9007 山本有三碑(栃木県栃木市沼和田町1-1・栃木駅北口ロータリー)
たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。
〇 山本有三
| 誕生 | 山本 勇造 1887年7月27日 |
|---|---|
| 死没 | 1974年1月11日(86歳没) |
| 墓地 | 近龍寺(栃木市) |
| 職業 | 劇作家、小説家、政治家 |
| 最終学歴 | 東京帝国大学文科大学独文科選科 |
| 活動期間 | 1920年 - 1974年 |
| ジャンル | 小説、戯曲 |
| 文学活動 | ふりがな廃止論 |
| 代表作 | 『嬰児ごろし』(1920年、戯曲) 『坂崎出羽守』(1921年、戯曲) 『同志の人々』(1923年、戯曲) 『波』(1923年) 『女の一生』(1932年) 『真実一路』(1935年) 『路傍の石』(1937年) |
| 主な受賞歴 | 文化勲章(1965年) |
| デビュー作 | 『生命の冠』(1920年) |
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家[2]。本名:山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。
第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。
来歴
呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[3]、高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局、家業を手伝うことになる。
この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している[4]。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い[5]、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[6]、東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。
在学中から『新思潮』創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら[7]、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛や芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに政府・軍部の圧迫を受けるようになった。1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された[8]。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。
1936年、三鷹市(当時は東京府下)の洋館に移り住んだ。1926年築の、当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建で、前所有者から買い受けた[9]。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、子供向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担った。編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した[10]。
戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年に国会議員の功労として銀杯一組を賜った[11]。
1974年1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士[12]。命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。
家族
父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[3]。1907年に脳溢血で死去[3]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[3]だった。
1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[7]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930年)、朋子(1925-2007年)、玲子(1927年-)、鞠子(1928-2010年)の四子をもうける[13][14]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[15]。
『破船』事件
夏目漱石門下の久米正雄とは親友だったが女優木下八百子を巡って険悪となり、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い、性的不能者、性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと、久米も松岡も筆子も考えていた[16]。しかしながら久米と筆子の件は夏目門下生と親族以外は知らされておらず、山本がこの件を知っていたとは考えにくい。また、松岡は以前にも似た悪戯を久米にしている。
主な著作
主な著作については、山本有三記念館編「著作表」[17]を参照した。
戯曲
・穴(歌舞伎 明治44年3月)
・女親(『新思潮』大正3年4月)→淀見蔵
・曼殊沙華(『帝国文学』大正3年12月)
・津村教授(『帝国文学』大正8年2月)
・生命の冠(『人間 』大正9年1月)
・嬰児ごろし(『第一義』大正9年6月)
・女親(『人間』大正9年9月)→女おや
・坂崎出羽守(『新小説』大正10年9月)
・指鬘縁起(『改造』大正11年9月)
・同志の人々(『改造』大正12年4月)
・海彦山彦(『女性』大正12年8月)→ウミヒコ・ヤマヒコ
・本尊(『サンデー毎日』大正13年1月)
・熊谷蓮生坊(『改造』大正13年6月)
・スサノヲの命(『婦女界』大正13年9月-10月)→スサノオノミコト
・大磯がよひ(『新潮』大正13年10月)→大磯がよい
・女中の病気(『演劇新潮』大正13年10月)
・父親(『改造』大正14年9月)→父おや
・嘉門と七郎右衛門(『文藝春秋』大正15年6月)
・西郷と大久保(『文藝春秋』昭和2年5月)
・霧の中(『キング』昭和2年11月)※ラジオドラマ
・盲目の弟(『講談倶楽部』昭和4年10月)※シュニッツレルの戯曲の翻案
・女人哀詞(『婦女界』昭和5年1月-3月)
・米百俵(『主婦之友』昭和18年1月-2月)
小説・物語
・兄弟(『新小説』大正11年10月)
・雪―シナリオの形を借りて―(『女性』大正14年3月)
・生きとし生けるもの(『朝日新聞』大正15年9月25日-12月7日 未完)
・波(『朝日新聞』昭和3年7月20日-11月22日)
・子役(『改造』昭和6年12月)
・チョコレート(『改造』昭和6年12月)
・風(『朝日新聞』昭和5年10月26日-昭和6年3月25日)
・女の一生(『朝日新聞』昭和7年10月20日-昭和8年6月6日 中断)
・不惜身命(『キング』昭和9年1月,3月)→ふしゃくしんみょう
・瘤(『改造』昭和9年12月)→こぶ
・真実一路(『主婦之友』昭和10年1月-昭和11年9月)
・はにやみやのクララ(『主婦之友』昭和12年1月-3月)
・ストウ夫人(『主婦之友』昭和13年1月-3月)
・路傍の石(『朝日新聞』昭和12年1月1日-6月18日 第一部)
・新篇 路傍の石(『主婦之友』昭和13年11月-昭和15年7月 中絶)
・無事の人(『新潮 』昭和24年4月)
・濁流 雑談 近衛文麿(『毎日新聞』昭和48年4月4日-5月31日、昭和49年3月1日-3月11日)
随筆・評論・談話
・野外劇場(新小説 大正2年11月)
・島村抱月先生に 芸術座の「海の夫人」を見て(新思潮 大正3年2月)
・美術劇場と無名会(新思潮 大正3年6月)
・『その妹』の上演(新演芸 大正9年10月)
・『父帰る』を見て(新演芸 大正9年12月)
・芸術は『あらわれ』なり(人間 大正10年5月)
・久米正雄に 戯曲集『阿武隈心中』のあとがき(『阿武隈心中』大正10年6月)
・『坂崎出羽守』と悲劇の主人公(読売新聞 大正10年9月6日-7日)
・道しるべ(都新聞 大正12年1月1日)
・Strindbergの読み方(文藝春秋 大正12年5月)
・その日から翌朝まで(改造 大正12年10月)
・大地(随筆 大正12年11月)
・築地小劇場の反省を促す(演劇新潮 大正13年7月)
・翻訳雑感(演劇新潮 大正13年9月)→文学の輸出入
・創作で立とうとする人びとに(文藝講座 大正14年10月)
・小学読本と童話読本(文藝春秋 大正15年1月)
・あに発売禁止のみならんや(改造 大正15年9月)
・徳冨蘇峰氏座談会(文藝春秋 昭和2年3月)
・小人国(東京朝日新聞 昭和2年7月15日)
・おみおつけ(大調和 昭和2年9月)
・芥川君の戯曲(文藝春秋 昭和2年9月)
・『嬰児殺し』の評を見て 小山内薫氏に一言(東京朝日新聞 昭和3年12月19日)
・一即多(悲劇喜劇 昭和4年4月)
・いずこに訴えん(『朝日民衆講座第13輯 検閲制度批判』昭和4年12月)
・序にかえて(『山本有三全集』昭和6年2月)
・われらの主張の根本要旨(東京朝日新聞 昭和6年2月4,5,6,10,11,12日)
・『嬰児殺し』漫談(演芸画報 昭和6年10月)
・小学国語読本批判(『小学読本批判座談会』昭和7年4月)
・山本有三氏を中心として純文学の問題を談ず(読売新聞 昭和8年1月11-13日)
・興味とは何か、問題とは何か(読売新聞 昭和8年2月21日)
・直木君の最後(読売新聞 昭和9年2月27日)
・『ウミヒコ・ヤマヒコ』について(現代 昭和10年2月)
・近衛文麿公閑談会(文藝春秋 昭和11年7月)
・近衛公を語る(読売新聞 昭和12年6月2日)
・この本を出版するに当たって(『戦争と二人の婦人』昭和13年4月)
・一問一答・近衛文麿と山本有三(モダン日本 昭和14年10月)
・もじと国民(文藝春秋 昭和16年1月26日)
・雪もちの竹(銀河 昭和22年1月)
・『文化』の役わり(東京新聞 昭和22年4月11日,12日)
・人間菊池(別冊文藝春秋 昭和23年10月)
・現代文壇史(9) 新思潮の頃(文芸 昭和31年2月)
・文化人と国会(中央公論 昭和31年6月)
・アメリカと直線(朝日新聞 昭和32年1月1日)
・『文化の日』が決まるまで(昭和35年11月6日)
・三鷹の思い出(三鷹市報 昭和40年11月3日)
・母の思い出(毎日新聞 昭和41年1月1日)
・からっぽ(『新潮日本文学11 山本有三集』月報 新潮社 昭和44年8月)
・青春を語る――自分に落第点を(『現代日本の文学12 山本有三集』月報 学習研究社 昭和45年5月)
・自然は急がない(読売新聞 昭和45年8月12日)
・死にべた 「あとがき」にかえて(『無事 名作自選 日本現代文学館』ほるぷ出版 昭和47年12月)
・老いの春(毎日新聞 昭和49年1月12日)
詳しいことは、『山本有三碑ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9C%89%E4%B8%89
(wikiより)

⇧ 山本有三




9006 松山:四季瀬戸の味 たにた
9005 初代・久保田一竹墓(新宿区改代町11・田中寺)
初代久保田 一竹(くぼた いっちく[1]、1917年(大正6年)10月7日[1] - 2003年(平成15年)4月26日[1])は、日本の染色工芸家[2]。辻ヶ花と呼ばれる15世紀後半~16世紀前半に失われてしまった染色・装飾技法の復刻への取り組みが世界的に評価されている。
生涯
東京神田の骨董品屋の息子として生まれる。関東大震災で店の商品が全焼し、父親のような道楽商売ではなく自分の腕に技術をつけようと思うようになり、手書き友禅を始める[3]。友禅師の小林清のもとに入門[4]。1934年に画家の大橋月皎から人物画を[4]、1936年に北川春耕から日本画を学ぶ[4]。1937年、東京国立博物館で目にした室町時代の『辻が花染め』の小裂に魅了される。しかし、辻が花染めは崎友禅斎によって手書き友禅を発明されたことにより、手間がかり値段も高く売れないために廃れてしまっていた。そこで一竹は、再現だけでなく過去の模倣で終わらない現代に息づく独自の染色『辻が花』を確立を目指すべく研究に没頭していく。1944年、27歳で太平洋戦争に応召し出兵。敗戦に伴い捕虜となり、シベリアに抑留される。抑留中も、監視の目を盗み薬品で布を染めたり、防寒具の毛で筆を作り柄を描くなど研究を怠らなかったという。また、この抑留時代にシベリアに沈む太陽を目に焼き付け、後にこれを題材とした着物を制作している[5]。
1962年、一竹は、伝統的な辻が花を完璧に復刻するのは技術的に不可能であると判断し、代わりに“一竹辻が花”として自己流の辻が花を発展させることにした。練貫の代用品として、縮緬の絹糸を使用し、草木染の染料の代わりに化学染料を使用した。1977年一竹が60歳の年に初めて自身の装飾着物の展覧会を開催する。1990年には、フランス芸術文化勲章シュバリエを受章[6]。
一竹の着物の作品は、“光のシンフォニー”と呼ばれ、“宇宙の威厳”とも評されている。1995年、“宇宙の威厳”の作品の一部がワシントンのスミソニアン博物館に展示された。スミソニアン博物館に存命の芸術家の作品が展示されたのはこれが初めてだった。一竹は生涯で80点の着物のデザインを発案し、そのうち40点を完成させた。一竹のデザインの中には、着物から別の着物へと柄が続き、四季を現した1枚の風景画を表しているユニークなものも存在する。
2003年、逝去。長男の悟嗣が、二代目久保田一竹として後を引き継いだ[7]。
脚注
1. a b c 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、394頁。
2. “伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。
3. 『NHK映像ファイル あの人に会いたい 【久保田一竹(染色家)】』の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月29日
4. a b c 着物買取・売却は着物買取専門店のいわの美術 久保田一竹(1917~2003) 2017年10月28日閲覧
5. 『所さんのニッポンの出番!』 (2016年5月24日放送回)の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月28日閲覧
6. 久保田一竹(くぼたいっちく)とは - コトバンク 2017年10月30日閲覧
7. “伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。
外部リンク
・久保田一竹美術館 ITCHIKU KUBOTA ART MUSEUM (日本語)
・一竹工房・一竹辻が花 | Itchiku Atelier・Itchiku Tsujigahana (日本語)
・The Kubota Collection (英語)
・Landscape Kimonos of Itchiku Kubota - Canadian museum of civilization (英語)
・久保田一竹 - NHK人物録
(wikiより)
9004 新神戸駅:臼臼 新神戸店
9003 立神煉瓦倉庫群(佐世保市立神町)
9002 有馬温泉:なかさ
9001 田中穂積と美しき天然(長崎県佐世保市下船越町403・展海峰展望台)
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。
略歴
・1855年(安政2年)- 吉川藩(現在の山口県岩国市)藩士田中判右衛門の次男として誕生。
・1867年(慶応3年)- 岩国藩日新隊に入隊し、鼓手を務める。
・1873年(明治6年)- 志願して海兵隊に入隊、五等鼓手を命ぜられ、軍楽隊に配属される。
・1890年(明治23年)- 海軍軍楽師(准士官)に任命される。
・1895年(明治28年)- 勲八等受勲、瑞宝章受章。大本営付きとなり、明治天皇の側近で奉仕。
・1899年(明治32年)- 佐世保鎮守府に第三代軍楽長として赴任。
・1902年(明治35年)- 私立佐世保女学校で音楽を教授。音楽教材として代表作「美しき天然」を作曲。
・1904年(明治37年)- 長崎県佐世保市にて心臓麻痺で死去(享年49)。同市東山町の海軍墓地(現在の東公園、通称:東山公園)に眠る。
代表作
代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツであり且つヨナ抜き短調曲とされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
その他の作品
・如何に狂風
・軍人勅諭
・黄海海戦
・勇敢なる水兵
参考資料
・アジア歴史資料センターレファレンスコードA10110571800、12頁以下
・創立百周年記念「成徳」(2002年(平成14年)9月30日発行, 佐世保市立成徳高等女学校同窓会)
関連項目
・軍歌
・軍楽隊
・野口寧斎(1906年、義弟の野口男三郎の裁判時に流行した、演歌「ああ世は夢か幻か」に「美しき天然」の旋律が使われた。)
(wikiより)


9000 姫路:たこまるたこ焼き
8999 九十九詩人歌碑(長崎県佐世保市下船越町403・展海峰展望台)
8998 浅草:馬賊
8997 九十九島展海峰(長崎県佐世保市下船越町399)
8996 高知 : 高知アイスいろいろ
8995 旧佐世保海軍工廟250トン起重機(佐世保市立神町)
8994 博多:博多純情ラーメン Shin Shin
8993 旧佐世保海軍工廟第七船船渠(佐世保市立神町)
8992 函館:函館ビヤホール
8991 カトリック三浦町教会(長崎県佐世保市三浦町4-25)
| 所在地 | 長崎県佐世保市三浦町4番25号 |
|---|---|
| 国 | |
| 教派 | カトリック教会 |
| ウェブサイト | https://miurakyokai.com/ |
| 歴史 | |
| 創設日 | 1891年 |
| 守護聖人 | イエスの御心 |
| 管轄 | |
| 教区 | カトリック長崎大司教区 |
| 教会管区 | カトリック長崎教会管区 |
| 聖職者 | |
| 大主教 (大司教) | ペトロ中村倫明(2013年度から司教叙階まで主任司祭を務めた) |
| 主任司祭 | ミカエル中島誠志 |
カトリック三浦町教会(カトリックみうらちょうきょうかい[1])は、長崎県佐世保市三浦町にあるキリスト教の教会ならびにその聖堂である。駅周辺のランドマークとして佐世保市を代表する建築物であるとして、2004年に第6回佐世保市景観デザイン賞に選定された[2][3]。
教会の保護者
・至聖なるイエスの聖心
沿革
元々は市役所に近い谷郷町に1897年(明治30年)に建てられた。その後、3代目の主任司祭である脇田浅五郎(後の横浜教区長)の奔走により現在地に新しい教会堂を建設することになり、1931年(昭和6年)12月8日(無原罪の聖マリアの祝日)に献堂式が執り行われた[4]。
佐世保駅前の左手正面の丘に建つ教会堂であり、軍港(佐世保港)周辺施設を一望できることから第二次世界大戦中は軍からの監視を受け、さらに空襲をさけるためとして白い外壁にコールタールを塗られ黒一色の姿になったが、1945年(昭和20年)6月28日の佐世保大空襲では焼失を免れている。
終戦後は外壁も元通りの白い姿に戻されたが、教会堂のすぐ下を走る国道35号の拡幅に伴い前の山が削られ、擁壁に途中折り返し付きの急な階段で登る現在の形になっている。
所在地
・〒857-0863 長崎県佐世保市三浦町4番25号
アクセス
・JR・松浦鉄道佐世保駅から徒歩3分
・西肥バス(させぼバスも含む)「戸尾町」下車
周辺情報
1. 聖心幼稚園 - 同敷地内にある学校法人純心女子学園が経営する幼稚園。園舎の耐震性不足など諸事情により2017年3月をもって閉園。
2. アルカスSASEBO - 国道を挟んで正面にある多目的ホール。
3. 佐世保駅
4. えきマチ1丁目佐世保
5. 四ヶ町商店街
脚注
1. 『カトリック教会情報ハンドブック2014』 教会五十音順索引(p355) カトリック中央協議会 ISBN 9784-877505530
2. 第6回佐世保市景観デザイン賞 佐世保市役所
3. 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 p46 長崎文献社 ISBN 9784-88851-0912
4. 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 p137 長崎文献社 ISBN 9784-88851-0912
関連項目
・カトリック長崎大司教区
外部リンク
・三浦町教会のホームページ
・聖心幼稚園 - リンク切れ
(wikiより)

8990 函館:ひさご寿司
8989 戸尾市場(とんねる横丁)(佐世保市戸尾町)
8988 神保町:中華料理 三幸園
8987 下士官兵集合所跡と旧佐世保橋(長崎県佐世保市平瀬町)
8986 中華そば 雑司ヶ谷:ターキー
8985 旧佐世保鎮守府凱旋記念館(長崎県佐世保市平瀬町2)
〇 旧佐世保鎮守府凱旋記念館
旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(きゅうかいぐんさせぼちんじゅふがいせんきねんかん)は、長崎県佐世保市平瀬町にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている。佐世保港付近に点在する旧海軍にまつわる近代化遺産の一つ。
第一次世界大戦で海軍佐世保鎮守府に所属する艦艇が連合国側に属して地中海等で戦い活躍したことを記念して建てられたものである。現在は佐世保市が管理する佐世保市民文化ホールとなり、市民による演劇や音楽の練習及び発表の場となっている。 2014から翌2015年にかけて耐震性向上のための構造補強を主目的とした改修工事が行われ、同時に外観や内装の修復と一部創建当時への復元を行っている。
建築概要
・竣工 1923年(大正12年)
・構造 鉄筋コンクリート造2階建
・所在地 佐世保市平瀬町2
歴史
・1923年(大正12年) 現在地に竣工。海軍の行事や合同葬に使用された。
・1939年(昭和14年)4月13日、伊六十三潜海軍合同葬が執り行なわれた。
・1945年(昭和20年) 米軍に接収される。
・1982年(昭和57年) 佐世保市に返還され、その後現在の市民文化ホールとなる。
・1997年(平成9年) 国の登録有形文化財になる。
・2005年(平成17年) 第7回佐世保市景観デザイン賞に選ばれる。
・2014年(平成26年) 3月から構造補強及び外観・内装の復元を目的として改修工事を開始。翌2015年11月竣工。事業費約4億6,900万円。
・2016年(平成28年) 日本遺産『鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~』の構成資産として指定される。
アクセス
西肥バス(させぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車すぐ。
周辺
・海上自衛隊佐世保地方総監部
・海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
・佐世保市総合医療センター - 旧海軍下士官兵集会所の跡地に建てられている。
・佐世保橋(海軍橋)
・佐世保中央インターチェンジ
関連項目
・登録有形文化財一覧
(wikiより)


8984 茅ケ崎:イル・ド・ショコラ 茅ヶ崎店
8983 海上自衛隊佐世保資料館(長崎県佐世保市上町8-1)
| 施設情報 | |
|---|---|
| 正式名称 | 海上自衛隊 佐世保史料館 |
| 愛称 | セイルタワー |
| 前身 | 海上自衛隊防衛資料館 |
| 専門分野 | 旧日本海軍・海上自衛隊の史料収蔵と広報 |
| 事業主体 | 海上自衛隊 |
| 開館 | 1997年(平成9年)3月 |
| 所在地 | 〒857-0058 長崎県佐世保市上町8-1 |
| 位置 | 北緯33度10分26秒 東経129度42分49秒 |
海上自衛隊佐世保史料館(かいじょうじえいたいさせぼしりょうかん)は長崎県佐世保市にある海上自衛隊及び大日本帝国海軍に関する史料館。愛称は「セイルタワー」。1997年(平成9年)3月10日に現在地に開館した。
概要
1968年(昭和43年)、佐世保市平瀬町の佐世保補給所内(現・平瀬庁舎)に設けられた海自防衛資料館が前身。旧日本海軍・佐世保鎮守府時代から海上自衛隊にいたる現在までの資料約4,400点を収蔵、そのうち約1,300点を常設展示している。映像や写真、模型、当時の資料などを通じ、旧海軍、自衛隊の変遷を知ることができる。
建物は7階建て。1・2階部分は、旧海軍時代に将校の宿泊、福利厚生施設として利用していた「佐世保水交社」の建物の一部を再利用している。国際通り側に突き出た石張りの八角屋根がかつての雰囲気を感じさせる。3階以上はガラス張りの現代的な建物となっている。屋上部の構造物が船の帆にも見えることから「セイルタワー」の愛称で親しまれている。
施設
・7階 展望所、映像ホール 展望所からは佐世保港や米海軍佐世保基地などが一望でき、映像ホールでは海上自衛隊のPR映画を上映している。
・6階 長崎海軍伝習所から佐世保鎮守府開設までの歩み
・5階 日清戦争、日露戦争
・4階 太平洋戦争
・3階 海上自衛隊の艦船、歴史
・2階 海上自衛隊の装備、活動(南極観測船、災害派遣、海外派遣など)、図書室
・1階 売店、企画・特別展示
入館者はいったんエレベーターで7階に昇り、1階ずつ降りていく。
基本情報
※外部リンクにある佐世保地方隊公式サイトも参照のこと。
・開館時間:9:30~17:00
・休館日:毎月第3木曜日及び年末・年始(12月28日~1月4日)
・入館料:無料(入館の際、1階受付で署名が必要)
2009年(平成21年)の行政刷新会議による事業仕分けにおいて、参議院議員の蓮舫(後の行政刷新担当相)が入場料を徴収するよう指摘したことを受け、2010年(平成22年)11月1日より「当面の間」高校生を除く18歳以上の大人が400円、小・中・高校生が200円の有料制とされた[1](陸上自衛隊広報センター・航空自衛隊浜松広報館との同時実施)が、有料化に伴い入場者数が激減したなどの理由から同実験は2011年2月1日付をもって終了した[2]。
・駐車場:普通車約20台、大型バス6台(無料)
交通アクセス
・西九州自動車道佐世保中央インターチェンジより車で1分
・西肥バス(させぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車、徒歩2分
・国道35号松浦交差点から車で2分
注
1. 防衛省・自衛隊:自衛隊の大規模広報施設に係る入場料の徴収に関する実験の実施について2010年10月22日、防衛省
2. 事業番号0062 平成23年度行政事業レビューシート(防衛省)
関連項目
・海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)
・鹿屋航空基地史料館
・海事博物館
外部リンク
・佐世保史料館(セイルタワー)(佐世保地方隊公式サイト内)
(wikiより)

⇧ 海上自衛隊佐世保資料館

⇧⇩ 護衛艦くらまの錨


8982 秋葉原:新福菜館 秋葉原店
8981 日本最西端佐世保駅(長崎県佐世保市三浦町21-1)
| 所在地 | 長崎県佐世保市三浦町21-1 |
|---|---|
| 所属事業者 | ■九州旅客鉄道(JR九州) ■松浦鉄道 |
| 電報略号 | サホ |
| 駅構造 | 高架駅 |
| ホーム | (JR九州)3面6線 (松浦鉄道)1面2線 |
| 乗車人員 -統計年度- | (JR九州)2,600人/日(降車客含まず) -2021年- |
| 乗降人員 -統計年度- | (松浦鉄道)1,392人/日 -2021年- |
| 開業年月日 | 1898年(明治31年)1月20日[1] |
| 乗入路線 2 路線 | |
| 所属路線 | ■佐世保線 (■大村線直通含む) |
| キロ程 | 48.8 km(江北起点) |
◄日宇 (3.4 km) | |
| 所属路線 | ■西九州線 |
| キロ程 | 93.8 km(有田起点) |
◄佐世保中央 (1.0 km) | |
| 備考 | 共同使用駅 JR九州:直営駅 JR九州:みどりの窓口 有[2] 松浦鉄道:有人駅 |
佐世保駅(させぼえき)は、長崎県佐世保市三浦町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・松浦鉄道の駅である。
概要
長崎県北部の主要都市である佐世保市の中心駅であり、JR九州の佐世保線と松浦鉄道の西九州線の2路線が乗り入れている。両路線とも当駅が終点で全列車が当駅始発・終着で運転される。2009年3月14日から、松浦鉄道の列車が1往復JR線に直通運転を行っていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で直通運転を休止した。佐世保線と西九州線の他、早岐駅を起点とするJR九州大村線の列車もほとんどが当駅を始発・終着としており、利用可能である。
西九州線はかつて日本国有鉄道(国鉄)→JR九州が松浦線として管轄していたが、1988年4月1日に松浦鉄道に経営移管されたのに合わせて西九州線に改称した。同時に当駅はJRグループ全駅中最西端の駅かつ日本最西端の終着駅となった(これはJRも松浦鉄道も当駅を終点としているため)。
佐世保市は人口では長崎県第2の自治体であるが、当駅の利用者数は長崎駅、諫早駅に次いで県内では3位となっている。
歴史
・1898年(明治31年)1月20日:九州鉄道の駅として開業[1]。
・1907年(明治40年)7月1日:九州鉄道が国有化[1]。同時に当駅は国有鉄道の最西端駅となる。
・1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定により、早岐駅 - 佐世保駅間に佐世保線の名称が付けられ、当駅は佐世保線の終点となる。
・1934年(昭和9年)12月1日:長崎本線が現行の肥前鹿島駅経由のルートに変更されたのに伴い、旧ルートのうち肥前山口駅(現・江北駅) - 早岐駅間を佐世保線に編入。
・1935年(昭和10年)11月9日:佐世保線が北佐世保駅まで延長[3]。これにより当駅は佐世保線の中間駅となると共に、国有鉄道最西端の駅の座も失うこととなった。
・1937年(昭和12年)8月25日:鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎に改築、竣工[4]。この駅舎は戦災も免れて高架化まで使用された。
・駅舎の位置は現駅舎東口(国道35号線側)の早岐方約50mほどのところ。現在は東口駅前広場となっている。
・1943年(昭和18年)8月30日:佐世保線の当駅 - 北佐世保駅間を松浦線に編入。これにより当駅は佐世保線と松浦線の駅となり、両線の終点となる。
・1985年(昭和60年)3月14日:貨物営業を廃止[1]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道(JR九州)の駅となる[1]。
・1988年(昭和63年)4月1日:JR九州松浦線が松浦鉄道西九州線に転換される[3]。これにより、当駅は国鉄・JRの駅としては52年ぶりに最西端に戻る。
・1990年(平成2年)11月2日:駅舎の内外装リニューアル[5]。
・1995年(平成7年)1月30日:高架化工事に着手[6]。
・2001年(平成13年)12月26日:高架化[7]。新駅舎完成[7]。
・2002年(平成14年)3月23日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
・2006年(平成18年)3月18日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
・2009年(平成21年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
・2010年(平成22年)3月 - JR改札口に自動改札機を設置。
・2020年(令和2年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
・2024年(令和6年)度:ICカード「SUGOCA」の利用が可能となる(予定)[8]。
※高架化前(旧駅時代)はJR九州では最後となる赤帽が配置されている駅であった。
JR・松浦鉄道の両社一体の高架駅であり、高架下は駅舎・コンコースとなっている。国道側は「東口」、佐世保港側は「みなと口」となっており、東口側から見て左がJR九州の駅、右が松浦鉄道の駅となっている。JR九州、松浦鉄道とも有人駅で自動券売機を備えている。
JR九州の窓口は高架下にありみどりの窓口を備えている[2]。なお松浦鉄道は当駅を含めて自動改札機は一切設置していないため、当駅は九州最西端の自動改札機設置駅となる。松浦鉄道の窓口は高架部(ホーム)にあり、窓口そばに自動券売機があるが、窓口の営業時間外には券売機は使用できない。なお松浦鉄道は終日車内精算で、乗車時には整理券を取り、降車時には運賃または切符と引き換えに精算証明書を運転士または車掌から受け取る。また松浦鉄道ではnimoca(SUGOCAなどの相互利用可能ICカードを含む)が利用可能であるが駅構内に対応機器はなく、車内のカードリーダーに触れることで精算を行う。
コンコース内にはKIOSKやファミリーマートをはじめとする売店、佐世保観光情報センターなどがある。東口側には佐世保バーガーの店である「ログキット」もある。
ホーム
JR九州は島式ホーム3面6線、松浦鉄道は島式ホーム1面2線を有しており、いずれも東口側からみなと口側に向かって1番のりばから6番のりば(JR九州)または2番のりば(松浦鉄道)まで付番されている。JR九州のホームは改札口から続く連絡通路を介してそれぞれ結ばれており、松浦鉄道のホームにはコンコースから直接階段またはエスカレーターによって行き来する。JR九州のホームにはそれぞれエスカレーターとエレベーターが備えられている。
なお、2020年8月8日よりJR5・6番のりばは使用休止となり(それまでは早朝の佐世保線普通列車3本と、18時台の普通列車5本及び「シーサイドライナー」1本が使用していた)、立ち入りできなくなっている[9]。
JR1・2番のりばホームと松浦鉄道のホームは一体となっており、境界部に松浦鉄道管理の連絡改札がある。JR2番のりばは佐世保線と西九州線の直通が可能であるため、直通列車はこのホームを使用する。ただし2020年3月14日以降はJR線と松浦鉄道線を直通する定期列車は設定されていない。
詳しいことは、「佐世保駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E9%A7%85
(wikiより)


8980 函館:函館麺屋 ゆうみん
8979 海童神社(長崎県南松浦郡新上五島町有川郷・有川港ターミナル)
〇 海童神社 (新上五島町)
| 所在地 | 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷 |
|---|---|
| 位置 | 北緯32度59分12.2秒 東経129度06分51.2秒 |
| 主祭神 | 海童神 |
| 社格等 | 旧無格社 |
| 創建 | 不詳 |

⇧ 応護島頂上の祠

⇧ 鯨の顎骨の鳥居
海童神社(かいどうじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社である。鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名。
祭神
海童神を主祭神に、蛭子神を配祀する。
配祀神の蛭子神は、合祀された船津地区・蛭子神社の祭神である。
歴史
創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、「元和3年(1617年)~同5年にかけて、有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、海童神を奉祀した」と記載されている。また、「翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、二〇加踊り(にわかおどり)と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、溺死者はなくなった」とされる。その後も二〇加(俄)の奉納は毎年行われ、現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。
しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。江戸時代中期(18世紀)から明治初期(19世紀後葉)にかけて、村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、慶応4年(1868年)に記された祖母君神社の縁起書によると、「慶長3年(1598年)の祖母君神社奉遷の際、それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、これに因んで島の名前を応護島とした」と記述されている。また、当時は「乙名役」という役職もなく、「高井良福右衛門」という人物も宝暦5年(1755年)以降に記述があり、この時期には存在していないことが確認された。
文久4年(1864年)の資料では「宝暦2年(1752年)6月17日に、船乗り等の水難防止を祈願して通りもの(行列)を始めた」との記述がある。また、全国に伝承される俄の諸記録によると、いずれも江戸中期(18世紀中頃)の「通りもの(練りもの)」から始まり、大阪・京都・江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、江戸時代初頭(19世紀初)より「二〇加(俄)」の芸態が確立されたとされ、有川村が江戸時代最初期(17世紀初頭)から全国に先駆け「二〇加」を創始していたとは考えにくいため、江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。
明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年(1908年)に祖母君神社に合祀されている。この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年(1927年)に鳥居を建立し、同48年(1973年)に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。 平成16年(2004年)には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。
祭祀
主な祭礼・神事
・十七日祭(7月)
・魚供養祭(8月)
その他の神社
その他の有川郷の神社に有川神社がある。

有川神社
参考文献
・『有川町郷土誌 平成6年』有川町郷土誌編纂委員会
・『有川の歴史の虚実』荒木文朗著 平成16年刊
・『有川二〇加』荒木文朗著 平成19年刊
(wikiより)





8978 函館:満腹食堂
8977 歌碑(長崎県南松浦郡新上五島町有川郷・有川港ターミナル)
8976 函館:函館ダイニング 雅家
8975 第五十代横綱佐田の山関之像(長崎県南松浦郡新上五島町有川郷・有川港ターミナル)
〇 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )
| 基礎情報 | |
|---|---|
| 四股名 | 佐々田 晋松 → 佐田ノ山 晋松 → 佐田の山 晋松 → 佐田乃山 照也 → 佐田の山 晋松 |
| 本名 | 市川(旧姓:佐々田)晋松 |
| 愛称 | ノッポの晋松・出羽三羽烏 |
| 生年月日 | 1938年2月18日 |
| 没年月日 | 2017年4月27日(79歳没) |
| 出身 | (現:新上五島町) |
| 身長 | 182cm |
| 体重 | 129kg |
| BMI | 38.94 |
| 所属部屋 | 出羽海部屋 |
| 得意技 | 突っ張り、右四つ、寄り、上手投げ |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 第50代横綱 |
| 生涯戦歴 | 591勝251敗61休(71場所) |
| 幕内戦歴 | 435勝164敗61休(44場所) |
| 優勝 | 幕内最高優勝6回 |
| 賞 | 殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞1回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1956年1月場所 |
| 入幕 | 1961年1月場所 |
| 引退 | 1968年3月場所 |
| 備考 | |
| 金星2個(若乃花1個、朝潮1個) | |
佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日[1])は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。
来歴
英雄・五ツ嶋に憧れて入門
南松浦郡有川町(現:長崎県南松浦郡新上五島町)で船大工を営む家に生まれる。子どもの頃から材木を運んだり、カンナをかけたりして体を作っていた[2]。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされ、土地相撲に連れて行かれる内に相撲に憧れを抱き、角界入りを希望するが母親からは猛反対された[注 1]。長崎県立上五島高等学校に進学後は相撲部に所属し、3年生で長崎県大会に参加を勧誘されて一度は辞退したものの、強引な説得に根負けして補欠選手として出場するが、いざ対戦してみるとほとんど負けなかったことから自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年のある日、栃錦清隆・千代の山雅信一行が地元・五島に巡業に来た際に、高校教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、郷土の英雄である五ツ嶋への憧れが強かったことから出羽海部屋へ入門、翌日からは洗面道具と下着だけを持参してそのまま巡業に参加したが、高校の卒業証書は教諭の計らいでようやくもらえた。
1956年1月場所で初土俵を踏むと、稽古では部屋のすぐ前に立っていた電信柱を鉄砲柱代わりとして打ちこむなど努力を重ねた。後に佐田の山は「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」と振り返っている[3][リンク切れ]。各段優勝こそないものの負け越すことなく1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。新入幕の場所では10勝5敗の好成績を挙げ、同年3月場所では前頭4枚目まで躍進するが、場所前の稽古で右足首を捻挫する。稽古熱心さから「『横綱、大関ってどんなだろう』と内心ワクワクしていた」というが、出羽海からは「まだ若いから無理するな。それより足首をしっかり治せ。慢性になるとまずいぞ」と言われて全休する[4]。これによって一度は番付を下げるが、休場中に体重が急激に増加して力を増すようになった。同年5月場所では12勝3敗の好成績で、三役経験の無い力士による幕内最高優勝を果たした[5][注 2]が、成績もさることながら対戦した三役格力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森政夫と対戦して敗れているため、周囲からは優勝の祝福より「最高優勝は十両(の清ノ森)ではないか」との意見まで出る始末だった[注 3]。このために翌場所以降は、通常なら幕内上位や三役以上、横綱と対戦することが無い幕内下位の力士でも、成績次第で終盤に取組が組まれるよう編成するきっかけになったと言われている[注 4]。
ジンクスを打ち砕き横綱へ
幕内最高優勝を新入幕から僅か3場所で果たした佐田の山は一気に番付を上げ、東前頭2枚目の地位で迎えた1961年7月場所は朝潮、若乃花の両横綱から金星を挙げ、11勝4敗の好成績を挙げて殊勲賞を受賞した[4]。同年9月場所では小結を通り越して関脇に昇進し、この場所を8勝7敗と勝ち越すと、それ以降三役に定着する。1962年3月場所は初日から10連勝して、13勝2敗と前場所以上の好成績を残した[4]。この場所を含めて本割で5戦全敗だった横綱・大鵬幸喜との優勝決定戦に臨み、見事に勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に場所後の大関昇進を確実にした[5]。快進撃を続ける佐田の山に対し、部屋の大先輩である出羽錦忠雄は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったらワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言い、佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが、1964年9月場所を最後に現役を引退し、太刀持ちは叶わなかった。大先輩の引退を受けてより早期の昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗の好成績を挙げ、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を果たして横綱に推挙された[5]。長年にわたり、「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた[注 5]。昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」のみであった[6]。
出羽錦忠雄が待ち望んでいた横綱昇進をようやく叶えた佐田の山は、横綱2場所目の1965年5月場所で14勝1敗の成績を残し、4度目の幕内最高優勝を果たした。しかしこれ以降は持病の高血圧に加え、胃腸炎も患い2年以上に渡って優勝から遠のいた[4]。それでも直向きに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗、1968年1月場所では13勝2敗の成績を挙げて自身初の連覇を達成した。佐田の山はこれが最後の華となり、同年3月場所で序盤に3敗を喫すると、あっさり現役引退を表明した[5][7]。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を果たし、周囲からはさらに優勝回数を重ねるだろうと思われていた矢先の現役引退は角界に衝撃が走り、「高見山大五郎に金星を献上したことが悔しかったのではないか[注 6]」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で考えていた」という。戦前に活躍した栃木山守也、常ノ花寛市のように出羽海一門の横綱の「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われたが、この引退には、「晩年の柏戸、大鵬を追いて自分だけ先に引退とは身勝手だ。功利的だ。」という意見も飛び交ったが、時津風理事長は「いさぎよい引退だ。引退することで横綱の権威を高めてくれた。」と述べた[8]。
同年6月に蔵前国技館で行われた引退相撲では、直近の5月場所で大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことを受けて、露払いに同部屋の福の花孝一、太刀持ちに海乃山勇を従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例だった当時としては異例の組み合わせだが、2003年の貴乃花光司以降は、大関以下の現役力士が務める場合も増えた。
出羽海部屋継承
引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、既に横綱昇進の時点で部屋の土地および建物が佐田の山名義となっていた[4]。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰が見ても明白だったが、出羽海は佐田の山の引退を受けて即座に部屋を継承させ、自身は過去に襲名していた「武蔵川」に戻った。これには佐田の山も「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続ければ良かった」と発言していたという。1969年12月の時津風(14代)との対談においても「実際、現役の時には苦しいこともあったけれども、相撲をとって自分本位に一生懸命働いていれば自分のためになると同時に部屋のためになる。それを若い者も見習ってくれるし、非常に良かったんだけれでも今度は反対ですからね。人のことでも世話していかなきゃならんし、指導せんといかんしね」と苦労を語っている。出羽海部屋継承の時点では自身を含めて11名の年寄が在籍していたが、全員が先輩格ばかりだったために部屋を継承しても名実が伴わない面が多かったと話していた[9]。
出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった(武隈・九重は一門を破門された)が、現役時代から可愛がっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていることを知るとこれを許可し、1919年の栃木山守也(春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。出羽海は独立について「私は不文律にはこだわらない。優秀な親方であればどんどん弟子を養成させたい。協会運営も部屋運営もこれからますます複雑になってくるから、活発に動き回らないとダメなんです」と話している[10]。その後も出羽海一門では1980年代まで分家独立が相次ぎ、2019年9月時点では出羽海一門が最も所属部屋数の多い一門となった。
稽古の厳しさも有名で、朝5時には稽古場に下りて土俵に鋭い視線を送り続けた出羽海について、小城ノ花昭和は「師匠(佐田の山)が入って来ると稽古場がピリッと引き締まった。少しでも気を抜くと怒られ、出稽古に来る他の部屋の力士からも『出羽海部屋は入りにくい』と言われた」と語るほどだった。また、幕下以下の力士は部屋にいると何もすることがなく、フラフラし出すことから午後は四股を踏ませ、特に相撲を知らない序二段の力士は無暗に稽古土俵に上げてぶつかり稽古をやらせても稽古にならないため、当番的に幕下または三段目の胸を貸すのが上手い力士を土俵に上げ、入門1年未満の新弟子をぶつからせた[9]。このように弟子の指導には非常に厳しい一方で、弟子の龍興山一人が1990年2月に急逝した際には通常なら番付から名前が消されるところを、3月場所が龍興山の地元・大阪で開催されることから「名前だけでも凱旋させてあげたい」と尽力し、龍興山の自己最高位となった東前頭5枚目に名前を記載した[11]。
師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。 三重ノ海の横綱昇進披露宴の時には、普通は大関・横綱昇進で集まったご祝儀の3割を師匠が取る仕来たりとされているのに対して、出羽海は披露宴で集まった莫大なご祝儀全額をそっくりそのまま三重ノ海に渡して、金銭にきれいな姿勢を見せて人々を驚かせた。裏でウジウジ他人を中傷したり、チクチク弱いものいじめをするようなケチ根性が全くない、肚を割って話した人はすごく気持ちがいい人物と一様に話す、人間的にスカッとした親方だったという[12]。
相撲協会幹部として
「蔵前の天皇」と言われた武蔵川の娘婿で、角界の保守本流・出羽海一門の本家である出羽海部屋を継承したことから、将来の理事長候補としてみなされており、師匠であり岳父の武蔵川は、出羽海王国を築き上げた角聖・ 常陸山の話や、「相撲を昔ながらの伝統として存続させながら、同時に時代にあった姿に変えていかねばならない。それには世界の情勢、日本経済の動向、時代の流れを見抜く頭脳が必要だ。不景気の時に相撲が反映したのは江戸時代の話で、世の中が不景気なら相撲も不景気になる。」という考えを基に帝王学を授けた[8]。武蔵川は出羽海を現役時代のライバルだった 時津風(14代)と仕事で組ませたが、それは時津風が出羽海同様に引退間もなく若くして一門の総帥部屋である名門を継承した境遇であるのと、当時の角界では珍しかった大学卒であり、引退後に政財界と付き合うために大学卒の思考を学ばせるためだった。佐田の山は引退後、武蔵川の教えの通りに膨大な読書をした[13]。
1970年の日本相撲協会役員改選では、出羽海一門の親方衆は長らく役員を務めた秀ノ山と交代して、若き総帥・出羽海を監事に据える決定をしたが、「自分はまだ早い、先輩の秀ノ山さんが引き続き監事をやってください。」と自ら先輩に譲り出羽海一門の親方衆を茫然とさせた[14]。秀ノ山親方が逝去した後の1972年に監事・審判部副部長に主任(1972年から1期)、1974年から理事を務め、名古屋場所担当部長、指導普及部長、巡業部長、事業部長を歴任する。
1980年には相撲協会ナンバー3(当時)のポストである巡業部長に就任した時は、最初の地方巡業で事務役や土俵作りを担当する黒子の行司、呼び出し一同を集め、「なんでもいい、言いたいこと、筋の立たない話があれば申し出てみろ。もっともな話は取り上げ、改善しようじゃないか。」と切り出して、行司や呼び出しを驚かせる。意見を具申すると、理にかなった意見は取り上げられて改善されたので、これまで下積みの働きにただ我慢するしかなかった行司、呼び出しからの深い尊敬を集めた[12]。 出羽海巡業部長の登場は、二期四年続いた”土俵の鬼”二子山巡業部長の後任だったため関取衆もはじめ好奇の眼で迎えたが、地方巡業先の稽古土俵に座った出羽海は、土俵の鬼同様の厳しさ、怖さが滲み出て、相撲記者から「いま関取全員を有無言わさずに稽古に引っ張っていける双璧が二子山と出羽海だ」と言われ、関取衆は地方巡業の稽古土俵で気が抜けないと言われた[12]。
1982年の役員人事で時津風(14代)と共に協会執行部である在京常勤役員に抜擢され、両国国技館建設に邁進する春日野理事長・二子山理事長代行兼事業部長体制を支える要の位置に就き、業務遂行の随所で「斬れ者」ぶりを発揮した[12]。
1988年に二子山理事長が誕生すると、協会ナンバー2の事業部長に就任、次期理事長見習として協会運営を遂行した。
相撲協会理事長就任
1992年からは二子山理事長の勇退によって日本相撲協会理事長に就任する。 時津風(14代)をナンバー2の事業部長、同門の親友である春日野(14代)をナンバー3の巡業部長に、役員待遇で放駒(17代)を在京常勤・執行部に起用する。
1996年には境川と名跡を交換し、出羽海 智敬から「境川 尚」となった。3期6年に渡る理事長時代には、
1. 外国人力士の入門規制(1992年)
2. 新規入門力士の年齢制限(1992年)
3. 幕下付出の基準設定(1992年)
4. 巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更(1995年)
などの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。
しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の廃案に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を「守旧派」として批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。
1. 年寄名跡の「協会による一括管理」という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること
2. 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済み[注 7]という既得権益を得る立場にあること
こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣・高田川が1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初めてとなる「理事選挙」が実施された[注 8]。結果として2名とも理事に当選したため、境川は混乱の責任を取る形で4期目の理事長続投を断念した。この直後に還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退し、使用予定だった赤い綱を受け取るだけとなった。
また、理事長時代の1992年9月場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に場内アナウンスで訂正される場面もあった。
晩年
一連の騒動によって4期目を断念したものの理事職には留まり、1998年からは相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長を歴任する[4]。理事長経験者による現場復帰は異例で、自身も1976年以来24年ぶりの審判部長着任だった。この時代には大関昇進目安を満たしていた琴光喜啓司の昇進を見送ったことで話題となった。
2002年からは日本相撲協会の相談役に就任し、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡交換を行い、年寄・中立を襲名したのち同年2月18日に停年退職した。退職後はスポーツ報知専属の相撲評論家を務め、年間最優秀力士賞選考委員も務めた。
舞の海秀平のコラムによると、佐田の山は亡くなる10年ほど前に地元・五島列島で開催された少年相撲大会に顔を見せたのが生涯最後の帰郷となった。舞の海は佐田の山の死後、「この時から病を患っていたのかもしれない」と当時を推測していた[7]。元新聞記者の室雄二のブログによると70歳を過ぎた頃より認知症が悪化したといい[15]、2009年の報知年間最優秀力士賞の選考会が行われた際には、会場には到着したものの記帳時に自分の名前を書くことが出来なかったという。後日、「これ以上皆様にご迷惑を掛けたくないので、選考委員を辞退させて頂きたい」という連絡が報知新聞社の関係者へ来ており、記者が佐田の山に会ったのはこれが最後だった[3]。
2010年9月1日の若乃花幹士死去以降、元横綱の最年長だったが、2017年4月27日午前3時15分、肺炎により死去していたことが[16]同年5月1日に公表された[1]。79歳没。故人の遺志により、葬儀は親族のみで執り行われた[17][18]。2017年に入ってからは心筋梗塞で入退院を繰り返していたという[4]。
詳しいことは、「佐田の山晋松 - Wikipediaウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%B1%B1%E6%99%8B%E6%9D%BE

⇧ 第五十代横綱佐田の山 ( 佐田の山 晋松 )



8974 柳橋:梅花亭
8973 有川港ターミナル(長崎県南松浦郡新上五島町有川郷)
8972 野田:そば処 喜むら
8971 池内蔵太墓(長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷)
経歴
土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。1861年、20歳で江戸に出て安井息軒に師事し[1]、様々な藩の志士と交流した。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。1863年、山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられた。しかし、同年5月には土佐藩から脱藩して長州藩へ赴き、長州の外国船襲撃では長州軍の遊撃隊参謀となっている[2]。
文久3年(1863年)8月、土佐脱藩の吉村寅太郎を中心とした天誅組の大和挙兵に幹部として参加。大和国五条代官所襲撃後、大和行幸への協力を要請するため紀州藩へ派遣されるが、その途中で八月十八日の政変の知らせを受け、急遽五条に戻った。天誅組が高取城攻略に失敗し、周辺諸藩から追討軍が派遣されると、熊野方面へ退却する方針が決まる。内蔵太は土佐脱藩の吉村や那須信吾らと共に徹底抗戦を主張し、別働隊として追討軍を迎え打つが守備陣地は陥落し十津川郷へ退却する。しかし、十津川郷士の離反を受けた天誅組は活動継続が不可能となって解散が決定していた。内蔵太は石田英吉らと共に主将中山忠光を護衛し大和の山中を逃走し、追討軍の包囲を破って大坂の長州藩邸へと逃れることに成功する。そのため内蔵太は(忠光を除いた)天誅組の役付きの幹部勢の中で唯一生きて畿内から脱出する事ができた。
その後、長州に落ち延びた内蔵太は、諸藩の脱藩浪士が中心となって結成された忠勇隊を指揮し、元治元年7月(1864年8月)、禁門の変に参加するが、破れて敗走する。
1865年5月、同郷で旧知の仲の坂本龍馬と下関で再会し、亀山社中に加わり行動をともにした[2]。しかし慶応2年(1866年)閏5月、長崎から薩摩藩領鹿児島へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中、長崎県中通島の東、潮合崎沖において、暴風のため船が暗礁に乗り上げ転覆し亡くなった[2][3]。享年26[2]。明治31年(1898年)7月、贈従四位[4]。
墓所は京都府の霊山墓地。長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷には坂本龍馬建立と伝わる慰霊碑がある。
龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている[要出典]。
作品
漫画
・『お〜い!竜馬』(原作:武田鉄矢、作画:小山ゆう)
TVドラマ
・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 桐谷健太)
TVアニメ
・『ねこねこ日本史』(Eテレ、白井悠介)
TVゲーム
・『維新の嵐』(コーエー、1988年)
脚注
1. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 82頁。
2. a b c d “池内蔵太邸跡”. 高知県立坂本龍馬記念館. 2022年11月25日閲覧。
3. “「祈りの龍馬像」建立10年で式典 新上五島、五島の住民グループ”. 長崎新聞. 2022年11月25日閲覧。
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.9
(wikiより)
8970 名古屋:味仙 JR名古屋駅店
8969 柴田勝家一族の墓(長崎県南松浦郡新上五島町)
8968 有楽町:交通飯店
8967 カトリック青砂浦教会(長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241)
| 所在地 | 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241 |
|---|---|
| 国 | |
| 教派 | カトリック教会 |
| 歴史 | |
| 守護聖人 | 大天使聖ミカエル |
| 管轄 | |
| 教区 | カトリック長崎大司教区 |
| 教会管区 | カトリック長崎教会管区 |
| 聖職者 | |
| 主教 (司教) | ペトロ中村倫明 |
| 主任司祭 | ドミニコ鳥瀬文武 |
青砂ヶ浦天主堂(あおさがうらてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町にあるキリスト教(カトリック)の聖堂。五島列島の中通島北部に位置し、2001年(平成13年)に国の重要文化財に指定されている[1]
教会の保護者
・大天使聖ミカエル
略史
・1878年(明治11年) - 江戸時代に外海地方から移住し、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒により初代の聖堂建設
・1900年(明治33年) - 青砂ヶ浦小教区設立
・1910年(明治43年)10月17日 - 3代目となる赤煉瓦造りの聖堂(現在の建物)が完成
・1984年(昭和59年) - 大規模な改修が行われる
・2001年(平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1]
建物の概要
・構造:煉瓦造平屋、瓦葺き
・様式・意匠:平面は三廊式バシリカ型、内部は木造円柱で身廊と側廊に区切り、天井はリブ・ヴォールト天井とする
・設計・施工:鉄川与助
青砂ヶ浦天主堂は、長崎県を中心に数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助が建てた3つ目の教会堂であり、煉瓦造りの教会としては2つ目となる。ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、構成資産の見直しにより外され、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[2]。
平面規模は間口11.3メートル、奥行23.4メートル。外壁はイギリス煉瓦積。西側正面は3層に区切り、バラ窓や縦長のアーチを設ける。正面入口左右には柱頭に葉形装飾のある円柱があり、その上部を尖頭アーチとする。内部はアーケード(連続アーチとそれを支える柱列)によって身廊と左右の側廊に分け、身廊、側廊ともに天井は四分割リブ・ヴォールトとする。内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つである。[3]
所在地
〒 857-4402 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷1241
アクセス
・青方港(中通島)から車で約15分
・有川港(中通島)から車で約20分
・西肥バス「青砂ヶ浦天主堂前」バス停下車すぐ、「青砂浦別道」バス停下車徒歩約15分
脚注
・a b 平成13年11月14日文部科学省告示第164号(参照:青砂ヶ浦天主堂 文化遺産データベース 文化庁、青砂ヶ浦天主堂 長崎県学芸文化課)
・関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、pp.33 - 35
参考文献
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年) ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 9784888510912
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、2002年
関連項目
・カトリック長崎大司教区
(wikiより)



8966 有楽町:中園亭
8965 池田鴻墓(長崎県南松浦郡新上五島町浦桑郷1189・浄福寺)
| 生誕 | 1939年3月13日 |
|---|---|
| 出身地 | |
| 死没 | 1988年3月5日(48歳没) |
| 学歴 | 早稲田大学 |
| ジャンル | ミュージカル アニメソング |
| 職業 | 俳優 歌手 |
| 担当楽器 | 歌 |
| 活動期間 | (アニソン歌手としては1976年 - 1988年) |
| レーベル | キングレコード |
池田 鴻(いけだ こう、本名:池田 幸鴻[1](いけだ ゆきひろ)、1939年3月13日[1] - 1988年3月5日)は、日本の俳優、歌手。おぎいくこ事務所に所属していた[1]。
略歴
長崎県出身[1]。早稲田大学を卒業[1]した後、劇団四季、東京キッドブラザーズに所属し数々の舞台を踏む一方、テレビドラマでも重厚な存在感を見せた。
また歌手としても活動、いくつもの特撮・アニメ主題歌をリリースした。『機動戦士ガンダム』のオープニングテーマ「翔べ! ガンダム」は代表作として知られている。
1988年3月5日、直腸癌により48歳で死去。彼の墓は南松浦郡新上五島町浦桑郷の浄福寺にある。
特技は舞踊[1]、歌唱[1]。
出演
テレビドラマ
・大河ドラマ(NHK)
・天と地と(1969年)
・花神(1977年) - 槙村半九郎
・草燃える 第50回「三浦義村の策謀」(1979年) - 藤原忠綱
・獅子の時代(1980年) - 通弁
・峠の群像(1982年) - 仲買人
・徳川家康 (1983年) - 津川義冬
・山河燃ゆ(1984年)
・春の波涛(1985年) - 岡崎高厚・
・新・日本剣客伝 第2話「中村半次郎」(1969年、NET) - 大久保一蔵
・女人平家(1971年 - 1972年、ABC) - 三善康信
・なつかしき海の歌(1975年、TBS)
・新宿警察 第3話「新宿ろくでなし」(1975年、CX)
・夜明けの刑事 第67話「君は妻娘を殺されたらどうする!!」(1976年、TBS / 大映テレビ) - 村岡隆一郎
・特別機動捜査隊(NET)
・第758話「愛情の海」(1976年) - 中杉成吾
・第797話「夕陽の波止場」(1977年) - 沖口
・大都会シリーズ(NTV / 石原プロ)
・大都会 闘いの日々 第19話「受難」(1976年)
・大都会 PARTIII 第45話「深夜の殺人者」(1979年) - 田代警視
・太陽にほえろ!(NTV / 東宝)
・第231話「孤独」(1976年) - 七曲署捜査三係刑事
・第270話「殿下とライオン」(1977年) - 三田村雅文(スーパーエルフ店長)
・第307話「反転」(1978年) - 島崎編集長
・第457話「長さんが刑事を辞めたくなった」(1981年) - 矢追信用金庫支店長
・第518話「忘れていたもの」(1982年) - 前尾健三
・第550話「俺はプロだ!」(1983年) - 谷原秘書
・第563話「たすけて!」(1983年) - 南郷不動産社長
・第589話「共謀」(1984年) - 伊藤
・第601話「アイドル」(1984年) - 東洋テレビリポーター
・太陽にほえろ! PART2 第9話「見知らぬ侵入者」(1987年) - パールマンション管理人
・破れ奉行 第12話「悲愁! 八千両の鈴」(1977年、ANB)
・日本の戦後 第4集「それは、晩餐から始まった 財閥解体への道」(1977年、NHK)
・特捜最前線(ANB)
・第28話「恐喝 にせ女子大生日記」(1977年) - 岡崎助教授
・第38話「バスジャック・光なき娘へのハレルヤ」(1977年) - 警視庁南新宿署長
・第100話「レイプ・17歳の記録!」(1979年)
・第350話「殺人トリックの女!」(1984年)
・華麗なる刑事 第20話「黒衣の女」(1977年、CX / 東宝) - 海老沢
・ロボット110番 第36話「二人のパパ」 (1977年、ANB) - 夢野一路
・青春の門 第二部 (1978年、MBS)
・七人の刑事 第3シーズン(TBS)
・第3話「ブルートレインはふるさと行」(1978年)
・第63話「顔を買う男」(1979年)
・達磨大助事件帳 第23話「地獄への落し穴」(1978年、ANB / 前進座 / 国際放映) - 池永
・チェックメイト78 第9話「警部とピアノ殺人楽章」(1978年、ABC / テレパック)
・消えた巨人軍 最終話(1978年、NTV / 東映) - 三上課長
・不毛地帯 第15話(1979年、MBS) - 刑事
・特別企画三時間ドラマ 日立スペシャル / 大いなる朝(1979年、TBS)
・おやこ刑事 第16話「ディスコ・レディ全裸殺人事件」(1979年、12ch)
・騎馬奉行 第13話「湖底の黄金を探せ!」(1980年)
・Gメンシリーズ(TBS / 近藤照男プロ)
・Gメン'75 第264話「悪魔の棲む家」(1980年) - 井沢拓郎
・Gメン'82 第16話「花嫁強盗団」(1983年) - 鑑識員
・仮面ライダースーパー1 第7話「ドグマ式生きているコンピューター」(1980年、MBS / 東映) - 山下博士
・西武スペシャル / 隣りの女-現代西鶴物語-(1981年、TBS)
・2年B組仙八先生(1981年、TBS)
・新五捕物帳 第166話「はかなき百両の恋」(1981年、NTV)
・土曜ワイド劇場
・死者の木霊 信濃路バラバラ殺人事件(1982年) - 野本敏夫
・松本清張の溺れ谷(1983年)
・牟田刑事官事件ファイル 第1作「事件の眼 信濃路にいた女」(1983年)
・家路の果て 建売住宅ローン殺人事件! ラブホテルで主婦が焼死!(1985年)
・松本清張の黒い樹海(1986年)
・勇者は語らず いま、日米自動車戦争は 第2話「きょう、オハイオの大地に立つ」(1983年、NHK) - ティム・クボタ
・ザ・ハングマンシリーズ(ABC / 松竹)
・新ハングマン 第19話「浮浪者を襲う医大教授と浮気婦人」(1983年) - 浅田事務局長(東都医科大学)
・ザ・ハングマン4 第25話「痛快ダブルハンギング!! さようならありがたや節」(1985年) - 平瀬(隆友ジャーナル幹部)
・メタルヒーローシリーズ(ANB / 東映)
・宇宙刑事シャリバン 第28話「キャンパスは風速80Mの猛烈ストーム」(1983年) - 大神豊教授(キャンパスビースト人間態)
・巨獣特捜ジャスピオン 第32話「お手伝いロボットの真夜中のアルバイト」(1985年) - チップ
・必殺仕事人IV 第2話「秀、少女の謎を明かす」(1983年、ABC / 松竹) - 牧野内膳正
・右門捕物帖 第33話「冬の風鈴」(1983年、NTV)
・スペシャルドラマ(TBS)
・風にむかってマイウェイ(1984年) - 横山武敏
・イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち(1985年)
・金曜ドラマ / 夫婦生活(1985年、TBS)
・金曜女のドラマスペシャル(CX)
・おふくろシリーズ 第2作「おふくろ殿」(1985年)
・小さな目撃者 ママとあっちゃんの推理ポケット(1988年)
・火曜サスペンス劇場 / 女からの眺め 女だけで犯した20億円強奪作戦(1987年、NTV) - 犬猫病院先生
CM
・マクドナルド
主な曲
タイアップ
・怒れ勇者よバトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 主題歌)
・正義の闘士バトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 副主題歌)
・飛べ!グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 主題歌)
・ゴーゴー・グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 副主題歌)
・きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』イメージソング)
・おれのマシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』 イメージソング)
・翔べ! ガンダム(アニメ『機動戦士ガンダム』 オープニングテーマ)
・永遠にアムロ(アニメ『機動戦士ガンダム』 エンディングテーマ)
カバーソング
・セタップ! 仮面ライダーX(『仮面ライダーX』OP)
・おれはグレートマジンガー(『グレートマジンガー』OP)
・ゲッターロボ!(『ゲッターロボ』OP)
・仮面ライダーストロンガーのうた(『仮面ライダーストロンガー』OP)
・勇者ライディーン(『勇者ライディーン』OP)
・とべ!グレンダイザー(『UFOロボ グレンダイザー』OP)
・立て!闘将ダイモス(『闘将ダイモス』OP)
・グランプリの鷹(『アローエンブレム グランプリの鷹』OP)
・フラッシュ!イナズマン(『イナズマンF』OP)
・秘密戦隊ゴレンジャー(『秘密戦隊ゴレンジャー』ED)
・猿の軍団(『SFドラマ 猿の軍団』OP)
・ジムボタンの歌(『ジムボタン』OP)
・ピンポンパン体操'74
・およげ!たいやきくん
他多数。
その他
・オリバー君のロックンロール(オリバー君ブームの際に作られたイメージソング。1976年発売)
・恋するオリバー君(「オリバー君のロックンロール」シングルB面)
・やっぱりジャイアンツ(読売ジャイアンツ応援歌。1980年発売)
出典
1. a b c d e f g 『日本タレント名鑑'82』VIPタイムズ社、1981年、21頁。
(wikiより)

⇧ 池田 鴻



⇧ 墓碑書の文字はペギー葉山さんです。
8964 美瑛駅(北海道美瑛町本町1-1)
歴史
・1899年(明治32年)
・9月1日:北海道官設鉄道十勝線旭川駅 - 当駅間開業にともない設置[1]。一般駅[1]。
・11月15日:当駅 - 上富良野駅間延伸開業。
・1905年(明治38年)4月1日:鉄道作業局に移管[1]。
・1909年(明治42年)10月12日:所属路線が釧路線に改称。
・1913年(大正2年)11月10日:所属路線が富良野線に改称。
・1949年(昭和24年)6月1日:公共企業体である日本国有鉄道に移管。
・1951年(昭和26年)9月:旧駅舎が手狭になったため、駅舎改築を決定[4][5]。
・1952年(昭和27年)1月30日:美瑛軟石を用いた現駅舎が竣工[4][5][6]。
・総工費404万円中、町が113万3000円を負担した[4]。
・1954年(昭和29年)
・月日不詳:4名の町民が在町50年を記念して大時計を寄贈し、駅舎正面玄関上に掲げる[4][5]。
・9月26日:台風15号(洞爺丸台風)により大時計が駅舎片屋根と共に飛散[4][5]。
・1959年(昭和34年)12月15日:美瑛町開町60年を記念し、5名の町民が再度大時計を寄贈し、駅舎正面玄関に掲げる[5]。
・1960年(昭和35年)1月:職員宿舎2棟6戸建設[5]。
・1961年(昭和36年)5月20日:国鉄合理化のモデルケースとして、美瑛駅に6中間駅を含む経営と、従来旭川保線区美瑛線路分区が担っていた保線業務(保線班)を統括させる美瑛運輸区を設置[5]。
・1962年(昭和37年)10月:美瑛町農業協同組合専用線(186 m)新設[5]。
・1964年(昭和39年)
・6月1日:前年に町と旭川鉄道管理局で協定が結ばれ、同年5月17日に建設省から許可された駅前広場造成事業(駅前広場や周辺街路の舗装等)に着手[7]。同年は総事業量の65%を施行し、残りは翌年度施工(当初計画)[7]。
・9月:4番線土場を舗装[5]。
・1965年(昭和40年)
・10月:駅前広場完成[7]。
・12月:色灯式信号機に変更[5]。
・1966年(昭和41年)
・1月31日:「所期の目的を達成」として美瑛運輸区廃止。旭川保線区美瑛線路分区を分離[5]。
・11月:女性専用便所新設[5]。
・1967年(昭和42年)10月:4番線土場の舗装を拡大[5]。
・1968年(昭和43年)10月:駅上下ホーム舗装、駅宿舎1棟改築[5]。
・1982年(昭和57年)11月15日:貨物取扱い廃止[1]。
・1984年(昭和59年)2月1日:荷物取扱い廃止[1]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1]。。
・2024年(令和6年)4月1日:業務委託化[8]。
駅名の由来
「美瑛川#川名の由来」および「美瑛町#町名の由来」も参照
駅構造
2面2線の相対式ホームをもつ地上駅[6]。ホーム間の移動は跨線橋を使う。
駅舎は富良野方に向かって左側のホームに隣接して設けられている[6]。現駅舎は1952年(昭和27年)に新築竣工した平屋鉄骨鉄筋石造(290.5 m2)で[4][9]、当時国鉄旭川鉄道管理局建築課に在籍していた新田進が設計した[9]。国鉄時代の駅舎としては珍しい石造であり、合計3,400才(≒6.133 m3)の美瑛軟石が用いられている[4]。
北海道ジェイ・アール・サービスネットに駅業務を受託している業務委託駅である[2]。みどりの窓口が設置されている。

改札口・みどりの窓口(2021年5月)

ホーム(2021年5月)

跨線橋(2021年5月)
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。
駅正面側 (美瑛市街)
市街地は1989年(平成元年)から2001年(平成13年)にかけ駅を中心に商店を集約し、付帯施設を整備する区画整理を実施した。併せて屋根勾配を揃える、高さの制限、ファサードに美瑛軟石を用いるなどの建築協定を定め、統一感ある街並みとしている[15]。
・北海道道213号天人峡美瑛線・北海道道543号上宇莫別美瑛停車場線
・道の駅びえい「丘のくら」(石造倉庫・物産施設・ふれあい舘ラヴニール)
・美瑛町役場(四季の塔)
・美瑛郵便局
・旭川信用金庫美瑛支店
・北海道銀行美瑛支店
・美瑛町農業協同組合(JAびえい)
・四季の情報館(観光案内所)
・美瑛町立美瑛小学校
・北海道美瑛高等学校
・美瑛町図書館
・道北バス・美瑛町営バス・ノースライナー「美瑛駅前」停留所
・旭川東警察署美瑛交番
駅裏
・ふらのバス「美瑛駅」停留所
・セブンスターの木(タバコのパッケージに使われた木)
・アラポテトの丘(ポテトチップスのCMで撮影されたジャガイモ畑)
隣の駅
北海道旅客鉄道 (JR北海道)
■富良野線
千代ヶ岡駅 (F35) - *北美瑛駅 (F36) - 美瑛駅 (F37) - 美馬牛駅 (F38)
*:一部の上り列車は北美瑛駅を通過する。
脚注
出典
1. a b c d e f g 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、887頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
2. a b “直営店舗および受託駅一覧 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
3. 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、235頁。doi:10.11501/1873236。2022年12月10日閲覧。
4. a b c d e f g h i 美瑛町役場 編『美瑛町史』 2巻、美瑛町、1959年、226‐228頁。doi:10.11501/3450767。2023年1月2日閲覧。
5. a b c d e f g h i j k l m n o 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、487-493頁。doi:10.11501/9490659。2023年1月3日閲覧。
6. a b c d 宮脇俊三、原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、124頁。ISBN 4-09-395401-1。
7. a b c 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、221-222, 487-493, 496頁。doi:10.11501/9490659。2023年1月3日閲覧。
8. “沿革 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
9. a b c 馬場, 知己「駅のうつりかわり(2)―鉄道旅客駅変遷史―」『汎交通』第83巻第11号、日本交通協会、1983年11月、21-29頁、doi:10.11501/2793339、2023年1月3日閲覧。
10. 照井八重治 編『美瑛村史』照井八重治、1917年11月5日、45-46頁。doi:10.11501/951643。2023年1月3日閲覧。
11. “平成25年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2013年). 2018年2月8日閲覧。
12. “平成29年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2017年). 2018年2月8日閲覧。
13. a b c 令和元年度美瑛町町勢要覧 2020年9月24日閲覧
14. 令和2年度美瑛町町勢要覧 2021年5月1日閲覧
15. 内藤, 清二「区画整理事業による中心市街地活性化に向けて―建築協定によって良好な環境を創造―」『道路 : road engineering & management review』第685号、日本道路協会、1998年3月、33-36頁、doi:10.11501/3309363、2023年1月3日閲覧。
(wikiより)

⇧ 駅外観

⇧ 駅舎内



⇧ ホーム
8963 浄福寺(長崎県南松浦郡新上五島町浦桑郷1189)
8962 神田明神下:笹一葉 みやび本舗
8961 鉄川與助墓(南松浦郡新上五島町)
| 生誕 | 1879年(明治12年)1月13日 (現 長崎県南松浦郡新上五島町) |
|---|---|
| 死没 | 1976年7月5日(97歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | 有川高等小学校 |
| 職業 | 建築家 |
| 受賞 | 黄綬褒章(1959年) 勲五等瑞宝章(1967年) |
| 所属 | 鉄川組 |
来歴
1879年(明治12年)、長崎県の五島列島を構成する島の一つである中通島の青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)
有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年に黄綬褒章、1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。
多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]。
晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]。
五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]。
「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9
設計・施工に携わった寺院
・浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗
・元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派
・得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派
脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209
3. a b “【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 大刀洗町ホームページ
参考文献
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X。
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001。
伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年
関連項目
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
外部リンク
・長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)



⇧ ボケちゃいました。

⇧ 鉄川與助。





8960 根津:中川屋
8959 鉄川與助旧居(南松浦郡新上五島町丸尾郷)
〇 鉄川與助
| 生誕 | 1879年(明治12年)1月13日 (現 長崎県南松浦郡新上五島町) |
|---|---|
| 死没 | 1976年7月5日(97歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | 有川高等小学校 |
| 職業 | 建築家 |
| 受賞 | 黄綬褒章(1959年) 勲五等瑞宝章(1967年) |
| 所属 | 鉄川組 |
来歴
1879年(明治12年)、長崎県の五島列島を構成する島の一つである中通島の青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)
有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年に黄綬褒章、1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。
多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]。
晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]。
五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]。
「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9
設計・施工に携わった寺院
・浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗
・元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派
・得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派
脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209
3. a b “【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 大刀洗町ホームページ
参考文献
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X。
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001。
伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年
関連項目
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
外部リンク
・長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)





































































































































































































