本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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カテゴリ: 京都・坂本龍馬・新撰組・会津藩関連

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保9年(1838年
死没元治元年6月6日1864年7月9日
別名諱:律義(のりよし)、号:寒翠・寒緑
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩

杉山 松助(すぎやま まつすけ)は、幕末長州藩士。諱は律義(のりよし)。名は松介とも。

略伝
安政5年(1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。文久2年(1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許された。

元治元年6月5日、池田屋事件に遭遇。脱出して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した。享年27。明治24年(1891年)、従四位を贈られる[1]

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
(wikiより)

237a

237b




贈従五位。

志士。

没年 元治元年 7月 19日。

戒名 : 正巌直一居士。

池田屋の変にて捕えられ斬らる。贈位諸賢伝は 20日没と記す。

行年 24歳か。
(案内板より)

217a

217b

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保12年1月24日1841年3月16日
死没元治元年6月5日1864年7月8日
改名吉田栄太郎→吉田稔麿
別名雅号:風萍軒(ふうひょうけん)
墓所京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)
護国山山口県萩市椿東椎原)
桜山神社山口県下関市上新地町)
朝日山護国神社山口県山口市秋穂二島
官位従四位
主君毛利敬親
長州藩
氏族吉田氏
父母父:吉田清内

吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。

久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称され、さらに入江九一を入れて松門四天王ともいう。

生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年1月24日(1841年3月16日)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。

また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する。

松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。

安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩。しかし、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。

文久3年(1863年)4月、兵数を増やすために「穢多非人・屠勇」(現在でいう被差別部落民)の兵士取り立てを建策する[1]。同年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。

最後
元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、「長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした」とされている。また別の説として、「池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した」という話もある。満23歳没。

墓所
墓は京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]

人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。

以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より

山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]

・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]

評価
吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[3]
渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[4]
品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」
伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」
近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[5]


脚注
注釈  
1. 松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2. 山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。(第8豪快「山県有朋稔麿の人物を問ふ」段)
3. 
嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。(拾遺「吉田稔麻呂」段)

出典
1. 前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40,昭和59,p24-29,
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
3. 『松陰とその門下』
4. 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13年

関連作品
テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年NHK大河ドラマ、演:石川雄亮
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史

小説
伊東潤『池田屋乱刃』(講談社2014年
木内昇『火影に咲く』(集英社2018年

ゲーム
・『龍が如く 維新!』(セガ2014年、声:石川英郎
(wikiより)

172 吉田稔麿

吉田稔麿

172a

172b

172c

172d




宮川延吉頼温       (○)

慶応 3. 12. 8日

近藤勇の甥 

天満屋事件にて討ち死

 墓石に名前が刻まれていない。

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173b

173c

173d

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伊藤甲子太郎武明   

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




 毛内有之助良種     

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




服部武雄良章    (○)

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




藤堂平助宜虎   

慶応 3. 11. 18日

御陵衛士

油小路事件

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




加藤羆藤原忠徳       

慶応 3. 6. 14日   

詳細不明

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173c

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173e

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茨木司藤原信忠    

慶応 3. 3. 14日 

伊藤一派               

斬殺

173a

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173d

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佐野七五三之助藤原重之

慶応 3. 6. 14日 

伊藤一派               

斬殺

173a

173b

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中村五郎藤原政常       

慶応 3. 6. 14日 

伊藤一派               

斬殺

173a

173b

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富川十郎藤原政行     

慶応 3. 6. 14日

伊藤一派           

斬殺

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矢口健一郎藤原定孝   

慶応 3. 4. 26日  

詳細不明

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眞明院照誉貞相大姉    

慶応 3. 4. 26日

沖田総司の縁者・明里?

詳細不明

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田中寅三菅原正久      

慶応 3. 4. 5日

脱走

切腹

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田内知源重次          

慶応 3. 1. 10日

武士道不覚悟       

切腹

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173d

173e

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市橋謙吉藤原義次      

慶応 2. 10. 7日 

詳細不明

173a

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柴田彦三郎忠輿     

慶応 2. 6. 23日

勝手金策逃亡       

切腹

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173d

173e

173f




谷三十郎藤原供国  (○)

慶応 2. 4. 1

祇園石段下で斉藤一に斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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173b

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173d

173e

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小川信太郎平国行    

慶応 2. 2. 18日

詳細不明

173a

173b

173c

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173e

173f




河合耆三郎吉輝     

慶応 2. 2. 12日

五十両使い込みの濡れ衣

切腹

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大石造酒蔵源守仲    

慶応 2. 2. 5日

大石鍬次郎の弟     

斬殺

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桜井勇之進平盛房    

慶応元年 12. 12日  

詳細不明

173a

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173c

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松原忠司藤原誠忠    

慶応元年 9. 1日   

四番隊長柔術師範

心中 ( 女も一緒に埋葬 )

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173d

173e

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石川三郎源義元     

慶応元年 6. 21日 

不義密通           

切腹

173a

173b

173c

173d

173e

173f




施山多喜人源泰朝    

慶応元年 6. 21日 

不義密通           

切腹

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173b

173c

173d

173e

173f




大谷良輔     

元治 2. 3. 4日 

罪状不明

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

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173c

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173e

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山南敬介藤原知信    

元治 2. 2. 23日   

総長              

切腹

173a

173b

173c

173d

173e

173f




葛山武八良橘憲章

文久 4. 9. 6日

近藤の増長批判の建白書提出

切腹

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




野口 健司

文久 3. 12. 27日

芹沢派

切腹

 墓石に名前が刻まれていない。

173a

173b

173c

173d

173e

173f




武市 富子(たけち とみこ、文政13年5月18日1830年7月8日[1] - 大正6年(1917年4月23日)は、幕末志士武市瑞山の妻。高知藩郷士・島村雅風(源次郎)の長女。ロシア正教日本人初の司祭沢辺琢磨は従弟[2]

略伝

嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。


瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京に引っ越すも、明治45年(1912年)、半太とともに土佐に帰郷した。


叔父が島村雅事、従弟が島村衛吉である。

脚注
1. 『幕末維新大人名事典 下巻』(新人物往来社、2010年)p.55
2. 
沢辺の従弟が坂本龍馬

関連作品
映画
ボディ・ジャック』(2008年、監督:倉谷宣緒、演者:関谷理香
・『サムライせんせい』(2017年、監督:渡辺一志、演者:奥菜恵


テレビドラマ
龍馬伝』(2010年1月-11月、NHK大河ドラマ、演者:奥貫薫
・『サムライせんせい』(2015年10月-12月、テレビ朝日金曜ナイトドラマ、演者:谷村美月


漫画
お〜い!竜馬』(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう


アニメ
お〜い!竜馬』(1992年-1993年NHK総合テレビ、声:島本須美

(wikiより)

674   Takechi_Tomiko

⇧ 武市富子。

674a

⇧ 武市半平太と富の墓。

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時代江戸時代末期
生誕文政12年9月27日1829年10月24日
死没慶応元年閏5月11日1865年7月3日
別名幼名:鹿衛
通称:半平太
:小盾
:瑞山、茗澗
変名:柳川左門、柳川吹山
墓所瑞山神社
官位正四位
主君山内容堂豊範
土佐藩
父母父:武市正恒 母:大井氏
兄弟瑞山田内衛吉
富子(島村氏)
実子:なし、養子:半太(大甥)

武市 瑞山
(たけち ずいざん)は、幕末志士土佐藩郷士土佐勤王党の盟主。通称武市 半平太(たけち はんぺいた)で呼ばれることも多い。

概略

幼名は鹿衛。は小楯(こたて)。は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。


土佐藩郷士・武市正恒(白札格[1]、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]


優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。


生涯
剣術家

文政12年9月27日1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。


天保
12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ[3]嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている[4]。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。


嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している[5]。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[6]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。


安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[7]。この道場の門下には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡香美郡での出張教授を行う[8]


安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流士学館桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている[9][10]


これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[11]


安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信大老井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった[12][13]


同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが[14]、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した[15]。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている[16]


土佐勤王党結成

文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作薩摩藩樺山三円水戸藩岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した[17][18]


土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった[19][20]


8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた[21][22]。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり[23]間崎哲馬平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。加盟者の大半は下士・郷士地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない[24]


この頃の土佐藩は容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代・山内一豊徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した[25]


半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった[26]。だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている[27]


吉田東洋暗殺

半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学山内兵之助山内民部、家老の柴田備後五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる[28]。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した[29]。これには来る4月12日に藩主・山内豊範参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。


4月8日
夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾大石団蔵安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている[30]


これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた[31]。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。


半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った[32]。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ[33]、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。


国事周旋と天誅

参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。このため土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門が江戸へ下って老公・容堂に藩主の入洛を説き、遂に容堂は朝命を拝受せよと決断した。8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた[34]


閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた[35]


半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え[36]、藩主・豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草した。この建白書の内容は、山城摂津大和近江4力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を5年ないし3年に1度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとし、王政復古を主張するなど、時代に先んじたものであった。同時に、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも緊密に連携し、朝廷を代表して幕府に攘夷督促する勅使を江戸へ東下させる画策の下、朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。


この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた[37][38]


半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従中山忠光から前関白・九条尚忠岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている[39]


10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。警固役には土佐勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行。勅使の雑掌として江戸城に入城した際は将軍・徳川家茂にも拝謁し、幕府から饗応を受けている。幕府は勅命への対応に苦慮したが、容堂の働きかけもあって曖昧ながら攘夷の勅命は受け入れ、御親兵設置については謝絶している。


また、この時期に長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止となった。この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎが起こっている。江戸滞在中に半平太は7回、容堂に拝謁しており、その感激の思いを妻・富子に書き送っている[40]


12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、入京以来の功績に報いる形で上士格留守居組への昇進を命じられる。さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となった。白札郷士から上士格への昇進は、それまで土佐藩において前例の無いことであったが、同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた[41]


勤王党弾圧

勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。この頃、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した[42]。文久3年(1863年1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。


容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。この頃の半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した[43]


平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。


8月18日
会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。


尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。


捕縛後

7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人によって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。この頃より監察府の陣容が一新され、小笠原唯八乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。


この時、平井善之丞の甥である乾退助は、役務上、取調べを行わざるを得なかったが、退助も勤王派であったためきつく尋問する事には消極的であった。退助が武市を尋問したのは一度きりで「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」と述べている[44]。当時の状況から、武市の関与があったかは曖昧で、証拠不充分で武市自身は釈放されると退助を含め多くの人から考えられていた。退助は半平太に同情的であったため藩庁の意見と合わず、ついに国許土佐での役職を干されて江戸での騎兵術修行を申し付けられ、遠避けられてしまう。監察府の陣容一新の噂を耳にし、これまで以上の厳しい追及を覚悟した半平太は盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送った。


以蔵の自白により窮地に

以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。半平太の実弟・田内衛吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺。島村衛吉も拷問死した。また、上士である自身に対しても拷問が行われることを覚悟した半平太は、これが現実になれば、獄中生活による衰弱も相まって拷問に耐えきれず自白してしまう可能性を憂慮し、自殺用の毒を自身にも調達するよう外部に依頼している。獄内外の同志は、なおも自白を続ける以蔵の存在が事態をさらに悪化させる事を恐れ、彼らの間で以蔵を毒殺する(あるいは、半平太の実弟と同様の服毒自殺を促す)計画が浮上した。


この以蔵毒殺計画に関しては、後年の小説やドラマ等の創作の影響から、保身に走った半平太が以蔵の自白を恐れ、獄外の同志に指令を発して以蔵毒殺計画を実行したため、以蔵がこれに憤怒し、半平太に対する憤りから自白を重ねたとする風説が流布されている。しかし、「武市瑞山獄中書簡」の編註者である横田達雄の研究によれば、前述の通り、以蔵は早々と拷問に屈して自白を重ねた事、半平太は同志間で持ち上がった強引な以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家からの承諾を優先させた事、以蔵の実家から承諾を得られないまま獄が結審を迎えたため、最終的に毒殺計画は実行に移されていない事が判明している。さらに以蔵本人は、自身の自白によって同志らが一層厳しい境遇に追いやられた事を後悔し、以後の取調べにおいては、自身の自白内容について曖昧にボカすなどしていた事も判明している[注釈 2]


以蔵ら4名の自白はあったものの、半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元年閏5月11日1865年7月3日)、業を煮やした容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹を命じられる。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。


即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、同日20時頃、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37(満35歳没)。


辞世の句は、


ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
[45]

であった。

没後

武市の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は見限って脱藩し、浪士となって討幕活動を進めた。後に中岡の仲介によって乾退助西郷隆盛薩土討幕の密約を結び、退助は土佐勤王党の志士らを釈放し、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。また、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導したが、勤王の志士を再結集して戊辰戦争を戦い土佐藩兵を率いたのは武市と縁ある退助であった[2]


維新後、木戸孝允が山内容堂との酒席で酔った勢いで「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる[46]


名誉回復と顕彰

武市に関しては、土佐藩内で罪人として処罰された経緯があったが、維新後、有志の盡力により、明治10年(1877年)に名誉回復される。


明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元田中光顕佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立される。


さらに、明治24年(1891年4月8日坂本龍馬中岡慎太郎吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上(靖國神社)において、武市の追贈(贈正四位)奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内、板垣、後藤らが神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、富子は感極まって涙したという。式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市の親族[2]でもある板垣は「当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う[47]。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず「不念の儀あり」と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた[48]

詳しいことは、「武市瑞山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1
(wikiより)

674 武市半平太

⇧ 武市瑞山

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⇧ 武市半平太と富の墓。

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⇧⇩ 顕彰碑

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⇧⇩ 武市半平太墓。

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月形 洗蔵(つきがた せんぞう、文政11年5月5日1828年6月16日) - 慶応元年10月23日1865年12月10日))は江戸時代末期(幕末)の福岡藩士薩長同盟の起草文を考案し、早川勇(早川養敬)と共に斡旋している。

生涯

文政11年(1828年)、福岡藩の藩儒・朱子学月形深蔵(漪嵐)の長男として誕生。祖父月形質叔父に長野誠・従弟に月形潔がいる(父・深蔵の末弟・春耕の子)。福岡藩士魚住明誠経学を、叔父長野誠に兵学を学ぶ。


嘉永
3年(1850年)に父・深蔵の家督を継ぎ、馬廻役から大島(福岡県宗像市大島)の定番となるも辞職し、尊皇攘夷運動に身を投じる。万延元年(1860年)5月、藩主・黒田長溥参勤交代を行うに際し、尊王論の立場から述べた建白書を提出、さらに8月には藩の汚職を批判する建言を行った。

このことから11月に捕縛され、翌年の文久元年(1861年)に家禄没収の上、御笠郡古賀村(現・筑紫野市古賀、上古賀)に幽閉される(辛酉の獄)。


文久3年(1863年)6月には藩執政加藤司書の進言により帰宅するも、なお蟄居を命ぜられ、屋外に出ることを禁じられた。八月十八日の政変の後、脱藩志士の平野国臣に出奔して共に決起して欲しいと持ち掛けられたが洗蔵はこれを断り、10月に永訣状を送り付けられている。


元治
元年(1864年)5月、罪を許されて職に復し、町方詮議掛のち吟味役を命じられ、薩長2藩の融和および薩長同盟の起草に勤めた。第一次長州征討において福岡藩は征討中止を目指し、藩を挙げて長州周旋に務めたが、月形は五卿を説得して長州藩外への移転を実現し、征討中止に貢献した。慶応元年(1865年)には三条実美以下五卿が太宰府天満宮延寿王院太宰府市)に移る際、これを下関(山口県下関市)まで迎えに行き案内した。


しかし幕府が再度の長州征討を決定すると、反対勢力の佐幕派が復権して藩論が一変する。洗蔵は五卿転座の費用の藩の公金1500両使途不明で公金横領の罪を問われ、身柄を親類に預けられた後、同年10月23日に桝木屋(福岡県福岡市中央区唐人町)において海津幸一ら13名と共に斬首される(乙丑の獄)。明治31年(1898年)7月、贈正四位墓所は月形家菩提寺大凉山少林寺(福岡市中央区天神)

人物
西郷隆盛に「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言われている。

関連作品
月形半平太 - 戯曲の主人公。月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたと言われている。

葉室麟著『月神』角川春樹事務所2013年

月形洗蔵を描いた月の章と従兄弟月形潔を描いた神の章の二部作の歴史小説

参考文献
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
森政太郎編『筑前名家人物志』文献出版、昭和54年。

栗田藤平著『雷鳴福岡藩』弦書房、2004年。

浦辺登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年。

・明治維新史学会編『明治維新と歴史認識』吉川弘文館、2005年。

・アクロス福岡文化誌編纂委員会『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』海鳥社、46頁 2015年

・力武豊隆著『月形洗蔵』のぶ工房、2021年
(wikiより)

⇩ 月形家三代の墓

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⇧ 月形洗蔵墓

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⇧ 祖父・月形鷦窠墓

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⇧ 父・月形深蔵墓



11人の方が合祀されています。


なかには、関 雄之助 ( 沢村 惣之丞 / 海援隊士 ) の名前もあります。

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日本で最初の貿易商社「亀山社中」を長崎に設立した坂本龍馬。その長崎の地に龍馬の像を建てようという「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけに賛同した全国の有志から寄せられた資金で、1989(平成元)年5月、亀山社中跡に近い風頭公園に『坂本龍馬之像』が建立された。高さ4.7m(全身像3.2m+台座1.5m)、長崎港を一望できる風頭公園に威風堂々と立ち、腕組みをして日本の未来を見据えるかのような姿―これには未来を担う青少年へのメッセージが込められ、龍馬の実像に最も近い像とも言われている。 

製作者は長崎在住の彫刻家・山崎和國、台座碑文は作家・宮地佐一郎によるもの。


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長門長府藩士。

元治元年六月五日京都で死亡。

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峯廻武平

十津川郷士。

御親兵として上京。

明治元 ( 1868 ) 年 12月 4日病死。享年不詳。

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佐古武五郎

十津川郷士。

明治元 ( 1868 ) 年 10月 19日病死。

御親兵として上京。享年不詳。

2001a



中勘二郎

十津川郷士。

御親兵として上京。

慶応四 ( 1868 ) 年 4月 10日病死。享年不詳。

2000a



鎌塚久米吉

十津川郷士。

御親兵として上京。

慶応四 ( 1868 ) 年 8月 25日病死。享年不詳。

1999a



三吉采女

金剛隊士。

元治元 ( 1864 ) 年 7月 19日鷹司邸内で戦死。享年不明。

1995a



河邨季興

三条西家諸大夫。

従五位下能登守。

文久三年八月七卿の西走に従う。

元治元年六月主命で京都に潜入しようとして伏見で捕えられ、七月二十日六角牢で斬。四十四歳。

京都霊山と上京区・竹林寺、東山区・正法寺に墓。贈正五位。

1991a



吉川菊治

三条西家諸大夫・河村季興の家来。

河村に従い長州から上京、伏見で捕えられ、元治元年七月二十日六角牢で斬。三十九歳。

京都霊山に墓。

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丹羽正雄

三条家家臣。

近江愛知郡鯰江村の人。

変名・佐々成之。

福田市左衛門の二男。

三条家諸大夫・丹羽正庸の養子。

文久二年十月勅使三条実美の東下に従う。

三年八月政変で七卿と西走。

岩治元年六月実美の命で京都に潜入しようとして伏見で捕えられ、七月二十日六角牢で斬。三十一歳没。

京都霊山と上京区・竹林寺に墓。贈従四位。

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川勝 寛治(かわかつ かんじ、文政12年(1829年) - 元治元年7月20日1864年8月21日))は、幕末尊攘派志士。三条家家士。

生涯
丹波国船井郡園部(現・南丹市)の出身。京都に出て三条家の家士となり、開国により国内が騒然とした時期に、三条実美の内命を受けて諸藩の尊攘派志士との間を奔走した。文久3年(1863年)8月18日の八月十八日の政変の後、三条実美・澤宣嘉らの攘夷派の公家7人は長州藩兵と共に京都から追放された(七卿落ち)。その際、寛治は三条実美の護衛の役を務め、三条実美に従って長州藩の三田尻御茶屋に下向した。その後、三条実美の密旨を同志に伝えるため京都に潜入したが、幕府の役人に捕らえられ京都所司代の管理する六角獄舎に収容された。元治元年(1864年)7月19日の禁門の変の際に生じた火災(どんどん焼け)は獄舎近辺まで延焼し、同年7月20日に同じく獄中にいた尊攘派志士らと共に京都町奉行の役人によって火災を口実に斬殺された。享年36。墓所は、京都市上京区竹林寺、東山区正法寺。また、その功績により従五位を贈られ、京都霊山護国神社に祀られた。

参考文献
・宮崎十三八・安岡昭男編 『幕末維新人名事典』 新人物往来社、1994年 ISBN 4-404-02063-5 ほか

関連項目
尊王攘夷

三条実美

川勝氏
(wikiより)

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新見弾蔵

元治元年 ( 1864 )。

福原越後家来。

伏見街道で大垣藩兵と戦い戦死。

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伊藤敬蔵

元治元年 ( 1864 )。

御徒士。

集義隊砲隊長。

鷹司邸内で戦死。

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内山太郎右衛門 ( うちやま - たろうえもん )
( 1841 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

文久 3年奇兵隊に入り、下関で外国船砲撃に参加。

探索方として京都で活動中、池田屋事件で捕らえられ、元治 ( げんじ ) 元年 7月 20日六角牢で処刑された。 24歳。

本姓は小野。名は直一。

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山田虎之助 ( やまだ - とらのすけ )
( 1842 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 13年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩奇兵隊士。

商人に姿を変え京都に潜入、情勢を同志に通報する。

池田屋事件の夜捕らえられ、元治 ( げんじ ) 元年 7月 20日処刑された。 23歳。

名は彪。変名は古手屋耕介 ( 耕太郎 )。

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