本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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海江田 信義(かいえだ のぶよし、天保3年2月11日1832年3月13日) - 明治39年(1906年10月27日)は、幕末薩摩藩士、明治期の政治家華族通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。

生涯
生い立ち
天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の次男として生まれた(幼名は太郎熊)。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。


はじめ東郷実明示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが[1]、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。

西郷・大久保との出会い嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。嘉永5年(1852年)、樺山三円(のち樺山資之)とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。

志士として
尊王の志高く江戸では小石川水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖戸田忠太夫に師事し尊王論を学んだ。特に藤田には目をかけられ和漢の書に親しむ傍ら、西郷を藤田に引き合わせている。大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われ、安政5年(1858年)、西郷と共に僧侶・月照を保護して帰国、その後、大久保利通ら在藩の「精忠組」各士、脱藩「突出」して関白九条尚忠京都所司代酒井忠義を暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津茂久(後見役島津久光)から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより、「突出」は中止となり、以降、藩政に従うこととなる。ただ、攘夷派に対する慰撫はすべての藩士にいきわたらず、万延元年(1860年)、三弟・有村次左衛門が井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃(桜田門外の変)し自刃、また、水戸浪士と行動を共にしていた次弟の雄助は、幕府に遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通ら精忠組の面々の立ち会いの下、自害している。


文久元年(1861年)12月、日下部伊三治(安政の大獄で捕縛され獄死)の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義と改名(海江田は日下部の旧姓)。日下部家の後を継ぐ予定の弟有村次左衛門の死後その義理で日下部家を継ぐことになった[2]。ただし、しばしば以後も有村俊斎の名も使った。


文久2年(1862年)、島津久光に従って護衛の1人として上洛したが、その道中で知った西郷の京都での動静を久光に伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷を失脚させる原因を作った[3]寺田屋事件では奈良原繁と共に有馬新七ら藩士の説得を命じられるが失敗。鎮撫使には加わっていない。さらに久光の帰路にも同行し、8月21日1862年9月14日)、生麦事件において久光の行列を遮って斬られ瀕死となっていたイギリス人・チャールス・リチャードソンに止めを刺した。

大村益次郎との軋轢
戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となる。江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍するが、長州藩大村益次郎とは、もとより性格の不一致もあることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊作戦などをめぐってことごとく対立し、海江田は周囲の人間に「殺してやりたい」などと言うなど憎悪していた。明治2年(1869年)の槙村正直宛の木戸孝允の書簡では「海江田のごとき、表裏の事申し来り候につき」と名指しで危険人物として注意されていた。海江田が京都にて弾正大忠の官に就いていた際に、大村殺害犯(神代直人ら)などの浪人達とつきあいがあった事は、自身の談話録にも記している。更に、大村殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田は、直前で刑の執行を差し止めたため、政府の取調べを受け謹慎処分となった(「粟田口止刑始末」)。以上の経緯から、海江田が彼らを扇動してかねてから憎悪していた大村を殺した、と噂された。海江田自身は、嫌疑を心配する大久保への返事に、大村の来京の事実を知らず、その風聞は自身を罪に落すものであると否定している。ちなみに、海江田はこの事件が原因で長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵になったともいわれている。

帰郷
明治3年(1870年)8月、大久保の尽力により官職に復帰、廃藩置県に先立って県となっていた奈良県知事に任命。同時に従五位に叙せられるが、明治4年(1871年)の廃藩置県で解任される。海江田が業務の多さを解消するために県庁を、手狭な旧奉行所から、興福寺境内の一乗院に移転したさい、民部省の承認を経なかったのが原因とされる。


薩摩に帰り隠遁するつもりであったが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。このことが評価されて、明治5年(1872年)、左院四等議官として再度官途につく。明治6年(1873年勅使とともに鹿児島へ下り、久光を説いて上京せしめる。明治8年(1875年)、左院の廃止により御用滞在を命じられるが、鹿児島に帰りほどなく病む。

晩年
明治10年(1877年)の西南戦争での西郷隆盛の死、明治11年(1878年)の大久保利通の暗殺と、悲しみを悼んだあと、明治14年(1881年)に元老院議官となる。明治20年(1887年)、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに遊学したのち、明治23年(1890年)に貴族院議員、明治24年(1891年)に枢密顧問官となり、明治28年(1895年)、勲一等瑞宝章。明治35年(1902年)、勲一等旭日大綬章のあと、明治39年(1906年)10月27日に75歳で死去。贈正二位。墓所は青山霊園

詳しいことは、「海江田信義ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B1%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9
(wikiより)


435 海江田 信義

⇧ 海江田信義

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広岡 浪秀(ひろおか なみほ、天保12年1月1日1841年1月23日) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末尊皇攘夷志士長州藩大嶺神社(美祢市)の神主。諱は正恭。変名、広分彦也


尊皇攘夷を志した広岡は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、関西から関東までを遊説。長州藩の賊軍汚名返上に尽力して廻っていたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇して負傷。池田屋を逃れて長州藩邸付近で絶命した。享年24。京都大和小路三条縄手の三縁寺に埋葬される。
(wikiより)


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石川 潤次郎(いしかわ じゅんじろう、天保7年(1836年) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末期に土佐藩に仕えていた足軽。諱は直義。


元治元年、土佐藩の命を受けて京都黒谷三条家別宅の警備を勤めていた。同年6月5日、土佐脱藩望月亀弥太を池田屋に訪ねたところ、池田屋事件に巻き込まれて死亡。享年28。明治31年(1898年)、正五位を贈られる。
(wikiより)


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望月 亀弥太(もちづき きやた/かめやた) 天保9年10月7日1838年11月23日) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。


文久
元年(1861年)、兄・望月清平と共に武市半平太尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。


文久3年(1863年)、藩命を受けて幕臣勝海舟の下で航海術を学び、その後、坂本龍馬の紹介で勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864年)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇した。池田屋を脱出した望月は幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。享年27。明治31年(1898年)、従四位られる。


坂本龍馬も勝海舟も、その死を嘆いた。

関連作品
テレビドラマ
・『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ 演:三宅弘城
・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 演:音尾琢真
(wikiより)


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北添 佶磨(きたぞえ きつま、天保6年(1835年) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士佶麿(よしまろ)、源五郎とも。変名は本山七郎池田屋事件の「階段落ち」で知られる。

土佐藩高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男で、西田可蔵の弟。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。


開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)、本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学ぶ。その後、安岡直行能勢達太郎小松小太郎と共に奥州蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。なお、この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。


その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって斬殺されたと思われていたが、近年の研究によって自刃して果てたことが判明している。享年30。


明治24年(1891年)、従四位を贈られた。

フィクション
子母澤寛の『新選組始末記』においては、池田屋事件の際、新撰組の近藤勇によって北添佶摩が斬られ、2階階段から壮絶に転がり落ちるいわゆる階段落ちのシーンが生々しく描かれており、このシーンはつかこうへい戯曲蒲田行進曲』においても重要なプロットとなっている。しかし、これは上述の通り近年では池田屋事件の際は自刃しており、子母澤の創作であると考えられている。

関連作品

漫画

・『お~い!竜馬

小説
・『新選組始末記

映画

・『蒲田行進曲
(wikiより)


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杉山松助(すぎやま まつすけ、天保9年(1838年) - 元治元年6月6日1864年7月9日))は、幕末長州藩士。諱は律義(のりよし)。号は寒翠・寒緑。名は松介とも。


安政
5年(1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。文久2年(1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許された。


元治元年6月5日、池田屋事件に遭遇。脱出して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した。享年27。明治24年(1891年)、従四位を贈られる。
(wikiより)


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池田屋殉難墓碑

吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名した。久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。

生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年1月24日萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという[1]雅号は風萍軒(ふうひょうけん)。宝蔵院流槍術柳生新陰流の剣術を修める[1]。また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する[1]。松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容している[1]


安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。


松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩しているものの、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[1][注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。


文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。

最後
元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。享年24。


墓は京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。


明治
24年(1891年)、従四位を追贈された。

人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。

以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より


山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]

・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]

評価

吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[2]

渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[3]

品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」

伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」

近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[4]

関連作品

ゲーム

・『龍が如く 維新!』(セガ2014年、声:石川英郎

テレビドラマ

・『八重の桜』(2013年NHK大河ドラマ、演:石川雄亮

・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史)

小説

伊東潤『池田屋乱刃』(講談社2014年)

脚注
注釈
1. 松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2.
山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。
3. 嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。

出典
1. a b c d e 『歴史人』公式ホームページ
2. 『松陰とその門下』
3. 『吉田松陰全集 第12巻』
4. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13
(wikiより)


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⇧ 吉田稔麿

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池田屋惣兵衛 ( いけだや - そうべえ )
( 1823 ‐ 1864 )

幕末の旅館主。

文政 6年生まれ。


京都三条で営業し,長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士の定宿に供する。


元治 ( げんじ ) 元年宿で会合中の尊攘 ( そんじょう ) 派諸藩士が新選組に襲撃された池田屋事件の際、妻子とともに逃れるが翌日出頭し捕らえられる。

同年 7月 13日牢内で病死した。42歳。


〇 池田屋事件
池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末1864年7月8日元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。


池田屋事変
池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。

経緯
幕末京都政局の中心地として、尊王攘夷勤王などの各種政治思想を持つ諸浪士が潜伏し、活動していた。会津藩薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。


5月
下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高俊太郎について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性が高い。


さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画を実行するか否かを協議する会合が、池田屋あるいは四国屋において行われることを突き止めた。

戦闘
(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。


襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎奥沢栄助新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い(普段から新撰組は本物の太刀を持ち、敵の刀を切断したり、刀に裂傷を与える鍛錬をしていた)、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していたことにも気づいていなかったことから戦闘の激しさが偲ばれる。


新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。


この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。


その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。


桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸大島友之允と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島友之允に制止されたため思い留まったと、桂の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。ただし、鳥取藩士・安達清風の日記によれば、大島は事件前の5月28日に京都を離れ、6月5日の当日には江戸におり、6月13日になって事件のことを知ったとされており、大島が桂を止めたというのは事実でない可能性がある[1]。それとは別に、京都留守居役であった乃美織江は、手記に「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。

影響
御所焼き討ちの計画を未然に防ぐことに成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は、吉田稔麿北添佶摩宮部鼎蔵大高又次郎石川潤次郎杉山松助松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける(のちの新政府により彼らは俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士たちは、三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。


長州藩は、この事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日8月20日)に禁門の変を引き起こした。

異説

近年の研究では「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの志士側の陰謀は、新選組による捏造(でっち上げ)であり、新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪だとする説もある。その理由として、これらの計画は幕府側の記録にはあるものの、志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、"新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合"としか記されていない。証拠と言えるものは、土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しいことが挙げられる。


また、近藤は故郷への書簡の中で、当日は病人が多く人手が少なかったとしているが、事件直前に脱走者が多く出ていたためとする説がある。


司馬の小説竜馬がゆく』などでは、山崎丞が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、突入前に戸のを開けたことになっている。しかし、山崎の確報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずであり、山崎の名は褒賞者名簿にはないことから、実際は屯所残留組であったと推定される。


近藤の書簡や永倉新八の手記『浪士文久報国記事』によると、当日は近藤隊10名、土方隊12名、井上源三郎隊12名の三手に別れて探索を行っており、応援に駆けつけたのは井上隊である。


近藤の書簡によると、池田屋に乗込んだのは近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっているが、永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎武田観柳斎浅野薫の10名である。


桂の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたもので、事前に新選組が場所を察知していたとは考えにくい。永倉は「片っ端から」探索した旨を述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新選組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。

新選組出動隊士一覧
池田屋事件に出動した新選組隊士は以下の通り(諸説有り)


近藤隊(10名)
近藤勇

沖田総司

永倉新八

藤堂平助

武田観柳斎

谷万太郎

浅野薫(藤太郎)

安藤早太郎

奥沢栄助

新田革左衛門

土方隊(12名か24名)

土方歳三

井上源三郎

斎藤一

原田左之助

島田魁

谷三十郎

川島勝司

葛山武八郎

蟻通勘吾

篠塚峰三

林信太郎

三品仲治

松原隊(12名)

諸説有り。井上隊とも、土方隊とも。

松原忠司

宿院良蔵

伊木八郎

中村金吾

尾関弥四郎

佐々木蔵之助

河合耆三郎

酒井兵庫

木内峰太

松本喜次郎

竹内元太郎

近藤周平

屯所守備
山南敬助
尾関雅次郎
柳田三二郎
山崎丞
尾形俊太郎
山野八十八


なお、当時所属していた馬詰信十郎馬詰柳太郎はこの日に脱走した為に不参加。

尊王攘夷派志士


池田屋事件で襲撃された主な志士
宮部鼎蔵肥後藩。池田屋で自刃)
北添佶摩土佐藩。池田屋で自刃。子母澤寛の創作中の階段落ちで有名)
淵上郁太郎久留米藩。脱出)
大高又次郎林田藩。池田屋で闘死)
石川潤次郎(土佐藩。池田屋で闘死)
松田重助(肥後藩。池田屋で闘死)
伊藤弘長(土佐藩。池田屋で闘死)
福岡祐次郎伊予松山藩。池田屋で闘死)
越智正之(土佐藩。池田屋で闘死)
広岡浪秀長州藩神職。池田屋で闘死)
吉田稔麿(長州藩。脱出後自刃)
望月亀弥太(土佐藩。脱出後自刃)
杉山松助(事件を知り長州藩邸から駆けつけるが会津藩兵に斬られ、後に死亡)
野老山吾吉郎(土佐藩。戦闘の後、脱出。儒学者・板倉槐堂を頼り、後に長州藩邸で自刃)
藤崎八郎(土佐藩。三条小橋で負傷後自刃、あるいは大坂土佐藩邸に送られた後死亡とも)
近江屋まさ(近江屋女将(42歳)。近江屋で殺害される。「ふさ」とも)
酒井金三郎長府藩。縄手後で殺される)
内山太郎右衛門(長州藩の無給通士。捕縛され、7月20日8月21日)に刑死)
佐伯稜威雄(長州藩の神職。捕縛され、慶応元年6月4日1865年7月26日)に刑死)
佐藤一郎(長州藩京都藩邸吏。捕縛され、7月20日(8月21日)に刑死)
山田虎之助(長州藩の無給通士。いったん脱出。後に捕縛)
大高忠兵衛(林田藩。大高又次郎の弟。いったん脱出。後に捕縛され、7月4日8月5日)に獄死)
北村善吉(又次郎の門人。傷を負うが、池田屋裏から川辺に逃れ、舟入の中へひそんで助かる)
瀬尾幸十郎(捕縛)
安藤鉄馬(捕縛されるが逃れる)
沢井帯刀(捕縛)
大中主膳(捕縛)
森主計(京。捕縛)
西川耕造(京。いったん脱出。10日後に捕縛され、元治2年2月11日(1865年3月8日)に獄死)
木村甚五郎(京。久坂玄瑞と間違われ、捕縛)
今井三郎右衛門豊岡藩(46歳)。捕縛され、刑死)
村上俊平上野佐位郡出身。捕縛され、刑死)
河田佐久馬因州。脱出)
高木元右衛門(肥後藩。脱出して長州藩邸へ逃れる)
宮部春蔵(肥後藩。鼎蔵の弟。長州藩邸へ逃れる)
岩佐某丹波。池田屋の風呂桶の中に隠れて助かる)
有吉熊次郎(長州藩。長州藩邸に脱出)
大沢逸平(長州藩。長州藩邸に脱出)
松山良造越後国松山高吉の従兄弟、元新選組とも。脱出)
田中長九郎(京。捕縛)
吉田五郎越前出身。捕縛)
南雲平馬(上野利根郡沼田村出身。捕縛)
国重正文(長州藩。脱出)
錦織有無之助尾張藩。二階南側より逃走、水戸藩邸に逃げるも追い出され、捕縛され、刑死)

池田屋事件で捕縛された一般人
入江惣兵衛(池田屋主人。獄死)
・入江彦助(惣兵衛の弟)
・近江屋宇兵衛(近江屋主人)
・近江屋きん(近江屋の人)
・近江屋とき(近江屋の人)
・和泉屋重助(和泉屋主人。刑死)
・幸次郎(和泉屋手代。刑死)
・丹波屋次郎兵衛(丹波屋主人。刑死)
・丹波屋万助(次郎兵衛の子。刑死)
・松下喜三郎(町人
・吉兵衛(町人)
・勇助(長州藩邸門番)


など

事件後の池田屋
事件後、尊攘派志士をかくまっていたとして、池田屋主人の池田屋惣兵衛が捕縛され、獄死。池田屋も7か月間の営業停止となった。その後、親類により近在で営業を再開したが、のちに廃業し、現存しない。


元の池田屋は人手に渡り、別の経営者が佐々木旅館として営業していたが、廃業した。1960年ごろまでは当時の建物も残っていたが、その後取り壊され、跡地はテナントビル1978年ごろはケンタッキーフライドチキンの店舗)やパチンコ屋など転々として、2009年に、居酒屋チェーンのチムニーが、新選組をテーマにした居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業している。


当地には、佐々木旅館の縁者が建立した「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。

脚注
1. 『池田屋事件の研究』p.181

参考文献
伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版

菊地明『新選組の真実』、PHP研究所

中村武生『池田屋事件の研究』、講談社現代新書

原口清「禁門の変の一考察」『名城商学』46巻2号~3号、名城大学商学会

関連項目
明保野亭事件
禁門の変
寺田屋事件
近江屋事件
(wikiより)


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黒沢 五郎(くろさわ ごろう)は、幕末水戸藩士。第一次東禅寺事件坂下門外の変の実行犯である。諱は保高(やすたか)。

生涯
父親の黒沢俊平は水戸藩の郷医だったという。桜田門外の変後の7月、西丸帯刀桂小五郎との間で「丙辰丸成破の盟」(水長の盟約とも)という外国人襲撃や幕閣暗殺などを目的とした連携協定が結ばれると、その実行者として活動した。文久元年(1861年)5月28日に有賀半弥ら13名と東禅寺の英国仮公使館を襲撃した(第一次東禅寺事件)。しかし失敗して西丸のもとに潜伏する。だが幕吏の追捕が迫ったため、奥州方面に逃走した。


文久2年(1862年)1月15日、老中安藤信正を襲撃したが、闘死した(坂下門外の変)。享年30(あるいは19)。明治時代に贈従五位。


西丸は黒沢の死を悼んで、自邸に彼の追悼碑を建立したという。


〇 東禅寺事件
東禅寺事件(とうぜんじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件。1861年1862年の2回発生した。


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⇧ 東禅寺


第一次東禅寺事件
文久元年5月28日1861年7月5日)、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件。


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⇧ 第一次東禅寺事件。乗馬用の鞭で反撃するオリファント。襖の陰に隠れているのがモリソン。1861年10月12日のイラストレイテド・ロンドン・ニュースに掲載された画だが、これを描いたチャールズ・ワーグマンも事件に遭遇している。


文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。この行動に対し、尊攘派の志士らは「夷狄である外人男性に神州日本が穢された」と憤激した。


5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した(警備兵2名、浪士側3名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。両名はその後帰国している。


攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し逃走、有賀半弥、小堀寅吉古川主馬之介の3名が討取られ、榊鉞三郎が現場で捕縛された(12月に斬首)。逃げた浪士も、品川の旅館虎屋で包囲され、中村貞介山崎信之介の2名は切腹、石井金四郎が捕えられた(切腹したが死にきれず捕えられたのち死亡)。前木新八郎も逃げ切れず切腹している。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていた。逃走した黒沢五郎高畑総次郎はその後、坂下門外の変に参加し闘死した。岡見留次郎は西国に逃走し天誅組の変に参加、敗走後捕えられ斬首された。その他の浪士たちも逃亡の末切腹・獄死及び斬首され、明治時代まで生き延びたのは襲撃に参加せず、逃走・捕縛後に明治維新により特赦された堀江芳之助のみであった。


事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。事件以前、オールコックは幕府が警備を口実として自分達を監視していると思っていたが、攘夷運動の熾烈さを強く認識することとなった。彼は著書で「警備兵は浪士と戦わなかった」と記しているが、実際には警備兵はその責務を果たしている。


事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴は目撃した事件の概要を記録している。後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に対し褒賞が下された。

第二次東禅寺事件
文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の松本藩伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。


第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻し、大垣藩岸和田藩、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。


幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生した。幕府は翌文久3年4月、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。

関連項目
幕末の外国人襲撃・殺害事件

外部リンク
東禅寺事件(浪士側の詳細、趣意書あり)
英国公使館襲撃事件 東禅寺に残る攘夷の刀痕
外国人から見た第2次東禅寺事件
(wikiより)


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飯泉 喜内(いいいずみ きない、文化2年(1805年) - 安政6年10月7日1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士。初め渡辺六蔵を名乗った。諱は唯明、のち友輔。別称は一蔵。

生涯
文化2年(1805年)、誕生。


はじめ土浦藩藩主・土屋彦直に仕え、代官として民政を預かり、農政で一定の功績を残した。天保3年(1832年)、脱藩して江戸浅草の豪商の手代となる。のち旗本曾我権右衛門の侍医飯泉春堂を娘婿に迎えて飯泉氏を名乗るようになる。


嘉永
5年(1852年)、上京して三条実万の家士となって小林良典村井正礼らと交流した。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーの来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判。安政4年(1857年)、江戸へ戻るも、京都の同志と情報を交換していた。また将軍継嗣問題では橋本左内梅田雲浜らと一橋派に属した。ところが安政5年(1858年)、真福寺ロシア人との接触を疑われて下田奉行手付書役・大沼又三郎に捕えられる。自宅からは数多の書類が押収され、その中に多くの志士との手紙などがあったことから安政の大獄に発展した。なお、「安政の大獄」は明治以降に定着した呼称で、当時はこうした経緯から「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれた。


安政6年(1859年)、橋本左内や頼三樹三郎らとともに江戸伝馬町牢屋敷で斬刑に処された。享年55。墓所は東京都荒川区南千住回向院

関連項目
安政の大獄
(wikiより)


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大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年(1816年) - 文久2年7月12日1862年8月7日)は、江戸時代後期の儒学者尊王論者は正順、通称は順蔵、は周道、訥庵は号[1][2]幕末尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。

生涯
生い立ち
文化13年(1816年)、長沼流兵学者の清水赤城の四男として生まれる[1]。当初、母方の親族である信濃飯山藩士の酒井力蔵の養子となるが後に離縁している[1][2]天保6年(1835年)、儒学者の佐藤一斎に師事する[1]。天保12年(1841年)、江戸日本橋の豪商佐野屋大橋淡雅の娘巻子と結婚し大橋姓を名乗る[3][4]。同年、日本橋において思誠塾を開き、子弟に儒学を指導する[3][4]。訥庵による指導は好評で、嘉永3年(1850年)には下野宇都宮藩主・戸田忠温の招きにより、月1回江戸藩邸において儒学を教授した[4][5]

攘夷論への傾倒
嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、訥庵の尊王攘夷論は過激になっていく。外夷を打ち払うことを幕府に建言し、全国的に注目されるようになった[4][5]安政3年(1856年)には思誠塾を小梅村(現在の東京都墨田区向島)へ移転した[6]。これは前年の安政の大地震により塾が倒壊したためである[6]。安政4年(1857年)には『闢邪小言』を刊行し、この中で朱子学の立場から西洋文明を厳しく批判し、多くの人々の共感を得ることとなった[7]。安政5年(1858年)、安政の大獄において処刑された儒学者の頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、門弟とともに小塚原刑場まで行き、三樹三郎の遺体を棺に納め埋葬している[8]

安藤老中への憎悪
安政7年(1860年)、大老井伊直弼が江戸城桜田門外において水戸藩浪士暗殺される(桜田門外の変)。直弼暗殺後に幕府の最高実力者となった老中安藤信正公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を画策する。訥庵はこの婚姻に強硬に反対し、討幕を企てるようになる[9]。文久元年(1861年9月5日、門弟の椋木八太郎は訥庵の作成した「政権恢復秘策」を上奏するために京へ向かった[10]。秘策の中で、訥庵は公武合体に否定的な見解を示し、朝廷には攘夷の勅命を出すことを要請している[11]


同月、訥庵は宇都宮の児島強介を水戸へ赴かせる[12]。外国人を襲撃して幕府を混乱させ、公武合体を頓挫させることを訥庵は意図しており、水戸藩の志士に外国人襲撃の協力を求めるものであった[12]。これに対し、水戸藩の激派からは宇都宮藩の志士と協力して老中安藤信正を暗殺したい旨の回答があった[13]。強介は訥庵に水戸側の回答を伝える[13]。訥庵としては老中暗殺は時期尚早であり、朝廷からの「政権恢復秘策」の回答を得てから判断したいと考えていた[14]。結果として、訥菴の秘策は朝廷に採用されることはなく、10月18日には和宮の降嫁が勅許される[15]。 11月6日にはプロシアとの条約交渉を行っていた元外国奉行堀利煕が突然謎の自刃を遂げた事件があったが、これに事寄せて掘の安藤に対するという諫言の書と称する偽書を捏造して尊攘派の間に回覧し[16]、堀が安藤への抗議の自害をしたとの世論を醸成した。

挙兵計画
これと前後して、訥庵は門弟とともに輪王寺宮を擁立して攘夷の兵を挙げることを画策している[17]。しかし十分な人数が集まらず計画を中止するに至った[18]。これは水戸側に挙兵よりも老中暗殺を優先させたい意向が強く働いたためである[18]。ここに至って、訥庵は老中暗殺に向けて計画を立てることとした[19][20]。当初、決行日を同年12月15日に定めたが、12月12日に水戸側からの延期の要請があり決行日を12月28日に延期した[20][21]12月22日、訥庵の義弟の菊池教中が児島強介に訥庵あての書状を託している[22]。書状の中で、教中は老中暗殺後に生き残った志士がおればその者に会津藩邸に直訴させて会津藩に攘夷の協力を求めることを提案している[22]。訥庵はこの提案に反対し、老中暗殺が成功するか否かに関わらず襲撃後に全員自決する覚悟がなければ計画が成功するはずがないと教中あての返書で述べ、強介に返書を託した[22]12月26日、訥庵は宇都宮藩の志士と会談し、決行を年明けに延期し、老中暗殺後に朝廷に使者を送って攘夷の勅命を出すことを要請、一橋慶喜を擁立して日光山にて挙兵することを確認している[22][20]

坂下門外の変
年が明けて、文久2年(1862年1月8日、訥庵は一橋家近習の山本繁太郎に慶喜への上書取次を依頼する[23]。繁太郎は幕府に密告したため、一連の計画が幕府の知るところとなる[23]1月12日、訥庵は南町奉行に逮捕され、翌1月13日には思誠塾が幕府によって捜索を受けている[24]。訥庵が逮捕されたことを受け、ついに1月15日に志士6名は江戸城坂下門外において老中安藤信正を襲撃する[25][26]。信正を負傷させたものの殺害には至らず、志士6名はいずれもその場で斬殺された[26][27]坂下門外の変)。


坂下門外の変以降、訥庵に関係する人々は次々と幕府に逮捕されていく。伝馬町の獄舎の環境は劣悪で、同志の中には獄死する者が相次いだ[28]。宇都宮藩家老間瀬和三郎らによる赦免運動により、同年7月8日に訥庵は出獄し宇都宮藩邸に預けられる[29]。しかし、7月12日早朝にその生涯を終えた[30]。47歳没。死因は毒殺であったという[2]谷中天王寺の大橋家墓地に葬られる[30]従四位を追贈される[2]

斬奸趣意書
同志の一人、川辺左次衛門は襲撃に間に合わず、長州藩邸に行き斬奸趣意書を桂小五郎(木戸孝允)に渡して自刃した[31]。左次衛門が持参していた斬奸趣意書は椋木八太郎が起草し、訥庵が添削したものとされる[32]。この中で、安藤老中の政策は外国に屈するばかりで朝廷を軽んじ、暴政ばかりである、このままでは亡国は明らかであるので安藤老中を斬殺する、幕府には攘夷を行い、万民の困窮を救うことを望む旨が述べられている[33]


詳しいことは、「大橋訥庵ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E8%A8%A5%E5%BA%B5
(wikiより)


432 大橋 訥庵

⇧ 大橋訥庵

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検索に移動

日下部 裕之進(くさかべ ゆうのしん、天保7年(1836年) - 万延元年3月3日1860年4月22日))は、幕末薩摩藩士。日下部伊三治の長男、母は山形氏。諱は信政

生涯
天保7年(1836年)、水戸藩士・日下部伊三治の長男として常陸国多賀郡で誕生。父・伊三治が幹事を務める太田学館で学ぶ。


安政
2年(1855年)、父とともに薩摩藩に帰藩。安政5年(1858年)、家老鎌田出雲の命で上洛し、水戸藩への降勅に関与して、実際に降勅されると父とともにその写しを持って江戸へ下り、小石川の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかし、江戸幕府による安政の大獄が起こると伝馬町の獄に捕えられ、翌安政6年(1859年)に遠島刑となるが、配所前の万延元年(1860年)に獄死した。


死後、正五位に追贈された。

関連項目
安政の大獄 
戊午の密勅 

外部リンク
日下部裕之進』 - コトバンク
(wikiより)


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⇧ 日下部裕之進


来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10月18日)は、日本右翼活動家。筑前共愛公衆会玄洋社の社員。


概要

福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。


高場乱
興志塾に学び、堅志社十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[1]

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。


その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった[要出典]玄洋社を退社。(退社の理由は他の社員が共犯関係を疑われて刑事責任を負わされる可能性を最小限に抑える為とも言われる)


大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年29。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。高場は来島を国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判している[2]。来島の死後、後の首相となる広田弘毅の父・広田徳平により、墓碑が作られた[3]。大隈襲撃には月成功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。


逸話
・大隈の右足切断手術は、佐藤進やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手により行われた。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。そして大隈は来島の墓を建ててお参りに行っている。[4]

・来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長高場乱(たかばおさむ)は来島の行為を批判しながらも、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[5]

・博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。


登場する作品

・『風蕭々』 - 尾崎士郎の短編小説。大隈重信の遭難事件を来島の視点から描いた作品。

日本暗殺秘録(1969年、東映) - 演:吉田輝雄

・『テロルの系譜』「綺異譚 来島恒喜」(1975年、日本文華社) - かわぐちかいじの漫画作品。

春の波涛(1985年、NHK) - 演:堀隆博

夜会の果て(1997年、NHK) - 演:林邦史朗

八重の桜(2013年、NHK) - 演:大平真嗣


脚注
1. 凛―近代日本の女魁・高場乱p16,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日
2. 凛―近代日本の女魁・高場乱,永畑道子p56,藤原書店,1997年3月1日
3. 広田弘毅の記事を参照。
4. 大隈重信『青年の為に』(東亜堂,1919)p.113に、大隈がそう語ったと書かれている。大隈は来島の遺族に対して金を送っている。
5. 凛―近代日本の女魁・高場乱p62,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日


参考文献
北川晃二『黙してゆかむ―広田弘毅の生涯』(1975年、講談社ISBN 978-4061840959
頭山統一『筑前玄洋社』(1977年9月、葦書房ISBN 978-4751200353
浦辺登『太宰府天満宮の定遠館―遠の朝廷から日清戦争まで』(2009年8月20日、弦書房ISBN 978-4863290266
石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(2010年10月15日、海鳥社ISBN 978-4874157879
小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論』(2012年2月24日、幻冬舎ISBN 978-4344021341


関連項目
玄洋社
頭山満
中江兆民
大隈重信
杉山茂丸
大野仁平
(wikiより)


429 来島恒喜

⇧ 来島恒喜

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安藤 浩 ( あんどう - ひろし )     
嘉永 4年~昭和 7年 2月 12日 ( 1851 - 1932 )


東京芝の「紅葉館」社長。


父、山梨県出身の安藤太蔵 ( 二男 )。


明治 10年 ( 1877 ) 第三銀行に入行。


明治 11年 ( 1878 ) 横浜支店支配人心得、のち独立して織物業に進むが失敗。


川崎銀行頭取の川崎八右衛門の支援で、明治 15年 ( 1882 ) 川崎銀行水戸支店主任。
明治 17年 ( 1884 ) 本店支配人・営業部長。


以来、勤続30有余年ののち、同行顧問。他に、「紅葉館」社長・東京商業倉庫・日本火災保険会社・第百銀行各取締役。82歳没。


 明治 14年( 1881 )2月に芝の紅葉山に建てられた会員制の超高級料亭「紅葉館」は、明治の代表的な和風社交場として知られ、政財界文人の社交場であった。


西洋風のきらびやかな社交場である鹿鳴館とならび称されていた。


鹿鳴館は、洋式で西洋の舞踏などが主で、あまり馴染めず、わずか7年でその役目を終えている。


一方、「紅葉館」は万事みやびな和風で中庭には見事な庭園があり庭内には、渓流、滝、築山がしつらえてあった。


昭和 20年 ( 1945 ) の大空襲で焼失。現在この「紅葉館」の跡地には東京タワーがそびえ建つ。


この「紅葉館」の女中の中から後に、伊藤博文夫人となる「おすま」や川上音次郎の妻で女優一号になった「貞奴」がいた。


また、尾崎紅葉を筆頭に硯友社の文士たちも出入りし、尾崎紅葉は、自分のペンネームに使った。


明治最大の小説、尾崎紅葉著「金色夜叉」の主人公の鴫沢宮(しぎさわみや)は、この紅葉館の女中の中村須磨がモデルになっている。
(芝紅葉館と光子HPより)


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二代目 中村又五郎(にだいめ なかむら またごろう 1914年大正3年)7月21日 - 2009年平成21年)2月21日)は歌舞伎役者。屋号は播磨屋定紋揚羽蝶、替紋は向い菱。俳名に紫琴。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は中村 幸雄(なかむら ゆきお)。

来歴
初代中村又五郎の長男。父・初代又五郎は初代中村吉右衛門らとともに浅草の子供芝居で名を馳せた達者だったが、1920年(大正9年)に若くして没し、遺児・幸雄が吉右衛門に託された。初代の死の翌1921年(大正10年)1月市村座『腕の喜三郎』倅喜之助で二代目中村又五郎襲名して初舞台を務めて以来、最晩年まで一度も名跡を替えなかった。


1961年(昭和36年)、八代松本幸四郎らとともに東宝に移籍。1973年(昭和48年)に幸四郎らが東宝を離れても、東宝専属だった。


2004年(平成16年)12月には歌舞伎座に出演して満90歳での芝居を披露した。2006年4月の「六世中村歌右衛門五年祭追善口上」が最後の舞台出演となった。また、歌舞伎役者のなかでも随一の読書家として知られていた。

2009年(平成21年)2月21日午前4時10分、老衰のため東京都内の自宅で死去[1]。94歳没。

人物・芸風
小柄な体つきと奥ゆかしい性格のために役の上では必ずしも恵まれたとはいえないが、脇役に徹し、主役をみごとに立てる行儀のよさがあった。それでいながら、一度立役として出れば重厚にして軽妙、瀟洒としかいいようのない芸を見せて観客を満足させる役者ぶりも兼ねそなえた名人だった。まず吉右衛門のもとで女方としての修行を積み、つぎに若衆方をも兼ね、さらには年齢とともに時代物世話物を問わない脇役から、特に老役、花車方、婆役などにまで芸域を広げた。


初代吉右衛門の薫陶を受け、劇団ができてからは八代目松本幸四郎十七代目中村勘三郎六代目中村歌右衛門ら個性の強い役者たちのあいだにあってよき調整役を、また舞台の上では優れた脇役を勤めてきた。国立劇場の歌舞伎俳優養成事業主任講師や俳優協会における財務関係の理事などを長く続け、社会活動の上でも優れた手腕を発揮し、歌舞伎界全体の発展を見据えて着実な努力を続ける縁の下の力持ちとしての役割も大きかった。


一時「養子にしたい」と初代吉右衛門が言い、「見込みがあるから俺のところへあずけないか」と六代目尾上菊五郎が申出たことをみても、彼の力量を伺い知ることができる。六代目菊五郎は又五郎に手をとって『義経千本桜』「木の実」の小金吾を教え、その出来栄えに満足して「次は俺が長兵衛をつきあって、幸雄に白井権八(『御存鈴ヶ森』)をやらせたい」とまで言ったという。これは菊五郎の死去によって実現しなかったが、あまりものごとにこだわらない又五郎にとって唯一の心残りと語っていた。


このように、立役においては六代目菊五郎から有形無形の影響を受けたと又五郎も語っており、まさしく菊吉時代の申し子とでもいうべき役者だった。そうした背景から、九代目松本幸四郎二代目中村吉右衛門十八代目中村勘三郎など、若い役者への芸の継承に情熱を注ぎ、「斯界のお師匠番」と呼ばれた。

テレビドラマ
テレビドラマにもほとんどが時代劇ながら、黎明期から意欲的に出演し、二面性のある顔役的な役柄や若侍、武士、町民、好好爺の役などを柔軟使い分けて幅広く見事にこなした。


又五郎は1982年から1983年にかけてフジテレビで2本制作された『剣客商売』のスペシャルドラマでその秋山小兵衛を演じ、同年、『仕掛人藤枝梅安』(小林桂樹主演作 全7作)でも元締である音羽の半右衛門役を演じ続け、『鬼平犯科帳』では、終生すべてのシリーズにゲスト出演していた。

又五郎による著作
・『芝居万華鏡 めぐる舞台のうらおもて』 山田五十鈴と対談、中央公論社(新書判)、1982年

 ・『芝居万華鏡 めぐる舞台のうらおもて』 小池書院・道草文庫、1998年

・『ことばの民俗学4 芝居-日本の伝統を伝えることわざ』 佐貫百合人と対話、創拓社、1990年

・『中村又五郎歌舞伎ばなし 聞き書き』 聞き手郡司道子、講談社、1995年

作家が見た又五郎
戸板康二は又五郎のお岩を見て「たしかに(七代目)梅幸(六代目)歌右衛門よりも一日の長がある」と評した。

池波正太郎は彼の芸を愛し『又五郎の春秋』(中公文庫)を著し、また代表作『剣客商売』(新潮文庫)の主人公秋山小兵衛のモデルとしたことはよく知られている。

主な出演
テレビドラマ
蟹満寺縁起(1958年、日本テレビ

鬼平犯科帳 第3シリーズ 第5話「浅草・御厩河岸」(1982年5月18日、テレビ朝日) - 海老坂の与兵衛

仕掛人・藤枝梅安(1982年 - 1983年、フジテレビ) - 音羽の半右衛門

剣客商売(フジテレビ) 「辻斬り」(1982年12月3日) 「誘拐」(1983年3月4日) - 秋山小兵衛

女殺油地獄(1984年、NHK) - 徳兵衛

鬼平犯科帳(フジテレビ)

 ・第1シリーズ 第1話「暗剣白梅香」(1989年7月12日) - 三の松平十

 ・第2シリーズ 第17話「春の淡雪」(1991年3月13日) - 池田屋五平

 ・第4シリーズ 第1話「討ち入り市兵衛」(1992年12月2日) - 蓮沼の市兵衛

 ・第7シリーズ 第9話「寒月六間堀」(1997年6月4日) - 市口瀬兵衛

映画
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、東宝) - 徳川綱吉

激動の昭和史 軍閥(1970年、東宝) - 昭和天皇

舞台
放浪記(1962年) - 福地貢 役

受賞・栄典・顕彰・ほか

受賞
・1953年 芸術祭賞奨励賞

・1985年 伝統文化ポーラ特賞

・1990年 名古屋演劇ペンクラブ年間賞

・1993年 松尾芸能賞特別賞

・1996年 日本芸術院賞恩賜賞

・1999年 菊池寛賞

栄典
・1975年 紫綬褒章

その他
・1997年 人間国宝

脚注
1. 歌舞伎俳優最高齢・人間国宝の中村又五郎さん死去 朝日新聞 2009年2月22日閲覧
(wikiより)


425 二代目・中村又五郎

⇧ 二代目・中村又五郎

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初代 中村又五郎(しょだい なかむら またごろう、1885年明治18年)1月1日 - 1920年(大正9年)3月19日)は、明治から大正にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号播磨屋定紋揚羽蝶、替紋は向い菱。俳名に紫琴がある。

来歴
初代中村紫琴の子として大阪に生まれる。明治23年(1890年)、中村正太郎で初舞台を踏んだ。


明治31年(1898年)東京に移籍し、「少年劇」とよばれる新富座の子供芝居に出る。同期に初代中村吉右衛門初代助高屋小傳次二代目坂東八十助らがいる。この年の正月新富座で中村又五郎と改名する。このときの有様は、岡本綺堂が「又五郎は中村紫琴の遺子で、大阪では子役中の麒麟児と呼ばれ、鴈治郎ですらも彼に食われるかという噂であったが初上がりのせいか、『曾我の対面』の鬼王と「鞘当」の留女の二役だけで格別の注意をひかなかった。しかもその後に座付の芝居茶屋、猿屋のうしろ楯を得て、興行ごとに大役を背負うようになったのである」(『明治劇談・ランプの下にて』岩波文庫、1993年)と書いている。


子供芝居が人気を失うと、二代目市川左團次自由劇場に参加して新しい芝居に打ち込む一方で、『心中天網島・河庄』の治兵衛・『恋飛脚大和往来』の忠兵衛などの和事もつとめ、東京の観客にも親しまれた。のち小芝居を中心に活躍するが、三十代半ばで早世した。

子は二代目中村又五郎
(wikiより)


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小田彦三郎 ( おだ ひこさぶろう 1833 ‐ 1862 )


天保 ( てんぽう ) 4年生まれ。常陸 ( ひたち ) 水戸藩士。


文久 2年 1月 15日平山兵介らと坂下門外で登城中の老中・安藤信正を襲撃し、斬殺された。30歳。


名は朝儀。変名は朝田儀助。


〇 坂下門外の変
坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し、負傷させた事件。


背景
桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。  


万延元年(1860年)7月、水戸藩の西丸帯刀野村彝之介住谷寅之介らと、長州藩桂小五郎松島剛蔵らは連帯して行動することを約し(丙辰丸の盟約・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。


水戸志士らは宇都宮儒学大橋訥庵一派と連携して、信正の暗殺計画を進めた。当初は12月15日に決行する予定であったが、諸事情から12月28日に延期になり、更に延期され、1月15日上元の嘉例の式日で諸大名が総登城し将軍に拝謁することになっていたため、その折を狙うこととなった。しかし、決行直前の1月12日に計画の一部が露見し、大橋ら宇都宮側の参加者が幕府に捕縛された。そのため計画は大きく狂ったが、水戸志士を中心とした残りのメンバーだけで実行することになった。


決行
文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三[1]越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった(なお、黒沢と高畑は第一次東禅寺事件の参加者である)。


最初に直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕篭を銃撃した。弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。


遅刻した川辺は長州藩邸に斬奸[2]趣意書を届けた後、切腹した。


影響
信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、信正は4月に老中を罷免され、8月には隠居蟄居を命じられ、磐城平藩は2万減封された。


脚注
1. 下野国河内郡吉田村出身
2. この政治活動は、最初から計画性をもって進められた運動ではなく、挙兵計画を模索し、それが挫折した後に採用されたもの。


関連項目
第1次坂下門乱入事件第2次坂下門乱入事件昭和に坂下門で起きた事件)
(wikiより)


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勝 精(かつ くわし、1888年明治21年〉8月23日 - 1932年昭和7年〉7月11日)は、日本華族実業家爵位伯爵。旧姓は徳川(とくがわ)。


略歴
1888年明治21年)8月23日徳川慶喜の十男として誕生。母は新村信1892年(明治25年)2月8日勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、徳川慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れる。同年2月14日、徳川慶喜は精の養子入りを承諾し、精は早世した勝小鹿の娘である伊代子の婿として、1899年(明治32年)1月20日に勝家に養子入りする。養父海舟の死去に伴い、同年2月8日に家督を相続し、伯爵を授爵する[1]慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業浅野セメントなどの重役を歴任した。


精は家庭的には一男五女をもうけたが、妻の伊代子が1922年大正11年)5月7日に他界、その後はを作り大っぴらに遊んだという。1932年昭和7年)7月11日に死亡する。死因は当初脳溢血とされたが、後に妾とカルモチンで心中自殺したと報道された[2]。墓所は、東京都台東区谷中墓地であり、実父である徳川慶喜の墓所のすぐ近くである。


子女は道子(子爵朽木綱博[3]夫人)、善子(筧元貞夫人)、静子(子爵石野基恒夫人)、中子(子爵戸田忠和夫人、のち佐々木弘治夫人)、当子(男爵藤田光一夫人)、勝芳孝[4][5]。家督は長男である芳孝が継いで襲爵した[6]


人物
写真やビリヤード、特に銃猟投網など多趣味で知られ交友関係も広く、独自に自動ドアを発明するなど、華族としては型破りの性格であったという。当時、発売されたばかりのオートバイハーレーダビッドソン)に興味を持ち、小さな鉄工所を屋敷内に設け、1923年(大正12年)に1000ccの排気量を持つ国産オートバイ「ジャイアント号」を製作させた。後に鉄工所のメンバーは目黒製作所(後に川崎重工業に吸収)を設立したことから、現在のカワサキ車の起源を造った一人とも言われている。


脚注
1. 海舟の死後、伊代子が家督を相続し、勝家は女戸主となったため、爵位返上となっていた。伊代子は1月28日に隠居し、精が家督を相続したことで、2月8日に改めて伯爵が特授された。
2. 千田[2005]
3. 徳川慶喜の五男池田仲博の次男であり、道子の従兄弟に当たる。
4. 勝部[2009]
5. 霞会館[1996: 424]
6. 石井妙子「現代の家系――勝栄二郎――『勝海舟の子孫説』を追う」、『文藝春秋』第90巻第9号、文藝春秋2002年6月1日、 366頁。


参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年、424頁。
勝部真長『勝海舟』PHP研究所、2009年。
千田稔『明治・大正・昭和華族事件録』新潮社〈新潮文庫〉、2005年。


関連項目
サイバーグラフィックス
太平洋セメント
目黒製作所
(wikiより)


424 勝 精

⇧ 勝 精

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池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)5月3日)は、戦後を代表する時代小説歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家映画評論家としても著名であった。

略歴
生い立ち
1923年大正12年)1月25日東京市浅草区聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。


正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。


1935年昭和10年)、西町小学校を卒業した。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入った。以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎新国劇新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。

終戦まで
1941年(昭和16年)、太平洋戦争が開戦したが、その翌年には松島商店を退職し、国民勤労訓練所に入所。同年のうちに芝浦萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、池波本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数箇月のうちにこの技術に習熟した。この頃には「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチを投稿するなどした。そのうち「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で賞金50円を稼ぎ、これが正太郎にとってはじめての原稿収入となった。


1943年(昭和18年)の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元日には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。磯子八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。翌1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。その後、水兵長に進級し、米子美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句短歌を作ることに熱中した。8月15日、敗戦。二等兵曹に進級。残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。

劇作家として
帰京直後の1945年10月に帝国劇場六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。1946年(昭和21年)、東京都職員となり下谷区役所に勤務したが、仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。その後も区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。


1948年
(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、座付作者といわれるほどに新国劇と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川の強い勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。

小説家へ
1955年(昭和30年)1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、自ら演出をも行った。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職(昇進を断り、外回りの職に徹しており、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた)。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作の『風林火山』『黒雲谷』『賊将』など、新国劇で作品を次々と上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年(昭和34年)9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年(昭和33年)暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父と久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。

1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少の頃からの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号~64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号~64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号~12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年(昭和38年)に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、長谷川伸が没したが、同時にこれを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。

鬼平犯科帳
四十代に入った正太郎は、『江戸怪盗記』(「週刊新潮」64年1月6日号)、『おせん』(「小説現代」同年7月号)、『堀部安兵衛』(「中国新聞」同年5月14日~66年5月24日)、『出刃打お玉』(「小説現代」65年3月号)、『同門の宴』(「オール讀物」同年9月号)、『あほうがらす』(「小説新潮」67年7月号)など従来からの歴史小説に加えて江戸の市井に題材を採った時代小説作品を多く手がけるようになったが、なかでも1967年(昭和42年)12月の「オール讀物」に発表した『浅草御厩河岸』は読者から高い評価を受け、次号以降断続的にシリーズとして連載が開始された。のちに代表作の一つとなった『鬼平犯科帳』の第一作である。寛政重修諸家譜のなかで出会った長谷川平蔵という人物につよい興味を持っていたが、旧知の八代目松本幸四郎をモデルに、世の善悪に通じ、強烈なリーダーシップと情愛を兼備えた平蔵を描出するとともに、火付盗賊改方と盗賊たちの相克を通して「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾を描き、悪漢小説として読者の広範な支持を受けた。同時期の歴史小説に『さむらい劇場』(「週刊サンケイ」66年8月22日号~67年7月17日号)、『上泉伊勢守(剣の天地)』(「週刊朝日」67年4月28日号~6月16日号)、『蝶の戦記』(「信濃毎日新聞」ほか同年4月30日~68年3月31日)、『近藤勇自書』(「新評」同年10月号~69年3月号)などが挙げられている。昼に起き夜中に執筆する生活習慣は相変わらずであったが、元来速筆家で仕事の合間に取材旅行を含めて旺盛に旅行し、映画・演劇鑑賞も盛んに行っていた。


『鬼平』連載開始の翌1968年(昭和43年)には担当編集者の求めにより自伝的随筆『青春忘れもの』(「小説新潮」68年1月号~12月号)を執筆。旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させたが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者から強い支持を受けた。翌1969年(昭和44年)にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年(昭和46年)には同シリーズ中『狐火』を舞台化。各・主演は八代目幸四郎で、特にテレビ版は時代ものの作品として高い評価を受け、以後の評価を不動のものとした。『鬼平』の連載は「オール讀物」誌上にあって依然好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』(69年)、『血闘』(70年)、『狐火』(71年)、『流星』(72年)と年一冊のペースで新作が世に送り出された。江戸の市井を舞台とした作品でも、幡随院長兵衛を描いた『侠客』(「サンケイスポーツ」68年10月28日~69年9月5日)、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』(「週刊新潮」69年5月31日号~70年5月16日号)、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』(「東京新聞」ほか70年3月20日~71年6月17日)などの作品が発表された。

剣客商売・仕掛人
1972年(昭和47年)には「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表した。京都古書店で偶然見かけた歌舞伎役者二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客・秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男・大治郎、田沼意次の娘である女剣客・佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決していく同シリーズも人気を博した。同年「小説現代」3月号に『仕掛人・藤枝梅安』シリーズ第1作となる『おんなごろし』を発表。同誌6月号には第二作『殺しの四人』が掲載され、この作品は年末に小説現代読者賞を受賞。仕掛人という言葉は流行語となり、朝日放送で『必殺仕掛人』として連続ドラマ化された。翌1973年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号~12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号~12月号に、『仕掛人』を『小説現代』2、7、9、10月号に同時並行で連載した。その一方で『雲霧仁左衛門』(「週刊新潮」72年8月26日号~74年4月4日号)、『剣の天地』(「東京タイムズ」ほか73年5月15日~74年3月30日)といった小説作品や、随筆『食事の情景』(「週刊朝日」72年1月7日号~73年7月27日号)なども執筆された。また、73年には「池波正太郎自選傑作集」全五巻を立風書房から刊行。仕掛人ものの『春雪仕掛針』がふたたび小説現代読者賞を受賞し、四月から『剣客商売』がテレビドラマ化。


1974年(昭和49年)、「週刊朝日」誌上の『真田太平記』(1月4日号~80年12月15日号)が加わり、同年にはこのほか『男振』(「太陽」7月号~77年9月号)の執筆もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演された。1975年(昭和50年)、小説の発表は「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」の四種のみとなったが、『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞。劇作においても、新国劇のほかに、歌舞伎にも脚本を提供するようになり、原作・脚本両方を含め、『出刃打お玉』(2月歌舞伎座)、『剣客商売』(6月帝国劇場)、『必殺仕掛人』(9月明治座)『手越の平八』(11月明治座)の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』(4月)、『江戸女草紙・出刃打お玉』(5月)、『侠客幡随院長兵衛』(10月)を上演。このうち『黒雲峠』と『江戸女草紙』では演出も担当した。

詳しいことは、「池波正太郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%B3%A2%E6%AD%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)


422   池波正太郎

⇧ 池波正太郎

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阿部 正弘(あべ まさひろ、文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。


江戸幕府老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部家宗家11代。


生涯
出生
文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。


文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。


天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った(正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである)。


天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍徳川家慶より目をかけられるようになったといわれる。


老中就任
天保14年(1843年9月11日、25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行鳥居耀蔵後藤三右衛門渋川敬直らを処分し(後任の南町奉行には元北町奉行遠山景元が就任)、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。


正弘は家慶、家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。


幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩島津斉彬水戸藩徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲戸田氏栄松平近直川路聖謨井上清直水野忠徳江川英龍ジョン万次郎岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。


さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石(天領であった隣接の安那郡山野村と矢川村と神石郡上豊松ほか14 か村 ※古川村を除く)はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。


弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル相模国浦賀神奈川県)へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年(1853年)にはマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎ロシアプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。


この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。


なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。


安政の改革、晩年
こうして正弘は積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。


安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全松平忠優8月4日9月14日)に老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。


こうした中、正弘は江川英龍、勝海舟大久保忠寛永井尚志高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所長崎海軍伝習所洋学所などを創設した。後に講武所日本陸軍長崎海軍伝習所日本海軍洋学所東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。


安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。


なお、正弘は将軍継嗣問題(家定の後継者問題)では一橋慶喜を推していた。

人物・逸話
・幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、正弘の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。

・『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の正弘が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。

・若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。

・外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎『日本の歴史16 開国と攘夷』、中公文庫)。

・西洋の学問に理解を示し、勝海舟の紹介で正弘の邸宅に呼ばれた杉純道が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。正弘は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でも買ってやろうと約束した。

・正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。

・正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間、正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。

詳しいことは、「阿部正弘ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
(wikiより)


421 阿部 正弘

⇧ 阿部正弘

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⇧⇩ 正室:謹姫(松平治好の娘)

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⇧⇩ 継室:謐姫(松平慶永養女、松平直春の娘)

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十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年明治7年)11月5日 - 1945年昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和歌舞伎を代表する役者の一人。屋号橘屋定紋根上り橘、替紋は渦巻俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。


二枚目若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりもの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。

来歴
生い立ち
東京府出身。出生の事情については長らく謎だったが、死後里見弴が著書『羽左衛門伝説』の中で、十五代目はチャールズ・ルジャンドルと池田絲(いけだ いと)の間に生まれた私生児だったという説を発表、現在ではこれが定説になっている。


ルジャンドルはフランス生まれのアメリカ人で、南北戦争では北軍の陸軍大佐としてグラント将軍旗下で活躍、戦後除隊した後には陸軍准将に名誉進級されている。その後は外交に転じ、明治新政府の外交顧問として来日、日本の台湾出兵に決定的な役割を果たした人物である。また池田絲は、旧福井藩主で、四賢侯の一人と謳われ、幕末には幕府政事総裁職、維新後は新政府の議定民部卿大蔵卿などを歴任した松平慶永庶子である。

役者人生
当時の庶民から見れば雲の上の人のような出自だったかもしれないが、そこは混血の私生児として生まれた者の宿命で、数え四つになると十四代目市村羽左衛門に養子に出される。厳しい稽古に明け暮れる役者人生がここから始まった。1881年(明治14年)1月、坂東竹松を名乗って初舞台。後に二代目坂東家橘を襲名、1893年(明治26年)7月に十代目市村家橘を襲名。1903年(明治36年)10月には十五代目市村羽左衛門を襲名した。


「市村羽左衛門」ほどの大名跡ともなれば、その襲名口上には九代目市川團十郎を置いて他に頼む人はなく、すべてを彼に任せきりにしていたのだが、襲名披露興行の直前にその九代目が風邪をこじらせて急死してしまう。慶事を前にした「劇聖」の死で幕内は上を下への大騒ぎとなった。誰が代わりに口上をやるのか、そもそも何を言ったらよいのかと、余人が侃々諤々と意見をたたかわせる中、十五代目本人は至って冷静だった。


襲名披露公演の初日の幕が開くと、十五代目は九代目團十郎の遺影を舞台上手に、そしてやはり半年前に死去した叔父(養父の兄)の五代目尾上菊五郎(十三代目市村羽左衛門)の遺影を舞台下手に置いて、本人は團菊の真ん中に座り、そこで一人滔々と口上を述べた。今日では襲名する本人が締めくくりに何卒宜しくと一言口上を述べることが一般的だが、この当時にあってはそのようなことはもとより、本人の「一人口上」などというのは前代未聞の出来事だったが、十五代目はいかにも堂に入った様子でこれが大評判となった。

花の橘屋
最後の舞台
戦局がいよいよ怪しくなり、東京の空襲が日常的な頻度になると、羽左衛門も長野県湯田中温泉に疎開することになった。その前夜、国民服防空頭巾のいでたちの羽左衛門は、一人ひと気のない歌舞伎座の舞台に名残惜しそうに立ち続けていたという。羽左衛門が再びその舞台に立つことはなく、1945年(昭和20年)5月6日に湯田中の老舗旅館「よろづや」でひっそりと死去した。そしてその歌舞伎座も羽左衛門の後を追うかのように5月25日の大空襲で灰燼に帰してしまった。墓所は東京都豊島区雑司ヶ谷霊園


十五代目の訃報に接して、六代目尾上菊五郎は「上手い役者ではなかつたが、良い役者でした」と個人を偲んでいる。その六代目は初代中村吉右衛門とともに大正年間に「菊吉時代」と呼ばれる歌舞伎のひとつの黄金時代を築いていたが、彼らは「上手い役者」と評されることはあっても、「良い役者」と評されることはなかなか無かった。その意味で、十五代目市村羽左衛門の死は歌舞伎の一つの時代の終焉でもあった。


4か月後、ダグラス・マッカーサー副官として厚木に降り立ったフォービアン・バワーズが、日本の新聞記者に向かって真っ先に尋ねたのが「羽左衛門はどうしていますか?」という質問だったという。

芸風
新派のトップとして、そして何よりも美貌の女形として、花柳章太郎は大正から昭和のはじめにかけて絶大な人気を誇っていた。その花柳が、溝口健二監督に乞われて映画『残菊物語』の主役を演じることになったのは1939年(昭和14年)のことである。同作は、美男で鳴らした明治の名役者・二代目尾上菊之助の悲恋を描く実録物だが、その美形の菊之助を当代きっての美貌の女形・花柳に演じさせるというのが溝口の企みだった。しかし花柳にとってはこれが初めての立役であり、彼は立役をつとめることの難しさをここで痛感する。美貌の花柳は確かに絵にはなるかもしれないが、立役としてはどうにも様にならないのだ。その花柳が漏らした「なりたいのは羽左衛門」という言葉には、同じ美形でもその芸の奥深さがまったく違った十五代目羽左衛門に対する溜め息ともとれるような憧憬が言い表されている。


実際に、観客はいつも羽左衛門に白塗りの二枚目を期待し、羽左衛門はいつもその期待に応えて彼らを魅了していた。それが故に、善く言えば「永遠の前髪役者」、少々意地悪く言えば「何をやつても羽左衛門」などという、要するに「その美形が彼の財産」という評判が十五代目には終生つきまとった。しかしそれが決して「見映えだけで芸がない」という意味にはならないところが十五代目の真骨頂だった。立役であろうと悪役であろうと敵役であろうと、羽左衛門がつとめる役どころにはどこか晴れ晴れとした明るい魅力を感じさせるものがあった。それが十五代目の天性に拠るものだったのか、あるいはその完成された芸に拠るものだったのかは意見が分かれるところだが、いずれにしてもそれが他に例を見ない天下一品のものであることは誰の目にも明らかだった。里見弴が十五代羽左衛門目を「天才を超えた天品」と評したのはこのことを端的に表現したものである。


その美形に加え、美貌と高音の利いたさわやかな調子のよさが特徴的だった所演の役どころは、どれも傑作ばかりで、今なおその芸風は梨園の語りぐさとなっている。特に六代目尾上梅幸を相方とした演目は名高い。

詳しいことは、「十五代目・市村羽左衛門ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%91%E7%BE%BD%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80_(15%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)


416 十五・市村羽左衛門

⇧ 十五代目・市村羽左衛門

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上 真行(うえ - さねみち)     
嘉永4年~昭和12年2月28日(1851-1937)


雅楽家。

父、上真節。小学唱歌を編纂し、唱歌「一月一日」を作曲(作詞:千家尊福(せんげたかとみ))。


師範学校・女子師範学校・学習院で教鞭を執る。

のち、東京音楽学校教授。唱歌教授創始の先駆者。


大正6年(1917)宮内省楽部楽長。

正倉院の楽器および雅楽の調査に参画し、大きな実績を残す。


また、漢詩家でもあり、号を夢香と名乗る。


上京し、はじめ大沼枕山の影響を受け、のち岩渓裳川の影響を受けるようになり、明誌の風尚に加え、袁随園の性霊主義を取り入れ、格調高い作詞をした。


誌は「花月新報」、「桂林一枝」に寄稿。福井学圃の「涵詠吟社」・「随鴎吟」に参加し、江木冷灰の「◇◇会」で常連となる。

正八位。87歳没。


作曲:「日本男児」、「学の力」、「謡ひて謝せよ」、「かたみの琴」、「あられ」、「旅の後」、「山陵」、「父の墓」、「故郷の文」、「自然の友」、「あすは千里」、「朝ぼらけ」など。


 「一月一日」
一、年のはじめの 例とて、終なき世の めでたさを、松竹たてて、門ごとに いはふ今日こそ たのしけれ。
二、初日のひかり さしいでて、四方に輝く 今朝のそら、君がみかげに 比へつつ 仰ぎ見るこそ たふとけれ。


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秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日1859年2月9日)- 昭和5年(1930年11月4日)は、日本陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市に戻り、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を死去の半年前まで務めた[1]


陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞された。日本騎兵の父と呼ばれている[2]


連合艦隊先任参謀として、日本海海戦の勝利に貢献したとされる秋山真之は実弟。

年譜
安政6年(1859年1月7日1859年2月9日):伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100文に相当[3])にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。

明治8年(1875年):納金不要で月に8円の学費を支給される[2]、官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)に入学[1]。なお、2012年現在、大阪教育大学には、大阪師範学校に秋山が在籍したことを確認できる資料はない[4]

・明治9年(1876年)7月:官立大阪師範学校卒業[1]。第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)を経て愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)に勤務[5]

・明治10年(1877年)5月:教職を辞し[注 1]陸軍士官学校(旧3期)入校。

・明治12年(1879年12月23日:陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉東京鎮台に配属される。

・明治13年(1880年

 ・2月28日:東京鎮台騎兵第1大隊付となる。

 ・3月22日:秋山家の家督相続(病床の長兄・則久の代替)。

 ・6月5日正八位に叙位。

 ・7月2日:東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動。

・明治16年(1883年

 ・2月28日:任陸軍騎兵中尉

 ・3月16日:陸軍士官学校騎兵科教官に異動。

 ・4月7日従七位に昇叙。

 ・4月9日陸軍大学校(1期)入校。

・明治18年(1885年12月28日:陸軍大学校卒業。参謀本部勤務。

・明治19年(1886年

 ・4月12日東京鎮台参謀に異動。

 ・6月2日:任陸軍騎兵大尉

・明治20年(1887年7月25日サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。

・明治23年(1890年12月19日:父・久敬が松山で死去。

・明治24年(1891年

 ・12月13日:帰国。

 ・12月26日:騎兵第1大隊中隊長に異動。

・明治25年(1892年

 ・4月27日:陸軍士官学校馬術教官に異動。
 ・11月1日:任陸軍騎兵少佐

・明治26年(1893年

 ・1月11日従六位に昇叙。

 ・4月2日:佐久間多美と婚姻。

 ・5月5日:騎兵第1大隊長に異動。

・明治27年(1894年):日清戦争に従軍。

・明治28年(1895年5月10日:任陸軍騎兵中佐

・明治29年(1896年

 ・3月24日正六位に昇叙[6]

 ・8月15日陸軍乗馬学校長に異動。

・明治30年(1897年

 ・10月11日:任陸軍騎兵大佐

 ・10月30日従五位に昇叙。

・明治31年(1898年10月1日陸軍騎兵実施学校長に異動。

・明治32年(1899年10月28日陸軍獣医学校長を兼務。

・明治33年(1900年7月17日第5師団兵站監に異動。

・明治34年(1901年

 ・5月30日:軍司令官・山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に異動。

 ・7月4日:清国駐屯軍守備司令官に異動。

・明治35年(1902年

 ・6月21日陸軍少将に昇任。

 ・10月20日正五位に昇叙。

・明治36年(1903年)4月2日:騎兵第1旅団に異動。

・明治37年(1904年):日露戦争において、騎兵第1旅団長[7]として出征し、第2軍に属して、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。

・明治38年(1905年6月19日:母・貞死去。

・明治39年(1906年

 ・2月6日:騎兵監

 ・4月:金鵄勲章功2級受章。

・明治40年(1907年)11月11日:従四位に昇叙。

・明治42年(1909年8月1日:任陸軍中将

大正元年(1912年)12月28日:正四位に昇叙。

・大正2年(1913年1月15日第13師団長に異動。

・大正4年(1915年2月15日近衛師団長に異動。

・大正5年(1916年

 ・1月31日従三位に昇叙。

 ・8月18日朝鮮駐剳軍司令官に異動。

 ・11月16日:任陸軍大将

・大正6年(1917年8月6日:軍事参議官に異動。

・大正8年(1919年

 ・3月10日正三位に昇叙。

 ・5月12日:馬政委員会委員長に異動。

・大正9年(1920年)12月28日:教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。また、軍事参議官を併任。

・大正12年(1923年

 ・3月17日予備役に編入(元帥位叙任の話もあったが本人が固辞した)。

 ・4月30日:特旨をもって従二位に叙位。

・大正13年(1924年)4月:私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)校長就任。

・大正15年(1926年)地元愛媛県教師、井上吉利らとともに、手嶋俊郎遺著『大陸ローマンス』を出版[8]

昭和5年(1930年

 ・4月9日:老いに勝てなくなったことや、同郷の後進である白川義則陸軍大臣などの心配もあり、校長を辞任[9]。その後も学校理事として松山に住む。

 ・7月:帯広牧畜事業を視察する為松山を発つも、東京で左足の痛みが酷くなり動けなくなる。糖尿病と壊疽の初期段階と診察される。

 ・11月1日:左足を切断する手術を行なったが、既に腐敗菌が左足以外の細胞にもまわり、手遅れとなる。

 ・11月4日:士官学校同期の本郷房太郎が見舞い、言葉を交わす。これが最後の好古と言葉とされる。午後7時10分、糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校に於いて薨去。享年71。

 ・11月10日葬儀青山斎場で執り行われる。日本赤十字社社長である徳川宗家16代当主公爵徳川家達が参列し、「本社は日本赤十字社東京支部特別社員陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君の薨去を聞き哀悼の情に堪えずここに社員253万7千余人に代わり弔詞を贈る」と弔辞を述べた[10]。墓所は東京港区の青山霊園1-イ-19-2-1。なお、有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨された。

詳しいことは、「秋山好古ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%A5%BD%E5%8F%A4
(wikiより)


414 秋山好古

⇧ 秋山好古

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九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎天保9年10月13日1838年11月29日) - 1903年明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号成田屋定紋三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。


五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。


その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。


修業時代
七代目 市川團十郎の五男で、生後まもなく河原崎座の座元・六代目 河原崎権之助の養子になり三代目河原崎長十郎を襲名する。義父母とも長十郎の将来のためにと、幼い時より踊りや三味線、さらに書道や絵画なども学ばせた。


朝早くから夕方まで休みなしで稽古をつけられ、夜は早いうちに寝るという手厳しいもので[1]、後に九代目自身がこの当時のことを、「体が自分のものになるのは便所に入っている時くらいのものだった」と語っている。丈夫な体が自慢だった実父の七代目 團十郎もさすがにこれを心配して意見したが、義母は平然と「他の子は砂糖漬けだが、うちは同じ砂糖漬けでも唐辛子が入ってあるよ」と答えたという。弘化2年正月(1845年2月)、8歳のとき河原崎座『魁源氏曾我手始』の小奴升平実ハ源太丸で初舞台を踏む。


雌伏の時代
嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎を襲名する。その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった[2]


その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評。『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ。
明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。


しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。


飛躍の時代
市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。


文明開化の時代にあって、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、明治10年代(1877年 - 1886年)には学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになる演劇改良運動となった。しかし観客の支持は得られず、興行的には散々で、負債[3]の埋め合わせために地方回りをすることもたびたびあった。それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。


1887年(明治20年)には明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。この天覧歌舞伎は外務大臣井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも伊藤博文松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。


1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場。この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた。またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32〜40種も撰している。


晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門五代目 中村歌右衛門初代 中村鴈治郎七代目 松本幸四郎六代目 尾上菊五郎初代 中村吉右衛門などの有望な若手を育てた。

江戸歌舞伎の宗家として

九代目は、荒事から和事、立役から女形と、幅広い役柄をこなし、舞踊に秀で、その所作も口跡も優れたものだった。『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『勧進帳』の弁慶、『博多小女郎浪枕』の毛剃、『』の鎌倉権五郎、『助六所縁江戸櫻』の花川戸助六、『天衣紛上野初花』の河内山宗俊、『侠客春雨傘』の大口屋暁雨、『菅原伝授手習鑑』の菅丞相・松王丸・武部源蔵、『一谷嫩軍記』の熊谷直実、『増補桃山譚』の加藤清正、『伽羅先代萩』の仁木弾正・政岡・荒獅子男之助、『鏡山旧錦絵』の岩藤、『本朝廿四孝』の八重垣姫、『妹背山婦女庭訓』の大判事・お三輪、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の鬼一。舞踊では『鏡獅子』『素襖落』など、当り役も数多い。これらの演目のほとんどで、九代目が完成した型が今日の演出の手本となっている。


見た目の派手さよりも内面性を重視した演技で、役になりきるばかりか、その精神までを押さえた写実的な巧さには 多くの逸話や証言がある。一例をあげれば、多くの舞台を同じくした中村鷺助の証言に、五代目菊五郎が殿様役で出ても、あくまで芝居流に頭を下げるが、團十郎が殿様に出て「『皆の者、毎日の出仕大儀ぢやなう』と言葉をかけられると、これは何だか、本当のご主君に礼を言って貰ったやうな心地がして、『ハゝア』と自然に頭が下がる。」というのが残されている。[7]


謹厳実直な性格だが、釣りを唯一の趣味とし、そのために別荘を茅ヶ崎に置いた程である。それでも釣りの服装は白木綿の手甲脚絆に目ばかり頭巾と定め、船中でも背筋を伸ばして釣りをするなど芸の修養として見ていた。船に乗り合わせた弟子たちが思い思いの姿勢で釣りをしていると「針一つ垂れるにも、端座しなければお前たちの姿勢を魚が侮るぜ。舞台に立つ時も同じだ。踊るにも釣りをするにも、その姿がきちんとしていなければ、その芸も魚も君たちの心のままにならないよ。気をつけなさい。」と説教した。晩年はそのほかに猟銃による鳥撃ちも趣味に加わったらしく、茅ヶ崎の別荘に預けられた丑之助時代の六代目菊五郎が、團十郎の猟銃を勝手に持ち出して雁を仕留め、それがばれて大目玉を喰らったが、説教の最後に「ところで、その雁はどこにいた?」と聞かれたという、ユーモラスなおちが伝わっていた[8]


なお九代目が五代目菊五郎とつとめた『紅葉狩』は記録映画に残され、今日でもその芸を見ることができる。


九代目團十郎と五代目菊五郎はともに1903年(明治36年)に死去した[9]。團十郎の最後の舞台は同年5月の歌舞伎座、福地桜痴作『春日局』の春日局、家康二役。9月13日午後3時15分、持病の腎不全による尿毒症に肺炎を併発し、茅ヶ崎の別荘・孤松庵にて死去。市村家橘の15世市村羽左衛門襲名披露興行が翌10月、歌舞伎座で予定されており、團十郎は口上のほか、「一谷嫩軍記」の熊谷、桜痴の新作活歴「小楠公」に出演予定であったが、ついに再起はならなかった。なお、通夜の際、デスマスク制作がます夫人(1931年[10])に許可されなかったため、代わりに急遽、洋画家長原止水がガラス張りの棺越しに死に顔をスケッチし、それが後日、三木竹二主催の演劇雑誌「歌舞伎」の口絵を飾った[11]ほか、死装束で横たわった團十郎を、五代目菊五郎ほか先に死んだ多くの先輩、後輩、友人、芸界関係者の霊が迎えに来ている構図の「死絵」も発売された。葬儀は川上音二郎が一切を取り仕切り、関係者に感謝された。墓所は青山墓地にある。

家族と後継者

九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだったが、自らの後継者となると最後まで恵まれず、そして悩まされた。

 

男子だけでも5男を儲けた子福者の父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは2女のみだった。そこで九代目は門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目市川新蔵養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋お家芸を伝えていた。新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲からも「いずれは十代目團十郎」と期待されるようになっていった。


九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由に恋愛することを推奨するという、当時としては仰天するほど進歩的な考え方を持っていたのも、この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。


ところが1897年(明治30年)、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。眼病で片目を失明眼帯をかけながら舞台を務めていたが、病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。九代目の落胆ぶりは並大抵ではなかった。

それでもあえて長女の二代目 市川翠扇には恋愛結婚を許した。日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職した稲延福三郎というサラリーマンである。しかもこれを婿養子に取るとまでいう。福三郎は一介の銀行員だったが、その父はやがて東京市会議員になるほどの地元の名士で、福三郎の陽性な性格の中にもそうした育ちの良さが感じられた。しかもなかなかの勉強家で、書画骨董の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。そしてなによりも、長女の良き伴侶として文句の付けようがない夫だった。


稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った2年後、團十郎はついに後継者の件についてはなんら手を打つことなく、静かにこの世を去った。

詳しいことは、「九代目・市川團十郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E_(9%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)


411 九・市川團十郎

⇧ 九代目・市川團十郎

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中山右門太(なかやま - うもんた)/中山譲治(なかやま - じょうじ)     
天保10年6月15日~明治44年1月17日(1839-1911)

幕末明治の外交官・実業家。

名、譲治。幼名、新太郎。前名、右門太。号、酔古。

父、幕臣瀬戸本太郎。江戸本所石原出身。

6歳で中山誠一郎の養子となる。

安政4年(1857)長崎で英学と蘭学を修める。

文久2年(1862)幕府長崎英学所頭取。慶応元年(1865)横浜の仏蘭西語学所伝習生。のちフランスに渡り兵学を学ぶ。帰国し幕府小十人格騎兵差図役頭取勤方。

明治3年(1870)イタリアへ渡り生糸貿易をする。

明治5年(1872)2月大蔵省4等出仕。5月租税権頭。11月外交に転じイタリア総領事としてイタリアに赴く。

翌年ベネチアに領事館を設け活動を始めるが、明治7年(1874)3月には廃館となり10月に帰国。12月イタリア政府から勲三等を叙せられる。

明治8年(1875)宮内省5等出仕。

明治9年(1876)宮内権大丞。

明治10年(1877)辞官。

明治18年(1885)ハワイ国政府の招聘を受け日本移住民監督総官。

明治19年(1886)ハワイ皇帝からナイト コンマンドル クラウン オブ ハワイ勲章を贈られる。

明治28年(1895)帰国し、東洋移民合資会社を設立。

明治29年(1896)東京建物(株)監査役。明治44年(1911)日暮里の自宅で慢性気管支炎カタルで没する。73歳。妻は、富永冬樹の妹益(明治11年2月4日没)。

 幕府長崎英学所:江戸時代に唯一日本と交易をしていたオランダが英米に対して衰退し、ペリー来航など急きょ英語の使える人材が必要となり、安政5年(1858)7月長崎奉行支配組頭・永持亨次郎の岩原屋敷(現在の県立美術博物館辺り)内の官舎に「英語伝習所」が開設された。


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中山誠一郎(なかやませいいちろう) 
?~明治14年4月22日(?-1881)


国定忠治を召し捕った関八州取締出役。


嘉永3年(1850)8月24日未明、国定忠治を上州田部井村(伊勢崎市田部井町)の庄屋西野目宇右衛門邸の納屋で妾のお町の看病を受けているとき(脳溢血で足が不自由だった)捕縛し、江戸に送る。


のち、甲府代官・甲府奉行。

維新後は、横浜に住む。


三井財閥の益田孝男爵とは、親戚関係にある。


息子(下記)の譲治の妻益は、大審院判事の富永冬樹の妹であるが、もう一人の妹栄は、益田孝の妻である。


 関八州取締出役:江戸時代には、武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国の関東八国を関八州と呼んだ。

この地域は、大名直轄地・幕府直轄の天領・旗本直轄地が入り乱れてあり、犯罪捜査の追跡が困難で、犯罪の温床であった。

これを解決するために勘定奉行を総元締とした関八州取締出役を設置。

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松岡 万(萬)(まつおか よろず/つもる/むつみ、天保9年(1838年) - 明治24年(1891年3月17日)は、日本武士幕臣駿府藩士)、警察官

経歴
鷹匠組頭の家に生まれる。勤王思想(尊王攘夷)に共鳴して勤王の儒学者頼三樹三郎に師事し、頼が安政の大獄で処刑された際には、刑場から片腕を盗み取って神棚に供えたといわれる。


その後、清河八郎が尊王攘夷を唱えて結成した虎尾の会に入会し、浪士組(のちの新徴組)の隊士募集に尽力、剣術の腕前も高く評価され、浪士取締役の一人となる。


明治維新
後、謹慎中の徳川慶喜水戸藩から駿府藩に移されることになり、松岡は精鋭隊(のち新番組と改名)の隊長として隊士50人余を率いて清水港から宝台院まで警護した。


咸臨丸
が清水港沖で新政府軍に攻撃された(咸臨丸事件)際には、海に放置された敵兵の戦死者を埋葬した清水次郎長を取り調べる立場にいたが、次郎長の「に敵味方もない」という言葉に、何も咎めなかったという。


松岡は駿府藩の水利路程掛に就任し、元精鋭隊頭の中條金之助らと牧之原開墾新門辰五郎と共に製塩事業にも尽力した。やがて、村民の間で水利権をめぐる争いが起きたが、松岡はこれを公平に解決。のちにその功を讃え、池主神社が建立され、現在も神として毎年祭礼が行われている。


明治8年(1875年)に上京し、警視庁の警察官となった。


明治24年(1891年)3月17日没、享年54。戒名は「孤松院安息養気不隣居士」。盟友・山岡鉄舟(鉄太郎)が建てた全生庵東京都台東区谷中)に眠る。

参考文献
蒲生重章「松岡萬傳」:『近世偉人傳・二編』(明治11年(1878年))より

関連項目
幕末の人物一覧

次郎長三国志 (1991年のテレビドラマ)

外部リンク

〜回天の魁士 清河八郎〜……山形県庄内町のサイト。清河八郎関係人物録に松岡万についての説明がある。

磐田市 磐田文化財だより 第60号
(wikiより)


418 松岡萬

⇧ 松岡萬

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三代目 中村仲蔵(さんだいめ なかむら なかぞう、文化6年9月9日1809年10月17日) - 1886年明治19年)12月24日)とは、幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号成雀屋舞鶴屋。俳名に秀雀・舞鶴・秀鶴など。


江戸日本橋住吉町に生まれる。幼名富太郎。父は元足軽から浅草の宿屋の番頭を務めた人物で、母は舞踊志賀山流家元の三代目志賀山せい。父の死後振付師の修業に入ったが、文化11年(1814年)の冬、歌舞伎役者の五代目中村傳九郎に入門し、中村鶴蔵の名で文政元年(1818年)11月、江戸中村座『伊勢平氏摂神風』で初舞台を踏む。その後江戸や地方の舞台で修業を続け着実に力をつける。『曽我の対面』の並び大名をつとめたときに、七代市川團十郎から衣紋をきちんとたたんで心がけが良いと褒められた逸話が残っている。


脇役として師匠や四代目中村歌右衛門に重宝され、嘉永5年(1852年)に歌右衛門が大坂で死去したときは、遺骨を携えて江戸に帰っている。出世芸は嘉永6年(1853年)、中村座の『與話情浮名横櫛』の蝙蝠安で、生涯の当たり役となった。安政元年(1854年)には実力が認められ名題に昇進。二代目河竹新七の作品で四代目市川小團次の相方を勤め、江戸歌舞伎にはなくてはならない存在となった。慶応元年(1865年)10月、市村座で三代目中村仲蔵を襲名する。


明治以後は長老として重きをなし、九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎と舞台を共にする。一方では後進の指導に当たる。明治19年(1886年)、中村座新築の口上を最後に舞台を引退、ほどなくして没した。


「鰐口」とあだ名されるほどの大きな口で容貌には恵まれなかったが、敵役、老役、所作事に優れ、門閥外から幹部俳優に這い上がった人物である。当たり役は上記の蝙蝠安のほか、『仮名手本忠臣蔵』の加古川本蔵、『村井長庵』の早乗三次、『梅雨小袖昔八丈』の家主長兵衛などがあり、そのほとんどは四代目尾上松助に継承され現在に伝わっている。文才もあり、自叙伝『手前味噌』、句集『絶句帖』などの著作を残している。後妻は四代目志賀山せい。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、中村仲蔵 (3代目)に関するカテゴリがあります。
(wikiより)


410 三・中村仲蔵

⇧ 三代目・中村仲蔵

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碑面の右側に皿回しの図が線描されている。

お伽丸は、昭和初期の、曲芸師である。


〇 お伽丸柳一の碑について
お伽九柳一は、芸名を二つもっていたことでも知られています。

皿廻しの曲芸や記憶術を高座でやるときは一柳斎柳一と云い、一風変わった芸を身につけた芸人として、明治から大正の年代にかけて活躍した人でした。

お伽丸柳一は、本名を渡辺園太郎といって、父は伊東潮花(ちよう)という、寄席の昼間の主任(とり)をとる程の有名な人であったが、倅(せがれ)について堅気(かたぎ)の商売にさせようと、店に奉公にやっても、ものの三日ともたないで、追んでるか、追んだされるかで帰ってくる始末、このようにどこへ行っても勤まらないで、家でゴロゴしていると、お父っあんが、「俺やあなぁ寄席へいかなくちゃあいけねえからてめえは家にいろ。どこへ行っても辛抱できねえんだから。悪いことさえしなけりやあいい。警察のご厄介だけにはなるな。」と云って講釈場に行ってしまう。


当人は飯をくったあとで、茶碗や皿を洗ったあと、皿を箸の先にのっけて、皿を廻したところ、案外皿がくるくると廻るので、面白くなり、結構皿をうまく廻すことができた。誰に教わったことでもなく、流し場で皿洗いしたあと、喜んで皿を廻していると、或る日、立花家橘之助という俗曲の名人が、そのありさまをみて、「国さん おまえうまいねえ 皿廻しの芸で寄席においでよだけど鳴り物がないと芸が映えないからあたしが鳴り物の使い方を教えてあげる」といって、三味線にあわせて皿廻しが一段とひきたった。その後、高座にでるようになったといわれています。


柳一はなかなかの物識りで、本を読むことが好きで、ひまなときに図書館に行って、自分の好む本を読んだりして雑学者らしい人間になった。その豊富な知識は、寄席の芸人としては驚くばかりでした。

そのことが寄席で記憶術という芸をやったことでもわかります。この記憶術は客席に降りて行って高座に背を向けて、鉢巻きで眼かくしをして、寄席の書記が客からもらった題を、たとえば一番太田道潅の本丸といった具合に三十番位までもらい、書記が一番から三十番まで「なん番、鮎の塩焼き」といった具合に読みあげる。

柳一はそれを頭に記憶していて、客が十番の題は、というとすらすらその題名をあてる不思議な記憶力の能力をもっていた。

この記憶力は柳一だけしかできない芸で巷の評判になった。或る時、銀行家の安田邸で園遊会があり大正天皇がまだ皇太子であったとき、この園遊会に出御したとき、一柳斎柳一もこの席で公演をたのまれ、記憶術を皇太子の前で披露しました。

その時の題に、第8番 太公望秀吉という題が出た。客が8番といったとき柳一は、清水に釣糸を垂れ 矢矧(やはぎ)の橋に眠る とすらすらと答えたが、司会者は題名がちがうのでそれをただすと、大正天皇がそれでよいと拍手を送ったとのことでした。一柳斎柳一があえて太公望秀吉といわなかったのは、中国の故事で、清水のほとりで釣りをしていて、見出だされた中国の呂尚宰相の故事を柳一が知っていて、題名に艶(つや)をもたせて答えたからである。大正天皇もその故事を知っていたからであろう。(柳一という芸人~林家彦六参考)このように柳一の知識はそれほどの教養をいつしか身につけていたのです。

こうした豊富な知識をもっていたことから、巌谷小波(いわやさざなみ)先生のお伽噺会の会員にもなっており、この会で公演するときは、お伽九柳一の名で演じていました。このように小波先生をはじめ曽我廼家(そがのや)十郎、生物また、学者の南方熊楠(みなみかたくまつくす)先生とも交際があったことでも知られています。

昭和4年2月7日64歳で亡くなりましたが、昭和9年の春 巌谷小波先生が発起人になって、本法寺にお伽九柳一の碑が建立されました。

お伽九柳一の碑をみると、その中央にお伽九柳一の碑と筆太な達筆の字が書かれており、そのすぐとなりに小文字で関東大震災の時として…
   
  -秋あっし 呑まんとすれば 毒の水-     という句が記されています。

この句意は、関東大震災のときに、当寺の付近でも上野の山へ避難民が命からがら集まってきましたが、東京の下町はことにひどく、このため水道の水は断水していましたが、こうした大震災のときは、災害の不安から、種々の流言蜚語が乱れ飛んでいました。生きるるため飲料水が無いと生きてけないこともあり、上野東照宮ちかくの井戸水を飲もうと避難民が井戸端にくると、この井戸には毒がはいってるから飲むな、ということが避難民に伝わり、折角生きるため水も飲めない有様でした。

おしらく、お伽九柳一も大震災のとき、この苦難を経験したと思われます。

それが17文字の句となって、この世相を詠ったのではなかろうか。当時の大震災に苦労した世相のきびしさが、この句にはにじみでています。一茶の俳句にちかい、なかなか大震災の世相をうがった句で、この碑を建立した発起人達も、この句をお伽九柳一の代表作としてこの碑に刻んだと思われます。


碑の裏側にこの碑の発起人達の名が記されていますが、この氏名をみると文化人や学者、当時有名な女優の名もその中に在り、お伽九柳一の交際のひろさがわかる気がします。発起人の碑には次の方々です。

巌谷小波、石川木舟、服部感夫、花柳徳輔、高峰築風、高畠華宵、久保田金倦、栗島すみ子、野村元基(野村無名庵)久留島武彦、安倍季雄、天野雅彦、笹野豊美 以上十三名


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正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日慶応3年9月17日〉 - 1902年明治35年〉9月19日)は、日本俳人歌人国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに(のぼる)と改めた。


俳句短歌新体詩小説評論随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

経歴
伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。


1872年
明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け[注釈 1]、政談にも関心を熱中したという。


1880年(明治13年)、旧制松山中学(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。


松山中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石南方熊楠山田美妙らと同窓。


大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた[注釈 2]。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」[注釈 3]と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。


短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫長塚節岡麓らにより短歌結社アララギ』へと発展していく。


やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。


同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市虚子記念文学館に収蔵されている。

年譜

※日付は1872年までは旧暦
1867年慶応3年)9月:伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚の長男として生まれる。

1868年明治元年):湊町新町に転居

1872年(明治5年)4月:父・常尚が死去

1873年(明治6年):寺子屋式の末広学校に通う

1875年(明治8年)

 ・1月:勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校

 ・4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ

1878年(明治11年):初めて漢詩を作り久明の添削を受ける

1879年(明治12年)12月:勝山学校卒業

1880年(明治13年)3月:松山中学(現・松山東高)入学

1883年(明治16年)

 ・5月:大学予備門受験のために松山中学を退学

 ・6月:東京へ出る

 ・10月:共立学校(現・開成高)入学。

1884年(明治17年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学。俳句を作り始める

1887年(明治20年)7月:松山三津浜の宗匠、大原其戎を訪れ句稿を見せる。この年、其戎の主宰する「真砂の志良辺」に俳句が掲載される

1888年(明治21年)

 ・7月:第一高等中学校予科卒業

 ・9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る。
1889年(明治22年)

 ・4月3日 - :常磐会の友人と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を行う[2]

 ・5月:喀血。初めて「子規」とす。

1890年(明治23年)

 ・7月:第一高等中学校本科卒業

 ・9月:帝国大学文科大学哲学科入学

1891年(明治24年)1月:国文科に転科

1892年(明治25年)

 ・10月:退学

 ・12月:日本新聞社入社

1895年(明治28年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血

1896年(明治29年)1月:子規庵で句会

1898年(明治31年)3月:子規庵で歌会
1900年(明治33年)8月:大量の喀血

1902年(明治35年)9月:死去。満34歳。東京都北区田端の大龍寺に眠る。

  辞世の句糸瓜咲てのつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

人物

・英語が苦手だった。試験の際にカンニングをしたことがある。"judicature"の意味がわからなかった子規が隣の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「法官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、その「隣の男」は不合格になったという。[3]

・松山に漱石が居た時に鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。

・子規が東京帝国大学入学後哲学専攻をやめたのには理由がある。夏目漱石の親友[4][5]に米山保三郎[注釈 4][6][7]がおり、会話をして驚嘆して諦めたという。

「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん。」と言ったという[8]

・本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる[9]。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。

・同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った。(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)

・「柿くへば・・」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。

・子規没後の正岡家が描かれる後日談的な作品に『ひとびとの跫音』がある。

子規と野球
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。

子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら彼が他のスポーツにはまったく関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」とよんだほどであった[11]

1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)[12][13]

十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。

自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある[14]。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳した4年前の1890年(明治23年)だが、読み方こそは異なるが「野球」という表記を最初に発案した。ただしこれは野球に対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると[15]

ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え。

とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない(野球も参照のこと)。また「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され子規は2002年平成14年)、野球殿堂入りを果たした。ちなみに正岡子規の出身である愛媛県には、子規の野球好きにちなんで、野球資料館『の・ボールミュージアム』 がオープンしている。

詳しいことは、「正岡子規ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F
(wikiより)

405 正岡子規

⇧ 正岡子規

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⇧ 正岡子規墓

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⇧⇩  正岡子規の母、八重さんの御墓です。

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⇧⇩ 正岡子規の妹、律さんの御墓です。 

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裏千家六泰叟宗室 六閑斎
( 1694年 - 1726年 8月 28日 )

宗安と称した。


江戸時代の裏千家家元、若くして茶道を極めたが、享保 10年に 33歳の若さで死去した。


その墓は後に京都に改葬されたが、その後東海寺の墓の所在がわからなくなった。


昭和 42年に裏千家の人々が東海寺の墓地で草むらに埋もれた墓を発見し、今に至っている。

〇 裏千家
裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派である。


裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。


特徴
三千家の点前作法は基本的によく似通っているが、心得が無くてもわかる比較的目立った違いをいくつか挙げる。


・裏千家は薄茶をよく泡立てる。表千家、武者小路千家では泡をあまり立てない。


・裏千家の茶筅は白竹のものである。表千家では煤竹を、武者小路千家では胡麻竹(染み竹)を用いる。


・菓子器は裏千家が蓋なしのいわゆる鉢、表千家と武者小路千家は蓋付きのすなわち喰籠(ジキロ)を使う。


・近年の話だが道具の箱の紐色が裏は深い緑、表が黄、武者小路が茶と紺である。


・女性の袱紗(ふくさ)は表千家は朱無地だが裏千家は赤または朱無地のどちらか、男性は紫無地が主流である。

詳しいことは、「裏千家ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%8F%E5%8D%83%E5%AE%B6
(wikiより)

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初代 中村 吉右衛門(しょだい なかむら きちえもん、1886年明治19年)3月24日 - 1954年昭和29年)9月5日)は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号播磨屋定紋揚羽蝶、替紋は村山片喰大向うからの「大播磨」(おおはりま)の掛け声で知られた。

来歴
東京浅草象潟町(浅草寺の裏手)生まれ。三代目中村歌六の次男で、本名、波野辰次郎[注釈 1]。弟に三代目中村時蔵十七代目中村勘三郎、娘婿に初代松本白鸚がいる。


1897年(明治30年)、母方の祖父である芝居茶屋萬屋吉右衛門に因んで初代中村吉右衛門の名で初舞台を踏み、終生その名で通した[注釈 2]。 子供歌舞伎の中心として初代助高屋小伝次、初代中村又五郎らとともに将来を嘱望され、九代目團十郎の保護を受けた。長じて1908年(明治41年)、六代目尾上菊五郎と共に市村座専属となり、若手の歌舞伎役者として人気を博した。1911年(明治44年)に文学者・小宮豊隆が「中村吉右衛門論」を「新小説」に発表したほどで、知識人の間にも支援者が多かった。市村座では菊五郎との共演が評判を呼び、「菊吉時代」「二長町時代」を築いた(下谷区二長町に市村座があった)。


1921年
大正10年)、市村座を脱退。のち松竹に移籍。父歌六ゆずりの上方風の芸風に九代目市川團十郎系の近代的な演技をくわえ、丸本物と生世話物の立役、道化役、さらに上方狂言まで得意とするなど芸の幅も広く、菊五郎とともに当代の名優と称され今日の歌舞伎に大きな影響を残した。父を亡くし孤立無援であった六代目中村福助を抜擢、六代目中村歌右衛門を襲名させ昭和を代表する名女形に育て上げたのも大きな功績である。


1947年(昭和22年)日本芸術院会員。1951年(昭和26年)に文化勲章を受章した。さらに1953年(昭和28年)11月、東京歌舞伎座において昭和天皇香淳皇后ご臨席による天覧歌舞伎で「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」の佐々木盛綱を演じ、名実ともに戦後歌舞伎の頂点を成し晩節を飾った。

墓所は青山霊園

当り役

吉右衛門の当り役は極めて多い。以下主要なものを挙げておく。

1:丸本時代物

・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷直実

・『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸と武部源蔵

・『妹背山婦女庭訓』(妹背山)の大判事清澄、漁師鱶七実ハ金輪五郎

・『平家女護島』「俊寛」の俊寛

・『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、桃井若狭之助、加古川本蔵

・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱

・『絵本太功記』「十段目尼ケ崎閑居」(太十)の武智光秀

・『ひらかな盛衰記』「逆櫓」の樋口次郎

・『梶原平三誉石切』(石切梶原)の梶原平三

・『奥州安達原』(袖萩祭文)の桂中納言則国実ハ安倍貞任


2:生世話物

・『浮世柄比翼稲妻』「鈴ヶ森」の幡随長兵衛

・『籠釣瓶花街酔醒』「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門

・『天衣紛上野初花』「河内山」の河内山宗俊

・『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)の幡随長兵衛

・『隅田川続俤』(法界坊)の法界坊

・『眠駱駝物語』(らくだ)の紙屑屋

・『佐倉義民伝』の佐倉宗吾

・『塩原多助経済鑑』(塩原多助)の久六

・『松竹梅湯島掛額』「お土砂」の紅長

・『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の日陰町松蔵

・『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の弥太五郎源七


3:丸本世話物・上方狂言

・『伊賀越道中双六』「沼津」の平作

・『夏祭浪花鑑』「鳥居前」「泥場」の團七九郎兵衛

・『恋飛脚大和往来』「封印切」「新口村」の忠兵衛

・『双蝶々曲輪日記』「引窓」の南与兵衛


4:時代物

・『時今也桔梗旗揚』(馬盥の光秀)の武智光秀

・『松浦の太鼓』の松浦鎮信

・『増補桃山譚』(地震加藤)や『二條城の清正』の加藤清正(自他共に認める「清正役者」で特に得意としていた。但し、吉右衛門は地震加藤が大嫌いだった[1]

人物

趣味は弓道と俳句。弓道は日置流弓道(重藤の位)で、自宅に道場を造るほどであった。高浜虚子の弟子で『ホトトギス』の俳句を嗜んだ。俳号は吉右衛門を使用した。句集『吉右衛門句集』を刊行している。

・新築のガラス障子や秋の雨

・道かへて櫻の道を歌舞伎座へ

・歌舞伎座の中日すぎたり初句会

・温泉の多き土地なり夏芝居

・楽屋にも昔ながらの菖蒲風呂

・幕ごとに汗の衣装を干しに出し

・秋の蚊を追へぬ形の仁木かな

・女房も同じ氏子や除夜詣[注釈 3]

逸話

・熱演型でどんな役でも懸命に演じたので舞台では唾がよく飛んだ。また、役に成りきるときは徹底していて、「熊谷陣屋」の熊谷の扮装で待機していたとき知人に話しかけられても「熊谷が返事できるわけがない。」と言って無視し続けた。

・母かめは、幼い吉右衛門に「お前は成田屋に教えてもらうんだよ。」と叱責し、それまで父歌六のもとに学んでいた芝居の基礎を捨てて無理やり九代目團十郎の下に学ばせるようにした。

・吉右衛門には跡継ぎがいなかった。そこで一人娘の正子は二代目松本純蔵(後の初代松本白鸚)に嫁ぐ際、父に「男の子を二人は産んで、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と約束したところ、果してその通りに男子ふたりを授かった。長男が父方の「幸四郎」をついだ九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)、次男が母方の「吉右衛門」を継いだ当代の二代目中村吉右衛門である。

・正子ははじめ男の子として育てられたが、初潮が出たとき、吉右衛門は「正子に限ってそんなことがあってたまるか。」と激怒した。

山田風太郎の著書・『人間臨終図巻』によると、吉右衛門は医者好きで、ちょっと風邪をひいただけでも「医者を呼べ」と大騒ぎし、挙句の果てには自身の主治医の家の隣に引っ越したほどであった。そのため、梨園では一時期、ちょっとした風邪等の軽い病気に罹ると、「吉右衛門になった」という隠語が使われたといわれる。

・2006年(平成18年)9月、初代吉右衛門生誕120年を記念して、孫の二代目中村吉右衛門や九代目松本幸四郎らによって初めて秀山祭が催された。「秀山」は初代吉右衛門の俳名にちなんだもので、第1回は盛況のうちに成功を収め、以後歌舞伎座九月公演の定番となった。


408   Kichiemon_Nakamura_I_as_Takebe_Genzō

⇧ 『菅原伝授手習鑑』の
武部源蔵


脚注
注釈
1. 初代中村歌六の妻の辰が90歳代まで長生きをしたのにあやかった命名。中村吉右衛門著『吉右衛門自傳』啓明社 1951 pp.15-16
2. 劇場は市村座、狂言は越後騒動、役は若殿仙千代。中村吉右衛門著『吉右衛門自傳』啓明社 1951 p.27
3.浅草神社の境内に句碑が建てられている。

出典
1. 渡辺保 (2012). 増補版 歌舞伎手帳 角川書店 p.359

関連文献

三宅周太郎編 『吉右衛門句集』 便利堂、のち本阿弥書店

小宮豊隆 『中村吉右衛門』 岩波書店、のち岩波現代文庫

山田風太郎 『人間臨終図巻』 徳間書店、のち徳間文庫

永六輔 『芸人その世界』 文藝春秋、のち文春文庫、岩波現代文庫

中村吉右衛門 『吉右衛門自傳』 啓明社

関連項目
秀山十種

外部リンク
歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇 「初代中村吉右衛門」 - 歌舞伎 on the web
(wikiより)


408 初・中村吉右衛門

⇧ 初代・中村吉右衛門

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筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日明治5年11月28日) - 1961年昭和36年)2月27日)は、日本法学者神道思想家。専門は公法学法哲学法理学)、憲法学

人物
筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学一高を経て、1897年(明治30年)に帝国大学法科大学卒業(法律学科首席、法科大学卒業生総代)。同期生には美濃部達吉がいる[1]。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケアドルフ・フォン・ハルナックヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。


1903年(明治36年)、帰国と同時に東京帝大教授(行政法第二講座)に就いた。同講座の前任者は穗積八束である。美濃部達吉野村淳治上杉慎吉らと戦前における帝大法科における憲法学、国法学、行政法学、法理学などを担った。筧は、帝大の他にも、明治大学國學院大學海軍大学校などでも行政法・憲法を講じた[1]。退任後は國學院大學教授に就いた。1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで東京商科大学(現一橋大学)で、美濃部達吉の後任として、田上穰治に代わるまで憲法を講じた[2]


長男は筧素彦宮内省総務課長、のち皇太后宮事務主管)で、終戦時には玉音盤を放送局へ極秘裏に運搬した[3]。次男は筧泰彦学習院大学名誉教授)で、父の遺著の編纂を行っている。


主な弟子は、行政法学者の杉村章三郎[4]山田準次郎である。

事物関係論
筧の法理学の根幹を為すのは「事物関係」の概念である。筧は個物が互いに同一物に帰一する関係を「表現関係」、個物がそれ自体独立する関係を「独立関係」とよび、公法理論をこの事物関係で説明した。1934年、政治学者の矢部貞治が筧克彦の還暦記念論文集に寄せた「代表の社會的基礎」杉村[編]『筧教授還暦祝賀論文集』有斐閣、1934年は「表現関係」(「表現」)と「独立関係」(「代理」)の間隙に存在する第三の社会関係(「代表」レプレゼンタチオン)を指摘した。

特徴的な国体学説
1912年(大正元年)には、いわゆる「上杉・美濃部論争」が、主としてドイツ憲法学説の輸入学説間の大日本帝国憲法をめぐる分裂抗争の様相を見せている事を暗に批判した筧は、国家・天皇・臣民の「本来の一心同体」「一人の乞食でも之は即国家」を主張。我が国の「建国事実」に還るならば、両説が同じ「普遍我」の表現としての皇国体を学問の対象とする限り、対立の生ずるはずがないと主張した。[要出典]


また昭和10年代には「大生命」において「天皇様と国家の不二一体」と「皇国」の「御主人様」との二側面の合一を皇国体の特徴として指摘している[要出典]。『大日本帝国憲法の根本義』に「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」 「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権にして「大本の力は即国の普遍力」という記述がある。


こうした学説を唱え、国体明徴運動を推進した昭和10年代の筧を評して、同時代人の文学者中島健蔵は「近代政治学から見れば、はしにも棒にもかからない」「神道に基づく祭政一致論」を唱える、「札つきの神がかりの学者」と戦後の著書に記述している。[5]

栄典
1913年(大正2年)1月30日 - 正五位[6]

1918年(大正7年)2月20日 - 従四位[7]

1923年(大正12年)5月10日 - 正四位[8]

1925年(大正14年)1月27日 - 勲二等瑞宝章[9]

1928年(昭和3年)5月17日 - 従三位[8]


著書

・『佛教哲理』有斐閣、1911年

・『法理戯論』有斐閣、1911年

・『古神道大義 皇国の根柢万邦の精華』清水書店、上巻1912年、下巻1915年/筧克彦博士著作刊行会、立花書房刊、1958年

・『国家の研究』清水書店、1913年。春陽堂版、1931年。

・『西洋哲理 上巻』有斐閣版、1913年、清水書店版、1920年。

・『続古神道大義』清水書店、1914年

・『御即位禮勅語と國民の覚悟』清水書店、1916年

・『風俗習慣と神ながらの実習』清水書店、1918年/春陽堂書店、1929年。

・『皇国神典至要鈔』清水書店、1918年

・『皇国行政法 (上)』清水書店、1920年

・『謡曲放下僧及墨付論』清水書店、1920年

・『神あそびやまとばたらき』蘆田書店、1924年

・『神ながらの道』内務省神社局 1925年。「神ながらの道」同刊行委員会 1992年

・『日本體操』筧克彦博士著作刊行会、1929年

・『皇国精神講話』春陽堂書店、初版1930年、改訂版1937年

・『皇国運動』博文館、1934年

・『大日本帝国憲法の根本義』皇學會、1936年/岩波書店、1943年 

・『小石の響』弥栄会、1956年。小冊子、読みは「さざれのひびき」

・『偉聖 菅原道真公』 筧克彦先生米寿祝賀会、1959年

・『謡曲「翁」の精神』筧克彦博士著作刊行会、1961年/以下は遺著。筧泰彦編

・『大正の皇后宮御歌謹釈 貞明皇后と神ながらの御信仰』 筧克彦博士著作刊行会、立花書房、1961年

・『皇学図録』立花書房、1961年

戦後の筧克彦研究

・竹田稔和『筧克彦の国家論構造と特質』(岡山大学大学院文化科学研究科紀要第10号、2000年)

石川健治「権力とグラフィクス」奧平傘寿、2009年

・中道豪一『筧克彦の神道教育:その基礎的研究と再評価への試み』(明治聖徳記念学会紀要 復刊第49号、2012年)

弟子・影響関係

賀屋興宣は、筧の法理学の講義に非常に感銘を受け、筧を「永遠の師」と仰いだ[1]

南原繁 は、筧の講義(国法学)に触れ、「私は先生の思想的発展についてゆくことはできなかったけれども、私がフィロゾフィーレンすること、哲学そのものに興味を持ったのは筧先生の影響です」と述べている[1]

逸話
・研究室には畳を置いた上に神棚を祀り、また大学での講義や文部省主催の講演などを始める際に柏手を打って、「惟神」(かんながら、神道)を説く講義をした[1]。このことから、戦前帝大法科では一種の名物教授として知られていた。

脚注
1. a b c d e 高見勝利 (2001年11月20日). “講座担任者から見た憲法学説の諸相-日本憲法学史序説”. 北大法学論集. 2015年6月19日閲覧。
2. 市原昌三郎「一橋と公法学-憲法学・行政法学」一橋論叢
3. 回想記『今上陛下と母宮貞明皇后』(日本教文社1987年昭和62年))を刊行。また当時の回想をテレビインタビュー等でも行っている。
4. 一木喜徳郎の実子、兼子仁金子宏の指導教官
5. 中島健蔵昭和時代岩波新書、1957年、111~112ページ
6. 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
7. 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。
8. a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A11113822500、叙位裁可書・昭和三年・叙位巻十五(国立公文書館)。
9. 『官報』第3728号「叙任及辞令」1925年1月28日。


参考文献
・田島清 編『信州人物誌』1969年
(wikiより)


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福地源一郎は、天保十二年(1841)、長崎で生まれ、はじめ星泓、のち桜痴と号し、源一郎は通称である。


明治時代前半、「東京日日新聞」(「毎日新聞」の前身)の主筆として筆を奮い、初めて社説を採用するなど、明治のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍した人物である。


源一郎は、二長町(現、台東一・二丁目)、浅草馬道、下谷茅町(現、池之端一丁目)など区内に居を定めた。


茅町にいた時期は、新聞に主権在君論を載せ「立憲帝政党(りっけんていせいとう)」を組織するなどの政治面、また浅草公園の整備に携わる一方で、「幕府衰亡論」「幕末政治家」などの歴史書を執筆し、その業績は現在でも高く評価されている。


明治三十九年一月四日、六十六歳で没す。

墓の正面には「福地源一郎之墓」、側面には本人と妻さと子の戒名が刻まれる。

福地源一郎之墓は、平成七年台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。
(案内板より)

〇 福地源一郎
福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日1841年5月13日) - 明治39年(1906年1月4日)は、幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト作家劇作家・政治家。衆議院議員。幼名は八十吉(やそきち)。号は櫻癡(おうち、新字体:桜痴)。福地 桜痴(ふくち おうち)として知られる。執筆に吾曹子の名を用いて、吾曹先生とも呼ばれた。劇界への影響力から斯界では池之端の御前とも呼ばれた。

生涯
幕府時代
天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町(現在の長崎市油屋町)で儒医・福地苟庵の息子として生まれた[1]。幼時から長川東州について漢学を学び、15歳の時に長崎で通詞名村八右衛門のもとで蘭学を学ぶ。安政4年(1857年)に海軍伝習生矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。文久元年(1861年)には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。


慶応2年(1866年)3月に帰国後、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として蔵米150俵3人扶持を与えられ、旗本の身分に取り立てられたが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽った。


慶応3年(1867年)10月の大政奉還の際には、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出したが、その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としない事などの理由から容れられる事が無かった。

維新後
江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。その後、徳川宗家の静岡移住に従い自らも静岡に移ったが、同年末には東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文山々亭有人等とも交流した。その後下谷二長町で私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開き(後に本郷に移転)、英語と仏語を教えている。


明治3年(1870年)、渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、明治6年(1873年)に一行と別れてトルコを視察して帰国。明治7年(1874年)、大蔵省を辞して政府系の『東京日日新聞』発行所である日報社に入社(主筆、のち社長)、署名の社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。政治的立場としては漸進主義を唱えて、自由党系の新聞からは御用主義、保守主義と批判されたが、政界に親しくした。明治8年(1875年)に新聞紙条例讒謗律が発布された際には、その適用について各新聞社が共同で政府へ提出した伺書の起案を行った。また同年には地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務める。明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向き、山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、現地からの戦争報道を行ってジャーナリストとして大いに名を上げた。この東京への帰途に木戸孝允の依頼で、京都明治天皇御前で戦況を奏上する。


明治11年(1878年)に渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府会議員に当選し、議長となった。明治14年(1881年)、私擬憲法国憲意見』を起草し、また軍人勅諭の制定にも関与した。この年、『東京日日新聞』は1万2千部を発行するようになる。この頃、下谷の茅町の自宅は池端御殿と称されて、多くの招待客が訪れていた。


明治15年(1882年)、丸山作楽水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙等を政治要綱に掲げた。自由党立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した。

演劇・文学活動へ
たびたびの洋行以来、親しい市川團十郎守田勘彌中村宗十郎などと演劇論を語り、新しい演劇に取り組み、明治12年(1879年)にはリットン『マネイ(人間万事金世中)』などフランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥三遊亭圓朝に提供した。その後、演劇改良論を書き始め、明治19年(1886年)の演劇改良会の発起人に加わるなど、次第に演劇改良運動とそれを実践する劇場の開設に執念を燃やすようになる。明治20年(1887年)以後は歴史著作も執筆した。


明治21年(1888年)には官報発行などにより、政府寄りの東京日日新聞は経営不振となり日報社を退社。この年から小説も手を染め、政治小説諷刺小説ロマンス小説歴史小説などを執筆[2]


明治22年(1889年)11月には千葉勝五郎とともに、東京の木挽町歌舞伎座を開場した。福地はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者となって活歴物新舞踊などの脚本を多数執筆し、市川團十郎らがこれを演じた。代表作には『大森彦七』『侠客春雨傘』『鏡獅子』『春日局』などがある。


明治24年(1891年)から条野採菊の『やまと新聞』に小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格となって評論活動を続ける。


明治36年(1903年)に團十郎が死去すると舞台から手を引き、翌年の第9回衆議院議員総選挙東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、この時には既にかつて福澤諭吉と並び称されたような社会的影響力は失われていた。明治39年(1906年)、議員在職中に死去、享年66。葬儀は増上寺で行われ、谷中霊園に葬られた。

人物・逸話
・文久3年(1863年)、小笠原長行の入京クーデター計画に関与していたが、事件の首謀者である水野忠徳の機転により、処罰を免れている。

・明治8年(1875年)1月14日の紙面で「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載し、これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。

・明治34年(1901年)2月の福澤諭吉の死によせて書いた記事「奮友福澤諭吉君を哭す」(日出國新聞 2月5日)は、福地の文章の中でも会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。福澤の死の際に両者の人物が比較され、福地は才において優る。しかし意思の強固さでは福澤が数等上であると評された。

・遊び好きであり、吉原大門に「春夢正濃 満街櫻花 秋信先通 両通燈影」の揮毫をした。

・芸妓を落籍させて妾としていたが、やがて肺病で死去。看病中、彼女が懐中時計の蓋を開閉する際の音が好きだったため、時間の許す限り時計の開閉を続け、彼女が亡くなった際、枕元には蓋の壊れた懐中時計が、20個以上並んでいた。

詳しいことは、「福地源一郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)


406 福地源一郎

⇧ 福地源一郎

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溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本映画監督


女性映画の巨匠[3]と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。


来歴
生い立ち
1898年(明治31年)5月16日東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる[2][4]。3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男[注釈 1]がいる。父の善太郎は大工[6](屋根葺き職人[7]、請負業とする説もある[注釈 2])で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった[6]


1905年(明治38年)、私塾の田川学校に入学[6]。一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される[8]。寿々は養家から日本橋の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、半玉となり、客の松平忠正子爵[注釈 3]に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた[2][9][6]1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。6年生の時、盛岡薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した[10][7]1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病していた[6][10]


1913年(大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に大久保忠素がいた[6][11]。その後浜町の模様絵師に弟子入りし[10]1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所(黒田清輝主宰・和田三造塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ[6]。この時、研究所近くのローヤル館ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった[2]。また、この頃から落語講談などの江戸趣味に凝り始め、トルストイゾラモーパッサンなどの外国文学や、尾崎紅葉夏目漱石泉鏡花永井荷風らの本を読みあさっていた[6][2]


1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った[6][11]1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。


日活時代

1920年(大正9年)、友人の琵琶の弟子だった日活の俳優・富岡正と親しくなり、日活向島撮影所に出入りするうち、若山治の知遇を得、同撮影所に入社した[6]。俳優志願で入社したが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当した。


1923年(大正12年)2月、若山のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たしたが、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開したという。同年だけでも11本の監督作を発表しており、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』や、ルパンを翻案した探偵劇『813』、表現主義風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作っている。同年9月1日関東大震災が発生。その影響で京都日活大将軍撮影所に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』等の佳作を手がけた。


1925年(大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。しかし、9月には撮影所に復帰した。1926年(大正15年)、『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』などで下町情緒を描き、女性映画で独特の感覚を発揮していった。1927年(昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。



1929年(昭和4年)には、左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』などの傾向映画を作って、リアリズム追求に邁進し、翌1930年(昭和5年)製作の『唐人お吉』は大ヒットした。同年にはパートトーキーの『藤原義江のふるさと』を発表するが、技術的に拙く失敗作となった。

新興キネマ・松竹時代
1932年(昭和7年)、日活を辞めて新興キネマに入社。同社第1作は入江ぷろだくしょんと提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で2カ月間ロケーション撮影を行った[12]国策映画だが、興行的には大失敗した。1933年(昭和8年)、『日本橋』に続く泉鏡花作品の映画化となる『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となった。1934年(昭和9年)の『神風連』を最後に新興キネマを退社して日活多摩川撮影所で『愛憎峠』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。


同年9月、日活を退社した永田雅一が設立した第一映画社に参加。山田五十鈴主演・泉鏡花原作の『折鶴お千』などを経て1936年(昭和11年)、依田義賢とはじめてコンビを組んだ『浪華悲歌』そして、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『祇園の姉妹』を発表し、戦前の代表作となった。同年、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散、溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。


1937年(昭和12年)、日本映画監督協会の2代目理事長に就任し、1955年(昭和30年)まで務めた(1943年(昭和18年)に一旦解散し、1949年(昭和24年)に再結成されている)。


新興キネマでは山路ふみ子主演の『愛怨峡』など3本を撮り、後松竹下加茂撮影所に移って村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」[13]と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。


1941年(昭和16年)から真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作する。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長いスランプ期を経験することになる。

戦後
1946年(昭和21年)、絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で復帰したが、不調が続き、翌1947年(昭和22年)に作った『女優須磨子の恋』も競作になった『女優』(衣笠貞之助監督)に評価が集中し、大惨敗した。


1948年
(昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後に『雪夫人絵図』(舟橋聖一原作)、『お遊さま』(谷崎潤一郎原作)、『武蔵野夫人』(大岡昇平原作)などの文芸映画を作るが、これも低迷した。


1952年(昭和27年)、井原西鶴の『好色一代女』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた絹代主演で『西鶴一代女』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞。海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、彼は長いスランプをようやく脱することが出来たのである。


1953年(昭和28年)、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作『雨月物語』が同映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得 (この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。翌1954年(昭和29年)の『山椒大夫』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。ほか『祇園囃子』『近松物語』等の秀作を生み出した。


1955年
(昭和30年)、大映の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任、重役監督となった[14]11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章[15][16]。この年にカラー映画に取り組み、『楊貴妃』『新・平家物語』の歴史大作を製作した。


1956年
(昭和31年)、売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院した[17]。病名は単球性白血病で、本人には病名を知らせなかった[18]。また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年8月24日午前1時55分[4]にこの世を去った。享年58。


同年8月に青山斎場で大映による社葬が営まれ[14][15]池上本門寺に付属する大坊本行寺に墓が建てられた(隣には溝口の友人の花柳章太郎の墓がある)。京都の満願寺にも分骨されており、そこには記念碑も建てられている。没後、勲四等瑞宝章を受章。1957年(昭和32年)、未完成の『大阪物語』の製作を吉村公三郎監督が引き継いで完成させた。

詳しいことは、「溝口健二ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%81%A5%E4%BA%8C
(wikiより)

404 溝口健二

⇧ 溝口健二

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この碑は、1878年(明治十一)8月23日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためのものである。


事件は東京竹橋にあった、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一つの兵士の叛乱となった、三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。

兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。

徴兵制度への、根本的疑問、明治維新以降の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを駆りたてていった。

生まれ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。


叛乱は鎮圧され、同年10月15日、兵士53名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。

現在の都立赤坂高校正門付近と推定される。


1889年(明治二十二)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により 計56名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。

この墓は、第二次大戦末期の混乱で行方不明になっていたが、100回忌にあたる1977年11月、現在地に移されているのを発見した。


事件の真相は明治政府によって抹殺され埋没せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしてしている。

たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記録として いまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。


この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証しでもある。


1989年10月15日  澤地久枝
(案内板より)

〇 竹橋事件殉難者名簿
1978(明治十一)年10月15日 刑死

・近衛砲兵大隊兵士

浅見綾二郎、伊藤丈三郎、今井政十郎、岩本久蔵、浦塚城次郎、小川弥蔵、門井藤七、金井惣太郎、菊池作次郎、木島次三郎、木村円解、久保田善作、児島万助、是永虎市、近藤租舟、桜井鶴次、笹井常七、佐藤種五郎、沢本久米吉、新熊安治郎、新家仲吉、高橋小三郎、高橋竹四郎、田島盛介、谷新四郎、辻亀吉、堤熊吉、中沢章治、長島竹四郎、永合竹次郎、野中与吉、羽成常助、馬場鉄市、広瀬善市、藤橋吉三郎、布施仙吉、松居善助、松宮弁次郎、松本久三郎、宮崎関四郎、水上丈平、見山今朝治、本橋兼次郎、山中繁蔵、山部七蔵、山本丈作、吉田定吉


・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士

真田兼松、鈴木直次、高見卯助、宮崎忠次、横山昇


・近衛歩兵第二連隊兵士
三添卯之助


1989(明治十二)年4月10日 刑死
・東京鎮台予備砲兵第一大隊下士

平山荊、梁田正直


1878年8月23日 自殺
・近衛砲兵大隊兵士

大久保忠八
(案内板より)


〇 竹橋事件 墓と碑の由来
「旧近衛鎮台砲兵之墓」は、1878(明治十一)年8月23日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士 47名・近衛歩兵第二連隊兵士1名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士5名・同隊下士官2名および事件当夜自殺した近衛砲兵大隊兵士1名の、計56名の墓である。


下士官2名は、翌1879(明治十二)年4月10日になって処刑されたが、兵士53名は事件後2か月足らずの10月15日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。

1889(明治二十二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉・内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたと言う(異説もあって、経緯の詳細は不明)。


たまたま隣接地に住む遺族の、高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも兵士の100回忌に当たる1977(昭和五十二)年、作家・澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。

同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治11年竹橋近衛暴動の真相を追究する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。

その結果、多くの遺族が判明し、1985(昭和六十)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之墓」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」の管理権を、東京都から委譲された。

「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。


墓の右隣の碑(撰文・澤地久枝)は、この事件を、裏面に刻まれた56名の殉難兵士たちの名とともに、日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの110回忌を期として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。


なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死ないし獄死した兵士の内、引き取り手のなかった17名を合葬して1943(昭和十八)年に建てられた(その経緯も不明)。
その中には事件に参加して準流10年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士・市川朝吉、宮崎又作の2名も、含まれている。


1987年10月15日
竹橋事件全国遺族会、竹橋事件の真相を明らかにする会
(案内板より)

〇 竹橋事件
竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動竹橋の暴動ともいわれる。


402   1875Uniform

⇧ 事件の発端となった近衛砲兵大隊の将校ら。左より6人目宇都宮少佐、3人目深沢大尉



背景
動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた[1][2]


7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。 続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触し[3]、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。


近衛鎮台では将校や下士官への不信感から兵卒だけで決起せんとしていたが、東京鎮台予備砲隊では「近頃兵卒は何かと将校を軽蔑する節がある、理非の分別もなく百姓一揆の様な事を起こしては不都合である」との平山火工下長から内山少尉への提案により全隊が決起する予定となり[4]、大隊長の岡本柳之助少佐も決起には絶対反対と言う立場ではなかった[5]。このほか、近衛工兵中隊の第2小隊にも接触が行われているが、彼らは呼応には至らなかった。


を用いて合図を送ったり、「龍興」「龍野」等の暗号、「龍」→「龍起」[6]、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なものであった。


内務省判任官十等属・西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方、神田橋の公衆便所で3人の近衛兵が便所の外で叛乱計画の謀議を行っている事を知り、内務省に立ち戻り大書記官武井守正に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった[7]

事件経過
午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害した。


一方の東京鎮台予備砲隊は、岡本少佐が突如内山少尉の提案を退け静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した[5]


砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第1、第2連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。


この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。


正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。


一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた[5]


同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められた。裁判長は黒川通軌、評事山川浩中佐、権評事伏谷惇および阪元純煕少佐、参座国司順正中佐、西寛二郎少佐、鑑岡信綱少佐、大島久直少佐がつとめ[8]10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長[9]津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった[10]。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。

影響
のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている[11]

詳しいことは、「竹橋事件ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)


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岡本 柳之助 (おかもと りゅうのすけ、嘉永5年8月14日1852年9月27日) - 1912年(明治45年)5月14日)は、紀州藩出身の国粋主義者、大陸浪人陸軍少佐、朝鮮宮内府兼軍部顧問。本姓は諏訪。竹橋事件に関与して官職剥奪。乙未事変を主導[1]辛亥革命が勃発すると上海に渡り、当地で客死した。東光

経歴
紀州藩の世臣・諏訪新右衛門の第二子。江戸藩邸に生まれる。岡本家の養子となり岡本姓を名乗る。幼少より文武の才に富み、15歳で幕府の砲術練習所に学び、16歳で江戸定府紀州藩砲兵頭となり、彰義隊に加わって佐幕派として官軍に抗するがのち敗れて伊勢松坂に送致される。維新後の藩政改革で津田出鎌田栄吉陸奥宗光に見出され、東上して1874年(明治7年)に陸軍大尉となる。1875年(明治8年)の江華島事件の際に朝鮮に派遣された黒田清隆に随行して渡韓。1877年(明治10年)の西南戦争では、大阪鎭台の参謀大尉として山路元治と共に九州各地に転戦。戦後に、功で少佐に進み、東京鎭台予備砲兵大1大隊長となる。


竹橋事件では呼応せんとする部下の内山定吾少尉らに押され、参加。しかし当日の決起直前に突如静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した[2]。しかし、結局は竹橋兵営の隊長として暴動を知りながら上官に報告もせず、暴動勃発後も鎮圧にあたらなかったとして官職を追放される[3]。 これらの行動について、反乱を通して当時西南戦争に関与したとして投獄されていた陸奥宗光を救出しようとしたものの、直前に津田出に諌められ反乱を思いとどまったとの説もあるが[4]、当時津田と面会した事は実証されていない[5]


そして路頭に迷っていた所を、同藩の鎌田栄吉から福澤諭吉を紹介され、門人となる。福澤邸で書生を務めながら、ともに官職を追放された松尾三代太郎慶應義塾に学び、金玉均朴泳孝と親交を深める。次いで日蓮宗新井日薩日蓮主義を研究し、南方熊楠とも親交を持った。井上角五郎らと共に金玉均を追って上海に渡り、次いで大鳥圭介公使や陸奥宗光外相と共に京城に渡り、袁世凱との折衝に努める。陸軍の福島安正とはかり、雲峴宮より大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して朝鮮政府の軍事顧問に就任した。


晩年は支那革命を援助しながら東洋政策の研究と『日魯交渉北海道史稿』・『政教中正論』などを記して北海道史や日蓮仏教の研究などを行った。1912年(明治45年)に清国上海を視察中、急死した[6]


実弟にパリで日本人向けの宿「Hotel Tatruny 」(別名・諏訪旅館)を経営していた諏訪秀三郎(1855-1933)[7]。18歳でフランスへ官費留学ののち陸軍に奉じたが軍を辞めて渡仏、南方熊楠によると下宿屋老寡婦の夫となって宿経営に当たったという[8][9]。日本の舞踏・相撲の興行も企画したが、芸妓等の醜悪な風俗を海外へ出したくない明治政府が許可しなかった[10]。事件か自殺か不明だが、ベルギーの運河で額を銃で撃たれた死体として発見された[11]

乙未事変
1895年(明治28年)、大院君は、岡本が用意したクーデター布告である「国太公告論文」を承認[12]「いざ入城し、キツネを臨機処分せん」として大隊の指揮官に立ち、次に李周会禹範善の訓練隊が続き、時の駐韓公使三浦梧楼と気脈を通じて、一部の志士や朝鮮人訓練隊などと共に10月8日の夜、大院君を擁して王城に乗り込み[要出典]閔妃暗殺された[13]。この事件で退韓命令を受け、広島監獄に収監されたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり釈放された。大院君は、岡本の同行を求めた孫の李垵鎔に対し「お前だけは居残り、万一この挙が失敗すれば日本に亡命し、後日を期せよ」と述べた[12]


東京都大田区池上本門寺に東光岡本柳之助墓がある[14]。法号は大雲院東光日電大居士。墓の裏側には

嘉永五年八月十四日於江戸赤坂和歌山藩邸生
明治四十五年五月十四日於清国上海歿

と記されている[15]

詳しいことは、「岡本柳之助ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E6%9F%B3%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)


401 岡本柳之助

⇧ 岡本柳之助

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金 玉均(キム・オッキュン、김옥균、きん ぎょくきん、1851年2月23日旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者。李朝時代後期の開明派として知られる。は伯温(ペゴン、백온)、は古愚(コウ、고우)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた[1]

略歴

忠清南道公州に生まれる。1872年科挙文科に合格。朴珪寿呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾興亜会に寄食する。1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使朴泳孝らに随行して再度日本を訪れ、留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。

 
金玉均の墓(青山霊園

日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランス清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎[2]らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた[3]


400   日本亡命中の金玉均(1885年)

⇧ 日本亡命中の金玉均(1885年)


日本では外交上の負担として考えていた当時日本政府の立場から東京札幌、栃木県佐野小笠原諸島などを転々とした後、李経方李鴻章の養子、日本淸国公使官)によって李鴻章と会うために上海に渡ったが1894年3月28日、その上海で朴泳孝のみに殺せる李逸直と共にいる閔妃と事大党の刺客(閔泳韶に買収)で袁世凱(朝鮮淸国公使官)の親書を取って見せた洪鐘宇[4]の前に回転式拳銃で暗殺された。金玉均の遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれて凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された[5]


400   洪鐘宇に殺害される金玉均
⇧ 洪鐘宇に殺害される金玉均



諭吉は上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺の住職である寺田福寿に依頼し、福寿はただちに諭吉の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫朴泳孝などを諭吉邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪、衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐の墓もある。さらに犬養毅頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔の書で以下が刻まれている。また千住の勝専寺には金玉均の揮毫による鐘楼再建記念の碑文がある。

嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)[6]

金玉均の妻子については処刑された[8]とも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。後に京城に護送して朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知らなかった。この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』で見ることができる。

金玉均ノ妻女及ビ女子ハ忠清道沃川ヨリ護送セラレテ着京セリ抑モ金玉均ノ妻女ニ付イテハ本春已来屡々探偵ヲ尽シタルモ或イ生存シ居ルト云ヒ或イ殺害サレタリト云ヒ 其説一ナラザリシガ今般 東学党討伐ノ我軍隊ガ沃川近傍ニ於テ該巨魁ヲ捜索中端ナクモ右ノ母子二人ニ探リ当タルニ付(以下略)

著作には『治路略論』、『甲申日録』がある他、書家としての才能も評価されている。


400   小玉
⇧ 金の愛人・杉谷玉[7]


函館の芸者で金玉均の札幌時代に知り合い、金玉均とともに上京した。金玉均が上海へ行ったあとも陰膳をして無事を祈っていたが、金玉均の支援者だった滔天によると、金玉均の葬儀で会ったときはすでに別の男性と再婚していたという。

没後の周辺
金や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)2月23日2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金ら朝鮮開花派の死を涙している。

人閒娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏にして、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを覺えざるなり[9]
                      — 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、Wikisource-logo.svg 朝鮮独立党の処刑(後編)


著名な脱亜論もこの出来事の約3週間後に書かれたため、平山洋は「脱亜論」の内容が「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっているとして脱亜論への影響があると分析している[10]


日本滞在中は頭山満に紹介された本因坊秀栄囲碁を通じての深い交流があり、秀栄は北海道、小笠原諸島にも慰問に訪れていた。また死の直前に友人に贈った碁盤(浮木の盤)は1976年日本棋院に寄贈されたが、没後100年を経た1995年韓国棋院に贈呈された。


暗殺された日、親しかった頭山満の夢枕に立ったという[11]


暗殺者の洪鐘宇は逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。帰国後に高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧した。だが甲午農民戦争後に日本が圧力を強めたことから1903年に失脚して済州島に流され、1913年に貧困のうちに没した。


金玉均の墓がある青山の外人墓地では月額590円の管理料金がかかるが、これを5年以上滞納していたために撤去通告が2004年に東京都から出された。通告に驚いた韓国大使館は滞納中の管理料を代納し、移転の危機を免れた[12]

脚注
1. 宮崎滔天 三十三年の夢松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日
2. 3. 京城小事変並ニ栗野書記官同地ヘ出張/3 明治18年12月27日から〔明治19年〕1月20日
3. アジア歴史資料センター Ref.B03030200700 pp51のうちp.9より「金玉均は岩田秋作、劉岳樓は山田惟一、張殷奎は田中虎造と称して、各々立派な戸籍を有するそうである。もっともその戸籍は長崎に於いて得たものであると云う。」
4. 今日の歴史(2月22日) 聯合ニュース 2009/02/22
5. 写真および資料はアジア歴史資料センター Ref.B03030202500で見ることができる。晒された首には「大逆不道玉均」と見える説明が添えられている(晒し首にされる金玉均(朝鮮)の写真)。
6. 可読性のため、原文に読点を挿入した。
7. 宮崎滔天 三十三年の夢松岡正剛の千冊千夜、1168夜、2006年12月30日
8. 岩波書店『福澤諭吉全集』第10巻「朝鮮独立党の処刑」では「金玉均、徐載弼、徐光範の父母妻子は2月2日を以て南大門に絞罪に処せらる。」とある。
9. 「人間現世世界の地獄が朝鮮の京城に出現した。私はこの国(朝鮮)を既に野蛮と評するよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄国と呼びたい者である。それに加えて地獄絵図を作った当局者は誰かと尋ねるならば、事大党政府官僚達であり、その後見の実力を持っている者はつまり支那人()である。私は極めて遠く離れた隣国に居るので、もとより其の国事に縁は無い者であるけれども、この事情を聞いてただ悲しくてたまらない。今この原稿を書こうにも涙がこぼれて原稿用紙を湿らせることを感じないのだ。」
10. 平山洋『福沢諭吉の真実』
11. 『快傑伝』第3編 伊藤痴遊編 (忠誠堂, 1926)
12. 改葬免じた東京の金玉均墓地(中央日報WEB日本語版 2005.05.23)

登場作品
テレビドラマ
朝鮮ガンマン(2014年、演:ユン・ヒソク

著書
ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇(著:小林よしのり

関連項目
李氏朝鮮

朝鮮の歴史

福澤諭吉

頭山満

犬養毅

樽井藤吉

自由党

甲申政変

脱亜論

王道の狗

佳人之奇遇

久我山稲荷神社


外部リンクおよび参考文献
「朝鮮独立党の処刑」

金玉均ノ横死 膺懲義戦最新歴史(絵師 年英)金松堂(東京経済大学)

金玉均氏遭難事件 (絵師 小国政)福田熊次郎(東京経済大学)

金玉均の書 
アジア資料センター

 ・金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件 / 1 明治27年1月31日から明治27年4月4日 レファレンスコード:B03030202200

 ・金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件 / 2 明治27年3月28日から明治27年4月17日 レファレンスコード:B03030202300

 ・金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件 / 3 明治27年4月6日から明治27年4月23日 レファレンスコード:B03030202400

 ・金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件 / 4 明治27年4月16日から明治27年12月21日 レファレンスコード:B03030202500

久我山稲荷神社の石碑
(wikiより)

400 金玉均
⇧ 金 玉均


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三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう、弘化3年11月15日1847年1月1日) - 大正15年(1926年1月28日)は、日本の武士陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵は観樹。


経歴
現在の山口県萩市藩士陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館[1]で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐戊辰戦争に従軍する。維新後は兵部省に出仕、明治7年(1874年)には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年(1876年)、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山鹿児島県)を陥落させた。明治11年(1878年中将となり、西部監軍部長。


長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城鳥尾小弥太曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、上記3人と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年陸軍士官学校長に左遷される。明治18年(1885年)に陸軍卿の大山と共に欧州の兵制を視察した。


明治19年(1886年)に帰国、陸軍改革の意見書を提出したが、翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。明治21年(1887年)、予備役に編入。同年から明治25年(1892年)まで学習院院長。明治23年(1890年)7月に子爵による互選で貴族院議員に選出されたが、翌年9月に辞職する。明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任。公使館付武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、同年10月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、事変後、関わったとされる他の日本人とともに日本に召還され広島で投獄された。翌年、広島地裁や同地で開かれた軍法会議の結果、証拠不十分として日本人関係者は全員無罪となり釈放された。


明治41年(1908年)4月1日、後備役となる[2]。明治43年(1910年)には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその直前期)の大正5年(1916年)と同13年(1924年)の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年(1926年)、尿毒症のため死去[3]


年譜

・明治4年(1871)

 ・2月15日 - 兵部少丞

 ・7月28日 - 陸軍大佐任官 兵部権大丞

 ・12月14日 - 陸軍少将昇進 東京鎮台司令長官

・明治6年(1873)7月7日 - 陸軍省第三局長

・明治8年(1875)4月25日 - 兼元老院議官

・明治9年(1876)10月26日 - 広島鎮台司令長官

・明治10年(1877)3月10日 - 西南戦争征討第3旅団長

・明治11年(1878)

 ・11月20日 - 陸軍中将昇進

 ・12月14日 - 西部監軍部長

・明治15年(1882)2月6日 - 陸軍士官学校校長

・明治17年(1884)
 ・2月16日 - 大山陸軍卿随行

 ・7月7日 - 子爵叙爵

・明治18年(1885)5月21日 - 東京鎮台司令官

・明治19年(1886)

 ・7月26日 - 熊本鎮台司令官

 ・8月16日 - 休職

・明治19年(1886)10月20日 - 従三位

・明治21年(1888)

 ・11月5日 - 学習院長兼宮中顧問官

 ・12月25日 - 予備役編入

・明治23年(1890)6月30日 - 勲一等瑞宝章

・明治25年(1892)3月26日 - 免学習院長

・明治28年(1895)

 ・7月19日 - 駐韓全権公使

 ・7月29日 - 正三位

・明治28年(1895)10月24日 - 閔妃暗殺事件免職 入獄

・明治29年(1896)1月20日 - 出獄

・明治41年(1908)4月1日 - 後備役編入

・明治43年(1910)10月14日 - 枢密顧問官

・明治44年(1911)11月29日 - 従二位

・大正2年(1913)4月1日 - 退役

・大正4年(1915)4月24日 - 勲一等旭日大綬章

・大正11年(1922)12月11日 - 正二位

・大正13年(1924)1月22日 - 辞職

・大正15年(1926)1月28日 死去 従一位 勲一等旭日桐花大綬章

詳しいことは、「三浦悟楼ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC
(wikiより)


399 三浦悟楼

⇧ 三浦悟楼

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六代目 中村 歌右衛門(ろくだいめ なかむら うたえもん、1917年大正6年)1月20日2001年平成13年)3月31日)は戦後を代表する歌舞伎役者


屋号成駒屋定紋祇園守、替紋は裏梅俳名に魁春。本名は河村 藤雄(かわむら ふじお)。


生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれた。歌舞伎と舞踊以外の演劇活動は行わず、映画やテレビドラマに出演することもなかった。


来歴
五代目中村歌右衛門の次男として生まれる。幼少時に母親の実家、河村家に養子入りしたため、本名は河村藤雄となる。父・五代目歌右衛門は歌舞伎座幹部技芸委員長として当時の劇界を牽引する大役者であり、御曹司として何不自由ない幼年時代を過ごした。この頃、先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。


1922年(大正11年)10月、東京新富座真田三代記』で三代目中村兒太郎襲名して初舞台。順風満帆と思われた舞台人生だが、1933年(昭和8年)に兄・成駒屋五代目中村福助が早世するやそれは一変する。この年11月、父の意向により歌舞伎座『絵本太功記・十段目』の初菊で六代目中村福助襲名。成駒屋の次代を担うべき人としての重圧がかかる。


1940年(昭和15年)にはその父も死去し、若き福助は歌舞伎界の孤児となる。この頃すでに次世代の六代目尾上菊五郎が絶頂期にあり、五代目が死ぬと周囲の人々は手のひらを返すようにして菊五郎のもとへとなびいた。福助のもとへは挨拶に来る者も稀で、有力な後盾はおろか、相談相手にも事欠くような有様となってしまった。


福助は翌年10月、歌舞伎座『絵本太功記』「十段目」の初菊、『浮世柄比翼稲妻』(鈴が森)の白井権八などで六代目中村芝翫を襲名。以後は、六代目菊五郎とともに「菊吉」と並び称された初代中村吉右衛門を頼んで吉右衛門劇団に所属した。ここで若手女形としての修業を重ね、吉右衛門や大阪の三代目中村梅玉二代目實川延若らの薫陶をうける。


吉右衛門劇団では同世代の女形が少なく、長らく吉右衛門の相方をつとめてきた弟の三代目中村時蔵に代わり、次第に芝翫がその後釜にすわるようになっていった。吉右衛門は特に戦争末期ごろから芝翫を次々と大役に抜擢し、舞台上で彼をリードするかたちで芝翫を育てていった。このころの芝翫はその輝くような美貌で有名で、若手のなかでは三代目尾上菊之助(後の七代目尾上梅幸)と並び称されたが、それだけではなかった。吉右衛門が得意とする義太夫狂言に多く出ることで、演目対する解釈を深め、役柄をしっかりと把握、古典的な様式美に近代的な心理描写を加えた表現手法を着々と身につけていったのである。


1948年(昭和23年)、文部省芸術祭文部大臣賞受賞。1951年(昭和26年)4月には歌舞伎座妹背山女庭訓』のお三輪、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子、『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)の雪姫で六代目中村歌右衛門を襲名した。口上では金屏風を前に、吉右衛門と七代目中村福助のみを後見として臨み、口上そのものも吉右衛門のみが行った。


吉右衛門の亡き後は、1954年(昭和29年)に自主的勉強会「莟会」を発足させ、数々の実験的な試みも行った。1962年(昭和37年)日本芸術院賞を受賞[1]1963年(昭和38年)には史上最年少の46歳で日本芸術院会員となる。1969年(昭和44年)には、日本俳優協会会長だった三代目市川左團次の死去にともない会長代行に就任。2年後正式に同協会会長に就任し、1999年(平成11年)まで28年の長きにわたりその職を務めた。


海外公演にも積極的に参加、1960年(昭和35年)のアメリカ本土公演を皮切りにソ連、ハワイ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランスなど多数。1975年(昭和50年)には来日した英国のエリザベス女王の前で公演を行い、歌舞伎の海外への紹介に尽力した。


1980年代前半(昭和50年代後半)になると、足の衰えが顕著になり始め、「一世一代」と銘打たれた興行も見られるようになった。得意としていた大役の数々、例えば『本朝廿四孝・十種香』八重垣姫や『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の八橋などを丁寧につとめ、打ち収める姿は悲壮ともいえた。平成に入ると舞台に立つ機会はさらに少なくなったが、そんな中でも舞台の監修を積極的に行い、後進の四代目中村雀右衛門五代目坂東玉三郎九代目中村福助らに稽古をつけている。


1996年(平成8年)の舞台を最後に療養生活に専念。5年後に84歳で死去した。

詳しいことは、「六代目・中村歌右衛門ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%8C%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80_(6%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)


396 六代目・中村歌右衛門

⇧ 六代目・中村歌右衛門

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永倉 新八(ながくら しんぱち、天保10年4月11日1839年5月23日) - 大正4年(1915年1月5日)は、幕末武士松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。


松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛(すぎむら よしえ)と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。

来歴
松前藩江戸定府取次役(150)・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷江戸下谷三味線堀、現・東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場撃剣館」に入門。しかし、4年目に師が亡くなり、以後、岡田助右衛門に教わり15歳で切紙。安政3年(1856年)、18歳で本目録。元服して新八と称する。同年、剣術好きが昂じて[1]脱藩し、永倉を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ。その後、市川宇八郎(芳賀宜道)と剣術修行の旅に出る。江戸に戻ると、心形刀流剣術伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれて道場師範代を務め、そこで門下生だった島田魁と知り合う。その後、近藤勇の道場・天然理心流試衛館」の食客となる。


近藤らと共に浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。沖田が昏倒し、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。事件後、新選組の勇名は天下に轟いた。その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉や斎藤一原田左之助島田魁尾関政一郎葛山武八郎は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との路線対立を見せる。後、幕府から見廻組格703人扶持京都見廻組隊士と同格の地位)に取り立てられた。油小路事件では、原田らと共に御陵衛士を暗殺。


慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、江戸へ戻った後は近藤らと袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。


明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。その後は北海道小樽へ移る。警察官僚月形潔の招きで、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監刑務所)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導する[2]。退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。明治32年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。明治42年(1909年7月、小樽市花園町に住む。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。


大正4年(1915年1月5日虫歯が原因で骨膜炎敗血症を併発し、小樽にて死去。享年77。墓所は小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川寿徳寺境外墓地(字は蜂須賀正韶侯爵)の3箇所がある。

著述
明治時代に永倉は『浪士文久報国記事』、『七ケ所手負場所顕ス』を記す。『小樽新聞』記者吉島力の取材にも協力し、『新選組顛末記』を残した。これによって、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定観念が崩れ、新選組再評価の契機となった。

エピソード
・新選組の組長格の中でも屈指の剣腕を誇り、阿部十郎は後年、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と語っている。「龍飛剣」と称する下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす技を得意としていた。

・我武者羅な性格だったので、「我武者羅」と「新八」を合わせ「がむしん」と呼ばれていた。

芹沢鴨と同じ神道無念流免許皆伝で、芹沢とも親しく交わっていた。

・非行五ヶ条を訴え出た時の永倉らの主張は、近藤勇を局長と認めるが、家臣ではなく同志だとする主張が込められている。近藤が増長した原因としては武田観柳斎に、隊士は家臣として局長を慕っていると吹き込まれたためともいわれる。

鳥羽・伏見の戦い以後、大坂、江戸などでは土方歳三が不在時には隊長代務(このとき近藤は負傷しており、土方が実質的に隊長)をこなすなど、土方からの信頼も厚かった。

・新選組時代、島原亀屋の芸妓・小常を妻としたが、娘・磯子を産んだ後に死別する。磯子は永倉が退京する際に小常の姉に預けられ、明治33年(1900年)に関西の女役者・尾上小亀となり、のち再会も果たす。

・明治27年(1894年)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、「お気持ちだけ」と断られた。これに対し「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲したという。

・晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったとされる。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と感慨の旨を語っていたという。

・ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれたが、鋭い眼力と一喝で退散させた[3]手拭で戦った、を持っていた、道端の棒切れを拾って構えた、という説もある)。

小樽市花園町の住居は、現在の小樽市役所玄関左の小樽聯合衛生組合事務所跡にあった。

め数少ない新選組の生き残りとして新選組の顕彰につとめ、新撰組に好意的だった松本良順と共に東京都北区滝野川に近藤・土方の墓(寿徳寺境外墓地)を建立している。(明治9年(1876年))

・新選組時代に負った傷の由来を『七ケ所手負場所顕ス』として書き上げた。晩年、酒に酔うとふんどし一枚になり、銃創を叩きながら、「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」と声を上げていた。

・「竹刀の音を聞かないと飯が喉に通らない」、「自分は剣術の他に能はない」と言い、晩年まで剣の稽古・指導に携わった。

・最晩年に、永倉の噂を聞きつけた東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部員が、永倉に指導を依頼した。家族は高齢を理由に反対したが、永倉は「を教えるだけ」と言って指導に出かけた。そして稽古中に体を痛めてしまい、馬車に乗せられ学生に抱きかかえられて自宅に帰ってきたという[4]

演じた俳優
隆大介 (『北の螢』、1984年)
山口智充(『新選組!』、2004年)
渡部秀(『歴史秘話ヒストリア「新選組 ボクらの友情と青春」』(2016年6月10日、NHK総合[5]
・有川正治 (『新撰組血風録』、1965年)

黒田陽介(ブルーシャトルプロデュース「新選組」、「新選組 完結編」)

関連作品
・『幕末新選組』池波正太郎、発行:文春文庫。永倉新八を主人公とした小説。
・『龍が如く 維新!
・『ゴールデンカムイ野田サトル著の漫画。明治40年頃の北海道が舞台で老年の永倉新八と土方歳三らが出演。樺戸集治監なども舞台。
・『PEACE MAKER鐵
・『ちるらん 新撰組鎮魂歌』原作:梅村真也、作画:橋本エイジ、発行:ノース・スターズ・ピクチャーズ。永倉新八の回想を元に進行する漫画。
・『手向花 -タムケノハナ-』さくらゆき(作詞:小栗さくら、作曲:田中俊輔)生き抜き伝えることで新選組を遺した永倉を描いた楽曲。
・『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編-』

脚注
1. 『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社
2. 建物は現在、月形樺戸博物館となっている。
3. 複数の暴漢を睨んだだけで追い払ったことは、池波正太郎が、杉村道男(永倉の孫)にインタビューした時のエピソードとして語られている(池波正太郎『戦国と幕末』角川書店刊 196ページ)
4. 札幌市北区役所ホームページ みてきて北区
5. “歴代仮面ライダーが新選組に!歴史番組でイケメン隊士登場!”. シネマトゥデイ. (2016年5月30日). http://www.cinematoday.jp/page/N0083155 2016年5月31日閲覧。 

参考文献
・『新選組顛末記』- 私家版『新撰組永倉新八』を改題して出版されたもの。元は小樽新聞の連載。

・『新選組 永倉新八外伝』杉村悦郎 2003年新人物往来社

・『新選組・永倉新八のすべて』新人物往来社編 2004年、新人物往来社

・『歴史読本』永倉新八と『新撰組顛末記』の謎 2005年9月号 新人物往来社(各種遺品文書の写真や翻刻あり)。

・『子孫が語る永倉新八』杉村悦郎 2009年、新人物往来社

・『剣の達人111人データファイル』 新人物往来社
(wikiより)



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中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日1847年12月8日) - 明治34年(1901年12月13日)は、日本思想家ジャーナリスト政治家衆議院議員)。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、東洋のルソーと評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。兆民はで、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。また、他の号に青陵、木強生がある。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。


生涯
誕生と修学
高知城下の土佐郡北街山田町に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。文久2年(1862年)には藩校文武館開校と同時に入門し、細川潤次郎萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、慶応元年(1865年)9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴く。このころ郷土の先輩である坂本龍馬と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(1867年)5 - 6月に江戸に移り、村上英俊の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、フランス外交団の通訳を務める。


政府出仕
王政復古江戸開城により江戸幕府が消滅して明治になると、苗字の名乗りを許される。兆民は通訳を辞職して東京へ戻り学問を続ける。福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、箕作麟祥の家塾にも入門。明治3年(1870年)には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(1871年)、廃藩置県により土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用される。このとき、兆民は大久保利通に採用を直訴したという。同年11月には横浜から出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。


明治7年(1874年)6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開く。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視された。また、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。また民権論の教授に務めた。


明治8年(1875年)には東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立したとされ、直後に辞職。元老院副議長の後藤象二郎より同院権少書記官に任命され、調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(1876年)には国憲取調局掛を兼ね、井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。勝海舟とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の海江田信義、海江田を通じて島津久光とも知り合い、『策論』を建言したという。明治10年(1877年)に辞職。同年には西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1879年)には高知県士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。


在野時代

元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、私塾・済美黌高谷龍洲に師事して漢学修行を続けている。自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約訳(←さっきまで漢字違ったよワロチ)解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相・井上馨条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。


明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ『勤王美(義とも)談上野曙』は兆民が幸徳秋水に依頼したといわれる。


初期議会と議員辞職

翌明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」[1]と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1,352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。また、兆民の二人目の妻である松沢ちのは被差別部落出身だったといわれる[2]が、実際には神官を務めていた家の出身である[3]。[要検証 ]


兆民は民党結成のために奔走し、明治24年(1891年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り2月に辞職。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を提出した。自身をアルコール中毒と主張する辞職願は僅差で承認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉であるという批判を受ける。


その後
明治24年(1891年)7月には北海道小樽へ移り、実業家として活動を行う。4月には『北門新聞』を創刊して主筆を務める。明治25年(1892年)12月には第2回衆議院議員総選挙に出馬した仏学塾の弟子の応援に出かけている。


明治26年(1893年)には山林組を起業して札幌で材木業を始める。また、鉄道事業にも熱心で、明治27年(1894年)の常野鉄道をはじめ、毛武鉄道[1]など数多くの発起人となっている[4]。明治30年(1897年)には中野清潔会社を起こす。


明治31年(1898年)には群馬の遊郭再設置運動など、虚業的とも評される数々の事業や政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。12月には国民党を結成して政界復帰を望む。


国民同盟会の会議に出席するが、大阪で病床に臥せ、満54歳で死去、死因は喉頭癌。日本で最初の告別式が行われ、東京都港区青山墓地に葬られた。

詳しいことは、「中江兆民ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E5%85%86%E6%B0%91
(wikiより)


397 中江 兆民

⇧ 中江兆民

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頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日) - 昭和19年(1944年10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。は立雲。


玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキスト伊藤野枝大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。


条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮金玉均中国孫文蒋介石インドラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。


生涯
初期の経歴
安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[1]


16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)に入門する。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。


明治9年(1876年)に秋月の乱萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。頭山らは海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。


自由民権運動への参加
西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺された(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。


高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。

詳しいことは、「頭山 満ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
(wikiより)

395 頭山満

⇧ 頭山 満

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広瀬武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫1868年7月16日慶応4年5月27日) - 1904年明治37年)3月27日)は、日本海軍軍人

日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は「軍神」として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。


経歴
岡藩・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。西南戦争により竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(現・高山市立東小学校)を卒業後に小学校教師を務め、1885年(明治18年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校入校、同時期に講道館柔道も学ぶ[1]1889年(明治22年)に卒業(15期)。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。


兵学校卒業後、翌1890年(明治23年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。その間に少尉に任官。半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長の知遇を得る。


1894年(明治27年)の日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。1897年(明治30年)にロシア留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、1900年(明治33年)に少佐昇進。1902年(明治35年)に帰国する。ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をする[2]1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。36歳だった。即日中佐に昇進した。


5日後、遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるのを発見され、ロシア軍により埋葬された。日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。また、直撃を受けたさい、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、現在も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。


ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている[3]。武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。
明治末期に、銅像が国内に3体建造された。


1905年(明治38年)3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。
1910年(明治43年)5月に東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)[4]が建てられたが、
1947年(昭和22年)東京都によって撤去された[5]
1912年(明治45年)5月に誕生地大分県竹田市に立像が建てられた。


上記の3体のうち、現在は高山市の城山公園と竹田市の広瀬神社に銅像が存在するが、明治に建造されたものは戦時中に供出されており、2体とも復元である。


2010年平成22年)10月、竹田市立歴史資料館の広場にブロンズ立像が建立された。竹田市の有志による「広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会」が、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子に製作を委嘱。立像は身長2.6メートル、総事業費は2,350万円。10月22日の除幕式には、市民ら約150人が参加。祝詞奏上などの神事の後、竹田市ゆかりの作曲家・滝廉太郎の「荒城の月」が篠笛で演奏された。首藤勝次・竹田市長は「今は政治も文化も混迷の時代だが、広瀬武夫像が私たちの大きな羅針盤となって未来を指し示してくれると思う」とあいさつ。広瀬武夫の親族にあたる広瀬武尚が「日本人の本来の心を思いだすきっかけになってほしい」と話した[6]


栄典
1900年(明治33年)12月5日 - 従六位[7]

詳しいことは、「広瀬武夫ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A6%E5%A4%AB
(wikiより)


394 広瀬武夫

⇧ 広瀬武夫

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中島 湘煙(なかじま しょうえん、旧姓名:岸田俊子、女性、文久3年12月5日1864年1月13日) - 明治34年(1901年5月25日)は明治時代の女権拡張運動家作家である。土佐国(現在の高知県)出身の神奈川県県令中島信行の後妻となり、活動を展開した。


年譜
・1863年 12月5日(旧暦)、現在の京都府に生まれる。
1877年 京都府女子師範学校に入学したが間もなく病気のため退学した。
1879年 槙村正直山岡鉄舟の推挙で宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講する。
 ・※出仕した時期は1878年とする説もある。
1881年 秋に御用掛を辞め、各地を遊歴する。その際、高知で自由党員の坂崎紫瀾宮崎夢柳を知った。
1882年 1月、京都に戻る。
 ・同年4月、中島信行らの日本立憲政党の大阪での演説会で「婦女の道」の題で演説。以後1884年まで政治演説に従う。
1883年 10月、滋賀県大津での演説後拘引され入獄する。
1884年 1月、上京。
 ・同年5月、星亨主宰の新聞『自由燈(じゆうのともしび)』に論説を発表する。
1885年 中島信行とともに受洗する。
1886年 この頃中島家に入る。巌本善治主宰の『女学雑誌』に湘煙の筆名で論説を発表する。自宅で塾を開く。
1887年 7月、翻案『善悪の岐(ふたみち)』を粧園女史の筆名で『女学雑誌』に発表。
 ・同年9月頃、新栄女学校の和漢学科主任になる。
 ・同年12月、保安条例により信行とともに東京を退去し、横浜に移る。
1888年 1月、『女学雑誌』に漢詩を発表する。
 ・同年3月、神奈川県久良岐郡戸太町太田(現:横浜市南区南太田町)に移住。
 ・同年5月頃、フェリス和英女学校名誉教授になる。
1889年 2月、小説『山間の名花』を『都の花』に発表する。
1892年 11月、イタリア公使になった信行とともにローマに出発する。
1893年 9月、病気のため信行とともに帰国する。
1897年 1月、小説『一沈一浮』を『文芸倶楽部』に発表する。
1898年 11月、神奈川県大磯町に転居し、夫婦ともに療養する。
1899年 1月、随筆・日記『大磯だより』を1900年3月まで『女学雑誌』に発表する。
 ・同年3月26日、信行が肺結核のため54歳(数え年)で逝去する。
1901年 5月25日午後1時15分に肺結核のため39(数え年)で逝去する。法号は葆光院殿月洲湘烟大姉。遺骨は大磯の大運寺に埋葬される。
1902年 3月、石川栄司藤生てい(藤生貞子)編の遺稿集『湘烟日記』が育成会より刊行される。
(wikiより)


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中島 信行(なかじま のぶゆき、弘化3年8月15日1846年10月5日) - 明治32年(1899年3月26日)は、日本の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子


略歴
土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。少年期に耕余塾へ通う。武市半平太土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。


維新後は新政府に出仕した。明治13年(1880年)10月12日、13日に上野精養軒の敷地内で開かれた、日本初の野外耶蘇教大説教会(キリスト教野外大集会)で中島は、心を動かされキリスト教へ求道を始める。[1]さらに、同志社の創設者新島襄に出会い、「いくら政治上で自由とか民権だとか唱えても人間は罪の奴隷である限り、それは空しいことだ、聖書の中にも『真理はあなたたちを自由にする』[2]と書いてあるように、日本人を自由の民としたいなら、まずあなた自らキリストを信じて罪の問題を解決し自由独立の人とならなければならない」と忠告を受け、信仰を持つ決断をし、明治16年(1886年)に一番町教会植村正久牧師より洗礼を受けて熱心なクリスチャンになった。[3]


外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。


保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙神奈川県第5区から立候補して当選[4]。第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。その後は明治26年(1893年)にイタリア駐在特命全権公使、同27年(1894年)には貴族院議員に勅選。


明治29年(1896年)6月、維新の功により男爵を授けられる。


明治32年(1899年)、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。54歳没。


エピソード
会津戦争の折に若松城を攻め落そうと、土佐兵が城門の前に押し寄せると、其の所に大きな屋敷があった。しきりに鉄砲を撃ち込んでみたが人の居る様子がなく、土佐藩士の小隊長は撃ち方を止めさせて、屋敷内に入り長い廊下を通って奥座敷に行ってみると、婦人達が見事に自刃していた。その内の16、7歳の少女が未だ死に切れず悶え苦しんでおり、足音を聞いて起き返ったがこの時はもう目も眩んで見えなかったらしく、かすかな声で「敵か味方か」と聞いた。小隊長はわざと「味方だ」と言った所が、身をかき探って九曜の紋が付いた懐剣をさし出した。これは介錯を乞うているのだろうと思い、見るに見かねて涙を振って首を斬って外に出た。


この城門前の大きな屋敷は会津藩家老西郷頼母邸で、自刃していたのは頼母の一族であり、絶命できず苦しんでいた少女は短刀の家紋と年の頃からして頼母の長女、西郷細布子(たいこ 又は たえこ、享年16)と思われる。 この小隊長が中島信行であると広く伝えられており[5]、現在、会津若松の武家屋敷にも第二資料館に、西郷一族の集団自決の現場で中島信行が抜刀している場面が人形で再現された「自刃の間」が設けられている。


しかし略歴の通り、この時点ではそもそも会津戦争に従軍していなかった可能性もあり、疑問が残る。近年の高知県での郷土研究によると、中島は戊辰戦争に従軍したことも、会津に来たこともないことが明らかになった。高知新聞社刊『土佐百年史話』で著者の平尾道雄は、土佐の中島信行の通称中島作太郎と中島茶太郎と誤って伝えられたのではないかと推測している。中島茶太郎は土佐藩討西軍名簿に本部付使役と記されている。[6]


また、『栖雲記私注』で堀田節夫は西郷頼母が薩摩藩の人物と二度言及しているところから、薩摩藩で中島信行に似ている氏名の人物として、川島信行を挙げている。川島信行は維新後に初代五所川原警察署長を務めた人物である。


演じた俳優

渡部猛:『獅子の時代』(NHK大河ドラマ1980年

井上高志:『白虎隊』(日本テレビ年末時代劇スペシャル1986年


脚注
1. 守部喜雅著『日本宣教の夜明』いのちのことば社、2009年
2. ヨハネの福音書8章32節
3. 高野勝夫(1998年)118ページ
4. 第1回衆議院議員選挙 神奈川県5区 ザ・選挙参照
5. 『会津戊辰戦増補白虎隊女子軍高齢者の健闘』や西郷頼母の著作『栖雲記・一雨の名残り』で薩摩藩の中島信行が、後に会津藩の中林包明に述べた話として伝えられている。
6. 合田一道『日本史の現場検証』(1998年)、157ページ


参考文献
・高野勝夫『キリスト教逸話例話集』神戸キリスト教書店、1998年
守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年
・合田一道『日本史の現場検証』1998年
(wikiより)


393 中島信行

⇧ 中島信行

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初代・浪華軒〆友(なにわけん - しめとも) 
明治26年?~昭和2年6月5日(1893?-1927)


浪曲師。本名、新井初太郎。


浪華軒〆右衛門(酒井幸太郎)の門弟で、師よりも一つ年下で幼い頃から芸事を好み、10才を越える頃すでに踊りが出来て、声色が巧く、清元・新内・常磐津・端唄と、何んでもこいの芸達者であった。


若い頃から年に似ず、まれにみる粋人だったと古老はいう。


金襖では「柳生旅日記」、端ものでは「祐天吉松」・「小夜衣草紙」を得意とした。


まず、奇人の部に属する才腕の持主で、雨の中を晴着を着て平気で歩いたり、氷屋のオガクズの中に飛び込んだりして衆人を驚かせたりしたという。


蛇が好きで、懐に入れては持ち歩き、市電の中でカマ首をみせて周囲の人たちを驚かせたりしたが、これも一つの宣伝で、あれが有名な〆友だと印象づけた。


酒豪家で、落語家や講釈師とも交際が多かった。


谷中にある某寺の住職の弟子だったことがあり、経を上げるより浪花節が好きでこの道に入ったと伝えられている。34歳没。

台石「新井家」。「松翠院浪華日友信士」。


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大関 和七郎(おおぜき わしちろう)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。桜田門外の変井伊直弼襲撃に参加した桜田十八士の1人である。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる[1]


弘化3年(1846年)に叔父である大関恒右衛門増賀の養子となって150石の家督を継いだ。安政2年(1855年)に馬廻組に任命され、安政5年(1858年)には大番組に編入される。安政6年(1859年)に戊午の密勅が下ると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、商人に変装して名も酒泉好吉と改めて江戸に潜入する[1]


安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変では大老・井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取ったが負傷したため、肥後熊本藩の江戸藩邸に自首する。後に越中富山藩邸、更にその後但馬豊岡藩邸に拘禁された[1]

文久元年(1861年)7月26日に幕府の評定において死罪となり、斬首された。享年26。明治時代になってから正五位を追贈された[1]

脚注
1. a b c d 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社1988年) 391頁参照。

参考文献(wikiより)
・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902
(wikiより)


390 大関和七郎

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蓮田 一五郎(はすだ いちごろう、天保4年3月5日1833年4月24日) - 文久元年7月26日1861年8月31日))は、幕末水戸藩士。桜田門外の変の襲撃者(桜田烈士)の一人。水戸藩寺社方手代。名は正美。幼名は仙之介。市五郎は誤記とされる[1]。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。明治22年(1889年)5月靖国神社に合祀[2]。贈正五位

人物
蓮田一五郎の父・蓮田栄助宗道は水戸の町方同心、扶持7石で私塾を開いていた。栄助は42歳で死去したので、一五郎の老いた祖父・蓮田栄吉が一家を支えた。栄吉は町方同心に再勤したが家計は苦しく、一五郎の母と2人の姉は裁縫の賃仕事をし、また一五郎も11、12歳から内職して家計を補っていた。孫の教育を疎かにしなかった栄吉は、玉川立蔵[3]の塾に一五郎を入門させたが、一五郎は金銭が足りず十分に通えなかった。一五郎はこれらの窮乏があって朝4時に起き、夜は10時頃まで内職をしてもなお苦学に励んだ。一五郎は18、9歳頃に書道など年長者を驚嘆させるほど上達し、算数絵画も秀でて多芸だったようである。独学不可の武芸は貧困ゆえ我慢していたが、15歳頃から金子健四郎の道場に通い、上達早く3年程で人に秀でた腕前となって、無念流の印可を受けた[4][5]


安政2年(1855年)6月、水戸藩軍用方小吏として出仕する。同年10月、寺社方に転ずる。職務上、静神社神職及び弘道館内・鹿島神社神官の斎藤監物を知り、その思想に非常に感化を受けた。斎藤監物は、かつて弘化元年(1844年)、徳川斉昭の隠居謹慎時、領内の神職を糾合して処罰解除運動に参加している。安政5年(1858年)、幕府大老井伊直弼により尊攘派をはじめとする反幕府勢力の弾圧(安政の大獄)が始まり、翌年斉昭が水戸での永蟄居を命ぜられた。一五郎はこれに憤激し、斎藤らとともに大老井伊直弼襲撃計画に加わった[6]。安政7年(1860年)2月11日、一五郎は江戸へ向かって家を出た。母は56歳、長姉は35歳、次姉は32歳、一五郎は26歳の時だった[7]


一五郎が安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変に至る間に作った和歌が複数残されている[4]

たらちねにまたも逢瀬おうせせきなればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき

あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ

かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり [8]


安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外の変の直後、負傷した一五郎は同士と老中脇坂安宅邸へ自訴し、その夜に細川家へ、のち幕吏方へ引き渡された。細川家滞在中に、一五郎は桜田門外の変の襲撃の図[9][10]を描き残した。幕府からの尋問中、彼は幕吏の池田頼方より狼藉(桜田門外の変)の趣旨を問われ、委細を尽くしてある『斬奸趣意書』[11][12]でご承知ありたい旨を述べた。幕吏側では前水戸藩主・徳川斉昭を罪に陥れるつもりで誘導尋問を繰り返したが、それを悟っていた一五郎の方は「もし前君(斉昭)の内命にて掃部頭様(井伊直弼)を討つなら水戸藩に立場ある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた[13]。また彼は獄中で、『蓮田市五郎筆記』[14]にこの取調べの仔細を記した。彼はこの筆記を残した意図について、「幕吏の横暴はいうまでもないが、老公(斉昭)へ冤罪を帰そうとする気炎も幕府方にあり、自分(一五郎)の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らない為、幕吏による取調べの大意を書にしたためた」と自ら記した[15]。彼はこの間、幾つかの詩歌[16]を残したがその中の一つに、次の歌がある。

世の為と思ひつくせし真心は天津み神もみそなはすらむ[17]


一五郎は文久元年(1861年)7月26日送られた伝馬町獄舎で、幕吏の手により同志ら6名と共に斬首された[4]。享年29。

逸話
・一五郎は、母が節制のため灯火を消して彼も床に就いたようにみせてから、母姉の熟睡を見計らって起き出し、灯火が漏れないよう行灯に衣服をかけながら読書、暁まで徹夜する事が常だった。母は行灯消滅の多さから燃料を一五郎が使っていると知り、火吹き竹で一五郎を打って叱ったが、一五郎はこれを恨まず却って己の非行を謝った。一五郎は翌日から食事を減らしてその料金を灯火代に充ててくれるよう請いなお読書を続けた為、母は彼の夜間の読書を許した。学習用の紙や筆、墨なども容易ではなく、水戸・馬喰町の小泉屋という油紙問屋の主人は一五郎の苦学に感じ、商品の上包みの紙を何度も蓮田家へ送り届けた。また一五郎の母の生家であった水戸・下町の沼田屋にいた彼の伯母(一五郎の母の姉)は、彼の学資に毎月2朱ずつの金を2年ほど贈った。また一五郎親類の塙重任も何かと彼を補助した。本を買うのは更に困難の為、一五郎は茅根伊予之介会沢正志斎の蔵書を借りて書き写して読んだが、一五郎14、5歳の頃からその数は数百巻に及んだ。明治19年(1886年)の水戸大火でその大半は潰えたが、なおそのうち30巻余りは蓮田家にあったという。また一五郎が16歳の頃謄写した『日本外史』は香川敬三の家、会沢正志斎による注疏の『孝経』一部が古澤介堂の家に珍蔵されていたという。


・ある年、かねて恩をうけてきた沼田屋の伯母[18]が大病であると蓮田家へ告げてきた。一五郎は早速、伯母の所へ見舞いへ行ったが、その夜から毎晩丑三つ時(深夜3時頃)になると彼の姿が見えなくなった。家族は変だと思ったが謹直な一五郎の事なので特に詮議はしなかった。のち、彼が12月の寒空の下、17日間、半里(約2キロメートル)先の愛宕神社へ参拝し、伯母の病が癒えるよう祈願していた事が分かり、伯母は涙を流して喜んだ[19]


・一五郎は雷が嫌いだったが14、5歳頃、雷鳴中に仏前で裃をつけ跪き、物言わず礼拝していた為その理由を人が尋ねたところ、「男子非業の最期は君子の道ではなく、もとより君国の為には惜しむべからざる命だが、落雷で死んだとあっては残念なので神仏の加護を祈っている」と答えた[20]


・一五郎は孝心が深く、祖父や母の怒りに触れず、衣服なども大抵自分で始末し、少しでも母や姉の手を省こうとしていた。一五郎は出宅・帰宅の際には必ず手をついて祖父と母に告げ、食事の度に礼を言った。また祖父や母の心を傷ましめることを憂い、病気になってもこれを告げなかった。夜には祖父と母の足腰を揉み、彼らが熟睡するのを待ってから己は勉強に取り掛かった。成長後に友人宅に呼ばれ珍しいものを御馳走になった時、自分は一品も手をつけず持ち帰って祖父と母へ勧めた。彼は元来寡黙だったが、昼間見聞した面白そうな話を祖父と母に聞かせ、彼らの心を慰めた。彼は祖父や母が病気の時には一晩中寝ずに看護し、夜中に3、4里(約11.8~15.7キロメートル)も遠くに行って彼らの好物を買ってくる等、孝養に心を尽くした[19]


・一五郎の祖父・栄吉は孫をどうにか出世させたく、その祈願に栄吉の好んだ煙草を廃していた程だった。一五郎が16歳のころ栄吉は80歳余りと高齢だった。栄吉は一五郎を自らの代わりに町方同心の代番へ立てた。ここに一五郎は初めて3両2人扶持にありついて世間へ出て人と交わったが家計なお足りず、内職を止める事ができないままだった。しかし、一五郎は間もなく同心勤めをやめた。そのころ打ち首1人に立ち会えば5両の手当てがあるため、同心らは進んでこれに勤めていたが、その職務は一五郎の性質に合わず、一度これに立ち会ったが、「あんな役目はとても人間のする事ではない」と言っていた。その後、寺社方の手代となった一五郎は5石2人扶持で家計も少し楽となった上、前職と異なってそれなりに学問のある人物と会う事になった為、彼はこの職が気に入り、盛んに奉職した[7]


・一五郎は平生はごく寡黙な人物であったが、酒を銚子に一杯も呑めば酔い、酔って語る事は必ず楠公(楠木正成)忠誠だった。一五郎は楠公の話になると徹夜でも語り止めなかった。そのため、一五郎が楠公談をしだすと、友人は辟易した[21]


・一五郎の母の姉の一人は裕福な家に嫁ぎ、この伯母に一五郎と同じ年頃の娘(一五郎のいとこ)がおり、名をお絹といった。一五郎11歳の頃、お絹が一五郎は貧乏人の子で麦飯ばかり食べているから色が黒いと言ったため、子供心にも非常に悔しく思い、それから彼は伯母の所へ進んで行かなくなった。その後、一五郎が15歳のとき、お絹が絵本の挿絵を一五郎に写すよう求めたが、一五郎は承諾しつつ中々描かなかったので、お絹が焦れて茶菓子を与えるから早く写すよう催促し、茶菓子を普段食べられない一五郎を揶揄した。一五郎はこれに怒り、自分は今に神様になってお前に拝ませてくれると言って彼女を散々に罵った。それきり、お絹のいるうちに一五郎は伯母の所へ出かけなかった。桜田門外の変の後、明治22年(1889年)5月に一五郎が靖国神社へ合祀される事になると、70歳近い老婦人となったお絹は、思い出多き当時の事を語ったという[22]


・細川家預り中に、一五郎は故郷の母と姉へ訣別書を残し、また幼時から世話になった塙重任へ後の事を頼んだ書を残した[23]。これは母への深い感謝と礼、姉への心遣い、世話になった伯母と塙への厚意を述べてあるもので、彼が人目を忍びながら二度書き初めては、執筆半ばで落涙に沈んでしまって上手く書けず、三度目にして漸く仕上がったとも記してある。この書の中で彼は、「人の一命は限りあるもの、死すべき時生きるもあり、生きるべき時死ぬもありて、仏家がいう前世の約束事、天命であり、昨年10月に大病を煩った自分は病死するより天下の為に死ぬこそ本望」と、今生に訣別している[24]

辞世
故郷の空をし行かばたらちめに身のあらましをつげよかりがね
[25]

脚注
1. 常磐共有墓地の蓮田一五郎墓碑より。岩崎p123。
2. 岩崎p120。
3. 桜田烈士の一人、森山繁之介は蓮田一五郎と共に、文武を玉川立蔵と金子健四郎に学んでいる。岩崎p123。
4. a b c 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
5. 岩崎p115-118。
6. 『近世義勇伝』、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
7. a b 岩崎p122。
8. 岩崎p275によると、一五郎が幽囚の間に母を思い、国事を憂う情を寄せた詩歌。
9. 岩崎p285、扉の頁にある絵。
10.
『桜田門外之変図』茨城県立図書館蔵。
11. 『斬奸趣意書』、桜田烈士、2014年4月閲覧。
12. 太田p182-194。
13. 岩崎p245。『蓮田市五郎筆記』(『評定吟味書』)による蓮田への尋問の詳細は岩崎p243-294。
14. この筆記を、岩崎英重は『評定吟味書』とも言っている。これらの書簡集は、塙重任から三条実美の手を経て、「忠魂義魄櫻田烈士蓮田市五郎遺物」と書簡集を納めた箱に大書され木戸孝允家にあったという。また塙はこの一五郎筆記(評定吟味書)を事前に写しておいたが、この写しは明治42年(1909年)11月28日栃木県庁で特別大演習の際、母姉への訣別書と共に明治天皇が閲覧したという。岩崎p285。
15. 岩崎p248。
16. 岩崎p287-289。
17. 岩崎p289。
18. かつて学資を送った一五郎の母の姉。沼田屋は一五郎の母の実家。
19. a b 岩崎p121。
20. 岩崎p118。
21. 岩崎p123。
22. 岩崎p118-120。
23. 岩崎p282-283。
24. 岩崎p276-282。
25. 文久元年(1861年)10月のある日、絹八丈の小袖、墨染めの法衣を着た50歳ばかりの僧侶が蓮田家を訪ね、「拙僧は蓮田氏から頼まれて居る物が御座って、今日持参仕った」と一封の書を懐中から取り出し、一五郎の姉へ渡した。姉が座敷に入って母へその封書を渡して再びそこへ戻ると、僧侶は既にいなかった。母と姉が封書を開けると一五郎の辞世と別紙に戒名が現れたので驚き、日暮れまでその僧侶を探したがどこの宿にもいなかった。がっかりして引き返した母娘は、一五郎の遺物を仏壇へ納め香花をたむけ、なお彼の回向にその夜を明かした。岩崎287。

参考文献
岩崎英重『桜田義挙録 維新前史 下編』吉川弘文館、1911年

太田龍『長州の天皇征伐』中央精版印刷、2005年 ISBN 4-88086-189-8

・但野正弘『桜田門外の変と蓮田一五郎 』錦正社、2010年7月 ISBN 978-4-7646-0285-4
(wikiより)


389 蓮田市五郎

⇧ 蓮田市五郎

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有村 次左衛門(ありむら じざえもん、天保9年12月28日1839年2月11日) - 安政7年3月3日1860年3月24日))は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、尊王攘夷志士兼清

生涯

天保9年(1839年) 、薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。母は連寿尼森元高見の娘)。兄に有村俊斎(後の海江田信義)、有村雄助がいる。


剣術
薬丸兼義薬丸自顕流を学び、後に江戸北辰一刀流を修めた。


安政5年(1858年)兄の雄助とともに江戸で尊攘活動を行い、のちに脱藩し、水戸藩士らの志士と交流を深める。安政6年(1859年安政の大獄が起きるとそれに憤慨し、その実行者である大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、翌安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝、桃の節句祝いに登城する井伊を狙って江戸城桜田門外で行列を襲撃した(桜田門外の変)。自身は行列中央の井伊の駕籠を襲い、路上に引きずり出して殺害し、首級をあげた。井伊の首級を持ち去ろうとしたが、供回りだった彦根藩士小河原秀之丞に後頭部を斬り付けられて重傷を負い、同行していた広岡子之次郎が小河原を斬り伏せるも若年寄遠藤胤統辻番所付近で力尽きて自害を図る。有村はまず割腹しようと、着用していた皮の稽古胴を外そうとしたが紐を外せず、携帯していた短刀を雪上に立てて伸し掛かろうするも見当をつけられず、周囲の人々に井伊の首級を運ぶよう要請したが、応じる者はいなかったという。その後、水を飲めば早死にできるという割腹の教えに従って、手近な雪を口に含んでいたところを救出され、遠藤邸に運び込まれるが間もなく絶命した。享年22。正五位を追贈された。

親族
・長兄 海江田信義

・次兄 有村雄助

・養子 有村信清(1873年 - 1929年) 海江田信義の子。

・信清室 有村コマ(1880年 - 1951年)

・養孫 有村武雄(1909年 - 1952年)

登場する作品
・『花の生涯』(1963年、NHK大河ドラマ、演:山形勲
・『日本暗殺秘録』(1969年、映画、演:若山富三郎)
・『白虎隊』(1986年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:岡本富士太
・『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:岡本富士太)

前年放送の『白虎隊』での登場シーンをそのまま流用。
・『桜田門外ノ変』(1990年刊。2010年に映画化、演:坂東巳之助
・『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:山田大生

関連項目・
桜田門外の変 
青山霊園 - 兄・雄助と共に墓に祀られている。
有村治子 - 子孫を自称。正確には次左衛門の弟・有村國彦の子孫。
(wkiより)

388 有村次左衛門

⇧ 有村次左衛門

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