養育院は、明治五年 ( 1872 ) 十月十五日に創設された。


維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁 ( 忠寛 ) の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。


この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。


事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡 ( 現東京大学 ) の空長屋であった。


その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。


養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金 ( 松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの ) である。


養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。


営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。


明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。


養育院は、鰥寡 ( かんか ) 孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。


平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。


ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。


なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。


ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。


平成二十二年 ( 2010 ) 四月

             養育院を語り継ぐ会


この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。

                          了俒寺
(案内板より)


〇 東京都養育院合祀墓

明治 5年 ( 1872 ) 創立。


きっかけは明治維新で増えた生活困窮者 ( ホームレス ) を、来日するロシア皇太子の目から隠すためだった。


東京府知事大久保一翁 ( 大久保忠寛 ) の諮問により「救貧三策」の一策として創設。

はじめの場所は、旧加賀藩邸跡 ( 現東京大学内 ) の空き長屋だった。


運営原資は、松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの。


その後転々としながら、院内授産事業・行路病人・保護者のいない児童・障害者・類焼者の保護を行う施設となった。


さらに、看護婦・保母の養成・視覚障害や言語障害を持つ児童の教育・虚弱児のための保養所・非行少年のための感化部・ハンセン病患者の隔離治療室・児童施設・職業紹介所・肺結核患者・痼疾患者の隔離治療・知的障害者施設等、事業を次々と拡大した。


昭和 23年 ( 1948 ) 児童福祉法の施行に伴い、児童施設は民生局 ( 福祉局 ) に移管、養育院事業は、高齢者と知的障害児・者を所管とする事業所となる。


美濃部革新都政時代には、世界に誇れる事業内容・施設となったが、近年組織の統廃合が進められ、平成 11年 ( 1999 ) 石原都政の改革により、民営化の名のもとに、「養育院」という名は消えた。
     
養育院事業に最も熱心だったのは、渋沢栄一で、創業時から没年 ( 昭和 7年 ) まで院長を務めた。


明治 12年 ( 1879 ) の人事では、渋沢栄一を初代養育院長に、坂本源平を幹事に、飯田直之丞を副幹事にするなどの人事異動をした。


一時、田口卯吉が「税金を使って、貧乏で働けない人を養育することは結果的に怠け者を作ることになる。税金で養うべきではない」と主張し、委任経営という状態に後退したが、それに対して、西欧の事情に明るい渋沢栄一は、「政治は論語でいう仁に基いて行なうのは当然であると公立で続けるべきと主張、明治 23年 ( 1890 ) やっと東京市営となる。


墓は、了ごん寺墓地の谷中霊園側。

養育院が都営であることから谷中霊園の管轄のように思われるが、発足当時は、霊園は東京市営ではなかった。


慰霊碑には「明治六年から大正二年十二月まで三千七百六十二名号葬」とある。


その後の追加埋葬はないが、ほかに谷中大雄寺・栃木県那須塩原市の妙雲寺・多摩霊園にある。


1560a

1560b

1560c

1560d

1560e

1560f