本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 医師術・本草・医学校関連

医師。 

行年 66歳。

没年 昭和12年 12月 5日。

戒名 : 清廉院東陽自適居士。

京都、萩にて開業の最初の歯科医師 ( 東田町 ) のち朝鮮京城に赴き、京都にて病没。 楢崎家分家。
(案内板より)  

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医師。 

没年 安政 4年 5月 2日。

戒名 : 千秋庵嘯月吟風居士。

田村為右衛門の長男、医師、俳人 ( 芭蕉堂公成門人か)。

村田正明、田村耕斎の兄。
(案内板より)

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幕末の藩医。

玄機・玄瑞の父

藩主・敬親の信任厚く、晩年には侍医に任じられた。

嘉永七年 ( 1854 )没

行年 六十三才
(案内板より)

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工藤 安世(くどう やすよ、元禄8年(1695年)-宝暦5年2月20日1755年4月1日)は、『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の養父で仙台藩江戸詰の藩医絵師。号は丈庵(じょうあん)。平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』に詳細が記されている。

略歴

工藤丈庵安世は、仙台藩第5代藩主伊達吉村寛保3年(1743年)に江戸品川袖ヶ先に隠居するにあたり、その侍医として300石で召し抱えられた。延享3年(1746年)頃、仙台藩医になる際に妻帯が条件であったため、23歳年下の上津浦ゑんと結婚し、同時に紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であった13歳の平助を養子とした。


『むかしばなし』によれば、養子平助にはまったく医学を授けなかった。しかし、実家で学問らしきことをほとんどしていない平助に対し、朝、『大学』を始めから終わりまで通して3度教え、翌日まで復習するようにと命じてみずからは出勤するという教授法で、10日ばかりで四書のすべてを教え、それによって平助は3ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという[1]


宝暦
元年(1751年)、伊達吉村逝去の際、願い出て藩邸外に屋敷を構えることを許され[2]、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てた。宝暦5年2月20日に死去。享年60。墓所深川東京都江東区)の心行寺にある。

人物

丈庵安世は、すぐれた医師であったばかりでなく、学問歌道書道および武芸百般に通じていた。また、「うき絵」という一種の遠近法の手法を駆使する絵師でもあった。仙台藩では安世に対し和歌添削なども命じている。にあたる工藤あや子(只野真葛)は、『むかしばなし』のなかで「工藤丈庵と申ぢゞ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」と記している。同書にはまた「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」の記述があり、蓄財も巧みであったといわれる。また、京都にいた蝦夷開拓論者の並河天民から北方に関する情報を得ており、蝦夷地開発は安世にとって長年の重大な関心事であった。


養子となった工藤平助には医業や自分の仕事向きのことは伝えなかった。『むかしばなし』には、あるとき、平助が茶屋で休んでいたとき「工藤丈庵様のお子様か」と声をかけられた逸話が収載されている。声をかけられた平助が「左様だが」と答えると、「丈庵様は格別の御名医でありました。自分が若い頃、松坂屋手代が病を得て様々に治療したがいっこうによくならず、自分がたのまれて丈庵様のところへいき様子を申し上げると、『患者はかねてよりアサツキを好んで多食していないか。それなら行ってみるに及ばない。をひかえて生姜のしぼり汁を一日に茶碗いっぱい、三度斗に用いよ。平癒するであろう』とおっしゃられて、その通りにしたところ完全に治りました。そのとき、わたしは工藤様の御紋所を見覚えていたのです」と言われたという[3]


脚注
1. 関(2008)p.9-10
2. 
『むかしばなし』に「御家中に外宅といふはぢゞ様がはじめなり」の記述がある。
3. 
武田(1996)p.333


出典
武田昌憲「工藤平助」朝倉治彦三浦一郎編『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年2月。ISBN 4-04-031900-1
関民子『只野真葛』吉川弘文館<人物叢書>、2008年11月。ISBN 4-642-05248-8

(wikiより)

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石坂 宗哲(いしざか そうてつ)は、江戸時代鍼医名跡。特に指定しない場合は、(竽斎うさい)石坂宗哲を指すことがほとんどである。なお、江戸時代の出版物では「石宗哲」と「石宗哲」が混在するが、石坂が多い。また、明治あるいは昭和以降の出版と論文では石坂と記述される事がほとんどである。

1. 竽斎 石坂 宗哲(うさい いしざか そうてつ)1770年明和7年) - 1842年1月1日天保12年11月20日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の侍医を務め[1]、当時多数流派に分かれていた経穴(ツボ)を整理し、統合した。現代に繋がる針の基礎を作り、また、石坂流鍼術を創始した。名は永教、は竽斎(医学史家、呉秀三は当初宗哲の号を竿斎とみなしていたが、後に竽斎と改正した、竽とは竹の笛で勉学中家が貧しかったので市中を巡り按摩をして生活の糧としたので家宝とし号を竽斎とした。
2. 石坂 宗哲(宗圭)は、竽斎石坂宗哲の娘婿で、初め宗圭を名乗った。
3. 石坂 宗哲(その他)は、石坂宗哲の名跡を名乗った人で、町田栄治の著書に存在に確認できる。

竽斎石坂宗哲
甲府の藤原家に生まれる。幼名は文和、永教[2]、号は竽斎。後に石坂家が江戸の大火(後述)にあったせいか幼少の頃はほとんど記録がない。石坂家二代目、石坂宗鐵の長男が幼くして病弱となり後継ぎが出来ないので文和を養子にしたいと依頼する。文和は当時5歳ごろとおもわれる。養祖父石坂志米一、養父石坂宗鐵は共に杉山流鍼治導引稽古所(世界初の盲人教育機関)で鍼術、導引、按摩を学ぶ。文和も同所で鍼灸、導引、按摩を学ぶ、教科書は初等科では杉山流三部書(療治之大概集、選鍼山要集、医学節要集)中等科では中国古典鍼灸、内経、難経など、また鍼管法、杉山真伝流の表之巻を学ぶ。高等科では杉山流を他人に伝授する教育を受ける。杉山真伝流、目録之巻物一巻、真伝流中之巻、奥龍虎之巻を学び、終了時には門人神文帳が伝授される。1796年寛政8年)12月22日、小普請医となり、鍼科と漢方科の教育機関の創設を命じられ金二十両を賜り甲府へ赴任し、翌1797年(寛政9年)6月、甲府医学所を興す[1][3]。初年度に200人以上の生徒が全国から集まる。教育内容は西洋解剖学、生理学を含み現在の鍼灸教育の先鞭となる。また漢方医学科を設けられ校内に3000坪の薬園があった。


1799年(寛政11年)8月5日、妻の高子が没、1800年(寛政12年)に頭取の宇佐美道茂が病で急死。同年5月15日、任務を果たして甲府より江戸に戻る。なお甲府医学所は明治元年まで東洋医学の教育と治療を行った。1802年享和2年)11月22日、寄合医師に進み、禄百俵を給せらる(この時、御目見以上の身分になったものと推定される)。なお1803年(享和3年)に奥医師(鍼科)に進んだものと考えられ、1812年(文化9年)9月11日将軍徳川家斉に拝謁(その時家斉は、「私の祖父の命で一橋家から将軍職を絶やさないように沢山の子を持つように」と言付けられた、そして「そちの鍼を打つことで子宝を授かることが出来るか」と尋ねた。宗哲は「出来ます」と言う)。同年12月16日、法眼に叙せられ録二百俵を給せられる。


文政
年間には、後述するようにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと交流し解剖学を学ぶ、そのことから「シーボルトの弟子」と記載される例[4]もある、またシーボルトに鍼を教えていたのは宗哲であり、そういう意味ではシーボルトの師匠(シーボルトおよび宗哲双方にその意志は無いが)というのがふさわしい。シーボルトが江戸参府をした時に宗哲と面会する、シーボルトは宗哲に、「私の腕に鍼を打ってくれるように」と頼む、宗哲は子の宗貞に鍼を打たせた。シーボルトは痛くもなく、炎症もおこらなかったので感心した。そしてシーボルトは「それでは貴方の腕を切って繋いで見せましょう」と冗談を言ったが、宗哲は愚弄されたと思った。なお、シーボルトが帰国する1829年10月(文政12年9月)の直前、「文政十二年三月廿一日の大火記録」によれば「類焼卸医師」の住所氏名に「石坂宗哲 同宗貞」とあり、火災に遭っているようである[5]。シーボルト帰国後は、私塾,定理医学書屋、出版部


1804年(文化元年)には陽州園を設立して後進の指導に当たった[3]1841年、隠居。子の宗貞が先に没していたため、孫の宗元が継いだ。1842年1月1日天保12年11月20日)死去、深川増林寺に葬られる。


石坂氏は元文年間より江戸幕府に仕えていたが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では御家人身分であったため同書には掲載されていない。また、宗哲は世襲名で子孫も襲用しており、そのため伝記には混乱が見られるので注意を要する。

業績
石坂流鍼術の創始者で、多くの著書を遺した。1822年にはオランダ商館医「的由児里无吉」(Nikolaas Tullingh)と出会い『鍼灸知要一言』を与える。テルリンキは「初めて鍼術について聞きました。軽いことではありません。本国の医師に伝えて、行われることを願います。鍼の実技をぜひ行って下さい。今の機会を失うことを恐れます。この大略を聞かせてください」と頼んだ。よって『知要一言』を訳官、中山作三郎に渡す。訳官この書を彼に通訳し、長崎に持ち帰る。宗哲は東西の医学統合を試みて『栄衛中経図』を著した。同著は、パルヘイン(Johan Palfyn)著『人体解剖学書』の血管図を取り入れたものと見られる[1]、これはシーボルトに頼んで借りたものである。また宗哲はシーボルトに神経図を貸してくれるように頼んだ。シーボルトは1826年(文政9年)3月15日江戸参府の際に神経図を宗哲に借与する。宗哲はまた、『鍼灸知要一言』『九鍼之図説大略』『灸法略説』『鍼灸広狭神俱集』『鍼灸説約』鍼灸図解』喜多村彦兵衛の『経絡図』および鍼治療道具一式『栄衛中経図』二組などを献上している。[6]シーボルトは「先生にもらった鍼法は、翻訳、印刷して国中に広めて、人々の宝としたい。謹んであなたの大いなる宝を拝します。これをヨーロッパ中に伝えて鍼灸が優れた治療法であることを知らせます。実に仁の人の教えであり、利は薄いし、この書は義の海の指南であります」。シーボルトは1833年に著した"Niipon"(日本)において、石坂宗哲ともに鍼治療と治療道具一式を2ページにわたって紹介しているほか[1]、帰国後に『鍼灸略説』を翻訳したと思われる論文を学会に発表している[6]。海を渡った宗哲の著作物には"Sotcts"とラテン語表記されていた[6]。なお、シーボルトに献じた鍼は、浅草の神戸源蔵(かんべげんぞう、代々世襲名初代)のものであり、銀鍼一番から九番、銀製九鍼、この神戸源蔵の鍼は詳細に模写された論文が公開された。シーボルトは宗哲にお礼として阿片少々、ランセット2本、流金留め針をおくる。石坂宗哲が献じた針および書籍のヨーロッパにおける研究はほとんど進んでいないが、チャールズ・ガブリエル・プラパーズとアレキサンダー・ウッドによって注射器が発明されたのは、1853年である。


シーボルト以前にオランダ人医師のウィルレム・テン・ライネは1674年に将軍家綱の病気治療に来日、ヨーロッパに日本の植物、鍼灸を紹介する。


宗哲の業績は石坂流鍼術の理論と技術を完成させたことにある。彼の理論によると、気血の鬱滞により様々な病気となる、その気血の主流である衝脈、(衝脈は血の海、十二経の海、彼は下降大動脈を大衝脈と呼び衝脈と断定した)また陰経の主流任脈と陽経の主流督脈を開通する技術を開発した。衝脈が気と血液の循環を総括、調和を司るとした。しかし衝脈は身体の中心軸にあり直接鍼を行えないので、背部督脈、華佗侠脊、膀胱経、腹部任脈、腎経を利用することで衝脈を開通すると言う。


衝脈は循環器系、呼吸器系、中焦を司り、督脈は脳神経系、上焦を司り、任脈は消化器系、生殖器系、下焦を司ると言う。


その技術として石坂流三刺を開発する。それらは、誘導刺、連環刺、尖地刺である。


誘導刺は督脈、華佗夾脊、膀胱経、任脈、腎経に散鍼を行う技術。


連環刺は身体の部分で円環状の部分に三日月形に散鍼を行う技術。


尖地刺は水平刺で肩甲骨内側刺鍼などに利用する。


いずれの技術も気の流れを利用した技術であり、武道の合気術と同様の動きである(医武同源)。


宗栄衛三気弁、栄衛中経図などにより、宗脈を神経、栄脈を動脈、衛脈を静脈、中経を門脈と解釈する。


宗哲は弟子に対して「お前たちは鍼で按摩をしているだけで、医者などという大それたものではない」と教えた。


また「鍼は臍下丹田を使って行い、宇宙の気と繋がって、体全体を波のように前後に揺らして行なう」と言った。


弟子に対して「師の姿を遠くから見て、体全体の動きを観察するように」と言った。


また「押手は、鍼を打ったあと皮膚を拇指と示指で摘み上げて時計回りに回転させる、刺手は鍼を持ち手の重みでゆっくりと下してゆく。これによりどんな硬結にもすんなりと鍼は入ってゆく」と言った。

住居
住居は、江戸の日本橋濱町山伏井戸(明治期に両国に統合された後に、現在日本橋浜町)である。1776年から同じ山伏井戸に杉田玄白が住んでおり[7]至近距離である。また、安政六年の地図には、石坂宗哲家(この時の名義は子・石坂宗貞)の西4軒隣に杉田玄丹と記載がある[5]。杉田玄白は、1817年に江戸で亡くなっているが、終生この地に住んでいたとすれば宗哲35歳の頃までわずか数軒隣に杉田玄白が住居し、塾を開いていた事となる。この山伏井戸は至近距離の薬研堀と共に医者町を形成しており、娘婿の石坂宗桂宅は東北10軒隣に住んでおり、薬研堀の目前である。また、石坂宗桂宅2軒隣の水谷玄丹は一橋家侍医であり、また、宗哲家の道を挟んで3軒となりが一橋家下屋敷である。他にも至近距離に順天堂病院を創立する事となる佐藤泰然、シーボルト門下の竹内玄洞、奥医師多紀法印家、半井策庵、土生玄碩の子である土生玄昌家など当代随一の医者が集中しており、付近で医学会の情報ネットワークを形成していた[8]

人間関係
家族
・石坂志米一(石坂宗権、源与一)石坂家初代-竽斎宗哲の養祖父。越後の国小千谷の上杉家の家臣の家に生まれる。幼少のときに盲目となる。小千谷の当道座で按摩を学ぶ、後に江戸に行き杉山流鍼治導引稽古所で鍼灸を学ぶ。志米一は杉坂かの一に師事する、かの一は島崎とえ一に師事、とえ一は三島やす一に師事、やす一は杉山和一に師事する。徳川吉宗の時代の鍼医で検校(91番目)の地位(1733年)にまで昇った。1736年に西城の鍼科20口、西の丸、大奥の奥方、側室の治療にあたる。同年4月に将軍徳川吉宗に拝謁、日本橋四丁目に住む。延享2年(1745年)7月2日死去。戒名を寿仙院前石坂検校実翁宗権居士。杉山和一の十大弟子の一人。米山(男谷)銀一(米山検校、勝海舟の曽祖父)は志米一の弟子。

・石坂宗鐵-竽斎宗哲の養父(石坂家二代目)。1775年(安永4年)8月26日没、妻、喜春(-1794)

・石坂宗貞-宗鐵の実子長年病弱であった、1780年(安永9年)7月13日没、戒名を園仁院高絋智月居士

・石坂喜春-宗鐵妻

・石坂高子-竽斎宗哲妻。1799年(寛政11年)8月5日死去

・石坂宗貞-竽斎宗哲の子。1842年没。鍼灸説約(1811年)の冒頭に校正として「男 道常宗貞」と記載がある。なお、一部鍼灸説約の印字が悪く宗員と読めるものもあるようだ。江戸時代に出版された地図には宗哲の住んでいた住居と同じ位置に宗貞とある事から住居相続しており、当初後継者と考えられていた可能性が高いが病死した。1843年(天保14年)7月4日西城の奥医、奥奉公(これは手続上のみで1842年に没している)

・石坂宗得(-1815)

・石坂宗元(四代)-1843年西城の奥医となる。

・石坂宗圭-道弘、道宏、楽園、竽斎宗哲の娘婿。後に、宗哲を襲名した。宗哲の著書『医源』の序文を書く。日本医師会 昭和8年5月例会に島田筑波が竿斎宗哲の没年を特定し報告[9]するまでは竿斎宗哲と混同されていた。1863年(文久3年)2月15日没

・石坂宗秀、復斎、岡宗益(宗圭妻)1843年(天保14年)12月3日没

石坂周造 宗順(1832-1903)-石坂宗哲(おそらく宗圭)の養子。ただし、晩年に山伏井戸の実家で出産された逸話を語っており、娘婿の立場である宗圭の望まれぬ非嫡出子として生まれ一旦外に養子に出された逸話を語っている事から、宗圭の後継者病死の後に戻された実子(戻り養子)である可能性が高い。妻はけい(山岡鉄舟の妻の妹)侍医の家に生まれ、石坂宗順を名乗り石坂塾に学ぶも、尊皇攘夷の意志を強く持ち、幕閣を斬るビラを配っていた所、幕府に捕縛される寸前に乳母から知らせを受けて出奔した。清河八郎の同志で、清河が幕府に殺されると、死体から清河の首を打ち取る振りをして首を取り戻し弔った。山岡鉄舟の義弟になり幕末に倒幕で活躍しようとしたが、ここで捕縛され切腹は逃れたものの牢に入れられ活躍できずにいた。同輩の士が維新の功績で知事などに栄達する中で維新後は実業家に進み、後に明治期に石油産業の祖として活躍した。日本の石油の父などと称されたが、やはり鍼医としては継がずに石坂流鍼灸術が途絶える遠因となった。豪快破天荒な性格で、時に山師などと呼ばれ、繊細で緻密な鍼医にはもともとから性格的に向かなかったと見られる。

・石坂宗寿-中山宗淑の妻

・石坂宗壁-宗貞の妻、1853年(嘉永6年)4月3日没

・石坂宗元(五代目)-1862年(文久2年)8月28日没

・石坂宗貞(六代目)-(-1855)

・石坂宗文(七代目)-宗信、1843年(天保14年)生まれ、1868年(明治元年)5月15日没

・石坂宗哲(八代目)-義宗、1891年(明治24年)4月15日没

・石坂晧(九代目)-(-1958)

・石坂一夫(十代目)-(1936-)

・その他 - 石坂宗哲の書状などに孫を失った記載があり。はっきりしないが病死した子孫がいく人かいたようである[10]。後継者に不幸が続き、後継に不安を持ち万が一の時には石坂流を頼むという趣旨の手紙が宗哲弟子の中山宗淑の子孫、町田家に残されているという。

門下
・中山宗淑 - 石坂宗哲の「第一門人」[11]と記載される事もある鍼医、妻の宗寿は水戸藩の侍医。江戸の本家石坂流が途絶えたとされる事が多い。本家は明治政府の医療法改正により医師のみが鍼を行うことが出来るようになりを廃業して、按摩とニンニク灸を行う。現在石坂流を伝えるのはこの家系である町田家とされる事が多い。宗淑の子が、中山浅之進、その子が中山けざし、その夫が町田繫吉(-1931)、その子が、町田吉雄(1915-)、町田栄治(1922-)。

・田中信行 - 鍼灸説約のあとがきに見える門人。あとがきには「門人 江左里正 田中信行識」とあり、当時としては貴重な約2ページに及ぶあとがきを任されている事から、かなりの高弟と思われるがはっきりしない。鍼灸説約のあとがきの記述日時は「文化壬申(9年)夏五月」で、東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。

・斎藤宗甫 - 鍼灸説約の校正を石坂宗貞と共に行った甲斐の門人。

・川俣文哲

・土橋宗魯

・土橋保輔

・乙黒宗魯

・岩下宗魯

・吉田秀哲

・中山浅之進

交友および関係者
・杉本良仲 - 鍼医。鍼灸説約の序文に「極鍼経」と絶賛する文を寄せている。掲載時の署名は「侍醫法眼杉本良仲誌」と捺印されており、当時を代表する人物だったと推測される。東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。

・它山 唐公愷 - 知要一言の序文寄稿者。序文には宗哲を竽斎先生と記載し鍼に解剖の知識を活かした事や西乙福児篤(シーボルトの当て字)への言及があり諸国に鍼治療があるのを知らしめるとある。儒学者の堤它山の名が公愷であり、また、号として它山を使用していた[12]事から、堤它山の事と思われる。佐藤一斎の弟子で、佐久間象山から見て堤它山は兄弟子にあたり、また学問所では頼山陽などが同僚[13]である。漢方医川村寿庵、錦城(日本名山図絵を谷文晁と共に作成する)と親交があったと見られる。知要一言の序文に錦城翁の名前がありこれは川村寿庵錦城と思われる。1849年没。

・川村寿庵 - 錦城、江戸の有名な漢方医、安藤昌益の弟子、川村快庵の婿養子となる。奇行で有名、治療は午前のみ、午後は笛を吹いて過ごした、楽器の収集を趣味とした、また山登りが好きで全国を巡り歩いた。彼はそれを口実として安藤昌益の思想を密かに伝道したものと思われる。彼は安藤昌益の『自然真営道』を密かに所有していた。また彼は江戸じゅうの漢方薬店に行き床を掃除するからといって、床に落ちていた漢方薬を集めてもらって帰り混ぜて「万病回春散」と銘打って売り大もうけした。『錦城先生経験方』『日本名山図譜』子は川村真斎(漢方医)

・川村真斎 - 妻は土岐村元立の妻、琴の妹、滝沢宗伯の妻の叔母、『真斎先生傷寒論』『真斎漫筆』『進退小録』『老子解』『真斎聚方』『真斎方記』『良中子神医天真』『神医天真論』

滝沢馬琴 - 戯曲家、南総里見八犬伝その他、江戸の知識人の集まりの兎園会を主催。1825年(文政8年)正月から始まり毎月一回集まって見聞した珍談、奇談を披露しあった。参加者は、滝沢馬琴、山崎美成、屋代弘賢、荻生維則、西原好和、滝沢琴嶺、関思亮、大郷良則、桑山修理、亀屋久右衛門、清水正徳、中井豊民が正会員、各員として石坂宗哲参加する。

・山崎美成 - 随筆家、雑学者、国学者、『兎園小説』の著者、堤た山の『駱駝孝』の序文を書く

・滝沢宗伯 - 馬琴の子、妻は紀州藩三浦家の医師土岐村元立の三女、路

谷文晁 - 画家、日本名山図絵

平田篤胤 - 思想家、言霊学者、医師、蘭学を吉田長淑に学び解剖に立ち会う、国学者、『仙境異聞』『医道大意』など著書多数、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と共に国学四大人の一人

屋代弘賢 - 幕府御家人(右筆)国学者、腰痛を宗哲に治癒してもらいその礼に雲棲子著の『鍼灸広狭神倶集』を寄贈する。塙保己一に国学を学んで『群書類従』の編纂に加わる。著書に『寛政重修諸家譜』『古今要覧稿』、柴野栗山、太田南北、谷文晁、らとも親交があった。

・各務文献 - 整骨家、整骨新書の著者、木骨を製作し江戸医学館に大月玄沢を通じて献納する。宗哲は二分の一大の木骨を購入する。この木骨は宗哲の私塾で解剖学の教材とする。

大槻玄沢 - 蘭方医『重訂解体新書』『蘭学階梯』の著者、宗哲に蘭学を教授する。蘭学塾、芝蘭堂を開く。

土生玄碩 - 西洋眼科の始祖で宗哲と共にシーボルトにあっている[14]。後にシーボルト事件に連座し投獄。その息子の玄昌は同じ山伏井戸に住居があり近隣である。

・溝部益有山 - 鍼灸説約蜜月堂版(オリエント出版2004年再収録)にあとがきを載せた人物で豊後(大分)の人と記載がある以外詳細不明である。記述年日は「文化壬申夏」で、田中信行に先行して記述してある。東都書舗版の鍼灸説約には記載がない。

中山作三郎 - 幕府大通詞(通訳の責任者)。文政7年にシーボルトと会える旨の書簡を宗哲とやりとりしている[15]

美馬順三 - シーボルトに贈呈された宗哲の書(鍼灸知要一言)を、シーボルトからの依頼を受けてオランダ語に翻訳した[15]

石井宗謙 - 美馬順三が文政8年に早世した後を受けて、宗哲の書をオランダ語に翻訳したと推定されている[15]

・男谷家 - 石坂志米一が男谷(米山)銀一(1703-1771、越後の長鳥村の生まれ)の師匠であり、恩人なので石坂家とは親戚のように付き合う。銀一の子供が男谷平蔵、孫が彦四郎、忠蔵、勝小吉、曾孫が勝海舟

・山岡鉄舟

宗哲が住んでいた山伏井戸には、かつて国学の四大人の一人と目された賀茂真淵が住を構えていたため、文化人も多く集まっていた。そのためか宗哲も文化人との交流が多く、日本医家列伝には風流の人と記載がある。また、蘭方医との知己も多く、シーボルト事件で連座した医者らの多くは知己であったと見られる。

詳しいことは、『石坂宗哲ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9D%82%E5%AE%97%E5%93%B2

(wikiより)

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坂 宗之  
寛延元年 ~ ? ( 1748 - ? ) 寿一郎、法名? - ?

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坂 宗英  
享保 7年 ~ 明和 3年 ( 1722 - 1766 ) 吉十郎、宗名

家重・家治に仕える。

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坂 宗長  
延宝 4年 ~ 延享元年 ( 1676 - 1744 ) 吉太郎、元益

綱吉・家宣・吉宗に仕える。

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坂 宗真  
? ~ 正徳 2年 ( ? - 1712 ) 政二郎、宗真

家綱・綱吉・家宣に仕える。

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坂 宗恭  
延享 3年 ~ 天明 8年 ( 1746 - 1788 ) 文助、独照 

家治に仕える。

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 ◇は判読不可。

坂 満◇ ( たつ ) 
享保 7年 ~ 安永 2年 ( 1722 - 1773 ) 大進、慈恭 

吉宗・家重・家治に仕える。

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坂 東林  
延宝 5年 ~ 延享元年 ( 1677 - 1744 ) ? 東林

綱吉に仕える。

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坂 宗純  
寛永 14年 ~ 永宝元年 ( 1637 - 1704 ) 四郎三郎、玄清

家綱に仕える。

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坂 寿仙  

? ~ 承応元年 ( ? - 1652 ) 吉の助、三益

家光に仕える。

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坂 宗説

慶長 13年 ~ 寛文元年 ( 1608 - 1661 ) ? 全久

秀忠・家光に仕える。

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明治初年日本医学のあけぼのの時代


明治三年八月当山で解剖が行われました


仏をふわけさせる者などだれもいないころでした被解剖者はすべて死罪人でした


執刀は福井順道が一人、大久保適齋が九人、亜米利加人ヤンハンが一人いずれも日本医学のバイオ二ヤーたちでした


それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治五年二月に建てましたが破損してきましたのでここに新しく建立しました


昭和四十二年六月 当山二十七世 日香
(石碑文より)

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手塚 良仙(てづか りょうせん、または良庵(りょうあん)、文政9年(1826年) - 明治10年(1877年10月10日)は、幕末から明治時代初期の医師蘭学者。名は光亨。息子は司法官手塚太郎大槻俊斎は義弟にあたる。漫画家の手塚治虫の曾祖父である。

略歴
江戸蘭方医常陸国府中藩医手塚良仙(手塚光照)を父に生まれ、緒方洪庵適塾に入門。福澤諭吉らと親しむ。

・江戸に帰って、伊東玄朴大槻俊斎らと図り、お玉が池種痘所設立。

・父の跡を継ぎ、良仙と改名。幕府歩兵屯所付医師となり、維新後、大日本帝国陸軍軍医となる(大尉相当官)。

西南戦争に従軍、九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院にて死去した。

家族・親族

手塚家
・祖父・良仙(光行)

・父・良仙(光照)1801年 - 1862年医師蘭学者

・息子・太郎1862年 - 1932年司法官

・孫・1900年 - 1986年写真家

・曾孫・1928年 - 1989年漫画家

・玄孫・1961年 - 。映像クリエイター

・玄孫・るみ子1964年 - 。プランニングプロデューサー)

著書
・『妊婦摂生略考』

登場する作品
・手塚治虫『陽だまりの樹

手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画。大阪岡場所で手塚ではなく鉄川と名乗っていたエピソードが描かれているが、これは当時適塾で学んでいた福澤の著書『福翁自伝』中の「遊女の贋手紙」の章でも書かれている。


みなもと太郎風雲児たち 幕末篇』

幕末史の群像劇を描いた大河歴史ギャグ漫画。適塾時代の福澤のエピソードで、顔が手塚治虫の自画像風で、さらにまでベレー帽風に描かれた良仙が登場する。

関連項目
伊東玄朴

大槻俊斎

外部リンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus『手塚良仙』 - コトバンク

手塚良庵:キャラクター名鑑:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト

手塚良仙:キャラクター名鑑:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト
(wikiより)

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鷹取養巴 ( たかとり - ようは )
( 1827 - 1865 )


江戸時代後期の医師。


文政 10年 1月 13日生まれ。


筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩医。


加藤徳成 ( とくなり ) らとともに尊攘 ( そんじょう ) 派として活動。


藩論が佐幕に一変すると、月形洗蔵らとともに捕らえられ、慶応元年 10月 23日斬首 ( ざんしゅ ) された。39歳没。


名は惟寅。字 ( あざな ) は子直。号は碩庵、葵軒。
 
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吉雄 耕牛(よしお こうぎゅう、享保9年(1724年) - 寛政12年8月16日(1800年10月4日))は、日本江戸時代中期のオランダ語通詞幕府公式通訳)、蘭方医。は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。幸作とも称する。号は耕牛のほか養浩斎など。父は吉雄藤三郎。吉雄家は代々オランダ通詞を務めた家系。

生涯

享保9年(1724年)、藤三郎の長男として長崎に出生。幼い頃からオランダ語を学び、元文2年(1737年)14歳のとき稽古通詞、寛保2年(1742年)には小通詞に進み、寛延元年(1748年)には25歳で大通詞となった。年番通詞、江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)江戸参府に随行)をたびたび務めた。


通詞の仕事のかたわら、商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。特にバウエル(G.R.Bauer)やツンベリー(C.P.Thunberg。スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交を結び、当時日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。


オランダ語、医術の他に天文学、地理学、本草学なども修め、また蘭学を志す者にそれを教授した。家塾である成秀館には、全国からの入門者があいつぎ、彼が創始した吉雄流紅毛外科楢林鎮山の楢林流と双璧を為す紅毛外科(西洋医学)として広まった。吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。


吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽野呂元丈大槻玄沢三浦梅園平賀源内林子平司馬江漢合田求吾永富独嘯庵亀井南冥など当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。中でも前野良沢杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また江戸に戻った玄沢は、自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月を開催した。若くして優れた才覚を発揮していたため、上記に記している青木昆陽・野呂元丈・三浦梅園・合田求吾・前野良沢など、自身よりも年上の弟子が何人も存在する。


寛政2年(1790年)、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、5年間の蟄居処分を申し渡されたが、復帰後は同8年(1796年)蛮学指南役を命じられた。


寛政12年(1800年)に平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没。享年77。法名は閑田耕牛。


訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』(耕牛の口述を没後に刊行。のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。名古屋市博物館には荒木如元筆の「吉雄耕牛像」が所蔵されている。


通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人に高野長英らがいる。


大正4年(1915年)、正五位を追贈された[1]

耕牛を演じた役者
小日向文世 - 風雲児たち

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37

関連文献
・片桐一男 『江戸の蘭方医学事始 阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門耕牛』丸善ライブラリー、2000年

勝盛典子 「吉雄耕牛-豪邁にして名声高きオランダ通詞・蘭方医」、『九州の蘭学─越境と交流』、94-101頁。
  ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人共編、思文閣出版、京都、2009年。(ISBN 978-4-7842-1410-5) 

関連項目
オランダ正月

出島

通詞

長崎屋源右衛門

長崎奉行

カピタン

カール・ツンベルク

青木昆陽

野呂元丈

前野良沢

杉田玄白

大槻玄沢

三浦梅園

平賀源内

林子平

司馬江漢

合田求吾

永富独嘯庵

亀井南冥
(wikiより)

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柴田方庵墓碑銘

柴田方菴先生墓誌銘

先生諱海、字谷王、姓柴田氏、号方菴、常州水戸人。父曰傳左衛門、母某氏。爲人正實、處事周密、夙爲醫。天保二年辛卯六月、來游長崎、學于蘭医。悉逸僕兒禿者術益精。常起幾死。輿論稱爲醫中巨擘。仰治受業者爭援止之終留家焉。先生有兄嗣家。然毎寄二親以奉養之資。聞及珍異。又造其退老之宅。嘗歸省見其國君 齊昭公。頗見優待。爾後屡受寵賜器物金帛之外至手寫聖語短刀等。後特命班中士餼禀五口以便遠使。先生家事簡而富。室石崎氏無子。養馬田氏兒以爲嗣。曰大介。慈愛過所生。安政三年丙辰十月八日病卒。享年五十有七。遺言贈宗家以金若干及前賜刀。葬禪林寺後新塋。大介請銘。銘曰創業之易固是其人。特厚丘首不啻術仁。

  安政四年丁巳十月    山本晴海謹撰

〇 柴田 方庵

(しばた ほうあん、寛政12年(1800年)-安政3年10月8日1856年11月5日))は、江戸時代蘭学者医師。方庵は号、本名は昌敦、字は谷王。日本で牛痘接種に尽力した人物として、またビスケットゆかりの人物として知られている。

経歴

常陸国多賀郡会瀬村(現在の茨城県日立市)に柴田伝左衛門昌俊の次男として生まれる。14歳の時江戸に出て、儒学者であり養父が医師でもある朝川善庵儒学と医学を師事する。


天保
2年(1831年)には西洋医学を学ぶとともに国外の情勢を伝えるよう水戸藩の命を受けて長崎に出る[1]。長崎ではシーボルトの門人たちやオランダ軍医オットー・モーニッケに最新の西洋医学を学び開業。一方で、水戸藩へ長崎や海外の情報をいろいろ伝えており御目見得格五人扶持に遇された。郷里の常陸国に戻ることなく長崎に没した。


長崎滞在中の日記である「日録」は同時代の貴重な資料となっている[1]。1984年から日立市の古文書学習会が日録の翻刻に着手し、計41人が参加し、2021年に翻刻事業が完了して関連史料とともに全8巻にまとめられた[1]

牛痘
日本で最初の牛痘の接種を行ったのは、オランダ軍医オットー・モーニッケであり、嘉永2年(1849年鍋島藩医、楢林宗建の子などに接種した。モーニッケは阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所を置き、吉雄圭斎と柴田方庵を実地に指導し牛痘接種を行わせた。方庵は自宅に種痘所を開設するなど種痘の普及に努めた[1]

ビスケット
柴田方庵は、安政元年(1854年)に郷里の水戸藩の役人萩信之助から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受け、オランダ人からビスケットの製法を学んだ。安政2年(1855年)にその製法書を送ったと方庵の日記に記されている2月28日を、社団法人全国ビスケット協会では「ビスケットの日」と定めている。

出典
1. a b c d “江戸期に種痘を普及させた蘭方医 柴田方庵の「日録」翻刻完成”. 長崎新聞. (2021年8月29日). https://nordot.app/804545590847684608 2021年8月29日閲覧。 


参考文献
・日立市史(日立市)

・柴田方庵日録撮要(日立市郷土博物館)

関連項目
蘭学

種痘

外部リンク
社団法人 全国ビスケット協会
(wikiより)

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越前福井の人。 

医者。

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岡田篁所 ( おかだ - こうしょ )
( 1821 - 1903 )

江戸後期-明治時代の儒者、医師。

名は穆。字(あざな)は清風。通称は恒庵。 別号に大可山人。著作に「滬呉 ( こご ) 日記」。


文政 4年生まれ。

肥前長崎出身。


少年のころ大坂で宇津木静区に師事。


大塩平八郎の乱で師を失い、野田笛浦に儒学を、多紀氏に医術を学んだ。


明治 36年 2月 19日死去。83歳。

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楠本たき、イネ、二宮敬作、三人の顕彰碑

〇 楠本たき

楠本たき ( くすもと - たき )

( 1807 - 1869 )

江戸時代後期,P.F.シーボルトの愛人。


文化 4年生まれ。


肥前長崎の人。


遊女名は其扇 ( そのぎ )。


文政 6年出島行きの遊女としてシーボルトと知りあい、10年いねを生む。


12年シーボルト事件でシーボルトが国外退去、のち俵屋時治郎と結婚した。


その名はシーボルトの命名したアジサイの学名にのこる。


明治 2年 4月 12日死去。63歳。

〇 楠本イネ

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月26日[1])は、日本医師。現在の長崎県長崎市出身。


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた[注 1]

〇 二宮敬作
二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日1804年6月17日) - 文久2年3月12日1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。

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二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日1804年6月17日) - 文久2年3月12日1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。

生涯

文化元年(1804年)、伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。


文政2年(1819年)、医師を志し長崎へ留学。吉雄権之助や美馬順三に師事し、蘭語・蘭方医学を学んだ後、文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。文政9年(1826年)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した(シーボルトの母国の恩師への報告によると測量結果は4982mである(『江戸参府紀行』東洋文庫 - シーボルト著))。また、シーボルト著の『日本植物誌』(Flora Japonica)によると、敬作が九州の高山から採取した植物にシーボルトが「ケイサキイアワモチ」(Corylopsis Kesakii)と命名したとされる。


ところが、文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送ったという。この際に、シーボルトの娘イネの養育を託された。その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。


天保元年(1833年)、宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育する。安政5年(1858年)に再び長崎へと赴き、開業医となった。なお、その後敬作が故郷へ帰ることはなかった。


安政6年(1859年)、長崎に再来日したシーボルトと再会した。産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感涙したという。江戸に赴くシーボルトに同行するつもりであったが、病に倒れ果たせなかった。


文久
2年(1862年)、長崎にて死去。享年59。墓は長崎の寺町の皓台寺。大正13年(1924年)、正五位を追贈された[1]

人物
・情にあつく、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖」として慕われたほか、宇和島藩伊達宗城に重用された。医者らや高野長英、村田蔵六(後の大村益次郎)とも親交があった。一方酒乱であり、酔って刃物を抜き家人を追い回すこともあったと言う。そのためか後年脳溢血で倒れた。その後右腕に障害が残ったが手術には誤りがなかったという。

備考
・日本人としてはただ一人だけ『ライプツィヒ版ドイツ百科事典』に「日本の俊才、二宮敬作伝」と記されて、その名を留めている。

・敬作の生まれた八幡浜市保内町磯崎(いさき)には、国道沿線に「二宮敬作記念公園」がつくられている。

・敬作の甥でその門人であった三瀬周三は、イネの娘・楠本高子の婿にあたる。

・大村益次郎を主人公にしたNHK大河ドラマ花神』では、益次郎と楠本イネを結び付ける重要な役どころとして登場している。演じたのは大滝秀治

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51
(wikiより)

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楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月26日[1])は、日本医師。現在の長崎県長崎市出身。


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた[注 1]

生涯
幕末

1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807年 - 1869年)の間に生まれる。


母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。


イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

明治

ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である[2]。この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉稲井静庵松岡小鶴榎本住光後玉江高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた[2][3]。62歳の時、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。


なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは宗謙によって船中で強姦されて妊娠した[4]。手記の中でいう船中とは、母たきが長崎に帰った際の下津井港から出ていたとされる北前船の定期航路便を見送った船ということになるため、高梁川から下津井港を結ぶ高瀬舟を指すと考えられる。このため、宇神幸男は自著の中で、強姦自体はあったものの、船頭や他の乗客がいる中での船中強姦は現実的ではなかったのではないかと考察している[5]

タダの手記は以下のとおりである。

母イネト石井宗謙トノ関係ヲ申シマセウ.母イネハ,石井宗謙ヲ頼リテ医術ノ研究ニ従事スルコトニナリマシタ.祖母タキ(其扇)ハ,私ノ母イネノ落付具合ヲミル為ニ,石井ノ宅ヘ(長崎カラ岡山ニ)遙々タズネテ参リマシタ.而シテ母イネノ修行スルサマヲ見届ケ,漸ク安心致シマシテ天神丸ト云ウ船ニ乗ッテ長崎ヘ帰リマシタ.其際母イネハ,石井ト共ニ船ニ乗リマシテ,母(タキ)ヲ見送リマシテ,天神丸ガ帆ヲアゲテ出船ヲスル,母ハ石井ト二人帰リマス途中,船中デ石井ニ口説カレマシタガ,母ハ石井ヲキライマシテ,懐中ニシタ短刀ヲ以テ野獣ノヤウナ石井ヲ防ギマシタケレドモ,石井ノ暴力ニ抵抗デキズ,トウトウ処女ノ誇リヲ破ラレマシタ.母ハ一度石井宗謙ニ姦淫サレマシテカラ,其後ハ一度モ石井ト肉交ハアリマセンデシタ.母ハ,石井ヲ蛇蝎ノヤウニキラッテイタノデス.処ガ母ハ遂ニ妊娠イタシマシタ.而シテ私ヲ生ンダノデス.カウシタ因果デ,私ハ生マレマシタ.母ハ何モ天意デアラウ,天ガタダ子トシテ私ヲ授ケタノデアラウト,アキラメマシテ,私ヲタダト名ヅケマシタ.母ガ分娩イタシマシタ際ニハ,産婆ヲ使ワズ,自分デ臍ノ緒ヲ切ッタサウデス.母ハ私ヲ分娩イタシマシテ後,長崎ヘ帰リマシタ.母ガ出立ノ時ニ石井ハ見送リヲイタシマシタガ,母ハ人デナシノ石井ト大イニ恨ミ罵リマシタサウデス.母ガ石井ヲ厭フタコトハ並大抵ノ事デハゴザイマセンデシタ.母ハ石井ヲ甚ダ恨ンデヰマシタ」.— 山脇タカ、(松田誠「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年に掲載)

その後、宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」「高子」と名乗った[6]


なお、楠本高子はその美しい容貌から、後に明治の美人写真を見ていた松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたと言われている。なお、高子も医師に強姦されて出産しており、親子2代にわたって悲劇に見舞われた[4]


日本での子孫は楠本家、米山家。資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫及び研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、イネの師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。

イネの改姓改名について

シーボルトが日本において「施福多」や「失以勃児杜」といった当て字を使用していたことから、イネがそこから「失」の字を拝借し、「失本」(しいもと、しもと)と名乗っていたとされ、呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』ではイネが宇和島を訪れた際に伊達宗城が失本伊篤(姓を「失本」から「楠本」に、名を伊達の一字を与えて「伊篤」に)という姓名に改めさせたと記している[7]。しかし、『藍山公記』や三瀬諸淵がイネに宛てた書簡などでは「矢本」となっており、そもそも「失本」という名乗りはしていなかったという可能性が指摘されている[7]。また、楠本姓や伊篤という名に関してもシーボルト記念館の館長を務めた織田毅は伊達宗城と出会う前より名乗っていたと指摘しており、イネが厚遇された伊達家への恩を強調し、先祖美化の意図をもって呉に語ったのではないかとする歴史家も存在する[7]


吉村昭
の『ふぉん・しいほるとの娘』の中で古賀十二郎はイネが「志本」「矢本」という姓、「伊篤」という名を折々名乗ったとしており、シーボルトの「Si」、「bo」を転化させた「mo」、「d」の音「to」の三音を合わせたものを姓とし、「i」と「d」の発音のままに「イト」を充てた名を使用し、矢本(あるいは志本)伊篤はどちらも父であるシーボルトから着想を得た姓名だったのではないかとしている[7]

異名について
楠本イネの存命中において、「オランダおいね」という呼称が存在したことを裏付ける資料は存在しておらず、宇神幸男は1970年3月30日から9月26日までTBSポーラテレビ小説として放送されたテレビタイトル『オランダおいね』が初出であり、同作品の脚本を手掛けた横光晃の造語であるとしている[8]。その後、シーボルトの玄孫にあたるクラウディア・シーボルトが来日し、シーボルトの足跡を辿ったことを報じた新聞のなかで楠本イネに対して「オランダおいね」という名称が充てられるなど、異名として一般的に普及したと見られている[8]

脚注
注釈
1. 実際は日独混血であるが、オランダ政府に雇用されていたシーボルトが江戸幕府に対し、自分をオランダ人と偽っていたため、こう呼ばれた。ドイツ人なら当時は上陸が許されなかった。


出典
1.  楠本イネ(くすもとイネ)とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年4月10日閲覧。

2. a b 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.236
3. 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.59-p.60
4. a b 松田誠「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年。2016年1月21日閲覧。
5. 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.72
6. 母いねのこと”. 2015年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月30日閲覧。
7. a b c d 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.139
8. a b 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.52-p.53

関連文献
呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』吐鳳堂書店、1926年10月4日、再版。NDLJP:1020882

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第1巻、岩生成一 解説、平凡社東洋文庫 103〉、1967年11月。ISBN 4-582-80103-X

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第2巻、岩生成一 解説、平凡社〈東洋文庫 115〉、1968年5月。ISBN 4-582-80115-3

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第3巻、平凡社〈東洋文庫 117〉、1968年6月。ISBN 4-582-80117-X

イネが登場する作品
小説
司馬遼太郎花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている

吉村昭『楠本いね』(短編小説、『日本医家伝』収録)。新潮社「自選作品集」に収録

・吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は、新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成6」

宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年

漫画
庄野ひろ子『オランダお稲』 - ロマンコミックス 人物日本の女性史28

ジョージ秋山浮浪雲

村上もとかJIN-仁-

みなもと太郎風雲児たち』『風雲児たち 幕末編』

黒沢明世 / 横内謙介、『幕末ガール〜ドクトル☆おイネ物語〜』

あおきてつお、シナリオ:神鷹史こんぺいとう〜おいね診療譚』 - 『コミック乱』(リイド社)にて偏月連載(2013年 -)

テレビドラマ
・『オランダおいね』(ポーラテレビ小説 TBS1970年、演:丘みつ子

・『花神』(大河ドラマ NHK1977年、演:浅丘ルリ子

・『奇兵隊』(日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年、演:セーラ(セーラ・ロウエル

・『おいね 父の名はシーボルト』(NHK、2000年市川森一脚本、演:宮沢りえ

ミュージカル
・『幕末ガール』(2012年、脚本・演出・作詞/横内謙介、演:五十嵐可絵

・『オランダおイネあじさい物語』(2017年RSK山陽放送開局60周年記念市民ミュージカル、演:小松千絵

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『楠本イネ』 - コトバンク
(wikiより)


166  楠本イネ

楠本イネ

166a

166b



美馬 順三(みま じゅんぞう、寛政7年(1795年) - 文政8年6月11日1825年7月26日))は、江戸時代後期の蘭学者阿波国羽浦(現徳島県阿南市羽ノ浦町)出身。

生涯

美馬茂則の次男として阿波国羽浦で生まれる。名は茂親、号は如柳。


文政6年(1823年)に来日直後のシーボルトに入門し鳴滝塾の塾頭となる。その際に賀川玄悦の『産論』や石坂宗哲の『鍼灸知要一言』などの要旨を蘭訳してシーボルトに提出した。またシーボルト著書の『日本』古代史編の史料は、順三提出の蘭文「日本書紀神武天皇紀」によるといわれる[1]


文政8年6月11日(1825年7月26日)、流行していたコレラに罹患して病没。墓碑は長崎県長崎市大音寺徳島県阿南市羽ノ浦町岩脇にある[2]

脚注
1. 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版
2. 『日本大百科全書』(小学館
(wikiより)

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平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日文久元年8月1日) - 1914年大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族[1]

経歴

1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ[2]1872年(明治5年)東京横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士称号を得た[3]


直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し[2]1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した[4]。近代薬学を学んだ陸軍薬剤監として1891年(明治24年)12月帰国後すぐに東京衛戍病院付き陸軍軍医学校教官を命じられ、日清戦争時には大本営付きとして戦地衛生材料補給計画を立案した[2]1897年(明治30年)2月には軍医学校教官兼務のまま薬剤監唯一の陸軍省医務局課員となり[5]、同年5月には薬剤監初の衛生会議議員に命じられ[6]1900年(明治33年)より始まった『第三改正日本薬局方』日本薬局方調査会においては委員となり[2]、終了間際の1906年(明治39年)9月には主査委員となった[7]


1902年(明治35年)7月には陸軍内の衛生材料管理の責任である陸軍衛生材料廠長心得(代理)に起用され[8]日露戦争時において衛生材料廠長として戦線全体に円滑な衛生材料補給を実施し、それらの功績から1906年(明治39年)4月陸軍一等薬剤正(大佐相当)に昇任した[2]1907年(明治40年)11月20日、薬学研究における成果も認められ薬学博士学位を授与された[9]。翌年には薬剤師試験における試験委員に任じられた[10]


1909年(明治42年)11月、病から陸軍を辞した後、1910年(明治43年)9月富山県立薬学専門学校校長に就任し、病の進行から1914年大正3年)に退官し帰京、同年6月29日死去した[2]。陸軍薬局方ばかりでなく日本薬局方の改正に深く関与し、晩年は日本薬学会編纂委員・同会議員、後に会長として日本の薬学発展に寄与した。

人物
住所は東京市赤坂区青山南町[1][11]

栄典
位階
1902年(明治35年)12月24日 - 従五位[12]

1908年(明治41年)1月31日 - 正五位[13]

1910年(明治43年)4月30日 - 従四位[14]

勲章等
1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[15]

1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章勲三等旭日中綬章明治三十七八年従軍記章[16]

家族・親族

平山家

・父・玄益(千葉県士族)[1]

・妻・きい1868年生、長野県平民、清水信夫の長女)[1]

・男・増雄1890年生)[1]

・長女、二女[1]

・二男(1900年生)[1][11]

著書
・「独墺陸軍薬剤制度一斑」(平山増之助編 平山増之助 1892年)

・「薬物名彙」(相模嘉作・中馬泰造著 平山増之助閲 丸善 1899年)

・「博士の売薬研究」P25「有効売薬意見 薬学博士平山増之助」の項(岩本新吾編 春泥書房 1908年)

・「陸軍薬制沿革」(平山増之助著 陸軍省 1910年)

・「葡萄酒試験法 (附・清酒試験法)」(平山増之助著 半田屋医籍 1910年)

・「藥學雜誌 1892年5月26号」 P405「檢尿ノ要訣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1892年10月26号」 P996「有機質中炭素定量ノ一新法 平山増之助」(社団法人日本薬学会

・「藥學雜誌 1896年3月26号」 P288「鯤嶋雜記 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1898年9月26号」 P925「檢尿要訣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1899年8月26号」 P787「贋造藥品ニ就キテ(三十二年七月日本藥學會例會ニ於ケル演舌ノ大意) 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1901年4月26号」 P363「故マクス、フォン、ペッテンコヲフェル先生 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1902年1月26号」 P42「獨逸劇毒藥及容器取締規則(千八百九十六年十月一日發布) 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1902年11月26号」 P1089「二三水族ノ「プトマイネ」ニ就キテ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1904年2月26号」 P93「新案消毒車ニ就キテ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1905年5月26号」 P401「水中ノ生物 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1905年6月26号」 表紙裏「編輯委員岸田吟香君逝矣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1908年5月26号」 P486「アウタン Autan ニ就テ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1909年11月26号」 P1233「ラヂウムノ昨今 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌」 P61「「ピロカルピン」ノ製法 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌」 P147「牛乳論 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

脚注
1. a b c d e f g 『人事興信録 第2版』ひ1369頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月7日閲覧。
2. a b c d e f 羽田益吉「故藥學博士平山増之助君小傅」『藥學雜誌』第1914巻第389号、日本薬学会、1914年、 i、 doi:10.1248/yakushi1881.1914.389_iISSN 0031-6903NAID 110006665229
3. 「東京帝国大学一覧 従明治20年至明治21年」 P260「製薬士 明治15年卒業 平山増之助(東京帝国大学)
4. 1889年(明治22年)7月13日付け『官報』 7月10日付け独逸国留学を命ずる 平山増之助
5. 1897年(明治30年)2月22日付け『官報』 2月19日付け陸軍予備病院付き兼軍医学校教官を免ず・医務局兼軍医学校教官を命ず 平山増之助
6. 1897年(明治30年)5月19日付け『官報』 5月14日付け陸軍衛生会議議員 平山増之助
7. 1906年(明治39年)9月29日付け『官報』 9月28日付け日本薬局方調査会主査委員を命ず 日本薬局方調査会委員平山増之助
8. 1902年(明治35年)7月14日付け『官報』 7月12日付け陸軍衛生材料廠長心得兼務を命ず 陸軍三等薬剤正平山増之助
9. 1907年(明治40年)11月21日付け『官報』 11月20日付け薬学博士学位授与 平山増之助
10. 1908年(明治41年)2月1日付け『官報』 1月31日付け薬剤師試験委員を仰せ付ける 薬学博士平山増之助
11. a b 『薬業年鑑 昭和14年度』339頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月6日閲覧。
12. 『官報』第5845号「叙任及辞令」1902年12月25日。
13. 『官報』第7377号「叙任及辞令」1908年2月1日。
14. 『官報』第8055号「叙任及辞令」1910年5月2日。
15. 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
16. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。

参考文献
・『東京帝国大学一覧 明治27-28年』東京帝国大学、1886 - 1912年。

・人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1903 - 1911年。

・薬石日報社編『薬業年鑑 昭和14年度』薬石日報社、1938年。
(wikiより)

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大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日1872年12月19日) - 大正2年(1913年10月12日)は、俳人医師

概要
熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事、卒業後に大野病院を開業。


明治27年(1894年)、佐々醒雪笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉巖谷小波森無黄角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。


俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという。約4000冊の蔵書は東京大学総合図書館の所蔵となっている。洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている。


妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)。叔母に横井玉子、従兄に戸川秋骨がいる。長姉は寺尾寿夫人、次姉は中島力造夫人。


なお、号は竹(瀟洒の洒)であるが竹と誤記されやすく、戦前の俳諧関連書籍からそうであった。

著書
『俳家系譜』大野洒竹撰、経済雑誌社、1896年1月。NDLJP:992481

・『鬼貫全集』大野洒竹編、春陽堂、1898年5月。NDLJP:874888

・『与謝蕪村』大野洒竹編、春陽堂、1897年9月。NDLJP:875927

・『芭蕉以前俳諧集』上巻、大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第2編〉、1897年10月。

・『芭蕉以前俳諧集』下巻、大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第3編〉、1897年12月。

・『許六全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第5編〉、1898年4月。

・『鬼貫全集』大野洒竹編、春陽堂、1898年5月。

・『元禄名家句集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第10編〉、1898年10月。

・『蕪村暁台全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第12編〉、1898年12月。

・『素堂鬼貫全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第14編〉、1899年4月。

・『俳諧珍本集』大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第18編〉、1900年5月。

・『芭蕉句選年考』上巻、大野洒竹・沼波瓊音校訂、文成社、1911年9月。NDLJP:991654

・『芭蕉句選年考』下巻、大野洒竹・沼波瓊音校訂、文成社、1911年12月。NDLJP:991655

参考文献
『大辞泉』小学館、2012年。

・『日本人名大辞典』平凡社、1979年。

・反町重雄 編『紙魚の昔がたり 明治大正史』八木書店、1990年。

外部リンク
洒竹文庫 | 東京大学附属図書館
(wikiより)

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金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日1865年9月2日[1] - 昭和17年(1942年1月26日)は、日本医学者である。

経歴

下総国香取郡古城村名主金杉与右衛門の子として生まれる。叔父で、内務省書記官を務めていた金杉恒の養子となる。東京帝国大学医科大学にて医学を学んだ後、ドイツへ留学。その後、1892年に、高木兼寛経営の東京病院(現、東京慈恵会医科大学附属病院)にて勤務をする傍ら、東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)にて、講義を行う。後に、東京慈恵医院医学校が、大学令に基づき、大学に昇格した際、東京慈恵会医科大学の初代学長となった。


耳鼻咽喉科という専門科を創設した人物として知られ、「本邦ニ於テ首メテ耳鼻咽喉科ヲ開設シタルハ本院ニシテソノ第一回部長タルハ将ニ不肖ナリ」という書も残しており、東京耳鼻咽喉科学会(現、日本耳鼻咽喉科学会)の創設者でもある。内科系・外科系に分かれていた学問を「耳鼻咽喉科学」としてまとめたのは世界でも初めての試みであり、以来、数多くの医師を輩出した[2]。1917年(大正6年)衆議院議員に当選、1922年(大正11年)貴族院議員勅選。

親族
・妻 金杉タキ(大藪房次郎長女)[3]

・三男 金杉台三(尾高次郎の娘婿)

栄典
1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[4]

脚注
1. 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.38。
2. 耳鼻咽喉科の歴史 東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科学教室
3. 人事興信所編『人事興信録』第5版、1918年、か120頁。
4. 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

関連項目
東京博善

岸一太
(wikiより)

2217 金杉英五郎

金杉英五郎

2217a

2217b

2217c



島根県益田市出身でわが国初の女性眼科医、右田アサの活躍を描いた『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』という小説があります。


執筆されたのは、東京都内で眼科医をしている若倉雅登さん。


右田アサは明治 4年 ( 1871 ) 年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれます。


5歳の時、代々続く地方の名家・右田隆庸の養女となりますが、右田家は没落しかけていました。


アサは自分で家事を取り仕切って家運を回復しようとして医学を志し、明治 20年 ( 1887 ) に上京。


長谷川泰によって設立されたわが国最古の私立医科大学で、西洋医学による医師養成学校の済生学舎 ( 現、日本医科大学 ) に入学し、のちに日本女医会の初代会長になった前田園子女史や同県人で津和野町出身の女医・千坂竹子女史と一緒に学び合い、同 26年 ( 1893 ) に医術開業試験 ( 前期・後期 ) に合格。


同 14年 ( 1881 ) に井上達也によって民間の眼科専門病院として開業した井上眼科病院で 3年間修業した後に医籍登録して眼科医となり、将来を嘱望され活躍しますが、ドイツ留学を目前にした同 31年 ( 1898 ) 8月、肺病のため 26歳の若さで亡くなります。


地元の益田でも右田アサの事は余り知られていなかったのですが、右田アサを研究する方によって「女醫右田朝子之碑」と呼ばれる石碑が正岡子規が眠る大龍寺 ( 東京都北区田端 ) で発見されたのです。


碑文をしたためたのは、陸軍省医務局長・石黒忠悳 ( ただのり )。


研究者からの問い合わせで初めて郷土のアサの存在を知った益田市は、アサの子孫や東京益田会などの協賛の下でアサの足跡を辿り、「日本眼科女医第一号・右田アサ展」という展示会も平成 14年 ( 2002 ) に催しています。


アサは、自分が病気で回復の見込みがないと判った時に残した遺言の中で「自分の眼球を摘出して病院に保存し、眼科研究の資料としてして下さい」と国内初の眼球献体をした事でも知られています。


物語では、右田アサと共に現代の女性眼科医も登場させ、現在いまもなお潜在する女医蔑視、差別と闘う姿や眼科医療が抱える問題の数々をモチーフに、高津川で 2人が時空を越えて出会うなど、2人の人生が重なり合う様に描かれています。


若倉さんは、アサが勤めた井上眼科病院の名誉院長。「アサは苦学して、誰も踏み入れた事のない分野に挑戦しました。それだけに夭折ようせつしたのが残念で、小説を書く事で彼女を生き返らせたかった」と仰おっしゃっています。


( 参考 ) 益田市総務部「日本の眼科第 1号右田アサの碑発見」 ( 『広報ますだ』 2001年 2月 15日号 )


〇 「女醫右田朝子之碑」の碑文
 
右田朝子碑 陸軍軍醫総監正四位勲二等功三級男爵石黒忠悳題額
朝子右田氏石見国益田町の人なり父を隆庸と曰ふ其先周防大内氏に
出づ世々群中の名家たり中ごろ微にして振はず朝子之を憂ひ躬ら薪水
の労をとりてひたすら家道の興復に志し十七歳の時決然家を辞して
東京に到り具に辛苦を嘗め明治二十二年濟生學舎に入りて孜孜醫術
を講究し卒業の後更に外科を専攻し又我先考甘泉先生に従ひて眼科  
を修め頗る得るところあり後出でて静岡県復明館の聘に應じ其醫員
となる実に我邦眼科女醫の祖と謂ふべし余の帰朝を聴くや再び我院
に来りて眼科の蘊奥を究めんとせり而して未だ幾ならずして病没す
年二十八実に明治三十一年八月五日なり朝子幼にして穎悟気節あり
常に虚飾を斥け小故に泥ます其操守の高潔にして進取の気性に富め
るに至ては真に懦夫をして起たしむるに足るものあり其疾みて自ら
起たざるを知るや則ち遺言して曰く我眼球を剔出して醫院に供え以
て眼科攻究の料に資せんと其斯道に熱心にして神気の壮烈なる盖し
之を古今東西に求るも復多く得へからず茲に知人相謀りて碑を甘泉
先生の墓則に建て永く追慕の念を紀す
明治三十二年二月五日 友人徳鐸井上達七郎撰 北条和楽書
                                                           井亀泉刻

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井上達也 ( いのうえ - たつや )    
嘉永元年 ~ 明治 28年 ( 1848 - 1895 )

 眼科医。

明治 14年 ( 1881 ) 明治 14年 ( 1881 ) 駿河台に済安堂医院 ( 井上眼科病院 ) を開設。

独・仏に留学、最先端の眼科学を習得した。

帰国後明治 23年 ( 1890 ) 新病院を開設、最新設備を完備し、やがて白内障手術の第一人者となった。

また眼科学会の前身の「井上眼科研究会」の会頭として、海外にまでその名を知られた。

なお、東京大学眼科学教室の創始者でもある。

二男は井上達二。井上達也墓は、北区大龍寺にある。

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華浦医学校校長。

〇 華浦医学校
華浦医学校 (はなうらいがっこう[注釈 1])は、明治時代初期に山口県佐波郡三田尻村(現在の防府市華浦二丁目[注釈 2])にあった医学校山口大学医学部の源流とされる[2]

概略
1874年(明治7年)、「華浦医学舎」の名で、校長の鳥田圭三、副校長の福田正二を中心として開校した[3][注釈 3]。当時の山口県ではトップクラスの設備を有し、フランスから人体紙型模型(クンストレーク[注釈 4])、顕微鏡、外科器械などを購入したり、医科の原書を翻訳したりするなどして最新の西洋医学を教授したことから名声が高まり、県内外から学生が入学した。1877年(明治10年)7月をもって病院と医学校は廃止されたが、福田正二はこれに屈せず、私費で学校教育を継続しようとした。1880年(明治13年)に、山口県は洋医師の不足から医学校を復活させて「山口県医学校」と称して福田を校長に任じ、学生81人が集ったが、1882年(明治15年)に臨床実験が可能な附属病院の併設が義務化されると、当時の県の財政ではそれを備えるだけの財力がなかったことから、1883年(明治16年)末限りで医学校の継続は断念に至った。しかし福田正二は、この再度の廃校の後もなお、三田尻桑山の山麓で晩翠堂病院を経営しながら後進の養成に努めた。

教育の実際
当時は寄宿教育で、入塾には保護者親族からの申請が必要で、春秋の2回帰省が許された。それ以外に親族の不幸があった場合は別途許可された。食費は白米6合と金1銭、授業料は月に50銭だった。休日は、小学校と同様であった。


教育内容は、1874年(明治7年)以降、ドイツ医学を主とし、オランダ語を基礎としてドイツ語を習得させていた。学生は11組のグループに分けられ、一緒に勉強していた。辞書、医学書の原書は、同じものが11組、11冊揃えられていた[6]。また、蔵書の汚れ具合から、洋学の語学力は他藩に比べてかなり高度であったこと、そして山口県におけるオランダ医学からドイツ医学への転換の原動力となったのは福田であったことが確認されている。

萩の乱
校長の鳥田圭三はしばしば人体解剖を行い、洋書の翻訳もしながら学生を指導したが、1876年(明治9年)10月に前参議の前原一誠が突如萩で兵を挙げた萩の乱に際しては、負傷者の治療のため、医学校および病院の後事を副校長の福田正二に託して萩に急行し、萩市瓦町の蓮池院[注釈 5]を仮病院に充て、自ら院長として負傷者の救護にあたった。1879年(明治12年)、鳥田は病気により医学校と病院の職を辞し、福田が校長職を継いだ。

卒業生
華浦医学校に学んだ者には、三田尻病院の創設者で佐波郡医師会会長や山口県医師会初代会長を務めた神徳一人[注釈 6]をはじめ、黒川周甫、尾崎麒一ら地元医師会の名士の他に、湯田の人中原政熊[注釈 7]、日本で初めて水銀体温計を製造販売した柏木幸助[8]などがいる。

脚注
注釈
1. 「華浦」の読みは、防府市の地名としては「かほ」だが、同校の名は「はなうら」である。
2. 現在、松原児童公園がある場所で、同地には山口県立華浦病院・医学校跡の碑が建つ。防府市立華浦小学校に隣接しており、桑山の山麓の山口県立防府高等学校から徒歩10分たらず。防府仮想博物館のサイトにその碑と当時の写真がある[1]
3. ただし、『山口県会史』の大正2年の記述にあるように、山口県の側には華浦医学校について「もともと萩藩主が天保11年に萩に医師養成のため作った医学校好生堂を、その後山口に移し、それを更に防府に移したものだ」とする解釈がある[4]
4. 胎児標本が現在も防府市内の神徳家に保存されている[5]
5. 浄土宗の寺院で、長州藩の医学校・好生館の敷地に隣接していた。萩市瓦町47。
6. 三田尻病院付属の看護婦学校を出た水江しず(旧姓・北村)は、日本の女医の魁で東大外科教室に所属し、女性医師の学会発表者1号になった[7]
7. 詩人中原中也の養祖父になる。

出典
1. 山口県立華浦医学校2019年8月30日閲覧
2. 防長医学史 - 華浦医学校の校舎と生徒の写真がある。写真の出典は『山口大学医学部創立50周年記念誌』2019年8月30日閲覧
3. 『防府医師会史』防府医師会 平成3年 p.12-16 防府市立図書館の所蔵
4. 『防府医師会史』防府医師会 平成3年 p.15
5. 『防府医師会史』p.12
6. 阿知波五郎『明治初年地方医学校のオランダ語からドイツ語移行の研究ー山口県三田尻花浦医学校の実例について』日本医史学雑誌19巻1号
7. 横川弘蔵「日本医学校と女性医師の先駆者たち 日之出会の人びと」『日本医史学会雑誌』第31巻第4号 p.580-583 昭和60年10月
8. 柏木 幸助 | 山口県の先人たち:平成の松下村塾、2019年8月30日閲覧。
(wikiより)

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⇧ 一族の墓です。

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佐波郡南部医会、初代会長。

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史跡 佐藤泰然の墓

佐藤泰然 ( 父、佐藤信隆 ( のぶたか )〔 藤佐 とうすけ 〕は山形の人 ) は文化元年 ( 1804年 ) に武蔵国川崎在稲毛 ( 現在の川崎 ) 生まれ、天保六年から々、九年まで長崎で蘭方医学を学んだのち、江戸で開業したが、天保十四年 ( 1843年 ) 佐倉藩主・堀田正睦 ( まさよし ) の招きにより佐倉本町に移り住み、私立病院の元祖である順天堂を開き、治療の傍ら、塾として多くの近代医学を担った医学生を育てると共に、藩主・堀田正睦の顧問客として、外交問題の意見を聞かれる等藩政に与えた力は大きく、佐倉藩の洋学熱心と合まって「西の長崎、東の佐倉」とうたわれた時代であった。


安政六年 ( 1859 ) 順天堂を養子・佐藤尚中 ( 山口舜海 ) に譲り横浜、東京と居を移し、明治五年 ( 1872 ) 東京下谷茅町において六十九歳で没した。
(案内板より)

〇 佐藤泰然
佐藤 泰然(さとう たいぜん、文化元年(1804年) - 明治5年4月10日1872年5月16日))は、日本医師。名は信圭(のぶかど)、は紅園、泰然は通称。佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物として知られている。

生涯
文化元年(1804年)、佐藤藤佐の子として、現在の神奈川県川崎市にて誕生。


天保元年(1830年)、蘭方医を志し、足立長雋高野長英に師事。天保6年(1835年)に長崎に留学し、天保9年(1838年)に江戸へ戻ると、両国薬研堀に「和田塾」を開いた(和田は母の姓)。


天保14年(1843年)、佐倉藩堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂[1]」を開設。また姓も父の佐藤を名乗る。


佐倉順天堂の治療は当時の最高水準を極めていた。高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある(いずれも麻酔薬を使わない手術)。嘉永4年(1851年)、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功。他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂は大阪緒方洪庵適塾とならぶ有名蘭学塾となった。


嘉永6年(1853年)、功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。ところが安政6年(1859年)、病気を理由に家督養子佐藤尚中に譲り隠居。文久2年(1862年)には佐倉を離れ、横浜に移住した。


明治5年(1872年)、東京下谷茅町(現・台東区池之端)で肺炎のため死去。享年69。

家族・親族
・養嗣子 - 佐藤尚中(山口甫僊の次男、舜海と称す)

・長女 - つる(林洞海に嫁す)

・次女 - きは(三沢精確(良益)に嫁す。三沢元衡・緒方惟準・箕作麟祥の義母)

・長男 - 惣三郎(山村家の養子)

・次男 - 良順松本良甫の養子、のちに順と改名。将軍侍医、初代陸軍軍医総監)

・三男 - 大三郎(早世)

・三女 - とみ(白戸隆忠の養女、のちの陸軍省初代軍馬局長・隆盛を婿に迎える)

・四男 - 綱四郎(早世)

・四女 - ふさ(山内作左衛門山内堤雲の兄)に嫁す)

・五男 - (林洞海の養子、外交官政治家外務大臣岩崎忠雄の祖父)

・孫 - 佐藤百太郎(佐藤尚中の長男)

・孫 - 多津(つると林洞海の長女、榎本武揚の妻)

・曾孫 - 赤松登志子(長女つるの孫で、森鴎外の最初の妻)

・曾孫 - 森玉枝(四女ふさの孫で、海軍少将・森電三の妻)

脚注
1. 「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」の意
(wikiより)

200 佐藤泰然

⇧ 佐藤泰然

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佐藤 尚中(さとう たかなか(しょうちゅう)、1827年5月3日文政10年4月8日)- 1882年明治15年)7月23日)は、幕末から明治初期の蘭方医幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁とす。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川(現・千葉県香取市)出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。

略歴
1827年 小見川藩藩医の山口甫僊の次男として生まれる。

1842年天保13年)、江戸四谷の医者安藤文沢に蘭方医学を学ぶ。文沢の勧めで和田泰然(のち佐藤泰然)の「和田塾」入門。

1853年嘉永6年)、佐藤泰然の養嗣子、佐倉藩医となる。

1859年安政6年)、順天堂第二代堂主となる。

1860年万延元年)、長崎で1年余りポンペ・ファン・メーデルフォールトにオランダ医学を学ぶ。

1867年慶応3年)、佐倉藩に「佐倉養生所」開設。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争のため閉鎖。

1869年明治2年)明治政府の要請により「大学東校(現・東京大学医学部)」に勤め大博士・初代校長となる。

1870年(明治3年)、明治天皇の侍医長となる。

1872年(明治5年)、佐々木東洋らと共に日本初の私立病院「博愛舎」を設立。

1873年(明治6年)、下谷練塀町に順天堂を開院。

1875年(明治8年)、私立の「順天堂医院」開設、初代院長。

家族・親族
・妻:サダ(高橋忠三郎の次女)

・後妻:ナホ(城氏)

・養嗣子:(妻・サダの甥)

・長女:志津(養嗣子・進の妻。女子美術学校長)

・長男:百太郎NY実業家

・次女:藤(三宅艮斎の長男・三宅秀の妻)

・・次男:哲次郎(東金町の薬種業大野家の婿養子となり9代目大野伝兵衛を襲名する)

・養子:舜海(前名大道、旧名岡本道庵。後年、佐倉順天堂主となる。妻は佐藤進の実妹トシ)

・養子:佐(旧名井上虎三)

・三女:楽(佐藤佐の妻)

・三男:衛(のち母の実家・城氏を継ぐ。米国工学士)

・四女:梅尾(佐藤進の養女になり、佐藤恒久(旧姓松下)の妻・佐藤清一郎の養母)

・五女:幸(佐藤進の養女となり、日本鋼管創設者の一人・今泉嘉一郎の妻に)

・四男:福待(幼名華江(はなえ)。米国写真学士・東京で写真館主)

・五男:潤家(ますえ)(大滝富三の養子となる。子息は紀雄)

外部リンク
佐藤尚中先生略年譜
(wikiより)


3555 佐藤舜海(尚中)

佐藤尚中

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佐藤先生とは、佐藤尚中 ( たかなか 舜海 = しゅんかい ) のことです。


号を笠翁と言います。


尚中は、文政十年 ( 1827年 ) に小見川藩医・山口甫僊の次子として生まれ、始め山口舜海と称していました。


後、天保十三年 ( 1842年 )、十六歳の時に江戸に出て佐藤泰然の和田塾に入門し、後にその逸材を見込まれ二十七歳の時に泰然の養嗣子となっています。


安政六年 ( 1859年 ) 泰然の隠居に伴い家督も受け継ぎました。


万延元年 ( 1860年 ) 十一月、幕命により長崎に遊学し、当地にいたオランダ海軍医ポンぺから体系的な西洋医学を学んでいます。


舜海の遊学後は佐倉の西洋医学は更に発展を遂げる結果となりました。


明治維新後は新政府に招かれ、大学東校 ( とうこう ) 今の東京大学医学部 )) 教授となり、更に天皇の侍医である大天医にもなりました。


後年、東京湯島に順天堂病院を開きました。


現在の順天堂大学につながるものです。


佐倉順天堂は、弟子の岡本道庵が尚中の養嗣子となって同じく舜海を名乗り、受け継ぎました。


また、同様に尚中の養子となった弟子の高和東之助は佐藤進として東京の順天堂を発展させています。


進は後に陸軍軍医総監になっています。


更に、長女の佐藤静子は女子美術学校 ( 後の女子美術大学 ) を創立したことで知られます。
(案内板より)

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旧佐倉順天堂の門の礎石です。


現在の冠木門・塀は平成 13年 ( 2001 ) に再建されたもので、そのとき同時に門の土台部分の礎石も新しくしました。


門そのものは平成 13年で二度目の再建となりますが、礎石自体は旧佐倉順天堂がこの地に建てられた安政 5年 ( 1858 ) から平成 13年 ( 2001 ) まで同じもので、およそ 140年間にわたりこの礎石が門を支えていました。
(案内板より)

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畠山 茂の碑


大正十四年二月十八日、秋田県にかほ市金浦で生まれる。


新潟高等学校を卒業後、昭和二十年、東京大学医学部医学科に入学、昭和二十四年三月卒業。


昭和二十七年東京大学医学部付属病院助手、昭和三十年九月東京医科歯科大学助手、昭和三十六年助教授。


昭和四十五年、横浜市立大学医学部病理学教授を経て、昭和五十年四月、東京医科歯科大学医学部病理学教授となる。


平成二年三月、定年により退職するまで「ストレスの病理学」、人睾丸萎縮の病理学」等内分泌病理、特に人睾丸の基底膜についての研究に尽くした。


平成十七年十一月 瑞宝中授章 正四位


平成十九年四月十七日没 享年 八十二
(碑文より)

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田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日[1]1839年11月20日) - 1904年明治37年)2月4日[2])は、日本医学者。字は士行、号は節堂[3]

経歴
武蔵国埼玉郡小野袋村(現在の埼玉県加須市)出身[3]。医師の家に生まれ、江戸に出て佐藤一斎塩谷宕陰のもとで漢学を学んだ[3]。その後、林洞海のもとで蘭学を学んだ[3]1862年文久2年)より下野国佐野で開業[3]1869年(明治2年)、大学東校に入り、ウィリアム・ウィリスらについて化学解剖学生理学を学んだ[3]東京医学校教授、東京大学医学部教授、東京帝国大学医科大学教授を歴任[1]1887年(明治20年)、ドイツに留学し、翌年に医学博士の学位を得た。

著書
・『解剖攬要』(英蘭堂、1881年)

脚注
1. a b 東京帝国大学医科大学教授医学博士田口和美特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110142100 
2. 『官報』第6178号、明治37年2月8日。
3. a b c d e f 日本現今人名辞典 1903.
4. 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
5. a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、242頁。(ページ番号記載なし)

参考文献
・「東京帝国大学医科大学教授医学博士田口和美特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110142100 

・『日本現今人名辞典 第3版』日本現今人名辞典発行所、1903年。
(wikiより)

2968 田口和美

田口和美

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岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日1864年2月10日) - 昭和13年(1938年5月30日)は明治から昭和の日本の医師医学者


帝国大学
耳鼻咽喉科学における初代の正教授[1]。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。

生涯
・文久4年(1864年)、伊予国新居郡本町(現・愛媛県西条市本町)に生まれる。

小学校卒業後、西條町病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。


明治22年(1889年)、帝国大学卒業。(まだ当時は帝国大学は一つしかなく、「東京」は冠していない)


・明治23年(1890年)、故郷西條町へ久方ぶりに帰郷。愛媛県で初めて帝大医学部を卒業した岡田を祝し、近隣の家々には提灯が出され、歓迎の花火が上がり、泊りがけで近郊の町村から人々が集まった。そしてこの歓迎する民衆の中に当時11歳の眞鍋嘉一郎がいた。


・明治28年(1895年)、帝国大学助教授就任。


・明治29年(1896年)、ドイツ並びにオーストリア留学


・明治32年(1899年)、留学を終え帰国。


・明治35年(1902年)、東京帝国大学教授就任(東京帝大耳鼻咽喉科学教室初代教授)。大日本耳鼻咽喉科会総会会頭就任。同仁会初代理事長(初代会長は長岡護美、評議員に北里柴三郎等)。


・明治38年(1905年)、能楽師初世梅若実に上野音楽会を開催を依頼。


大正5年(1916年)、第一回日本医師会総会が開催される。会長北里柴三郎、副会長岡田和一郎。


・大正13年(1924年)、東京帝国大学退官。


・大正15年(1926年)、大日本耳鼻咽喉科会総会会頭退任。


昭和3年(1928年昭和医学専門学校設立に伴い、初代校長に就任。


・昭和13年(1938年)、5月12日、昭和医専で講義を終えた後、体調が良くなく臥せる。主治医眞鍋嘉一郎が診るが、5月30日逝去。享年74。


・妻は榊俶榊保三郎らの妹。


6月3日の告別式には東大総長長與又郎を始めとして、三千数百人の会葬者が集まる。


平成17年(2005年)、東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室に岡田和一郎賞が創設される[2]


栄典
1912年(大正元年)12月18日 - 勲三等瑞宝章[3]

1923年(大正12年)12月28日 - 従三位[4]

1924年(大正13年)4月15日 - 正三位[5]

主な著作
・耳・鼻・咽喉

・社会政策と地方衛生機関の大改革

・日本と歐米との醫療器械の比較

・『鼻科学纂録』編 南江堂 近世医学叢書 1911

・『咽喉気管病纂録』編 南江堂 近世医学叢書 1912

・『耳科学纂録』南江堂 近世医学叢書 1912

・『国語科学講座 音声生理学』明治書院 1934

・『黎明期の日本医学』東亜公論社 1941

伝記
梅沢彦太郎編『岡田和一郎先生伝』日本医事新報社、1943 大空社 1998

脚注
1. 日本耳鼻咽喉科学会『日本耳鼻咽喉科学会史』2005年、p1、日本耳鼻咽喉科学会公式サイト(2009年9月5日閲覧)。
2. 加我君孝『教授室だより』第6号、2005年4月、東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室公式サイト(2009年9月5日閲覧)。
3. 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
4. 『官報』第3416号「叙任及辞令」1924年1月15日。
5. 『官報』第3509号「叙任及辞令」1924年5月7日。

関連項目
岡田清三郎 養嗣子

同仁会

外部リンク
西条石鎚ライオンズクラブ、11ページ、金子元太郎と真鍋嘉一郎
(wikiより)

2954 岡田和一郎

岡田和一郎

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榊 俶 ( さかき - はじめ )

生年: 安政 4. 8. 28 ( 1857. 10. 15. )
没年: 明治 30. 2. 6 ( 1897 )


明治期の精神病学者。

江戸下谷生まれ。


明治 13 ( 1880 ) 年東大医学部卒業。


卒業後、眼科の助手として同大学に勤務していたが、15年のドイツ留学の際に精神病学を専攻、ベルリン大のウェストファルに師事した。


またウィルヒョウのもとで神経系統の病理解剖を学ぶ。


さらに法医学も研究して、19年に帰国。


同年、帝大医科大精神病学教室の教授となる。


翌年に東京癲狂院 ( のちの巣鴨病院、現在の松沢病院の前身 ) で治療を開始、22年には巣鴨病院医長を兼務した。


24年、医学博士の学位を受ける。


翌 25年、東京地方裁判所医務を嘱託され、法医学的、精神病学的視点から司法鑑定を行った。


神経系統の病理をふまえた近代の精神病学の祖であり、精神病患者の権利向上に寄与した人物でもある。

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緒方 正規(おがた まさのり、1853年12月5日嘉永6年11月5日) - 1919年大正8年)7月30日)は日本の衛生学者細菌学者東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。

経歴
1853年肥後国熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京帝大医学部を卒業。


翌年ドイツマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。


1884年
に帰国。1885年には東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所に着任し、衛生試験所に細菌室を創設する。同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている[1]


1885年に脚気病原菌説を発表するが、ドイツ留学中の北里はこの学説を批判した。現在では北里の批判が正しかったことが分かっている[2]が、この事件によって、北里は東大の医学部と対立しつづけることになる。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かったが、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている[3]


1886年
帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。


1896年台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している[3]。また、ペストはネズミノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した[4]


1898年
に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員[5]、第5回日本医学会総会会頭[6]などを歴任した。

1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去[7]

親族
妻のエツ(1870年生)は石原豊貫の次女[8]。石原は農商務権少書記官で[9]パリ万国博覧会 (1878年)では内務一等属・仏国博覧会事務官を務めた[10][11]


長男の緒方規雄(1887年生)は細菌学者、次男の緒方益雄(1891年生)は衛生学者。

栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[12]

1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[13]

1911年(明治44年)6月20日 - 従三位[14]

1919年(大正8年)7月31日 - 正三位[15]

勲章等
1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[16]

1908年(明治41年)12月25日 - 勲二等瑞宝章[17]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[18]

1919年(大正8年)7月31日 - 旭日大綬章[19]

出典
1. 緒方正規”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
2. 科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例(1) 事例2>緒方正規の「脚気病菌」の発見”. 佐野研究室. 2010年7月31日閲覧。
3. a b 北里柴三郎”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
4. 北里柴三郎と緒方正規”. 2010年7月31日閲覧。
5. 物故会員一覧 (50音順) ア行”. 日本学士院. 2010年7月31日閲覧。
6. http://www.isoukai2011.jp/history.html [リンク切れ]
7. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)76頁
8. 緒方正規『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
9. 『皇典講究所講演: 第101-110号』皇典講究所, 1893年、百一の六十一頁
10. 『東洋研究, 第 73~76 号』大東文化大学東洋研究所, 1985、p99
11. 第二篇日本部第一章事務官之事仏蘭西巴里府万国大博覧会報告書. 1(仏国博覧会事務局, 1880)
12. 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
13. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
14. 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
15. 『官報』第2098号「叙任及辞令」1919年8月2日。
16. 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
17. 『官報』第7652号「叙任及辞令」1908年12月26日。
18. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
19. 『官報』第2098号「叙任及辞令」1919年8月2日。

外部リンク
博士の肖像 -東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻
(wikiより)

2950 緒方正規

緒方正規

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緒方規雄 ( おがた - のりお )
( 1887 - 1970 )

大正 - 昭和時代の細菌学者。


明治 20年 1月 28日生まれ。

緒方正規の子。


ドイツに留学後、千葉医大 ( 現千葉大医学部 ) 教授、のち東邦大、日本歯大教授。


昭和 4年にツツガムシ病のリケッチア病原体説を確立し、浅川賞、野口英世医学賞を受賞。


昭和 45年 2月 6日死去。83歳。


東京出身。

東京帝大卒。


著作に「日本恙虫(つつがむし)病」。

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〇 尾台榕堂之碑
尾台榕堂 ( 1799 ~ 1870 ) は幕末に活躍した寛保の名医。


越後魚沼郡中条村 ( 現在新潟県十日町市中中条 ) の医師・小杉家に出生。


名は元逸、字は士超、通称は良作、号は榕堂また敲雲。


16歳で江戸に出、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬に儒学を学ぶ。


36歳で師浅岳の家を継いで尾台姓を称し、65歳のとき将軍徳川家茂に単独拝謁。


この地 ( 北槇町 ) に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医として世に謳われた。


著書は類聚方広義・方伎雑誌ほか多数あり、現代医療の一班を担う日本漢方医学の基盤を築いた。


撰文 小曽戸 洋
建立 平成23年(2011)10月19日
( 社 ) 日本東洋医学会
( 財 ) 日本寛保医学研究所
    東亜医学協会
( 社 ) 日本医史学会
    温知会
    東京十日町会
    十日町市     
制作  藤巻秀正
(碑文より)


〇 尾台榕堂
尾台榕堂 ( おだい - ようどう )


生年: 寛政 11 ( 1799 )
没年: 明治 3.11.29 ( 1871.1.19 )


幕末明治期の漢方医。


本姓は小杉。


医家の 4男として越後国魚沼郡中条村 ( 十日町市中条 ) に生まれる。


名は元逸,字は士超,通称良作,別号敲雲。16歳で江戸に出て尾台浅岳 ( 岑少翁の弟子 ) の門に入り,古方医学を学ぶ。


また儒学を亀田綾瀬に師事。


帰郷するが浅岳の没後再び江戸に出,請われて尾台姓を継いだ。


吉益東洞を信奉してその著書『類聚方』などを実用の立場から深く研究した。


名医の評判が高く,幕末の江戸にあって浅田宗伯と名声を二分した。


著書『類聚方広義』は今日の漢方界においても高い評価を得ている。


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宮地要三 ( みやじ - ようぞう )
元禄 6年 ~ 明和 6年 10月 8日 ( 1693 - 1769 )


和蘭外科医。


名、高徳・立蔵。


作州津山 ( 岡山 ) 出身。


京都で儒学を伊藤東涯に、浅井周的に医学を学ぶ。


のち長崎で医学を高原道意に学ぶ。


続いて、備前の山本周悦にも医学を学ぶ。


後に江戸に出て、八丁掘で医師を開業。御目見え格になったという。77歳。


著書:「三玄撮要」。


要三には、1男 1女がいたが、長男は、仁杉家を継ぎ、長女が婿 ( 要立 ) をとって要三の跡を継いだ。


孫に遠山の金さんと同時代の南町奉行所与力・仁杉五郎左衛門幸信 ( 仁杉家 9代当主 ) がいる。

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猿渡常安 ( さるわたり - つねやす / さるわたり - じょうあん )    
嘉永 2年 7月 5日 ~ 明治 32年 6月 24日 ( 1849 - 1899 )

    
医家。

高島藩士・菅沼豊八 ( 二男) 。

長野県諏訪出身。

猿渡盛雅の養子。

神田で医院を開業。

渋沢栄一の主治医で、王子の飛鳥山別邸において夫人・千代がコレラに罹った際に診察に当たった。

つづいてドイツ人医師 エルウィン・ベルツが治療にあたったが、手のほどこしようがなく、千代は翌日の夕方 42歳で没した。51歳没。

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伊藤樟堂 ( いとう - しょうどう )    
嘉永 4年 12月 ~ 明治 12年 8月 26日 ( 1851 - 1879 )

薬草学者。

父、伊藤圭介。

幼少より漢学洋文を学ぶ。

11歳で東京に出、13歳で帰る。19歳で中国に留学。

21歳で戻り東京医学校に入る。

明治 7・ 8年間は信州駒ヶ岳・御岳山・浅間山・日光・箱根・伊豆・菰野山などで薬草採りを行い、毒草薬草を分類整理し、書物に著す。

明治 11年 ( 1878 ) 胸を患い温泉地などで静養するも甲斐なく 27歳で没する。

碑文は下記のとおり ( 不正確御免 )。

伊藤君諱謙号樟堂尾張人伊藤圭介之子也
幼承庭訓長通漢学兼習洋文亦精医理十一
歳随侍東京十三歳帰尾州十九歳游浪華
二十一歳復来東京入医学校留心本草中事
明治七八年間採薬於信州駒嶽御嶽浅間嶽
諸山後?日光箱根伊豆勢州菰野山等処寄
花異草毒薬霊根莫不?採遂撰薬品名彙一
書広行於世又譯西人植物等学著為植学咯
解文部省亦刊行之十一年患胸病左肋膨脹
医治罔?自知不起常鬱鬱不楽頼親友勧慰
乃偕遊於?浦鹿島熊本九州諸勝地又浴於
有馬温泉帰東京養?亦手不釈巻故著述頗
富異日期付??至明治十二年病勢漸増攻
苦尚力以是益憊延及八月二十六日謝世傷
矣距生於嘉永四年十二月得年二十有七歳
又九越月也

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山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日文久3年2月23日) - 1930年昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工研究のパイオニアとして知られる。

来歴・人物
信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、卒業時は首席という成績を残す。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホフィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特に癌研究では日本の第一人者であった。1899年には肺結核を患うものの療養を続けながら研究を行う。1915年には世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功。1919年に帝国学士院賞を受賞。1923年には帝大を定年退官。1928年にドイツからノルドホフ・ユング賞を受賞。1930年、肺炎で逝去する。


三男に帯広畜産大学学長・北大元教授の山極三郎がいる。三郎は北大農学部比較病理学教室で、東大における勝三郎の助手(正確には北大院から東大に内地留学させられた特別研究生)で、勝三郎と学士院賞を共同受賞していた市川厚一に学び、市川のポストを継ぐ。外孫に作曲家の別宮貞雄、英文学者で上智大学教授の別宮貞徳がいる[1]。また京都大学総長の山極寿一は遠縁にあたる[2]

研究について
彼は人工癌の研究以前に胃癌の発生、および肝臓細胞癌についての研究を行っていた。そこで彼は「環境がガン細胞を作る」と言い、特定の癌化する細胞があるのではないと述べている[3]


当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していた。山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始する。その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)し続けるという地道なもので、山極は、助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年にはついに人工癌の発生に成功する[4]


これはコールタールを扱う職人の手、顔、頭などに癌を生じる事があるという既知の臨床学的事実に基づくものであり、すでに多くの学者が失敗していたものであった。小さな腫瘍的なものを生じても、悪性のものは作れなかったのである。しかし、彼は信念を持って継続し、とうとうこの発見にたどり着いた[5]。なお、彼が成功した原因としては、モデル生物として兎を選んだ点も上げられる。ラットでは同様の方法での癌発生率はきわめて低いことが知られている[6]


彼はこの後に癌の免疫に関する研究に方向を変え、そちらでは大きな成果を上げることは出来なかった。

幻のノーベル賞
1920年代において、山極による人工癌の発生に先駆けて、デンマークヨハネス・フィビゲル寄生虫による人工癌発生に成功したとされていた。当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が与えられた。


しかし1952年アメリカのヒッチコックとベルは、フィビゲルの観察した病変はビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染した際に起こる変化であり、癌ではないことを証明した。フィビゲルの残した標本を再検討しても、癌と呼べるものではなく、彼の診断基準自体に誤りがあったことが判明した。現在、人工癌の発生、それによる癌の研究は山極の業績に拠るといえる。


山極は1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされている[7]。1925年と1936年は日本人からの推薦のみであったが、1926年と1928年はいずれも海外からで、フィビゲルとの連名での推薦であった。


この中で最も受賞の可能性が高かったのは、フィビゲルが受賞した1926年である。ノーベル財団所蔵の資料によると、同年の選考過程は以下のようなものであった[8]


ノーベル委員会
は、フォルケ・ヘンシェンFolke Henschen、1881 - 1977)とヒルディング・バーグストランドHilding Bergstrand、1886 - 1967)の2人のスウェーデン人医学者に、フィビゲルと山極についての審査を依頼した。ヘンシェンは過去にフィビゲルを推薦したことがあり、当初作成した報告書ではフィビゲルと山極の両方に高い評価を与え、「人工癌はノーベル賞に値し、もし寄生虫による発見者であるフィビゲルと、タールによる発見者である山極の両名で賞を分けるとすればそれは当然である」と述べた。バーグストランドは人工癌の意義は認めたものの、すでに知られていた煙突清掃員や放射線科医の職業癌を例に出し、それらの事実を追認したに過ぎず、癌の起源に関しては少しも新たな事実に光を当てていないとした。彼は新しい知識や手法の価値は、長期間にわたる臨床的な事実による知見でのみ実験的に確認されると考えていた。バーグストランドはオットー・ワールブルク(1931年受賞)による癌組織の嫌気性代謝に関する研究(ワールブルク効果も参照)の方が将来の癌研究には重要であるという立場から、フィビゲルと山極の人工癌の研究はノーベル賞には値しないと結論づけた。一方で、バーグストランドはバクテリオファージ研究者のフェリックス・デレーユを強く推薦し、この点を巡ってもデレーユの研究の独創性を疑問視するヘンシェンとの間で対立した。ノーベル委員会はデレーユについて別の専門家に助言を依頼し、ヘンシェンの意見が認められた。しかし、バーグストランドが人工癌への授賞に反対していたため、ヘンシェンは「フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、共同受賞という当初の意見を変更し、フィビゲルについてのみ受賞に賛成する新たな報告書をノーベル委員会に提出した。これらを受けてノーベル委員会は受賞者を決定した。


ヘンシェンは、1966年10月に東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱したものです。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べた[9]。また、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々と為されていたことも明かしている[10]。「東洋人」を理由とする意見はほかにもある[11]が、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう」と指摘している。前記の選考過程を検証した文書An analysis of a Wrong Nobel Prize - Johannes Fibiger,1926:A Study in the Nobel Archivesにおいても、人種的な差別については言及されていない[8]

栄典・授章・授賞
位階
1891年(明治24年)12月21日 - 正八位[12]

1895年(明治28年)6月 - 従七位

1896年(明治29年)1月 - 正七位

1898年(明治31年)3月 - 従六位

1900年(明治33年)2月 - 正六位

1902年(明治35年)4月 - 従五位

1904年(明治37年)10月 - 正五位

1910年(明治43年)1月31日 - 従四位[13]

1915年(大正4年)3月 - 正四位

1920年(大正9年)6月 - 従三位

1923年(大正12年)10月 - 正三位

勲章等
1899年(明治32年) - 勲五等双光旭日章

1905年(明治38年)6月24日 - 勲四等瑞宝章[14]

1909年(明治42年)6月 - 勲三等瑞宝章

1916年(大正5年)7月29日 - 勲二等瑞宝章[15]

1930年(昭和5年)3月2日 - 勲一等瑞宝章

詩作
彼は短歌や発句をたしなみ、出身地の千曲川にちなんで曲川というを持っていた[16]。作品集に「曲川句集」があり、そこには以下のような人工癌に関する句も含まれている。

・癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩

・兎耳見せつ 鼻高々と 市川氏


人工癌を確認した際に詠んだ句。


・ひとはいざ如何に見んとも我等のは 古今未曾有の兎耳の癌なり

・転移なく移植ならねどなにかせん 組織増あり破壊性あり


当初に広く認められず、癌ではないとの意見も出たことに対する反発を詠んだもの。


・その後に 二わの兎に転移出来

・この次に 移植のなるは無論なり


癌であることの確認と、その後の予想を詠んだ句。それも確認された。


出典
1. 富樫康『日本の作曲家』p.275
2. 『朝日新聞』2015年11月7日、長野全県第2地方面。「山極勝三郎博士 人工癌(がん)実験成功100周年記念講演会」として勝三郎の菩提寺にて山極寿一が講演を行ったことに関する記事において。
3. 中原(1955)、p.76-77
4. 山極勝三郎、市川厚一「癌腫ノ人工的發生ニ就テ」『癌』第10巻第4号、日本癌学会、1916年、 249-290頁、 doi:10.20772/cancersci1907.10.4_249
5. 中原(1955)、p.81
6. 中原(1955)、p.81
7. ノーベル財団ウェブサイトの候補者リストによる[1][リンク切れ]
8. a b Carl-Magnus stolt,George Klein,and Alfred T.R. Jansson (2004). “An Analysis of a Wrong Nobel Prize-Johannes Fibiger, 1926: A Study in the Nobel Archives”. Advances In Cancer Research: 1-12. doi:10.1016/S0065-230X(04)92001-5. https://doi.org/10.1016/S0065-230X(04)92001-5. 
9. 「『ガンの山極博士』たたえる」 読売新聞1 966年10月25日 15頁
10. 朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」
11. 福田眞人、「北里柴三郎:内務省衛生局時代とドイツ留学への道」21頁 (PDF) 。ただし、この文章においてはこの内容の出典が明確に記されていない。
12. 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
13. 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。
14. 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
15. 『官報』第1200号「叙任及辞令」1916年7月31日。
16. 中原(1955)、p.80

参考文献
・中原和郎『癌』(1955)、岩波書店(岩波文庫)

・劇場映画「うさぎ追いし - 山極勝三郎物語 -」(配給:新日本映画社、2016年12月17日一般公開)
・『官報

関連項目
癌研究会

発癌性

市川厚一

栄光なき天才たち

寿製薬 - 自社のテレビCMで長年、山極の人工癌研究の功績を紹介して讃えている。

歴史秘話ヒストリア (NHK 2018年10月10日放送)- 「まぼろしのノーベル賞 世界初!がんを作った男」 - 番組公式サイトバックナンバー

外部リンク
意気昂然と二歩三歩 山極勝三郎博士の生涯と業績
(wikiより)



2710  山極勝三郎

山極 勝三郎

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三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日元治元年3月21日) - 1950年昭和25年)10月11日)は、日本の医学者内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章

人物・経歴
陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。


1890年からドイツ及びパリに自費留学。1892年に帰国し、東京帝国大学講師や助教授を務めた。


31歳となった1895年から定年の1924年まで初代教授佐々木政吉の後任として、東京帝国大学医学部医学科第一内科学講座第二代教授を務めた。後任の教授は島薗順次郎。定年退官後は同愛記念病院院長を務めた。


東北地方に流行する首下がり病を調査研究。また、回虫卵に受精卵と未受精卵の別のあることを確認。宮内省御用掛を勤め、大正天皇の診断を行った。1949年文化勲章受章。


1950年
10月11日、往診に出掛けようと自宅を出たところで脳卒中で倒れ、病院に運び込まれたものの回復しないままにて死去[1]


著書に、『三浦内科学纂録』(南江堂、1912年)、『三浦診断学』(克誠堂書店、1931年)などがある。


妻は、三宅秀の長女・教子。次男は三浦義彰(東京帝国大学医学部卒業)は東京大学医学部助教授を経て、千葉大学医学部生化学教授を1960年〜1981年まで務めた。

謹之助ゆかりの人々

[2]



診察した人・見舞った人
明治天皇大正天皇貞明皇后昭和天皇山県有朋西園寺公望松方正義大隈重信桂太郎寺内正毅原敬加藤高明浜口雄幸犬養毅井上薫[要曖昧さ回避]平沼騏一郎牧野伸顕福沢諭吉中村福助三浦環小唄勝太郎大倉喜八郎安田善次郎福沢桃介

親交のあった人・知り合い・教師・後輩
村井弦斎長岡半太郎田中館愛橘鈴木万次郎芳賀栄次郎青山胤通北里柴三郎浜田玄達三宅秀エルヴィン・フォン・ベルツユリウス・スクリバルイ・パスツール ロベルト・コッホパウル・エールリヒジャン=マルタン・シャルコーカール・ゲルハルトフェリックス・マルシャンルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョールートヴィヒ・キュルツウィルヘルム・エルブ竹下勇中将、吉岡弥生橋本綱常藤浪鑑石黒忠悳長谷川泰高木兼寛後藤新平福田得志島薗順次郎高橋忠雄吉利和緒方知三郎勝沼精蔵村地長考植松七九郎西野忠次郎武谷広加藤豊治郎塩谷不二雄福島東作井村英二郎


黒田清輝鏑木清方、画家で黒田にはパリで会った。両者とも三浦の肖像画を描いている。


森鷗外、脚気病審査会で会ったと思われるが、日本の脚気史によると三浦は出席していないので、それほど接点はない。


高安右人、同級生。


野口英世、米国で会った。叙勲の申請をした。


吉田茂パリ講和会議以来の知り合いで、戦後、旧東京同愛記念病院の再建に尽力した[3]


木下杢太郎(両者フランス語ができるので、日仏医学会で交流多し。謹之助は彼が文学者とは知らないとある。)[4]


三浦謹之助と天皇家
・明治天皇は1912年(明治45年)7月1日東京帝国大学の卒業式に出席したが、気分は優れなかった。侍医では対応しきれなくなり、7月20日、東京大学の青山胤通と三浦謹之助が診察した。聴診はある将軍から拒否されたが、「尿毒症」の診断で、酸素吸入、28日にはカンフル、食塩水の注射などが始まった。これは皇后と皇太子の許可による。看護婦は勲五等以上でないと宮中に入れず、看護の経験のない女官が介護した。7月30日、天皇は崩御した[5]


・1920年(大正9年)3月26日、三浦は大正天皇の診断書を提出した。「ご幼小時の脳膜炎のため、故障ある脳に影響し、心身の緊張を要する儀式の場合、身体の傾斜をきたし、平衡が保てない」。翌年、皇太子裕仁親王(昭和天皇)は摂政となった[6]。大正天皇の病気の末期、葉山の用邸に泊りこんで治療にあたった[7]


・東宮御用掛時代の1921年(大正10年)、皇太子裕仁親王の欧州訪問に侍医として随行している[8]。皇太子に君主としての仕事はストレスが多いので趣味を勧めた。歴史をやると政治的になるので、生物学を勧めたという[9]

三浦の性格など
・明治天皇を診察した東京大学内科青山教授と三浦教授について次の評がある。三浦は瀟洒温籍苑として貴公子の風あり。三浦は談論の人にあらざるも、ひとたび口を開けば諄々として説き要領を徹底せしめんばやまず。青山は豪放にして圭角多きも、三浦は謹厚和易にして春風の如し。前者は無愛千満なるも、後者は極めて慇懃の禮を以てす。三浦ははりねずみの如く襲い来る新聞記者を一々引見し具に語ったが、青山は面会を謝絶した[10]。部下への指導においては、文献調査から実験、論文作成に至るまで、実際的で、懇切丁寧であった。留学の世話から、就職も世話した。病院の管理運営にも秀でていた。

詳しいことは、「三浦謹之助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E8%AC%B9%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

2705  三浦謹之助

三浦謹之助

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2705c



松本良甫・ 6代 / 松本善賢 ( まつもと - よしかた )     
? ~ 文政 9年 8月 30日 ( ? - 1826 )

町医者に堕ちる。「寛性院殿良甫源善賢」。

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