本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

※ 御注意  ※ 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有りますが、その場合は『 生前墓 』と表示してあります。

すでに『 撤去 』された墓石もあります 確認が取れたものには『 撤去済み 』と表示してありますが、撤去済みで確認が取れていないものについては「 表示されていません 」

画像は再訪したときに再撮影して差し替える場合もあります。

※ 申し訳御座いませんが『 画像の転用 』は絶対に禁止とさせて頂きます。

皆様から拍手をいただけるとめっちゃモチベーションが上がります。

コメントは原則公開させていただいております

質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては「ブロック」します ブロックした場合解除する事は有りません。

皆様と楽しみながらブログを続けて行ければ幸いです 宜しくお願いします。

※ ブログ記事につきましては、撮影時のウィキペディアを引用しているため現在とは違う場合も有ります。

上田城三の丸にある現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館 ( きょかん ) 跡であり、「御屋形 ( おやかた )」と呼ばれていた。

四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。

堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺 ( 135.5m )、南北が七十四間二尺であった。

屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。

屋形は入り口側から、御表 ( おんおもて )・勝手・御奥 ( おんおく ) の三つの殿舎群に分けられていた。

御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。

勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
(案内板より)

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横須賀名物のポテチパンと数点購入しました。

のり塩のポテトチップとキャベツをマヨネーズで合えたものを挟んでありますが、素朴で美味しかったです。

購入したら出来るだけ早く食べましょう

キャベツから水分が出るのでポテチの食感が悪くなっちゃいます。

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⇧ 店外観

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中井パン店 ( 食べログ )






レモン色の秘密(ガス燈のしくみ)

タイマーでセットされた時刻になるとガス弁が開き、灯具内のバーナーにガスが送られ点火プラグによるスパークで着火します。

ガス燈のムードあるレモン色の光はバーナーで熱せられたマントルという発行体のはなつ光です。
(案内板より)

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ひと恋し火とぼしころを桜ちる

白雄 ( しらお )( 1738 ~ 1791 ) は本名を加舎 ( かや ) 吉春といい、与謝蕪村とならび称される天明時代の俳人である。

元文三年、上田藩士の次男として江戸深川に生まれ、鳥酔 ( ちょうすい ) 鳥明 ( うめい ) に俳諧を学んで蕉風俳諧の復興、定着に生涯をかけた。

上田は白雄のふるさとであるばかりでなく、俳人としての出発をこの地で飾り、広く信州の庶民文化を啓発した。

ここに自筆による代表作を刻し永くその遺徳、功績を後世に伝えるものである。

平成二年十月吉日 加舎白雄顕彰保存会
(案内板より)

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長野県宝 上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)

種別    建造物
所在地   上田市二の丸
推定年月日 昭和 34年 11月 9日

上田城は、真田正幸によって天正 11年 ( 1583 ) から築城が開始された平城である。

城郭自体の規模はさほど大きくないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵 ( あまがふち ) に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。

この上田城の特性は、天正 13年 ( 1585 ) と慶長 5年 ( 1600 ) の 2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。

しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓 ( すみやぐら ) や石垣は、寛永 3 ~ 5年 ( 1626 ~ 28 ) にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。

仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請 ( ふしん )( 土木工事 ) は完成したものの、櫓や城門を建てる作事 ( さくじ )( 建築工事 ) は本丸のみの未完成に終わった。

本丸には、天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と 2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。

上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。

現存する 3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口 ( こぐち )( 城郭の出入り口 ) に建つ 1棟 ( 西櫓 ) は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の 2棟 ( 南櫓・北櫓 ) は、明治初期に民間に払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買戻し、昭和 18 ~ 24年にかけて現在の場所に復元したものである。

これら三棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和 34年に長野県宝に指定された。

三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行 ( けたゆき ) 五間、梁間 ( はりま ) 四間の妻入り形式である。

屋根は入母屋 ( いりもや ) 造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁 ( しろしっくいぬりごめおおかべ ) で、腰下見板張 ( こししたみいたば ) り、内部は、白漆喰塗りの真壁 ( しんかべ ) になっている。

窓は白漆喰塗りの格子 ( こうし ) 窓で、突き上げ板戸が付いている。

なお、本丸東虎口櫓門と紬塀は、明治 10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成 6年に復元したものである。

櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋 ( どばし ) には、両側に武者立石段 ( むしゃたていしだん ) と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
(案内板より)

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米熊は長門国長府藩士・三吉慎蔵の長男として、万延元年 ( 1860) 山口県下関市に生まれた。

成人し上京後、駒場農学校 ( 現東大農学部 ) を卒業。

同郷出身者の薦めがあって長野県の職員となる。

その後蚕業事情視察のため渡欧し、二年間養蚕技術を習得帰国後、明治二十五年日本で最初の蚕業教育の学校である小県蚕業学校 ( 現上田東高等学校 ) の初代校長に就任。

また、明治四十三年開校の上田蚕糸専門学校 ( 現信州大学繊維学部 ) の創立委員と教授を兼ねた。

昭和二年逝去するまで実に三十六年間蚕業教育に情熱を傾けた。

当時の日本経済を支えた蚕糸業に寄与した功績は計り知れない。


米熊の父の慎蔵は、薩長同盟締結や大政奉還に尽力した土佐の坂本龍馬の盟友「槍の慎蔵」として知られている人物である。

維新後も明治の元勲らとも交流を続け、龍馬と同様に新しい日本の夜明けの礎を築いたひとりである。


米熊は父・慎蔵と同じく中央から立身出世の再三の誘いがあっても、栄達を望まずこの異郷の地、上田で終生蚕業教育発展のために身を捧げたのである。
(案内板より)

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二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に轟き大坂夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。

幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本 ( ひのもといち ) の兵 ( つわもの )」と称されました。

自ら信じる道を民と共に歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしています。

真田神社奉賛会
(案内板より)

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大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。

真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。

現在ある石垣は仙石忠政が造ったものである。

真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
(案内板より)

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 明治時代、上田街学校の校長だった久米由太郎を称える碑

日本人・久米先生碑

題額 上田市長 淺井敬吾先生

先生名ハ由太郎東京ノ人ナリ曾テ東京師範學校ニ學ヒ業ヲ卒ヘテ福島縣訓導ヲ奉シ尋テ長野縣ニ轉シ上田小學校長ニ任ス先生性寡黙謹厳ニシテ恪勤常ニ率先シテ衆人ヲ導キ言行一致ス在職五年學績大ニ舉リ令名頗ル高シ曩ニ本縣カ教育王國ノ讃辭ヲ贏チ得タル所以モ亦先生訓育ノ功興リテ大ナリトス然ルニ明治三十一年三月不幸ニシテ火ヲ失シ貴重ナル記念校舎鳥有ニ歸ス蓋シ同校舎ハ曾テ

明治天皇在所タリ先生恐慴シテ謹愼スルコト数日遂ニ決然トシテ自刃シ以テ其ノ罪ヲ天下ニ謝ス時ニ先生四十七歳ナル當時恰モ政争激甚ヲ極メ此活教育ノ至寳ヲ敢テ顯彰スルモノ之ガ爲ニ去ル者日ニ疎クシテ四十有七年ヲ閲ス昭和十九年五月大東亞青年同盟上田支部ハ此ノ列々タル先生ノ遺徳堙没センコトヲ憂ヘテ慰霊祭を擧行シ朝野ノ名士ヲ招シテ大講演會ヲ開キ以テ先生ノ徳ヲ表ハス眞ニ當代ノ殷鑑タリ今茲昭和二十年右支部及ヒ遺弟ノ有志ニヨリテ先生彰徳ノ碑ヲ其ノ殉職ノ地ニ建テ以テ後世ニ貽サントス冀クハ後進ノ士民ハ先ノ遺訓ヲ體シ君國ノ為メ大ニ重責ニ任センコトヲ望ミ建碑ノ梗概ヲ記ス云爾

大東亜青年同盟参議細田晦堂撰文

   従七位勲八等 堀内義謹書
(案内板より)

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みすず飴みす(みすずあめ)は、長野県で製造、販売されているゼリー菓子である。

概要
みすず飴は果汁に水飴等を加え寒天で固めたもので、弾力性があって柔かく果汁の風味と独特の歯ごたえが好まる。飴どうし、あるいは飴と包装紙がつかないようオブラートでくるむか、砂糖をまぶすなどの処置が施されている。商品としてはセロファンで包まれたものと、紙の包装のものがあり、セロファンで包まれたものは首都圏でも売られている。みすゞ飴、みすず飴は特に上田市周辺の長野県土産の常連で、や土産店でも目立つ場所に置かれている。

「みす飴」[1]と「みす飴」[2]は株式会社飯島商店の登録商標であるため、他社が同様の商品を販売する際はそれを避けるため「寒天ゼリー」という名称で売られている。

歴史
みすゞ飴、みすず飴は大正8年(1919年)、上田市株式会社飯島商店の飯島新三郎によって翁飴をヒントに開発された。信州というイメージで商品化するという狙いからみすず飴とつけられた。最初はアンズ、イチゴ、リンゴの三種類であった。[3]現在ではアンズ、梅、三宝柑、ぶどう、もも、りんごの6種類である。ちなみに高麗人参抽出液のみを使用した製品が存在するがこちらは「みすゞ人参糖」と呼ばれている。また、杏果汁を原料とした製品は「みすゞ杏」の名で独立販売されていたことがある。

脚注
1. 
「みすゞ飴」商標登録 第1645947号
2. 
「みすず飴」商標登録 第5699420号
3. 
上田市誌人物編「明日をひらいた上田の人びと」p.6-7(2003年)

関連項目
踊り字(みす飴のゞ)

外部リンク
株式会社飯島商店 - みすゞ飴
みすゞ飴本舗 飯島商店 (misuzuame) - Facebook    
(wikiより)

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北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。

追分軽井沢町の西寄り)で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津北陸道に合流する。この北陸道も含めて、追分から出雲崎または新潟湊まで一体的に「北国街道」と呼称する場合もある[1][2]

概要
本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。

善光寺平の入り口矢代宿(屋代宿とも書く)[3]を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代城下や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

沿線の宿場町のまち並みは観光地となっている[4]

宿駅
田中宿と海野宿、上戸倉宿と下戸倉宿、古間宿と柏原宿、関川宿と上原宿、田切宿と二俣宿、松崎宿と二本木宿は合宿(あいしゅく)といい、セットで1つの宿場の役割を果たした。また、鼠宿と篠ノ井追分宿は間の宿(あいのしゅく)といい、幕府や藩の非公認の宿であった。
追分宿長野県北佐久郡軽井沢町
小諸城下小諸宿(長野県小諸市
田中宿海野宿(長野県東御市
上田城下(長野県上田市
・(間の宿)鼠宿(長野県埴科郡坂城町
坂木宿(長野県埴科郡坂城町)
上戸倉宿下戸倉宿(長野県千曲市
矢代宿(長野県千曲市)
・(間の宿)篠ノ井追分宿(長野県長野市
丹波島宿(長野県長野市)
善光寺宿(長野県長野市)
新町宿(長野県長野市)
牟礼宿(長野県上水内郡飯綱町
古間宿柏原宿(長野県上水内郡信濃町
野尻宿(長野県信濃町)
関川宿上原宿新潟県妙高市
田切宿二俣宿(新潟県妙高市)
関山宿(新潟県妙高市)
松崎宿二本木宿(新潟県上越市中郷区
荒井宿(新潟県妙高市)
高田城下(新潟県上越市)

松代道(脇道)
・矢代宿(長野県千曲市)
雨宮宿(長野県千曲市)
松代城下(長野県長野市)
川田宿(長野県長野市)
福島宿(長野県須坂市
神代宿(長野県長野市)
・牟礼宿(長野県上水内郡飯綱町)

脚注
出典
1. 北国街道と岩室宿の発展 - 新潟県 2019年1月16日閲覧。
2. 
北国街道 - 新潟市西蒲区 2019年1月16日閲覧。
3. 
八木牧夫著 「ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺道」山と溪谷社 2019年
4. 
北国街道 自転車の旅 - 信州キャンペーン実行委員会 2019年1月16日閲覧。

関連項目
北国西街道     

外部リンク
信州の街道探訪 - 国土交通省関東地方整備局
(wikiより)


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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文21年1月26日1552年2月20日
死没慶長19年5月6日1614年6月13日
改名秀康、盛長
別名千石権兵衛[1]
戒名円覚院殿宝誉道樹大禅定門
墓所

長野県上田市常磐城の芳泉寺
長野県佐久市岩村田の西念寺    

埼玉県鴻巣市天照山 良忠院 勝願寺
官位従五位下、越前守
主君斎藤龍興織田信長豊臣秀吉徳川家康→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
信濃小諸藩
氏族仙石氏萩原氏→仙石氏
父母父:仙石久盛、養父:萩原国満
兄弟久勝秀利秀久
正室:本陽院野々村幸成の娘)
側室:慶宗院(竹村新兵衛の娘)
久忠秀範忠政政能政直久隆、久形、久清、娘(古田重広[注 1]室)、娘(大久保某室)、娘(藤堂高清室)、娘(森某室)、娘(佐野政秀[2]室)

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。

豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え[3]、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。

生涯
美濃時代
天文21年(1552年)1月26日、美濃国土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩村(現在の加茂郡坂祝町)に生まれた(生年は天文20年(1551年)とも[4])。系図によれば仙石氏藤原利仁を祖として始まったと伝承されており、本姓は藤原姓であった。しかし仙石基秀の代に土岐氏の血を引く親族の仙石久重が後継者とされ、久重は基秀の娘と婚姻して家督を継承した。これ以降、仙石氏は源姓(土岐源氏支流)を称している[5]。土岐氏没落後は台頭した斎藤氏に仕え、父・久盛も斎藤家三代に奉公した。

四男であった秀久は家督を引き継ぐ可能性が低く、親交のあった越前国の豪族である萩原国満の養子として引き取られている。だが織田氏と斎藤氏が対峙する中で嫡男が相次いで倒れると久盛から急遽呼び戻され、仙石氏の家督を譲られる。永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて落ち延びた後、信長は秀久の勇壮な風貌を気に入り[5]、配下である羽柴秀吉寄騎に任命した。

大名への道
永禄10年(1567年)、14歳で織田家入りを果たしてからは羽柴隊(木下隊)の馬廻衆として各地を転戦し、最古参の家臣として秀吉から寵愛を受けた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加している。この戦いで浅井方の山崎新平を討ち取った功績により[5]天正2年(1574年)に秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられ、一領主となった。また同じ羽柴家の家臣で黄母衣衆の一員である野々村幸成の娘・本陽院を正室に、甲斐国の浪人の娘であるという慶宗院を側室にそれぞれ迎えて10男6女を儲けている[6]

やがて秀吉が信長から中国攻略を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正6年(1578年)に4,000石を加増、天正7年(1579年)には茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。また、三木合戦三木城を包囲していたこの時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯の山街道有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。さらに天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋城由良城を陥落させた(淡路遠征)。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去し、秀吉の中国大返し山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。秀吉は織田氏重臣の柴田勝家賤ヶ岳の戦いで対決。秀久も羽柴秀勝と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。

手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583年4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。一説では、この戦いの最中に秀久はを取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。

天正11年(1583年)、秀久は淡路平定の軍功を評価されて淡路国5万石を拝領して大名となり、洲本城に入城した。天正8年(1580年)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581年)といわれているため、これは資料の誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、紀州征伐では湯川一族討伐で功を挙げた。羽柴軍本隊による四国攻めの折には喜岡城を攻略、木津城攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年(1585年)、四国攻めの論功行賞により讃岐1国(うち2万石は十河氏領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)、或いは高松城に入城した[3]

改易
天正14年(1586年)、立身を続けていた秀久は秀吉の命令で九州征伐が始まると、先陣役として派遣される事になった四国勢の軍監に任命された。十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海して島津軍と対峙し、秀久自身も三千余の兵を率いて豊後国府内に着陣した[1]。他の四国勢を合わせて先陣の総勢は六千名程度で、九州での同盟国である大友家の軍勢を合わせれば総勢で二万を数え、島津軍を凌ぐ程の兵力が集まる筈であった。だが数はともかく大友家からの軍勢は士気に乏しく戦意旺盛なのは豊臣軍のみであり、その豊臣軍の先陣を務める四国勢は元々激しく敵対しあったもの同士が呉越同舟した混成軍で、さらに長宗我部氏は四国攻めの降伏から間もないこともあり、結束に乏しかった。

頼みの綱である豊臣軍の本軍は一向に上方から出陣する気配がなく[1]、軍監役として焦燥を深める秀久に対して、秀吉は「毛利小早川両軍を門司に布陣させており、薩摩国に後退する事ができない島津軍はいずれ士気を崩す」「徐々に軍を増やし、やがて自分が直々に本軍を率いて来れば悪逆人(島津軍)の首は一人残らず撥ねられるだろう」と持久戦に徹するよう書状を送っている[1]。しかし焦る秀久は豊臣軍先陣のみで攻勢に出て閉塞した状況を打開しようとする。この決定に対して十河存保は賛意を示したが、長宗我部親子は反対した。

開始された戸次川の戦いで冬季の渡河作戦を行った豊臣軍6,000名は思うように進軍できない中、島津家久率いる島津軍1万余と遭遇して戦闘となった。戦いの当初では得意とする釣り野伏せを準備する島津軍に対し、豊臣側が積極的に攻めかかって一時は優勢を得た。想定よりも豊臣側の攻勢が強かったために家久は狼狽したとも言われているが、時機を逃すまいとした秀久本隊が突出し過ぎたのを見逃さずに反撃に転じた。中央と右翼からの増援によって数で上回られた秀久本隊は壊滅的な打撃を受け、第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなって信親・存保ら両将は討死した。第三陣の長宗我部元親隊は戦いに参加する間もなく伊予国へ敗走し、戦いは豊臣側の敗北に終わった。

豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦に望んだ上で敗北した事は秀吉の勘気を被るに十分な理由と言えた[1]。加えて敗走する軍を取りまとめる軍監役としての責務を果たさず、諸侯を差し置いて小倉城に入城した事も不名誉となった。小倉城に引き退いた後も防戦は行わず、20名の家臣団と共に遠征軍の敗残兵を率いて讃岐国へ退却してしまい、敗北と合わせてそれまでの名望を一挙に失う事となる。秀吉は仙石氏に与えた讃岐国を召し上げ(改易)、秀久に対しては高野山追放の処分を下した。

復帰
改易から暫くは高野山にて隠棲し、京都・大坂に滞在していた時期もあったとされる[7]

天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原北条氏追討の戦い(小田原征伐)が始まると三男・仙石忠政と共に美濃国で20名の旧臣らを集め[7]、浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じた。陣借りに際しては秀吉の盟友となっていた徳川家康からの取り成しを受けている[7]。秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ、といわれている。さらに敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけた、とりたてて際立つ格好をして合戦に参加し、「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話も残されている。際立っていたのは扮装だけではなく、槍働きにおいても随一の活躍を示した。若き頃と同じく自ら十文字の槍を振るって力戦した秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(こぐち。城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は「箱根にある地名『仙石原』は秀久の武勇に由来する」という巷説が存在する程である。戦勝の後、秀吉に謁見を許された秀久は忠勇を賞されて、秀吉が使っていた金の団扇を手づから下賜された逸話が残っている。この場面は『道樹・宗智両祖出陣之図』(上田市立博物館所蔵)にも描かれており、この時のものとされる金団扇も現存している。秀吉の赦免を得た秀久はさらに、旧領の半分に相当する5万石を信濃国小諸に与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。小諸入封後、を秀久から秀康に改めている[6]

豊臣政権下では領地の小諸城ではなく、秀吉の家臣として京に滞在していたとされている[6]文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。文禄3年(1594年)に秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても同様の功績を挙げたため、7,000石を加増され5万7,000石の大名となった。築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捻じ伏せ、捕縛したとの伝承が残っている[8][3]。秀久は秀吉から石川五右衛門が盗もうとした大名物「千鳥の香炉」を褒美として拝領した[3][注 2]

慶長2年(1597年)、仙石越前守盛長と記した龍雲寺への寄進状が残っており、秀康から更に諱を変えたものと考えられている[6]。またこの頃から領地経営に本腰を入れ、居城である小諸城の大改修に取り掛かっている[6]

秀吉死後
慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると豊臣政権内で武断派文治派の対立、及び五大老五奉行らの内紛が始まる。陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近していたとみられる。慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集し[6]、立て続けて関ヶ原の戦いが起きると中山道北国街道を結ぶ交通の要所である小諸を引き続き鎮撫している[5]。因みに嫡男とされていた次男[注 3]仙石秀範は独断で西軍に与した事から勘当されている。

信濃に徳川秀忠が着陣するとこれを単騎で出迎え、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いで城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。所領面では旧領を安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩の初代藩主となった。

慶長6年(1601年)、諱を秀久に戻している[6][注 4]

小諸藩主としての秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、先に述べた小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、小諸城を近代城郭として完成させた[6]。特に大手門は歴戦の武人らしく華美な装飾を省き、慶長風の質実剛健な作りとなっている[6][9]。 八幡宮(八幡神社)の勧進や街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残し、笠取垰と小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績といえる。一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている[注 5]。しかし、その後は農民の逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢の減額・猶予による農民の帰還や、農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策に取り組み[注 6]、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還を呼びかけている。

幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去した[10]。享年63(もしくは64)[6]。遺骸は小諸の西念寺で荼毘に付され、墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内の一つである芳泉寺の墓所を正式な霊廟としている[6]。家督は三男・忠政が継いだ。

子女
本陽院正室野々村幸成の息女)
  ・長男・仙石久忠(廃嫡):検校
  ・次男・仙石秀範(廃嫡):豊臣秀頼家臣、3万石。従五位下豊前守
  ・三男・仙石忠政(嫡男):小諸藩主。上田藩主、従五位下兵部大輔    

・慶宗院:側室
  ・五男・政能
  ・六男・政直
  ・七男・仙石久隆(分家):徳川家旗本。書院番、目付、長崎奉行。従五位下大和守
  ・娘(古田重広の妻)
  ・娘(藤堂高清の妻)

子孫
・家督を相続した三男の忠政の代に仙石家は小諸藩から同信濃国の上田藩に移封され、4代当主仙石政房の代に但馬出石藩へ更に移封された。
 ・江戸時代後期に仙石騒動というお家騒動が起こり家名の存続も危ぶまれたこともあったが、減封処分だけで済んでいる。
 ・幕末には新政府に協力した功績から華族となり、明治以降も貴族院議員となった。
・長男の久忠は失明、次男の秀範は西軍側に与した事でそれぞれ廃嫡されたが、長男の家系は藩家老として存続している。のちこの長男家系から養子の仙石政房を出し、本家を相続している。
・六男の政直は藩家臣となり、郡代などを務めた。
・七男・久隆は父が懇意にしていた徳川秀忠に召し出され、本家と別に幕府旗本として4千石の所領を与えられた。
・十男の久清は藩臣として1千石を与えられ、やはり郡代や家老職などの藩の要職を務めた。

逸話
・『改選仙石家譜』によれば織田家に家臣入りした際、信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。
・『常山紀談』では秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場し、商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている。
・『豊薩軍記』・『大友公卿家覚書』では戸次川の戦いの失態について「はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて、その頃の落書に、仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と痛罵している。
・『フロイス日本史』では「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」「彼は関白から豊後勢を敵から救助するために遣わされていたにもかかわらず、悪事を働き、豊後の人々を侮辱し暴政を行なったために、深く憎悪されており、陸にいる人たちが彼を殺す危険が生じた。仙石殿は片足を負傷したが、20名とともに脱出し、家財を放棄して妙見にたどり着いた」と秀久や家臣団が粗野な人物であったと記している。一方でルイス・フロイスは「彼は高尚ではなかったが、決断力に富み独善的、ただし優秀な武将として知られていた」として、秀久が武人としては優秀であったとも評している[11]
・前述の通り伏見城で石川五右衛門を捕縛したとの記述が残されており[注 7]、そのため講談の世界では怪力無双の豪傑として登場することがある。
・旗印としては信長から下賜された「永楽銭紋」と、肖像画に描かれている「丸に無の字紋」が知られている。馬印は「金幣」とよばれる御幣の一種を用いており、指定文化財として保管されている[12]
当世具足は黒一色の甲冑に、藁の編笠を模した飾りの付いた兜を使用していた。この飾りは他の具足には見られない珍しい形状である[12]
・紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍清姫の鐘」を陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として用いた後、供養のために経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたという話が伝わる[13]
・信心深さとしては小諸城主時代に健速神社へ参拝していた記録が残っており、秀久が参拝に使っていた坂は権兵衛坂と呼ばれている。
・秀吉の古参家臣中で失態を犯して処断された者の中で、大名への復帰を許された数少ない人物である。
・家康・秀忠からの信任も厚く仙石氏の江戸城内での詰所は譜代大名に準する家格(願い譜代)として帝鑑の間に置かれていた。
  ・分家に家督が移った際に小身の外様大名が配置される柳の間に替えられ、以後は幕末まで柳の間となった。
・小諸藩主時代には、早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品にしようと取り組んでいた。また蕎麦切りを媒体にして領民とのコミュニケーションをはかり、「仙石さん」の名で慕われていたとされる[14]
  ・前述の通り仙石家の所領は後に信州から但馬に所領が移動するが、その際に移住した信州のそば職人が技法を伝えたことにより、名物の出石皿そばが誕生した。
・弟の内膳正正直は乱暴者であったことから、激怒した秀久により山奥へと移された。心配した母によって岩村田西念寺 (佐久市)へと移されたが、若くして亡くなった(西念寺 (佐久市)#伝承を参照)。

詳しいことは「仙石秀久ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85   
(wikiより)

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仙石秀久

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以前から気になっていたお店を訪問しました。

かなり混むお店で 普通に行列必須です。

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⇧ 入り口横の焼き台から魚や貝が焼かれて 良い香りです。

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⇧ お通し
昆布の佃煮

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⇧ 美味しそうなのが並んでいます。

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⇧ 神亀 ひこ孫

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⇧ 相方は、和助 ( 芋焼酎 ) のソーダ割り

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⇧ みそ豆

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⇧ 葉しょうが

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⇧ 塩つくね

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⇧ 生ビール

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⇧ 刺身盛り合わせ

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⇧ 相方は、宮田屋 ( 米焼酎 ) のソーダ割り

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⇧ 菊正宗 ( 熱かん )

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⇧⇩ 残草蓬莱

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⇧ 焼きはまぐり

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⇧ 焼き穴子

美味し過ぎて その後菊正宗を2本飲んじゃいました。

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⇧⇩ 菊正宗

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浅草 : 志婦や ( 食べログ )







時代江戸時代前期
生誕元和3年7月9日1617年8月10日
死没延宝2年7月24日1674年8月25日
改名兵介(幼名)→政俊→直政→道休(法号)
戒名松翁院殿謙誉道休大居士
墓所長野県上田市諏訪部の芳泉寺
官位従五位下、越前
幕府江戸幕府下館城在番・大坂城加番
主君徳川家光家綱
信濃上田藩
氏族仙石氏
父母父:仙石忠政、母:小堀政徳の娘
兄弟姉(桑山一玄室)、政俊政則政勝、妹(水野勝忠室)
正室水谷勝隆の娘
忠俊
養子:養女水野勝直室)、政明

仙石 政俊(せんごく まさとし)は、信濃上田藩の第2代藩主出石藩仙石家3代。

生涯
元和3年(1617年)7月9日、小諸藩の第2代主・仙石忠政の長男として小諸で生まれた。寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となり、寛永11年(1634年)に従五位下・越前守に叙位・任官する。

常陸下館城在番や大坂城加番を務め、慶安3年(1650年)には検地を行なって石直しに務めるなどして藩政の基礎を固めた。寛文7年(1667年)に嫡男の忠俊が早世したため、忠俊の長男で嫡孫の政明を養子に迎え、寛文9年(1669年)2月25日に家督を政明に譲って隠居した。その際、弟の政勝小県郡2000石(矢沢知行所)を分知し、上田藩の石高は5万8000石となった。隠居後上田城外の諏訪部に住み、直政と改名した。のち剃髪し道休と号する。

延宝2年(1674年)2月25日に死去した。享年58。隠居地諏訪部の芳泉寺に葬られた。
(wikiより)


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萩中公園の地下にあるお店です

公演の敷地内にあるせいか、子連れのお母さんが多かったです。

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⇧ メニューを見ていると目移りしてしまいます。

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⇧ チャーハンにしました。



レストラン中央 ( 食べログ )






生誕天正元年(1573年
死没元和6年2月24日1620年3月27日
武蔵国鴻巣宿
墓地勝願寺埼玉県鴻巣市
正覚寺群馬県沼田市
芳泉寺長野県上田市
別名於子亥、小松殿、稲姫、大蓮院
配偶者真田信之
子供まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、真田信政真田信重
本多忠勝
養父:徳川家康(または徳川秀忠

真田氏の家紋「六連銭」(左)と、徳川氏の家紋「三つ葉葵」(右)。

小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘[1][2]。幼名は於子亥(おねい)[2][3]小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも称される[3][4][注 1]徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁ぎ[4]信政信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ[6]

生涯
出自
天正元年(1573年) 、本多忠勝の長女(第1子)として生まれた[7]。母は阿知和玄鉄の娘於久もしくは松下弥一の娘乙女。幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)[5]。兄弟には、もり姫(奥平家昌室)、本多忠政本多忠朝らがいる[7]

父の忠勝は松平氏および徳川氏の家臣として永禄3年(1560年)の大高城の戦いにおける初陣以来、姉川の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、酒井忠次榊原康政井伊直政と共に徳川四天王と称された人物である[8]。また本多氏は、忠勝の父・忠高、叔父の忠真、祖父の忠豊がいずれも合戦の最中に討死するなど武門の家系でもあった[8]

真田氏との婚姻
婚姻の時期」も参照

天正10年(1582年)10月末の徳川・北条同盟の成立による天正壬午の乱終結後、沼田領(吾妻利根郡)の引き渡し問題や[9][10]天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦[11]、天正14年(1586年)7月の真田征伐[12]などで対立抗争を続けていた徳川家康真田昌幸が、天正15年(1587年)3月に豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着した[13]ことを契機に、小松姫と真田信之との婚姻が成立した。これは両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られ[14][15]、秀吉の意向によるものだったとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる[15]

豊臣政権下での動静
天正17年(1589年)より、豊臣政権では諸大名の妻子を聚楽第伏見城大坂城の城下に建設された武家屋敷に居住させたが、小松姫もそれに従い信之の屋敷に居住したものと考えられる[16]。小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに真田信綱の娘(清音院殿)を正室に迎えていたが[17]、その後の記録において清音院殿は「家女」と記され、側室待遇となっている[4]。このことから信之と小松姫の婚姻以降に、城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が小松姫に移されたと見られている[4]。一方、歴史学者の黒田基樹は、そうした序列で表現するのは妥当か否かは再考の余地があるとした上で、政権本拠地に居住する小松姫が対外的な妻、信之の領国である上野国沼田城に居住する清音院殿が領国における妻としての役割を担ったのではないかと推測している[16]

信之には二女三男の子供がいたが、長男・信吉[注 2]以外、長女・まん[注 3]、次女・まさ[注 4]、次男・信政[注 5]・三男信重[注 6]は、小松姫の所生とされている[6][19][18]。なお、長男・信吉については清音院殿の実子とする説と、小松姫の実子とする説がある[19][20][注 7]

徳川政権下での動静
沼田御守城」も参照

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領(岩櫃領を含む[21])を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた信濃国上田領、弟・信繁の知行を加増された[22]。これにより信之は8万4,000石[22]または上田領(約6万5,000石)と沼田領(約3万石)を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった[23][24]

西軍に属した昌幸と信繁は、信之と小松姫の父・本多忠勝や本多正信らの嘆願もあり紀伊国高野山への流罪となったが[25]、その後も信之は昌幸・信繁一行の援助[26]、病気を患った昌幸の助命嘆願を繰り返した[27]。また、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が記されていることから、夫と同様に小松姫も昌幸を気遣っていたことが推測される[28]

この後、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して政務を執り行い、豊臣政権と同様に諸大名の妻子を政権本拠地に集住させたが、小松姫も江戸の大名屋敷に居住したものと考えられる[16]。ただし、当初は信之の母・山手殿が江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、慶長18年(1613年)6月に山手殿が亡くなったことを受けて、小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも推測される[29]

小松姫の父・本多忠勝[注 8]は、関ヶ原の戦いの功績によって伊勢国桑名藩に移封され、大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継いだ[8][30]。この時期、忠勝からは信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、小松姫を気遣う書状が送られ、信之と忠勝一族との間で親密な関係が築かれるなど、小松姫との縁戚を通じて交流が図られた[30]

慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の大坂の陣では、病気療養中の信之に代わり、長男・信吉と次男・信政が本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した[31]。小松姫からは、冬の陣の際に信之の重臣・木村綱成とその妻に宛て、信之は病気の養生のため出陣が叶わぬこと、信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、信繁が大坂方に加わり大坂城に入場したことを知らせる内容の書状が[32]、夏の陣の際には信吉の家臣・安中作左衛門に宛て「河内殿(信吉)については若いので、伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、伊豆殿に免じて陣中精を致し、奉公をお願いします」と合戦の経験が不足している信吉を気遣い、その補佐を依頼する内容の書状が残されている[33]

晩年と死
養父の家康は江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、武蔵国鴻巣[注 9]にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した[34][35]。円誉は仏教学に通じた学僧であったことから[36]、家康の御前で教義の解釈を行うなど重用された[35]。小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、同時に薬師如来像を拝領し生涯にわたって信仰を続けた[34]

元和6年(1620年)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため[34]、江戸から草津へ向かう最中[37]2月24日3月27日)に武蔵国鴻巣で亡くなった[34][38]。48歳没[34]。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼[38]

墓は前述の勝願寺と、上野国沼田[注 10]にある正覚寺、信濃国上田[注 11]にある芳泉寺(当時は常福寺)の三か寺に分骨された[2][39][40]。このうち、信濃国上田の芳泉寺の墓は一周忌の際に信之によって建立された[41]。また、武蔵国の勝願寺の墓は、小松姫が生前に同寺の二世住職・円誉不残に深く帰依していたことから[42]、次女の見樹院によって墓石が建立されたものであり[43]、三男の信重夫妻の墓も並んで建てられている[42]

夫の信之は、小松姫の菩提を弔うため上田城下に大英寺を建立すると、松代藩への移封に伴い、寛永元年(1624年)に同寺も松代城の城下(後の長野県長野市松代町松代)に移築した[44]。この寺の本堂は創建当時は小松姫の御霊屋として使用されていたもので、昭和41年(1966年)に長野県の文化財に指定されている[44][45]

人物
人となり
小松姫は、江戸幕府初代将軍の徳川家康や2代将軍の徳川秀忠に対して直に意見をする程はきはきとした女性[46][47]、弟の本多忠政本多忠朝が戦地から帰還した際には高らかに忠節を讃えるなど勇気のある女性[46]、才色兼備の女性だったと伝えられている[40]。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている[48]

婚姻の時期
婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが[4]、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど様々な説がある[5][49]

歴史学者の間でも意見が分かれており、黒田基樹は「二人の婚姻は真田氏の当主である昌幸が秀吉に出仕し家康の与力大名となった天正15年(1587年)以降と見て間違いないだろうとした上で、『沼田日記』の『天正16年(1588年)12月に婚約が成立し、翌天正17年(1589年)9月に入輿』との記述が、時期的に最も可能性が高い」としている[5]。このほか、丸島和洋は時期は明らかにできないとした上で、「本多氏側が真田氏との和解後に婚姻が成立したと認識している点から、婚姻は天正15年(1587年)頃とみるべきだろうか」[4]平山優は「婚姻が結ばれる可能性がある最も早い時期として天正15年(1587年)[50]、次に信之が家康の与力大名となることが確定した天正17年(1589年)を挙げているが[51]、最も可能性が高いのは天正18年(1590年)」としている[52]

家康の養女であったか
一般的に小松姫は家康の養女として真田氏に嫁いだものとされており[3][4]、本多氏の系図『参考御系伝』にも同様の内容が記されている[4]。『本多家武功聞書』などによれば、家康が真田昌幸を従わせるため、嫡男の信之に家康の重臣・本多忠勝の娘を嫁がせようとしたが、昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で嫁がせるのではどうかと提案したところ、昌幸はようやく承諾した[51]。その後、小松姫は高力摂津守を従えて江戸城西の丸から沼田へと向かったと記されている[51]。この逸話について平山は天正11年(1583年)から天正16年(1588年)のものなら明らかにおかしいが、家康が関東に移封された天正18年(1590年)以後であれば問題ないと指摘している[51]

家康の養女であったかについては、信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状や小松姫の菩提寺である大英寺の書上には「台徳院(秀忠)」の養女と通説と異なる記載がされているなど[4]、実際に小松姫が家康の養女となったのか否かは確定されていない[15]。ただし、家康の養女とする複数の所伝が残されていることや[15]、信濃国の国衆の中では小笠原貞慶の長男・秀政も、松平信康の娘(登久姫)を家康の養女として正室に迎えていることから、養女の体裁が採られた可能性はある[15]

沼田御守城
慶長5年(1600年)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は三成の率いる西軍に付いた[53]。袂を分かった昌幸・信繁親子が居城の上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り城に入ろうとしたところ、留守を預かる小松姫が昌幸の計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたとの逸話が残されている[39]

真田氏の家記『滋野世記』によれば、次のような内容が記されている。

昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ篭城なり[54]

16 舅の真田昌幸。

⇧ 舅の真田昌幸。


また、『
改正三河後風土記』によれば、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ[55][56]」と、その手並みを褒め称えたと記している。このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されている[57]

この逸話については小松姫が沼田に居たのかどうかが問題となるが、豊臣政権下において諸大名の妻子が伏見、次いで大坂屋敷に移り住んでいたという点[58]と同年7月30日付の大谷吉継から昌幸に宛てられた書状の解釈が問題となる[58][59][60]

黒田は「大坂で吉継に保護されて不在であったので事実ではない」としており[59]、丸島も2015年の時点では吉継書状に「信幸の妻子を保護した」と記されてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室を指すはずという点から創作の可能性を指摘していた[58]。しかし、平山はこの書状について昌幸、信繁親子の妻子については吉継が預かっているが、信之の妻女については「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」と記されていることから、三成挙兵の前年にあたる慶長4年(1599年)の時点で小松姫は「女中改」という口実で、沼田に引き上げていたと指摘している[60][61]。平山と丸島はともに2016年の著作で石田三成による徳川家康への弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」における一節「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」との一文を指摘し、家康が一部大名の人質の帰国を勝手に認めており、信幸の妻子が家康の計らい(贔屓)によって帰国していたと解釈しうるとしている[61][62]

その他
この他、いくつかの逸話や伝承が残されている。ただし、その多くは「武芸に秀でる」「勝気な性格」といった人物像を基に後世に創作されたものだとの指摘もある[63]

・小松姫が家康の養女であったとする話の中に、婿選びの逸話がある。家康が若い武将達を列座させて小松姫の相手を選ばせたところ、家康を前にして委縮している中で、小松姫が平伏している一人一人の髻を掴んで面を上げさせて吟味していた。髻に手を差し伸べられた瞬間に信之は叱咤して、鉄扇で小松姫の顔を打った。小松姫はこの気骨に感動して信之を選んだ
[40][64]

・小松姫の夫の真田信之は上田城6万石の大名であったが、上田は加賀街道(
北国街道)を押さえた要所に位置して、加賀藩前田家金沢江戸との間を往来する通路上にあった。小松姫は家臣に命じて加州候の通行を妨害し、将軍への献上する品を奪い取らせたが、小松姫が将軍家の養女であるため、成敗することができず、ついに将軍家に訴え出た。将軍家から小松姫にお咎めがあったが、「親の物は子の物である」と答えるので、将軍家の方でも処置に困り、それまで6万石のところに4万石を加増して、加賀街道から外れた松代に移封させた[64][注 12]。ただし、元和8年(1622年)の松代藩への移封時には小松姫はすでに亡くなっている。

詳しい事は「
小松姫ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A7%AB
(wikiより)


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小松姫

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立て直される前の「たいめいけん」で食べたラーメンの画像です。
( 2014.2.11.撮影 )

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たいめいけん ( ホームページ )





発電所 ( 明治時代中期 )

この建物は蒸気機関による発電所として、明治 28 ( 1895 ) 年に完成しました。

建物の構造は、レンガ積みだけで自立した壁と、木造キングポストトラスという小屋組 ( こやぐみ ) の屋根で構成されています。

建物内部には気罐室 ( きかんしつ ) と発電機室、石炭庫があり、気罐室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水槽の存在が明らかになりました。

ここで作られた電機は、建物の裏から切り通しを伝って島の中央部高台にある照明所に送られていました。
(案内板より)

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日本でのれんがによる建築は、幕末の長崎に始まり、文明開化とともに全国に広がりました。

しかし、そのほとんどは地震や老朽化により失われてしまいました。

近年の日本建築学会の調査によると、明治20年以前のれんが建築物は、現在、全国で22件が確認されているのみです。

猿島の要塞跡もそのひとつで、愛知県産の品質の高い赤れんがを用いて、明治時代中期に建造されました。

ところで、れんがの積み方は、大きくは「フランス積」と、明治20年ごろから主流となった「イギリス積」に分けられます。

この要塞はフランス積によるもので、フランドル地方 ( ベルギー西部 ~ フランス北端にかけての北海沿岸 ) で発達したため、正式にはフランドル積といいます。

フランス積のれんが建造物は、もともと数が少なかったこともあり、この要塞跡も含めて全国で4件が確認されているのみです。

このように猿島の要塞跡は、「エキゾチックな雰囲気」もさることながら、建築史上とても貴重な建築物といえるのです。
(案内板より)

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砲台地下施設 ( 明治時代 )
トンネルの中にも地下施設が存在します。

地下施設はフランス積みのレンガ構造の 2階建てでトンネルの西側に並んでいます。

このアーチ状の開口部は2階と西側斜面へ上るための階段の出入口で、山頂付近にあった司令所や照明所への重要な連絡通路でした。

これら地下室の個々の用途はまだ不明ですが、猿島砲台全体の弾薬を貯蔵する大本の弾薬庫としての利用は確認されています。
(案内板より)

猿島砲台
・二十七、二十四センチ加農砲台 明治 14年 11月 5日起工、明治 17年 6月 30日年竣工

・第二砲台、二十四センチ加農砲四門砲台 明治 25年 3月 22日据付竣工

・第一砲台、二十七センチ加農砲二門砲台 明治 26年 12月 13日据付竣工 ( 走水低砲台より移す )

・関東大震災により破損、大正 14年 7月 2日除籍

・大正 14年 10月 13日海軍に保管替。防空砲台が設置されたが、加農砲はそのまま終戦まで保管された。

震災や海軍の高角砲台構築及び戦後観光島としての整備により改変されているが、遺構はかなり残っている。フランドル積みのレンガ構築物としては、日本最大規模である。

島の中央部を南北に走る掘割の東側高台に、24㎝カノン砲座 4門が横墻を挟んで一列に並ぶ。第二砲台である。

砲座の地下には兵舎と弾薬庫が 2棟づつ構築されており、弾薬庫から揚弾する揚弾井が 2箇所設けられている。

左右の 2砲座づつに弾丸を供給するものである。

また、砲座の右手に観測所があり、その背部地下には司令所付属室が設けられている。観測所は高角砲台により消滅した。

掘割の北にはトンネル掩蔽部が続く。トンネル内部西側には 2階建てで司令室、弾薬庫、兵舎などの地下施設が築かれている。

トンネル上部には司令所と電燈所があったが、現在は、芝生広場になっている。

トンネルを抜けると第一砲台である。

正面の土手上に 2門の2 7㎝カノン砲座が並んでいる。

左手には弾薬庫があるが、海軍により北側の高角砲台への通路トンネルとして堀抜かれている。

弾薬庫には上部砲座へ揚弾する揚弾井がある。砲座背部には兵舎が設けられている。

また、桟橋前の広場上部にはレンガ造りの電気燈機関室 ( 発電所 ) が残っている。

現在、国から無償譲渡された横須賀市がエコミュージアムとして整備しており、気軽に訪れることができる。

また、平成 27年 3月 10日、その歴史的・建築的重要性が認められ、千代ケ崎砲台とともに国の史跡に指定された。

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この道を上った鷹匠町の細道の西側に、江戸時代の仙石氏の頃、馬柄左右衛門の屋敷が有り、宝永三年の松平氏の時代には、この屋敷に並河源兵衛が住んでました。

このことから、屋敷から南の崖下へ下る坂を、並河源兵衛に因んで「源兵衛坂」と呼ぶようになりました。

信越線開通後、上田駅への近道として重宝がられ、たくさんの人々が行き来するようになりました。

なお並河の後は浜口となり、十左衛門から隼太まで三代続き明治を迎えました。
(案内板より)

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中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現し、芝生の小段はそれぞれの段ごとに真田氏の活躍した時代、例えば真田時代、上田時代、沼田時代を表現しています。

赤石による六文銭旗は、真田氏の歴史上の特に重要な戦いを表現しています。

史を貫く時間軸を赤い色は大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」にちなんでいます。

黒い石に刻まれたものは「花押」です。

書き判とも呼ばれ、現代の印鑑にあたるものです。

武将その人を示す証明のサインです。

ここでは上段に真田氏、下段には当時の真田氏と特に関係の深かった武将の花押を配しています。

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真田幸村

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真田昌幸

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豊臣秀頼

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信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。

兄弟は、信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、共々に、主君の後を追って殉死したという。 

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 案内板には「真田昌輝墓」と書かれていますが脊柱には夫妻墓と刻されています。
正室:相木昌朝の娘。

時代戦国時代
生誕天文11年(1543年)6月
死没天正3年5月21日1575年6月29日
改名徳次郎(幼名)→昌輝
別名信輝
戒名嶺梅院殿風山良薫大禅定門
墓所愛知県新城市の設楽ヶ原古戦場
官位兵部丞[1]兵部少輔
主君武田信玄勝頼
氏族真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院飯富虎昌の娘とも)
兄弟信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?
正室相木昌朝の娘
信正(幸明)湯本三郎右衛門室?

真田 昌輝(さなだ まさてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。

甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将[1]真田幸綱(幸隆)の次男[1]。同母兄に信綱、同母弟に昌幸、信尹らがいる[1]。幼名を徳次郎。兵部丞[1]、兵部少輔。名は信輝とも。武田二十四将にも数えられる。長篠の戦いで奮戦するも戦死した[1]

生涯
天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれたとするが、異説もある[1]

小姓として武田信玄に近侍し、信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。

甲陽軍鑑』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった[1]。なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明[1]。兄・信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣し戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い設楽原決戦場では、最右翼の主将を馬場美濃守、そのすぐ左翼を兄信綱が担い、さらに左横に陣取って、右翼部隊の一端を担う。織田軍の左翼を受け持った正面の佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い信綱とともに討死した。享年33、法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽原には墓が存在し[注釈 1]、同じ墓碑の向かって右に兄・信綱の名が、左側に昌輝の名が『真田兵部丞昌輝の碑』と刻まれている。

子の真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた[1]。今も越前真田家として存続している[1]

関連作品
・赤神諒「表裏比興の者たち」(講談社、2018年10月18日)ISBN 978-4065135297(『決戦!設楽原』所収の短編。真田昌輝を主人公とする)

脚注
注釈
1. 新城市浅谷字杉ノ本。東郷東小学校の北で、山の中腹に看板在り。実際の戦没地かは不明。

出典
1. 
a b c d e f g h i j k 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、71頁。ISBN 464205202X

関連項目
武田二十四将     
(wikiより)

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高梨政頼の娘・於北様(井上次郎座衛門の娘とも)

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 子供のお墓でしょうか?


時代戦国時代
生誕天文6年(1537年
死没天正3年5月21日1575年6月29日
改名源太郎(幼名)→信綱
別名源太左衛門
戒名信綱寺殿天室道也大禅定門
信綱寺殿大室道也大居士[1]
墓所長野県上田市真田町信綱寺
設楽原古戦場
官位左衛門尉
主君武田信玄勝頼
氏族真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院飯富虎昌の娘とも)
兄弟信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?
正室高梨政頼の娘・於北様(井上次郎座衛門の娘とも)[2]
与右衛門信興信光清音院殿真田信之正室のちに側室)

真田 信綱(さなだ のぶつな)は、戦国時代武将武田信玄勝頼の2代に仕える。幼名は源太郎。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

家系
甲斐国守護武田氏に仕える他国衆・真田幸綱(幸隆)の嫡男。母は真田家の譜代家臣・河原隆正の妹・恭雲院または飯富虎昌の娘[3]正室は「於北様」と呼ばれ、北信濃の旧族・高梨政頼井上次郎座衛門の娘とする説がある。子に真田与右衛門真田信興真田信光らがいる。与右衛門は越前松平家へ仕官した。また清音院殿は信綱の弟・真田昌幸の嫡男・信之の正室(のちに側室)になったという[4]

生涯​
武田家の家臣時代​天文6年(1537年)生まれ[5]。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている[6]

確実な初出史料は真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸綱と連名の連署で[7]、武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は不明[6]とされる一方で、天文21年(1552年)8月の信濃小岩嶽城攻めで初陣を飾っているとする伝承もある[8]。これは父・幸綱と生涯が重なるためで、前半生の大半は幸綱が前面に出ていたため、信綱の記録はほとんど見られない[6]。父と連署していることから、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたとされている[7]

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸綱と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた[9]。永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸綱は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本貫地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。元亀3年(1572年)には幸綱に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており[10]、この頃には世代交代が済んでいると推測されており、史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年(1567年)までには継承が行われていたと考えられている[11]

戦場では専ら父・幸綱や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸綱と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。[要出典]元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

最後
天正2年(1574年)5月に幸綱の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[7]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した[7][1]享年39。設楽原古戦場に残る墓碑には、『真田源太左衛門尉信綱の碑』と刻まれている。

真田家の家督は勝頼の命令により信綱の遺児らに受け継がれることは認められず、武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承した。法名は信綱寺殿天室道也大禅定門。

信綱を討ったのは徳川方の渡辺半十郎政綱渡辺半蔵守綱の実弟)とされるが[12]実際には織田信長配下の柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉ではないかとする説もある[要出典]。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。

なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。

人物
信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたという。甥(昌幸の次男)の真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったといわれる。

初陣である信濃小岩嶽城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であり、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されている[8]

脚注 
1. 
a b 柴辻 1996, p. 69.
2. 柴辻 1996, p. 70.
3. 仙台真田代々記
4. 滋野世記
5. 信綱寺殿御事蹟稿
6. a b c 柴辻 1996, p. 68.
7. a b c d 柴辻 1996, p. 67.
8. a b 『真田家譜』
9. 甲陽軍鑑
10. 甲陽軍鑑』「信玄惣人数書上」
11. 柴辻 1996, p. 68-69.
12.三河後風土記

参考文献
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。

関連作品
近衛龍春『真田信綱 弟・昌幸がもっとも尊敬した武田家随一の剛将』PHP研究所、2013年。
(wikiより)

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大柏山 信綱禅寺
 
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡 ( 上田原合戦 ) 後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。

その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。

開山 大光智照禅師 ( 高山順京大和尚 )

開基 真田源太左エ門尉信綱公

宝物殿 ( 血染陣羽織、昌幸・信之の古文書他 )

真田信綱夫妻・昌輝公・白川氏御墓所。

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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕永禄10年(1567年[注釈 1]または
元亀元年2月2日1570年3月8日[注釈 2]
[注釈 3]
死没慶長20年5月7日1615年6月3日)?
改名弁丸/[4]幼名)→信繁→好白(法名
別名幸村(「真田幸村」の由来を参照)、豊臣信繁
通称:源二郎/源次郎、左衛門佐
道号:好白斎、偽名:伝心月叟
戒名大光院殿月山傳心大居士
墓所長野県長野市長国寺
京都府京都市龍安寺塔頭大珠院
京都府京都市の妙心寺塔頭養徳院
宮城県白石市の墓所
福井県福井市の孝顕寺
秋田県由利本荘市の妙慶寺
鹿児島県南九州市の墓所
秋田県大館市の一心院
大阪府大阪市天王寺区心眼寺
官位従五位下左衛門佐
主君武田勝頼真田昌幸上杉景勝豊臣秀吉秀頼
氏族武藤氏真田氏清和源氏海野流)、豊臣贈姓
父母父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院)[異説有]
兄弟村松殿信之信繁信勝昌親 ほか
正室:竹林院大谷吉継の娘)
側室:隆清院豊臣秀次の娘)[5][6]
側室:堀田興重の娘[7]または妹[8]
側室:高梨内記の娘
阿菊/すへ(石合重定/道定室)[9]、於市、
阿梅片倉重長後室)、あくり蒲生郷喜室)、
幸昌なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね石川貞清室)、大八(早世)幸信 ほか

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名[10]真田昌幸の次男。通称左衛門佐で、輩行名源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。

豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなど日本の国民的ヒーローとされている[11][12][13][14][15]。後世、軍記物講談草双紙(絵本)などが多数創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

2016年には真田信繁(幸村)を主人公にした大河ドラマ真田丸』(脚本:三谷幸喜、主演:堺雅人)が放送された。

「真田幸村」の由来
「真田幸村」の名が広く知られているが、は「信繁」が正しい[16]。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている[17]。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる[18]。また、幸村と署名された古文書は、記録類のなかに書写されたものが2通見られる[19]が、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならない[20]

「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記[注釈 4]がその初出であるとされる[22]。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」[23]や「眞田左衛門尉海野幸村」[24][注釈 5]との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている[16]

しかし「幸村」という名前にも説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家通字であり、また「村」については徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗説ではあるが、村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたとかいう話がある。もちろんこれらは誤伝であるが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[6]。 そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既にもう、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しい[25]と書き記したほどである(もっとも、信仍というのも誤っている)。

時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した[16]。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる[26]。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している[27]

篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する[28]

信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えている[26]

生涯​
出生から真田氏の自立​
永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)[注釈 1][注釈 2]、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿[注釈 6]。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。

真田氏は信濃国小県郡国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国武田晴信(信玄)に帰属した。信繁の伯父・信綱は先方衆として信濃侵攻越後国上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。

幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。

天正10年(1582年)3月には織田徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東守護として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く[31]。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した[31]

真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといい、天正13年(1585年)6月24日に屋代氏旧臣の諏訪久三宛に安堵状を発給している。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた[32]

豊臣秀吉の馬廻衆
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。

天正17年(1589年)、秀吉の命で、信幸は沼田城を後北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。翌年の遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。

文禄の役においては、『大鋒院殿御事跡稿』によれば、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に700名の指揮を執って在陣している。『松浦古事記』によると、三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に信繁の名がある。

文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される[33]。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた[34]

豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認するための別の史料による裏付けは困難でもある。

ただし、近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっている[10]。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた[10]。一方で知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた[10]

関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。諸説あるが東軍西軍どちらにつくかの合議を犬伏で行ったため、「犬伏の別れ」として語られることが多い

東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った[35]。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った[注釈 7]

詳細は「上田合戦#第二次上田合戦」を参照

また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政葛尾城井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。

9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう[36]。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山[注釈 8]に移った。

蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った[注釈 9]

大坂城入城
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。

大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った[37]。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入った[注釈 10]。大坂で信繁が指揮を執っていた軍は、鎧を赤で統一していたという[38]

赤備え#真田の赤備え」も参照

大坂冬の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる[39]

大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している[40]。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した[41]

この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる[42]。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っていた[43]

詳細は「真田丸の戦い」を参照

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している [44][11]。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」と立腹して対面をしなかったという[11]

大坂夏の陣
天王寺・岡山の戦い」も参照

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた[45]

信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた[注釈 11]

5月7日、信繁は大野治房明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている[46][注釈 12]

先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、ついに本格的な戦闘へと突入したため、作戦を断念せざるを得なくなった[47]。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという[47][48]。そして死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った[49]。信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ[50]、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。

なお、家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる[51]

大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため[注釈 13]、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。

この時、真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩したという。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。数度に渡る突撃で信繁の疲弊も頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされたのである。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった[52]

信繁は四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていた[注釈 14][注釈 15]ところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた[53]。享年49。実際は、真田信繁だという首級が多数あったと言われている。一方、近年発見された[54]新史料[注釈 16]では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている[55]

人物・逸話・俗説
・旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で[56]、日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」[注釈 17]を意味するといわれている。

・家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた。夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える
黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍を記している。幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった。徳川に敵対したにもかかわらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。

・信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。

・「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる(諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。

・大坂の陣において後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。

・『真竹内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高い[52]

・大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある[22]

愛用の刀槍
現在のところ、信繁の愛用の刀槍が何であったのかは不明である。

講談や軍記物語では、信繁の愛槍は「十文字槍」とされ、これは両鎌槍を強化して作られた細めの槍である。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤備えに恥じぬ名槍であったと講談や軍記物語では語られている。大坂夏の陣図屏風に描かれた信繁も十文字槍を握っている。

信繁の愛刀についても、刀は正宗、脇差しは貞宗、とする話が有名だが、これは歴史書というよりも歴史小説に近い明治初期の『名将言行録』(明治2年(1869年))に登場する説[57]である。他にも、村正の大小を帯びたという説が有名だが、こちらは噂の出処が比較的古く、徳川光圀の家臣が元禄14年(1701年)12月に著した光圀の言行録『桃源遺事』まで遡ることができる[25]。この書によれば、光圀は、「真田信仍は東照君(家康)を宿敵と見なしてから、常に千子村正の大小(打刀と脇差の一揃い)を手放さなかった。村正は徳川家不吉の刀と聞いて、東照君を調伏(呪殺)する意図があったのだと聞く。武士とはこのように、常日頃からこのようなことにまで忠義に心を尽くすものだ」と称賛していたという[25][注釈 18]。なお、実際に村正を大小で愛用していたのは、徳川家康である[58][59]。こちらは噂や伝説などではなく、尾張徳川家に伝来した由緒正しいものがあり、大小のうち村正の脇差は大正時代に売却されたが、徳川家康愛用の村正の打刀は徳川美術館が所蔵し、今も展覧会などで観ることができる[59]。信繁の兄の真田信之の家系松代藩真田家には、村正の弟子の千子正重の刀が伝来していた(信之のものかは不明)[60]ので、信繁が村正を所有していたとしても時代考証的に不自然ではない。ただし、徳川家に祟るとする妖刀伝説が発生したのは家康の死後[58]なので、その場合はただの業物としての村正ということになる。

詳しい事は「真田信繁ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81 
(wikiより)

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恭雲院(きょううんいん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。甲斐武田氏の家臣・真田幸綱(幸隆)の正室

生涯
海野棟綱真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱真田昌輝真田昌幸真田信尹金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である[1]。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される[2]

系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている[2]

天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡筑摩郡木曽郡を与えられた木曾義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる[3]

没年には二説ある。真田氏の菩提寺である長野県上田市長谷寺墓碑には天正20年5月20日1592年6月29日)とあり、同寺の過去帳には文禄2年8月1日1593年8月27日)とあり、1年余の差があるがこの頃に没したものと思われる[2]。戒名は恭雲院喜山理慶大姉[2]

登場する作品
・『風林火山』(2007年NHK大河ドラマ、演:清水美砂
・『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ、演:草笛光子

脚注3. 
1. 
a b 丸島和洋 2016, p. 220.
2. a b c d 柴辻俊六 1996, p. 20.
3.丸島和洋 2016, pp. 220–222.

参考文献
書籍
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 978-4-64-205202-3
丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5
(wikiより)


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時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文16年(1547年)?
死没慶長16年6月4日1611年7月13日
改名真田源五郎(幼名)→武藤喜兵衛→真田昌幸
別名通称:喜兵衛
戒名長谷寺殿一翁千雪大居士
一翁閑雪大居士
墓所真田山長国寺長野県長野市
真田山長谷寺(長野県上田市
善名称院和歌山県九度山町
官位従五位下安房守
主君武田信玄勝頼織田信長北条氏直→(徳川家康)→上杉景勝豊臣秀吉秀頼
氏族真田氏(自称滋野氏)→源姓武藤氏→真田氏
父母父:真田幸綱、母:河原隆正の妹・恭雲院[1]
養父:武藤三郎左衛門尉
兄弟信綱昌輝昌幸信尹(加津野昌春)、金井高勝清鏡?
正室:山手殿(寒松院殿)[注釈 2]
信之信繁(幸村)信勝昌親村松殿小山田茂誠室)、清寿院(真田幸政室)、娘(鎌原重春室)、清陽院(保科正光室)、趙州院宇多頼次室のち滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名

甲斐国武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱(幸隆)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏徳川氏上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。

軍記物講談小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。

子に真田信之上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)らがいる。

生涯
出自
天文16年(1547年[注釈 3]、真田幸綱(真田幸隆)の三男として生まれる[4][3]。生誕月日は不明[4]。幼名は源五郎[5]

真田昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱真田昌輝がいたため、生まれた時点では真田氏の家督相続の権利は無かった。

武田信玄の時代
天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった[5][6]。なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎曽根与一三枝勘解由三枝新十郎曽根総次郎が挙げられている[5]

武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ
真田昌幸永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている[注釈 4]。 なお、武藤氏武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとったとされている[8]

永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、真田信之、真田信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある(山手殿の項を参照)。

第四次川中島の戦い​
初陣は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いに、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない[9]

永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景馬場信春内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤氏を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である[9]

武田信玄の小田原攻め
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康氏政氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた[10]。『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。

武田信玄の駿河侵攻
武田信玄は昌幸の父・幸綱にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかった[11]。 この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。

武田信玄の西上作戦
元亀3年(1572年)10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが[12]、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている[13]。『甲陽軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」の指揮を執って出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている[14]

なお、信玄の晩年には武田氏の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の龍雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる[15]

武田勝頼の時代​
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた[16]

天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した[17]。これには武田家の重臣で川中島海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた[18]。武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようで、所領に関しては一万五千貫ともいわれる真田領のみの相続であった[18]。家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである[19]。真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから[20]、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており[21]、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる[22]

天正6年(1578年)3月、越後上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていた[23]。この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱沼田城を攻めさせ[23]、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城鈴木重則小川城小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた[24]。そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落とした[24]。同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された[25]。この時点では、勝頼から与えられた私称である[26]。これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である[27][注釈 5]

天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある[30]。同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。

天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。

武田氏滅亡後、天正10年(1582年)4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ[31]織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した[32]

天正壬午の乱
詳細は「天正壬午の乱」を参照

織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が横死する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可毛利秀頼道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。

昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合参加者の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1,000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。

6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた[33]。昌幸は一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。

同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った[34][35]。7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している[36]。一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る[34]。10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであった[37]。昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる[37]藤田氏邦は昌幸をけん制するため沼田城を攻めるが、成功しなかった[38]。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する[39]。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴陣営への参加に他ならない。この時、厩橋城北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。

徳川家康との対立
詳細は「上田合戦」を参照

天正11年(1583年)、昌幸は上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要になり、徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた[40]。また、同時期には北条氏と通じていた一族である根津昌綱を懐柔、近隣の屋代秀正室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっているが、昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。

天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力の指揮を執り尾張国に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせ[41]、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、さらに室賀正武を殺害し、徳川を刺激しないため正武の妻子の命は助けて、上杉に引渡した。この事件は真田による謀殺ではなく、昌幸を暗殺しようとした室賀を返討ちにした事件として噂が広められた[42]。 こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。当時佐竹義重宇都宮国綱の連合軍と沼尻の合戦を展開していた氏政、氏直父子は、昌幸の動きを警戒しており、主要街道の確保に躍起になっていた[43]

家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(1585年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否[注釈 6]。 家康は浜松城に引き返した。

昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させた[注釈 7]。 昌幸はわずか2,000の兵力[注釈 8]で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。結城晴朝のもとに上田の戦勝の知らせが届いた時にはその数字は2千人に膨れ上がり、晴朝は「誠に心地好き次第」として喜んだ[44]。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。一方、家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化に乗り出さなければならなかった[44]。また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせなかった[45]

詳しい事は「真田昌幸ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
(wikiより)

5 真田昌幸

真田昌幸

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近くの大学病院に通院中は、帰りに寄って食べていました

うどんが美味しいお店です

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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧⇩ メニュー

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⇧ 牡蠣とじうどん

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⇧ 牡蠣みそうどん



お茶の水 : 竹や ( 食べログ )





時代戦国時代
生誕永正10年(1513年
死没天正2年5月19日1574年6月8日
改名次郎三郎(幼名)→幸綱→幸隆?→一徳斎(号)
別名通称:源太左衛門、弾正忠
渾名:攻め弾正、鬼弾正
主君海野棟綱長野業政武田信玄
氏族真田氏
父母父:真田頼昌[異説あり]
母:海野棟綱の娘[異説あり]
兄弟綱吉幸綱矢沢頼綱常田隆永鎌原幸定海野幸景萩原綱重[1]
正室:恭雲院河原隆正の妹)
側室:羽尾幸全の娘
信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?、娘(根津志摩守信忠室)、娘(長坂昌国室)、娘(遠山右馬助室)

真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代武将信濃の在地領主で、甲斐国戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され[2]、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている[3] 。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている[4]


出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

生涯
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族海野棟綱の子[5]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[6]として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

上野国へ亡命
甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野国へ亡命している。幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久小県郡侵攻を再開する。

旧領回復時期
幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦い板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300 - 400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[7][注釈 1]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦上杉氏勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の戦い敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸綱であったと推測している。

武田氏へ臣従​
武田氏臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上義清方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており[8][注釈 2]、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸綱の要請にもよるものと言われている[要出典]。戸石城攻めで幸綱は村上方の清野氏寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。

天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸綱の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

第一次川中島合戦
天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清越後国へ逃れ、幸綱は旧領を完全に回復する。義清は越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸綱は対長尾氏上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。

この頃、関東へ進出した後北条氏は上野国で上杉憲政を庇護した長尾景虎と対峙するが、幸綱は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており[10]、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている[要出典]

弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。


出家
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

第四次川中島の戦い
詳細は「川中島の戦い」を参照

『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏羽尾氏の所領抗争は、双方が真田氏の同族でもあることから、幸綱が調停に関わっている。永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉氏方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には嵩山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである[要出典]

隠居
永禄10年(1567年)、病気のために家督を真田信綱に譲って隠居したとされている。このため、信玄の駿河侵攻西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

死去
天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺 (上田市)にある。肖像は長野県長野市松代町長国寺 (長野市)所蔵。

関連作品
映像作品
武田信玄1988年、NHK大河ドラマ、演:橋爪功
武田信玄1991年、TBS、演:西郷輝彦
風林火山2007年、NHK大河ドラマ、演:佐々木蔵之介
天と地と2008年、テレビ朝日、演:三浦浩一

トレーディングカードアーケードゲーム
戦国大戦2010年、アーケードゲーム、声:岡野浩介

脚注
1. ただし、笹本正治は諏訪氏の娘が禰津氏の養女になったこと自体が推測で、根拠にならないとしている。
2. 笹本正治は真田家文書には不自然な点があることを指摘し、他所から流入してきた可能性があるものとしている[9]


出典
1. 柴辻 1996, p. 8.
2. 
「高野山蓮華定院過去帳」長野県真田町山家神社所蔵「白山神社奥宮扉永禄5年銘」
3. 
柴辻 1996.   
4. 
平山 2011, pp. 103–104.
4. 
江戸時代に松代藩により編纂された真田家系図による。
6. 
矢沢氏の菩提寺良泉寺所蔵の「良泉寺矢沢系図」に拠る。
7. 
猪坂直一『真田三代録 伝説から史実へ』理論社、1966年。
8. 
『真田家文書』真田宝物館
9. 
笹本 2009, pp. 23–25.
10. 
神奈川県立博物館所蔵文書「天文23年推定10月5日付真田幸隆宛北条氏康書状」

参考文献
柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 464205202X
笹本正治『真田氏三代 真田は日本一の兵』ミネルヴァ書房、2009年。ISBN 4623054446
平山優「真田幸綱」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。
・平山優『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』PHP研究所〈PHP新書〉、2011年。
橋場日月『真田幸村 戦国を生きた知将三代』学研、2004年。

関連項目
戦国時代の人物一覧
真田氏
真田本城          
(wikiより)

4 真田幸隆

真田幸綱 / 真田幸隆

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鹿児島から出水に来た時、出水駅舎内にある食堂「よねや」で撮影しました。
 ( 現在は店名を「こあら食堂」として営業されています。)

2017年 11月 22日撮影

出水駅舎内という事で、サラリーマンの方が多くいらっしゃいました。

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画像奥が厨房です。

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⇧ ちゃんぽん
長崎、鹿児島等々で食べましたが、こちらのちゃんぽんが好みでした。



こあら食堂





大黒天 経王寺

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。

明暦元年 ( 一六五五 )、当地の豪農冠 ( かんむり ) 勝平 ( 新堀村の名主冠権四郎の祖 ) が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。

本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の祟敬を広くあつめている。

慶応四年 ( 一八六八 ) の上野戦争のとき敗走した彰義隊士
をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることになり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
(案内板より)

所在地東京都荒川区西日暮里3-2-6
位置北緯35度43分41.8秒 東経139度46分6.7秒
山号大黒山[1]
宗派日蓮宗
本尊三宝尊[1]
創建年明暦元年(1655年
開山日慶[1]
開基冠勝平

経王寺(きょうおうじ)は、東京都荒川区にある日蓮宗寺院

概要
1655年明暦元年)、当地の豪農だった冠勝平の開基である。当寺は冠一族の菩提寺であった[2]

1868年慶応4年)、上野戦争に敗れた彰義隊隊員が当寺に逃げ込んだため、新政府軍の攻撃を受けることになった。当寺の山門の門扉には、その時の弾痕が残っている[2]

大黒堂には、日蓮作の大黒天が祀られている[2][1]

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経王寺門扉の弾痕

交通アクセス
日暮里駅より徒歩約3分(経路案内)。

脚注
1. a b c d 新編武蔵風土記稿 新堀村.    
2. a b c 高田隆成、荒川史談会 著『荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド18)』学生社、1992年、99-100p

参考文献
・高田隆成、荒川史談会 著『荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド18)』学生社、1992年
・「新堀村 経王寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ18豊島郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763978/22

関連項目
上野戦争
(wikiより)

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所在地東京都江東区深川2-19-13
位置北緯35度40分37.1秒 東経139度47分51.9秒
山号海照山
宗派曹洞宗
創建年寛永5年(1628年
開山白洲全龍
文化財絹本着色毘沙門天像1幅 附木箱一合(江東区指定文化財)、絹本着色不動明王二童子像(江東区登録文化財)

増林寺(ぞうりんじ)は、東京都江東区にある曹洞宗寺院

概要
1628年寛永5年)、白洲全龍によって開山された。石を練りこんだ塀が有名であった[1]

墓所
三井親和父子(書家
男谷信友剣術家
石坂宗哲医師

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩7分。

脚注
1. 
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、70p

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)


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 閉店しました。

いつも染井霊園の帰りに利用していました。

テーブルに小上がり、ビール飲みながら競馬新聞の人もいたりで良い雰囲気でした。

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⇧ ラーメン

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⇧ オムライス









誕生1912年1月22日
日本の旗 日本長崎県長崎市銀屋町
死没1989年7月29日(77歳没)
日本の旗 日本東京都新宿区河田町
墓地光照寺
職業小説家
言語日本語
国籍日本の旗 日本
最終学歴第一高等学校中退
活動期間1934年 - 1989年
ジャンル小説
代表作月山』(1973年)
鳥海山』(1974年)
『意味の変容』(1984年)
『われ逝くもののごとく』(1987年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1974年)
野間文芸賞(1987年)
デビュー作『酩酊船』(1934年)

森 敦
(もり あつし、1912年明治45年)1月22日 - 1989年平成元年)7月29日)は、日本小説家

来歴・人物
長崎市(当時の銀屋町)出身。幼少期は朝鮮・京城府(今のソウル)で暮らし、京城中学校に学ぶ。1931年昭和6年)に旧制第一高等学校に入学するも翌年退学。この頃、菊池寛に見出される。横光利一に師事し、その推薦により1934年(昭和9年)、22歳で東京日日新聞大阪毎日新聞に『酩酊舟〔よいどれぶね〕』を連載、事実上の処女作となる。同年、太宰治檀一雄中原中也中村地平らと文芸同人誌『青い花』の創刊に参加したが、作品の発表には至らず、奈良・東大寺の瑜伽山(ゆかやま)に住む。1941年(昭和16年)5月、横光利一夫妻の媒酌で前田暘〔よう〕と結婚。

1945年(昭和20年)頃から妻の故郷である山形県酒田市に住み、以後同県庄内地方を転々とする。1951年(昭和26年)8月下旬、鶴岡市にある真言宗の古刹・龍覚寺の住職の勧めで翌年春まで湯殿山注連寺に滞在する。尾鷲(三重)、弥彦(新潟)、大山(鶴岡)などを転々とした後、1966年(昭和41年)以降は東京都内に居を構える。印刷会社に勤務の傍ら、同人誌『ポリタイア』に「天上の眺め」その他の短編を発表。『季刊芸術』第26号(1973年7月)に発表した中編「月山」で、1974年に第70回芥川龍之介賞受賞。62歳での受賞は、2013年黒田夏子が75歳で受賞するまで39年にわたって最高齢受賞記録であった。

他に『鳥海山』、『意味の変容』、第40回野間文芸賞受賞の長編『われ逝くもののごとく』などがある。なお、『意味の変容』は、『群像』に連載されていたものを再編し筑摩書房から出版されたもので、同じ時期に『群像』に連載を持っていた柄谷行人の強い要望によって出版が実現した。柄谷は、日本文学史上類例をみない奇跡的な私小説であり、その評価は非常に高いと言う(ちくま文庫の解説には岩井克人浅田彰中上健次等も賛辞を寄せている)。数学者の森毅は、理系的センスを褒めた。また『森敦全集』第2巻(筑摩書房)には先駆稿を含め搭載されている。山形県朝日村名誉村民(現鶴岡市名誉市民)。

森富子ははじめ文学の弟子で、のち養女となり森夫妻の面倒を見た。職業作家としてのデビューはたいへんに遅かったが、手広い交友関係を持ち、また評価者も多かった。殊に小島信夫とは1949年ころからの知り合いであり、作家でシンガーソングライターの新井満は森によって見出された。小島の大長編『別れる理由』は、作中に森敦が登場することによって完結し、その後『群像』で小島と森は対談を連載した。小島の証言によれば、ありし日の文学同人らから「モリトン」と呼ばれていたという。

年譜
1912年、長崎市銀屋町に生まれる(本籍は熊本県天草)。
1932年旧制一高を依願退学。
1934年、「酩酊船」(よいどれふね)を「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載して文壇に登場。
1934年、「青い花」(文芸同人誌)に参加。1935年より、奈良市松本市を放浪。
1941年横光利一夫妻の媒酌により前田暘〔よう〕と結婚。
1945年、この頃より酒田市弥彦村吹浦村、山形県庄内地方尾鷲市などを放浪する。
1951年、8月下旬から翌年春まで真言宗の古刹:湯殿山注連寺に滞在。
1974年、『月山』で第70回芥川賞(昭和48年下半期)を受賞。
1987年、『われ逝くもののごとく』で第40回野間文芸賞を受賞。
1989年7月29日、新宿区市谷の自宅で意識を失い、東京女子医科大学病院へ搬送されたが、午後5時43分に腹部大動脈瘤破裂による急性心不全のため死去(享年77歳)[1]。戒名は雲月院敦誉正覚文哲居士[2][3]。旧朝日村名誉村民(現:鶴岡市名誉市民)となる。

著書
・『月山』(河出書房新社、1974年)、新版再刊
・『鳥海山』(河出書房新社、1974年)→「月山・鳥海山」(文春文庫、1979年、改版2017年)
・『文壇意外史』(朝日新聞社、1974年)→「星霜移り人は去る わが青春放浪」(角川文庫、1979年)
・『私家版 聊齋志異』(潮出版社、1979年)→(小学館、2018年)
・『わが青春 わが放浪』(福武書店、1982年)→(福武文庫、1986年)→(小学館、2017年)
・『わが風土記』(福武書店、1982年)
・『意味の変容』(筑摩書房、1984年)→(ちくま文庫、1991年)→「意味の変容・マンダラ紀行」(講談社文芸文庫、2012年)
・『月山抄』(河出書房新社、1985年)
・『マンダラ紀行』(筑摩書房、1986年)→(ちくま文庫、1989年)
・『われ逝くもののごとく』(講談社、1987年)→(講談社文芸文庫、1991年)
・『十二夜 月山注連寺にて』(実業之日本社、1987年)
・『われもまた おくのほそ道』(日本放送出版協会、1988年)→(講談社文芸文庫、1999年)
・『浄土』(講談社、1989年)→(講談社文芸文庫、1996年)、短篇集
・『わが人生の旅 上 天の遊び』『― 下 百里を行く者』(弘済出版社、1990年)
・『天に送る手紙』(小学館、1990年)→(小学館ライブラリー、1996年)
・『酩酊船 森敦初期作品集』(筑摩書房、1990年)→(講談社文芸文庫、2008年)
・『森敦全集』全8巻、別巻1(筑摩書房、1993-1995年)
  1-6は作品、7・8はエッセイ、別巻は書簡・書誌・年譜

共著・対談集
・『浦島太郎の人間探検記』(青春出版社、1975年)
・『森敦のおかっぱ愛情学 どう愛し、どう生きるか 』(主婦と生活社、1975年)
・『一即一切、一切即一 『われ逝くもののごとく』をめぐって』(法蔵館、1988年)
小島信夫『対談・文学と人生』(講談社文芸文庫、2006年)

翻訳
尾崎紅葉金色夜叉』現代語訳『明治の古典』学習研究社、1982年
ドナルド・T・ローデン『友の憂いに吾は泣く 旧制高等学校物語』監訳(上下、講談社、1983年)
洪思重『韓国人の美意識』監訳(三修社、1984年)

脚注
1. 「作家・森敦さん死去」読売新聞1989年7月30日朝刊31面
2. 
大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)234頁
3. 
岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)327頁

関連書籍
・森敦先生文学記念碑建立並びに記念文集刊行実行委員会「森敦と月山」(東北出版企画、1981年)
・井上謙『森敦あれから十年』(文泉堂出版、1984年)
新井満『森敦 月に還った人』(文藝春秋、1992年)
井上謙『森敦論』(笠間書院、1997年)
森富子『森敦との対話』(集英社、2004年)
・森富子『森敦との時間』(綜合社、2012年) 
二ノ宮一雄『いのちの場所』(日本随筆家協会、2008年)ISBN 978-4-88933-334-3    

関連人物
小島信夫
横光利一
太宰治
檀一雄
柄谷行人
クルト・ゲーデル
フランツ・カフカ
さだまさし
三好徹
勝目梓     

外部リンク
森敦 - NHK人物録
・『森敦』 - コトバンク
・『
森 敦』 - コトバンク    
(wikiより)

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森敦

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所在地東京都新宿区袋町15番
位置北緯35度42分1.8秒 東経139度44分17秒
山号樹王山
院号正覚院
宗旨浄土宗
開山清誉上人光照
開基松平次郎左衛門信貞
正式名樹王山 正覚院 光照寺

光照寺(こうしょうじ)は、東京都新宿区袋町にある浄土宗寺院増上寺末寺で樹王山 正覚院 光照寺という。牛込城の跡地に建つ。

歴史
光照寺は慶長8年(1603年)、神田元誓願寺町に開かれた。開基松平次郎左衛門信貞(松平昌安)、開山は清誉上人光照と伝わる。正保2年(1645年)に現在地へ移転した。また、出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺となったため、境内には同藩主家の酒井家歴代の墓が残る。

伽羅
本堂
  鉄筋コンクリート製

鐘楼

文化財
地蔵菩薩坐像 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)
 鎌倉時代製作とされる像高30センチほどの坐像。光照寺門前の地名、地蔵坂はこの像に由来する。
十一面観音坐像 - 新宿区登録有形文化財(彫刻)
 江戸時代後期の造仏僧、木食五行明満の作とされる。
阿弥陀三尊来迎図 - 新宿区指定有形文化財(絵画)
 室町時代製作とされる来迎図
涅槃図 - 新宿区登録有形文化財
  元禄~正徳年間(1688年~1716年)頃に描かれた涅槃図で、狩野派の絵師によって制作されたと推定されている。文化の日前後に特別公開される。
・法然上人画像 - 新宿区指定有形文化財(絵画)
 室町時代製作とされる浄土宗の宗祖、法然上人を描いたもの。
・諸国旅人供養碑 - 新宿区登録有形文化財(歴史資料)
 文政8年(1825年)に建立された、旅人の供養碑。
・便々館湖鯉鮒の墓 - 新宿区登録史跡
 江戸時代中期の狂歌師、便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓地。
牛込城跡 - 新宿区登録史跡
 戦国時代、後北条氏の家臣であった牛込氏の居城跡。天正18年(1590年)の北条氏滅亡後に取り壊され、面影はない。

所在地情報
所在地
・東京都新宿区袋町15番

交通
都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅A2出口より徒歩4分(経路案内)。
・神楽坂上交差点(都道25号線都道433号線)より徒歩3分(経路案内)。
(wikiより)

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所在地東京都新宿区改代町11
位置北緯35度42分25秒 東経139度44分0秒
山号龍谷山
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
創建年寛永5年(1628年
開山一山智乗
公式サイト坐禅会|龍谷山田中寺|日本

田中寺(でんちゅうじ)は、東京都新宿区にある曹洞宗寺院

歴史
1628年寛永5年)、一山智乗によって開山された。元々は武蔵国豊島郡天神町(現・東京都新宿区天神町)に位置していたが、1640年(寛永17年)に現在地に移転した[1]

当初は「浄見寺」という名称であった。1650年慶安3年)、江戸幕府3代将軍徳川家光鷹狩りの際に当寺に立ち寄り、「この寺、独りにあり、もって田中寺としたらよかろう。」という言葉を賜り、「田中寺」に改称した。この縁により、歴代住職は毎年新年祝賀のために江戸城に登城することになった[2]。 なお1657年明暦3年)、隣地に伝久寺横寺町より移転したため、「この寺、独りにあり」ではなくなっている。この2寺が現在まで残っているのである。

当寺には、「富田地蔵尊」と呼ばれる地蔵菩薩像が安置されている。戦国時代末期、「富田玄蕃」という人物が賊に襲われた際、身代わりとなって首を討ち取られた地蔵である。この逸話から「身代わり地蔵」として信仰を集めるようにな交通アクセス

交通アクセス
江戸川橋駅4番出口より徒歩5分(経路案内)。
神楽坂駅2番出口より徒歩6分(経路案内)。

関連項目
伝久寺 (新宿区) - 隣接する。

脚注
1. 
東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年、560p
2. 
a b 田中寺縁起田中寺

参考文献
・東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年

外部リンク
坐禅会|龍谷山田中寺|日本    
(wikiより)
 
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浄土宗寺院の大願寺は、本光明山放照院と号します。

大願寺の創建年代等は不詳ながら、津久戸より当地へ移転したといい、天蓮社暁誉上人露吟和尚 ( 寛文 7年寂 ) が開山したといいます。

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誕生1907年3月10日
埼玉県北足立郡浦和町
(現・埼玉県さいたま市浦和区)
死没2008年4月2日(101歳没)
職業児童文学作家
翻訳家
編集者
言語日本語
国籍日本の旗 日本
最終学歴日本女子大学校英文学科卒業[1]
活動期間1940年 - 2008年
ジャンル児童文学
代表作著作
ノンちゃん雲に乗る』(1951年)
『子どもと文学』(1960年)
『子どもの図書館』(1965年)
『幻の朱い実』(1994年)
翻訳
『熊のプーさん』(1950年)
ピーターラビット』(1971年)
主な受賞歴芸術選奨文部大臣賞(1951年)
菊池寛賞(1953年)
子ども文庫功労賞(1984年)
日本芸術院賞(1993年)
読売文学賞(1995年)
朝日賞(2007年)
旭日中綬章(2008年)
デビュー作著作ノンちゃん雲に乗る』(1951年)
翻訳プー横丁にたった家
A・A・ミルン (1942)

石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日[2] - 2008年4月2日)は、日本児童文学作家翻訳家位階従四位。「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける[3]一方、絵本児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。日本芸術院会員。

来歴・人物
埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市[2]常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる[2]。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった[2]。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。

1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学[2][注釈 1]。当時としては珍しい学級文庫巖谷小波の『世界お伽噺』などを楽しむ。1919年3月、同校卒業。同年4月、埼玉県立浦和高等女学校(現在の埼玉県立浦和第一女子高等学校)入学[2]1923年3月、同校卒業。1924年4月、日本女子大学校(現日本女子大学)入学[2]。在学中から、菊池寛のもとで外国の雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。1928年3月、同英文学科卒業。仕事で知り合った犬養健と親しくなり、1929年信濃町の犬養家の書庫整理に従事する[2]。1930年から1933年まで文藝春秋社に勤め[2](同編集部に桔梗利一)、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』などを編集した。

1933年、犬養家でクリスマスイブに『プー横丁にたった家』の原書"The House at Pooh Corner"(西園寺公一から犬養道子犬養康彦へのプレゼントだった)と出会い、感銘を受け、道子や康彦や病床の小里文子[注釈 2]のためにプーを少しずつ訳し始める。

1934年6月から1936年6月まで新潮社に勤務し、吉野源三郎山本有三らと『日本少国民文庫』の編集にあたった[2]1938年から荻窪に住む。同年、犬養家の書庫を借りて児童図書館・白林少年館を開設し[2]1940年11月には白林少年館出版部を創設[2]、紙不足に苦しみつつ『たのしい川邊』(ケネス・グレアム作、中野好夫訳)を刊行[2]。同年12月、吉野の紹介により、岩波書店から『クマのプーさん』を翻訳出版[2]。しかし、時局の軍国主義化に伴って白林少年館は1941年に閉館を余儀なくされ、出版部も同年1月に刊行した『ドリトル先生「アフリカ行き」』(ヒュー・ロフティング作、井伏鱒二訳)を最後に事業を停止した。

1942年、初めての創作『ノンちゃん雲に乗る』の執筆を開始。食糧難から、1945年8月15日宮城県栗原郡鶯沢村(現在の栗原市)で友人と共に開墾・農業・酪農を始める[2]。しかしやがて酪農組合の資金難に悩むようになり、岩波で『世界』編集長となった吉野や小林勇から再三編集の仕事を勧められたこともあり、1947年に上京を決意。1950年岩波書店に入社し[2]、『岩波少年文庫』の企画編集に携わる[2]

1951年藤田圭雄の紹介で光文社から刊行した『ノンちゃん雲に乗る』が第1回芸術選奨文部大臣賞を受け[2]、ベストセラーとなり[2]鰐淵晴子主演で映画化される。戦後児童文学界における業績を高く評価され、1954年菊池寛賞受賞[2]。同年、内藤濯に「おもしろいから」と勧めて訳させた『星の王子さま』を岩波書店から刊行した。また、坂西志保の勧めでロックフェラー財団研究員として海外留学を決意[2]1954年5月に岩波書店を退社し[2]、同年8月横浜港から渡米。船上で西川正身と知り合う。1955年6月、ヨーロッパを経て同年9月に帰国。

1957年、家庭文庫を始めていた村岡花子土屋滋子たちと「家庭文庫研究会」を結成(1964年に解散)[2]1958年、荻窪の自宅の一室に児童図書室「かつら文庫」を開く[2]。この文庫の一番乗りはロックフェラー財団つながりで交友があった阿川弘之の長男尚之だった[4]。続いて長女佐和子も同文庫に通うようになる[4]。この取り組みはのちに『子どもの図書館』(1965年)にまとめられ、公共図書館への児童室の設置、民間の家庭文庫・地域文庫の普及に大きな影響を与えた。

1961年9月から北米とヨーロッパを旅行。同年11月、英国でエリナー・ファージョンと会う。1972年、カーネギー=グリーナウェイ・メダル授賞式に出席するため英国を訪問。1974年1月、盟友の松岡享子と約3年前から設立の準備を進めていた東京子ども図書館を設立する[2]

1984年、第1回子ども文庫功労賞(伊藤忠記念財団)を受賞。1993年日本芸術院賞受賞(子どもの本の世界における長年の貢献と業績に対して)[2]1995年、約8年がかりの自伝的長篇小説『幻の朱い実』上下(1994年、岩波書店)で読売文学賞受賞[2]1996年、石井桃子奨学研修助成金(東京子ども図書館)が始まる。1997年7月、NHKテレビETV特集 21世紀の日本人へ』に出演。同年12月、芸術院会員となる。1998年9月、『石井桃子集』全7巻(岩波書店)の刊行が始まる(1999年3月に完結)。

2008年2007年朝日賞受賞[2]。同年4月2日老衰にて101歳で死去[2]。叙従四位・授旭日中綬章。生涯独身。

太宰治との出会い
石井は1940年、『新潮』5月号の『走れメロス』で、初めて太宰治の名を知った。以前イギリスの本で読んだ『走れメロス』のモチーフであるメロスとセリヌンティウスの逸話に石井は感激したのだが、そのことを知人に話すと「きみ、そんな話、ほんとうにあるかね」と水をさされたことがあった。そのため、太宰の作品でこの逸話がモチーフとなり「ほんとうにうれしく思った」という[5]。同年、井伏鱒二の家で太宰と偶然同席した石井は太宰から「ちょっとつかみどころもないほどやわらかい感じの、私には少年のように若々しく思えた人」という印象を受けた。井伏によると、「それから後は当分の間、太宰は桃子さんにあこがれるやうになつてゐた」という[6]。あるとき石井が自宅の庭にある白樺の木を薪にするため奮闘していると、その姿を井伏に目撃された。井伏がその時のことを太宰に話すと、「素敵ですね」「いつぺん桃子さんのところに、僕を連れてつてくれませんか。でも、僕は他意ないんだがなあ」と太宰は言った[7]。井伏によると、太宰は石井を念頭に置いて「僕は恋愛してもいいですか」と井伏に相談し、井伏から「そんなことは君の判断次第ぢやないか」と返答され、「やつとそれで安心した」と言ったことがあるという[8][注釈 3]。後に井伏は「太宰君がね、あなたのこと、あの人、えらい人ですねって言ってましたよ」と伝え、石井を笑わせた。酒を飲まない石井の家にベルモットがあることを知った井伏が太宰を連れて石井宅を訪問したこともあった。戦後まもなく石井が宮城県で農業を営んでいた頃、井伏への手紙のついでに「太宰さんも東北ですね」と書いたところ、当時青森県の実家に身を寄せていた太宰の住所を井伏から知らされた。しかし農業に忙殺されていた石井は太宰に連絡を取ることができなかった。

1948年に太宰が情死した後、石井は井伏から話を持ち出されないのに太宰の噂話をし、主に太宰の小説について印象を語った[9]。そのとき井伏は「この女性が、太宰のあこがれてゐたのを意識して話してゐるものと解釈した」[9]。そこで井伏が「『すつぱりして、気持ちのいい男でしたね』と云ふと、『ほんとよ、いい人でしたわ』と桃子さんは、わが意を得たといふやうに答へた」[10]。一方、石井は井伏に向かって「友情って、結局、そこまでは繋ぎとめられないものなんですね」と責めるように言ったとも回想している。そのとき井伏は「太宰君、あなたがすきでしたね」[注釈 4]と言ったため、石井は驚いて「『はァ』と笑うような、不キンシンな声をだしてしまった」後、「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた[注釈 5][注釈 6]。すると井伏は「だから、住所知らしたじゃありませんか」と言った。

著書
・『子どもの読書の導きかた』国土社、1960
・『子どもの図書館』岩波新書、1965
『児童文学の旅』岩波書店、1981
『幻の朱い実』岩波書店、1994
・『石井桃子集』全7巻 岩波書店、1998-99
  1巻「ノンちゃん雲に乗る・三月ひなのつき」2巻「山のトムさん・ふしぎなたいこ」3巻「迷子の天使」4巻「幼ものがたり」5巻「新編 子どもの図書館」6巻「児童文学の旅」7巻「エッセイ集」
・『石井桃子コレクション』全5巻 岩波現代文庫、2015
  1巻「幻の朱い実(上)」2巻「幻の朱い実(下)」3巻「新編 子どもの図書館」4巻「児童文学の旅」5巻「エッセイ集」
・『家と庭と犬とねこ』(河出書房新社 2013.5 河出文庫 2018.2)随筆集
・『みがけば光る』(河出書房新社 2013.9 河出文庫 2018.3)随筆集
・『プーと私』(河出書房新社 2014.1 河出文庫 2018.4)随筆集
・『新しいおとな』(河出書房新社 2014.3 河出文庫 2018.5)随筆集
・『においのカゴ 石井桃子創作集』(河出書房新社 2014.11)
・『子どもに歯ごたえのある本を 石井桃子談話集』(河出書房新社 2015.12)
・『子どもが本をひらくとき 石井桃子講演録』(ブックグローブ社 2017.4)

児童文学
・『ノンちゃん雲に乗る光文社、1951
・『山のトムさん』光文社、1957 のち岩波少年文庫
・『迷子の天使』光文社、1959
・『三月ひなのつき』福音館書店、1963
・『幼ものがたり』福音館書店、1981 のち文庫
・『べんけいとおとみさん』福音館書店、1985

絵本
・『やまのこどもたち』絵:深沢紅子 岩波書店、1956
・『やまのたけちゃん』絵:深沢紅子 岩波書店、1959
・『いぬとにわとり』絵:堀内誠一 福音館書店、1960年10月1日(初版)
・『くいしんぼうのはなこさん』絵:中谷千代子 福音館書店、1965
・『ことらちゃんの冒険』絵:深沢紅子 婦人之友社、1971

主な訳書
・児童文学論 リリアン・H・スミス 瀬田貞二渡辺茂男共訳 岩波書店、1964
・子どもと本の世界に生きて 一児童図書館員のあゆんだ道 アイリーン・コルウェル 福音館書店、1968
・今からでは遅すぎる ミルン自伝 A・A・ミルン 岩波書店、2003

児童文学
・プー横丁にたった家 アラン・アレグザンダー・ミルン 岩波書店、1942 のち岩波少年文庫
・ティモジーの靴 J.H.ユウイング 中央公論社、1948
・ヒキガエルの冒険 ケネス・グレアム 英宝社、1950 のち「たのしい川べ」と改題、岩波少年文庫
・熊のプーさん A.A.ミルン 英宝社、1950 のち岩波少年文庫
・小さい牛追ひ マリー・ハムズン 岩波少年文庫、1950
・牛追いの冬 ハムズン 岩波少年文庫、1951
トム・ソーヤーの冒険 マーク・トウェイン 岩波少年文庫、1952
・ハンス・ブリンカー 銀のスケート M.M.ドッジ 岩波少年文庫、1952
・とぶ船 H.リュイス 岩波少年文庫、1953
・イギリス童話集 あかね書房、1954
・ふくろ小路一番地 イーヴ・ガーネット 岩波少年文庫、1957
ピーター・パンとウェンディ J.M.バリー 岩波書店、1957
・白い象の秘密 エラリイ・クウィーン 早川書房、1958 のち文庫
・黒い小人 ジョゼフ・ジェイコブス 麦書房、1958
・ムギと王さま エリナー・ファージョン 岩波少年文庫、1959
・砂の妖精 イディス・ネスビット あかね書房、1959 のち角川文庫
・まぼろしの白馬 エリザベス・グージ あかね書房、1964 のち岩波少年文庫
・木馬のぼうけん旅行 アーシュラ・ウィリアムズ 福音館書店、1964
・ゆかいなホーマーくん ロバート・マックロスキー 岩波ものがたりの本、1965 のち岩波少年文庫
・チム・ラビットのおともだち アリソン・アトリー 童心社、1967
・ガラスのくつ エリナー・ファージョン 講談社、1968
・燃えるアッシュ・ロード アイバン・サウスオール 子ども文庫の会、1968
・『エリナー・ファージョン作品集』1-6 岩波書店
 ・リンゴ畑のマーティン・ピピン 1972 のち岩波少年文庫
 ・銀のシギ 1975 など
すえっ子Oちゃん エディト・ウンネルスタード 下村隆一共訳 学習研究社、1971
・夜中出あるくものたち ジョン・メイスフィールド 評論社、1973
・喜びの箱 ジョン・メイスフィールド 評論社、1975
・サリーのこけももつみ ロバート・マックロスキー 岩波書店、1976
・ねずみ女房 ルーマー・ゴッデン 福音館書店、1977
・クマのプーさんと魔法の森 クリストファー・ミルン 岩波書店、1977
・こぎつねルーファスのぼうけん アリソン・アトリー 岩波書店、1979
・イギリスとアイルランドの昔話 福音館書店、1981
・魔法使いのチョコレート・ケーキ マーガレット・マーヒー 福音館書店、1984
・氷の花たば アリソン・アトリー 中川李枝子共訳 岩波少年文庫、1996
・西風のくれた鍵 アリソン・アトリー 中川李枝子共訳 岩波少年文庫、1996
・天国を出ていく ファージョン 岩波書店、2001
・エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする ファージョン 岩波書店、2004

絵本
・スザンナのお人形/ビロードうさぎ マージェリー・ビアンコ・ウィリアムズ 岩波書店、1953年(改版で童話館出版、2002)
・百まいのきもの(2006年『百まいのドレス』と改題) エレノア・エスティーズ 岩波書店、1954
・どうぶつのこどもたち サムイル・マルシャーク 岩波書店、1954
・海のおばけオーリー マリー・ホール・エッツ 岩波書店、1954
ちいさいおうち バージニア・リー・バートン 岩波書店、1965

以上は「岩波の子どもの本」シリーズ
・こすずめのぼうけん ルース・エインズワース 福音館書店、1977
・ひゃくまんびきのねこ ワンダ・ガァグ 麦書房、1959
・シナの五にんきょうだい クレール・H・ビショップ 福音館書店、1961
・はたらきもののじょせつしゃけいてぃー バージニア・リー・バートン 福音館書店、1962
・おやすみなさいのほん マーガレット・ワイズ・ブラウン 福音館書店、1962
・カラスだんなのおよめとり チャールズ・ギラム 岩波書店、1963
・せいめいのれきし バージニア・リー・バートン 岩波書店、1964
・『うさこちゃん』シリーズ
 ・ちいさなうさこちゃん ディック・ブルーナ 福音館書店、1964(子どもがはじめてであう絵本) その他多数
・きんいろのしか インド・パキスタンの昔話 ジャラール・アーメド 福音館書店、1968
・『ピーターラビット』シリーズ
 ・ピーターラビットのおはなしベンジャミンバニーのおはなし、その他 ビアトリクス・ポター 福音館書店、1971(ピーターラビットの絵本)
・まどそうじやのぞうのウンフ アン・ホープ 福音館書店、1979
・あくたれラルフ ジャック・ガントス 福音館書店、1982
・野うさぎのフルー リダ・フォシェ 童話館出版、2002
・根っこのこどもたち目をさます ジビレ・フォン・オルファース 童話館出版、2003

共著
・『子どもと文学』(瀬田貞二、鈴木晋一、松居直いぬいとみこ、渡辺茂男) 福音館書店、1967


共編著
・『雨の日文庫1』(阿部知二宮原誠一八杉竜一国分一太郎小田切秀雄佐々木基一 むぎ書房、1966、ISBN 4-8384-0045-4

受賞歴
1951年、第1回芸術選奨文部大臣賞『ノンちゃん雲に乗る』
1953年菊池寛賞受賞
1984年、第1回子ども文庫功労賞
1993年日本芸術院賞
1995年読売文学賞『幻の朱い実』
2007年朝日賞

関連書籍
・『かつら文庫の50年』(東京子ども図書館、2008.10)
・『石井桃子の翻訳はなぜ子どもをひきつけるのか 「声を訳す」文体の秘密』(竹内美紀、ミネルヴァ書房、2014.4)
・『石井桃子のことば(とんぼの本)』(中川李枝子・松居直、松岡享子、若菜晃子ほか、新潮社、2014.5)
・『ひみつの王国 評伝 石井桃子』(尾崎真理子、新潮社、2014.6、新潮文庫、2018.3)
・『石井桃子 児童文学の発展に貢献した文学者 ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉』(筑摩書房、2016.1)
・『石井桃子 子どもたちに本を読む喜びを』 (竹内美紀、あかね書房、2018.4)
・『石井桃子in浦和』(石井桃子の会、2019.3)

脚注
注釈
1. 
1913年入学という記述は『石井桃子集』全7巻の巻末年譜によるが、『ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一〇〇年のおはなし」p.210では1914年入学としている。
2. 
おり ふみこ。石井の大学時代の先輩で文藝春秋社の元同僚。横光利一と同棲していたこともあり、横光の短篇小説『計算した女』の「お桂」のモデルとなった。結核で早世したが、のち『幻の朱い実』の大津蕗子のモデルとなる。
3. 
ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一〇〇年のおはなし」p.75にて、今江祥智内田也哉子との対談で「太宰さんが井伏さんに橋渡しを頼んだけれども、石井さんはお断りになったそうです」と発言しているが、石井が断ったとの記述は井伏の「をんなごころ」にも石井の「太宰さん」にも登場しない。
4. 
井伏の表現では「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれてゐましたね。実際、さうでした。」となっている(『太宰治』p.90)。
5. 
井伏の表現では「桃子さんは、びつくりした風で、見る見る顔を赤らめて、『あら初耳だわ。』と独りごとのやうに言つた。『おや、御存じなかつたんですか。これは失礼。』『いいえ、ちつとも。──でも、あたしだつたら、太宰さんを死なせなかつたでせうよ。』この才媛は、まだ顔を赤らめてゐた」となっている(『太宰治』p.90)。
6. 
ユリイカ2007年7月号「特集*石井桃子 一〇〇年のおはなし」p.75にて、今江祥智内田也哉子との対談で「太宰治がああいう亡くなり方をした時に、新聞社の記者が石井さんに、『もしも太宰治と結婚されていたら、石井先生はどうされていたでしょうか?』と訊いた」と発言しているが、新聞記者が訊いたとの記述は井伏の「をんなごころ」にも石井の「太宰さん」にも登場しない。

詳しい事は「石井桃子ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%A1%83%E5%AD%90

8 石井桃子

石井桃子

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瑞光寺は、文禄 4年 ( 1596年 ) に創建、上聖院日亮 ( 正保 3年 1647年寂 ) が開山、惠光院殿妙照日曜大姉 ( 有馬出雲守出雲守の令室、寛永元年 1624年没 ) が開基したといいます。

明治 5年寺号を瑞光寺と改めています。

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縁起
感通寺は、寂陽院日建上人(正保3年1646寂)が開山となり、寛永7年(1630)に創建したといいます。

感通寺の由来と多聞天
感通寺は、東京都新宿区喜久井町に位置する日蓮宗の寺院です。

早稲田駅から徒歩5分、若松河田、牛込柳町からも徒歩圏内にあります。

当寺は寂陽院日建上人によって、寛永七年(1630年)に創建されました。

山号は本国土妙・寺号は「感応道交・神通之力」 本妙山 髙田 感通寺とされています。

松平越後守の下屋敷高田御殿後にあり、衆生に機縁があれば、仏の力が自然に応じて、衆生の感と仏の応とが互いに相通じ相交わるとの願いが込められた寺院です。

当寺安置の毘沙門天の霊像は、越後上杉謙信公が深くこの霊像を尊敬し相伝され、謙信公が天正六年に卒すると共に奥州米沢の城に遷座されましたが、徳川将軍の時代となり、髙田様入府の折、かの霊像を越後少将松平忠輝公・その御母君により当寺に勧請したとされています。

この霊像は、日蓮大聖人が佐渡より勘気赦免となり越後高田に来られた時、一人の翁が顕れ、夜半に迷われた大聖人の頭陀袋を持って案内しました。

真言宗の寺院に導かれ宿したが、先程の老翁が見えないのでお尋ねになると、神壇の多聞天即ち毘沙門天が先の頭陀袋を背負い、足に泥をつけ立っていたので、さては多聞天であったかと知り、この導きに法楽の誦経を捧げました。

寺主もその導きに感じ入り大聖人の法門に帰依されました。

この故事より「開運出迎泥足(でむかえどろあし)毘沙門天」と呼ばれています。

法華経陀羅尼神呪の感応道交の利益は不思議であり、苦しむ衆生を救う変化の人となると、今も霊験あらたかな毘沙門天として信仰されています。
(案内板より)

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先日ご紹介した「ひょうたんなべ」さんの真ん前のお店 串助さんです。

近頃年を取ったせいか、鳥肉が美味しく感じる。

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⇧ 店外観

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⇧ カウンターに着座

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⇧ お通しは野菜サラダ と大根おろし

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⇧ もう、ぬる燗しかないでしょ ( 京都 伏見 : ふり袖 )

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⇧ ささみ3点盛り ( わさび、明太子、梅肉しそ )

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⇧ 鳥レバー、正肉、手羽中

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⇧ 芋焼酎のソーダ割り

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⇧ ポテトバター

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⇧ また、ぬる燗を注文 ( 京都 伏見 : ふり袖 )

ご馳走様でした



串助 雷門店









出生名白片 力
生誕1912年4月16日
出身地アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル
死没1994年7月13日(82歳没)
学歴ハワイ大学医学部医学科卒業
ジャンルハワイアン
職業ギタリスト
担当楽器スティール・ギター
活動期間1933年 - 1994年
共同作業者バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ

バッキー白片(ばっきーしらかた、1912年(明治45年)4月16日 - 1994年(平成6年)7月13日)は昭和期に活動したハワイアンスティール・ギター奏者、作曲家。バッキー白片とアロハ・ハワイアンズのリーダー。本名は白片 力(しらかた つとむ)。

生涯
日系一世の子としてホノルルに誕生。マッキンレー高校からハワイ大学医学部へ進んでからも、ホノルル・シンフォニー・オーケストラに加入するなど、ハワイアン音楽に傾倒。

1933年(昭和8年)、大学を1年休学してアロハ・ハワイアントリオを結成。そして来日。「アカカの滝」「フイ・エ」の2曲をレコーディング。

1935年(昭和10年)、同大学を卒業。

1937年(昭和12年)、日本に帰化し、冨美子と結婚して東京に居住。

1939年(昭和14年)、ハワイアン音楽、「竹の橋の下」「フラの天国」を発売。翌年、日本青年館での第1回アロハ・ハワイアンズ発表会が行われた。

戦時中は、ハワイアン音楽の演奏禁止により不遇の時代を過ごす。また、敵性語排除の風潮によって本名での活動を余儀なくされた。

1947年(昭和22年)、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズを結成。和田弘エセル中田などの後進を育成。

1959年(昭和34年)、「南国の夜」を発売しヒット。

作曲活動も行い、石原裕次郎の「俺はお前に弱いんだ」、「ささやきのタンゴ」、「さすらい」、「白樺の湖」などを作曲した。

1988年(昭和63年)、勲四等瑞宝章受章。

1994年(平成6年)7月13日、心不全で死去。82歳没。

息子の白片健が、現在バッキー白片jr.として活動している。

ディスコグラフィ―
シングル (SP)
・松平晃 / 月のセレナーデ (日本コロムビア 29888、1938.08。B面は淡谷のり子「日暮れの窓で」)
・白片力 / 南の花嫁さん (ニッチク 100669、1943.03。A面は平八郎「高原の月」)
・白片力 / 支那の夜 (ニッチク 100671、1943.03。A面は平八郎・上田仁「蘇州夜曲」)
ベティ稲田 / チューチューチュー c/w マリヒニ・メレ (テイチク 492、1947)
・ディック・ミネ / 或る日曜日の朝 c/w ベティ稲田 / ベンガワンソロ (テイチク 562、1948.07)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / みんなで踊ろう c/w 歸れソレントえ (テイチク 563、1948)
・ベティ稲田 / ラテン・ブラン c/w ディック・ミネ / 踊る今宵 (テイチク 571、1948.08)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マリア・マリ c/w アロハ・ブギ (テイチク 577、1948)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 宵待草 c/w 荒城の月 (テイチク 594、1948.12)
・ベティ稲田 / 夢誘うハワイ c/w さすらい (テイチク 657、1949.03)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイカップ c/w アロハ・オエ (テイチク 661、1949)
・ベティ稲田 / ベリー・ハッピー (テイチク 682、1949.04。B面はディック・ミネ「チェリー・コンガ」)
・ベティ稲田 / カム・ツウ・ハワイ c/w ディック・ミネ / ホノルル娘 (テイチク 684、1949.04)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / コロパ c/w カヌーに乗って (テイチク 687、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マイ・オールド・ケンタッキー・ホームc/w オールド・ブラック・ジョー (テイチク 712、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 濱邊の歌 c/w 出・船 (テイチク 713、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 波にのって c/w ハワイの月 (テイチク 730、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 星降る濱邊 c/w ハワイの花 (テイチク 744、1949)
・ベティ稲田 / ハワイの戀唄 (テイチク 758、1949.10。A面はディック・ミネ「愉快なリズム」)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 螢の光 c/w 旅愁 (テイチク 769、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 影を慕いて c/w 青い背広で (テイチク 780、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 男の純情 c/w 東京ラプソデー (テイチク 781、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 緑の地平線 c/w 人生の並木路 (テイチク 782、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 珊瑚礁の彼方へ c/w 小さな竹の橋で (テイチク 787、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 嘆きの夜曲 c/w 君忘れじのブルース (テイチク 793、1949)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 酒は涙か溜息か c/w 女の階級 (テイチク 800、1950)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夕べ仄かに c/w 東京娘 (テイチク 801、1950)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 草津メロデー c/w アリラン (テイチク 845、1950)
・ベティ稲田 / アロハ・ブギウギ (テイチク 848、1950.02。A面はディック・ミネ「銀座パンチョー」)
・ベティ稲田 / ベンガワン・ソロ (テイチク 851、1950.02。B面はディック・ミネ「上海リル」)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 何日君再来 c/w 太湖船 (テイチク 855、1950)
・ディック・ミネ / 牧場の月 c/w ベティ稲田 / 二人の春 (テイチク C-3034、1950.04)
・ベティ稲田 / チューチューチュー c/w マリヒニ・メレ (テイチク C-3070、1950.09)
・ベティ稲田 / 恋のドレミファ c/w ソフトとパラソル (テイチク C-3083、1950)
・ベティ稲田 / おゝワンダフル c/w ディック・ミネ / 想い出の丘 (テイチク C-3097、1950.10)
・真木不二夫 / 霧の港 (テイチク C-3111、1950。B面は菅原都々子「散りゆく花」)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 母千鳥の唄 c/w 江ノ島悲歌 (テイチク C-3242、1951)
・バッキー白片 / 軍艦マーチ c/w 君が代行進曲 (テイチク C-3246、1951)
・ベティ稲田 / 谷間の彼方 (テイチク C-3309、1952.04。B面はディック・ミネ「わかれ月夜」)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 君恋いギター c/w 面影いずこ (C-4056、1957)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夕べの鐘 c/w 月のハワイ (テイチク C-4122、1957)
・ジェームス三木 / 月に踊る天使 c/w 男の桟橋 (テイチク C-4188、1958.07)
・石原裕次郎 / 赤い波止場 c/w 南国の夜 (テイチク C-4218、1958.09)
・川地民夫 / 海の隼 c/w ヨットと青春 (テイチク C-4267、1959)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 炭坑節 c/w 港舟唄 (テイチク C-7001)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 椰子はささやく c/w 君と語れば (テイチク C-7002)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム c/w オールド・ブラック・ジョー (テイチク C-7003)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 太湖船 c/w 何日君再来 (テイチク C-7004)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / スワニー河の流れ c/w 天然の美 (テイチク C-7006)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 冗談さ c/w 静かな入江 (テイチク C-7008)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ジンジャーのレイ c/w 虹の樂園 (テイチク C-7009)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 風に吹かれて c/w 流れるままに (テイチク C-7010)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ハワイの夜 c/w 唄うスチールギター (テイチク C-7011)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ブルー・ダニューブ c/w ラ・パロマ (テイチク C-7012)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マリア・マリー c/w アロハ・ブギ (テイチク C-7013)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 濱千鳥 c/w 十三夜 (テイチク C-7014)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 星降る浜辺 c/w ハワイの花 (テイチク C-7015)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 妙な気分 c/w スウィートなリズム (テイチク C-7016)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 宵待草 c/w 荒城の月 (テイチク C-7017)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / お江戸日本橋 c/w 元禄花見踊 (テイチク C-7018)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 影を慕いて c/w 青い背広で (テイチク C-7020)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 男の純情 c/w 東京ラプソデー (テイチク C-7021)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 緑の地平線 c/w 人生の並木路 (テイチク C-7022)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイカップ c/w アロハ・オエ (テイチク C-7024)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 螢の光 c/w 旅愁 (テイチク C-7025)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 酒は涙か溜息か c/w 女の階級 (テイチク C-7026)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夕べ仄かに c/w 東京娘 (テイチク C-7027)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ほんとにそうならうれしいわ c/w ああそれなのに (テイチク C-7028)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 初戀のルムバ c/w 簡単なメロデー (テイチク C-7030)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ハワイの子守唄 c/w クルミ割りの踊り (テイチク C-7031)
・ベティ稲田 / フラは楽し c/w ディック・ミネ / 君を抱きて (テイチク C-7032)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイキキの濱で c/w 月の雲間に (テイチク C-7035)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 安来メロデー c/w 春雨 (テイチク C-7044)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 炭坑節 c/w 港舟唄 (テイチク AC-7001)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 椰子はささやく c/w 君と語れば (テイチク AC-7002)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム c/w オールド・ブラック・ジョー (テイチク AC-7003)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 太湖船 c/w 何日君再来 (テイチク AC-7004)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / スワニー河の流れ c/w 天然の美 (テイチク AC-7006)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 冗談さ c/w 静かな入江 (テイチク AC-7008)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ジンジャーのレイ c/w 虹の樂園 (テイチク AC-7009)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 風に吹かれて c/w 流れるままに (テイチク AC-7010)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ハワイの夜 c/w 唄うスチールギター (テイチク AC-7011)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ブルー・ダニューブ c/w ラ・パロマ (テイチク AC-7012)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マリア・マリ c/w アロハ・ブギ (テイチク AC-7013)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 濱千鳥 c/w 十三夜 (テイチク AC-7014)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 星降る浜辺 c/w ハワイの花 (テイチク AC-7015)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 妙な気分 c/w スウィートなリズム (テイチク AC-7016)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 宵待草 c/w 荒城の月 (テイチク AC-7017)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / お江戸日本橋 c/w 元禄花見踊 (テイチク AC-7018)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 影を慕いて c/w 青い背広で (テイチク AC-7020)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 男の純情 c/w 東京ラプソデー (テイチク AC-7021)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 緑の地平線 c/w 人生の並木路 (テイチク AC-7022)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイカップ c/w アロハ・オエ (テイチク AC-7024)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 螢の光 c/w 旅愁 (テイチク AC-7025)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 酒は涙か溜息か c/w 女の階級 (テイチク AC-7026)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夕べ仄かに c/w 東京娘 (テイチク AC-7027)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ほんとにそうならうれしいわ c/w ああそれなのに (テイチク AC-7028)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 初戀のルムバ c/w 簡単なメロデー (テイチク AC-7030)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ハワイの子守唄 c/w クルミ割りの踊り (テイチク AC-7031)
・ベティ稲田 / フラは楽し c/w ディック・ミネ / 君を抱きて (テイチク AC-7032)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイキキの濱で c/w 月の雲間に (テイチク AC-7035)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 安来メロデー c/w 春雨 (テイチク AC-7044)
・石原裕次郎 / 狂った果実 c/w 想い出 (テイチク G-7777、1956.08)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 聖しこの夜 c/w ジングル・ベル (テイチク JS-150000)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / セプテンバー・ソング c/w ビギン・ザ・ビギン (テイチク JS-15003)
・ディック・ミネ / 林檎の樹の下で c/w アイルランドの娘 (テイチク JS-15004)
・フラワー・シスターズ / ふるさとの谷川 c/w 愉快なフラ (テイチク JS-15005)
・ディック・ミネ / 火の接吻 c/w 第三の男 (テイチク JS-15006)
・ディック・ミネ / ブルー・ハワイ c/w 恋の独木舟 (テイチク JS-15007)
・バッキー白片とアロハ・キングス / 泪のワルツ c/w ストレンジ・センセイション (テイチク JS-15009)
・バッキー白片とアロハ・キングス / ハワイアン・パラダイス c/w アロハ・オエ (テイチク JS-15013)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 想い出のワルツ c/w わが心に歌えば (テイチク JS-15017)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 奥様お手をどうぞ c/w 皇帝円舞曲 (テイチク JS-15019)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 二人でいるのに c/w 君と歌えば (テイチク JS-15041)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夢の天國 c/w 椰子の葉陰 (テイチク T-3080)

シングル (7インチ )
・川地民夫 / 海の隼 c/w ヨットと青春 (テイチク NS-101、1959)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / アロハ・オエ c/w マリヒニ・メレ (テイチク NS-117)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 忘れはしないいつまでも c/w ささやきのタンゴ (テイチク NS-128)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国土佐を後にして c/w 金比羅マンボ (テイチク NS-129)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / シボネー c/w エストレリータ (テイチク NS-130)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 太湖船 c/w アリラン (テイチク NS-131)
・バッキー白片とグリーン・アイランド楽団 / 黒い瞳 c/w バラのタンゴ (テイチク NS-132))
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 珊瑚礁の彼方 c/w ブルー・ハワイ (テイチク NS-144、1959)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国の夜 c/w カイマナ・ヒラ (テイチク NS-155)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 殺し屋のテーマ c/w 殺し屋のワルツ (テイチク NS-160、1960)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 騎兵隊 c/w テンティング・トゥナイト (テイチク NS-172、1
・59.12)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / トム・ドーリー c/w ルビー・レッド (テイチク NS-191、1960)
・バッキー白片とテイチク・レコーディング・オーケストラ / 駅馬車 c/w 遙かなる山の呼び声 (テイチク NS-220、1960.06)
・ダーク・ダックス / アロハ・オエ c/w ブルー・ハワイ (テイチク NS-231、1960.06)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ワイカプー c/w アロマ (テイチク NS-237、1960.07)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / タハウラ c/w ハワイアン・パラダイス (テイチク NS-238、1960.07)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / キプカイ c/w ピリメ・オエ (テイチク NS-239、1960.07)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 死ぬほど愛して c/w 黒いオルフェ (テイチク NS-287、1960)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 螢の光 c/w きよしこの夜 (テイチク NS-318、1960)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 悲しきムスターファ c/w アフリカの星のボレロ (テイチク NS-337、1961.02)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 階段の上の暗闇 c/w サンダウナーズ (テイチク NS-345、1961.03)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 遥かなるアラモ c/w グリーン・フィールズ (テイチク NS-374、1961.05)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 北上夜曲 c/w 北上川悲歌 (テイチク NS-430、1961.09)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / コマンチェロ c/w ガール・ハント (テイチク NS-522、1962.03)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / コマンチェロ c/w ガール・ハント (テイチク SN-9、1962.03)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国の夜 c/w 小さな竹の橋の下で (テイチク SN-11、1962.05)
・石原裕次郎 / 南国の夜 c/w 珊瑚礁の彼方 (テイチク NS-551、1962.06)
・田代みどり / バリバリの浜辺 c/w 月の夜は (テイチク NS-562、1962.07)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 山男の歌 c/w 雪山讃歌 (テイチク NS-567、1962.09)
・鉄砲光三郎 / 民謡鉄砲節 c/w 浅太郎月夜 (テイチク NS-704、1963.05)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 可愛いいばらの少女 c/w さすらいのトラムペット (テイチク NS-696、1963.06)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国の夜 c/w 小さな竹の橋の下で (テイチク SN-11)
・石原裕次郎 / 俺はお前に弱いんだ c/w 無情の街 (テイチク SN-64、1964.05)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ジングル・ベル c/w ホワイト・クリスマス (テイチク SN-129、1964)
・浜田光夫 / ささやきの小径 c/w まことの愛 (テイチク SN-185、1965.06)
・石原裕次郎 / 南国の夜 c/w 珊瑚礁の彼方 (テイチク SN-190、1965)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国の夜 c/w 小さな竹の橋の下で (テイチク SN-191、1965)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 珊瑚礁の彼方 c/w ブルー・ハワイ (テイチク SN-192、1965)
・石原裕次郎 / ささやきのタンゴ c/w 忘れはしないいつまでも (テイチク SN-226、1965)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 真珠貝の歌 c/w 夏の想い出 (テイチク SN-347、1966.06)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 夢は夜ひらく c/w 逢えるじゃないかまたあした (テイチク SN-441)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 南国の夜 c/w 珊瑚礁の彼方 (テイチク SN-755、1969)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 愛のキャンドル c/w (テイチク SN-829)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / カイマナ・ヒラ c/w ダヒル・サヨ (テイチク SN-1459)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 珊瑚礁の彼方 c/w 小さな竹の橋の下で (テイチク 45-58)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / ジングル・ベル c/w ホワイト・クリスマス (テイチク 58-18)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / 憧れの犬吠ケープパレス (テイチク 45-62。A面は相馬宏之「犬吠崎の夜は更けて」)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / マリヒニ・メレ c/w アロハ・オエ (テイチク P-5002)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / アロマ c/w ナカ・ブエオ (テイチク P-5006)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / きよしこの夜 c/w 蛍の光 (テイチク P-5020)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ / うるわしのハワイ娘 c/w わたしを忘れないで (テイチク P-5032)

詳しい事は「バッキー白片ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E7%99%BD%E7%89%87
(wikiより)

5 バッキー白片

⇧ バッキー白片

5a

5b

5c



ビルボード東京で、アル・マッケイ ( アース・ウインド&ファイヤーのギタリスト ) のライブを見た後に立ち寄りました。

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⇧ この雰囲気だけで良い感じです。

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⇧ お通しはもずく酢

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⇧ ひとまず中生

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⇧ 芋焼酎の炭酸割り

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⇧ 牛すじの煮込み

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⇧ おでん

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⇧ 刺身盛り合わせ

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⇧ 磯部揚げ

ご馳走様でした。



ひょうたんなべ雷門店






延宝四年 ( 一六七六 ) に造立された板碑型 ( いたびがた ) の庚申塔である。

石質は極めて固い玄武岩 ( 玄武岩 ) で、高さは一二〇センチ、上部左右に日月 ( じつげつ ) 
配し、中央岩座に三猿 ( さんえん ) 、下部に対面した雌雄 ( しゆう ) の鶏 ( とり ) が浮彫りされ、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。

向かって左には、「延宝四年丙辰 ( へいしん ) 九月十六日川田久保」と、右には、「武州湯河原郡牛込馬場下町」の文字が彫り込まれており、川田久保 ( 現在の市谷柳町 ) と馬場下町 ( 現在の喜久井町 ) の庚申講によって奉納されたことがわかる。

中世には荏原郡 ( えばらぐん ) に属していた馬場下町は、江戸時代には豊島郡に属した。

湯原郡とは荏原郡を指すと思われるが、江戸時代制作である庚申塔に、馬場下町が荏原郡とされた理由は不明である。
(案内板より)

4a

4b



所在地東京都新宿区喜久井町46
位置北緯35度42分15.5秒 東経139度43分13.2秒
山号紫雲山
院号聖衆院
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年寛永8年(1631年
開山崇蓮社伝誉上人
札所等山の手三十三観音霊場18番札所

来迎寺
(らいごうじ)は、東京都新宿区にある浄土宗寺院

概要
1631年寛永8年)、崇蓮社伝誉上人によって開山された。

境内には、庚申塔がある。元々は夏目坂の道にあったものであるが、当寺に移された[1]

この庚申塔は、1676年延宝4年)に建立されたが、当地の地名は武蔵国豊島郡のはずなのに、なぜか「武州湯原郡」と記されている謎がある[2]。この「湯原郡」は、荏原郡の誤記と看做されている。室町時代は荏原郡に属していたという説があるが、豊島郡との郡境がどこに引かれていたのかは不明である[1]

近くの誓閑寺にも、同様の謎を持つ梵鐘がある[1]

交通アクセス
早稲田駅2番出口より徒歩3分(経路案内)。

脚注
a b c 高橋庄助 著『新宿区史跡散歩 (東京史跡ガイド4)』学生社、1992年、71-73p
来迎寺新宿観光振興協会

参考文献
・高橋庄助 著『新宿区史跡散歩 (東京史跡ガイド4)』学生社、1992年
(wikiより)

3a

3b

3c



所在地東京都新宿区早稲田町77
位置北緯35度42分21.0秒 東経139度43分24.1秒
山号太子山
院号聖徳皇院
宗派真宗大谷派
本尊阿弥陀如来
創建年寛永15年(1638年
開山円明院教祐
開基真行院欅道哲
公式サイト龍善寺

龍善寺(りゅうぜんじ)は、東京都新宿区にある真宗大谷派寺院

歴史
1638年寛永15年)、円明院教祐によって開山された。徳川氏の旧領だった三河国には、元々浄土真宗門徒(信者)が多く、三河一向一揆まで起き、一時は徳川家康を追い詰めていた。その後、徳川氏の江戸入府とともに、門徒たちも江戸に移住した。門徒たちは故郷の三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)の上宮寺本尊を拝したいので、江戸で開帳してほしいという要望を出したので、上宮寺の江戸支院という位置づけて、開帳と同時に当寺が創建された[1][2]

開帳後、上宮寺の本尊は岡崎に戻されたが、代わりに上宮寺より阿弥陀如来像が贈られ、当寺の本尊となった。この像は鎌倉時代に作られたという[2]

元々は、現在の東京都渋谷区千駄ヶ谷に位置していたが、1667年寛文7年)に現在地に移転した[1]

その後、当寺内で南春寺を再興させている[1]

文化財
・木造阿弥陀如来立像(新宿区指定文化財 平成9年3月7日指定)[3]

交通アクセス
早稲田駅1番出口より徒歩1分(経路案内)。

脚注
a b c 東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年、572-573p
 a b 龍善寺の概要と歩み龍善寺
新宿区指定・登録文化財一覧新宿区

参考文献
・東京市牛込区 編『牛込区史』東京市牛込区、1930年

関連項目
外部リンク
龍善寺
(wikiより)

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2c



誕生碓井 小恵子
1957年1月11日
日本の旗 北海道岩見沢市
死没2008年6月6日(51歳没)
日本の旗 東京都
職業小説家
国籍日本の旗 日本
活動期間1977年 - 1995年
ジャンル少女小説
代表作なんて素敵にジャパネスク」シリーズ(1981-91年)
海がきこえる』(1990-92年)
デビュー作「さようならアルルカン」(1977年

氷室 冴子(ひむろ さえこ、本名:碓井 小恵子(うすい さえこ)、1957年1月11日 - 2008年6月6日)は、日本小説家1980年代から1990年代にかけて集英社コバルト文庫を代表する看板作家であり、かつては正本ノン久美沙織田中雅美とあわせてコバルト四天王と呼ばれていた[1]

生涯
北海道岩見沢市出身。北海道岩見沢東高等学校を経て藤女子大学文学部国文学科へ進学。当時の知的流行であった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫本をバラして一日1ページのペースで文章を一字一句に至るまで解析する学究生活を送る。大学3年の夏に賞金目当てで第10回「小説ジュニア青春小説新人賞」へ応募して佳作を受賞。その時点では職業作家を目指していなかったものの、このときの受賞作「さようならアルルカン」で、1977年(昭和52年)に小説家としてデビュー、翌年には初の単行本『白い少女たち』が刊行される。

卒論では堀辰雄を論じた。1979年(昭和54年)に大学は卒業するがオイルショックの影響で就職ができず、母親と喧嘩して家を出て札幌で高校時代からの友人2人と共同生活を始める。手元にあったのは『白い少女たち』の印税60万円であり、家賃から雑費まですべて含めて月1万9000円の貧乏生活を開始。月に1本のペースで小説を書いては出版社に送りつける。1980年(昭和55年)4月に刊行された学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。

その後、宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになり、1981年(昭和56年)、取材のため兵庫県宝塚市へ転居。小説家であることを隠してファンクラブに潜入し、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世している。

雑居時代』(1982年7月刊)が版を重ねることで職業作家としての道が確立、1982年(昭和57年)に札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて1985年(昭和60年)に上京。これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立し、少女小説ブームの立役者として活躍した。“少女小説家”という言葉の生みの親でもあり、同名作品を83年に著している。

古代日本を舞台に設定したファンタジー『銀の海 金の大地』シリーズ、小学校時代を舞台にした半自伝小説『いもうと物語』、結婚を迫る母親との攻防戦を描いたエッセイ『冴子の母娘草』などの作品もある。次第に『Cobalt』以外にも活動の場を広げ、徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化された。

1990年代後半以降は体調を崩しがちになり、目立った執筆活動はなかった。2000年代は漫画賞の選考委員などを行っていた。2001年に雑誌コバルトの取材で斎宮歴史博物館を訪れ学芸員と対談、斎宮を舞台にした平安時代小説の新作の構想で盛り上がったという[2]2008年(平成20年)6月6日午前9時、肺癌で死去した[3]。51歳没。

生前親交の深かった日本橋学館大学千葉県柏市)の田中二郎准教授に約850冊の本を譲っていた縁で、2009年10月24日、同大学で「氷室さんを偲ぶ一日」が開かれ、田中准教授は「思い出を語る会」で氷室のパワフルに過ごした私生活などを紹介した。また同大学図書館では、寄贈された本や氷室が愛用したパソコン・キーボード、原稿用紙などを公開する展示企画「氷室冴子の世界 ~寄贈本と思い出の品~」を同年9月中旬から10月末まで開催していたが、読売新聞千葉日報で紹介されるなどしたため、11月末まで展示は続けられることになった[4] [5] [6] [7] [8]

2017年、岩見沢市では氷室冴子の功績をたたえ「氷室冴子青春文学賞」を創設することになった[9]

作風と影響
最初期の『さようならアルルカン』やミッションスクールの寄宿舎を舞台にしてそれぞれの内面を抱えた3人の少女の精神的な交流を描いた『白い少女たち』には、少女小説の元祖的存在である吉屋信子の強い影響が認められる[10]。また、子供の頃から少女漫画を愛読しており、萩尾望都らの影響を受けたと語っている[11]。萩尾らが少女漫画で「虚構の少年」、男女どちらからも自由な新しいイメージを描いたことに感銘を受け、しかし、男の子はうらやましい、男の子に対して現実の女の子は人生の主役にもなれないし物語の主役にもなれないと感じ、少女を主人公にした「少女小説」を意識して書くようになった[12]大塚英志は、氷室や久美沙織らが少女小説に「アニメのような小説」、「少女まんがのような小説」を持ち込んだと述べている[13]

氷室以前に、平安時代を舞台にしたものは歴史小説が主で、創作キャラクターが活躍する小説はほとんどなかった。氷室は、現代的な感覚のヒロインが平安時代で活躍するというスタイルを確立した。平安時代に育った人物は平安時代の感覚を持つはずであり、現代の女子高生のような感覚の主人公が平安時代にいるという設定は本来不自然であるが、氷室は並々ならぬ歴史・古典知識と愛情、綿密なストーリー構成によってその壁を超えた(同様の挑戦を行った作品として、荻原規子の児童文学「勾玉三部作(1988 ‐ 1996年)」がある)。氷室の歴史ものは「古典の現代的再生」に成功した希有な例であり、その後の少女小説やライトノベル、漫画における平安もの、歴史ものに大きな影響を与えた[2]。ブロガーのペトロニウスは、「平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントにする手法」のフォーマットの始まりは氷室作品で、これは広く一般化しており、D.キッサンのマンガ『千歳ヲチコチ』(2011年 ‐ 2016年) のような近年の作品は、このフォーマットが深く浸透している前提で、平安時代の風習の説明も省いていると指摘している[14]。氷室作品が古典や歴史に興味を持つきっかけになった人も多く、斎宮歴史博物館の榎村寛之は、「『古典や歴史の研究を志したきっかけは、氷室先生の作品に接したことでした』という研究者は、特に若手の女性研究者を中心に少なくないようです」と述べている[2]

Cobalt』2006年2月号で行われた、同誌で活躍中の作家に初めて読んだコバルト文庫作品を尋ねるアンケートで、今野緒雪金蓮花倉世春らが氷室の作品を挙げており、氷室による現代少女小説の流れは次の世代の作家たちに受け継がれていると言える[15]

漫画家・青山剛昌原作の『名探偵コナン』87巻に収録の『蘭GIRL』と『新一BOY』は、氷室の『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』を元ネタとしており、青山は、「『なぎさボーイ』を読んだ後で『多恵子ガール』を読み、『女の子ってこんなこと考えてたんだ。おもしれー』と感動し、いつかオレもこんな連載を描いてみたいなぁと思っていたら30年もたってしまった…(笑)」と話している[16]

作品
小説
*出版社表記のないものは全て集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)
・白い少女たち 1978年   
・さようならアルルカン 1979年 - 表題のデビュー作を含む短編集
  ・収録作品は「さようならアルルカン」「アリスに接吻を」「誘惑は赤い薔薇」「妹」
・クララ&アグネス白書
  ・クララ白書 1980年
  ・クララ白書ぱーとII 1980年
  ・アグネス白書 1981年
  ・アグネス白書ぱーとII 1982年
恋する女たち 1981年
・雑居時代 上下巻 1982年
ざ・ちぇんじ! 前編・後編 1983年
・シンデレラシリーズ
  ・シンデレラ迷宮 1983年
  ・シンデレラ ミステリー 1984年
・少女小説家は死なない! 1983年
なんて素敵にジャパネスク シリーズ
・蕨ヶ丘物語 1984年
・ボーイ・ガールシリーズ - 蕨ヶ丘物語と同舞台
  ・なぎさボーイ 1984年
  ・多恵子ガール 1985年
  ・北里マドンナ 集英社 1988年 のち文庫 1991年
ヤマトタケル 1986年
・冬のディーン 夏のナタリー1-3 1988年 - 1993年
レディ・アンをさがして 角川文庫 1989年
・碧(あお)の迷宮 上 角川書店 1989年
・いもうと物語 新潮社、1991年 のち文庫 1994年
・ターン―三番目に好き 集英社、1991年 のち文庫 1994年
銀の海 金の大地シリーズ
海がきこえる1-2 徳間書店 1993,1995年 のち文庫
・月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ! 2012年 - 『ざ・ちぇんじ!』と文庫未収録3作品を収録した作品集
  ・収録作品「月の輝く夜に」「ざ・ちぇんじ!」「少女小説家を殺せ!(少女小説家は死なない!番外編)」「クララ白書番外編 お姉さまたちの日々」
さようならアルルカン/白い少女たち-氷室冴子初期作品集- 集英社 2020年
  ・収録作品「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」「おしゃべり」「悲しみ・つづれ織り」「私と彼女」「白い少女たち」

エッセイ
・冴子の東京物語 集英社 1987年 のち文庫 1990年
・プレイバックへようこそ 角川書店 1989年 のち文庫 1991年
・プレイバックへようこそ2 角川書店 1990年 のち文庫(「委員物語」に改題) 1991年
・ガールフレンズ―冴子スペシャル 集英社文庫コバルトシリーズ 1990年 - 対談集+αのバラエティブック
・マイ・ディア―親愛なる物語 角川文庫 1990年 - ブックガイドエッセイ
・いっぱしの女 筑摩書房 1992年 のち文庫 1995年 のち文庫再刊行 2021年
・冴子の母娘草(ははこぐさ) 集英社 1993年 のち文庫 1996年
・ホンの幸せ 集英社 1995年 のち文庫 1998年

翻訳
落窪物語 講談社 1993年 改版 2009年

共著
僕が好きなひとへ 海がきこえるより 近藤勝也共著 徳間書店 1993年

戯曲
レディ・アンをさがして     

漫画原作
螺旋階段をのぼって(香川祐美、小学館)
ライジング!藤田和子、小学館)
・ラブ・カルテット(谷川博実、集英社)

氷室作品を題材・原作とした作品
ドラマ化
・なんて素敵にジャパネスク(主演:富田靖子
海がきこえる〜アイがあるから〜(主演:武田真治佐藤仁美

ラジオドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(NHK-FM 主演:小林聡美

映画化
クララ白書(主演:少女隊
恋する女たち(主演:斉藤由貴
・「さよなら」の女たち(主演:斉藤由貴

アニメ化
海がきこえる(スタジオジブリ、主演:飛田展男坂本洋子

漫画化
クララ白書(みさきのあ小学館
・アグネス白書(みさきのあ:小学館)
・なんて素敵にジャパネスク(山内直実白泉社
・雑居時代(山内直実:白泉社)
・蕨ヶ丘物語(山内直実:白泉社)
・ざ・ちぇんじ!(山内直実:白泉社)
・月の輝く夜に(山内直実:白泉社)
・少女小説家は死なない(にしざわみゆき:白泉社)
・恋する女たち(南部美代子:集英社)

絵物語化
シンデレラ迷宮(絵:いのまたむつみ、構成:成井豊、徳間書店

舞台化
レディ・アンをさがして
  ・OSK日本歌劇団1996年煌みちるのトップお披露目公演として近鉄劇場で上演。
    ・ラルフ・ベッカー役:煌みちる、レディ・アン役:湖上芽映
・ざ・ちぇんじ!-新釈とりかえばや物語-
  ・テアトル・エコー2000年11月12 - 21日新宿南口紀伊国屋サザンシアターにて上演。
    ・壌晴彦脚色・演出。大谷美智浩脚本。綺羅姫:杉村理加、綺羅君:溝口敦
  ・女性ミュージカル劇団「劇団スター・オブ・ドリームズ」が上演。
    ・1991年9月初演。2005年9月森之宮プラネットステーションにて15周年記念公演で再演。
    ・大浦薫演出。綺羅姫:響優、綺羅君:世羅雅
・シンデレラ迷宮
  ・演劇集団キャラメルボックス1994年、東京芸術劇場小ホール、新橋ヤクルトホールにて上演。
    ・久世龍之介演出。成井豊脚本。

参考文献
氷室冴子責任編集『氷室冴子読本』(徳間書店、1993年) ISBN 4-19-175242-1
・『没後10年記念特集 氷室冴子 私たちが愛した永遠の青春小説作家』河出書房新社<KAWADE夢ムック>、2018年8月 ISBN 978-4309979533   
嵯峨景子『氷室冴子とその時代』小鳥遊書房、2019年9月 ISBN 978-4909812162

脚注
注釈
出典
1. 
菅聡子 編『〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで』明治書院、2008年、116-117頁。ISBN 978-4-625-68408-1
2. 
a b c 第1話 哀悼 氷室冴子先生 斎宮歴史博物館
3. 
“「なんて素敵にジャパネスク」 作家の氷室冴子さん死去”. 四国新聞. (2008年6月6日). オリジナルの2009年9月6日時点におけるアーカイブ。 2008年6月6日閲覧。
4. 
“[図書館イベント]氷室冴子さんからの贈り物”. 日本橋学館大学. (2009年10月2日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
5. 
“読売新聞(10月23日付)、及び千葉日報(10月25日付)に「氷室冴子さんを偲ぶ一日」についての記事が掲載されました!”. 日本橋学館大学. (2009年10月27日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
6. 
“好評につき期間延長! 展示企画「氷室冴子の世界」”. 日本橋学館大学. (2009年11月2日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
7. 
氷室さんの蔵書850冊寄贈[リンク切れ](読売新聞 2009年10月23日付 画像のみ)
8. 
“「私生活はパワフルに」氷室冴子さんを日本橋学館大准教授が紹介”. 千葉日報. (2009年10月25日). オリジナルの2012年10月23日時点におけるアーカイブ。
9. 
氷室冴子青春文学賞   
10. 
“吉屋信子は終わらない 少女たちのはかなくも凛とした世界”. 朝日新聞. (2008年7月20日). オリジナルの2008年8月3日時点におけるアーカイブ。
11. 
氷室冴子責任編集『氷室冴子読本』徳間書店、1993年、99頁。
12. 
萩尾望都 『物語るあなた 絵描くわたし』 河出書房新社、2012年
13. 
大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社講談社現代新書〉、2003年、123-124頁。ISBN 978-4-06-149646-0
14. 
ペトロニウス 平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントする手法って、本当に一般化したなーと思う。 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために 2016-05-11
15.
菅聡子 編『〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで』明治書院、2008年、83-84頁。ISBN 978-4-625-68408-1
16. 
青山剛昌『名探偵コナン 87巻』集英社、2015年8月、カバー折り返し部分の作者コメントより。

外部リンク
光彩孤月(氷室冴子ファンページ)
氷室冴子さんを偲ぶ会
氷室冴子青春文学賞
(wikiより)

1 氷室冴子

氷室冴子

1a

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