本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
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カテゴリ: 落語家・手品・曲芸師・花火・囲碁将棋・富くじ

尾道文治の墓碑

尾道文治こと落語家・桂文治は、師弟関係などは不明だが、六代目・桂文治と親しくしていた。


落語の舞台からおりてから旅回り専門の芸人としている頃から尾道に居ついた。


舞台では「お岩」が十八番であった。


尾道では久保一丁目丹花小路に住み当寺の檀家で地元の豪商であった田坂卯三郎の支援を受け、時折宴の席などで芸を披露し易学や占いなどで生計を立て過ごした。


一九〇五年 ( 明治 38年 ) 七月に九十三歳で生涯を閉じ、田坂卯三郎によって当寺に葬られた。


この墓は戦前まで国道二号線上にあったが、戦後まもなく永代供養塔に移った。


しかし平成二十八年初代・桂文治没後二百年にあわせてこの場所に移してお祀りした。


戒名は「辨誉秀音信士」、横には「丹頂文治藝姓桂 享年九十三才」とある。


なお千光寺にも桂文治之碑がある。
(案内板より)

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山縣 有朋(やまがた ありとも、常用字体: 山県有朋、1838年6月14日天保9年閏4月22日〉- 1922年大正11年〉2月1日)は、日本武士長州藩士)、陸軍軍人政治家階級元帥陸軍大将位階勲等功級爵位従一位大勲位功一級公爵内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第39代)、司法大臣第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。

概要
幼名は辰之助、通称は小助、文久4年(1864年)以降は小輔、さらに狂介・狂助・狂輔[1]。変名として萩原鹿之助の名も用いた[2]明治4年以降に有朋のを称した[2]。号は明治四年までは素狂、以降は無隣庵主、含雪[3]


長州藩
領内の足軽の子として生まれたが、学問を修めて松下村塾に入り、尊王攘夷運動に従事するようになった。高杉晋作が創設した奇兵隊ではナンバー2である軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治政府では陸軍内務省のトップを歴任し、二度の首相を経験し、伊藤博文に匹敵する藩閥の最有力者となった。伊藤の死後は最有力の元老、すなわち「元老中の元老」[4]と称される事実上の首相選定者となり、軍部・官界・枢密院貴族院に幅広い「山縣閥」を構築したことで、明治時代後期から大正時代前期の日本政界に大きな影響力を保った。

生涯
幼少期
天保9年閏4月22日1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元仲間組の山縣三郎有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれた。長州藩における蔵元仲間組は戦時には武具を運び、平時には奉行所の下役人として働く足軽であり、両刀を差すことはできたが、一般の武士より低い扱いを受けていた[5]。母は有朋が数え年5歳の頃に病没し、厳格な祖母のもとで育てられた[6]。有稔は手子役という、奉行所の下級職人であったが、国学を学び歌を読むなど、学問に優れていた[7]。その父から勉強を教えられた。15歳で元服し、蔵元両人所、次いで明倫館の手子役となった[7]。その後は代官所の手子役となり、農村を回って実務を学んだという[8]。その後御徒目付の家来の横目役についた。この頃には撃剣・槍術などの武芸にも励み、23歳頃には宝蔵院流の使い手として藩内で知られていたという[9]。友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[10]

尊譲志士
安政5年(1858年)7月、時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者が京都に派遣されることとなった。派遣された6名のうち、4人は杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を始めとする松下村塾の塾生であり、山縣が選ばれたのは杉山が吉田松陰に推薦したためであるという[11]。京都では尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化されて尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した[12]。しかし翌月には松陰は謹慎の身となり、まもなく獄に下り刑死することになった[13]。山縣は松陰から大きな影響を受けたと語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた[注 1]。入塾間もない山縣に咎めはなかったが、他の塾生を入獄させないよう藩の重役に直談判するなどしている[12]


万延
元年(1860年)には薩摩藩の動向を探るため、書状の届け役として薩摩に潜入しているが、警戒が厳しく薩摩弁も理解できなかったために役目を十分に果たせなかった[15]。この年には父有稔が病没している[15]

文久3年(1863年)1月3日には「尊皇攘夷」の正義をわきまえていると賞され、終身の士分に取り立てられた[16]。2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなった[17]。その後はリウマチを患って療養していたが、9月頃からは高杉が創設した奇兵隊に関与するようになり[18]、12月23日に3代目総管・赤禰武人のもとで、副官に当たる奇兵隊軍監と壇ノ浦支営の司令に就任し、兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ[19]

長州防衛線
元治元年(1864年)、長州藩では軍を率いて上洛するという声が盛んになった。山縣は岡山藩広島藩と連携するべきと考えていたが、容れられなかった。6月には池田屋事件が京都で発生、旧友の杉山が命を落とした[20]。長州の藩論は激高し、久坂玄瑞や入江九一などが京都に潜入した。山縣も上洛を願い出たが、下関海峡の警護が重要であるとして、藩主命令で差し止められた[21]。7月19日には禁門の変が発生し、久坂と入江ら同門の友人たちが命を落とした。


さらに8月には下関海峡を四カ国連合艦隊が襲撃した。この下関戦争で、山県は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している[22]。さらに第一次長州征討をうけたことで、幕府に恭順しようとする椋梨藤太ら俗論派が台頭した。これに高杉ら正義派は反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。総管赤禰は俗論派との話し合いを考えており、山縣は反乱が時期尚早と考えていたため同調しなかった。しかし俗論派によって正義派の前田孫右衛門ら(甲子殉難十一烈士)が斬罪にされたことで、奇兵隊をふくむ諸隊では反俗論派の声が高まった[23]。翌元治2年(慶応元年、1865年)1月2日、赤禰が奇兵隊を脱走し、山県が事実上奇兵隊を掌握した。1月5日には高杉を支援することを決め、以降は俗論派との戦闘で次々に勝利を収め、正義派を勝利に導いた[24][25]。しかし2月6日頃から病気となり、5月6日に一旦軍監を免じられ、一ヶ月後に復帰している[26]。またこの年の3月、山縣を育て上げた祖母が、山縣から贈られた反物で作った着物を纏って入水自殺を遂げた[27]。後年、山縣は祖母が足手まといになってはならないと考えて自殺したのではないかと推測している[27]


慶応2年(1866年)の第二次長州征討では奇兵隊の実権を握り、高杉の海軍と協力して小倉を占領する活躍を見せた。その後7月27日赤坂・鳥越の戦いなどでは小倉藩兵の抵抗に苦しめられるなど、12月28日の和睦まで最激戦地の小倉口を戦い抜いた[28]。慶応3年(1867年)2月、山縣は木戸孝允の支配下として京都と摂津の間で事情探索を行うことを命じられた[29]。しかし死の床にあった高杉に引き止められてすぐには出発せず、4月に高杉の葬儀を済ませ、5月2日に上洛した[29]。京都では薩摩藩の倒幕派である西郷隆盛大久保利通黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、薩長の連携計画を打診したが、倒幕計画のリスクをためらっていた薩摩上層部からははかばかしい返事は得られず、6月に帰藩した[30][31][32]。上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている[33]


その後11月まで薩摩藩が倒幕への動きを見せず、山縣は疲労と心労で病気となり、7月には一時軍監を免じられている[34]。11月17日、討幕の密勅を受けた薩摩藩主島津茂久が長州の三田尻港に到着し、11月25日に薩長連合軍が京都に向けて出港した[35]。しかし山縣ら奇兵隊本隊は本営のある長州吉田に残り、翌慶応4年(明治元年・1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった[36]

戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊本隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従えて3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。また北陸地方越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった(ただし、福田は木戸と西国へ行き離脱)[37]


戊辰戦争(北越戦争会津戦争)では黒田とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏4月19日高田で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日鯨波戦争桑名藩兵に勝利し、翌28日柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた[38]


しかし、越後口では長岡藩家老河井継之助と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられ、5月13日朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山県は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる[注 2]。膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山県はなすすべもなく西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども城外へ逃げ出す羽目になった[41][42]


それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際に河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み日本海を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、新潟港を落とし新発田藩を寝返らせたこともあり、4日後の29日に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した。それから東へ進軍して9月18日から会津城籠城戦で包囲軍に加わり、4日後の22日会津藩降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩長兵間の対立が続き、特に長州藩兵の黒田参謀への不満は高まる一方であった[43]。このため山縣は一時参謀を辞職したが、改めて参謀に任ぜられた[43]。薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している[44][45]


明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている[46]

日本陸軍の建設
明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した[47]。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日横浜港に到着した。


帰国後には兵部省のポストに就くよう勧誘されたが、当初は病気を理由として承諾しなかった[48]。これは山縣の友人であった兵部大輔・前原一誠が直前に木戸と対立して辞表を出していたため、それに配慮してのことであった[48]。当時の兵部省は兵力も少なく、皇居の護衛程度しか任務がない小官庁であり、兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視や木戸・大久保利通ら文官も強い影響力を持っていた[49]。さらに兵部少丞の山田顕義との関係は希薄であり、仮に上官となっても服従させられるとは限らなかった[48]。結局8月28日に山縣は兵部少輔に任命され、前原がまもなく辞職したことで、事実上の兵部省次官となった[50]。11月には徴兵制のさきがけとして、畿内五カ国から兵を募る計画を立てたが、実現はされなかった[51]


山縣は各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えていた[52]。明治3年12月、島津久光を東京に招くためとして岩倉が勅使として鹿児島に派遣され、山縣も随行した[53]。鹿児島では大久保・川村純義西郷従道とともに西郷を説得した。山縣は長州で木戸と面会した後、翌明治4年(1871年)1月末に帰京した。このころ木戸は廃藩置県実現の確信を得るに至ったが、それは山縣が薩摩から得た情報が元になっており、木戸は山縣に薩摩との連絡役を頼むなど、大きな信頼を寄せることとなった[54]。2月には日田騒動の鎮圧に関与している[55]。また廃藩置県後をにらみ、日本各地に旧藩兵を駐屯させる鎮台制度の調整を開始している[56]。山縣と西郷従道は兵部省内の改革を進め、4月には兵部省内の部局を陸軍と海軍に分けている。


6月25日には太政官の大改革が行われ、ほとんどの卿と大輔が辞任し、山縣も兵部少輔を辞任している[57]。6月29日には兵部少輔に再任された[57]。また、7月1日には大久保や大隈重信井上馨とともに、官制改正のための制度取り調べを命じられた[58]。7月6日には西郷の元を訪れ、廃藩の説得にあたっている[59]7月14日、廃藩置県の詔が出た日に兵部大輔に昇進し、卿のいない兵部省のトップとなった[60][61]。明治5年(1872年)2月27日、兵部省は陸軍省海軍省に分割され、山縣は陸軍大輔となった[62]。3月9日には山縣の上奏により御親兵が廃止されて近衛が設置され、山縣は近衛都督・陸軍中将にも任じられた[62]。また3月には鎮台制度が開始されている。明治6年(1873年)1月の2鎮台増設とともに、東京軍管で全国徴兵の前段階としての新兵募集が行われている[63]

一時的な失脚と明治六年政変
山城屋事件」も参照


当時、奇兵隊で山縣の部下だった政商山城屋和助は、兵部省を含む各省庁から借り入れをし、大きな利益を上げていた。また各省庁の官吏も山城屋から借金をしていた。しかし生糸価格が暴落したため、輸出を増やすために洋行したが、派手に豪遊したことで噂になった。司法卿の江藤新平は調査を行い、山縣の排斥運動につながった[64]。従来から反抗的であった薩摩系将校たちが辞職を迫ったことにより、山縣は6月29日に辞表を提出した[65]。辞表を受け取った明治天皇は西郷隆盛・従道兄弟に調停に入るよう命じた。調停の結果、山縣と従道が近衛都督と副都督を辞任し、西郷隆盛が都督となることで収拾を図ることとなった。この後山縣が山城屋に帰国を求め、借金の返済を迫ったところ、山城屋は関係書類を焼却して陸軍省内で割腹自殺を遂げた。薩摩派の山縣攻撃は更に強まり、明治6年4月に山縣は再度辞表を提出した。この際、陸軍大輔の辞任のみが認められ、陸軍中将の地位は保つこととなった[66]。しかし山縣なき陸軍の瓦解を恐れた西郷・大隈重信井上馨らは、4月29日に山縣を陸軍御用掛として陸軍卿代理に任じた[67]。6月8日には陸軍卿兼任を求められ、辞退したものの認められず、陸軍卿を務めることとなった[68]


7月から山縣は各鎮台巡視を行い、10月の明治六年政変に直接関与することはなかった。山縣は当時閣議のメンバーではなかったが、政変後の10月26日に帰京した際もなかなか木戸の元を訪れないなど煮え切らない態度をとり、木戸の怒りを買うこととなった[69]。伊藤之雄は恩人である西郷との対立に消極的であったためと見ている[70]。政変後の人事では山縣以外の卿はすべて参議となったにもかかわらず、木戸の反対により山縣のみ参議となれなかった[71]。その後も大久保利通伊藤博文、岩倉らはなおも山縣の参議就任を働きかけている。一方で陸軍省内での山田顕義派閥との対立が激化し、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、近衛都督に就任した[71]。2月22日には参謀局(後の参謀本部)が設置され、参謀局長に就任した。しかし立場は不安定であり、佐賀の乱台湾出兵に関与できなかった[72]。しかし台湾出兵での西郷従道の独断出兵に不安を覚えた大久保は、出兵反対派であった山縣の再起用を考え、6月30日に陸軍卿に再任された[71]。8月に大久保の推薦で参議に就任した[73]。またこの頃からは一時険悪であった木戸との関係も修復されている[74]

西南戦争
明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では、当初大久保など政府中枢は西郷が加担することはないと考えていたが、山縣は「西郷は固より(もとより)この騒動に与する考えはなくとも、是迄の情誼においては、私学校党の徒は、必ず西郷を担ぎ出すに違ひがない」と見ていた[75]。山縣は陸軍卿兼任のまま、現場総指揮官である参軍に就任した[76]。海軍側の参軍として川村純義も就任したが、陸軍が中心であった政府軍の戦略の中心を担うこととなる。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。薩軍挙兵前の1月28日に、不穏な鹿児島情勢を警戒し、山縣は陸軍少輔大山巌熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を滞在中の京都から命じて、小倉の歩兵第14連隊から一個中隊を派遣して長崎港の防備を固めた。はたして薩軍は2月5日に挙兵、山縣は2月10日に太政大臣三条実美の許可を得て大山に命じて近衛歩兵第1連隊東京鎮台歩兵第1大隊・東京鎮台山砲兵第1大隊への出帥準備させ、大山は2月14日に薩軍鹿児島進発の報を受けて順次兵員を出動させた。熊本鎮台の兵が籠城する熊本城を攻めあぐねた薩軍は一部を残して北上、博多港から南下した援軍の政府軍と田原坂など周辺で激突した[77][78][79][80]


3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破できず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案が閣議で採用され、征討参軍となった黒田清隆を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が編成された。3月18日から22日ににかけて別動第二旅団は熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。それにより植木の薩軍は撤退、山県の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山県が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、山縣と黒田の対立が激化したため、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山県の下に属し従軍を続けた[81][82][83]


撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山県は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、ほかの戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後、山県は軍の指揮を執り、南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、ほかの戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている[84][85][86]


態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った[注 3]。内容は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮ったうえで、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった[88][89][90]


政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した山県は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだとのちに回想している[91]。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった[92][93][94]

詳しいことは、「山縣有朋ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
(wikiより)

1845 山縣有朋

山縣有朋

1845a

1845b



3代目 蝶花楼 馬楽(ちょうかろう ばらく、元治元年(1864年4月15日 - 大正3年(1914年1月17日は、落語家。本名:本間弥太郎。俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」。


芝の袋物商(またはセリ呉服)の本間要助の子として生まれる。若い時から放蕩に身を持ち崩して勘当される。止むなく博徒新場の子安の元で居候となる、このころから落語や講談の真似をしていた。1886年ころ、一家の余興で演じた物真似が偶々居合せた3代目春風亭柳枝に見出され、噺家となる。


最初の名が初代春風亭千枝。才能を認められわずか一年足らずで二つ目昇進。仲の好かった兄弟子春風亭傳枝(本名:金坂巳之助 後の5代目桂才賀)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸で売り出す。だが、飲む打つ買うの道楽が納まらず、賭博の現行犯で逮捕されることもたびたびあり、1か月の間懲役刑となる憂き目に合い、ついに師匠柳枝から破門される。


1897年
ころ、一時桂市兵衛と名乗るが、翌1898年3代目柳家小さん一門に移籍し、同年3代目蝶花楼馬楽襲名。しかし、襲名を巡って2代目蝶花楼馬楽の遺児であった顔役「森定」が挨拶もなしにと寄席に殴り込まれるトラブルが発生する。


馬楽襲名後も荒んだ生活態度が改まらず、道楽に走っていたが、才能を惜しむ小さんの後押しで1905年雷門小助六(本名:鶴本勝太郎 後の4代目古今亭志ん生)、初代柳家小せん(本名:鈴木万次郎)と共に「落語研究会」前座に抜擢され、俄然注目される。同年真打昇進。江戸前の芸風に鋭い警句をはさむ詩情豊かな高座で人気を集め、志賀直哉岡村柿紅久保田万太郎岡鬼太郎斎藤緑雨など文化人に愛された。歌人の吉井勇も熱心な馬楽ファンで『いやさらに寂しかるらむ馬道の馬楽の家の春も暮るれば』という歌を詠んでいる。


馬風自身も文人めいた清貧の生活を送った。連日のように吉原に通うので浅草馬道の自宅には、めぼしい家財道具や蓄えも無かった。だが、おびただしい数の書籍が箱に収められていた。また俳句も好くし『長屋の花見』のマクラに好く使われている『長屋中歯を食いしばる花見かな』『古袷秋刀魚に合わす顔もなし』などの佳句を残している。茶目っ気に富み、友人に頼んで「加藤清正蔚山に籠る。谷干城熊本城へ籠る。本間弥太郎当家の二階に籠る。」と紙に書いてもらい、それを玄関に貼って家主と交渉して家賃を負けさせたという。また電鉄庵馬楽の雅号も持っていた。これはこのころ東京市内を走っていた鉄道馬車電気軌道に変わったことで「馬が楽をする」という自らの芸名に引っかけた洒落である。


人気絶頂期にあった馬楽だが、長年の遊び過ぎから健康は衰えていた。1910年3月ころに精神に異常を来すようになる。弟子も家族もない馬楽は、師匠小さんや友人たちの援助で養生するが、入退院を繰り返し、ついに弟の家で胃癌のために没した。死後、谷中浄名院に『馬楽地蔵』が師匠小さんによって建立された。戒名は『釈浄証信士』。


馬楽の死後、馬楽の名は弟弟子の5代目柳家小三治(後の4代目柳家小さん)が後に襲名し、以後、小さんの弟子達が馬楽を名乗っている。


得意ネタは前述の『長屋の花見』『雪てん』『居残り佐平次』『蒟蒻問答』など。
(wikiより)

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本名村井むらい 正秀まさひで
生年月日1932年2月1日
没年月日2002年2月2日(70歳没)
出身地日本の旗 日本東京都新宿区
師匠二代目海老一海老蔵
活動期間1945年 - 2002年
家族三遊亭圓駒(父)
海老一染之助(弟)
所属落語協会


海老一 染太郎(えびいち そめたろう、1932年2月1日 - 2002年2月2日[6])本名は村井 正秀

兄。東京都新宿区出身。盛り立て役。2002年2月2日、胃がんのため死去。70歳没。誕生日を迎えた翌日のことであった。

ナンシー関によると、マネージメントは染太郎が担当していたという。また、英語も達者であったとのことである。

略歴
1945年9月
 ・二代目海老一海老蔵9代目桂文楽の妻の父親)に入門。

1946年12月
 ・新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」の名で初舞台を踏む。

1949年
  ・「海老一染之助・染太郎」に改名。

1960年5月
 ・旧:ソ連文化省より招聘を受け旧:ソビエト連邦にて公演。初の海外公演。

1965年2月
 ・米国ABCテレビ出演。

1982年10月
 ・フジテレビ笑っていいとも!」にレギュラー出演( - 1989年3月)。

1989年3月
 ・CDシングル「おめでとうございます!!」をリリース。

2002年2月
 ・染太郎、死去。以後、染之助がピンで活動。

2003年1月
 ・落語家の林家木久蔵と共に「海老一染之助・木久太郎」を正月限定で結成。

2004年1月
 ・落語家でタレントの桂米助と共に「お染ブラザーズ2004」を正月限定で結成。
 ・「おめでとうございま〜す」の着ボイスが、「いろメロミックス」内「着と〜く」にて配信開始。

2017年12月
 ・染之助、死去。

エピソード
・染之助が芸を見せ、染太郎が話術で楽しませるというスタイルが定着していたが、染太郎が芸を見せることも稀にあった。

・芸風が芸風であったために、通夜・葬儀に来てほしくないタレントNo.1に選ばれたことがある。しかし、2人の恩人にあたる人物が死去した時には、故人の妻の頼みもあり芸を披露した。

海原千里・万里千里が妹、万里が姉)、海原やすよ・ともこ(やすよが妹、ともこが姉)らと同じように、弟である染之助の名前が先に来ている。やすよ・ともこは妹の方が先に弟子入りしたためであるが、村井兄弟については情報がないため不明。

春風亭小朝に一時期芸を教えていたことがあり、「あいつが出てくるだけでお正月と思える、明るいオーラがある」などと称えていた。

・「ミスターお正月 お正月と言ったら誰?」というアンケートで、1位をとったことがある。

・染之助は滅多に怒らない人物で「ヨイショの染さん」と呼ばれていたが、後輩芸人が染太郎に対し無礼な態度をとったときは、本気で激怒した。しかし、言った本人は冗談のつもりであったため、怒られた時はおろおろしていた(芸人仲間の連載より[要出典])。

・「スターどっきり(秘)報告」(1988年5月6日放送分)でやくざの宴会に呼ばれて芸をし、やくざが絡んで怖がらせたところでドッキリというシナリオだったが、染之助が絡まれて染太郎が突如激怒し、やくざ役を怒鳴りつけた。予想外の展開に、ネタばらし役の芸人も怯えながら登場する羽目となった。

・舞台での兄弟の掛け合いは見事なものだったが、実生活では兄弟仲が悪く、楽屋で喧嘩になることもあったという(本人コラムより[要出典])。ひとつには2人の芸の役割による確執もあるとされている。

・染太郎死去の際、染之助は葬儀会場に居並ぶ報道陣の前で号泣しながら「日本国中、世界の皆さまのお幸せを心から祈念して、まいります。『おめでとうございまーす!』」と絶叫した。

・染太郎死去直後、染之助は笑点の番組上で林家木久蔵(現在の木久扇)とのコンビで掛け合いを見せた。


主な台詞
・「おめでとうございまーす!!
・「ありがとうございまーす!!」
・「いつもより余計に(または、多く)回しております!!」
・「喜んでやっております」
・「弟は肉体労働、兄は頭脳労働、これでギャラは同じなの」
・「オープン・ザ・傘」
・傘で枡を回して「これを見た人、今後ますますご発展」
・「土瓶を回して落とすと損をします、これがほんとの土瓶損クルーソー」
・「土瓶の蓋を取るとき、身が落ちることもあります、身も蓋もない」
・「胸がドビンドビン」

出演
テレビ番組
ボキャブラ天国(キャッチフレーズは「ミスター正月」、お染ブラザーズ名義)
初詣!爆笑ヒットパレード[7][8]
笑っていいとも!(1982年10月 - 2014年3月※木曜日担当)
女橋(染之助のみ)
元祖どっきりカメラ
笑点

ラジオ番組
・染之助・染太郎のビバ!シルバー(文化放送

パチンコ
・「CRおめでとうございまーす」(2004年1月、ニューギン)

映画
Jリーグを100倍楽しく見る方法!!

ゲーム
半熟英雄対3D

CM
永谷園 - 即席みそ汁 柳家小さんと共演、1980年
ロッテ - クランキーチョコレート 1986年
サンヨー食品 - サッポロ一番 東京やきそば・これだね 1989年
ワットマン - 1990年
カネボウ ファッションカラー - 1995年
ファミリーマート - 1996年12月ごろ
・トーヨー衛材(現在のリブドゥコーポレーション) - はくパンツ 1998年
サトウ食品 - お染ブラザーズ2004として
・健康サプリ鮫珠(染之助のみ)

脚注
1.海老一染之助』 - コトバンク
2. 海老一染之助さん死去 83歳「ミスター正月」兄弟で傘回し芸 - スポニチアネックス(2017年12月7日)2022年1月31日閲覧。
3. 
会社情報>役員一覧 - テレビ東京。2022年1月31日閲覧。
4. 
“訃報 海老一染之助さん83歳=太神楽の曲芸師”毎日新聞. (2017年12月6日) 2017年12月6日閲覧。 [リンク切れ
5.“海老一染之助さん、急性肺炎で死去 日本のお正月を彩り続けた傘回し芸”. 産経ニュース. (2017年12月7日) 2017年12月11日閲覧。
6. 
海老一染太郎』 - コトバンク
7. 海老一染之助・染太郎 - オリコンTV出演情報
8. 海老一染之助 - オリコンTV出演情報

外部リンク
海老一染之助
海老一染之助・染太郎 - NHK人物録
(wikiより)

0271 海老一染之助染太郎

0271a

0271b

0271c


3代目 古今亭 志ん朝(さんだいめ ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、女優池波志乃は姪、俳優中尾彬は義甥にあたる。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。


7代目立川談志5代目三遊亭圓楽5代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた[1]。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。

来歴・人物
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。


獨協高等学校
ドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、後には毎年弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。当初は役者を志しており、噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した[2]。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。


同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に7代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。


一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。


落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父・志ん生から猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。


一方では、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭[注 1]の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。大阪では道頓堀角座に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになったという。大阪の定宿としていた千日前の旧・上方旅館の女将の葬儀で、関西のしきたりで一番重要な“止め焼香”を遺族に懇願されて行ったりもした。現在は旅館を建て替えた建物にトリイホールを設け、上方噺家のみならず、志ん朝一門など東京の噺家も“大阪で定席を打てるホール”として、今も活用されている。もちろん、生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだという。


落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は…」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。


二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。鰻については、1994年テレビ朝日徹子の部屋』出演時、「初めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、最晩年、『ニュースステーション』の「最後の晩餐」コーナーに出演の際には「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれた時も「鰻が食べたい」と語ったという。


晩年、時間がない時などは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。


所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。


父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。


大切にしていたドイツ語の辞書は、棺に納められた。

志ん朝に影響を与えた落語家
父である志ん生を尊敬していたが、芸の形を真似しても育った環境も人生経験も全く異なる父の境地に近づく事は不可能と考えていた。8代目桂文楽に注目して噺を丹念に組み立てる方法で自らの芸を構築していった[3]


6代目三遊亭圓生も敬愛する大先輩であった。1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。しかし当初見込みとは異なり、東京都内の落語定席[注 2]の席亭[注 1]たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。志ん朝一人だけならば3代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周囲の説得もあって脱退を撤回した。この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をし、落語協会の会長であった5代目柳家小さんは、新宿末廣亭席亭の北村銀太郎の助言もあり香盤を下げずに志ん朝を含む協会復帰組を受け入れた。


大阪の落語家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも群を抜いていた。6代目笑福亭松鶴に心酔し、自身「大阪の角座に出るたびに追っかけまわした」と証言するほどであった。そんな志ん朝を松鶴も可愛がり、その縁から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機会を得て、大阪の客に受け入れられ芸も上達した。志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを教えてくれたよき先輩でもあった。志ん朝自身、上方落語界復興の苦労話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。他には3代目桂春團治3代目笑福亭仁鶴とは二人会を開くなど親交を深めた。特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり双方とも格別の思い入れがあった。二人会になると文字通りの真剣勝負で、二人とも気合いの入った高座となった[4]立川談志との若手時代からのライバル関係は有名であり、志ん朝に真打昇進を追い越されたことが、談志が奮起するきっかけになった。


また落語協会分裂騒動では三遊亭圓生が三遊落語協会の自らの跡目を志ん朝としたことが、談志が土壇場で新団体参加を断念した大きな要因であったとされている。この件を巡り、談志とは激しい口論になった。談志の芸は協会離脱後志ん朝とのライバル関係がなくなったから衰えた、という説を談志の弟子が唱えていたことがある[5]

略歴
1957年2月 実父5代目古今亭志ん生に入門。前座名は父の前座名朝太5代目鈴々舎馬風(当時柳家小光)とともに2月1日から前座入り。


1959年3月 二つ目昇進。


1961年 NHK若い季節』レギュラー出演。


1962年5月 5代目春風亭柳朝とともに36人抜きで真打昇進し、3代目古今亭志ん朝襲名。抜いた先輩には兄弟子金原亭馬太郎6代目むかし家今松三遊亭全生柳家小ゑん橘家舛蔵がいた。

  ・映画初出演(東映『歌う明星・青春がいっぱい』)。
  ・フジテレビサンデー志ん朝』に司会としてレギュラー出演。


1978年5月 落語協会分裂騒動で落語協会を脱会し落語三遊協会に参加するが、僅か数日で落語協会に復帰。


1990年 大須演芸場での独演会を始める。(~1999年)


1996年8月1日 3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会副会長就任。兄馬生も1972年 - 1982年まで落語協会副会長を務めていた。


2001年 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

  ・10月1日 肝臓がんにより、家族に見守られる中、新宿区矢来町の自宅で死去。兄弟子8代目志ん馬と同じ死因であり、亡くなる半年前には弟子の右朝を肺がんで亡くしている。志ん朝没後の副会長には5代目鈴々舎馬風が就任した。

  ・10月6日13時より護国寺桂昌殿で落語協会葬として営まれた告別式には関係者、ファンなどが2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。戒名は「光風院楽誉観月志こうふういんらくよかんげつし朝居士ちょうこじ」。

一門弟子
直弟子
古今亭志ん橋

古今亭八朝

古今亭志ん輔

古今亭右朝

古今亭志ん上(一旦廃業し、その後9代目桂文楽門下で桂ひな太郎として復帰。)

古今亭志ん陽(師匠志ん朝の死後は初代志ん五門下に移籍するも志ん五も死去したため志ん橋門下に移籍)

移籍してきた者
古今亭志ん駒(父志ん生門下から兄馬生門下を経て移籍。弟子というよりは一門の顧問格だった)

初代古今亭志ん五(元は父志ん生門下の弟子だが、志ん生の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

7代目桂才賀(元は古今亭朝次9代目桂文治門下だったが、師匠の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

9代目古今亭志ん馬(元は志ん朝の兄弟子8代目志ん馬門下だったが、師匠の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

色物
太田家元九郎

松旭斎美智

翁家和楽

笑組


詳しいことは、「三代目・古今亭志ん朝ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E6%9C%9D
(wikiより)

2951  3代目・古今亭志ん朝

三代目・古今亭志ん朝

2951a

2951b



5代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、1890年明治23年〉6月5日 - 1973年昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京落語家。本名、美濃部みのべ 孝蔵こうぞう。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後の東京落語界を代表する落語家の一人と称される。


長男は10代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は3代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(10代目馬生の娘)。

生涯
出生
1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男[注釈 1]。出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[注釈 2]明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし[注釈 3][注釈 4]、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。


下谷区
下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。

1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした[1]

落語との出会い
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める[1]1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった[1]。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという[1]


1910年
(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る[2][3][4][5]。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた[6]1916年から1917年大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる[1]1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する[1]

結婚
1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である[注釈 5]。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。


当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた[7]。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという[8]。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる[9]


この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。

馬生・志ん生襲名
1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。

1938年
(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる[1]1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。


1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという[10]

満州へ〜帰国後
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る[11][12][注釈 6][注釈 7]満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。


1947年
(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅[1]。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった[13]。この頃から人形町末廣で余一の日[注釈 8]に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。


1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった[14]。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。

会長就任
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。


5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる[15]

病気
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。


1964年
(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。

事実上の高座引退
1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった[注釈 9]


この年、勲四等瑞宝章を受章する。


1968年
(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた[16]


1971年
(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した[17]


1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している)。




年表
5代目志ん生の無名時代の経歴は、資料が乏しい上、当人の記憶もあやふやだったために諸説ある。下記#改名遍歴と食い違う部分があるが、脚注に示した史料のままとした[18]

1890年(明治23年)6月28日[注釈 10] - 神田区神田亀住町に出生。


浅草区永住町127(現在の台東区元浅草2丁目)に転居(年月日不明)


・浅草区北稲荷町51(現在の台東区東上野5丁目)に転居(年月日不明)


1904年(明治37年) - 北稲荷町から浅草区浅草新畑町4(現在の台東区浅草1丁目)に転居


1905年(明治38年) - この頃、博打や酒などの素行不良が重なり家出する。


1907年(明治40年) - 芸事好きが嵩じて落語のセミプロになり、この頃、三遊亭圓盛の下で三遊亭盛朝の芸名をもらう。


1910年(明治43年) - この頃、2代目三遊亭小圓朝に入門。三遊亭朝太の芸名でプロの落語家になる。


1916年(大正5年) - この頃、三遊亭圓菊に改名して二つ目昇進。以降、目まぐるしく改名を繰り返す。詳細は#改名遍歴を参照。


1918年(大正7年) - 4代目古今亭志ん生門下に移籍し、金原亭馬太郎に改名。


1920年(大正9年) - 谷中清水町(現在の台東区池之端4丁目)に転居して下宿生活。


1921年(大正10年)9月 - 金原亭馬きんに改名して真打に昇進。


1922年(大正11年)11月 - 清水りんと結婚。


1923年(大正12年) - 北豊島郡滝野川町大字田端185(現在の北区田端1丁目)に転居。


1924年(大正13年)1月12日 - 長女・美津子誕生。


1925年(大正14年)
  ・4月 - 3代目小金井芦州門下で講釈師になり小金井芦風を名乗る。
  ・9月 - 師匠の3代目小金井芦州逝去により落語家に戻る。

  ・10月7日 - 次女・喜美子誕生。


1926年(大正15年) - 豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現在の渋谷区笹塚)に転居。


1927年(昭和2年) -
  ・初代柳家三語楼門下に移籍して柳家東三楼と改名。

  ・代々幡町大字幡ヶ谷(現在の渋谷区幡ヶ谷)に転居するが、すぐに元の笹塚の家に戻る。


1928年(昭和3年)

  ・1月5日 - 長男・清誕生。

  ・4月 - 本所区業平橋1丁目12(現在の墨田区業平1丁目)に転居。いわゆる「ナメクジ長屋」。


1934年(昭和9年) 9月 - 7代目金原亭馬生を襲名。


1936年(昭和11年)2月26日 - 浅草区浅草永住町(現在の台東区元浅草)に転居。


1937年(昭和12年)8月 - 本郷区駒込神明町338(現在の文京区本駒込)に転居。


1938年(昭和13年)3月10日 - 次男・強次誕生(戸籍上は3月11日)。


1939年(昭和14年)3月 - 5代目古今亭志ん生を襲名。


1943年(昭和18年)8月 - 長男・清が入門。


1945年(昭和20年)
  ・4月13日 - 空襲で罹災。本郷区駒込動坂町327(現在の文京区千駄木)に転居。

  ・5月6日 - 満州に慰問に出るがそのまま終戦を迎えて帰国できず、およそ1年8か月を現地で過ごす。


1947年(昭和22年)1月27日 - 満州から帰宅。


1951年(昭和26年)11月 - 日暮里町9丁目1114(現在の荒川区西日暮里3丁目)に転居。


1953年(昭和28年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を結ぶ。


1954年(昭和29年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を解除し、ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。


1956年(昭和31年)
  ・6月 - 『なめくじ艦隊』発行。

  ・12月 - 芸術祭賞受賞。演目は「お直し」。


1957年(昭和32年)
  ・2月 - 落語協会の会長に就任。戦後4人目の会長。

  ・4月 - 次男・強次入門。


1961年(昭和36年)12月15日 - 脳出血で倒れて入院する。


1962年(昭和37年)
  ・3月1日 - 退院。以降、自宅で療養する。

  ・11月11日 - 新宿末廣亭で高座復帰。


1963年(昭和38年)7月 - 落語協会の会長を辞任する。


1964年(昭和39年)
  ・4月 - 『びんぼう自慢』発行。

  ・11月 - 紫綬褒章受章。


1967年(昭和42年) - 妻・りん脳出血で倒れる。勲四等瑞宝章受章。


1968年(昭和43年)10月9日 - 精選落語会に出演。これが最後の高座となる。


1971年(昭和46年)12月9日 - 妻・りん逝去。


1973年(昭和48年)9月21日 - 逝去。

詳しいことは、「五代目・古今亭志ん生ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E7%94%9F_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

2950  五代目・古今亭志ん生

五代目・古今亭志ん生

2950a

2950b




佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年明治15年)10月30日 - 1971年昭和46年)12月18日)は、日本外交官政治家林内閣外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。


1931年(昭和6年)、勲一等瑞宝章。1934年(昭和9年)、勲一等旭日大綬章、没後勲一等旭日桐花大綬章従二位を追贈される。

経歴
大阪府生まれ。弘前藩士沖縄県警察部長・田中坤六の二男として生まれ、外交官佐藤愛麿の養子となる。

旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った[1]。後年向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている[2]


1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。在ロシア公使館外交官補(のち三等書記官)、ハルビン領事(のち総領事)、在スイス公使館一等書記官、在フランス大使館一等書記官、在ポーランド公使を歴任した。ロシア革命が勃発した当時はハルビン総領事の職にあり、1917年12月にボリシェヴィキ勢力がハルビンの制圧を図った際には、他のハルビン駐在連合国領事らと領事団を結成して当時の中華民国政府(北京政府)に介入を要請し、中国軍によってハルビンのボリシェヴィキ関係者は排除された[3]。このあとハルビンでは陸軍を中心としてグリゴリー・セミョーノフドミートリー・ホルヴァートロシア語版といった反革命勢力の人物を擁立する動きがあった[4]。日本は1918年8月からシベリア出兵に踏み切るが、佐藤は外務省関係に多かった「出兵に熱心な者」の一人と評されている[5]


1927年
(昭和2年)に国際連盟帝国事務局長、1929年(昭和4年)のロンドン海軍軍縮会議では事務総長を勤め、1930年(昭和5年)、駐ベルギー特命全権大使に就任する。このベルギー大使在任時の1931年9月、国際連盟第12回総会に出席中満州事変勃発の報が入り、直後の国際連盟第65回理事会で佐藤は中国の理事からの非難に直面することとなる[6]。続く第66回理事会は第一次上海事変のあとに開かれ、ここで佐藤は世界からの非難を一身に受けながら日本の立場の説明をおこなうとともに、政府に対しては自制を訴えた[6]。しかし日本は満州国を承認、1933年(昭和8年)の国際連盟総会でリットン調査団による報告書の採択の際は、代表団の一員として松岡洋右主席代表や長岡春一駐フランス大使とともに議場を退席した。同年、駐フランス特命全権大使。1935年(昭和10年)、入省30年を迎えたのを機に辞任を申し出、翌年退任する[6]


1937年(昭和12年)、日本への帰国早々林内閣で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した[6]。だが、就任直後の帝国議会で、持論の中国との話し合いを説き、戦争勃発の危機は日本の考え方次第であると述べた内容が、軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。そうした状況でも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蒋介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに退任。その直後に盧溝橋事件が起きた。


1938年
(昭和13年)、初代外務省外交顧問。1940年(昭和15年)、駐イタリア特命全権大使。1941年(昭和16年)、外務省外交顧問。1942年(昭和17年)、東郷茂徳外務大臣に請われ駐ソビエト連邦特命全権大使就任。1946年(昭和21年)、枢密顧問官


1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙青森県選挙区から出馬し参議院議員に当選。以後、第3回第5回通常選挙で当選し、連続3期務めた。 参議院議員時代に緑風会の結成に参加した。阿波丸事件において賠償権放棄の決議案提出に提出者の1人として関わるが、その内容には批判的だった。1947年、出淵勝次の死去に際しては、参議院本会議で弔意決議案を提出した。


1956年
(昭和31年)12月の国際連合加盟に際し、日本国政府代表として重光葵外務大臣に同行し国際連合総会に出席。


1965年(昭和40年)7月、第7回通常選挙に出馬せず引退。参議院では、1948年(昭和23年)、参議院外交委員長、1949年(昭和24年)参議院議長などを歴任。その他、1953年(昭和28年)から1971年(昭和46年)まで、伊勢神宮奉賛会初代会長[7]。また日本国際連合協会会長等も務めた。

人物
フランス語ロシア語が非常に堪能で、英語ドイツ語も習得していた。


入省直後に外交官補として在勤したサンクトペテルブルクで、ロシア語フランス語の個人授業を三年間受けている。当時の帝政ロシア首脳部では、フランス語が共通語であったこともあり、外交官補時代の佐藤はロシア語よりもフランス語が上達したという。次いでハルビン在勤となるが、当時のハルビンは東清鉄道が敷設され、ロシアの植民地のような状況でロシア語が共通語であったことから、佐藤はハルビンでロシア語を上達させた。フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている[8]

駐ソ大使時代
駐ソ連大使の任命は、日本にとって戦局が悪化する中で、日ソ中立条約を締結していたソビエト連邦との中立維持がその最大の目的であった[9]。佐藤は中立条約締結時に当時の松岡外相が約束していた北樺太の石油・石炭利権の移譲、および日ソ漁業条約の更新を1944年(昭和19年)3月に調印にこぎ着けた[10]。また、日本からは仲介による独ソ和平に向けた交渉を要請され、佐藤はそれに従ったものの、イデオロギーなどで全面的に対立する両国が和平に応じる見込みはないという電報を外務省宛に送っている[11]。独ソ和平に消極的な佐藤の態度に対し、日本国内では陸軍から佐藤の更迭論まで出たが、重光葵外相が交代に反対し、廣田弘毅元首相を特使として派遣できるようソ連と交渉して陸軍をなだめることになった[11]。佐藤はこれに基づいて、1944年9月にヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員に特使派遣を申し入れたが、「特使派遣が何を目的とするか疑問である」という理由で拒絶された[11]。だが、その後も重光からは陸軍の意を受ける形で、日ソ関係の強化と独ソ和平仲介への交渉を求められ、そのたびに佐藤は「中立関係の維持そのものが問題になりつつある」と否定的な返答を繰り返した[11]。こうした日本から寄せられる「日ソ関係改善論」について、戦後に佐藤は「かつて軟弱といわれた自分以上の軟弱外交ではないか」と「せせら笑った」と回想している[12]


それだけに、条約の期限1年前までとされた中立条約の廃棄通告期限(1945年4月25日)が近づくと心中穏やかではなく、期日をやり過ごして自動延長を待ちたいと神頼みするほどであった[9]。だが、4月5日にモロトフと会見した佐藤はその場で条約の1年後の廃棄を通告される。これを受けて佐藤が日本に送った電報では、ソ連の狙いは米英に好意を得るためのジェスチャーで対日参戦への決意を固めたものではない、このジェスチャーも米英にとってはむしろ迷惑に感じて米英とソ連の摩擦が増大する可能性もあると記した[13][14]。同時に佐藤は「もしもヤルタ会談で決定した上で廃棄通告が出されたものだとすれば、自分の観察は根底から覆ることになる」と別の可能性にも触れていたが、「問題はそこまで深刻ではない」とこれを軽視することになった[13][15]


1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きる。佐藤は既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立つ可能性は少ないと判断して早期終戦を促す機密電報東京の本省に送っている。7月に昭和天皇の意向で近衛文麿を和平交渉の特使としてモスクワに派遣することが決まると、7月12日に東郷茂徳外務大臣は佐藤に対して、特使派遣をモロトフに申し入れるよう訓令した。だが、モロトフとはポツダム会議の準備という理由で会うことはできず、外務人民委員代理のソロモン・ロゾフスキーに依頼を伝えている。佐藤は東郷外相の指示に従って行動したが、ここでも本省に対して具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った[16][17]


佐藤は7月18日にロゾフスキーから「天皇のメッセージに具体的提議がないこと、特使の使命が不明確であること」を理由に特使を拒絶する回答を受ける[18][19]。佐藤は東郷の指示で再度特使派遣をソ連側に申し入れる一方、ポツダム宣言直前の1945年7月20日に東郷に当てた長文の電報では、「すでに抗戦力を失ひたる将兵および我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救はるべくもあらず。七千万民草枯れて上(引用者注:天皇)御一人安泰たるを得べきや。(中略)過去の惰性にて抵抗を続けおる現状を速やかに終止し、以て国家滅亡の一歩手前にてこれをくい止め、七千万同胞の塗炭の苦しみを救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す」と早期に「皇室の維持」のみを条件とした無条件降伏に近い講和を結ぶように要求していた[20][21]


佐藤は日本からの和平交渉特使派遣の回答をモロトフに求めていたが、ようやく8月8日に実現したクレムリンでの会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになった。


佐藤尚武は戦後に東郷にソ連に和平仲介したことに「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。

栄典
位階
1906年(明治39年)2月10日 - 従七位[22]

1908年(明治41年)12月11日 - 正七位[22]

1911年(明治44年)9月20日 - 従六位[22]

1916年(大正5年)2月12日 - 正六位[22]

1918年(大正7年)7月31日 - 従五位[22]

1921年(大正10年)9月10日 - 正五位[22]

1925年(大正14年)10月15日 - 従四位[22]

1930年(昭和5年)11月1日 - 正四位[22]

1933年(昭和8年)11月15日 - 従三位[22]

1937年(昭和12年)3月15日 - 正三位[22]

勲章等
1907年(明治40年)9月14日 - 勲六等瑞宝章[22]

1913年(大正2年)12月27日 - 勲五等瑞宝章[22]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[22]

1916年(大正5年)4月1日 - 双光旭日章[22]

1919年(大正8年)12月25日 - 勲四等瑞宝章[22]

1920年(大正9年)11月1日 - 勲三等瑞宝章[22]

1923年(大正12年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[22]

1928年(昭和3年)
  ・4月21日 - 勲二等瑞宝章[22]

  ・11月16日 - 大礼記念章(昭和)[22]

1931年(昭和6年)10月31日 - 勲一等瑞宝章[22]

1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日大綬章昭和六年乃至九年事変従軍記章[22]

親族
実父田中坤六の生家田中家は、弘前藩士で田中太郎五郎の子孫である。田中太郎五郎吉祥は津軽家家臣で天正7年(1579年)、六羽川合戦の折、主君津軽為信の身代わりとなって討ち死にし、合戦の勝利に導いた。その功に田中家は津軽の功臣として嫡子田中宗右衛門に百石を加増し、その館跡が田中館跡として伝えられている。

・養父 佐藤愛麿 - 駐オーストリア・ハンガリー帝国大使や駐アメリカ合衆国大使を歴任。


・妻 佐藤ふみ - 佐藤愛麿の娘。


・義弟・甥 - 妹菊枝の夫は、内務省官僚で河川技術者の前川貫一。長男は建築家の前川國男、三男は前川春雄(第24代日本銀行総裁)。


・義弟 佐々木嘉太郎- 妹栄枝の夫。戦前の青森屈指の大富豪。「布嘉」の屋号で知られ、1944年に五所川原の大火で焼け落ちた自宅「布嘉屋」は、東北一の大豪邸で知られた。


・義兄弟 小日山直登、小日山の妻は佐藤愛麿の娘[23]

著書
・『回顧八十年』 時事通信社、1963年

  ・復刻版『日本外交史人物叢書 第17巻 回顧八十年』吉村道男監修、ゆまに書房、2002年

・『二つのロシア』世界の日本社、1948年 - 柳澤健らとの共著、他は戦前・戦後共に講演冊子である

脚注
1. 「ロータリーは遂に日本に来た ~つづき~」 福岡西ロータリークラブ
2. 「三井財閥最後の大物 向井忠晴(むかい・ただはる)」 三井広報委員会
3. 麻田、2016年、pp.45 - 46
4. 麻田、2016年、p.49
5. 麻田、2016年、p.84。ほかに本野一郎内田康哉(いずれもこの時期の外相)、松岡洋右川上俊彦らが挙げられている。
6. a b c d NHK取材班、1995年、p76 - 78
7. 「伊勢神宮崇敬会会長にパナ副会長・松下正幸さん 松下幸之助は第3代会長」 伊勢志摩経済新聞2017年07月07日
8. 赤間剛 1983, p. 81
9. a b NHK取材班、1995年、p32
10. NHK取材班、1995年、p66
11. a b c d NHK取材班、1995年、p68 - 74
12. NHK取材班、1995年、p74。この記述は1946年の講演の速記録からの引用。
13. a b NHK取材班、1995年、pp.86 - 88
14. 長谷川、2011年、pp97 - 100
15. 長谷川、2011年、pp.97 - 100
16. NHK取材班、1995年、p223
17. 長谷川、2011年、p259
18. NHK取材班、1995年、p233
19. 長谷川、2011年、p299
20. NHK取材班、1995年、pp.237 - 240
21. 長谷川、2011年、pp.300 - 301
22. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 佐藤尚武」 アジア歴史資料センター Ref.A06051184500 
23. 秦郁彦『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』「主要官僚の履歴」

参考文献
赤間剛フリーメーソンの秘密 世界最大の結社の真実』三一書房、1983年。

麻田雅文シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』中央公論新社中公新書》、2016年

・NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の週末』角川書店角川文庫》、1995年(NHKスペシャルドキュメント太平洋戦争』第6回の書籍化)

栗原健他『佐藤尚武の面目』原書房、1981年

長谷川毅『暗闘』(上) 中央公論新社中公文庫》、2011年

秦郁彦編 『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年

吉村道男監修『日本外交史人物叢書 第17巻 回顧八十年』ゆまに書房、2002年

半藤一利 『ソ連が満洲に侵攻した夏』 文藝春秋文春文庫〉、2002年8月。ISBN 978-4167483111

関連項目
林内閣

ソ連対日宣戦布告
(wikiより)


2479  佐藤尚武

佐藤尚武

2479a

2479b



石井千治(いしい せんじ、1869年明治2年) - 1928年昭和3年)12月15日)は、囲碁棋士二代目中川亀三郎茨城県出身、方円社などに所属、八段。方円社4代目社長。田村保寿(本因坊秀哉)との5次に渡る十番碁を行った。

経歴
茨城県笠間で、旧笠間藩士の家に生まれる。元の名は仙治。幼時の頃に隣家で碁を教わり、10歳頃には北関東一帯で話題になるほどだった。旧笠間藩主牧野貞寧が碁好きであったため、仙治が14歳の時に東京の屋敷に引き取り、方円社の村瀬秀甫に試験をしてもらって、1882年(明治15年)方円社塾生第1号となる。1884年初段(方円社九級)、翌年二段。この頃、田村保寿、杉岡栄次郎とともに方円社三小僧と呼ばれた。1886年に林家の分家である女流棋士林佐野の養子となり、林千治を名乗るが、1891年に石井姓に戻る(字は千治のまま)。


1892年に五段昇段に異義を唱えた小林鉄次郎と打込み碁を打ち(石井先)、19局目で4番勝ち越して昇段を果たす。1895年に頭山満主催で、方円社を除籍となって本因坊秀栄門下となっていた田村保寿と頭山邸で十番碁を打ち(田村先)、第9局目までで向先相先に打ち込まれ、2勝7敗1ジゴで終わる。1897年に松岡譲・高田槙蔵邸で田村と第2次十番碁、4局目までで互先に打ち込まれ、2勝10敗となる。続いて同年から98年の第3次十番碁で、3局目までで先相先に打ち込まれ、5勝5敗とする。1899年の第4次十番碁は3局まで1勝2敗で中断。

続く四象会の対局で2連敗し、定先に打ち込まれる。


1901年六段、32歳にして方円社副社長となる。1903年に中川亀三郎死去において遺言により中川家養子となり、中川千治となる。しかし方円社長の広瀬平治郎との不和で1907年に方円社を脱退。同年、田村と第5次十番碁開始。頭山満、広岡浅子主催で、棋譜は雑誌『日本及日本人』に掲載、この2月の秀栄没後の後継者と目される田村にとっての一大決戦と喧伝され、囲碁史上初の観戦記が古島一雄により付せられた。千治は4局目までで1勝3敗で先二に打ち込まれ、続いて2連敗し6局で中止となった。


1909年に岩佐銈野沢竹朝ら十数人とともに囲碁同志会を結成、機関誌「囲碁世界」を発刊。同年七段昇段し、二代目中川亀三郎を襲名。


1912年(大正元年)に巌崎健造に請われて囲碁同志会を解散して方円社に復帰し、巌崎を継いで方円社4代目社長に就任、1920年に辞任するまで務めた。翌1921年八段昇段し、方円社顧問となる。1924年の碁界大合同により、日本棋院設立に参画。日本棋院の手合割の改革により秀哉とは先相先となり、先番で1勝1敗としたが、続く秀哉の先番での対局は行われなかった。1927年(昭和2年)からの大手合の東西対抗戦では秀哉に継ぐ八段として審判役を務めた。翌1928年死去。酒豪であったとされる。没後遺志により、門下の小野寺新(中川新之)を養子とした。

他の棋歴
・1896年に本因坊秀栄と十番碁(千治先)、2勝8敗。

・1901-02年に広瀬平治郎と十番碁(広瀬先)、2勝8敗。

参考文献
・『現代囲碁大系1 明治・大正名棋家集一』講談社 1981年

外部リンク
奇譜子「石井千治」
(wikiより)


2358a

2358b



6代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 - 1971年12月29日)は、東京出身の落語家。本名、吉田 邦重。生前は落語協会所属。出囃子は『井出の山吹』。通称「右女助の小勝」「糀谷の師匠[1]」。夫人は舞踊花柳一衛

来歴・人物
神田錦町の電機学校(現:東京電機大学)卒業後、東京市水道局(現:東京都水道局)に勤務し金町浄水場の技師を務める。当時の落語家の中では珍しいインテリ出身であり、協会の幹部候補だった。


1930年
3月、叔父の友人「中村さん」の紹介で、曲芸春本助次郎を通じて8代目桂文楽に入門。文楽の「文」と中村の「中」から一字ずつ取って「桂文中」と名乗り、常磐亭で初高座。1931年3月、「桂文七」で二つ目に昇進する。1936年5月にキングレコード専属となり、最初の吹き込みレコードを発売。このレコードに収録された自作の新作落語『水道のホース屋(のちの『水道のゴム屋』)』がヒットする。1937年(昭和12年)5月、「2代目桂右女助」を襲名、真打昇進。明るくスマートな芸風で、高座でもレコードでも人気を博す。


太平洋戦争中2度応召に遭い、寄席の高座やレコードの吹き込みも中断された。戦後も新作落語を高座にかける一方、古典落語にも力を入れ、3代目三遊亭金馬2代目三遊亭円歌と並んで「両刀使い」と称された。


1956年
3月、「6代目三升家小勝」を襲名。襲名披露興行中の1956年4月、右手にしびれを感じて軽い脳溢血に陥る。東宝演芸場での襲名披露には半分の日程を残して出演できなくなり、落語家として致命傷というべき言語障害に苦しむ。必死のリハビリの末、同年6月に高座復帰するも、右女助時代の気力と体力を取り戻すことはできず、師匠・文楽が1971年12月12日に没してからわずか17日後の同月29日、後を追うようにして死去。63歳没。墓所は谷中佛心寺戒名は「慈観院楽説日勝居士」。


生前は、坊野寿山を師匠とする落語家の川柳の会「鹿連会」にも参加していた。


叉甥に俳優・歌手の真人大樹がいる。

略歴
1908年(明治41年)8月3日 - 東京市本所区太平町(現:墨田区太平)に生まれる。


1931年(昭和6年)3月 - 春本助次郎を通じて8代目桂文楽に入門。「桂文中」を名乗る。


1932年(昭和7年)3月 - 「桂文七」で二つ目昇進。


1937年(昭和12年)5月 - 「2代目桂右女助」を襲名、真打昇進。


1938年(昭和13年) - 落語睦会解散に伴い、師匠・文楽とともに落語協会に加入。


1956年(昭和31年)3月 - 「6代目三升家小勝」を襲名。同年4月、襲名披露興行中、軽い脳溢血で倒れる。


・1956年(昭和31年)6月 - 高座復帰。


1966年(昭和41年) - 再び高座を離れ、闘病生活を余儀なくされる。


1971年(昭和46年)12月29日 - 死去。

主な演目
新作落語
・水道のゴム屋 - 水道局技師時代の体験を物語に組み込んだ噺。

・かばん

・妻の釣り

・操縦日記

・女中志願

・金言みくじ

・俳句会

・二人酒

・犬ひろい

古典落語
・熊の皮

初天神

壺算

・花見小僧

・真田小

二番煎じ

明烏

・佐々木政談

・お茶汲み

権兵衛狸

寄合酒

味噌豆

弟子
三升家勝太郎

桂右喜松 - 元は4代目(自称9代目)鈴々舎馬風門下で馬次、のちに服毒自殺[2]

7代目三升家小勝 - 前名、三升家勝彌。小勝死後は3代目三遊亭圓歌一門に移籍。

8代目三升家小勝 - 前名、三升家勝二。小勝死後は初代林家三平一門に移籍。

4代目桂文字助 - 前名、三升家勝松。小勝死後は7代目(自称5代目)立川談志一門に移籍。

漫才林家ライスもかつては小勝門下の落語家であり、その時の名前は三升家勝丸であった。

脚注
1. 東京市蒲田区糀谷に住んでいたことから(立川談志著、田島謹之助写真 『談志絶倒 昭和落語家伝』 大和書房、2007年、183頁より)。
2. 立川談志『談志楽屋噺』(文春文庫、1990年)pp.31-33

関連項目
東京都出身の人物一覧
(wikiより)

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4代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、天保9年11月10日1838年12月26日) - 明治27年(1894年1月28日)は、主に明治期に活躍した落語家。本名、新井文三。


初めは天狗連で鶴丸亭小きんと名乗っていた。4代目桂文治門下に入って文七から文鏡となる。その後幇間に転じ、松廼家文三、松廼家〆寿、荻江文三と名乗って新富町遊廓吉原で活動していたが、後に落語家復帰し6代目桂文治門で1868年ころに4代目文楽襲名。


口癖で「デコデコ」とよく言っていたため、「デコデコの文楽」と呼ばれた。


人情噺が得意で、『音羽丹七』は絶品であったという。他にも得意ネタには『居残り佐平次』『たちきり』などがあった。


特異なポーズ(両手のこぶしをしっかり握りしめ、自己の前に甲を下にして置く)を崩さずに噺を続けていたことで知られた。


後に落語界のドンとなった5代目柳亭左楽は、デコデコの文楽に憧れて落語界に入っており、高座中のポーズも模倣していた。


1894年没。享年57。墓所は台東区桃林寺。戒名は「桂真院宜演文楽居士」。

関連項目
桂文楽
(wikiより)

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女性棋匠。

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初代 快楽亭 ブラック(かいらくてい ブラック、1858年12月22日安政5年11月18日〉 - 1923年大正12年〉9月19日)は、落語家講釈師、奇術師イギリス領オーストラリアアデレード生まれ。国籍は初め英国、のち日本に帰化している。本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラック(Henry James Black)、帰化後の日本名は石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)。

来歴
青い眼の落語家
先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人[1]1865年慶応元年)、アジア各地を巡業する歌手として来日したのち横浜居留地初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者となった父・ジョン・レディー・ブラックの後を追い、母とともに来日した。父はのちにダ・ローザの支援により『日新真事誌』という新聞を発行して明治政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所にいた演説好きの堀竜太と親しくなり、自身も数度演説に立った[1]


18歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、1876年明治9年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年7月には浅草西鳥越芳川亭日本橋南茅場町宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の2〜3年間は、一説によるとアメリカシアトルで母と共に生活していたという。


1878年(明治11年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師2代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った。1880年(明治13年)6月11日に父が53歳で死去[1]


当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊東燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌1880年(明治13年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。1884年(明治17年)には三遊亭圓朝3代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った。

多種多彩の芸人
1891年(明治24年)3月より快楽亭ブラックを名乗る。その2年後の1893年(明治26年)4月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の石井アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貎刺屈と改めた、この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった、その後アカとは離婚している[1]。石井家より婿養子の願いが東京府に出された際、内務省よりブラックの素行調査が指示され、警視庁がそれに当たったが、「ブラックは常に男色を好み、婦女子に対しては不都合なふるまいはなく、一回り年下の高松元助なる男と夫婦同然の暮らしをしており、不品行な形跡はない」との京橋警察署長の報告により、無事入籍及び帰化が許可された[2]


これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調[3]をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、1896年(明治29年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている。


1903年
(明治36年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲かっぽれなど諸芸を録音円版に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、4代目橘家圓喬初代三遊亭圓右初代三遊亭圓遊3代目柳家小さん浪花亭愛造豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった[4]

晩年
1907年(明治40年)になると人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる[5]1908年(明治41年)9月23日、兵庫県西宮の恵比須座に出演中に亜砒酸で自殺未遂騒動を起こすまでになった[5][6]。1914年9月からイギリスの手品雑誌「マジック・マンスリー」に日本の奇術のやり方を連載する[7]関東大震災の衝撃覚めやらない1923年大正12年)9月19日白金三光町の自宅で満64歳で死去[8]、死因は脳卒中[1]。遺骸は横浜外国人墓地の父の隣に埋葬された。

弟子
・快楽亭ホスコ:本名は石井清吉(旧姓・大野)。養子でもある。後に奇術に転じ、松旭斎天左を名乗る。ブラックと男色関係とされるが、のちにフランス人女性と結婚[2]

二代目談洲楼燕枝:駆け出しの頃一時期弟子だった。

・ほかにハレ、楽松、快柳、楽正がいた[1]

作品
書籍
快楽亭ブラック口演『英國龍動劇塲土産』福島昇六速記、銀花堂、1891年8月1日。NDLJP:891255

・快楽亭ブラック講演『流の暁』今村次郎速記、三友舎、1891年9月18日。NDLJP:891410

・快楽亭ブラック訳述『薔薇娘 探偵小説』今村次郎速記、三友舎、1891年9月29日。NDLJP:891432

・快楽亭ブラック演述『車中の毒針 探偵小説』今村次郎速記、三友社、1891年10月19日。NDLJP:891333

・快楽亭ブラック講演『切なる罪』今村次郎速記、銀花堂、1891年10月21日。NDLJP:891391

・快楽亭ブラック講演『剣の刃渡』今村次郎速記、文錦堂、1895年7月。NDLJP:891401

・快楽亭ブラック口演『孤兒 英國實話』今村次郎速記、金桜堂、1896年7月29日。NDLJP:891462 ※原作はチャールズ・ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』。

・快楽亭ブラック口演『神田武太郎 探偵實話』今村次郎速記、菅谷与吉、1900年9月。NDLJP:891228

・快楽亭ブラック「たばこ好き」『落語名作全集』第5、小島貞二編、立風書房、1968年。

・快楽亭ブラック「煙草好き」『名人名演落語全集』第3巻、斎藤忠市郎ほか編集、立風書房、1982年8月。

・快楽亭ブラック『快楽亭ブラック集伊藤秀雄編、筑摩書房〈ちくま文庫 明治探偵冒険小説集 2〉、2005年5月。ISBN 4-480-42082-7 ※『流の暁』『車中の毒針』『幻燈』『かる業武太郎』を収録。

録音資料
快楽亭ブラック (1987-10), “蕎麦屋の笑”, 明治大正夢の名人寄席, コロムビアミュージックエンタテインメント  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:67分16秒。


・快楽亭ブラック (2000-2), “そば屋の笑い(落語)”, お笑い百貨事典明治時代 (文明開化の嵐を越えて), 布目英一監修, キングレコード (発売)
  - 形態:録音カセット1巻 + 説明書1枚。


・快楽亭ブラック (2000-2), “〈落語〉~そば屋の笑い”, お笑い百貨事典~明治時代 文明開化の嵐を越えて, キングレコード
  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:49分10秒。


・快楽亭ブラック (2000-12), “(咄)江戸東京時代の咄”, 日本吹込み事始~一九〇三年ガイズバーグ・レコーディングス, 東芝EMI
  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:39分43秒、収録年月:1903年2月。石井ブラック名義の録音も同じ物に残っている。


・初代快楽亭ブラック (2006-9), “滑稽咄 蕎麦屋の笑”, 昭和戦前面白落語全集 東京篇 特典盤, エニー
  - 形態:CD 1枚、モノラル収録。


・快楽亭ブラック (2008-8), “蕎麦屋の笑”, 〈SP盤復刻〉芸能全集 明治・大正 寄席編, コロムビアミュージックエンタテインメント
  - 形態:CD 1枚、モノラル収録、収録時間:68分。

墓前祭
快楽亭ブラックを偲ぶ墓前祭(快楽忌)は1985年から開催されていたが、関係者の高齢化などにより2007年を最後に休止していた。没後90年にあわせて快楽亭ブラック研究会が2013年の命日である9月13日に墓前祭を復活[9]。これを機に、再び毎年開催されるようになる。

関連項目
美味しんぼ(同名の落語家が登場する。)

脚注
1. a b c d e f 『演芸博物館 紅編』小島貞二、P.7-35
2. a b 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p169-173「男色者の外国人婿養子 快楽亭ブラック」
3. 「こいでその」「どうもその」「そいから」「ごぜえやした」など彼独特の言葉ぐせ 小島貞二『決定版 快楽亭ブラック伝』1997年 p.9
4. CD『全集日本吹込み事始』(2001年)東芝EMI
5. a b 伊藤(2005)、479頁
6. 石井ブラック自殺を図る 明治41年9月26日都新聞『新聞集成明治編年史. 第十三卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
7. Harry BlackMagicpedia
8. 伊藤(2005)、480頁
9. 青い目の噺家・快楽亭ブラック 没後90年に合わせ墓前祭 横浜の外国人墓地」『産経ニュース』2013年9月19日。

参考文献
伊藤秀雄編「快楽亭ブラック年譜」『快楽亭ブラック集』筑摩書房〈ちくま文庫 明治探偵冒険小説集 2〉、2005年5月、477-480頁。ISBN 4-480-42082-7

小島貞二決定版 快楽亭ブラック伝』恒文社、1997年7月。ISBN 4-7704-0937-0

イアン・マッカーサー『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』内藤誠堀内久美子訳、講談社、1992年9月。ISBN 4-06-205738-7

村松定孝快楽亭ブラックと泉鏡花 : "The Adventures of Oliver Twist" の翻案をめぐる考察」『上智大学国文学論集』第21号、上智大学国文学会、1988年1月16日、 27-44頁。

・佐々木みよ子、森岡ハインツ『快楽亭ブラックの「ニッポン」』 PHP研究所、1986年10月

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『快楽亭ブラック』 - コトバンク

放送大学特別講義「ジャーナリストの父、タレントの息子 ~明治日本に貢献したブラック親子~」
(wikiより)

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ヘンリー・ジェームス・ブラック

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塚田正夫氏来歴
 
将棋棋士。


1914 ( 大正 3 ) 年、小石川の地に生まれる。


1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。


翌年は大山康晴の挑戦を退けて防衛したが 1949年に木村に敗れて失冠。


九段戦 ( 現在の竜王戦 ) では 4連覇。初の「永世九段」となる。


1975年紫綬褒章。


1977年勲四等旭日小綬章 ( 追贈 ) 1977 ( 昭和 52 ) 年 享年 62歳 当寺に眠る。

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三遊亭 ぽん太(さんゆうてい ぽんた、 1831年(逆算) - 1881年6月6日)は落語家。初代三遊亭圓朝門下。本名、加藤勝五郎


元は出入りの髪結い(床屋)見習いでおもに下剃りをしていた、圓朝の下に入門する以前から愛嬌からぽん太と呼ばれていた。慶応の初めごろに三遊亭圓朝門下となり音曲や小噺をやっていた。


長州藩
大村益次郎が率いる新政府軍と彰義隊が争った上野戦争に巻き込まれた際は、ぽん太が圓朝の自宅に駆けつけ弟子たちの無事を知らせたという。


性欲、物欲、出世欲がなかったが食欲が旺盛で特に蕎麦が好きで仕事に向かう途中に蕎麦屋があったら仕事そっちのけで蕎麦を食べ仕事に遅れるほどであった。また奇人変人(今でいう天然ボケ)で圓朝に可愛がられた。


晩年身寄りがなく没後の圓朝が叔父ということでお墓を作り全生庵に建っている圓朝家の墓の隣りに建てた。ぽん太という名前から、圓朝が飼っていたペットの墓だと勘違いする人もいる。戒名は「雨林宗香信士」。

外部リンク
ISIS本座「芸を読む人を読む」 第11回「二人のぽん太」圓朝の愛弟子といわれる「ぽん太」に関する記述。写真あり。
(wikiより)

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4代目三遊亭圓生(さんゆうてい えんしょう、1846年弘化8年)8月 - 1904年明治37年)1月27日)は、東京の落語家。本名は立岩勝次郎。橘家小圓喬は実の子である。


越前掘の石屋・越前屋宗次郎(一説には下谷大音寺前の石屋・武蔵屋とも)の次男に生まれ、父の姉の婚家である日本橋の幸手屋という小間物屋へ6歳の時に養子に貰われる。


10代の頃に背負小間物の商いに出たが商売が性に合わず養家の勘当にあう、西葛西青戸の花屋伝次郎の方に預けられる。この隣家に住んでいたのが三遊亭圓朝の母の身寄りだったので、これを頼み込んで内弟子となって鯉朝の名を頂く、1864年この時19歳。


たちまち頭角を現し22歳の時1867年師匠圓朝の前名2代目橘家小圓太を頂く。1872年には布団屋の一人娘の聟入りし一時期噺家を廃業する。


妻の布団屋の番頭業が嫌気がさし、芝居茶屋を始めるも失敗し1874年噺家に復帰。翌1875年真打に昇進し3代目三遊亭圓喬を襲名して大看板を上げますます人気も上がる。


1882年
には大名跡の4代目三遊亭圓生を襲名。師匠圓朝亡き後は「三遊派」総帥を3年余り勤めた。


1902年には舌癌を発病し手術するも、翌1903年に再発し1904年1月27日に死去。享年59。墓は台東区大正寺に親子ともどもある。


圓生は生前5代目圓生は「圓生は品川(4代目橘家圓蔵)に継がせる」と語っていたが、圓蔵は圓生を襲名せずに亡くなり、5代目三遊亭圓生は圓生の孫弟子が襲名した。


得意ネタは師匠圓朝譲りの物が多く『木乃伊取り』『三助の遊び』『三枚起請』などの廓噺禁演落語)『文七元結』『鰍沢』などの人情噺も得意だった。その実力は師をして「落し噺はあいつのように軽くさらりとやらなくちゃァいけない。あたしは落とし噺ではあいつにはかなわない。」と言わしめるほどであった。

弟子
三遊亭桃生(堀江元次郎、色物)

・橘家三好(後の柳家三好、音曲師)

宝集家金之助(色物)

5代目橘家圓太郎

5代目司馬龍生

4代目橘家圓蔵

初代三遊亭圓若

橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)

三笑亭芝楽(辻村藤三郎)

3代目三遊亭新朝

2代目三遊亭萬橘

5代目三遊亭新朝

7代目土橋亭里う馬

6代目朝寝坊むらく など。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
三遊亭圓生

(wikiより)

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2代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、文化3年(1806年、逆算) - 文久2年8月12日1862年9月5日))は、落語家。本名、尾形 清治郎(清次郎とも)または盤蔵。


本所は竪川に出生。当初は袋物渡世を営んでいた。父は尾形源蔵。最初は初代 三升亭小勝の門下で三升屋しげ次といい声色師だったともいわれる、初代 三遊亭圓生の門下で初代竹林亭虎生、三遊亭花生を経て初代立花屋圓蔵となった。


天保
12年(1841年)ころ、2代目 立川焉馬の後ろ盾で2代目三遊亭圓生襲名。


始め四谷に住み頭部の形が木魚に似ているところから「よつもくの圓生」と呼ばれた。後に湯島の大根畑に移った。


弟子には初代 橘屋圓太郎三遊亭圓朝父子がいる。圓生は圓朝につらく当たり、弟子である圓朝の出し物を先に演じてしまうなどの妨害をしたため、かえって圓朝に創作力が付いたといわれている。他に2代目 立花屋圓蔵圓次郎(のちの三遊亭圓麗2代目 三遊亭小圓朝の実父))、桃月庵白酒(のちの5代目 朝寝坊むらく)、三遊亭圓太(のちの初代 三遊亭新朝)、3代目竹林亭虎生(のちの6代目 船遊亭扇橋)、初代 三遊亭圓馬らがいた。


圓朝全集』の中では、『雨夜の引窓』『畳水練』が圓生作で、他にも『累双紙』も圓生の作だという。落咄の作は2代目 立川焉馬編『昔噺 当世推故伝』(1848年)などでも知られる。怪談咄も得意とし『雪駄直し長五郎』『佐倉宗五郎』なども演じた。芸に対して熱心だったことが三遊亭圓朝の『名人くらべ』に伝えられている。


晩年は病がちになり不如意な生活を送ったが、その際、圓朝は怨みを忘れて手当てを贈った。没後も遺言に従い、三遊派が勢いを盛り返した慶応元年(1865年3月21日(初代圓生の命日)に本葬を行なった。三遊亭圓志(本名未詳)は養子。盲目の娘は、終生圓朝が世話をしたという。


なお圓生の名跡は圓朝の弟子の初代 三遊亭圓楽が襲名した。

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
三遊亭圓生
(wikiより)

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初代 林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。


東京市下谷区(現在の東京都台東区根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。

来歴・人物
1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵こと本名海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。


1945年
3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられる[1]が、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。


復員後、本名を海老名泰一郎に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役。明大明治中学校を経て、明治大学入学。


1946年
2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている[2]。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。


1949年10月20日、父正蔵死去。芸界の孤児となる。同年、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。


1950年
4月22日5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。


1951年
3月、二つ目昇進。


1952年、妻・香葉子と結婚[注釈 1]。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1か月の入院生活を送る。このころ、父正蔵から相続した土地を半分手放す。


1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。


1954年文化放送「浪曲学校」司会。


1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。


1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。


1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。


1961年
1月17日、第二子・泰葉生まれる。


1962年12月1日、第三子・泰孝(後の9代目林家正蔵)生まれる。待望の長男誕生であった。


1965年日本テレビ踊って歌って大合戦」司会。


1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。


1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。


1970年12月11日、第四子・泰助(後の2代目三平)が、末っ子として生まれる。


1975年 - 1976年フジテレビ三平・美どりのドキドキ生放送』を娘・美どりと司会。


1978年5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りする。


1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[3]


1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった[3]


1980年9月18日肝臓癌で入院した[3][2]


1980年9月20日、死去。54歳没[2][3]。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵、当時はこぶ平)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取った。最後の言葉は泰孝に対する「なんでもまじめにやれよ」であった[2]法名は、志道院釋誠泰。墓所は父と同じ足立区常福寺。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志5代目三遊亭圓楽2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。

家族
東宝名人会専属7代目林家正蔵の実子で長男。長女海老名美どり峰竜太夫人)、次女泰葉春風亭小朝元夫人)、長男は9代目林家正蔵(前名:林家こぶ平)。次男(前名:林家いっ平)が2代目を継いだ(妻は国分佐智子)。妻は海老名香葉子教育再生会議委員)。義兄は釣竿職人の中根喜三郎(妻・香葉子の兄)、孫は下嶋兄(美どりと峰の息子)、林家たま平(9代目正蔵の息子)。

家系図については、「初代・林家三平ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AE%B6%E4%B8%89%E5%B9%B3_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)


名前
海老名榮三郎

海老名榮三郎は本名の初名。長男なのに「榮三郎」と名付けられたのは父正蔵の本名が海老名竹三郎だから。


しかし大人になった時に長男らしい名の泰一郎と改名している。


自らの子供達の名には「泰」の字をつけている[4]。(長女の美どり(本名は全て平仮名の「みどり」)は例外)

林家甘蔵
多くの資料ではこれを彼の初名としている。父正蔵が「こいつ(三平)は根が甘ちゃんだから甘蔵にするか」としてつけたという。しかし公式プロフィールではこの名を実際に名乗ったという事実はないとされる。

林家三平
なぜ「林家」なのか

もともと、海老名家は「林家」という名と関係がなかった。それは以下の理由による。


父正蔵の前名は7代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。


7代目柳家小三治(7代目正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥4代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。この異常事態に対し、別団体睦会の5代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(7代目)。この名は留め名であり、小三治より格上であった。これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである[注釈 2]

なぜ「三平」なのか
三平は、父正蔵がかつて名乗っていた前座名である。師匠が柳家三語楼なので「三」の字を採った。ただし、上記のように父は柳家なのでその名は「柳家三平」であった。ゆえに父は三平の初代には数えられていない。

また、上方落語の五代目林家正三の弟子、初代露の五郎の若名乗りが「林家三平」だったが、系譜的に別であるため、三平の初代には数えられていない。

林家三平を名乗り続けた理由

三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。5代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。


一方、師匠7代目橘家圓蔵もまた、自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。


三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず、結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである(5代目柳家小さん『咄も剣も自然体』)。そして、三平の名を一代で大看板にした。


結局月の家圓鏡の名は弟弟子の橘家舛蔵が襲名した。三平がテレビで人気を博していたころ、舛蔵改め圓鏡は、主にラジオのトーク術で人気を博し、三平同様演芸界のスターダムにのし上がってゆくことになる。のちの8代目橘家圓蔵である。

林家正蔵の名跡
父正蔵没後6か月後の1950年4月22日、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。

5代目柳家小さんの名跡をめぐり、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治が争い、馬楽が負けたからである。


小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が三平の大師匠で実力者8代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたことと、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。


当然、馬楽は不満である。4代目柳家小さんは4代目馬楽襲名後に4代目小さんを襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、襲名があっても香盤は変わらないので、“小さん”の名前が馬楽より格下となる「ねじれ現象」を生じてしまう。これでは差し障りがあった。


小三治には4代目小さん未亡人や文楽が後盾になっており、また折角の好機でもあるため馬楽に譲ろうとはせず、むしろ馬楽に自分より格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。

一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様5代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、8代目林家正蔵を襲名した。

父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。一方、8代目正蔵側から見れば、7代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「7代目林家正蔵」参照)。


なお、三平が正蔵を名乗ることは遂に叶わず、8代目正蔵よりも先に死去してしまう。三平没後、8代目正蔵は自ら「正蔵」の名跡を海老名家に返上し、「彦六」に改名した。


ここまでの経緯は新宿末廣亭元席亭・北村銀太郎の説明によるものであるが、8代目正蔵よりも小さんを可愛がった北村の証言だけに、幾分かは割り引いて聞く必要もあろう。


実際、8代目正蔵は自伝『正蔵一代』[5]で、生前三平に正蔵を返上しようとしたところ、三平から「師匠の宜しい(亡くなる)まで(正蔵を)お名乗り下さい」と説得されたことを明かしている[注釈 3]。また、8代目正蔵は、自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のものに変更させ、三平への配慮を見せていた[注釈 4]。三平生存中に亭号を変更しなかった8代目正蔵の弟子に3番弟子林家枝二がいるが、現在は7代目春風亭栄枝を襲名して他の亭号に変更している。なお、4番弟子初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は、三平に気に入られていたことからその肝入りもあって亭号を変えることはなかった。このため、現在林家は二流あるものの、木久扇は9代目正蔵襲名の際にその後見になっている。

師匠
初めの師匠
初めの師匠は、父正蔵である。

父正蔵の死
父正蔵の死後、父正蔵と同じく東宝名人会専属の初代柳家権太楼に入門する話が進んでいた。

7代目橘家圓蔵に入門した理由

7代目橘家圓蔵は、師匠8代目桂文楽に破門された後、7代目林家正蔵一門に弟子入りし、2年間を過ごし、その後社会の最底辺で職業を転々とする文字通りの「てんてん人生」に甘んじた。圓蔵は、生涯を通じて落語が下手で、後世の評価でも三平の下手を遥かに上回るといわれている。


しかし、三平と母・うたは、丸きり他人の権太楼に入門するよりは、関係が多少でもある圓蔵のところに入門した方が良い扱いを受けるだろうと考えた。


だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかった[注釈 6]ので、落語協会で前座をやり直すことになった。


従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた[注釈 7]。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。


加えて、晩年の権太楼は認知症の発症もあり、凋落が著しかったので、その弟子になっていたら出世の可能性は相当に狭められていたであろうと考えられている。

芸風・エピソード

テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の盛名をほしいままにした(今は当然のように在京のテレビ局ではそのように呼ばれているが、存命時はそれほど飛びぬけていたわけではない。当初爆笑王と呼んだことには何らかの意図がうかがわれる)[3][注釈 8][注釈 9]


売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を主に高座で行っていたものの、「囃の途中で言葉につまる」、「登場人物の名を忘れる」などの致命的なミスが目立つことが多かったため、仲間内から「大変下手な奴」、「鷹が生んだ鳶」、などと馬鹿にされていた。観客の中にも「この人は本当に落語を喋れるのか」と思うものは少なくなかった[3]。だが3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。

時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」[3]「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」[3]「坊主が二人で和尚がツ―(お正月)。」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の7代正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる、海老名家のお家芸とも言えるポーズである。なお、「どうもすいません」について3代目三遊亭圓歌は、『NHKアーカイブス』の中で、東京タワーからのテレビ放送で司会をしていた三平が台詞を忘れてしまい、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざしたところ、お客に大いに受けたのが始まりであると語っている。子供が泣けばあやす、客がトイレに行けばそれをいじるなど、客いじりにも造詣があった[3]。 持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小噺を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であった。


その一方で息子の泰孝(後の9代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の2代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である[8]。その他にも、種子島出身だから林家種平北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い。もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。


この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家としてを大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

自身の小噺に入っていた下ネタに放送禁止用語は一切使われておらず[9]、そうしたものを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌っていた。


テレビの漫談では、ニコリとも笑わないアコーディオン弾きの小倉義雄との対比的なコンビが特に人気を博した。加えて、高座では、正座が当たり前だった常識を覆し、歌を立って歌うといった革新的なことから、「立体落語」という言葉を大衆に認知させた。また、弟子の林家ペーパー子夫妻と共に数々の珍芸を披露。ペーは一時期三平のバックギタリストとして高座を共に務めていたことがある。


三平は芸人仲間相手の酒席の場でも、寄席などで披露していた「すべり芸的なギャグ」をサービスとして連発していたという。立川談志がたまりかねて三平に意見をしても、一向にその調子を変えず、談志は三平の「本音をけっして見せない姿」に不思議な思いを抱いたというが、三平の持つ芸や華を買っており、「(大化けして、)モンスターならぬ大スターになった」と評した[10]

戦争

三平は戦時中には陸軍に徴兵されている。この軍隊経験について本人は黙して語らなかったが、上官からは相当のいじめしごきに遭ったと伝えられている。また、夢であった医大への進学、医師への道も、戦争と終戦後の社会の混乱の影響で断念しなければならなくなった。[独自研究?]

しかし、三平と戦争ほどミスマッチな取り合わせもない。この史実を後年の高座で取り上げた落語家曰く、


・「あの三平さんまで兵隊にとったんですよ。(それだけひどい事態になって)どれだけ日本軍の戦況が追い詰められていたかわかるでしょう」「三平さんなんて(戦地から)太って帰ってきたって。どこの戦争に行ったんだ?」(川柳川柳「ガーコン」)。


・「あの人が戦争に行ったのだから日本は勝てるわけない。敵はびっくりしただろうね、『三平ですどうもすいません。ズドン(鉄砲の音)』」(3代目三遊亭圓歌)


妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。以降は流転の末に落語家(3代目金馬)の家で育てられた。

私生活

売れ始めた当初は、遊びが過ぎて家にほとんど金を入れず、妻香葉子は内職に追われていたという。内職片手に子供に授乳するため、左乳のみが垂れてしまったという逸話もある。


同時期に活躍した石原裕次郎とは親交が大変深く、その付き合いは家族ぐるみのものであった。三平が1980年に、裕次郎が1987年にそれぞれ没した後もその親交は続いており、長男泰孝の9代正蔵および次男泰助の2代三平の襲名披露に際しては石原プロモーションによる全面的なバックアップが行われ、大変に豪華なものとなった。


1971年
7代目立川談志参議院選挙に立候補した時には、「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」と言ったところ、円鏡が「兄さん、そりゃあシャレにならねぇ。」と止めに入るような応援演説だったため、誰が立候補したのかわからないような無茶苦茶なものだったという。


かような応援演説のせいで勘違いした者がおり、この選挙で「林家三平」と書かれた無効票が、圓歌によれば24票入っていたという(5代目鈴々舎馬風は28票という数字を挙げている)。いずれにしても基本的には選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはないので[注釈 10]、これらは噺家たちによるネタと見るべきものである。とはいえ、三平の応援演説が原因で、実際にこのような「事故」が多少なりとも発生したであろうことは想像に難くない。


ネタづくりのとき、仕事仲間から自宅の仕事部屋が暑くて困ると言われ、唐突にエアコン(当時は高級品)を購入したが、下の窓につけたのでちっとも涼しくならずみんな寝転がってネタを作ったり、移動が大変なので自家用車を買うことになり、夫人に相談もなしに運転手つきの車を購入するなど、値の張る衝動買いをしばしば引き起こしている。


息子・正蔵の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという。古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと。このことに関して正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう。だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持ってたが故、そして自身の跡継ぎとなる実子が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を正蔵に行っていたとされる。


その反面、非常に付き合いを重視しており、弟子達を連れて飲みに行き、奢ることがたびたびあった。父親である正蔵が吝嗇と呼ばれ、出費を伴う付き合いを嫌ったと言われたのとは対照的であった。

晩年

1978年6代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代1番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。


だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態[注釈 11]を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと[注釈 12]考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。


なお、三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードである。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。


また、興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる50代半ばで肝臓癌によって早世した三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。


ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まで、新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしていたと言われる。


死ぬ間際になっても、なおその芸人根性を指し示した様子を描いた文章に以下のものがある[3]

しかし、容体が急変、三平は垂死の床にあって意識が混濁してきた。そこに、医師が呼び掛けた。

医師「しっかりして下さい。あなたのお名前は?」

三平「加山雄三です」

父・三平のこのような芸人根性を目の当たりにした長男の泰孝と次男の泰助は、その際「天才だ。かなわない」と驚愕したと語っている。また、義兄の中根は「泰一郎さん(三平の本名)はお笑い芸人に向いているだろう」とこの時思ったという。

詳しいことは、「初代・林家三平ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AE%B6%E4%B8%89%E5%B9%B3_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
(wikiより)


553 林家三平

⇧ 初代・林家三平

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1894年3月31日東京三の輪生まれ。本名は海老名 竹三郎。海老名という苗字は母方の実家の名字で海老名家は鉄砲奉行の同心の家と伝わる[2]。家業は穴蔵屋(角風呂専門の製造業)であったと長らくされてきたが風呂桶職人で素人の天狗連で新内や落語を語っていた。20歳の時に3代目神田伯山の講談を聴いて落語家になった[2]。はじめ立花亭で下働きを始める[2]1919年1月に演芸速記記者であった今村次郎の紹介で初代柳家三語楼に入門して玄人となり、柳家三平を名乗る、初高座は立花亭であった[2]、その後内山歌と結婚[2]1924年3月に7代目柳家小三治を襲名して真打昇進。師匠三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の4代目柳家小さん一門から「(小三治の)名前を返せ」と詰め寄られ、そうこうしている間に遂に8代目小三治が出現。結局5代目柳亭左楽を仲立ちとして6代目遺族から名跡を譲り受け、1930年2月に7代目正蔵を襲名して事態を収拾。1930年日本芸術協会(現:落語芸術協会)初代理事長を務める。1934年東宝に移籍して東宝名人会の専属になる。


落し噺、新作を得意とし、時事感覚に長けたギャグの達人であり、実子・初代林家三平の決めゼリフ「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草(9代目もやる)も元来は7代目が高座で客いじりに使用したもの。怪談噺・芝居噺を得意とする歴代正蔵の中にあって、爆笑落語を通した異端児であった。SPレコードも多数残している。


1949年、興行で青森県に行き、現地の風土病に罹患。それが元で1949年10月26日下谷病院にて死去。享年56。墓所は足立区常福寺戒名は正恵院釈讃良意居士。


9代目林家正蔵は孫にあたる。弟子に治助(のちの7代目橘家圓蔵)、柳家富士朗柳家三太楼(現:紙切り師林家今丸の実父)、7代目春風亭小柳枝三遊亭市馬(「ロセンの市馬」)等がいた。実子・三平も末期の弟子であるが、育てきる前に7代目が亡くなったことから、7代目圓蔵門下に移籍した。
(wikiより)


553 林家正蔵

⇧ 七代目・林家正蔵

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4代目 柳家 小さん(やなぎや こさん、1888年4月18日 - 1947年9月30日)は、東京の落語家。本名、大野 菊松(後に平山に改姓)。

経歴・人物
東京の麹町の生まれ、小学校から暁星中学に合格したが体を壊し入学を断念。洗濯屋などに奉公に出る。1906年に2代目柳家つばめの紹介でつばめの師匠の3代目柳家小さんに入門。本名の一字をつけて柳家小菊と名乗る。


1908年12月二つ目昇進し3代目柳家小きんに改名。若手勉強会『胆力養成会』に出演し実力をつけ将来を嘱望される。


1913年4月小さん一門の出世名であり師匠小さんの前名5代目柳家小三治に改名する。


1916年2月真打昇進。1918年3月4代目蝶花楼馬楽襲名。1928年4月、師匠小さん引退に伴い4代目柳家小さんを襲名。自分の名跡である蝶花楼馬楽は弟子3代目三遊亭圓楽(後の林家彦六)が5代目を襲名した。


落語協会
に所属していたが1934年に脱退、東宝専属となり東宝名人会に出演した。


得意ネタは『かぼちゃ屋』『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』『青菜』『おばけ長屋』『雑俳』『三人旅』『芋俵』など滑稽噺が多い。といってけっして受けを狙わず淡々とした口調で、時折鋭い警句を交えるなど格調の高い芸風であった。一方で新作落語の創作にも力を入れ、『創作力のない者は、噺家ではない』という言葉を残している[1]


無口かつ温厚な性格ながらも、『曲がりたる心あるものは落語を止めるべし』と主張して落語の有り方に意見を持つ人物であった。一方では人のあだ名をつけるのが巧く、5代目小さんの前座名「栗之助」などにその卓抜なセンスが窺われる、ほかにも小さんが付けたとされるあだ名に西村楽天に「西洋の羅漢様」、柳家小半治に「面子の頼朝」、8代目春風亭柳枝に「ホワイト小僧」、5代目古今亭志ん生に「蟒蛇うわばみの吐き出され」などがある。また俳句をよくし、「皐月庵祥喜」という俳名を持っていた。


終戦後は落語協会に復帰して会長に就任、話芸も円熟期に入ろうかという矢先に、上野鈴本演芸場で新作落語「鬼娘」口演後、楽屋に下がり、前座が茶を出し、飲み終わり、湯のみを置いたところで前に倒れ、そのまま死去した(三代目の三遊亭円歌談)。

1
947年9月30日、逝去。59歳没 。墓所は台東区本寿寺。


孫は画家の大島誠

一門弟子
2代目柳家小満ん(息子4代目柳家小せんは5代目柳家小さんの総領弟子である)
8代目金原亭馬生(元は8代目桂文楽の弟子だが、後に小さん一門に移籍、太平洋戦争中に死去)
林家彦六(元は師匠小さんの弟子だが、師匠小さん引退、1927年に小さん一門に移籍)
4代目鈴々舎馬風(元は4代目古今亭志ん生の弟子だが、師匠志ん生死去に伴い、小さん一門に移籍)
3代目柳家小団治(後に落語協会事務員に転職)
初代昔々亭桃太郎
6代目蝶花楼馬楽(師匠小さん没後は彦六一門の客分格となった)
5代目柳家小さん(師匠小さん没後は8代目桂文楽一門の預かり弟子になる)
4代目桂小団治(最初は4代目小さん一門で小とよ、後に2代目桂小文治一門で小団治に改名した)

出典
1. 5代目柳家つばめ『創作落語論』河出書房新社、2009年(元本は三一書房、1972年)、24頁
(wikiより)


472 四・柳屋小さん

⇧ 四代目・柳屋小さん

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3代目三遊亭 歌笑1916年9月22日 - 1950年5月30日)は東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)出身の落語家。本名:高水 治男

出生
生家の製糸工場の二男で地元の小学校卒業。その後兵隊検査で極度の斜視弱視であるため(今で言えばロービジョンであった)丙種合格となった。エラの張った顔が特徴で、子ども時代からよくからかわれたという。

入門
そのことに失望して家出し、産まれてから一度も出ていなかった五日市の町を出る。隣町の秋川と縁がある大スター柳家金語楼の門を叩く。が断られ、金語楼から6代目春風亭柳橋を紹介される。だが、柳橋にも断られる。1937年9月、3代目三遊亭金馬に入門し、三遊亭金平の名をもらう。楽屋内では「化け」と言われ続け、後年の人気をも頑として認めない空気があったという。

二つ目から人気爆発まで
1941年3月[1]、(1942年とも)二つ目昇進、かつて師匠が名乗った歌笑を襲名する。後に寄席に出演するため、寄席に背を向けていた金馬門を離れ、2代目三遊亭円歌門に移る。人形町末広(石原席亭)から認められ始めた、戦況が刻一刻と悪くなるこの頃[2]には頭角を表し、周りから開催に反対もされた[3]柳家小きん(後の5代目柳家小さん)、4代目柳亭痴楽との「二つ目」だけで開かれた三人会(大塚鈴本)を大入りにする[4]


以下は『歌笑純情詩集』より「我生い立ちの記」(冒頭)

我、垂乳根(たらちね)の胎内より出(いで)し頃は
長谷川一夫も遠く及ばざる眉目秀麗なる男の子なりし
世の変わりともともに我が美貌も一変し
今や往年のスクリーン
フランケンシュタイン第二世の再現を思わせる如く豹変せり
されど我を育みしふるさとは
都を離れること三十五里
南奥多摩[5]絶景の地なり

[6]

戦後。アプレゲールな新作派
結婚、召集から除隊後[7]に落語に帰って来る。が空襲が酷くなり、寄席はどこも閉まり[8]、人形町末広と神田の立花のみ残っていた[9]


戦後の復興が直線的に進んだ訳ではなく、まだ生きるのに必死で笑いに気を向ける余裕がない人が多い中、一足先に復興する銀座の風景で歌笑は作った。 以下は『歌笑純情詩集』より(冒頭)

銀座チャラチャラ人通り
赤青緑とりどりの
着物が風にゆれている
きれいなきれいな奥さんが
ダイヤかガラスか知らねども
指輪をキラキラさせながら
ツーンとすまして歩いてる

[10]

特異な風貌(どことなく愛嬌も感じられる「フラ」)と、それに似合わぬ純情な所が、終戦直後の荒んだ世相に明るい笑いを提供する。1947年10月に真打昇進。ラジオ出演をキッカケとして、日本劇場国際劇場等を満員にするほど人気が沸騰し、元祖「爆笑王」(同じ「元祖爆笑王」の名前を、バラエティ主体の放送作家が名乗る)、「笑いの水爆」と呼ばれ、一世を風靡。共に若手三羽烏と呼ばれた4代目柳亭痴楽9代目柳家小三治(後の5代目柳家小さん)ら同年代の若手落語家に多大な刺激を与えた他、4代目桂米丸や後に同じ昭和の「爆笑王」の名を拝命する初代林家三平といった駆け出しの落語家の大きな目標となっていた。


得意ネタは、七・五調で演じる「歌笑純情詩集」[11]の他に「論文集」、「迷作集」[12]「ジャズ風呂」[13]がある。

SPレコードは現在確認されているもので「我が生い立ち記」「音楽花電車」「妻を語る」「音楽風呂」「スポーツショウの巻」の5枚が残されており、この5枚は2010年現在、全てCD化されている。趣味は読書であった。


1948年に映画「音楽二十の扉」、1949年「ホームラン狂時代」、 1950年に「笑う地球に朝がくる」[14] に出演。

米軍ジープによる突然の事故死
人気絶頂時の1950年、雑誌「夫婦生活」の大宅壮一との対談が終わり帰る途中、夕暮れの銀座松坂屋前の路上横断中、アメリカ軍ジープに轢かれて事故死。


先天性弱視が災いしたといわれる。享年32。真打としてはわずか2年半に終わった。人気者歌笑の突然の交通事故死に坂口安吾中央公論の中で「"歌笑"文化」の一文を寄せる[15]


また、人気絶頂の最中の突然の死であったため、多くの予定スケジュールが残された。この時穴埋めの代演としてフル回転すること になったのがライバルであり親友でもあった4代目柳亭痴楽で、痴楽は「歌笑純情詩集」のテイストを折り込んだ新作落語「痴楽綴方狂室」をかけ、これで名を売って行くことになる。


師匠の円歌は歌笑の事故死当日、巡業先の和歌山県で仕事をしていた。一緒に来ていた3代目江戸家猫八が当時の人気者歌笑の物真似をするのをたまたま客席にまわって観ていた円歌には、声だけでなく表情や仕草までもがまるで歌笑の生き写しのように見えたという。翌日、円歌は移動先の奈良の旅館で歌笑の死を知らされたが、まさに歌笑が車に轢かれた時刻に猫八は舞台で演じていたのだった。そのことを知らされた時の円歌を見ていた浪曲師の相模太郎は、人の顔色がこれほどまでに激変するものなのかと思ったそうである。心から念仏を唱えたと、円歌は後に高座で語っている。
[要出典]


また、立川談志の少年期に影響を与えた一人とされており、歌笑の急逝を知った談志は生まれて初めて他人のために涙を流したという。『談志絶倒昭和落語家伝』によれば、昔々亭桃太郎の復員を聞いて、実力者の帰国に恐れていたという[16]


墓所は荒川浄閑寺にあり記念の(揮毫は武者小路実篤)が建立されている。生まれ故郷の五日市にも碑がある。


渥美清
が映画(「おかしな奴1963年)とTVドラマ(「おもろい夫婦1966年10月6日-翌年3月30日)で歌笑を演じている。


近年は風間杜夫が昭和の爆笑王ドラマスペシャル「林家三平ものがたり おかしな夫婦でどうもすいませーん!」(テレビ東京国際放映、2006年8月20日)の中で歌笑を演じた。
(wikiより)

216  三代目・三遊亭歌笑

⇧ 三代目・三遊亭歌笑

216a

216b


初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)、(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 1900年(明治33年)8月11日)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した噺家(はなしか)で、「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう)」「塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)」「文七元結(もっとい)」など数々の名作を生み出した落語界の大名人です。

7歳のときに初高座にあがって以来、研鑚(けんさん)を積んだ円朝は、元治元年(1864年)から4年間にわたり東両国垢離場(こりば、現・墨田区両国)の昼席で真(しん)を打ち続けるほどの人気者となりました。


落語界の頂点に立った円朝は、明治9年(1876年)、本所南二葉町(現・墨田区亀沢)に移り住みます。

500坪という邸宅は、円朝の生涯のうちで最も贅沢(ぜいたく)で工夫を凝らしたものだったといわれています。

新宿へ転居するまでの約10年間、彼は「松操美人生埋(まつのみさおびじんのいきうめ)」などの噺を創作し、すでに評判となっていた「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」を速記本として出版しました。


三遊派再興の悲願が叶い,1889(明治22)年,圓朝が木母寺に三遊塚を寄進.境内隅にある巨碑.この披露目の奉納小咄集が「雪月花一題ばなし」

この碑文は、鉄舟(表)、泥舟(裏)の筆になります。
(案内板より)

〇 山岡鉄舟

山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう)は、幕末から明治時代の幕臣政治家、思想家。の達人としても知られる。


鉄舟は居士号、他に一楽斎通称鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

概説

江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流北辰一刀流の剣術、樫原流槍術[注釈 1]を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。


幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。


明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事伊万里県権令侍従宮内大丞、宮内少輔を歴任した。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。

詳しいことは、「山岡鉄舟ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F

〇高橋泥舟
高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日1835年3月15日) - 明治36年(1903年2月13日)は、日本の武士幕臣

生涯

江戸において、旗本山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称:精一。は政晃。を忍歳といい、泥舟は後年の号である。

母方を継いで高橋包承の養子となる。

生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄・山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。

生家の男子がみな他家へ出た後で静山が27歳で早世、山岡家に残る英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。


安政3年(1856年) 講武所槍術教授方出役


万延元年(1860年) 槍術師範


文久2年(1862年新徴組結成。取締責任者


文久3年(1863年) 一橋慶喜(徳川慶喜)に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任


慶応2年(1866年) 新設の遊撃隊頭取。槍術教授頭取を兼任


・慶応4年(1868年幕府鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く

  ・2月12日3月5日) 江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛

  ・4月11日5月3日) 江戸城開城水戸へ下る慶喜を護衛


勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事にこの大役を果たした。


後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董鑑定などで後半生を送った。

明治36年(1903年2月13日牛込矢来町の自宅で没す。享年69。墓は東京都台東区谷中六の大雄寺にある。

詳しいことは、「高橋泥舟ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B3%A5%E8%88%9F
(wikiより)

104 山岡鉄舟

⇧ 山岡鉄舟

104 高橋泥舟

⇧ 高橋泥舟

104a

⇧ 碑文は、山岡鉄舟によるもの

104b

⇧ 碑文は、高橋泥舟によるもの

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