本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

※ 御注意  ※ 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有りますが、その場合は『 生前墓 』と表示してあります。

すでに『 撤去 』された墓石もあります 確認が取れたものには『 撤去済み 』と表示してありますが、撤去済みで確認が取れていないものについては「 表示されていません 」

画像は再訪したときに再撮影して差し替える場合もあります。

※ 申し訳御座いませんが『 画像の転用 』は絶対に禁止とさせて頂きます。

皆様から拍手をいただけるとめっちゃモチベーションが上がります。

コメントは原則公開させていただいております

質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては「ブロック」します ブロックした場合解除する事は有りません。

皆様と楽しみながらブログを続けて行ければ幸いです 宜しくお願いします。

※ ブログ記事につきましては、撮影時のウィキペディアを引用しているため現在とは違う場合も有ります。

高野山より石童丸が分骨したものです。
(案内板より)

44a

44b

44c




石童丸が父の菩提を弔うため九重の塔を建立、弘化四年三月善光寺大地震の折崩れ現在は五重の塔となっております。
(案内板より)

43a

43b

43c



前近代に広く知られた伝説上の人物。

筑前 ( ちくぜん )( 福岡県  ) 苅萱 ( かるかや ) の庄 ( しょう ) 松浦 ( まつら ) の党総領、加藤左衛門繁氏 ( しげうじ ) の子。

13歳のときに、出家していた父の苅萱道心 ( どうしん ) を高野山 ( こうやさん ) に訪ねたが、父はわが子と知りながら名のらずに別れる。

のちに石童丸は母や姉と死別してから高野山に登り、苅萱の弟子となって道念坊と称したが、ついに親子の名のりはせず、父子ともに同時刻に往生を遂げ、信濃 ( しなの ) 善光寺の親子地蔵として祀 ( まつ ) られる。
 
この説話は、もとは説教 (  唱導 ) であり、それを広めたのは高野聖 ( こうやひじり ) であった。

『善光寺親子地蔵縁起』から謡曲『苅萱』を経て、説経浄瑠璃 ( じょうるり )『かるかや』が生まれ、そこから数種類の説経浄瑠璃が生じ、やがて並木宗輔 ( そうすけ )・丈輔 ( じょうすけ ) 作の浄瑠璃『苅萱桑門筑紫 ( かるかやどうしんつくしのいえづと )』( 1735・豊竹座初演 ) ができて、石童丸の名はあまねく知られるようになった。

また、1806年 ( 文化 3 ) には曲亭馬琴の読本 ( よみほん )『石堂丸苅萱物語』まで刊行され、歌舞伎 ( かぶき ) や新内節、琵琶唄 ( びわうた ) でも有名になった。

42a

42b

42c




六道の衆生を救う菩薩のお姿を浮彫りであらわした室町時代の作風であり素朴ながら柔和なお顔とやさしいお姿はまれにみるすぐれた作といわれている。
(案内板より)

41a

41b



寛保三年 ( 1743年 ) 十月十二日

芭蕉翁の五十回忌を期して多くの俳諧師によって建立された翁の句碑としては信濃最古のもの

「雪ちるや 穂屋のすゝきの刈残し」
(案内板より)

40a

40b

40c

40d




西光寺
刈萱山西光寺
所在地長野県長野市北石堂町1398
位置北緯36度38分49.1秒 東経138度11分15.1秒座標北緯36度38分49.1秒 東経138度11分15.1秒
山号苅萱山
院号寂照院
宗派浄土宗
本尊苅萱親子地蔵
創建年(伝)正治元年(1199年)
開基苅萱上人(苅萱道心)
正式名苅萱山寂照院西光寺
別称苅萱山、かるかや山
札所等善光寺七福神(第一番寿老人
文化財親子地蔵(市指定文化財)
百万塔(市指定文化財)

西光寺(さいこうじ)は、長野県長野市にある浄土宗仏教寺院山号は苅萱山。院号は寂照院。本尊は苅萱親子地蔵[1]絵解きの寺として知られる。

交差点の名前も「かるかや山」、バス停も「かるかや山前」となっており、かるかや山と通称されることが非常に多い。

歴史と「苅萱伝説」
謡曲説経節などで広まった「苅萱伝説」ゆかりの寺である。伝承によれば、苅萱道心寂照坊等阿とも)は元は九州6か国の国司で、俗名を加藤左衛門尉重氏といった。世の無常を感じた重氏は出家して高野山に赴き、仏道修行に励む。苅萱の出家後に生まれた子である石童丸と母は父を探して高野山に行き、女人禁制で母は麓に残る。

石童丸は父と思しき僧を見つけ、「父ではないか?」と尋ねるが、出家の身である苅萱は涙を堪えて「そなたの父は死んだ」と告げる。石童丸が下山すると母が亡くなっていた。石童丸はその後、高野山に上り、刈萱を実の父親と確信しつつも、34年間弟子として共に過ごした。

ある日、刈萱は善光寺阿弥陀如来のお告げを得て信濃国に移って、善光寺近くに草庵を営んだ。これが西光寺のはじまりである。それから14年、83歳で往生するまで、刈萱は日々善光寺に参籠して過ごしたという。

一人残された石童丸は、信濃の方角に紫雲のたなびくのを見て信濃の西光寺へ向かい、刈萱塚を建立した。そして父の死の2年後の同じ8月24日、そこで没した。西光寺に伝わる2体の地蔵菩薩像は「苅萱親子地蔵」と称され、苅萱道心と石童丸がそれぞれに刻んだものとされている。西光寺にはこの縁起を描いた『苅萱道心石童丸御親子御絵伝』が所蔵されており、聴衆に見せながら語り聞かせる絵解きを行っている[2]



1

苅萱道心と石童丸の像

歴史
正治元年(1199年)、善光寺如来の導きにより、高野山を下った苅萱道心がこの地に草庵を結び、創建する。[3]

越後に流されていた親鸞聖人は、建暦元年(1211年)、放免されて関東に向かう途中、善光寺を訪れ、兄弟弟子であった苅萱道心の寺(西光寺)に50日間逗留した。親鸞は1日に一体、不二の名号を書き、また刈萱道心とともに霊峰戸隠山に登り、両界山で阿弥陀三尊の像を合作したという。[4]

建保2年(1214年)、父の往生を悟った石童丸は西光寺へ。父の遺志を継いでこの寺に住し、2年後入寂した。ここまでは伝承である。

永和2年(1376年)、学圓上人が荒廃していた寺内を整理、本堂を建て、西光寺を復興した。[5]

明和6年(1769年)、佐久郡の両岡部・清水の三氏が、永代供養料として七反七畝余の土地を寄進し、寺内での常念仏を復興した。[6]

延宝5年(1677年)~安永8年(1779年)、この100年ほどの間に10回ほど出開帳(自ら出向いて開帳すること)が行われた。「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」を持参し、出開帳先の社寺などで絵解きを行った。[7]

宝永元年(1704年)小山田平太夫はこの西光寺を宿舎と定め、善光寺本堂復興の工事をスタート。宝永4年(1707年)に本堂は完成。その後、善光寺仮堂が西光寺に寄進され、本堂となった。[8]

明治4年(1871年)、「長野石炭油会社」を設立した石坂周造が、境内に日本で最初の石油精製所を置く。明治8年に道路を挟んだ南石堂町に移設するまでこの場所にあった。[9]

本堂が明治8年(1875年)に老朽化のため取り壊され、開山堂を本堂とする。その後、昭和13年(1938年)の建替えを経て今日に至る。[10]    

昭和40年代ころ、住職夫人が、かるかや親子「御絵伝」(江戸前期作)の説明を開始。その後、さらに江戸中期作の御絵伝が発見され、平成元年(1989年)に修復、開眼供養し、2幅を一貫した「御絵伝」として絵解きを行っている。[11]     

伽羅
・本堂 - 本尊が祀られ、絵解きが行われる。
・慈光門 - 1979年昭和54年)の建立。
・大師堂(園通殿) - 弘法大師を祀る。
・玉取稲荷神社 - 苅萱稲荷社とも呼ばれる境内鎮守
・芭蕉塚 - 「雪ちるや穂屋のすすきの刈残し」
 ・1743年寛保3年)のもので、長野県内最古の松尾芭蕉句碑
・一茶自筆の句碑 - 「花乃世ハ仏の身さへおや子かナ」
 ・小林一茶が西光寺を訪れた時、苅萱道心と石童丸を詠んだもの。1937年、一茶の筆跡で建立された。[12]
・苅萱塚
 ・苅萱上人、石童丸、そして千里御前(石童丸の母)の墓。
・石油会社社員の墓
 ・石坂周造によって興された、日本で最初の石油会社・長野石炭油会社の社員の墓。
・苅萱道心と石童丸像
・小山田平太夫の墓
善光寺七福神巡り 第一番 寿老人
 ・善光寺七福神の寿老人の像。
・信濃新四国八十八ヶ所 第七十六番札所の石碑
・六角石憧地蔵尊
・六地蔵尊
・徳住上人 六字名号石
 ・念仏行者・徳本上人の弟子、徳住の文字。県内でも数少ない。
・針塚
・大蛇、小蛇(おおにょう、こにょう)の塚(朝日山大蛇の塚)
 ・霊験あらたかなとして広く信仰される。
 ・こんないわれがある。天明6年(1786年)、西光寺の少し南に中兵衛という木こりが住んでいた。ある日、旭山で木を切っていると大蛇に出会い、それを殺してしまう。死骸を持ち帰り、家の近くで見世物にすると、大いに金をもうけられた。ところがその数日後、中兵衛は突然の病で亡くなり、その妻も、大勢いた子どもも次々亡くなってしまった。隣近所の人間まで病気になる有様である。
 ・これは大蛇のたたりに違いない。町の人々は西光寺に墓を建て、大蛇の霊を弔った。この墓には戒名が2つ刻まれているが、殺された蛇は夫婦だったので、その妻の小蛇の方も一緒に弔われている。
 ・また、この墓を動かすとたたりがあるとも言われている。大正13年に墓を動かして道路を拡張した際、それにかかわった3人が亡くなったということである。戦後はこれまで通りに面していた境内の西側に商店が立ち並んだが、大蛇の墓だけは移動できないので、そのまま寺の入り口に残っている。また、大蛇が見世物にされた場所を示す石も、付近の交差点に今も残っている。[13]

1

本堂

2

刈萱塚

3

六地蔵尊

4

大蛇、子蛇の塚
5

大蛇を見世物にした場所を示す蛇石。動かせないので、現在も不自然な場所にある。

1

大師堂(園通殿)

2

針塚

3

一茶の句碑

4

玉取稲荷神社(刈萱稲荷社)

5a

寿老人

6

徳住上人 六字名号石

7

六角石憧地蔵尊

宝物
・木造苅萱親子地蔵尊像(来迎地蔵尊像)※長野市重要文化財指定
 ・西光寺の本尊。鎌倉時代中期の作。[14]
百萬塔(木造百万塔) ※長野市重要文化財指定
 ・明治41年(1908年)5月、法隆寺が譲与して同寺の基金としたもののひとつ。寛慶寺・大本願・往生寺も所有している。[15]
・苅萱道心石童丸御親子御絵伝(2幅)
 ・江戸前期と中期のもの。絵解きに使われる。
十王像
 ・本堂に安置。その教えを伝える口演を行っている。
・伝親鸞聖人筆 不二の名号
 ・親鸞が逗留中に1日1枚書いたとされるもの。
・子授け・安産の霊石
 ・苅萱道心は、父重昌が香椎宮に詣でて授かった霊石の霊験によって生まれたと言われる。それにちなんで本堂に祀られている。
・苅萱道心ご持仏 伽羅仏立像延命地蔵尊
 ・苅萱道心が守り本尊として、いつも身辺に置いて拝んでいたという、延命地蔵尊。天竺伝来と伝わる。
・かるかや山西光寺の韋駄天さま
 ・平安時代初期の公卿・小野篁の作とされる像。

詳しいことは、『西光寺 (長野市)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%B8%82)
(wikiより)

39a

39b




時代江戸時代後期
生誕文化7年(1810年)
死没嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
別名国定忠次
国次[注釈 1]

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎

後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談浪曲映画新国劇大衆演劇などの演劇の題材となった。特に新国劇の『國定忠治』は劇団の財産ともなり、劇団解散まで繰り返し上演された。赤城天神山の場での台詞「赤城の山も今夜を限り」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及した(後述)。

群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺がある。

現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手によるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

生涯
上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845年)5月14日に死去している。

父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。

忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成した[注釈 2]

その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。また、忠治はこのころ発生した天保の大飢饉に際して家財を売り払って国定村の住民に施しをしたと伝わるが[3]、この話は群馬県高崎市生れの在野の歴史家・田村栄太郎により否定されている[4]。ただ、羽倉簡堂関東代官として支配所村々を巡視した天保8年(1837年)当時の日記「済菑録」にも「山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス」[5]とあり(類似の記載は忠治の死後に記された「赤城録」にも認められる)、その実態は別として忠治が貧民救済に奔走していたこと自体は否定できない。その後、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。天保10年(1839年)には幕府は関東取締出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化も図った(この際、新たに任命された一人が羽倉簡堂が代官時代の手代である中山誠一郎)。

天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌年正月に忠治は帰還し主馬を殺害した[注釈 3]。さらに同年8月には関東取締出役の道案内(目明し)を務める三室勘助・太良吉親子を殺害し[注釈 4]、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された[9]。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した[10]。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。

その後、忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。

忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた[11]。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという[11]。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという[12]。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」[12]

忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された[13]。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妾・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている[14]

明治15年(1882年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている[15]

関連史跡・名所
群馬県
・養寿寺・長岡忠治之墓(伊勢崎市)
・善應寺・情深墳(伊勢崎市)
・称念寺・家鴨塚(玉村町)
・忠治とまどいの松(東吾妻町)
・忠治地蔵(東吾妻町)
・大戸関所(東吾妻町)
赤城温泉郷・忠治温泉(前橋市)

1

忠治とまどいの松

2

忠治地蔵

3

家鴨塚

4

大戸関所

5

忠治温泉

長野県
・須坂市上町の寿泉院にある「地蔵堂」[16]
・長野市権堂町秋葉神社境内にある「国定忠治の墓碑」[16]
・志賀高原硯川ホテル前の前山リフト乗り場付近にある「忠治の隠れ岩」[16]
・野沢温泉村に再建された「忠治地蔵」[16]
・中野市松崎の八ケ郷用水取入口付近の国定忠治が渡ったと言い伝えられている石橋[16]
・「草津道(忠治)の石橋」。保存会により石橋の案内石碑の設置と草津道の復元が行われた。

1

草津道(忠治)の石橋

2

国定忠治の墓碑

逸話

3
国定忠治のたばこ入れ
愛煙家であった忠治は、そろばんが付いた革製のたばこ入れを愛用していた。こうしたそろばん付きのたばこ入れは、往時の博徒らがよく使っていたという[17]
・関東取締出役から下仁田の名主に回された人相書に忠治の容貌に関する以下の記録がある。「中丈、殊之外ふとり、顔丸ク鼻筋通り色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく、其外常躰角力取体ニ相見候。」[18]
の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭されたことで命拾いしたと悟り道場を後にする。
・逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の『遠州侠客伝』に拠る。
・信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている(出典は増田知哉の「清水次郎長とその周辺」1974)。
・喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
・なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」[19]の仲裁により平成19年(2007年6月2日の手打ち式で170年越しに和解した[20]

国定忠治を主題とする作品
芝居
上述の通り新国劇、大衆演劇の定番である。新国劇では1919年(大正8年)の大阪弁天座『國定忠治』(脚本・行友李風)が初演[21]。初演時の配役は以下の通り[22]

國定忠治 -
 澤田正二郎    
板割の浅太郎 - 田中介二
清水巌鉄 - 金井謹之助
高山定八 - 小川隆      
日光円蔵 - 倉橋仙太郎
川田屋惣兵衛 - 中田正造

今日、伝わっている台本(『行友李風戯曲集』所収「極付 國定忠治」)では五幕七場で構成されているが、大井広介によれば『國定忠治』は通しで上演されることは珍しく、陰惨な後半は割愛され、二幕目「赤城天神山不動の森」から三幕目第三場「半郷の松並木」まで、あるいは「赤城天神山不動の森」だけということも多かったという[23][注釈 5]。その「赤城天神山不動の森」での忠治の台詞「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」や「加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及して国定忠治のイメージを決定的にした。

大衆演劇では、2011年5月に、西条晃(現・曾我廼家晃)が、国定忠治の処刑場の場までの長編の芝居を上演した。また演歌歌手の公演でも演じられる。たとえば北島三郎の特別公演では、この話を劇に使ったことがある。詳しいことは、『国定忠治ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%BF%A0%E6%B2%BB
(wikiより)

38 Kunisada_Chuji

⇧ 国定忠治

38a

38b

38c

38d

38e




長野松竹相生座
長野ロキシー1・2
Nagano Shochiku Aioiza
Nagano Roxy 1, 2


通称相生座/ロキシー
正式名称長野松竹相生座・長野ロキシー
旧名称千歳座
完成1892年
開館1919年4月
収容人員516人
客席数当該項目参照
設備DSDDSRD
用途映画上映
旧用途芝居上演
運営長野映画興行株式会社
所在地380-0833
長野県長野市権堂町2255
位置北緯36度39分12秒 東経138度11分22.9秒

長野松竹相生座・長野ロキシー(ながのしょうちくあいおいざ・ながの-)とは、長野県長野市権堂町にある映画館

古くからの繁華街に位置する、国内最古級の映画館である。

概要
1892年明治25年)に開場した芝居小屋「千歳座」が前身で、建物は増改築が重ねられているものの明治時代当時のものが今も使われている。当初は歌舞伎などが上演されていたが、日本で最初に活動写真が上映された1897年(明治30年)には県内で初めて活動写真の上映が行われた。

映画の時代の到来とともに、1919年大正8年)に長野演芸館(現 長野映画興行)に買収されて「相生座」と名を改めた。相生座の名は、劇場が面する相生町通り(1913年大正2年)開通=現 権堂アーケード通り)に由来する。1972年昭和47年)には松竹と劇場賃貸契約を交わし、翌年スクリーンを増やし「長野ロキシー」との2館体制として、松竹配給の洋画も上映するようになる。現在では長野映画興行の直営館であり、新作映画のほか、隔月で観客へのアンケートによる「名画特集」が催されている。

建物は既に築120年以上経ち、建築年が明確にわかっている中で日本一古い映画館である高田世界館新潟県上越市1911年(明治44年)開館よりも更に古い。

沿革
1892年明治25年)12月11日 - 芝居小屋 千歳座が開場。
1897年(明治30年)7月8日 - 千歳座で県下で初めて活動写真が上映される。
1917年大正6年)12月25日 - 株式会社長野演芸館、設立。東之門町で映画館「長野演芸館」(1914年(大正3年)開館・1948年(昭和23年)閉館)を営業していた。
1919年(大正8年)4月 - 長野演芸館が千歳座を買収し、相生座と改称。
1947年昭和22年)1月 - 運営会社、長野演芸興行株式会社と改称。
1953年(昭和28年)1月 - 運営会社、長野映画興行株式会社と改称。
1972年(昭和47年)10月 - 松竹株式会社と劇場賃貸契約。
1973年(昭和48年) - 館内改修。スクリーンを増設し長野松竹相生座長野ロキシーの2館体制となる。
1984年(昭和59年)4月 - さらにミニシアターを増設し、長野ロキシーが長野ロキシー1・2となる。
2006年平成18年)3月 - 松竹との配給契約を終了し、長野映画興行の直営館となる。
2017年(平成29年) - 長野演芸館設立から100周年を迎える。
 ・8月 - 民教協番組『日本のチカラ』で「商店街のニューシネマパラダイス」として当館が取り上げられる[1]

スクリーン
3スクリーンがあり、総座席数は516席。

無題

アクセス
長野電鉄長野線権堂駅」から徒歩3分
 ・土休日等は長野電鉄の割引きっぷ「ながでんシネマきっぷ」[2] が利用できる。
長野駅善光寺口からアルピコ交通川中島バス 1017系統 または ぐるりん号に乗車、「権堂入口」下車徒歩3分

脚注
1. 
中嶋言実 (6 August 2017). "商店街のニューシネマパラダイス"日本のチカラ. Episode 98. 民間放送教育協会テレビ朝日. 2017年9月18日閲覧 加盟局の信越放送は同年8月20日に放送。
2. 
ながでんシネマきっぷ (PDF) - 長野電鉄。権堂駅までの往復乗車券(特急料金含む)と映画1上映がセットで1,860円となる(平成26年4月現在)。

関連項目
長野市内の映画館
営業中
 ・長野グランドシネマズ権堂町
 ・長野千石劇場南石堂町
・閉館(2000年以降)
 ・長野東宝グランド劇場(権堂町) - 1966年2006年
 ・長野東宝中劇(権堂町) - 1948年2007年
 ・長野東映(権堂町) - 1958年2006年
 ・シネマポイント(権堂町) - 1998年2020年
 ・ニュー商工西鶴賀町) - ※成人映画館、1927年2012年
 
ギャラリー・コム川合新田

参考文献
・小林竜太郎「未来に伝えたい『日本一古い映画館』相生座の価値」(長野郷土史研究会『長野』297号 2014年10月発行)
・『街並み』43号映画館(ナノグラフィカ、2014年6月発行)

外部リンク
長野松竹相生座・長野ロキシー     
長野松竹相生座・長野ロキシー - 「港町キネマ通り」(2009年10月取材の記事)
長野松竹相生座・長野ロキシー (@aioiza_roxy) - X(旧Twitter)     
長野松竹相生座・長野ロキシー (@naganoaioiza_roxy) - Instagram     
(wikiより)


37a



明治初年元長岡藩士

岡本翠山翁 ( 1824生 ~ 1891没 ) 

北信濃にて宝生流謡曲の先達として名あり

句作画法さらに小笠原流礼式等文武万端に通じ 門弟一千数百人を擁す

没後七回忌 明治三十年 ( 1897 ) ここ善光寺境内に門弟有志により この碑を建立した

平成二十六年秋の長野県北部地震により倒壊す

翠山翁の流れ汲む翠雲会・長野宝生会々員等により平成二十七年三月修復した

平成二十七年 ( 2015 ) 盛夏

           有志一同
(案内板より)

36a

36b



所在地長野県長野市元善町491
位置北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒座標北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒
山号定額山
宗派無宗派[1]
本尊一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏
創建年(伝)皇極天皇3年(644年
開基(伝)皇極天皇(勅願
別称信州善光寺、信濃善光寺
札所等西国三十三所(番外)
坂東三十三観音(番外)
秩父札所三十四観音霊場(番外)
信濃三十三観音(客番)
西山国師遺跡霊場(客番)
真盛上人二十五霊場(番外)
文化財本堂(国宝
三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財
公式サイト信州善光寺ホームページ

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である[2]開帳は前立本尊で行う[3])。

本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。

昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。

概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和5年(2023年)時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の第104世栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の第121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[注 1]が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できる、という善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える[5]

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[6]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。

数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音西国三十三所坂東三十三観音秩父三十四観音)の番外札所となっており、秩父三十四観音の三十四番水潜寺で百観音結願となった後には「結願御礼として長野の善光寺を詣でる」といわれている。

歴史
善光寺の創建と発展
詳細は「善光寺縁起」を参照

善光寺は伊勢神宮熱田神宮とともに、中日本では古くからの歴史がある神社仏閣である。

善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏とされる。この仏像は廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、信濃元善光寺へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。ここまでは伝説であり、実際の創建の経緯は不明である。

有力なのは、善光寺は天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡金刺舎人)のひとつで、金刺氏が創建に関わったという説である[8]。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、後に瓦葺きとなった。

善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部名代などの王権や中央豪族部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる[9]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている[10]。これらのことから、遅くても平安時代初期頃までには瓦葺きの建物を持つ寺が現在地にあったのは確かなことであり、おそらくは金刺氏かその一族若麻績氏が建立したのであろう。[11]善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる[9]

善光寺の名は開祖の本田善光の名を取ったといわれる。しかし、古い善光寺縁起には本田善光という名が出てこない。本田善光の存在自体が創造であるとするなら、善光寺はなぜ善光寺と名付けられたのか。有力な説は百済王善光からというものである。奈良時代には百済王善光は百済系渡来人の祖として崇められるようになったという。善光寺を建てたと考えられる金刺氏の一族は、百済に渡航して活躍し、百済滅亡後は日本へ帰ってきて官吏として仕えた者もある。そこで百済王善光から名を取って善光寺としたのではないかと思われる。[12]

「善光寺」の名が初めて登場する文献は、十世紀中ごろに成立したとされる『僧妙達蘇生注記』であり、「善光寺縁起」に関する一番古い記録があるのは『扶桑略記』(1107年以前成立)。また歴史上、善光寺に参詣したことが確認できる最古の人物は、摂政・関白藤原忠通の息子・藤原覚忠(1118~1177)である。[13]ただし、善光寺が平安時代頃までほとんど無名だったのは、『今昔物語』に信濃の寺がいくつも出てくるのに、善光寺の名がひとつも出てこないことからもうかがえる。[14]

当時の信濃国という辺境の地なのにも関わらず、仏教が受け入れられたのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる[9]

善光寺縁起は、『扶桑略記』で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった[15]院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている[16]

頼朝の善光寺参詣と北条家の信仰

治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺には大火災が発生している(『吾妻鏡文治3年7月27日条)。記録に残る最初の火災である。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われている。善光寺縁起によれば、原因は落雷である。[17]     

その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年7月28日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。

頼朝が長く暮らしていた関東では善光寺信仰が盛んで、頼朝も北条政子も早くから善光寺信仰を抱いていたらしい。頼朝が善光寺復興に非常に熱心だったのはその信仰心のあらわれでもあるが、またそれによって人心を掌握しようとしたためである。この時代にはすでに広く善光寺信仰が行き渡っていたことがわかる。[18]        

その後も鎌倉幕府及び執権北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時(北条朝時)は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。

善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏禅宗と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった[19]。この時代、善光寺信仰が全国に爆発的に広まった。鎌倉時代以降、信仰者が「夢で見た」とされる善光寺本尊を模した像(善光寺式阿弥陀三尊)が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。

さらに、普及に寄与したのは善光寺聖と呼ばれる勧進聖たちによってである。彼らは各地に出向き、背負ってきた厨子の扉を開いて善光寺如来の分身仏の開帳をし、さらには善光寺縁起絵伝を広げて絵解きをすることによって、善光寺信仰を広めた。[20]これは江戸時代に始まる「出開帳」の基礎となった(後述#御開帳参照)。善光寺は鎌倉時代に二度、室町時代には四度火災にあい、そのたびに再建された。これらの再建は年月を要したので、勧進聖の活動は恒久的なものになった。[21]        

後深草院二条の『とはずがたり』には半年余にわたり、善光寺付近の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。文永2年(1265年)にはそれまで在地の有力者に任されていた善光寺警固のための奉行人制度が廃止されて和田石見入道仏阿、窪寺左衛門入道光阿、原宮内左衛門入道西蓮、諏訪部四郎左衛門入道定心の4氏が解任され鎌倉幕府が直接統制に乗り出した[22]。またこの時代には現在につながる門前町が形成された。

鎌倉幕府の崩壊後は建武政権側と反対勢力に地元豪族達が分かれて争った。中先代の乱観応の擾乱といった南北朝戦乱に続いて、室町時代大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなど、内続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。

戦国大名による善光寺如来の争奪
戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり(川中島の戦い)、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺如来は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、上杉氏による戦災からの保護を口実として、武田信玄により善光寺は善光寺別当の栗田氏と共に、寺ごと武田氏居館のある甲斐国甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の山梨県甲府市にある甲斐善光寺であるとする。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、上杉景勝の米沢藩への国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。

善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、上記を契機として、甲斐国・信濃国を占領下(影響下)に置いた戦国大名はこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させるようになった。善光寺如来は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって岐阜(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。自領内の寺院に善光寺如来を遷座させた武田氏や織田氏は没落したこと、とりわけ織田氏が善光寺如来を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部へ持ち出すと祟られるとする噂がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康が甲斐善光寺に善光寺如来を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われる(この頃家康は背中の腫れ物で苦しみ、一時重篤になったという)。

ただし『家忠日記』には美濃から甲斐へ直接移すとする記述があり、家康が遠江鴨江寺に遷座させたとする通説に、疑問が呈されている。『甲斐善光寺建立記』にも古縁起にある上記の経緯を紹介しつつも、他の記録や言い伝えの裏付けが取れないとして、採用は難しいとある。

1597年(慶長2年)には、豊臣秀吉の命令により、甲斐から京都の方広寺大仏殿へと移された[25]。これは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向によるものである(地震で大仏は損壊したが、大仏殿は損壊を免れた)[25]。秀吉はまず損壊した大仏の解体を命じた。『義演准后日記』慶長2年(1597年)5月23日条には「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があるほか、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録される[26]。大仏を取り壊したのち、平内吉政に命じてその台座上に宝塔(厨子のようなものか?)を造らせ、そこに善光寺如来が安置された[27]。また無傷であった大仏の光背はそのまま残されていた[27]。これ以後方広寺大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという[28]。相国寺の僧西笑承兌は自身の日記の中で、方広寺の本尊が巨大な大仏から小振りな善光寺如来に替わったことは、天下人が織田信長から豊臣秀吉に替わったことの如くだと評した[25](秀吉は小人物に過ぎないとする皮肉とも言われる)。

善光寺如来の遷座の翌年の1598年(慶長3年)に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになった。これは善光寺如来の祟りであるという噂が民衆の間で流布したため、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末、ようやく善光寺如来は信濃へ戻った[25](善光寺公式HPでは、秀吉の死の間際、善光寺如来が夢枕に立ち信濃へ戻りたいと告げたためとしている)。しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった。同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた[29][30]。

武田信玄による善光寺如来の遷座から、秀吉によって信濃善光寺に返還されるまでの数十年間に渡り、善光寺如来は各地を流転したが、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが善光寺如来に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。秀吉が善光寺如来を無理矢理方広寺に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる源頼朝の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた。豊臣秀頼の代には彼の寄進で信濃善光寺の伽藍の復興がなされたが、寛永19年(1642年)に火災があり烏有に帰した。先述の通り現存の本堂は宝永4年(1707年)に再建されたものである[31]。

江戸時代と明治以後
江戸時代には参詣者も次第に増加し、他国から信濃に入る道はたいてい「善光寺道」と呼ばれるようになった。[32]お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった[33][34]。長野村など門前町の中心部は寺領であったが、近世末以降には寺領人口8000人、町続き他領分もあわせて約1万人に及んだ。

出開帳が初めて行われたのもこの時代である。その後、現在の御開帳へとつながる居開帳も開始された(後述#御開帳参照)。そうして集められた収益によって、現在の本堂などが建立された。

また1692年、出開帳を機に坂内直頼がそれまで世に広まっていた漢文の『善光寺縁起』(1668年出版)を、誰にでも読めるよう仮名書きに改めて出版。全国に販売され、江戸時代に最も読まれた善光寺縁起となった。[35]      

さらに、この時代に生まれたものとして「お血脈」は無視できない。

詳しいことは、『
善光寺ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA
(wikiより)

35a

35b



所在地長野県長野市松代町松代70
駅番号Y6
所属事業者長野電鉄
所属路線屋代線
キロ程8.6 km(屋代起点)
電報略号マシ[1]
駅構造地上駅
ホーム2面3線[1]
乗車人員
-統計年度-
333人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日1922年大正11年)6月10日[1]
廃止年月日2012年平成24年)4月1日[1]

松代駅(まつしろえき)は、長野県長野市松代町松代にあった長野電鉄屋代線廃駅)である[1]駅番号Y6

路線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されている。線路は撤去され旧駅構内は松代城公園の駐車場として利用されている。以下、駅に関する記述はいずれも鉄道駅としての営業当時のものである。

歴史
1922年大正11年)6月10日河東鉄道により開業[1]
1926年(大正15年)9月30日:河東鉄道と長野電気鉄道の合併により、長野電鉄が発足したことに伴い、河東線の駅となる。
1973年昭和48年)4月1日:貨物営業廃止。
1983年(昭和58年)8月14日:手小荷物営業廃止。
2002年平成14年)9月18日:路線名改称により屋代線の駅となる。
2012年(平成24年)4月1日:屋代線廃止により廃駅[1]

駅構造
単式1面、島式1面の2面3線のホーム留置線を有する地上駅[1]有人駅である[1](駅員配置時間は7:00-21:00)。戦時中は不要不急線として休止される予定だったが、松代大本営建設のために休止は返上され、貨物輸送に利用された。留置線はその際に敷設されたもの。なお駅員に申請すれば、レンタサイクルを利用することが可能になっている(17:00まで)。

のりば
34

付記事項
・駅舎に一番近いホームが3番線である。

Inside_at_Matsushiro_sta_Nagano,JAPAN

駅舎内部(2004年2月、改札口付近)

2

ホーム(2004年2月)

3

構内(2012年3月)

4

駅舎(2017年8月、路線廃止後)

利用状況
年間乗車人数及び1日あたり乗車人員は次のとおりであった[2]
・2006年度 107,648人 : 295人/日
・2007年度 106,221人 : 290人/日
・2008年度 110,009人 : 301人/日
・2009年度 105,466人 : 289人/日
・2010年度 121,696人 : 333人/日

駅周辺
松代城(海津城)址[1]
真田宝物館
文武学校
松代藩鐘楼
松代大本営跡
国道403号谷街道
池田満寿夫美術館
・松代郵便局
・長野市立松代中学校
・長野市立松代小学校
長野松代総合病院
松代温泉(加賀井温泉)[1]    

a1

  
松代城址

廃止後
駅の設備は屋代線廃止から1年ほど残ったが、以降は駅舎と駅舎側ホームを除いて全て解体・更地化されたのち松代城など観光用駐車場に転用された。 さらに近くで三日月池の復元工事も行われている。

また、2022年から2023年の間に駅前にある松の木が枯れ、その後伐採された。

バス路線
駅前にアルピコ交通長野支社)・長電バス・長野市乗合タクシー・ぐるりん号松代駅停留所がある。
・アルピコ交通
 ・30 長野駅 - 県庁前 - 丹波島橋南 - 川中島古戦場 - 長野インター前 - 松代駅 - 松代高校
 ・48 長野駅 - 市役所前 - 文化学園前 - 綱島 - 金井山 - 松代駅 - 松代高校
 ・139 松代八十二銀行前 - 松代駅 - 松代温泉 - 赤柴上
・長電バス
 ・屋代線代替バス 須坂駅 - 井上 - 若穂病院 - 川田駅 - 松代駅 - 岩野 - 屋代駅  
・長野市乗合タクシー
 ・大室線 松代駅 - 柴 - 金井山駅 - 大室駅 - (信濃川田駅
 ・松代西条線 松代駅 → 象山記念館 → 地震観測所入口 → (入組南) → 青垣公園入口 → … → 松代駅
・松代ぐるりん号
 ・M 松代荘(M-01) - 信州松代ロイヤルホテル(M-03) - 長国寺入口(M-05) - 松代駅(M-08) - 松代藩文武学校(M-10) - 象山神社(M-12)

隣の駅
長野電鉄
 屋代線
   象山口駅 (Y5) - 松代駅 (Y6) - 金井山駅 (Y7)

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k 信濃毎日新聞社出版部『長野県鉄道全駅 増補改訂版』信濃毎日新聞社、2011年7月24日、296頁。ISBN 9784784071647
2. 
「長野市統計書」による

関連項目
松代町 (長野県)
日本の鉄道駅一覧    

外部リンク
ながでんバス 屋代須坂線 - ウェイバックマシン(2017年1月21日アーカイブ分)
アルピコグループ 松代駅 バスのりばご案内 - ウェイバックマシン(2020年1月5日アーカイブ分)
(wikiより)

34a

34b

34c

34d

34e


汽車ポッポ」(きしゃポッポ)は、富原薫作詞、草川信作曲の日本の童謡である。2007年(平成19年)に、日本の歌百選に選出されている。「汽車ぽっぽ」とも表記される。

概要
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと異なり、蒸気機関車が客車を牽引するSL列車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。

作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍演習場があった御殿場線御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。

後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日NHKラジオの『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)で川田によりこの曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた[1]

正しい歌詞は「畑も とぶ とぶ」であるが、レコードでは川田正子が間違えて「田んぼも とぶ とぶ」と歌ってしまった。しかし当時はレコードの原盤が非常に高価だったため再録音せずにそのまま発売した、と川田の甥に当たる三代目海沼実がラジオで話している。

のちに、うたの科学館シリーズ のりものの歌に収録され、水谷玲子が歌唱した。さらに昔の列車・今の列車に赤坂東児によるアレンジを施し、岡崎裕美が歌唱したバージョンが収録された。

汽車ポッポの歌詞を掲載した歌碑が、草川の出身地である長野県長野市松代町の旧松代駅前に設置されている。

また、御殿場駅前にも御殿場線を走行したD52形蒸気機関車が2010年から「ポッポ広場」で展示保存され、歌碑が設置された。

録音した歌手
大木英稔井上裕子コロムビアゆりかご会
岡崎裕美
川田正子森の木児童合唱団
森みゆき高橋寛
太田裕美
ももくろちゃんZ
グッチ裕三とグッチーズ
中尾隆聖佐久間レイ       

脚注
出典
1. 
 “「汽車ポッポ」は兵隊さんを乗せて 戦意高揚の童謡を歌った「少国民」”. 東京新聞. (2022年8月22日) 2023年3月4日閲覧。

外部リンク
きしゃポッポ - YouTube(歌:横山だいすけ
「兵隊さんの汽車」と「汽車ポッポ」歌詞対比
(wikiより)

33a

33b




作詞 : 山上 武夫     
作曲 : 上原 げんと

一 花ならば 花ならば

    駒もいななく出陣の

  かぶとに散った山桜

     今もすがしく花びらに

  かおる真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 二 川ならば 川ならば

    三太刀七太刀決戦の

  面影伝う千曲川

     流れうずまきしぶく瀬に

  おどる真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 三 人ならば 人ならば

    永久に光と語り継ぐ

  象山佐久間 恩田杢

     仰ぐ不滅の至誠こそ

  燃える真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 四 城ならば 城ならば

    残すすがたにそのかみの

  まぼろし浮かぶ海津城

     はれる朝霧松風に

  しのぶ真田の心意気

     おおさ 真田の心意気
(歌碑より)

32a

32b




作詞 : 坂口 淳
作曲 : 平岡 照章     
歌唱 : 古賀 さと子

子鹿 ( こじか ) のバンビは かわいいな

お花がにおう 春の朝

森の小薮 ( こやぶ ) で 生れたと

みみずくおじさん いってたよ

子鹿のバンビは 栗毛 ( くりげ ) 色

せなかに白い てんてんよ

細いあんよで かけだせば

野原の蝶々 ( ちょうちょ ) も 今日 ( こんにち ) は

子鹿のバンビは 元気だね

ちらちら雪が ふりだして

池に氷が はる頃は

とん助うさぎと スケートよ

子鹿のバンビは やさしいな

弱虫 ( よわむし ) いじめ しないもの

今に 大きくなったなら

すてきな ぼくらの王様 ( おうさま ) だ
(石碑文より)

31a

31b




作詞、作曲 : 海沼 実

( 1 ) からすの赤ちゃん なぜなくの

   こけこっこの     おばさんに

   赤いおぼうし     ほしいよ

   赤いおくつも     ほしいよ 

   とカアカア       なくのね

( 2 ) めえめえやぎさん なぜなくの

   あさとの        かあさんに

   おねむに       なったのよ

   とメエメエ       なくのね

( 3 )まいごの鳩さん   なぜなくの

   みみずく        おじさんに

   夜道は         こわいよ

   ほうずきちょうちん  かしとくれ

   とホロホロ       なくのね

( 4 ) きつねの赤ちゃん  なぜなくの

   みかずき        おばさんに

   木の葉でかんざし   買っとくれ

   こいしで花ぐし     買っとくれ

   とコンコン        なくのね
(石碑文より)

30a

30b




作詞 : 加藤省吾
作詞 : 海沼実

みかんの花が 咲いている

思い出の道 丘の道

はるかに見える 青い海

お船がとおく 霞(かす)んでる


黒い煙 ( けむり ) を はきながら
 
お船はどこへ 行くのでしょう

波に揺(ゆ)られて 島のかげ

汽笛がぼうと 鳴りました


何時か来た丘 母さんと

一緒 ( いっしょ ) に眺 ( なが ) めた あの島よ

今日もひとりで 見ていると
 
やさしい母さん 思われる
(石碑文より)

29a

29b

29c

29d

29e




作詞 : 野口 雨情     
作曲 : 草川 信

桜の花の咲く頃は
 
うらら うららと 日はうらら
 
ガラスの窓さえ みなうらら

学校の庭さえ みなうらら


河原でひばりの鳴く頃は
 
うらら うららと 日はうらら

乳牛舎 ( ちちや ) の牛さえ みなうらら

鶏舎 ( とりや ) の鶏 ( とり ) さえ みなうらら


畑に菜種の咲く頃は
 
うらら うららと 日はうらら

渚 ( なぎさ ) の砂さえ みなうらら
 
どなたの顔さえ みなうらら
(石碑文より)

28a

28b

28c




作詞 : 斎藤 信夫     
作曲 : 海沼 實

月夜の 田圃 ( たんぼ ) で コロロコロロ
 
コロロコロコロ 鳴る笛は
 
あれはね あれはね
 
あれは蛙の 銀 ( ぎん ) の笛

ささ 銀の笛


あの笛きいてりゃ コロロコロロ
 
コロロコロコロ 眠 ( ねむ ) くなる
 
あれはね あれはね
 
あれは蛙の 子守唄 ( こもりうた )

ささ 子守唄


蛙が笛吹きゃ コロロコロロ
 
コロロコロコロ 夜 ( よ ) が更 ( ふ ) ける
 
ごらんよ ごらんよ
 
ごらんお月さんも 夢みてる
 
ささ 夢みてる
(石碑文より)

27a

27b

27c

27d

27e




恩田木工民親

生没年 : 享保 2年 ( 1717 ) ~ 宝暦 12 ( 1762 )
 
享年 : 46歳菩提寺 : 長國寺
 
昭和 33年 ( 1958 ) に、飯島忠夫博士の揮毫により建立。

碑文は恩田木工民親の短歌「朝夕に向かいてぞ見る紐鏡 ( ひもかがみ ) 己が心に僻 ( ひが ) みあるかと」。

恩田木工民親は第 4代藩主真田幸弘から藩財政建て直しを受命。家老職勝手掛に就任。質素倹約に腐心。虚言を払拭し、正直を貫徹。この歌からは、藩財政立て直しに対する並々ならぬ恩田木工民親の覚悟を感受。 
(案内板より)

26a

26b




三浦 啓之助(みうら けいのすけ、嘉永元年11月11日1848年12月6日) - 明治10年(1877年2月26日)は、日本の武士新選組隊士。

人物
幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。

元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。近藤勇はこのとき三浦の心情に感銘を受け、義挙を支える約束をしたという。しかし叔父にあたる勝海舟は入隊を憂慮していた。また、京都所司代松平定敬は、松代藩に対し、佐久間家断絶処分の見直しを打診している[1]

入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三沖田総司からは終始目を付けられていた)。


そして慶応2~3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、啓之助自身はこれを拒否している)。慶応4年(1868年)、勝の紹介で慶應義塾に入学するが、女性問題が重なり結婚を機に退学する。

明治維新後は(いそし)と名を改め、勝の後ろ盾や象山の息子であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日にを食べての食中毒または溺死で死亡したとも言われている。享年30〜31。

三浦啓之助が登場する作品
​小説
山田風太郎『おれは不知火』

漫画
手塚治虫新選組 (手塚治虫の漫画)』(集英社少年ブック
村上もとかJIN-仁-
富沢義彦(原作)・朝日曼耀(漫画)『戦国新撰組』
『幕末奇談』 子母沢寛

ドラマCD
薄桜鬼 真改 ドラマCD〜珍客逗留始末〜(2016年 演:濱健人

テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年 NHK大河ドラマ、演:下江昌也

脚注
1. 新人物往来社『新選組大人名辞典』新人物往来社、2001年、18頁。
(wikiより)

2a

⇧⇩ 無縁墓の場所にありました。

2b



三浦 啓之助(みうら けいのすけ、嘉永元年11月11日1848年12月6日) - 明治10年(1877年2月26日)は、日本の武士新選組隊士。

人物
幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。

元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。近藤勇はこのとき三浦の心情に感銘を受け、義挙を支える約束をしたという。しかし叔父にあたる勝海舟は入隊を憂慮していた。また、京都所司代松平定敬は、松代藩に対し、佐久間家断絶処分の見直しを打診している[1]

入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三沖田総司からは終始目を付けられていた)。


そして慶応2~3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、啓之助自身はこれを拒否している)。慶応4年(1868年)、勝の紹介で慶應義塾に入学するが、女性問題が重なり結婚を機に退学する。

明治維新後は(いそし)と名を改め、勝の後ろ盾や象山の息子であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日にを食べての食中毒または溺死で死亡したとも言われている。享年30〜31。

三浦啓之助が登場する作品
​小説
山田風太郎『おれは不知火』

漫画
手塚治虫新選組 (手塚治虫の漫画)』(集英社少年ブック
村上もとかJIN-仁-
富沢義彦(原作)・朝日曼耀(漫画)『戦国新撰組』
『幕末奇談』 子母沢寛

ドラマCD
薄桜鬼 真改 ドラマCD〜珍客逗留始末〜(2016年 演:濱健人

テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年 NHK大河ドラマ、演:下江昌也

脚注
1. 新人物往来社『新選組大人名辞典』新人物往来社、2001年、18頁。
(wikiより)

25a

25b

25c

25d

25e



関山 仙太夫(せきやま せんだゆう、天明4年(1784年) - 安政6年(1859年))は、江戸時代の囲碁棋士、信濃国松代藩士で真田幸貫家臣。本因坊烈元門下、五段格とも七段格とも言われ、素人日本一と称される。晩年の本因坊秀策との二十番碁は著名。

経歴
信濃国松代に生まれ、幼名は虎之介。寛政9年(1797年)に出府し、水谷琢元に師事した後、水谷琴花の紹介により本因坊烈元に入門、享和元年(1801年)18歳で初段を許された。しかし藩中の者から「碁才餘りあるも武道に疎し。是れ武士の本旨にあらず」言われ、一念発起して文武に励み、念流免許皆伝を受けて、再度本因坊家にて囲碁の修行に戻ったと言われる。文政からは江戸在だったが、天保2年(1831年)に江戸詰めを解かれて帰郷するに際して、名人となったばかりの本因坊丈和に二子局を願い、これに1目勝ち。この時に五段の免状を所望したが、素人に高段を許すことをためらった丈和に三段を勧められ、逆にこれを断って終生初段としていた。天保10年(1839年)の囲碁番付『囲碁勝劣競』では、初段ながら四段者の上の東の5番目に記されている。

嘉永4年(1851年)68歳の時、本因坊家跡目となっていた秀策との対局を望む手紙を本因坊秀和に送る。秀和はこれを認めて秀策を松代に赴かせ、20日間で仙太夫先番での二十番碁を打ち、仙太夫7勝13敗とした。この第3局は仙太夫自身で「誰に見せても言分あるまじ」と述べ、また秀策も仙太夫の力量を賞賛し「妙碁と称すべきもの二局あり」と述べている。仙太夫は第1着を必ず右上隅目外しに打っているが、白は毎局で布石を変え、これを仙太夫は「真の棋聖と言うべきなり」とも述べている。仙太夫は秀策の帰京の際に、礼金として20両を贈った。

安政3年(1856年)には、本因坊門下の村瀬彌吉(後の本因坊秀甫)を招き十番碁を打ち、1勝8敗1ジゴ。

藩では祐筆を勤め、竹林亭と号して囲碁に関する著作も多く、本因坊算砂から天保までの棋譜を集めた『聖賢囲碁妙手集』、自分の打碁200局を集めた『竹林修行用魂集』、『囲碁方位初心階』、『囲碁初心調練階』などを遺しており、貴重な文献となっている。家督を譲ってからは各地を漫遊した。安政6年(1859年)に死去。

記念碑
2003年に長野県の囲碁愛好家による「関山仙太夫顕彰会」が作られ、2004年に仙太夫の旧宅前に「囲碁の達人関山仙太夫邸」の標柱、秀策と二十番碁を打った梅田屋に記念碑が建立されている。

参考文献
・安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
・中田敬三『信州の碁聖関山仙太夫』一草舎出版 2004年

外部リンク
関山仙太夫の生涯
木石庵「関山仙太夫」
せとうちタイムズ「碁聖・本因坊秀策偉人伝 郷土因島出身の天才棋士の物語り 虎次郎は行く」717号                                    
(wikiより)

24a

24b



恩田 民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) - 宝暦12年1月6日1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老百官名は木工。恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)として知られる。幼名は佐吉。通称は靱負。

経歴
松代藩家老として1千知行する恩田民清の長男として、信濃国松代城下(現・長野県長野市松代町)に生まれる。享保20年(1735年)に家督を相続。延享3年(1746年)に家老となる。

松代藩の財政は、江戸幕府に命じられた度重なる手伝普請助役などによって、3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続したころにはかなりの財政難に陥っていた。寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害(戌の満水)に見舞われ、復旧のため幕府より1万の借財を受けた。そこで、5代藩主真田信安小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し、藩政改革に当たらせた。原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)に足軽によるストライキという事態となった。

宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門[※ 1]を勝手方として召し抱え、財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領したりするなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。

宝暦2年(1752年)に信安の死に伴い藩主となった真田幸弘により、民親は宝暦7年(1757年)に「勝手方御用兼帯」に任ぜられて藩政の改革を任された。民親は、幸弘から「国元の政道は心一杯に」と全権を委任され、家老以下の藩士にも民親に従うという誓詞の提出を求めた。一方で「虚言申すまじく候」「申したること再び変替致さず候」と自らも律し、藩士だけでなく領民とも直接面談して、反発を受けずに改革を進めるよう配慮した[1]

藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたにとどまったが、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。年貢の前納や御用金賦課を廃止し、貢租の怠納を清算し、新たに年貢上納を容易にする月割上納制を導入した。さらに山野や荒地の新規開墾や殖産興業に力を入れた。また、宝暦8年(1758年)に藩校「文学館」を開き、文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。

宝暦12年(1762年)正月、病を得て死去。享年46。彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部左衛門により受け継がれた。

後世の松代藩士・馬場正方によって書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止したなどと民親の仁政を讃えた著書である。しかし、半知借上は民親の時代はもちろん後世まで続いており、この著書の内容には脚色も多く見られる。

墓所は、藩主真田家菩提寺長国寺の境内にある。大正7年(1918年)に正五位を遺贈された[2]

注釈
1. 
浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物とも言われる。

出典
1. 
川口素生『江戸諸藩 中興の祖』p.36-38(2005年、河出書房新社)ISBN 4-309-22425-3
2. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45

参考文献
西尾實林博校註『日暮硯』(岩波文庫、1941年)
滝沢七郎『日暮硯 恩田木工』(明徳出版、1957年)
恩田恒久『「日暮硯」の謎をとく』(信濃教育会出版部、1977年)
堤清二『現代語で読む 日暮硯』(三笠書房、1983年)
奈良本辰也『日暮硯-信州松代藩 奇跡の財政再建』(講談社、1987年)
笠谷和比古『新訂 日暮硯』(岩波文庫、1988年)
川村真二『誠心の指導者 恩田木工』(PHP研究所、1993年)
川村真二『恩田木工―真田藩を再建した誠心の指導者』(PHP研究所、1997年)
笠谷和比古『「日暮硯」と改革の時代 恩田杢にみる名臣の条件』(PHP新書、1999年)

関連文献
池波正太郎『真田騒動-恩田木工』(「運の矢」立風書房、「真田騒動-恩田木工」新潮文庫 1984年、所収)

関連項目
藩政改革     
佐久間象山   

外部リンク
JOG(262) 恩田杢 ~ 財政改革は信頼回復から - ウェイバックマシン(2006年9月25日アーカイブ分)
(wikiより)

23a

23b

23c

23d

23e



真田幸道に初めて家老に任じられた恩田頼母民重を恩田家中興初代とする。

恩田頼定 - 定俊 = 時民 ( 定俊弟・木工 ) - 時義 (  木工 ) - 万吉 = 民重 ( 時義弟 ) = 民清 ( 民重婿養子・木工 ) - 民親 ( 木工 ) - 宣民 ( 木工 ) - 貫誠 - 民矩 ( 貫実 ) -民伸 ( 寛 )

22a

22b

22c

22d




真田幸道に初めて家老に任じられた恩田頼母民重を恩田家中興初代とする。

恩田頼定 - 定俊 = 時民 ( 定俊弟・木工 ) - 時義 (  木工 ) - 万吉 = 民重 ( 時義弟 ) = 民清 ( 民重婿養子・木工 ) - 民親 ( 木工 ) - 宣民 ( 木工 ) - 貫誠 - 民矩 ( 貫実 ) -民伸 ( 寛 )

21a

21b

21c

21e

21f

21g

21h

21i

21j

21k

21l

21m

21n

21o

21p

21q

21r

21s

21t

21u




はせを翁  

更科の郡かな

     十六夜もまた

( 十六夜も まだ更科の 郡かな )

芭蕉 正保元年伊賀上野生 元禄七年大阪没

天保十余年翁忌百五十回造立

昭和三十九年再建
(案内板より)

20a

20b

20c



武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原 ( はちまんばら ) の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅 ( はらおおすみ ) が、傍 ( かたわら ) にあった信玄の持ち槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突き出した。

苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭 ( さんず ) をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔 ( きょうほん ) し去ったため、震源は危うく虎口を免れることができた。

一方謙信は取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
(案内板より)

19a

19b

19c




 閉店されました。

とても雰囲気の良い店主と奥様でした。

32a

⇧ 店外観

32b

⇧⇩ メニュー

32c

32d

32e

⇧ 支那そば

32f

⇧タンメンだったかなぁ?








昭和 51年 ( 1976 ) に「セブンスター」の観光たばこのパッケージに採用されたことから、この名がつきました。

また、隣にきれいに並んだシラカバ並木が隠れた撮影スポットとなっております。

周囲は、作付けされた農産物によりパッチワーク状に見える畑が咲く初夏から小麦の穂が揺れる真夏は特に美しい。

セブンスターの木があるこの地区は、区画ごとに複数の農作物の作付けを行うことで、カラフルな景色を織りなすことから「パッチワークの路」と呼ばれ、少し小高いこの場所は美瑛らしい風景を楽しむことができます。

また、冬の真っ白な雪原の中で葉を落として凛と佇む様子も、夏と違った趣きがあり、北国の美しさと厳しさを感じさせてくれます。

2a





伏見 : 大甚本店さんの次に行きました

DSC_0076

⇧ 店外観

DSC_0077

⇧ 店内観
若干は待ちますが回転が早いです

DSC_0080

⇧⇩ メニュー

DSC_0079

DSC_0081

⇧ お通し

DSC_0082

⇧ 賀茂鶴 蔵生

DSC_0084

⇧ 紅乙女 ( ごま焼酎 ) 水割り

DSC_0088

⇧ どて焼き
豆腐、こんにゃく、玉子、里芋、大根

DSC_0091

⇧ 牛スジ

DSC_0092

⇧ いかゲソ 塩焼き








ケンとメリーの木(ケンとメリーのき)は、北海道美瑛町にあるポプラの木の名前。

概要
美瑛の丘陵地帯に立つ1本の大きなポプラの木である。1972年から1977年まで発売された「ケンとメリーのスカイライン」こと日産4代目スカイラインCM第15作「地図のない旅」編(1976年9月制作)のロケーション撮影で使われた。また、BUZZによるCMソング「ケンとメリー〜愛と風のように〜」がオリコンチャート最高位19位になるなどブームとなった。CM放送後、この木は観光名所となり演者の役名より「ケンとメリーの木」と名付けられた。

この木は、私有地内にあり、撮影スポットには、名称の由来などの説明や老木ゆえ大事にしてほしい旨が書かれた看板がある。

所在地
・北海道上川郡美瑛町大久保協生

アクセス
JR北海道美瑛駅    
国道237号線

ギャラリー
外部リンク
美瑛時間 美瑛町観光協会       
(wikiより)

1a



日本橋のとんかつ屋さんです。

DSC_0120

⇧ 店外観

DSC_0118

⇧ メニュー

DSC_0115

⇧ とんかつ定食

DSC_0117

⇧ とんかつ









田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育った、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯植物を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた[1]

奄美市名瀬有屋38番地3には、最後の10日間を過ごした家が、田中一村終焉の家として移設保存されている[2]

生涯
1908年 - 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ[3]、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」のを与えられる[1]大正時代また10代にして既に与謝蕪村青木木米などを擬した南画を自在に描き得た。
・1920年 - 米邨の落款で描いた「枝垂れ桜に四十雀」の図が、ローマ-東京間の長距離飛行を達成したイタリア人飛行士に贈られた書画集(東京市内の小学児童の一校一名の作品を選んで貼付)に載る[4]
1926年 - 東京市港区芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1931年 - それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹メダカの図』は後援者には受け入れられなかった。
1938年 - 親戚の川村幾三氏を頼って、千葉県千葉寺町に移る。
1947年 - 『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。
1948年 - 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
1953年 - 第9回日展(審査員に東山魁夷が参加)に、『秋林』を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。この年の12月25日、太平洋戦争敗戦後に米国統治下だった奄美大島が日本に返還される
1954年 - 第10回日展(審査員に加藤栄三、橋本明治が参加)に『杉』を出品するが落選。
1955年 - 九州四国紀州スケッチ旅行して回る。
1957年 - 院展への出品を目指し、制作を開始する(この年、院展の監査台帳には出品の記録なし)。
1958年 - 第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品するが落選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。
1959年 -国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
1960年 -5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
1961年 -3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
1962年 -名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
1965年 -3月末、姉・喜美子の危篤を知らされ、千葉に帰る。5月16日、喜美子逝去(享年60)。遺骨を抱いて奄美に戻る。12月5日、川村幾三逝去。
1967年 -5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
1972年 -紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
1976年 -6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院。その後、名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリテーションに励む。姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。
1977年 -春、体調やや回復する。9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。墓所は満福寺戒名は真照孝道信士。

没後の再評価
死去の直前、奄美在住だった友人の紹介で一村と会った写真家・田辺周一によると、田中は千葉にいた頃に写真を学んで造詣が深く、自ら撮影もしており、写実的な画風にも影響を与えていたとみられる。田辺は散逸しそうだった一村の遺品を預かり、現在まで保管。さらに2015年には、一村の写真集『海神の首飾り』(リーブル出版)を刊行した[5]。一村は、アンリ・ルソーからの影響が指摘されることもある。

・没後にNHKの『日曜美術館』「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年12月16日放映)や『南日本新聞』に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、「日本のゴーギャン」などと呼ばれることもある[3]。評伝や画集も複数が刊行されているほか、以下のように記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになっている。
 ・2001年 - 鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンした(館長・宮崎緑)。
 ・2008年 - 生誕100年にあたり、奈良県高市郡明日香村奈良県立万葉文化館[2](館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展-原初へのまなざし-」が開催された(10月18日~11月24日)。入場者は25,000人。
 ・2010年 - 千葉市美術館で「田中一村 新たなる全貌」を開催(8月21日~9月26日)。一村ゆかりの地(栃木、千葉、石川、鹿児島)にある美術館が共同で取り組む初めての回顧展で、近年新たに発見された資料を多数含む約250点の出品作による、現時点で最大規模の展覧会となっている。入場者は61,166人。その後、鹿児島市立美術館(10月5日~11月7日)、田中一村記念美術館(11月14日~12月14日)に巡回。
 ・2012年 - 沖縄県立博物館・美術館で、本土復帰40周年記念「田中一村展~琉球弧で開花した美の世界」を開催(3月30日~5月6日)。同年、石川県立美術館では「孤高の画家・田中一村展」を開催(7月28日~8月26日)。 一村が1955年、石川県羽咋郡宝達志水町にある「やわらぎの郷」で制作した「聖徳太子殿天井画」の修復が完了したことに伴い企画された。
 ・2018年 - 岡田美術館が「田中一村の絵画-奄美を愛した孤高の画家」(4月6日~9月24日)、佐川美術館が「生誕110年 田中一村展」(7月14日~9月17日)を開催。
 ・2021年 - 千葉市美術館で「田中一村展 ― 千葉市美術館収蔵全作品」(1月5日~2月28日)[6]

毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

詳しいことは、『田中一村ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91#%E6%98%A0%E7%94%BB
(wikiより)

8 田中一村

⇧ 田中一村

8a

8b

8c

8d

8f




鎌倉駅 2階にあるお店です

DSC_0147

⇧⇩ 店外観

DSC_0150

⇧⇩ 釜揚げしらす丼 ( だったかな? )

DSC_0151

DSC_0152

DSC_0153

DSC_0155









元福島県相馬藩士 明治初期の自由民権活動家。

加波山事件に加わり未遂に終わるが死刑。

〇 加波山事件
加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。

7 杉浦吉副墓2

⇧ 
玉水嘉一(左)と富松正安(右)

概要
自由民権運動激化事件の一つであり、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こした。福島事件に関わった河野広躰河野広中の甥)等のグループが中心で、これに茨城県下館富松正安や栃木県内の民権家が加わっている。栃木県庁の移転にともなって宇都宮に庁舎が落成する際に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を練っていた。

その後
後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造小久保喜七をはじめとして300名におよぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗等の罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人と、内藤、鯉沼らの若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死した者以外は特赦によって1894年までには出獄している。

この事件を期に、政府は爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。

茨城県筑西市下館地区の妙西寺に富松正安・保多駒吉玉水嘉一平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。

西條八十が作詞した下館音頭の11番には加波山事件が歌われている。

逮捕または起訴された人物

7 杉浦吉副墓

⇧ 
加波山事件志士の墓
(茨城県筑西市下館地区)

大井憲太郎と共に自由民権運動派の代言事務所厚徳館を設立した弁護士の山田泰造(いずれも後に衆議院議員となる)らが弁護した。
・天野市太郎
・山口守太郎
・杉浦吉副
・河野広躰
・三浦文治
・草野佐久馬
・横山信六
保多駒吉
・小林篤太郎
・琴田岩松
・小針重雄
玉水嘉一
・五十川元吉
富松正安
・原利八
・門奈茂次郎
鯉沼九八郎
・大橋源三郎
・佐伯正門

関連項目
福島事件
夷隅事件

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(MF:個人蔵)
国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(所蔵)
茨城県古河市西公民館図書室
日本経済評論社『福島自由民権と門奈茂次郎5 加波山事件』
(wikiより)

7a

7b

7c

7d

7e

7f

7g

7h

7i




いつも行列の並木藪蕎麦さんに行きました

DSC_0022

⇧ 店外観

DSC_0027

DSC_0024

DSC_0029

⇧ ざるそば 
しかし、ざるそばしか食べないなぁ

DSC_0031

⇧ 蕎麦湯









自由民権烈士 

杉浦吉副顕彰碑

杉浦吉副 元福島県相馬藩士 明治初期の自由民権活動家

弘化三年生まれ。

父は相馬藩の代官や勘定奉行を勤めた杉浦吉寛、母はサク。

杉浦家は京都で代々観世音流能の鼓打ちの家柄で、元和八年、当主が相馬藩主に請われて当藩に仕える。

吉副は、長じて福島県役員や相馬町戸長を勤めた後、第六銀行・三春銀行に勤務。

その頃、福島県の自由民権運動指導者河野広中の影響を受ける。

明治十六年、福島県で自由民権運動を弾圧した県令三島通庸が栃木県令に異動すると、河野広中などと共に栃木町に身を寄せ、明治十七年、鯉沼九八郎などと三島県令の殺害と宇都宮に新築された栃木県庁の爆破を計画 ( 加波山事件 )。

未遂に終わって逮捕され、当山隣接の栃木裁判所で死刑に処せられる。

遺骸は榊原経武 ( 弁護士・初代 栃木市長 ) など有志の手で当山に葬られた。

吉副の死刑からすでに百三十年、自由民主主義の時代になって七十年余り。

吉副に心を寄せる市民の間に犯罪者の汚名から名誉回復の声が高まる。

この碑はそれに応え、吉副を時代の先駆けとなった自由民権家として顕彰する碑である。
(顕彰碑文より)

6a

6b

6c




ジョイフル三ノ輪にある昔懐かしいパン屋さんです

DSC_0004

⇧ 店外観

DSC_0005

⇧⇩ ショーケース

DSC_0006











所在地栃木県栃木市旭町22-27
位置北緯36度22分44秒 東経139度44分11秒
山号教王山
宗旨真言宗
宗派真言宗智山派
寺格中本寺
本尊大日如来(金剛界)
創建年1262年弘長2年)
開山朝海法印
中興年1688年元禄元年)
中興祐眞和尚
正式名教王山 遍照光院 満福寺
別称おにおう(鬼王)さん:地元では「おにょうさん」と呼ばれている
文化財三鬼尊像(栃木市指定文化財)
公式サイト蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福密寺(通称 満福寺)

福寺(まんぷくじ)は、栃木県栃木市にある真言宗智山派の寺院。山号を「教王山」、院号を「遍照光院」という。奥の細道霊場十八番札所。ご本尊は大日如来(金剛界)。他に開運厄除大師をはじめ悪運断ち三鬼尊・子授け観音・縁結び歓喜天・身代り地蔵尊などを祀る。

沿革
鎌倉時代1262年弘長2年)、洛南醍醐寺報恩院の学僧 憲深和尚の室にいた朝海法印が、日光修験に赴いた折、下野国都賀郡太平山の山麓(現 栃木市薗部町)に住坊を建立し、山林修行に励む傍ら天下泰平・万民豊楽の祈祷を行ったことに始まる。

天正年間、皆川城主・皆川広照栃木城及び城下町造営の際、命によって現在の地(栃木市旭町)に移され、城下町東の木戸守衛を兼ねる。1591年(天正19年)11月には、関東八州に移った徳川家康の鷹狩りの折休息所となり、住持の応接にすこぶる満悦し朱印五石を賜わる。

以来寺勢大いに振い、江戸期には十間四面の大本堂を中心に、大門・御成門・多宝塔・大師堂・薬師堂・不動堂・稲荷社・聖天堂・三鬼堂・大書院・住房等が、広い境内に建ち並ぶ大伽藍を擁した。しかし1862年文久2年)、大火により堂宇をことごとく失った。

以後しばらく無住の時期もあったが、1897年明治30年)、富山県射水郡から出た長澤泰純が晋住して復興に着手。しかし、廃仏毀釈の影響や世の時勢によって復興は思うにまかせず、民家風の仮本堂兼客間兼庫裡一宇にとどまったまま大戦後もしばらく推移した。

全山焼失110年後の、1972年昭和47年)現住 長澤弘隆が晋住し、復興の機運を得て本堂を再建し、1985年(昭和60年)には客殿・住坊を建設。さらに、2011年平成23年)、開創750年を期に新本堂「大毘盧遮那殿」を建立。旧本堂は大師堂となり、同時に境内も大規模整備された。

文化財
三鬼尊(栃木市指定文化財)
全国でも珍しい「赤・青(緑)・黒」三体一組の鬼神の像(左甚五郎の作とも定朝の作ともいわれる)。戦後、閻魔大王の縁日の16日に合わせ、1月と8月の16日に縁日がひらかれてにぎわったが、この鬼は閻魔大王に仕える地獄の獄卒ではなく、江戸と日光を往来する修験行者によって尊崇されたヤマの守護神と推察される。ちなみに、広島県宮島の弥山に「三鬼堂」があり福徳・知恵・降伏を司る三鬼大権現が祀られ、同じく麓の大聖院真言宗御室派)の摩尼殿にも祀られている。

田中一村の墓
栃木市生まれで、絵の考え方のちがいにより中央画壇と絶縁し、奄美大島で活動した日本画家 田中一村が、祖父母・両親や姉と共に眠っている。平成29年夏、一村の没後40年にあたり、遺族の新山宏氏によって田中家のお墓が一新され、同時に一村の墓石も新たに建立された。これに伴い、大師堂の裏手にあった一村供養碑は撤去された。

その他の文化財
中村不折揮毫の扁額「無畏城」
松岡正剛揮毫の扁額「大毘盧遮那殿」

主な行事
1月1日 - 2日 - 新年大護摩供
・3月彼岸前 - 弘法大師御影供
7月13日 - 7月盆特別供養会
8月13日 - 8月盆特別供養会
9月25日 - 施餓鬼会      

人銘
田嶋隆純
当寺第27世泰純和尚の弟子。大正大学教授、文学博士。仏教学・密教学の学匠。河口慧海に師事しチベット語を修学。戦前、パリのソルボンヌ大学に留学。チベット文献をもとに『大日経住心品』フランス語訳等を発表。戦後、花山信勝のあとを受け巣鴨拘置所の教誨師となり、戦犯の心と人間性に寄り添い絞首刑にも立ち会い、「巣鴨の父」と慕われた。真言宗豊山派正真寺住職(東京都江戸川区)。

高久泰憲
当寺第28世泰隆和尚の弟子。タカキュー(Taka-Q)創業者。栃木市都賀町出身、田嶋隆純などと同じ時期当寺で修学。

長澤實導
当寺第29世。大正大学教授、文学博士。仏教学・密教学の学匠。智山教化研究所初代所長。真言宗智山派菩提院結衆。サンスクリット・チベット文献を精査し初期唯識から後期中観・密教に至るまで幅広い研究を行う。瑜伽行中観派のジュニャーナガルバの研究に先駆的学績を残す。また、宗派の要請を受け智山教化研究所初代所長に就任、教学の裏付けにもとづいた布教教化の在り方や資料の出版につとめ、宗団教化の基礎を築いた。智山教化研究所は現在の智山伝法院の前身。

兄に藤田金一郎(東北大学工学部建築学教授)、姉に見田公子(見田石介の妻)ら、母方(杉山家)の親戚に東儀秀子がいる。田嶋隆純は義兄。

長澤弘隆
当寺第30世(現)、第29世實導和尚の長男。インド哲学大乗仏教思想・空海密教の研究者。密教21フォーラム事務局長。早稲田大学東洋哲学科で福井康順田中於菟弥金倉圓照・西義雄等教授の指導に浴す。編集工学の松岡正剛の協力を得て、ウェブサイトを含めさまざまな方法で空海密教の世界を情報化し発信。

代々住職の念願だった当寺の伽藍復興につとめる。

交通
JR両毛線東武鉄道日光線 栃木駅北口から徒歩15分、タクシー5分、市内観光用レンタサイクルあり。
東北自動車道 栃木ICから、約10分

詳しいことは、『満福寺(栃木県)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E6%A0%83%E6%9C%A8%E5%B8%82)
(wikiより)

5b

5c

5a

5d

5e

5f

5g

5h

5i

5j

5k

5l

5m

5n

5o

5p

5q

5r





2024年 2月 8日に松山に立ち寄った際、『 道後温泉別館 飛鳥乃湯泉 2階特別浴室 』に入浴しました。

2024年 7月には道後温泉本館の工事も終了して特別浴室もリニューアルされるのではないでしょうか?

 道後温泉本館の日本唯一の皇室専用浴室「又新殿」(ゆうしんでん)

DSC_0518

⇧ 飛鳥乃湯入口脇の窓口です

満員御礼でした 予約しといて良かった

DSC_0522

⇧ 入り口を入ってみました 

DSC_0523

⇧ 浴衣が選べます。

DSC_0524

DSC_0527

⇧ 2階に上がる階段

DSC_0528

⇧ ちょっとベンチに座って時間つぶし

DSC_0583

⇧ 階段を上がって、大広間を左に曲がり道なりに来ると「2階特別浴室」です

DSC_0581

⇧ 立派な入口です

DSC_0578

DSC_0579

⇧ 特別浴室は 2ヶ所、入室する時は木札を「入浴中」にします

DSC_0575

⇧ 入口が銀が貼られているのでしょうか?

DSC_0530

⇧ 入ってみました
こちらの襖も銀が貼ってあるのでしょうか?

DSC_0531

ちなみに特別室を予約すると 1回の大浴場にも入湯できます ( 1階大浴場じゃないとシャンプーが出来ません ) 

DSC_0533

DSC_0536

⇧ ボケちゃった

DSC_0537

⇧ この扉は開きません

DSC_0539

⇧ ランプも渋いです

DSC_0553

DSC_0569

DSC_0570

DSC_0571

DSC_0542

⇧ 銀の襖を開けてみました

DSC_0543

⇧ 右側の木戸が浴室入り口です。

4bfe410aa40402f878a17331596f119e

⇧ 入浴時は裸ではなく、この浴着を着用するそうです ( 画像はネット上の拾い物です )

DSC_0545

⇧ 左上ボタンを押すと、お湯が出ます
右側に降りる階段のようになっています

DSC_0548

⇧ ここが浴槽になります ( 石鹸、シャンプーは不可です )

やはり浴着を着用して入浴するのは、違和感を感じます



⇧ 装飾も素晴らしいので、動画見てください

DSC_0563

⇧⇩ 入浴後は、お茶とお菓子を戴きます

DSC_0565

DSC_0567

⇧ 一息ついたら退室しましょう

DSC_0573

⇧ 銀の襖は凄いですね

DSC_0575

DSC_0578

⇧ 退室時は木札を裏返しましょう

DSC_0585

階段です




大正期の建物で、現在も営業中だそうです。

4a




日本橋で映画を観てから立ち寄りました。

DSC_0201

⇧ 店外観

DSC_0204

⇧⇩ 店内観

DSC_0205

DSC_0206

DSC_0203

⇧ メニュー

DSC_0208

⇧ タンタンメンとシューマイのセット

DSC_0210

DSC_0212









巴波の鯰

これは、巴波川にまつわる「鯰の恩返し」の民話にもとづき、せいさくしたものである。

昔、この地に日照りがつづき、川の水も干上がってしまったおり、一匹の鯰が苦しんで死にそうになつているのを、あるお百姓が見つけ、助けてやった。

ところが、のちに大雨がつづき、巴波川が洪水で氾濫したとき、その人の幼い子が濁流に吞み込まれてしまったのを、突然現れた鯰の大群が担ぎ上げるように運び、救ってくれた。

その子は、大変親孝行であったという。

ブロンズ 石原義久 作
(案内板より)

3a

3b

3c



大船の有名店で予約無しだと入店できないことで有名なお店です。

DSC_0157

⇧ 店外観

DSC_0173

⇧ 店内

DSC_0160

DSC_0161

⇧ お通しの煮物

DSC_0163

⇧⇩ メニュー

DSC_0165

DSC_0167

DSC_0169

⇧ 中生

DSC_0171

⇧ 芋焼酎の炭酸割り

DSC_0176

⇧ 刺身の盛り合わせ ( これで2人前 )

DSC_0174

⇧ 串焼き








水系一級水系 利根川
種別一級河川
延長28.5[1] km
平均流量-- m³/s
流域面積213.6[1] km²
水源の標高-- m
河口・合流先渡良瀬川栃木市藤岡町石川)
流域栃木県

巴波川(うずまがわ)は、栃木県南部を流れる利根川水系渡良瀬川支流の一級河川

流路
流域は栃木県中西部から南部。栃木市川原田町白地沼(しらじぬま)を水源とし、思川小倉堰(栃木市西方町本城)の分水と合流、広い平野を南に流れていく。栃木市の市街地中心部では歴史ある蔵が立ち並ぶ景観の中を流れ、南西に転じ渡良瀬遊水地に入り、栃木市藤岡町石川渡良瀬川に合流する。渡良瀬遊水地と栃木市大平町伯仲・小山市大字中里付近間は国土交通大臣が管理する直轄管理区間[2]

地域の自治体
栃木県
栃木市小山市     

名称の由来
「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来する。近世には「宇津間川」、「鶉妻川」などとも表記された[3]

歴史
中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた[4]。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟(蔵の街遊覧船)が行き来する。

ナマズの民話があり、そのナマズを模したしゃもじ郷土玩具がある[5]

治水
明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されている(幸来橋#伝承・逸話を参照)。

近代以降においては、1947年(昭和22年)16日、カスリーン台風襲来の際に旧部屋村内で堤防が決壊、部屋村の全戸と旧生井村の6割が浸水する大洪水となり、多くの被災者を出した[6]。また、2015年(平成27年)9月関東・東北豪雨2019年(令和元年)の東日本台風襲来の際にも氾濫し、被害を出した[7][8]

支流
荒川
・新川(小倉川の分水)[3]
永野川
 ・出流川
 ・藤川
 ・赤津川       

自然
栃木市内には多くの錦鯉が生息している。最盛期、鯉の数は県庁堀と合わせて10万匹にまでなったとも言われている[9]

橋梁
上流から
・ふるさと橋
・新藤沼橋
・藤沼橋
・新高瀬橋(栃木県道37号栃木粟野線
・高瀬橋
・新蟹田橋(栃木県道37号栃木粟野線)
・蟹田橋(栃木県道309号栃木環状線
・雷電橋
・原ノ橋(栃木県道32号栃木粕尾線
・小平橋
・沖乃橋
・嘉右衛門橋
・泉橋
・大川橋
・開運橋
・常盤橋
・倭橋
幸来橋栃木県道75号栃木佐野線
・巴波川橋
・公園橋(瀬戸河原公園内)
・相生橋
・関門橋(栃木県道11号栃木藤岡線
・開明橋(栃木県道153号南小林栃木線
・新橋
・平成橋(栃木県道31号栃木小山線
両毛線東武日光線
・弁天橋
・金橋
・愛宕橋
・吾妻橋
・寿橋
・感際橋(栃木県道311号小山大平線
・中村橋
・新田橋
・生駒橋(栃木県道36号岩舟小山線
・本郷橋
・新蛍橋(栃木県道153号南小林栃木線
・蛍橋
・新巴波川橋(国道50号
・泉橋
・新泉橋
・雷電橋
・昇明橋(栃木県道160号和泉間々田線
・緑川橋
・巴波橋(栃木県道50号藤岡乙女線
・石川橋(沈下橋

脚注
1. 
a b 金子是久、布川洋之、藤咲雅明「巴波川(栃木県栃木市)における生物多様性の保全と地域の人々の関わり」『景観生態学』第15巻第1号、日本景観生態学会、2010年6月、31-36頁、doi:10.5738/jale.15.31NAID 40017215354
2. 
出張所管理区間 国土交通省利根川上流河川事務所   
 3. 
a b "巴波川"ブリタニカ国際大百科事典コトバンクより2022年2月27日閲覧
4. 
栃木県歴史散歩編集委員会 編 編『栃木県の歴史散歩』山川出版社〈歴史散歩⑨〉、210-211頁。ISBN 978-4-634-24609-6
5. 
郷土玩具の杜 うずまの鯰   
6. 
濁流呑むニケ村『朝日新聞』昭和22年(1947年)9月17日、4版、1面
7. 
平成27年9月関東・東北豪雨 災害・支援・復旧記録”. 栃木市 (2018年10月22日). 2018年9月29日閲覧。
8. 
【台風19号】氾濫で屋形船損傷 橋桁に衝突、復旧見通せず 栃木・蔵の街遊覧船”. 下野新聞社 (2019年10月21日). 2020年12月27日閲覧。
9. 
県庁堀の鯉”. とちぎ旅ネット. 公益財団法人 栃木県観光物産協会. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月17日閲覧。

関連項目
胸形神社 (小山市)      

外部リンク
巴波川 - 栃木市観光協会
・『巴波川』 - コトバンク
「栃木県栃木市にある巴波川の水害の歴史について知りたい。」栃木県立図書館) - レファレンス協同データベース         
(wikiより)

2a

2b

2c




仙台駅構内にあるお店です。

79a

⇧ 店外観

79c

⇧ 牛たんワンタン麺

79e

⇧ 仙薹味噌中華そば









山本有三碑

たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。

山本有三作

路傍の石より
(石碑文より)

〇 山本有三
誕生山本 勇造
1887年7月27日
日本の旗 日本 栃木県下都賀郡栃木町
死没1974年1月11日(86歳没)
日本の旗 日本 静岡県熱海市
墓地近龍寺(栃木市
職業劇作家小説家政治家
最終学歴東京帝国大学文科大学独文科選科
活動期間1920年 - 1974年
ジャンル小説戯曲
文学活動ふりがな廃止論
代表作『嬰児ごろし』(1920年、戯曲)
坂崎出羽守』(1921年、戯曲)
『同志の人々』(1923年、戯曲)
『波』(1923年)
女の一生』(1932年)
真実一路』(1935年)
路傍の石』(1937年)
主な受賞歴文化勲章(1965年)
デビュー作『生命の冠』(1920年)

山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年明治20年〉7月27日 - 1974年昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家政治家[2]。本名:山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。

第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。

来歴
呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[3]高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局、家業を手伝うことになる。

この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している[4]。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校東京中学に通い[5]、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[6]東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。

在学中から『新思潮』創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら[7]、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに政府・軍部の圧迫を受けるようになった。1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された[8]。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。

1936年、三鷹市(当時は東京府下)の洋館に移り住んだ。1926年築の、当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建で、前所有者から買い受けた[9]。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、子供向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担った。編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した[10]

戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年に国会議員の功労として銀杯一組を賜った[11]

1974年1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士[12]。命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。

家族
父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[3]。1907年に脳溢血で死去[3]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[3]だった。

1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[7]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930年)、朋子(1925-2007年)、玲子(1927年-)、鞠子(1928-2010年)の四子をもうける[13][14]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[15]

『破船』事件
夏目漱石門下の久米正雄とは親友だったが女優木下八百子を巡って険悪となり、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い、性的不能者、性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと、久米も松岡も筆子も考えていた[16]。しかしながら久米と筆子の件は夏目門下生と親族以外は知らされておらず、山本がこの件を知っていたとは考えにくい。また、松岡は以前にも似た悪戯を久米にしている。

主な著作
主な著作については、山本有三記念館編「著作表」[17]を参照した。
戯曲
・穴(歌舞伎 明治44年3月)
・女親(『新思潮』大正3年4月)→淀見蔵
・曼殊沙華(『帝国文学』大正3年12月)
・津村教授(『帝国文学』大正8年2月)
・生命の冠(『人間 』大正9年1月)
・嬰児ごろし(『第一義』大正9年6月)
・女親(『人間』大正9年9月)→女おや
・坂崎出羽守(『新小説』大正10年9月)
・指鬘縁起(『改造』大正11年9月)
・同志の人々(『改造』大正12年4月)
・海彦山彦(『女性』大正12年8月)→ウミヒコ・ヤマヒコ
・本尊(『サンデー毎日』大正13年1月)
・熊谷蓮生坊(『改造』大正13年6月)
・スサノヲの命(『婦女界』大正13年9月-10月)→スサノオノミコト
・大磯がよひ(『新潮』大正13年10月)→大磯がよい
・女中の病気(『演劇新潮』大正13年10月)
・父親(『改造』大正14年9月)→父おや
・嘉門と七郎右衛門(『文藝春秋』大正15年6月)
・西郷と大久保(『文藝春秋』昭和2年5月)
・霧の中(『キング』昭和2年11月)※ラジオドラマ
・盲目の弟(『講談倶楽部』昭和4年10月)※シュニッツレルの戯曲の翻案
・女人哀詞(『婦女界』昭和5年1月-3月)
米百俵(『主婦之友』昭和18年1月-2月)

小説・物語
・兄弟(『新小説』大正11年10月)
・雪―シナリオの形を借りて―(『女性』大正14年3月)
・生きとし生けるもの(『朝日新聞』大正15年9月25日-12月7日 未完)
・波(『朝日新聞』昭和3年7月20日-11月22日)
・子役(『改造』昭和6年12月)
・チョコレート(『改造』昭和6年12月)
・風(『朝日新聞』昭和5年10月26日-昭和6年3月25日)
女の一生(『朝日新聞』昭和7年10月20日-昭和8年6月6日 中断)
・不惜身命(『キング』昭和9年1月,3月)→ふしゃくしんみょう
・瘤(『改造』昭和9年12月)→こぶ
真実一路(『主婦之友』昭和10年1月-昭和11年9月)
・はにやみやのクララ(『主婦之友』昭和12年1月-3月)
・ストウ夫人(『主婦之友』昭和13年1月-3月)
路傍の石(『朝日新聞』昭和12年1月1日-6月18日 第一部)
・新篇 路傍の石(『主婦之友』昭和13年11月-昭和15年7月 中絶)
・無事の人(『新潮 』昭和24年4月)
・濁流 雑談 近衛文麿(『毎日新聞』昭和48年4月4日-5月31日、昭和49年3月1日-3月11日)

随筆・評論・談話
・野外劇場(新小説 大正2年11月)
島村抱月先生に 芸術座の「海の夫人」を見て(新思潮 大正3年2月)
・美術劇場と無名会(新思潮 大正3年6月)
・『その妹』の上演(新演芸 大正9年10月)
・『父帰る』を見て(新演芸 大正9年12月)
・芸術は『あらわれ』なり(人間 大正10年5月)
久米正雄に 戯曲集『阿武隈心中』のあとがき(『阿武隈心中』大正10年6月)
・『坂崎出羽守』と悲劇の主人公(読売新聞 大正10年9月6日-7日)
・道しるべ(都新聞 大正12年1月1日)
・Strindbergの読み方(文藝春秋 大正12年5月)
・その日から翌朝まで(改造 大正12年10月)
・大地(随筆 大正12年11月)
・築地小劇場の反省を促す(演劇新潮 大正13年7月)
・翻訳雑感(演劇新潮 大正13年9月)→文学の輸出入
・創作で立とうとする人びとに(文藝講座 大正14年10月)
・小学読本と童話読本(文藝春秋 大正15年1月)
・あに発売禁止のみならんや(改造 大正15年9月)
徳冨蘇峰氏座談会(文藝春秋 昭和2年3月)
・小人国(東京朝日新聞 昭和2年7月15日)
・おみおつけ(大調和 昭和2年9月)
・芥川君の戯曲(文藝春秋 昭和2年9月)
・『嬰児殺し』の評を見て 小山内薫氏に一言(東京朝日新聞 昭和3年12月19日)
・一即多(悲劇喜劇 昭和4年4月)
・いずこに訴えん(『朝日民衆講座第13輯 検閲制度批判』昭和4年12月)
・序にかえて(『山本有三全集』昭和6年2月)
・われらの主張の根本要旨(東京朝日新聞 昭和6年2月4,5,6,10,11,12日)
・『嬰児殺し』漫談(演芸画報 昭和6年10月)
・小学国語読本批判(『小学読本批判座談会』昭和7年4月)
・山本有三氏を中心として純文学の問題を談ず(読売新聞 昭和8年1月11-13日)
・興味とは何か、問題とは何か(読売新聞 昭和8年2月21日)
・直木君の最後(読売新聞 昭和9年2月27日)
・『ウミヒコ・ヤマヒコ』について(現代 昭和10年2月)
・近衛文麿公閑談会(文藝春秋 昭和11年7月)
・近衛公を語る(読売新聞 昭和12年6月2日)
・この本を出版するに当たって(『戦争と二人の婦人』昭和13年4月)
・一問一答・近衛文麿と山本有三(モダン日本 昭和14年10月)
・もじと国民(文藝春秋 昭和16年1月26日)
・雪もちの竹(銀河 昭和22年1月)
・『文化』の役わり(東京新聞 昭和22年4月11日,12日)
・人間菊池(別冊文藝春秋 昭和23年10月)
・現代文壇史(9) 新思潮の頃(文芸 昭和31年2月)
・文化人と国会(中央公論 昭和31年6月)
・アメリカと直線(朝日新聞 昭和32年1月1日)
・『文化の日』が決まるまで(昭和35年11月6日)
・三鷹の思い出(三鷹市報 昭和40年11月3日)
・母の思い出(毎日新聞 昭和41年1月1日)
・からっぽ(『新潮日本文学11 山本有三集』月報 新潮社 昭和44年8月)
・青春を語る――自分に落第点を(『現代日本の文学12 山本有三集』月報 学習研究社 昭和45年5月)
・自然は急がない(読売新聞 昭和45年8月12日)
・死にべた 「あとがき」にかえて(『無事 名作自選 日本現代文学館』ほるぷ出版 昭和47年12月)
・老いの春(毎日新聞 昭和49年1月12日)

詳しいことは、『山本有三碑ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9C%89%E4%B8%89    
(wikiより)


1   山本有三

⇧ 山本有三

1a

1b

1c

1d




松山宿泊の際、道後温泉の帰りに入店

DSC_0598

⇧ 店外観

DSC_0601

⇧ メニュー

DSC_0609

DSC_0612

⇧ お通し ピーマンとじゃこの和え物

DSC_0603

⇧ 喜六 25度 芋焼酎ソーダ割り

DSC_0613

⇧ 寿喜心 雲雀 ( 中 ) 燗酒

DSC_0615

⇧ じゃこ天

DSC_0617

⇧ たこの酢の物

DSC_0619

⇧ さわら炙り

DSC_0623

⇧ 大自然 芋焼酎 屋久島 ソーダ割り

DSC_0628

⇧ 川亀 純米酒 八幡浜

DSC_0631

⇧ 牡蠣フライ

DSC_0633

⇧ 冷酒 雲雀 ( 松山市北条 ) 話せばわかる

DSC_0637

⇧ 穴子の白焼き









戒名は「華嚴院幽玄一竹大居士」

初代久保田 一竹(くぼた いっちく[1]1917年大正6年)10月7日[1] - 2003年平成15年)4月26日[1])は、日本の染色工芸家[2]辻ヶ花と呼ばれる15世紀後半~16世紀前半に失われてしまった染色・装飾技法の復刻への取り組みが世界的に評価されている。

生涯
東京神田の骨董品屋の息子として生まれる。関東大震災で店の商品が全焼し、父親のような道楽商売ではなく自分の腕に技術をつけようと思うようになり、手書き友禅を始める[3]。友禅師の小林清のもとに入門[4]1934年に画家の大橋月皎から人物画を[4]1936年北川春耕から日本画を学ぶ[4]1937年東京国立博物館で目にした室町時代の『辻が花染め』の小裂に魅了される。しかし、辻が花染めは崎友禅斎によって手書き友禅を発明されたことにより、手間がかり値段も高く売れないために廃れてしまっていた。そこで一竹は、再現だけでなく過去の模倣で終わらない現代に息づく独自の染色『辻が花』を確立を目指すべく研究に没頭していく。1944年、27歳で太平洋戦争に応召し出兵。敗戦に伴い捕虜となり、シベリアに抑留される。抑留中も、監視の目を盗み薬品で布を染めたり、防寒具の毛で筆を作り柄を描くなど研究を怠らなかったという。また、この抑留時代にシベリアに沈む太陽を目に焼き付け、後にこれを題材とした着物を制作している[5]


1962年、一竹は、伝統的な辻が花を完璧に復刻するのは技術的に不可能であると判断し、代わりに“一竹辻が花”として自己流の辻が花を発展させることにした。練貫の代用品として、縮緬の絹糸を使用し、草木染の染料の代わりに化学染料を使用した。1977年一竹が60歳の年に初めて自身の装飾着物の展覧会を開催する。1990年には、フランス芸術文化勲章シュバリエを受章[6]

一竹の着物の作品は、“光のシンフォニー”と呼ばれ、“宇宙の威厳”とも評されている。1995年、“宇宙の威厳”の作品の一部がワシントンのスミソニアン博物館に展示された。スミソニアン博物館に存命の芸術家の作品が展示されたのはこれが初めてだった。一竹は生涯で80点の着物のデザインを発案し、そのうち40点を完成させた。一竹のデザインの中には、着物から別の着物へと柄が続き、四季を現した1枚の風景画を表しているユニークなものも存在する。

2003年、逝去。長男の悟嗣が、二代目久保田一竹として後を引き継いだ[7]

脚注
1. a b c 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、394頁。
2. 
伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。
3. 
『NHK映像ファイル あの人に会いたい 【久保田一竹(染色家)】』の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月29日
4. 
a b c 着物買取・売却は着物買取専門店のいわの美術 久保田一竹(1917~2003) 2017年10月28日閲覧
5. 
『所さんのニッポンの出番!』 (2016年5月24日放送回)の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月28日閲覧
6. 
久保田一竹(くぼたいっちく)とは - コトバンク 2017年10月30日閲覧
7. 
伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。

外部リンク
久保田一竹美術館 ITCHIKU KUBOTA ART MUSEUM (日本語)
一竹工房・一竹辻が花 | Itchiku Atelier・Itchiku Tsujigahana (日本語)
The Kubota Collection (英語)
Landscape Kimonos of Itchiku Kubota - Canadian museum of civilization (英語)
久保田一竹 - NHK人物録       
(wikiより)


11 初代・久保田一竹

初代・久保田一竹

11a

11b

11c



新神戸駅で食事でもという事で立ち寄りました。

1573794697020

⇧ 店外観

DSC_0429

⇧ かき揚げそば







↑このページのトップヘ