本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

※ 御注意  ※ 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有りますが、その場合は『 生前墓 』と表示してあります。

すでに『 撤去 』された墓石もあります 確認が取れたものには『 撤去済み 』と表示してありますが、撤去済みで確認が取れていないものについては「 表示されていません 」

画像は再訪したときに再撮影して差し替える場合もあります。

※ 申し訳御座いませんが『 画像の転用 』は絶対に禁止とさせて頂きます。

皆様から拍手をいただけるとめっちゃモチベーションが上がります。

コメントは原則公開させていただいております

質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては「ブロック」します ブロックした場合解除する事は有りません。

皆様と楽しみながらブログを続けて行ければ幸いです 宜しくお願いします。

※ ブログ記事につきましては、撮影時のウィキペディアを引用しているため現在とは違う場合も有ります。

国鉄時代に、松浦線が特定地方交通線に指定された時点で廃止が決まったため、JR九州は「日本最西端の駅」を明け渡す格好となった。

そこで同社最西端の駅となる佐世保線佐世保を「JR日本最西端の駅」としてPRし構内に記念碑を建立した。

〇 佐世保駅
所在地長崎県佐世保市三浦町21-1
所属事業者九州旅客鉄道(JR九州)
松浦鉄道
電報略号サホ
駅構造高架駅
ホーム(JR九州)3面6線
(松浦鉄道)1面2線
乗車人員
-統計年度-
(JR九州)2,600人/日(降車客含まず)
-2021年-
乗降人員
-統計年度-
(松浦鉄道)1,392人/日
-2021年-
開業年月日1898年明治31年)1月20日[1]
乗入路線 2 路線
所属路線佐世保線
大村線直通含む)
キロ程48.8 km(江北起点)
日宇 (3.4 km)
所属路線西九州線
キロ程93.8 km(有田起点)
佐世保中央 (1.0 km)
備考共同使用駅
JR九州:直営駅
JR九州:みどりの窓口 有[2]
松浦鉄道:有人駅

佐世保駅(させぼえき)は、長崎県佐世保市三浦町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・松浦鉄道である。

概要
長崎県北部の主要都市である佐世保市の中心駅であり、JR九州の佐世保線と松浦鉄道の西九州線の2路線が乗り入れている。両路線とも当駅が終点で全列車が当駅始発・終着で運転される。2009年3月14日から、松浦鉄道の列車が1往復JR線に直通運転を行っていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で直通運転を休止した。佐世保線と西九州線の他、早岐駅を起点とするJR九州大村線の列車もほとんどが当駅を始発・終着としており、利用可能である。

西九州線はかつて日本国有鉄道(国鉄)→JR九州が松浦線として管轄していたが、1988年4月1日に松浦鉄道に経営移管されたのに合わせて西九州線に改称した。同時に当駅はJRグループ全駅中最西端の駅かつ日本最西端の終着駅となった(これはJRも松浦鉄道も当駅を終点としているため)。

佐世保市は人口では長崎県第2の自治体であるが、当駅の利用者数は長崎駅諫早駅に次いで県内では3位となっている。

歴史
1898年明治31年)1月20日九州鉄道の駅として開業[1]
1907年(明治40年)7月1日:九州鉄道が国有化[1]。同時に当駅は国有鉄道の最西端駅となる。
1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定により、早岐駅 - 佐世保駅間に佐世保線の名称が付けられ、当駅は佐世保線の終点となる。
1934年昭和9年)12月1日長崎本線が現行の肥前鹿島駅経由のルートに変更されたのに伴い、旧ルートのうち肥前山口駅(現・江北駅) - 早岐駅間を佐世保線に編入。
1935年(昭和10年)11月9日:佐世保線が北佐世保駅まで延長[3]。これにより当駅は佐世保線の中間駅となると共に、国有鉄道最西端の駅の座も失うこととなった。
1937年(昭和12年)8月25日:鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎に改築、竣工[4]。この駅舎は戦災も免れて高架化まで使用された。
 ・駅舎の位置は現駅舎東口(国道35号線側)の早岐方約50mほどのところ。現在は東口駅前広場となっている。
1943年(昭和18年)8月30日:佐世保線の当駅 - 北佐世保駅間を松浦線に編入。これにより当駅は佐世保線と松浦線の駅となり、両線の終点となる。
1985年(昭和60年)3月14日:貨物営業を廃止[1]
1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道(JR九州)の駅となる[1]
1988年(昭和63年)4月1日:JR九州松浦線が松浦鉄道西九州線に転換される[3]。これにより、当駅は国鉄・JRの駅としては52年ぶりに最西端に戻る。
1990年平成2年)11月2日:駅舎の内外装リニューアル[5]
1995年(平成7年)1月30日:高架化工事に着手[6]
2001年(平成13年)12月26日:高架化[7]。新駅舎完成[7]
2002年(平成14年)3月23日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
2006年(平成18年)3月18日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
2009年(平成21年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
2010年(平成22年)3月 - JR改札口に自動改札機を設置。
2020年令和2年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
2024年(令和6年)度:ICカードSUGOCA」の利用が可能となる(予定)[8]
※高架化前(旧駅時代)はJR九州では最後となる赤帽が配置されている駅であった。

駅構造
JR・松浦鉄道の両社一体の高架駅であり、高架下は駅舎・コンコースとなっている。国道側は「東口」、佐世保港側は「みなと口」となっており、東口側から見て左がJR九州の駅、右が松浦鉄道の駅となっている。JR九州、松浦鉄道とも有人駅自動券売機を備えている。

JR九州の窓口は高架下にありみどりの窓口を備えている[2]。なお松浦鉄道は当駅を含めて自動改札機は一切設置していないため、当駅は九州最西端の自動改札機設置駅となる。松浦鉄道の窓口は高架部(ホーム)にあり、窓口そばに自動券売機があるが、窓口の営業時間外には券売機は使用できない。なお松浦鉄道は終日車内精算で、乗車時には整理券を取り、降車時には運賃または切符と引き換えに精算証明書を運転士または車掌から受け取る。また松浦鉄道ではnimoca(SUGOCAなどの相互利用可能ICカードを含む)が利用可能であるが駅構内に対応機器はなく、車内のカードリーダーに触れることで精算を行う。

コンコース内にはKIOSKファミリーマートをはじめとする売店、佐世保観光情報センターなどがある。東口側には佐世保バーガーの店である「ログキット」もある。

ホーム

JR九州は島式ホーム3面6線、松浦鉄道は島式ホーム1面2線を有しており、いずれも東口側からみなと口側に向かって1番のりばから6番のりば(JR九州)または2番のりば(松浦鉄道)まで付番されている。JR九州のホームは改札口から続く連絡通路を介してそれぞれ結ばれており、松浦鉄道のホームにはコンコースから直接階段またはエスカレーターによって行き来する。JR九州のホームにはそれぞれエスカレーターとエレベーターが備えられている。

なお、2020年8月8日よりJR5・6番のりばは使用休止となり(それまでは早朝の佐世保線普通列車3本と、18時台の普通列車5本及び「シーサイドライナー」1本が使用していた)、立ち入りできなくなっている[9]

JR1・2番のりばホームと松浦鉄道のホームは一体となっており、境界部に松浦鉄道管理の連絡改札がある。JR2番のりばは佐世保線と西九州線の直通が可能であるため、直通列車はこのホームを使用する。ただし2020年3月14日以降はJR線と松浦鉄道線を直通する定期列車は設定されていない。

詳しいことは、「佐世保駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E9%A7%85
(
wikiより)

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開店直後に入店しました。

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⇧ 店外観

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⇧ 塩ラーメン

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⇧ 餃子







この海童神社は、ナガスクジラ ( 昭和 48年 ( 1973 ) 捕獲体長 18.2m ) の顎の骨でできた鳥居があることで知られ、捕鯨で栄えた有川地域を象徴する建造物である。

元和 3年 ( 1617 ) から元和 5年 ( 1619 ) の 3年間、毎年 6月 17日に限って、近くの海で遊泳する者の溺死が相次ぎ、人々は事故を恐れ気味悪く思っていると、時の乙名役、高井良福画ェ門の夢枕に海神様が立ち、神託があった。

そこで、元和 6年 ( 1620 ) 6月 17日に、その当時小島であったこの地に石祠を建てて奉斎し、即席の俄芝居ほ奉納したところ溺死者もなくなった。

以来、この地に海神様を海童神 ( 綿津見の神 ) として祀ったものである。

これが今日の「十七日祭り」と呼ばれる伝統行事として残っており、毎年 7月下旬の日曜日に行われている。
(案内板より)

〇 海童神社 (新上五島町)
所在地長崎県南松浦郡新上五島町有川郷
位置北緯32度59分12.2秒 東経129度06分51.2秒
主祭神海童神
社格旧無格社
創建不詳

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⇧ 応護島頂上の祠

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⇧ 鯨の顎骨の鳥居

海童神社(かいどうじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社である。鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名。

祭神
海童神を主祭神に、蛭子神配祀する。

配祀神の蛭子神は、合祀された船津地区・蛭子神社の祭神である。

歴史
創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、「元和3年(1617年)~同5年にかけて、有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、海童神を奉祀した」と記載されている。また、「翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、二〇加踊り(にわかおどり)と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、溺死者はなくなった」とされる。その後も二〇加()の奉納は毎年行われ、現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。

しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。江戸時代中期(18世紀)から明治初期(19世紀後葉)にかけて、村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、慶応4年(1868年)に記された祖母君神社の縁起書によると、「慶長3年(1598年)の祖母君神社奉遷の際、それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、これに因んで島の名前を応護島とした」と記述されている。また、当時は「乙名役」という役職もなく、「高井良福右衛門」という人物も宝暦5年(1755年)以降に記述があり、この時期には存在していないことが確認された。  

文久4年(1864年)の資料では「宝暦2年(1752年)6月17日に、船乗り等の水難防止を祈願して通りもの(行列)を始めた」との記述がある。また、全国に伝承される俄の諸記録によると、いずれも江戸中期(18世紀中頃)の「通りもの(練りもの)」から始まり、大阪京都江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、江戸時代初頭(19世紀初)より「二〇加(俄)」の芸態が確立されたとされ、有川村が江戸時代最初期(17世紀初頭)から全国に先駆け「二〇加」を創始していたとは考えにくいため、江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。

明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年(1908年)に祖母君神社に合祀されている。この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年(1927年)に鳥居を建立し、同48年(1973年)に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。 平成16年(2004年)には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。  

祭祀
主な祭礼・神事
・十七日祭(7月)
・魚供養祭(8月)

その他の神社
その他の有川郷の神社に有川神社がある。

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有川神社

参考文献
・『有川町郷土誌 平成6年』有川町郷土誌編纂委員会
・『有川の歴史の虚実』荒木文朗著 平成16年刊 
・『有川二〇加』荒木文朗著 平成19年刊
(wikiより)


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しかし量の多さに脱帽しました。

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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧ メニュー

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⇧ チャーハン

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⇧ 塩ラーメン

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⇧ カレーラーメン








昭和三十八年 宮中歌会始入選歌

お題 草原

草原にほす網のした虫泣きて

       島は飛魚の猟期近づく

昭和五十年 宮中歌会始入選歌

お題 祭り

われら打つ鯨まつりの太鼓の音

       寒の潮鳴る方へとよもす

                   立石 卓
(石碑文より)

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函館にあるお店です。

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⇧ 店外観

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⇧ 名前は失念しましたが、何かの定食だったような







第五十代横綱佐田の山は、昭和 31年1月に初土俵を踏み、五島の大自然と生活で鍛えた強靭な体と不屈の闘志で殊勲、敢闘、技能の三賞をはじめ六度の幕内優勝を果たしました。

引退後は伝統ある出羽海を襲名し、多くの弟子を育てると共に日本相撲協会理事長として数々の業績を残しました。

町制施行 70周年を記念し、偉大なる英雄の顕彰を永く後世に伝えるためにその勇姿を銅像として建立した。
 
建立日 平成14年10月17日

〇 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )
基礎情報
四股名佐々田 晋松 → 佐田ノ山 晋松 → 佐田の山 晋松 → 佐田乃山 照也 → 佐田の山 晋松
本名市川(旧姓:佐々田)晋松
愛称ノッポの晋松・出羽三羽烏
生年月日1938年2月18日
没年月日2017年4月27日(79歳没)
出身日本の旗 日本長崎県南松浦郡有川町
(現:新上五島町
身長182cm
体重129kg
BMI38.94
所属部屋出羽海部屋
得意技突っ張り、右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第50代横綱
生涯戦歴591勝251敗61休(71場所)
幕内戦歴435勝164敗61休(44場所)
優勝幕内最高優勝6回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1956年1月場所
入幕1961年1月場所
引退1968年3月場所
備考
金星2個(若乃花1個、朝潮1個)

佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日[1])は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。

来歴
英雄・五ツ嶋に憧れて入門
南松浦郡有川町(現:長崎県南松浦郡新上五島町)で船大工を営む家に生まれる。子どもの頃から材木を運んだり、カンナをかけたりして体を作っていた[2]。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされ、土地相撲に連れて行かれる内に相撲に憧れを抱き、角界入りを希望するが母親からは猛反対された[注 1]長崎県立上五島高等学校に進学後は相撲部に所属し、3年生で長崎県大会に参加を勧誘されて一度は辞退したものの、強引な説得に根負けして補欠選手として出場するが、いざ対戦してみるとほとんど負けなかったことから自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年のある日、栃錦清隆千代の山雅信一行が地元・五島に巡業に来た際に、高校教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、郷土の英雄である五ツ嶋への憧れが強かったことから出羽海部屋へ入門、翌日からは洗面道具と下着だけを持参してそのまま巡業に参加したが、高校の卒業証書は教諭の計らいでようやくもらえた。

1956年1月場所で初土俵を踏むと、稽古では部屋のすぐ前に立っていた電信柱を鉄砲柱代わりとして打ちこむなど努力を重ねた。後に佐田の山は「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」と振り返っている[3][リンク切れ]。各段優勝こそないものの負け越すことなく1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。新入幕の場所では10勝5敗の好成績を挙げ、同年3月場所では前頭4枚目まで躍進するが、場所前の稽古で右足首を捻挫する。稽古熱心さから「『横綱、大関ってどんなだろう』と内心ワクワクしていた」というが、出羽海からは「まだ若いから無理するな。それより足首をしっかり治せ。慢性になるとまずいぞ」と言われて全休する[4]。これによって一度は番付を下げるが、休場中に体重が急激に増加して力を増すようになった。同年5月場所では12勝3敗の好成績で、三役経験の無い力士による幕内最高優勝を果たした[5][注 2]が、成績もさることながら対戦した三役格力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森政夫と対戦して敗れているため、周囲からは優勝の祝福より「最高優勝は十両(の清ノ森)ではないか」との意見まで出る始末だった[注 3]。このために翌場所以降は、通常なら幕内上位や三役以上、横綱と対戦することが無い幕内下位の力士でも、成績次第で終盤に取組が組まれるよう編成するきっかけになったと言われている[注 4]

ジンクスを打ち砕き横綱へ
幕内最高優勝を新入幕から僅か3場所で果たした佐田の山は一気に番付を上げ、東前頭2枚目の地位で迎えた1961年7月場所は朝潮若乃花の両横綱から金星を挙げ、11勝4敗の好成績を挙げて殊勲賞を受賞した[4]。同年9月場所では小結を通り越して関脇に昇進し、この場所を8勝7敗と勝ち越すと、それ以降三役に定着する。1962年3月場所は初日から10連勝して、13勝2敗と前場所以上の好成績を残した[4]。この場所を含めて本割で5戦全敗だった横綱・大鵬幸喜との優勝決定戦に臨み、見事に勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に場所後の大関昇進を確実にした[5]。快進撃を続ける佐田の山に対し、部屋の大先輩である出羽錦忠雄は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったらワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言い、佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが、1964年9月場所を最後に現役を引退し、太刀持ちは叶わなかった。大先輩の引退を受けてより早期の昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗の好成績を挙げ、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を果たして横綱に推挙された[5]。長年にわたり、「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた[注 5]。昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」のみであった[6]

出羽錦忠雄が待ち望んでいた横綱昇進をようやく叶えた佐田の山は、横綱2場所目の1965年5月場所で14勝1敗の成績を残し、4度目の幕内最高優勝を果たした。しかしこれ以降は持病の高血圧に加え、胃腸炎も患い2年以上に渡って優勝から遠のいた[4]。それでも直向きに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗、1968年1月場所では13勝2敗の成績を挙げて自身初の連覇を達成した。佐田の山はこれが最後の華となり、同年3月場所で序盤に3敗を喫すると、あっさり現役引退を表明した[5][7]。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を果たし、周囲からはさらに優勝回数を重ねるだろうと思われていた矢先の現役引退は角界に衝撃が走り、「高見山大五郎に金星を献上したことが悔しかったのではないか[注 6]」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で考えていた」という。戦前に活躍した栃木山守也常ノ花寛市のように出羽海一門の横綱の「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われたが、この引退には、「晩年の柏戸大鵬を追いて自分だけ先に引退とは身勝手だ。功利的だ。」という意見も飛び交ったが、時津風理事長は「いさぎよい引退だ。引退することで横綱の権威を高めてくれた。」と述べた[8]

同年6月に蔵前国技館で行われた引退相撲では、直近の5月場所で大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことを受けて、露払いに同部屋の福の花孝一、太刀持ちに海乃山勇を従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例だった当時としては異例の組み合わせだが、2003年貴乃花光司以降は、大関以下の現役力士が務める場合も増えた。

出羽海部屋継承
引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、既に横綱昇進の時点で部屋の土地および建物が佐田の山名義となっていた[4]。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰が見ても明白だったが、出羽海は佐田の山の引退を受けて即座に部屋を継承させ、自身は過去に襲名していた「武蔵川」に戻った。これには佐田の山も「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続ければ良かった」と発言していたという。1969年12月の時津風(14代)との対談においても「実際、現役の時には苦しいこともあったけれども、相撲をとって自分本位に一生懸命働いていれば自分のためになると同時に部屋のためになる。それを若い者も見習ってくれるし、非常に良かったんだけれでも今度は反対ですからね。人のことでも世話していかなきゃならんし、指導せんといかんしね」と苦労を語っている。出羽海部屋継承の時点では自身を含めて11名の年寄が在籍していたが、全員が先輩格ばかりだったために部屋を継承しても名実が伴わない面が多かったと話していた[9]

出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった(武隈九重は一門を破門された)が、現役時代から可愛がっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていることを知るとこれを許可し、1919年栃木山守也春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。出羽海は独立について「私は不文律にはこだわらない。優秀な親方であればどんどん弟子を養成させたい。協会運営も部屋運営もこれからますます複雑になってくるから、活発に動き回らないとダメなんです」と話している[10]。その後も出羽海一門では1980年代まで分家独立が相次ぎ、2019年9月時点では出羽海一門が最も所属部屋数の多い一門となった。

稽古の厳しさも有名で、朝5時には稽古場に下りて土俵に鋭い視線を送り続けた出羽海について、小城ノ花昭和は「師匠(佐田の山)が入って来ると稽古場がピリッと引き締まった。少しでも気を抜くと怒られ、出稽古に来る他の部屋の力士からも『出羽海部屋は入りにくい』と言われた」と語るほどだった。また、幕下以下の力士は部屋にいると何もすることがなく、フラフラし出すことから午後は四股を踏ませ、特に相撲を知らない序二段の力士は無暗に稽古土俵に上げてぶつかり稽古をやらせても稽古にならないため、当番的に幕下または三段目の胸を貸すのが上手い力士を土俵に上げ、入門1年未満の新弟子をぶつからせた[9]。このように弟子の指導には非常に厳しい一方で、弟子の龍興山一人1990年2月に急逝した際には通常なら番付から名前が消されるところを、3月場所が龍興山の地元・大阪で開催されることから「名前だけでも凱旋させてあげたい」と尽力し、龍興山の自己最高位となった東前頭5枚目に名前を記載した[11]

師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹佐田の海鴻嗣舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。 三重ノ海の横綱昇進披露宴の時には、普通は大関・横綱昇進で集まったご祝儀の3割を師匠が取る仕来たりとされているのに対して、出羽海は披露宴で集まった莫大なご祝儀全額をそっくりそのまま三重ノ海に渡して、金銭にきれいな姿勢を見せて人々を驚かせた。裏でウジウジ他人を中傷したり、チクチク弱いものいじめをするようなケチ根性が全くない、肚を割って話した人はすごく気持ちがいい人物と一様に話す、人間的にスカッとした親方だったという[12]

相撲協会幹部として
「蔵前の天皇」と言われた武蔵川の娘婿で、角界の保守本流出羽海一門の本家である出羽海部屋を継承したことから、将来の理事長候補としてみなされており、師匠であり岳父の武蔵川は、出羽海王国を築き上げた角聖・ 常陸山の話や、「相撲を昔ながらの伝統として存続させながら、同時に時代にあった姿に変えていかねばならない。それには世界の情勢、日本経済の動向、時代の流れを見抜く頭脳が必要だ。不景気の時に相撲が反映したのは江戸時代の話で、世の中が不景気なら相撲も不景気になる。」という考えを基に帝王学を授けた[8]。武蔵川は出羽海を現役時代のライバルだった 時津風(14代)と仕事で組ませたが、それは時津風が出羽海同様に引退間もなく若くして一門の総帥部屋である名門を継承した境遇であるのと、当時の角界では珍しかった大学卒であり、引退後に政財界と付き合うために大学卒の思考を学ばせるためだった。佐田の山は引退後、武蔵川の教えの通りに膨大な読書をした[13]

1970年の日本相撲協会役員改選では、出羽海一門の親方衆は長らく役員を務めた秀ノ山と交代して、若き総帥・出羽海を監事に据える決定をしたが、「自分はまだ早い、先輩の秀ノ山さんが引き続き監事をやってください。」と自ら先輩に譲り出羽海一門の親方衆を茫然とさせた[14]。秀ノ山親方が逝去した後の1972年に監事・審判部副部長に主任(1972年から1期)、1974年から理事を務め、名古屋場所担当部長、指導普及部長、巡業部長、事業部長を歴任する。

1980年には相撲協会ナンバー3(当時)のポストである巡業部長に就任した時は、最初の地方巡業で事務役や土俵作りを担当する黒子の行司、呼び出し一同を集め、「なんでもいい、言いたいこと、筋の立たない話があれば申し出てみろ。もっともな話は取り上げ、改善しようじゃないか。」と切り出して、行司や呼び出しを驚かせる。意見を具申すると、理にかなった意見は取り上げられて改善されたので、これまで下積みの働きにただ我慢するしかなかった行司、呼び出しからの深い尊敬を集めた[12]。 出羽海巡業部長の登場は、二期四年続いた”土俵の鬼”二子山巡業部長の後任だったため関取衆もはじめ好奇の眼で迎えたが、地方巡業先の稽古土俵に座った出羽海は、土俵の鬼同様の厳しさ、怖さが滲み出て、相撲記者から「いま関取全員を有無言わさずに稽古に引っ張っていける双璧が二子山と出羽海だ」と言われ、関取衆は地方巡業の稽古土俵で気が抜けないと言われた[12]

1982年の役員人事で時津風(14代)と共に協会執行部である在京常勤役員に抜擢され、両国国技館建設に邁進する春日野理事長二子山理事長代行兼事業部長体制を支える要の位置に就き、業務遂行の随所で「斬れ者」ぶりを発揮した[12]

1988年に二子山理事長が誕生すると、協会ナンバー2の事業部長に就任、次期理事長見習として協会運営を遂行した。

相撲協会理事長就任
1992年からは二子山理事長の勇退によって日本相撲協会理事長に就任する。 時津風(14代)をナンバー2の事業部長、同門の親友である春日野(14代)をナンバー3の巡業部長に、役員待遇で放駒(17代)を在京常勤・執行部に起用する。

1996年には境川と名跡を交換し、出羽海 智敬から「境川 尚」となった。3期6年に渡る理事長時代には、
 1. 外国人力士の入門規制(1992年
 2. 新規入門力士の年齢制限(1992年)
 3. 幕下付出の基準設定(1992年)
 4. 巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更(1995年
などの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。

しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の廃案に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を「守旧派」として批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。
 1. 年寄名跡の「協会による一括管理」という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること
 2. 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済み[注 7]という既得権益を得る立場にあること

こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣高田川1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初めてとなる「理事選挙」が実施された[注 8]。結果として2名とも理事に当選したため、境川は混乱の責任を取る形で4期目の理事長続投を断念した。この直後に還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退し、使用予定だった赤い綱を受け取るだけとなった。

また、理事長時代の1992年9月場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に場内アナウンスで訂正される場面もあった。

晩年
一連の騒動によって4期目を断念したものの理事職には留まり、1998年からは相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長を歴任する[4]。理事長経験者による現場復帰は異例で、自身も1976年以来24年ぶりの審判部長着任だった。この時代には大関昇進目安を満たしていた琴光喜啓司の昇進を見送ったことで話題となった。

2002年からは日本相撲協会の相談役に就任し、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡交換を行い、年寄・中立を襲名したのち同年2月18日に停年退職した。退職後はスポーツ報知専属の相撲評論家を務め、年間最優秀力士賞選考委員も務めた。

舞の海秀平のコラムによると、佐田の山は亡くなる10年ほど前に地元・五島列島で開催された少年相撲大会に顔を見せたのが生涯最後の帰郷となった。舞の海は佐田の山の死後、「この時から病を患っていたのかもしれない」と当時を推測していた[7]。元新聞記者の室雄二のブログによると70歳を過ぎた頃より認知症が悪化したといい[15]2009年の報知年間最優秀力士賞の選考会が行われた際には、会場には到着したものの記帳時に自分の名前を書くことが出来なかったという。後日、「これ以上皆様にご迷惑を掛けたくないので、選考委員を辞退させて頂きたい」という連絡が報知新聞社の関係者へ来ており、記者が佐田の山に会ったのはこれが最後だった[3]

2010年9月1日若乃花幹士死去以降、元横綱の最年長だったが、2017年4月27日午前3時15分、肺炎により死去していたことが[16]同年5月1日に公表された[1]。79歳没。故人の遺志により、葬儀は親族のみで執り行われた[17][18]。2017年に入ってからは心筋梗塞で入退院を繰り返していたという[4]

詳しいことは、「佐田の山晋松 - Wikipediaウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%B1%B1%E6%99%8B%E6%9D%BE

(wikiより)

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⇧ 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )

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和菓子のお店です。

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⇧ 店外観

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⇧⇩ 三笠山が美味しいんですよ。

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長崎県南松浦郡新上五島町、五島列島・中通島の玄関港が有川港。平成16年に完成した多目的ターミナルが有川港ターミナルで、九州商船の長崎港への高速船、九州商船の佐世保港へのフェリー、高速船、小値賀港・宇久平港への高速船が出航。

ターミナルビル内には頭上に実物大のクロミンククジラ(全長9.6m、メス)の模型がぶら下がっていますが、上五島は、捕鯨が盛んだった地。

有川港ターミナル周辺では鯨見山(くじらみやま)、鯨供養碑(くじらくようひ)、海童神社(かいどうじんじゃ)、弁財天宮(めーざいてんぐう)、原眞一顕彰碑(はらしんいちけんしょうひ)が有川捕鯨関連文化遺産として水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定。

有川港ターミナルには、新上五島町の捕鯨の歴史を知ることができる「鯨賓館ミュージアム」、コンサートや映画上映が行われる「鯨賓館ホール」が併設されています。

「鯨賓館ミュージアム」は1階と2階に分かれ、2階では江戸時代の有川捕鯨、明治以降・近代の捕鯨を紹介しているので、ぜひ立ち寄りを。

長崎港(長崎港ターミナル)〜有川港は、高速船で1時間43分。
佐世保港(鯨瀬ターミナルビル)〜有川港は、高速船で1時間25分、フェリーで2時間35分。
有川港〜小値賀港は、高速船で35分。
有川港〜宇久平港は、高速船で1時間。
運航はすべて九州商船です。

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 閉店しました。

野田に撮影に来ていて訪れました。

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⇧ 店外観
店内も広くて驚きました。

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⇧ かつ丼を注文。







池 内蔵太(いけ くらた、天保12年(1841年) - 慶応2年5月2日1866年6月14日))は、幕末期の土佐藩郷士定勝。別名に細川左馬之助細井徳太郎

経歴
土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。1861年、20歳で江戸に出て安井息軒に師事し[1]、様々な藩の志士と交流した。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。1863年山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられた。しかし、同年5月には土佐藩から脱藩して長州藩へ赴き、長州の外国船襲撃では長州軍の遊撃隊参謀となっている[2]

文久3年(1863年)8月、土佐脱藩の吉村寅太郎を中心とした天誅組の大和挙兵に幹部として参加。大和国五条代官所襲撃後、大和行幸への協力を要請するため紀州藩へ派遣されるが、その途中で八月十八日の政変の知らせを受け、急遽五条に戻った。天誅組が高取城攻略に失敗し、周辺諸藩から追討軍が派遣されると、熊野方面へ退却する方針が決まる。内蔵太は土佐脱藩の吉村や那須信吾らと共に徹底抗戦を主張し、別働隊として追討軍を迎え打つが守備陣地は陥落し十津川郷へ退却する。しかし、十津川郷士の離反を受けた天誅組は活動継続が不可能となって解散が決定していた。内蔵太は石田英吉らと共に主将中山忠光を護衛し大和の山中を逃走し、追討軍の包囲を破って大坂の長州藩邸へと逃れることに成功する。そのため内蔵太は(忠光を除いた)天誅組の役付きの幹部勢の中で唯一生きて畿内から脱出する事ができた。

その後、長州に落ち延びた内蔵太は、諸藩の脱藩浪士が中心となって結成された忠勇隊を指揮し、元治元年7月(1864年8月)、禁門の変に参加するが、破れて敗走する。

1865年5月、同郷で旧知の仲の坂本龍馬と下関で再会し、亀山社中に加わり行動をともにした[2]。しかし慶応2年(1866年)閏5月、長崎から薩摩藩鹿児島へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中、長崎県中通島の東、潮合崎沖において、暴風のため船が暗礁に乗り上げ転覆し亡くなった[2][3]。享年26[2]明治31年(1898年)7月、贈従四位[4]

墓所は京都府の霊山墓地長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷には坂本龍馬建立と伝わる慰霊碑がある。

龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている[要出典]

作品
漫画
・『お〜い!竜馬』(原作:武田鉄矢、作画:小山ゆう

TVドラマ
・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 桐谷健太

TVアニメ
・『ねこねこ日本史』(Eテレ白井悠介

TVゲーム
・『維新の嵐』(コーエー、1988年)

脚注
1. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 82頁。
2. 
a b c d 池内蔵太邸跡”. 高知県立坂本龍馬記念館. 2022年11月25日閲覧。
3. 
「祈りの龍馬像」建立10年で式典 新上五島、五島の住民グループ”. 長崎新聞. 2022年11月25日閲覧。
4. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.9
(wikiより)

15 池内蔵太

⇧ 池内蔵太

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開店と同時に入店

辛いとは聞いていたけど・・・ どうしても食べたかった。

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⇧ 店外観

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⇧ メニュー

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⇧ 台湾ラーメン アメリカン
しかし辛い・・・・ メチャ辛い。








国選定 重要文化的景観「北魚目 ( きたうおのめ ) の文科的景観」

〇 柴田勝家子孫の居宅
立串集落は今から約 400年前の慶長年間に越前の柴田勝家の子孫が移住し、定着したことから現在の漁業集落としての基礎が作られました。

柴田家は当初、製塩などで生計を立てていましたが、網の権利を得るなどし、本格的に漁業に参入しました。

柴田勝家の四子・空性は出家し、文禄元年 ( 1592 ) 平戸の光明寺を開山しました。

勝家の長子・掃部頭の子は兄弟で空性を頼り、平戸の地へ渡りました。

兄は出家し名を了空と改め、光明寺の住職となりましたが、弟・勝厚は出家せず、漁業者として身を立てるべく、山田、木谷、蒲田、松下、福田、小賀氏従者 8人を従え慶長 18年 ( 1613 ) 上五島に渡り、藤ノ首に定住したといわれています。

8人の従者の事を「家来八軒」あるいは「八軒屋」と称され、現在も海岸沿いの住宅の配列にその面影が残されています。

また、後に領主からカマス網の権利を受け、従者にはカマス網の操業をさせるなど、主従の深いつながりは長く持続されていました。

現在の柴田家の家屋は近代になり建て替えられた建物ですが、集落の中では最も規模が大きいもので、立串集落の成り立ちを表す建物として、北魚目の文科的景観構成要素として指定されています。
(案内板より)

 家の画像については削除させていただきました。

⇩ 以下墓石以外にも多くの墓石が有りました。

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 閉店しました。

交通会館の地下にあります。

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⇧ 閉店時に撮影しました。

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⇧ メニュー

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⇧ 醤油焼きそば

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⇧ チャーハン

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⇧ 餃子






〇 カトリック青砂浦教会

五島にキリストの福音が最初に伝えられたのは、一五六〇年アルメイダによってである

その頃 多くのキリスト者が島内に定住していたものと思われるが、一五八七年七月二四日 ( 天正一五年 ) の豊臣秀吉のキリシタン禁令、続いて一六一四年一二月二二日 ( 慶長一八年 ) の徳川家康によるキリシタン禁令と、宣教師国外追放により弾圧に弾圧が続いたため当時のキリスト者の子孫が、この地に残存していたか不明である

今日、一七九七年 ( 寛政九年 ) 五島備前の守盛運侯が、大村藩主・大村純尹侯に移民を要請した時に、長崎県外海地方から移住してきた

キリシタンの子孫と、迫害を逃れて、秘かに移り住んだ信徒の子孫と言われている

教会建設については、明治一二年 ( 一八七九年 ) 青砂浦に小集会所を造り、信仰生活の中心の場としていた

現在の外壁煉瓦造りの教会は三代目で、一九一〇年 ( 明治四三年 ) 大崎八重師の指導のもとに鉄川与助の設計施行により建立され同年一〇月一七日、ユリオ・アルフォンソ・グーサン司教の時、落成 建堂された教会である

当時の信徒戸数は五〇戸程であったと言われている

一九九五年一〇月建立
(案内板より)


〇 青砂ヶ浦天主堂
所在地長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人大天使聖ミカエル
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ドミニコ鳥瀬文武

青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町にあるキリスト教カトリック)の聖堂五島列島中通島北部に位置し、2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されている[1]

教会の保護者
・大天使聖ミカエル  

略史
1878年明治11年) - 江戸時代外海地方から移住し、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒により初代の聖堂建設
1900年(明治33年) - 青砂ヶ浦小教区設立
1910年(明治43年)10月17日 - 3代目となる赤煉瓦造りの聖堂(現在の建物)が完成
1984年昭和59年) - 大規模な改修が行われる
2001年平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1]        

建物の概要
・構造:煉瓦造平屋、葺き
・様式・意匠:平面は三廊式バシリカ型、内部は木造円柱で身廊と側廊に区切り、天井はリブ・ヴォールト天井とする
・設計・施工:鉄川与助    

青砂ヶ浦天主堂は、長崎県を中心に数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助が建てた3つ目の教会堂であり、煉瓦造りの教会としては2つ目となる。ユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、構成資産の見直しにより外され、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[2]

平面規模は間口11.3メートル、奥行23.4メートル。外壁はイギリス煉瓦積。西側正面は3層に区切り、バラ窓や縦長のアーチを設ける。正面入口左右には柱頭に葉形装飾のある円柱があり、その上部を尖頭アーチとする。内部はアーケード(連続アーチとそれを支える柱列)によって身廊と左右の側廊に分け、身廊、側廊ともに天井は四分割リブ・ヴォールトとする。内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つである。[3]

所在地
〒 857-4402 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241

アクセス
・青方港(中通島)から車で約15分
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス「青砂ヶ浦天主堂前」バス停下車すぐ、「青砂浦別道」バス停下車徒歩約15分

脚注
a b 平成13年11月14日文部科学省告示第164号(参照:青砂ヶ浦天主堂 文化遺産データベース 文化庁、青砂ヶ浦天主堂 長崎県学芸文化課)
関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課
「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、pp.33 - 35

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年 ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年 ISBN 9784888510912
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、
2002年     

関連項目
カトリック長崎大司教区
(wikiより)

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有楽町駅そばにあります

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⇧ 店外観  

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⇧ ラーメン 

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⇧ チャーハン 

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⇧ 餃子










生誕1939年3月13日
出身地日本の旗 日本長崎県南松浦郡新上五島町
死没1988年3月5日(48歳没)
学歴早稲田大学
ジャンルミュージカル
アニメソング
職業俳優
歌手
担当楽器
活動期間(アニソン歌手としては1976年 - 1988年
レーベルキングレコード

池田 鴻(いけだ こう、本名:池田 幸鴻[1](いけだ ゆきひろ)、1939年3月13日[1] - 1988年3月5日)は、日本俳優歌手おぎいくこ事務所に所属していた[1]

略歴
長崎県出身[1]早稲田大学を卒業[1]した後、劇団四季東京キッドブラザーズに所属し数々の舞台を踏む一方、テレビドラマでも重厚な存在感を見せた。

また歌手としても活動、いくつもの特撮・アニメ主題歌をリリースした。『機動戦士ガンダム』のオープニングテーマ「翔べ! ガンダム」は代表作として知られている。

1988年3月5日直腸癌により48歳で死去。彼の墓は南松浦郡新上五島町浦桑郷の浄福寺にある。

特技は舞踊[1]歌唱[1]

出演
テレビドラマ
大河ドラマNHK
 ・天と地と(1969年)
 ・花神(1977年) - 槙村半九郎
 ・草燃える 第50回「三浦義村の策謀」(1979年) - 藤原忠綱
 ・獅子の時代(1980年) - 通弁
 ・峠の群像(1982年) - 仲買人
 ・徳川家康 (1983年) - 津川義冬
 ・山河燃ゆ(1984年)
 ・春の波涛(1985年) - 岡崎高厚・
新・日本剣客伝 第2話「中村半次郎」(1969年、NET) - 大久保一蔵
女人平家(1971年 - 1972年、ABC) - 三善康信
なつかしき海の歌(1975年、TBS
新宿警察 第3話「新宿ろくでなし」(1975年、CX
夜明けの刑事 第67話「君は妻娘を殺されたらどうする!!」(1976年、TBS / 大映テレビ) - 村岡隆一郎
特別機動捜査隊(NET)
 ・第758話「愛情の海」(1976年) - 中杉成吾
 ・第797話「夕陽の波止場」(1977年) - 沖口
大都会シリーズNTV / 石原プロ
 ・大都会 闘いの日々 第19話「受難」(1976年)
 ・大都会 PARTIII 第45話「深夜の殺人者」(1979年) - 田代警視
太陽にほえろ!NTV / 東宝)
 ・第231話「孤独」(1976年) - 七曲署捜査三係刑事
 ・第270話「殿下とライオン」(1977年) - 三田村雅文(スーパーエルフ店長)
 ・第307話「反転」(1978年) - 島崎編集長
 ・第457話「長さんが刑事を辞めたくなった」(1981年) - 矢追信用金庫支店長
 ・第518話「忘れていたもの」(1982年) - 前尾健三
 ・第550話「俺はプロだ!」(1983年) - 谷原秘書
 ・第563話「たすけて!」(1983年) - 南郷不動産社長
 ・第589話「共謀」(1984年) - 伊藤
 ・第601話「アイドル」(1984年) - 東洋テレビリポーター
 ・太陽にほえろ! PART2 第9話「見知らぬ侵入者」(1987年) - パールマンション管理人
破れ奉行 第12話「悲愁! 八千両の鈴」(1977年、ANB
日本の戦後 第4集「それは、晩餐から始まった 財閥解体への道」(1977年、NHK)
特捜最前線(ANB)
 ・第28話「恐喝 にせ女子大生日記」(1977年) - 岡崎助教授
 ・第38話「バスジャック・光なき娘へのハレルヤ」(1977年) - 警視庁南新宿署長
 ・第100話「レイプ・17歳の記録!」(1979年)
 ・第350話「殺人トリックの女!」(1984年)
華麗なる刑事 第20話「黒衣の女」(1977年、CX / 東宝) - 海老沢
ロボット110番 第36話「二人のパパ」 (1977年、ANB) - 夢野一路
青春の門 第二部 (1978年、MBS)
七人の刑事 第3シーズン(TBS)
 ・第3話「ブルートレインはふるさと行」(1978年)
 ・第63話「顔を買う男」(1979年)
達磨大助事件帳 第23話「地獄への落し穴」(1978年、ANB / 前進座 / 国際放映) - 池永
チェックメイト78 第9話「警部とピアノ殺人楽章」(1978年、ABC / テレパック)
消えた巨人軍 最終話(1978年、NTV / 東映) - 三上課長
不毛地帯 第15話(1979年、MBS) - 刑事
・特別企画三時間ドラマ 日立スペシャル / 大いなる朝(1979年、TBS)
おやこ刑事 第16話「ディスコ・レディ全裸殺人事件」(1979年、12ch
騎馬奉行 第13話「湖底の黄金を探せ!」(1980年)
Gメンシリーズ(TBS / 近藤照男プロ)
 ・Gメン'75 第264話「悪魔の棲む家」(1980年) - 井沢拓郎
 ・Gメン'82 第16話「花嫁強盗団」(1983年) - 鑑識員
仮面ライダースーパー1 第7話「ドグマ式生きているコンピューター」(1980年、MBS / 東映) - 山下博士
西武スペシャル / 隣りの女-現代西鶴物語-(1981年、TBS)
2年B組仙八先生(1981年、TBS)
新五捕物帳 第166話「はかなき百両の恋」(1981年、NTV)
土曜ワイド劇場
 ・死者の木霊 信濃路バラバラ殺人事件(1982年) - 野本敏夫
 ・松本清張の溺れ谷(1983年)
 ・牟田刑事官事件ファイル 第1作「事件の眼 信濃路にいた女」(1983年)
 ・家路の果て 建売住宅ローン殺人事件! ラブホテルで主婦が焼死!(1985年)
 ・松本清張の黒い樹海(1986年)
勇者は語らず いま、日米自動車戦争は 第2話「きょう、オハイオの大地に立つ」(1983年、NHK) - ティム・クボタ
ザ・ハングマンシリーズ(ABC / 松竹)
 ・新ハングマン 第19話「浮浪者を襲う医大教授と浮気婦人」(1983年) - 浅田事務局長(東都医科大学)
 ・ザ・ハングマン4 第25話「痛快ダブルハンギング!! さようならありがたや節」(1985年) - 平瀬(隆友ジャーナル幹部)
メタルヒーローシリーズ(ANB / 東映)
 ・宇宙刑事シャリバン 第28話「キャンパスは風速80Mの猛烈ストーム」(1983年) - 大神豊教授(キャンパスビースト人間態)
 ・巨獣特捜ジャスピオン 第32話「お手伝いロボットの真夜中のアルバイト」(1985年) - チップ
必殺仕事人IV 第2話「秀、少女の謎を明かす」(1983年、ABC / 松竹) - 牧野内膳正
右門捕物帖 第33話「冬の風鈴」(1983年、NTV)
スペシャルドラマ(TBS)
 ・風にむかってマイウェイ(1984年) - 横山武敏
 ・イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち(1985年)
金曜ドラマ / 夫婦生活(1985年、TBS)
金曜女のドラマスペシャル(CX)
 ・おふくろシリーズ 第2作「おふくろ殿」(1985年)
 ・小さな目撃者 ママとあっちゃんの推理ポケット(1988年)
火曜サスペンス劇場 / 女からの眺め 女だけで犯した20億円強奪作戦(1987年、NTV) - 犬猫病院先生

CM
マクドナルド    

主な曲
タイアップ
・怒れ勇者よバトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 主題歌)
・正義の闘士バトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 副主題歌)
・飛べ!グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 主題歌)
・ゴーゴー・グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 副主題歌)
・きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』イメージソング)
・おれのマシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』 イメージソング)
翔べ! ガンダム(アニメ『機動戦士ガンダム』 オープニングテーマ)
・永遠にアムロ(アニメ『機動戦士ガンダム』 エンディングテーマ)

カバーソング
セタップ! 仮面ライダーX(『仮面ライダーX』OP)
・おれはグレートマジンガー(『グレートマジンガー』OP)
・ゲッターロボ!(『ゲッターロボ』OP)
・仮面ライダーストロンガーのうた(『仮面ライダーストロンガー』OP)
・勇者ライディーン(『勇者ライディーン』OP)
・とべ!グレンダイザー(『UFOロボ グレンダイザー』OP)
・立て!闘将ダイモス(『闘将ダイモス』OP)
・グランプリの鷹(『アローエンブレム グランプリの鷹』OP)
・フラッシュ!イナズマン(『イナズマンF』OP)
・秘密戦隊ゴレンジャー(『秘密戦隊ゴレンジャー』ED)
・猿の軍団(『SFドラマ 猿の軍団』OP)
・ジムボタンの歌(『ジムボタン』OP)
・ピンポンパン体操'74
およげ!たいやきくん   
他多数。

その他
・オリバー君のロックンロール(オリバー君ブームの際に作られたイメージソング。1976年発売)
・恋するオリバー君(「オリバー君のロックンロール」シングルB面)
・やっぱりジャイアンツ(読売ジャイアンツ応援歌。1980年発売)

出典 
1. 
a b c d e f g 日本タレント名鑑'82』VIPタイムズ社、1981年、21頁。
(wikiより)

8 池田鴻

⇧ 池田 鴻

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⇧ 墓碑書の文字はペギー葉山さんです。




美瑛駅(びえいえき)は、北海道上川郡美瑛町本町(もとまち)1丁目1にある北海道旅客鉄道(JR北海道)富良野線事務管理コードは▲121707[3]駅番号F37

歴史
1899年(明治32年)
 ・9月1日北海道官設鉄道十勝線旭川駅 - 当駅間開業にともない設置[1]一般駅[1]
 ・11月15日:当駅 - 上富良野駅間延伸開業。
1905年(明治38年)4月1日鉄道作業局に移管[1]
1909年(明治42年)10月12日:所属路線が釧路線に改称。
1913年(大正2年)11月10日:所属路線が富良野線に改称。
1949年(昭和24年)6月1日公共企業体である日本国有鉄道に移管。
1951年(昭和26年)9月:旧駅舎が手狭になったため、駅舎改築を決定[4][5]
1952年(昭和27年)1月30日:美瑛軟石を用いた現駅舎が竣工[4][5][6]
 ・総工費404万円中、町が113万3000円を負担した[4]
1954年(昭和29年)
 ・月日不詳:4名の町民が在町50年を記念して大時計を寄贈し、駅舎正面玄関上に掲げる[4][5]
 ・9月26日台風15号(洞爺丸台風)により大時計が駅舎片屋根と共に飛散[4][5]
1959年(昭和34年)12月15日:美瑛町開町60年を記念し、5名の町民が再度大時計を寄贈し、駅舎正面玄関に掲げる[5]
1960年(昭和35年)1月:職員宿舎2棟6戸建設[5]
1961年(昭和36年)5月20日:国鉄合理化のモデルケースとして、美瑛駅に6中間駅を含む経営と、従来旭川保線区美瑛線路分区が担っていた保線業務(保線班)を統括させる美瑛運輸区を設置[5]
1962年(昭和37年)10月:美瑛町農業協同組合専用線(186 m)新設[5]
1964年(昭和39年)
 ・6月1日:前年に町と旭川鉄道管理局で協定が結ばれ、同年5月17日に建設省から許可された駅前広場造成事業(駅前広場や周辺街路の舗装等)に着手[7]。同年は総事業量の65%を施行し、残りは翌年度施工(当初計画)[7]
 ・9月:4番線土場を舗装[5]
1965年(昭和40年)
 ・10月:駅前広場完成[7]
 ・12月:色灯式信号機に変更[5]
1966年(昭和41年)
 ・1月31日:「所期の目的を達成」として美瑛運輸区廃止。旭川保線区美瑛線路分区を分離[5]
 ・11月:女性専用便所新設[5]
1967年(昭和42年)10月:4番線土場の舗装を拡大[5]
1968年(昭和43年)10月:駅上下ホーム舗装、駅宿舎1棟改築[5]
1982年(昭和57年)11月15日:貨物取扱い廃止[1]
1984年(昭和59年)2月1日荷物取扱い廃止[1]
1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1]。。
2024年令和6年)4月1日:業務委託化[8]

駅名の由来
美瑛川#川名の由来」および「美瑛町#町名の由来」も参照

駅構造
2面2線の相対式ホームをもつ地上駅[6]。ホーム間の移動は跨線橋を使う。

駅舎は富良野方に向かって左側のホームに隣接して設けられている[6]。現駅舎は1952年(昭和27年)に新築竣工した平屋鉄骨鉄筋石造(290.5 m2)で[4][9]、当時国鉄旭川鉄道管理局建築課に在籍していた新田進が設計した[9]。国鉄時代の駅舎としては珍しい石造であり、合計3,400才(≒6.133 m3)の美瑛軟石が用いられている[4]

北海道ジェイ・アール・サービスネットに駅業務を受託している業務委託駅である[2]みどりの窓口が設置されている。

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改札口・みどりの窓口(2021年5月)

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ホーム(2021年5月)

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跨線橋(2021年5月)

利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。

また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。

タイトルなし

駅周辺
駅正面側 (美瑛市街)
市街地は1989年(平成元年)から2001年(平成13年)にかけ駅を中心に商店を集約し、付帯施設を整備する区画整理を実施した。併せて屋根勾配を揃える、高さの制限、ファサードに美瑛軟石を用いるなどの建築協定を定め、統一感ある街並みとしている[15]
北海道道213号天人峡美瑛線北海道道543号上宇莫別美瑛停車場線
道の駅びえい「丘のくら」(石造倉庫・物産施設・ふれあい舘ラヴニール)
・美瑛町役場(四季の塔)
・美瑛郵便局
旭川信用金庫美瑛支店
北海道銀行美瑛支店
美瑛町農業協同組合(JAびえい)
・四季の情報館(観光案内所)
・美瑛町立美瑛小学校
北海道美瑛高等学校
・美瑛町図書館
道北バス・美瑛町営バス・ノースライナー「美瑛駅前」停留所
旭川東警察署美瑛交番

駅裏
ふらのバス「美瑛駅」停留所
・セブンスターの木(タバコのパッケージに使われた木)
・アラポテトの丘(ポテトチップスのCMで撮影されたジャガイモ畑)

隣の駅
北海道旅客鉄道 (JR北海道)
 ■富良野線
   千代ヶ岡駅 (F35) - *北美瑛駅 (F36) - 美瑛駅 (F37) - 美馬牛駅 (F38)
 *:一部の上り列車は北美瑛駅を通過する。

脚注
出典
1. 
a b c d e f g 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、887頁。ISBN 978-4-533-02980-6。 
2. 
a b 直営店舗および受託駅一覧 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
3. 
日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、235頁。doi:10.11501/18732362022年12月10日閲覧
4. 
a b c d e f g h i 美瑛町役場 編『美瑛町史』 2巻、美瑛町、1959年、226‐228頁。doi:10.11501/34507672023年1月2日閲覧
5. 
a b c d e f g h i j k l m n o 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、487-493頁。doi:10.11501/94906592023年1月3日閲覧
6. 
a b c d 宮脇俊三原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、124頁。ISBN 4-09-395401-1
7. 
a b c 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、221-222, 487-493, 496頁。doi:10.11501/94906592023年1月3日閲覧
8. 
沿革 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
9. 
a b c 馬場, 知己「駅のうつりかわり(2)―鉄道旅客駅変遷史―」『汎交通』第83巻第11号、日本交通協会、1983年11月、21-29頁、doi:10.11501/27933392023年1月3日閲覧
10. 
照井八重治 編『美瑛村史』照井八重治、1917年11月5日、45-46頁。doi:10.11501/9516432023年1月3日閲覧
11. 
平成25年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2013年). 2018年2月8日閲覧。
12. 
平成29年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2017年). 2018年2月8日閲覧。
13. 
a b c 令和元年度美瑛町町勢要覧 2020年9月24日閲覧
14. 
令和2年度美瑛町町勢要覧 2021年5月1日閲覧
15. 
内藤, 清二「区画整理事業による中心市街地活性化に向けて―建築協定によって良好な環境を創造―」『道路 : road engineering & management review』第685号、日本道路協会、1998年3月、33-36頁、doi:10.11501/33093632023年1月3日閲覧
(wikiより)


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⇧ 駅外観

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⇧ 駅舎内

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⇧ ホーム


浄福寺は、浄土宗鎮西派に属し、天授元年 ( 1375 ) の創立と言われています。
その後長く無住庵となっていましたが、慶長 2年 ( 1597 ) に新たに堂宇が建設されました。

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いつも神田明神の男坂の階段を登るときに気になっていたので入店。

お弁当を購入 笹寿司は選べます。

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⇧ 店外観

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⇧ お弁当







〇 鉄川與助
生誕1879年(明治12年)1月13日
日本の旗 日本 長崎県南松浦郡青方村
(現 長崎県南松浦郡新上五島町
死没1976年7月5日(97歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
国籍日本の旗 日本
出身校有川高等小学校
職業建築家
受賞黄綬褒章1959年
勲五等瑞宝章1967年
所属鉄川組

来歴

1879年(明治12年)、長崎県五島列島を構成する島の一つである中通島青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)

有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年黄綬褒章1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。

多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]

晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]

五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]


「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9

設計・施工に携わった寺院
浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗  
元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派   
得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派

脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 
砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209 
3. 
a b 【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 
長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 
喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 
大刀洗町ホームページ

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001

伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年

関連項目
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外部リンク
長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)

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⇧ ボケちゃいました。

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⇧ 鉄川與助。

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 撮影 2012年 1月 15日

中尾 彬さんが、こちらのメンチをパンに挟んで食べているとの事で来店。

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⇧ 店外観

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⇧ ウインナーフライ 2、メンチカツ、コロッケ








〇 建築家 鉄川與助旧居宅とレンガ塀

與助といえばレンガの教会堂を思い浮かべる方も多くいる事でしょう。

與助とレンガのり出会いは家業を継いだ明治 39年の旧桐教会堂の塔の増築です。

関東大震災があった大正 12年を境にレンガの建物は廃れましたが、與助はそれ以前に野首教会から始まり田平教会まで多くの教会堂をレンガで建築しました。

敷地の正面には立派なレンガ塀が残されていますが、どこかの現場で使った材料なのでしょうか。

教会堂に使われているレンガとよく似ています。

青砂ヶ浦や大曽などの教会で使われたレンガは佐世保方面の早岐付近 ( 江上、丑ノ浦 ) で焼かれたレンガで非常に硬く上質です。

居宅跡敷地は大正 6年頃までに鉄川家が拡張したもので、レンガ塀もその頃のもののようです。
(案内板より)

〇 鉄川與助
生誕1879年(明治12年)1月13日
日本の旗 日本 長崎県南松浦郡青方村
(現 長崎県南松浦郡新上五島町
死没1976年7月5日(97歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
国籍日本の旗 日本
出身校有川高等小学校
職業建築家
受賞黄綬褒章1959年
勲五等瑞宝章1967年
所属鉄川組

来歴

1879年(明治12年)、長崎県五島列島を構成する島の一つである中通島青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)

有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年黄綬褒章1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。

多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]

晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]

五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]


「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9

設計・施工に携わった寺院
浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗  
元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派   
得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派

脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 
砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209 
3. 
a b 【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 
長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 
喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 
大刀洗町ホームページ

参考文献
三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001

伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年

関連項目
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外部リンク
長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)

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店の前を通ると、しょう油の焦げた匂いにヤラレてしまい購入しました。

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⇧ 店外観

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⇧ これがまた美味しいんだ。









〇 頭島教会沿革

安政六年 ( 1859年 ) 十月無人島であった頭島に鯛之浦のキリシタンがあいついで移住してきた

クーザン宣教師は後の第三代長崎司教慶応三年 ( 1867年 ) 二月と四月の二回にわたって此の島に渡来し伝導を試みている

明治四十一年頃主任司祭ヨセフ大崎師は新聖堂建設に着工大正八年四月十四日 ( 1919年 ) 第四代長崎司教コンパス閣下司式により献堂式が挙行されるに至った。

此の聖堂は日本唯一の石造りで、党内の石を刻み、信徒達は額に汗してその石を運び十数年の歳月を費やして完成したものである。

爾来約六十年の風雨に絶えたとは云え信徒の滅少に伴い老朽化先祖の残した血と汗の結晶である

貴重な遺産を無くすまいと、一九七七年九月主任司祭ミカエル道向師の指導のもとに信徒一戸に付三十萬圓の據金と内外の奇特者の御協力によって修復完成したものである。

一九七七年十月建之

〇 頭ヶ島教会
所在地長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638
日本の旗 日本
教派カトリック教会
歴史
守護聖人ヨセフ
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭ペトロ中濱敬司

頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町頭ヶ島にあるキリスト教カトリック教会)の聖堂である。2001年平成13年)に国の重要文化財に指定されており[1][2]ユネスコ世界遺産文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった[3][4]長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「頭ヶ島の集落」に包括される教会である[5]

教会の保護者
聖ヨゼフ

沿革
1869年(明治2年)頃 - キリシタン迫害を逃れ、中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタン無人島だった頭ヶ島に移住
1887年(明治20年) - カトリックに復帰した信徒たちにより初代の聖堂建設
1919年(大正8年) - 1910年(明治43年)の着工から10年を費やし、現聖堂が完成[6]
2001年(平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1][2]
2003年(平成15年)12月25日 - 境内地が重要文化財に追加指定される
2016年(平成26年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応が進められた結果再推薦は決まったが禁教期を象徴する「頭ヶ島の集落」に包括する扱いとなった
2018年(平成30年) - 世界遺産登録が決定[3][4]      

建物の概要
・構造:石造平屋
・様式・意匠:ロマネスク調の教会堂で、平面は単廊式、天井はアーチヴォールトを用いず、二重持送りのハンマー・ビーム架構で折り上げられている
設計・施工鉄川与助      

頭ヶ島教会は五島列島最東端で幕末までは無人島であった頭ヶ島に建てられた小規模な教会ではあるが、西日本唯一の、また日本全国でも珍しい石造の教会堂であり、その意匠も優れている。鉄川与助の設計・施工、大崎八重神父の指導により、島内の石を切り出し、積み上げて建設された。内観の造形は、船底天井と五島列島の椿を模した花装飾と、青を基調とした華やかな雰囲気が美しい。教会堂のほかに司祭館と門柱が重要文化財の附(つけたり)指定となっており、土地(境内地)も2003年に重要文化財に追加指定されている。教会堂本体とともに付属建物・石垣・石段などが周囲の環境とともに良好に保存されている点が、文化財として高く評価されたものである。

主任司祭は常駐しておらず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっている。

所在地
〒 857-4102 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷638

アクセス
・有川港(中通島)から車で約20分
西肥バス有川港ターミナルから頭ヶ島天主堂行き終点下車(1日3本のみ運行)
・2018年4月1日以降、路線バス以外の手段で天主堂を見学する場合は一旦上五島空港でシャトルバスに乗り換えなければならない。[7]      

脚注
1. a b 頭ヶ島天主堂 文化遺産データベース 文化庁
2. 
a b 頭ヶ島天主堂 長崎県の文化財 長崎県学芸文化課
3. 
a b “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
4. 
a b “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
5. 
頭ヶ島天主堂 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎県世界遺産登録推進室
6. 
Comprehensive Preservation and Management Plan - Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region” (pdf). Unesco World Heritage Centre. p. 78. 2021年11月20日閲覧。
7. 
“「頭ヶ島パーク&ライドについて」 - 長崎県五島列島新上五島町公式サイト より” (日本語). 長崎県 五島列島 新上五島町公式サイト 2018年10月15日閲覧。

参考文献
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、2002
・「新指定の文化財」『月刊文化財』483号、第一法規、2003
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 9784888510912

関連項目
カトリック長崎大司教区       
島の宝100景

外部リンク 
長崎の教会群とキリスト教関連遺産    
頭ヶ島天主堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
(wikiより)

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⇧ 本当は窓になるはずなのですが、外装から作ってしまった為に内装とズレてしまい窓にならなかった窓です。

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⇧ 森 松次郎翁の居館跡。

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 閉店しました。

2011年 6月 5日に立ち寄り、その後数回立ち寄りました。

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⇧ ラーメン

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⇧ タンメン

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⇧ かた焼きそば

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⇧ 揚げ焼きそば

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⇧ 餃子







この梶取棒は慶応 2年 ( 1866年 ) 5月 2日未明、本町江ノ浜郷潮合埼で難破したワィル・エルフ号の梶取棒で 昭和 52年 10月、友住郷の民家の改装中、屋根裏より見付かり、武村克安氏より寄贈を受けたものです。

ワィル・ウェフ号は薩摩藩が購入し、「亀山社中」の専用船として貸与した、木像二本マストのプロシャ ( ドイツ ) 船で、慶応 2年 ( 1866年 ) 4月 28日命名式と洋上訓練を、兼ね、薩長連合成立による親善のために、鹿児島に行く途中に寄港した長州の蒸気船ユニオン号と共に長崎を出港しましたが、4月 30日未明甑 ( こしき ) 島沖あたりで大暴風雨にあい、漂流中に本町江の浜郷潮合崎の暗礁に乗り上げて転覆しました。

状船者 16名中、浦田運次郎と便乗の小松帯刀の家来、村山八郎次郎及び水主の市太郎、三平の 4人は磯に打ち上げられて村人に救助されたが、船将・高泉十兵衛こと黒木小太郎 ( 鳥取藩浪人 )、細江徳太郎こと池内蔵太 ( 土佐藩浪人 ) 外水主頭以下 10名は溺死しました。

この遭難者の碑は、ここより徒歩 10分の江ノ浜郷の墓地の一角にあり、その途中、潮合崎海域の見える場所に坂本龍馬ゆかりの広場も整備されています。
(案内板より)

ワイル・ウエフ号は、坂本龍馬が慶応元年 ( 1865 ) に結成した亀山社中 ( 後の海援隊 ) が、薩摩藩家老小松帯刀の計らいで購入したドイツ生まれの木造二本檣 ( しょう / マスト ) 風帆船 ( ふうぱんせん ) です。
ワイル・ウエフを英語表記すると『Wild Wave ( ワイルド・ウェーブ )』。

昭和 52年 ( 1977 ) 10月、友住の田中康博氏宅の屋根裏から、長さ 4mもあるコモに巻かれた材木が見つかりました。 

それは大きな舵取り棒で、日本では見られない材質であったため、このような棒を装置した船はこの辺りにはありませんでした。 

田中氏の祖父は潜水夫で、ワイル・ウエフ号の荷揚げ作業に参加していたことから、ワイル・ウエフ号のものと推測されています。

現在、龍馬ゆかりの広場近くの民宿潮騒の敷地に展示されています。

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⇧ ワィル・ウェフ号の舵取棒

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地元の友人のお勧めで来ました。

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⇧ 店外観

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⇧ とんこつラーメン
めっちゃドロドロの濃厚スープです。

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⇧ チャーハン







〇 坂本龍馬の像 祈

龍馬がこの江ノ浜の地を訪れ、遭難した潮合の海に向かって無念の涙を流し、今は亡き 池 内蔵太ら同士の霊に手を合わせたのは 慶應二年六月十四日のことです。

龍馬が土地の人に依頼した慰霊碑は今も地区の人達や龍馬ファンによって大切にされ江ノ浜墓地の中でも、ただひとつ五島灘に向かってたたずんでいます。

同士を失い落胆する龍馬の思いを、今を生きる私共はしっかり受けとめ、龍馬の偉業に敬意をはらい、そして江ノ浜の人達や先人に感謝を込め、あわせて、全国の龍馬ファンに山崎先生の手による世界にただひとつの龍馬像を捧げるものです。

平成二十ニ年五月二日

題字 新五島町長 井上俊昭
銅像制作     山崎和國
(案内板より)

〇 俗謡「潮谷そど(騒動)」

そどよ そど、そど、潮谷そどや、

五月二日の明け六つに

異国の船とは知らねども

どこも知れぬ、島 見せぬ

島も だんだん 見えるして

かねの錨をつけこんで

つけども錨が きかずして

石に当りて 水船に

流れいくのが どこなれば

上口さしてぞ流れ行く

江ノ浜前にぞ流れ着く

どなたの 錦 の衣装

こりゃ何事じゃと村中が

浜に騒ぎて大騒ぎ

国はいづことたずぬれば

国は薩摩の鹿児島で

積荷は何ぞとたずぬれば

大砲 ( づつ ) 小砲 ( づつ ) つみまぜて

かなきんなどをさしにして

さぞやお世話じゃ浦田さん
(案内板より)

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⇧ 真ん中の岩が積んである場所辺りに沈んだそうです。




けっこう行列必須のお店です。

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⇧ サラダ

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⇧ ごまさば

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⇧ 銘柄は忘れたけど、博多の日本酒。

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⇧ 塩モツ鍋

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⇧ 酢モツ

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⇧ 銘柄は忘れたけど、博多の日本酒をおかわり







慶応 2年 ( 1866年 ) 5月 2日未明 、有川地区江ノ浜郷沖の潮合埼でワイル・エルフ号が遭難し、船将である高泉十兵衛こと鳥取藩士、黒木小太郎、そして竜馬の信頼が厚かった細江徳太郎こと土佐藩浪士、池内蔵太ら十二名が命を落とす大惨事が起きた。

慶応元年 ( 1865年 ) 9月 坂本龍馬は、薩摩藩や長崎商人の援助を受け神戸海軍操練所の塾生たちと共に「亀山社中 ( のちの海援隊 )」を長崎・亀山に設立。

亀山社中は、海運業に必要な船を薩摩の援助によってトーマス・B・グラバーから、二本マストの洋型木造帆船ワイル・ウエフ号を手に入れた。

慶応 2年 ( 1866年 ) 4年 28日、ワイル・エルフ号の命名式と洋上訓練のため、鹿児島に向けて長崎を出港。

航海の途中、大暴風雨に遭って漂流し、5月 2日、有川地区江ノ浜郷沖の潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆した。

総勢十六人のうち四人を除く乗組員が還らぬ人となってしまった。

この時、龍馬は「寺田屋事件」で受けた傷を鹿児島にて療養中だったが、即座に亀山社中の一行を連れて当地に渡り、自ら碑文を書き同士の霊を弔うため資金を添えて建碑を依頼したといわれている。

現在も江ノ浜地区にある共同墓地には碑文・遭難者名を刻した墓碑が建っており、江ノ浜地区住民の手により大切に祀られている。
(案内板より)

〇 ワイル・ウエフ号

ワイル・ウエフ号(ワイル・ウエフごう、Wild Wave)は、亀山社中の練習船。

坂本龍馬薩摩藩の援助を得て、グラバーから購入したプロイセン建造の木造小型帆船

1866年慶応2年)4月28日 (旧暦) にユニオン号に曳航されて長崎を出航し、鹿児島へ向かっていたが、途中暴風雨に遭遇し、衝突防止のため曳航索を切断後に遭難した。5月2日 (旧暦) 未明、長崎県中通島の東、潮合崎沖で暗礁に乗り上げ転覆し、亀山社中の池内蔵太など、乗組員の多くが死亡した。

ワイル・ウエフ号が沈没した海域を臨む、長崎県新上五島町の有川地区には、その時の船の一部と思われる舵棒の原寸大模造が置かれ、「龍馬ゆかりの地」という記念碑が建てられている。2010年5月2日には新上五島町により海に向かって合掌する「祈りの龍馬像」が建立された[1]

出典
1. 「祈りの龍馬像」建立10年で式典 新上五島、五島の住民グループ”. 長崎新聞. 2022年11月25日閲覧。

参考文献
・『旅する長崎学(13)海の道Ⅲ 五島列島』(長崎文献社、2010年)

関連項目
いろは丸

外部リンク
ワイル・ウエフ号遭難の慰霊碑発見顛末記 長崎県職員公式ブログ 「ながさき情報局 ~坂本龍馬、秋山真之、観光情報、etc.~」
(wikiより)

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⇧ 真ん中が慰霊塔
左右がお墓のようです。

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亀戸餃子の支店で両国国技館のほぼ裏にあります。

店の外観を撮影するの忘れました。

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⇧ チャーハン

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⇧ ぎょうざ

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聖ヨハネ五島

日本 26聖人のひとり。

1578年福江で生まれ、長崎と天草 ( 志岐 ) のセミナリオで学び、伝導士を志して、大阪のイエズス会宣教師と同宿中、豊臣秀吉の命により捕縛され、1597年 2月 5日長崎にて殉教した。

1862年教皇ピオ九世により聖人の位に挙げられ、世界全信徒の尊祟をうけるに至った。

信教自由と人間愛の証しとして 19才の青春を神への生贄とした。
(案内板より)

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撮影場所近くにあったお蕎麦屋さんです。

使用する麺は手打ち麺でとても美味しかったです。

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⇧ 店外観

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⇧ 肉うどん

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⇧ きつねそば







マルマン、ペルー像(復活の夜明け)
1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、パリ国宣教会によって行われた。

堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。

マルマン師 ( 向かって左側 ) は 1877年より約 10年間下五島全域の宣教、潜伏キリシタンの復帰に努めながら、奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済活動を始めた。

1888年よりペルー師 ( 向かって右側 ) が 2代目主任司祭となり、1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、1908年 5月 10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し 30年に及ぶ宣教師牧の日々を堂崎に捧げた。

五島キリシタン復活の礎となった二人である。
(案内板より)

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浅草寺近くに有るので、お寺の帰りに立ち寄っています。

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⇧ 店外観

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⇧ もりそば

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⇧ はまぐりそば ( はまぐりの大きさにビックリ )








〇 ドミニコ中村長八神父ゆかりのイヌマキの木

一八六五年 五島列島奥浦村浦頭の地に生を受けた中村長八師は司祭叙階後二十六年を奄美大島で、その後の十七年を日本人最初のカトリック海外派遣宣教師としてブラジルの地に生涯をささげられました。

七十五年の生涯は宣教そのものの人生でした。

このイヌマキはブラジル出発前の直前、奄美より浦頭の生地へ移植し大木となった子孫となるものです。

記念植樹 二〇〇八年五月十一日

司式 長崎大司教 高見三明師

   パリ国宣教会 シェガレ オリビエ師
(石板案内板より)

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呉で老舗の珈琲店です。

店内にはパック詰めされた珈琲が数十種類置かれていて壮観でした。

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⇧ 店外観

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お店で売っているアイスコーヒー ( 左 )、生カフェオレ ( 右 )

どちらも美味しかったです。







別名福江城
城郭構造海城
天守構造なし(本丸二重櫓で代用)
築城主五島盛徳
築城年1863年文久3年)
主な城主五島氏
廃城年1872年明治5年)
遺構・門・塀
石垣土塁・五島氏庭園
指定文化財県指定史跡
国の名勝(石田城五島氏庭園)
再建造物長崎県立五島高等学校
五島観光歴史資料館
五島市福江文化会館
位置北緯32度41分36.5秒 東経128度50分47.5秒
地図
石田城の位置(長崎県内)

石田城(いしだじょう)は、長崎県五島市池田町にあった日本の城。城跡は長崎県指定史跡。城内に残る五島氏庭園は国の名勝に指定されている。福江城とも記される。続日本100名城の1つ。

概要
幕末1863年福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させた五島氏居城。現在は五島市の中心街に位置しているが、築城当時は四方を海に囲まれる出城となっていた海城であった。幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城とともに幕末の城郭として貴重なものである。

本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされた。天守はなかったが、本丸の二重櫓がその代用とされた。城の裏門である蹴出門(けだしもん)は、部品や木材の交換を重ねながらも現存する。また、土塀の一部や石橋も現存している。石垣は野面積み工法を多用しており、自然石も積み上げられている。

沿革
1614年慶長19年)に、五島氏の当時の居城・江川城が焼失。代わって1637年寛永14年)に石田陣屋を藩庁にした。五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかった。しかし幕末の1849年嘉永2年)、異国船を監視し、海上防衛に備えるとの目的で、五島盛成の代に築城が認められた。盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を1846年弘化3年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く導水堤(防波堤)を1848年(嘉永元年)に完成させていた。日本初の海城である高松城に続いての海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、富江藩などからの資金援助もあり、1863年文久3年)、第11代藩主・盛徳の代になり、ようやく念願であった居城(現代日本で最も新しく完成した城)が完成された。

その後、本丸跡に長崎県立五島高等学校、北の丸跡に五島観光歴史資料館五島市福江文化会館が建てられ、二の丸跡には五島氏庭園が往時の姿を今に伝えている。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(187番)に選定された。

五島氏庭園
二の丸の位置に現在も残っており、一般公開されている。見学は有料。盛成により構想が練られたといわれている。安政5年(1858年)から2年の歳月をかけ、盛成の隠居所として造られた。鹿苑寺(金閣寺)を模した林泉式庭園という回遊式の庭園である。京都の僧、善章に造らせた。庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた特徴的なものである。植栽にビンロウジュソテツオオタニワタリキンモクセイなど南方の植物を配している点も特徴である。「心」の文字をかたどった池は、心字が池と呼ばれている。

国の名勝に指定された理由として、「江戸期の日本庭園の地方伝播の具体例」「城郭内の庭園は現存例が少ない」「作庭時期が文献に明記されている」「建物が庭園とともに保存されている」などが挙げられている。

関連項目
続日本百名城
日本の城一覧
名勝
海城 (城郭)      

外部リンク
五島市観光情報サイト
長崎県教育委員会「長崎県文化財調査報告書第163集 石田城Ⅱ」(冒頭のP8に四方を海に囲まれた出城である石田城の完成当時の古図あり)
長崎県立五島高校    
(wikiより)


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市内観光をしていて見つけました。

まわりは風俗系のお店が多く、昼間は閑散としています。

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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

店内は格闘技系の人のポスターが多く貼ってありました。

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⇧⇩ メニュー

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⇧ 肉とじうどん






鐙瀬熔岩海岸  ( あぶんぜようがんかいがん )
鬼岳火山から流出した溶岩が、青く澄み切った海に延々 7kmにわたって流れ込み、変化に富んだ海岸線を形づくっている。

温暖な無霜地地帯で、至る所に亜熱帯植物が繁茂し、情熱的な花木が咲き乱れ、美しい景観を呈している。

永正 4年 ( 1507 )、第 16代領主囲公が、妹婿の玉之浦納に攻められた際、馬でこの地まで逃げたが、鐙がきれ、小舟で沖にある黒島に落ちのびたが反逆党は黒島に迫り、公は自刃した。

以来、鐙瀬と呼ばれるようになったという。

1969年、昭和天皇・皇后両陛下が御散策された。

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⇧⇩ 電電公社時代の灰皿

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松山の鍋焼うどんのツートップの一軒です。

行列必須なのですが、数分程度待つだけで入店出来ました。

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⇧ 店外観

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⇧ メニュー

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⇧ 鍋焼きうどん

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⇧ いなりすし

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⇧ ツートップのうちの、もう 1件「アサヒ」さん。








かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区です。

1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となりました。

当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作りました。

この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。

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神田でも老舗の居酒屋です。

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⇧⇩ 店外観

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⇧ 店内

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⇧⇩ メニュー

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⇧⇩ 神亀 じゅんまい 辛口

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⇧ いも麹 芋 (鹿児島)黄金千貫 白さつま 白麹仕込み

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⇧ 仕込み水を戴きました。

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⇧ お通し

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⇧ イカゲソの磯部揚げ

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⇧ つくね焼き

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⇧ ポテトフライ

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⇧ 〆で桜湯を出してくれました。









ここ大瀬崎の断崖は、淡褐色の砂岩と黒色の泥岩が交互に重なった地層が、大瀬崎に打ち寄せる波濤 ( はとう ) により削り取られて形成されている。

地殻変動による傾斜や、断ち切られた断層を随所に見せて、場所によっては高さ 100mを超えるところもあり、壮大な景色を形作っていることから、西海国立公園の特別地域に指定されている。

なお岬の突端にある大瀬崎灯台は、海面に対して 24°傾いた地層で構成された海抜 80mの断崖上に、1879 ( 明治 12 ) 年 12月に竣工した歴史ある施設である。

現在の灯台は、1971 ( 昭和 46 ) 年に改装されたもので、全国でも最大級の 200万カンデラの光を発し、沖合約 50kmまで光が届く。

海上保安庁の「日本の灯台 50選」にも選定され、現在に至るまで長年日本列島の西端を航行する船舶の安全を見守っている。

また、1898 ( 明治 31 ) 年には、当地に無線電信機を備えた旧海軍の望楼 ( ぼうろう ) が設置されており、1905 ( 明治 38 ) 年、日露戦争時に、ロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦隊見ユ」を受信している。
(案内板より)

〇 大瀬埼灯台
航路標識番号
[国際標識番号]
6161 [M5002]
位置北緯32度36分45.8秒 東経128度35分59.9秒
所在地長崎県五島市玉之浦町山之神表1429
塗色・構造白色・円筒形
レンズ無等
灯質閃白光・毎10秒を隔てて1閃光
実効光度200万 cd
光達距離23.5海里
明弧301度から175度まで
備考
光源電灯1キロワット電球
灯器種別L13-90型
電球種別H-1000
標識種別沿岸大型
海図番号W217、W1212
大瀬埼灯台(おおせざきとうだい)は、五島列島福江島の西端、大瀬崎の断崖に建てられた灯台。灯台としての規模は大型であり日本屈指の光達距離を誇る。東シナ海を航海する船舶の標となっている。『日本の灯台50選』の一つでもある。五島列島・西海国立公園を代表する観光の名所である。海上保安庁での表記・呼称は単に大瀬埼と呼ぶ。所在地は長崎県五島市玉之浦町。

歴史
五島列島は昔より中国とを結ぶ航海の要衝であった。遣唐使派遣の初期、640年頃の唐書「挺地志」に「資聖寺有宝塔、高峻層々、用四方燈、点照東海、舟行者皆望之為標的焉」とあり、“東海(渤海)の航路を照輝し、船舶は皆これを航行の標的とした”と述べている[1]。この日本における最初と呼ぶべき灯台は、664年防人遣唐使船の目標になるよう昼は烽火(のろし)をあげ、夜はかがり火を焚かせたのがその始まりとされている。

五島は、航海の要地であるとともに漁業基地としても昭和初期までは重要視される。着工は1876年(明治9年)で、イギリス人のR・プラトンの設計といわれる。断崖の標高80m地点で、10 mあまり屹立していた岩石を切り落として基盤とし、ここに灯台を築いた[2]。初点灯は1879年(明治12年)[3]で、総工費は当時の額で3万円だった。

大瀬崎の山頂にある無線電信所は、日露戦争の日本海海戦の端緒となる、「敵艦見ゆ」の第一報を受信した歴史もあり、この山は電波山と呼ばれた。1945年(昭和20年)8月7日には、米軍の潜水艦による20分間の艦砲射撃にみまわれ、その一発は灯台丸屋根を貫通したがレンズには損傷がなかった。このとき米軍は灯台の背後の山にある、無線電信所を目標としていた。

1971年(昭和46年)に改築され現在の白い円塔の灯台となる[2]。少なくとも昭和末期までは灯台守がいて、灯台のふもとに居を構え監視していたが、現在は無人である。初代の灯台躯体は船の科学館に屋外展示物として復元されている[2]。 だが、2019年1月現在、当灯台の上には日本財団のビルが建っているため、亡失したと思われる

また太平洋戦争時には、出征した多くの将兵達が大瀬崎を日本の地の見納めとしたことから、1978年(昭和53年)には灯台を見下ろす大瀬山に鎮魂碑と北村西望作の「祈りの女神像」が建てられた。

付属施設
大瀬埼灯台には、ディファレンシャルGPS局が設置されており、船舶に搭載されているGPSを高精度に補正する電波と、電文で気象通報を配信している。また、中波(H3E) 1670.5kHzで船舶気象通報を行っており、1時間に1回、大瀬埼灯台と女島灯台の気象情報を放送している。なお、DGPSの気象通報、船舶気象通報は2016年9月30日廃止[4]、ディファレンシャルGPS局は2019年3月廃止となった[5]

自然
灯台が立つ大瀬崎断崖は西海国立公園の特別地域に指定されている。砂岩と泥岩の互層からなる第三紀層「五島層群」が、東シナ海から叩きつける荒波で削られて形成された海食崖であり、標高250mの大瀬山山頂まで急斜面が続いている。灯台は海面に対して約24°傾いた地層の上に建てられている[2][6]

大瀬崎周辺は渡り鳥の渡りの中継地でもあり、秋にはハチクマアカハラダカチゴハヤブサツバメ等、繁殖を終えた夏鳥が大陸へ渡っていくのを観察できる。特にハチクマは日本国内で繁殖した個体群の殆どが五島列島を通過して600km先の中国大陸へ渡るとされ、大瀬崎では9月中旬から10月上旬にかけて約1万羽、多い日には1日で約1500羽ものハチクマが上空を通過する[2]

画像については、「大瀬埼灯台ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%80%AC%E5%9F%BC%E7%81%AF%E5%8F%B0

交通アクセス
長崎港からの船便は長崎 - 福江間フェリー(所要時間3 - 4時間)[7]ジェットフォイル(所要時間90分弱)[8]がある。ANAによる福岡空港から五島福江空港への直行便は所要時間約40分[9]であり、九州外からの移動は空路の方が速い。

福江港からは自動車で約1時間、五島バス玉之浦・向小浦行きで1時間20分、大瀬崎口バス停下車、徒歩30分。五島バスは運行本数が少なく時間に注意しなければならない。

出典・参考資料
・玉之浦町郷土誌(記述ミス多々有り)
第七管区海上保安本部 交通部企画課監理係長 福本久士様よりの情報
・燈台風土記

出典
1. 大瀬埼灯台-海上保安庁 
2. 
a b c d e 環境省・長崎県,西海国立公園「大瀬崎園地」展望台案内板 
3. 
明治12年11月18日工部省布達第16号(『法令全書 明治12年』内閣官報局、pp.1123-1124.
4. 
海上保安庁が実施する情報提供業務の一部終了について(PDF) Archived 2016年8月17日, at the Wayback Machine. - 海上保安庁交通部 (2016年5月) ※茨城県水産試験場漁業無線局ホームページでの掲載(2016年7月12日閲覧) 
5. 
ディファレンシャルGPSの廃止について” (PDF). 海上保安庁 (2017年6月30日). 2019年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月7日閲覧。
6. 
鐙瀬ビジターセンター展示「湖で生まれた五島列島」
7. 
九州商船フェリー 長崎 - 福江間ダイヤ   
8. 
九州商船ジェットフォイル 長崎 - 福江間ダイヤ   
9. 
ANA国内線 - 時刻表、PDF時刻表ダウンロードサービス 2009年1月6日 - 2009年1月31日から佐賀・福岡・北九州 - 五島福江間を選択・ダウンロードにて確認。

関連項目
日本の灯台50選
日本の夕陽百選
福江島
女島灯台
悪人 (小説)
長崎県の灯台一覧  
(wikiより)


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高知で安兵衛と言ったら餃子です。

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⇧ いまどき安兵衛店

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⇧⇩ メニュー

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⇧ とりあえず中生ビールですね。

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⇧⇩ ダバダ火振り ( 栗焼酎 ) 

一時は転売ヤ―のせいで高額取引されていました。

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⇧ でもって、おかわりしました。

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⇧ ラーメンも美味しい。

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⇧⇩ 2枚注文しました。

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⇧ 餃子は皮がパリパリでメチャ美味いです。

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⇧ 中生ビールもおかわり。







大坪玄能 ( 藤原永章 ) は狩野永徳の弟子で、五島藩お抱えの絵師。

第八代藩主・五島盛運 ( もりゆき ) のときの天明 6年 ( 1786 )、藩絵師となった。

代表作に、五島市吉田町にある明星院本堂天井絵、釈迦涅槃図 ( 明星院蔵・通常非公開 )、八幡神社奉納絵馬( 五島観光歴史資料館寄託 ) などがある。

宗念寺にあるこの墓碑は、丸い台石が硯の形になっており文字の彫ってある墓石を墨に見立てているという。

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⇧⇩ 大坪永章の墓

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銀座の老舗居酒屋といえば、三州屋本店です。

今回はランチで行って来ました。

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⇧ 店外観

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⇧ メニュー

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⇧ ぶり照り焼き定食

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⇧ 刺身盛り合わせ定食

ビールも忘れずに注文しました。








五島とキリスト教との最初の出会いはフランシスコ・ザビエル鹿児島上陸 ( 1549年 ) から 17年後の 1566年の事である。

ポルトガル生まれで優秀な医師でもあったイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダと、平戸生まれの日本人修道士ロレンソ ( レリーフ左手前の 2名 ) が五島領主 18代宇久純定 ( レリーフ中央 ) の要請に応えて来島し、キリスト教布教と病がちの純定の治療を努めた。

純定の子純堯は受洗して 1576年キリシタン大名となり、五島キリシタンは信徒 2000名余りという隆盛の時代を見たが、純堯はその 3年後に 35歳で帰天し、五島は信仰の受難の時代を迎える。

〇 ルイス・デ・アルメイダ
ルイス・デ・アルメイダLuís de Almeida [luˈiʃ dɨ ɐɫˈmɐjdɐ] 、1525年? - 1583年10月[1])は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して豊後府内に日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。ポルトガル貴族の出身[2]

生涯
アルメイダは、1525年ごろリスボンユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で肥前国平戸に初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。

アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた[3]。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年外科内科ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた [4] 。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。

この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンが内科医療や薬のことに携わった[5]。そのほか、聖水十字架数珠、祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残している。

また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。

布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。

神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1561年6月下旬には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。1563年には横瀬浦から避難し後に『日本史』を書いたルイス・フロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[6]

1566年9月、トルレスに派遣され、天草の豪族・志岐麟泉の招きで初めて志岐(天草郡苓北町)を訪れた。[7]アルメイダは天草に初めて布教を開始し、南蛮文化を伝えた。天草市の殉教公園には彼の像が建てられている。天草に移住してからは、カステラ風のお菓子を教えるなど食文化にも精通しており、玉名市の銘菓「松の雪」は、アルメイダが、貿易港伊倉の菓子職人に製法を伝えたとされる。

1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。

アルメイダの名を冠した施設等
大分市医師会立アルメイダ病院1969年開設、大分県大分市)の名称は彼にちなんでいる。

脚注
1. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月3日閲覧。
2. 
上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
3. 
イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 74頁、102-103頁、117頁
4. 
この病院は現在の住所で大分県大分市顕徳町2丁目にあったデウス堂の隣地に開設され、日本初の入院施設も備えていた。 『南蛮医アルメイダ』(1993年9月24日発行 著者:東野利夫 発行所:柏書房) 45-68頁 (「4 府内病院の位置証明」)
5. 
『イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 125-126頁、150-151頁、177-179頁、188-189頁、191-192頁、237頁
6. 
『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 84頁-98頁
7. 
松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』9巻、第17章(第1部72章)、中央公論社、1979年。274頁。1567年10月13日付、志岐発信、アイレス・サンシェス修道士書簡、CI.f.247v.

参考文献
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』集英社、2003年。

関連項目
日本のキリシタン一覧   
多聞山城   
(wikiより)

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ドーナツもりが神楽坂から近くに出店したので行って来ました。

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⇧ 可愛いお店です。

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⇧ 左 オリジナルグレース 右 ドーナツの穴

どちらも美味しいですが、ドーナツの穴はメチャ良い感じ。








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