本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

カテゴリ: 作家・文芸・戯作・エッセイ・翻訳・記者関連

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体堀口 大学1892年明治25年〉1月8日 - 1981年昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人歌人フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号十三日月葉山町名誉町民

経歴
学生時代

1892年(明治25年)、東京帝大在学の堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市・本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。父は戊辰戦争で戦死した長岡藩士堀口良治右衛門の長男で、母は村上藩士江坂氏の長女である。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東京帝国大学の近所であることに由来する。日清戦争開始により、父が仁川領事館補として朝鮮に単身赴任するにあたり、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に引き揚げる。


母が23歳で早世したこともあり、以後は祖母に育てられる。父は閔妃暗殺事件に連座して失脚し、後事を京城在任以来の知己である与謝野鉄幹に託した。1898年(明治31年)長岡町立阪之上尋常高等小学校(現:長岡市阪之上小学校)に入学。復職してオランダに在住していた父の指導により、日本牧師の指導で英学を始める。1904年(明治37年)2月日露戦争、4月(旧制)新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)に入学。この頃から文学に魅かれ、内藤鳴雪俳句に心酔。同級に松岡譲が居た。


1909年
(明治42年)に上京し、好んで谷中墓地を逍遥して短歌を詠み、『スバル』を読んで明星派短歌に魅了され、十三日月の雅号で詠草が一二月号に掲載される。9月に「新詩社」に入社。1910年(明治43年)慶應義塾大学文学部予科に入学。与謝野鉄幹の永井荷風への推薦もあって知遇を得、『三田文学』に詩歌の発表を始める。この頃から、同門の佐藤春夫とは終生の友人であった。予科の教師はベルグソン哲学の訳者の広瀬哲士で、学年末のフランス語成績は「不可」であった。翌年に予科2年に進級するが、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退した。

外遊

東洋汽船会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、肺結核を患う。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語が当然ながらフランス語で、その習得に専念出来た。パルナシアン(高踏派)の詩を読み始める。滞在時にメキシコ革命に遭遇。マデロ大統領失脚、謀殺までの『悲劇の二週間』を体験する。1913年大正2年)にシベリア経由でベルギーに向かい、ランボーをピストルで撃ったヴェルレーヌの事件を担当した裁判官シャルル・リグール家に住み、10月には当時日銀副総裁だった水町袈裟六の斡旋でベルギー国立銀行日本銀行の委託研究生として勤務し、異例の待遇を受けた。


詩人としては、ヴェルレーヌを始めサンボリスム詩への傾倒が始まり、詞華集『今日の詩人』でレミ・ド・グールモンRemy de Gourmont)の詩を読み、「一生を通じての精神上の最大の事件」[1]といえる決定的な影響を受ける。以後も父の任地に従い、ベルギースペインスイスパリブラジルルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。スペイン滞在時はマドリード日本公使館で、マリー・ローランサンと交歓しギヨーム・アポリネールを教えられる。スイスで療養したサナトリウムは、トーマス・マン魔の山』の舞台になったところである。

1917年(大正6年)に外交官及領事官試験のために帰国し、日夏耿之介柳沢健長谷川潔を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念する。翌年に浅野合名会社嘱託通弁となり、永井荷風序文による処女作『昨日の花』を自費出版。リオデジャネイロから『三田文学』『炬火』に寄稿。1919年(大正8年)、最初の詩集『月光とピエロ』(永井荷風序文)、歌集『パンの笛』(与謝野鉄幹、与謝野晶子序文)を刊行。以後、ブラジルバイーア州ペルナンブーコ州、リオ、サンパウロサントスアルゼンチンウルグアイに滞在、ウルグアイではジュール・シュペルヴィエルを知る。


1923年(大正12年)ルーマニアに赴任、船中でポール・モラン『夜をひらく』を訳し、パリにモーラン自身を訪ね翻訳出版の快諾を得、長谷川潔や鈴木龍二らと再会交流し、藤田嗣治や詩人アンドレ・サルモンらと交友を持つ。1925年(大正14年)に帰国。


以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。

帰国後の詩作活動

彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に新感覚派運動の誘因となった。帰国後に文化学院大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、ジャン・コクトーをはじめ、一一家十三篇を訳す。1928年昭和3年)日夏耿之介、西條八十との共同編集で詩誌『パンテオン』を創刊。岩佐東一郎青柳瑞穂城左門田中冬二矢野目源一熊田精華らの若い詩人が集う。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介との確執が起き、決別し『パンテオン』が廃刊。自ら後継詩誌『オルフェオン』を第一書房から創刊し、新たに菱山修三が加入し、機知感覚の詩風は、シュルレアリスム詩『詩と詩論』と共に詩壇に新風を与えた。


1932年(昭和7年)小石川区(現・文京区西部辺り)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。

1935年
(昭和10年)に日本ペンクラブの副会長に推される(会長・島崎藤村)、文芸誌『若草』の詩選を担当し、京都の『時世粧』の編纂人となる。翌年5月にジャン・コクトーが来日した際は帝国ホテルに同宿して歌舞伎などを案内[2]している。国家総動員法の公布に伴い、日本学者のジョルジュ・ボノー野尻湖畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。1945年(昭和20年)に被爆下の静岡を脱出し、新潟県関川村(現:妙高市)に再疎開。1945年(昭和20年)秋には父が亡くなり故郷で葬った。1946年(昭和21年)より新潟県高田市(現:上越市)に転居[3]

戦後

1947年(昭和22年)に詩集五冊を上梓したのを皮切りに、著作活動を再開し、翌年に東郷豊治西蒲原郡の旧家を訪ね、良寛の遺墨を観る。1950年(昭和25年)に、疎開から引き揚げて以降は、神奈川県湘南葉山町に終生在住した。白水社草野貞之の知遇により、シャルル・ボードレールの『悪の華』を全訳。


1957年
(昭和32年)に日本芸術院会員。9月に国際ペン大会会長として来日したアンドレ・シャンソンと会談。1959年『夕の虹』にて第10回読売文学賞を受賞。日本現代詩人会の「詩祭」で顕彰され、上司海雲と東郷豊治の案内で、秋篠寺唐招提寺薬師寺などを参観。ほか日本全国を旅し、室生犀星詩集賞や読売文学賞選考委員となる。


1967年
(昭和42年)1月、宮中歌会始で召人、(お題は「魚」)「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ[4]。生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、また一部には、天皇本人を目の前にしての批判(諌言)であると解する向きもある。4月に勲三等瑞宝章を受章。


1970年(昭和45年)日本詩人クラブ名誉会員。日本万国博「日本の日」に式典歌として作詞した「日本新頌」「富士山点描」を発表し、11月に文化功労者。翌年、日本現代詩人会名誉会員。1973年(昭和48年)10月に新潟総合テレビ文化賞。岩佐東一郎の葬儀に参列し、翌年に勲二等瑞宝章1975年(昭和50年)に父の漢詩に和訓を付し、年譜を添えた『長城詩沙』を上木し、宿願を果たした。1979年(昭和54年)に文化勲章を受章。東大寺落慶法要式典歌作詞のため、奈良へ取材旅行。1981年3月15日、急性肺炎のため葉山町の自宅で死去[5]。享年89。


葉山町神社境内「人に」、栃木県竜王峡「石」、上越市「高田に残す」の詩碑が建立されている。

人物
三島由紀夫も少年期に、大學訳のラディゲドルジェル伯の舞踏会』に多大な影響を受けた一人である[6]

・疎開に際し父・九萬一のも含め蔵書を売却した、その豪華さは荷風『断腸亭日乗』や、中村真一郎の回想エセーに記されている。大學自身は「あれを売ったお金で、田舎に隠れて(中略)何もしないで遊んで暮らした」[7]と述べた。

著書
・堀口大學全集 (全9巻+補巻3+別巻1)小澤書店[8] 1981年-88年 

  小澤書店は2000年に倒産したが、2001年に日本図書センターで復刻された。

詩集・歌集
月光とピエロ 籾山書店 1919

・歌集 パンの笛 籾山書店 1919

・水の面に書きて 籾山書店 1921

・月夜の園 抒情小曲 玄文社 1922

・新しき小径 アルス 1922

・遠き薔薇 新潮社 1923

・砂の枕 第一書房 1926 

・堀口大學詩集 長谷川潔画 第一書房 1928

・歌集 男ごころ 第一書房 1929

・歌集 涙の念珠 昭森社 1936

・人間の歌 宝文館 1947 

・詩集乳房 岡本太郎画 ロゴス 1947

・冬心抄 詩・歌・訳詩 斎藤書店 1947

・雪国にて 柏書院 1947

・白い花束 詩と随筆 草原書房 1948

・夕の虹 昭森社 1957

・堀口大学詩集 白凰社「青春の詩集 日本篇」1967、新版1975、平田文也編

・飛花落葉抄 白凰社 1969

・堀口大學全詩集 筑摩書房 1970

・幻露抄 堀口大学詩集 茗渓堂 1971

・月かげの虹 筑摩書房 1971

・朱唇紅臉抄 堀口大学詩集 茗渓堂 1973、松本和男編

・虹の花粉 蕗谷虹児画 大門出版美術出版部 1973

・東天の虹 彌生書房 1976

・遠くかそけく 堀口大学詩集 沖積舎 1976

・水かがみ 昭和出版 1977

・消えがての虹 小澤書店 1978

・富士山 米寿記念詩集 へっど・あ-と 1979

・堀口大学詩集 彌生書房〈世界の詩〉 1980、那珂太郎

・堀口大学詩集 「現代詩文庫1019」思潮社 1980、新書版

・幸福のパン種 堀口大学詩集 かまくら春秋社 1993、新版2011、堀口すみれ子編  

評論・随筆
ヴェルレエヌ 世界文学大綱 東方出版 1927

・註と解 仏蘭西現代詩の読み方 第一書房 1932

・季節と詩心 随筆集 第一書房 1935。講談社文芸文庫 2007(解説長谷川郁夫)

・山巓の気 生活社 1945

・詩と詩人 講談社 1948

・ヴェルレエヌ研究 昭森社 1948

・饗宴にエロスを招いて 昭森社 1960

・捨菜籠 随筆集 彌生書房 1972

・秋黄昏 河出書房新社 1980

・虹消えず 新潮社 1983

詳しいことは、『堀口大学ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%8F%A3%E5%A4%A7%E5%AD%B8
(wikiより)

069 堀口大学

⇧ 堀口大学

069a

069b

069c

069d



水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年明治43年)8月25日 - 2003年平成15年)4月8日)は、日本脚本家映画監督谷口千吉は元夫。1913年大正2年)生まれを自称していた。

来歴・人物

東京府東京市京橋区(現・東京都中央区京橋)出身。東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)、文化学院出身。東京左翼劇場に出演する。


24歳で父と死別してから家族を支えるために脚本を執筆するようになる。当初は舞台の脚本を書いていたが、戦時中ラジオドラマの脚本を主に手掛けるようになった。


1938年12月、都内の乃木神社で当時東宝の助監督だった谷口千吉と挙式を挙げるが、翌年10月に協議離婚をした。


戦後、かつてのロシア語の師で、大御所脚本家になっていた八住利雄映画の脚本を書くよう勧められ、1949年『女の一生』が映画デビュー作品となる。


その後女性の視点から見たヒット作を多数描き、特に文芸作品の脚色で多くの傑作を遺した。キネマ旬報ベストテン1位を4回受賞するなど、戦後の日本映画黄金時代を代表する脚本家である。林芙美子原作・成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)などは名高い。


没後、一切の財産を1946年から住んでいた市川市に寄贈した。旧宅は毎月第4土日に公開されている。2004年(平成16年)、市川市の名誉市民に選出された。

主な作品
また逢う日まで今井正監督)

おかあさん成瀬巳喜男監督)

ひめゆりの塔(今井正監督)

あにいもうと(成瀬巳喜男監督)

山の音(成瀬巳喜男監督)

浮雲(成瀬巳喜男監督)

驟雨(成瀬巳喜男監督)

おとうと市川崑監督)

ここに泉あり(今井正監督)

純愛物語(今井正監督)

キクとイサム(今井正監督)

怪談小林正樹監督)

もず渋谷実監督)

婚期吉村公三郎監督)

甘い汗豊田四郎監督)

竜馬がゆく大河ドラマ

はまなすの花が咲いたら(テレビドラマ)

甘柿しぶ柿つるし柿(テレビドラマ)

受賞

・第1回菊池寛賞(1953年)

紫綬褒章(1981年)

・勲四等宝冠章(1987年)

伝記
加藤馨『脚本家水木洋子 大いなる映画遺産とその生涯』映人社、2010年

  ・著者は元朝日新聞記者、2002年より水木洋子市民サポーターの会会長。市川市立図書館所蔵の資料を基にした評伝。

関連項目
東京都出身の人物一覧 

外部リンク
脚本家水木洋子の世界 市川市役所
(wikiより)

0022 水木洋子

⇧ 水木洋子

0022a

0022b

0022c



龍之介は、明治 25年 ( 1892 )  3月 1日、東京都京橋区入船町 8丁目 1番地 ( 中央区明石町 ) に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。


辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたと言われます。


生後 7ヵ月で、当時本所区小泉町 15番地 ( 両国 3丁目 ) に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となりました。


芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。


明治 43年 ( 1910 ) 19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。


「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。


龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校 ( 両国小学校 ) に入学しました。


明治 38年 ( 1905 ) 府立第三中学校 ( 両国高等学校 ) に入学、同 43年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。


その後、大正 2年東京帝国大学英文科に入学、同 5年卒業しました。


大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに当時要しました。


初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。


また、小説以外にも詩、俳句 ( 高浜虚子に師事 ) 、評論、随筆にも優れました。


昭和 2年 ( 1927 ) に 35歳の生涯を閉じました。


遺稿にに「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。


龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑がまた、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。


芥川龍之介賞

通称芥川賞。


新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。


昭和 10年 ( 1935 ) 、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。
(案内板より)

112b

112a



森繁万寿子 ( もりしげ - ますこ )     
大正 3年 ? ~ 平成 2年 10月 21日 ( 1914 ? - 1990 )

     
随筆家・旅行家。

筆名、森繁杏子。

東京女子大学卒業。

昭和 42年 ( 1967 ) 日本女性で初めて南極大陸を訪れる。

世界を 200回以上旅行し、旅行家として知られる。76歳。

著書:「ママのアフリカ欲張り旅行」、「ばばの手紙」( 平成 3年日本文芸大賞・特別賞受賞 ) など。

120a

120b



車窓で  小野十三郎


尾の道。


いつも悲しく


夜すぎる町。


あの島、この島。


小高い丘の上まで


点々と灯がつらなっている。


かすかに潮のかおりのただようところ。


夜霧のかかった車窓にもたれて、


すぎゆくともしびの町を見る。


そして思う。

 
 あのうるむ灯のなかに

 
 うしなわれた人間の夢と

 
 幸福がある

 
 いつかわたしは

 身軽な旅人の姿で

 ここにおりたとう

 いつかきっと

すぎゆく尾の道の夜の灯よ


その日まで。


小野十三郎


詩人 大阪市生まれ


戦後 大阪で若い詩人を育て 大阪文学学校を創設


第一詩集「半分開いた窓」以後多くの詩集がある


詩論集「詩論」では 短歌的叙情への否定


詩における批評精神の形成を唱えた
(石碑文より)

101b

101c

101d



〇 おのみち文学の館
おのみち文学の館(おのみちぶんがくのやかた)は、広島県尾道市千光寺山中腹にある尾道市立の文学館。「文学記念室」、「中村憲吉旧居」、「志賀直哉旧居」とその建物南側に記念碑がたつ「尾道市文学公園」の4つの施設からなる。

概要

尾道は旧来より港町・商業・工業都市として栄え、財をなしたものや文人墨客が市街地北の風光明媚なこの場所に居を構えることもあった。


市はその中の一つである志賀直哉旧居を買い取り、その南側に「文学公園」を整備し、「文学記念室」として公開した。そのときは林芙美子の資料展示や書斎を再現、大林宣彦の尾道ロケ写真などを展示していた。志賀旧居なのに志賀以外の資料が展示されていたことに、一部から批判もされたようである。その後、「中村憲吉旧居」も同様に整備された。


1998年に尾道市制100周年、翌1999年に西瀬戸自動車道(しまなみ海道)開通を機に、「まちごと芸術・文化館構想」事業が推進された。市はその事業の一つとして、それまで混在していた資料を再整理し、文学記念室を本来の「志賀直哉旧居」として志賀のみの資料室とし、さらに尾道ゆかりの作家の発掘・伝承作業を行い福井邸を新たな文学記念室として公開した。 それら4つの施設を一つにまとめ、1999年3月に「おのみち文学の館」として再開館した。


展示されている資料の他に、日本百景にも選ばれているこの地から絶景を楽しむことができる。周辺には映画ロケ地(特に大林の尾道三部作)が点在している。

文学記念室

東土堂町13-28(北緯34度24分33秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.40917度 東経133.19917度 / 34.40917; 133.19917)。


元々は地元企業役員の福井邸。庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されている。1912年(大正元年)に東棟、1927年(昭和2年)に西棟、1928年(昭和3年)に茶室と増改築を行い現在の形となった。福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開した。


尾道ゆかりの作家である林芙美子・高垣眸横山美智子行友李風、歌人である中村憲吉・山下陸奥麻生路郎の愛用品や書簡、直筆原稿等を展示している。特に、林芙美子については東京の家にあった書斎が再現されている。中村憲吉の遺作も展示している。


ちなみにこの建物は、映画「太陽は泣かない」(1976年飯塚二郎)「あの、夏の日」(1998年大林宣彦)のロケ地でもある。


2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録された。

志賀直哉旧居

東土堂町8-28(北緯34度24分31秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.40861度 東経133.19917度 / 34.40861; 133.19917)。


1912年(大正元年)11月、白樺のありかたへの疑問と父との不和から東京を離れ、友人がほめていたというこの地に移住。6畳3畳の2部屋と土間の台所だけの平屋の三軒棟割長屋で、ここで代表作・暗夜行路の構想を練り起稿した。ちなみに、暖をとるためにガス会社からストーブを借りていたが、そのガス使用量は尾道中で2番目であったという。その後1914年(大正3年)中ごろまで在住した。


おのみち文学の館として整備される前は、ここが文学記念室として林芙美子の書斎や資料、大林宣彦の尾道ロケ写真などを展示していた。のちに林のものは新しい文学記念室に移り大林のものはなくなって、現在では志賀のみの資料を展示している。


一軒目(写真手前にあたる)と二軒目が受付および展示場、三軒目に志賀が住んだ当時の部屋の様子が再現されている。南側の縁側から景色を楽しめる。

文学公園はこのすぐ南側にあり、文学の館を整備された経緯が記載された記念碑などがたっている。

中村憲吉旧居

東土堂町15-10(北緯34度24分36秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.41000度 東経133.19917度 / 34.41000; 133.19917)。


1933年(昭和8年)12月25日に病気療養のためにこの地を訪れ、1934年(昭和9年)5月5日に亡くなった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれている。


ここでは他の施設と違い、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されている。

ちなみに、他の施設から少し離れたところにある。


前には文学碑が立ち、そこから「文学のこみち」へと続いている。

閉鎖
・近年入場者数の減少で、文学記念室と志賀直哉旧居が2020年3月末で閉館。市議会の議決を経て、所有者に返還。中村旧居と公園は引き続き活用する[1]

交通
・JR山陽本線尾道駅から

  ・徒歩で10分

  ・おのみちバス「渡し場」バス停下車、徒歩5分

関連項目
千光寺 (尾道市)

千光寺公園

脚注
1. 中国新聞

外部リンク
おのみち文学の館 尾道市文化振興課
(wikiより)

087a

087b

087c

087d

087e

⇧ 尾道市文学公園

087f

⇧ 志賀直哉旧居

087h

087i

087j



「海が見えた 海が見える 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節で有名な「放浪記」。
(案内板より)


〇 林 芙美子

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年〉12月31日 - 1951年昭和26年〉6月28日)は、日本小説家。本名フミコ。山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。


その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[1]と言われるように波瀾万丈だった。

生涯

当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された[2][3]。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている[4][5]。)


実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。 養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎佐世保・下関と変わった。 喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方木賃宿を転々した。


1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む。 「放浪記」の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>


1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、1918年市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。

1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。

1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。


1924年
、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治岡本潤高橋新吉小野十三郎辻潤平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。


1926年
(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[6]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。


1928年
(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。


1931年11月、朝鮮シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。


1935年
(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。


1937年
南京攻略戦には、毎日新聞特派員として現地に赴いた。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出され(女性作家は林と吉屋信子の2人のみ)、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年中野警察署に留置された。

おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年には北満州と朝鮮に行った。1941年には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けた。日米交渉が難航していた。


太平洋戦争
前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポールジャワボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館になっている。


下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。


かって原稿の売り込みに苦労したが故に、人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。

1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。


なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK名作選-若い女性」で動画公開されている。(外部リンク参照)放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオで放送された。


7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成[注 1]は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという[7]


戒名は『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬された。享年47。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。


1943年
に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。


旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。

2010年2月、桐野夏生が評伝小説『ナニカアル』を上梓している[8]

おもな文業
多作で、また組み合わせを変えた短編集も出ており、書誌は膨大である[注 2]

詳しいことは、『林 芙美子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90
(wikiより)

077 林芙美子像

⇧ 林 芙美子

077a

077b

077c

077d

077e



吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年明治39年)5月10日 - 1940年昭和15年)7月8日)は、日本ダダイスト詩人、小説家。[1]

概要

アナキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐりと結婚し、長男の吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。


上京後、詩人の辻潤清沢清志高橋新吉らと交友を通し、『ダダイスム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆した。1940年狭心症のため、34歳で急死した。

略歴

1906年 岡山県御津郡金川町(現在の岡山市北区御津金川)に土木請負業(吉行組)を営む吉行澤太郎、盛代の長男として生まれる。

  ・吉行組は、エイスケの弟が後継し、現在も盛業中。

1922年 第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退。東京の目白中学に在籍。

1923年 吉行あぐりと結婚し岡山市桶屋町(現在の岡山市北区平和町・磨屋町・野田屋町一丁目)に転居

1924年 『売恥醜文』創刊号を出す。長男吉行淳之介誕生。

1926年 東京に転居。『虚無思想』創刊号を出す。

1929年 『葡萄園』同人となる。この頃上海に数度渡っている。

1930年 『近代生活』同人となる。

1934年 文筆活動を辞め、株式を生業とする。

1935年 長女吉行和子誕生。

1939年 次女吉行理恵誕生。

1940年 狭心症で急死した。墓所は岡山市北区御津金川。

評価

この当時の厭世観・閉塞感から、ダダイスムが流行したが、第二次世界大戦に向かっていく時代もあり、徐々にその活躍を許される場は減っていった。そのために筆を折ったが、文筆活動そのものには未練が無かったようで死後の本棚には、文学関連の書籍はただの2冊しかなく、残りは全て株に関するものであった。エイスケのその生涯は、ダダイスムを実践するようなところがあり、退学以前には友人を東京まで連れてゆき、芸者と人力車を一日借り切って乗り回したり、不倫相手と子どもを一緒に旅行につれて行くなど破天荒であった。


自身の子どもに対して、気分次第で怒鳴り散らすことが多かったが、新作の玩具が出るとそれをもとに一緒に遊んだり、当時珍しかった車を購入してドライブにつれていく側面もあった。ただ、学歴に関してかなり軽視をしていたようで、淳之介に対し進学する必要はないと常々口にしていた。


急死する頃には、身上をほとんど食いつぶし、生活資金は妻のあぐりに頼っており、家屋敷は二重に抵当に入っていたように、株式には才覚がなかった。


新感覚派と新興芸術派が当時流行であり、新興芸術派の旗手として活動したが、新興芸術派自体が日本の文壇において、後世の評価としては極めて低いと言わざるを得ない。息子の淳之介ですら「父の小説を終わりまで読んだものは、一作もない」と言い、また冬樹社から全集を出したいので許可が欲しいといわれたときも「許可を出すのは構わないが、私は売れるとは思わない」と答えたという。妻のあぐりもその活動を評価をしていたが、作品そのものは「難解で分からなかった」と述懐している。同時代を生きた伊藤整は、「読むにたえる小説は新興芸術派にはなかった」と評している。

刊行物
冬樹社から全集が出ていたが、当時はまったく売れず、絶版となった。しかし、連続テレビ小説あぐり』で野村萬斎の演じた「エイスケさん」が注目された影響もあって、1997年、国書刊行会から『吉行エイスケ、作品と世界』、文園社から『吉行エイスケ作品集』が相次いで出版された。また、2001年より、ゆまに書房から、彼の著作である新興芸術派叢書の『女百貨店』、同じく『新種族ノラ』、紀行文集『新しき上海のプライヴェート』が復刻出版されている。

代表的な著作

・スポールティフな娼婦

・バルザックの寝巻姿

・女百貨店

・職業婦人気質

・新種族ノラ

・戦争のファンタジイ

・大阪万華鏡

・地図に出てくる男女

・東京ロマンティック恋愛記

・飛行機から墜ちるまで

・孟買挿話

・恋の一杯売

家族
美容師の吉行あぐりは妻。小説家の吉行淳之介は長男、女優の吉行和子は長女、詩人の吉行理恵は次女である。

出典
1. 文学者紹介→吉行エイスケ”. 吉備路文学館. 2016年6月23日閲覧。

外部リンク
吉行 エイスケ:作家別作品リスト - 青空文庫

吉行家津高郡草生村

吉行エイスケ - 吉備路文学館
(wikiより)

吉行エイスケ

吉行エイスケ

0510a

0510b

0510c



吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年平成6年)7月26日)は、日本小説家岡山県生まれ。東京大学英文科中退。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。芸術院会員。

来歴

岡山県岡山市に父・吉行エイスケモダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。同じ町内には内田百閒がいた。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。府立一中武蔵高等学校尋常科府立高等学校尋常科の受験に失敗し[2][3]麻布中学に進学。


1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に旧制静岡高校(現静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学[注釈 1]、この頃より文学に関心を持つようになる。


1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。


大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太鈴木義司富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた[4]


倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎近藤啓太郎阿川弘之三浦朱門島尾敏雄らと知り合った。


1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。


1979年、日本芸術院賞を受賞し[5]、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。


1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去、70歳没[1]。戒名は清光院好文日淳信士[6]。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。

作品

私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。


長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。

人物・エピソード
女性関係

文学のテーマ同様にその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻の吉行文枝との間に女児が一人いた。後に別居し、結婚後約10年後に知り合った女優の宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶[注釈 2][注釈 3]となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』[注釈 4]で、高山が『特別な他人』[注釈 5]で、宮城が『淳之介さんのこと』[注釈 6]で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』[注釈 7]で、それぞれの体験を公表している。


大層女性にモテたことで知られているが、奥本大三郎は吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と指摘しており、また、「女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられない」のが「弱点」であるとも記している[7][8]。奥本はまた、吉行に女性読者が増加していることを称して「猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合」と形容している[7]フェミニスト上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している[8]。友人の遠藤周作は時おり随筆で「吉行世之介」と書いてからかっている。

家族・親族

作家・詩人の吉行エイスケは父。美容師の吉行あぐりは母。女優の吉行和子、詩人の吉行理恵は妹。生家の土建会社「株式会社吉行組」(岡山市)は、祖父の死去後、叔父が後を継いだ。淳之介自身も吉行組の無報酬重役を務めていた[9]


本妻との間に娘がいる。

吉行淳之介文学館
1999年静岡県掛川市にある、社会福祉施設ねむの木学園の敷地内に吉行淳之介文学館が開館した。

文学賞選考委員
吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り[10]。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。

文学界新人賞:1966年 - 1970年(第22 - 30回)

文藝賞:1966年 - 1967年(第4 - 5回)

太宰治賞:1970年 - 1977年(第6 - 13回)

芥川賞:1972年 - 1993年(第66 - 110回)

泉鏡花文学賞:1973年 - 1993年(第1 - 21回)

川端康成文学賞:1974年 - 1993年(第1 - 20回)

谷崎潤一郎賞:1977年 - 1993年(第13 - 29回、ただし第28回は病気欠席)

群像新人文学賞:1978年 - 1980年(第21 - 23回)

野間文芸賞:1980年 - 1993年(第33 - 46回)

著書
小説

・『星の降る夜の物語』 作品社、1954年

・『驟雨』(『薔薇販売人』を含む) 新潮社、1954年、のち『薔薇販売人』は角川文庫

・『漂う部屋』 河出新書、1955年

・『原色の街』 新潮社、1956年、のち『原色の街』『驟雨』は新潮文庫

 向島 (墨田区)赤線地帯、鳩の街が舞台(新潮文庫に入っているものは芥川賞候補になった『原色の街』と『ある脱出』を組み合わせ、加筆訂正したもの)。

・『焔の中』 新潮社、1956年、のち中公文庫、旺文社文庫

・『悪い夏』 角川書店、1956年、のち角川小説新書

・『美女哄笑』 現代文芸社、1957年、のち新鋭作家叢書、『がらんどう』は中公文庫

・『男と女の子』 講談社、1958年、のち中公文庫、集英社文庫

・『二人の女』 平凡出版、1959年

・『すれすれ』 講談社、1959年–60年、のち角川文庫、光文社文庫

・『娼婦の部屋』 文藝春秋新社、1959年、のち角川文庫、新潮文庫、光文社文庫

・『風景の中の関係』 新潮社、1960年、のち『鳥獣蟲魚』は旺文社文庫

・『街の底で』 中央公論社、1961年、のち角川文庫

・『闇の中の祝祭』 講談社、1961年、のち光文社文庫、角川文庫、光文社文庫

 妻と恋人との間で振り回される男の姿を描いた作品。当時の宮城まり子との恋愛からディテールを構成したため「女優との交際の告白」として物議をかもした。のち『春夏秋冬女は怖い』で事実だと書いている。

・『コールガール』 角川書店、1962年、のち角川文庫

・『札幌夫人』 集英社、1963年、のち集英社文庫

・『雨か日和か』 講談社、1963年

・『花束』 中央公論社、1963年、のち中公文庫

・『女の決闘』 桃源社、1964年

・『ずべ公天使』 集英社、1964年、のち『にせドン・ファン』は角川文庫

・『砂の上の植物群』 文藝春秋新社、1964年、のち新潮文庫

・『夜の噂』 朝日新聞社、1964年、のち新潮文庫

・『痴・香水瓶』 学習研究社・芥川賞作家シリーズ、1964年

・『吉行淳之介短篇全集』全5巻  講談社・ロマンブックス、1965年

・『不意の出来事』 新潮社、1965年、のち『娼婦の部屋』『不意の出来事』は新潮文庫

 新潮社文学賞受賞。

・『技巧的生活』 河出書房新社、1965年、のち新潮文庫

・『怪盗ねずみ小僧』 講談社、1965年、のち『鼠小僧次郎吉』は角川文庫

・『唇と歯』 東方社、1966年、のち角川文庫

・『赤い歳月』 講談社、1967年

・『星と月は天の穴』 講談社、1967年、のち講談社文庫、文芸文庫

・『美少女』 文藝春秋、1967年、のち新潮文庫

・『女の動物園』 毎日新聞社、1968年

・『暗室』 講談社、1970年、のち講談社文庫、文芸文庫

 谷崎潤一郎賞受賞。

・『浅い夢』 毎日新聞社、1970年、のち角川文庫

・『小野小町』 読売新聞社、1970年、(小説選書)

・『吉行淳之介全集』全8巻  講談社、1971–72年

・『裸の匂い』 ベストセラーズ、1971年、のち集英社文庫

・『湿った空乾いた空』 新潮社、1972年、のち新潮文庫

・『一見猥本風』 番町書房、1973年、のち角川文庫

・『猫踏んじゃった』 番町書房、1973年、のち角川文庫

・『出口・廃墟の眺め』 講談社文庫、1973年

・『鞄の中身』 講談社、1974年、のち講談社文庫、文芸文庫

 読売文学賞受賞。

・『赤と紫』 角川文庫、1974年

・『吉行淳之介自選作品』全5巻  潮出版社、1975年

・『子供の領分』 番町書房、1975年、のち角川文庫、集英社文庫

・『童謡』 出帆社、1975年、のち集英社文庫

・『怖ろしい場所』 新潮社、1976年、のち新潮文庫

・『牝ライオンと豹』 角川文庫、1976年

・『吉行淳之介エンタテインメント全集』全11巻  角川書店、1976–77年

・『寝台の舟』 旺文社文庫、1977年

・『鬱の一年』 角川文庫、1978年

・『夕暮まで』 新潮社、1978年、のち新潮文庫

 「夕ぐれ族」の語源。社会現象となった。野間文芸賞受賞

・『菓子祭』 潮出版社、1979年、のち角川文庫、講談社文芸文庫

・『堀部安兵衛 黒鉄ヒロシえ』 集英社文庫、1980年

・『百の唇』 掌篇小説選、講談社、1982年

・『夢の車輪 パウル・クレーと十二の幻想』 掌篇小説集、文藝春秋、1983年

・『吉行淳之介全集』全17巻 別巻3巻  講談社、1983–85年

・『目玉』 新潮社、1989年、のち新潮文庫

・『吉行淳之介全集』全15巻  新潮社、1997–98年

・『悩ましき土地』 講談社文芸文庫、1999年

・『吉行淳之介娼婦小説集成』中公文庫、2014年

詳しいことは、「吉行淳之介ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B
(wikiより)

吉行淳之介

吉行淳之介

0510a

0510b

0510c



この地に石川啄木の住まいがありました。


その家で啄木が最後に創作した歌が2首です。


歌碑の解説等がありますのでご覧ください。


北岩手郡渋民村 ( 現在は盛岡市内 ) を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。


ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。


啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。


建碑に向けて検討を開始しました。


平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。


文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。


平成27年3月、多くの方々からご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。


碑材 : 姫神小桜 ( 啄木のふるさとの山・姫神山産 )
揮毫 ( 啄木直筆原稿の左 ) : 楢崎華祥氏
(案内板より)


045a

045b

045c

045d

045e

045f



高田公園は相模湾を一望でき、湘南平へと続く坂田山の一角にあります。


「海のいろは日ざしで変る」 と、 高田保の直筆で刻まれており、分骨と随筆『ブラリひょうたん』で愛用した筆などが納められています。


墓碑は昭和29年5月31日建立、設計は谷口吉郎氏。

06a

06b

06c

06d

06e

06f



高田 保(たかた たもつ[1] / たかだ たもつ[3]1895年明治28年)3月28日[1][註 1] - 1952年昭和27年)2月20日[1])は、茨城県出身の劇作家随筆家。俳号は羊軒[1]。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。

略歴

1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという[5]。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信夫人の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。上京した高田はモダンボーイとなるべく頻繁に銀座へ通って学生生活を謳歌した[5]1917年大正6年)に早稲田大学を卒業する[1]


卒業後はペラごろとなって浅草公園の興行街で居所を転々とした後、「活動倶楽部」や「オペラ評論」の雑誌記者となる[1][6][7]。この頃に古海卓二根岸寛一と知り合い映画に接する様になり[1]1922年(大正11年)に根岸興行部の経営する浅草オペラの代表格である「金龍館」の文芸部に入った[8]。この年、『案山子』で帝国劇場の戯曲懸賞に入選する[6]。このとき他の入選者に永井龍男川口松太郎がいた。高田は戯曲の本場の地であるパリに対して憧憬の念を抱き、パリが舞台の作品を読み漁った。演劇修養のためパリへの留学を切望していたが、資金不足によりこれは果たせなかった[8]1924年(大正13年)、文芸雑誌「新小説」に戯曲「天の岩戸」を発表して劇作家として認知されるようになった[1][7]


1927年(昭和2年)には戯曲集「人魂(ひとだま)黄表紙」を刊行する[1]1929年(昭和4年)に新築地劇団に加わってプロレタリア劇作家として活躍するが、翌1930年(昭和5年)に特高による検挙を受けて転向して新劇運動からは退いた[1][6][7]。また、この頃の高田は映画監督としても活動し、1925年(大正14年)の「水の影」、1932年(昭和7年)の「少年諸君」など3本の映画を製作している。しかしながら、これらの映画は高評価を得ることは出来なかった[1]1933年(昭和8年)、大宅壮一木村毅とともに『東京日日新聞』に学芸部長の阿部真之助の招きで入社、軽妙な雑文を書いた。だが、1938年(昭和13年)には退社し、新派新国劇の脚色家・演出家となり商業演劇に活躍の場を移した[6][7]


1943年(昭和18年)、病気の進行により知人の勧めで大磯へ移住、その後再び転居して大磯内の旧島崎藤村邸へと移る[8]。戦後は結核療養を経た後、1948年(昭和23年)から『東京日日新聞』に社友として随筆『ブラリひょうたん』を連載する[6][7]。軽妙な文体ながら、「単独講和」「天皇制」「再軍備」などの政府の方針に反対する論を展開した。高田の庶民的文化人としての立場からの風刺は、ウィットとユーモアも含んでおり好評を博した[1][6][7][9]


高田は「昭和斎藤緑雨」と称えられた。また、『とばした紙鳶』『トスナキアの娘』『トルとドス』などの小説も著している。また、大宅壮一はその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したことでよく知られる[1]


1952年2月20日、学生時代から罹患していた肺結核により、かつて藤村が住んでいた神奈川県中郡大磯町の自宅で死去した。56歳没。戒名は清閑院文誉秀保居士[2][8][10]。高田の没後に大宅は、高田の話術の上手さを讃えつつ、その話術を助けているものは高田の才智ではなく顔にあるとしたうえで、高田のテレビ出演が実現しないことを残念がった[11]

著書
・人魂黄表紙 戯曲集 原始社 1927 

・宣伝 塩川書房 1930 (プロレタリア前衛小説戯曲新選集)

・舗道雑記帳 時潮社 1933 

・有閑雑記帳 改造社 1934 

・其日以後 汎洋社 1943 

・風話 和敬書店 1948

・二つの椅子 対談集 朝日新聞社, 1950

・ブラリひょうたん 1-3 創元社 1950-51 のち角川文庫 のち毎日新聞社刊

・河童ひようろん 要書房 1951

・青春虚実 創元社 1951

・いろは歌留多 文藝春秋新社 1952

・我輩も猫である 要書房 1952

・人情馬鹿 創元社 1952

・高田保著作集 全5巻 創元社 1952-53

・ブラリひようたん日記 要書房 1953

翻訳

・自動車の一生 イリヤ・エレンブルグ 内外社 1930

脚注
注釈
1. 日付については3月27日とする記載もみられる[4]

出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o “高田 保 タカタ タモツ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004), http://archive.is/Q1Cad#8% 
2. a b c 大磯町. “高田公園 ~高田保の墓碑~”. 2013年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月13日閲覧。
3. 高田, 保 タカダ, タモツ”. CiNii. 2019年8月31日閲覧。
4. “高田保 たかた-たもつ”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015-9), http://archive.is/qgkkS#23% 
5. a b 高田保 (PDF) 」 『Acanthus』第18号、茨城県立土浦第一高等学校 進修同窓会旧本館活用委員会、2009年11月24日、2019年8月31日閲覧。
6. a b c d e f “たかたたもつ【高田保】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 平凡社, http://archive.is/qgkkS#33% 
7. a b c d e f 藤木宏幸, “高田保 たかたたもつ”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, http://archive.is/qgkkS#43% 
8. a b c d 高田保後編 (PDF) 」 『Acanthus』第20号、茨城県立土浦第一高等学校 進修同窓会旧本館活用委員会、2010年1月26日、2019年8月31日閲覧。
9. “高田保 たかたたもつ”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, Britannica Japan, (2014), http://archive.is/qgkkS#9% 
10. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)181頁
11. 田村茂 撮影『現代日本の百人』大宅壮一 寄稿、文芸春秋新社、1953年4月、初版、103頁。全国書誌番号:53003431

参考文献
夏堀正元「風来の人 小説・高田保」文藝春秋社 1971年

外部リンク
高田保:作家別作品リスト - 青空文庫

「ブラリひょうたん」 (1948年12月~49年7月分)

旧島崎藤村邸

高田保 - 日本映画データベース
(wikiより)

05   高田 保

高田 保

05a

05b

05c

05d



相良 俊輔(さがら しゅんすけ、1920年 - 1979年8月)は、児童文学者、編集者漫画原作者東京都出身。

来歴
1920年、東京都生まれ。文芸誌、娯楽誌の編集者を十数年務め、山手樹一郎山本周五郎牧野吉晴らと親交を深める。文芸誌「不同調」に処女作「虚構の夜」を発表。以後、戦記物の著作を多く手掛ける。1979年8月没。墓所は大磯町妙大寺

著書
・「機関車大将」

・「大雪原鉄道」

・「少年会津藩士秘録」

・「人類愛に生きた将軍」

・「ジュニア版太平洋戦争」

・「暁の攻撃隊」

・「ああ厚木航空隊―あるサムライの殉国」

・「夏の空」

・「海原が残った(上・下)」

・「流氷の海―ある軍司令官の決断」

・「菊と龍―祖国への栄光の戦い」

・「赤い夕陽の満州野が原に―鬼才河本大作の生涯」

・「怒りの海―戦艦比叡・西田艦長の悲劇」

・「魔神の使者」毎日小学生新聞連載(全150回)

漫画原作
・「あかつき戦闘隊

・「どどぶ木戸

外部リンク
あかつき戦闘隊 著者紹介 相良俊輔 - マンガショップ
(wikiより)

04a

04b

04c

04d



福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年大正元年)8月25日 - 1994年平成6年)11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家現代演劇協会理事長、日本文化会議理事、日本芸術院会員[1]


平和論
への批判を早くから行った保守派の文化人で、同時期よりシェイクスピア戯曲作品の翻訳、演劇上演も行った。産経新聞の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎小林秀雄等の提唱によって創刊された。文藝春秋社の「文藝春秋」、「諸君」、自由社の「自由」などの保守派雑誌への寄稿でも知られた。


「レトリシャン」とか「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[3]

経歴

1912年大正元年)8月25日、東京市本郷区(現在の東京都文京区東部)にて、東京電燈株式会社の社員であった父・幸四郎、母・まさの長男として生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][4]。第二東京市立中学校(現:東京都立上野高等学校)で高橋義孝と同級。旧制浦和高等学校を経て1936年昭和11年)に東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」。


大学卒業後は中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]1937年(昭和12年)に第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表、文芸評論を始めた。他に戦前や戦後間もない時期に発表された嘉村礒多芥川龍之介らに関する論考が文芸評論での主な作品である。また、1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[5]


昭和20年代後半期より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。


福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛のなかでの保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判。また戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語教室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊の一部等は現代かなづかいを用いている。1969年(昭和44年)から1983年(昭和58年)にかけては荒木俊馬が創設した京都産業大学教授を務めた。


翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルドサロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。


劇作家、演出家としても活躍。1952年(昭和27年)に文学座に入り、『ハムレット』、自作の『龍を撫でた男』などの演出を担当するが、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年(昭和31年)に退座。1963年(昭和38年)、かつて福田が手がけた『ハムレット』で主演を務めた芥川比呂志や、仲谷昇岸田今日子神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任。同協会附属の「劇団雲」では、シェイクスピア劇の作・演出を担当する。


やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。


1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[6]12月9日青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎久米明等が弔辞を述べた。


主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただ自選のため、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未所収のままの論考著作も多い。


2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授。また演出家翻訳家財団法人「現代演劇協会」[7]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。

福田恆存と論壇

福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している[8]。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる[9]。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる[9]


例えば都留重人は以下のように取り上げている[10]

ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略)

                                       — 『朝日新聞』論壇時評1965年6月22日

しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている[9]。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる[11]坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している[12]

翻訳に対する評価

堀内克明は著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)の中で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a long , slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」という誤訳として紹介している(正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowである)。


小川高義は『老人と海』の新訳(光文社文庫、2014年)あとがき解説で、老人の「aloud」を「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している福田の訳を批判し、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と述べている。

詳しいことは、「福田恆存ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98
(wikiより)

03   福田恆存

福田恆存

03a

03b

03c



河井酔茗 ( すいめい )文学碑

河井酔茗は、本名を又平といい、明治七年 ( 1874 ) 堺に生まれる。


幼時に両親・弟を失い、一六歳まで祖母に育てられ、一七歳の時、山田美沙に詩を認められ、以後一貫して近代詩の発展に尽くした。


同三三年上京し、のち詩草社を起こして自由詩運動の口火を切る。


大正一一年 ( 1922 ) 家族の罹病を憂い、平塚に移る。


平塚町の文学青年が発行する『湘南文芸』に毎号寄稿し、発展に寄与した。


震災後、上京し、昭和三七年に芸術院会員となり、同四〇年病没。享年九二歳。


昭和五三年に酔茗が居住した近くのこの地に「平塚たより」の一節を刻んだ文学碑が建立された。
(案内板より)

95e

95a

95b

95c

95d



高山樗牛 ( たかやま ちょぎゅう ) は、林次郎といい、山形県鶴岡の人でした。


ゆたかな学識と、すぐれた思想と美しい文章さをもって、明治文壇に不滅の足跡を印し随筆わが袖の記 小説瀧口入道等は、いまなお多くの人たちに愛読されています


樗牛は、明治二十三年文部省から美学の研究の為、ヨーロッパに遊学を命ぜられましたが、病にかかり たびたび平塚海岸の杏雲堂に診察をもとめ、渡欧の日を夢みつつ療養に専念しました


院長佐々木政吉副院長、佐々木森男両氏は、樗牛のために、懇篤な治療の方法を講じ、彼もまた再起を期しつつあったのですが、明治三十五年もおしつまった十二月二十四日、平塚の浜にうちよせる浪の音に耳かたむけながら、砂丘の病棟で不帰の人となりました。
(案内板より)

〇 高山樗牛
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代日本文芸評論家思想家東京大学講師文学博士明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。

年譜
・1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現・山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。


・1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県福島県警視庁などに勤務した。


福島中学中退、東京英語学校を経て仙台第二高等学校に入学、井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。


1893年東京帝国大学文科大学哲学科に入学。土井晩翠らが級友であった。徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したという。


1894年読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選[1]新聞連載された(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)。『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。


1896年に大学を卒業。第二高等学校の教授になった。


・1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行った[2]


1900年文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。


1901年、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(1901年)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。北村透谷の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。


1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与された。肺結核の病状が悪化し、東大講師を辞任、12月24日に神奈川県平塚の杏雲堂病院分院で死去。墓所は静岡市清水区龍華寺で墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。戒名は文亮院霊岱謙光日瞻居士[3]


評価
日本や中国古典に造詣が深く、の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪と呼ばれた。


日本主義、ロマン主義ニーチェ主義日蓮主義など主張の変遷が激しく、急激な近代化で変転した明治思想史の歩みを体現したともいえる。樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られた[4]


若くして亡くなった点を差し引いても、北村透谷石川啄木らと比べて思想の浅さが指摘されている。自身が病弱であったため、ニーチェの説く超人や日蓮といった強者に憧れた。その一方、民衆を弱者と決めつけ[5]社会主義に対しても弱者の思想として否定的であった。

脚注
1. 「滝口入道の作者は高山樗牛」1894年4月17日読売新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
2. 鴎外樗牛対立期谷沢永一、樟蔭国文学,17,1-10 (1979-10-10)
3. 
岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)187頁
4. 色川大吉『明治精神史』講談社学術文庫、下P133-134
5. 色川『明治精神史』下P128-129

関連項目
龍華寺

著書
・『新編倫理教科書』井上哲次郎共著 金港堂 1897

・『世界文明史』博文館 帝国百科全書 1908

・『論理学』博文館 帝国百科全書 1908

・『近世美学』編 帝国百科全書 1899

・『世界歴史譚 第1編 釈迦』博文館 1899

・『時代管見』博文館 1899

・『菅公伝』同文館 1900

・『文芸評論』博文館 1901

・『樗牛全集』全5巻 斎藤信策,姉崎正治共編 博文館 1904-1907

 第1巻 (美学及美術史)

 第2巻 文藝評論

 第3巻 (史論及史伝)

 第4巻 (時勢及思索)

 第5巻 (想華及消息)

・『樗牛全集 註釈 改訂』全7巻 姉崎正治,笹川種郎編 博文館 1925

 第1巻 (美学及美術史)

 第2巻 (文芸評論)

 第3巻 (史論及史伝)

 第4巻 時論及思索

 第5巻 (世界文明史及近世美学)

 第6巻 (想華及感激)

 第7巻 (日記及消息)

・『滝口入道』岩波文庫 1938

・『滝口入道』新潮文庫 1956

・『滝口入道』塩田良平校註 角川文庫 1958


関連人物
・実弟:斎藤野の人 - 評論家

・妻:里子 - 統計学者の杉亨二次女

・甥:齋藤求 - 画家

姉崎正治 - 『帝国文学』を共に創刊

外部リンク
高山樗牛:作家別作品リスト - 青空文庫

高山樗牛の墓(静岡市清水区 龍華寺)

書誌
(wikiより)

0507 高山樗牛


高山樗牛

94a

94b

94c

94d



有島武郎集を見ると、夫人安子が大正四年 ( 1915 ) から五年にかけて杏雲堂平塚病院の別棟病室に在ったことが載っている。


その間武郎は病妻のために、愛情を傾けつつ詩作品を書き続けた。


「平凡人の手紙」「死とその前後」をはじめ感想、日記、書翰などかなりの量である。


また、病床の夫人には「松蟲」に著がある。


「召し給ふ星のまたたく遠方へ いざわれ行かん君と別れて」は夫人が武郎に贈った絶詠である。
(案内板より)

93  Arishima_Takeo

有島武郎

93a

93b

93c

93d



村井弦斎は本名を村井寛(ゆたか)といい、1863年(文久3年)豊橋に生まれました。1904年(明治37年)から63歳で死去する1927年(昭和2年)までを現在の平塚市八重咲町で過ごしています。


生涯に60編を越える小説を書き、明治・大正期に「当世第一」と謳われた超人気作家でした。また評論においても、時代を先取りした論説を展開していました。



村井弦斎まつりの会場である村井弦斎公園には、戦災復興土地区画整理事業により村井弦斎の住居が移築され、明治のベストセラー作家のくらしを偲ばせていましたが、1968年(昭和43年)冬に火災の難に遭い焼失しました。

92a

92b

92c

92d

92e

92f



火坂 雅志(ひさか まさし、1956年5月4日 - 2015年2月26日)は、日本小説家。本名は中川 雅志(なかがわ まさし)[1]

来歴・人物

新潟県長岡市新潟市出身[2][3]長岡市立南中学校、新潟市内の公立中学校、新潟県立新潟高等学校を経て早稲田大学商学部卒業[2]


早稲田大学在学中よりサークル早稲田大学歴史文学ロマンの会に所属し、歴史文学に親しんだ。大学卒業後は、編集者として出版社に勤務し、1988年に『花月秘拳行』でデビュー[2]吉川英治文学新人賞候補の『全宗』で注目される。伝奇性の強い作品が多いが、近年は本格的な大型時代小説を発表している。主な作品に『覇商の門』『黒衣の宰相』『天地人』など。


『天地人』で中山義秀文学賞を受賞、2009年NHK大河ドラマ原作となった[2]


2014年10月に体調不良で入院[4]。2015年2月26日、急性膵炎のため神奈川県内の病院にて死去[5]。58歳没。

著書
作品
・『花月秘拳行』(1988年、講談社ノベルス)のち富士見書房時代小説文庫、角川文庫

 『花月秘拳行 2 北斗黒帝篇』(1989年、講談社ノベルス)のち時代小説文庫、「北斗秘拳行」と改題、廣済堂文庫

・『骨法秘伝』(1989年、Tokuma novels)のち徳間文庫

 『魔都殺拳 骨法シリーズ 2』(1990年、Tokuma novels)「骨法無頼拳」と改題、徳間文庫

 『骨法必殺』(1990年、Tokuma novels)

・『竜馬復活』(1991年、ノン・ノベル)のち時代小説文庫

・『戦国妖剣録』(1991年、Tokuma novels)「おぼろ秘剣帖」と改題、広済堂文庫、「おぼろ秘剣帳」学研M文庫

・『悪党伝説 外法狩り』(1991年、Futaba novels)

 『信長狩り 悪党伝説 2』(1992年、Futaba novels)「伊賀の影法師」と改題、廣済堂文庫

 『神君狩り 悪党伝説 3』(1993年、Futaba novels)

・『楠木正成異形の逆襲』(1991年、光栄、歴史ifノベルズ)

・『関ヶ原死霊大戦』(1991年、Tokuma novels)「関ケ原幻魔帖」と改題(2000年11月、ケイブンシャ文庫)

・『京都呪殺』(1991年、講談社ノベルス)のち時代小説文庫 「魔都秘拳行」と改題、廣済堂文庫

・『拳豪宮本武蔵』(1992年、Tokuma novels)のち時代小説文庫、「武蔵復活二刀流」と改題、祥伝社文庫

・『信長の密使 異聞・桶狭間の合戦』(1992年、ノン・ノベル)のち広済堂文庫、学研M文庫

・『京都秘密の魔界図 奇々怪々の13人の英雄に誰もが凍りつく』青春出版社(プレイブックス)1992 「魔界京都」青春文庫、「魔界都市・京都の謎」PHP文庫

・『神異伝 1 太子未来記』(1993年、Tokuma novels)のち徳間文庫

 『神異伝 2 闇の祭主』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 3 夢守の血脈』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 4 四海王復活』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 5 金人出現』徳間文庫

・『西行桜』(1994年、富士見書房)のち小学館文庫

・『柳生烈堂 十兵衛を超えた非情剣』(1995年、ノン・ポシェット)のち祥伝社文庫

 『柳生烈堂血風録 宿敵・連也斎の巻』(1996年、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 対決服部半蔵』(1996年7月、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 秘剣狩り』(1997年、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 開祖・石舟斎を凌いだ無刀の剣』(1999、祥伝社文庫)

・『武蔵奇巌城』(1995年、Kosaido blue books)「武蔵二刀流」と改題、学研M文庫

・『鬼道太平記 風雲児・児島高徳』(1995年、PHP研究所)「太平記鬼伝」小学館文庫

・『家康外法首』(1996年、飛天文庫)「徳川外法忍風録」と改題(2001年4月、ケイブンシャ文庫)

・『新選組魔道剣』(1996年、光文社)のち文庫、文春文庫 

・『日本魔界探検』廣済堂出版、1996 「日本魔界紀行」と改題、青春文庫

・『霧隠才蔵』(1997年、ノン・ポシェット)のち角川文庫 

 『霧隠才蔵 紅の真田幸村陣』(1997年、ノン・ポシェット)

 『霧隠才蔵 血闘根来忍び衆』(1998年、ノン・ポシェット)

・『源氏無情剣』(1997年、青樹社)「源氏無情の剣」と改題、祥伝社文庫、「もうひとりの義経」学陽書房人物文庫

・『利休椿』(1997年、実業之日本社)のち小学館文庫

・『桂篭とその他の短篇』(1998年、講談社)「桂籠」文庫、「羊羹合戦」小学館文庫 

・『伊賀の影法師』廣済堂出版、1998 「黄金の牙」と改題、学研M文庫

・『全宗』(1999年、小学館、週刊ポストBOOKS)のち文庫

・『忠臣蔵心中』(1999年、講談社)のち文庫、角川文庫

・『壮心の夢』短編集(1999年、徳間書店)のち文庫、文春文庫

・『美食探偵』(2000年、講談社)のち文庫、角川文庫 

・『尾張柳生秘剣』(2000年、祥伝社文庫)

・『覇商の門』(2001年、祥伝社)のち文庫(今井宗久

・『骨董屋征次郎手控』(2001年、実業之日本社)のち講談社文庫

・『蒼き海狼』(2001年、小学館)のち文庫

・『黒衣の宰相』(2001年、幻冬舎)のち文春文庫

・『黄金の華』(2002年、日本放送出版協会)のち文春文庫(後藤庄三郎

・『武蔵と無二斎』(2003年、徳間書店)のち文庫、小学館文庫

・『家康と権之丞』(2003年、朝日新聞社)のち文春文庫

・『骨董屋征次郎京暦』(2004年、実業之日本社)のち講談社文庫

・『虎の城』(2004年、祥伝社)のち文庫(藤堂高虎

・『茶の湯事件簿』淡交社、2004 「豪快茶人伝」角川文庫

・『沢彦』(2006年、小学館)のち文庫 

・『天地人』(2006年、日本放送出版協会)のち文春文庫 

・『戦国武将勝利の実学』勉誠出版 2006 『戦国力 逆境を生きるということ』小学館文庫 2010

・『新潟樽きぬた 明和義人口伝』小学館 2007 のち文庫 

・『臥竜の天』祥伝社 2007 のち文庫(伊達政宗) 

・『軒猿の月』短編集(2007年、PHP研究所)のち文庫 

・『軍師の門』(2008年、角川学芸出版)のち文庫(黒田孝高竹中重治) 

・『「天地人」を歩く 原作者が旅する智将・直江兼続ゆかりの地』祥伝社 2008

・『直江兼続の義と愛』日本放送出版協会 2008 のち文春文庫

・『上杉かぶき衆』実業之日本社 2009 のち文庫

・『謙信びいき』PHP研究所 2009

・『墨染の鎧』文藝春秋 2009 のち文庫(安国寺恵瓊)

・『武者の習 時代小説』祥伝社文庫 2009

・『名将の品格』日本放送出版協会 生活人新書 2009

・『業政駈ける』角川学芸出版 2010 のち文庫

・『武士の一言 逆境を打ち破った男たちの名言』朝日新聞出版 2010 のち文庫

・『真田三代』NHK出版 2011 のち文春文庫

・『西行その「聖」と「俗」』PHP研究所 2012

・『気骨稜々なり』小学館 2013(島井宗室)

・『常在戦場 家康家臣列伝』文藝春秋 2013

共著編
・『実伝直江兼続』角川文庫、2008

・『天地人の戦国乱世名将・智将の時代』井沢元彦共著 ベストセラーズ ワニ文庫 2009

・『名将名言録一日一言』編 角川学芸出版 2009「武将の言葉 決断力が身に付く180のヒント」ソフィア文庫

・『実伝黒田官兵衛』編 角川文庫 2013

・『実伝石田三成』編 角川文庫 2014

・『実伝真田幸村』編 角川文庫 2014

・『北条五代』伊東潤共著 朝日新聞出版 2020 - 火坂の急逝で未完になった作品を伊東が完成させた[6][7]

編著
・火坂雅志編『実伝 直江兼続』 (角川文庫)新人物往来社, 2008年12月発行。ISBN 9784043919048

脚注
1. “作家の火坂雅志さんが死去”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年2月27日). http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150227-OYT1T50125.html 2015年3月3日閲覧。 

2. a b c d “妻夫木聡、「天地人」原作者・火坂雅志さんに哀悼の意を捧げる<コメント全文>”. モデルプレス (ネットネイティブ). (2015年3月2日). http://mdpr.jp/news/detail/1471236 2015年3月3日閲覧。 
3. “訃報:「天地人」原作者の火坂雅志さん死去 妻夫木&常盤が哀悼”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2015年2月28日). http://mainichi.jp/sponichi/news/20150228spn00m200001000c.html 2015年3月3日閲覧。 
4. “火坂雅志さん死去 58歳、歴史小説「天地人」”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2015年2月27日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H9V_X20C15A2CZ8000/ 2015年3月3日閲覧。 
5. “【速報】火坂雅志さん死去”. 新潟日報モア (新潟日報社). (2015年2月27日). オリジナルの2015年3月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150302021023/https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20150227165850.html 2019年6月3日閲覧。 
6. “異例のリレー小説! 亡き火坂雅志氏の思い引き継いだ伊東潤氏の覚悟”. AERA dot. (朝日新聞出版). (2017年3月24日). https://dot.asahi.com/dot/2017032200088.html?page=1 2020年12月9日閲覧。 
7. “火坂雅志急逝による未完の大作を伊東潤が引き継いだ奇跡の歴史巨篇が12月7日発売!” (プレスリリース), 株式会社朝日新聞出版, (2020年12月7日), https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001115.000004702.html 2020年12月9日閲覧。 

関連項目
かぶき者 慶次

天地人 (NHK大河ドラマ)

外部リンク
歴史小説家 火坂 雅志(ひさか・まさし)
(wikiより)


84

火坂雅志

84a

84b

84c

84d




山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年明治18年〉1月5日 - 1952年昭和27年〉7月1日)は、日本ジャーナリスト改造社社長。雅号亀城

経歴
1885年(明治18年)1月、北薩川内(現在の鹿児島県薩摩川内市)にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校[1]自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。


1904年
に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業[2]。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。


1919年
(大正8年)には改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌となる。また1927年(昭和2年)、世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった『現代日本文学全集』全63巻を刊行し、それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった。1930年(昭和5年)、立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長に就任。三木武夫を入党させるなどしたが、公職追放となる[3]1951年(昭和26年)追放解除[4]。翌1952年(昭和27年)7月死去。総合雑誌『改造』は山本亡きあと、3年で労働争議の末、廃刊となる。


アルベルト・アインシュタイン
バートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した。

著書
・『政府部内人物評』政府研究会 1909

・『政界の寧馨児』博文館 1910

・『我観南国』東京堂書店 1916

・『川崎正蔵』吉松定志 1918

・『人を見よ山を見よ』吉松定志 1918

・『満・鮮』改造社 1932

・『小閑集』改造社 1934

・『蒙古』改造社 1935

・『支那』改造社 1936

・『支那事変 北支の巻』改造社 1937

・『人と自然』改造社 1937

・『大陸縦断』改造社 1937

・『興亡の支那を凝視めて』改造社 1938

・『渦まく支那』改造社 1939

・『新欧羅巴の誕生』改造社 1940

・『歐洲の現勢と獨英の將來』改造社 1940

・『蘇聯瞥見』改造社 1941

・『巨いなる歩み』改造社 1942

・『世界文化人巡礼』改造社 1948

関連書籍
松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社 2000

脚注
1. 『鹿児島大百科事典』(1981年 南日本新聞社)「川内高等学校」
2. 法政大学専門部とする資料もあるが、松原一枝『改造社と山本実彦』43pによれば、戦後公職適否審査委員会提出のために本人が書いた履歴書を見た木佐木勝が、日大卒と記入されているのを確認したという。
3. 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、690頁。NDLJP:1276156 
4. 「朝日新聞」1951年8月7日二面 「第二次追放解除者」「放送出版社役員」の部

外部リンク
山本 実彦:作家別作品リスト - 青空文庫

山本實彦顕彰委員会 - 出生地薩摩川内市で山本實彦顕彰碑建立の活動を行っている団体
(wikiより)

1803 山本実彦

山本実彦

1803a

1803b



中 勘助(なか かんすけ、1885年明治18年)5月22日 - 1965年昭和40年)5月3日)は、日本小説家詩人随筆家明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される[1][2]

生涯
幼少期
1885年明治18年)5月22日東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近[注釈 1])の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・[4][5](志やう[6]、しょう[3]、当時37歳)の五男として生まれた。出生当時、中家には両親のほか、祖母のみき(当時74歳)、次兄の金一(当時14歳)、長姉のはつ(当時7歳)、次姉のちよ(当時5歳)、寄留していた母方の伯母[注釈 2](母の一番上の姉[4][6])がいた。兄姉のうち、長兄・三兄・四兄は夭逝していた。勘助が生まれた3年後の1888年(明治21年)には妹の、翌1889年(明治22年)には末妹のやすが生まれた。


勘弥は今尾藩士として藩主・竹腰正旧に仕え、今尾藩の権大属に任命されていた。しかし、廃藩置県のため1872年(明治5年)に藩主とともに東京に移住した。勘弥は家令として竹腰正旧・正己父子に仕え、輸入商会などを営んで主家の財政再建に努めた。


1889年7月、やすが生まれる少し前に母と勘助の健康のために東京府東京市小石川区小日向水道町92番地[4][6](現・東京都文京区小日向2丁目11番地付近)の新築の家に一家で転居した。幼い勘助は、鐘が産後の肥立ちが悪く病弱だったため、代わりに伯母によって育てられた。生まれつき体が弱く、神経過敏で頭痛に悩まされる子供だった勘助は、外で遊ぶことはなく、幼少期のほとんどを伯母以外の人と接することなく育った。

学生時代
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を経て、1902年(明治35年)9月、第一高等学校に進学した。同級には、江木定男(江木鰐水の孫)、山田又吉、安倍能成小宮豊隆野上豊一郎尾崎放哉藤村操らがいた[6]。翌1903年4月には、イギリス留学から帰国した夏目漱石が講師として第一高等学校に着任し、漱石の講義を受けた。同年5月には藤村操が華厳滝から投身自殺して社会問題となった。この頃、兄・金一は子爵野村靖の娘・野村末子(当時19歳)と結婚した[4]。結婚後まもなくして金一は単身でドイツに留学した。


1904年(明治37年)には留年した岩波茂雄荻原井泉水らが同級となる。安倍や岩波などとは卒業後も交流が続いた[7]


1905年(明治38年)、東京帝国大学英文科に進学。第一高等学校と兼任で東京帝国大学でも講師として勤めていた漱石から引き続き講義を受けた。翌1906年(明治39年)10月15日、父・勘弥が死去した。1907年(明治40年)には国文科に転科している。


卒業を半年後に控えた1909年(明治42年)1月、野村靖が死去した。同月末には野村の初七日のため福岡から上京してきていた金一が、突然脳溢血を起こして倒れ、失語症などを患う重症を負う。結果として、金一は九州帝国大学での教授職を辞任せざるを得ず、小石川の自邸で末子や家族に介護されることになった。家長たる金一が倒れたことにより、事実上の次兄である勘助には金一の代わりに一家の大黒柱として家族を支えることが求められるようになった。しかし、勘助は同年7月に東京帝国大学を卒業するも、家族のいる実家に戻らず、家から逃げるように各地を転遷するようになる。

放浪生活のはじまりと『銀の匙』
大学卒業後、1910年(明治43年)に勘助は一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊するが、翌1911年(明治44年)4月に衛戍病院に入院することになり、同年6月頃には除隊となった。同年9月、除隊となった勘助は野尻湖弁天島に向かい、そこに籠もるようになる。


1912年(大正元年)夏から秋にかけて、野尻湖畔で「銀の匙」を執筆する。同年7月には、小宮豊隆の勧めで「夢の日記」を雑誌『新小説』に大内生名義で発表し、作家としての一歩を踏み出した。その後、「銀の匙」の前篇部分を書き上げた勘助は、学生時代の恩師である漱石にその原稿を送付した。「銀の匙」は漱石から高く評価され[8]、漱石の推薦もあり1913年(大正2年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上に那珂名義で連載される。


1914年(大正3年)6月末には、比叡山横川・慧心院で「つむじまがり[注釈 3]」を執筆し、同じく漱石の推薦で翌1915年(大正4年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上で連載された。

放浪と断筆の時代
勘助は『銀の匙』によって一躍注目を集める作家となったが、その後6年近くほとんど作品を発表せず[注釈 4]、作家として沈黙を保った。そして、私生活の上では病兄や老母のいる小石川の実家には戻らず、各地を転遷し続ける隠遁生活を送った。


1920年(大正9年)2月、千葉県我孫子町我孫子(現・千葉県我孫子市)の高嶌貰治郎方に仮寓。当時、近辺に居住していた志賀直哉と交流を深める。この頃から我孫子を引き払うあたりの1923年11月までの日記は、のちに日記体随筆「沼のほとり」となる。同年4月17日、「提婆達多」を脱稿した。


同年11月、兄の発病を契機とした家庭内紛糾は、最終的に勘助が生家の世話を引き受けることで一応の収束を迎える。勘助は、家の基盤を整えるための財産整理として、小石川の実家を岩波茂雄に買い取ってもらった。そのため、家族を一時的に東京府東京市四谷区元町59番地に移らせたが、勘助は家族とともに四谷には移らず、我孫子に留まった。

作家活動の再開
1921年(大正10年)5月、森田草平の紹介で新潮社から『提婆達多』を刊行したのを皮切りに、同年12月には『銀の匙』を岩波書店から刊行するなど、作家としての活動を再開した。翌1922年(大正11年)には、初めて実名の中勘助名義で「犬(未定稿)」を岩波書店から刊行されている文芸誌『思想』にて発表した。しかし、同作は性欲描写などを理由に問題視され、『思想』は発禁処分を受け、岩波茂雄が警視庁に呼び出される事態に発展した。岩波の取りなしもあり、性欲描写に該当すると指摘された箇所を伏字にする処置で一応の解決がなされた[注釈 5]。ただ、勘助が晩年「作者の本意がわからない人びとの軽蔑や、嫌悪や、邪推や、憤慨や、大変だった」[9]と述懐するほど、発禁処分を受けたという事実は周囲や世間から非難される要因となった。


1922年7月、東京府東京市赤坂区表町二丁目13番地[4](現・東京都港区[5])に家を購入し、四谷へ一時的に移していた家族を引っ越させる。四谷のときと同じくそのときは勘助は我孫子に留まった[4]が、翌1923年(大正12年)12月に我孫子を引き払い赤坂へ移った[6]


1924年
(大正13年)5月、『犬 附 島守』を岩波書店から刊行。赤坂とは別に神奈川県平塚町西海岸[4](現・神奈川県平塚市)に家族の避暑避寒のため家を建て、夏期・冬期以外を平塚の家で暮らすようになる。この平塚で暮らした期間の日記はのちに「しづかな流」となる。

平塚時代
1925年(大正14年)4月、発表していた『銀の匙』の改稿に着手する。同年7月、『沼のほとり』を岩波書店から刊行。翌1926年(大正15年)4月、改稿した『銀の匙』を岩波書店から刊行する。1928年昭和3年)、猪谷妙子(旧友・江木定男の長女、猪谷善一の妻)のために「菩提樹の蔭」を執筆し、翌1929年(昭和4年)10月には『思想』に発表した。


1931年(昭和6年)1月、この頃から和辻哲郎の長女・和辻京子のために童話『鳥の物語』の構想が生まれる。同年4月、『菩提樹の蔭』を、翌1932年(昭和7年)6月、『しづかな流』をともに岩波書店より刊行した。同年9月、平塚の家を売却し、赤坂の家に家族と同居するようになる。この頃から1936年(昭和11年)9月までの日記がのちに日記体随筆『街路樹』となる。

詩人として
1934年(昭和9年)10月、母・鐘が老衰のため死去した。同年12月、「母の死」を『思想』に発表する。『銀の匙』以来長らく小説や日記体随筆を書く作家だったが、1935年(昭和10年)に発表した詩集『琅玕』を端緒に、詩人としての文芸活動を開始した。1936年(昭和11年)に詩集『機の音』と『海にうかばん』、1937年(昭和12年)に詩集『吾往かん』、1938年(昭和13年)に詩集『大戦の詩』、1939年(昭和14年)に詩集『百城を落す』をそれぞれ岩波書店より立て続けに刊行した。

愛する人たちの死
1940年(昭和15年)、勘助とともに家族を支えてきた嫂の末子が蜘蛛膜下出血を起こして倒れる。末子を看病しながら、のちに日記体随筆となる「氷を割る」を書く。1942年(昭和17年)4月、末子が死去する。同年7月には、猪谷妙子も35歳で死去した。立て続けに愛する人たちを亡くし、勘助は病床の金一とともに残された。自身も老いてきたなかで不仲である兄の介護をひとりで行うのは困難と勘助は判断し、知人の紹介を受けて嶋田正武の娘・嶋田和子と結婚することを決意する。


1942年
(昭和17年)10月12日[注釈 6]、結婚式当日、勘助と和子の結婚式は予定通りに執り行われる運びだった。しかし、挙式当日に長い闘病生活に苦しんだ金一が自殺[注釈 7]した。当日予定通りに結婚式は挙行されている。


結婚後、末子や妙子を追慕する随筆「蜜蜂」、「妙子の手紙」を執筆する。1943年(昭和18年)5月、『蜜蜂』を筑摩書房より刊行した。

服織時代
1943年、静養のため静岡県安倍郡服織村(はとりむら)新間字樟ヶ谷(現・静岡市葵区新間)に移り、戦況の悪化にともない疎開も兼ねてしばらく移住することになる[注釈 8]1945年3月には同村羽鳥(現・静岡市葵区羽鳥本町)に移る。詩集『藁科』、随筆「樟ヶ谷」「羽鳥」など、この地を題材にした作品を著す。1945年(昭和20年)、服織で終戦を迎える。終戦後、1948年に勘助夫妻は服織を去り、赤坂の自邸が戦火に焼かれたことなどもあり、勘助は夫妻は東京都中野区新井町にある和子の実家に身を寄せる。


晩年
勘助は、和子の実家で義妹である嶋田豊子、秀とともに亡くなるまで暮らした。1949年(昭和24年)5月、『鳥の物語』を山根書店より刊行する。1951年1月、『白鳥の話』を角川書店より、同年6月に詩集『藁科』を山根書店より刊行した。


1956年(昭和31年)、胆嚢その他の病気のため東京都千代田区飯田橋にある日本医科大学附属第一病院に入院した。同年6月に退院するも9月に再入院し20日後再退院する。1958年(昭和33年)には感冒から肺炎を併発し、一時危篤となるなど、老衰から健康を損なうようになる。


1960年
(昭和35年)12月、角川書店から『中勘助全集』の刊行を開始する。当初は全11巻予定だったが、のち2巻増補され、全13巻で1965年(昭和40年)1月に完結した。同年「全集」完結と多年の業績により朝日文化賞を受賞した。


同年4月28日午前3時台、就寝していた勘助が突然大声を上げ和子を呼び起こした。そして「頭が痛い。父のようだ[注釈 9]。あわてるな! 豊[注釈 10]はすばやいから、豊を起せ。」と話したのち昏睡し、意識が戻らなくなった[12]。勘助は、すぐに日本医科大学附属第一病院に搬送されたが、病状は回復せず昏睡状態が続いた。


1965年5月3日、脳出血のため、飯田橋の日本医科大学附属第一病院で死去した。享年79歳。戒名は慈恩院明恵勘真居士[13]

略年譜
1885年

  ・5月22日 - 東京府神田区東松下町7番地今尾藩邸にて、今尾藩士の父・勘弥と母・鐘の五男として生まれる。

1889年

  ・7月 - 母と勘助の健康のため、小石川区小日向水道町に一家で転居する。

1891年

  ・4月 - 正規の学齢より1年早く市立黒田尋常小学校に入学。

1897年

  ・9月 - 城北中学校(現・都立戸山高等学校)に入学。

1902年

  ・9月 - 第一高等学校第一部に入学。

1905年

  ・9月 - 東京帝国大学文科英文学科に入学。

1907年

  ・9月 - 国文学科に転科。

  ・10月、父・勘弥が死去。

1909年

  ・1月 - 兄・金一が脳溢血で倒れて失語症など重症を負う。

  ・7月 - 東京帝国大学国文学科を卒業。

1910年

  ・12月 - 一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊。

1911年

  ・4月 - 衛戍病院に入院。2ヶ月後、除隊。

  ・夏 - 野尻湖畔の安養寺に仮寓。9月からは弁天島に籠もる。

1912年

  ・夏から秋にかけて、野尻湖畔に滞在。「銀の匙」を執筆する。

1913年

  ・4月 - 夏目漱石の推薦により「銀の匙」が「東京朝日新聞」に連載される。

1914年

  ・6月 - 比叡山横川で「銀の匙」後篇を執筆する。

1915年

  ・4月 - 「銀の匙」後篇が「東京朝日新聞」に連載される。

1917年

  ・6月 - 「漱石先生と私」を『三田文学』に発表。

1920年

  ・2月 - 千葉県我孫子町に仮寓。

  ・11月 - 生家の世話を見ることになり、財産整理のため小石川の実家を岩波茂雄に売却する。

1921年

  ・4月 - 『提婆達多』を新潮社より刊行。『銀の匙』を岩波書店より刊行。

1922年

  ・4月 - 「犬(未定稿)」を『思想』に発表し、発禁処分を受ける。

1924年

  ・5月 - 『犬 附 島守』を岩波書店より刊行。

  ・12月 - 平塚に家を建て、我孫子から転居して主にそこに暮らす。

1925年

  ・7月 - 『沼のほとり』を岩波書店より刊行。

1926年

  ・4月 - 『銀の匙』を岩波書店より再度刊行。

1931年

  ・4月 - 『菩提樹の蔭』を岩波書店より刊行。

1932年

  ・6月 - 『しづかな流』を岩波書店より刊行。

1933年

  ・4月 - 『提婆達多』を岩波書店より刊行。

1934年

  ・10月 - 母・鐘が死去。

1935年

  ・3月 - 詩集『琅玕』を岩波書店より刊行。

1936年

  ・5月 - 詩集『機の音』を岩波書店より刊行。

  ・12月 - 詩集『海にうかばん』を岩波書店より刊行。

1937年

  ・6月 - 『街路樹』を岩波書店より刊行。

  ・10月 - 詩集『吾往かん』を岩波書店より刊行。

1938年

  ・12月 - 詩集『大戦の詩』を岩波書店より刊行。

1939年

  ・9月 - 詩集『百城を落す』を岩波書店より刊行。

1940年

  ・5月 - 『逍遥』を岩波書店より刊行。嫂・末子が蜘蛛膜下出血で倒れる。

1941年  
  ・10月 - 『鳩の話』を岩波書店より刊行。

1942年

  ・3月 - 詩集『飛鳥』で筑摩書房より刊行。

  ・4月 - 嫂・末子が死去。

  ・7月 - 猪谷妙子が死去。

  ・10月12日 - 嶋田和子と結婚。同日、兄・金一が自殺。

1943年

  ・5月 - 『蜜蜂』を筑摩書房より刊行。

  ・10月 - 静岡県安倍郡服織村に疎開。

1945年

  ・3月 - 服織村羽鳥に移る。

1947年

  ・7月 - 『余生』を八雲書店より刊行。

1948年

  ・2月 - 『鶴の話』を山根書店より刊行。

  ・4月 - 東京都中野区新井町にある妻の実家に移る。

1949年

  ・5月 - 『鳥の物語』を山根書店より刊行。

1951年

  ・1月 - 『白鳥の話』を角川書店より刊行。

  ・6月 - 詩集『藁科』を山根書店より刊行。

1953年

  ・11月 - 『中勘助自選随筆集』上巻が創元文庫に入る(下巻は翌1月)。

1956年

  ・胆嚢ほかの病気のため日本医科大学附属第一病院に入院。入退院を繰り返す。

1958年

  ・2月 - 感冒より肺炎を併発し、一時危篤となる。

1960年

  ・12月 - 『中勘助全集』を角川書店から刊行開始。

1965年

  ・1月 - 『中勘助全集』完結。朝日文化賞を受賞。

  ・5月3日 - 日本医科大学附属第一病院にて死去。享年79歳。

詳しいことは、「中 勘助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%98%E5%8A%A9
(wikiより)

1801  中勘助

中 勘助

1801a

1801b



丸岡九華 ( まるおか - きゅうか )
( 1865 - 1927 )


詩人・小説家。

本名は久之助、別号は春亭・九春亭・延春亭・山茶花 ( サザンカ )・礫川 ( レキセン ) 魔王・桂堂・梅の舎薫 ( ウメヤノカオル )。

江戸生れ。

一橋高等商業学校に学ぶ。

1885年、大学予備門の学生であった尾崎紅葉の硯友社創立に参加。

1795a

1795b



渡辺 沙鷗(わたなべ さおう、文久3年12月21日1864年1月29日) - 大正5年(1916年10月15日)は、名古屋生まれの書家。名は沙鷗で、別号に飛清閣主清華道人東海道人などがある。若い頃は清華と号した。

業績
明治時代に活躍した能書で、鶴門四天王の一人。明治時代後期、を芸術に組み入れようと、「日本書道会」などで展覧会を主宰し、後人の育成にも尽力した。

略歴

文久3年12月(1864年1月)名古屋に生まれる。幼いときから書を水谷魯堂に学び、12歳のとき中京でその名も高い恒川宕谷(1819年 - 1907年)に師事した。天与の才があり、15歳にして早くも数多い門弟中、助教授に抜擢され、手本を執筆した。明治22年(1889年)上京し、日下部鳴鶴の門に入り、その後、鳴鶴の勧めで、巖谷一六中林梧竹を訪ねる。日本郵船に勤務の傍ら、鳴鶴・梧竹の益を受け、特に梧竹の書論の影響を受けた。そ
して中国の碑帖より六朝に至る古典を探究し、格調の高い独自の書風を確立した。

明治40年(1907年)7月、「日本書道会」が創立し、沙鷗は野村素軒中根半嶺久志本梅荘らとともに幹事に選ばれた。そして、明治44年(1911年)6月、沙鷗主宰の「日本書道会」第1回展覧会が、両国の回向院で開催された。40歳代に書いた楷書体の代表作『詩小雅天保』(ししょうがてんぽう)の明るく素朴な書風から、その手腕のほどが窺える。大正5年(1916年)東京にて52歳で没した。

梧竹の影響
沙鷗は『筆之友』(明治33年(1900年)に創刊された「書道奨励協会」発行の書道雑誌)で、「余の書道研究と梧竹先生の書論」と題して次のように中村梧竹の書論を紹介している。

「現今、師匠の流儀によって型の如き書で満足している者の多いのは誠に遺憾である」
「人にはそれぞれ個性がある。書には筆者の個性が表現されていなければならない」
「書に限らずすべての芸術は人格の表現である。書学を修むる者は徒らに筆論の末技のみに腐心せず、その根本たる精神修養の一大事に考え及ばねばならない」
「書の研究方法としては、日本は勿論、唐宋、六朝辺の大家の書を自分の血肉とし、その後においてはじめて自己の本領を発揮すべきである」

また、文中、沙鷗は、「梧竹先生の説に従い、先生の指導を仰ぎながらその通り学んだ」と述べている。

門人
門人に大橋不染(1873年 - 1922年)がいる。沙鷗同様、50歳という若さで他界しているが、比田井天来は、「大橋君は立派に完成して居った」と賛辞を惜しまなかったという。

関連項目
日本の書道史

参考文献
・書道専門誌 『』 - 芸術新聞社発行 - 1981年10月臨時増刊 近代日本の書

・『書道講座8 書道辞典』 二玄社発行 - 編集責任者 西川寧など - 1969年7月

季刊墨スペシャル第12号『図説 日本書道史』 - 芸術新聞社発行 - 1992年7月
(wikiより)


1769a



須藤 南翠(すどう なんすい、安政4年11月3日1857年12月18日) - 大正9年(1920年2月4日)は、伊予国宇和島出身の小説家新聞記者。本名は須藤 光暉(すどう みつあき)。妻は矢野龍渓の姪である小林シズ。息子は建築家の眞金、孫に詩人の須藤伸一がいる。

経歴
宇和島藩御目付役御軍使須藤但馬の次男として生まれる。幼名(たけし)。但馬はしばしば江戸御留守詰を勤め、孟も多く江戸麻布の藩邸に置かれた。明治になって宇和島に帰り、藩校明倫館に学ぶが、時勢に応じて教科が漢書から皇典、翻訳書、英書、国史と変転するのに、松山師範学校に転じる。八幡浜小学校に勤めるが、ほどなく土屋郁之助の偽名で東京に奔出[1]。放浪生活を経て、1877年に弾直樹と新平民学校設立を企画するが失敗する。


翌1878年に『有喜世新聞』(後の開花新聞、改進新聞)が発刊されると探訪社員として入社、やがて編輯となり、つづきもの(新聞小説)を執筆。当時の高橋お伝事件を当て込んだ、仮名垣魯文風の「夜嵐お絹」「新藁おみな」「茨木お滝」などの毒婦伝が人気を得て、読売新聞上の饗庭篁村や、岡本起泉とともに若手記者の三才子と言われた。1883年に『有喜世新聞』が廃刊になって、『開花新聞』に『千代田刃傷』『黄金花籠』を連載して人気となり、中島座片岡我当中村時蔵らによって演じられたのも評判となった。続いて『春色日本魂』、立憲改進党の立場による矢野龍渓風の政治小説『緑簑談』(『改進新聞』1886年6月1日-8月12日)、『痴人の夢』、『新粧之佳人』(『改進新聞』1886年9月29日-12月9日)が大いに人気となった[2]


1889年、饗庭篁村らとともに文芸雑誌『新小説』を創刊し、これに毎号執筆、またこの年に南翠小説集である『こぼれ松葉』を月2冊ずつ刊行するようになる。


1892年、大阪朝日新聞に招かれて大阪に移った。山師めいた広告は載せない、読み物も講談物は載せず小説も社外からは買わないなど、硬派の編集方針で、新聞の品格は大阪毎日に比べ大いに上がったが、堅苦しい紙面で販売店から苦情が出るに至った[3]。また、懇意の役者を贔屓する劇評が横行していたため、役者からの接待等を一切禁じ、記事も無署名にするなどした[4]。大阪ではあまり人気は出なかったが、『英一蝶』を中村鴈治郎が演じて当りを取った。執筆は徐々に減り、1902年に脳溢血で倒れて酒と煙草をやめて仕事もさらに減らす。1903年に大阪朝日新聞をやめて東京に戻り、『東京朝日新聞』他の新聞につづきものを掲載、また金尾文淵堂の企画「高僧伝叢書」に力を入れた。1914年(大正3年)には「家光の初恋」が澤村宗十郎によって帝劇で演じられた。


1917年頃から糖尿病、動脈硬化症にかかる。『土居通夫伝』執筆を土居剛吉郎に依頼されて、たびたび大阪に通い、1919年に土居邸で倒れて、翌春に同地にて没した。


1888年に発表した『殺人犯』は、黒岩涙香の創作探偵小説『無惨』(1889年)よりも1年早く書かれており、日本の探偵小説の嚆矢とされる。

作品
・『千代田刃傷』1883年(『開花新聞』掲載)

・『新説黄金廼花籠』1885年

・『結城合戦花鍬形』1885年 改新新聞

・『春色日本魂』1885年

・『雨窓漫筆 緑簑談』1886年

・『痴人の夢』1887年

・『春暁撹眠痴人之夢』1887年

・『新粧之佳人』1887年 正文堂

・『雛黄鸝』1888年 正文堂

・『うつし絵』1888年 正文堂

・『處世冩眞 緑箕談』1888年 正文堂

・『殺人犯』1888年 正文堂

・『慨世悲歌 照日葵』1888年 春陽堂 ; 南翠の歴史小説の集大成。矢野龍渓『経国美談』の影響が見られる[・]

・『朧月夜』1889年 同好会(『新小説』掲載)

・『心中』1889年(『華錦』掲載)

・『唐松操』1889年 文昌堂

・『隠君子』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・『みなし児』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・『金香露』1889年(『小説萃錦』掲載)

・『旭章旗』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・『冬木立』1889年 同好会(『新小説』掲載)

・隠君子』1889年

・異裡子日衣』1890年 同好会(『新小説』掲載)

・新編破魔弓』1890年 (『国民之友』掲載)

・満春露』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・行路難』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・雛遊び』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・『万春楽』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)

・『女塚』1890年(『都の花』掲載)

・『鎌倉武士』1890年(『新作十二番』掲載)

・『罔両』1891年 民友社(『国民之友』1890年、『第二国民小説』1891年掲載)

・『千人斬』1891年(『都の花』掲載)

・『臥待月』1891年 春陽堂(『聚芳十種』掲載)

・『江戸自慢男一疋』1891年 金港堂(脚本)

・『あら海実一』1892年 春陽堂

・『土佐日記千曳磐』1892年

・『黄衣香』1892年

・『草鞋記程』1892年

・『文学狂』1893年 図書出版株式会社(『改新新聞』1892年掲載「非文人」から改題)

・『試金石』1893年 金桜堂

・『江戸小町』1893年 弘文館

・『五月闇』1893年(『大阪朝日新聞』掲載)

・『現世相』1893年(『大阪朝日新聞』掲載)

・『薫衣香』1893年

・『常陸帯』1894年 春陽堂(『小説百家選』掲載)

・『かたみの松風』1894年(『大阪朝日新聞』掲載)

・『磐桃海鶴』1895年(『文芸倶楽部』掲載)
・『五月闇』1895年(『文芸倶楽部』掲載)

・『吾妻錦絵』1895年(『太陽』掲載)

・『夢魂』1895年(『大阪朝日新聞』掲載)

・『ぬれぎぬ』1895年(『大阪朝日新聞』掲載)、1897年 春陽文庫

・『当世息子』1896年 駸々堂(『大阪朝日新聞』1895年掲載「優兵士」改題)

・『黄金窟』1896年(『大阪朝日新聞』掲載)

・『今様水鏡』1896年(『文芸倶楽部』掲載)

・『蘆のかりね』1897年 春陽堂(『新小説』掲載)

・『英一蝶』1897年 青木嵩山堂(脚本、『新作文庫』掲載)

・『甘露』1897年 春陽堂(『新小説』掲載)

・『玉箒』1898年(『明治小説文庫』掲載)

・『髪結松』1900年 駸々堂

・『大探険』1902年

・『間一髪』1905年 金尾文淵堂(『東京朝日新聞』掲載)

・『鏡中蛇』1906年 樋口隆文館(『趣味』掲載)

・『狂瀾』1907年(『東京朝日新聞』掲載)

・『行春』1907年(『文芸倶楽部』掲載)

・『わくら葉』1907年(『女鑑』掲載)

・『ゆるさぬ関』1907年(『東京朝日新聞』掲載)

・『山崩』1908年 政教社(『日本及日本人』掲載)

・『榎木淵』1908年 如山堂

・『旧盧ノ梅』1908年(『女鑑』掲載)

・『新代議士』1908年(『女鑑』掲載)

・『愚禿親鸞』1909年 金尾文淵堂

・『空海』1910年 金尾文淵堂

・『法然上人』1911年 金尾文淵堂

・『蓮如上人』1912年 金尾文淵堂

・『愛妻』1912年(『淑女画報』掲載)

・『明治天皇御伝』1912年 金尾文淵堂

・『闇のうつゝ』1913年 樋口隆文館(『東京朝日新聞』1906年掲載)

・『日かげ者』1913年(『日本の婦人』掲載)

・『浮木舟』1913年

・『山本権兵衛』1914年(『文芸倶楽部』掲載)

・『石山合戦』1914年 新潮社

・『平和の犠牲』1915年(『文芸倶楽部』掲載)

・大炊殿橋』1915年(『講談倶楽部』掲載)

・『赤坂溜池』1916年(『講談倶楽部』掲載)

・『大僧正天海』1916年 冨山房

・『生肉一臠』1917年(『講談倶楽部』掲載)

・『坪内五郎左』1917年(『講談倶楽部』掲載)

・『名残の花』1917年(『史談文芸』掲載)

・『祝言を前に』1918年(『面白倶楽部』掲載)

・『達人と妙手』1918年(『面白倶楽部』掲載)

・『写真三人女』1918年(『講談倶楽部』掲載)

・『新妻』1918年 樋口隆文館

・『討入の前夜』1918年(『ポケット』掲載)

・『手束弓』1918年(『ポケット』掲載)

・『復讐菖蒲刀』1919年(『演劇講談界』掲載)

・『お菊の怨霊』1919年(『講談倶楽部』掲載)

・『萩江夫人』1919年 樋口隆文館

・『畸雄伝』1919年(『講談倶楽部』掲載)

・『一番鎗』1919年(『ポケット』掲載)

・『橋本平左衛門』1919年(『ポケット』掲載)

・『多田加助』1920年(『ポケット』掲載)

参考文献
・『明治文學全集 5 明治政治小説集(1)』柳田泉編 筑摩書房 1966年

・須藤真金「須藤南翠伝」(十川信介編『明治文学回想集(上)』岩波書店、1998年 ISBN 9784003115817

・大阪朝日新聞社員等署名帳 明治37-38

脚注
1. 中島河太郎『探偵小説辞典』講談社文庫、1998年、222p。
2. 中島河太郎『探偵小説辞典』講談社文庫、1998年、223p。
3. 『新聞記者腕競べ : 一名・応用頓智学』p189 小川定明 著 (須原啓興社, 1917)
4. 『新聞記者腕競べ : 一名・応用頓智学』p84 小川定明 著 (須原啓興社, 1917)
5. 柳田泉『啓蒙期文学』岩波書店、1959年、234p。
(wikiより)

1750a

1750b



曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、旧字体瀧澤興邦)で、後に(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさどうしゅじん)など(#名前について参照)。


代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]

名前について
幼名は春蔵のち倉蔵(くらぞう)、通称は左七郎(さしちろう)、瑣吉(さきち)。著作堂主人のほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの別号を持った。多数の号は用途によって厳格に使い分けている[注釈 1]。「曲亭馬琴」は、戯作に用いる戯号である[注釈 2]


滝沢馬琴
(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。教科書・副読本などで「滝沢馬琴」と表記するものがあるが、これは本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であるとして近世文学研究者から批判されている[5]


曲亭馬琴
という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名[6][注釈 3]、「馬琴」は『十訓抄[注釈 4]に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」[6][注釈 5]から取っていると説明している[7]。「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味の俗諺をもじったという解釈もある[8]が、青年期に武家の嗜みとしておこなった俳諧で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたもの[注釈 6]で、「くるわでまこと」を由来とするのは妄説であるという反駁がある[9]。「曲亭馬琴」と組み合わされて明記されるのは、寛政5年(1793年)の『花団子食気物語(はなよりだんごくいけものがたり)』に付された、山東京伝による序においてである[8]

生涯
生い立ち
明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。


馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。


馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。

彷徨期
天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明7年(1787年)、21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集した。また、医師の山本宗洪山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。


馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」[10]と回想している。天明5年(1785年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。

戯作者としての出発
寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。


寛政4年(1792年)3月、版元蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、に改めた。

寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている[11]。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。


結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・幸(さき)、寛政8年(1796年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。

旺盛な執筆活動
寛政8年(1796年)、30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年に耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。


享和
2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。大田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、また井原西鶴の墓を訪れたりし、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。


享和3年(1803年)には、俳書『俳諧歳時記』を出版した。2600余の季語を収集・分類して解説した事典(季寄せ)であり(俳諧連歌に関する考証や作法に関する叙述も含む)、こうした季語集を「歳時記」と称した最初の例である。馬琴の『俳諧歳時記』は、従来の季語集が京都中心の記述であったのに対して江戸中心の解説となっているという特色がある。後の嘉永4年(1851年)、『俳諧歳時記』に藍亭青藍が増補した『増補俳諧歳時記栞草』は、広く用いられた。


文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。

八犬伝
『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。


一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗ることを許された。

文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。文政3年(1820年)には宗伯が陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、宗伯は多病で虚弱であった。

文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女・幸(さき)に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。


文政7年(1824年)から翌8年(1825年)にかけ、馬琴は、山崎美成とともに文人を集めた「耽奇会」「兎園会」を主宰した。しかし、山崎美成とは「耽奇会」に出品された道具の考証をめぐって激しく対立し(けんどん争い)、絶交するに至った。これらの会の記録として馬琴は『耽奇漫録(5巻本)』『兎園小説』を著し、また独自に集めた奇談を『兎園小説』の外集・別集・拾遺・余録として編纂した。


天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞岳町)に移住することとなった。


天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。


天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。

終焉
馬琴は、お路を筆記者として、『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。


法名は著作堂隠誉蓑笠居士。墓所は東京都文京区の深光寺にある。

家族・系譜
系譜
武家出身でありながら商人となった馬琴は、寛政10年(1798年)に長兄・興旨が死亡して兄弟のうちただひとりが残されたことで、「滝沢家」の歴史とその再興を強く意識するようになった。滝沢一族と自らの歴史の記録『吾仏乃記』は、文政5年(1820年)に滝沢家の家譜が書き上げられ、その後20年間にわたって書き継がれていくことになる。


滝沢家の祖先は、最上義光の家臣・滝沢覚伝である。覚伝の孫の興也は川越藩松平信綱に仕え、信綱の四男・松平堅綱が1000石の旗本となるとその家老となった。興也は間中家から興吉を養子に迎え、興吉の子が馬琴の父・興義である。

家族
兄に興旨、興春、妹にお蘭(鈴木嘉伝次室、改名して「お秀」)、お菊がいる[12]。妻は会田氏の娘「お百」。子女は吉田新六(清右衛門)の室となった幸、祐、興継(宗伯)、渥美氏に嫁した鍬がいる[13]には興継の妻みち(土岐村路)がおり、興継・みちの子には太郎、つぎ、ちさがいる[14]


太郎は祖父と同じ「興邦」を名乗ったが、馬琴の死の翌年、嘉永2年(1849年)に没した、滝沢家は男系では絶えた。長女幸(さき)に婿として清右衛門を迎えて分家とした飯田町滝沢家も男子に恵まれず、興継・みち夫妻の長女である次(つぎ)、次いで興継・みち夫妻の次女幸(さち)の娘である橘(きつ)が、養女として迎えられて婿を取って家を継いでいる。橘の子が日本画家の滝沢邦行(静雄、1888年 - 1964年)で、馬琴から見れば玄孫にあたる。

人物
規則正しい生活
非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。6 - 8時の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側徳川斉昭考案の体操を一通りし、朝食。客間でを飲んだあと、書斎に移り、前日の日記を記したのち、執筆作業に入る。まず、筆耕者(作家著述家)から上がってきた前日の原稿のチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。そのほかにも出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆よりも校正に苦しめられた日々だったという[15]

曲亭馬琴日記
馬琴は非常に精緻な日記を書き残した。散逸や、関東大震災による焼失を経て、中年以後の日記が残っており、貴重な資料となっている。


柴田光彦校注『曲亭馬琴日記 新訂増補』が、2009年7月から中央公論新社全4巻別巻1で刊行。(旧版全4巻は暉峻康隆ほか校注で中央公論社1973年


馬琴の失明後は路が日記を代筆し、死後も書き継いだ。『路女日記』として刊行されている。

交友・対人関係
馬琴は江戸後期の化政文化を大きく担い、同時代の出版文化をめぐる人々とも様々な関係を持った。馬琴の戯作者に対する見方は、天保4年(1833年)から天保5年(1834年)にかけて執筆された戯作者の評伝『近世物之本江戸作者部類』などに記されている。『南総里見八犬伝』完結時のあとがきとして記された「回外剰筆」(天保12年(1841年)執筆)には、交友を持った人物の思い出などが語られている。

生没年はグレゴリオ暦で示した。

山東京伝(1761年 - 1816年)
「生涯」節にも既述の通り、馬琴が著作家の道を歩むにあたって京伝は大きな影響を与えた人物であり、またのちに作家として大成した馬琴と作品を競う関係となった。

山東京山(1769年 - 1858年)
京伝の弟であるが、馬琴との関係は険悪であった。馬琴は、京山が京伝死後に寡婦の百合を狂死に追いやり、家業の薬屋を乗っ取ったと見て非常に嫌悪している。京伝とその妻百合の死後の文政2年(1819年)、馬琴は京伝の評伝として『伊波伝毛乃記(いわでもの記)』を著しているが、この書の眼目は京山への非難にあると考えられる[16]。一方の京山も、1830年に鈴木牧之に送った『鳴蛙秘抄』[17]などで、馬琴が京伝から多大な恩を受けながら葬式にも来ない(馬琴側は出席したとしている)などとして「忘恩の徒」と非難している。

式亭三馬(1776年 - 1822年)
浮世風呂』(1809年)が一世を風靡した滑稽本作者であるが、目指す文芸の方向性の違いもあり、馬琴と三馬は険悪な関係にあった。『近世物之本江戸作者部類』で馬琴は「(三馬は)馬琴を憎むこと讐敵のごとしと聞こえたり」と述べている。馬琴には三馬の読本『阿古義物語』(1810年)を酷評した批評文「駢鞭」(「駢」は原文では「馬」を三つ並べた異体字であり、三馬を鞭打つという含意が明らかである)が残っている(『曲亭遺稿』所収)。『近世物之本江戸作者部類』では、「純粋の戯作者」「才子」(才に頼み古典教養がないという批判も含まれる)としつつ[18]、馬琴の書からの剽窃があることを断じるなど、三馬に辛辣な批判を加えている。

葛飾北斎(1760年 - 1849年)
馬琴作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師。二人はかなり親しく、文化3年(1806年)の春から夏にかけての3,4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたようだ[19]。文化年間の末から両者の合作は無くなったため、二人は絶交したという説もある[20]。しかし、絶交説の初出はどれも明治時代の資料であり、同時代の資料には殆ど見られない。コンビ解消の理由は、北斎の名声が上がり挿絵以外の仕事が忙しくなったためとも、二人の原稿料が上がってコストが増えたのを版元が敬遠したためとも推測される。
江戸時代の小説の挿絵は、作者が画稿(下絵)を描いて画工が完成させるもので[21]、特に馬琴の画工への注文はこだわりが多く、厳しいものであった[22][注釈 7]。北斎は凝り性で自信が強く覇気にも富んでいたため、挿絵についても馬琴の指示に従わず、自分の絵にして描いたため、しばしば衝突した[20]。馬琴の手紙によると、北斎は画中の人物の位置をよく入れ替えるので、下図に右に置きたい人物をわざと左に描いておくと、北斎は必ず右に持ってきてくれると述べている[23][20]。ただし、馬琴の書簡には北斎を賞賛する記述が散見され、その画力は後々も認めていたようだ[24]

只野真葛(1763年 - 1825年)
仙台在住。工藤平助の娘。この交流は、文政2年(1819年)に真葛が自著『独考』の添削と出版を馬琴に依頼したことではじまり、政治や経済・儒教に関し文通が行われた。真葛の儒教批判は馬琴の受け入れるところとはならなかった。しかし、出版のための校閲を促された馬琴が真葛に対して絶交を通知、批判書『独考論』を送り、交流は1年余りで終わった。
『南総里見八犬伝』の「回外剰筆」(1842年)によれば、馬琴のもとには自筆小説の批評を請うたり、入門を求める女性も多くあったらしい(ただし、馬琴は「婦女子なれば答ざりき」という)[25]。しかしその中で特に真葛の名とその学問・人柄が挙げられており、議論の書を交わした思い出が語られている[26]

蒲生君平(1768年 - 1813年)
馬琴と交友を結んでいた。君平死後、馬琴は君平の伝記として随筆「蒲の花かつみ」を著し、随筆集『兎園小説』に収めた[27]。『南総里見八犬伝』「回外剰筆」には、八犬伝を見果てずに去った往年の知音の一人として、蒲生秀実(君平)の名が挙げられている[28](ただし『八犬伝』の刊行開始は君平の死の翌年、1814年である)。『八犬伝』から尊王思想を読み解く小池藤五郎は、犬村大角のモデルは君平ではないかとしている[27]

鈴木牧之(1770年 - 1842年)
越後国小千谷の商人。のちに『北越雪譜』として結実する、地元についての随筆集の出版を目指して、江戸の出版界と関わりを持った。寛政10年(1798年)、牧之は山東京伝を頼って出版を試みたが版元が見つからず、計画は沙汰やみになった。牧之が次に頼ったのが馬琴であるが、この時馬琴は京伝との関係悪化を懸念し出版には至らなかった(出版については京伝も馬琴も乗り気であった)。京伝死後の文化13年(1813年)、牧之は再び馬琴とともに出版をめざした。馬琴はこの時期『南総里見八犬伝』を手掛けており、作中でも越後小千谷を登場させ、牧之から提供された資料を出所を記しつつ活用している。しかし馬琴が自作にかかりきりとなって『北越雪譜』出版作業は進まず、牧之は京伝の弟である京山と接近した。馬琴は態度を硬化させて牧之に原稿を返却せず、牧之は再度原稿を執筆する羽目になった。結局『北越雪譜』は天保8年(1837年)、京山の協力によって出版に至った。

渡辺崋山
(1793年 - 1841年)
三河国田原藩家老。馬琴の子である宗伯(興継。画家としての号は琴嶺)は幼少時に金子金陵に入門して画を学んでいたが、文化6年(1809年)に崋山が金陵に入門、宗伯の弟弟子となった(ただし崋山が宗伯より年上である)のが、崋山と滝沢家とのかかわりの始まりである[29]。馬琴と崋山は歳の差がありながらも友人として親しく交わり、互いに書籍を貸借する仲であった[29]。馬琴の『玄同放言』には宗伯とともに崋山が挿絵を描いている[29]。宗伯が天保6年(1835年)に没すると、崋山はその死に顔をデッサンしたが、骨格をとらえようと遺体に手を触れた崋山を馬琴は「剛毅」と評している[29]。天保10年(1839年)に発生した蛮社の獄において崋山が罪に問われ、椿椿山ら友人たちが助命嘆願に奔走した際に馬琴は同調せず、この冷淡さはしばしば批判されている[29][30]。崋山の蔵書に自分が貸した本があることを心配するなど[29]保身的な姿勢も確かであるが、馬琴なりの政治観のあらわれ(定められた法に背いたこと[30]や、陪臣の職分を越えて国事に奔走したこと[29]を非としたようである)もあるととられる。崋山自刃後は、遺された家族の冷遇に「痛むべし」と同情を寄せている[29]

木村黙老(1774年 - 1857年)
讃岐国高松藩家老。諱は亘・通明。松平頼恕に仕え藩財政再建に功績を挙げた政治家であるとともに、和漢の学問に通じて多数の著作を残し、また「俗な文学」である歌舞伎や戯作の愛好者でもあった[31]。馬琴との間では、小説作法などについての応答を交わし、書籍を貸しあう仲であった。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』の執筆(1833年 - 1834年)は黙老からの依頼がきっかけで、『作者部類』に記載された「風来山人」こと平賀源内(1728年 - 1780年。高松藩出身)についての情報の一部は、黙老の随筆集『聞まゝの記』から移されたものである[32]
「八犬伝第九輯下套下引」(天保10年/1839年)などで、馬琴が遠方に住まう数少ない友人として挙げる木村黙老・殿村篠斎・小津桂窓は、「三友」と呼ばれる[33]:26。さらに石川畳翠を加えて「四友」という。

殿村篠斎(1779年 - 1847年)
伊勢国松坂在住の木綿問屋の主人で、本居宣長門下の国学者。号は三枝園主人。馬琴とは長く文通を続けた。馬琴は「吾が知音の友」[34]と記している。『犬夷評判記』(文政元年/1818年)は南総里見八犬伝と『朝夷巡島記』の批評で、弟の櫟亭琴魚と著し、馬琴が回答を寄せるという形で刊行した。

櫟亭琴魚(1788年 - 1831年)
殿村篠斎の弟。戯号の「琴」は馬琴にあやかったものである(馬琴自身には門人を取る考えはなかった)。『窓蛍余談』『青砥石文』などの著作がある。交友関係の長く続いた人物であるが、40歳あまりで死去した[35]

小津桂窓(1804年 - 1858年)
伊勢国松阪の豪商。名は久足。本居春庭に師事して国学・和歌を学び、「西荘文庫」を擁した書籍収集家として知られるとともに[33]:17、多くの紀行文を著した紀行家でもある[33]:17。文政11年(1828年)12月に桂窓が馬琴を訪問したのが初対面であるが、当初の交流は仲介に立った篠斎の体面を潰さない程度の形式的なものであったようである[33]:18。天保3年(1832年)、商用で江戸に出た桂窓は馬琴を5度訪問し、長時間ひざを突き合わせた[注釈 8]。また蔵書の貸与を行って馬琴の誤謬に気付かせる[注釈 9]などしたことから認識が改まり、同年11月の篠斎宛の手紙で馬琴は桂窓の才能と見識を高く評価した[33]:18。天保4年(1833年)、桂窓が紀行文「梅桜日記」を馬琴に送ると、容易に他人を褒めることがない馬琴が最大級の評価を与え、文筆家としての才能も認めた[33]:23。馬琴と桂窓は以後終生の知友となった[36]。天保7年(1836年)に馬琴が経済的に窮した際には、蔵書を買い取るなどパトロン的な役割も果たした[33]:17

石川畳翠(1807年 - 1841年)
三千石取りの旗本で、通称は左金吾。馬琴の愛読者で、篠斎・桂窓・黙老とともに馬琴に「四友」と呼ばれた。これら「四友」たちは馬琴の著書に対する批評と、それに対する馬琴の答評を合わせた書籍を出しており、石川畳翠も『八犬伝畳翠君評』などを手掛けている。『八犬伝』完結を前に死去し、馬琴は「広き大江戸に、知音の友は地を払て、今は一人もあらずなりぬ」(友は篠斎・桂窓・黙老といった遠方の人ばかりになった)と嘆いている[37]

詳しいことは、「曲亭馬琴ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%90%B4
(wikiより)

1740 滝沢馬琴

滝沢馬琴

1740a

1740d

1740b

1740c

1740e

⇧⇩ 長男の妻であった路女 ( みちじょ ) のお墓 路女は路霜大姉の法名をいただき、馬琴の墓の後ろに眠る。
( 左端の法名が路女 )

1740f

1740g



円城寺清 ( えんじょうじ - きよし )
明治 3年 11月 ~ 明治 41年 10月 21日 ( 1870 ~ 1908 )


佐賀小城生まれ。

政論記者。

明治 22年 ( 1889 ) 東京専門学校の邦語政治科に入学し、25年 ( 1892 ) に卒業。

大隈派の新聞だった郵便報知新聞に入るが、立憲改進党党報局に迎えられる。

同党が分裂の後、憲政本党党報の主任記者、32年 ( 1899 ) に万朝報の論説記者となり、行動する言論人として知られた。

著作に『大隈伯昔日譚』 ( 1893 ) 『地租全廃論』 ( 1903 ) などがある。

1739 円城寺清

円城寺清

1739a

1739b



みんな雑草 みんな花 みんな雲
               
                       丈雄


高橋丈雄 劇作家 ( 1906 - 1986 )


代表作 
明治零年 ( 文部大臣賞受賞 )

死なす

祈りと怒り

鉄砲紀

鳥と詩人

人間釈尊
ラジオドラマなど多数

劇団かもめ座結成
文芸誌 アミーゴ創刊

愛媛の演劇文学振興に功績を残す。
(碑文より)

1723 高橋丈雄

高橋丈雄

1723a

1723b

1723c

1723d

1723e

1723f



 このお墓は、2011年に青山霊園から神奈川県久保山墓地へ改葬されました。


吉田 健一(よしだ けんいち、1912年明治45年)4月1日 - 1977年昭和52年)8月3日)は、日本文芸評論家英文学翻訳家小説家。父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。

誕生日については、戸籍上は4月1日だが、吉田家では3月27日に祝っていた。ケンブリッジ大学中退。英文学、フランス文学を中心としたヨーロッパ文学の素養をもとに、評論や小説を著した。また、イギリス文学の翻訳も多数行っている。父と親交の深かった長谷川如是閑の肝いりで、中央大学文学部教授(英文学)を一時期務めた。

来歴・人物
1912年(明治45年)、東京千駄ヶ谷宮内省官舎に生まれた。父の茂は当時外交官としてヨーロッパにおり、母雪子も出産後茂の元へ向かったため、健一は6歳まで母方の祖父でもある牧野伸顕に預けられた。1918年大正7年)、4月、学習院初等科に入学したが、父に随い青島へ行き、その後、1919年パリ1920年ロンドンに赴く。ストレタム・ヒルの小学校に通う。1922年天津に移り、イギリス人小学校に通う。1923年(大正12年)、夏休みの一時帰国時に箱根に滞在。大震災の影響を免れる。1926年(大正15年)、天津の学校より暁星中学へ2年次編入、1930年(昭和5年)3月に同校を卒業し、10月、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学した[注釈 1]。同カレッジのフェロウであるG・ロウェス・ディッキンソン英語版F・L・ルカス英語版らに師事。また同カレッジの学生監ジョージ・ライランズ英語版ジョン・ダン講義などに出席。ケンブリッジ時代に、それまでもあった濫読癖が刺戟され、ウィリアム・シェイクスピアシャルル・ボードレールジュール・ラフォルグなどに熱中した。しかし、1931年(昭和6年)3月に急遽中退、帰国[注釈 2]。同年、親戚[注釈 3]の病気見舞に行き、河上徹太郎と識り、以後河上に師事した。しばらくしてアテネ・フランセへ入り、フランス語ギリシャ語ラテン語を習得した。


1935年(昭和10年)6月アテネ・フランセを卒業。同年、ポーの『覚書』の訳を刊行、その後『文學界』への寄稿を始め、当初はフランス文学翻訳やフランスの時事文化の流行紹介を行う。1937年(昭和12年)夏、中村光夫と識る[注釈 4]1939年(昭和14年)1月、最初の評論「ラフォルグ論」を文學界に掲載。同年7月より祖父・牧野伸顕の談話記録を「松濤閑談」の題で文藝春秋に連載。同年8月、中村光夫や山本健吉らと同人誌批評』を創刊。1941年(昭和16年)5月、野上豊一郎彌生子夫妻の媒酌で大島信子と結婚。同年12月より『批評』にヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説」翻訳を連載。1944年(昭和19年)5月の発行で『批評』を表向き廃刊とする。1945年(昭和20年)5月に、海軍横須賀海兵団に二等主計兵として一度召集されるも、そのまま敗戦復員し福島に住む。同年10月上京。1946年(昭和20年)5月に鎌倉市に転居。7月より牧野伸顕の談話記録『回顧録』を、中村光夫と協力し文藝春秋に掲載(文藝春秋新社で出版。年譜作成は従叔父の大久保利謙。のち中公文庫で再刊)。1948年(昭和23年)に中村光夫、福田恆存と3人で始めた各界の専門家を客人として招いた集いが「鉢の木会」に発展する。


1949年(昭和24年)4月、國學院大學非常勤講師となる[注釈 5]。同年5月より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[注釈 6]1951年(昭和26年)5月、チャタレイ裁判の弁護側証人として法廷に立つ。1953年(昭和28年)1月、東京都新宿区に転居。同年8月に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1958年(昭和33年)10月、同人雑誌『聲』発刊に参加[注釈 7]1960年(昭和35年)2月、河上徹太郎と金沢へ。以後吉田死去の年までの年中行事となる。同年12月、亀井勝一郎編集『新しいモラルの確立』に「信仰への懐疑と否定」を掲載[注釈 8]1963年(昭和38年)4月から1970年(昭和45年)3月まで中央大学文学部教授。1969年(昭和44年)7月より雑誌『ユリイカ』にて「ヨオロツパの世紀末」を連載[注釈 9]


以後毎年多数の著作を刊行し続けていたが、1977年(昭和52年)にヨーロッパ旅行中に体調を崩し帰国即入院、回復退院しまもなく新宿区の自宅で亡くなった。戒名は文瑛院涼誉健雅信楽居士[1]。現在は、娘の暁子(主にフランス語書籍の翻訳に携わる)が居住している。[2]


主な交友関係には戦前からは河上や中村光夫・横光利一の他に石川淳・大岡昇平・小林秀雄白洲正子福原麟太郎・福田恆存、戦後は三島由紀夫・ドナルド・キーン篠田一士丸谷才一らがいる。


ただし三島とは、1960年代前半に仲違いしている。一説によると、三島が新居に移った時、部屋に置いてある家具の値段を吉田が大声で次々と値踏みしたのがきっかけだったともいう。また、ジョン・ネイスン『三島由紀夫-ある評伝』(新潮社)によると、「鉢の木会」の月例会の席上、三島の書き下ろし長編『鏡子の家』を、その面前で「こんなものしか書けないんだったら、会からは出てもらわなくちゃな」と酷評した事も大きいとされる。さらに、三島がモデル小説『宴のあと』に関して有田八郎と揉めた際、有田と旧知の間柄(有田は父・茂の元同僚)だった吉田が、間に入り事態の収拾にあたった事を三島が悪く取ったためとも言われている。


戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、母・雪子の死(1941年10月7日。53歳)後に父が長年関係があった新橋芸者(「こりん」、本名は坂本喜代(のち喜代子と称する))を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。「佐藤栄作日記」によると、父の没(1967年)後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。


父の影響もあってシェリー酒が大好きで『饗宴』の中には現存する銘柄も多く挙げられている。またその手軽さから遠方への移動にもシェリー酒を持参。「汽車旅の酒」には、その好きな様子が描かれている。

受賞歴
・1957年(昭和32年) 『シェイクスピア』で読売文学賞(文芸評論部門)

・1957年(昭和32年) 『日本について』で新潮社文学賞

・1970年(昭和45年) 『ヨオロッパの世紀末』で野間文芸賞

・1971年(昭和46年) 『瓦礫の中』で読売文学賞(小説部門)

著作
・『英国の文学』(雄鶏社[注釈 10] 1949年(装幀青山二郎)、創元文庫 1951年、新潮文庫 1954年/定本・垂水書房 1963年、岩波文庫 1994年)

・『シェイクスピア』(池田書店 1952年、増補版・垂水書房 1956年、新潮文庫 1961年・復刊1994年)

・『宰相御曹司貧窮す』(文藝春秋新社 1954年)。私家版限定30部の標題は『でたらめろん』

・『東西文学論』(新潮社〈一時間文庫〉 1955年、のち垂水書房/「日本の現代文学」と併せ 講談社文芸文庫)

・『随筆 酒に呑まれた頭』(新潮社 1955年)、増補版・番町書房(正・続)、ちくま文庫(新編)- 短編も収録

・『文学あちらこちら』(東方社 1956年)

・『乞食王子』(新潮社 1956年、のち垂水書房、番町書房、講談社文芸文庫)

・『三文紳士』(宝文館 1956年、のち垂水書房、筑摩書房、講談社文芸文庫)

・『近代文学論』(垂水書房 1957年)

・『文学人生案内』(東京創元社 1957年、のち垂水書房、講談社文芸文庫)

・『英語上達法』(垂水書房 1957年、のち改訂版)

・『甘酸っぱい味』(新潮社 1957年、ちくま学芸文庫 2011年)

・『日本について』(大日本雄弁会講談社 1957年)

・『酒宴』(東京創元社 1957年、垂水書房 1966年/「金沢・酒宴」 講談社文芸文庫)- 短編集

・『舌鼓ところどころ』(文藝春秋新社 1958年、のち中公文庫)

・『英国の文学の横道』(講談社 1958年、垂水書房 1967年、のち講談社文芸文庫)

・『作法無作法』(宝文館 1958年、垂水書房 1963年)

・『ひまつぶし』(講談社 1959年)、題字・井伏鱒二

・『英国の近代文学』(垂水書房 1959年 新版1964年、筑摩叢書 1974年、岩波文庫 1998年)

・『日本の現代文学』(雪華社 1960年 新版1978年、のち垂水書房、講談社文芸文庫)

・『近代詩について』(垂水書房 1960年 新版1966年)

・『頭の洗濯』(文藝春秋新社 1960年、番町書房 1976年)

・『英語と英国と英国人と』(垂水書房 1960年 新版1965年、のち講談社文芸文庫)

・『シェイクスピア物語』(垂水書房 1960年)

・『文学概論』(垂水書房 1961年、講談社文芸文庫 2008年)

・『随筆英語上達法』(垂水書房 1961年)

・『文句の言ひどほし』(朝日新聞社 1961年)

・『日本語と日本と日本人と』(垂水書房 1961年)

・『色とりどり』(雪華社 1961年)

・『書き捨てた言葉』(垂水書房 1962年)

・『横道にそれた文学論』(文藝春秋新社 1962年)

・『不信心』(朝日新聞社 1962年)

・『新聞一束』(垂水書房 1963年)

・『残光』(中央公論社 1963年)

・『わがシェイクスピア』(垂水書房 1963年)

・『吉田健一随筆集』(垂水書房 1963年)

・『謎の怪物・謎の動物』(新潮社 1964年)

  ・改訂改題 「未知の世界」(図書出版社 1975年/「私の古生物誌」 ちくま文庫 1989年)

・『大衆文学時評』(垂水書房 1965年)

・『感想 A・B』(垂水書房 1966年)

・『文学の楽しみ』(河出書房新社 1967年、河出文芸選書 1976年、講談社文芸文庫 2010年)

・『落日抄―父・吉田茂のこと 他』(読売新聞社 1967年)

・『余生の文学』(新潮社 1969年)

・『瓦礫の中』(中央公論社 1970年、のち中公文庫)‐ 長編小説 第1作

・『ヨオロッパの世紀末』(新潮社 1970年、筑摩叢書、1997年、岩波文庫、1994年)

・『作者の肖像』(読売新聞社〈読売選書〉 1970年)

・『吉田健一全短編集』(読売新聞社 1971年)、全18編

・『絵空ごと』(河出書房新社 1971年、河出文芸選書 1977年/「絵空ごと・百鬼の会」 講談社文芸文庫+ワイド版)- 長編小説

・『私の食物誌』(中央公論社 1972年、のち中公文庫)

・『文学が文学でなくなる時』(集英社 1972年)

・『本当のような話』(集英社 1973年、のち集英社文庫、講談社文芸文庫)‐ 長編小説

・『書架記』(中央公論社 1973年、中公文庫 新版2011年)

・『金沢』(河出書房新社 1973年、のち「金沢・酒宴」講談社文芸文庫)‐ 長編小説

・『文明に就て』(新潮社 1973年)

・『ヨオロッパの人間』(新潮社 1973年、講談社文芸文庫 1994年)

・『交遊録』(新潮社 1974年、講談社文芸文庫 2011年)‐限定版500部刊行

・『英国に就て』(筑摩書房 1974年、ちくま文庫 1994年、ちくま学芸文庫 2015年)

・『日本に就て』(筑摩書房 1974年、ちくま学芸文庫 2011年)

・『酒肴酒』(正・続)(番町書房 1974年、のち光文社文庫)- 新編再刊

・『東京の昔』(中央公論社 1974年、のち中公文庫、ちくま学芸文庫 2011年)- 長編小説

・『埋れ木』(集英社 1974年、河出文庫 2012年)- 長編小説

・『覚書』(青土社 1975年)

・『詩と近代』(小澤書店 1975年)

・『言葉といふもの』(筑摩書房 1975年)

・『本が語ってくれること』(新潮社 1975年)

・『詩に就て』(青土社 1975年)

・『英語 英文学に就て』(筑摩書房 1975年)

・Japan is a Circle - A tour round the mind of modern Japanese -(1975, Kodansha International Ltd.) 。

  ・『まろやかな日本』(幾野宏訳、新潮社 1978年) - 著作の訳書

・『旅の時間』(河出書房新社 1976年、講談社文芸文庫 2006年)- 短編集全10編

・『時間』(新潮社 1976年、講談社文芸文庫 1998年/新装版・青土社 2012年)

・『時をたたせる為に』(小澤書店 1976年)

・『定本 落日抄』(小澤書店 1976年)

・『昔話』(青土社 1977年、講談社文芸文庫 2017年)

・『思ひ出すままに』(集英社 1977年、講談社文芸文庫 1993年)

没後刊行
・『変化』(青土社 1977年、新装版2012年)[注釈 11]、解説中村光夫
・『怪奇な話』(中央公論社 1977年、中公文庫、1982年)‐短編集
・『道端』(筑摩書房 1978年)‐短編集
・『春 その他』(小澤書店 1978年)
・『読む領分』(新潮社 1979年)- 書評・解説集
・『饗宴』(ロングセラーズ「あまカラ選書」、1977年)- 新編再刊
・『日本のよさ』(ゆまにて 1977年)‐新編再刊
・『吉田健一集 現代の随想30』(彌生書房 1980年)- 中村光夫編
・『吉田健一 饗宴ほか』(国書刊行会〈日本幻想文学集成16〉 1992年)- 富士川義之
・『吉田健一 友と書物と』(みすず書房〈大人の本棚〉 2002年)- 清水徹
・『旨いものはうまい』(角川春樹事務所〈グルメ文庫〉 2004年)‐ 吉田暁子・解説
・『酒肴酒』(光文社文庫、2006年)- 新編再刊
・『シェイクスピア・シェイクスピア詩集』(平凡社ライブラリー 2007年)- 清水徹・解説
・『ロンドンの味 吉田健一未収録エッセイ』(講談社文芸文庫 2007年)- 島内裕子編・解説
・『おたのしみ弁当 吉田健一未収録エッセイ』(講談社文芸文庫 2014年)‐ 島内裕子編・解説
・『英国の青年 吉田健一未収録エッセイ』(講談社文芸文庫 2014年)‐ 島内裕子編・解説
・『汽車旅の酒』(中公文庫 2015年)- 長谷川郁夫・解説
・『酒談義』(中公文庫 2017年4月)- 観世栄夫・回想
・『舌鼓ところどころ/私の食物誌』(中公文庫 2017年5月)- 辻義一・回想
・『わが人生処方』(中公文庫 2017年6月)- 吉田暁子・松浦寿輝対談
・『父のこと』(中公文庫 2017年9月)- 吉田暁子・解説、「大磯清談」を併録、吉田茂没後50年記念出版

詳しいことは、「吉田健一ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%80_(%E8%8B%B1%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85)
(wikiより)

1655  吉田茂

吉田健一

1655a

1655b



幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日慶応3年7月23日) - 1947年昭和22年)7月30日)は、日本小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん[1])、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文随筆家・小説家。高木卓の伯父。


『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。

生涯

1867年8月22日慶応3年7月23日)、武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)に、四男として生を受ける。父は幕臣幸田利三(成延(しげのぶ))で、母は猷(ゆう)。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆であった[2]。幼名は鉄四郎[2]。 もともと病弱であり、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼時は何度も生死の境をさまよったことがあった。翌年、上野戦争が起こったため、浅草諏訪町に移る。


下谷に戻った後、神田に落ち着いた。下谷泉橋通りの関千代(書家関雪江の姉)の塾で手習い、御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。1875年明治8年)、千代の勧めで東京師範学校附属小学校(現・筑波大附属小)に入学。このころから草双紙、読本を愛読するようになった。


卒業後の1878年(明治11年)、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。尾崎紅葉上田萬年狩野亨吉らと同級生であった。のちに家計の事情で中退し、数え年14歳で、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学。東京府図書館に通うようになり、淡島寒月を知った。また兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、遅塚麗水とともに漢学、漢詩を学んだ。


数え年16歳の時、給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任。現地の芸者衆に人気があったと伝えられるが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。そのせいもあり、1887年(明治20年)職を放棄し帰京[2]。この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材である。また、道中に得た句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から「露伴」の号を得る[3]


免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で井原西鶴を愛読した。この頃「好色五人女」の写本を書いている[4]1889年(明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された[5] 。これが山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立する。


1894年
(明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚。それ以降の数年で『ひげ男』(1896年)『新羽衣物語』(1897年)『椀久物語』(1899年1900年)を発表。また当時としては画期的な都市論『一国の首都』(1899年)『水の東京』(1901年)も発表する。


この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鷗外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。


1904年
(明治37年)、それまで何度も中絶のあった「天うつ浪」の執筆が途絶えた。これ以後、主に史伝の執筆や古典の評釈に主眼を移した。史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがある。一方、井原西鶴や『南総里見八犬伝』を評釈し、沼波瓊音太田水穂ら芭蕉研究会の6人との共著『芭蕉俳句研究』を出した。1920年大正9年)には『芭蕉七部集』の注釈を始め、17年かけて晩年の1947年昭和22年)に評釈を完成させている。


1907年
(明治40年)、の伝奇小説『遊仙窟』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。


露伴の指導を仰いだ青木正児によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美は翌1910年に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。


しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表し、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は谷崎潤一郎らの絶賛を博したが、高島俊男は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては南條竹則が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの『道教』と並んで未だに道教研究の古典として名高い。

1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日肺炎狭心症を併発し[6]、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満79歳で没。

葬儀は、三間しかない小さな自宅でささやかに行われたが、片山哲(現職首相)と安倍能成が出席、衆議院参議院からは弔詞が捧げられた[7]。墓所は池上本門寺戒名は、露伴居士。死後、墨田区寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。 この公園は、2020年現在も「墨田区立露伴児童遊園」として現存する[8]

家族・親族・

露伴は幸田成延、猷夫妻の四男である。長兄の成常は実業家で相模紡績専務などを務めた。次兄の成忠(しげただ)は海軍軍人、探検家で、郡司家へ養子に出された。弟は歴史家の成友(しげとも)で、妹の(のぶ)はピアニスト・バイオリニスト、(こう)はバイオリニストである[2]


幸田家は法華宗を宗旨としていたが、罷免された成延が延の学友である岩城寛と植村正久の勧めによりキリスト教へ改宗、他の家族も入信させた。余市の赴任から帰京した露伴も植村に改宗を勧められたが、これを拒絶している。そのため父母兄弟の中で露伴だけがキリスト教徒ではない。


数え年29歳の時に山室幾美(きみ)と結婚。よき理解者であり、長女歌、次女、長男成豊(しげとよ)が生まれた。幾美は1910年(明治43年)にインフルエンザで亡くなり、その2年後の1912年(大正元年)に歌が若くして亡くなる[2]。この年キリスト教徒の児玉八代(やよ)と再婚している。文は八代の計らいでミッション系の女子学院へ通った。1926年(大正15年)、成豊が肺結核で亡くなる[9]。八代は1933年(昭和8年)から別居し、1945年(昭和20年)に亡くなった[2]


文は、露伴の死の直前に随筆を寄稿し[10]、さらに露伴没後には父に関する随筆で注目を集め、その後小説も書き始め作家となった 。文の一人娘青木玉も随筆家、またその子青木奈緒はドイツ文学畑のエッセイストである。

その他
1897年(明治30年)から約10年間住んでいた「向島蝸牛庵」(東京府南葛飾郡寺島村)は、博物館明治村に移設保存されており、登録有形文化財(建造物)である[11][12]


未来学者としての一面も持ち合わせており、1911年に発表された『滑稽御手製未来記』では無線送電動く歩道モノレール電気自動車等が記されていた。

主な作品
露伴全集』は生前に弟子の漆山又四郎を中心に編まれた。没後は塩谷賛等により2度にわたり全集(岩波書店、第2次版(全44巻)は増補巻を追加し1978年から80年にかけ刊)が編まれた。

小説

・露団々(1889年、金港堂)


・風流仏(ふうりゅうぶつ)(1889年9月「新著百載」。1889年、吉岡書籍店) - 若い彫刻家珠運は、修行のため奈良に行く途中、木曾須原の宿で、花漬売お辰に熱烈に恋をする。宿の主人の助力で、邪悪な伯父からお辰をすくい、主人がなかに立って2人の婚礼の日、お辰のまだ見ぬ父の使いが来て、お辰を連れて行く。お辰の父は華族で政府の顕官、維新のときに京都の愛妓に生ませたお辰をさがしていた。お辰は父の命に背けず、心ならずも須原の地を去る。残された珠運が絶望の淵に沈むのを、宿の主人がなぐさめて、腕いっぱいの彫刻を作ってはと白木の檜板をくれる。珠運はお辰を神化した女神像を刻み、ある日、新聞でお辰が華族と結婚したと知り、怒りから像を砕こうとすると、なんと像が珠運に微笑し話しかける。気の迷いとふたたび壊そうとすると、玉の腕で温く珠運を抱き、髪の毛も匂やかに頬をこするので、はっとしてお辰かとおもわず抱き締める。「彫像がうごいたのやら、女が来たのやら、問はば拙く語らば遅し、玄の又玄、摩訶不思議」。


・縁外縁(1890年1月、「日本之文華」に掲載。6月「対髑髏(たいどくろ)」と改題して短篇集『葉末集』に収録) - 明治22年4月ころ、「露伴」は病気になり、中禅寺の奥、白根嶽の下、湯の湖のほとりで静養する。病気が治り、同じ道を引き返すのもいとわしく、血気に任せて金精峠という木叢峠をめざして分け登る。雪はまだ深いうえに、道に踏み迷い、ようやく目指す湖のほとりに来るころには、日はとっぷりと暮れている。足は痛み、雪沓は破れ、困り果ててたたずみ、ふと灯火を見つけて、たどり行くと、その家は、お妙という美女の独り住まい。泊まりを許されて、一夜、女の昔語りを聞く。彼女は東京の豪家の育ちであるが、早くに父を亡くし、18歳で母も亡くす。悲しみも失せぬ彼女の上には縁談が降るようで、そのなかで或る貴公子に深く思われ、彼女も嫌いではないが、亡母の遺言を守り、心を鬼に結婚を拒む。彼女に焦がれ死にしそうになった貴公子の臨終の際に、一目見てから男が恋しくなり、悲しみのあまり狂いだし、この山中に迷い入り、或る高僧に巡り会い、悟りを開き、ここに草庵をむすんだという。朝日紅々とさしのぼり、家も人も雲霧と消え去り、枯れ残った去年の萱薄のなかにただひとり、足下には白い髑髏が1つ転がっている。村里に下り、温泉宿の主人にきくと、去年、気の狂った癩病の女乞食が、山に入って帰らないが、たぶんその女が山中で死んだのであろうという。


・いさなとり(1891年前編、1892年後編、青木嵩山堂


五重塔(1892年、青木嵩山堂『小説 尾花集』収録)


・風流微塵蔵(ふうりゅうみじんぞう)(1893年 - 1895年「国会」に連載。未完。第1巻1895年12月刊、第2巻1896年2月刊、第3巻4月刊、第4巻8月刊) - 卯月なかば、豊前小倉在の禅僧栽松道人が青柳村をひょっこり訪れる。彼はもと久留里の藩中の良い家柄の生まれであったが、若気の至りで家出して、漂白のあげく僧になった。25年ぶりの故郷には、叔母おとわがいるだけ。昔話ののち、評判の美人だった真理谷お静のことにふれると、僧の顔色が一変する。自分の家の後裔にしようと思っている玉之助のことで、お静に相談したいと出かけるが、お静に会わずに立ち去る。おとわは裁松と別れてから、老衰し、無慈悲な養子新右衛門の後妻お力のために虐待され、孫新三郞が祖母を守ろうとするそのけなげな姿を、親戚のお静があわれみ、新三郞を養子にむかえ、ゆくゆくはお小夜と結婚させたいと申し込む。お静の家では、江戸に遊学していたお静の兄の子雪丸が帰っていて、もう学問はつまらない、これから中国大陸へ出かける、と語り、お静の説諭もきかず、いきおいよく家を飛び出す。雪丸が希望どおり中国にわたるとき、お静は雪丸に同情し、老僕を横浜に送り、固辞する雪丸に旅費として300円を贈る。雪丸が埠頭に出ると、若い女が駆けつけ、別れを惜しみ、雪丸は彼女にかねを与え、そっけなく袖を振り払って出発する。おとわは新三郞とともにお静のもとに引き取られ、病死し、新三郞は父の家に引き戻されるが、邪魔者扱いされ、江戸の商家へ奉公にだされる。金仙寺の栽松が話していた玉之助は、小坊主玉山となって、海音禅師に仕えていたが、絵は天才的である。玉山がたびたび使いに行く筆屋の主人正太郎は25歳、両親に死別して以来、丁稚とふたりで商売に励んでいた。近所の世話好きな老婆がしきりに結婚を勧めるので、迷った末にその婆の姪おはつと結婚した後、おはつが新入りの弟子と恋仲であったことなどが判明し、別れた。玉山はそのことを知り、諷した「ゑしやじやうりの図」を金仙寺の壁に落書きする。新三郞は江戸に出て、阪本屋に奉公する。その主人喜蔵は先代のとき番頭から出世したなかなかのしっかり者だが、田舎者の新三郞は何事にも慣れず、辛い思いをしつつ日を過ごす。先代の喜蔵は、番頭喜蔵を娘おこのの夫にと遺言して死亡したが、美しいおこのは早くから美男の手代栄吉と恋仲で、母と一緒になって喜蔵を追い出すが、栄吉は商売にうとく、家運もかたむき、江戸にいられず、姉お須磨・弟栄太郎を連れて栄吉の故郷浦和へ引っ込むが、ますます困窮し、栄吉は病死し、お須磨は家のためやむなく酌婦になり、おこのは勇造に横恋慕され脅され、自殺未遂するが、栄太郎がたまたま姉お須磨を千住に訪ねたとき、路上で義賊蠣崎十郎にすくわれ、十郎の言うまま江戸へ出て、阪本屋喜蔵(前の番頭で旧主ののれんを継いでいたもの)の家に忍び込む。十郎は大金を盗み、そのかねで栄太郎および姉お須磨をすくうことにしたとき、悪事が露見し、栄太郎が捕まる。お須磨は酌婦業から十郎によってすくわれ、ひさしぶりの一家団欒のとき、十郎が来て母子に150円をわたし、東京へ出るように勧めて姿をくらます。十郎は栄吉の兄弟分であった。栄太郎は喜蔵の努力で釈放され、おこのは、喜蔵が栄太郎と知って故意に訴えたものと誤解し、そのまま別れる。(未完)


・ひげ男(1896年、博文館


・新羽衣物語(1897年8月、村井兄弟商会) - たばこの新製品の景品として公刊された。


・天うつ浪(1903年1月 - 05年1月、春陽堂) - 水野はことし24歳、東京市外のとある小学校に勤め、もともと詩人肌で、まじめなしっかり者だ。水野が同じ学校の、才気と美貌の女教師岩崎五十子に恋しているが、五十子はきらっているようにみえる。五十子の継母はわざと水野にこびてときどき小遣いをもらったりする。五十子が腸チフスにかかると、継母は世話をせず、水野だけが心配し、遠くから名医を呼んだり、100円余の療養費をつくったり、徹夜で看護したり。五十子はそれでも水野に好意をもたないが、水野はますます愛を深め、完治を浅草観音に祈ったりする。継母の家にいるお龍という女が見舞いに来て、水野の親切に感動する。のちにお龍は、浅草観音参詣の水野にあい、姉のようにしているお彤といっしょに水野とかたらう。いっぽう五十子は病気がよくなっても冷たいままであるが、水野は腹も立てず、親切のかぎりをつくす。お龍は水野を気の毒におもい、ひそかに思いを寄せるようになる。水野は同僚から観音祈願など時代遅れだと非難のまとになり、ついには校長からせまられていさぎよく辞職する。お龍はこれを知りいっそう同情し、お彤に話し、お彤は水野に同情するのはよいが、恋してはいけないと忠告し、水野の一身を世話しようという。お龍はもともと男で一回失敗し、おばがえらんだ夫をふりすてたというたちだ。当時三味線の師匠の、五十子の継母のところにいたが、そのなかに筑波という有力な旦那をもつお彤のもとに引き取られていたのである。(未完)


・滑稽御手製未来記 (1911年)

・雪たたき(1939年、『日本評論』)

・連環記(1941年、『日本評論』)

史伝
二宮尊徳翁(1891年、博文館)

・頼朝(1908年、東亜堂)

運命(1919年、雑誌『改造』4月創刊号)

 建文帝永楽帝に追われて、何十年も潜伏して生活していたという伝説について書かれた話、他にも中国を舞台にした文語体作品が多数ある。


・蒲生氏郷


・平将門

随筆・評論

・一国の首都(1899年 - 1901年、雑誌『新小説』)

・水の東京(1901年、雑誌『文芸倶楽部』)

・潮待ち草(1906年、東亜堂)

・蝸牛庵夜譚(1907年11月、春陽堂)


「遊仙窟」を収録

・小品十種(1908年6月、成功雑誌社)

・普通文章論(1908年10月、博文館) - 「文章は楽しく書くべきである」など初学者向けの文章指南。

・努力論(1912年、東亜堂)

・変更も保存も(1921年、国本社

俳諧評釈
・冬の日記抄(1924年9月、岩波書店)
・春の日・曠野抄(1927年6月、岩波書店)
・ひさご・猿蓑抄(1929年12月、岩波書店)
・炭俵・続猿蓑抄(1930年1月、岩波書店)
・評釈 芭蕉七部集(1947年完成)。岩波書店7巻組、復刻1983年、1993年

紀行・日記
・枕頭山水(1893年9月、博文館)
・蝸牛庵日記(1949年8月、中央公論社

戯曲
・名和長年

校歌
・東京都立墨田川高等学校校歌

詳しいことは、「幸田露伴ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%94%B0%E9%9C%B2%E4%BC%B4
(wikiより)

1599  幸田露伴

幸田露伴

1599a

1599b

1599c

1599d

1599e



芝木 好子(しばき よしこ、1914年5月7日 - 1991年8月25日)は、日本小説家。生まれ育った東京下町への哀惜を託した文章で知られ、芸術と恋愛の相克に苦しむ女性の生き方を描いた小説に独自の境地を拓いた。戦後の女流文学を代表する作家の一人である。芸術院会員。文化功労者

経歴

東京府王子町大字王子(現在の東京都北区王子)生まれ、7歳から浅草区浅草東仲町(現在の台東区雷門)に移住。東京市田原尋常小学校(現在の台東区立田原小学校)卒。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校)卒。1941年5月に経済学者大島清と結婚、本姓を芝木から大島へと変える。大島清については『丸の内八号館』に当時の様子が書かれている。


1941年
に発表した戦時下の統制された築地青果市場を舞台に家運再興の為懸命に生きる八重の姿を描く『青果の市』で、1942年に第14回芥川賞受賞。大正生まれ初の受賞であった。戦後に書いた『湯葉』(1960年)、『隅田川』(1961年)、『丸の内八号館』(1962年)の 3作品は自伝三部作と言われ、作風が確立される。


他の作品に『隅田川暮色』(1982-83年)、『洲崎パラダイス』(1954年)、『夜光の女』(1955年)『葛飾の女』(1966年)等。『洲崎パラダイス』は新珠三千代主演で『洲崎パラダイス赤信号』として映画化された。また、同じく洲崎の歓楽街を舞台にした『洲崎の女』が、溝口健二の遺作『赤線地帯』の原作の一つとなっている。

工芸や美術などに打ち込む女性と、それら芸術を通じた男性との恋情を哀感豊かに描く作品が多い。


1983年
日本芸術院会員、1989年(平成元年)文化功労者。1991年8月25日、乳癌のため国立がんセンターで死去[1]

受賞
・1941年下期 芥川賞「青果の市」

・1960年「湯葉」で女流文学者賞

・1965年『夜の鶴』で小説新潮賞

・1972年『青磁砧』で女流文学賞

・1981年日本芸術院賞恩賜賞(1982年[2]

・1984年『隅田川暮色』で日本文学大賞

・1987年『雪舞い』で毎日芸術賞

著書
・『希望』和田堀書店 1946

・『支柱 小説』文化交流社 文学パンフレット 1946

・『流れる日』万里閣 1946 のち集英社文庫

・『真実』世界社 文芸叢書 1947

・『波紋』京都印書館 1947

・『六年の夢』労働文化社 1948

・『愛情区々』パトス社 1948

・『流離の唄』婦人春秋社 1948

・『緑の小筥』宮田たず子絵 偕成社 1950

・『洲崎パラダイス』大日本雄弁会講談社 1955 のち集英社文庫

・『夜光の女』河出新書 1955

・『女の青春』角川小説新書 1956

・『女一人』現代社 現代新書 1956 「女ひとり」集英社文庫

・『海のない町』現代社 現代新書 1957

・『慕情の旅』現代社 1957 のち集英社文庫

・『仮面の女』講談社 1959

・『薔薇の木にバラの花咲く』光文社 1959

・『湯葉・隅田川』講談社 1961 のち新潮文庫

・『狂った時計』集英社 1963

・『跳んでる娘』東方社 1964

・『流れる日』東方社 1964

・『丸の内八号館』講談社 1964 『湯葉・隅田川・丸の内八号館』講談社文庫 1987

・『夜の鶴』河出書房新社 1964 のち角川文庫、集英社文庫

・『海の匂い 芝木好子自選集』冬樹社 1965 のち集英社文庫

・『葛飾の女』河出書房新社 1966

・『奇妙な仲』東方社 1966 改題『花霞』集英社文庫

・『女家族』東方社 1967

・『染彩』中央公論社 1967 のち文庫

・『巴里の門』新潮社 1967 のち集英社文庫

・『下町の空』講談社 1968 のち文庫

・『明日を知らず』河出書房新社 1969 のち中公文庫

・『面影筑摩書房 1969 のち集英社文庫

・『冬の椿』講談社 1970 のち集英社文庫
・『幻華』文芸春秋 1971 のち集英社文庫

・『女の庭』読売新聞社 1972 のち集英社文庫

・『青磁砧』講談社 1972 のち集英社文庫

・『築地川』講談社 1972 『築地川・葛飾の女』講談社文庫 1977

・『女の橋』新潮社 1973 のち集英社文庫

・『心づくし』読売新聞社 1973

・『日本の伝統美を訪ねて』日本交通公社出版事業局 1974 のち河出文庫

・『鹿のくる庭』中央公論社 1975 のち文庫

・『芝木好子作品集』全5巻 読売新聞社、1975-76

 第1巻 (湯葉・隅田川)1975

 第2巻 (夜の鶴・葛飾の女)

 第3巻 (面影・築地川)

 第4巻 (染彩・幻華) 1976

 第5巻 (青磁砧・牡丹寺 短編集)1976

・『火の山にて飛ぶ鳥』中央公論社 1975 のち文庫

・『黄色い皇帝』文芸春秋 1976 のち文庫、集英社文庫(昆虫研究家の五十嵐邁をモデルとした小説)

・『杏の花』芸術生活社 1977

・『牡丹の庭』講談社 1977 のち文庫

・『折々の旅』読売新聞社 1978

・『女の肖像』新潮社 1979 のち集英社文庫

・『光琳の櫛』新潮社 1979 のち文庫

・『羽搏く鳥』中央公論社 1980 のち文庫

・『玉の緒』河出書房新社 1981 のち文庫

・『貝紫幻想』河出書房新社 1982 のち文庫

・『紫の山』講談社 1983 のち文庫

・『ガラスの壁』新潮社 1984 のち文庫

・『隅田川暮色』文芸春秋 1984 のち文庫

・『落葉の季節』読売新聞社 1985 のち集英社文庫

・『京の小袖』講談社 1985 のち文庫

・『春の散歩』講談社 1986 のち文庫

・『華やぐとき』読売新聞社 1987

・『雪舞い』新潮社 1987 のち文庫

・『奈良の里』文芸春秋 1988

・『美の季節』朝日新聞社 1988 のち文庫

・『群青の湖』講談社 1990 のち文庫

・『冬の梅』新潮社 1991 のち文庫

・『別れの曲』集英社文庫 1991

・『芝木好子名作選』上下巻 新潮社 1997

・『湯葉/ 青磁砧』講談社文芸文庫 2000

編纂
・『日本の名随筆 39 芸』編 作品社 1986

・『古美術読本 陶磁』編 淡交社 1987

再話
シェークスピア原作『ベニスの商人田村耕介偕成社 世界名作文庫 1951

フランシス・エリザ・ホジスン・バーネット小公女高畠華宵絵 偕成社 世界名作文庫 1953

脚注
1. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)163頁
2. 『朝日新聞』1982年3月3日(東京本社発行)朝刊、22頁。
(wikiより)

1589  芝木好子

芝木好子

1589a

1589b



濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本検事弁護士探偵小説家子爵貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけであるが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。

来歴
東京市麹町区男爵で医学博士の加藤照麿の四男として生まれる。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)・東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、第一高等学校に進学。1917年(大正6年)に一高を卒業し、翌年東京帝国大学に入学する。在学中に、枢密院議長にして元東大総長・文部大臣の濱尾新子爵の娘・操と結婚、婿養子となる。1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部を卒業する。演劇と犯罪心理を分析した研究書を多数著す。


1924年(大正13年)、東京区裁判所検事代理を命じられる。この時期、探偵雑誌「新青年」(博文館)の依頼で『落語と犯罪』、『犯罪落語考』などのエッセイを発表する。1925年(大正14年)、子爵を襲爵する。検事に任じられ、東京地方裁判所兼東京区裁判所検事局に勤務する。1928年(昭和3年)、検事を辞職し弁護士を開業する。


1929年
(昭和4年)、『彼が殺したか』を「新青年」に発表して探偵小説デビューする。これは横溝正史の誘いによるものだった(後述)。『殺された天一坊』を「改造」(改造社)に発表、『悪魔の弟子』と『黄昏の告白』を「新青年」に発表する。以降、毎年作品を発表した。


1933年(昭和8年)、書き下ろし長篇『鉄鎖殺人事件』(新潮社)を刊行する。同年、貴族院議員に当選し、以後は創作活動が停滞した。1934年(昭和9年)、『平家殺人事件』の連載を「オールクイン」で開始した。しかし元来虚弱体質であり、翌年脳溢血により40歳で急死した。長編『平家殺人事件』は未完となった。


没後の1936年(昭和11年)、『浜尾四郎随筆集』(春秋社)が刊行された。

親族
祖父は東大総長、貴族院議員などを歴任した教育家の男爵加藤弘之。コメディアンの古川緑波は実弟である。子に海軍士官の濱尾誠東宮侍従を務めた濱尾実カトリック教会枢機卿濱尾文郎がいる。

人物
趣味が広い上に多方面の才能に恵まれ、落語・演劇の通であり、洋楽の造詣が深く、清元は名取りで、日本麻雀連盟の総裁でもあった。


当時、本格派探偵小説を後押ししていた江戸川乱歩とは親しかったが、ユニークな点として両者は衆道に関する歴史的研究をも手がけており、その面の著述・考察でも親交が深かった。


乱歩と同じく、若いころから髪の毛が薄く、30代ですでにつるつるの禿頭だった。横溝正史の博文館退社の激励会では、「オデコがピカピカ」という森下雨村と並んで乱歩、浜尾の3人で「三光そろった光彩陸離」などと言われた[1]

「本格派探偵小説家」として
日本の探偵小説界でも珍しい、上流階級の司法専門家であり、その法律知識を活かした質の高い本格探偵小説作品をものしたことで知られる。

浜尾は短編ではその多くでテーマとして「人が人を裁くことの限界」を真摯に考察しており、優れた作品を残した。特に、天一坊事件を裁くことになった大岡越前守の立場から、裁く者の限界を厳しく突いた短編『殺された天一坊』(1929年)は、戦前日本の探偵小説の中でも屈指の秀作に挙げられている。

浜尾は「本格探偵小説の独自性」として、

1. 犯罪の発見
2. 被疑者の拘引(この被疑者は必ずしも1人とは限らない)
3. 名探偵の登場
4. 非常に論理的な推理に基づく捜査開始
5. 最後にその結果として真犯人暴露(逮捕とは記さず。必ずしも真犯人は捕まらず、自殺する場合があるから)


と定義づけ、「多少のヴァリエションはあっても、真の探偵小説はこの公式を出ない、否出られない」とした。


浜尾の持論はS.S.ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』に出会うことで確固たるものとなった。浜尾は「寔にドイル、ヴァン・ダインの二人は群れをなす探偵小説作家をはるかに抜くアルペンである」とし、ヴァン・ダインの「無類な理智的小説」を称揚、「私の如きは一生の中、ヴァン・ダインの諸作の一つに比すべきものを一つ書いてもそれでもういいと思っている」と述べるほどの心酔ぶりだった。


ヴァン・ダインに触発された浜尾の長編本格探偵小説執筆の念願は、1931年に発表した『殺人鬼』でついにかなった[2]。「元・東京地方裁判所の鬼検事」の私立探偵・藤枝真太郎がもう一人の名探偵・林田英三と鎬を削って推理闘争を繰り広げるこの作品は評判となり、以後、大衆の求めに応じて活劇調の通俗探偵小説が氾濫する傾向にあった昭和初期の時代に、論理的な本格探偵小説を追求した先駆者として、後世から評価される存在となった。


浜尾四郎と横溝正史
検事だった浜尾を文筆家として『新青年』に引っ張り出したのは、当時編集部にいた横溝正史だった。きっかけは、小酒井不木が手紙で横溝に「浜尾がひじょうな秀才で、かつて帝大の総長だった浜尾新の養嗣子で、子爵にして検事で、しかも探偵小説について深い造詣と関心をもっている」として、「何か氏に書いていただいたらどうか」と教示してきたことからだった。


横溝は浜尾の作品は未読だったが、当時は「探偵小説」といえば一般から侮蔑の目で見られていた時代で、そういう時代だからこそ、浜尾のような肩書きを持った現職の検事を探偵小説壇に引っ張り込むということが、探偵小説に対する一般の認識を高めるために有効なのではないかと考え、1927年(昭和2年)から1929年(昭和3年)ごろのある冬の夜に、さっそく原稿依頼に牛込の高級住宅街にあった浜尾の邸宅を訪ねた。横溝は浜尾について、子爵や検事という肩書から、いかめしい尊大な人物を想像してひそかに懼れていたが、そこに出てきたのは「鶴のごとき痩身をいたって無造作な和服の着流しにつつんだ、尊大とはおよそ正反対のいたって愛想の良い紳士」で、「とかくひとみしりをしがち」という横溝もすぐくつろいだ気持になり、小一時間も話し込み、「これほど座談のお上手なひとも珍しいのではないか」と思ったという。


横溝はその時、浜尾から一事不再理についてのトリックをいくつか教示してもらった。横溝は感心したが、深い法律的造詣が必要と思い、浜尾にこのトリックを使って作品を書くよう勧めた。横溝は「のちにクリスチーの『スタイルズの怪事件』に、そのトリックがうまく使われているのを読んで、いまさらのように浜尾さんの探偵小説的センスに敬服したものであった」と語っている。このときの依頼で浜尾が書いたのは『落語における探偵趣味』というふうな随筆だった。


横溝が浜尾と直接会ったのはそれきりで、他の雑誌に移ったため、それ以上親しくするチャンスを失った。「のちに、たとえ時期をへだててもおなじ本格探偵小説に肝胆を砕くようになったふたりなのだから、もっと深く謦咳に接しておくべきだったと、いまにして思えば残念でならない」と浜尾を偲んでいる[3]


この初対面時に、浜尾は横溝に、小冊子大の和綴じの春本を見せた。それは多数の男たちの一人の女に対する集団強姦を描いた「世にもえげつない場面の連続」で、筆致からすぐ責めの研究家として有名な某画伯を連想したが、「エロを通りこしてグロもよいところ」で、当時20代の横溝も「春情をそそられるどころか、腹の底が固くなるようなグロ・シーンの連続だった」という。実はこれは検事である浜尾が事件で押収した物件で、『新青年』から若い記者が来るからと、反応を試そうとわざわざ持ち帰っていたものだった。横溝が「腹の底をかたくしながら、負けおしみもてつだって最後まで見おわると」、「いたずらっけの強い検事先生」はその小冊子を取り上げ、「ひどいですね」と言いながら、「まるでやさしいメフィストフェレスみたいな顔をして、にこにこと笑ったものである」という[4]

詳しいことは、「濱尾四郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%B0%BE%E5%9B%9B%E9%83%8E
(wikiより)

2955 濱尾四郎

濱尾四郎

2955a

2955b



中村 光夫(なかむら みつお、1911年明治44年)2月5日 - 1988年昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭 一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者日本芸術院会員。私小説批判で有名。

来歴・人物
東京市下谷区練塀町(現在の東京都台東区秋葉原)生まれ。祖父木庭榮は医師。


1917年
本郷区の東京市追分尋常小学校に入学。東京市誠之尋常小学校に転じて卒業後、1923年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。附属中の同級生には、石川馨東京大学名誉教授)、島田秀夫日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。


1928年第一高等学校文科丙類(仏語クラス)入学。1931年4月東京帝国大学法学部に入学するが、6月退学。翌1932年4月東京帝国大学文学部仏文学科に再入学し、1935年3月に卒業。卒論のテーマはギ・ド・モーパッサン。この時期は、プロレタリア文学にも影響を受け、そうした習作も書いていた。


大学時代から『文學界』に評論を発表、1935年文芸時評を連載して新進の文芸評論家として注目される。1936年同誌に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞受賞。


1938年フランス政府に招かれて渡仏し、パリ大学に学ぶが、1939年第二次世界大戦勃発に伴って帰国。同年吉田健一西村孝次山本健吉と同人誌『批評』を発行した。1940年外務省嘱託となり、1941年これを辞して筑摩書房顧問となる。


戦後は鎌倉アカデミアで教鞭を執る。1949年より明治大学教授。同年丹羽文雄とリアリズムをめぐって論争し、1950年近代日本文学批判である『風俗小説論』を上梓する。また1951年にはカミュ異邦人」をめぐって広津和郎と論争。翌年読売文学賞受賞。『谷崎潤一郎論』を上梓、1954年『志賀直哉論』を上梓、いずれも大家を否定する内容であった。1956年芥川賞選考委員となる。1957年最初の戯曲「人と狼」を発表し話題となる。


1958 - 60年には、大岡昇平福田恆存三島由紀夫、吉田健一、吉川逸治との集い「鉢の木会」で、丸善を発行元に季刊同人誌『聲』を10号発行した。同時期に『二葉亭四迷伝』を上梓、再び読売文学賞受賞。1959年には「ふたたび政治小説を」を『中央公論』に発表して話題となる。1962年日本近代文学館理事。1963年京都大学へ講師に赴任したが、この時の教え子に十川信介がおり、十川のために数年間、毎年京大へ行ったという(十川『落ち葉のはきよせ』)。同年初の小説『「わが性の白書」』を発表、上梓。1965年戯曲『汽笛一声』で三たび読売文学賞、1967年明治期の作家長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞受賞。1967年日本芸術院賞受賞[1]、1970年秋に芸術院会員。1981年明大を定年退任。1982年秋に文化功労者。


1988年7月12日、肺炎のため神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の自宅で死去[2]。77歳だった。


戦後間もなく、『風俗小説論』で日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったと主張した。1955年から30年間芥川賞選考委員を務めたが、中村が退任した以降は選考委員は作家のみとなった。


近代仏文学の分野ではギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』も翻訳し、蓮實重彦と共同作業を行い、蓮實に影響を与えた。


独特の「ですます」文体による評論は、当人は「文章を長くして原稿料を余分に取るため」と韜晦していた。


姉しげ子は、作家深田久弥の二度目の妻。弟木庭二郎木庭三郎は共に理論物理学者。最初の妻との間に二児があったが、中村が43歳時に妻と死別、二度目の妻の木庭久美子は劇作家でもあった。没する直前にカトリック洗礼を受けた。

作品年譜
・1935年(24歳)

  ・ジヨルジユ・サンドへの書簡 フロオベル 文圃堂書店(のち創元選書)


・1936年(25歳)

  ・二葉亭論 芝書店


・1940年(29歳)

  ・フロオベルとモウパッサン 筑摩書房(のち講談社・名著シリーズ)


・1941年(30歳)

  ・作家論 中央公論社


・1942年(31歳)

  ・文学論 中央公論社

  ・戦争まで 仏蘭西紀行集 実業之日本社(のち筑摩叢書。中公文庫ほか)


・1946年(35歳)

  ・田山花袋集 中村編 東方書局


・1947年(36歳)

  ・近代への疑惑 穂高書房

  ・作家と作品 筑摩書房

  ・二葉亭四迷論 進路社

  ・青春と知性 鎌倉書房


・1948年(37歳)

  ・ベラミ モーパッサン 白水社


・1949年(38歳)

  ・作家の生死 創元社

  ・二十世紀の小説 筑摩書房


・1950年(39歳)

  ・風俗小説論 河出書房(のち新潮文庫講談社文芸文庫


・1951年(40歳)

  ・小説入門 弘文堂(のち新潮文庫)


・1952年(41歳)

  ・谷崎潤一郎論 河出書房(のち新潮文庫。講談社文芸文庫)

  ・異邦人論 創元社

  ・作家の青春 創文社・フォルミカ選書


・1954年(43歳)

  ・志賀直哉文藝春秋新社(のち筑摩叢書)

  ・小説の読みかた 要書房

  ・日本の近代小説 岩波新書


・1957年(46歳)

  ・「中村光夫作家論集」 大日本雄弁会講談社(全3巻)

  ・私の文学論 新潮社

  ・自分で考える 新潮社

  ・文学のありかた 筑摩書房


・1958年(47歳)

  ・人と狼(戯曲)中央公論社

  ・現代作家論 新潮社

  ・二葉亭四迷伝 講談社(のち講談社文庫。講談社文芸文庫)


・1959年(48歳)

  ・現代知性全集20 中村光夫集(日本書房)

    ・復刻「日本人の知性14 中村光夫」学術出版会(2010年)

  ・文学の回帰 筑摩書房

  ・明治文学史『現代日本文学全集 別巻』の一章(改訂版・筑摩叢書)


・1960年(49歳)

  ・想像力について 新潮社

  ・旅の話 筑摩書房

  ・パリ繁昌記(戯曲)講談社


・1962年(51歳)

  ・佐藤春夫論 文藝春秋新社


・1963年(52歳)

  ・わが性の白書 講談社(のち講談社文芸文庫)


・1964年(53歳)

  ・批評と創作 新潮社

  ・制作と発見 文治堂書店


・1965年(54歳)

  ・汽笛一声(戯曲) 筑摩書房

  ・言葉の芸術 講談社 (新版 同・名著シリーズ)


・1966年(55歳)

  ・百年を単位にして 芳賀書店


・1967年(56歳)

  ・贋の偶像 筑摩書房


・1968年(57歳)

  ・「中村光夫作家論集」 講談社(全4巻)

  ・日本の近代 文藝春秋(人と思想)、選集

  ・日本の現代小説 岩波新書

  ・対談・人間と文学 三島由紀夫と 講談社(改訂版 講談社文芸文庫)


・1969年(58歳)

  ・芸術の幻 講談社(新版 同・名著シリーズ)


・1970年(59歳)

  ・今はむかし ある文学的回想 講談社(のち中公文庫)

  ・時代の感触 時のなかの言葉 文藝春秋

  ・虚実 短編集 新潮社


・1971年(60歳)

  ・【中村光夫全集】 筑摩書房 全16巻(-1973年)


・1972年(61歳)

  ・明治・大正・昭和 新潮選書(のち岩波同時代ライブラリー)


・1973年(62歳)

  ・平和の死 講談社


・1974年(63歳)

  ・ある女 集英社

  ・憂しと見し世 文学回想 筑摩書房(のち中公文庫)


・1975年(64歳)

  ・青春と女性 第三文明社レグルス文庫

  ・世界文学全集 講談社 ボヴァリイ夫人(中村訳、のち講談社文庫)。なお「三つの物語」は蓮實訳


・1976年(65歳)

  ・ある愛 新潮社<純文学書き下ろし特別作品>


・1977年(66歳)

  ・雲をたがやす男(戯曲)集英社

  ・秋の断想 筑摩書房

  ・論考小林秀雄 筑摩書房(増補版 1983年)


・1978年(67歳)

  ・近代の文学と文学者 朝日新聞社(のち朝日選書・上下)

  ・論考川端康成 筑摩書房

  ・ドナウ紀行 日本交通公社出版事業局


・1979年(68歳)

  ・永井荷風 筑摩書房

  ・漱石白鳥 筑摩書房

  ・金銭と精神 日本書籍

  ・グロテスク 河出書房新社


・1980年(69歳)

  ・近代文学をどう読むか 新潮選書

  ・私小説名作選 中村編 集英社文庫。講談社文芸文庫(改訂版・上下)


・1982年(71歳)

  ・時の壁 新潮社

  ・小説とはなにか 福武書店


・1983年(72歳)

  ・鉄兜 成瀬書房


・1985年(74歳)

  ・老いの微笑 筑摩書房(新版 ちくま文庫)


・1986年(75歳)

  ・旅の断章 筑摩書房

  ・知人多逝 秋の断想 筑摩書房


・没後の1992年10月に「中村光夫全戯曲」筑摩書房

  ・収録作品は、人と狼、パリ繁昌記、汽笛一声、家庭の幸福、雲をたがやす男

脚注
1. 『朝日新聞』1967年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)242頁

参考文献
・「年譜」『風俗小説論』講談社文芸文庫、2011年

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧
(wikiより)

2939 中村光夫

中村光夫

2939a

2939b

2939c



阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年明治39年)1月21日[1] - 1969年昭和44年)6月10日)は、日本詩人ドイツ文学者[2]

略歴・人物
福井県出身[1]。旧制芝中学校山形高等学校を経て、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部心理学科卒業。


戦前は文部省に務め、1955年(昭和30年)にお茶の水女子大学教授に就任した[1]


1931年
(昭和6年)第1詩集「雲の衣裳(いしょう)」を発表。以後、「貝殻の墓」などの詩集を刊行し[1]、小説、評論なども執筆した[1]

家族・親族
父は福井県知事や鹿児島県知事などを務めた阪本釤之助[3]、伯父は漢詩人・官僚の永井久一郎[4]、叔父は内務官僚・政治家の大島久満次[5]。兄は外交官阪本瑞男[3]、作家・詩人の高見順は異母弟[1][3]。政治家の古井喜実は義弟。小説家の永井荷風[1][3]と外交官の永井松三は従兄。狂言師の野村萬斎は孫(娘で詩人の阪本若葉子の長男)。タレントの高見恭子は姪[6]童謡歌手小鳩くるみも越郎の親族である[7]

系図については、「阪本越郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%9C%AC%E8%B6%8A%E9%83%8E

参考文献
小谷野敦 著 『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集幻冬舎幻冬舎新書)、2007年平成19年)9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-344-98055-6

脚注・出典
1. a b c d e f g 阪本越郎とは - コトバンク内のページ。
2. 『日本の有名一族』、86頁。
3. a b c d 『日本の有名一族』、86-87頁。
4. 『日本の有名一族』、85、87頁。
5. 『日本の有名一族』、87頁。
6. 『日本の有名一族』、86-88頁。
7. 『日本の有名一族』、87-88頁。
(wikiより)


2938a

2938b



安政 2年 ( 1855 )、下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、「安政の大地震」で母を失う。


父は無事だったが、乳飲み子だった篁村を育てるのは難しい、それを助けたのが、近くに住む「武村氏」で、その恩を忘れないため、後に、「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという。


11歳で日本橋の質屋に奉公に出たが、主人に可愛がられ、観劇のお供や貸本読み放題などの高待遇を受けたため、劇、俳諧、花柳界などに関する知識を身につけた。


19歳になった篁村は、読売新聞を発行していた日就社に校正担当として入社。


2年後に読売新聞の編集記者となって活躍する。


31歳の時、読売新聞に『当世商人気質』を連載して大好評を博し、篁村の名を不動のものにした。


その後、東京朝日新聞社に移ってからも、劇評や小説を執筆。


特に演劇批評は、「竹の屋劇評」として評判が高かった。


向島小梅町や寺町の地に居住し、依田學海といっしょに酒を飲み明かしたエピソードなどを東京朝日新聞に連載した『隅田の春』に書いている。
(案内板より)

2913a

2913b

2913c

2913d

2913e

2913f



小学校の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。


叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町 52番地 ( 現在、隅田公園内 ) の家に身を寄せることになる。


牛島尋常小学校 5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は 5年で中退してしまった。


その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。


これらの経験が、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、出世作となった。


戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。

「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは基角の家だ、と子供心にも知っていた。」
(案内板より)

2911a

2911b

2911c

2911d

2911e

2911f



明治 25年 ( 1892 )、横浜生まれ。


父は旧小田原藩士。


県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、小学校を中退。


職を転々としながら、朝から晩まで働き通した。


18歳の時、上京。


本所菊川町 ( 立川 4丁目 ) のラセン釘工場に住み込み、夜は、本所林町 ( 菊川 1丁目 ) の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。


その後、浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となった。

  貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ
( 吉川雉子郎の名で発表した川柳 )


大正 6年 ( 1917 )、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすの寺島村 1820 ( 東向島 1丁目 ) のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの寺島村 1120 ( 東向島 3丁目 ) の借家に呼んだといわれている。


本格的な作家活動は、30歳で『親鸞記』を初めて新聞連載して時に始まる。


以後、創刊された「キング」に『剣難女難』、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、国民文学作家としての地位を不動のものにした。
(案内板より)

2910a

2910b

2910c

2910d

2910e

2910f



父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島店」を経営する実業家で大地主であった。


また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。


明治 17( 1884 ) 年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。


息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。


実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。


明治 26( 1893 ) 年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。


「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。


夏目漱石の「吾輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。


収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。
(案内板より)

〇 淡島椿岳

淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎とみお安政6年10月23日1859年11月17日) - 1926年大正15年)2月23日)は、明治時代日本作家画家古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙参議院議員ともなった)。伯父は幕末の大富豪の伊藤八兵衛


広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴尾崎紅葉など文壇に紹介したエピソードで有名である。


収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。

略歴
日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。


1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカ帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。


1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。


1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介する。このことが明治における西鶴再評価に繋がった。


1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。このころキリスト教の洗礼を受ける。しかし、これは宗教観からというよりは、外国の文化に接するためであったと、後に述懐している。


1923年9月1日、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。


1926年2月23日、66歳で死去。遺体は駒込染井霊園に葬られた。

主な作品
・『江戸か東京か』

・『亡び行く江戸趣味』

・『西鶴雑話』

参考資料
・『梵雲庵雑話』 延広真治解説、岩波書店〈岩波文庫〉、1999年、ISBN 4003115910

・『「敗者」の精神史』 山口昌男、岩波書店、1995年、ISBN 4000029665

外部リンク
淡島寒月:作家別作品リスト - 青空文庫 

淡島寒月のこと幸田露伴、「東京日日新聞」1938(昭和13)年6月4日号、5日号
(wikiより)

1712  淡島寒月

淡島寒月

2880g

2880a

2880b

2880c

2880d

2880e

2880f



この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。


左千夫 ( 本名 幸次郎 ) は、元治元年 ( 1864 ) 八月十八日、上総国武射郡殿台村 ( 現在の千葉県山武市 ) に生まれました。


明治十八年 ( 1885 ) から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。


明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地 ( 現在地 ) の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社 ( 茅の舎、デボン舎とも称した ) を開業しました。


随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。


左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。


明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。


また、子規没後の明治三十六年には、機関紙『馬酔木 ( あしび )』を創刊


明治四十一年には後継誌『阿羅々木』( のちの『アララギ』と改題 ) を創刊して根岸派、アララギ派の中心になり、島木赤彦、斉藤茂吉など多くの歌人を排出しました。


小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。


この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。


この地は低地で湿気が多く、水害がたびたび発生しました。


写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。


経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町 ( 現在の江東区大島 ) に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」( 現在は千葉県山武村に移築 ) を残して家族とともに転居しました。


大正二年 ( 1913 ) 七月三十日五十歳で没しました。


隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年 ( 1983 ) に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。


刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。


親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
(案内板より)

〇 伊藤左千夫
伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日元治元年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は日本歌人小説家。本名 幸次郎

経歴
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。


その後、現在の錦糸町駅前に牛舎を建てて乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始め、その傍ら1898年明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、島木赤彦斎藤茂吉古泉千樫中村憲吉土屋文明などを育成した[広報 1]


また、1905年(明治38年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌『求道』(求道発行所)に短歌を寄稿する。


1913年(大正2年)に脳溢血のため南葛飾郡大島町の仮寓で死去[1]。戒名は唯真居士。

人物
茶の湯
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。


一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。

その他
山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、1991年(平成3年)5月に完成した山武市伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像が建立された[2]。また、錦糸町駅南口、東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。

刊行著作
・『野菊の墓』俳書堂 1906

・『左千夫全集』全4巻 古泉幾太郎春陽堂 1920-21

・『左千夫歌集』斎藤茂吉,土屋文明岩波文庫 1928

・『左千夫歌論集』全3巻 斎藤茂吉,土屋文明編 岩波書店 1929-1931

・『左千夫歌論抄』斎藤茂吉,土屋文明編 岩波文庫 1931

・『伊藤左千夫選集』斎藤茂吉,土屋文明編 青磁社

 第1巻 (短歌篇) 1948

 第2巻 (歌論篇) 1949

 第3巻 (小説篇) 1949

・『隣の嫁』河出文庫 1956

・『隣の嫁・春の潮』角川文庫 1956

・『伊藤左千夫歌集』土屋文明編 角川文庫 1957

・『野菊の墓・隣の嫁・春の潮』講談社文庫 1971

・『左千夫全集』全9巻 岩波書店

 第1巻 (歌集) 1977

 第2‐4巻 (小説・紀行・小品) 1976‐77

 第5‐7巻 (歌論・随想) 1977

 第8巻 (雑纂) 1977

 第9巻 (書簡) 1977

・『新編左千夫歌集』土屋文明,山本英吉選 岩波文庫 1980

・『伊藤左千夫全短歌』土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986

・『左千夫全集』全9巻 土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986‐87

脚注
出典
1. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)34頁
2. “左千夫の記念公園完成 悲恋物語「野菊の墓」 政夫と民子の銅像も”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 28. (1991年5月12日)

 
広報資料
1. 歴史民俗資料館 伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

外部リンク
伊藤 左千夫:作家別作品リスト - 青空文庫

伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫ゆかりの地 - 千葉県山武市公式ホームページ

伊藤左千夫牧舎兼住居跡 - すみだ観光サイト

伊藤左千夫歌碑 | 浅間温泉観光協会
(wikiより)

99   伊藤左千夫

伊藤左千夫

2879a

2879b

2879c

2879d

2879e

2879f



花香恭次郎 ( はなか - きょうじろう )    
安政 3年 7月 9日 ~ 明治 23年 8月 7日 ( 1856 - 1890 )

明治初期のジャーナリスト・社会運動家。

香取出身。

父、旗本戸田伊豆守氏栄 ( 五男 )。別名、戸田千太郎・戸田鉄丸。「福島新聞」創刊者の一人。

明治 15年 ( 1882 ) 政府から自由党撲滅の使命を課せられた福島県令三島通庸に対し、農民二千名と支援者が決起した福島事件で石川島監獄に収監され、その後、明治 17年 ( 1884 ) 西南戦争の国事犯を収容するために作られた施設である宮城集治監に移された。

明治 22年 ( 1889 ) の憲法発布の大赦により出獄。

同様に福島事件で投獄された河野広中の甥で、後に加波山事件に関わる河野広躰 ( こうの - ひろみ ) が同じ福島事件を起こした田母野英顕墓と並べて建立。

〇 加波山事件
加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。

概要
自由民権運動激化事件の一つであり、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こした。福島事件に関わった河野広躰河野広中の弟)等のグループが中心で、これに茨城県下館富松正安や栃木県内の民権家が加わっている。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を練っていた。

その後
・後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造小久保喜七をはじめとして300名におよぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗等の罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人と、内藤、鯉沼らの若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死した者以外は特赦によって1894年までには出獄している。


・この事件を期に、政府は爆発物の使用に対して刑法(所謂旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。


・茨城県筑西市下館地区の妙西寺に富松正安・保多駒吉玉水嘉一平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。


西條八十が作詞した下館音頭の11番には加波山事件が歌われている。

逮捕または起訴された人物
大井憲太郎と共に自由民権運動派の代言事務所厚徳館を設立した弁護士の山田泰造(いずれも後に衆議院議員となる)らが弁護した。

・天野市太郎

・山口守太郎

・杉浦吉副

・河野広躰

・三浦文治
・草野佐久馬

・横山信六

・保多駒吉

・小林篤太郎

・琴田岩松
・小針重雄

・玉水嘉一

・五十川元吉

・富松正安

・原利八
・門奈茂次郎

・鯉沼九八郎

・大橋源三郎

・佐伯正門





関連項目
福島事件

夷隅事件

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(MF:個人蔵)

国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(所蔵)

茨城県古河市西公民館図書室

日本経済評論社『福島自由民権と門奈茂次郎5 加波山事件』
(wikiより)


2773a

2773b

2773c



酒井 美意子(さかい みいこ、1926年大正15年)2月18日 - 1999年平成11年)10月5日)は、日本評論家。旧姓・前田。侯爵前田利為の長女。母は雅楽頭系酒井家宗家20代当主・酒井忠興の次女菊子。同家22代当主・酒井忠元の妻。

略歴
1927年昭和2年)4月からロンドンで過ごす[1]


1930年(昭和5年)9月に帰国[2]、その後女子学習院に入学、昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王と同級・学友となる[3]

  ・女子学習院卒業[4]


1943年(昭和18年) - 1945年(昭和20年)、外務省政務秘書官室勤務[5]


1945年(昭和20年)3月、従兄の酒井忠元と結婚[6][7]


1946年(昭和21年)、社交クラブをオープンする[8]


1950年(昭和25年)、クラブ経営から撤退する[9]


1959年(昭和34年)、評論家としての活動を開始する。専門はマナー、エチケット、その後皇室関係にも拡がる[10][11]


1973年(昭和48年)、ハクビ総合学院学長となる[12]


1977年(昭和52年)からは、百合姿きもの学院と京都きもの学院の学長を兼任した[13]

著作物
著書
1966年昭和41年) - 『マナー小事典 : 基本から公式まで』 池田書店

1969年(昭和44年) - 『若いふたりのマナー : デイト・ステディ・婚約・友人』 池田書店

1971年(昭和46年)

  ・『酒井美意子のエチケットの本 : 愛される人になるために』 サンケイ新聞社出版局

  ・『和服の常識 : いつ、何を、どう着るか』 三崎書房

1972年(昭和47年)

  ・『おヨメに行くとき読む本 : 女であるとは、どういうことか』 主婦と生活社

  ・『女の生き方 : 演技の値打ちを見直す本』 徳間書店

  ・『きものの常識 : ちょっぴり差をつけるための400項』 主婦と生活社

1973年(昭和48年)

  ・『男を見る眼 : このずる賢くも、可愛い動物の研究』 主婦と生活社

  ・『最新・おつきあい読本 : 賢い女性のマナー集』 佼成出版社

  ・『一人暮しの経済学 : 優雅な生活のすすめ69章』 日新報道

1974年(昭和49年)

  ・『縁談成功法 : 幸せな結婚への男性鑑別法と交際の作法』 講談社

  ・『会話のおしゃれ : 実用89の秘訣集』 三笠書房

  ・『君主学入門 : 加賀前田家“お家安泰"の秘密』 徳間書店

  ・『恋をしたときから読む本 : 愛されるための男性研究』 主婦と生活社

  ・『新マナー小事典 : 改まった場で困らないために』 池田書店

  ・『女性のマナー : 冠婚葬祭の常識』 ひかりのくに

1975年(昭和50年)

  ・『子どもをしつける : 自信が持てるしつけ成功法』 読売新聞社

  ・『図解・マナー全科』 家の光協会

  ・『装いの設計 : 個性的なおしゃれプラン』 ひかりのくに

1978年(昭和53年)

  ・『会話のおしゃれ』 三笠書房

  ・『女性よ、もっと貴女を演出しなさい』 潮文社

  ・『聡明な女の生き方 : ライフワークのみつけ方から知的生活の方法まで』 主婦と生活社

1979年(昭和54年)

  ・『食通にささげる本 : 誰も言わなかった“味”“店”“雑学”』 青春出版社

  ・『こんなとき何を着るか : 冠婚葬祭、交際で成功する装い』 祥伝社

1980年(昭和55年)

  ・『おしゃれ話術 : 魅きつける言葉のメイクアップ』 経済界

  ・『おヨメに行くとき読む本 : 女であるとは、どういうことか』 主婦と生活社

1981年(昭和56年) - 『冠婚葬祭とマナー : カラー版』 家の光協会

1982年(昭和57年)

  ・『ある華族の昭和史 : 上流社会の明暗を見た女の記録』 主婦と生活社

  ・『風雪を越えて : 山本信嗣の歩んだ道』 財界展望新社 ISBN 4-87934-013-8

  ・1983年(昭和58年)

  ・『あなたを美しく魅せるマナー : 最新版おもしろなるほど事典』 日本経営指導センター

  ・『女らしく生きる』 大和書房

  ・『「加賀百万石」前田家にみる危機に強い経営術』 日本経営指導センター

  ・『困った時はこう書く : すぐ役立つ手紙文例集』 PHP研究所 ISBN 4-569-21007-4

  ・『酒井美意子のマナーの本』 大和書房

  ・『モテる女への神話 : いい女への秘密』 大和書房 ISBN 4-479-18012-5

1984年(昭和59年)

  ・『女ひと通りのことができなくちゃ : 新・暮らしと生き方の知恵15章』 主婦と生活社

  ・『女らしく生きる』 ダイワアート

  ・『風の戯れ』 中央公論社 ISBN 4-12-001299-9

  ・『酒井美意子のマナーの本』 ダイワアート

  ・『長男と結婚するとき読む本』 主婦と生活社 ISBN 4-391-10815-1

  ・『まごころの贈り物選び方と贈り方』 ロングセラーズ ISBN 4-8454-0187-8

1985年(昭和60年)

  ・『酒井美意子のマナー美人になる本』 画:志摩ようこ 講談社 ISBN 4-06-189807-8

1986年(昭和61年)

  ・『ある華族の昭和史 : 上流社会の明暗を見た女の記録』 講談社文庫 ISBN 4-06-183528-9

  ・『かしこい女性のマナー集』 ダイワアート

  ・『ほんものマナー秘訣集』 主婦と生活社 ISBN 4-391-10932-8

1987年(昭和62年)

  ・『おしゃれ上手』 三笠書房・知的生きかた文庫 ISBN 4-8379-0199-9。新版2001年

  ・『酒井美意子のマナーの本 : 愛される人になるために』 大和書房 ISBN 4-479-18062-1

  ・『20歳からの魅力学 : あえて八方美人のすすめ』 大和書房 ISBN 4-479-18071-0

  ・『良妻の心得百科』 ぎょうせい ISBN 4-324-00850-7

1988年(昭和63年)

  ・『会話のおしゃれ』 三笠書房知的・生きかた文庫 ISBN 4-8379-0282-0

  ・『皇室に学ぶマナー』 ダイワアート

  ・『ロイヤルマナー : 皇室・伝統の礼儀と作法』 大和書房、2001年 ISBN 4-479-01145-5

1989年平成元年)

  ・『“おしゃれな女"が読む本』 三笠書房・知的生きかた文庫 ISBN 4-8379-0355-X

  ・『結婚式&お葬式』 広済堂出版 ISBN 4-331-00463-5

  ・『酒井美意子のお葬式で困らない本』 大陸書房 ISBN 4-8033-2367-4

  ・『20歳からの恋愛術・交際術』 大和書房 ISBN 4-479-18085-0

1990年(平成2年)

  ・『お嬢様倶楽部 : フィニッシングスクールお入門』 丸善メイツ ISBN 4-89577-038-9

  ・『お嬢さまご用達読本 : 酒井美意子のマナー・エッセイ』 婦人画報社

  ・『冠婚葬祭事典 : すぐに役立つ、恥をかかない』 広済堂出版 ISBN 4-331-00477-5

  ・『素敵と言われるマナーブック』 青春出版社 ISBN 4-413-08026-2

  ・『花のある女性って、素敵ね』 主婦と生活社 ISBN 4-391-11300-7

1992年(平成4年)

  ・『加賀百万石物語 秘史・前田家の戦争と平和』 主婦と生活社/角川ソフィア文庫、2001年 ISBN 4-043-60901-9

1995年(平成7年)

  ・『写真集 華族の肖像』 清流出版 ISBN 4-916-02807-4

  ・『昭和マイラヴ : 思い出すことの多き日々かな お姫さまエッセイ』 清流出版 ISBN 4-916-02808-2

  ・『元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』 宙出版(主婦と生活社)/講談社+α文庫、2016年 ISBN 4-06-281677-6

詳しいことは、「酒井美意子ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%BE%8E%E6%84%8F%E5%AD%90
(wikiより)

2742a

2742b

2742c



池島 信平(いけじま しんぺい、1909年12月22日[1] - 1973年2月13日、正字では池嶋[1])は日本の編集者文藝春秋社長(第3代)。

経歴

東京市本郷区春木町生まれ[2]。生家は牛乳の配達を営んでいた。東京府立第五中学校(四修)から旧制新潟高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業[1][注釈 1]。新潟高校時代の1929年、第6回全国高等学校ア式蹴球大会フォワードとして出場した。


1933年
文藝春秋社に第1期社員として入社[1]。「文藝春秋」編集部に入ることを望んでいたが創刊まもない小雑誌「」の編集部に配属され、雑誌記者として活動。「話」からリニューアルした月刊誌「現地報告」の編集長を1940年より務める。


1944年、「文藝春秋」編集長に就任[1]。まもなく召集されて横須賀海兵団に入隊。2週間後に北海道千歳第二基地に送られ、滑走路作りの工事に投入された。海軍に入ってすぐに体罰の横行を目の当たりにし、「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死」「万難を排して生きて帰ろう、と心に誓った」という[3]終戦は青森で迎えた。


1946年
菊池寛の意向により文藝春秋社が解散したため菊池から社名と誌名を貰い受け、専務の佐々木茂索社長に担ぎ出して11名の社員で文藝春秋新社を創立。


1966年3月、文藝春秋に改名。同年、第3代社長に就任。全共闘運動に戦前の全体主義と似た匂いを感じて反動的に保守化し、小林秀雄三島由紀夫保守思想家が集う日本文化会議に接近。その機関誌を出版しようとしたが社員からの猛反発に遭い、その代わりとして保守派オピニオン誌「諸君!」を1969年7月号より創刊した。1973年2月、在職中に急死。死の直前まで文筆活動を行っていた。


また、十返肇と二人で「文人海軍の会」を創設。源氏鶏太阿川弘之豊田穣などが会員だった。その関連もあって『別册文藝春秋』などで戦記特集を多く出した。

文献

伝記に、塩澤實信雑誌記者池島信平』(文藝春秋、のち文春文庫跋文司馬遼太郎

  新版改題『文藝春秋編集長 菊池寛の心を生きた池島信平』(展望社、2005年)

また『話』時代の記事を集めた『昭和十二年の週刊文春』(文春新書2007年、名義は「菊池信平」)がある。

著書
・編集者の発言 暮しの手帖社、1955年

・ジャーナリズムの窓から 修道社、1956年

・雑誌記者 中央公論社1958年中公文庫1979年、改版2005年

・歴史好き 三月書房、1971年。中公文庫、1983年

・池島信平文集 文藝春秋、1973年。巻末対談今日出海=永井龍男


編著・共著
・風流おかめ八目 扇谷正造共著・対談集 修道社、1955年

・縦横おかめ八目 扇谷正造共著・対談集 修道社、1956年

・文壇よもやま話 嶋中鵬二と聞き手:NHK編(上下) 青蛙房、1961年。中公文庫、2010年10・11月  

・歴史よもやま話 日本篇(上下、編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・歴史よもやま話 西洋篇 (編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・歴史よもやま話 東洋篇 (編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・文学よもやま話 対談集(上下) 文藝春秋、1974年恒文社1995年12月

脚注
注釈
1. マグナ・カルタを卒業論文の対象とし、渡英して原物にあたった。

出典
1. a b c d e 池島信平』 - コトバンク
2. 池島 信平』 - コトバンク
3. 池島信平と『諸君!』
(wikiより)


69a

69b



開高 健(かいこう たけし/かいこう けん[2]1930年12月30日 - 1989年12月9日)は、日本小説家

生涯
大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、5月に国民学校教頭であった父が死去する。


第二次世界大戦
後に旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学するが、学制改革により1年で旧制高校を修了し、大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学した。当時の文学論の仲間に高原慶一朗がいた。大学在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加。1952年1月、同人仲間だった詩人牧羊子壽屋勤務)と結婚。同年7月13日に、長女開高道子が誕生。1953年2月、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社。1953年12月1日に大阪市立大学卒業。


1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。この時代に『裸の王様』で芥川賞を受賞する。 遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。開高は先に「群像(講談社)」に提出していた原稿を持ち帰り「文學界」に提出してその場を凌いだ。しかし、講談社の怒りを買って絶縁状を叩き付けられ、16年もの間講談社から干されてしまう[3]。これを機に壽屋を退職し、執筆業に専念する。


1960年、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として大江健三郎らとともに中国を訪れ、毛沢東周恩来らと会見。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。


1964年、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の3部作はこの戦争での凄烈な体験をもとに書かれている。


帰国後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが[4]、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる。その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一向井敏などの右派系文化人を世に出した。


熱心な釣師としても知られ、日本はもちろんブラジルアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。


開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と週刊プレイボーイの人気連載「風に訊け」で綴っている。また、同連載で開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。


1989年
食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去[1][5]。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社ノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。また、後半生の16年間を過ごした神奈川県茅ヶ崎市に開高健記念館が開設されている。

受賞歴
1958年 -『裸の王様』で芥川賞


1968年 -『輝ける闇』で毎日出版文化賞


1979年 -『玉、砕ける』で川端康成文学賞


1981年 - 第二十九回菊池寛賞。「ベトナム戦記」から「もっと遠く!」「もっと広く!」に至るルポルタージュ文学確立の功績


1987年 -『耳の物語』で日本文学大賞

著作

小説
(短編※は初出年。長編は刊行年)
・『あかでみあ めらんこりあ』私家版 1951。のち角川文庫・改版 

・「パニック」※1957

・「巨人と玩具」※1957

・「裸の王様」※1957。翌58年に第三十八回芥川賞受賞

・「流亡記」※1959

・『裸の王様』文藝春秋新社 1958。のち「パニック・裸の王様」新潮文庫・改版 

・『屋根裏の独白』中央公論社 1959

・『日本三文オペラ』文藝春秋新社 1959 のち角川文庫、新潮文庫・改版 

・『パニック』パトリア書店 1959

・『ロビンソンの末裔』中央公論社 1960 のち角川文庫、新潮文庫  

・『片隅の迷路』毎日新聞社 1962 のち角川文庫、創元推理文庫。徳島ラジオ商殺しがモデル

・『見た揺れた笑われた』筑摩書房 1964 のち角川文庫 

・『輝ける闇』新潮社 1968 のち文庫・改版。毎日出版文化賞 

・『青い月曜日』文藝春秋 1969 のち文庫、集英社文庫 

・『七つの短い小説』新潮社 1969 

・『夏の闇』新潮社 1972 のち文庫・改版。直筆原稿版2010

・『新しい天体』潮出版社 1974 のち新潮文庫、光文社文庫 

・『歩く影たち』新潮社 1979 のち文庫 

・『渚から来るもの』角川書店 1980 のち文庫 

・『ロマネ・コンティ・一九三五年』文藝春秋 1980 のち文庫・改版。短篇小説全6篇 

  ・「ロマネ・コンティ・一九三五年」※1978

  ・「玉、砕ける」※1978。翌79年に第六回川端康成文学賞

・『破れた繭 耳の物語1』新潮社 1986 のち文庫、イースト・プレス、岩波文庫

・『夜と陽炎 耳の物語2』新潮社 1986 のち文庫、イースト・プレス、岩波文庫

・『珠玉』文藝春秋 1990 のち文庫 

・『花終る闇』新潮社 1990 のち文庫 

・『二重壁・なまけもの 初期作品集』講談社文芸文庫 2004。大岡玲解説

・『ちくま日本文学 開高健』ちくま文庫 2008 

・『戦場の博物誌 開高健短篇集』講談社文芸文庫 2009

・『開高健短篇選』岩波文庫 2019。大岡玲編

詳しいことは、「開高 健ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%AB%98%E5%81%A5
(wikiより)

66    Kaikou_Ken

開高 健

66a

66b



佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。


後に江戸藩邸留守居役などの重職を勤め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わっている。


53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。


森鴎外の師としても知られ『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。


向島の隅田川の土手を臨む須崎村 142 ( 向島 5丁目、言問小学校あたり ) に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている ( 実際は妾宅で、漢文の直しを乞いに訪ねた若い鴎外は気づかなかった )。


鴎外が 15歳の頃の出会いだが、その後も 2人の興隆は続き、鴎外のドイツ留学に際しては、『送森軍医遊伯林序』という僧別の漢詩を贈っている。


向島百花園にもよく足を運び、明治 15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。


同書は永井荷風著「墨東綺譚」の主人公が持って歩いていたことでも知られている。


また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海目録』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。
(案内板より)

2930a

2930b



坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙1859年6月22日安政6年5月22日) - 1935年昭和10年)2月28日)は、日本小説家評論家翻訳家劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。

生涯
尾張藩領であった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)で、江戸幕末期に生まれた。父は尾張藩士で太田代官所手代を務めており、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻った。父から漢学書類を読まされた他に、母の影響を受け、11歳頃から貸本屋に通い読本草双紙などの江戸戯作俳諧和歌に親しみ、ことに滝沢馬琴に心酔した[2]


愛知外国語学校
(現・愛知県立旭丘高等学校)から1876年(明治9年)、東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、東京大学文学部政治科を1883年(明治16年)に卒業し文学士となる。在学中は西洋文学を学び、詩人の作品の他、同級の親友・高田早苗の勧めで西洋小説も広く読むようになった。1880年(明治13年)にウォルター・スコット『ランマームーアの花嫁』の翻訳『春風情話』(橘顕三名義)を刊行。また高田や、市島春城、小田一郎、石渡敏一などと神保町の天ぷら屋に通ったが、この時の経験が『当世書生気質』の題材になった。


その後、高田早苗に協力して、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となっている。1884年(明治17年)にウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳『泰西活劇 春窓綺話』(共訳、服部誠一名義)、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版。


1885年
(明治18年)に評論『小説神髄』を発表。小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。またその理論を実践すべく小説『当世書生気質』(「春のやおぼろ先生」名義)を著した。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。当時書生であった矢崎嵯峨の屋の作品を春の屋主人補助の名で出版されることもあった。


1889年
(明治22年)に徳富蘇峰の依頼で『国民之友』に「細君」を発表して後は小説執筆を断ち、1890年(明治23年)からシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。1891年(明治24年)、雑誌『早稲田文学』を創刊する。1897年(明治30年)前後に戯曲として新歌舞伎桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』などを書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。1906年(明治39年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。1913年大正2年)以降にも戯曲『役の行者』『名残の星月夜』『法難』などを執筆する。


『役の行者』は1913年に完成し、出版する予定となっていたが、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、作中の行者、その弟子の広足、女魔神の関係が、逍遥・抱月・須磨子の関係を彷彿させると考えて急遽、出版を中止した。1916年にこの改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表し、翌年『役の行者』の題で出版した。続いて1922年に再改訂作『行者と女魔』を発表。初演は1924年に、初稿によって、築地小劇場で最初の創作劇として上演され、高い世評を得た。その後も初稿および改訂版により上演が行われている。また同じ題材で、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』を1932年(昭和7年)に発表した。1920年には『役の行者』は吉江喬松によって「レルミット」(l'Ermite) の題でフランス語訳されて出版、詩人アンリィ・ド・レニュらによって賞賛を得た[3]


また、1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。


晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、訪ねて来るのは河竹繁俊くらいであったという[4]。町立熱海図書館(現・熱海市立図書館)の設置に協力しており、この図書館は「逍遥先生記念町立熱海図書館」「逍遙先生記念市立熱海図書館」を名乗っていた時期もあった(1936年7月より1944年8月まで)[5]。最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去した。


1935年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去。享年77。戒名は双柿院始終逍遙居士[6]

家族・親族妻
センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。2人には子がなく、逍遙は兄・義衛の三男・士行を7歳のときに養子に迎えたが、後年士行の女性問題が原因で養子縁組を解消している。また写真家・能笛家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女・くにを6歳の時に養女に迎えている。このくにの回想記『父逍遥の背中』(小西聖一編、中央公論社 1994年、中公文庫 1997年)には晩年の逍遥の様子が詳しく綴られている。甥の坪内鋭雄も早稲田大学を卒業後に作家となったが、日露戦争で戦死した。

主な作品
評論
・『小説神髄』1885年(明治18年)

小説
・『一読三嘆 当世書生気質』1885年(明治18年)

・『未来の夢』1888年

・『妹と背鏡』1889年

・『細君』1889年(明治22年)

戯曲
・『桐一葉』1894年(明治27年)

・『牧の方』1896年(明治29年)

・『役の行者』1916年(大正5年)

楽劇
・『新曲浦島』1904年(明治37年)

研究
・『シェークスピア研究栞』(『沙翁全集』40巻)1928年(昭和3年)

・『イプセン研究』(河竹繁俊編)1948年(昭和23年)

翻訳
・シェイクスピア全集の翻訳[7]

  ・『沙翁全集』全40冊、第一編(1909年(明治42年)12月)のみ冨山房と早稲田大学出版部との共同出版、第二編以降は早稲田大学出版部の単独出版。第40編は著述で『シェークスピア研究栞』(1928年(昭和3年)12月刊行)当初第23編迄は『沙翁傑作集』といい、第24編より『沙翁全集』と改称、以後最初の分も『沙翁全集』と改称している。


  ・『新修シェークスピア全集』全20函(全40冊、1函に2冊収納)中央公論社。上記早大出版部本の改訂であるが『オセロー』などはほとんど新稿といえるほど面目を新たにしている。(1933年(昭和8年)9月より1935年(昭和10年)5月迄配本)以後この版を底本として戦後に創元社(全1冊)、新樹社(分冊)等から新版が出されている。中央公論社版は誤植が目立ち、付録月報の『沙翁復興』には正誤表が掲載されている号がある。

書簡集
・逍遙新集『坪内逍遙書簡集』全6巻、早稲田大学出版部、2013年(平成25年)、ISBN 9784657138002

作品集
・『逍遙選集』全12巻、別冊3巻、春陽堂、1926年(昭和2年)-1927年(昭和3年) 編集者は無記名であるが坪内逍遙自選。明治24年以前の著作は旧悪全書だとして収録しない方針であったが、出版社などの要求により別冊として収録。


・『逍遙選集』全12巻、別冊5巻、第一書房、1977年(昭和52年)-1978年(昭和53年) 春陽堂版の復刊であると同時にそれに漏れた著作を別冊4巻、5巻に収録。事実上の全集。

脚注
1. 東京専門学校時代の学生 – 早稲田ウィークリー
2. 坪内逍遥「新旧過渡期の回想」(『早稲田文学』1925年3月号、『明治文学回想集(上)』岩波書店 1998年)
3. 河竹繁俊「解説」(『役の行者』岩波書店 1952年)
4. 2010年5月連載『私の履歴書』河竹登志夫
5. 熱海市立図書館 100年のあゆみ 第2回『逍遥先生記念町立熱海図書館』の開館」広報あたみ, 2015年5月号, p. 14
6. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)211頁
7. 夏目漱石は逍遙の「ハムレット」翻訳劇上演(1911年)を観て「沙翁劇は其劇の根本性質として、日本語の翻訳を許さぬものである」「博士はたゞ忠実なる 沙翁の翻訳者として任ずる代わりに、公演を断念するか、又は公演を遂行するために、不忠実なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた」と厳しく批判した。理由は「沙翁は詩人である、詩人の言葉は常識以上の天地を駆け回つてゐる」 「要するに沙翁劇のセリフは能とか謡とかの様な別格の音調によつて初めて、興味を支持されべきであると極めて懸らなければならない」(「坪内博士と『ハムレツト』」『漱石全集第16巻』岩波書店所収)。

参考文献
河竹繁俊柳田泉 『坪内逍遙』 冨山房、1939年

坪内士行 『坪内逍遙研究』 早稲田大学出版部、1953年

中村光夫 『日本の近代小説』 岩波書店、1954年

関連項目
日本の近現代文学史

イギリス文学

坪内逍遙大賞

早稲田大学坪内逍遙大賞

河竹黙阿弥

新舞踊

大野屋惣八

野口英世 - 『当世書生気質』を読んだのをきっかけに「英世」と改名する

外部リンク
坪内逍遥 | 近代日本人の肖像

財団法人 逍遥協会 - ウェイバックマシン(2013年10月26日アーカイブ分)

早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館

坪内逍遙 | 新潟市會津八一記念館

坪内 逍遥:作家別作品リスト - 青空文庫

著者・編者「坪内逍遥」の検索結果国立国会図書館デジタルコレクション

物語倶楽部インターネットアーカイブ

  ・ロミオとヂュリエット

  ・ヱ゛ニスの商人

  ・ヂュリヤス・シーザー

  ・お氣に召すまゝ

  ・十二夜

  ・ハムレット

  ・末よければ總てよし

  ・オセロー

  ・リヤ王

  ・マクベス
(wikiより)

2928  坪内逍遥

坪内逍遥

2928a

2928b

2928c

2928d

2928e

2928f



石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日慶応3年6月2日) – 1927年昭和2年)1月28日)は、日本小説家。本名、助三郎横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。


尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。

経歴
1867年(慶応3年)6月2日、横浜弁天町石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。このころ川上眉山と知り合い、進文学舎を経て入った大学予備門では、同期に尾崎紅葉がいた。東京帝国大学法科に進学したが、文科に移った後退学。


1885年(明治18年)、紅葉、山田美妙丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、「我楽多文庫」を発行する。これに処女作「仇桜遊里廼夜嵐」を発表した。當時雨香と号していたが、石橋思案を筆名とし(思案とは、父祖の故郷長崎にある思案橋に因む)、「花盗人」(1889年)、「乙女心」(1889年)、「京鹿子」、「わが恋」(1894年)などの小説を執筆した。一方、自劣亭と号し都々逸でも活躍した(「我楽多文庫」が都々逸を掲載するのをやめる際、廃止反対をしている)。


だが戯作臭の強い作品は読者に受け入れられず、1895年(明治28年)、博文館より『文芸倶楽部』が創刊されるにあたって編集主任を任された。この後、「いさみ新聞」、「名古屋中京新聞」、「團々珍聞」と渡り歩き、「中央新聞」では主任、「読売新聞」では社会部長となる。1903年(明治36年)、再び博文館に入り、『文芸倶楽部』の編集にたずさわった。1916年(大正5年)、博文館を退社、1927年(昭和2年)1月29日、脳溢血のため死去した。


福田恒存年譜には、思案が恒存の名付け親だと書かれている。

関連項目
石橋氏

大橋乙羽

外部リンク
石橋思案

石橋 思案:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

辞世の句は「極楽か地獄が我は知らねどもなるべく来るなこんなところへ」

2802a

2802b



江戸時代の戯作者、滝沢馬琴 ( 1767 ~ 1848 ) は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。


これを供養するため、馬琴の生い立ち ( 1810 ) に、青雲寺境内の山 ( 現在の西日暮里公園付近 ) に築いたのが筆塚である。


文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。


額字の「瘞聿冢名 ( ふでをうずめしつかのめい )は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷棭斎 ( かりや - えきさい ) 筆。


由来は儒学者の亀田鵬斎 ( かめだ - ほうさい ) が撰文し、筆をとった。


日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。


明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。


明治三十九年 ( 1906 ) には、前田家墓地から馬琴愛用の硯 ( すずり ) などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。
(案内板より)

2790a

2790b

2790c

2790i

2790d

2790e

2790f

2790g

2790h

2790j

⇧⇩ 硯塚の碑

2790k

2790l

2790m

2790n



北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝継室


伊豆国
豪族北条時政の長女。子は頼家実朝大姫三幡。兄弟姉妹には宗時義時時房阿波局時子など。


周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。


なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。

生涯
流人の妻
政子は伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた。


伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。


頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている。 しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。


なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。


曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙なを見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする「夢買い」をした。


また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。


頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。


治承4年(1180年)、以仁王源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。


頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。

御台所
養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。


政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国流罪にさせた。


政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くのを持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかった。


その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。


寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。


義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。


範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。


範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。


平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。


政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。


同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。


奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。


建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は密かに会いに来ている。


建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺されている。


大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。


建久6年(1195年)、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。


頼朝は次女の三幡を入内させようと図るが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれる。親鎌倉派の関白九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、頼朝は再度の上洛を計画するが、建久10年(1199年)1月に落馬が元で急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。

尼御台
長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家してになり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。


若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。


頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。


頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。

頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。


建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。頼家は翌元久元年(1204年)に死去している。


だが比企氏滅亡や頼家の死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀については北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺された。また同じく『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。


頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。


実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。


政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。


建保
6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従二位に叙されている。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。


実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。


建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

尼将軍
実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。


承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。


政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。

軍議が開かれ箱根足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。


後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。

貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。


だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[1]


泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。


嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。

詳しいことは、「北条政子ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90
(wikiより)

2769b

2769a

2769c



高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年明治7年〉2月22日 - 1959年昭和34年〉4月8日)は、明治大正昭和の3代にわたる俳人小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。


ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

経歴
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内(いけのうち)政忠の5男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り池内姓を継がせた。


1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)、子規より虚子の号を授かる。「虚子(キシ)」の名は本名の「清(キシ)」に由来している。


1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学する。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京市下谷区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。このころ虚子は学業よりも放蕩の時代であった。なかでも娘義太夫に入れあげ、そのなかの小土佐に「恋した」(河東碧梧桐『寓居日記』)。この娘義太夫については、自身の小説『俳諧師』でも思いがつづられている[1]1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも「アシは学問する気はない」と拒否した「道灌山事件」が起きた。


1897年(明治30年)、元は碧梧桐の婚約者であったが碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚した。1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも、母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由として除籍され、生活に困窮する。子規の協力を得て、前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす(ホトトギス)』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。


1910年
(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住する。以来、亡くなるまでの50年間を同地で過ごした。1913年大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰する。このとき、碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰に『ホトトギス』の編集一切を任せる旨を表明した[2]


1937年昭和12年)、芸術院会員。1940年(昭和15年)、日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。


1954年
(昭和29年)、文化勲章受章。1959年(昭和34年)4月8日、脳溢血のため、鎌倉市由比ガ浜の自宅で永眠[3][4]。85歳没。墓所は鎌倉市扇ヶ谷寿福寺戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだとされるが、現在活字として確認出来る句数は約2万2千句である。


2000年
平成12年)3月28日、小諸市の疎開先旧宅である「虚子庵」に小諸高浜虚子記念館が開館した。同年4月には、兵庫県芦屋市虚子記念文学館が開館した。

作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。


しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には、かつての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。


俳壇に復帰したのち、虚子つまり『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』であったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。


『ホトトギス』からは飯田蛇笏水原秋桜子山口誓子中村草田男川端茅舎松本たかしなどを輩出している。

代表作
・遠山に日の当たりたる枯野かな

・春風や闘志抱きて丘に立つ

・去年今年貫く棒の如きもの

・波音の由井ガ濱より初電車

・吾も亦紅なりとひそやかに

・子規逝くや 十七日の 月明に

・流れ行く大根の葉の早さかな


虚子の作品は2009年12月31日に著作権が消滅し、2010年1月1日よりパブリックドメインに入った。

句集
・『虚子句集』(昭和3年(1928年)6月、春秋社) 虚子初めての句集

・『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社) 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓

・『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店) 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓

・『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂) 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓

・『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店) 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓

・『七百五十句』(昭和39年(1964年)) 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓

・『虚子俳話』(昭和33年(1958年)2月、東都書房) 『朝日新聞』に連載した「虚子俳話」をまとめて刊行

・『句日記』((1)昭和11年(1936年)11月、改造社~(6)昭和35年(1950年)6月、新樹社)

・『虚子百句』(昭和33年(1958年)12月、便利堂) 100句を選び短冊に揮毫、ほぼ同じサイズに印刷した大作。年尾・立子の解説つき。

小説集・創作集
・『寸紅集』(明治33年(1900年)12月、ホトトギス発行所) 正岡子規との共編による写生文集

・『帆立貝』(明治39年(1906年)12月、俳書堂) 坂本四方太との共編による写生文集。虚子はこれを機に小説に傾いてゆく。

・『鶏頭』(明治41年(1908年)1月、春陽堂)

・『俳諧師』(明治42年(1909年)1月、民友社出版部)

・『柿二つ』(大正5年(1916年)5月、新橋堂)

・『伊予の湯』(大正8年(1919年)4月、秀美社)

・『虹』(昭和22年(1947年)12月、苦楽社)

文学館
虚子記念文学館

神戸文学館

鎌倉虚子立子記念館 - ウェイバックマシン(2004年6月13日アーカイブ分)

栄典


1959年(昭和34年)4月8日:勲一等瑞宝章

高浜虚子の一族・姻戚
高濱年尾 - 虚子の長男。俳人。「ホトトギス」三代主宰。

池内友次郎 - 虚子の次男。作曲家、音楽教育家、俳人。

星野立子 - 虚子の次女。俳人。「玉藻」初代主宰。

高木晴子 - 虚子の五女。俳人。「晴居」主宰。

上野章子 - 虚子の六女。俳人、随筆家。「春潮」二代目主宰。

稲畑汀子 - 虚子の孫(年尾の次女)。俳人。現「ホトトギス」名誉主宰、日本伝統俳句協会会長。

星野椿 - 虚子の孫(立子の子)。俳人。現「玉藻」名誉主宰。

坊城中子 - 虚子の孫(年尾の長女)。俳人。現「花鳥」名誉主宰。

遠藤郁子 - 虚子の次男・友次郎の元妻。ピアニスト。

星野天知 - 虚子の次女、立子の義父。作家。『女学生』主筆、『文学界』創刊編集人。

新田義美 - 虚子の三女・宵子の夫。男爵新田岩松家の当主。

上野泰 - 虚子の六女・章子の夫。俳人。「春潮」初代主宰。

坊城としあつ - 虚子の孫・中子の夫。俳人。坊城家

藤島泰輔 - 虚子の孫・朋子の元夫。小説家、評論家。

宇佐美承 - 虚子の孫・公子の夫。ノンフィクション作家。

稲畑廣太郎 - 虚子の曾孫(汀子の子)。俳人。現「ホトトギス」主宰。

星野高士 - 虚子の曾孫(椿の子)。俳人。現「玉藻」主宰。

坊城俊樹 - 虚子の曾孫(中子の子)。俳人。現「花鳥」主宰。


脚注
1. 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』(岩波新書)154ページ
2. 秋元(1966):130ページ
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁
4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)184頁

参考文献
秋元不死男(1966年) "嶋田青峰のこと" 俳句 (角川書店).15(7):130-134.

・富士正晴 『高浜虚子』 角川書店、1978年

・清崎敏郎 『高浜虚子-新訂俳句シリーズ・人と作品5』 桜楓社、1980年 ISBN 9784273003371

・『高浜虚子-新潮日本文学アルバム38』 新潮社、1994年 ISBN 9784106206429

・恩田甲 『入門 高浜虚子』 おうふう、1995年 ISBN 9784273028220

・『郷土俳人シリーズ3-高浜虚子』 愛媛新聞社出版局出版部編、愛媛新聞社、1997年 ISBN 9784900248403

中岡毅雄 『高浜虚子論』 角川書店、1997年 ISBN 9784048841153

・中田雅敏 『高浜虚子-人と文学』 勉誠出版〈日本の作家100人〉、2007年 ISBN 9784585051886

・『高浜虚子の世界』 「俳句」編集部編、角川学芸出版、2009年 ISBN 9784046214003

宗内敦(2009)「人は何故書くのか-第二芸術論と高浜虚子」(『二言、三言、世迷い言』書肆彩光 2011年)

外部リンク
高浜虚子:作家別作品リスト - 青空文庫

虚子記念文学館

ホトトギス

系図
(wikiより)


2767  高浜虚子

高浜虚子


2767a

2767b

2767c



大橋 乙羽(おおはし おとわ、明治2年6月4日1869年7月12日) - 明治34年(1901年6月1日)は、日本小説家編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。


硯友社
に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿[1]・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった[1]。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。

経歴
明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。乙羽は6男で、後に実家の屋号をもじったペンネームをつけた[1]。北堤小学校に入り、この頃から作文などが得意であった。


卒業後、山形十日町の呉服商「富士屋」で商売の見習いをしていたが、次第に文学を志して実家へ戻った。友人と雑誌を作ったりした後、20歳のときに磐梯山爆発の記事を『出羽新聞』に載せ、これが出版社東陽堂主人の吾妻健三郎の目に留まり、上京して東陽堂に入社した。


風俗画報』『絵画叢誌』を編集し、政治小説『霹靂一声』などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。『こぼれ松葉』『露小袖』『霜夜の虫』などを書き、『上杉鷹山』の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。


尾崎紅葉
の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女とき(時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、博文館では『文芸倶楽部』のほか総合雑誌『太陽』の編集も手掛けた。写真を多用した雑誌『太平洋』を立ち上げて自らカメラマンもする[1]など、多くの雑誌を成功させた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。


樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合った。翌1896年には一葉の『たけくらべ』を『文芸倶楽部』に一括掲載して世に名を成さしめ[1]、さらに乙羽の依頼で一葉は『ゆく雲』『にごりえ』など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。


乙羽は紀行文にも妙があり、思案と東北を旅した際の『奥州日記』、1900年に外遊した際の『欧山米水』、特に紀行文集『千山万水』は有名である。この外遊時にはパリ万国博覧会_(1900年)に合わせて開かれた著作権に関する国際会議に出席した[1]


帰国後の1901年、腸チフス筋膜炎を併発し、6月1日午前6時に没した。

著書
・『霹靂一声』二橋散士(大橋又太郎) 松成伊三郎 1889年

・『こぼれ梅 金玉均遺案』蚯蚓庵主人 鳳林館 1893年(未確認)

・『二人若衆』駸々堂 1896年

・『累卵の東洋 政治小説』東京堂 1898年

・『若菜籠』博文館 1898年

・『花鳥集』博文館 1899年

・『千山万水』博文館 1899年

・『藤侯実歴』(伊藤博文)博文館 1899年

・『初子集』博文館 1899年

・『風月集』博文館 1899年

・『欧山米水』博文館 1900年

・『耶馬渓』博文館 1900年

・『欧米小観』博文館 1901年

・『大正俳家伝』国華社出版部 1924年(未確認)

編著
・『名流談海』編 博文館 1899年

・『教育戊申勅語画談 教育勅語の部』編 富田文陽堂 1910年(未確認)

翻訳
・『探偵小説 銀行の秘密』二橋生、刀川子訳 春陽堂 1893年

脚注
1. a b c d e f 安藤貞之:文豪鍛えたマルチ編集者◇樋口一葉ら支えた「大橋乙羽」自ら執筆や写真発表◇日本経済新聞』朝刊2020年2月6日(文化面)2020年2月8日閲覧

外部リンク
国際日本文化研究センター共同研究報告『編集者大橋乙羽』坪内祐三
(wikiより)

2752a

2752b

2752c



長沢別天 ( ながさわ - べってん ) / 長沢 説    
慶応 4年 5月 1日 ~ 明治 32年 11月 22日 ( 1868 - 1899 )

文学評論家・ジャーナリスト。

本名、説 ( せつ )。号、半眼子・坂東太郎・別天楼・渺茫居士 ( びょうぼうこじ )。

土浦藩重臣・長沢岩五郎 ( 長男 )。

常陸国出身。

功玉社・立教学校に学び、江東義塾の教員となる。

「学」・「書生」・「筆之力」の同人。

「江湖新聞」記者を経て明治 23年 ( 1890 ) 国粋政治文化団体の「政教社」に入る。

三宅雪嶺のもと「日本人」、「亜細亜」も編集をする。

明治 24年 ( 1891 ) アメリカ留学。

明治 26年 ( 1893 ) 帰国し、鎌倉で保養、アメリカ論「ヤンキー」を著す。

ミルトンやバイロンの英文学の紹介に尽力し、明治 27年 ( 1894 ) 社会主義に共鳴して「政教社」の雑誌「日本人」に「社会主義一斑」という研究論文を連載し、マルクス紹介号で発禁処分を受けた。

「山陽新報」主筆を経て、明治 31年 ( 1898 )「東京朝日新聞」に入社、政治主任となる。内藤湖南・田岡嶺雲と交流あり。

エドガー アラン ポーの詩を初めて紹介。

肺結核で没する。32歳没。「長松院文淵別天居士」。

著書:「盲詩人」。

2698a

2698b



↑このページのトップヘ