 日本浮世絵博物館所蔵 ※文政7 - 8年

・「風流東姿十二支」 大判錦絵12枚揃

・「東名所 芝八景 増上寺晩鐘」 大判錦絵 東京都立図書館所蔵

・「新製姿見酒盃今様美人合」 大判錦絵 日本浮世絵博物館所蔵

・「こいな・岩井半四郎」 大判 日本浮世絵博物館所蔵

・「芸者立姿」 大判 日本浮世絵博物館所蔵

・「役者花合 坂東秀佳」(三代目坂東三津五郎) 大判 新藤茂所蔵

詳しいことは「二世・歌川豊国ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%9B%BD_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

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伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日元治元年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は日本歌人小説家。本名 幸次郎

経歴
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。


その後、現在の錦糸町駅前に牛舎を建てて乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始め、その傍ら1898年明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、島木赤彦斎藤茂吉古泉千樫中村憲吉土屋文明などを育成した[広報 1]


また、1905年(明治38年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌『求道』(求道発行所)に短歌を寄稿する。


1913年(大正2年)に脳溢血のため南葛飾郡大島町の仮寓で死去[1]。戒名は唯真居士。

人物
茶の湯
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。


一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。

その他
山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、1991年(平成3年)5月に完成した山武市伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像が建立された[2]。また、錦糸町駅南口、東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。

刊行著作
・『野菊の墓』俳書堂 1906

・『左千夫全集』全4巻 古泉幾太郎春陽堂 1920-21

・『左千夫歌集』斎藤茂吉,土屋文明岩波文庫 1928

・『左千夫歌論集』全3巻 斎藤茂吉,土屋文明編 岩波書店 1929-1931

・『左千夫歌論抄』斎藤茂吉,土屋文明編 岩波文庫 1931

・『伊藤左千夫選集』斎藤茂吉,土屋文明編 青磁社

 第1巻 (短歌篇) 1948

 第2巻 (歌論篇) 1949

 第3巻 (小説篇) 1949

・『隣の嫁』河出文庫 1956

・『隣の嫁・春の潮』角川文庫 1956

・『伊藤左千夫歌集』土屋文明編 角川文庫 1957

・『野菊の墓・隣の嫁・春の潮』講談社文庫 1971

・『左千夫全集』全9巻 岩波書店

 第1巻 (歌集) 1977

 第2‐4巻 (小説・紀行・小品) 1976‐77

 第5‐7巻 (歌論・随想) 1977

 第8巻 (雑纂) 1977

 第9巻 (書簡) 1977

・『新編左千夫歌集』土屋文明,山本英吉選 岩波文庫 1980

・『伊藤左千夫全短歌』土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986

・『左千夫全集』全9巻 土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986‐87

脚注
出典
1. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)34頁
2. “左千夫の記念公園完成 悲恋物語「野菊の墓」 政夫と民子の銅像も”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 28. (1991年5月12日)

 
広報資料
1. 歴史民俗資料館 伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

外部リンク
伊藤 左千夫:作家別作品リスト - 青空文庫

伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫ゆかりの地 - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫牧舎兼住居跡 - すみだ観光サイト

伊藤左千夫歌碑 | 浅間温泉観光協会
(wikiより)

99   伊藤左千夫

伊藤左千夫

1807a

1807b



市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説
当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈初代 市村宇左衛門

  ・泉州の人・村山又三郎、1605–52(座元 1636–52)。京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟。寛永11年 (1634) に江戸葺屋町に村山座の櫓をあげる。
  ・初代村山又三郎(=贈初代市村宇左衛門)


・贈二代目 市村宇左衛門

  ・贈初代の女婿・村田九郎右衛門、1622–52(座元 1652)。承応元年 (1652) に村山座の座元を継ぐとすぐにその興行権を売却、その後間もなく死去。

  ・村田九郎右衛門(=贈二代目市村宇左衛門 =贈初代市村九郎右衛門


三代目 市村宇左衛門

  ・上州の人、初代の門人、1628–86(座元 1652–64)。村山座の興行権を買い取りこれを市村座と改める。

  ・初代市村竹之丞 → 三代目市村宇左衛門


・贈四代目 市村宇左衛門

  ・三代目の甥で養子の二代目市村竹之丞、1654–1718(座元 1664−79)。延宝7年 (1679) 座元を弟に譲って出家

  ・二代目市村竹之丞(=贈四代目市村宇左衛門)


五代目 市村宇左衛門

  ・四代目の弟、????–1691(座元 1679–91年)。

  ・初代市村竹松 → 五代目市村宇左衛門


・贈六代目 市村宇左衛門

  ・五代目の子・二代目市川竹松、1680–86(座元 1685–86)。夭折。

  ・市村長太夫 → 二代目市川竹松(=贈六代目市村宇左衛門)


・贈七代目 市村宇左衛門

  ・五代目の女婿で六代目の義兄・三代目市村竹之丞、1681–98(座元 1687–98)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。

  ・三代目市村竹之丞(=贈七代目市村宇左衛門)


八代目 市村羽左衛門

  ・贈七代目の弟、1699–1762(座元 1703–62)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。寛延元年 (1748) 「宇左衛門」を「羽左衛門」と改める。

  ・四代目市村竹之丞 → 八代目市村宇左衛門 → 八代目市村羽左衛門


九代目 市村羽左衛門

  ・八代目の長男、1724–82(座元 1762–82)。

  ・市村満蔵 → 初代市村亀蔵 → 九代目市村羽左衛門


十代目 市村羽左衛門

  ・九代目の子、1748–99(座元 1788−93、98–99)。

  ・市村七十郎 → 二代目市村亀蔵 → 十代目市村羽左衛門 → 五代目市村家橘


十一代目 市村羽左衛門

  ・十代目の養子、1791–1819(座元 1800–16)。実父は親戚筋の四代目福地茂兵衛。

  ・初代市村萬次郎 → 十一代目市村羽左衛門


十二代目 市村羽左衛門

  ・十一代目の次男、1812–51(座元 1821–51)。

  ・市村豊松 → 市村亀之助 → 十二代目市村羽左衛門 → 五代目市村竹之丞


十三代目 市村羽左衛門

  ・十二代目の子、1844–1903(座元 1851–63)。母は三代目尾上菊五郎の次女。

  ・二代目市村九郎右衛門(=初代尾上九朗右衛門)→ 十三代目市村羽左衛門 → 八代目市村家橘 → 五代目尾上菊五郎


十四代目 市村羽左衛門

  ・十三代目の弟、1847–93(座元 1863–70、1871–72)。

  ・三代目市村竹松 → 十四代目市村羽左衛門 → 九代目市村家橘 → 十四代目市村羽左衛門 → 九代目市村家橘 → 初代坂東家橘


十五代目 市村羽左衛門

  ・十四代目の養子、1874–1945(座元 1900–08)。実父は明治政府の外交顧問をつとめたチャールズ・ルジャンドル、母は旧福井藩藩主松平慶永の庶子池田絲。

  ・坂東竹松 → 二代目坂東家橘 → 十代目市村家橘 → 十五代目市村羽左衛門


十六代目 市村羽左衛門

  ・十五代目の養子、1905–52。

  ・四代目市村竹松 → 十五代目市村家橘 → 十六代目市村羽左衛門


十七代目 市村羽左衛門

  ・十三代目の三男・六代目坂東彦三郎の子、1916–2001。

  ・三代目坂東亀三郎 → 七代目坂東彦三郎 → 七代目坂東薪水 → 十七代目市村羽左衛門
(wikiより)

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自性院には永享 7年  ( 1435 ) 3月 19日の宝筺印塔がある。


その高さは 60 ㎝ほどの小さいものであるが、 塔身には宝生如来、 阿弥陀如来、 不空成就如来、 阿閃如来の四仏の梵字が彫ってある。


台石には、 悦堂、 永享七乙卯、 三、 十九、 の十字が刻してある。

石材は秩父の青石を用いてある。


この名塔は江東区内において最古の遺物であるため、 両国の江東博物館にレプリカが置かれている。
 
江東区重要文化財。

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八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号菊屋俳名は可江。雅号橘中庵。


芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。


座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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奴長兵衛 ( やっこ - ちょうべえ )
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江戸時代後期の木工。

図案にたくみで、天保 ( てんぽう ) 5年 ( 1834 ) 「いろは絵様集」をあらわした。

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岸澤 式佐(きしざわ しきさ)は、常磐津節の三味線方の名跡。新字体:岸沢式佐。代々岸沢流家元を名乗る。

六代目・代目・岸沢式佐

天保4年(1833年) - 明治31年(1898年2月26日


5代目式佐の実子。実の弟が2代目岸澤竹遊斎。初代岸澤巳佐吉1859年に6代目式佐を襲名し家元を継承。

1892年
に5代目古式部を襲名。


父に次ぐ作曲の名手で多くの曲を残す。7代目常磐津小文字太夫(後の初代常磐津林中)の相三味線を勤める。


養子が7代目式佐。


作曲に「紅葉狩」「戻橋」等。
(wikiより)

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養育院は、明治五 ( 1872 ) 年十月十五日に創設された。


維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁 ( 忠寛 ) の諮問に対する営膳会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。


この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。


事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡 ( 現東京大学 ) の空長屋であった。


その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。


養育院設置運営の原資は、営膳会議所の共有金 ( 松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの ) である。


養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。


営膳会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。


明治十二年には初代養育院院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。


養育院は、鰥寡孤独 ( かんかこどく ) の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。


平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。


ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者、引き取りのない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。


明治六年中の埋葬者は百名と伝えられ、寺内の一角に義葬の冡がある。


この義葬之冡は養育院創立当初の唯一の遺構である。


なお、養育院物故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。


ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。


平成二十二 ( 2010 ) 年 四月
               養育院を語り継ぐ会


この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   大雄寺
(案内板より)  

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山科直治 ( やましな - なおはる )
( 1918 - 1997 )

昭和時代後期の経営者。


大正 7年 2月 22日生まれ。


日本電気冶金 ( やきん ) を経て昭和 21年玩具問屋の万代産業にはいる。


25年万代屋 ( 現バンダイ ) を設立し、28年社長。


30年わが国初の玩具の品質保証制度を打ちだす。


仮面ライダー人形、超合金シリーズなど男児向けのキャラクター玩具の製造販売で業績をのばした。


55年会長。


平成 9年 10月 28日死去。79歳。

石川県出身。

金沢商業卒。

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初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)、本名:花田 勝治(はなだ かつじ、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、青森県弘前市青女子(あおなご)出身で、入門当時は二所ノ関部屋1953年花籠部屋の独立とともに移籍)に所属した大相撲力士、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である[3](歴代史上最軽量は栃木山の103kg)[1]


引退後二子山部屋を創設し、弟である大関初代貴ノ花(のち藤島二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長も務めた[1]


第65代横綱・貴乃花一代年寄・貴乃花親方)と第66代横綱・3代若乃花(のち藤島、現実業家タレントの花田虎上)の二人は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門し、1989年3月初土俵。若剛志の四股名で幕下まで昇進した(1997年1月に引退)[4]。 

略歴

誕生から横綱昇進まで
青森のリンゴ園農家に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。しかし、1934年室戸台風のため作物が全滅、一家は破産状態で北海道室蘭に移住した[5]沖仲仕などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えていた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところを国民学校を卒業したばかりの花田は既に150kgもかついで何度も往復し、ついに仕事で担ぐ荷物の重さが200kgに達するなど後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。大人の倍は稼いだ一方で、鉱石の入っているタンクに落ちて「死んで行くのはこういう気持ちか」と思うこともあり、3000ボルトの電圧に触れて頭をハンマーで殴られたように吹っ飛ばされたこともあるなど、入門前から何度も生死の境をさまよう経験をしていた[6]


1946年大関佐賀ノ花二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。当時の花田は上背はあったものの体重は70kgぐらいと推定され、本職の力士を倒したとはいえ自分よりはるかに体格の良い人間にはかなわず、そのころの花田を草相撲で倒した経験のある人物の中には、復員してきたばかりでのちにJRA顕彰馬マルゼンスキーを生産し、元スピードスケート選手・参議院議員橋本聖子の実父でもある橋本善吉もいた[7]


とはいえ、本職の力士を倒したことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って上京し、杉並の真盛寺に間借りしていた二所ノ関部屋に大ノ海の内弟子として入門した。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。「若ノ花」の四股名は大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。


入門後は「二所一門の荒稽古」によって力を付けた。当時の部屋の幕内には、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦など分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた者が多く、稽古は本場所さながらの様子を呈していた[5]

入門直後に開催された双葉山の引退相撲を3階から見学すると、上から見た世紀の大横綱が意外に小さく見えて、小さい身体の自分でも努力すればやれるのではと奮起した[8]。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子の琴ヶ濱と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見つかり、夜逃げと勘違いされて目を付けられたからであるという[9]。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみ付き[5]廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう[10]。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。


後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若ノ花によく稽古をつけていた。


1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所に家族と約束した3年より約半年早く十両に昇進、二所ノ関一門の創始者である大師匠・玉錦の明け荷が贈られた[11]。この間、初めて番付に載った1947年5月場所で1度だけ負け越したが(2勝3敗)、その後は幕内上位に進出するまで負け越すことはなかった。


大兵相手にもがっぷり四つで対抗する力士であった[1]。下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し[1]を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。俵に足がかかってもそれ以上は後ろに下がらない足腰を指して「かかとに目がある」と評されたこともある[2]


この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。一説に力道山の脛に咬み付いた際の様子がオオカミのようだったからとも言う。後に「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。


1953年
、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見付からず、「日本一の貧乏部屋」と言われながら辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。

1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され、場所後に関脇松登と共に大関に昇進する[2]。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の目安で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者[12]に呼び止められたという逸話が残る。慌てて伝達式に駆けつけたことと当時昇進伝達式の口上が定型化していなかったことが重なって大関昇進伝達式では「ありがたくお受けします」とのみ発して推挙状を受けたという[13]。1955年11月には父が死去し、母に懇願されて室蘭の家族を引き取った。こうして室蘭の家族6人と自身の家族4人、合わせて10人の生活が新大関となった自身の肩にのしかかった[5]。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星を付けたのは若乃花である)。

翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦に出場。他の出場者は関脇・朝汐と東前頭15枚目・若羽黒で、これは昭和生まれで最初の幕内優勝を争う決定戦ともなった[14]。若ノ花は若羽黒には勝ったが朝汐に破れ、朝汐がそのまま若羽黒にも連勝して優勝を決めた。次の5月場所も12勝3敗で前頭9枚目・大晃とのこれも昭和生まれ同士となる決定戦を制して初優勝。朝汐に遅れること一場所で2人目の昭和生まれの幕内優勝力士になった。両国を離れて山の手に優勝旗が運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十万の見学者が集まったことで都電はストップ、 若ノ花を乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷の花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなった[15][16]


翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる[5]。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦[17]をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗[18])に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。先輩横綱の羽黒山は「若ノ花が立ち直れたのは全盛期の頂点にあったからこそであり、これがもし下り坂での出来事ならガタガタと落ちていった」という趣旨のコメントを残している[19]

同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。


1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後第45代横綱に推挙される。この1月場所直前に横綱審議委員会は横綱推薦の内規を定めていて、その適用第1号となった。一部委員からは反対も出たが、最終的に横審は横綱推薦の答申を出した。昭和生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱である[20]。昇進時の口上は「横綱として恥ずかしくない相撲を取ります」であった[21]


横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて、推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱が負け越せば引退のみである)[5]


若乃花は横綱推挙を受けることにしたが、問題があった。横綱は自分専用の三ツ揃え化粧廻しが新調されるまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが、二所ノ関一門からは玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の三つ揃いの化粧廻しは戦時中の空襲で焼けてしまって使用不能であるばかりか、困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。横綱昇進に際してどうしたら良いか判らずにいた若乃花を助けたのは、理事長の時津風[22]とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は自ら土俵入りの指導を引き受けてくれたばかりか、戦災で唯一焼けずに完全な形で残っていた自身の三ツ揃えの化粧廻しを貸し出すという計らいをしてくれた[23]

栃・若時代
栃錦清隆#横綱昇進と「栃若時代」」も参照


栃錦と若乃花の両者共に入門当初は親方衆から「十両から、せいぜい小結まで」と予想されるなど出世に対する期待は凡百のものであった。[24]のちのが入幕前から注目を集めたのに対して、栃若戦が角界を背負ってたつ看板カードになると予想した者は少なかった。1950年9月場所では栃錦が東前頭3枚目、若乃花が東4枚目と番付で並びながら取組が組まれなかった。それでも、1951年5月場所の初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。北の富士によると、栃若の取り組みを見たいがために30万円(2016年時点の貨幣価値で200万円に相当)でダフ屋からチケットを買った人がいるほどである[25]


初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。大関昇進、初優勝とも栃錦の休場で対戦のなかった場所で、優勝や昇進のかかる相撲で若乃花がはじめて栃錦に勝ったのは、横綱昇進を決めた1958年1月場所でのことだった。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年6場所となった1958年以降は毎場所のように2人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高く、これを上回るものはまだない(朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数いたことも含めて)と考える人も多い。


1958年7月場所千秋楽は栃錦と相星対決を行ったが、1909年6月場所の優勝額制度開始以降、横綱同士の千秋楽相星対決は史上初[26]。この一番は、立合いサッと左四つ、栃錦が先に右上手を取ってそのままがっぷり四つ。栃錦が吊り身に攻めたものの、若乃花は難なく残すと体を開き、左下手からひねりながらの強烈な右上手投げで若乃花の勝利[26]


1959年
5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。


1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。

この決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、すっかり緊張が解けて気分が楽になり、翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。[27]後日談として、この時の映画は、若乃花は「西部劇だった」と言い、栃錦は「ドイツ恋愛映画だった」と、証言が食い違っている。一説にはジョン・ウェインの『アラモ』だったのではないか[28]とされている。栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24。直接の対戦でも若乃花の15勝19敗だが、うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗であり、若乃花にはほかに決定戦での1勝があって、これらを踏まえると実質16勝18敗とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝4敗の成績が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。


しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関・朝汐と対戦。勝てば3連覇と(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝汐と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所で千秋楽に栃錦を本割・決定戦と連勝し逆転優勝となったのは、実は13日目に若乃花が朝汐に敗れて1敗となったからであるし、1960年3月場所の全勝対決も、朝汐が途中休場したことによって両者の対戦が千秋楽になったため[29]である。このように影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立っていたと見ることもできる。

詳しいことは「初代・若乃花幹士ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B9%83%E8%8A%B1%E5%B9%B9%E5%A3%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
(wikiより)

1798  若乃花幹士(初代)

初代・若乃花幹士

1798a

1798b

1798c




佐野静雄 ( さの - しずお )
( 1872 - 1925 ) 明治 - 大正時代の物理学者。


明治 5年生まれ。


海軍機関学校、陸軍砲工学校勤務をへて、明治 40年東京帝大教授となる。


数学、物理学の講座を担当した。


大正 14年 4月 4日死去。54歳。

帝国大学卒。

「泰光院殿静雄日敬居士」。

1797a

1797b



吉田徳太郎 ( よしだ - とくたろう )     
明治 24年? ~ 昭和 51年 12月 25日 ( 1891? - 1976 )

農学博士。

農林省蚕糸試験場で蚕の人工飼料での飼育を研究。

昭和 28年度 ( 1953 )「桑葉のエーテル可溶物に関する研究」で、蚕糸学賞受賞。

正四位勲四等。85歳没。

共同研究論文 ( 報告 ):「乾燥桑葉粉末を基本とする人工飼料による家蚕の飼育について」( 1960 )、「桑葉ならびに桑園土壌中の水分結合状態について」( 1960 )。

「讃善院昌徳日学居士」。

1796a

1796b



永井 尚服(ながい なおこと、1834年1月16日天保4年12月7日) - 1885年明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代。

経歴
陸奥福島藩板倉勝俊の七男。正室永井尚典の三女・鋭子。子は尚敏(長男)、娘(松平近道正室)。官位は従五位下、肥前守、伊豆守。維新後、正五位。爵位は子爵


嘉永
5年(1852年)7月、尚典の養嗣子となる。安政7年(1860年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に肥前守に改める。文久2年(1862年)10月2日、尚典から家督を譲られた。元治2年12月2日、講武所奉行に就任する。慶応2年6月15日寺社奉行奏者番に就任する。慶応3年(1867年)6月15日、若年寄と会計奉行を兼任する。


慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い勃発すると当初は旧幕府を支持した。そのため、1月28日に家老片岡左富らは新政府に対し、藩主尚服の隠居と養父尚典の再相続を願い出ている。2月6日、若年寄を解任される。2月11日、江戸から加納に戻る。2月21日、東山道先鋒総督府に対し、恭順を申し入れる。2月22日、謹慎を命じられるとともに新政府軍への藩兵の参加を命じられる。その後、東山道先鋒総督府を許しを得て3月13日、上洛し、改めて恭順の姿勢を示す。4月18日、新政府から謹慎を解かれる。ところが4月25日になって再び謹慎を命じられる。これは、新政府において東山道先鋒総督府が江戸滞在による旧幕府への加担容疑のみを取り調べただけで、若年寄在任による旧幕府への加担容疑を取調が済まされていないという主張が出たためとされる。

だが、最終的に閏4月10日に藩兵の新政府軍における功労を認める形で改めて謹慎が解除された[1]


明治2年(1869年)の版籍奉還で加納藩知事となり、廃藩置県後、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し[2]、正五位を与えられた。明治18年(1885年)6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。墓所は本行寺

脚注
1. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P245-247・321-324
2. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
(wikiより)

1795  永井尚服

永井尚服

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永井 岩之丞(ながい いわのじょう)は、幕末幕臣明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

生涯

700石取りの幕臣・三好長済(山城守幽雙)の次男として生まれ、旗本永井尚志玄番頭)の養子となる。


戊辰戦争
では養父と共に蝦夷地へ脱走し、函館五稜郭に立て籠もって戦った。


明治5年(1872年)7月7日、常陸宍戸藩主・松平頼位の三女・鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。


明治6年(1873年)7月、司法省十等出仕を命ぜられる。明治13年(1880年)5月1日、判事。明治16年(1883年)1月、控訴院判事。明治27年(1894年)4月、大審院判事。


明治40年(1907年)5月25日、下谷区上野桜木町の自宅で死去。享年63。

栄典
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[1]

1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[2]

人物
六男の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、父・岩之丞について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[3]と語っている。

家族・親族

・父・三好長済(山城守幽雙)(幕臣

・養父・永井尚志旗本玄番頭

・長男・永井壮吉海軍中佐

・二男・永井亨経済学博士、人口問題研究所所長)

・三男・永井啓第一銀行監査役

・四男・永井繁東洋リノリューム社長)

・五男・高校生の時に急逝(京都三高の学生時、スペイン風邪で死去)

・六男・大屋敦住友本社理事、日銀政策委員)

・長女・夏子(なつ)(内務官僚平岡定太郎に嫁ぐ)

・二女・

・三女・

・四女・千恵電波研究所長・横山英太郎に嫁ぐ)

・五女・清子

・六女・文子

・孫

壮吉の子:多喜子衆議院議員岡田五郎に嫁ぐ)、稔子永井隆


夏子(なつ)の子:平岡梓農商務官僚)


亨の子:永井良(明石合金)、永井弘日本通運健保常務理事)、久子志子信子保子礼子


啓の子:細谷省吾(娘・悠が伊勢丹社長・小菅丹治に嫁ぐ)、永井彰(新家電工業取締役)、永井保彫刻家)、永井治石川島播磨設計課長)


繁の子:恵美子永井基住友軽金属常務)、永井三明同志社大学教授)


の子:大屋宏住友金属鉱山取締役)、純子大屋薫東芝音楽工業邦楽部長)、千枝子大屋韶日本板硝子ガラス課長)


鐘の子:磯崎隆吉海軍造船少将)、磯崎勉東急自動車社長)、磯崎叡国鉄総裁)、京子磯崎迪三菱商事鹿児島支店長)、澄子


愛の子:加代子豊沢通明


千恵の子:喜美住友銀行専務取締役・伊部恭之助に嫁ぐ)、


清子の子:田中泰(互栄酵素代表者)、博子静子和子


文子の子:渡辺篤二農林省食品栄養部長)、渡辺文治東芝音楽工業)、久子重子


・曾孫・平岡公威(作家、筆名:三島由紀夫)、平岡美津子平岡千之外交官)、その他

詳しいことは、「永井岩之丞ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B2%A9%E4%B9%8B%E4%B8%9E
(wikiより)

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結城 信一(ゆうき しんいち、1916年3月6日 - 1984年10月26日)は、日本の作家である。


東京府
生まれ。1933年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒。早稲田大学英文科卒。国際学友会日本語学校の教師を経て、1948年、「秋祭」で作家デビュー。以後、『早稲田文学』ほかの文芸雑誌、年に二作程度の短篇を発表する寡作で地味な作家だったが、1980年、老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。没後の2000年、未知谷より全3巻の『結城信一全集』(串田孫一郡司勝義、結城信孝責任編集)が刊行された。アンソロジスト、エッセイストの結城信孝は息子。

著書
・青い水 緑地社, 1955

・螢草 創文社, 1958

・鶴の書 創文社, 1961

・鎮魂曲 創文社, 1967

・夜明けのランプ 創文社, 1968

・夜の鐘 講談社, 1971

・萩すすき 青娥書房, 1976

・文化祭 青娥書房, 1977

・作家のいろいろ 六興出版, 1979

・空の細道 河出書房新社, 1980

・石榴抄 新潮社, 1981

・不吉な港 新潮社, 1983

・犀星抄 日本古書通信社, 1996

・結城信一全集 全3巻 未知谷, 2000

・セザンヌの山 講談社文芸文庫, 2002

・結城信一 評論・随筆集成 未知谷, 2007

翻訳
みずうみ・三色菫 テオドール・シュトルム 偕成社, 1962

外部リンク
早稲田と文学(結城信一) - (早稲田大学
(wikiより)

1793a

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荻昌吉 ( おぎ - まさきち )     
嘉永 7年 12月 23日 ~ 明治 38年 11月 3日 ( 1854 - 1905 )

明治天皇侍従。

父、荻昌国 ( 長男 )。母、恵良氏。

熊本県出身。

はじめ元田永孚の門に学ぶ。

のち、慶応義塾に入学。

明治 7年 ( 1874 ) 宮内省 9等出仕。侍従兼主猟官。

明治 18年 ( 1885 ) 昨年来勅命により九州諸県等の自然災害および民情視察をし、報告書を宮内卿伊藤博文に上呈。

この報告書では、九州諸県の青年が官立学校より私立を好む傾向があると、危機感を示しているという。

明治 26年 ( 1893 ) 辞職。

従五位勲六等瑞宝章。52歳没。

正面「従五位勲六等荻昌吉之墓」。「進徳院義運日昌居士」。

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横瀬寸松 ( よこせ - すんしょう ) / 横瀬 貞 ( よこせ - さだ? )     
文久 2年 5月 10日 ~ 明治 39年 5月 11日 ( 1862 - 1906 )

掃苔家。

名、貞。字、子幹。号、寸松。

父、旧石川浜田藩士河鰭省斎 ( 二男 )。母、伊東氏。

石見 ( 島根県 ) 出身。

幼児期に家庭で教育を受け後東京で長期に遊学する。

のち、大蔵属となる。

傍ら古墓の調査をし「近世名家碑文集」を著わし、友人である田口卯吉が明治 26年 ( 1893 ) 12月刊行する。

45歳没。娘の清が継ぐ。

 近世名家碑文集: 171の碑文が掲載され、64名の撰者の情報がある。

 河鰭省斎 ( かわばた - しょうさい:1826 - 1889 ): 石見浜田藩士儒者。横井小楠に師事。帰藩後、藩政に参画。のち藩校「道学館」の教授となる。 

正面「横瀬貞/妻繁子 之墓」。略歴あり。島田鈞一撰文。

 島田鈞一 ( しまだ - きんいち:1866 - 1937 ):  中国文学者。島田篁村の長男。第一高等学校教授、東京文理大教授、東方文化学院東京研究所研究員などをつとめた。

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小出粲 ( こいで - つばら )    
天保 4年 8月 28日 ~ 明治 41年 4月 15日 ( 1833 - 1908 )

歌人・御歌所寄人。

幼名、新四郎。本姓、松田。

父、石見浜田藩士松田三郎兵衛 ( 4男 )。

号、梔園 ( しえん )。

東京出身。

江戸派の瀬戸久敬に歌を学ぶ。

歌道を得意とするが、絵画・彫刻・囲碁・槍術らも得意とした。

明治維新の際、王事に奔走し功績を遺す。

のち、家令となる。

明治 8年 ( 1875 ) 太政官 13等に出仕。

明治 10年 ( 1877 ) 宮内省文学御用掛として御歌所に入る。

明治 12年 ( 1879 ) 宮内省准判任取扱御用掛。

明治 21年 ( 1888 ) 判任 5等で御歌所所属。

のち御歌所主事。

明治 35年 ( 1902 ) 歌誌「くちなしの露」を刊行。

明治 40年 ( 1907 ) 勅任待遇。

正五位勲4等。

弟子に岡山高蔭 ( 1866 - 1945 ) など。

子に、小出林吉がいる。76歳没。

歌集「くちなしの花」。「小出粲翁家集」。

 名前の読みは、つばら・つぶら・あきら等、資料により様々だが、一番多い”つばら”にした。なお”粲”は、”くちなし”のこと。

正面「梔園小出粲墓」。「光明院連乗日照居士」。

護国寺に「梔園小出翁碑」があり、山縣有朋の揮毫、高島張輔撰文を岡山高蔭が書いている。

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浜田藩は幕末、長州征伐、鳥羽伏見の戦い、上野戦争と旧幕府方につき敗退した。

明治19年、旧浜田藩有志により石碑が建てられた。


浜田藩最後の藩主・松平 ( 越智 ) 武聡は徳川慶喜の実弟で、慶応 2年 ( 1866 ) の第二次長州征伐、慶応 4年 ( 1868 ) の鳥羽伏見の戦い、さらに上野の彰義隊に、それぞれ幕府側として参加し、いずれも手痛い敗戦を重ねた。

明治 19年 ( 1886 ) 旧浜田藩有志によって、この石碑が建てられた。


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松平武修 ( まつだいら - たけなが )
( 1866* - 1920 )

明治 - 大正時代の華族。


慶応元年 12月 2日生まれ。


石見 ( いわみ )( 島根県 ) 浜田藩主・松平武聡 ( たけあきら ) の長男。


明治 6年家督をつぎ、17年子爵。


大正 9年 11月 25日死去。56歳。

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松平 武聰(まつだいら たけあきら)は、江戸時代後期の大名石見国浜田藩4代藩主、美作国鶴田藩主。官位従四位下侍従右近将監越智松平家8代。徳川慶喜の異母弟に当たる。新字体では武聡

生涯
天保13年(1842年)1月26日、常陸国水戸藩主・徳川斉昭の十男(庶子)として誕生。母は山野辺氏・直(山野辺義質の娘)。幼名は十郎麿。初名は父より偏諱を受け昭音(あきなり)。


弘化
4年(1847年)11月29日、先代藩主・松平武成(従兄にあたる)の末期養子として越智松平家を相続する。その通字により武聰と改める。嘉永6年(1853年)、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や河鰭監物を登用して石見半紙養蚕業などの殖産興業化を推し進めて藩財政を再建した。安政元年(1854年)12月15日、従四位下侍従・右近将監に叙任される。


幕末期の動乱の中では、慶喜の弟であることから佐幕派に与した。慶応2年(1866年)の第二次長州征討に参加したものの、武聰は病に臥していたために指揮が執れず、長州藩大村益次郎率いる精強な軍勢の前に山本半弥率いる藩軍は壊滅した。長州軍が浜田領に侵攻すると、7月18日に浜田城に火を放って杵築(現在の島根県出雲市)へ逃亡し、さらに松江に移った。浜田は長州藩の占領下に置かれたため、慶応3年(1867年)3月、飛地である美作国鶴田(2万石)に逃れて鶴田藩主となり、特に2万8000石に加増される。

松平武聰の上京問題
戊辰戦争に際し、新政府は諸藩に対して恭順の意思表示を行って、藩主またはそれを代行できる身分の者(元藩主か世子)が上京して天皇に拝謁することが求められ、更に五箇条の御誓文が出された後は藩主もしくはその代理に公卿・諸侯による奉答書への署名をする事で、新政府下での藩の存続が保証された。この手続を行わない藩は例え実際に武力抵抗をしていないくても旧幕府に加担する「朝敵」とみなされ、反対に新政府軍との交戦などによって一旦「朝敵」とみなされた藩でも藩主が速やかに謝罪・謹慎をする事で、新政府から宥免を得てこの手続に参加することができた[1]


鶴田藩の場合、鳥羽・伏見の戦いを受けて、藩主である武聰が徳川慶喜の弟である事を理由に自主的に謹慎をしていたが、実際には長州征伐当時からの病気が回復していなかった[2]。そこへ藩兵30名が竹中重固指揮下の旧幕府軍に参加していた事が判明したために同藩が朝敵とみなされる可能性が浮上した。この問題について2月28日に新政府から鶴田藩に対して恭順の証明として藩主自らの上京して謝罪をする事が命じられた。だが、武聰を上京させる事が不可能な病状で、世子である熊若丸(後の武修)も4歳の幼児で同じく上京不可能であった。このため、鶴田藩ではこのままでは自藩が朝敵として討伐されるとして、岡山藩鳥取藩と相談の上で閏4月に家老3名の切腹をもって上京の延期を求める嘆願を提出した。新政府側も藩主・世子が上京できない事情は理解したものの、他藩との関係上、鶴田藩だけに上京免除の例外を認める訳がいかず、一段重い処分として閏4月15日に家老1名の切腹を命じる事になり、同日在京していた尾関隼人が切腹をした。5月10日、同藩に2万7800石が加増され、最終的に6万1千石の石高となった背景には、新政府が結果的には敵意がない鶴田藩に対して家老の切腹という厳罰を下さざるを得なかった事に対する埋め合わせの部分があったとみられている。なお、その後も武聰の病気は回復しなかったらしく、鶴田藩は全国で唯一手続の最終段階であった奉答書への署名を廃藩置県までに終える事が出来なかった。また、廃藩置県後の明治4年(1871年)8月23日に武聰が家族と共に東京へ移住した後も遂に皇居への参内は行われなかった[3]


明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により鶴田藩知事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を免職となる。明治6年(1873年)3月23日、隠居して長男・武修に家督を譲る。明治15年(1882年11月7日、41歳で死去した。

系譜
・父:徳川斉昭(1800-1860)

・母:直 - 山野辺義質の娘

・養父:松平武成(1825-1847)

・正室:松平寿子(1848-1893) - 比佐子、堀田正睦の八女

  ・長男:松平武修(1865-?) - 幼名・熊若丸

・生母不明の子女

  ・男子:松平恒吉

  ・女子:鞆子 - 松平容大
  ・女子:清子 - 伊達宗定

脚注
1. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P10-16
2. 慶応4年3月11日に尾関隼人から三条実美に充てられた書状では武聰は一昨年(慶応2年・1866年)初夏から心疾(心労による病気)を患っていると伝えている(水谷、2011年、P365)。
3. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P14・363-367
(wikiより)

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松平 武成(まつだいら たけなり/たけしげ)は、江戸時代後期の大名石見国浜田藩3代藩主。官位従五位下右近衛将監越智松平家7代。

略歴
美濃国高須藩主・松平義建の三男として誕生。


天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚(血統上は母方の従弟にあたる)が早世したため、その跡を継ぐ。藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて山林の藩経営化や瓦・陶器の製造、養蚕業や製鉄業、製糸業、鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰が継いだ。法号は鋭岳大憲院。墓所は東京都荒川区東日暮里の善性寺。

系譜
・父:松平義建(1800-1862)

・母:規姫 - 徳川治紀五女

・養父:松平武揚(1827-1842)

・正室:千重姫(1821-1860) - 徳川斉匡十五女

・養子

  ・男子:松平武聰(1842-1882) - 徳川斉昭の十男

系譜については「松平武成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%AD%A6%E6%88%90
(wikiより)

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松平 武寛(まつだいら たけひろ)は、江戸時代中期の大名上野国館林藩2代藩主。官位従五位下主計頭右近衛将監越智松平家4代。

生涯
宝暦4年(1754年)10月7日、先代藩主・松平武元の四男として誕生。兄3人の早世により嫡子となり、明和5年(1768年)に主計頭に任官する。安永8年(1779年)、父の死去により家督を継ぎ、右近将監に遷任する。安永9年(1780年)に奏者番に任じられる。天明3年(1783年)の天明の大飢饉で大被害を受けたため、救済に尽力し、同時に90歳以上の高齢者に米を与えるなどしている。


天明4年(1784年)3月26日に死去、享年31。跡を長男・斉厚が継いだ。

系譜
・父:松平武元(1714-1779)

・母:石井氏

・正室:松平頼恭

  ・長男:松平斉厚(1783-1839)

・生母不明の子女

  ・女子:松平乗友正室 - 斉厚の妹

  ・女子:井上正甫継室 - 斉厚の妹
(wikiより)

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松平 斉厚(まつだいら なりあつ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名上野国館林藩3代藩主、のち石見国浜田藩初代藩主。寺社奉行官位従四位上権少将越智松平家5代。

生涯
天明3年(1783年)、館林藩主・松平武寛の長男として誕生。まもなく父が死去したため2歳で家督を継ぐ。始め武厚(たけあつ)と名乗り、寺社奉行を務める。


その後、11代将軍徳川家斉の二十男・松平徳之佐(のちの斉良)を婿養子(および養嗣子)に迎え幕府との結びつきを強め、家斉から偏諱を受けて斉厚と改名する。天保7年(1836年)には館林から浜田に移った。斉良は夭折したため、讃岐国高松藩から迎えた養子・武揚が家督を継いだ。


天保10年(1839年)、死去。

年表
天明3年(1783年):生まれる

・天明4年(1784年):越智松平家家督相続、館林藩主就任

享和2年(1802年):奏者番

文化10年(1810年):寺社奉行(12月1日

文政5年(1822年):寺社奉行辞任(6月28日

・文政6年(1823年):斉厚に改名する

天保7年(1836年):浜田藩に国替

・天保10年(1839年):死去(享年57)

官歴
寛政9年(1797年):従五位下主計頭、右近将監

・天保6年(1835年):従四位上権少将

系譜
・父:松平武寛(1754-1784)

・母:松平頼恭

・正室:仲 - 松浦清

・側室:関氏、石井氏

・生母不明の子女

  ・女子:松平斉良正室

  ・女子:松平武揚正室

  ・女子:敬姫 - 松平信宝婚約者

・養子

  ・男子:松平斉良(1819-1839) - 徳川家斉の二十男

  ・男子:松平武揚(1827-1842) - 松平頼恕の次男または三男
(wikiより)

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松平 武元(まつだいら たけちか)は、江戸時代中期の大名上野国館林藩主、陸奥国棚倉藩主。官位従四位下侍従右近衛将監越智松平家3代。親藩御家門)ながら江戸幕府寺社奉行老中を務めた。

略歴
常陸国府中藩3代藩主・松平頼明の次男として誕生。


享保
13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。


徳川吉宗
家重家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。武元死後は、四男・武寛が家督を継いだ。

年譜
日付はすべて旧暦による。


正徳3年(1713年)、誕生。


享保13年(1728年)

  ・7月、松平武雅の継子となる。

  ・9月、養父武雅死去に伴い越智松平家相続。陸奥国棚倉5万4,000石に転封。


・享保14年(1729年)12月16日、従五位下右近衛将監に叙任。


元文4年(1739年)9月1日、奏者番に就任。


延享元年(1744年)5月15日、寺社奉行を兼帯。


・延享2年(1745年)5月28日、主計頭に転任。


・延享3年(1746年)

  ・5月15日、西丸老中(徳川家治付き)となり、上野国館林5万4,000石に国替。右近衛将監に遷任。

  ・9月1日、従四位下に昇叙。右近衛将監は元の如し。


・延享4年(1747年)

  ・7月21日、侍従を兼任。

  ・9月3日、西丸老中から本丸老中に転じる。


宝暦11年(1761年)5月16日、老中首座となる。


明和6年(1769年)12月1日、7000石加増、都合6万1000石


安永8年(1779年)7月25日死去。享年67。法名は天韶院勇山。墓所は東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺。

系譜
・父:松平頼明(1691-1733)

・母:不詳

・正室:松平忠雅の娘

・室:石井氏

  ・四男:松平武寛(1754-1784)

・室:種村氏

  ・五男:戸田氏教(1756-1806) - 戸田氏英の養子、のち老中

・生母不明の子女

  ・女子:松平忠泰正室

  ・女子:房姫 - 松平光和正室のち松平乗完継室

  ・女子:安藤信成正室

  ・女子:松平忠済正室

  ・女子:森忠興正室

  ・七女:泰 - 久世広誉正室

  ・女子:侶姫 - 観如院、溝口直信正室
(wikiより)

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松平 武雅(まつだいら たけまさ)は、江戸時代中期の大名上野館林藩2代藩主。越智松平家2代。官位従五位下肥前守

略歴
美濃高須藩主・松平義行の四男として誕生。母は側室の上月氏。幼名は新之助。初名は行高。


元禄
16年(1703年)8月14日生まれとも伝わる。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。


元服の際、父から偏諱を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、義行は元禄14年(1701年)に本家から兄・徳川綱誠の十五男・万三郎(のちの松平義孝)を養子に迎えていたため、武雅は享保9年(1724年)、越智松平家松平清武の養子とされ、同年に家督を相続し館林藩主となる。


享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため、養嗣子として常陸国府中藩から武元が迎えられ跡を継いだ。
(wikiより)

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松平 清武(まつだいら きよたけ)は、江戸時代中期の大名上野国館林藩主。官位従四位下右近衛将監。6代将軍徳川家宣の同母弟。越智松平家初代。甥に家宣の四男で7代将軍・徳川家継がいる。家継没後に8代将軍候補となるが徳川吉宗が就任したため、将軍になることはなかった。

生涯
寛文3年(1663年)10月20日、甲府藩主・徳川綱重の次男として誕生。生母の身分が低かったため、家臣の越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)に養われて延宝8年(1680年)5月28日にその家督を継ぐ。元禄10年(1697年)11月には叔父である5代将軍・徳川綱吉に初御目見してその偏諱を授かり、吉忠(よしただ)と名乗る[1]宝永6年(1709年)に綱吉が没して実兄の家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。この時に家宣と養父を偏諱と合わせて清宣(きよのぶ)に改名する[1]


宝永4年(1707年)1月11日、2万4000石の館林藩主として大名に列する。その後、松平姓を名乗ることを許され、宝永6年(1709年)にも加増を受けた。正徳2年(1712年)には家宣の死去に際しての遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった(清武に改めたのもこの頃と推測される)。そして、館林城の築城などに努める。


しかし藩財政が困窮したため、その再建を目指して重税を強いた。このため、領民の不満が爆発して、享保3年(1718年)に百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。


享保9年(1724年)9月16日、死去した。享年62(満60歳没)。嫡男・清方は早世していたため、尾張徳川家連枝高須藩松平家から養嗣子として迎えていた武雅松平義行の四男)が跡を継いだ。


清武の死により、家光の男系は完全に断絶した。

8代将軍になれなかった理由
7代将軍徳川家継が危篤状態に陥った時、家宣の正室だった天英院は8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は、将軍には相応しくないとされる理由が主に2つあった。


・家臣の越智喜清に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて大名になったのが宝永4年(1707年)、44歳の時であり、経歴上問題があった。


・既に54歳と高齢であった。


また、清武自身にも将軍職に対する野心は特になかったといわれる。これらの理由から天英院は清武を将軍にすることを諦め、紀州藩徳川吉宗を推し、吉宗が8代将軍に就任した。

年表
※日付=旧暦
延宝7年(1679年)5月 - 熊之助から平四郎に改める。後年、玄蕃また、民部と改める。


・延宝8年(1680年)5月28日 - 越智家300石の家督相続。


元禄10年(1697年)11月 - 叔父である将軍徳川綱吉に初めて御目見する。


・元禄15年(1702年)12月18日 - 従五位下下総守に叙任。


宝永元年(1704年)12月 - 寄合衆に列し、2000石を賜う。


・宝永2年(1705年)2月7日 - 2000石を加増。計4000石となり、領地は相模国高座郡鎌倉郡武蔵国埼玉郡内。


・宝永3年(1706年)1月19日 - 1万石を加増。領地は、常陸国真壁、下総国相馬郡、豊田郡、武蔵国埼玉郡、相模国鎌倉郡・高座郡・愛甲郡の内に及ぶ。


・宝永4年(1707年

  ・1月11日 - 松平の苗字を称することを許され、上野国邑楽郡内に1万石を加増され、上野国館林2万4000石の藩主となる。また、出羽守に遷任。

  ・12月23日 - 従四位下に昇叙。出羽守如元。

  ・この年、館林歴代城主の盛衰について『館林盛衰記』に著す。


・宝永6年(1709年

  ・12月 - 下野国内に1万石加増。

  ・12月18日 - 侍従兼任。


正徳2年(1712年

  ・2月16日 - 兵部大輔に転任。侍従如元。

  ・12月 - 越後国内に2万石加増。計5万4000石となる。


・正徳3年(1713年)12月19日 - 右近衛将監に遷任。侍従如元。

脚注
1. a b c 講談社 日本人名大辞典』には、(別名ではなく)初名として順に「吉忠」→「清宣」と名乗っていたとする記述がみられる(こちらも参照)。
2. 母は父綱重の継室・紅玉院とされる。1673年 - 1673年。実在すれば清武の異母弟となる。
(wikiより)

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宝生新朔 ( むろう - しんさく )    
? ~ 明治 31年 3月 11日 ( ? - 1898 )

能楽師・宝生家 8世。

能楽における脇方の流儀一つワキ方下掛宝生流 ( ほうしょうりゅう )。

門下に池内信嘉などがいる。63歳没。

墓の正面「宝生家之墓」。墓誌なし。

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尾関隼人 ( おぜき はやと ) / 尾関当補     
安永 8年 8月 3日 ~ 文政 12年 7月 29日 ( 1779 - 1829 )

館林藩家老・尾関隼人当遵の父。

名、当補。通称、隼人。

父、尾関当官 ( 長男 )。母、根岸氏。正室、内藤氏。

代々松平家に仕え、上州館林に住む。

18歳のとき番師として仕え、上番を歴任。のち攝庭守。

文政 5年 ( 1822 ) 700石となる。のち1200石を賜る。

 尾関隼人 ( 1802 - 1868): 名は当遵 ( まさゆき )。

通称は、父と同じ隼人。

館林から転封となった石見藩家老。

藩主松平武聡が病弱で、代わって鳥羽伏見の役で幕府側としての出兵を指揮し大敗。

藩自体の処分を受けるところ、明治元年 4月 19日京都本圀寺で責任を取り自刃し謝罪して藩は赦される。

「良宏院」。

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長谷川 正三(はせがわ しょうぞう、1914年2月23日 - 1984年8月7日)は、日本政治家日本社会党衆議院議員(6期)。

経歴
東京都出身。豊島師範学校卒。小学校の教諭を務め、都教組委員長、都労連書記長などを歴任する。1963年第30回衆議院議員総選挙東京7区から日本社会党公認で立候補して初当選。以来6期務める。1983年第37回衆議院議員総選挙に出馬せず引退した。翌1984年死去。

参考文献
・『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
(wikiより)

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水嶋徳蔵 ( みずしま - とくぞう ) / 美津島徳蔵 ( みづしま - とくぞう )     
明治 42年 5月 1日 ~ 平成 9年 7月 17日 ( 1909 - 1997 )

昭和平成の美術商。

本名、水嶋徳蔵。

神奈川県出身。

早稲田大学中退。

昭和 21年 ( 1946 ) 大阪淀屋橋に「フジカワ画廊」を設立。

のち東京に進出。

ザッキン・ブールデルらフランス近代美術を日本に紹介。

また佐伯祐三・岡鹿之助・牛島憲之等の日本近代美術を取り扱ってきた。

昭和 28年 ( 1953 ) 村野藤吾氏設計によるフジカワ画廊ビルを竣工。

昭和 53年 ( 1978 ) 藍綬褒章受章。

昭和 54年 ( 1979 ) フランス芸術文化勲章オフィシェ章受章。

平成元年 ( 1989 ) フランス芸術文化勲章コマンドール章受章。

業界初の勲三等瑞宝章受章。

平成 9年 ( 1997 ) 正五位に叙される。

全国洋画商連盟名誉会長。88歳没。

「三徳院法蔵日正大居士」。

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石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年明治17年〉9月25日 - 1973年昭和48年〉4月25日)は、日本ジャーナリスト政治家教育者立正大学学長)。階級陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階従二位勲等勲一等

大蔵大臣第50代)、通商産業大臣(第121314代)、内閣総理大臣第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。内閣総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも4番目の短さである。


早稲田大学
から名誉法学博士(Doctor of Laws)を贈られた。

概要
戦前は『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱え、戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。保守合同後初めて本格的[注釈 1]に実施された自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任2ヵ月弱で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした。


実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布である。その関係で、立正大学学長に就任した。

生涯
生い立ち
日蓮宗僧侶杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)[注釈 2]として生まれる。


実父の湛誓は日蓮宗一致派の初代管長である新居日薩の門下で[1]、現在の東京都港区高輪承教寺に所在していた当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手助教)を務めていた[2]


母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負うほどの大きな畳問屋・石橋藤左衛門の次女である[3]。石橋家は承教寺の有力な檀家で、東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた[4]。故あって湛山は母方の石橋姓を名乗った[5]


湛山は3男3女の6人兄弟のうちの長男である[6]。湛山の兄弟では湛誓次男の野澤義郎も湛山と同様に甲府中学・早稲田大学を経て東洋経済新報社に入社し、支局長・監査役を務めている[7]。湛誓三男の湛正は東京大学を卒業し、富士宮一乗寺の住職となっている[8]

学生時代
1885年明治18年)、父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)にある昌福寺住職へ転じるため、母・きんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。


1889年(明治22年)、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。


1894年
(明治27年)、湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村若草町、のち南アルプス市に編入)にある長遠寺の住職である望月日謙(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。


1895年
、日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。湛山は2年落第し、7年間在籍する。1901年(明治34年)3月には甲府中学校長の幣原坦が退任し、大島正健が赴任する[9][10]。大島は札幌農学校(現・北海道大学の前身)第1期生としてウィリアム・スミス・クラークの薫陶を受けた人物で、1914年(大正3年)まで甲府中学校長を務めた[11]。湛山は1902年に甲府中学を卒業するため1年のみの薫陶を受けるが、湛山は後に『山梨県立甲府中学同窓会報』において大島との出会いを述懐し、自身の人生観に大きな影響を与えたと記している[12]。晩年に至るまで、湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。在学中は校友会の季刊誌『校友会雑誌』に論文を投稿し、剣道部にも入部した。


『校友会雑誌』は甲府一校百周年記念館資料室に数十冊が所蔵されており、湛山の論文を含む号も現存している[13]。湛山は1900年6月発行の第八号において「石橋坐忘」の筆名で小論「石田三成論」を発表し、以来「石橋省三」「石橋省造」「石橋湛山」などの名で小論を発表している[14]。また、『校友会雑誌』には学術部総会に関する報告も掲載され、湛山が総会において英文朗読・演説、文章の朗読・演説などを行っており、当時から政治・歴史などに関心をもっていたことが確認される[15]。5年生時には同会の理事を務めている[16]


1902年
(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している[注釈 3]。翌月、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験のため上京する。その際に、正則英語学校[注釈 4]に通った。しかし同年7月の試験は不合格だった。翌年に再度受験するがまたもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格し、9月に入学した。こうして、東京での下宿生活が始まった[17]

ジャーナリスト時代
早稲田大学を卒業して、さらに1年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は『東京毎日新聞』を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。


1909年(明治42年)12月には東京麻布の第1師団歩兵第3連隊に「一年志願」兵として入営する[18]。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも湛山の「合理性」を評価したという[19]。湛山は伍長に昇進し、軍曹として除隊した[20]。湛山は入営中に軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感したという[21]


1911年(明治44年)1月に東洋経済新報社に入社するが、同年9月には自らの意思で見習士官として再入営し、最終試験を経て1913年(大正2年)に歩兵少尉となる[22]。その後は予備役となり、1916年夏に半月間の機動演習に召集されている[23]


1912年
(大正元年)11月、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で東小松川松江尋常高等小学校の教師・岩井うめ(梅子)と結婚する[24]。うめは福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子だった[25]


湛山は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年大正13年)12月に第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務めた。


1931年
(昭和6年)には東京経済新報社を中心とした経済倶楽部が創設される[26]1933年(昭和8年)には経済倶楽部の会員により山梨県南都留郡山中湖村旭日丘に「経済倶楽部山中湖畔山荘同人会(経済村)」が作られ、湛山も山中湖畔に山荘を構え、夏期は同所において執筆活動を行った[27]


部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬堀江帰一大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。


日中戦争
勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリスト(清沢洌ら)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていたため、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊は免れた。


太平洋戦争
では、次男和彦が召集され戦死した。また、戦争末期には、連合国の戦後構想に刺激を受け、戦後研究の重要性を石渡荘太郎蔵相に進言し、それにより設立された大蔵省戦時経済特別調査室で経済学者や金融関係者と共に戦後研究を行った[28]


日本敗戦直後の1945年昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張した[29]


東京裁判
ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、それに対し石橋は弁護をした[30]。石橋は、高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張したが、裁判では採用されなかった[31]

政界へ
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に日本自由党から総選挙に出馬した。落選はしたものの、第1次吉田内閣大蔵大臣として入閣した。


大蔵大臣在任時にはデフレーションを抑えるためのインフレーションを進め、傾斜生産石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。


そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。

公職追放
戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期に立正大学から懇請されて、学長に就任した。

公職追放からの復帰
1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣通商産業大臣に就任した。1955年には商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止した[32]1955年(昭和30年)11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。


石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。


同年11月15日保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。

詳しいことは「石橋湛山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1
(wikiより)

1776  石橋湛山

石橋湛山

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長谷川尚一 ( はせがわ - しょういち )    
明治元年 ~ 昭和 21年 3月 4日 ( 1868 - 1946 )

 国産石油開発を推進した人。

和歌山県有田郡出身。

父、中西。

新潟県東蒲原郡の長谷川家の養子となる。

明治 35年 ( 1902 ) 新潟県新津で石油事業を開始。

この頃世界では石油争覇戦をしていたが、国内では石油の重要さを知らず、この啓蒙に尽力する。

次第に近代産業が勃興し石油の需要が高まり、その大半を供給した。

晩年を千葉県東葛飾郡に隠居して過ごした。79歳没。

正面「長谷川家之墓」。「国清院油田玄策大居士」。

碑は本堂脇の通路沿い。昭和 19年建立。

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荒尾 精(あらお せい、安政6年6月25日1859年7月24日) - 1896年(明治29年)10月30日)は、日本の陸軍軍人日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。

経歴
尾張藩士・荒尾義済の長男として尾張国琵琶島に[1]生まれる。幼名は一太郎、本名は義行、後に東方斎と号した。


1878年
(明治11年)、陸軍教導団砲兵科に入学。さらに陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。


1882年(明治15年)12月に同校(旧第5期)卒業後は、歩兵第13連隊付となる。


1885年(明治18年)、陸軍参謀本部支那部付けになった。


1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国()に赴任。岸田吟香の援助を受けて漢口楽善堂を運営、大陸調査活動の拠点とした。


1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、帰国。2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した [2]


1890年
(明治23年)9月、上海日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。


1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。


1896年9月(明治29年)、台湾ペストにかかり死去。

頭山満の荒尾評
玄洋社頭山満は荒尾の死後次のように語った。 [3]

余は大に荒尾に惚れて居った、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと云うとあり、常時最も偉人を憶うの時に荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬慕して居った。

彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以って独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精紳に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であって、世の功名利慾を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全くその選を異にし、誠に偉人の器を具え大西郷以後の人傑たるを失わなかった。   

彼の徳望、識見、容貌、何れも偉人の風格を存し、凛乎たる威風の裡に、一種云う可からざる柔和にして、かつよく人を安んじ、人を魅するの魔力を持って居った。この人ならば 必然東亜の大計を定め、醇乎としてその主義を世界に普及し、頗る後世を益するの鴻業を成し遂げ得ぺしと信じて居った。然るに絶大の抱負経綸を有し、徳望識見共に超凡絶群なるこの人にして、中途に逝去せんとは、実に思い設けざる所であった。彼の死するや、根津は余に書を送り、この時においてこの英傑を奪い去るとは、天は何の意ぞと、非常に痛恨の意を洩したが、余も畢生の恨事として真に同情に堪えなかった。余荒尾を信じ、かつ敬慕したるは、実にこの位であった。

・・・・

荒尾の崇敬して居った人物は、三代頃の人物では夏の禹王抔を慕い、日本では南洲を敬慕して居った。

著作
『対清意見』近代デジタルライブラリー

・『対清弁妄』日本は日清戦争後、清に対して領土や賠償金を要求してはならないと訴えた。

脚注
1. 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー 現在の名古屋市西区枇杷島
2. 社団法人滬友会、東亜同文書院大学史、興学社
3. 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー

参考文献
小山一郎『東亜先覚荒尾精』東亜同文会、1938年(日本語)。全国書誌番号:46065342

井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年。全国書誌番号:61001212

関連項目
荒尾氏

井田武雄

根津一 荒尾の盟友として日清貿易研究所の設立に参加、経営も任された。

向野堅一 日清貿易研究所を首席で卒業。日清戦争時、軍事探偵として活躍した。

松井石根 同郷(名古屋市)の後輩。南京虐殺事件の責任者(戦犯)として処刑されたが、生涯荒尾を崇拝していた。
(wikiより)


0884 東方斎(荒尾精)

荒尾 精

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初代 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1768年明和5年) - 1838年4月15日天保9年3月21日)は、落語家。通名、橘屋 松五郎


多くの同業者から尊敬され浅草堂前に住んでいたために「堂前の師匠」「堂前のおじさん」などと呼ばれた。

来歴
江戸神田の生まれ、元は芝居の木戸芸者。最初は東亭八子門下で多子、のちに初代三笑亭可楽門下で東生亭世楽となったとされる。1797年4月に初代東亭鬼丸の門下で山遊亭猿松、初代烏亭焉馬(立川焉馬)の門下で立川焉笑を経て、三遊亭圓生と名乗った。


鳴り物入りの芝居の台詞回しや声色を得意とした。


門下には初代三升亭小勝2代目圓生初代古今亭志ん生花枝房圓馬初代山松亭圓喬、圓桂(のちの初代坂東政吉)、三遊亭圓遊(のちの初代金原亭馬生)、三遊亭圓盛(のちの初代司馬龍生)、初代三遊亭三生、初代三遊亭南生、傳生(のちの初代司馬龍斎)、2代目竹林亭虎生らがいた。

出典
・『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)

三遊亭円生(初代) とは - コトバンク 2013年4月12日閲覧。

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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