本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2019/04

飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋[1]宝暦10年9月23日1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師化政文化を代表する一人。

概説
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家[2]や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画ガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。

人物
生涯年表
宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水[3]江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、 貧しい百姓の子[要出典]として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。

明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。

安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
・安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。

寛政6年(1794年勝川派破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川[4]に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、3代目堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。

・寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。

・寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。

享和2年(1802年狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。

文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。

・文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。

・文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。

・文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊。

・文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。

文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。

天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。

天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。北斎83歳、鴻山37歳であった。

・弘化元年(1844年) 向島小梅村に、また浅草寺前に住む。大塚同庵の紹介により歌川国芳と出会う。信濃国高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。

嘉永2年4月18日1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。

転居すること93回
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという[6]。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである[6]。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物[12]に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。


最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。

挿絵画家の一面
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある[13]



真正の画工と成るを得べし
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す

これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。

辞世の句は、

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。

家族
葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を儲けている(合わせると二男四女)[14]

・父:鏡師中島伊勢。

・母:吉良上野介の家臣・小林平八郎の孫娘。

・長女:お美与 - 北斎の門人の柳川重信と結婚するが離縁。

・長男:富之助

・次女:お辰(またはお鉄)

・次男:多吉朗(崎十郎〈元服後〉) - 支配勘定、加瀬氏へ養子に出る。

・三女:お栄(葛飾応為) - 絵師南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。

・四女:お猶

・孫娘:白井多知女

・曾孫:白井孝義

詳しいことは、「葛飾北斎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
(wikiより)

279  葛飾北斎

⇧ 葛飾北斎

279a

279b

279c



鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年明治11年)8月31日 - 1972年昭和47年)3月2日)は、明治~昭和期の浮世絵師日本画家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。


近代日本の美人画家として上村松園、門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。

経歴
清方は1878年、東京神田佐久間町に生まれた[1]。本名は健一。元は条野姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった[1]。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら[2]山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。13歳の1891年(明治24年)、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した[1]。翌年には日本中学をやめ、画業に専心している。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も21歳、明治31年(1898年)の第5回日本絵画協会展に初めて大作を出品した。以降、美人、風俗画家として活動を始めるが、青年期に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。


1901年(明治34年)には仲間の画家らと烏合会(うごうかい)を結成。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)がある。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後1916年大正5年)には吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)らと金鈴社を結成するが、清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ。1927年(昭和2年)、第2回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続け、泉鏡花の作品の挿絵も描いている。清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。


第二次大戦の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は鎌倉に住んだ。関東大震災と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続けた。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員となる[3]1954年(昭和29年)、文化勲章を受章。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、93歳で没した。晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は台東区谷中墓地にある。


挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられている。


清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水石井滴水西田青坡松田青風伊東深水山川秀峰寺島紫明笠松紫浪柿内青葉大久保青園川瀬巴水小早川清鳥居言人古屋台軒北川一雄桜井霞洞大林千萬樹増原宗一山田喜作天沼青蒲千島華洋林杏華津村青芽野口青華岡本更園らがいた。また、1899年(明治32年)頃、尾上多賀之丞 (3代目) も清方に入門していた。

詳しいことは、「鏑木清方ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E6%9C%A8%E6%B8%85%E6%96%B9
(wikiより)

259  鏑木 清方

⇧ 鏑木清方

259a


259b


亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい、宝暦2年9月15日1752年10月21日) - 文政9年3月9日1826年4月15日))は、江戸時代化政文化期の書家儒学者文人江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。


鵬斎はを翼、後に長興に改名。略して(おこる)。は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。

略歴
父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町鼈甲商長門屋の通い番頭であったが、鵬斎が7歳のころにこの長門屋を継いだ。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。


鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、 躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社駿河台本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801年)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。

鵬斎は豪放磊落な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。


松平定信老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯豊島豊洲市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。


享和2年(1802年)に谷文晁酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。


文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。


鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているが、良寛より懐素に大きく影響を受けた。


鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。


晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年75。今戸称福寺に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。


井上金峨(儒学)

三井親和(書)

詳しいことは、「亀田鵬斎ウィキペディア」をご覧ください ⇩   
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E9%B5%AC%E6%96%8E
(wikiより)


282  亀田鵬斎

⇧ 亀田鵬斎

282a

282c

282b


寛永10年(1798)、初代・三笑亭可楽が 下谷の稲荷社(現在の下谷神社)の境内に寄席の看板をあげたのが、江戸で最初の 噺家による落語の席だったと言われる。


寄席発祥の地碑は この200周年を記念して 1998年(平成10年)に建てられた。


「寄席発祥之地」の文字は 柳家小さん師匠が書いたものである。


寄席発祥の地

寛政10年(1798)6月, 下谷稲荷社境内に於て噺の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられる。

200周年に当たり之建
平成10年4月11日 寄席200年顕彰会
        鈴本演芸場
        新宿 末廣亭
        浅草演芸ホール
        池袋演芸場
        世話人一同

(碑文より)

261a

261b

261c

261d


碑の傍らに正岡子規の句碑が建っている
     
寄席はねて
    上野の鐘の
        夜長哉
(碑文より)


261e


山川幸世(やまかわ - ゆきよ)     
明治37年3月23日~昭和49年12月23日(1904 - 1974)

築地小劇場最後の舞台演出家。

父、山川幸雄。

京都出身。

2歳で父の転勤に従い上京。

大正14年(1925)同志社大学英文科第1過程本科に入学。

在学中に築地小劇場主催の夏季研究会に参加。

「同志社演劇研究会」を起こす。

昭和3年(1928)同志社大学英文科卒業。

築地小劇場に演出部研究生として入団。

のち劇団が分裂し、昭和5年(1930)脱退し、滝沢修と「左翼劇場」に移る。

昭和6年(1931)演劇の方をおろそかにして、労働運動に走る。

昭和8年(1933)2月警察に検挙される。釈放後演劇界に戻る。

昭和11年(1936)新築地劇団に入団。

昭和15年(1940)内紛により脱退。同年「新劇事件」により検挙される。

太平洋戦争の始まった昭和16年12月に保釈。

戦時中は、東方社でグラフ雑誌の編集に携わる。

昭和21年(1946)演劇の仕事に復帰。

昭和23年(1948)舞台芸術学院の設立に参画。

昭和30年(1955)病を得て入院、生活保護を受ける。

心不全により没する。共産党員であった。70歳。

著書:「日本音声学の実際」、「正しい言葉の訓練」、「ある演劇人の軌跡」。演出:「女人哀詞」、「ハムレット」など。

246a

246b

246c


山川幸雄(やまかわ - ゆきお)     
慶応4年~大正11年5月26日(1868 - 1922)

明治期の法学士。

父、山川幸喜(長男)。

高知県出身。

明治18年(1885)ドイツ留学。

明治33年(1900)ゲッチンゲン大学の法律ドクトル試験にパスして帰国。

明治35年(1902)京都第3高等学校教授。

明治40年(1907)法政大学・日本大学講師、ドイツ語と法律を講義。高等官2等。

大正2年(1913)第1高等学校教授。

正五位。55歳。

門人に坪内清助。大正2年には芥川龍之介にもドイツ語を教える。

著編:「独逸故事熟語字彙」。


246a

246b

246c


鍵屋初代弥兵衛は、奈良県吉野郡篠原の出身である。

万治2年(1659)に江戸に出てきた彼は横山町に店を構えた。

おそらく店を出す前のことであろうが、葦に星(花火)を入れたおもちゃ花火が人気となり、屋号「鍵屋」を出すことが出来たのだ。

正徳5年(1715)には、煙や炎を出すだけの花火から打ちあげ花火(打揚)を造り上げた。

享保2年(1717)の水神祭りには献上花火を打ち上げている。


文化7年(1810)鍵屋の番頭清七が暖簾分けで「玉屋」が生まれた。

これ以後、両国橋を境に上流側を鍵屋が、下流側を玉屋が打ち上げる慣習が生まれた。

この頃の花火は硝石、硫黄、木炭を原料としていたので花火の色は橙色である。

現在のようなカラフルな花火になったのは、明治維新以後、明治8年に外国より様々な発色剤が輸入されてからである。前の花火を和火、新しいものを洋火という。


天保14年(1843)4月17日、玉屋は失火によって全焼してしまい、町内を半分ほど焼いてしまった。

江戸時代には出火は重罪であり、悪いことに将軍家が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸処払いの罪になり追われてしまった。そのため両国の花火は鍵屋が受け持った。


鍵屋は世襲で12代まで続いたが、昭和40年(1965)、12代鍵屋弥兵衛が天野道夫氏に宗家鍵屋を譲った。

現在、東京都江戸川区に「宗家花火鍵屋」はある。

13代天野太道氏の時に花火の製造をやめ打ちあげ専門業者となった。現在の当主は、天野安喜子氏であり、初めての女性である。


271a

271b


都々逸は日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙なとを巧みに用いて人生の機微を二十六文字で綴る大衆の詩である。

古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及し、われわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌・俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する。


平成二十年十二月吉日 世話人 谷口安閑坊
                       吉住義之助
(碑文より)

257a

257b


明治42年(1909年)11月、青年・学生の弁論と精神修養のための雑誌「雄辯」発行を志した30才の野間清治は、東京団子坂下の借家(旧本郷区駒込坂下町48番地。現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辯會」の看板をかかげた  講談社の創業である。


創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、第6代社長 野間佐和子の揮毫になる。 


いまは、立派な「講談社の社宅」が建っています。


ちなみに、「講談社・発祥の地」と刻まれた伊予青石は創業当時からこの場所にあったものだそうです。

272a

272b


御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇(後月輪東山陵)を守るための組織高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。

経過
慶応3年3月10日1867年4月14日)に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えた。


一和同心(日本国が心をひとつにして和する)・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公議による朝廷(公卿)中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。


同志は弟の三木三郎篠原泰之進藤堂平助服部武雄毛内有之助富山弥兵衛阿部十郎内海次郎加納鷲雄中西昇橋本皆助清原清新井忠雄斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。


他にも、茨木司佐野七五三之助富川十郎中村五郎ら10名も後に合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の4人が死亡(死因は諸説あり)、残りの6人が放逐という結末となった。これは御陵衛士と新選組との間に隊士の行き来を禁止する約束があり、そのことを知らずに新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとした彼らは行き場所を失った形となった(新選組を脱走したものは法度により屯所に連れ戻して切腹ということになっていた)。これとは別に、茨木たちの切腹後に隊で居場所を失い脱走をした武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された(そもそも茨木たちの脱走を勧めたのは観柳斎といわれている)。


6月、山陵奉行・戸田忠至に属し、長円寺から東山の高台寺塔頭・月真院に移り「禁裏御陵衛士」の標札を掲げた。一般的に薩摩藩に近づいたとされるが、異説もある(後述)。


新選組とは佐幕勤王倒幕で袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつもを抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。


11月18日12月13日)、油小路事件で伊東・藤堂・服部・毛内が死亡。残った同士は薩摩藩邸に逃げた。これにより解散。その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加した。

詳しいことは、「御陵衛士ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%99%B5%E8%A1%9B%E5%A3%AB
(wikiより)

256a

256b

256c


隅田川・渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。

明治四十年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。

位置は吾妻橋上流・約二五○メートル。


浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。

花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。

渡しの名はその町名をとって命名。

別称は、東岸船着場が枕橋畔にあったのにちなむ。

枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。

北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。


渡船創設年代は不明。

枕橋上流は隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。

桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。
したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。
(案内板より)

263a

⇧ 現在は若干の移動してあります。

263b


武揚は、天保七年(1836)下谷(現台東区)の通称・三味線掘に生まれました。


天性聡明で学問を好み、昌平黌(しょうへいこう)で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。


幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人共感より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった科学までも学びました。

さらに文久二年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。


帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。

幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕らえられます。

しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治五年許されました。


当時難関とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごとに交渉に成功します。

その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功より子爵を授けられました。


晩年は向島に住み、墨提を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同四十一年に七十三歳で死去しました。


隅田公園内の「墨提植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内に所々残されています。
(案内板より)

268 榎本武揚

⇧ 榎本武揚
 
268a

268b


初代 三笑亭 可楽安永6年〈1777年〉 - 天保4年3月8日1833年4月27日〉)は、落語家。通称、京屋 又五郎


最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人の天狗連(アマチュア)の噺家と共に江戸下谷稲荷神社寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。


一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には三笑亭可楽に改名した。その後は本所東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約3ミリ)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。


弟子(門下)は「可楽十哲」と呼ばれそれぞれ人情噺の祖・初代朝寝房夢羅久、音曲噺の祖・初代船遊亭扇橋、両国の席の元祖・初代喜久亭寿楽、初代萬笑亭亀楽、初代三笑亭佐楽初代東亭鬼丸自笑亭里楽、初代宇治新口立川談志)、初代三笑亭古楽、怪談噺の祖・初代林屋正蔵、百面相の一種・百眼の初代三笑亭可重(のちの2代目可上)、百眼の祖・初代三笑亭可上三笑亭世楽(のちの吐月峯山彦)、写し絵の祖・初代うつしゑ都楽、2代目可楽、つるや萬助(のちの2代目立川銀馬)、八人芸の初代川島歌遊よたん坊ゆ又、都々逸の初代瀧亭鯉丈戯作者の為永春水の兄とも)、初代菅良助(のちの乾坤坊良斎)2代目菅良助など門弟数十人が確認されており、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。また実子に馬士三郎、楽寿がいる。


墓所は浅草の潮江院戒名は「三笑亭安誉可楽信士」。


262a

262b


山川須磨(やまかわ - すま)     
天保8年~大正11年1月8日(1837 - 1922)

山川幸喜の妻。

父、白札郷士桧垣清右衛門。

須磨は「土佐小町」と言われたほどの美人で、阪本龍馬もプロポーズしたという。

龍馬は、「結婚してくれなければ切腹する」と迫ったが、あっさり袖にされ、切腹もせずにスゴスゴと帰っていったという。

なお、須磨の実弟は土佐勤王党の桧垣清治(1839 - 1894)。

246a

246b

246c


山川幸喜(やまかわ - こうき)     
天保3年~明治44年9月19日(1832 - 1911)

明治天皇侍医。

高知県出身。

文化2年(1805)江戸表山内容堂公典医加役。藩侯侍医・開成館医局教授。のち側医本役。

明治2年(1869)上京して明治天皇侍医の一人・侍医局頭取。

明治4年(1871)宮内省9等出仕・権少侍医。

明治8年(1875)宮内省6等侍医。

明治10年(1877)辞官し、数寄屋橋に開業。

正七位。80歳。妻は、須磨。

246 山川幸喜

⇧ 山川幸喜

246a

246b

246c


虎之助は直心影流島田派の剣客。

文化十一年(1814)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市朗右衛門親房の子として生まれた。

十歳頃から、中津藩剣術師範・堀十郎左衛門の道場で学んだ。

上達が早く数年後には、藩内で相手になる者はいなかったという。

十六歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。


天保九年(1838)に江戸へ出て、男谷精一郎の内弟子となった。

一年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。

同十四年、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。

その道場には、勝麟太郎(のちの海舟)も通った。


虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852)九月十六日に三十九歳で病没。

墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。
(案内板より)


〇 島田 虎之助
島田 虎之助(しまだ とらのすけ、文化11年4月3日1814年5月22日) - 嘉永5年9月16日1852年10月28日))は、江戸時代後期の剣客直親峴山


男谷信友大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。

略歴
文化11年(1814年)、豊前中津藩士・島田市郎右衛門親房の子として生まれる。10歳の頃から、藩の剣術師範・堀十郎左衛門の道場に外也一刀流を学ぶ。15歳ごろには藩内では相手になる者がいなくなるほどに上達、16歳で九州一円を武者修行して名声をあげる。このころ、日田広瀬淡窓筑前の高僧・仙厓義梵のもとで学問を修めたという。


天保2年(1831年)に江戸をめざして出立するが、江戸に現れたのは7年後であった。この間、下関で長門屋嘉兵衛という造り酒屋に寄食するうちに嘉兵衛の娘と相愛となり、女子(菊)が生まれたり、近江水口藩に仕えていた同郷の儒者・中村栗園漢学を学んだりしていた模様である。


天保9年(1838年)、江戸に出て、直心影流剣術の男谷信友の内弟子になる。剣技の上達はめざましく、1年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を務める。その傍ら、鈴木清兵衛の道場にも通って起倒流柔術を習った。鈴木道場で勝麟太郎(のちの勝海舟)と相弟子となったことが縁となり、後に虎之助が道場を開くと、勝は男谷の紹介で虎之助に弟子入りする。


天保14年(1843年)、東北の武者修行の後、浅草新堀に道場を開く。道場では兄の島田小太郎友親が師範代となり、同時に男谷の教えを受けた。このころ、松平忠敬の出入り師範として20人扶持の俸禄を得た。下関で生まれた娘・菊は松平忠敬の家臣に嫁している。


嘉永5年(1852年)9月16日、39歳で病没し、浅草正定寺に葬られた。墓の撰文は男谷信友による。

男谷信友への弟子入り
虎之助が天保9年(1838年)に江戸に現れたとき、当時「日本随一」ともいわれた男谷信友に試合を申し込んだ。男谷は例によってあっさりとこれを受け、三本勝負の一本を虎之助に取らせた。


これに勢いづいた虎之助は、つづいて井上伝兵衛の道場に挑んだ。井上は男谷と同じ直心影流藤川派剣術の「三羽烏」といわれたこともある強豪であり、手加減なしで虎之助をさんざんに打ち込んだ。虎之助が井上に入門を申し込んだところ、井上は男谷への入門を勧めたという。虎之助は「亀沢町(男谷道場)ではもう手合わせ願いましたが、評判ほどのことはありませんでした」と答えた。井上はにやりとして虎之助の観察が甘いといい、「あの方の技量はどこまで強いか底が知れない。君は軽くあしらわれて花を持たせてもらっただけのことだ。もう一度行ってみろ」と紹介状を書いてくれた。


虎之助はいわれたとおり紹介状を持って男谷道場を再訪し、謝って弟子入りしたという。一説には、このとき再度立ち合ったところ、男谷の眼光に圧倒され、道場の隅に追い込まれて平伏するほかなかったともいう。

島田虎之助を扱った作品
中里介山の小説『大菩薩峠』において、机竜之助と対決し、宇津木兵馬を剣士に育てる。
氷川きよしの演歌『一剣』に歌われる剣客のモデルでもある。
みなもと太郎の漫画『風雲児たち』では、若き日の勝海舟の師匠として登場する。

参考書籍
・『日本剣豪100選』(綿谷雪著、秋田書店
(wikiより)

243a

243c

243b


外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日嘉永元年9月27日) - 1900年明治33年)3月8日)は明治時代日本社会学者教育者文学博士丶山(ちゅざん)。


東京帝国大学東京大学の前身)文科大学長・総長、貴族院議員文部大臣を歴任した。

経歴
父は家禄220俵の旗本幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義江戸小石川に生まれる。幼名を捨八。家族は武芸で名を挙げたかったのだが、正一は学問で頭角を表す。13歳で蕃書調所英語を学び、1864年には16歳にして開成所の教授方になるほど、若くしてその英才を謳われる。


勝海舟
の推挙により1866年慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府の瓦解により1869年(明治2年)帰国。一時東京を離れて静岡学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ渡米。1871年(明治4年)、現地において外務権大録になる。しかし直ちに辞職しミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻し1876年(明治9年)に帰朝した。


帰朝後は官立東京開成学校社会学の教鞭をとり1877年(明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で、エドワード・S・モースを東京大学に招聘した。幕末期から明治初期にかけて欧米で学んだ外山の新知識は当時の政府には重要であった。しかし彼の講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始した。これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄された[4]


1882年(明治15年)、同僚の矢田部良吉井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表。いずれも習作の域を出ないが、従来の和歌俳句と異なる新時代の詩の形式を模索し、近代文学に多大な影響を及ぼした。1887年(明治20年)、東京学士会院会員に任命された。


1889年(明治22年)、元良勇次郎(元東大教授)、神田乃武(元東京高商教授)と共に、芝に正則予備校を開設。正則高等学校として現在に至る。


日本語のローマ字化推進のため『羅馬字会』を結成して漢字仮名の廃止を唱え、九代目市川團十郎依田学海らが実践していた演劇改良に参加、西洋列強と伍するためには教育の向上が必要であり、そのためには女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍した。東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣文部大臣などを務めた。1900年(明治33年)3月8日、中耳炎からの脳症で死去。享年51。


著作活動もさかんで、『演劇改良私案』(1886)、『日本絵画の未来』(1890)、『日本知識道徳史』(1895)他多数の著書を残した。唱歌『皇国の守り』の作詞を行った(作曲は伊沢修二)。

エピソード
当時のエリート階級で、大学や政府の要職を務めた外山だが、生活は質素で、「あのくらいの位置にいるのに、内には下女一人に、老僕しか使わない」(勝海舟『氷川清話』)暮らしぶりで、谷中墓地の墓も小ぶりである。


スタイリストであった外山は、山高帽に派手な色の外套という当時最新のファッションに身を包み「赤門天狗」と呼ばれていた。散髪のやり方次第で頭脳は発達すると考えて、どの店の散髪がよいか理髪店を絶えず替えていた。


大日本帝国憲法発布の記念式典に明治天皇に対して「万歳」を始めて唱えたのは外山正一であると言われている[5]


外山は『新体詩抄』に、自作の詩「抜刀隊」を載せる。西南戦争官軍の斬りこみ部隊「抜刀隊」の奮戦を扱った勇壮な詩である。ここでは

「敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし」

という終わりの2行を繰り返す独自の詩形である。これは外山が米国留学時に親しんだ南北戦争の軍歌の形を踏襲している。のち、陸軍軍楽隊教官のフランス人シャルル・ルルーによって曲が作られ、日本で最初の軍歌として爆発的にヒットした。この曲は「扶桑歌」「陸軍分列行進曲」とも呼ばれる行進曲として編曲され、旧陸軍から現在の陸上自衛隊にまで受け継がれている。


東大文科大学学長のときの1883年(明治16年)、ある新入生の面接を行った。外山が「君は何の為に勉強するのかね。」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん。」と答えた。この新入生が新渡戸稲造である。

英語、英文学教育の充実を考えた外山は、ギリシャアイルランド人ラフカデイオ・ハーンに強く働きかけ東京帝国大学英文学講師に招聘した。ハーンはのちの小泉八雲である。

栄典・授章・授賞
位階
1881年明治14年)9月24日 - 正六位[6]

1882年(明治15年)7月20日 - 従五位[7]

1890年(明治23年)12月8日 - 従四位[8]

1896年(明治29年)1月17日 - 正四位[9]

1898年(明治31年)5月30日 - 正三位[10]

1900年(明治33年)3月7日 - 従二位[11]

勲章等
1892年(明治25年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[12]
1896年(明治29年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[13]
1900年(明治33年)3月7日 - 勲二等瑞宝章[11]

詳しいことは、「外山正一ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E4%B8%80
(wikiより)

242  外山 正一

⇧ 外山正一

242a


当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。

すなわち、明治十年(1877)四月十二日に神田錦町三丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。


創立当初は法学部、理学部、文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。


明治十八年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。

このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。


従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。


明治十九年三月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。


更に、明治三十年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。


爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。


昭和二十二年(1947)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。


明治十九年七月創立の学士会は以上九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。


平成三年(1991)十一月   学士会
(碑文より)

269a

269b


小網町と蛎殻町一丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。

その川岸の端(はし)に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。


この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集まり、特に瀬戸物問屋の多かった所です。

堀の出入口にあった行徳川岸は、寛永九年(1632)以来、この堀と下総(千葉県)行徳村とをむすんできました。

この水路は行徳からの塩の受け入れ地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。


この堀は、最古の江戸図といわれる「寛永江戸図」にも、見られます。


またこの堀に沿って酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、幕末までありました。

姫路藩・十五万石の藩主として知られています。

酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治六年(1873)十月まで西郷隆盛の屋敷となりました。


なお、東華小学校(現・日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。
(案内板より)

264a

264b


旧姓・中条ユリ(1899~1951)は明治32年(1899)小石川原町(現・千石二丁目)で生まれた。

父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任した。

そのため3歳までその地で過ごし、のちに上京し、一家はこの奥の地である旧駒込・林町21番地に住んだ。


駒本小学校、誠之小学校、お茶の水女学校から、日本女子大(英文予科)に進んだ。

女子大1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説「貧しき人々の群」を書き、天才少女とうたわれた。

女子大は一学期で退学し、作家生活に入った。


大正7年(1918)アメリカに留学し、留学中結婚したが、帰国後離婚した。

その経緯を描いた「伸子」は代表作となった。

昭和2年(1927)ソ連に旅し、帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入した。

昭和7年に再婚し、昭和12年・中条ユリから宮本百合子に姓名を変えた。

戦後、「播州平野」など多くの小説、評論、随筆を発表し、昭和26年実家である千駄木のこの地で没した。


このあずき色の門柱は実家、中条家入り口の名残である。
(案内板より)

267 宮本百合子

⇧ 宮本百合子

267a

267b

267c


浄閑寺入り口傍にある新比翼塚です

明治18年、品川楼で心中情死した遊女・盛糸と内務省小吏 ( 警視庁警部補 )・谷 豊栄を祀るものです。

258a

20250222_105111

⇧ 遊女・盛糸と谷 豊栄のお墓

20250222_105118

20250222_105129

⇧ 谷 豊栄の墓

20250222_105137

20250222_105146

⇧ 遊女・盛糸の墓



ここに、たぬき通り商店街があり「11体の変わりたぬき像」があります。


由来
明治の頃まで浅草一帯は、田圃に囲まれた薮野原でたくさんのたぬきが住んでいました。


戊辰戦争が勃発し、戦火を免れた上野の山のたぬき達は四方八方へ逃げのび、中にはたぬき横丁で安堵をとるものもいました。


しかし、ここには浅草の地たぬき達がいて縄張りが荒らされる思いから睨み合いがはじまり合戦という雰囲気になってきました。


そこへ浅草たぬきの長老の辰五郎たぬきが現れ、浅草の地たぬき達に、今までのいたずらを反省し、観音様の御慈悲とご加護で安穏に暮らせていることを悟り、平和を守ることや人の役に立つことの大切さを悟しました。


たぬき達の荒れていた心に暖かい気持ちが生まれ、戦いもいたずらもなくなりました。その中で、使命感を持った十二匹は人の役に立とうと一念発起して、人々の願い事が叶えられる力が持てる仙人修行を積み、それぞれが願かけたぬきとなってまちの人々からも慕われ、お参りされるようになりました。

266a

266b

266c

266d

266e

266f

266g

266h

266i

266j

266k

266l

266m

266n

266o

266p

266q

266r

266s

266t

266u

266v

266w


文京区・湯島、無縁坂にある講安寺本堂と庫裏(裡)です。


本堂は、社寺建築でありながら土蔵造である。

寺伝にいう宝永5年(1708)から、かりに寛政元年(1789)頃にさがっての建立であったとしても、江戸の町で普及した土蔵造という防火建築が、多くの災害にあい、また、建て替えられるという歴史的推移のなかで、残ることのできたことは、貴重である。


特に、寺院の住宅部分は、改築や新築が頻繁で、昔の姿で残るのは極めて珍しい。


ここは幕末(寄進札に文久元年 1861)のものとはいえ、客殿、庫裏が残り、江戸期の形式をよく保存されたものであるが、旧形式が保たれている。

寺院、本堂、客殿や庫裏に至る すべてが旧規をよく保存し、まれにみる第一級の文化財といえよう。
(案内板より)

265a

265b

265c

谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。


同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。

その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。

若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青(しせい)』、『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。

のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼(たで)喰ふ虫』、『春琴抄』、『細雪』、『少将滋幹の母』などを遺しています。

その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受賞しました。
(案内板より)

〇 谷崎潤一郎
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年)7月24日 - 1965年昭和40年)7月30日)は、日本小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。


初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語雅語から俗語方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。

来歴・人物
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者早稲田大学教授)となる[1]


母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった[1]


1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[3]。卒業後、旧制一高に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]

1908年(明治41年)、旧制一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった[4]


大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[4]


関東大震災
の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[5][6]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[6]


太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている[7]


同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ[8][9]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[10][9]。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[11]

略年譜
・1886年(明治19年)東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。父・谷崎倉五郎、母・関の長男として育つ。

・1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される(明治二十一年九月七日付で井染得佶を発起人総代として、他倉五郎とさらに2人、合計4人連名で有限責任日本點燈会社設立御届を定款と共に神田区長に提出し、株主を募集。その40日後、明治二十一年十月廿四日付で解社御届を神田区長に提出している[12]。)。

・1890年(明治23年) 父、米穀の仲買人をはじめる(東京府公文書の米商会所の簿冊中の仲買人認許料上納仕訳書によると、明治十九年二月廿四日付、蠣殻町壱丁目弐番地の住所で、同所寄留の江間忠五郎と共に仲買人認許料を納付している[13]。)。弟・精二生まれる。

・1892年(明治25年) 日本橋阪本小学校尋常科へ入学(一年繰上げの変則入学)。お坊ちゃん育ちの内気な性格のため、乳母の付添い無しでは学校に行けない。

・1893年(明治26年) 出席日数不足のためもう一度一年生をやり直し、首席で進級する。生涯の友人・笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。

・1894年(明治27年) 6月20日、明治東京地震に自宅で被災。地震恐怖症の原因(「九月一日」前夜のこと』で恐怖症と告白)。

・1896年(明治29年) 母と歌舞伎義経千本桜』を観劇し、生涯にわたる影響を受ける。

・1897年(明治30年) 同小学校尋常科卒業、高等科に進む。稲葉清吉先生の影響で文学に目覚める。

・1898年(明治31年) 先輩や級友と回覧雑誌『学生倶楽部』を行う。

・1899年(明治32年) 京橋区築地明石町の欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通い英語を習う。日本橋亀嶋町の貫輪秋香塾で漢文の素読を受ける。

・1901年(明治34年) 同高等科卒業。このころ家産傾き、奉公に出されるはずだったが、才能を惜しむ稲葉先生らの援助により東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)へ進む。

・1902年(明治35年) 家業いよいよ逼迫し廃学を迫られるが、漢文教師の渡辺先生や北村重昌(上野精養軒主人)の篤志によって住込みの書生家庭教師となり、学業を行う。

・1903年(明治36年) 一中校誌『学友会雑誌』の会幹となる。一中では、大貫雪之助岡本かの子の兄)、土屋計左右恒川陽一郎吉井勇辰野隆らと知り合う。

・1905年(明治38年) 同校卒業、第一高等学校英法科に進む。

・1907年(明治40年) 一高文芸部委員となり『校友会雑誌』に文章を発表する。北村家の小間使いの穂積フク(福子)との恋愛事件により北村家を追い出されて学生寮に入る。この頃から学資は伯父と笹沼家より援助を受ける。

・1908年(明治41年) 同校卒業、東京帝国大学国文科に進む。

・1909年(明治42年) この頃、文壇に出られない焦りから神経衰弱となり、転地療養先の偕楽園で、永井荷風の『あめりか物語』を愛読。

・1910年(明治43年) 小山内薫和辻哲郎大貫晶川小泉鉄後藤末雄木村荘太らと共に第2次『新思潮』を9月に創刊。戯曲『誕生』を投稿(創刊号は手続き不備のため発売禁止)。『刺青』、『麒麟』を発表。

・1911年(明治44年) 『新思潮』は廃刊に。一時『スバル』同人に参加。授業料未納により退学。『少年』『幇間』『飈風』『秘密』を発表。作品が永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立する。

・1912年(大正元年) 1月に初恋の穂積フクが肺炎で死去。京都旅行をはじめ各地を放浪、神経衰弱が再発する。徴兵検査を受けるが脂肪過多症で不合格。『悪魔』を発表。

・1915年(大正4年) 石川千代と結婚。『お艶殺し』『法成寺物語』『お才と巳之介』 を発表。

・1916年(大正5年) 長女・鮎子生まれる。『神童』『恐怖時代』を発表。

・1917年(大正6年) 母・関が死去。妻と娘を実家に預ける。『人魚の嘆き』『異端者の悲しみ』を発表。芥川龍之介佐藤春夫との交流が始まる。千代の妹・せい子を好きになる。

・1918年(大正7年) 朝鮮満洲中国に旅行。『小さな王国』を発表。

・1919年(大正8年) 父・倉五郎死去。神奈川県小田原十字町に転居。『母を恋ふる記』を発表。

・1920年(大正9年) 横浜の大正活映株式会社脚本部顧問に就任。義妹せい子を芸名・葉山三千子女優にし、『アマチュア倶楽部』でデビューさせる。『鮫人』『芸術一家言』を発表。

・1921年(大正10年) 妻・千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する(「小田原事件」)。

・1923年(大正12年) 9月1日関東大震災。当時箱根の山道でバスに乗車中で、その谷側の道が崩れるのを見る。横浜山の手の自宅は頑丈に造られており無事だったが、類焼してしまう。震災後、京都市上京区等持院中町や、左京区三条東山通要法寺を経て、兵庫県武庫郡六甲苦楽園(現・神戸市灘区)に移住。『肉塊』を発表。

・1924年(大正13年) 武庫郡本山村北畑(現・神戸市東灘区本山町)に転居。『痴人の愛』を発表。

・1926年(昭和元年) 再び中国の上海へ旅行。郭沫若と知り合う。帰国後、佐藤春夫と和解する。『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。武庫郡本山村岡本好文園(現・神戸市東灘区岡本)に転居。

・1927年(昭和2年) 根津松子と知り合う。『饒舌録』を連載し、芥川龍之介との間で「筋のある小説、ない小説」論争が起こるが、後日、谷崎の誕生日に芥川が自殺する。

・1928年(昭和3年) 兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷(現・神戸市東灘区岡本)に新居(「鎖瀾閣」)を築く。『』を発表。

・1929年(昭和4年)妻・千代を、和田六郎(後の大坪砂男)に譲る話が出て、それを元に『蓼喰ふ蟲』を、前年から連載するが、佐藤春夫の反対で話は壊れる。

・1930年(昭和5年) 『乱菊物語』前編を発表。千代と離婚。離婚および千代の佐藤再嫁の旨の挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として騒がれる。

・1931年(昭和6年) 古川丁未子と結婚。借金のため一時期高野山にこもる。『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』を発表。

・1932年(昭和7年) 武庫郡魚崎町横屋(現・神戸市東灘区)に転居する。隣家は根津松子一家だった。松子との不倫が始まる。『倚松庵随筆』『蘆刈』を発表。

・1933年(昭和8年) 丁未子と別居する。弟・精二と弟妹扶助のことで揉めて絶交。『春琴抄』『陰翳禮讚』を発表。

・1934年(昭和9年) 『夏菊』を連載するが、モデルとなった根津家の抗議で中断。丁未子と正式離婚。『文章読本』を発売、ベストセラーとなる。

・1935年(昭和10年) 根津清太郎とは離婚した森田松子と結婚する。『源氏物語』の現代語訳に着手。『摂陽随筆』を発表。

・1936年(昭和11年) 『猫と庄造と二人のをんな』を発表。武庫郡住吉村反高林(現・神戸市東灘区)に転居。5月、住田多蔵(歌舞伎の笛方総家元)が志賀直哉を訪問し、谷崎への紹介を喜ぶ。

・1937年(昭和12年) 創立された帝国芸術院会員に選ばれる。

・1938年(昭和13年) 阪神大水害起こる。このときの様子がのちに『細雪』中に映されることになる。源氏物語の現代語訳脱稿する。

・1939年(昭和14年) 弟・精二と和解。『潤一郎訳源氏物語』刊行されるも、皇室にわたる部分について何箇所かを削除した。長女の鮎子が竹田龍児(佐藤春夫の甥)と結婚(媒酌人は泉鏡花)。

・1941年(昭和16年) 初孫・百百子が誕生。

・1942年(昭和17年) 熱海市西山の別荘を購入。

・1943年(昭和18年) 『中央公論』誌上に連載開始された『細雪』が軍部により連載中止となる。以降密かに執筆を続ける。

・1944年(昭和19年) 『細雪』上巻を私家版として発行。一家で熱海疎開。

・1945年(昭和20年) 岡山県津山、ついで真庭郡勝山町(現・真庭市)に再疎開。

・1946年(昭和21年) 京都市左京区南禅寺下河原町に転居する(前の潺湲亭)。

・1947年(昭和22年) 高血圧症の悪化により執筆が滞りがちとなる。『細雪』中巻を刊行。松子の長女・木津恵美子を次女として入籍。毎日出版文化賞受賞。

・1948年(昭和23年) 『細雪』下巻が完成する。

・1949年(昭和24年) 朝日文化賞受賞。左京区下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。第8回文化勲章受章。『月と狂言師』、『少将滋幹の母』を発表。

・1950年(昭和25年) 熱海市仲田にふたたび別荘を購入(前の雪後庵)。

・1951年(昭和26年) この年以降再び高血圧症悪化、静養を専らとする。文化功労者となる。『潤一郎新訳源氏物語』を発表。

・1954年(昭和29年) 熱海市伊豆山鳴沢に新たに別荘を借り転居(後の雪後庵)。

・1955年(昭和30年) 『幼少時代』『過酸化マンガン水の夢』を発表。

・1956年(昭和31年) 京都の潺湲亭を売却し、熱海伊豆山に定住。『』を発表。

・1958年(昭和33年) 11月に軽い発作を起こし、医者から3か月の静養を勧告される。

詳しいことは、「谷崎潤一郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)

254  谷崎 潤一郎

⇧ 谷崎潤一郎

255a

255b


伊東 一刀斎(いとう いっとうさい、生没年不詳)は戦国時代から江戸初期にかけての剣客名字伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。景久、前名、前原弥五郎。弟子に小野善鬼古藤田俊直神子上吉明ら。

経歴について
一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がない。生没年は、1550年(天文19年)生年説、1560年(永禄3年)生年し1628年(寛永5年)没説、また1632年(寛永9年)に90余歳で没説、1560年(永禄3年)8月5日 (旧暦)に生まれ1653年(承応2年)6月20日 (旧暦)に94歳で没説がある。出身地は、一般には伊豆国伊東の人であり、出身地から伊東姓を名乗ったといわれている。(ただし、伊東には伊東一刀斎についての伝承、伝説等は一切伝わっていない)しかし、「瓶割刀」の逸話によれば、一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳のときに格子一枚にすがって三島に泳ぎ着き、三島神社で富田一放と試合して勝ち、神主から宝刀を与えられた。この刀で盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという。ほかに、『一刀流傳書』によれば西国生まれとし、山田次朗吉によれば古藤田一刀流伝書近江堅田生まれの記述があるという。『絵本英雄美談』によれば加賀金沢か、越前敦賀生まれで、敦賀城大谷吉継の剣の師だったが、大谷が関ヶ原の戦いで戦死したために浪人し、下総小金原(現在の松戸市小金付近か)に隠棲して死去したともいう。また、終焉地についても丹波篠山説もある。

一刀斎の師と剣術の極意
『一刀流極意』(笹森順造)によると「高上金剛刀を極意とし英名を走せていた中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた」という。ほかにも、自ら編み出した極意として、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘太刀「払捨刀」、他に刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)。「景久師、回國他流戰三十三なりと、没日は七日なりと。年號つまびらかならず」(『一刀流歴代略』)とあるようにその後一刀斎は諸国を遍歴し、勝負すること33度、ただの一度も敗れなかったという。


現存する伝真田信繁写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、1595年(文禄4年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。したがって、出身地など両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。一方、柳生氏の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「山崎盛玄」とされている。「名人越後」と称された富田重政富田流)の弟(兄とも)に山崎左近将監景成があり、剣名が高かった。あるいはこの山崎景成が「山崎盛玄」である可能性もある。

唐人との試合
天正年間、相模三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。このとき、北条氏の家臣、古藤田俊直(古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖)を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。1578年(天正6年)、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる。

一刀流の相伝

『一刀流口傳書』、『撃剣叢談』によれば、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳。なお一刀斎との出会いを描いた『耳袋写本では船頭とあり名は記述されていない。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳に下総国小金原(現千葉県松戸市小金原付近。なお『雜話筆記』では濃州桔梗ガ原(乗鞍岳北)とする)で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。典膳は後に一刀斎に徳川家康へ推薦され1593年(文禄2年)に徳川秀忠に200石で仕えた小野忠明(小野次郎右衛門)である。一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常小野派一刀流、忠明の弟(次子とも)の伊藤典膳忠也(『剣術系図』彰考館本の注に修行時代兄の前の名前神子神典膳と名乗ったとされる)の伊藤派一刀流(忠也派とも)に分かれ、以後も多くの道統が生まれた。

小説
峰隆一郎『日本剣鬼伝伊東一刀斎』祥伝社

仁田義男『剣聖伊藤一刀斎(5部作)』徳間書店

戸部新十郎『伊東一刀斎(上・中・下巻)』光文社

好村兼一『伊藤一刀斎(上・下巻)』廣済堂出版

小島英記『天下一の剣 』日本経済新聞出版社

参考文献
・『日本剣豪100選』(綿谷雪著、秋田書店

根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。伊東一刀斎についての逸話を収録。

関連項目
一刀流

伊藤彦造

鐘捲流

〇 伊藤忠也
伊藤 忠也(いとう ただなり、慶長7年(1602年)- 慶安2年5月30日1649年7月9日))は、一刀流の剣術家。小野忠明の弟とも子ともいう。『本朝武芸小伝』では忠明の子、『寛政重修諸家譜』では忠明の弟となっている。


忠明は小野忠常に小野家を継がせ、忠也には先師一刀斎の姓伊藤を継がせ、一刀斎が三十数度の勝負に用いたという瓶割刀を授けた。伊藤忠也は忠也派一刀流の祖とされている。
(wikiより)

234a

234b

234c

⇧ 伊藤次郎助忠也



元浅草・吉野町圓常寺境内墓地に在り

大正二年当地に移す

安永五年生まれ 文化二年丑年六月二十九日没 行年三十才


辞世
   武蔵野に はびこる程の 鬼薊
    今日の 暑さに 枝葉しほるる
(案内板より)


鬼あざみ清吉(せいきち)は鼠小僧次郎吉(じろきち)とともに、よく知られている江戸後期の大盗賊です。
こちらも「すり抜けの名人」でしたが、1805(文化 2)獄門(ごくもん)(さらし首)になっています。
 
辞世(じせい)の句は『武蔵野の色にもはびこりし鬼あざみ/けふ(今日)の暑さにやがてしほるゝ』でした。
でも、お墓の説明札の辞世の句では『武蔵野にはびこる程(ほど)の鬼薊(おにあざみ)/今日の暑さに枝葉しほるる』となっていました。
 
江戸時代、お墓には「清吉大明神」の幟(のぼり)が立てられ、その墓石を削り取るとご利益があるといわれていました。

昔はバクチ打ちが、今は受験生が合格祈願に訪れて、墓石を削っています。
(案内板より)


〇 鬼坊主清吉
鬼坊主 清吉(おにぼうず せいきち、安永5年(1776年) - 文化2年6月27日1805年7月23日))こと無宿清吉は、江戸時代盗賊である。

生涯
牛込生まれ。父は漁師をしていたらしいが家は貧しく、京橋の加治屋という商家に奉公に出される。盗みで捕縛され、入墨を入れられ重敲の刑を受けたが非人小屋に入って入墨を消し、日雇いとなった。しかし、入墨を消した罪で再び捕縛され、再度入墨を入れられた上で江戸追放の刑を受けた。しかしそんなものは鬼坊主にとって全く意味がなかったようで、数人の仲間と徒党を組み、路上強盗、引ったくり、武装強盗を連日にわたって繰り返し、懸命の捜査を行う町奉行火付盗賊改方をあざ笑うかのごとく江戸中を蹂躙した。


あまりの神出鬼没振りにこの種の犯罪としては異例の人相書(普通人相書が出回る罪は当時一番重罪だった逆罪、すなわち主人や親を殺傷する罪である)が作成され、非常の捜査体制である捕物出役まで発動された。そのため上方へ逃亡し、文化2年(1805年)4月に彼の地で捕縛される(捕縛された場所については京都の大仏堂前と伊勢・の2説ある)。


4月24日、江戸に護送されるが、有名人である鬼坊主を一目見ようと群衆が押し寄せた。鬼坊主は北町奉行小田切直年の尋問に対して罪を認め、2ヵ月後の6月27日、市中引き回しの上、小塚原で仲間2名(無宿左官粂こと粂次郎24歳、無宿三吉こと入墨吉五郎28歳)と共に獄門にかけられた。享年30。


辞世
は、「武蔵野に名も蔓(はび)こりし鬼薊(おにあざみ) 今日の暑さに乃(かく)て萎(しお)るる[1]

「坊主」というあだ名が付けられているが僧侶ではなく、体が大きく風体が異様だったせいらしい。


墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。

鬼坊主清吉が登場する作品
小説
池波正太郎鬼坊主の女』(『にっぽん怪盗伝』に収録)(1968年、サンケイ新聞出版局、後に角川文庫より再版)

後述の通り、テレビドラマ『鬼平犯科帳』シリーズにて、二度に渡り映像化されているが、実際に同作品に登場する火付盗賊改方長官の長谷川平蔵は、鬼坊主が捕縛・処刑される10年程前にこの世を去っているため、寧ろフィクション作品と考えて良い。

テレビドラマ
鬼平犯科帳シリーズ(NET→テレビ朝日→フジテレビ

1970年5月19日放送の八代目松本幸四郎版第1シリーズ第33話で「鬼坊主の花」と言うタイトルで初めて映像化された。当時は「鬼平犯科帳」と言う作品自体、まだ映像化可能な話数が少なかった事から、他の池波作品から「鬼平」に流用するケースも少なくなかった。後に1993年2月10日放送の二代目中村吉右衛門版第4シリーズ第8話で、原作と同じく「鬼坊主の女」と言うタイトルで約22年半ぶりに映像化された。

歌舞伎
・十六夜清心の主人公である極楽寺の僧侶清心が、盗賊になった後、この名を名乗っている。

鬼坊主清吉を演じた人物
・『池波正太郎捕物シリーズ 鬼平犯科帳』第1シリーズ第33話「鬼坊主の花」(NET東宝、1970年) - 初代三波伸介

鬼坊主を演じた三波は当時、てんぷくトリオの一員として活動していた。その為、同じてんぷくトリオの一員である戸塚睦夫が粂次郎(左官粂)役で、伊東四朗が入墨吉五郎(無宿三吉)役でそれぞれ出演している。
・『鬼平犯科帳(二代目中村吉右衛門版)』第4シリーズ第8話「鬼坊主の女」(フジテレビ松竹、1993年) - ガッツ石松

鬼坊主清吉役のガッツ石松は、これ以前に第1シリーズ第7話「明神の次郎吉」で、明神の次郎吉役を演じている。また、左官の政次郎(モデルは左官粂こと粂次郎)を丹古母鬼馬二が、入墨吉五郎を根岸一正が演じている。

参考文献
・丹野顕『江戸の盗賊』青春出版社、2005年、128頁。

小木新造『図説大江戸知れば知るほど』実業之日本社、1996年、156頁。

・山下昌也『実録 江戸の悪党』学研新書、2010年、106頁。

脚注
1. 落語『鬼あざみ』では、「武蔵野にはびこるほどの鬼あざみ 今日の暑さに枝葉しおるる」、池波正太郎の『鬼坊主の女』では、「武蔵野に名ははびこりし鬼あざみ 今日の暑さに少し萎れる」となっている。

関連項目
・『鬼あざみ』 - 落語

・『小袖曾我薊色縫』・『花街模様薊色縫』(十六夜清心)- 歌舞伎

盗賊

鬼平犯科帳の登場人物
(wikiより)

253 鬼あざみ清吉

⇧ 鬼あざみ清吉

253a

253b

253c


谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年)7月24日 - 1965年昭和40年)7月30日)は、日本小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。


初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語雅語から俗語方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。

来歴・人物
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者早稲田大学教授)となる[1]


母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった[1]


1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[3]。卒業後、旧制一高に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]

1908年(明治41年)、旧制一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった[4]


大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[4]


関東大震災
の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[5][6]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[6]


太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている[7]


同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ[8][9]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[10][9]。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[11]

略年譜
・1886年(明治19年)東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。父・谷崎倉五郎、母・関の長男として育つ。

・1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される(明治二十一年九月七日付で井染得佶を発起人総代として、他倉五郎とさらに2人、合計4人連名で有限責任日本點燈会社設立御届を定款と共に神田区長に提出し、株主を募集。その40日後、明治二十一年十月廿四日付で解社御届を神田区長に提出している[12]。)。

・1890年(明治23年) 父、米穀の仲買人をはじめる(東京府公文書の米商会所の簿冊中の仲買人認許料上納仕訳書によると、明治十九年二月廿四日付、蠣殻町壱丁目弐番地の住所で、同所寄留の江間忠五郎と共に仲買人認許料を納付している[13]。)。弟・精二生まれる。

・1892年(明治25年) 日本橋阪本小学校尋常科へ入学(一年繰上げの変則入学)。お坊ちゃん育ちの内気な性格のため、乳母の付添い無しでは学校に行けない。

・1893年(明治26年) 出席日数不足のためもう一度一年生をやり直し、首席で進級する。生涯の友人・笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。

・1894年(明治27年) 6月20日、明治東京地震に自宅で被災。地震恐怖症の原因(「九月一日」前夜のこと』で恐怖症と告白)。

・1896年(明治29年) 母と歌舞伎義経千本桜』を観劇し、生涯にわたる影響を受ける。

・1897年(明治30年) 同小学校尋常科卒業、高等科に進む。稲葉清吉先生の影響で文学に目覚める。

・1898年(明治31年) 先輩や級友と回覧雑誌『学生倶楽部』を行う。

・1899年(明治32年) 京橋区築地明石町の欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通い英語を習う。日本橋亀嶋町の貫輪秋香塾で漢文の素読を受ける。

・1901年(明治34年) 同高等科卒業。このころ家産傾き、奉公に出されるはずだったが、才能を惜しむ稲葉先生らの援助により東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)へ進む。

・1902年(明治35年) 家業いよいよ逼迫し廃学を迫られるが、漢文教師の渡辺先生や北村重昌(上野精養軒主人)の篤志によって住込みの書生家庭教師となり、学業を行う。

・1903年(明治36年) 一中校誌『学友会雑誌』の会幹となる。一中では、大貫雪之助岡本かの子の兄)、土屋計左右恒川陽一郎吉井勇辰野隆らと知り合う。

・1905年(明治38年) 同校卒業、第一高等学校英法科に進む。

・1907年(明治40年) 一高文芸部委員となり『校友会雑誌』に文章を発表する。北村家の小間使いの穂積フク(福子)との恋愛事件により北村家を追い出されて学生寮に入る。この頃から学資は伯父と笹沼家より援助を受ける。

・1908年(明治41年) 同校卒業、東京帝国大学国文科に進む。

・1909年(明治42年) この頃、文壇に出られない焦りから神経衰弱となり、転地療養先の偕楽園で、永井荷風の『あめりか物語』を愛読。

・1910年(明治43年) 小山内薫和辻哲郎大貫晶川小泉鉄後藤末雄木村荘太らと共に第2次『新思潮』を9月に創刊。戯曲『誕生』を投稿(創刊号は手続き不備のため発売禁止)。『刺青』、『麒麟』を発表。

・1911年(明治44年) 『新思潮』は廃刊に。一時『スバル』同人に参加。授業料未納により退学。『少年』『幇間』『飈風』『秘密』を発表。作品が永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立する。

・1912年(大正元年) 1月に初恋の穂積フクが肺炎で死去。京都旅行をはじめ各地を放浪、神経衰弱が再発する。徴兵検査を受けるが脂肪過多症で不合格。『悪魔』を発表。

・1915年(大正4年) 石川千代と結婚。『お艶殺し』『法成寺物語』『お才と巳之介』 を発表。

・1916年(大正5年) 長女・鮎子生まれる。『神童』『恐怖時代』を発表。

・1917年(大正6年) 母・関が死去。妻と娘を実家に預ける。『人魚の嘆き』『異端者の悲しみ』を発表。芥川龍之介佐藤春夫との交流が始まる。千代の妹・せい子を好きになる。

・1918年(大正7年) 朝鮮満洲中国に旅行。『小さな王国』を発表。

・1919年(大正8年) 父・倉五郎死去。神奈川県小田原十字町に転居。『母を恋ふる記』を発表。

・1920年(大正9年) 横浜の大正活映株式会社脚本部顧問に就任。義妹せい子を芸名・葉山三千子女優にし、『アマチュア倶楽部』でデビューさせる。『鮫人』『芸術一家言』を発表。

・1921年(大正10年) 妻・千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する(「小田原事件」)。

・1923年(大正12年) 9月1日関東大震災。当時箱根の山道でバスに乗車中で、その谷側の道が崩れるのを見る。横浜山の手の自宅は頑丈に造られており無事だったが、類焼してしまう。震災後、京都市上京区等持院中町や、左京区三条東山通要法寺を経て、兵庫県武庫郡六甲苦楽園(現・神戸市灘区)に移住。『肉塊』を発表。

・1924年(大正13年) 武庫郡本山村北畑(現・神戸市東灘区本山町)に転居。『痴人の愛』を発表。

・1926年(昭和元年) 再び中国の上海へ旅行。郭沫若と知り合う。帰国後、佐藤春夫と和解する。『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。武庫郡本山村岡本好文園(現・神戸市東灘区岡本)に転居。

・1927年(昭和2年) 根津松子と知り合う。『饒舌録』を連載し、芥川龍之介との間で「筋のある小説、ない小説」論争が起こるが、後日、谷崎の誕生日に芥川が自殺する。

・1928年(昭和3年) 兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷(現・神戸市東灘区岡本)に新居(「鎖瀾閣」)を築く。『』を発表。

・1929年(昭和4年)妻・千代を、和田六郎(後の大坪砂男)に譲る話が出て、それを元に『蓼喰ふ蟲』を、前年から連載するが、佐藤春夫の反対で話は壊れる。

・1930年(昭和5年) 『乱菊物語』前編を発表。千代と離婚。離婚および千代の佐藤再嫁の旨の挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として騒がれる。

・1931年(昭和6年) 古川丁未子と結婚。借金のため一時期高野山にこもる。『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』を発表。

・1932年(昭和7年) 武庫郡魚崎町横屋(現・神戸市東灘区)に転居する。隣家は根津松子一家だった。松子との不倫が始まる。『倚松庵随筆』『蘆刈』を発表。

・1933年(昭和8年) 丁未子と別居する。弟・精二と弟妹扶助のことで揉めて絶交。『春琴抄』『陰翳禮讚』を発表。

・1934年(昭和9年) 『夏菊』を連載するが、モデルとなった根津家の抗議で中断。丁未子と正式離婚。『文章読本』を発売、ベストセラーとなる。

・1935年(昭和10年) 根津清太郎とは離婚した森田松子と結婚する。『源氏物語』の現代語訳に着手。『摂陽随筆』を発表。

・1936年(昭和11年) 『猫と庄造と二人のをんな』を発表。武庫郡住吉村反高林(現・神戸市東灘区)に転居。5月、住田多蔵(歌舞伎の笛方総家元)が志賀直哉を訪問し、谷崎への紹介を喜ぶ。

・1937年(昭和12年) 創立された帝国芸術院会員に選ばれる。

・1938年(昭和13年) 阪神大水害起こる。このときの様子がのちに『細雪』中に映されることになる。源氏物語の現代語訳脱稿する。

・1939年(昭和14年) 弟・精二と和解。『潤一郎訳源氏物語』刊行されるも、皇室にわたる部分について何箇所かを削除した。長女の鮎子が竹田龍児(佐藤春夫の甥)と結婚(媒酌人は泉鏡花)。

・1941年(昭和16年) 初孫・百百子が誕生。

・1942年(昭和17年) 熱海市西山の別荘を購入。

・1943年(昭和18年) 『中央公論』誌上に連載開始された『細雪』が軍部により連載中止となる。以降密かに執筆を続ける。

・1944年(昭和19年) 『細雪』上巻を私家版として発行。一家で熱海疎開。

・1945年(昭和20年) 岡山県津山、ついで真庭郡勝山町(現・真庭市)に再疎開。

・1946年(昭和21年) 京都市左京区南禅寺下河原町に転居する(前の潺湲亭)。

・1947年(昭和22年) 高血圧症の悪化により執筆が滞りがちとなる。『細雪』中巻を刊行。松子の長女・木津恵美子を次女として入籍。毎日出版文化賞受賞。

・1948年(昭和23年) 『細雪』下巻が完成する。

・1949年(昭和24年) 朝日文化賞受賞。左京区下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。第8回文化勲章受章。『月と狂言師』、『少将滋幹の母』を発表。

・1950年(昭和25年) 熱海市仲田にふたたび別荘を購入(前の雪後庵)。

・1951年(昭和26年) この年以降再び高血圧症悪化、静養を専らとする。文化功労者となる。『潤一郎新訳源氏物語』を発表。

・1954年(昭和29年) 熱海市伊豆山鳴沢に新たに別荘を借り転居(後の雪後庵)。

・1955年(昭和30年) 『幼少時代』『過酸化マンガン水の夢』を発表。

・1956年(昭和31年) 京都の潺湲亭を売却し、熱海伊豆山に定住。『』を発表。

・1958年(昭和33年) 11月に軽い発作を起こし、医者から3か月の静養を勧告される。

詳しいことは、「谷崎潤一郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E
(wikiより)

254  谷崎 潤一郎

⇧ 谷崎潤一郎

254a

⇧ このお墓の真後ろには「芥川龍之介」のお墓があります。

254b


天野 宗歩(あまの そうほ(「そうふ」とも)、文化13年(1816年) - 安政6年5月13日1859年6月13日))は、江戸時代末期の将棋指し[1]。正字表記では天野宗步。七段。十一代大橋宗桂門下。


大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため[2]、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる[3]。十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。

経歴
大橋家に残された「天野宗歩身分留」という古文書には、武蔵国の生まれとある。

文化13年(1816年)11月、江戸の本郷菊坂にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次郎。後に天野家の養子に入る。

文政3年(1820年)8月、5歳で大橋本家の大橋宗金(十一代大橋宗桂)の門下となる。同5年(1822年)の加藤看意との四枚落ち戦が、記録にある最古の棋譜である。

  ・同9年(1825年)、初段となる。

  ・同12年(1829年)、14歳で二段となる。

天保元年(1830年)12月、15歳で三段となる。

  ・同3年(1833年)、17歳で四段となる。5月24日に中橋木屋忠右衛門方で弘めの会を催している。

  ・同4年(1834年)3月、五段に昇段する。上方に旅立ち、同年6月5日に大橋柳雪と左香落で対戦する。

  ・同5年(1834年)9月、江戸に戻ったが、同6年(1835年)3月下旬には再び上方に旅立つ。途中、沼津において米村利兵衛と平手で4戦している。そのまま上方で生活するようになる。

  ・同13年(1842年)、江戸に帰ったが、同14年(1843年)には再び京都に戻り、妻帯する。

弘化2年(1845年)6月、江戸に戻る。富次郎と改名する。
  ・同年9月26日に神田松永町の甲州屋佐吉方で六段弘めの会を催す。ここで伊藤印寿(後の八代伊藤宗印)と左香落で対戦する。

  ・同3年(1846年)9月、七段を許される。

  ・同年11月、弟子の市川太郎松を伴い京都に上る。

  ・同4年(1847年)5月2日、大阪難波新地において七段弘めの会を催す。

嘉永2年(1849年)5月24日、妻が死去する。

  ・同3年(1850年)、妻のために京都深草霊光寺初代宗桂の駒形の墓碑の隣に同じく駒形の墓碑を建立、「歩兵」と刻む。台石には宗歩門下の49名の名が刻まれた。

  ・同5年(1852年)5月、別家を許され、剃髪して宗歩と名乗る。十一代大橋宗桂ら将棋三家の推薦を得て御城将棋に出仕が許されている。

  ・同6年(1853年)正月、定跡書『将棋精選』を開板する。

安政元年(1854年)、奥州路の旅に出る。

  ・同2年(1855年)、越後路の旅に出る。

  ・同3年(1856年)、御城将棋に出勤。これが宗歩最後の御城将棋となった。後妻のフサとの間に宗次郎をもうける(7年後に夭折)。

  ・同4年(1857年)春、市川太郎松、渡瀬荘次郎を伴い越後路の旅に出る。御城将棋は欠勤し、同5年(1858年)正月まで旅先で過ごした。

  ・同6年(1859年)3月28日に市川太郎松と右香落で対戦。26手で指し掛けとなった。これが宗歩の絶局となる。

  ・同年5月14日に死去。44歳であった。


晩年の宗歩は将棋は強かったが、素行は悪く、酒色に溺れ賭将棋をしていた記述が残されている。『天野宗歩身分留』には、表向きは病死ということで寺社奉行に届け出たとあり、実際の死因は別であった可能性がある。法名は玉用院名宗日歩居士。墓所は東京巣鴨本妙寺にある。

その他
・棋譜も多数残されているが、宗歩の実力が抜きんでていたため、その手合割の多くは駒落ちである。定跡書「将棋精選」(嘉永6年=1853年)、「将棋口伝」(発行年未詳)、実戦集「将棋手鑑」(明治10年=1877年)などが発行されている。

将棋の駒の書体にも「宗歩好(そうほごのみ)」と名付けられたものがある。

真剣師平畑善介将棋が上手くなりたいなら宗歩の棋譜だけを読めと言っている。

・角使いの名手として知られ、特に安政3年(1856年)の対伊藤宗印戦における▲1八角は、将棋史上に残る名手として有名である(但し中原誠佐藤康光らは、苦心の一手ではないかと考えている)。この他、角を使った好手が多い。

・江戸時代の棋士でありながら、隙あらば動く序盤のスピード感覚や、中原囲いに類似した囲いの使用など現代の棋士と比べても遜色なく、最強棋士候補の一人である。羽生善治も「歴史上、誰が一番強いと思いますか?」という質問に升田幸三と並べて天野の名を挙げ「今の目で見たらすごいスピード感溢れる将棋を指している。相手がのんびり指しているのでその圧倒的なスピードの違いがよく分かる。現代に現れてもすごい結果を残したのではないだろうか」と評した。[4]

先崎学は「香落の上手でのさばきが絶品。さばきのうまさは久保利明に匹敵する」と語っている[5]

・十一代大橋宗桂の弟子ではあったが、八段への昇段が絶たれてからは将棋の家元である大橋家大橋分家伊藤家の御三家とは独立に活動し、多くの門下生を育てた。特に天野宗歩の四天王と呼ばれた市川太郎松、渡瀬荘次郎、小林東四郎、平居寅吉の4名はいずれも強豪として知られる。このうち、市川太郎松は天野の一番弟子であり、将棋太平記の主人公として有名である。また、小林東四郎は後に小林東伯齋と名乗り、関西名人(大阪名人)と呼ばれた。十二世名人小野五平の後継候補として関根金次郎と争った井上義雄阪田(坂田)三吉は小林の弟子であり、天野の孫弟子にあたる。なお、小野五平はしばしば「天野宗歩門下」とされているが、これは京都に上った時に小野が宗歩の指導を受けたことによる。生前の本人も天野宗歩門下と自称していた。記録を重視して小野は十一代大橋宗桂門下とする見解もある。

宗歩を登場させたフィクション
村松梢風「将棋指し太郎松」(市川太郎松が主人公)

倉島竹二郎「将棋太平記」(市川太郎松が主人公)

菅谷北斗星「行燈の太郎松」(市川太郎松が主人公)

菅谷北斗星「道中盲目将棋」

菊池寛石本検校

斎藤栄『小説・天野宗歩』(のちに『棋聖忍者・天野宗歩』と改題)

参考文献
中原誠『日本将棋大系 第11巻 天野宗歩』(筑摩書房、1978年)

  ・山本亨介「人とその時代十一(天野宗歩)」(同書243頁所収)

増川宏一『将軍家「将棋指南役」』(洋泉社新書y、2005年)

外部リンク
駒の詩 - 書体への誘い10~宗歩好

天野宗歩 棋譜集

野田市立図書館 将棋関係貴重書目録

脚注
1. 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、17頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
2. ただし、将棋家の子息に適当な人物がいない場合、弟子が将棋家の養子となって家を継いだ例は多くある。
3.
なお「名人になれなかった、棋聖とよばれる棋士」として、囲碁界では本因坊秀策がいる。
4. 「ニコニコ生放送」主催、『「将棋倶楽部24モバイル将棋​道場」開設記念【羽生善治名人​】特別指導対局』の放送終盤における、視聴者からの質問メールへの回答(2011年2月26日)
5. 先崎学『駒落ちの話』(マイナビ)での木村一基との対談。
(wikiより)

226b

226a


森鴎外(本名・森林太郎)が明治25年から大正11年7月9日60歳で亡くなるまで30年間住んでいた家・観潮楼跡にあります。


千駄木町21番地(当時)を新たな住まいとして選んだのは鴎外の父静男でした。当時、静男は足立区の千住で開業していた医院をたたみ、息子の鴎外と共に住もうと家を探していました。そして方々を探し歩き、眺望の良い家としてここが目に止まったのです。


その当時、鴎外は同じ千駄木町の57番地に住んでいましたが、父のすすめを受け、一家はこの地に住むことになります。


千駄木町の57番地の家には森鴎外が去ること11年目、明治36年(1903) イギリスから帰朝した夏目漱石が住みました。この家で「吾輩は猫である」が執筆されたことから、現在通称『猫の家』と呼ばれています。(『猫の家』現在は明治村に移築、碑のみが残っています。)


鴎外の家の建て増しした2階からは遠く東京湾 品川沖の白帆がながめられたことから、鴎外はこの家を「潮を観る楼閣」=「観潮楼」と名づけました。

鴎外の次女、小堀杏奴氏の著書『晩年の父』には、このようなエピソードがあります。「結婚して間もなく父は母を連れてこの二階に登り、「おい、海が見えないか」と聞いたそうだ。母は長い間見ていたが、「どうしても私には見えません」といったら父は笑いながら、「お前は正直だ。俺がそういうと、ああなるほど見えます見えますなんていう人がいるが、どんな人にだって見えるはずはないんだよ」といったそうである。」


現在当時からそのままに残るものが3つあります。


一つは大銀杏です。空襲後の焼け野原に立つ銀杏の写真が残されています。

二つ目は、三人冗語の石です。鴎外が創刊した『めさまし草』という文芸雑誌に「三人冗語」という合評欄があり、当時人気を集めていました。その評者三名(森鴎外、幸田露伴、齋藤緑雨)が写っている写真があり、鴎外が座っているのがこの石です。

鴎外が、「三人冗語」で樋口一葉の小説「たけくらべ」を絶賛したことは有名です。


三つ目は庭を出たところにある、観潮楼の玄関の門柱の礎石と敷石です。昔はこちらが正面玄関でした。その前を通っている道は「藪下通り」と呼ばれ、鴎外が好んで散歩した道として知られています。


この庭のもう一つの見所、それは沙羅の木です。

観潮楼の庭にはさまざまな植物が植えられておりましたが、なかでも鴎外が好んだ花が沙羅(夏椿)の花でした。当館の回廊には鴎外作の詩「沙羅の木」の碑があります。


「褐色の根府川石に 白き花はたと落ちたり ありとしも青葉がくれに 見えざりしさらの木の花」

252 森鴎外

⇧ 森 鴎外

252a

252h

⇧ 門があった場所です。

252c

252e

252b

⇧ 大銀杏

252d

252g

252f


宮沢賢治〔明治29年(1896)-昭和8年(1933)〕は詩人・童話作家。花巻市生まれ。


大正10年(1921)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。

菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。


東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。

これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。

童話集「注文の多い料理店」に収めた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。


8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクには一杯になるほど原稿が入っていたという。
(案内板より)

249 宮沢賢治

⇧ 宮沢賢治

249a

249b


亀島橋のたもとに、忠臣蔵で有名な堀部康兵衛の武勲をたたえる碑がたっている。

堀部安兵衛武庸(赤鞘安兵衛)は、赤穂藩浅野家の家臣堀部弥兵衛の娘妙と結婚して、当時の水谷町に居住し、剣道の達人として知られていた。


昭和44年八丁堀一丁目町会によって碑が建立


越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ。

元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀齋道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳

 
法名 刀雲輝剣信士

251a


金田一京助(言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。

東京大学言語学科卒業後、昭和17年(1942)から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。


東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、民俗の研究を始め、北海道・サハリン(樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解明し、アイヌの抒情詩ユーカラを世に初めて紹介した。
アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。

これら数々の功績により、昭和29年には、文化勲章が授与された。


盛岡中学時代、2年下級に石川琢木が在籍していた。

啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速にに文学への関心を高めていった。

京助は琢木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。


金田一京助の長男、春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれた。

大正9年(1920)からの5年間、近くの真砂小学校(現・本郷小学校)に在籍。

この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研究のきっかけとなった。


東京大学国文科を卒業後、名古屋大学、東京外国語大学、上智大学などで教鞭を執った。

全国各地のアクセントを調査し、国語アクセントが歴史的かつ体系的に変化することを初めて実証した。


また、数多くの国語関係辞書等の編纂を通じて、その研究成果を一般に普及させた。

第50回(平成9年度)文化功労者表彰受賞、平成13年度東京都名誉都民。
(案内板より)

250a

250b

250c


野間 宏(のま ひろし、1915年大正4年)2月23日 - 1991年平成3年)1月2日)は、日本小説家評論家詩人


長編小説を多く書き、社会全体の構造をとらえる全体小説を志向した。また、最晩年まで社会的な発言を多く行ったことでも知られている。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった[1]。そのきっかけは、戦前から水平社とともに運動してきたことのほか、誤りを犯したことがきっかけで解放同盟に洗脳されたことであるといわれる[1]

経歴
僧侶(在家の新しい流派を建てたので、既存の寺院に属してはいなかった)を父として、兵庫県神戸市長田区に生まれる。大阪府立北野中学校に進学する。

1932年旧制第三高等学校在学中、同人誌「三人」を富士正晴(野間は富士の妹と結婚したので義兄)、竹之内静雄と創刊。

1935年京都帝国大学に進学し、反戦学生運動に参加。

1938年、京都帝国大学文学部仏文科卒業。

1938年から大阪市役所に勤務し、被差別部落関係の仕事を担当した。

1941年に応召し、中国フィリピンを転戦するも、マラリアに感染したため帰国。

1943年社会主義運動の前歴を憲兵に追及され、思想犯として大阪陸軍刑務所で半年間服役。年末に出所後、監視つきで原隊に復帰。

1944年2月、召集解除。大阪の軍需工場に勤務していた時、敗戦を迎える。

・敗戦後、日本共産党に入党。

1946年、『暗い絵』を発表し、作家生活に入る。

1951年、前年創刊された雑誌『人民文学』の編集にかかわる。

1952年、『真空地帯』で毎日出版文化賞を受賞。

1954年、詩集『スターリン讃歌』編集に参加。同書のためにスターリンを賛美した詩『星の歩み』『スターリン』を執筆。

1964年、ソ連に追随したとして、日本共産党から除名処分を受ける。

1971年、『青年の環』で谷崎潤一郎賞を受賞。

1973年、『青年の環』がロータス賞を受賞。

1974年、「日本アジア・アフリカ作家会議」の初代議長に選出される。

1977年、『差別・その根源を問う』『狭山裁判』など部落問題に関する言論活動が評価され、松本治一郎賞を受賞。

1989年、 『野間宏作品集』(全14巻・岩波書店)をはじめとする文学への貢献により、1988年度朝日賞を受賞。

1991年食道癌の合併症により東京慈恵会医科大学附属病院で死去[2][3]。エセー集『時空』(福武書店)と、大作『生々死々』(未完、講談社)が出された。

人物
・全22巻の『野間宏全集』(筑摩書房)、全14巻『野間宏作品集』(岩波書店)があるが、スターリンを賛美した作品は収録されなかったという。

藤原書店より、『完本 狭山裁判』(上中下、1997年)と、『作家の戦中日記 一九三二-四五』(2001年)が出された。また『野間宏の会』を主催している。

影書房で『野間宏集』 (戦後文学エッセイ選9、2008年)が出された。

・『真空地帯』発表時、大西巨人は、軍隊があまりに単純に悪として描かれていると批判し、「俗情との結託」と呼び、のち自ら軍隊を描いた『神聖喜劇』を発表した。

・三高から京大時代の数年間にわたる日記は、没後に『作家の戦中日記』として藤原書店から刊行されたが、それによると野間は痴漢行為や公衆便所の窃視の常習犯であり、若い女性に尾行と性器露出を繰り返し、友人たちから「野獣」と呼ばれ、みずからも「淫らな変態性欲者」と自嘲していた[4]。ただし警察に捕まったことはなかった。

1974年春に『青年の環』の担当編集者の田邊園子(当時37歳)を突然口説きはじめて田邊を啞然とさせたが、その場は来客があり、ことなきを得た[5]。それから半年以上経ち、1974年秋の夜、野間は田邊を新宿駅東口のタクシー乗り場に呼び出し、無言のまま田邊を自動車でどこかへ連れ去ろうとしたが抵抗され、何もできなかった[5]。後に判明したところによると、野間はこの晩、男女が肉体的に結ばれる場面を田邊相手にみずから演じて書く予定だった[6][5]。しかし野間はこの出来事を歪曲し「田邊が野間を誘惑して失敗した」と一部の人々にまことしやかに話し、信じさせた[5]。田邊は「当時、私は勤務先の社長から奇妙な厭味を言われ、その後も長く、作家たちや他社の編集者から哀れみや同情、慰めの言葉、時には蔑みの視線を受けてきたことを忘れることが出来ない。野間夫人すら私の"失恋"を疑わなかった」、「ほとんどの人々は、常日ごろ"人権擁護"を標榜している作家が、他者の人権を踏みつけるような嘘を人に話して聞かせるとは信じないだろう」と記している[5]。しかし野間はみずからの言動を「小説家は嘘をつくものです」と正当化していた[5]

著書
・『暗い絵』真善美社 1947 のち新潮文庫

  ・『暗い絵・顔の中の赤い月』(角川文庫)

  ・『暗い絵・崩解感覚』(新潮文庫)

  ・『暗い絵・第三十六号』(旺文社文庫)

  ・『暗い絵・顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)

・『崩解感覚』丹頂書房 1948

  ・『崩解感覚・夜の脱柵』(旺文社文庫)

・『小説入門』真善美社 1948 「文章入門」旺文社文庫、レグルス文庫

・『星座の痛み 詩集』河出書房 1949

・『青年の環』第1-2部 河出書房 1949-1950 のち岩波文庫(以下同)

・『顔の中の赤い月』目黒書店(自選作品集)1951

・『雪の下の声が……』未來社 1952

・『文学の探求』正続 未來社 1952-1953

・『真空地帯』河出書房 1952 のち岩波文庫、角川文庫、新潮文庫、旺文社文庫

・『人生の探求』未來社 1953

・『野間宏詩集』三一書房(日本国民詩集)1953

・『野間宏作品集』全3巻 三一書房 1953

・『現代文学の基礎 いかに人間を考えるか』理論社 1954

・『思想と文学』未來社 1954

・『志津子の行方』河出新書 1955

・『文学の方法と典型 社会主義リアリズムにむかって』青木書店 1956

・『地の翼 上巻』河出書房 1956

・『真実の探求 現代文学の方法』理論社(私の大学・文学の教室)1956

・『今日の愛と幸福』中央公論社 1957

・『黄金の夜明ける』未來社 1959

・『さいころの空』文藝春秋新社 1959 のち角川文庫

・『車の夜』東京書房 1959

・『感覚と欲望と物について 評論集』未來社 1959

・『若い日の文学探求』青春出版社(青春教養大系)1960

・『文章読本』新読書社出版部 1960

・『干潮のなかで』新潮社 1961

・『わが塔はそこに立つ』講談社 1962 のち文庫、文藝文庫

・『肉体は濡れて』東方社(イースト・ブックス)1965

・『青年の環 第3』河出書房新社 1966

・『人生と愛と幸福』合同出版(パピルス双書)1967

・『文学論』合同出版 1967

・『青年の問題文化の問題』合同出版(パピルス双書)1967

・『青年の環 第4』河出書房新社 1968

・『サルトル論』河出書房 1968

・『歎異抄』(私の古典)筑摩書房 1969 のち河出文庫、ちくま文庫

・『野間宏全集』全22巻 筑摩書房 1969-1974

・『野間宏評論集』全2巻 未來社 1969-1970

・『創造と批評』筑摩書房 1969

・『全体小説への志向 対話集』田畑書店 1969

・『全体小説と想像力』河出書房新社 1969

・『青年の環 5』河出書房新社 1971

・『鏡に挾まれて 青春自伝』創樹社 1972

・『親鸞』岩波新書 1973

・『心と肉体のすべてをかけて 文学自伝』創樹社 1974

・『文学の旅思想の旅』文藝春秋(人と思想) 1975

・『忍耐づよい鳥』河出書房新社 1975

・『狭山裁判』岩波新書 1976

・『現代の王国と奈落 現代文明の危機についての文学者の考察』転轍社 1977

・『野間宏全詩集』文和書房 1979

・『危機の中から 対話集』小学館創造選書 1981

・『新しい時代の文学』岩波書店 1982

・『戦後その光と闇』福武書店 1982

・『東西南北浮世絵草書 わたしの読書と生活』集英社 1987

・『野間宏作品集』全14巻 岩波書店 1987-1988

・『解放の文学その根元 評論・講演・対話集』解放出版社 1988

・『生々死々』講談社 1991

・『時空』福武書店 1991

・『天の穴、地の穴野間宏生命対話』立松和平編 社会思想社(現代教養文庫) 1991

・『作家の戦中日記』藤原書店 2001

共編著
・山繭 詩集 井口浩富士正晴共著 明窗書房、1948

・世界解放詩集 長田弘共編訳 飯塚書店 1951

・愛と革命(編)河出新書 1953

・日本抵抗詩集(編)三一書房 1953

・風に鳴る樹々 全国結核療養者詩集 安東次男瀬木慎一共編 朝日書房 1954

・フランス解放詩集 小内原文雄共編 河出文庫 1954

・学生たちの記録 永丘智郎共編 河出書房 1956

・知識人の思想と行動 新しい連帯のために 木下順二日高六郎共編 麦書房 1964

・文章のつくり方 三一書房 1966 (高校生新書)

・小説の書き方 明治書院 1969 (作法叢書)

・差別・その根源を問う 安岡章太郎共編 朝日新聞社 1977.7 のち選書

・狭山差別裁判 三一新書 1978.6

・人間のゆくえ 渡辺格対談 新泉社 1979.4

・アジアの聖と賤 被差別民の歴史と文化 沖浦和光共著 人文書院 1983.4

・日本の聖と賤 沖浦和光共著 人文書院 1985-1987

・親鸞から親鸞へ 現代文明へのまなざし 三国連太郎対談 藤原書店 1990.12

・日本の名随筆 100 命 作品社 1991.2

・万有群萌 ハイテク病・エイズ社会を生きる 山田国広対談 藤原書店 1991.12

・日本の聖と賤 近代篇 沖浦和光 人文書院 1992.4

関連項目
神戸文学館

狭山事件

脚注
1. a b 『文学』1959年2月号、p.39
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)22頁
3. 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)256頁
4. 田邊園子『伝説の編集者坂本一亀とその時代』37-38頁
5. a b c d e f 新日本文学2001年11月号、田邊園子「野間宏の『嘘』」
6. 田邊園子『女の夢 男の夢』

外部リンク
野間宏と戦後派の作家たち展

野間宏の会
(wikiより)

245   野間 宏

⇧ 野間 宏

245a

245b


石川琢木ゆかりの松坂屋質店跡です。

247a


尺 振八(せきしんぱち)の共立学舎跡

尺振八は天保十年(1839)、下総高岡藩の医師の子として生まれました。


万延元年(1860)22歳の尺はジョン万次郎や英学者・西吉十郎らから英語を学び、文久元年(1861)から福沢諭吉もいた幕府外国方に通弁(通訳)として勤めました。


尺は幕府の同三年(1863)の遺欧、慶応三年(1867)の遺米と二度の使節団に随行してじかに西洋文明に接しました。


とりわけ、アメリカでは諭吉、津田仙と共に教育施設も視察して帰国し、やがて諭吉は「慶応義塾」を、尺は明治三年七月に相生町のこの地に「共立学舎」を開くことになります。


「共立学舎」は寄宿制英語塾でしたが、英語だけではとどまらず、漢字教育も行った洋漢兼学のバランスのとれた私塾であったために開塾後わずか半年で100名を越える生徒数を誇りました。


尺はスペンサーの『教育論』を翻訳した『斬氏(すし)教育論』を刊行、自由民権運動の理論者として数多くの人々に愛読され、また未完の『明治英和字典』(死後、英学者・永峯秀樹が後を継ぐ)の記述や多くの人材を輩出するなどの業績により、"現代英学の祖父"とも呼ばれ、諭吉と共に近代教育の幕開けを演じましたが、同十九年十一月二十八日、四十八歳の若さでこの世を去りました。
(案内板より)

241 尺振八

⇧ 尺 振八

241a

241b

241c


出世(しゅっせ)稲荷(文京区本郷1-33-17)

「この辺(あたり)昔、春日局宅地なりし時、鎮守(ちんじゅ)のため勧請(かんじょう)なり。春日局……出世ありしゆえ当社の神徳を崇め、出世稲荷と崇め来るなり。」『旧事茗話(くじめいわ)』


春日局は本名「ふく」父は明智光秀の重臣・齋藤内蔵助利三である。

戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。

後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城大奥にて大きな力をもつに至った。


このあたりの片側を将軍から拝領し町屋をつくった「御府内備考」によれば神社の土地は拝領地28坪、外に27坪、小栗猶之丞より借地とある。

享保2年焼失したので京都稲荷山の千年杉で御神体を作り祭った。

春日町起源のゆかりのある場所である。
(案内板より)

235 春日局

⇧ 春日局

235a

235b


塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本戦国時代剣士兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。

236 塚原卜伝

⇧ 武蔵塚原試合図(月岡芳年画)


生涯
鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれる[1]幼名は朝孝(ともたか)[1]。時期は不明だが後に、覚賢の剣友塚原安幹(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の養子となる。同時に高幹(たかもと)とし、新右衛門高幹と改めた[1]塚原氏本姓平氏で、鹿島氏の分家である。のちに、土佐守(とさのかみ)、または土佐入道とも称した[1]。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする[1]


実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ[1]。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説[1]もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』[注釈 1]の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。卜伝は、諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる[1]


弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽[1]真壁氏幹(道無)[1]斎藤伝鬼房(勝秀)[1]ら一派を編み出した剣豪がいる。また、将軍にもなった足利義輝[1]足利義昭[1]や伊勢国司北畠具教[1]、武田家軍師山本勘助[1]にも剣術を指南したという。また、足利義輝、北畠具教の両者には奥義である「一之太刀」を伝授したとされている。


上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、甲陽軍鑑』に伝わる[要出典]「無手勝流」がある。この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ[2]、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。


若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋をにして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(右上記の月岡芳年錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。


晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。83歳没。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去としている。墓は豊郷村須賀塚原(須賀村、現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している[1]。法号を宝険高珍居士(ほうけんこうちんこじ)[1]位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある[1]

門下
伝承上弟子とされる人物も含む

雲林院松軒

諸岡一羽

真壁氏幹

成田長泰

斎藤伝鬼房

松岡則方(兵庫助)[1]

足利義輝

北畠具教

細川幽斎[1]

今川氏真

林崎甚助

上泉信綱

山本勘助



登場作品

書籍
池波正太郎『卜伝最後の旅』角川グループパブリッシング、1980年

津本陽塚原卜伝十二番勝負』講談社、1983年

中山義秀『塚原卜伝』徳間書店、1989年

峰隆一郎『日本剣鬼伝 塚原卜伝』祥伝社、1993年

石ノ森章太郎『塚原卜伝』小学館、1996年

矢作幸雄『無敗の剣聖 塚原卜伝』講談社、2011年

テレビドラマ
・『塚原卜伝』(2011年10月2日-11月13日、NHK BSプレミアム 演:堺雅人。原作は上述の「十二番勝負」)

脚注
注釈
1. 卜伝自身が詠んだとされる「卜伝百首」の他、沢庵宗彭による序、加藤信俊の孫(本名不詳)による後書によって構成される伝書。正確な成立年代は不明だが、寛永年代後半以降と推測される。

出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t

保立謙三 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社編、茨城新聞社、1981年、706-707頁。「塚原卜伝」
2. 孫子』謀攻篇第三に曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。

関連項目
兵法三大源流

卜伝の郷運動公園

卜伝流

(wikiより)

236  塚原卜伝

⇧ 塚原卜伝像

236b


236a

236c

236d

236e


夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日慶応3年1月5日) - 1916年大正5年)12月9日)は、日本小説家評論家英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。


大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。


その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

経歴
幼少期
1867年2月9日慶応3年1月5日)、江戸牛込馬場下名主夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった[5]


母は子だくさんの上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、夏目漱石は望まれない子として生まれたといえる。


漱石の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[6]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。


金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残ることとなった。


当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。


その後、1868年明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[7]。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。


家庭のごたごたのなか、1874年浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校[注 2]に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。1881年明治14年)、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。実母千枝が死んだショックと二松學舎入学とは漱石の内面にかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[8]。この二松學舎も一年で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。


2年後の1883年(明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注 3]に入学し、頭角を現した。

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。予備門時代の漱石は、「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注 4]

正岡子規との出会い
1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と初めて出会う。子規が手がけた漢詩俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。


同年9月、房州房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。


1890年
(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。


翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月大学を中退する。

詳しいことは、「夏目漱石ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3
(wikiより)

237  夏目 漱石

⇧ 夏目漱石

237a

237b


藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日[1] - 1903年(明治36年)5月22日)は北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。

出自と家庭
祖父の藤村政徳は盛岡藩であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。


操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入[2]。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡[注釈 1]、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。1902年(明治35年)、第一高等学校に入学。


・父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。

・弟の藤村朗は、建築家三菱地所社長となる。朗の妻は櫻井房記の長女である[3][4]

・妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者学習院院長や文部大臣を歴任した。

・叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である。

華厳滝の自殺
1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[5]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され[6]、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された[7]


厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった[8]


墓所は東京都港区青山霊園


藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)。それを撮影した写真があり、現在でも[いつ?]華厳滝でお土産として販売されている。[要出典]

遺書「巌頭之感」
藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。


巌頭之感

  悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て

  此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の

  オーソリチィーを價するものぞ。萬有の

  眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

  我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。

  既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の

  不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は

  大なる樂觀に一致するを。


238c

⇧ 木に彫られた巌頭之感


ホレーショとはシェイクスピアハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。


「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料が多いが、誤りである(右、木に彫られた「巌頭之感」写真の通り)。

自殺の原因
自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった[9]。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの[10]とする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している[11]朝日新聞(1986年7月1日)[12]によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった[13]。 なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している[14]

ホレーショの哲学
遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピアハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth Horatio, Then are Dream't of, in your philosophie[15].(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」[16]。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophie"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である[17](先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある[18]が、これより以前に徳富蘆花[19]黒岩涙香[20]も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある[21]。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している[22]



自殺の波紋
彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた[23]。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[24]


当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[25]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[26]

言及の例
・夏目漱石『吾輩は猫である』十より

打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。
・夏目漱石『草枕』より

余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[27]


「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」[28]


漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。

偽書の登場
1907年『煩悶記』也奈義書房出版、岩本無縫篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする偽書。出版直後に発売禁止処分になる。


藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、パリで悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は社会主義無政府主義の強い影響を受けており、発禁処分もそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、野間光辰が所有していたことが判明し、また別の一冊を谷沢永一が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』[29]に掲載されている[30][注釈 2]

詳しいことは、「藤村操ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D
(wikiより)

238  藤村 操

⇧ 藤村 操

238a



238b

238c


芳村 伊三郎(よしむら いさぶろう)は、近世前期以来の長唄家元名跡


芳村の始祖。芳村伊十郎と並ぶ名跡のひとつ。


特に4代目が有名で4代目は歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名「お富与三郎」)のモデルとなった。7代目までは唄方、7代目は三味線方

四代目
寛政12年(1800年) - 弘化4年6月16日1847年7月27日))幼名は大助。


上総国東金生まれ、紺屋の子。初名を芳村伊千五郎、1843年に立唄、1846年11月に4代目伊三郎を襲名。
(wikiより)

221a

221b

221c


彰義隊では第二白隊伍長、本営詰組頭をつとめた。

維新後は横浜税関の官吏や横浜毎日新聞の記者として働いた。

明治38年8月6日に56歳で没した。明治40年8月に建立され、題字は榎本武揚が書いた。

〇 丸毛利恒
丸毛 利恒(まるも としつね、嘉永4年12月28日1852年1月19日) - 明治38年(1905年8月6日)は、幕末幕臣で、彰義隊隊士。幼名、貞三郎。通称は士常靫負(ゆきえ)とも。明治以後は牛之助破魔雄。雅号として樵村樵峰樵廼屋主人などと名乗る。

経歴
旗本・大草弥三郎の三男として江戸に生まれ、安政5年(1858年)2月に旗本・丸毛彦三郎の養子となる。剣術心形刀流小野派一刀流)・槍術大島刀流)・馬術高麗八条流)・柔術揚心流)を学び、軍艦操練所に入所して科学数学・洋兵学、さらに講武所砲術を学び、元治元年(1864年)6月、別手組隊士となる。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐の際には伊予方面に出陣したが、徳川家茂薨去により江戸へ戻った。慶応3年(1867年)に奥詰銃隊へ選抜されて7月に上洛して徳川慶喜の警護を務める。


鳥羽・伏見の戦いでは、慶喜の護衛として大坂城に待機。敗戦にともない江戸へ帰還して、江戸開城が決まると奥詰銃隊を脱走。彰義隊に加わって組頭格に就く。上野戦争では伝令役を務めて諸戦において奮戦する。上野戦争敗走後、海軍副総裁・榎本武揚率いる旧幕府軍とともに蝦夷地へ渡り、今度は箱館戦争に身を投じる。箱館では彰義隊差図役頭取、後に五稜郭本営詰めとなる。新政府軍が蝦夷地へ上陸すると敵陣である七重浜襲撃に積極的に参加した。


降伏後の謹慎中、明治3年(1870年)3月までに箱館戦争の記録として、『北洲新話』を書き上げる。同年4月に静岡藩預かりとなり釈放。明治政府に出仕した後、横浜税関農商務省などに勤務。後に横浜毎日新聞記者、秀英舎監事の職を得る。また後に台湾総督府税関へも出張。


明治38年(1905年)8月6日、東京の自宅で病死。享年55。


著書に『北洲新話』、『感旧私史』、『樵村雑録』など。
(wikiより)

239a


樋口一葉(1872~1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。

「上杉の隣家(となり)は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方(こなた)の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。

御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて…」


文中の御梵刹がこの浄土宗・法真寺(ほうしんじ)で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。

こなたの二階とは、境内すぐ東隣にあった一葉の家である。

樋口家は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳~9歳)住んだ。

一葉家にとっても最も豊かで安定していた時代であった。


一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現・西片1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。

その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。
「桜木の宿」は法真寺に向かって左手にあった。
(案内板より)

244a

244b

244c


検索に移動

東京医学校(とうきょういがっこう)は、明治時代初期、東京府に設立された官立の医学教育機関(医学校)で、当時のいわゆる「専門学校」(高等教育機関を意味し、専門学校令準拠の旧制専門学校とは異なる)の一つである。

概要
慶応4年4月(1868年5月)、明治政府が旧江戸幕府医学所を接収したものを、「医学校」と改称し設立された。その後大学東校に改編され、1874年(明治7年)に東京医学校と改称された。


東京開成学校
とともに1877年に発足した「(旧)東京大学」設立の母体となり、東京大学医学部の直接の前身となった。

沿革
「医学校」時代
文久1年1月(1861年11月)に設立された幕府直轄の西洋医学校「医学所」は、慶応4年4月(1868年5月)、明治新政府に接収されて6月26日(新暦8月14日)には「医学校」と改称され、翌明治2年(1869年)1月にはイギリス公使館付医師のW・ウィリスを教師として授業を開始した。この医学校は翌2月には官立の「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となるが、同年7月18日(新暦8月15日)の大学校設立に際し、開成学校(旧幕府の開成所の後身)とともにその管轄下に入り、大学校「分局」とされた。

「大学東校」時代
詳細は「大学校 (1869年)#大学東校」を参照


明治2年12月17日1870年1月18日)、大学校の「大学」改称にともない医学校は「大学東校」と改称されたが、翌3年7月12日1870年8月8日)、内紛により大学本校が閉鎖され「大学」自体が有名無実化すると大学東校は独立、同年閏10月に学校規則が制定され予科・本科の組織が確立された。翌明治4年7月18日1871年9月2日)、大学の正式廃止と文部省発足にともない、7月21日(新暦9月5日)に「東校」と改称された。この時期は「医学校」設立当初のイギリス医学中心の教育からドイツ医学へと移り変わる時期に当たり(後出)、同年9月25日(新暦11月7日)、政府は東校をいったん閉鎖して規則を改正した上で翌10月に再開、こののちドイツの医科大学をモデルとした組織改革が進んだ。

「東京医学校」時代
明治5年(1872年)の学制頒布により、8月3日(新暦9月5日)、東校は「第一大学区医学校」となり、ついで1874年(明治7年)5月、東京医学校と改称された。この東京医学校は予科2年、本科5年からなり、主としてドイツ語を通じて西洋医学教育が行われたが、同年、日本語による薬剤師の簡易速成課程として修業年限2年の「製薬学(通学生)教場」、翌1875年には医師速成課程として修業年限3年の「医学通学生教場」が新設され、ともに日本語による授業が行われた。慶應義塾出身の印東玄得らが教授として着任した。1876年には初めて25名の卒業生を出し、翌1877年4月、東京医学校は東京開成学校(大学南校の後身)と統合され東京大学(旧)東京大学)の設立に至る。しかし設立当初の東京大学は旧開成学校および医学校の連合体としての性格が強く、しばらくの間、医学校の後身たる医学部では独自の「綜理」(大学総長に相当し池田謙斎が就任)を持つなど、高度な独立性を維持していた。

ドイツ医学への転換
明治初年、薩長を中心とする新政府は、蘭方医学からの転換という課題に際し、従来のイギリスとの親密な関係からイギリス医学の導入の方向に傾き、戊辰戦争中の医療活動に大きく貢献したイギリス公使館付き医官ウィリスとの間で1ヵ年医学校および「大病院」で医学教育・医療活動を行う契約を結んだ。当時のイギリス医学は臨床重視で、病院に基礎を置く医学であった。


このままで行くとウィリスはやがて設立されるべき東京大学医学部で中心的な役割を果たし、イギリス医学が日本の医学の主流になるはずであった。しかし新政府の医学取調掛に任命された相良知安岩佐純は大学に基礎を置き研究活動を重視するドイツ医学の採用を主張、佐藤尚中ら医学校(大学東校)・大病院の他の幹部もポンペボードウィンなどドイツ医学の影響下にあった長崎派の蘭方医学の流れの中に育ったためイギリス医学に格別の親近感を持っておらず、さらに大学南校教師フルベッキも「現在の医学の主流はドイツ医学である」と助言した。これに対し在野の福沢諭吉慶應義塾医学所はイギリス医学採用論を唱えていたが、大学東校では彼らの反対論を押し切りドイツ医学の採用が決定された。これにともない1871年夏にはドイツ人軍医のミュラーホフマンが大学東校の教師として来日した。


大学東校を免職となったウィリスは鹿児島藩に受け入れられ、1869年12月開設された西洋医学所(翌年「鹿児島医学校」と改称)に赴任、ここで高木兼寛らに医学と英語を教授し、経験科学的なイギリス医学の流れを伝えた。

校地の変遷と継承
当初の校地は旧医学所から継承した下谷御徒町に所在していた(湯島にある大学(本校)から東に位置しており、これが「校」の名の由来となった)が、のち病院の所在地であった神田和泉町(現在の秋葉原駅北東)に移転した。さらにより広い校地(および病院用地)を求めて上野(現在の上野恩賜公園)に土地を取得、1873年より移転のための基礎工事を開始したが、同地の文部省移管が取り消されたため頓挫(東校の御雇い外国人教師ボードウィンの反対論が影響したとされる)、この代替地として本郷本富士町の加賀藩上屋敷跡が提供され、1876年東京医学校は現在の東京大学龍岡門付近に移転、これが現東大本郷キャンパスの端緒となった。


本郷移転時(1876年)に新築された擬洋風建築の東京医学校本館(現在の東大病院外来棟付近に位置)は、1923年(大正12年)の関東大震災により(旧)東京大学以来の本郷校地の建造物がほとんど全半壊するなかで大きな被害を免れ、その後、小石川植物園に移築されて東京大学総合研究博物館の「小石川分館」として使用、東大の中では最古の建築物として現存している(東京大学の建造物#小石川植物園の建造物参照)。なお、神田和泉町のかつての校地は現在三井記念病院敷地となっている。

関連文献
大学校も参照のこと。

単行書
・梶田昭 『医学の歴史』 講談社学術文庫2003年 ISBN 4061596144

・寺崎昌男 『東京大学の歴史:大学制度の先駆け』 講談社学術文庫、2007年 ISBN 9784061597990

天野郁夫 『大学の誕生(上):帝国大学の時代』 中公新書2009年 ISBN 9784121020048


事典項目
・小林哲也 「高等教育〈学制期〉」「東京医学校」 『日本近代教育史事典』 平凡社1971年

関連項目
エルヴィン・フォン・ベルツ:外国人教師。

慶應義塾医学所

長崎医学校
(wikiより)

222a





歌舞伎作者・河竹黙阿弥(1816~1893)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、かぞえて二十歳のとき五世・鶴屋南北に入門、七十八歳で没するまでに三百六拾篇にのぼる作品を残した。


天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴ってこの地に移り住んだのは、弘化年間三十歳ごろから明治二十年、本所南二葉町いまの亀沢に隠棲するまでの約四十年間である。


宇都谷峠、十六夜清心、三人吉三、弁天小僧、村井長庵、御所の五郎蔵、髪結新三、河内山と直侍、島ちどり、魚屋宗五郎、土蜘、船井慶、紅葉狩などの代表作をはじめ、ほとんど全作品がここで書かれたのであった。


坪内逍遥(しょうよう)は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・・・・一身にして数世紀なり」と評し「日本の沙翁」とも讃えたが、馬道二丁目十二番地といったこの地が浅草寺子院正智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内の師匠」と親しまれたという。
(案内板から)

223 河竹黙阿弥

⇧ 河竹黙阿弥

223a

223b


墨田区・両国にある勝海舟生誕の地碑です。


由来碑
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。

剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。


慶応4年(1868)3月13日 高輪薩摩邸において、大総督付参謀 西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。


明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。

墓は洗足池畔に建立されている。
(石碑文より)

240 勝海舟

⇧ 勝 海舟

240a

240b


六代目・伊藤宗看門下


幼名は内藤喜三郎(または竜輔)

文化三年(1806)に尾州に生まれ安政二年(1855)12月14日、50歳で没した。

天野宗歩と同じ年に別家を許され、嘉永五年(1852)に御城将棋を初勤。

安政元年まで都合五番を指し手1勝4敗。

墓は東京・下谷阪本町の正洞院。

225a

225b


啄木ゆかりの赤心館(せきしんかん)跡

石川啄木(1886~1912)は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。

上京後、金田一京助を頼って、ここにあった"赤心館"に下宿し、執筆に励んだ。

赤心館での生活は4ヵ月。その間のわずか1ヵ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨(ビロウド)」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。

しかし、作品に書い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。

収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿"蓋平館(がいへいかん)別荘"に移っていった。

「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」(赤心館時代の作品)

文京区の琢木ゆかりの地
・初上京の下宿跡(明治35年11月~36年3月)現・音羽1-6-1
・再度上京の下宿跡(明治37年10月~同年11月)現・弥生1-8あたり
・蓋平館別荘跡(赤心館~ 明治42年6月)現・本郷6-10-12 太栄館
・喜之床(蓋平館~ 明治44年8月)現・本郷2-38-9 アライ理髪店
・周到の地(喜之床~ 明治45年4月13日死去)現・小石川5-11-7 宇津木産業
(案内板より)

248   石川啄木

⇧ 石川啄木

248a

248b


杏雲堂病院の植え込みの中に、大久保彦左衛門屋敷跡の石碑が有ります。


〇 大久保彦左衛門
大久保 忠教
(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本大久保忠員の八男。通称彦左衛門で有名。一時、忠雄とも名乗った。子に大久保忠名大久保包教大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。

生涯
永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)にて誕生。幼名は平助。


三河国の戦国大名徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世と共に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、兄たちの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信と槍を交え、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。また、兄・忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の後見を務めていたが、天正13年11月に石川数正出奔を受けて浜松城にいた忠世の代理として忠教が康国の小諸城に入って真田氏に備えている[1]


天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥・忠隣相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に同行し第二次上田合戦に加わった。


このころ、次兄の忠佐駿河国沼津城主となって2万石を領していたが、忠佐の嫡子・忠兼が早世したため、弟の忠教を養子として迎えて跡を継がせようとしていた。これに対し忠教は、「自分の勲功ではない」と申し出を固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。続けて本家の忠隣が江戸幕府内の政争に敗れ失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1000石を拝領し復帰した。


慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。寛永12年(1635年)ごろから常陸国鹿嶋茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。


寛永16年(1639年)、死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。法名:了真院殿日清。墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。



講談・講釈の中の忠教
・俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。


・忠教自身、自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実ではあるらしい。


・いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子・河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。


・なお、鳶ヶ巣砦の攻撃を忠教の初陣としているのも講談での脚色の可能性が高い。

登場作品
大久保彦左衛門を題材とした作品
・テレビドラマ

 ・『彦左と一心太助』(TBS1969年 - 1970年、演:進藤英太郎

 ・『大久保彦左衛門 (テレビドラマ)』(関西テレビ1973年、演:進藤英太郎

 ・『天下御免の頑固おやじ 大久保彦左衛門』(TBS1982年、演:森繁久彌

 ・『江戸の大騒動-太助・家光・彦左-』(CX1982年、演:東野英治郎

 ・『遊の人・天下の御意見番大久保彦左衛門』(TBS1991年、演:森繁久彌

・小説

 ・『彦左衛門外記』(山本周五郎著、新潮社

その他の作品
・テレビドラマ
・『家光が行く』(NTV1972年、演:ハナ肇
・『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(TBS1973年 - 1974年、演:片岡千恵蔵
・『徳川三国志 (テレビドラマ)』(NETテレビ1975年、演:辰巳柳太郎
・『将軍家光忍び旅』(テレビ朝日、1990~1993年、演:神山繁
・『家光謀殺 三代将軍に迫る謎の暗殺軍団!』(ANB1995年、演:金田龍之介

脚注
1. 鈴木将典「依田松平氏の信濃佐久郡支配」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9

関連項目
大久保氏
幸田町 - 忠教をゆかりの人物として掲げ、毎年7月末に「彦左まつり」と呼ばれる歩行者天国の祭りを開催している。
大久保彦左衛門 (テレビドラマ)

外部リンク
大久保氏系譜

大久保彦左衛門忠教の年表[リンク切れ]

大久保忠教の墓『歴史写真. 大正10年2月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)
(wikiより)

224  大久保彦左衛門
⇧ 大久保彦左衛門

224a

224b



雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。

通称は源次郎。雲浜は号である。

若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化十二年(1815)六月七日生まれ、のち祖父の生家・梅田氏を継いで改姓した。


朱子学を修め、大津、京都で師弟を教える。

嘉永五年(1852)幕府を批判したため小浜藩を追放される。

しかし藤田東湖(とうこ)・佐久間象山(しょうざん)・高杉晋作らと交際し、尊王攘夷論を唱え、梁川星巌(やながわせいがん)とともに在京志士を指導した。


その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老・井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(1858)の「安政の大獄」で捕らえられた。

翌六年九月十四日、小倉藩・江戸邸の獄中で病没。

遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(1862)現存の墓石が建てられた。

墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。

〇 梅田雲浜
梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日1815年7月13日)- 安政6年9月14日1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。

生涯
文化12年6月7日(1815年7月13日)、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。


はじめ藩校・順造館天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の大老井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。


捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らず、安政6年9月14日(1859年10月9日)に獄中で病死した。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある。


雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。

実業家としての側面
幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて「大困窮進退是れ谷(きわ)まり、一歩も動き候事も出来がたく候」と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており「暮し向き裕かで、訪客絶えず」と評されるほど成功した[1]。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。

辞世の歌

 ・君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

登場する作品
テレビドラマ
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演者:きたろう

関連項目
安政の大獄

出典
1. 服部之総「志士と経済」(1934)『黒船前後・志士と経済』所収、岩波文庫、1981年

外部リンク
梅田雲浜 | 近代日本人の肖像国立国会図書館
(wikiより)

108 梅田雲浜

⇧ 梅田雲浜

201b

201c

201a

201d

201e

201f


藤井 尚弼(ふじい なおすけ、文政8年11月11日1825年12月20日) - 安政6年9月1日1859年9月26日))は、江戸時代末期(幕末)の地下人藤井総博の子。


生涯
文政8年(1825年)、藤井総博の子として誕生。


西園寺家諸大夫として仕えた。


天保13年(1842年)に従六位下但馬介に叙され、天保14年(1843年)に但馬守となり、家督を継ぐ。


弘化3年(1846年)には治部大丞となり、安政4年(1857年従五位下となる。


尊皇思想に厚く志士たちと多く交流した。


そのために安政5年(1858年)、江戸幕府による安政の大獄によって捕えられ、翌安政6年(1859年)、江戸小倉藩邸に送致される。その中で重度の脚気に冒されて獄死した。


関連項目
安政の大獄
(wikiより)

201b

201c

201a

201g

201h

201i


↑このページのトップヘ