来歴・人物
江戸小石川小日向の紺屋「藤屋」竹内清五郎の長男として生まれる。12歳で別の紺屋に奉公に出て17歳で家業を継いだ。しかし19歳の時に病気がきっかけで家業に嫌気がさし、以前から芸事に興味を持っていたために初代三遊亭圓朝に弟子入り志願した。圓朝には弟子入りを断られるが、慶応4年(1868年)ころ、2代目五明楼玉輔に入門し、(雀家?)志う雀を名乗る。このころ新宿で一六の名で太鼓持ちをしていた時期もあるという。明治3年(1870年)、師匠が廃業したため(後に復帰)、明治5年(1872年)ころに改めて夢であった初代三遊亭圓朝門下に移り、圓遊に改名。明治13年(1880年)4月、日本橋の伊勢本で真打の昇進披露を行った。以降門弟も増え三遊派の看板で圓朝、4代目圓生、4代目桂文楽に次ぐ位置にまで活躍。三遊派では圓朝を社長、4代目圓生を頭取に副頭取を務めた。圓朝没後は三遊亭一門で確執もあり上方にも活動を広げ初代笑福亭福松の没後衰退していた三友派の看板としても活躍。日露戦争前後には不景気も重なり寄席の不入りが続き圓遊の人気も落ちその後中風で病み不遇であったが亡くなる1か月前まで高座に上がった。
大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」ともよく呼ばれていた。寄席において、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸が「ステテコ踊り」の異名を得、このために「ステテコの圓遊」の名で呼ばれるようになった[1]。また古典落語を明治風に改作して演じた。明治時代の落語界において中心人物であった。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたという伝説がある。
辞世の句は「散りぎわも 賑やかであれ 江戸の花(鼻)」。墓所は谷中霊園天王寺墓地。戒名は「唱行院圓遊日悟居士」。
人気ゆえに多くのSPレコードも残している。
弟子
初代圓遊は弟子の数も非常に多かった。
・2代目三遊亭圓遊(三遊亭左圓遊から、2代目小圓遊を経て襲名)
・三遊亭一圓遊(後に大阪で圓遊を名乗る)
・橘家圓六(橋本林蔵)
・三遊亭遊林(森彦太郎)
・三遊亭遊朝(お茶兼の遊朝)
・三遊亭花遊(後の柳の小枝)
・3代目人情亭錦紅(元:三遊亭遊鶴)
など。3代目春風亭柳朝(「初音屋」)や5代目立川ぜん馬(本名:鳥井兼吉)も一時期圓遊の門下だったことがある。
実の息子(本名:竹内 孝太郎)は15歳頃落語家として父の下に入門し三遊亭清遊を名乗っている。一時期小圓遊を名乗っていたが、技芸未熟のため取り上げられたという説もある。その後日本舞踊の若柳流を興した若柳寿童の弟子となり、2世宗家家元・若柳吉蔵と名乗った。
三遊亭圓遊を扱った作品
舞台『すててこてこてこ』
吉永仁郎作。1977年発表、1982年初演[2]。明治の大名人三遊亭円朝と、弟子の「珍芸ステテコ」の三遊亭円遊、時代の流れと二人の関係を描く。
・1982年、1984年(劇団民藝)[3] 三遊亭圓朝:大滝秀治 三遊亭圓遊:梅野泰靖 演出:渡辺浩子
・1997年(蝉の会) 三遊亭圓朝:名古屋章 三遊亭圓遊:風間杜夫 [4] 演出:渡辺浩子
・2015年(可児市文化創造センター×文学座)[5] 三遊亭圓朝:坂部文昭[6] 三遊亭圓遊:千葉哲也 演出:西川信廣 落語指導:三遊亭遊之介
(wikiより)
初代・三遊亭円遊
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