両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1907年3月2日 - 1959年11月23日)は、長崎県長崎市出身の元大相撲力士。本名は太田 勇雄(おおた いさお)。

来歴
1907年3月2日長崎県長崎市で生まれる。小学校を卒業してからは農業を手伝いつつ宮相撲で活躍し、地元では怪力少年として評判になった。やがて、近くの村から同い年の常盤野なる人物が角界入りしたのに影響を受け、1927年の秋に単身上京して出羽海部屋へ入門、1927年10月場所に本名の太田で初土俵を踏んだ。途中で四股名を郷里に因んで「瓊ノ浦」と改名した[1]。皆勤負け越しが無いまま幕下上位まで昇進したところで、春秋園事件によって天竜ら出羽海部屋の多くの兄弟子が大日本相撲協会を脱退した。これによって幕内には大量の空きが出たため、1932年1月場所の番付では東幕下3枚目でありながら、同年2月場所の改正番付では十両を飛び越え、双葉山出羽ノ花らとともに人数が少なくなった幕内へ抜擢、西前頭7枚目(幕尻)に位置した。この場所では負け越したものの以降幕内に定着し、1932年10月場所では9勝2敗の好成績(優勝同点)を挙げた。


軽量でありながら筋肉質の体格を生かし、激しく土俵上を動き回ってからうっちゃり櫓投げなどの様々な技を見せるため「曲者」「業師」の愛称が付いた。1938年1月場所で関脇に昇進し、同場所9日目の双葉山戦では土俵際でうっちゃり気味に振り回すと双葉山の足が土俵に出たため、双葉山の勇み足死に体かで40分もの大物言いとなったことから「一代の名勝負」として現在でも語り草となっている(結局、取り直しとなって双葉山が勝利、最終的に連勝は69まで伸びる)[1]。しかし、1939年1月場所5日目、前日に安藝ノ海によって連勝が69で止まった双葉山と再戦し、うっちゃりで双葉山を破って一日遅れながら打倒を果たした[2]。また、男女ノ川に強く、通算で3勝4敗と負け越してはいるものの健闘している。


その後は幕内下位に下がり、1942年5月場所で負け越したことで十両陥落が決定的になったところで現役を引退、年寄・待乳山を襲名した。結局、春秋園事件の影響とはいえども、幕下からいきなり新入幕を果たしたうえ、十両に陥落したことが無いために「十両在位が一切無い」という珍しい記録を作った[1]


現役引退後は勝負検査役を務めたが、出羽海一門の力士の勝負に対する執拗な物言いを繰り広げたため、周囲から批判された。1959年11月23日に死去、52歳没。

詳しいことは「両國梶之助 (瓊ノ浦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9C%8B%E6%A2%B6%E4%B9%8B%E5%8A%A9_(%E7%93%8A%E3%83%8E%E6%B5%A6)
(wikiより)

「弘願院釈勇誉純孝居士」。

1420  二代目・両國梶之助

両國梶之助 ( 瓊ノ浦 )

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