カテゴリ: 榎本武揚・戊辰・西南・円通寺・赤穂浪士・白虎隊関連
8072 駒井政五郎墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
8061 馬島甫仙墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
慶応元年より松陰の遺命を思いて松下村塾で教え、傍らに松陰の遺稿整理に当たる。
8051 大和国之助招魂碑(山口県萩市椿東1647・東光寺)
8038 松島剛蔵招魂墓(山口県萩市椿東1647・東光寺)
生涯長州藩の藩医である松島瑞蟠の長男として文政8年(1825年)3月6日、萩中ノ倉に生まれた。弟に吉田松陰の妹婿である小田村伊之助(楫取素彦)と小倉健作(松田謙三)がいる。天保2年(1831年)、父・瑞蟠が狂を発し廃人となったため家督を継ぐ。禄39石余り。
江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。
安政4年(1857年)、長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出する。万延元年(1860年)、藩はこれを許可し、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込み、外洋を航海し同年6月、江戸に入る。同年7月、桂小五郎に水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して行動することを約した「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸艦内で結ぶ。
文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯組を結成する。12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲撃した(英国公使館焼き討ち事件)。
文久3年(1863年)5月、下関戦争に参加、直接に自身が指揮する庚申丸でアメリカ商船を攻撃した。これを皮切りに、23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせた。ただ驚愕するばかりの両艦はなんとか逃走した。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたつ。同年6月、米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあい、他の長州艦船(癸亥丸、壬戌丸)と共に庚申丸は沈没した。大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日にはフランス軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)が下関を砲撃した。250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。松島はこの戦闘の際に負傷している。
元治元年(1864年)、禁門の変が起こり、久坂玄瑞らが戦死する。幕府による第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったため、松島は萩野山獄に投ぜられる。同年12月16日、「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が萩に伝わるや、その3日後の12月19日に処刑された。享年40(満39歳没)。
辞世の句は
かねてより たてしこゝろの たゆむべき たとへこの身は くちはてぬとも[1]
である。
明治時代になって正四位の位が贈られた。誕生の地には今も石碑が立ち、墓は山口県萩市の東光寺にある。
著書
(長州藩)松島剛蔵「覚」書という書籍が現存する。
登場する作品
・花燃ゆ - 2015年、NHK、演:津田寛治
脚注
1. #『勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最期の言葉!』136P
参考文献
・蒲生重章「松島剛蔵傳」:『近世偉人傳・二編』(1878年)より
7993 四代目・岩井半四郎墓(台東区谷中1-4-9・本寿寺)
7992 木村岡右衛門辞世の句碑(松山市末広町14-1・興聖寺)
7991 大高源吾辞世の句碑(松山市末広町14-1・興聖寺)
7989 伊藤甲子太郎武明墓(京都四条大宮町37番地・光縁寺)
7930 原田粂之進墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
7870 前原伊助宅跡(墨田区両国3-2-4)
この辺りに、前原伊助宅がありました。
伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣・前原自久の長男として生まれ、延宝四年 ( 一六七六 ) に家督を継ぎます。
金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動をとりました。
初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤穂盟伝」を著しています。
(案内板より)
〇 前原伊助
前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。
生涯
寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれる。
延宝4年10月9日(1676年11月14日)、父・自久の死により元服のうえ家督を継いだ(10石3人扶持)。宗房は江戸詰めの金奉行(蔵奉行とも)として勤仕したため、財政に明るかった。これが後に商人に成りすます際に大いに役に立った。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)に起きた主君・浅野長矩の吉良義央への刃傷の際に前原は江戸にいた。
その後、江戸急進派として行動し、はじめ大石良雄らの盟約に加わらず、別行動をとった。はじめ日本橋あたりに住んでいたが、9月には吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐった。11月に良雄が第一次江戸下向をした際にその盟約に加わる。元禄15年(1702年)4月には「小豆屋善兵衛」と称していた神崎則休と合流して一緒に暮らした。6月には浅草茶屋にて杉野次房・武林隆重・倉橋武幸・不破正種・勝田武尭らと同盟の誓約をする。また討ち入りの直前には亡君刃傷から討ち入りまでの経過を漢文体で書き綴った『赤城盟伝』を著しており(則休が注釈をいれ、木村貞行が序文を寄せた)、このなかで脱盟者のことを辛辣に評している。
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年2月4日(1703年3月20日)に毛利家家臣・榊政右衛門の介錯で切腹した。享年40。主君・長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃補天剣信士。
なお、『忠臣蔵』のドラマでは、宗房は吉良邸探索中に小林平八郎か清水一学に察知されて拷問を受ける場面を描かれることが多いが、特に史実に基づく確証がある話ではない。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
⇧ 前原伊助
7837 赤穂浪士休息の地(墨田区両国1)
7644 水野忠重墓(広島県福山市寺町4-24・賢忠寺)
生涯
天文10年(1541年)、尾張国知多郡を治めた国人領主・水野忠政の九男(末子)として誕生。『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)によれば、母は忠政の継室である大河内元綱の養女[2][注釈 3]。 初名は忠勝[1][3]。
初め水野家惣領であった異母兄・水野信元に仕える。信元が織田信長に属したので、信長の陪臣となった。
永禄元年(1558年)の尾張緒川・石瀬での戦いに参加[1]。一番に槍合わせをして相手を突き崩し、兄・忠分に譲って首を獲らせた。信長はその話を聞いて、自ら首を獲るよりも優れた行いだと感心したという[4]。永禄3年(1560年)の刈谷十八丁畷の戦いでも軍功を挙げたという[4][1]。
永禄4年(1561年)、三河岡崎城の松平元康(徳川家康)の傘下に入った[1]。同年の春、清洲同盟によって織田氏と松平氏が同盟で結ばれたとはいえ、信元は一貫して信長に属しており、この頃に忠重だけが信元から離れて、甥である元康(家康)に属したと推測される[5]。『本朝通鑑』ではこの理由を兄弟不和によるとして、『寛政譜』でも兄との不和により、三河国鷲塚に蟄居していたとされている[4]。
永禄6年(1563年)から翌年にかけての三河一向一揆の鎮圧で戦功をあげた。八面六臂の活躍で、酒井正親が籠る西尾城を救援して一揆軍の勇者・馬場平太夫を討ち取り[4]、上和田城の合戦では一揆方となった蜂屋貞次と戦って取り逃がしたものの、小豆坂の合戦では安城の細畷で一揆軍大将・石川新七郎を討ち取った[4][注釈 4]。
武田信玄の駿河侵攻に呼応して、徳川勢も侵攻を開始すると、永禄12年(1569年)正月、 入瀬山[注釈 5]に陣を敷いた。今川氏真が籠もる遠江掛川城の攻撃に加わり、1月21日の天王山の戦いで、今川方の伊東武兵衛、大谷七十郎を討ち取った[4]。
元亀元年(1570年)、小谷城の戦いおよび姉川の戦いに従軍して戦功があった[4]。
元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の戦いで軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った[1][注釈 6]。これは家康の影武者を務めたためではないか、と考えられる[6]。
天正2年(1574年)、家康は遠江犬居城(乾城)を攻めたが落とせずに軍を収める際、却って天野景貫の反撃を受けるが、忠重と大久保忠世が殿軍を務めて無事に帰還した[4]。
天正3年(1575年)、武田勝頼が三河吉田城を襲った時、忠重が城を守るが、出撃して交戦した際に右肩に鉄砲玉を受けて負傷し、玉が肉に留まって出ない状態で、左に槍をもって指揮を続けた[7]。しかしこの傷のせいで次の長篠の戦いには参戦できず[8]、家臣の水野清久(正重)を代理で参加させたという[注釈 7]。
同年、信元が武田氏との内通の嫌疑(美濃岩村城の秋山信友に兵糧米を売った容疑)をかけられて岡崎へ逃亡したが、信長の命令で家康は信元親子を自害させた[9]。『寛政譜』では佐久間信盛の讒言とされるが[10]、これは信元の刈谷城が信盛に与えられたことから生まれた憶測という[9]。
天正7年(1579年)より凡そ3年間、家康は度々高天神城を攻囲したが、忠重はその都度戦い、しばしば戦功があった[8]。
天正8年(1580年)8月、佐久間信盛が織田家を追放されて三河刈谷城も没収されると、忠重は信長より刈谷城を与えられ、9月23日に入城した[5]。『寛政譜』では、信元の冤罪が明らかになり、信長が悔いて、忠重を招いて水野家を継がせたとする[8]。水野家当主となったことで忠重は信長の家臣となり、織田信忠の軍団に組み込まれた推測される[5]。
天正9年(1581年)1月4日、信忠の命により同族の水野守隆とともに横須賀城の番手として派遣された[5]。この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている。この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている[注釈 8]。
天正10年(1582年)2月、信忠の甲州征伐に従軍。武田滅亡の後に信長が凱旋する途中、三河
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。
天正壬午の乱に参加。天正10年(1582年)9月5日[11]、忠重率いる刈谷衆が甲斐国の徳川方の砦に着陣。忠重の出陣は、家康の要請に応じた「織田政権」の指示によるものとされている。これ以前の同年8月12日に行われた黒駒合戦に、嫡子の勝成は参加して大勝している。先行した勝成の出陣が「織田政権」によるものか、家康の要請によるものか、あるいは、忠重の独断によるものかは判然としない。[12]
天正12年(1584年)3月10日、羽柴秀吉は、信雄方の水野忠重、丹羽氏次、高木貞友等を(家臣として)招くが、応じなかった[13]。同月、小牧の戦いに信雄方として従軍し、13日、子・勝成は伊勢神戸城の救援を命じられ[14]、忠重は(信雄に誅殺された)岡田重孝の弟・岡田善同の籠もった
10月に秀吉は織田信雄の籠もる桑名城を包囲したが、忠重らは堅く守ってこれを退けた[8]。桑名対陣中、嫡男の勝成が、忠重の家臣・富永半兵衛に讒言されて父に罰を受けたといって、これを殺害した。小牧でこの弁明を受けた忠重は許さずに追放したので、勝成は諸国放浪した[15]。
11月15日、信雄が秀吉と単独講和して秀吉の臣下となったので、忠重は陪臣の身分となった。天正13年(1585年)2月、秀吉が雑賀攻めの軍を起こすと、信雄から同月12日に出陣の命令を受けている[5]。
時期ははっきりしないが、この頃に忠重は秀吉の直臣となったようである[5]。9月、秀吉に摂津豊島郡内の神田728石の加増を与えられているが[5][3]、『寛政譜』ではこれを勝成への扶助とする[15]。秀吉は桑名対陣での働きや、多年の功績を評価して、石川数正と同じ武者奉行とした[8]。
天正15年(1587年)の九州の役に参加[5]。同年7月29日、従五位下和泉守に叙任されて、豊臣姓を賜った[8][5][16]。
天正18年(1590年)の小田原の役では、250騎を率いた。同年9月4日、伊勢神戸城4万石に移封された[3][17][5]。
文禄元年(1592年)、文禄の役では、『松浦古事記』の記録に名護屋御留守番陣衆の中に水野和泉守の名があり、肥前名護屋城に在陣した[5]。
文禄3年(1595年)、伏見城普請を分担[3]。経緯や理由はわからないが、同年に再び本領・三河刈谷城主に戻され[3]、『当代記』によれば石高は2万石とあるので、減封になったようである[5]。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、遺物左文字の刀を受領した[3]。
慶長5年(1600年)、家康の会津征伐には子の勝成が従軍し、三河国に留まる。7月19日、三河国池鯉鮒[注釈 9]において浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、同席した加賀井重望(秀望)と口論になって殺害された[17][5][注釈 10]。享年60。兄・信元と同じ三河楞厳寺の水野家の霊廟に葬られた[17]が、子の勝成が追善供養のために建立した広島県福山市の賢忠寺にも墓がある。
子孫
9代将軍徳川家重の生母深徳院と12代将軍徳川家慶の生母香琳院は忠重の子孫である。
水野忠重―忠直―久仁子―内藤守政―女子(大久保忠直室)―深徳院―徳川家重
水野忠重―忠直―女子(木下利次室)―木下利値―女子(天野重供室)―天野久斗―久豊―女子(押田敏勝室)―香琳院―徳川家慶
詳しいことは、『水野忠重ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
(wikiより)
⇧ 水野忠重
7493 梅容童女墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
7485 清巌院殿墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
7471 江坂栄次郎墓(兵庫県姫路市亀山324・本徳寺)
7448 息継ぎ井戸(兵庫県赤穂市加里屋息継ぎ広場)
7444 義士家族墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
7438 大石家先祖の墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
7434 吉田忠左衛門 兼亮墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。
生涯
寛永17年(1640年)、笠間藩主・浅野長直の家臣・吉田之貫の長男として笠間に生まれる。母は備中松山藩水谷家家臣貝賀左門の娘。弟に貝賀友信がいる。
正保2年(1645年)に浅野家が赤穂へ移封されたので、吉田家もこれに従った。兼亮も赤穂藩に仕え、足軽頭となった。また、浅野家中の甲州流軍学者近藤正純や近藤正憲に甲州流軍学、水沼久太夫から槍をそれぞれ学んだ。寛文3年(1663年)には熊井新八の娘と結婚、吉田九助(長男・早世)、吉田成重(次男・早世)、吉田兼貞(三男・嫡男)、吉田兼直(四男・吉田伝内)、吉田さん(長女・伊藤治興室)、吉田すえ(次女・那須高矩室)の四男二女を儲けた。また、寛文12年(1672年)には8歳の寺坂信行の世話をし吉田家の奉公人とした。貞享3年(1686年)には、赤穂浅野家の飛領の播磨国加東郡の郡代となり、200石役料50石を知行した。このときに寺坂もお供して加東郡へ向かい、この際に吉田配下の浅野家の足軽としている。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。この事件の報が赤穂に伝えられるとすぐに赤穂城へ駈けつけ、以後一貫して筆頭家老大石良雄派として行動する。なお、赤穂城での会議中に他藩の間者(スパイ)竹井某を捕らえる働きがあったといわれる。開城後は大石良雄とともに藩政残務処理を命じられ、遠林寺で事務にあたった。この間は江戸幕府より十人扶持が支給されたといわれる。残務処理が終わったのちには播磨国三木町(現:兵庫県三木市)に移る。
元禄15年(1702年)3月、近松行重とともに江戸に下り、吉良義央への仇討ちを強硬に主張する堀部武庸ら急進派の説得にあたっている。その後も田口一真の変名で江戸に留まり、江戸の情報を京都の大石に伝える役目を果たす。同年7月、長矩の弟・浅野長広が広島の浅野宗家に永預けの処分を受けたことを大石に伝える。これにより浅野家再興が絶望的となり、大石は円山会議において以降は仇討一本とすることを決定した。大石の江戸下向の際には鎌倉まで迎えに出迎え、また大石が関東で最初に滞在した川崎平間村の軽部五兵衛宅離れも兼亮が手配したものである。
12月15日未明、赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、兼亮は裏門隊の大将大石良金の後見にあたった。なお、討ち入りの最中に吉良の姿が見当たらず、浪士たちは焦りの色を見せるが、兼亮は同志を叱咤して探させたといわれる。討ち入り後、浪士たちは浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ引き揚げるが、途中、大石の命により富森正因とともに一行から離れて大目付仙石久尚の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出する役割を任された。また吉良家の隣家土屋逵直邸にも兼亮が吉良を討ち取った旨の報告をしている。その後、幕府の命により大石良雄とともに熊本藩主細川綱利の下屋敷にお預けとなる。
元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・雨森房親の介錯で切腹。享年64。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃仲光剣信士。
備考
・兼亮は小柄な大石良雄と違って大柄な体格で容貌魁偉であった。よほど体が大きかったらしく、細川家家臣・堀内重勝が書き遺したところによると兼亮は「自分の体は大きく、切腹後には無様な姿になりそうなのですぐに風呂敷で包んでしまってほしい」といって費用のお金を細川家に渡したという。
・石高は200石と原元辰(300石)や片岡高房(350石)に劣るが、武芸にも秀でて人望もあり、年齢も高かったので同士の間では大石に次ぐ人物として重んじられた。
小説
・「赤穂浪士の参謀」(菊池道人、廣済堂出版、1999年、ISBN 978-4331607244)
関連項目
・大石神社
・本妙寺 ‐ 境内に墓がある。
(wikiより)
吉田兼亮
7433 原惣右衛門 元辰墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
原 元辰(はら もととき、慶安元年(1648年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は惣右衛門(そうえもん)。変名は、和田元真、前田善蔵[1]。
生涯
慶安元年(1648年)、米沢藩主・上杉綱勝家臣(馬廻り100石)のち大聖寺藩主・前田利治家臣(長松院付き)・原定辰[2]の長男として誕生。母は和田将監(小笠原家家臣)の娘。弟に岡島常樹。
父・定辰は承応3年(1654年)頃にゆえあって前田家ならびに上杉家を離れて浪人するが、延宝3年(1675年)、元辰は赤穂藩主・浅野長直に仕官し、後に弟の常樹も赤穂藩に仕えた。延宝7年(1679年)、赤穂藩士・長沢六郎右衛門の娘を妻に迎え、彼女との間に4女を儲けたが、元禄5年(1692年)に妻は双生児出産のために死去したという。後妻として水野七郎右衛門(姫路藩本多家家臣)の娘を迎えた。元禄6年(1693年)の分限帳には250石を受けており、元禄10年(1697年)8月14日、50石加増されて都合300石、また足軽頭に就任した。
元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役にあたっていた主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。事変が起きたときは伝奏屋敷に詰めており、伝奏屋敷からの退去の指揮をとり、浅野家の什器類を運び出した。その手際のよさに江戸幕府の目付は感心したという。その夜、大石信清とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ向かった。通常15日の道程を4日で走破し、3月19日、浅野長矩切腹の報を赤穂へ知らせた。家老・大石良雄は総登城を命じ、連日評定が行われた。評定は篭城討死か開城恭順かで対立し、元辰は開城恭順を主張して大石に異議を申し立てる家老・大野知房に詰め寄り退去させている。
赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石良雄の御家再興運動を補佐し、同年9月には仇討ちを主張する急進派を説得するため大高忠雄らと江戸へ下った。ところが逆に堀部武庸らに同調して急進派の中心となり、京都山科に赴き大石に仇討ちの決行を迫っている。なお、仇討ちを決行しようとしない大石に業を煮やした急進派は一時、元辰を旗頭に討ち入りを図ったといわれている。元禄15年(1702年)7月、幕府は浅野長矩の実弟・浅野長広の広島宗家永預けの処分を決め、御家再興の望みはなくなった。これを受けて、京都円山の会議にて大石は仇討ちを決定すると、同年10月に元辰は岡島常樹、間光延らと江戸へ下る。
12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石良雄を助けて司令にあたった。邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられている。
細川綱利屋敷へお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣増田貞右衛門の介錯により切腹。享年56。法名は、刃峰毛劔信士。
子孫
・切腹の折、3歳だった息子は出家して「春好」と名乗る。享保8年(1725年)広島藩浅野本家に250石にて召抱えられる。菩提を弔うための供養墓が福昌山 圓隆寺にある。後年の広島藩浅野家「侍帳」に原氏がみられないため、絶家もしくは上杉家中のように山田姓などに改めた可能性がある。
・赤穂事件により罪が及ぶ連座を避けるため、元辰は上杉家に残る原一族を義絶している。従兄弟の子孫が米沢藩士として続いている(原姓のほか鳥羽・山田氏がみられる)[3]。
遺品
・元辰の遺品は泉岳寺の住職が無断で売却し、寺の費用に充てたため散逸した。21世紀になり、元辰が使った可能性のある脇差が発見され、赤穂大石神社は真贋鑑定ののち公開予定と発表した[4]。
創作・巷説
仇討ちを決行しない元辰を老母が自害して諌めたという話がこんにちに伝わっているが、後世の創作である。
脚注
1. 父・定辰は元辰生誕時、前田家家臣。浪人は承応3年(1654年)頃とされる。
2. 上杉綱勝の姫が加賀大聖寺藩前田家に嫁ぐ際に 付き人となり前田家に派遣された。(『国宝 上杉家文書』より「上杉家御年譜」)
3. 同「上杉候家士分限簿」(写しが米沢市立図書館所蔵)
4. 「読売新聞・地方版」(2009.11.14)
関連項目
・大石神社
・福昌山 圓隆寺
(wikiより)
原元辰
7432 片岡源五右衛門 高房墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。
生涯
寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次(知行300石御蔵米120石)の長男として名古屋に生まれる。生母が側室であったため、寛文10年(1670年)に正室の子である熊井次常が生まれると、嫡男たる地位を奪われた。高房は弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされたといわれる。なお他にも熊井重康、熊井重長など弟2人、妹2人がいる。
延宝2年(1674年)、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門(知行100石)に養子に入った。父・熊井重次の弟・長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。
延宝3年(1675年)、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。
そのため、しばしば家禄の加増を受けており、貞享3年(1686年)4月9日と元禄4年(1691年)1月12日にそれぞれ100石の加増があった。なお、この際のいずれも「片岡新六」名義になっており、これ以降の段階で源五右衛門に改名したとみられる。またこの頃には浅野家臣・八嶋惣左衛門の娘を妻に迎え、元禄5年(1692年)に長男新六、元禄8年(1695年)に次男六之助、元禄10年(1697年)に長女るい子(津金善次郎室)、元禄12年(1699年)、次女の片岡中右衛門室を儲けた。元禄12年(1699年)1月12日にはさらに50石加増され、都合350石を知行した。これは赤穂浪士の中では1500石の大石良雄に次いで家禄の高かった。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。長矩は陸奥国一関藩主田村建顕屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まったが、切腹の副検死役である多門重共(幕府目付)が記した『多門筆記』によると、高房は最期に一目浅野長矩と会うことができたとされている。また田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、浅野長矩は高房と礒貝正久に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている(ただし、文章がしり切れてしまっており不自然な内容であるため、この後に続く文は江戸幕府を憚って田村家で消された可能性が高い)。
高房は礒貝正久や田中貞四郎ら長矩の側用人たちと一緒に長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良義央への仇討ちを誓った。吉良への仇討ちの同志を募るため、赤穂へ赴いたが、このとき赤穂藩では殉死切腹が藩士達の主流意見であったため、仇討ちの同志は集まらなかった。赤穂で同志を募ることを諦めた高房らは、大石良雄の義盟にも加わらず、開城後に江戸に戻っていった。しかし、堀部武庸ら江戸急進派ともうまくいかず、礒貝ら長矩側近たちと一緒に独自のグループをつくって、吉良義央の首を狙った。結局、元禄15年(1702年)3月、江戸急進派鎮撫のために江戸に下ってきた吉田兼亮から説得を受けたのを機に、ようやく大石の義盟に加わる決意をした。その後、吉岡勝兵衛と称して江戸南八丁堀湊町に借家。閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)達に連座しないように義絶状を送っている。
12月15日未明の吉良屋敷討ち入りにおいては、高房は表門隊に属して屋内において十文字槍で戦った。また富森正因・武林隆重と組にされていた(山鹿流兵法に基づいて三人一組の編成になっていた)。2時間あまりの激闘の末に、吉良義央を討ち取って本懐を果たした。赤穂浪士一党は泉岳寺へ引き上げ、吉良義央の首級を浅野長矩の墓前に供えて仇討ちを報告している。
討ち入り後に、高房は大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の中屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕命により、切腹。介錯人は細川家家臣の二宮久重。享年37。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃勘要剣信士。なお名古屋の乾徳寺にも墓が置かれた。この墓はのちに平和公園に移されている。
男子の新六と六之助は、同年5月に出家したため、連座を免れた。
内匠頭最期の目通り
片岡高房といえば、浅野長矩との最期の目通りでよく知られ、長矩が切腹の坐に向かうときに、高房が庭先にひかえて涙ながらに無言の別れをする場面は、『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどではよく描かれている。この場面の根拠となっているのは、浅野長矩切腹の副検死役だった幕府目付・多門重共(多門伝八郎)が記した『多門筆記』である。
それによると、高房は「最期に一目我が主にお目通りを」と田村邸の家臣達に懇願したが、このことを田村建顕が、正検死役の庄田安利(幕府大目付)に告げ対応を伺ったが、庄田は取り合おうとしなかった。そこへ副検死役の多門と大久保忠鎮が現れ、2人は庄田に「内匠頭に判決を読み渡している内にその者をつれて来なさい。内匠頭と距離をとらせ、刀を持たせず、その者の周りを取り囲んでいれば一目見るぐらいならば問題はない。もしその者が主君を助けようと飛び出したとしても田村家の家臣も大勢いるのだから、取り押さえられないことはないだろう。最後に一目会いたいという願いを叶えてやるのは人間として当然の慈悲であると心得るが、いかがか?」と迫ったところ、庄田は「お好きにされよ」とだけ答えた。こうして高房は最期に一目浅野長矩に目通りできた、とされている。
ただしこれらは多門の自称であり、『内匠頭お預かり一件』はじめ田村家の資料からそのような情報は引き出せない。元禄赤穂事件研究家の間では「多門伝八郎には虚言癖がある」とする説が主流になっている。田村家が幕府に遠慮して資料を残さなかった可能性もあるので、この一件に関しても、多門の虚言であるとは断定できない。
関連項目
・大石神社
・大石良雄外十六人忠烈の跡
(wikiより)
片岡源五右衛門
7431 間瀬久太夫 正明墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫、久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。
生涯
寛永18年(1641年)、赤穂浅野家臣・間瀬権大夫の長男として誕生。母は浅野家家臣多川九左衛門の娘。正保2年(1645年)に父が隠居したため家督相続。赤穂藩では200石の藩大目付(役料10石)。刈部弥次郎の娘を妻に迎え、その間に間瀬正辰と間瀬正岑を儲けた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にいた。4月18日には収城目付荒木政羽らの城検分の案内をしている。大石良雄に神文血判を提出して赤穂藩の飛び領の加東郡の本徳寺領へ移った。老齢ながら忠義の心は厚く、大石にたびたび決起を迫った。元禄15年(1702年)8月には一族の多川九左衛門が脱盟しているが、間瀬親子は残った。9月には息子の正辰が江戸へ下向し、10月には久大夫も江戸下向した。三橋浄貞と称して新麹町四丁目の中村正辰の借家に入った。なお、三橋は祖父の苗字であった。
吉良邸へ討ち入りし吉良義央の首をあげたあとは、熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣・本庄喜助の介錯で切腹した。享年63。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃誉道剣信士。
なお、次男の間瀬正岑は幼いため討ち入りには加わらなかったが、父や兄の切腹後、一族連座して伊豆大島へ流された。その後、伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児(ほかに吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)は、瑤泉院(浅野長矩正室)の赦免運動などが功を奏して、宝永3年(1706年)8月に赦免されたが、正岑だけはそれを目前にして大島で死去している。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
間瀬久太夫正明
7430 小野寺十内 秀和墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。
生涯
寛永10年(1643年)、浅野家家臣・小野寺又八の長男として常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)に誕生。母は多川九左衛門女。弟に岡野包住(岡野包秀の父)、姉に貞立尼(大高忠晴の室。大高忠雄と小野寺秀富の母)がいる。また間瀬正明・正辰父子、中村元辰なども縁戚にあたる。
赤穂藩士として仕え、150石を知行。寛文末から延宝初年ごろの間に灰方佐五右衛門の娘の丹と結婚し、丹と秀和は仲睦まじいことで知られ、丹の妹・いよも秀和の養女に迎えられた。また、秀和は武道のみならず和歌、古典、儒学にも通じ、元禄7年(1694年)に京都留守居役(役料70石)を拝命したのを機に、京で儒者・伊藤仁斎に経史を学び、さらに夫婦で歌人・金勝慶安に師事して数々の和歌を残している。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で赤穂へ駆けつけた。赤穂城開城では大石良雄の右腕として活動。江戸幕府目付・荒木政羽、榊原政殊の接待役にあたった。
赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻った。基本的にはその後も大石派(お家再興優先派)として行動し、7月に大石が長矩の親族である戸田氏定(大垣藩主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道している。その後、長矩の実弟・浅野長広に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石良雄は仇討ちを確定し、元禄15年(1702年)10月に秀和も瀬尾孫左衛門とともに江戸へ下り、大石の嫡男・大石良金や養子秀富と麹町中村宿宅にて同居した。偽名として「仙北十庵」と名乗る。その後も討ち入りまでの間、大石良雄をよく補佐し続けた秀和だが、元禄15年(1702年)4月21日には養女いよ、9月5日には弟の岡野包住、9月9日には母と、この頃立て続けに血縁を失っている。
12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田兼亮、間光延とともに裏門隊大将大石良金の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、吉田とともにこれにあたり、秀和は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の土屋逵直邸で家士が騒いでいるので、秀和は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。秀和はその後、二人の敵を倒している。
討ち入り後は大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣・横井時武の介錯で切腹。享年61。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃以串剣信士。
なお妻の丹は、秀和の死後の6月18日、京都本圀寺で絶食して自害し、夫の後を追った。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
小野寺秀和
7429 間喜兵衛 光延墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
間 光延(はざま みつのぶ、寛永12年(1635年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛。
生涯
寛永12年(1635年)、誕生。子に長男・間光興、次男(妾腹)に間光風がいる。
赤穂藩では勝手方吟味役(100石)として仕えた。また、武芸は父より天流剣術を学び、諸流の剣術流派の系譜をまとめた『剣術系図』を著わしている。
元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹、赤穂藩は改易と決まった。このとき光延は赤穂におり、長男・光興とともに大石良雄の義盟に加わった。また、次男の光風は故あって江戸へ出奔していたが、後に義盟に加わった。元禄15年(1702年)10月、原元辰らとともに江戸へ下り、杣庄喜斎と変名して光興、光風とともに新麹町の借家に潜伏する。
同年12月14日の吉良邸討ち入りでは、裏門隊に属して吉田兼亮、小野寺秀和とともに大石良金の後見にあたる。この際、槍に「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」と書いた短冊を付けていたという。また、老齢ながら敵のひとりを槍で倒している。
討ち入り後は細川綱利屋敷にお預けの身となる。細川家の接判役の堀内重勝の覚書によれば、光延は物堅い性格で皆と話もせず、いつも黙って座っていたという。
元禄16年(1703年)2月3日、江戸幕府の命により切腹。享年69。戒名は刃泉如劔信士。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
間光延
7428 礒貝十郎左衛門 正久墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
礒貝 正久(いそがい まさひさ、延宝7年(1679年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十郎左衛門(じゅうろうざえもん)。
生涯
延宝7年(1679年) 、礒貝正次の子として誕生。母は貞柳尼。
父・正次は幕臣・松平隼人正に仕えていたが、主家が断絶して浪人になると、正久は京都愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳のとき、父と懇意だった赤穂藩士・堀部武庸の推挙によって浅野長矩に側小姓として仕えた。美童で利発だったことから長矩に寵愛され、物頭側用人(150石)にまで引き立てられた。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。長矩は切腹を命じられ、田村建顕の屋敷に預けられ、その日のうちに切腹した。長矩は正久と側用人・片岡高房に宛てて「このたびのこと、かねてより知らせおくべきであった」との遺言を残している。正久は高房らとともに長矩の遺体を引き取り、泉岳寺に葬って、髻を切って仇討ちを誓った。その後、正久は高房とともに赤穂へ赴き、筆頭家老・大石良雄に仇討ちを説いた。浅野家再興を第一と考えていた良雄はこれに同意せず、失望した正久は江戸に戻り独自の行動を取った。江戸では内藤十郎左衛門と変名し、酒屋を表向きの生業にして仇討ちの機会をうかがった。元禄15年(1702年)3月、江戸に下った吉田兼亮の説得により、良雄の義盟に加わる。なお、『忠臣蔵』の物語では美男であったので吉良家の女中に近づき内情を探ったという。
12月15日(1703年1月31日)未明、47人の赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、正久は裏門隊に属して手槍を持って屋内へ突入した。夜中だったため屋敷内は暗く浪士たちの進退は自由でなかったが、正久が機転を働かせて吉良家の台所役を脅して蝋燭を出させ、それを各室に立てて屋敷内を灯した。後の取調べで、江戸幕府大目付・仙石久尚はその機転を大いに褒めたという。赤穂浪士は義央を討ち取って本懐を果たし、泉岳寺へ引き揚げる際に、正久の家が往路にあったため大石良雄に病床の母・貞柳尼を見舞うよう勧められるが、正久は固持している。
その後、正久は細川綱利の屋敷にお預けとなる。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により切腹。享年25。戒名は、刃周求劔信士。
なお、正久は幼少より能や太鼓に秀でていたが、主君の長矩が芸事を好まないことを知りやめている。しかし、琴だけはひそかに続けており、切腹後の遺品に琴の爪があったといわれる。
関連項目
・大石神社
7427 堀部弥兵衛 金丸墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。
生涯
寛永4年(1627年)、浅野長重の家臣・堀部綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。母は不詳。
堀部家は祖父・助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死去したため、若年より播磨国赤穂藩士として浅野長直、長友、長矩の3代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となり300石を知行した。
妻に山田氏の女、後妻として忠見氏の女・わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけた。ところが、元禄5年(1692年)12月に長男・弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺され(本多は金丸が討ち取ったという)、後妻わかの弟・忠見政常の次男・堀部言真を養子に迎えたが、藩主・浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった。元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人・中山安兵衛(堀部武庸)を見込み、娘・ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、金丸は隠居(隠居料20石)して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。
元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。金丸は藩邸を引き払い馬淵一郎右衛門、本所にある越前松平家の家老・本多長員屋敷内に住居を持つ江戸常府の本多家次席留守居・忠見政常宅に仮住まいした後、両国橋の西にある矢之御蔵跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越した。
金丸は婿養子の武庸とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)、大石良雄は仇討ちを決定して江戸に下り、金丸は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、討ち入り参加者は金丸宅に立ち寄ってからそれぞれの集合場所に行くことになった。なお、吉田兼亮らは金丸宅を辞してから本所林町五丁目に武庸が借りていた相宅に行く途中、両国橋の東の竪川の川岸にある「亀田屋」という茶屋(遊女屋)に寄り、最後の宴を催した。なお、そのときにでた蕎麦のことから、「討ち入り前に蕎麦屋の二階に集合した」という話が創作されたといわれる。
12月15日未明、大石ら47人の赤穂浪士は吉良義央の屋敷に討ち入る。金丸は表門隊に属していたが、自宅から出て遅れて東門前に到着した。高齢のため、梯子を使って屋根に上るにも連れてきた家僕の助けを借りたという。討ち入り後は、武庸の従兄(佐藤条衛門)に付き添われて両国橋前の広場まで行き、そこからは泉岳寺まで籠に乗って行った。泉岳寺からお預け先の細川綱利屋敷に行く予定が変更になり、大目付の仙石久尚屋敷まで行ってそこから細川屋敷に行った。両行程とも金丸は籠に乗って行った。
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった。
なお、もう一人の養子・言真もに討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので金丸から拒否され、連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた。金丸と武庸の切腹後は堀部家を継ぎ、熊本藩主・細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続した。
参考文献
・根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。堀部弥兵衛についての逸話を収録。
・『忠臣蔵』巻三・史料集(赤穂市)。
・福井県『南条郡史』。
・『日本随筆大成』(吉川弘文館)
・『佐藤条衛門覚書』(討ち入りを援助した堀部武庸の従兄の記録/翻刻出版・中央義士会)。
・『御府内場末往還其外沿革図書』(幕府普請方作成)
関連項目
・大石良雄外十六人忠烈の跡
(wikiより)
堀部金丸 ( 弥兵衛 )
7426 富森助右衛門 正因墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
富森 正因(とみのもり まさより、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は助右衛門(すけえもん)。
生涯
寛文10年(1670年)、赤穂藩御留守居役・富森助太夫の子として誕生。母は山本源五右衛門の娘。
父が早くに死去したため幼くして浅野長矩に仕え、天和3年(1683年)に小姓になり、元禄3年(1690年)に江戸詰馬廻兼使番200石となった。いついかなる御用を仰せ付かってもよいように20両の金子を常に懐に入れていたという。また、俳諧をたしなみ宝井其角に師事し、春帆と号した。
元禄6年(1693年)12月、備中松山藩水谷家が改易となり、浅野長矩が収城使に任じられると、江戸から国許へ下準備を知らせる急使に任じられ、通常15日かかるところ6日で赤穂に到着し、家中の者たちを驚かせている。浅野長矩が勅使御馳走役に任じられ、元禄14年(1701年)3月、勅使が江戸へ下向すると高田郡兵衛と供に品川まで出迎え、伝奏屋敷まで案内している。しかし、同年3月14日、江戸城松之大廊下での吉良義央への刃傷により、浅野長矩が切腹。この時、正因の母は深く憤り、不公平な裁きをした御政道を批判して、復仇をして武士としての本懐を果たすよう正因にいったとされる。
赤穂藩改易後は川崎の平間村に母の隠居所を建てて移り、山本長左衛門と変名して隠れ住んだ。仇討ちが決まると、江戸の新麹町五丁目の借家へ移った。平間村の隠居所は、元禄15年(1702年)10月、大石良雄の江戸下向に際しての宿に活用されている。新麹町五丁目に移ると吉良邸の探索を行い、屋敷の構造から屋内での戦いが主体となると考え、屋内戦に有利な9尺の短槍を考案した。
同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦った。母から贈られた女小袖を肌につけ、姓名を記した合符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉」と書いていた。吉良を討ち取り、赤穂浪士一行は浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ向かったが、正因は吉田兼亮とともに一行から離れて大目付仙石久尚の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出した。その後、大石良雄らとともに細川綱利の屋敷にお預けとなる。
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により切腹。享年34。戒名は、刃勇相剣信士。
事件当時2歳だった長男の富森長太郎は母方の叔父に預けられ、大赦後に壬生藩加藤家に仕えた。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
冨森助右衛門正因
7425 近松勘六 行重墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
近松 行重 (ちかまつ ゆきしげ、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘六(かんろく)。
生涯
寛文10年(1670年)、近松行生の子として誕生。異父弟に奥田行高がいる。
源義高の末流を称し、先祖は近江国の佐々木六角家の典医・近松家を継いだ。祖父の近松伊看は豊臣秀頼に仕えて、後に法眼に叙せられる医師となり、三次浅野家に仕えた。その後、浅野長直の懇願により赤穂藩の典医として仕えた。伊看は山鹿素行と親交があり、子の行生に山鹿流兵学を修めさせて士分として仕えさせた。行重も赤穂藩士として馬廻(250石)として仕え、また山鹿流兵学も修めた。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で主君・浅野長矩が吉良義央へ刃傷におよび、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。赤穂城開城後、早水満尭と高野山へ登り、浅野長矩の碑を建立している。その後、近松家本家がある近江国野洲郡蛭田(現・滋賀県野洲市)へ隠れ住み、一時本家近松伊井の猶子となり[1]、大石良雄ら同志と連絡をとりあった。元禄15年(1702年)2月、江戸急進派の鎮撫のため吉田兼亮とともに江戸へ下る。田口三介と変名して吉田とともに新麹町に借家を借りて潜伏した。8月に京都へ戻り、大石良雄に江戸の状況を報告。10月、大石に同行して江戸へ下った。江戸に着くと、三浦十右衛門と変名して石町三丁目に潜んだ。
12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して屋外の守りについた。その際に敵と激しく斬り結んだが泉水に叩き落され、味方が駆けつけ危ういところを救われている(この相手は山吉盛侍ともいわれる)。また、泉水に落ちたときに左股に深手を負い、引き上げの際には駕籠に乗せられている。
その後、細川綱利の屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により切腹。享年34。戒名は、刃随露劔信士。墓所は徳島県徳島市の慈光寺と滋賀県野洲市の錦織寺。
備考
行重には甚三郎という家僕がおり、浪人となった行重は暇を出そうとしたが、あくまでも参仕するよう願い、常に付き従った。討ち入り前夜には大石良雄に命じられて、瑤泉院に「金銀請払帳」その他の書類を届けている。討ち入り当夜は門外で周辺を警備し、赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き揚げる際、祝意を表しながら浪士たちに蜜柑や餅を手渡して回った。そのため後世、義僕と呼ばれた。
脚注
1. 「野洲郡史 下巻」(滋賀県野洲郡教育会 1927年)
関連項目
・野洲市 旧中主町比留田。
・大石神社
(wikiより)
近松行重
7424 潮田又之丞 高教墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
潮田 高教(うしおだ たかのり、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は又之丞(またのじょう)。
生涯
寛文9年(1669年) 、赤穂藩浅野氏家臣の潮田作右衛門の子として誕生。
延宝3年(1675年)に200石の家督を相続し、藩内では郡奉行・絵図奉行を兼任した。槍が得意で、東軍流の奥村無我に剣術も習った。大石良雄の叔父・小山良師の娘ゆうを妻に迎えており、藤之助を儲けた。親戚筋にあたるため大石からの信頼が厚く行動を共にすることが多かった。元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍。元禄13年(1700年)3月15日には嫡男・潮田藤之助が浅野長矩にはじめて拝謁を許された。
元禄14年(1701年)3月14日に浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、国許の赤穂にいた。赤穂城明渡しの際に赤穂城絵図領内絵図をして江戸幕府目付に提出し、4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働いた。また、この間家族は姉の嫁ぎ先である加西郡の豪農・渡辺家に預けている。9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰、中村正辰、大高忠雄らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になる。その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に供して、12月には京都へ帰った。12月9日には中村正辰とともに神文血判書を提出した。元禄15年(1702年)7月、浅野長広に広島藩お預り処分が決まった後、円山会議において大石が仇討ちを決意したので、これを江戸の同志達に伝えるべく、7月29日、堀部武庸(円山会議出席のため上洛中だった)とともに江戸へ下向した。8月12日の隅田川舟中会議にてこれを同志達に伝えた後、9月までに近松行重とともに京都へ帰った。その後、10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向し、10月24日に江戸到着すると、大石と同じ小山屋の借家に入った。
12月15日未明、吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して庭で戦い、吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。泉岳寺の浅野長矩墓前にて報告後、熊本藩細川綱利の屋敷に預けられた。
元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・一宮源四郎の介錯で切腹した。享年35。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃胸空劔信士。辞世は「もののふの道とはかりを一すしに思ひ立ぬるしての旅路に」
関連項目
・大石神社
(wikiより)
潮田高教
7423 堀部安兵衛 武庸墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。
生涯
浪人
寛文10年(1670年)、越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は同藩士・溝口盛政の六女[1]。姉が3人おり、長女・ちよは夭折、次女・きんは蒲原郡牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣・町田新五左衛門に嫁いだ。
母は、武庸を出産した直後の同年5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりにして3歳まで育てられたが、祖母が死去すると再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる(浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力とされる)。
浪人後、ほどなくして父が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳)と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。
高田馬場の決闘から赤穂藩へ仕官
そのようななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。
この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。初め武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、金丸の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。譜代の臣下である堀部家の養子である武庸は家中では新参(外様の家臣)に分類されており、異例の養子入りであるから武庸は金丸の堀部家とは事実上別家扱いだったものと考えられる。
赤穂藩での武庸は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主・徳川光友正室・千代姫(江戸幕府3代将軍・徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、長矩からの弔問の使者には武庸が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた。
吉良邸討ち入り
ところが、元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。武庸は江戸詰の藩士・奥田重盛(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老・大石良雄と面会。篭城さもなくば義央への仇討を主張したが、長矩からは浅野長広による浅野家再興を優先することを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、武庸らは江戸に戻ることとなった。
武庸はそれ以降も強硬に義央への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した良雄に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。8月19日(9月21日)付けの書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張。良雄は、武庸ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)、潮田高教(200石絵図奉行)、中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員武庸に論破されて急進派に加わったため、良雄自らが江戸へ下り、武庸たちを説得しなければならなくなった。元禄14年11月10日(1701年12月9日)、良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。良雄は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。
しかし帰京した良雄は主君・長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び良雄と面会するために武庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては良雄を切り捨てるつもりだったともいわれており、実際、武庸は大坂にもよって元辰を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。そのようななか、7月18日(8月11日)、長広の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となると、良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。武庸はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた。
そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、良雄・武庸ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の義央の屋敷へ討ち入った。武庸は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は義央を討ち取り、その本懐を遂げた。
討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、武庸は良雄の嫡男・大石良金らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷(大石主税良金ら十士切腹の地 )へ預けられた。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部言真が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。
堀部氏
堀部氏は滋賀県に栄えた近江源氏である。近江源氏嫡流の佐々木家から、鎌倉時代初期に馬淵家が分かれた。馬淵家は近江守護代を務めるなどした佐々木家一門中の有力豪族であったが、この馬淵家から堀部家はさらに分かれた(潜伏中武庸も馬淵姓を名乗ったともいう)。
その他
・討ち入りから70年後の安永3年(1774年)、武庸の妻を名乗る妙海尼という老女が泉岳寺に庵を結んで、赤穂浪士の昔語りを始めて、江戸で評判になった。しかし、武庸の妻・ほりは享保5年(1720年)に45歳で死去しており、この老女は偽物である。その墓碑は泉岳寺の浪士たちの墓のかたわらに残っている。
・武庸は赤穂義士研究の重要資料である『堀部武庸日記』を残した人物でもある。武庸が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者・細井広沢に編纂を委ね、今日に伝えている(岩波書店『近世武家思想』に収録)。
・高田馬場の決闘での剣豪としての活躍(四十七士の中で、討ち入り以前に実戦で人を斬った経験がある確実な資料が存在するのは、彼一人である)や、養父・金丸との微笑ましい関係があったりするせいか、四十七士のなかでも特に人気が高い。近年では武庸を主人公にした『忠臣蔵』のドラマなども制作されている。
・養父・金丸とは血統上の関係は一切ないが、2人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(『堀内伝右衛門覚書』より)。
・生誕地である新潟県新発田市では、武庸を偲んで毎年12月14日に義士祭 (新潟県新発田市)が開催されている。
顕彰施設
・堀部安兵衛伝承館(新潟県新発田市)
堀部武庸を扱った作品
「高田馬場の決闘#作品」を参照
脚注
1. 溝口盛政の先妻は新発田藩初代藩主・溝口秀勝の五女・糸姫である。このことから武庸が秀勝の曾孫にあたると言われているが、武庸の生母は盛政と後妻との間に生まれているため、2人の間に血縁関係は無い。
関連項目
・大石神社
・新発田城
(wikiより)
堀部武傭 ( 右側 )
7422 赤埴源蔵 重賢墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた[1]、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる[1]。
生涯
寛文9年(1669年)、誕生。父は赤埴一閑あるいは塩山十左衛門[2]とされる。母は高野忠左衛門の娘。播磨国赤穂藩士として仕え、馬廻(200石)をつとめた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏して個人で吉良義央への復讐を狙っていた。元禄15年(1702年)7月、大石良雄が京都円山会議で仇討ちを決定。大石は江戸に下り、吉良屋敷討ち入りは12月14日夜に決まった。
重賢は妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣・田村縫右衛門の家に暇乞いに訪ね、縫右衛門の父から美服を着ていたことを咎められ、赤穂の浪人たちに仇討ちの動きがないことを罵倒された。重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去した。その後、縫右衛門たちは赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、仇討ちを遂げたことを知り、重賢の真意を汲み取れなかった事を悔やんだという。なお、『忠臣蔵』の物語では、討ち入りの前夜に兄・塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ね不在だったため兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、これを兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面として描かれるようになった。しかし実際には重賢に兄はおらず、また下戸であったといわれる。弟と妹がおり、史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている。
吉良屋敷への討ち入りでは裏門隊に属して戦った。この時、菅谷政利と屋内に討ち入り、小者の着物を着た男と出会い見逃すが、後にこの男が吉良家の家老・斎藤宮内と知り大いに悔やんだという。また、引き上に際して、火事にならぬよう吉良屋敷の火の始末をしている。討ち入り後に、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷に預けられた。
脚注
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、同志とともに切腹。享年35。戒名は、刃廣忠劔信士。
脚注
1. a b “赤埴源蔵”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2015年1月10日閲覧。
・長編歌謡浪曲 元禄花の兄弟 赤垣源蔵 (三波春夫)
・長編歌謡物語 赤垣源蔵(2005年) (山口瑠美)
映像
戦前・戦後問わず、下記の作品以外にも多くの作品で登場している。
・忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、演:岩本弘司)
・忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年、演:渡辺謙)
・忠臣蔵 瑤泉院の陰謀(2007年、演:北川隆一)
・忠臣蔵〜その男、大石内蔵助(2010年、演:勝村政信)
外部リンク
赤埴源蔵・徳利の別れ(芳野金陵作)@日本漢文の世界
(wikiより)
赤埴源蔵重賢
7421 奥田孫太夫 重盛墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
奥田 重盛(おくだ しげもり、正保4年(1647年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫太夫(まごだゆう)で、最初は兵右衛門を名乗った。
生涯
正保4年(1647年)、奥田孫太夫の子として誕生。母は久米半右衛門(相馬長胤家臣)女。
はじめ、志摩国鳥羽藩内藤家に仕えたが、寛文2年(1662年)に内藤忠政の娘・波知が赤穂藩主・浅野長友(浅野長矩の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸でつとめた。延宝8年(1680年)、内藤忠勝が芝増上寺での江戸幕府4代将軍徳川家綱の葬儀の場で永井尚長を殺害し鳥羽藩は改易となると、父・孫太夫は浪人となったが、重盛はそのまま赤穂藩に仕えた。赤穂藩では武具奉行(150石)をつとめた。
重盛は江戸で剣客として知られた堀内正春に学び、堀部武庸とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。また、重盛には男子がなかったため、近松行重の弟・奥田行高を養子に迎えた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。重盛は江戸詰の藩士の堀部武庸、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、家老大石良雄に篭城を迫っている。赤穂城開城後に江戸へ戻り、重盛は堀部、高田とともに強硬に仇討ちを主張する急進派の中心となる。
同年6月、浅野長矩の百カ日法要が行われ、重盛は高田、堀部と供に泉岳寺に参詣して仇討ちを誓った。彼らはその帰りに元家老の安井彦右衛門を訪ねて仇討ちへの助力を談じ込んだ。安井は態度をあいまいにして言い逃れたが、後で安井が陰口を言ったことを知り、重盛は大変に怒ったという。江戸の急進派を鎮撫するために大石良雄は原元辰、大高忠雄らを送るが重盛たちは彼らを説得して急進派に加えたため、大石自らが江戸へ下り、重盛たちを説得せねばならなかった。
元禄15年(1702年)3月頃に父の名を継いで孫太夫と改める。深川八幡町続いて黒江町へ移り、医師、西村清右衛門を名乗って養子の行高と潜伏した。
同年7月の円山会議で仇討ちが決定。12月14日の討ち入りでは表門隊に属し、二尺余の大太刀を持って屋内で奮戦した。
討ち入り後、細川綱利屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月3日、幕府は赤穂浪士46人へ切腹を申し付けた。なお切腹に際して、重盛は細川家接待役の堀内重勝に切腹の稽古をしたことがなくどうすればよいのかと大真面目に尋ね、富森正因がただ首を差し出せばよいと答えたという話が『堀内覚書』に残っている。享年57。戒名は、刃察周劔信士。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
奥田重盛
7420 矢田五郎右衛門 助武墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
矢田 助武 (やだ すけたけ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は五郎右衛門(ごろうえもん)。
生涯
延宝3年(1675年)、赤穂藩浅野氏家臣・矢田利兵衛の子として誕生。母は田中安兵衛の娘。
貞享3年(1686年)に父の死去により家督相続、江戸詰めの藩士となり馬廻役をつとめた(150石)。元禄8年(1695年)には伊丹宇右衛門の娘を娶り、その間に矢田作十郎を儲けた。元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際にも江戸にいた。藩邸を召し上げられたため、ここを出て芝浜松町三丁目の借家に移った。江戸急進派の一人として活躍し、討ち入り直前の元禄15年(1702年)11月に本所林町の堀部武庸の借家に移った。
吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦い、本懐後は熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣竹田平大夫の介錯で切腹した。享年29。戒名は、刃法参劔信士。
なお息子の作十郎は妻の伯父にあたる旗本・岡部勝重に預けられていたが、この事件のため町奉行保田越前守より呼び出された。作十郎は当時9歳ながら毅然とした態度でこれに臨んだといわれ、周囲に評価された。その後、作十郎は親戚の吉川家の養子に入って吉川藤之丞と改めている。岡部家が長く面倒を見ていたらしいが、その後の詳細は不明である。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
矢田助武
7419 大石瀬左衛門 信清墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
大石 信清 (おおいし のぶきよ、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、はじめ源蔵(げんぞう)、のちに瀬左衛門(せざえもん)。
生涯
延宝5年(1677年) 、赤穂藩浅野氏家臣・大石信澄の次男として誕生。母は小田貞守(近衛家家臣)の妹・外山局。幼名は八三郎(はちさぶろう)。兄に大石信興がいる。信清は、国家老・大石良雄の曽祖父・良勝の弟大石信云の孫にあたり、大石家の分家にあたる。
元禄2年(1689年)12月24日に父が大坂にて死去し、長男の信豊が300石、次男の信清が150石をそれぞれ継ぎ、馬廻役として仕えた。元禄13年(1700年)頃に源蔵から瀬左衛門へ改名している。また大石本家の当主・大石良雄とともに奥村無我に弟子入りして東軍流剣術を習っている。
元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだとき、信清は藩主の参勤交代にお供していたため、江戸にあった。3月14日夜には第二の使者として原元辰とともに江戸をたって赤穂へ向かった。赤穂城開城後は兄・信豊とともに奈良や京都で暮らしていたが、元禄15年(1702年)8月の大石の神文返しを機に兄が脱盟したため、兄とは義絶。9月19日に大石良金・間瀬正明らとともに江戸へ下向。江戸到着後は、母方の氏をとって「小田権六」と変名して麹町六丁目吉田兼亮借家に入ったが、まもなく大石良雄の石町三丁目の小山屋借家に移った。しかし江戸ではだいぶ金に困ったらしく、伯父の大石無人に借金をしており、また討ち入りの装束も無人に作ってもらっている。
吉良邸討ち入りでは裏門隊に属した。本懐後、熊本藩細川家へお預りとなり、元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣吉田近貞の介錯で切腹した。享年27。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃寛徳剣信士。妻も子もなかったが、従兄弟にあたる大石良麿の子良饒が養子に入り、瀬左衛門信清家の家名を今日まで残している。
なお、切腹前に討ち入りの装束など遺品を大石無人に預けており、この装束は無人の子孫である津軽大石家により代々伝承され、現在は大石神社に納められている。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
大石瀬左衛門信清
7418 早水藤左衛門 満尭墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
早水 満尭 (はやみ みつたか、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は藤左衛門(とうざえもん)。
生涯
備前国岡山藩(池田家)家臣の山口家常の三男として誕生。山口家の家督は兄の和夷が継いだため、元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩(浅野家)の家臣・早水満輝(200石)の婿養子になる。元禄12年(1699年)8月22日、養父の隠居により家督相続し150石の相続が許された、馬廻役として仕えた。
元禄14年(1701年)3月14日の主君・浅野長矩の殿中刃傷の際には江戸にいた。その後、萱野重実とともに、長矩の養子(血縁上は弟)の浅野長広の書状を携え、赤穂へ第一報を伝える急使となる。赤穂城到着後は大石良雄派として行動し、赤穂城開城後の5月3日に大石良雄へ指令不背の誓約書を提出した。しばらく赤穂に住んでいたが、8月には京都へ移った。11月に大坂で橋本平左衛門が遊女はつと心中した際には同じ岡林直之の組に属していた藩士である満尭がその後始末をした。また元禄15年(1702年)2月と3月の二度にわたって、兄に金の無心をしており、このあたりから金が尽きたと思われる。10月7日、大石良雄の供をして江戸へ下向し、
良雄と同じ日本橋石町三丁目小山屋で暮らした。
吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し弓矢で戦った。早水は、弓術では海内無双と称えられた星野茂則に師事した弓の名手であり、吉良家家臣たちも早水の弓の命中率の高さに怯えたという。討ち入り終了後は、熊本藩(細川家)の上屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・魚住惣右衛門の介錯で切腹。享年40。主君・浅野長矩と同じく泉岳寺に葬られた。法名は刃破了剣信士。
なお現在、「早水」と書いて「はやみ」と読む一族は、全て同じ一族(血縁)との説もある。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
早水藤左衛門満堯
7417 中村勘助 正辰墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。
生涯
万治2年(1659年)、越後村上藩松平家家臣・三田村小大夫の子として誕生。母は同家臣・井上源右衛門の娘。
延宝4年(1676年)、播磨赤穂藩浅野家家臣の中村庄助の娘婿となった。家督を継いだのは、天和2年(1682年)と伝わるが、正確には不明。赤穂藩では祐筆兼馬廻役(100石)として仕えた。元禄2年(1689年)には長男忠三郎を儲けた。元禄7年(1694年)の備中松山城受取の軍にも従軍し、そのまま一年半にわたり松山に在番した。元禄8年(1695年)には養父・庄助が死去。元禄12年(1699年)には次男中村勘次が生まれた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際、正辰は赤穂にいた。4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働き、江戸幕府からもこの間7人扶持を支給された。9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰、潮田高教、大高忠雄らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になってしまう。その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に中村もお供して、12月には京都へ帰っていった。12月9日に潮田高教とともに神文血判書を提出し、元禄15年(1702年)5月には家族を陸奥白河藩の親戚に預けた。10月21日、江戸下向中の大石と鎌倉で合流した。
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属。本懐後、伊予松山藩主・松平定直の屋敷に預けられ、2月4日に松平家家臣大島半平の介錯にて切腹した。享年45。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃露白剣信士。
なお、長男・忠三郎は一族連座して伊豆国大島へ流罪にされた。その後、赤穂浪士を絶賛する世論の後押しなどもあって、瑤泉院(浅野長矩の正室)の赤穂浪士遺児たちの赦免嘆願が認められ、宝永3年(1706年)8月に幕府は徳川家綱の二十七回忌法事による特赦として忠三郎を赦免した。忠三郎は浅草曹源寺で出家して白河で僧となった。次男・勘次も曹源寺で出家して僧になっている。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
中村勘助正辰
7416 菅谷半之丞 政利墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
菅谷 政利(すがや まさとし、万治3年(1660年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は半之丞(はんのじょう)。
生涯
万治3年(1660年)、赤穂藩浅野家譜代家臣・菅谷平兵衛の次男として生まれる。母は津田五郎左衛門の娘。兄に岡本松之助がいたが、この兄は菅谷家の家督を継がず備後国三次で浪人したため、政利が菅谷家の嫡男となった。
政利は家老の大石良重に山鹿流兵学を学び、免許皆伝を受けていたといわれる。元禄6年(1693年)に父・平兵衛が死去したため家督もこのあたりと思われる。赤穂藩では馬廻り役また郡代として仕えた(100石)。元禄7年(1694年)に主君・浅野長矩が備中松山城受け取りのために出陣した際には政利は赤穂留守部隊に編入されていた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及び、赤穂藩が改易されると、備中国足守や備後国三次へ赴いたとみられる(おそらく兄を頼ったのであろうと思われる)。また伏見に住んでいた時期もあったといわれる。元禄15年(1702年)10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向した。江戸到着後は大石良金の借家石町小山屋へ入るが、一時は谷中長福寺の近松行重の弟のところへも身を寄せていた。
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は松平定直の屋敷にお預かりとなり、同家家臣加藤斧右衛門の介錯で切腹した。享年43。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃水流剣信士。
関連項目
・大石神社
・菅谷定彦
(wikiより)
菅谷半之丞政利
7415 不破数右衛門 正種墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓は平氏。家紋は隅角切に横一。
生涯
寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣・岡野正治(のち変名して佐倉新助)の長男として生まれた。母は同家臣の長沢六郎右衛門の娘。弟に佐倉慶也、佐介、亀八。妹に笹川只右衛門(本多忠孝家臣)室、上島弥介(浅野長矩家臣)がいる。
元禄3年(1690年)頃に浅野家家臣の不破数右衛門の婿養子に入った。養父・数右衛門が死去して不破家の家督を相続し、数右衛門の通称も継いだ。赤穂藩では100石取りの馬廻役・浜辺奉行をつとめた。
しかし、それから間もなく主君・浅野長矩の勘気を受けて藩を追われ浪人した。これは正種が家僕を斬ったのが原因のようで、那波屋記録には「元禄10年8月18日不破数右衛門が家僕を斬って閉門を仰せ付けられ、11月晦日閉門御免」とある(なお、実父の岡野も赤穂藩を追われているため正種と連座したものと思われる)。その後は江戸へ移り住んだが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は断絶となった。篭城になるとの噂を耳にした正種は数人の元赤穂藩士の浪人とともに赤穂城へ馳せ参じたとされるが、この浪人は父の佐倉新助で、家老大石良雄に断られて帰されている。赤穂城引渡し後、大石良雄が中心となって旧藩士の間で義盟が結ばれた。良雄が江戸へ下った際に、正種は義盟への参加を懇願。吉田兼亮のとりなしで正種の長矩の墓への墓参がかない、帰参した家臣として義盟への参加を許された。その後、松井仁太夫と変名して他の同志とともに江戸に潜伏した。
元禄15年(1702年)12月15日未明の吉良屋敷への討ち入りでは、裏門隊に属して屋外に配置されたが、こらえがたく持ち場を離れて屋内に突入している。一党中もっともめざましい働きをし、数人の敵を倒しその刀はささらのようになっていたと伝えられる。なお、吉良を討ち取り、泉岳寺への引き上げに際して、大石良雄に進言して大目付仙石久尚へ出頭して口上書を差し出すべきであると主張したともいわれている。その後、伊予松山藩主松平定直の中屋敷へ預けられた。
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により松平家家臣の荒川十大夫の介錯で切腹。享年34。主君浅野長矩とおなじ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃観祖剣信士。
なお、幼い遺児不破大五郎がいたが、父の本懐後に出家し、古川永昌寺の僧となっている(後に還俗)。
映画
正種を主人公とし、通称の「不破数右衛門」をタイトルとした日本映画が7作製作・公開されている[1]。いずれも現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されてはいない[2]。
・『不破数右衛門』:監督・主演不明、M・パテー商会、1911年
・『不破数右衛門』:監督不明、主演尾上松之助、横田商会、1912年
・『不破数右衛門』:監督牧野省三、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1913年
・『不破数右衛門』:監督不明、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1920年
・『不破数右衛門』:監督長尾史録、原作竹井諒、主演団徳麿、東亜キネマ京都撮影所、1928年
・『不破数右衛門』:監督池田富保、原作・脚本長谷部武臣(池田富保)、主演新妻四郎、日活太秦撮影所、1928年
・『不破数右衛門』:監督・脚本勝見正義、主演根岸東一郎、マキノ・プロダクション御室撮影所、1928年
関連項目
・大石神社
脚注
1. 日本映画データベース 「不破数右衛門」検索結果、2010年2月18日閲覧。
2. 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月18日閲覧。
(wikiより)
不破数右衛門正種
7414 千馬三郎兵衛 光忠墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
千馬 光忠(せんば[1] みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。
生涯
承応2年(1653年)、摂津高槻藩永井家家臣の千馬求之助光久の次男として誕生。母は播磨赤穂藩浅野家家臣の筑間三右衛門の女子。兄の荊木貞右衛門がいる。
同族で同藩家臣の千馬光利の養子に入った。寛文11年(1671年)8月17日に養父・光利が死去すると、この時に家督を継いだものと考えられる。
赤穂藩では馬廻り役・宗門改役をつとめ、100石を食んだ。しかし、実直で融通が利かない性格だったため、主君の浅野長矩にさえしばしば直言したため不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、禄高も30石に減知される。それでも光忠の直言癖は直らず、長矩との関係は悪くなる一方だったので、元禄14年(1701年)3月初めには光忠の方から浅野家に暇願いを出した。しかしその許しが出る前の3月14日に浅野長矩は吉良義央に刃傷に及び切腹となった[2]。
どんなに嫌われていても主君には違いないため、吉良を討つことを決意し、筆頭家老の大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は大坂の兄のもとに身を寄せ[3]、元禄15年(1702年)1月に大石に正式に神文血判書を提出した。9月7日に江戸へ下向し、新麹町四丁目の借家に住んだ。変名は原三助。吉良屋敷討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、伊予松山藩主・松平定直の三田中屋敷にお預けとなり、同家家臣・波賀清大夫の介錯で切腹した。享年51。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃道互剣信士。
1. 遺児の千馬宣忠は、世間の赤穂浪士英雄化が後押しもあり備前岡山藩池田家に召抱えられたという。
脚注
1. 千馬の読みは「ちば」という説もある。
2. 一説に、浅野長矩は光忠の暇願いを即座に受理したので、14日の時点ではすでに浪人していたともいう。
3. 兄の荊木貞右衛門は高槻藩を追われ浪人中だった。
関連項目
・大石神社
・池宮彰一郎ー短編集『その日の吉良上野介』に収録された「千里の馬」は光忠を主役としている。
(wikiより)
千馬光忠
7413 木村岡右衛門 貞行墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
木村 貞行(きむら さだゆき、万治元年(1658年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は岡右衛門(おかえもん)。
生涯
万治元年(1658年)、赤穂藩浅野家の譜代家臣・木村惣兵衛の子として赤穂にて誕生。母は大岡次左衛門(赤穂浅野家家臣)の娘。弟に木村源右衛門(幕府旗本真田蔵人の家臣)、姉と妹も1人ずついた。
天和3年(1683年)に父・惣兵衛は死去したが、貞行が家督したのはこの数年前と見られる。赤穂藩内では馬廻り役兼絵図奉行職にあり、150石取りであった。また、学問に熱心で小川茂助から陽明学を学んだ。同じ赤穂浅野家家臣の牧太郎左衛門の娘を妻に迎え、その間に二男二女を儲けた。
元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にあった。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかったが、赤穂城開城業務には絵図奉行として参加し、残務処理終了後は加東郡に移り住んだ。元禄15年(1702年)1月になってようやく山科の大石に神文血判書を提出。またこの頃に妻子を大阪へ移し、長男・木村惣十郎は仏門に入れている。9月25日に江戸へ下向。石田左膳となのって本所林町の堀部武庸借家に住んだ。
吉良邸討ち入り時の際には裏門隊に属した。吉良を討ち取った後、伊予松山藩主松平定直邸に預けられた。元禄16年(1703年)、同家家臣の宮原久太夫の介錯で切腹した。享年46。主君浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃通普剣信士。なお臨済宗の僧・盤珪禅師の弟子でもあり、法名・英岳宗俊信士を授かっており、討ち入りの際にもこの法名を書いたものを左肩に縫い付けていたという。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
木村貞行
7412 岡野金右衛門 包秀墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓は藤原氏。家紋は釘貫。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。
生涯
延宝8年(1680年)、赤穂藩士・岡野包住(番使200石)の長男として赤穂に誕生。幼名は九十郎(くじゅうろう)。妾腹の子であるが、他に男子はいなかったので岡野家の嫡男となる。なお、伯父に小野寺秀和(父の実兄)がいる。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際にはまだ部屋住み(家督前)の身であった。4月、父・包住は大石良雄に神文血判書を提出し、岡野一家は赤穂田井村に住んだ。しかしその後、父が病に倒れたため、包秀が同志たちと連絡を取り合い、元禄15年(1702年)閏8月25日には病の父を残して武林隆重らとともに江戸へ下向し、堀部武庸借家に住んだ。9月5日に父が死去すると、自らの称を父と同じ「金右衛門」に改めた。その後、本所相生町の前原宗房の店に移ったといわれている。
前原の店で手代をしていた美男子の包秀は、客としてやってきた本所大工元締めの平兵衛の娘お艶に近づいて恋人となり、彼女に吉良家の普請を請け負った平兵衛の持つ吉良邸絵図面を盗ませる。しかし恋人を騙してしまったことに自責の念を感じて、愛と忠義の狭間で苦悩するという逸話で知られている。しかし、寺坂信行の筆記に「吉良邸絵図面は内縁を以って入手した」と書かれているため、事実とは考え難い。また「内縁」というからには、誰かの親族筋で手に入れたと思われるため、おそらく吉良が移ってくる前の屋敷の主だった松平信望家臣に親族がいる大石信清あたりが入手したと考えるのが自然とも考えられる。
吉良邸討ち入り時の際には表門隊に属した。吉良を討ち取った後、伊予松山藩主松平定直邸に預けられた。元禄16年(1703年)、同家家臣の加藤斧右衛門の介錯にて切腹。享年24。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃回逸剣信士。
俳人でもあり、放水子・竹原などの雅号を持ち、大高忠雄が編集した『俳諧二ツ竹』にも岡野の句が載っている。
関連項目
・大石神社
・矢頭教兼(同じく父が討ち入り前に病死し、志を託された赤穂四十七士)
(wikiより)
岡野包秀
7411 貝賀弥左衛門 友信墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
貝賀 友信(かいが とものぶ、慶安3年(1650年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥左衛門(やざえもん)。本姓は藤原氏。家紋は重ね扇。
生涯
慶安3年(1650年)、赤穂藩浅野家家臣・吉田之貫の二男として誕生。母は貝賀左門女。兄に吉田兼亮がいる。
庶子であるため、寛文元年(1661年)頃に母の弟である貝賀新兵衛(同じく浅野家中)の養子となる。赤穂藩では中小姓・蔵奉行、2石10両3人扶持。妻はいなかったが、妾が一人おり、その間に一女(お百)を儲けている。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は切腹、赤穂藩は改易となった。城内論争においては友信は家老大石良雄派として行動し、誓紙血判の義盟にも加わる。赤穂城落去後は、浅野家お出入り商人だった京都高倉通り綿屋善右衛門邸に身を寄せた。
元禄15年(1702年)7月18日、江戸幕府は閉門中だった浅野長矩の弟・浅野長広の広島浅野宗家への永預けを決定し、浅野家再興は絶望的となった。江戸にいた兄・兼亮は、京都にいた友信へ飛札でこれを知らせ、これを受けた友信が山科の大石良雄へ報告した。また7月28日、大石良雄は京都円山に同志を集めて、吉良義央への仇討ちを決定した(円山会議)。義盟には約120名の元赤穂藩士が加わっていたが、大石は同志の真意を探るために血判状の返却を命じる。その使者となったのが友信と大高忠雄であった。血判状の返還に際して、友信らは、浅野家再興が絶望的となったこと大石は腰抜けであてにならないと伝えて相手の反応を見て、それでも血判状の返還を拒む者に対して仇討ちの真意を伝えたという。
江戸下向後は町人喜八郎として八丁堀湊町の片岡高房借家に入った。同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属し、門の警戒にあたった。
討ち入り後は松平定直の屋敷へお預けとなる。元禄16年(1703年)2月4日、松平家家臣・大島半平の介錯で切腹して果てた。享年54。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃電石劔信士(にんでんせきけんしんし)。
関連項目
・大石神社
・本妙寺 ‐ 境内に墓がある。
(wikiより)
貝賀友信
7410 大高源五 忠雄墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。
出自
大高家は平安時代から続く名門である。奥州豪族安倍貞任の一族で奥州の大高館を本拠としていたので大高氏を称するようになったという。その後も代々大高家は安倍氏嫡流(安東氏)に仕え続け、江戸時代にも安倍氏・安東氏の嫡流である陸奥国三春藩主秋田氏に仕えていた。なお大高家も安倍氏一族の出自であるので大高本家は藩主と同じ「秋田」姓を名乗ることを認められていた。源五の父である忠晴は、この秋田家(大高本家)の庶子であった。庶子であるので「秋田」の家名ではなく「大高」を家名とし、浅野長直に仕えた。浅野家では新参ながら200石という厚遇であったことからも大高家の出自の良さがうかがえる。
生涯
寛文12年(1672年)、赤穂藩士大高忠晴(200石)の長男として赤穂に生まれた。幼名は六郎。母は小野寺秀和の姉(貞立尼)。弟に小野寺秀富がいる。
延宝4年(1676年)4月3日に父・忠晴が死去したため、大高家の家督を相続。ただし父が200石であったのに忠雄は20石5人扶持しか相続を認められなかった。藩内では金奉行・膳番元方・腰物方などを務めた。
水間沾徳に弟子入りして俳諧を学び、俳人としての才能を大いに発揮した。同じく俳人として名高い萱野重実や神崎則休などと並んで“浅野家三羽烏”などと称されていたといわれる。俳諧集『二ツの竹』を編著したのも子葉(大高忠雄)である。元禄9年(1696年)の参勤交代への従軍ではじめて江戸へ入り、翌年10年(1697年)に赤穂へ帰国するが、その時の旅の様子を紀行文にして『丁丑紀行』を著している。
ところが、元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。この凶変の際には忠雄は主君に供奉して江戸にあった。しかし急遽赤穂へと向かい、赤穂城内の論争では一貫して大石良雄派として行動し、大石の盟約にも加わった。赤穂城開城後は、大津や京都に住んだ。忠雄は大石の信任がかなり厚い人物の一人で重要な局面でよく使者に立てられている。
元禄14年(1701年)9月下旬、江戸急進派の堀部武庸らが大石良雄の御家再興運動中にそれを差し置いて吉良義央への仇討ちを強硬に主張して大石の江戸下向を迫った際には、鎮撫の使者として進藤俊式とともに江戸へ派遣されている(もっとも逆に安兵衛らの意見に同調して仇討ち急進派となってしまっている。大石良雄自らが江戸下向し、帰京した後に大高も一時帰京した)。元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となり、大石は京都円山での会議で仇討ちを決定し(円山会議)、大石は命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を実行することとしたが、この際にも同志のところを回る使者として選ばれたのはこの大高忠雄と貝賀友信であった。
元禄15年(1702年)9月18日、忠雄は江戸下向にあたり、豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より26両を借用。また遺作として『二ツの竹』を江戸下向直前に出版する。親交のあった水間沾徳や宝井其角などそうそうたる俳人が句をよせている。そして10月18日に主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下った。江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決める。
吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残した。
江戸幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、忠雄は松平家預かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句を残した。松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年32。戒名は、刃無一劔信士。宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。
逸話
・大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。忠雄は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに忠雄がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、忠雄を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかし、これらは後世の創作といわれている。神崎則休にも同様の逸話がある。
・忠雄は俳人宝井其角とも交流があったとされ、討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、忠雄は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残るが、それを裏付けるものがなく後世のフィクションである。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた。
関連項目
・大石神社
7409 岡嶋八十右衛門 常樹墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
岡島 常樹 (おかじま つねしげ、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は八十右衛門(やそえもん)。
生涯
寛文6年(1666年)、出羽米沢藩上杉家を浪人した原七郎左衛門定辰の三男として誕生。母は小笠原家を浪人した和田将監の娘。長兄は原元辰がおり、常樹とは20歳近く年が離れていた。
元辰が播磨赤穂藩主浅野長矩に仕えた関係で、延宝3年(1675年)に浅野家臣・岡島善右衛門の婿養子に迎え入れられた。貞享3年(1686年)に養父の死去により岡島家の家督を相続。赤穂藩では札座奉行(20石5人扶持)として仕えた。元禄7年(1694年)の備中松山城受け取りには国家老・大石良雄の先陣に従軍した。また、山賊退治の武勇伝が伝承として赤穂に残っている。
元禄14年(1701年)3月14日に江戸城で主君浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には常樹は赤穂にあった。その後、大石の指示のもと札座奉行として藩札交換を担当し、遺漏なくこの任を全うした。また大石へ神文血判書も提出している。しかし兄・原元辰に罵倒された大野知房は、この時期におこった岡島常樹配下の赤穂藩小役人が改易のドサクサにまぎれて金を横領して逃亡した事件をとらえて、常樹もその一味だろうと陰口する。憤慨した常樹が大野邸へ赴いたが、驚いた大野はこれに会わずに、4月12日には赤穂から逃亡した。その後、大石とともに城明け渡しの任にあたり、常樹は広間を担当した。
開城後は家族を赤穂城外の中村に移し、自身は京都で暮らし、大石のいる山科へ赴いて再度誓約書を提出した忠義の臣であったが、8月頃から病にかかり、しばらく寝込んで同志との連絡が途切れたため、岡島の真意が疑われた時期があった。元禄15年(1702年)5月に江戸へ下向するはずであったが、相変わらず病で動けなかったため、神崎則休にかわりに江戸下向してもらっている。10月にようやく兄・原元辰とともに江戸へ下向し、新麹町四丁目の中村正辰宅に入り、群武八郎と変名した。吉良邸討ち入りの際には表門隊に属した。
本懐後、長門長府藩毛利家にお預かりとなり、同家家臣榊庄右衛門の介錯で切腹した。享年38。主君浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃袖払剣信士。
なお岡島の男子二人は出家して僧となっている(長男の岡島藤松はのちに鎌倉延明寺住職、次男岡島五之助は江戸長昌寺住職となる)。また娘は安芸広島藩士の堀尾恒年の妻に迎えられた(のち播磨龍野藩士田中九郎兵衛と再婚)。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
岡島常樹
7408 吉田沢右衛門 兼貞墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
吉田 兼貞(よしだ かねさだ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。吉田兼亮の子。通称は沢右衛門(さわえもん)。
生涯
延宝3年(1675年)、赤穂藩士・吉田兼亮の三男として生まれた。母は熊田新八の娘りん。幼名は千之丞。のち文蔵と称しさらに沢右衛門と変えた。兄2人は夭折・早世したため、吉田家の嫡男とされた。
父と同様に赤穂藩に仕え、家督前の部屋住みであったが、分限帳のなかには10両3人扶持の近習兼蔵奉行としているものもある。浅野家が改易されると主に父と行動を共にし、吉良邸討ち入りの際には父とは別に表門隊に所属した。
討ち入り後は長府藩毛利家に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日毛利家家臣・進藤為右衛門の介錯で切腹した。享年29。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃当掛剣信士。
関連項目
・大石神社
・本妙寺 ‐ 境内に墓がある。
(wikiより)
吉田兼定
7407 武林唯七 隆重墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
武林 隆重(たけばやし たかしげ、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日)は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は唯七(ただしち)。
隆重の出自
隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省杭州(旧称は武林)に生まれ、医学を学んで育ったという。日本へ連行されたあとは長州毛利家に身柄を押さえられた(一説に戦争捕虜ではなく、長州へ漂流してきたところを毛利家に捕まったのだともいう)。毛利家、さらにその後には浅野家に医学を持って仕えるようになり、日本の士分に取り立てられて、故郷の「武林」を氏として「武林治庵士式」と改名した。さらに日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の姓をとって「渡辺治庵」と改名する。
その間に生まれた子が隆重の父の渡辺式重である。式重には男子が二人あり、兄の渡辺尹隆が渡辺家を継ぎ、次男の隆重は分家することになったが、この際に祖父がかつて使った「武林」を家名として使うこととし武林家を再興した。
なお、『忠臣蔵』を紹介するメディアにて「赤穂浪士の中に外国人がいた」として紹介されることがあるが、上記のように帰化して三世にあたるため外国人とは呼べず、こういった表現は誇張である。
生涯
寛文12年(1672年)、赤穂藩士・渡辺式重の子として誕生。母は北川久兵衛の娘。兄に渡辺尹隆がいる。赤穂藩では、中小姓15両3人扶持で仕えた。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。隆重はこの際には江戸にあったが、赤穂藩の江戸屋敷が引き払われたあとにすぐさま赤穂へ向かい、ここで大石良雄に神文を提出したあと、6月には江戸へ戻った。
堀部武庸らに賛同して江戸急進派の一人となった。兄・尹隆も江戸急進派であったが、両親が病になったため、兄弟のどちらかが看病しなければならなくなり、のちに隆重や大石良雄から討ち入り参加を諌止されてやむなく脱盟した。10月の大石第一次東下りの際に江戸三田の前川忠太夫邸で江戸急進派を集め、隆重も出席している。大石は来年一周忌に決行を約束したが、元禄15年(1702年)2月になっても江戸下向しなかった。そのため隆重と不破正種が上方へ送られ、原元辰宅を訪ねた。ここで隆重は大高忠雄に向かって「ご家老が決起しないのは側近のあなたたちが腑抜けだからだ」と暴言を吐き、不破に諌止されたといわれる。また、6月には浅草茶屋にて杉野次房・前原宗房・倉橋武幸・不破正種・勝田武尭と同盟した。この同盟は目的がいまひとつ不明であるが、同じ中小姓で同程度の家格の者として結びあったものと思われる。江戸では父や兄の氏を取り、「渡辺七郎左衛門」の変名を使用した。
討ち入りの際には隆重は表門隊に属して屋内に突入した一人である。しかし1時間あまり、赤穂浪士たちは屋敷をくまなく探索したが、吉良義央は見つからなかった。明け方ちかく、隆重たちが炭小屋に矢を射掛けると、二人の敵が飛び出してきた。敵を斬り捨てると、隠れていた白髪の老人が脇差を抜いて飛び出してきた。間光興が初槍をつけ、隆重が斬り捨てた。駆けつけた大石らと共に死体を検分すると、額と背中に松之大廊下で浅野長矩が斬りつけた傷があったため、吉良義央と確認。間光興が首をはねた。隆重は二番太刀であった。
赤穂浪士一党は浅野長矩の墓所がある泉岳寺に引き上げ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。初槍をつけた間光興が一番に焼香し、討ち取った隆重が二番に焼香した。
隆重は毛利綱元の上屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により毛利家家臣・鵜飼惣右衛門の介錯により切腹。享年32。戒名は、刃性春劔信士。
なお兄・尹隆は、武林隆重の功績により、広島藩浅野本家に召抱えられた。「武林勘助尹隆」と改名し、武林の家名を広島藩に残した
関連項目
・大石神社
(wikiより)
武林隆重
7406 倉橋伝助 武幸墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
倉橋 武幸 (くらはし たけゆき、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伝助(でんすけ)。
生涯
寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣の倉橋武助の子として生まれる。母は幕臣大平弥五郎兵衛の伯母。
延宝4年(1676年)、7歳のときに父が死去したため家督を継いだ。赤穂藩では中小姓(15両3人扶持)として仕えた。元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍し、そのまま一年半にわたって松山に残留している。
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、倉橋は長矩の参勤交代のお供をしていたため江戸に居た。堀部武庸に同調して江戸急進派の一人となった。元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋にて杉野次房・武林隆重・前原宗房・不破正種・勝田武尭らと同盟の誓約をする。8月以降は本所林町の堀部武庸の借家に移り、十左衛門と変名した。
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣江良清吉の介錯で切腹した。享年34。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃鍛錬剣信士。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
倉橋武幸
7405 村松喜兵衛 秀直墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
村松 秀直(むらまつ ひでなお、寛永19年(1642年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛(きへえ)。
生涯
寛永19年(1642年)、浪人の堀江九右衛門の長男として江戸で生まれた。父・九右衛門は町人に身を落とすが、秀直自身は寛文元年(1661年)頃に赤穂藩士で和算学者の村松茂清(九太夫)の婿養子に入り、武士の身分を保った。茂清には村松半太夫という実子がいたが、家を飛び出して行方不明になっていたため、秀直が婿養子に迎えいれられたのである。
元禄9年(1696年)に養父・茂清が死去し、村松家の家督を継いだ。赤穂藩では江戸詰めの扶持奉行また宗門改(20石5人扶持)として仕えた。長く江戸詰めであり、元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際にも秀直もその長男村松高直も江戸にあった。すぐさま赤穂へ向かい、大石良雄に神文血判書を提出した。その後、江戸へ戻ると、はじめ南八丁堀築地小田原町、のち吉良邸のある本所に借家し、隆円と号して医者に成りすましながら、吉良の動向を探った。しかし金に苦労したようで大石から1両の借金をしている。
その後、長男・高直とともに吉良邸討ち入りに参加し、表門隊に属した。本懐後、長府藩毛利家にお預かりとなり、同家家臣・田上五左衛門の介錯で切腹した。享年62。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃有梅剣信士。
なお次男村松政右衛門は。旗本小笠原長門守の家臣になっていたが、父と兄に連座して伊豆大島へ流された。宝永3年(1706年)に政右衛門の依願赦免が認められて、他の赤穂浪士たちの遺児よりも一足早く江戸へ戻った。洞雲寺で出家し、無染と号する。さらに宝永6年(1709年)には赤穂浪士遺児全員に大赦があったので還俗した。その後、赤穂浪士の英雄化もあって小笠原長門守に再び仕えることができたという。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
村松秀直
7404 杉野十平次 次房墓(兵庫県赤穂市加里屋1992・花岳寺)
杉野 次房(すぎの つぎふさ、延宝4年(1676年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十平次(じゅうへいじ)。
生涯
延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野家家臣・杉野平左衛門の四男として赤穂に生まれる。母は浅野家臣の萩原新左衛門の娘。母方の萩原家は家中随一の資産家の家系で知られた。長兄杉野兵左衛門が杉野家の家督を継ぎ、次兄萩原三右衛門と三兄萩原平七は萩原家の養子に入った。次房は杉野家の分家筋として8両3人扶持を支給され、札座横目に任命された。元禄7年(1694年)2月の備中松山城受け取りの軍にも従軍している。
元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が江戸城で高家吉良義央に刃傷に及んだとき、杉野は赤穂にあった。4月、赤穂城開城の際に大伯父にあたる萩原兵助は、萩原家伝来の大砲2門を収城軍の脇坂家に売り払い、これが家中から批判されて、萩原一家は赤穂から逃亡した。杉野も親族として肩身が狭かったとみえ、このあと萩原家と絶縁している。
赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向し、江戸急進派と一緒に行動した。また杉野は萩原家から莫大な資産を受けていたので、これを使って彼らの生活を助けた。元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋において特に親しくしていた前原宗房・倉橋武幸・勝田武尭・不破正種・武林隆重らとともに同盟の誓約をする。8月から三ツ目横丁より吉良邸のある本所へ住居を移し、吉良家の動向の監視にあたった。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、三村包常とともに木槌で裏門を打ち壊す役割をになう。
本懐後、長府藩毛利家上屋敷へ預けられ、元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣榊庄右衛門の介錯で切腹した。享年28。主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃可仁劔信士。
逸話
杉野次房といえば俵星玄蕃との逸話が有名である。杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていたが、この蕎麦屋の常連客俵星玄蕃と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、浅野長矩の遺臣たちが吉良邸へ討ちいったことを知り、すぐに吉良邸前(もしくは両国橋)にはせ参じた。すると赤穂浪士達の中になんと蕎麦屋の十助がおり、2人は今生の別れを交わす。というもの。
この俵星玄蕃と杉野次房の話は文化の頃に講釈師大玄斎蕃格の創作した逸話である。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、また「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は『仮名手本忠臣蔵』の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字であるという。
関連項目
・大石神社
(wikiより)
杉野次房