本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2019/05

御墓は寛政 9年 ( 1797年 )、夛少庵連中建立。

碑面には

   住すてゝあたら庵や山さくら
   朝日からおもひかけなし郭公
   名月やはしめて高き秋の空
   揚簀戸のひとり下りけり雪の暮


『玉兎集』


多少庵秋瓜 ( たしょうあん - しゅうか )
 ( ? - 1790 ) 江戸時代中期の俳人。

江戸の人。


はじめ佐久間柳居 ( りゅうきょ ) に学び、のち柳居の弟子・古川太無 ( たいむ ) の門人となる。
 
寛政 2年 2月 11日死去。

別号に止弦、松籟庵。


句集に「多少庵句巣」、編著に「もゝとせ集」など。


〇 佐久間柳居
佐久間柳居 ( さくま-りゅうきょ )
 ( 1686 - 1748 ) 江戸時代中期の俳人。

貞享 ( じょうきょう ) 3年生まれ。

幕臣。


貴志沾洲 ( せんしゅう ) の門にはいるが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞 ( そうずい ) らと「五色墨」をだす。


のち中川乙由 ( おつゆう ) の門下となり、蕉風 ( しょうふう ) の復古をこころざし、松尾芭蕉 ( ばしょう ) の五十回忌に俳諧 ( はいかい ) 集「同光忌」を撰した。


延享 5年 5月 30日死去。63歳。


名は長利。通称は三郎左衛門。別号に松籟庵、長水、眠柳など。

〇 古川太無
古川太無 ( ふるかわ-たいむ )
 ( ?-1774 ) 江戸時代中期の俳人。


常陸 ( ひたち ) 水戸の人。

佐久間柳居の門人。


芭蕉 ( ばしょう ) 資料を模刻した「鹿島詣 ( かしまもうで )」、撰集「星なゝくさ」などをあらわす。


安永 3年 10月 22日死去。


別号に秋瓜、吐花、義斎、松籟庵 ( しょうらいあん )( 2代 ) など。

606a

606b

606c


初代・柳家紫朝 ( やなぎや - しちょう )
明治 6年 9月 9日 ~ 大正 7年 5月 12日 ( 1873 - 1918 )
    
新内・粋曲・音曲・都々逸の名人。

富山出身。本名、尾山亀次郎。


幼年期に失明し、東京に出て初代・富士松紫朝に師事。


地方巡業中に 4代目・柳亭左楽に惹かれ明治 29年 ( 1896 ) に柳派に加盟し、3代目・柳家柴朝として出演。

柴 ( しば ) の字を使用していたが、大正に入り紫にした。


なお、初代・富士松紫朝から数えると3代目。


吉井勇が柳家紫朝について歌った歌に下記がある。
    
         ああ紫朝この世をなげく人びとの ためにうひへてあるや夜毎に

     盲目の紫朝の声もさびしかり 寄席の木戸吹く秋の風にも

     秋の夜に紫朝を聞けばしみじみと よその恋にも泣かれぬるかな


〇 初代・柳家紫朝

柳家 紫朝(やなぎや しちょう)は新内粋曲音曲都々逸名跡。2代目(富士松紫朝から入れると5代目になる。)死去後は空き名跡となっている。


初代との関係は初代と2代目の祖父が正式な弟子ではなかったが稽古を付けてもらっていた。


・初代 富士松紫朝(1826年6月19日 - 1902年3月1日) - 九州久留米出身。

盲人ながら安政年間から幕末明治の初年にかけて初代富士松魯中の門人で、寄席で新内語りとして人気を得た。

三遊亭圓朝の「朝」はこの紫朝に因んだものという。後に弟子に紫朝を譲り自身は紫翁となり久留米に隠居した。

尚同じ新内の名跡で富士松ぎん蝶と混合されやすく富士松紫蝶と表記されることがある。本名:佐藤 竹次郎。


603a

603b


山田数馬 ( やまだ - かずま ) 
文政 11年 8月 10日 ~ 明治 10年 8月 20日 ( 1827 - 1877)


忍藩 3代藩主・松平忠国時の家老・大参事・埼玉県士族。

父、山田半右衛門。


江戸馬場先忍藩邸に生まれる。


33歳のときから松平忠国の執政を 9年勤める。


大政奉還後、忍藩大参事を廃藩置県まで 3年勤める。


以後、隠居して敢えて交接を好まず読書自楽に過ごす。


東京根津西須加街 13番地にて没する。49歳。


601a

601b

601c


角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。

東岡は至時の号である。


至時江戸時代中期の暦学者。


明和元年 ( 1764 ) 十一月、大阪御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。


名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。


十五歳で父の職を継ぐ。


性来、数字・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。


ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。


寛政七年 ( 1795 ) 改暦の儀が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富 ( はざま・しげとみ ) とともに

天文方に抜擢され、同九年「寛政暦」をつくる。


一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。


その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。


文化元年 ( 1804 ) 一月五日、四十一歳で肺患のため没した。


著書に『赤道日食法』等がある。

(案内板より)


〇 高橋至時
高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日1764年12月22日) - 享和4年1月5日1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。

生涯
麻田剛立に師事
明和元年(1764年)、大坂定番同心の家に生まれた。字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門[1]安永7年(1778年)15歳の時、父である高橋徳次郎元亮の跡を継いで大坂定番同心となった[1][2]天明4年(1784年)、同心永田元左衛門清賢の娘である志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保、2年後に景佑が生まれ、その後にさらに3人の子をもうけた。


幼いころから算学に興味をもっていた至時は、天明6年(1786年)ごろ、松岡能一に算学を学んだ[注釈 1][3]。そして暦学を学ぶため、天明7年(1787年麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。


当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦13年(1763年)に起きた日食の予報を外してしまっていた[4]。一方でこの日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いたうえで、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった[5]。至時はこの剛立のもとで、同じころに入門した間重富とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で剛立や重富と暦学の議論を行うほどであった[6]


当時至時らが暦学を学ぶ際に参考にしていたのは、授時暦貞享暦などの日本・中国の暦法、および『暦算全書』、『天経或問』といった書物だった[6]。そしてその中でも重要視されたのが、『暦象考成上下編』であった。


『暦象考成上下編』は、何国宗・梅殻成らによって編纂された、西洋の天文学をまとめた書で、天体の運動についてはティコ・ブラーエによる円軌道を基軸としている。ところがその後、間重富は新たに『暦象考成後編』を入手した。本書は書名こそ同じ『暦象考成』であるが、著者も内容も異なるため、実質的には「上下編」とは別の書である[7]。『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、円軌道ではなく、ヨハネス・ケプラーの唱えた楕円軌道で説明していた。この理論は当時の日本人にとっては革新的であり、かつ難解でもあったが、至時は剛立・重富と共に取り組んだ研究の結果、この理論を習得することができた[7]。こうして至時らの天文学の知識は当時の日本では他を抜きんでたものになってゆき、その評判は広く知られるようになっていった。

寛政の改暦
寛政7年(1795年)、至時は重富とともに、幕府から、改暦を行うための出府を命じられた[注釈 2]。至時は同年4月に江戸へ赴任し、4月28日に測量御用手伝、11月14日幕府天文方となった。一方で、10月には妻の志勉が29歳で死去した[8]。志勉は下級武士で薄給だった時代の至時を支え、家計をやりくりしながら至時の観測道具代を捻出しており、その良妻ぶりは後の世にも知られるようになる[9]。至時はこの後再婚することはなかった[10]


寛政8年(1796年)に至時は正式に改暦の命を受けた。そして9月に江戸を出て10月からは京都にて観測及び改暦作業に当たった[11]。これは、当時の改暦は京都の土御門家が形式的な責任者となっているため、改暦作業には土御門家の協力と承認が必要だったためである[11][12]。改暦に当たっての資料としては『暦象考成後編』を活用したが、同書には太陽系の5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の運動についての記述がなかったため、それらについては『暦象考成上下編』を参考にした。また加えて、麻田剛立によって理論づけられた消長法(太陽などの運動が年月を経るごとに少しずつ変化してゆくという説)も採用した[13]


寛政9年(1797年)10月、「暦法新書」8巻が提出され、至時らは改暦作業を終えた。この新暦は寛政暦と名付けられ、寛政10年(1798年)より施行された[11]。寛政暦は実質的に至時と重富の2人が中心となって作った暦であるが、2人は天文方となってから日が浅かったため、他の天文方、あるいは土御門家や陰陽頭らとの見解と折り合いをつけなければならず、至時らの理論が十分に生かされなかった部分もあった[14][15]

至時と忠敬
改暦のために江戸に向かった数か月後、至時の元に伊能忠敬が弟子入りを求めて訪れた。至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えた。至時は毎日天体観測に熱を入れる忠敬を「推歩先生」と呼んだ[16]


忠敬は緯度1に相当する子午線弧長を求めることに興味をもち、それは至時の関心事でもあった(詳細は後述)。忠敬は深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量しその値をもとに大まかな値を求めたが、至時は、そのような短い距離で求めても意味がないと応じた。そして、正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと述べた[17][18]


この事がきっかけとなり、忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながった。至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には忠敬に助言を与えたりするなど、測量事業を支援した[19][20]

改暦後
改暦のために在京していた時から、至時の健康状態は勝れず、たびたび激しい咳をしていた[21]。改暦後も、咳は持病であると自ら称していて、体調の悪い日は外出できず、時には10日間臥せっていたこともあった[21]。現在では、このころから至時は結核を患っていたと推定されている[22]


このような状態であったが、改暦を成し遂げた至時の評判はますます高まり、幕府からの信頼も厚くなった。そのため至時は、改暦をつかさどる土御門家とのやりとりや、その他の雑務に追われるようになった[23]。さらに、前述のように、寛政暦は至時にとって満足のゆくものではなかったため、暦学の研究も続けた[24]


享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じた。このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだ[25]。病気がちのなか、時には徹夜して研究を続ける至時に対し、間重富は、あなたの身には暦学の興廃がかかっているのだから、病気の時は休養に専念するようにとの手紙を送っている[26]。翌享和3年(1803年)には体調は回復し、全快ともいえる状態になった[26]

晩年
至時は、前野良沢司馬江漢らと交流し、研究のために西洋の天文書を入手しようとしていたが、専門的な書物の入手には至らないでいた[27]。しかし享和3年(1803年)、若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられることになった。これを手にした至時は、「実ニ大奇書ニシテ精詳ナルコト他ニ比スヘキナシ」[28]と、同書の優れていることにすぐさま気付いた。さらに、この書を読み解けば、『暦象考成後編』には記されていなかった5惑星の運動などについても理解することができると感じ、解読につとめた[22]


『ラランデ暦書』は個人の所有物であったため、十数日後に所有者の元へと戻された。しかし至時は幕府に対し、同書を買い上げるよう強く求め、同書は7月に至時を含む幕府の天文方3名に下附された[29]


至時は日夜研究を続け、『ラランデ暦書』を元にして自らの見解を書き加えた『ラランデ暦書管見』の執筆に取り組んだ。この期間に残した研究のための稿本は、およそ2000ページ(1000丁)にもなる[30]。しかし寝食を忘れるほど熱心に注ぎ込んだ研究は、いったん回復傾向に向かっていた至時の体調を再び悪化させた。そして『ラランデ暦書』を手にした半年後の文化元年(1804年)に死去した[26]。享年41。遺体は上野源空寺に葬られている。

死後
至時の死後、『ラランデ暦書』の研究は天文方によって続けられ、文政9年(1826年)、『新巧暦書』としてまとめられた。『新巧暦書』の編集にあたっては、至時の『ラランデ暦書管見』も参考にされた[31]


伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった[32]。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため[33]、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている[34]


至時の長男である景保は至時の死後、後継として天文方に任命された[35]。そして『ラランデ暦書』の翻訳事業や忠敬の測量事業にも関わった[31][36]が、シーボルト事件により文政12年(1829年)に獄死した。


次男の景佑は天文方として『新巧暦書』の編集にかかわり、その『新巧暦書』を元にした天保暦の作成にあたっても中心的な役割を果たした[31]

詳しいことは、「高橋至時ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%87%B3%E6%99%82
(wikiより)


596 高橋至時

⇧ 高橋至時

596a

596b


依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海天保4年11月24日1834年1月3日) - 明治42年(1909年12月27日)は、日本の漢学者文芸評論家小説家劇作家幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。朝宗(ともむね)。初め百川(ひゃくせん)といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。

『学海日録』の著者。漢文の作文、特に記事文に優れ、その著作『譚海』は、菊池三渓の『本朝虞初新誌』と並び称される。森鷗外の師としても知られ、鷗外の『ヰタ・セクスアリス』の文淵先生のモデルでもある。

来歴
下総国佐倉藩藩士で長柄奉行を務めた依田貞剛の次男として佐倉(現在の千葉県佐倉市)に生まれる。長じて藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で漢学経史を学ぶ。明治5年(1872年)、東京に出て、東京会議所の書記官になる。明治14年(1881年)には権少書記官として文部省に出任し、音楽取調掛となり、また漢文教科書の編集に携わる。


明治18年(1885年)、文部省を退官、正六位に叙される。退官後は創作や文芸評論に力を注ぐ。


森鷗外
に漢文を指導し、鷗外のベルリン留学に際しては『送森軍医遊伯林序』を贈った。鷗外との交流は、その小説『百物語』や『ヰタ・セクスアリス』に描かれており、特に『ヰタ・セクスアリス』の中で主人公(=鷗外)が15歳のときに漢文を教えてもらう「文淵先生」は、この学海がモデルとなっている。


鷗外の他にも多くの文学者と交流があり、幸田露伴文壇に送り出した[1]川田甕江とは同門で甕江が死去するまで親しく交際した。


演劇では、川上音二郎のために『拾遺後日連枝楠』(しゅうい ごにち れんしの くすのき)という歌舞伎がかった壮士史劇を書いたこともあったが、九代目市川團十郎演劇改良運動に賛同する知識人のひとりとして歌舞伎の近代化を目指し、いわゆる活歴物の創作に協力、『吉野拾遺名歌誉』(よしの しゅうい めいかの ほまれ)などを書いている。自ら文化人を自負する学海は旧来の狂言作者を無学の俗物と見下しており、河竹黙阿弥のことまでも「馬鹿」と酷評したこともあったぐらいだが、その黙阿弥の書いた『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)で、主人公の宗五郎が最愛の妹を殺されて禁酒を破り酔態に陥ってゆくくだりを目の当たりにすると、「あのようにはなかなか書けるもんじゃない。やっぱり奴は天才だ」と賞賛している。


明治42年(1909年)、死去。享年77歳。


長男の依田美狭古(みさご)は第一高等中学校医学部(現・千葉医科大学)進学後病気療養となり、海軍史の編纂に携わった[2]。甥に歌人の依田秋圃がいる。

主な著作
・戯曲

 ・歌舞伎『吉野拾遺名歌誉』(よしの しゅうい めいかの ほまれ)- 川尻宝岑との合作、明治19年(1886年)

 ・歌舞伎『文覚勧進帳』(もんがく かんじんちょう)- 新歌舞伎十八番之一、明治22年(1889年)

 ・歌舞伎『豊臣太閤裂封冊』(とよとみ たいこう れっぽうさく)- 川尻宝岑との合作、明治23年(1890年)

 ・壮士劇『拾遺後日連枝楠』(しゅうい ごにち れんしの くすのき)- 川尻宝岑との合作、史劇、明治24年(1891年)

 ・壮士劇『政党美談淑女操』(せいとう びだん しゅくじょの みさお)- 現代劇、明治24年(1891年)


・著書

 ・『譚海』(3巻)

 ・『談叢』(2巻)

 ・『話園』(博文館、1893年)

 ・『学海日録』 同研究会編、(全11巻別巻1:岩波書店、1990~93年)

 ・『菊水源流』(「依田南朝」という筆名で『少年世界』に連載)

 ・『墨水別墅雑録』 今井源衛校訂、(吉川弘文館、1987年)

 ・『富士艦迴航』

 ・『学海画夢』

 ・『学海余滴』 学海余滴研究会編、(笠間書院、2006年)

全著作・自筆日記など資料が一括して、「学海叢書」として無窮会専門図書館に所蔵されている。

参考文献
・昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 第10巻』昭和女子大学光葉会、1958年

戸板康二編『明治文学全集 85 明治史劇集』筑摩書房、1966年、ISBN 4480103856

秋庭太郎編『明治文学全集 86 明治近代劇集』筑摩書房、1969年、 ISBN 4480103864

・学海日録研究会編『学海日録』岩波書店、1990~1993年

・依田学海作品刊行会編『依田学海作品集』依田学海作品刊行会、1994年

白石良夫『最後の江戸留守居役』筑摩書房〈ちくま新書〉、1996年、ISBN 4480056742

 ・白石良夫『幕末インテリジェンス-江戸留守居役日記を読む』新潮文庫、2007年、ISBN 9784101328515

・学海余滴研究会編『学海余滴』笠間書院、2006年、ISBN 4305703009



補注
1. 「露伴の出世咄」、『思い出す人々』(内田魯庵、岩波文庫)所収。
2. 依田美狭古のアルバムより 明治中期の千葉町風景千葉いまむかし30号、p35、1990年3月

関連項目
新劇

明治政府の修史事業

市川九女八 - 守住月華という別名を与え、本人やその弟子たちに漢学を教えた
(wikiより)




582 依田學海

⇧ 依田學海

582a


広津 柳浪(ひろつ りゅうろう、1861年7月15日文久元年6月8日) - 1928年昭和3年)10月15日)は、日本小説家肥前国生まれ、本名直人、別号に蒼々園。硯友社同人となり、「残菊」で認められる。「変目伝(へめでん)」「今戸心中」「黒蜥蜴」などの低階級社会の暗部を描いた作品で、「悲惨小説」、「深刻小説」と称された。小説家の広津和郎は子。

生涯
肥前国長崎材木町に、「富津南嶺」と名乗って開業していた久留米藩士・医師広津俊蔵(のち弘信に改名、外交官となる)、りう(柳子)の次男として生れた。幼名は金次郎。少年時より漢籍を学び、軍記物読本などに熱中した。


9歳の時に、狼藉を犯して父から切腹を命じられたが、伯母サワが嫁いでいた肥前国田代在酒井村(現・佐賀県鳥栖市)の磯野に取りなされて磯野家に預けられ、姫方村の塾で漢学などを学んだ。2年後久留米を経て長崎に帰り、1873年(明治6年)に長崎市向明学校に入学。翌年一家が東京麹町に移ったため、番町小学校に入り、好成績で卒業。外国語学校でドイツ語を学び、東大医学部予備門に入った。だが1878年(明治11年)、肺尖カタルを病み、そのまま退学する。この年の春、父の友人五代友厚にさそわれて大阪へ行き、見習いとして五代家に居候することになった。結果、農商務省の官吏となったが、それよりも『南総里見八犬伝』『水滸伝』などを読み、文学へ興味を示し、役人になる気が無く免職になる。1883年に父母が亡くなり、没落、放浪する。


1887年(明治20年)、友人の画家・山内愚仙の勧めで処女作「女子参政蜃中楼」を、柳浪子と号して『東京絵入新聞』に連載する。1888年、蒲池鎮厚の娘寿美子と結婚、博文館に入り尾崎紅葉を知ると、硯友社同人となり「残菊」で認められた。『東京中新聞』、『都新聞』、『改進新聞』などを転々とし、「おのが罪」などを発表。1891年(明治24年)には和郎が生れている。1895年頃から客観描写に力を入れ、「変目伝(へめでん)」を『読売新聞』に連載、「黒蜥蜴」(1895年)などで下層社会の悲惨な実態を描く独自の作風を築き、川上眉山泉鏡花などの観念小説に対して、「深刻小説」、「悲惨小説」と呼ばれる[1]。さらに写実的な心理描写を強め、「今戸心中」(1896年)、「河内屋」(同)、「畜生腹」(1897年)などで評価を高め、樋口一葉と並ぶ評判を得る。


1898年に寿美子死去、同年永井荷風入門。1902年、高木武雄の娘潔子と再婚。1904年頃に若手を集めた同人誌「にひしお」を始め、自身も日露戦争で兵士を送る民衆を描いた「昇降場」を執筆。1908年長編「心の火」を『二六新報』に連載した後、創作活動は低調になり、1911年に創作活動は停止した。


1913年に家賃を滞納して霞町の借家から追い立てられ、麻布に移るが、この頃和郎の訳した『女の一生』が売れて、生活苦からは救われる。翌年結核で名古屋の兄のところで療養することになり、和郎に生活のために『毎夕新聞』への就職を世話する。1915年に和郎の紹介で、実業之日本社から作品集「柳浪傑作集」を出して生活費に充て、知多半島師崎の病院に移る。翌年和郎が片瀬に移ると、夫妻でそこに同居。1928年、数年来の肺病の上に心臓麻痺のため大森区馬込の自宅で死去した。戒名は蒼々院釈績文柳浪居士[2]

作品
「河内屋」について雑誌『めざまし草』の「雲中語」欄で、幸田露伴は「底光りする」文章に「我が敬服するところ」と評し、森田思軒は「雲中語有て以来はじめて観る所の佳作」と激賞した。これらいわゆる悲惨小説は、その後の自然主義小説に影響を与え、また実在社会への着眼は社会小説への機運に繋がった。

著作リスト
・女子参政蜃中楼 大原武雄 1889(明治文学全集)
・花の命 吉岡哲太郎 1889.11
・絵姿 / 広津蒼々園 中央新聞社 1891.10
・おのが罪 吉岡書店 1892.12
・五枚姿絵 春陽堂 1892.4
・いとし児 春陽堂 1894.6 (文学世界)
・落椿 精完堂 1894.4
・狂美人 金桜堂 1894.12
・畜生塚 今古堂 1894.1
・変目伝 1895.2『読売新聞』 - 神田淡路町の洋酒店埼玉屋の主人伝吉は、二十七八歳で、身長は3尺そこそこ、左の目尻から頬にかけて火傷のひっつりがあり、一寸法師、蜘蛛男、変目伝(へめでん)とよばれている。伝吉はそのくやしさに人一倍働き、信用も得て、いちはやく店も持たせてもらい、小使いもつかい、相応の暮らしをしている。老母は、早く結婚して初孫を抱きたいと希望するが、伝吉は寂しい微笑でこたえる。伝吉がひそかに妻にと望んでいるのが、猿楽町の薬種屋仁寿堂の主人の妹、ことし17歳のお浜。開業以来のお得意として出入りするうちに、お浜がいつも笑顔で迎えるのを自分の可笑しさのためとも知らず、店を手伝う主人の従弟定二郎からいたずらでお浜にも気があると言われ、真剣に恋する。定二郎に意中を打ち明け、仲立ちをたのみ、機嫌取りにたびたび料理屋にさそう。定二郎はそのたびでたらめの色よい返事ばかり、伝吉の弱みにつけ込み、吉原に引き出したり、小遣いを借りたり。伝吉の貯金もなくなり、商売にも差し支え、店を抵当に高利のかねを借り、期限が来ても返すあてはない。伝吉は知り合いの質屋の番頭常蔵に融通をたのむと、仁寿堂が保証にたつならばと言われる。定二郎に、主人に願ってくれるように頼み、それを取り次がないうちに、期限の日が来る。伝吉は窮余の策でかねを出させようと常蔵を小料理屋で酔い潰して承知させようとし、かなわず、吉原に連れ込んで遊ばせた帰途、吉原田圃で手拭いで絞殺してかねを奪う。やがて伝吉は捕らえられ、そのときもまだ定二郎の言葉を信じている。母と女房、約束してあるお浜は何も知らないからお慈悲を願いますと係官にそればかり。仁寿堂の主人はふびんに思ってお浜の名前でささやかな差し入れをさせ、伝吉はそれを手にしてうれし泣きに泣く。
・黒蜥蜴 1895.5『文藝倶楽部』 - 大工与太郎は、仲間からぐず、交際しらずと、言われ、ののしられるが、養父吉五郎のふきげんな顔を見るのがいやで、いくら働いても飲んだくれの吉五郎の酒代に追いかけられる。二十五六で一人前の腕前になり、棟梁は結婚をすすめてもことわられ、吉五郎に会いむりやり承知させる。しかし1人目、2人目、3人目と6人目まで妻は30日と居つかないで暇を取るが、それは舅の不倫な仕打ちのせい。与太郎が、父に迫られて結婚したのが7人目のお都賀、ひどい醜婦で、吉五郎は「半目の蟾蜍(はんめのひきがえる)」とののしりながら、魔の手をのばそうとする。お都賀は夫の優しい愛情にすがり、逃げ出しもせず、つらくあたる吉五郎に仕える。子供もでき、吉五郎の不機嫌は頂点に達し、お都賀の唯一の慰めは子供の笑顔、忍苦の日々を過ごす。ある日井戸端の世間話で「亭主投げるにゃ、どの手がよかろ、青い蜥蜴に蠅取蜘蛛混ぜて」という昔からの小唄を聞き、自分の思いに毒矢のように突き刺さる思いでぞっとする。その四五日後、与太郎が深夜に帰宅すると、父吉五郎が吐血して死んでいるかたわらには、お都賀の遺書が遺されていた。
・葉山嵐 / 蒼々園 今古堂 1895.10
・河内屋 1896.3『新小説』 - 神田明神下、町内の資産家重吉の住居の軒燈には、河重とある。そこには、30歳前の主人重吉、妻お染19歳、重吉の弟清二郎22歳が住んでいる。お染は清二郎と結婚するはずであったのに、お染の姉で重吉と結婚するはずであったお久が病死したため、両家の相談で、お久のかわりに重吉と結婚した。清二郎は、お染を兄重吉にとられてばかばかしくくやしく、両親が死に、兄重吉の家で毎日お染の顔を見るようになってなおさらである。お染も不本意、悲しさが外に現われ、病気がちであるから、重吉は結婚生活の面白くなさに、弟清二郎と妻お染との仲までうたがい、下谷の凄腕の女お弓にはまり、家に引き入れようとする。お弓は芸者に出ていたころ、清二郎に会って胸を焦したこともあり、河内屋に乗り込む気になる。ある夜、お弓は清二郎に酒をすすめて言い寄り、むげにはねつけられる。以来、重吉とお弓はお染をさらにはげしく虐げるようになり、お染は断食して死をまつようになり、清二郎はいっそのことお弓の意にしたがって駆け落ちして兄夫婦の和解をはかろうと、酒の力を借りてお弓の閨に忍び込むと、居ないと思った重吉がそこに枕を並べていて、清二郎は泥棒と間違えられて、仕込杖で追われる。とっさに手にしたそろばんで防ぐひょうしに、重吉を打って昏倒させ、立ち騒ぐお弓を蚊帳ごしに切りつけ、お染の部屋に行く。幼時から相思相愛の2人は、はじめてはばからずに手を取り合い、心中をとげる。
・段だら染 春陽堂 1896.12
・一人娘 春陽堂 1896.4
・異り種 春陽堂 1897.1
・女馬士 春陽堂 1898.3 (春陽文庫)
・心中二つ巴 駸々堂 1900.10
・摺上川 金桜堂 1901.10
・明治才子久松幹雄 日吉堂 1901.6
・乱菊物語 春陽堂 1902.12
・あやめぐさ 春陽堂 1903.8
・柳さくら 駸々堂 1904.1
・目黒巷談 今古堂 1905.6
・仇と仇 / 広津柳浪(直人) 隆文館 1905.12
・をとこ気 隆文館 1905.1
・絵師の恋 春陽堂 1906
・河内屋 春陽堂 1906.6
・自暴自棄 春陽堂 1906.9
・二筋道 今古堂 1905-1906
・めなみ男波 堺屋石割書店 1906.5
・横恋慕 今古堂 1906
・形見の笄 春陽堂 1907.11
・世間 祐文社 1907.6
・姫様阿辰 春陽堂 1907.12
・松山颪 隆文館 1907.8
・復讐 今古堂 1907-1908
・人 金尾文淵堂 1910.1
・変目伝 新潮社 1918
・紫被布 天佑社 1919 (明治傑作叢書)

死後刊行
・今戸心中 1951 (岩波文庫)

・河内屋・黒蜴蜒 1952 (岩波文庫)

・明治文学全集 広津柳浪集 筑摩書房 1965.5

・定本広津柳浪作品集 紅野敏郎、広津桃子編 冬夏書房 1982.12

・明治の文学・広津柳浪 筑摩書房 2001.10

詳しいことは、「広津柳浪ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B4%A5%E6%9F%B3%E6%B5%AA
(wikiより)


580 広津柳浪

⇧ 広津柳浪

580a


ながむとて 花にもいたし 頸の骨 宗因

花の雲 鐘は上野か 浅草か    芭蕉

ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角


江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。


・西山宗因
慶長十年 ( 1605 ) 肥後 ( 熊本県 ) の生まれ。

後、大阪に住み談林の俳風を開く。

この句は『新古今集』にある西行法師の和歌「ながむとて 花にもいたく…」からとった句。

天和二年 ( 1682 ) 没。


・松尾芭蕉
正保元年 ( 1644 ) 伊賀 ( 三重県 ) の生まれ。

数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。

芭蕉俳諧を樹立。

元禄七年 ( 1694 ) 大阪で没。


・榎本其角
寛文元年 ( 1661 ) 江戸に生まれる。

芭蕉十哲の一人。

のち芭蕉を脱し、その一派の傾向は、洒落風などともいわれた。

宝永四年 ( 1707 ) の没。


碑は文化六年 ( 1809 ) の建立。

台石には明治二十七年(1894)春の移築の由来が記されている。
(案内板より)


589a

589c

589b


日本の創作舞踊の創始者・石井漠

明治十九年秋田に生まれ昭和三十七年一月七日に昇天するまで、近代バレエの創造 浅草オペラの旗挙げ、三百数曲の創作舞踊など、芸術活動は誠に偉大でありました。


舞踊生活五十年の山坂道を失明にあえぎながら登りつめた不滅の魂を記念するために、実妹・栄子と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻み石井漠を愛した多くの人々や八重子未亡人の哀悼の念を永久に伝えようとするものです。


題字 谷崎潤一朗 彫刻 船越保武
設計 谷口吉郎  施行 清水建設
(碑文より)


〇 石井 漠
石井 漠(いしい ばく、本名:忠純1886年12月25日 - 1962年1月7日)は、日本の舞踊家ダンサーである。いずれも作曲家の石井歓石井眞木は息子、石井五郎は弟。また舞踊家の石井登は孫、石井武は曾孫である。

来歴・人物
1886年秋田県山本郡下岩川村(のちの山本町、現三種町)に生まれた。下岩川小学校時代、吃音の友人の口真似をしているうちに自らも吃音となる(これは終生改まらなかった)。1906年に秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)のストライキに連座して同校を退学になり、小坂鉱山の庶務課に勤務するも長続きせず1909年に上京。押しかけ弟子として大町桂月小松耕輔の門を叩いたが受け容れられず、同郷の小杉天外の書生となる。このころ、中村武羅夫加藤武雄と交際し、加藤の勧めで吃音矯正のため伊沢修二の楽石社に通ったが挫折。やがて天外の家を出て三島霜川の家の居候となり、小説の修業をしたが自らの文学的才能に見切りをつけ、三島の家に同居したまま帝国劇場管弦楽団の団員見習いとなる。しかし、帝国劇場から貸与されたヴァイオリンを三島により無断で入質された上、そのことが帝国劇場側に露見したため、2ヶ月で見習いをクビになる。三島の家を出た石井は友人の水守亀之助加藤武雄の家に転がり込んで生活していたが、1911年、帝国劇場の歌劇部開設に伴い、見習い第1期生として歌劇部に入部。三浦環に美声を認められ帝劇歌劇で活躍したが、ロンドンから招聘したイタリア人指導者ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーから暴行を受けて[要出典]帝劇を去り、以後は浅草オペラなどで活躍した。大正時代、欧州や米国に渡り、現代舞踊を研究。「モダン・ダンス」の先覚者となる。黎明期の宝塚歌劇団等の指導も経て、作曲家・山田耕筰らと組んで1916年に舞踊詩運動を起こすなど[1]、日本人にとっての新しい舞踊という境地を大きく切り拓いた。


1921年、ドイツに渡る。


1923年4月 ベルリンの「ブリュトナー・ザール」で舞踊家としてデビュー。

マリー・ヴィグマンのノイエタンツを学び、チェコ、ポーランド、フランス、ベルギー

米国で公演。 


1927年3月25日公開、直木三十五監督映画『一寸法師』(脚本:直木三十五、共同監督:志波西果、原作:江戸川乱歩、製作:連合映画芸術家協会)に出演。


1928年、自由が丘に石井漠舞踊研究所を開設[2]


1942年11月5日夜、日比谷公会堂において、舞踊生活30年記念公演として高村光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊を発表する。作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手による[3]


1955年
、栄典制度改正により新設された紫綬褒章の第1号受章者となった。主な弟子に大野一雄崔承喜石井みどりらがいる。


慢性甲状腺炎のため、1962年1月7日に東京神田の杏雲堂病院で死去。75歳没。

エピソード
・終戦直後の門下からは、女優の松島トモ子らを輩出。稽古場で撮影された映画館用ニュース「小さな豆バレリーナ」に写っていた当時4歳の松島トモ子を、阪東妻三郎がスカウトした話は有名。多数の門下生の中、女優では黒柳徹子も在籍していたことがある。

・漠は東京都目黒区にある「自由が丘」の地名の名付け親でもあり、女神像の台座には、当時の関係各位の熱望により、漠の書が刻まれている。

・一番弟子である石井みどり(本名・折田ハナ)は、1913年宇都宮生まれ。宇都宮高等女学校卒業後、1930年に石井漠舞踊研究所へ入門し、1936年石井みどり舞踊研究所を設立。戦前は北支南方へ渡った経験もあり、1946年に設立された芸術舞踊家協会常任理事、全国舞踊コンクール審査員などを務めた。[4]

参考文献
・中曽根松衛『音楽界戦後50年の歩み』p.219-225(芸術現代社、2001年)

・Yukihiko Yoshida Lee Tsia-oe and Baku Ishii before 1945: Comparing the origin of modern dance in Taiwan and Japan. Pan-Asian Journal of Sports & Physical Education, 2011

脚注
1. 石井漠 舞踊詩と展開片岡康子、1989年度秋季第28回舞踊学会『舞踊學』13-1号
2. 現在の石井漠記念バレエスタジオ。石井早苗主催[1]。現在では創立80年になり、バレエ教室激戦区の自由が丘にあって、突出した伝統あるバレエスタジオとして、クラシックバレエを基礎とし、モダンバレエ、創作バレエ、キャラクターダンス、民族舞踊などを幅広く取り入れ、石井漠の精神を受け継ぐ。
3. 高村光太郎全集』別巻 筑摩書房、1998年
4. 石井みどり『国際芸能人名鑑花形スタア1000人集1954-55年版』

関連項目
大野一雄

谷桃子 (バレエダンサー)

アキコ・カンダ

外部リンク
Baku Ishii - インターネット・ムービー・データベース(英語)

石井漠メモリアルホール 三種町山本ふるさと文化館内

石井漠『日本歌劇俳優写真名鑑』歌舞雑誌社、1920年
(wikiより)


585   Baku_Ishii_01

⇧ 石井 漠

585a

585b

585c

585d

585e


木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。


木下は明治 13年 1月 16日に42歳で没し、鷹羽は明治 44年 6月 6日に 69歳で生涯を閉じた。


この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

〇 木下福治郎
木下福次郎 ( きのしたふくじろう )
生年 : 不明。
没年 : 不明。
享年 : 不明。


元  : 木下家へ養子に入り、柳河藩の家臣となる。
流派 : 不明。かなりの剣の使い手であったと言われる。
容姿 : 上原仙之助の実兄というからには美丈夫だったと思われ…。
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺?


上野彰義隊時代:兵隊組頭八番隊隊長
箱館彰義隊時代:頭取
箱館新政府時代:彰義隊差図役頭取
上原仙之助の実兄。
上野戦争では兵隊組頭八番隊隊長を勤めた。


そもそも彰義隊八番隊は天野が気に入ったものを集めた隊だった上に、剣の使い手ばかりが揃っていたと言われる。


木下はその中でも隊長を勤めていた。


天野八郎は仙之助と共にこの兄弟を深く信頼し、潜伏中などは、福次郎に「七郎」と名乗らせるなど、ほとんど義兄弟のようにしていたと伝えられる程であったと言う。


上野戦争当日は天野と共に八番隊隊士を従え黒門口へ向かい、最後まで奮戦した。


上野敗戦後は実弟の仙之助と共に、再起を謀る為に奔走するも、天野捕縛により、仙之助ら他の隊士と榎本艦隊に加わる。


戊辰戦争後、明治3年4月に謹慎を解かれた時、静岡藩に引き渡される者と、東京に行く者に別れたようだが、その時、木下は静岡藩引渡しとなり、彰義隊の静岡藩行き取締役となった。


〇 上原 仙之助
上原 仙之助 ( うえはらせんのすけ)
生年 : 不明。
没年 : 不明。
享年 : 不明。
改名 : 鷹羽玄道


元  : 養子に入り柳河 12万石立花飛騨守鑑寛の家臣となるが、脱藩。
流派 : 不明。
容姿 : 島原はおろか江戸中の女性たちから「仙さま」と呼ばれ、絶えず付け文をされるほどの美丈夫。
18歳の時、養子先の上原家の養母に惚れられ、逃げる為に江戸へ出たとも言われている。


性格 : 才知縦横の快男児。
墓所 : 東京都荒川区南千住一丁目の円通寺?


上野彰義隊時代:本営詰組頭
箱館彰義隊時代:組頭
箱館新政府時代:彰義隊差図役
上野彰義隊兵隊組頭八番隊隊長・木下福次郎の実弟。


実の兄・木下の進退に同感し、柳河藩を脱藩して彰義隊に入り、丸毛と同じく、本営詰組頭に就任する。


史料によると上野戦争当時の年令は、20歳前(17歳位?)だったと思われる。


彰義隊時代、朝帰りの途中で官軍と真正面から鉢合わせても、決して道を避けようとはせず、あえて中央へ立ちふさがり、そのまま官軍の隊を真っ二つに割って最後列まで通り抜けてしまったり、兄に代わり八番隊を率いて市中見回り中に、官軍の巡邏隊と遭遇したおり、官軍の隊長が当時の流行り唄をもじって、「徳川武士箱詰にして、吉原通いがしてみたい」と仙之助らを罵ったが、仙之助は颯爽と鉄扇を広げ、「来る官軍首斬りつくし、五月葵の花が咲く」と、みごとに切り返し、官軍側を意気消沈させてしまったと言う。


上野戦争では八番隊として黒門口で戦い、上野敗戦後も、 仙之助は敗北感にとらわれる事なく、髪を剃って黒染の衣の托鉢僧に化け、仏前への読経を依頼されても、経文では無く、粋な清元の「梅の春」の一節を平然と読吟して切り抜けるなど、その他、医師に化けたりして、白昼道々と天下の往来を闊歩した。


そして再起を謀るべく、百七十人もの同志との連絡を取ることを成功させ、どのように資金を作ったのか、市内数カ所に居酒屋を設けて、同志達を分宿させて、隠れ家とさせた。


しかしその後、天野が捕縛されると、丸毛らと共に榎本艦隊に加わる。


この時、名を鷹羽玄道と改める。


箱館戦争では箱館総攻撃の日に負傷して前線撤退し、病院送りとなる。


そのおかげか、箱館弁天台場などでの禁錮生活はまぬがれたようである。


その後、鷹羽玄道の名で下谷二長町で有名な鍼医に。


丸毛靱負とは生涯付き合いがあったと言われる。


574a


関東大震災の時、五大橋中 ( 江戸時代の隅田川には、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住大橋が架設されていて、五大橋と呼ばれていた )、焼失をまぬがれた新大橋の橋上で難を免れた人々が新大橋避難記念会を組織し、満 10回目に当たる昭和 8年 9月、この碑を建立した。


碑は、新大橋のふもと、橋を正面に見て左側の派出所のすぐ下の道路沿いの、高速道路の真下に窮屈そうに建っていた。

想像以上に大きく、背面には浄財寄贈者の氏名がぎっしりと書かれている。


〇 「人助け橋」のいわれ ( 画像-2 )

大正十二年 ( 一九二三 ) 九月一日、突如として起った関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。


しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬかれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。


そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。


なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。


一身を顧みず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。

 ( 裏 )
東京都建設局
昭和五十二年三月二十七日
(碑文より)


575a

575b


2代目 桂 三木助(2だいめ かつら みきすけ、1884年11月27日 - 1943年12月1日)は、大阪落語家。本名: 松尾 福松。享年59。

人物
大阪生まれ。1894年1月、2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門、子役として桂手遊(おもちゃ)を名乗り、同年2月、桂派金沢亭で初高座。1904年に入営、日露戦争に従軍後、1906年に帰国し、「滑稽ホリョー踊り」なる演目で高座に復帰。同年11月27日真打で2代目三木助を襲名。


1911年、賭博が過ぎて借金を作り桂派に居られなくなり互楽派に身売りし七五三蔵の名で出演し支度金で返済しようとしたが桂派から苦情が出て、仕方なく兄弟子の初代桂小南を頼り上京(支度金は初代桂ざこばが支払った。)。4代目橘家圓喬門下で橘家三木助を名乗り、三遊派の各席に出席するが、1916年に帰阪し三友派に加わり、後に吉本興業の大看板として名を馳せた。


持ちネタは膨大で、神戸湊川の寄席で3年間真打を勤めた時、一度も同じ噺を掛けなかったという。東京時代に人情噺に傾倒したことから、帰阪後も笑いを取るネタより、むしろ『立ち切れ線香』『菊江仏壇』『ざこ八』『箒屋娘』『抜け雀』など、はめ物を極力抑えた東京風の演出による素噺を得意とした。時折り東京弁が混じったり、上方情緒を失ったりと、賛否両論はあったが、3代目三遊亭圓馬とともに東西落語に精通した名人として上方落語が衰微して行く中、その実力を謳われた。


晩年は群舞中で耳を悪くしている。墓所は台東区長久寺。


SPレコード
は『丁稚芝居』『三年酒』『宿屋仇』『動物園』『鮑のし』『みかん売り』『お伊勢道中』『無筆な犬』等がある。


弟子には、3代目桂三木助、桂小半(後の3代目立花家千橘)、9代目桂文治桂三木丸剣舞源一馬らがいる。8代目林家正蔵(林家彦六)は、大阪を訪れた際に三木助から『ざこ八』や『莨の火』などを教わっている。


肖像の写真が数枚残されており一枚は日露戦争に従軍時の軍服姿の写真と晩年頃の着物姿の写真が残されている。

出典
・『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)

・『古今東西噺家紳士録』

関連項目
桂三木助
(wikiより)

594 二・桂三木助

⇧ 二代目・桂三木助

594a

594b


人見 勝太郎(ひとみ かつたろう、天保14年9月16日1843年10月9日) - 大正11年(1922年12月31日)は、日本武士幕臣)、官僚政治家実業家。維新後は(やすし)と名乗る。雅号は梅坪。

略歴
天保14年(1843年)、二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞(御家人10石3人扶持)の長男として京都に生まれる。慶応3年(1867年)12月に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたる。


鳥羽・伏見の戦い
においては、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張する。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原韮山箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡る。


箱館戦争においては、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇、峠下の戦いに参加。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃に際しては七重浜に出陣、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦ったが負傷、箱館病院に入院。5月18日、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩(旧小倉藩)に預けられたものの、翌明治3年(1870年)に釈放。五ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊している[1]


維新後は、明治4年(1871年)、静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任。

明治9年(1876年)に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。明治10年(1877年)、群馬県官営工場所長、明治12年(1879年に)茨城県大書記官、翌年には茨城県令を務める。その後は実業界に転じて、明治20年(1887年)に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立、初代社長に就任。その他、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与している。


明治30年代よりたびたび「旧幕府」主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残している。大正11年(1922年)、死去。享年80。

辞世の詩

箱館戦争において、1869年5月11日、七重浜の戦いに臨む前に詠んだもの[2]


   幾萬奸兵海陸来

   孤軍塲戦骸成堆

   百籌運盡至今日

   好作五稜郭下苔

登場作品

中村彰彦『遊撃隊始末』

富樫倫太郎土方歳三 蝦夷血風録』三部作(『箱館売ります』『松前の花(旧題『美姫血戦)』『神威の矢(旧題『殺生石』)』)、『土方歳三』

東郷隆『坐視に堪えず』(『我餓狼と化す』収録)

北原亞以子『歳三からの伝言』

秋山香乃『伊庭八郎凍土に奔る』

脚注
1. 好川・近江(2007)
2. 

好川・近江(2007)

参考文献

・好川之範・近江幸雄編『箱館戦争銘々伝 上』p243-255、新人物往来社、2007年。ISBN 978-4-404-03471-7

中村彰彦『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』洋泉社、2017年

外部リンク

遊撃隊長・人見勝太郎 市史余話48(函館市中央図書館)2014年4月13日閲覧

人見寧と薩摩2013年12月26日閲覧
(wikiより)


598 人見勝太郎

⇧ 人見勝太郎

598a

598b

598c

598d


大関 和七郎(おおぜき わしちろう)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。桜田門外の変井伊直弼襲撃に参加した桜田十八士の1人である。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる[1]


弘化3年(1846年)に叔父である大関恒右衛門増賀の養子となって150石の家督を継いだ。安政2年(1855年)に馬廻組に任命され、安政5年(1858年)には大番組に編入される。安政6年(1859年)に戊午の密勅が下ると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、商人に変装して名も酒泉好吉と改めて江戸に潜入する[1]


安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変では大老・井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取ったが負傷したため、肥後熊本藩の江戸藩邸に自首する。後に越中富山藩邸、更にその後但馬豊岡藩邸に拘禁された[1]


文久元年(1861年)7月26日に幕府の評定において死罪となり、斬首された。享年26。明治時代になってから正五位を追贈された[1]

脚注
1. a b c d 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社1988年) 391頁参照。

参考文献
・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902
(wikiより)


591 大関和七郎

⇧ 大関和七郎

591a

591b

591c


秋葉大助(あきば だいすけ)は、明治大正期の発明家実業家


略歴
初代である父の名を、二代目である子(養子)が襲名している。初代、二代目ともに人力車製造業を営み、改良・普及に努め、海外への輸出も行い、東京銀座にあった「秋葉商店」は当時の人力車のトップメーカーであった。


その普及度は日本国内全域、海外は天津上海香港、卑南(台湾)に輸出し、アフリカザンジバル島まで達していたという。(出典「最新実業界の成功者」鈴木貞次郎編 精華堂(明治41年)国立国会図書館所蔵)

秋葉商店は大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受け、人力車の需要も減少していたことから廃業した。

初代秋葉大助(1843年7月 - 1894年6月9日
江戸生まれ。人力車の製造許可を得た高山幸助の組合に加入して人力車の製造した。

明治10年(1877年)に第一回内国勧業博覧会に人力車を出品し鳳紋章を受賞、明治23年(1890年)東京諸車製造組合総代に就任、明治24年(1891年)諸車製造業幹事に就任。
(wikiより)


592a

592b

592c

592d

592e


小花作助 ( 1829 ~ 1901 ) は江戸幕府の幕臣、はじめ作之助と称し、明治に入って作助と改めている。


幕末の文久元年 ( 1861 ) 十一月には小笠原島開拓御用を命ぜられ渡航し、一年半にわたり現地にとどまり、その支配にあたっていた。


明治維新後は新政府に仕え、明治九年 ( 1876 ) 十二月には小笠原島内務省出張所の初代所長を命ぜられ着任。


囲碁、三ヶ年にわたり在島し、小笠原の初期島治に尽力した。


彼は小笠原諸島の歴史を正しく理解する上で欠くことのできない人物で、その墓は旧態をよくとどめている。


指定面積、一・六一九平方メートル。


なお、小花作助関係の遺品 ( 所有者 小笠原村 ) は彼の事績を裏付け、小笠原初期島治の実態を明らかにできる貴重な資料として、東京都有形文化財 ( 歴史資料 ) に指定されている。
(案内板より)


法名「寮源院殿誠惠忠士大居士」

〇 小花作助
小花 作助(おばな さくすけ、文政12年2月24日1829年3月28日) - 明治34年(1901年1月17日)は、江戸幕府旗本は邦孚、号は白香。小花万次は長男。

経歴
尾張藩信濃国木曽に幕府旗本の子として生まれる。文久元年(1861年)小笠原島開拓御用を命ぜられ、外国奉行水野忠徳と共に咸臨丸小笠原諸島の諸島に渡島し、同地の地勢や戸口を調査した上で、住民に対して日本領であることを宣言し、領有の基礎を築いた。水野らの内地帰還後も、八丈島からの移民約30名と共に、約1年半にわたり父島にとどまり、その支配にあたる。同3年(1863年)外交方針の転換に伴い、幕命により引き揚げる。


慶應
元年(1865年外国奉行柴田剛中(貞太郎)が特命理事官としてフランスイギリスに派遣された際に随行。この一行には、塩田三郎福地源一郎岡田摂蔵らが加わり、翌年帰国。慶応3年(1867年外国奉行支配調役、慶応4年(1868年)町奉行支配調役となる。


明治新政府に出仕し、東京開市場御用掛となる。明治2年(1869年)東京開市場調役、東京府権大属。明治5年(1872年)東京府権典事。明治8年(1875年)内務省地理寮7等出仕、工部省の「明治丸」で小笠原諸島を再調査した。


明治9年(1876年)内務省権少丞となり、明治9年(1876年)には内務省小笠原島出張所の初代所長を命ぜられ着任。以後、3年にわたり在島し、島民の日本帰化を促進し、小笠原の初期島治に尽力した。

関連項目
松濤権之丞

著作

・「小笠原島在勤筆記」

・「小笠原島略記」

参考文献

谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 小花作助

・『人物レファレンス事典 明治・大正・昭和〈戦前〉編』日外アソシエーツ 2000年
(wikiより)


586 小花作助

⇧ 小花作助

586a

586b


於奈津の方 ( 於夏の方 )
天正九年 ~ 万治三年 ( 1581 ~ 1660 )


父親は伊勢北畠氏の旧臣であった長谷川藤道。


兄の藤広が家康公に仕えていた関係で慶長二年 ( 1597 ) に十七歳で召し出され、家康公の寵愛を受けた。


又、藤広とともに外国貿易にも関与している。


そんな於奈津の方は、同じく金銭感覚にも長けていた於梶の方 ( 於勝の方 ) とともに、四百万両を閉まった金蔵の鍵を預けせれもした。


於梶の方と於奈津の方は駿府城での乱費を防ぎ、家康公の期待に大いに応えたという。


家康公没後は落飾して清雲院と称し、江戸城三の丸に住み、賄料五百石を与えられている。


明暦元年 ( 1655 )、幕府の内意により一族の三郎左衛門藤該を養子として一家を創立している。


於奈津の方は万治三年 ( 1660 ) に八十歳で没した ( 家康公が没した時は、三十五歳 ) のだが、世は既に、四代将軍の時代となっていた。


於奈津の方はたった一人残った家康公の側室ということで、晩年は大事にされたという。


581a


重野 安繹(しげの やすつぐ、1827年11月24日文政10年10月6日) - 1910年明治43年)12月6日[1])は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人[2]通称は厚之丞。は子徳、は成斎、曙戒軒鞭。安繹は「あんえき」とも[3]

生涯
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在坂元村生まれ。


1839年
天保10年)、薩摩藩藩校造士館に入学。1848年嘉永元年)、江戸昌平黌の生徒になり、塩谷宕陰安井息軒などの教えを受ける。1857年(安政3年)に薩摩に帰国するが、同僚の金の使い込みにより奄美大島遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。1863年文久3年)に赦免されて薩摩に戻り、翌1864年元治元年)に造士館史局主任に就任、島津久光の命により『皇朝世鑑』を著す。


岩下方平らとともに薩英戦争の戦後処理に辣腕を発揮し維新後は外務職を勧められたが学界に進んだ。1868年(明治元年)に大坂に移り、私塾成達書院を開いた。成達書院の門下生に岩崎弥之助がいる。


1871年(明治4年)に上京し、1875年(明治8年)以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。

1879年(明治11年)、帝国学士院会員。1881年(明治14年)、『大日本編年史』編纂に参加した。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。しかしこのような主張は川田剛国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させ、のちの久米邦武筆禍事件の原因の一つとなった。1888年(明治21年)、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任、その翌年には「史学会」初代会長に就任。


この間、1879年(明治12年)の東京学士会院創設とともに会員となり、漢文訓読を廃し音読による中国語教育の水準向上を主張した。また同年来日した清国の洋務派知識人の王韜との交遊を契機に、翌年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。


1889年(明治22年)近代実証史学の立場から『赤穂義士実話』を著す。それまであった赤穂浪士寺坂信行逃亡説の証拠を論破し、逆に彼が討入に参加した証となる史料を提示した。それ以来、寺坂逃亡説は口にする者が減ったとされる。


1890年(明治23年)、星野恒久米邦武と共に『国史眼』を執筆。同年9月29日には貴族院勅撰議員となった[4]。しかし1892年(明治25年)の久米邦武筆禍事件の影響で重野は翌年に帝大教授を辞職、修史事業も中止された。


1902年
(明治35年)3月24日、錦鶏間祗候となる[5]。1910年(明治43年)、83歳で没。墓所は東京都台東区谷中霊園


養女の尚は大久保利通長男利和に嫁ぐ。


著書に、『成斎文初集』『成斎文二集』『成斎先生遺稿』があり、『重野博士史学論文集』全3巻補巻1冊も刊行されている。また、書状等が坂口筑母によって『重野成斎宛諸家書状』『稿本・重野成斎伝』としてまとめられ、国立国会図書館に所蔵されている。

人物
小柄だが、身だしなみにうるさく、頭髪や髭も白髪混じりを良しとせず、しばらく染めていた[6]。また、弁がたち、訛りの多い薩摩弁を避けていたが、訛りは抜けなかった[6][7]。演説する場合は、人名、地名、年代、数字などを記したものを講演後に必ず速記者に渡した[7]。隠居を嫌い、100歳まで生きるつもりで日々衛生に心がけていた[7]。24歳より冷水養生法を毎朝実行し、老人になってからも健康で目も耳もよく、眼鏡なしでも7号の活字が読めた[8][9]。また、冷水養生法の前に4kmの散歩も日課としていた[8]

詳しいことは、「重野安繹ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8E%E5%AE%89%E7%B9%B9
(wikiより)


578 重野安繹

⇧ 重野安繹

578a

578b



松平太郎(まつだいら たろう、天保10年(1839年) - 明治42年(1909年5月24日[1]は、幕末幕臣。陸軍奉行並。いわゆる「蝦夷共和国」において副総裁を務めた。名は正親。正七位。


577   Bakushin

⇧ 右から2人目が松平太郎。他は大関増裕勝海舟稲葉正巳石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。


生涯
岩津松平家の血を引くとされる幕臣・松平九郎左衛門親似(150俵)の子に生まれ、江戸の仏学者・村上英俊の塾に入門する。幕府では文久年間には奥右筆、慶応3年6月には外国奉行支配組頭となりこれを務めた。


慶応
4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介榎本武揚らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出し、今市にて大鳥と合流、軍資金を届けている。その後会津戦争で敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡った。

「蝦夷共和国」副総裁
蝦夷地占領後に行われた「公選入札」(選挙)において榎本に次ぐ得票を得て、箱館政権における副総裁に就任した。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を務める。榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と言われ、人望は厚かった。明治2年(1869年)5月の新政府軍の総攻撃の際には、奮戦するも敵わず、18日に降伏した。


戊辰戦争後
6月7日の五稜郭開城後、榎本らと東京に護送され、榎本や大鳥らと同様、東京辰ノ口糾問所に禁固。明治5年(1872年)に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任ぜられて箱館在勤を命じられたが、翌年には辞した。


その後は三潴県権参事を経てロシアのウラジヴォストーク外務省7等出仕して派遣されたが、ほどなく退職。現地で貿易商、中国で織物業などを営むが、商売人としての才能に欠け、いずれも失敗、流浪の日々を送る。晩年は妻と子に先立たれ、弟小六郎とともに榎本の保護下で生活していたと言われている。


明治42年(1909年)、伊豆賀茂郡の湯本屋で病死。死亡日は5月24日の他に25、26日説がある。享年71。

人物

・「蝦夷共和国」幹部の中でも明治期に不遇だったせいか、榎本や大鳥に比べると知名度は劣るものの、大変有能だったとされる。江戸開城の前後にも官軍に対して面従腹背の態度を取って、これを翻弄した。また銀座などから、100万両もの軍資金を押収することに成功した[2]。しかし戦局の悪化からか、大部分は散逸したり官軍に奪い返されたりしたのだが、20万両前後は大鳥に渡すことができた。流浪の集団である伝習隊がその後1年もの間、維持できたのは彼の功績が大である。


・松平を尊敬していた法学者の高木正次が、松平太郎の名を襲名した。

脚注
1. 忌日は『明治維新人名辞典』による。
2.  [1]函館百珍と函館史実ペテンをやった松平太郎

参考文献

・『続徳川実紀

・『国史大辞典

日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。ISBN 978-4642031141

関連項目
幕府陸軍

外部リンク
松平太郎の手紙
(wikiより)


577 松平太郎

⇧ 松平太郎

577a




文正元年 ( 1466年 ) 悪疫鎮静の神として鎮座。


太田道灌公の崇敬篤く、社名も公が名づけたといわれる。

宮元小網町の名は神社にちなんで定められた。


ご神徳は、現在の日本橋地区の繁栄が示す通り、社運隆昌・商売繁昌と、明治期以後の戦時期に当神社の神守を身につけて戦地へのぞむ者すべてが、無事帰国したことから強運厄除の信仰がおこり現在ますます盛んになっております。
 
正月初詣・大祭 ( 5月 28日 )・東京銭洗い辨財天大祭 ( 10月 28日 )・東京下町の奇祭どぶろく祭 ( 11月 28日 ) は特に賑わいます。


これらのご祭儀に、ご神徳にちなむ強運厄除守・下町のみみずく・茅の輪守が授与されます。


特に下町のみみずくは、秋の七草の一つ、すすきの穂を素材に霊鳥みみずくを形づくる為、どぶろく祭と正月初詣にのみ授与されます。
 
猶、現社殿と神楽殿は、尾洲総檜造りで、重厚な彫刻が施され、中央区文化財であります。


572a


江戸時代初期、新和泉町 ( 人形町三丁目 ) のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。


岡本玄冶 ( 一五八七 ~ 一六四五 ) は京都に生まれ、医術を曲直瀬 ( まなせ ) 道三 ( 玄朔 ) に学びました。


元和九年 ( 一六二三 )、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。

後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。


三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修諸家譜』には、寛永十年 ( 一六三三 )、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。


岡本玄冶の拝領屋敷は『寛保沽券図』によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。


当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。


玄冶は正保二年 ( 一六四五 ) に没し、広尾の祥雲寺 ( 渋谷区 ) に葬られました。


玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐 ( じょこう ) が脚色し、嘉永六年 ( 一八五三 ) に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店 ( 玄冶店 ) の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。
(案内板より)


〇 岡本玄冶
岡本 玄冶(おかもと げんや)は、江戸時代前期の医者。名は宗什、のち諸品と改める。

生涯
幼いころより医書を学んだが、慶長7年(1602年)から曲直瀬玄朔の門下となり、慶長15年(1610年)には学頭となって後身への教授を行うようになった。後に玄朔から著書と共に奥義を唯一伝授され、啓迪庵の号を許された。また晩年の徳川家康に謁見している。元和4年(1618年法眼に叙任。


元和9年(1623年徳川秀忠家光が上洛した際にこれに仕え、家光に従って江戸に下向した。寛永2年(1625年)家光の日光社参に従った際、家光が喉を病んだ事があったが、薬を処方して平癒させている。寛永4年(1627年)からは隔年で江戸に出仕し、寛永5年(1628年)秀忠の推薦で法印に叙され、また院号を許されて啓迪院と称した。寛永10年(1633年)秀忠が病に侵された際、他の侍医が匙を投げる中でこれを平癒させた。寛永13年(1636年徳川和子に病があった際に上洛した。この時、京都朝鮮通信使の三使と交流があり、以後も文通を行っている。また京都所司代板倉重宗とも親しかった。寛永14年(1637年)家光の病を平癒させたため、翌年に山城国葛野郡武蔵国都筑郡に1000石を与えられた。


以後も江戸と京都を往復し、洛中では天皇の診療をする事もあった。また江戸では日本橋北に屋敷を持ち、後の玄冶店の語源となった。家督は子の玄琳が継承。著書に「灯下集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方規矩」などがある。

出典

・「寛政重修諸家譜」巻第593

・『国史大辞典』第2巻(吉川弘文館1980年
(wikiより)


570    岡本玄冶

⇧ 岡本玄冶

570a

570b


手前が初代・曾我廼家五九郎こと武智故平の顕彰碑 昭和 38年11月5日建立


円形の上部に五九郎が好きだった「群盲撫象」の文字と「のんきな父さん」の像が描かれている。五九郎は大正から昭和にかけて活躍した浅草の喜劇王


後ろが永生の壁 昭和 40年建立


昭和 39年日本の芸能団が招かれて訪中、日中友好の端緒を作りました。


さらなる友好と世界の平和を祈って文人・芸能人の約 300人が思い思いのことを書き連ねています。


例えば、フランキー堺は「私は貝になりたい」と、碑名「永生之碧」は当時の中国政府指導者の一人郭抹若氏から寄せられたました。

〇 曾我廼家五九郎
曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 - 1940年7月7日[1])は、日本の喜劇俳優。本名は武智 故平(たけち こへい)[1]。大正時代にの浅草の「喜劇王」としてしられた[2]


武智鉄二の父とは従兄弟どうし[3]。またフランキー堺は五九郎の甥にあたる[4]

人物・来歴
1876年(明治9年)4月12日徳島県吉野川市鴨島町に生まれる[1]


角籐定憲
[5]川上音二郎[5]福井茂兵衛[5]などの壮士芝居(新派の前身)の一座を経て、満31歳を迎える1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗った[1]


1910年(明治43年)には横田商会1912年(明治45年)には吉沢商店の初期のサイレント映画に主演している。特に後者は東京・浅草公園六区に吉沢商店が経営していた浅草帝国館で公開されている。同年春に独立し同地帝国館にて一座を構える、このころから川上貞奴小山内薫歌舞伎二代目市川左團次の自由劇場などの影響を受け、自らの一座に女優を積極に出演さたり、喜劇にオペラの要素を取り入れた「五九郎ミュージカル」を公演するなどその後の喜劇に大きな影響を与えた[5]、同年、横田商会と吉沢商店は合併して日活を設立した。

また、劇場どうしの引き抜き合戦の影響で、五九郎の一座は分裂、「〆太郎」と名乗っていた男が、曽我廼家五一郎と改名して、分裂した一座の座長となった[6]


満41歳を迎える1917年(大正6年)、同年にオープンした東京・浅草公園六区の観音劇場の経営を根岸興行部に任され、一座で公演する[1]。このころ、浅草の通俗教育昆虫館の経営を支援し、建替え資金を供出している。

1925年(大正14年)、満49歳のころ、麻生豊の漫画『ノンキナトウサン』を映画化した畑中蓼坡監督の『ノンキナトウサン 花見の巻』、小沢得二監督の『ノンキナトウサン 活動の巻』に主演、浅草の日本館等で公開され人気を得た。トウサン役は五九郎の当たり役となった[1]。同作は、小説家の直木三十五(当時・直木三十三)の経営する聯合映画芸術家協会が製作したもので、翌年には直木と提携するマキノ・プロダクション牧野省三らの監督した『山賊』にも主演し、一座で出演している。同作は、牧野と提携していた高松豊次郎の経営する浅草の大東京で公開された。五九郎の一座には、武智豊子(1923年入団)、伴淳三郎(1931年入団)らがいた。


1940年(昭和15年)7月7日、死去した[1]。満64歳没。弟子の「一二三」が、「二代目五九郎」を襲名した[7]


出身の吉野川市鴨島町鴨島鴨島駅前に五九郎の碑がある。

フィルモグラフィ

・おとし穴 : 監督不明、横田商会、1910年 - 主演

・干魚 : 監督不明、横田商会、1911年 - 主演

・挨拶違ひ : 監督不明、吉沢商店、1912年 - 主演

八公 : 監督桝本清沢田プロダクション / 松竹キネマ、1925年 - 主演・八百八役

ノンキナトウサン 花見の巻 : 監督畑中蓼坡聯合映画芸術家協会、1925年 - 主演・ノンキナトウサン役

ノンキナトウサン 活動の巻 : 監督小沢得二、聯合映画芸術家協会、1925年 - 主演・ノンキナトウサン役

山賊 : 監督マキノ省三富沢進郎橋本佐一呂、聯合映画芸術家協会、1926年 - 原作・主演 喜多八役

娑婆の風 : 監督内田吐夢日活太秦撮影所、1929年 - 主演

ルンペンとその娘 : 監督城戸四郎松竹蒲田撮影所、1931年


1.
a b c d e f g 曾我廼家五九郎、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2009年11月22日閲覧。
2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
3. 左本政治『かべす』(六芸書房)P.235
4. 左本政治『かべす』(六芸書房)P.235
5. a b c d 『大阪お笑い学―笑いとノリに賭けた面々 (なにわ雑楽誌)』P126(持田寿一1984年新泉社
6.
左本政治『かべす』(六芸書房)P.220
7. 左本政治『かべす』(六芸書房)P.234

外部リンク

Gokurô Soganoya - インターネット・ムービー・データベース(英語)

曾我廼家五九郎, 曽我廼家五九郎 - 日本映画データベース

曾我廼家五九郎, 曽我廼家五九郎 - allcinema ONLINE
(wikiより)


588a

588b

588c

588d

588e

588f

588g

588h

588i

588j

588k

588l

588m

588n

588o


6月25日 ( 土 ) 元麻布、専称寺にて「第 37回沖田総司忌 ( 午前 11:00 ~ 12:00 )」が有るので行ってきました(毎年何かしら用事が出来て行けませんでした。

塀越しに撮影していたら隣に若い女性が来て、沖田総司の御墓に向かい 涙目になりながら何やらおしゃべりをされていました


墓参 15分前には、100人ぐらいのが並んでいたためか 時間を繰り上げての墓参が始まりました。


〇 沖田総司
沖田 総司(おきた そうじ、天保13年(1842年)? - 慶応4年5月30日1868年7月19日)は、幕末武士新選組一番隊組長及び撃剣師範本姓藤原を称した。は春政、後に房良(かねよし)。幼名宗次郎

生涯
生い立ち

陸奥国白河藩藩士江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭・沖田勝次郎の息子(長男)として、江戸白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)で生まれたとされる。専称寺の過去帳では「沖田林太郎次男」となっている[1]。母の名前は不詳だが、実家については日野在住の千人同心宮原家の出身という伝承がある[2]


生年については天保13年(1842年)または15年(1844年)の2つの説があり、生まれた日付についても判明しておらず、夏であったということしか分かっていない。「沖田家文書」では没年が25歳とある。2人の姉がおり、沖田家は姉のみつ婿林太郎を迎えて相続させる。父の勝次郎は弘化2年(1845年)に死去した[3]ため、長男の宗次郎が元服し跡目相続すべき所、幼少のため相続出来なかった。


9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流道場試衛館近藤周助)の内弟子となり[4]、のちに新選組結成の中核となる近藤勇土方歳三とは同門にあたる。若くして試衛館塾頭を務め、安政3年(1856年)には近藤とともに調布の下仙川村に出稽古に出かけている記録が見られる[5][6]

新選組活動
文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番隊組長となる[7]。一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。この時期では同年9月芹沢鴨暗殺[8]元治元年5月20日大坂西町奉行所与力内山彦次郎暗殺[9]など手がけたという。


元治元年(1864年6月5日池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ[10]。この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれている(これには諸説あり、詳細は後述の発病時期を参照)。


慶応元年(1865年2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯切腹した[11]。沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。

病死
体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年(1867年)以降である。慶応3年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の宅を、元御陵衛士阿部十郎佐原太郎内海次郎の3人が襲撃した。前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、負傷させている。


鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も、中途での落伍を余儀なくされる。


以後は幕府の医師松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。


生年が明確で無いため、享年については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。墓所は東京都港区専称寺にある。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。

人物
剣術
9歳の頃、天然理心流道場試衛館に入門。若くして才能を見せ、塾頭を務めた。15歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている[12]。沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流免許皆伝を得ていた旨も記されている。


永倉新八
は後年、「土方歳三井上源三郎藤堂平助山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語った。[13] 実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという。沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、稽古は相当厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。


沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であり、日野の佐藤俊宣の遺談によると、平正眼(天然理心流では「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した(すなわち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていた)という。 赤間倭子によると、「山攻撃破剣」という剣法が苦手であったという。


佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声までがよく似た腹の底に響く甲高い声であったという[14]。ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりで、腹を少し突き出し気味の平正眼をとる近藤とはやや異なる構えを取る癖があるとされる。


新選組以外からの声もある。小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年7月に、「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べており[15]、新選組に批判的だった西村兼文も、「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」、「天才的剣法者」と言い[16]、さらに新選組と敵対していた阿部十郎は、「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」、「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよく使っていた」、「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」と語るなど[17]、外部からもその腕前が高く評価されていたことが窺える。


否定的見解は、千葉弥一郎(新徴組隊士で、総司の義兄・沖田林太郎の同僚)の言葉に、「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」とある。


死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたといわれるが、この話は子母沢寛による創作であるといわれる。ただし、江戸時代には、黒猫を飼えば労咳(結核)が治るとの迷信があり、病身の沖田の周囲に黒猫がいた可能性は否定しきれない。[独自研究?]

愛刀
沖田の所有したとして、よく「菊一文字則宗」の名が挙げられ、これは子母澤寛などの伝記により「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」とされていたことから広まったものであるが、則宗作の刀は、刀が常用されていた当時でさえ非常に貴重な古刀であり、大名ですら入手困難な国宝級の代物であったため、経済的にも実戦で使用する必要性からも沖田が所有した可能性はほとんど無いと推察される(菊一文字はどんなに安い物でも最低1000万円は下らないとされている)。あるいは、則宗以外にも幾つか存在した「“菊に一”の紋を打った細身の刀」の1つを使用していたのではないかとする説もある。 他には「加州清光」(打刀)や「大和守安定」(打刀)を所有していた記録があり、その中でも加州清光は池田屋事件の際に使用していたというが、戦いの最中、帽子(刃の切っ先)が折れ、その後鍛冶屋に修復を依頼したが修理不可で返却された記録がある。 沖田の佩刀に関する信憑性の高い史料は現在発見されていない。

詳しいことは、「沖田総司ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%B7%8F%E5%8F%B8
(wikiより)


597a

597b

597c

597m

597d

597e

597f

597g

597h

⇧⇩ 沖田総司の墓

597i

597j

597k

597l


東小武蔵 ( あずま - こむさし )
明治 25年? ~ 昭和 48年 2月 11日 ( 1892 ? - 1973 )


浪曲師。

本名、喜多野健太郎。

東武蔵の門下。81歳没。


584a

584b


土生 玄碩(はぶ げんせき、宝暦12年(1762年) - 嘉永元年8月17日1848年9月14日))は、江戸時代後期の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖[1]。名を義寿、幼名は久馬、はじめ玄道と称し、のち玄碩、号は桑翁、字は九如。

生涯
安芸国高田郡吉田村(現・広島県安芸高田市)の医家土生義辰の長男として生まれる。土生家は代々この地で眼科を業とした。安永7年(1778年)、17歳のとき、諸国をまわって眼科医学の知識を身につけたいと旅に出る。人づてに耳にした著名な眼科医を訪ねて教えを乞うが、当時の眼科医は徹底した秘密主義を守り、家業を継ぐ長子のみしか家伝の治療法をつたえない。やむなくに出て、漢方医学の塾をひらいていた和田泰純(東郭)について医方を修める。ここで、たまたま打ち首になった罪人の腑分に加わる機会を得た。斬首されたばかりの刑死人は内臓の後、頭部も荒々しく切り裂かれ腑分は終わるが、その折、玄碩は、特に願い出て刑死人の眼球をえぐりとってもらい自らの手でそれを解剖した。このとき、玄碩のおこなった眼球の解剖は日本の眼科医学界で初めての試みであった[2]。この後一旦帰郷するが、家伝の漢方眼科にあきたらず、再び大坂に出て三井元孺、高充国などに就き、新知識を受け大坂で開業した。ここで白内障の手術を会得し、世間一般に知られていない穿瞳術も発明した。25歳あるいは30歳で帰郷し家業を継ぐ[2]。 


享和3年(1803年)42歳のとき、広島藩藩医となる。文化5年(1808年)広島藩第7代藩主・浅野重晟の6女で南部利敬に嫁した教姫が眼病に罹り、不治とされたのを玄碩が召出され、江戸におもむき精妙な治療で全治させたことから大いに名声を得る。そのまま江戸にとどまり、杉田玄白宅に身を寄せ医学を研鑽。のち芝田町に開業し眼科医として盛名をはせた。文化6年(1809年)47歳のとき、将軍徳川家斉に招かれ、翌文化7年(1810年)2月には江戸幕府奥医師を拝命。100表5人扶持及び町屋敷を浅草平衛門町に賜り、外藩の一藩医としては異例の出世を遂げる。文化10年(1813年)法眼に叙せられ、また子の玄昌も文政7年(1824年)西丸奥医師となった。玄碩の財は莫大なものとなり、多額の金子地所を所有し、大名武家町人などにも金銭を貸し与えた。医家として最高の栄誉と富を得る身となる[2]。後に入獄した際に市村座には2630両の貸付を、菊五郎半四郎にはそれぞれ200両と150両の給金前貸があったという[3]。 


文政5年(1822年)オランダ商館付の医師として来日したシーボルトが、文政9年(1826年)江戸に寄ったとき、玄碩親子はシーボルトに眼科について質問し、白内障等の手術に瞳孔をひらく瞳孔散大薬があり、それが眼科手術に絶対に必要なものだと聞かされる[2]。玄碩は瞳孔を広げるこの薬(ベラドンナ)を分与されたが、それを使いきると再度の分与はシーボルトに断わられた。窮余の策で交換条件として、着ていた葵の紋付を差し出し頼み込んだ。紋服を外国人に贈ることは国禁であったが、同胞万民の病苦を救うためあえてこれを行う。シーボルトから日本にもベラドンナがあると聞き、江戸に帰り尾張からその植物を取り寄せ効果があることを確認。玄碩はこれを使い虹彩切開手術(白内障治療)手術に成功した。玄碩65歳のときであった。ただしこの植物はベラドンナでなく、ハシリドコロで、シーボルトの勘違いだったのだが、これがハシリドコロがベラドンナに代用された最初と言われている。このため、のち玄碩が日本の実験眼科の祖とされた。しかし、先のシーボルトに渡した紋服は、将軍から拝領の三つ葉葵の紋服であったため文政11年(1828年)、その贈与が発覚(シーボルト事件[4][5]。罪を問われ、官禄を奪われ獄に入り、晩年の大半を刑に服した。息子の玄昌は入獄は免れたものの奥医師を免ぜられた。天保8年(1837年)将軍徳川家慶の眼病によって息子の玄昌が再び召しだされ、その治療の功績によって奥医師に復帰して法眼に叙せられたのを機に玄碩も許され、江戸木場に居を構えて眼科を開業し隆盛を極めたという。87歳で没。著書に『師談録』『迎翠堂漫録』などがある。


玄碩は若い頃には傲岸な性格が災いして患者から敬遠されていたが、大坂で白内翳によって他の医師から見放された盲人の治療に成功したことで、一躍その名が知られるようになった。また、「この世で一番大切なものはお金である」と公言して憚らず、万が一に備えて油樽2本に多額の財貨を詰めて深川の水辺に秘かに沈めさせた。入獄中、家族はそこから生活費を取り出すとともに、釈放のための賄賂の原資として用いたという[3]青柳精一は江戸時代に町医者として巨万の富を築いた東西の横綱として京都の新宮涼庭とともに玄碩の名前を挙げている[3]


講談映画歌舞伎舞台などでしられる「男の花道」は、三代目 中村歌右衛門と玄碩をモデルとする眼科医・土生玄との友情物語である[6][7][8][9]。2006年には、滝沢秀明主演の時代劇ミュージカル滝沢演舞城)の演目の一つにもなっている[10]

脚注
1. 『医界風土記 中国・四国篇』 日本医師会酒井シヅ監修 思文閣出版 1994年、111頁
2. a b c d 吉村昭『日本医家伝』 講談社 1971年、81-106頁
3. a b c 青柳精一『診療報酬の歴史』 思文閣出版 1996年、152-153頁
4. 長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~第一章 近代薬学の到来期
5. 都立薬用植物園の妖精達 ハシリドコロ
6. 男の花道 | Movie Walker
7. WATCH FOR! 松竹名作劇場全国公演「男の花道」製作発表
8. 中村京蔵公式ホームページ
9. 明治座 | 2005年12月公演「第一部 男の花道 第二部 誠版レビュー 華・艶・舞
10. 『滝沢演舞城』商品の説明 内容紹介 - Amazon.co.jp

参考文献・ウェブサイト

・『日本歴史人物事典』 朝日新聞社 1976年

吉村昭『日本医家伝』 講談社 1971年

・『広島県大百科事典』 中国新聞社 1994年

青柳精一『診療報酬の歴史』 思文閣出版 1996年

土生玄碩 とは - コトバンク

長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~第一章 近代薬学の到来期

都立薬用植物園の妖精達 ハシリドコロ

もうひとつの学芸員室-医は“人”術か - 内藤記念くすり博物館

土生玄碩墓(はぶげんせきはか):中央区観光協会

土生玄碩碑(吉田町)
(wikiより)

571 土生玄碩
⇧ 土生玄碩

571a

571b

571c


伊東方成 ( いとう - ほうせい )    
天保 5年 12月 15日 ~ 明治 31年 5月 2日 ( 1834 - 1898 )

明治天皇の御典医。

相模原市上溝出身。

父、鈴木方策(長男)。号、玄伯。

番田の医師の井上篤斉に学び嘉永 2年 ( 1849 ) 江戸に出て伊東玄朴の象先堂に入門、のち万延元年 ( 1860 ) 伊東玄朴の養嗣子となり、奥医師見習いとなる。

文久元年 ( 1861 ) 30歳のとき幕命で長崎に行き、開設間もない長崎養生所で佐藤尚中・長与専斎らとオランダ軍医ボンベから西洋医学を学ぶ。

文久 2年 ( 1862 ) 幕府の海外留学生として林研海 ( 松本良順の甥 ) とともにオランダに留学し、ユトレヒト軍医学校で医学を修め、慶応 4年 ( 1868 ) 12月 4日に帰国、初めて眼球模型を持ち帰った。

同年玄朴から家督を相続し、方成と改名した。

明治 2年 ( 1869 ) 大学中博士、のち大典医。

明治 3年 ( 1870 ) ドイツに派遣され医学を学び明治 7年 ( 1874 ) に帰朝。

明治 10年 ( 1877 ) 一等侍医。

明治 20年三度ヨーロッパに派遣された。

明治 24年 ( 1891 ) 依願免官。

同時に宮内省御用掛を命じられ、明治天皇および皇太子宮嘉仁親王 ( 後の大正天皇 ) に仕えた。

明治 29年 ( 1896 ) には宮中顧問官。

4女花子は、沼間守一の養子沼間敏朗に嫁す。


565a

565b


杵屋 勝三郎(きねや かつさぶろう)は、長唄三味線方の名跡。

初代

(生年不詳 - 1858年10月19日


元祖の初代杵屋勘五郎の門弟。1840年に勝作と改名。 芝居音楽の「ネトリ」は初代の作曲と伝えられている。

2代目

1820年 - 1896年2月5日


初代の実の子。初名を杵屋小三郎。天保11年1840年に2代目襲名。日本橋馬喰町に住んでいてそこに馬場があったことと三味線と作曲の腕がまるで鬼神のようだったことから「馬場の鬼勝」と渾名(あだな)された。顔にあばたもあった。11代目杵屋六左衛門、3代目杵屋正次郎とともに作曲の三傑と言われた。俳号を東成。大薩摩初音太夫。


明治2年(1869)市村座を杵屋正次郎にまかせ、日吉吉左衛門の今様能・吾妻狂言(日吉能ともいう)に協力した。「安達原」「船弁慶」等の傑作はこの時作られた。伝承されている作品→四季の里、軒端の松、角兵衛獅子、おかる、駕籠かき、男舞、五色の糸、節小袖、棹の雫、内裏雛、都鳥、寛活鞘当、えにしの橋、うす氷、風流船揃、鞍馬山、蹴鞠、廓丹前、忍車、 菖蒲浴衣、喜三の庭、千代の寿、連獅子、草刈、たぬき、時雨西行、春の調、今様四季寿、仇名草、さざれ石、うつぼ猿、安達原、浮世一休、両国八景、安宅丸、虎狩、神前の猿、船弁慶、箱根の冨士笠。等。 森鴎外「渋江抽斎」に二代目の事が書かれている。明治29年2月5日歿。76歳。戒名は花菱院照誉東成居士。浅草(東光山松平良雲院)西福寺内真行院に葬られた。

3代目

1866年 - 1903年9月15日


2代目の実子。杵屋金次郎から杵屋小三郎を経て1892年頃に3代目襲名。幕末から明治にかけての名人。東京座の囃頭として活躍。妻は4代目勝三郎。


明治38年9月15日死去。38歳。作品は、翠簾の月、皇国光、<連獅子>間狂言「宗論」が伝承。(「三津の友」は二代目勝三郎最後の作といわれていたが、勝三郎作曲、勝作閲、の正本があるので、三代目の作と思える。)

4代目

1868年8月28日 - 1929年8月25日)本名はみつ。


東京深川区出身、幼少から市川成師に日本舞踊の稽古を習い、21歳で2代目勝三郎に入門。程なくして3代目勝三郎と結婚。1903年に夫が死去し1904年に4代目勝三郎を襲名した。1926年長唄協会相談役。人格者で明治末から昭和初期にかけて活躍。長女が6代目勝三郎、次女が5代目勝三郎。

5代目

1891年 - 1929年9月25日)本名は坂口照子。


幼少から両親に指導を受け杵屋照子の名で活躍。父没後母の名取とし門弟を多く育てた、母没後の1929年に5代目襲名するも1ヵ月後に不慮の死を遂げる。

6代目

1888年9月22日 - 1964年9月22日)本名は市村いそ。


3代目勝三郎の長女で、歌舞伎俳優3代目市村亀蔵の妻。1929年に母、妹が死去した為ほとんど修行しないまま1931年に6代目襲名。実の子が7代目勝三郎

7代目

1927年9月24日 - 2010年6月27日)本名は坂口守男。


東京の出身、父が3代目市村亀蔵、母が6代目勝三郎。1933年6月に入門、1935年長唄杵勝会で初舞台。

1940年4月に12歳で7代目勝三郎襲名。長唄の活動の傍ら1950年慶應義塾大学経済学部卒業。1950年代、5代目中村富十郎らと歌舞伎の欧米公演アヅマカブキにて欧米十数カ国・四十数都市を巡業。勝会理事長も務めた。実子が8代目杵屋勝三郎。
(wikiより)


569a

0569c

0569d

0569e

0569f



高 良斎(こう りょうさい、1799年6月22日寛政11年5月19日) - 1846年11月1日弘化3年9月13日))は、日本江戸時代医学者蘭学者

経歴
江戸時代後期の1799年(寛政11年)、阿波国(現:徳島市常三島町)・徳島藩中老伊蔵好直のもとに生まれるが、生後間もなく眼科医高錦国の養子に出された。


本草学」を乾純水から学び、医学(主に眼科)を養父である高錦国から学んだ。19歳の時には長崎に出てシーボルト吉雄権之助に従事して西洋医学を修めた。1826年文政9年)にはシーボルトの江戸行きに随行し、その後シーボルト事件連座して一時蟄居させられることになった。


シーボルトの信任篤く、シーボルトが長崎を退去する際には、二宮敬作と共に遺児の楠本イネの養育のことを託された。その後、故郷に戻ったあと、大坂にて眼科を開業。大名の病を診て天下の名声を得た。1846年(弘化3年)、脳出血にて48歳で没した。は子清、良斎、輝淵。


墓所は豊島区駒込染井霊園

著書

・著作 - 『眼科便用』、『耳眼詳説』、『蘭法内用薬能識』、『駆梅要方』、『女科精選』

・訳書 - 『西医新書』、『薬品応手録』


参考資料
・福島義一『高良斎とその時代』思文閣、1996年。ISBN 4-7842-0906-9
(wikiより)


568 高良斎

⇧ 高 良斎

568a



このあたりには、江戸時代中期の享保四年 ( 1719 ) 以降、幕府の御鷹部屋がありました。


御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時七、八十名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。


また、鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息をしたり、食事をとったりしたこともあったようです。


御鷹部屋敷地内には松の木がありました。


この松の木は、当時のようすをしのばせてくれます。
(案内板より)


567a

567b


条野 採菊(じょうの さいぎく、1832年9月24日天保3年9月1日) - 1902年明治35年)1月24日))は、幕末から明治中期の、東京の、戯作者ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。鏑木清方の父。條野とも書く。

生涯
家は日本橋長谷川町(現・日本橋堀留町2丁目)の地本問屋だった。本郷三丁目の呉服屋伊豆倉の番頭を務めるかたわら、17歳頃から五代目川柳こと水谷緑亭に弟子入りし、頭角をあらわした。伊豆倉の顧客の老中阿部正弘に文才を認められて可愛がられ[注釈 1]、また、年長の戯作者、松亭金水梅亭金鵞仮名垣魯文らと交わった。


三遊亭円朝
河竹其水も会員の三題噺の会『粋狂連』を、魯文と組織し、1863年(文久3年)、共輯の『酔興奇人伝』[2]を、出版した。


1860年(万延元年)(28歳)、人情本『春色恋廼染分解』(-- こいのそめわけ)を上梓した[1]合巻も書いたが、為永春水松亭金水染崎延房と下る人情本の系列の人だった。


1868年(慶応元年)4月(36歳)、福地源一郎創刊の『江湖新聞』に広岡幸助西田伝助と参画したが、佐幕的編集のゆえに翌月廃刊を強いられた。1869年の『六合新聞』も、第7号で終わった。


1872年(明治5年)3月、西田伝助、落合幾次郎と、東京初の日刊紙、『東京日日新聞』を発刊した。その4月、三条の教憲が出たときは、『今後真面目に書く』旨の答申書『著作道書キ上ゲ』を魯文と提出した。以降、東京日日新聞を編集発行するかたわら、『近世紀聞』(初編)・『東京町鑑』・『和洋奇人伝』など、固い本を出した。


1880年(明治13年)から東京府会議員を務めた。


1884年(明治17年)10月(52歳)、西田伝助と、東京日日新聞社から『警察新報』紙を発刊したが[3]、部数が伸びなかったので、代わりに1886年10月、娯楽主体の『やまと新聞』を創刊し、作品を連載した。1889年には『新小説』の創刊に関わり、そこに創作を載せもして、作家に復帰した。


1889年(明治22年)(52歳)から神田区会議員、1892年から神田区会議長だった。その11月、三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎三遊亭円遊田村成義らを集めて、百物語を主宰した。[4][5]


歌舞伎
の台本も書いた。新聞社の劇評家仲間の長老で、1890年、東京日日の新人記者の岡本綺堂が、採菊に面倒を見て貰ったと言う挿話がある[6]。採菊には、嘗ての職場の新米記者だった。


『やまと新聞』社長を辞した翌1902年(明治35年)、心臓衰弱により没した。70歳。『清高院晋誉去来採菊居士』。墓は谷中霊園にある。


   妻(鏑木)婦美と三人の男子を得た。長男は官吏、次男は商人だった。三男が鏑木清方である。

主な文業
西欧の小説の本も出したが、採菊は外国語を解さなかったので、それらは福地桜痴の翻訳を下敷きにしたと想像されている[7]

原書

行末の ( ) 書きは、出版の西暦年次、或いは年月日。


・『春色恋廼染分解』(人情本)、文鱗堂(1860)

・『池園物語』(合巻)、板元不詳、(1862)

・『源平桜の五所染(しろくれない --)』(合巻)、片ばみ屋米次郎(1863)

・仮名垣魯文と合輯:『酔興奇人伝』、寶善堂(1863)

・『春色江戸紫』(人情本)、板元不詳、(1864)

・『三人於七花暦封文』(合巻)、板元不詳、(1866)

・『春色玉襷』(人情本)、板元不詳、(1868)

 明治維新

・『鶯塚千代廼初声 2 - 4編』(人情本)、片ばみ屋米次郎(1869)

・『唐詩作加那(とうしざかな)、金松堂(1869)

・『漢語都々逸』(学習書)、松林堂(1870)

・『漢語図解』(語学習書)、文玉堂ほか(1870)

・『柳蔭月朝妻』(合巻)、紅英堂(1870)

・『藪鶯八万不知』(合巻)、板元不詳、(1871)

・三遊亭円朝作・採菊序:『今朝春三組杯』、青盛堂(1872)

・『近世紀聞 初編』、金松堂(1873)[第2編以降は染崎延房

・『阿玉ヶ池櫛月形 初編』(合巻)、紅英堂(1874)[第2、3編は染崎延房

・『室町源氏胡蝶巻 22 - 24編』(合巻)、紅英堂(1874)

・『郭雀小稲出来秋(さとすずめ --)』(人情本風)、やまと新聞連載(1886.10 - )

・『折枝の梅が香』(翻案)、やまと新聞(1887.3.24 - 1877.6.4)

・『八重桜奈良の古跡』(人情小説)、やまと新聞(1887.6.10 - 1887.7.29)

・『とりかへばや』(現代小説)、新小説(1889.1 - 1889.7)

・『千金の涙』(台本)、歌舞伎新報(1889.11)

・『思の家』(遊郭悲恋物語)、文芸倶楽部、(1895.8)

・『依田の苗代』(台本)、太陽(1897.9)

・『昔の初春』(江戸の回想)、日出国新聞(1901.1.1 - )

 『日出国新聞』は、やまと新聞の1900年11月 - 1904年12月の紙名[8]

・『見聞逸話』(江戸の回想)、新小説(1901.1、3、12)

岡鬼太郎、岡本綺堂と共作:『金鯱噂高浪』、歌舞伎座で上演(1902)


近年の改版

・『近世紀聞 初編』、(「『明治文学全集1 明治開化期文学集(一)』、筑摩書房(1983)」所収)

・『酔興奇人伝』、(「『日本近代思想大系18』、岩波書店(1988)ISBN 9784002300184」所収)

・『未味字解・漢語都々逸・漢語図解』、(「『明治期漢語辞書大系5』大空社(1995)ISBN 9784756800923」所収)

・『落語』、(「『落語の愉しみ』、岩波書店(2003)ISBN 9784000262989」所収)


注釈
1. 今紀文と呼ばれた細木香以が後援者の一人であった[1]

脚注
1. 野崎左文『増補私の見た明治文壇1』平凡社、2007年、136p。
2. 『日本近代思想大系18』、岩波書店(1988)所収
3. 土屋礼子:『大衆紙の源流』、世界思想社(2002)p.250
4. 一柳広高・近藤瑞木編:『幕末明治 百物語』、国書刊行会(2009)ISBN9784336051202
5. 山本笑月:『明治世相百話』、中公文庫(1983)p.78
6. 岡本綺堂:『ランプの下にて』、岩波文庫(1993)p.155
7. 土谷桃子:『採菊の西洋小説の翻案』
8. 国会図書館:やまと新聞

出典

興津要:『條野採菊(山々亭有人)』(『明治文学全集1 、明治開化期文学集(1)』、筑摩書房(1966)p.451)

早稲田大学古典籍総合データベース

外部リンク

條野採菊のぺーじ

早稲田大学 古典籍総合データベース 条野採菊

土谷桃子:二つの時代を生きた戯作者

青空文庫 条野採菊
(wikiより)


564 條野採菊

⇧ 條野採菊

564a

564b


御書院番をつとめ、彰義隊に入隊。


慶応 4年 5月 15日、上野戦争で戦死した。( 上野山王台で「雁鍋」からの狙撃 )


実弟の後藤鉄郎が建てた。


562a


横綱千代の富士建立の碑


相撲界唯一の国民栄誉賞を受賞 


史上有数昭和最後の大横綱千代の富士の業績を讃え顕彰する為 雄姿を留める立像を建立しました


平成二十三年度 一月吉祥日

望湖山玉林寺第二十代住職 山口〇雄


第五十八代横綱千代の富士貢 略歴


一九五五六月一日生まれ 北海道松前郡福島町出身


通算三十一回の歴代二位幕内最高優勝


史上最多の通算勝星一〇四五勝


一九八八年五月場所から十一月場所まで五十三連勝
 
歴代三位 等の輝かしい成績を残す


一九八九年九月国民栄誉賞受賞


一代年寄を受けるも九重名跡を継ぐ

年寄・九重 財団法人日本相撲協会理事

    制作 彫刻家 小張隆男
(碑文より)

 〇は伏字とさせていただきます。


576 千代の富士

⇧ 千代の富士

576a

576b

576c

576d


この供養塔は文久元年 ( 1861 ) 森孫右衛門の二百年忌に、子孫の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏の両名により建てられています。


森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。


供養塔の右側面の銘文には、森孫右衛門は攝津 ( せっつ ) 国 ( 現・大阪府 ) 佃村の人で、二代将軍・徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び三十三人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。


また左側面には、寛永年間 ( 1624 ~ 44 ) に百歩四方の土地を賜り、島を築き、正保元年 ( 1644 ) 二月に築成し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。

これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。
(案内板より)


〇 森孫右衛門
生年: 永禄 12 ( 1569 )
没年: 寛文 12 ( 1672 )


江戸前期、江戸日本橋魚市場の祖形をつくったとされる

摂州西成郡佃村 ( 大阪市 ) の漁民。


伝承多く考証未詳につき、いまは父子 2人説に従う。


父の孫右衛門 ( 初め見一姓 ) は天正、年中 ( 1573 ~ 92 ) に徳川家康の知遇をえて森姓を与えられ同 18年一族と共に江戸に入り、白魚漁に着手。


天正 18年江戸日本橋魚河岸創設説は、この事績を指したもの。


その後慶長 8年 ( 1603 ) までに次男九左衛門ら 7名を江戸に移住させ、白魚漁のかたわら道三堀に魚問屋を開業させる。


九左衛門らは、慶長 12年までに本小田原町に進出し、ここに日本橋魚河岸が成る。


森一族は、こののち旧来手法を墨守して問屋業は先細りとなるが、元和 2年 ( 1616 ) 年ごろ本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の大和屋助五郎は森一族と対抗しながら、駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦 ( 浜方〈 浦方 〉への敷金〈 前貸金 〉にもとづく問屋の集荷専有権 ) を設け、産地独占的な魚河岸の流通機構を作出した。


<参考文献>
『東京都中央卸売市場史』上,中村勝『増補・改定 市場の語る日本の近代』


559a

559b


馬場孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日明治2年11月8日) - 1940年昭和15年)6月22日)は、英文学者評論家翻訳家詩人慶應義塾大学教授。

生涯
孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1978年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った[1]浄瑠璃を語った。弓術盆栽将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。

1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村戸川秋骨と同級になった。1891年卒業後、各地で中学の英語教師を勤め、その間の1893年1月創刊の文学界に、秋から加わり、詩、小説、随筆を載せた。1894年3月、樋口一葉宅を初めて訪れ、また、斎藤緑雨、秋骨、平田禿木上田敏と交わった。皆、文学界の同人だった。

1899年、銀子をめとり、のち、照子・晴子・昂太郎を得た。


1897年(明治30年)(28歳)、日本銀行の文書課員となり、かたわら文学界へ、それの廃刊後は明星へ、投稿を続けた。1906年1月、第二次『芸苑』の発行名義人となり、17冊を出した。生田長江が同人として兄事した。


1906年、慶應義塾大学文学部教授となって、欧州大陸文学を講じた。孤蝶は永井荷風教授の先任に当たる。教授になった頃から詩・小説からは遠ざかり、翻訳、随筆をもっぱらにした。


1907年(明治40年)(38歳)、生田長江の『閨秀文学会』の講師を引き受けた。1908年、樋口一葉の日記を校正した[2]。1912年、3回目の『樋口一葉全集』(博文館の『二冊本』)を編集した。1913年、青鞜社の講演会で『婦人のために』を講演し、また、大杉栄荒畑寒村らの『近代思想』社の集会に顔を出した[3]


1915年の衆議院議員選挙に、夏目漱石、生田長江、森田草平平塚らいてう堺利彦らの応援を得て立候補し、落選した。その翌年の山川均青山菊栄の結婚の媒酌を勤めた。面倒見がよかった。


1923年、関東大震災の際の流言による朝鮮人虐殺事件の起こる最中に、朝鮮人を擁護する発言をしたことで人々に包囲され、ついには警察に検束された[4]


1930年(昭和5年)(61歳)、慶應義塾大学を退職した。孤蝶の教え子に、水木京太、佐藤春夫西脇順三郎などがいた。


1940年(71歳)、肝臓癌腹膜炎を併発し、渋谷区松濤の自宅で没した。墓は谷中霊園にある。孤蝶の遺志により、随筆集『明治の東京』と『明治文壇の人々』が、1942年に出版された。

おもな文業
各列の → の後ろは、2010年に最も近いと思われる改版。

創作・評論

・『無名氏に謝す』、「『清風録』、研文学会(1902)」所収

・『野守草』(文集)、新聲社(1902)

・『連翹』(文集)、久友社(1905)

・『春駒』、佐久良書房(1906)

・『日記を通して見たる樋口一葉』、早稲田文学誌(1911.4)→ 「明治文学全集30(1972)」所収

・『近代文芸の解剖』、広文堂書店(1914)

・『社会的近代文芸』、東雲堂書店 生活と芸術叢書1(1915)→ 日本図書センター 近代文芸評論叢書24(1992)ISBN 9784820591535

・『世界名著解題』、誠文堂(1927)→ 「紀田順一郎:『近代名著解題選集1』、クレス出版(2006)ISBN 9784877333287」所収

め『政治文学』、岩波講座世界文学8、岩波書店(1933)


没後

・『酒匂川、想界漫渉、片羽のをしどり、地下へ、社会的文学に就て、善き人なりし大杉君』:「講談社 日本現代文学全集 9(1965)」所収

・『酒匂川』ほか新体詩12篇:「明治文学全集60(1972)」所収

・『片羽のをしどり、流水日記、みをつくし、かたみの絵姿、柴刈る童、雪の朝、想海漫渉、蝶を葬むるの辞』、「明治文学全集32(1973)」所収

随筆

・『葉巻のけむり』、廣文堂書店(1914)→「『馬場孤蝶随筆集成1』、本の友社(2001)

・『闘牛』、天佑社(1919)→ 「『馬場孤蝶随筆集成2』、本の友社(2001)

・『鸚鵡蔵』、二松堂書店 表現叢書12(1923)→ 「『馬場孤蝶随筆集成3』、本の友社(2001)

・『孤蝶随筆』、新作社(1924)→ 「『馬場孤蝶随筆集成4』、本の友社(2001)

・『紫煙』、大阪屋書店(1925)→ 「『馬場孤蝶随筆集成5』、本の友社(2001)

・『野客漫言』、書物展望社(1933)→ 『馬場孤蝶随筆集成6』、本の友社(2001)

・『明治文壇回顧』、協和書院(1936)→ 「『馬場孤蝶随筆集成7』、本の友社(2001)


没後

・『明治の東京』、中央公論社(1942)→現代教養文庫(1992)→ 文元社 教養ワイドコレクション(2004)

・『明治文壇の人々』、三田文学出版部(1942)(『孤蝶随筆』などからの再編集)→ ウェッジ文庫(2009)

訳書

・『やどり木』(訳文集)、弘文社(1903)

・『泰西名著集』、如山堂(1907)

・ドストエフスキー:『小児の心』、『博徒』、明星(1908)→ 大空社 明治翻訳文学全集. 新聞雑誌編45(1998)

マキシム・ゴルキイ:『国事探偵』、昭文堂(1910)→ 「『ゴオルキイ全集4』、日本評論社出版部(1921)」所収

モオパッサン:『モオパツサン傑作集』(親殺、初雪、月夜、鐘の音、負債、月かげ)、如山堂書店、(1914)、付『モオパツサンと紀行』(孤蝶)

トルストイ:『戦争と平和』、国民文庫刊行会 泰西名著文庫(1914)(英訳からの重訳)→ 国民文庫刊行会 世界名作大観 各国篇 附録6 - 8(1925 - 1927)

ホーマア:『イーリアス|イリアード』、国民文庫刊行会 泰西名著文庫(1915)→ 世界文豪代表作全集刊行会 世界文豪代表作全集1巻(1928)

・モオパツサン:『戦塵』、如山堂書店(1915)→ 「三田文学会:『三田文選』、玄文社出版部(1919)」所収

クロポトキン:『露西亜文学講話』、アルス(1920)

・クロポトキン:『露西亜文学の理想と現実』、アルス(1922)

シエンキイウイツチ:『灯台守』、「近代社 世界短篇小説大系 南欧及北欧篇(1926)」所収

ホオソオン:『緋の文字』、国民文庫刊行会 世界名作大観 英国篇14(1927)

デイッケンス:『オリヴァー・ツゥイスト』、改造社 世界大衆文学全集9、(1930)→ 改造社 世界大衆文学名作選集17(1939)


没後

・大空社 明治翻訳文学全集 新聞雑誌編の29(1999)、31(1997)、32(1999)、33(2000)、43(2000)、44(2000)、45(1998)に、多くの馬場訳が再録されている。

詳しいことは、「馬場孤蝶ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E5%AD%A4%E8%9D%B6
(wikiより)


573   Kochō_Baba

⇧ 馬場孤蝶

573a

573c



馬場 辰猪(ばば たつい、嘉永3年5月15日1850年6月24日) - 明治21年(1888年11月1日)は、日本武士土佐藩士)、思想家、政論家。最も急進的で国粋的な『國友会』を組織した人物。氏保(うじやす)、通称として辰猪を称す。

略歴
嘉永3年(1850年)、土佐藩士・馬場来八(小姓組格、のち馬廻役)の二男として土佐国高知城下中島町に生まれる。藩校「文武館」で学び、江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)、鉄砲洲にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、経済学を学ぶ。その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にてオランダ人宣教師グイド・フルベッキに英語を習う。明治2年(1869年)、慶應義塾に戻り、のちに教師も務める。明治3年(1870年)、土佐藩の留学生として真辺正精国澤新九郎深尾貝作松井正水らとイギリスに留学し、海軍法学について学ぶ。イギリス留学中、土佐藩イギリス留学生らの団長を務める真辺正精と決闘を行い、真辺を負傷させている。明治7年(1874年)に帰国。翌年、岩倉使節団の一員として再び渡英し、イギリス滞在中に政府留学生となる。留学中、1873年出版の『ELEMENTARY GRAMMAR OF THE JAPANESE LANGUAGE WITH EASY PROGRESSIVE EXERCISES』(日本語文典)の序文にて、森有礼の国語英語化論を批判し、日本語論争などのちに「国語国字問題」とよばれるものに発展し、大槻文彦の『言海』や前島密らの漢字論などと共に「国語」以前の日本語論争の先駆けとなった。その後、フランスにも赴いた。明治11年(1878年)に帰国。この留学で辰猪の思想の中核となる言論思想の自由、「公議輿論」の重要さを学んだ。


同じ土佐出身で、共に英国留学した星亨小野梓らと共に『朝野新聞』や『自由新聞』などで中江兆民らと共に自由民権運動を日本に紹介し、共存同衆交詢社の活動に参加。ちょうどこの頃、西南戦争の勃発に乗じて、挙兵による大久保利通政権の打倒を策して失敗。末広重恭らとともに「国友会」などの組織を立ち上げる。明治12年(1879年)から同13年(1880年)頃、共存同衆の金子堅太郎島田三郎らと共に『私擬憲法意見』を起草した。「日本人学生会」を組織し、法律学による啓蒙活動に従事し、国友会を基盤に自由民権運動の指導者となった。明治12年(1879年)、交詢社創設委員として社則規則などに参画し、明治14年(1881年)、明治義塾(三菱商業学校)創立に参加した。自由党結党大会で、後藤象二郎に次ぐ副議長に選出されて議事運営に当たり、『朝野新聞』に投書し、明治15年(1882年)に『自由新聞』を創刊して主筆となる。板垣退助の外遊に反対して自由新聞を退社し離党、演説会を主催する。


明治16年(1883年)、警視総監・樺山資紀から東京での政治演説の禁止を申し渡される(6ヶ月間)。その後は著作活動に入るが、加波山事件に関して「露国虚無党の利器と称する所のダイナマイト」に着目し、明治18年(1885年)11月に横浜・山手のモリソン商會で「ダイナマイトは売っているか」と尋ねたため、密偵に発見され検挙。爆発物取締罰則違反に問われて、大石正巳と共に逮捕される。翌年6月、公判で無罪判決を受けた後、アメリカ亡命して講演を行う。アメリカでは政府批判の講演を行い、駐米公使としてアメリカにいた陸奥宗光を尋ねる。


しかし病苦と貧苦に耐え切れず、明治21年(1888年)、肺結核肺炎のためフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学病院で死去。享年38。最期を看取ったのは、岩崎久弥林民雄だった。辰猪の墓は、ウッドランド墓地にある。上野の寛永寺谷中墓地にも、墓碑がある。

家系

・土佐藩士馬場氏の7代目。辰猪の先祖は武田信玄の武将馬場信春(美濃守)[1]で、武田氏滅亡後は浪人して、子孫の信義(平兵衛)が土佐に渡った。氏信(源右衛門)の時、山内家に仕え、子の氏興が禄200石を給せられた。

馬場孤蝶は弟。新聞記者・狂歌師の野崎左文は従兄弟にあたる[2]

没後
明治29年(1896年)11月2日、谷中天王寺で辰猪の没後8周年祭が催され、福沢諭吉荘田平五郎金子堅太郎田口卯吉渡辺洪基中上川彦次郎矢野文雄尾崎行雄犬養毅中江兆民、大石正巳ら福沢に連なる140名ほどが参列した[3]

関連項目

自由燈

共存同衆

交詢社

中江兆民

植木枝盛

真辺正精

アーサー・ディオシー - 初代ロンドン日本協会会長。馬場の『日本語文典初歩』で日本語を独学し、ロンドンの劇場で偶然出会った馬場を流暢な日本語で驚かせた[4]

主な著作

・『日本語文典初歩』(滞英中の1873年にロンドンで刊行)

・『日本におけるイギリス人』

・『日英条約改正論』

・『雄弁法』

文献

・『御侍中先祖書系図牒』

・『馬場辰猪全集』全4巻 岩波書店 1987-1988年

・『馬場辰猪』萩原延壽著、中公文庫、1995年 ISBN 4122023386

初版は中公叢書、2000年復刊 ISBN 4120000206

・『萩原延壽集1.馬場辰猪』 朝日新聞社、2007年 ISBN 4022503491

・『馬場辰猪 復刻版』安永悟郎著、みすず書房、1987年 ISBN 4622026805、オンデマンド版、2005年

補注
1. 『御侍中先祖書系図牒』に、「先祖、甲州武田家ニ仕馬場美濃守也。平兵衛信義者、武田家滅却之後、落浪御当国江罷越」とある文による。
2. 伊藤整『日本文壇史1』講談社文芸文庫、1994年、106p。
3. 杉山伸也「馬場辰猪再訪」「連載 経済史をあるく 第8回」『書斎の窓』No.609、2011年11月、p.32-36
4. *長岡祥三日本協会の創立者アーサー・ディオシー (PDF) 」 『英学史研究』第29号、1996年、2016年3月3日閲覧。


外部リンク

母語コンプレックスと言語分裂国家 : 馬場辰猪の森有礼に対する反論に寄せて

三田政談社及び国友会の結成 : 馬場辰猪の政治行動を中心として

『馬場辰猪家系図』

馬場辰猪 |『近代日本人の肖像』

馬場 辰猪

馬場辰猪 - 復刊ドットコム
(wikiより)


573 馬場 辰猪

⇧ 馬場辰猪

573a

DSC02969

DSC02974

DSC02979

 馬場辰猪の改葬前の墓石かもしれません。

DSC02982

DSC02985

DSC02988

御家族の墓かもしれません。


DSC02976

⇧ 馬場喜久衛墓

DSC02993

⇧ 馬場寅◇ ?

 ◇は判読不可



天文台は、会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものである。


日新館は、五代藩主・松平容頌公のとき、寛政十一年 ( 一七九九 ) 四月より五年の年月を費して、享和三年 ( 一八〇三 ) に完成した。


天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つであった。


観台は、当時の半分となったが、藩校日新館の施設の中では、唯一の保存されているものである。
(案内板より)


 東日本大震災 ( 東北地方太平洋沖地震 ) の影響で、『観台の屋根』部分が崩れ落ちています。(画像 1)

また町の、土蔵の壁が崩落していたり震災の傷跡の凄まじさを感じました。


579a

⇧ 石柱の右部分に『観台の屋根』部分が崩れ落ちてます。

579b

⇧ 中央上部に「屋根の部分」がありました。

579c

579d

579e

579f

579g


旧幕臣。


慶応 4年 3月に江戸を脱走。


4月 8日上総木更津で戦死。33歳。


明治 33年 4月に建立。

書は榎本武揚の書で、碑文は山岡鉄舟の長男の子爵・山岡直記によるもの。


557a


津田 真道(つだ まみち、文政12年6月25日1829年7月25日) - 明治36年(1903年9月3日)は、日本武士幕臣)、官僚政治家啓蒙学者福澤諭吉森有礼西周中村正直加藤弘之西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。

来歴

美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫伊東玄朴蘭学を、佐久間象山兵学を学ぶ。


藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周オランダに留学しライデン大学シモン・フィッセリングドイツ語版に学ぶ。オランダ留学中の1864年元治元年)にライデンフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している。[要出典]4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。


明治維新
後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。明治2年(1869年)、人身売買禁止を建議。明治4年(1871年)、外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官元老院議官。明治23年(1890年)には、第1回衆議院議員総選挙東京8区から立候補して当選、大成会に属して初代衆議院副議長に就任。同年10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり[1]錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。明治24年(1891年)12月17日に商法及び商法施行条例の一部施行に関する法律案の第三読会開催案が可否同数になると、衆議院副議長として日本政治史上初の国会の議長決裁を行い、消極的に決した(否決)。


明治29年(1896年)に勅選貴族院議員となる。男爵法学博士


1903年死去。

栄典
位階・

1873年(明治6年)11月17日 - 従五位[3]

1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[4]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[5]

1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[6]

勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[7]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[9]
1903年(明治36年)8月26日 - 勲一等瑞宝章[10]

詳しいことは、「津田真道ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
(wikiより)


549 津田真道

⇧ 津田真道

549a

549b


松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日1818年3月12日) - 明治21年(1888年2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家浮世絵師著述家、好古家。名前の表記は竹四郎とも[1]は弘[1]。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数[1]蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。

経歴

文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[注釈 1][1]。松浦家は、肥前国平戸松浦氏の一族で中世に伊勢国へ移住してきたといわれ、別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[5]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、武四郎は13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び[6]猪飼敬所梁川星巌らの知己を得るなど[7][8]、後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。


山本亡羊本草学を学び、16歳から日本国内の諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[7]弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[7]、その探査は北海道だけでは無く択捉島樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[7]安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」[9]を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」[10])と命名した。更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している[注釈 2]。翌明治3年(1870年)に北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上した[12]。この間、北海道へは私人として3度、公務で3度の合計6度赴き[10]、およそ150冊の調査記録書を遺した[11][13]


余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったと言われている。武四郎は天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を神社に奉納した[7]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[14][15]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して「千島一覧」[16]という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め[17][18][19]、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った[20]


明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去した[2][1]。遺骨は染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、武四郎が最も好きだったという西大台[注釈 3]・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」[24]に分骨されてもいる。


なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家と武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」[25]があり、多彩な活躍と広い人脈を紹介する展示を2ヶ月ごとに入れ替え、また講演会や「武四郎講座」[26]と題した座学を開いている(平成6年(1994年)開館)[12][27]。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保存されている[28][注釈 4]


北海道音威子府村物満内[31]には「北海道命名之地」の記念碑があり[注釈 5]釧路市の幣舞公園[33]、安政4年(1857年)の天塩川流域調査で立ち寄った地点のうち出発点の天塩町鏡沼海浜公園 (銅像・歌碑)など[32]小平町鬼鹿広富のにしん文化歴史公園[34]には銅像がある(武四郎の身長は4尺8寸(4.8尺 (150 cm))、足の大きさは24cm)。北海道勇払郡厚真町富里の松浦武四郎記念碑[35][36]を始め、道内に50基に余る記念碑があるといわれる[注釈 6]。 天塩町鏡沼海浜公園に立つ松浦の歌碑に2首刻まれている[32]

「蝦夷人の みそぎなしたる 天塩川
  今宵ぞ夏の とまりをばしる」

「ながむれば 渚ましろに 成にけり

てしほの浜の 雪の夕暮れ」

著作・作品
『四国遍路道中雑誌』、1844年。 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる弘化元年(1844年)の草稿[注釈 7]

・「蝦夷大概之図」1850年。 (嘉永3年)松浦武四郎記念館所蔵

・「蝦夷変革図」1851年。(嘉永4年)

・「蝦夷語便覧 (校正) 後方羊蹄於路志」 (版本・1鋪)1855年。 (安政2年)石水博物館所蔵[9]

・「新選 末和留辺志」 (版本・1鋪)1857年。 (安政4年) 同上[9]

・「東西蝦夷山川地理取調図」 (版本・28鋪)1859年。 (安政6年)同上[9][† 1]

・『天鹽日誌』(木版)多氣志樓、1862年。NCID BN16020465 33丁[† 2][† 3][† 4]

・『アイヌ人物誌』47、更科源蔵; 吉田豊 (翻訳)、農山漁村文化協会〈人間選書〉、1981年。ISBN 454081026XNCID BN01680631 342p[† 5][† 6]

・「千島一覧」 (大判 錦絵3枚続)、和泉屋市兵衛版、1870年。 松浦武四郎記念館所蔵

一畳敷書斎

武四郎が1886年に五軒町の自宅の片隅に造った一畳敷の書斎が、東京都三鷹市の実業家・山田敬亮[注釈 8]の別荘「泰山荘」の茶室に移築され、現在は国際基督教大学構内「泰山荘高風居(こうふうきょ)」として国の登録有形文化財に登録されている[43][44]。武四郎が記した目録『木片勧進』によると[45]法隆寺熊野本宮春日大社久能山稲荷神社、伊勢神宮外宮、東福寺仏殿といった全国の社寺の白鳳時代から江戸時代後期に渡る古材を譲り受けて組み上げたもので、武四郎は「死んだら一畳敷を解体してだびに付してほしい」と遺言した[46]


ところがその死後、徳川頼倫南葵文庫に移築、次に代々木上原の徳川家別邸「静和園」の茶室「高風居(気高い人の住まいの意で、武四郎を称えて命名)」に移され、さらに三鷹の山田敬亮別荘に移築される。戦時中に同別荘地を買い取った中島飛行機が戦後に大学用地として売却したことから、国際基督教大学構内に保存された経緯がある[46][47]。特別公開は、大学祭の期間中のみ。

ゆかりの行事、記念事業

毎年2月最終日曜に、松浦武四郎記念館をメイン会場とした「武四郎まつり」が開催されている[48]


2018年には北海道命名150年を記念した「北海道150年事業」が行われ、その一環として武四郎に関するイベントを各地で開催[49]。また同年は松浦武四郎の生誕200年にも当たり、松阪市は平成30年(2018年)2月24日の開会式に始まり一連の記念事業を行った[50]

詳しいことは、「松浦武四郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E
(wikiより)


546 松浦武四郎

⇧ 松浦武四郎

546a

546b


陸奥下手渡藩主の立花種恭から八重垣という名馬が彰義隊に下された。


この名馬も殺害された。

明治 32年 5月に建立。


〇 立花種恭
立花 種恭(たちばな たねゆき)は、幕末陸奥下手渡藩の第3代藩主。のち筑後三池藩藩主となり廃藩を迎えた。


称は鐘之助(しょうのすけ)、官位は出雲守廉斎(れんさい)とした[1]


明治時代に子爵を授爵する。貴族院議員

生涯
天保7年(1836年)、第2代藩主・立花種温の叔父・立花種道立花種周の五男)の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)に種温が死去したため、その養子として跡を継いだ。その翌年、所領のうち伊達郡内の3078石余に代えて筑後三池郡内で5071石を与えられた。


幕末期には佐幕派として行動し、将軍徳川家茂の側近として文久2年(1862年)6月に大番頭となり[1]長州征伐でも幕府軍として参加した。文久3年(1863年)には若年寄慶応3年(1867年)には老中格兼会計総裁となるが、翌年3月に罷免された。戊辰戦争では下手渡側の藩士が奥羽越列藩同盟に参加する。だが、既に三池側の藩士の意向で藩論は新政府への恭順に決定され、藩主である種恭も京都に入っていた。この矛盾した行動は、8月に種恭が奥羽鎮撫の命を受けたことで同盟側の知ることとなり、仙台藩によって攻撃され藩庁を焼失した。9月には新政府の命を得て、居を三池に移す。


明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により退任した。明治10年(1877年)10月17日から明治17年(1884年)5月24日の間、学習院初代院長を務める。同年7月8日、子爵となる。明治23年(1890年)7月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。その他、華族会館副幹事、同学務局長、宮内省御用掛、同省爵位局主事などを務めた。


また講道館創始者の嘉納治五郎は学習院時代の部下であり、立花が揮毫した『講道館』の扁額は小石川下富坂町に在った当時の講道館道場に掲げられていたという[2]


明治38年(1905年)に死去した。享年70。

栄典
1884年(明治17年)7月8日 - 子爵[3]

1905年(明治38年)1月20日 - 御紋付御杯[4]

・1905年(明治38年)1月30日 - 従二位[5]

脚注
1. a b 幕末維新人物事典.
2. 講道館柔道資料館・図書館”. 講道館. 2019年1月6日閲覧。
3. 『官報』第308号、1884年7月9日。
4. 『官報』第6466号「宮廷録事 - 恩賜」1905年1月21日。
5. 『官報』第6474号「叙任及辞令」1905年2月1日。

参考文献

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

・『全国版幕末維新人物事典』歴史群像編集部、学研パブリッシング、2010年、250頁。ISBN 9784054044630

関連項目
学習院大学

(wikiより)


544 立花種恭

⇧ 立花種恭

544a


天保四年 ( 1833 ) 洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。


関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。


この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。


この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。


このお堂は、真言宗中興の祖興教 ( こうぎょう ) 大師 ( 覚鑁上人 かくばんじょうにん ) 八百五十年御遠忌 ( 平成四年十二月十二日 ) 記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものです。


月光山正福寺 
(案内板より)


550a

550b


中村蘭林 ( なかむららんりん ) / 藤原蘭林 / 藤原明遠 / 中村深蔵    
元禄 10年 ~ 宝暦 11年 9月 3日 ( 1697 - 1761 )


江戸時代中期の儒者。

東京出身。

名、遠八・明遠。通称、深蔵・玄春。字、子晦。号、蘭林・盈進斎。本名、藤原明遠。


父、幕府医官・中村玄悦。


父に医学を学び、室鳩巣 ( むろきゅうそう ) に儒学を学ぶ。


父を継ぐ玄春という医官であったが、儒者になりたくて数年の間許されなかたが、延享 4年 ( 1747 ) 西の丸奥医から奥儒者に転じ深蔵と改め、将軍徳川家重に近侍した。


室鳩巣に師事したが、朱子学墨守に固執せず、考証を重んじ他学派の説も学び、稲葉迂斎門下にもなった。


寛延元年 ( 1748 ) 朝鮮通信使と筆談で朱子学について議論した。


遺命して蔵書 49部を足利学校に寄付した。65歳没。


著:「学山録」、「読詩要領」、「孟子考証」、「学規口解」、「通書解翼義」、「読詩要領」、「大学衍義考証」など多数。

台東区指定史跡。


※ 朱子学:中国南宋の朱熹が大成した新しい儒学。


563a

563b

563c


長谷川 五郎(はせがわ ごろう、1932年昭和7年)10月19日 - 2016年平成28年)6月20日)は、茨城県水戸市出身のボードゲーム研究家、ボードゲーム開発者で、特にオセロのパッケージを開発したことで有名な人物である。


オセロ以外にも88オセロソクラテスミラクルファイブセルゴ大碁(だいご)といったボードゲームも開発しており、生前は日本オセロ連盟会長を務めた。オセロ名誉十段。

経歴
英文学研究者(茨城大学教授)の長谷川四郎[注 1]を父として生まれる。


旧制水戸中学(現・茨城県立水戸第一高等学校)に入学。現在「オセロ」として知られるゲームを考案した経緯については、本人の説明が二転三転しており、真相は不明である。

当初はイギリスのリバーシというゲームのデザインを改良したものと説明していたが、後に自身が学生時代に独自に考案したゲームであり、リバーシと似ているのは偶然と主張するようになった


近年の主張によれば、学校の短い休み時間でも楽しめるゲームが欲しいと思い、碁石を用いて相手の石をはさむと取れるというルールの「挟み碁」を考案したことに始まる。その後、ルールを変え、石を取り除くのではなく色を反転させるようにし、牛乳瓶のふたを用いて裏表を反転させるように改良して現在の形にたどりついた、と言う。みずからのゲームに「オセロ」という名称をつけることになった由来は、そのゲームを考案した際に何と名付けるかについて英文学研究者(英文学者)である父親の四郎に相談したところ、シェイクスピアの『オセロ』を取り上げたからだという[1]。その名を出されれば、黒人軍人のオセロ(=黒石)と、その妻の白人女性のデズデモーナ(=白色)が緑の平原(=緑の盤面)で勇猛果敢に闘う物語が思い描かれたので、盤面を緑色にしこの名称を使うようになった、という[2]。シェイクスピアの『オセロ』は敵・味方が頻繁に寝返るストーリー[独自研究?]の演劇作品である。


茨城大学経済学部政経科に進学し、大学生時代はオセロを普及させることまでは考えておらず、あくまで身近な人と遊ぶために手作りで同ゲームを作って配るにとどまっていた。


同大学卒業後、製薬会社に就職し営業職MR)の仕事を始めても仕事先などで自作のオセロを披露していたところ、担当の顧客にあたる医局長に同ゲームが高く評価され、1972年、ツクダの社長である佃義範および企画担当者の和久井威に面会する機会を得て同ゲームを育てる夢を語り合い意気投合。ゲームとしては破格の長期契約を結び1973年には日本オセロ連盟を設立し東京で第1回全日本オセロ選手権大会を開催。同社がオセロの販売を開始しその後は年々ファンの数が増えた。和久井によると、持ち込まれたときのオセロにはパテントが付けられておらず、業界でもキャラクター以外にロイヤリティを払う意識がほとんどない時代だったが、佃は「おもちゃはアイデアだから」とロイヤリティを払うことを認めたという[3]


将棋
囲碁共にアマチュア五段でもある。


病気療養中のところ、2016年6月20日に千葉県柏市内の自宅で死去した。83歳だった。

著書
How to win at Othello(Jove Publications, 1977) ISBN 0156422158

・『オセロ』(あかしや出版、1979/05)

・『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596

・『オセロ百戦百勝 ― 勝つための技術』(講談社、1990/07) ISBN 4062048434

・『オセロ大観(1)』(近代文芸社、1995年)ISBN 477334718X

・『オセロ大観(2)』(近代文芸社、1995年)ISBN 4773347198

・『オセロの勝ち方』(河出書房新社、2001年)ISBN 4309264611

  ・増補版(2005/5) ISBN 4309268366

  ・改訂新版(2006/7) ISBN 4309269087

・『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』(河出書房新社(2005/12) ISBN 4309906559

・『オセロ教室』(近代文芸社、2008/8) ISBN 4773375825

・『ソクラテスの打ち方』(ソラリス、1994年) ISBN 4795203806

脚注
1. この「長谷川四郎」は、シベリア虜囚体験がある作家の長谷川四郎とは全くの別人。

出典
1. 中日新聞社 「シティーライフ No.4」 2007年
2. 
シリーズ:茨城発・夢ドキュメント(2) オセロ考案者 〜長谷川五郎さん〜 (茨城県地域情報紙「常陽リビングニュース」[2005.11.14])2013年1月6日閲覧
3. 「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合、p.72

関連記事
シリーズ:茨城発・夢ドキュメント(2) オセロ考案者〜長谷川五郎さん〜 (茨城県地域情報紙「常陽リビングニュース」[2005.11.14])

オセロゲームのあれこれ 神田雑学大学 [2006.06.09] 講座 No 314

オセロの歴史 長谷川五郎 記
(wikiより)


590 長谷川五郎

⇧ 長谷川五郎

590a

590b

590c

590d

2021年 1月 11日再訪

DSC04135

整地されていました。


勝川 春章(かつかわ しゅんしょう、享保11年〈1726年[1]または寛保3年〈1743年〉 - 寛政4年12月4日[2]または12月8日1793年1月15日または1月19日〉)とは、江戸時代中期を代表する浮世絵師役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、肉筆美人画でも細密優美な作風で高い評価を得た。

来歴

本姓不詳、「藤原」とする説もあるが確かではない。は正輝、は千尋。俗称は要助、安永3年(1774年)に春祐助と改む。画姓は初め宮川、または勝宮川、後に勝川、勝と称した。号は春章、旭朗井、李林、六々庵、縦画生、酉爾。江戸の人といわれるが、台東区蔵前の松平西福寺に伝わる過去帳には春章以前の父祖の名が記されていないので、春章の代で他所から江戸に来た可能性が指摘されている。ただし春章とは知己の高嵩月が記した『画師冠字類考』(岩瀬文庫蔵)には春章の略歴があり、それによれば春章の父は医者で葛西にいたという[2]


明和
年間から没年までを作画期とする。絵を宮川春水に、また高嵩谷にも学び、英一蝶風の草画もよくしている。北尾重政とは家が向かいで親しく[2]、その指導を受けたという(『古画備考』)。春章は立役や敵役の男性美を特色とし、容貌を役者によって差別化しない鳥居派役者絵とは異なる写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させ、大衆に支持された。そのはじめとなったのは、一筆斎文調との合作として明和7年(1770年)に刊行した『絵本舞台扇』である。その後文調と比較して、明快な色彩と、素直で誇張のない表現で、人気を博した。特に「東扇」(あずまおおぎ)の連作は、人気役者の似顔絵を扇に仕立てて身近に愛用するために、扇の形に線が入っており、大首絵の先駆的作品とされる。ほかに代表作として「かゐこやしない草」があげられる。


春章には勝川春好勝川春英をはじめとして勝川春潮勝川春林勝川春童勝川春常勝川春泉勝川春暁勝川春朗(のちの葛飾北斎)など多くの弟子がいた。春章を祖とする勝川派は役者似顔絵を得意として隆盛したが、春章自身は天明後期には勝川派を代表する座を弟子の春好と春英に譲り、肉筆画に専念してゆく。特に細密な美人画は当時から称賛されていたようで、安永4年(1775年)六月序の洒落本『後編風俗通』に「春章一幅価千金」と讃えられた。この語句は従来「一幅」という語句から春章の肉筆美人画を讃えたものと解釈されているが、安永4年当時春章は未だほとんど肉筆美人画を制作しておらず、これは現在数点確認されている柱隠しの錦絵美人画のことを指すことは注意する必要がある[3]。肉筆画の代表作としては美人画の「雪月花図」(MOA美術館所蔵)がある。肉筆画において優れた美人画を数多く残したのは、宮川長春、春水の影響であろうとされる。

542    WOMEN_AND_EVENTS_OF_THE_12_MONTHS_-_Google_Art_Project

⇧ 「婦女風俗十二ヶ月図」のうち「五月(蛍火)」。春章筆。MOA美術館所蔵。


人形町地本問屋林屋七右衛門の家に寄寓し、同店の仕切り判を画印に使用したことから「壺屋」、「壺春章」ともいわれた。俳諧もたしなみ俳名を酉爾(または西示)、のちに宣富と称し、当時江戸で出された句集にいくつかの句を残している。また松平西福寺の過去帳によれば勝川春橋は孫に当たるが、春橋が実際に祖父である春章から絵を学んだのかどうかは不明である。


墓所は現在松平西福寺となっているが、もとは同寺内の子院である存心院にあり、明治になって存心院が退転したので移されたという。墓石には辞世として「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」の句を刻む。法名は勝誉春章信士。


なお春章の享年は一般には67歳とされているが、これは『名人忌辰録』(関根只誠著、1894年)でそのように記されたのが濫觴となっている。しかし春章の作品も含めた江戸時代の資料において、春章の享年について67歳であると記したものは一切見当たらず、関根只誠がいかなる資料や根拠によって67歳としたのかは不明である。生年の享保11年というのもこの67歳から逆算したものである。同志社大学教授の神谷勝広は上述の『画師冠字類考』に春章の享年が「年五十歳」と記されていることから、通説よりも17歳若返ると指摘している。また『画師冠字類考』では没年を「寛政四年十二月四日」としており、寛政4年12月8日とする過去帳や墓石とは日付に違いがあるが、「死亡日が『四日』で葬儀日が『八日』だったのかもしれない」と推測している[2]


作品
絵本

・『絵本舞台扇』 明和7年 文調と合作

・『風流錦絵伊勢物語』 安永2年(1773年)刊行

・『錦百人一首あつま織』 安永4年

・『青楼美人合姿鏡』 安永5年 北尾重政と共画

役者絵

・「四世市川団十郎の暫」 大判錦絵 明和5年

・「かゐこやしなひ草」 中判12枚揃 錦絵 安永1年ころ 北尾重政と合作

・「南駅秋風」 大判揃物 安永4年‐安永5年ころ

・「東扇 初代中村仲蔵の斧定九郎」 間倍判錦絵 東京国立博物館所蔵 ※連作「東扇」のひとつ。安永4,5年~天明元,2年(1775,6年~1781,2年)頃

・「五代目市川団十郎の股野五郎 三代目沢村宗十郎の河津三郎 初代中村里好の白拍子風折実八鎌田正清娘」 細判錦絵3枚続 太田記念美術館所蔵

・「五世市川団十郎の楽屋」 大判 天明2年‐天明3年ころ

・「二代目市川八百蔵の富士左近助行家 四代目松本幸四郎の浅間左衛門照政」 細判錦絵2枚続 城西大学水田美術館所蔵

・「三代目瀬川菊之丞」 細判錦絵 城西大学水田美術館所蔵

・「九代目市村羽左衛門」 ホノルル美術館所蔵

・「初世尾上松助の門兵衛 初世中村仲蔵の意休 初世中村里好の揚巻 五世市川団十郎の助六 三世沢村宗十郎の白酒売」 細判5枚続 錦絵 天明2年

・「中村仲蔵の頼豪阿闍梨」 細判

詳しいことは、「勝川春章ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%AB%A0
(wikiより)


542a

DSC08018

DSC08021

DSC08025

DSC08033

DSC08026

DSC08030




JR新日本橋出口にある長崎屋跡です。


江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。


将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。


江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。


しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。


随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、平賀源内をはじめとした日本人蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。

鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。
(案内板より)


〇 長崎屋源右衛門
長崎屋源右衛門(ながさきやげんえもん)とは江戸時代江戸日本橋に存在した薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前である。

概要
この商家は、日本橋本石町三丁目(のちの東京都中央区日本橋室町四丁目2番地に相当)の角地に店を構えていた。

業務

薬種商として
江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった。

旅宿として
この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった。


カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内前野良沢杉田玄白中川淳庵最上徳内高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている(#外部リンクを参照のこと)。


幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちはあまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の1つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペルカール・ツンベルクフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる。


カピタンの江戸参府は年1回行われるのが通例であったが、寛政2年(1790年)以降は4-5年に1回となり、参府の無い年にはカピタンの代わりに通詞が出府した。この商家はカピタン参府と通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客を受け入れていなかった。


旅宿として使われた建物には、一部に西洋風の内装、調度品が採り入れられていた。1946年(昭和21年)に運輸省が発行した『日本ホテル略史』は、この商家についての記述から始まっている。

その他の業務
安政
5年(1858年)10月、「蕃書売捌所(ばんしょうりさばきしょ)」を命ぜられ、長崎からの輸入蘭書の販売を行う。また町年寄樽屋藤左衛門の記録によれば、同年より「西洋銃」の「入札払」いもしていた。

沿革
長崎出身の江原源右衛門が、徳川家康の時代に江戸へ移り、初代長崎屋源右衛門となった。初代の頃から幕府御用達の薬種問屋であったが、享保20年(1735年)3月6日には幕府がこの商家に唐人参座を置き、幕末まで江戸での唐人参専売を行った。


カピタン一行の定宿となったのは17世紀前半、初代が逝去した後のことである。以後、嘉永3年(1850年)まで定宿として使われていた(安政5年、1858年に駐日オランダ領事官が江戸へ来た際には、この商家を宿としていない)。


江戸時代、日本橋一帯は幾度も大火に見舞われた。この商家もたびたび焼失し、カピタン一行が被災することも一度ならずあったが、焼失の都度オランダ商館からの援助を受け再建している。


万延2年(1861年)、第11代長崎屋源右衛門は本石町から転出した。2006年(平成18年)現在、この商家の跡地にはビルが建っており遺構は無いが、中央区から区民史跡として登録されており、新日本橋駅4番出口の脇に文化財としての説明が書かれたプレートが掲げられている。

参考文献
・坂内誠一『江戸のオランダ人定宿 長崎屋物語』(流通経済大学出版会、1998年) ISBN 4-947553-06-5

・片桐一男『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年) ISBN 978-4-642-05662-5

・片桐一男『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』 (中公新書ISBN 4-12-101525-8

関連項目
出島

外部リンク

・「葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋」早稲田大学図書館

長崎屋跡 - 中央区観光協会
(wikiより)


560a

560b

560c


明治大学創立者
  
岸本辰雄先生墓碑

嘉永四年 ( 1851 ) 十一月 ~ 明治四十五年 ( 1912 ) 四月


鳥取藩士・岸本平次郎の三男に生まれる。


幼名辰三郎。


倒幕のための新国隊の半隊司令官を勤める。


明治二年・箕作塾に入門。 


翌年、藩を代表し貢進生となり、大学南校に学ぶ。


明治五年八月、新設の司法省明法寮生徒となり、ボアソナードにフランス法を学ぶ。


明治九年、選ばれてパリ大学に留学し、法律学士の学位を取得。


帰朝後、明治十四年一月、宮城浩蔵、矢代 操とともに明治法律学校を創立する。


法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を勤める傍ら、初代校長として主に商法教育を担当し、「権利自由」・「独立自治」の建学理念を生み、明治大学発展の基礎を築いた。


明治三十八年方角博士となる。


明治四十五年死去。行年六十一歳。


岸本辰雄先生の生誕一五〇年を記念して

二〇〇一年(平成十三) 一〇月
                     明治大学
(案内板より)


〇 岸本辰雄
岸本辰雄(きしもと たつお、1851年11月13日嘉永4年10月19日) - 1912年明治45年)4月4日[1])は、日本法学者明治大学の創設者。

人物
因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校「尚徳館」で蘭式兵法を修める[2]


戊辰戦争に従軍後、1869年、箕作塾に入門。翌1870年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ[3]ボアソナードらにフランス法を学び1876年卒業。同年宮城浩蔵らとともにフランスに留学。パリ法科大学でフランス法律学士の学位を取得[4]。1880年に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師太政官御用掛等[5][6]


判事
の傍ら1881年(明治14年)1月17日、有楽町数寄屋橋の旧島原藩上屋敷(松平主殿頭家(とのものかみけ)旧邸、現在の千代田区有楽町数寄屋橋交差点そば)[7]において、宮城浩蔵矢代操らとともに明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。岸本は法学全般に通じていたが、宮城浩蔵が刑事法を担当したのに対し、矢代操と分担して主に民事法を担当。


この間に法制局判事法制局参事官司法省参事官大審院判事等を歴任。1889年には地元の鳥取県から第1回衆議院議員総選挙に立候補するが、すぐに辞退している。


1893年に弁護士登録。1897年東京弁護士会長。1905年法学博士となる。商法編纂委員、会社法編纂委員、破産法編纂委員、民商法施行調委員、法典調査会委員などを務める[8]


1912年(明治45年)4月、市電で明治大学へ向かう途中に脳溢血で倒れ死去。墓所は谷中霊園乙4号9側。


明治大学駿河台キャンパスリバティタワー23階に「岸本辰雄記念ホール」がある。出身地鳥取の藩校「尚徳館」跡地には、2006年に胸像が建立された[9][10]

詳しいことは、「岸本辰雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E8%BE%B0%E9%9B%84
(wikiより)


566 岸本辰雄

⇧ 岸本辰雄

566a

566b


伊藤玄朴は、近世後期の蘭方医。


寛政十二年 ( 1800 ) 肥前国仁比山 ( にいやま ) 村 ( 現・佐賀県神崎郡神埼村 ) の農家に生まれる。


医師を志し、長崎では通詞・猪俣伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。


文政十一年 ( 1828 )、江戸に出て、本所番場 ( ばんば ) 町 ( 現・墨田区東駒形一丁目 ) で開業、翌年下谷、長者 ( ちょうじゃ ) 町 ( 現・台東区上野三丁目 ) に転居し医療を施し、天保二年 ( 1831 ) には、佐賀藩医となった。


同四年、移転した下谷・和泉 ( したや・いずみ ) 橋通 ( 現・台東区台東一丁目 ) の家は、象先 ( しょうせん ) 堂と称し、訪れる者が列をなしたという。


玄朴は、嘉永二年 ( 1849 )、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締り令に対向するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。


安政五年 ( 1858 )、神田お玉が池 ( 現・千代田区岩本町 ) に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。


種痘所は、翌年火災による消失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。


万延元年 ( 1860 ) には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。


その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。


玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。


ドイツ人ビショップの著書の翻訳「医療正始 ( いりょうせいし )」は、現在でも高く評価されている。


なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊藤玄朴居宅跡の説明版が建っています。
(案内板より)


〇 伊藤玄朴
伊東 玄朴(いとう げんぼく、寛政12年12月28日1801年2月11日) - 明治4年1月2日1871年2月20日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立した。妻は長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の長女・照(1812年 - 1881年)。

生涯
寛政12年(1801年)、肥前国(現在の佐賀県神埼市神埼町的仁比山)にて仁比山神社に仕える武士・執行重助の子として誕生する。のちに佐賀藩士・伊東家の養子となる。実家の執行家は、佐賀藩着座執行家および櫛田宮社家執行家の一族と考えられる。また、養家の伊東家は、戦国時代龍造寺氏の譜代家臣・伊東家秀の子孫にあたる。


長崎の鳴滝塾で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。文政11年(1828年)のシーボルト事件では連座を免れた。


佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政5年(1858年)には大槻俊斎戸塚静海らと図り江戸お玉が池種痘所を開設、弟子の池田多仲を同所の留守居とした。同年7月3日、江戸幕府第13代将軍徳川家定脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用されたのは、伊東・戸塚が最初である。玄朴はこの機を逃さず蘭方の拡張を図り、同7日には伊東寛斎竹内玄同の増員に成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となった(なお、この時点で林洞海坪井信良が登用されたとするのは誤りである)。さらに同年10月16日、時のコレラ流行を利用し、松本良甫吉田収庵伊東玄圭ら蘭方医の採用を申請した。


文久元年(1861年)より、西洋医学所の取締役を務めた。同年12月16日には蘭方医として初めて法印(将軍の御匙=侍医長に与えられる僧位)に進み、長春院と号し、名実ともに蘭方医の頂点に立った。のちの緒方洪庵の江戸招聘も、玄朴らの推挽によるところが大きい。文久3年(1863年)1月25日、松本良順の弾劾により失脚、小普請入りとなる。元治元年(1864年)10月28日、小普請医師より寄合医師に昇格、いくぶん地位を回復するが、以後奥医師に返り咲くことはなかった。


明治4年(1871年)、死去。墓は東京都台東区谷中の天龍院にある。大正4年(1915年)11月、大正天皇即位の礼に際して従四位を贈られた。


なお、養子の伊東方成は、幕末期に林研海とともにオランダで医学を修め、明治天皇の侍医を勤めた。昭和天皇の侍医を勤め、その死を看取った伊東貞三も子孫である。

伝記文献

・鳥井裕美子「伊東玄朴―江戸の種痘所創設の立役者」、『九州の蘭学 - 越境と交流』247-252頁

 ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人 共編、(京都:思文閣出版、2009年) ISBN 9784784214105

伊東栄『伊東玄朴伝』(玄文社、1916年/複製版:八潮書店、1978年)

登場作品
小説

司馬遼太郎『胡蝶の夢』(新潮文庫ほか)

吉村昭『日本医家伝』(講談社ほか)

漫画

手塚治虫陽だまりの樹』(小学館文庫ほか)

村上もとかJIN-仁-』(集英社ほか)

TVドラマ

・『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:徳井優
JIN-仁-』(2009年、TBS、演:小林勝也

・『陽だまりの樹』(2012年、NHK BS時代劇、演:佐々木睦

外部リンク
伊東玄朴旧宅
(wikiより)


555   Ito_Genboku

⇧ 伊藤玄朴

555a

555b

555c


樋口逸斎 ( ひぐち いっさい )
文化 9年 ~ 明治 10年 4月 21日 ( 1812 - 1877 ) ・・・文化 12年説あり


書家。

名、日偏に麓 ( さい )・観之。通称、昌介・昌之助。字、子順。号、逸斎。父、樋口秩山。


幼時期より父秩山に書を学び、また独学で趙子昂も学び、さらに頼山陽に経史を学ぶ。


安井息軒と親交あり。


詩文も善くした書家。


養子に樋口竹香 ( 樋口敬之:1850 - 1926 ) がいる。


明治 3年 ( 1870 )秋 発行の「書家番付」の大家・名家欄に萩原秋厳・服部随庵・関雪江・柳田正斎・市河萬庵・山内香溪・樋口逸斎・高斎単山らの名がある。66歳没。


561a

561b


江戸時代後期の儒学者。地誌研究科。


宝暦二年 ( 1752 ) 水戸藩士の子として江戸に生まれた。


通称宇八郎、諱 ( いみな ) は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。


寛政八、九年 ( 1796 ~ 7 ) から文化十三年 ( 1816 ) 頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之 ( ぼくし、秋月庵 ) の『北越雪譜 ( ほくえつせっぷ )』や赤松宗旦 ( そうたん、義和 ) の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年 ( 1815 ) に寛政させた。


翌年筆渦事件により所沢を去って江戸に移った。


続編は門人の校訂によって文政十年に刊行された。


他の著作に『女考経捕注 ( おんなこうきょうほちゅう )』『干支考 ( かんしこう )』『琢玉斎漫筆 ( たくぎょくさいまんぴつ )』などがある。


文政十一年 ( 1828 ) 二月七日七十七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。
(案内板より)

558a

558b

558c

558d


会津藩家老 西郷頼母の屋敷跡である。


戊辰の役は数多くの悲劇を生んだ。


戦役が悪化し西軍が城下に殺到して籠城を知らせる早鐘が鳴ると家老の西郷頼母は急遽城に入った。


妻 千恵子は、夫を送り出した後、家を清め、はやこれまでと 三女 田鶴子 ( 九才 ) 四女 常盤子 ( 四歳 ) 五女 季子 ( 二才 ) を制し、一族二十一人それぞれ辞世の歌を詠み自刃した。

   
   なよ竹の風にまかする身ながらも
                
                 たわまぬ節はありとこそきけ


なお、一族二十一人の墓は、鶴ヶ城東南、門田町北青木善龍寺にあって毎年五月その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われている。
(案内板より)


556a

556b

556c

556d

556e

556f

556g


文応師は信州伊那の出身である。

天保十年 ( 1839 ) 同郡、専照寺の信州和尚のもとで剃髪し、その後諸国を巡り修行に励んだ。


嘉永六年 ( 1853 ) の冬、信州の貞祥寺の首座となる。


安政三年 ( 1856 ) 江戸牛込・長安寺の文庭和尚のもとに入り、その後を継いだ。


同六年 ( 1859 ) 二月越後の国・祖山に行き法を継いで袈裟を裁く。

綸旨を賜り武蔵国・宝蔵寺の住職なる。


また雨露に当たりながら各地を転居した後、小浜藩江戸酒井家の香華院長安寺の住職となり、よくその職務を果たした。


明治四年 ( 1871 ) 十月藩主はこの寺を廃したので師は浅草高徳寺に隠棲した。


時に政府は市内の墓地の使用を制限したので東京府民は困っていた。


文応師は、これを哀れみ大いに尽力して遂に政府の許可を得てここ染井の地に共同墓地を開設するに至った。
これは師の偉大な功績である。


明治二十九年の夏発病し、同三十二年五月二十一日、大往生を遂げる。

仏に仕えて六十二年、享年七十歳であった。
(案内板より)


538a

538b

538c

538d


↑このページのトップヘ