本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2019/06

妻木 頼黄(つまき よりなか[1])は日本の建築家。明治建築界の三大巨匠の一人。大蔵省営繕の総元締めとして絶大なる権力を持っていた営繕官僚。大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、明治時代の官庁営繕組織を確立した。国会議事堂の建設にも執念を燃やしたが、妻木の在世中に本建築が着工することはなかった。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。

経歴
1859年、上郷妻木氏7代頼幸の次男で、上総妻木家を継いで11代当主となった、幕臣旗本・妻木源三郎頼功の長男として江戸に生まれる。幼名、久之丞。父の頼功は、1862年長崎表立合御用として赴任するが現地で没した為、3歳で12代当主となった。明治9年(1876年)家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。辰野金吾の後輩に当たる。1882年、卒業1年前に中途退学し、アメリカ留学。コーネル大学建築学科3年に編入、同大学で学士号を取得した。 卒業ののち、ニューヨークのロバートソン事務所で修行。1885年帰国。


帰国後は東京府に勤務。1886年、議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めた。

官庁集中計画
の一環で、議院の研究のため渡辺譲河合浩蔵、職人らとともにドイツに留学した。1888年、帰国。結局、議院建築は木造の仮建築で建てられることになり、本建築の建設は見送られた。


大蔵省で港湾、税関、煙草・塩専売などの施設建設に当たった。1894年日清戦争の際、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設することが決まると、短期日で完成させ、この功績で叙勲を受けた。また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わった。


1901年欧米を視察、同年工学博士号を取得。


日露戦争
後、桂内閣のもとで再び議院建築の機運が盛り上がるが、辰野金吾らは公開コンペ開催を要求し、議院の設計を進めていた妻木らを批判した。桂内閣大正政変のため倒れた後、議院建築の計画も延期となり、妻木は官職を辞任。病気がちになり、1916年死去。

栄典
1896年(明治29年)6月15日 - 勲六等単光旭日章[2]

1900年(明治33年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[3]

1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[4]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[5]

1913年(大正2年)5月20日 - 正四位[6]

1916年(大正5年)10月10日 - 勲二等瑞宝章[7]

詳しいことは、「妻木頼黄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E9%BB%84
(wikiより)

853 妻木頼黄

⇧ 妻木頼黄

853a

853b

853c

853d



長宗我部元親公墓


長宗我部元親は、天文八年 ( 1539 ) 岡豊 ( おこう ) 城に生まれ、戸 ( と ) の本 ( もと ) 初陣以後次々と宿敵を降 ( くだ ) し、天正三年 ( 1575 ) には土佐を統一、天正十三年 ( 1585 ) 春には遂に四国全土を制圧するも秀吉の南制にあい、同年夏にはその軍門に降り土佐一国に減封されました。


元親は武略家としてのほか教養もあり、文化人としても評価が高く、内政面でも立法家として「長宗我部氏掟書」の制定や優れた検地記録である「長宗我部地検帳」の作成など、数々の業績を残しています。


慶長四年 ( 1599 ) 五月十九日、伏見で病没、享年六十一、法号・雪渓如三 ( じょさん ) 、火化の後遺骨は土佐に送られ、この天甫寺山 ( てんぽじやま ) に葬られました。


この墓の形式を宝篋印塔 ( ほうきょういんとう ) といいます。


今一代の英傑の眠る静寂のこの地にあって、瞬時の光芒を放ち、やがて歴史上から消え失せた長宗我部一族を想うとき、その哀惜の年止み難いものがあります。
(案内板より)

〇 長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国戦国大名長宗我部氏第21代当主位階従五位下で死後に正五位[3]、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。


長宗我部国親
の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。

土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなった。

土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波讃岐三好氏伊予西園寺氏河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。

生涯
家督相続
天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。永禄3年(1560年)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げた。


6月、父の国親が急死すると、家督を相続する[注釈 4]

土佐統一
元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における西南部の一端を除いて元親は悉くを支配下に置いた。永禄4年(1561年)3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と吉良城に追い込む。土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏と共同し、永禄5年(1562年)9月16日に朝倉城攻めを行う。このときは茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北した。9月18日には鴨部の宮前で両軍が決戦するも痛み分けに終わる。だが勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(1563年)1月に茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠もった。この年、美濃斎藤氏から正室を迎え、長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は国親の生前に香宗我部氏を継いでおり、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。本山方は5月に頽勢挽回を図って岡豊城を攻撃を企てるも失敗。永禄7年(1564年)4月7日には本山を放棄して瓜生野城に籠もって徹底抗戦する。だがこの最中に茂辰が病死[注釈 5]。 跡を継いだ親茂も抗戦するも遂に敗れて、永禄11年(1568年)冬に降伏した[6][注釈 6]。 こうして土佐中部を完全に平定した。


元親は永禄10年(1567年)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏へ独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571年)、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年(1574年)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年(1575年)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。

阿波・讃岐・伊予への侵攻
土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び[注釈 7]伊予国阿波国讃岐国へ侵攻していく。


阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。


天正6年(1578年)2月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。


伊予方面においては、南予地方では軍代であった久武親信が天正7年(1579年)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどした。しかし東予地方では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅妻鳥友春石川勝重らを味方にして平定。中予地方を支配していた伊予守護の河野氏毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。

織田信長との対立
天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず[注釈 8]、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る[注釈 9]。 元親は信長の要求を拒絶する[10]


このため信長と敵対関係になり[注釈 10]、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。


天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた[注釈 11]。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している[11]。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された[注釈 12][注釈 13]。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。

詳しいことは、「長宗我部元親ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
(wikiより)

829 長宗我部元親

⇧ 長宗我部元親

829a

829b

829c

829d

829e



八百屋お七・吉三郎の比翼塚は、昭和 41年 ( 1966 ) に建立されたものです。


江戸も前期、天和二年 ( 1682 ) 年十二月大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺 ( だんなでら ) である駒込の吉祥寺 ( きっしょうじ ) に避難しました。


そこで市左衛門の娘お七は寺小姓 ( てらこしょう ) の吉三郎と恋に落ちます。


やがて家も新築され本郷へ戻ります。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまりません。


天和三年 ( 1683 ) 年一月もう一度火事になったら吉三郎と逢えると思い、娘十六、お七は新築された我が家に放火してしまいます。
 
不憫 ( ふびん ) に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は正直に十六と答えます。


同年三月、伝馬町 ( てんまちょう ) から江戸引き回しの上、品川のここが見おさめ涙橋 ( なみだばし )、哀れ鈴ヶ森 ( すずがもり ) で火あぶりとなります。


これが【八百屋お七】の物語です。

でも、異説が多く相手の名前も佐兵衛 ( さへえ ) とか庄之助 ( しょうのすけ ) とか、避難先も小石川の円乗寺 ( えんじょうじ ) とか正仙院 ( しょうせんいん ) とか……。


吉三郎は放火をそそのかしたならず者で、本当の恋人の佐兵衛はその後、武蔵坊 ( むさしぼう ) という僧侶になって江戸六地蔵を建立したという説もあります。


目黒の大円寺 ( だいえんじ ) には、吉三郎が西運 ( さいうん ) という和尚 ( おしょう ) になって菩提 ( ぼだい ) を弔 ( とむら ) ったお七地蔵尊 ( じぞうそん ) があります。

930a



明治三十五年九月六日 藤代福太郎長男として芝に生まれる。


大正三年神田、大正四年に千代田区九段に移る、大正六年 ( 十五歳 ) より父につき刀剣研磨を習うと共に、七、八年頃日本刀剣研究会 ( 本阿弥光尊先生 ) に学ぶ。


押形を取ることを好み、刃文を描くこともまた巧にして大正十四、五年頃より青写真にて ( のち手刷り ) 亜鉛判オフセットにて「おしがた」を発行す。


この頃よりローラーによる、いわゆる藤代式押形を考案。


大正十四年頃より「通信刀剣目録」を発行、刀剣通信販売を創案、昭和八年春「藤代月報」と改称、昭和十八年六月二一四号まで発行す。


営業の傍ら蒐集せる押形を元に独自の研究による以下の著書をあらわす。 


昭和6年5月 源清麿の銘
昭和7年9月 刀剣便覧
昭和9年3月 刀剣圖録
昭和10年7月 名刀圖鑑(月刊)
昭和11年1月 江戸三作の研究
昭和12年1月 名刀全身押形集
昭和12年10月 日本刀工辞典:新刀編
昭和13年8月   同   :古刀編
昭和14年1月 刀工新撰
  ・同年8月 新古名刀一覽
昭和15年7月 日本刀要覧・日本刀研究の新道
昭和16年6月 名刀圖鑑七二集
( 印刷用紙不足によりこの集にて終わる )
  ・同年12月 新刀集(刃文と銘字)
昭和18年6月 新々刀集(刃文と銘字)
( 用紙配給更に減少「続新刀集」「末古刀集」等ならず )

昭和十八年八月刀剣商を廃業、刀剣鑑定に専心す、二十年八月終戦と共に米軍による刀剣没収に心を痛め十二月十日消息を絶つ。

よってこの日を命日とす、行年四十三歳。

906 藤代義雄

⇧ 藤代義雄

906a

906b



富田 木歩(とみた もっぽ、1897年4月14日 - 1923年9月1日)は俳人。本名は一(はじめ)。東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)生まれ。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されるが、関東大震災で焼死した。26歳の生涯であった。

富田木歩の生い立ち
富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だった。木歩の祖父は明治のはじめに向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった竹屋の渡しも所有していたが、その七男丑之助すなわち一の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889年(明治22年)の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897年(明治30年)ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だった。


父丑之助、母み禰の次男として生まれた木歩の本名は一(はじめ)。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉、長女富子と次女久子がいた。「次男を一(はじめ)と名付けたのは母の実兄、野口紋造に子供がないことと、口減らしの意味もあって妹の次男を養子に貰い受ける約束で、そう命名して産着を贈って祝った。名は一の字をハジメと呼ぶのだが、家の者はみな一(はじめ)をイチとして、イッチャンと呼ぶならわしになってしまった。」[1]


木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまい、長じるに従がって、腰から下が目立って細くなり、特に膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、生涯歩けない体となってしまった。両足がきかなくなって、家の中を這いずるか、躄(いざ)っていたという。養子の約束は伯父の方から破約された。そして弟の三男利助が生れ、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。


「母親のみ禰は無学の上に、酒と花札不動明王詣を生き甲斐としている働きのない女だった。毎月、木歩を背負って富田家の菩提寺である向島最勝寺 (江戸川区)(さいしょうじ)の目黄(めぎ)不動尊へお詣りに通ってはくれても、小学校へ負ぶって通わせようなどとは思いつきもしなかった。」[2]

少年期
木歩は、小学校に行きたかったが、身体障害と貧しさのために、小学校にも通えず、無就学児童となった。当時の「いろはがるた」や「軍人めんこ」で文字を姉の富子や久子に読んで貰い覚えた。頭脳明晰の木歩少年は早くも巖谷小波のお伽噺や小波主筆の「少年世界」を読めるようになった。少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得した。また小波の俳句によって十七文字の日本特有の短詩の存在をおぼろげに知った。

1907年(明治40年)8月に全国的な大水害で、隅田川が決壊する大洪水があり、店は軒先まで水没して、家や店は大きな被害を受けた。父丑之助は店の再興資金のために、二人の姉は上州高崎の遊郭へと売られて行き、足萎えの木歩にも玩具造りの内職をさせて、苦しい家計を助けさせるに至った。さらに、3年後の1910年(明治43年)木歩13歳の8月にも、関東一円から宮城県下まで大洪水で、東京府内では隅田川ほとりの町が最も惨状だった。富田家はこの大洪水によって大打撃を受け、いよいよ貧困に陥った。1912年(大正元年)父親も不遇のうちに世を去ってしまった。


家業は兄金太郎が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷の小店に引越し、そこで再び鰻屋「大和屋」の暖簾を掲げた。金太郎は浅草の馬肉料理屋の中居をしていた、身寄りもない梅代と結婚した。梅代は片足が不自由だった。


1913年(大正2年)16歳の木歩も口減らしのために、近所の型屋と呼ばれる友禅型彫師の高木伊三郎の店へ徒弟奉公に出された。勿論、木歩は歩けないので、四つん這いで働いていた。辛い仕事であったが、そこで仕事上では兄弟子の土手米造と出会った。広島県生まれ、二つ年下の14歳の米造は、冷たい朋輩の中で、木歩に優しく親しんだ。だが、その米造が主人から暇を取って郷里広島県へ戻った。木歩は話し相手もなく、友禅型彫りの仕事も辛い仕事であり、果てしなく続く陰湿ないじめに、ついに耐えられずその年の冬、家に戻った。半年の奉公だった。だが戻った「大和田」に木歩の居場所はなかった。木歩の奉公に出ている半年の間に嫂の梅代は子を生み、「大和田」は兄夫婦中心の家になっていた。


同じ向島の小梅町から移ってきたとはいえ、金太郎一家は余所者である。世間の人々の陰口で「殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ」と言われたり、店の客商売にも障りとなるのを知って、木歩と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌(どじょう)屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、あたたかい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれた。


叔母の家に移る前、木歩は、叔母が買い与えた細い材木で、苦労して松葉杖と義足を作った。しかし、結果は無惨であった。弟妹に助けられて立ち上がることは出来ても、そこから一歩踏み出そうとすると、木歩はまるで丸太が倒れるように、顔面から床に落ちた。何度やってみても、ただの一歩すら進むことが出来なかった。細く萎えた下肢には、身体を支える力などなかったのである。木歩の歩く夢はこうして儚く潰え去った。母たちも何にも言えず涙ぐんだ。


大好きな少年雑誌を読むことと、そのころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして、吟波の俳号で俳句の試作を始めた。木歩の俳句との出逢いは1913年(大正2年)頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ、俳句を作るようになったという。木歩のために、雑誌を買って来てやる役を親切にしたのは、従兄弟の富田松雄だった。この従兄弟も足こそ満足だが、聾唖者だった。


木歩は、はじめ「石楠(しゃくなげ)」主宰の臼田亞浪が選をする「やまと新聞」俳壇に投句し入選をつづけ、1914年(大正3年)「ホトトギス」8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた「俳句の作りやう」欄に吟波の名で投句した、「朝顔や女俳人の垣穂より」の一句が「少年吟波」の名で初入選した。原石鼎は忙しい中を再三指導に来てくれた。三度の食事を二度にしなければならないような、放浪困窮の生活を味わってきた石鼎は、吟波の家の貧しさにもそう違和感を抱かずに、来てくれるのだった。しかし、石鼎はあまりにも芸術家的であり、放浪型の天才肌のそのタイプには、吟波にはなじめない何かがあったのである。」[3] その後、原石鼎から遠ざかり「ホトトギス」からも離れた。

青年期
1915年(大正4年)、木歩は臼田亞浪に師事、「石楠(しゃくなげ)」に投句した。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだった。


「どうやったところで、石鼎のような自然を詠むこと、芸術的な感覚を主にした作品の世界に入りこんでしまうことは、吟波にはとても出来ないことだった。現実の中で現実を詠んでいくよりない。苦しくても貧しい身の周りであろうとも、それを現実としてガッチリ受けとめ、その生活の中に詩を見つけていくより仕方ないのだ。吟波はそういう文学観、人生観を自然に会得していた。木の足に頼ることを諦めるより仕方なくなって、歩けない自分のままで生きるしかないのだという覚悟が、揺るぎなく坐ってきたように、一つの人生観が出来ていたとも言えるのだろうか…。ともかく、吟波は自分の身の周りから俳句を生んでいこうと、眼をこらし、心を澄ますことに熱中するのだった。」[3]


その年、富子と久子と金太郎の三人が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通りの棟割長屋を借りてくれた。木歩は、母み禰、弟利助、妹のまき子と静子らと一緒に叔母の家からそこへ移った。長姉の富子はその頃、須崎の芸妓屋「新松葉」の主人白井浪吉の妾となって、高崎から向島へ戻ってきており、次姉の久子は北海道の昆布商人の妾となって小樽に移り住んでいた。まき子は印刷工場に通い、利助は玩具店で働きはじめた。母み禰と木歩はその玩具店から人形の屑削り(鋳型の泥人形のふちの屑を削り取る作業)の内職を回してもらった。だが、その仕事は不定期で収入が安定せず、少しでも日銭を稼ごうと駄菓子屋も始めた。開店の費用は、富子と久子が都合してくれた。


1916年(大正5年)、木歩は棟割長屋の駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げた。広島に帰っていた、土手米造が再び上京し、旧交をあたため、木歩の俳句の弟子となり、句作に熱心だった。木歩は米造の俳号を「波王」と名付けた。かつての型紙職人の朋輩を誘って、ほかに近くの向島医院の代診の亀井一仏など数人の弟子ができた。「小梅吟社」に近所の若い職工などもやって来るようになった。また木歩は、父や兄が遊び人であったおかげで藤八拳花札がめっぽう上手く、百人一首にも長じていたため、小梅吟社は俳句団体というより少年少女の倶楽部であり、若者らの明るい声に包まれる社交場となった。


実際、木歩のことを先生と呼ぶものは誰もおらず、皆「いっちゃん」と呼んで親しんだ。また、まき子や隣家の小鈴の美貌に惹かれてやって来る若者も少なからずあった。その後二年半、貧しいながらも明るく落ち着いた暮らしの中、木歩は一途に俳句にのめりこんでいった。


女流作家で俳人でもある吉屋信子は、1963年(昭和38年)生前の新井声風に会い話を聞き、著書「底の抜けた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』」の中で、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いている。「……その狭い長屋の六畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった……」[4]

木歩の置かれた苛酷な境遇と、純真な才能溢れる青年像、これは生涯の友となる声風にも驚きであった。

詳しいことは、「富田木歩ウィキペディア」をご覧ください ⇩

874a

874b




「東京都立光明養護学校 発祥の地」( 港区南麻布二丁目九番二十五号 )


学制公布後、わが国の児童の就業率は上昇してきましたが、肢体不自由児の教育は取り残されてきました。


昭和六年 ( 1931 ) 東京市教育局は市内十五区の学齢児を調査して、1,200名の肢体不自由児の三分の一が未就学児であることを見出しました。


そこで、当時就学免除の対象と考えられていた肢体不自由児のために、小学校に類する各種学校 (「小学校令」第十七条 ) として、昭和七年 ( 1932 ) 六月一日、東京市長・永田秀次郎によって命名され、わが国最初の肢体不自由児学級となりました。


開設当時は、一年から六年まで六学級九十名の児童が学び、各学級で学習指導を行う教員のほかに看護婦が配置され、マッサージなどの治療を行いました。


また、普通教科の他に生活科や職業科なども設け、養護と訓練を徹底的に行いました。


児童のもつ才能を存分に伸ばす教育は、現在の肢体不自由児教育の基礎となっています。


昭和十四年 ( 1939 ) 九月、世田谷区松原に新校舎が落成移転し、当地には麻布分校が残りましたが、同二十年 ( 1945 ) 戦災により消失しました。


その後、東京都立光明養護学校と改称し、小学部、中学部、高等部を世田谷区松原に設置し、現在に至っています。
(案内板より)

842c

842b

842a



萱野 長修(かやの ながはる)は、江戸時代末期(幕末)の会津藩家老戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として処刑された。通称は権兵衛(ごんのひょうえ)[* 1]

生涯
萱野家は会津藩の番頭や奉行を務める名家であり、父の長裕は家老[1]に取り立てられた。家禄1,500石[2]。長修は文久3年(1863年)に家督を継いで藩主松平容保に仕えた[1]慶応元年(1865年)に家老に任じられ[1]て以降は容保の側近としてその補佐役を務めた。権兵衛を襲名したのはこの年であった[3]


慶応4年(1868年)、戊辰戦争の端緒である鳥羽・伏見の戦いの時には京都におり(柴太一郎[* 2]の証言)、その後は日光方面へも出撃。会津戦争時には大寺にて迎撃体制にあるも、新政府軍は南方の母成方面を進路としたために戦闘にはならず、若松城が包囲されてからは、高久に布陣して城内との連絡や補給に従事した。開城後は東京へ送られ松平喜徳と会津藩士5名と共に久留米藩邸にお預けとなり新政府による沙汰を待つ事になった[1]。戦後、長修は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君を命がけでかばった。このため容保は幽閉で済むことになったが、その代わり、上席3人の処断が決まったが、上役3人は行方不明または戦死していたため、第4席の長修が刑死した。公文書には刎首[4]とあるが、飯野藩保科家下屋敷での保科家家臣・沢田武治の介錯[1]による自刃[3]である。


長修は一刀流溝口派の相伝者で、奥義が絶えるのを惜しみ、死を前に火箸を使って井深宅右衛門に伝授した[1]話が知られている。墓は東京白金の興禅寺[1]と会津若松市の天寧寺[5]にあり、現在も墓前祭が行われている。享年は40説と42説があり三男の郡寛四郎が作成した系図には42歳と記されている。


萱野家
萱野家は会津松平家に仕える前は、先の領主であった加藤明成の重臣であった[6]。加藤家が改易となり、保科正之が入部するに際し、権兵衛の9代前の萱野長則は城受渡しの責任者の1人であった[6]。明成に従って石見国まで赴いたが、明成から保科家に仕えるよう勧められ会津松平家家臣となった[6]


初代・最高裁判所長官三淵忠彦は権兵衛の甥に当たるが、その選任に際し、諮問委員の一人[7]であったのは容保の子である松平恒雄である。作家の郡虎彦は三男・郡寛四郎(日本郵船船長)の養子[8]

詳しいことは、「萱野権兵衛ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E9%95%B7%E4%BF%AE
(wikiより)

825 萱野 権兵衛

⇧ 萱野権兵衛

825a

825b

825c



江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。


神田紺屋町三丁目、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。


明治二年 ( 1869 )、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。


明治五年 ( 1872 ) には、町の北側にあった、江戸時代前期から続く武家地の一角も編入されています。

通称「お玉が池」と呼ばれていたあたりです。


「紺屋」という町名は、江戸時代から明治期にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。


昭和二十二年 ( 1947 )、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田紺屋町となりました。


その後、昭和四十年 ( 1965 ) の住居表示の実施にともなって、神田東紺屋町の一部は神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩本町の一部と合併して、岩本二丁目となり、現在に至っています。


岩本町二丁目東紺町会
(案内板より)

822a

822b

822c




その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右に小高い丘陵地帯を「高縄手 ( たかなわて )」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。


誰いうとなくこの榎を「二本榎 ( にほんえのき )」とよぶようになりました。


それがそのまま「二本榎 ( にほんえのき )」という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。


戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院の境内に夫婦の榎を
植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。


平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています

この「碑」はこの住民にとって大切な象徴となっております。


高輪二本榎町会
(案内板より)


815a

815b

815c



その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右に小高い丘陵地帯を「高縄手 ( たかなわて )」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。


誰いうとなくこの榎を「二本榎 ( にほんえのき )」とよぶようになりました。


それがそのまま「二本榎 ( にほんえのき )」という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。


戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新植・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。


平成十七年 ( 2005年 ) 十二月 港区
(案内板より)

814a

814b



大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本大久保忠員の八男。通称彦左衛門で有名。一時、忠雄とも名乗った。子に大久保忠名大久保包教大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。

生涯
永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)にて誕生。幼名は平助。


三河国の戦国大名徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世と共に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、兄たちの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信と槍を交え、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。また、兄・忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の後見を務めていたが、天正13年11月に石川数正出奔を受けて浜松城にいた忠世の代理として忠教が康国の小諸城に入って真田氏に備えている[1]


天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥・忠隣相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に同行し第二次上田合戦に加わった。


このころ、次兄の忠佐駿河国沼津城主となって2万石を領していたが、忠佐の嫡子・忠兼が早世したため、弟の忠教を養子として迎えて跡を継がせようとしていた。これに対し忠教は、「自分の勲功ではない」と申し出を固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。続けて本家の忠隣が江戸幕府内の政争に敗れ失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1000石を拝領し復帰した。


慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。寛永12年(1635年)ごろから常陸国鹿嶋茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。


寛永16年(1639年)、死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。法名:了真院殿日清。墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。



講談・講釈の中の忠教
・俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。


・忠教自身、自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実ではあるらしい。


・いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子・河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。


・なお、鳶ヶ巣砦の攻撃を忠教の初陣としているのも講談での脚色の可能性が高い。

登場作品
大久保彦左衛門を題材とした作品
・テレビドラマ

 ・『彦左と一心太助』(TBS1969年 - 1970年、演:進藤英太郎

 ・『大久保彦左衛門 (テレビドラマ)』(関西テレビ1973年、演:進藤英太郎

 ・『天下御免の頑固おやじ 大久保彦左衛門』(TBS1982年、演:森繁久彌

 ・『江戸の大騒動-太助・家光・彦左-』(CX1982年、演:東野英治郎

 ・『遊の人・天下の御意見番大久保彦左衛門』(TBS1991年、演:森繁久彌

・小説

 ・『彦左衛門外記』(山本周五郎著、新潮社

その他の作品
・テレビドラマ
・『家光が行く』(NTV1972年、演:ハナ肇
・『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(TBS1973年 - 1974年、演:片岡千恵蔵
・『徳川三国志 (テレビドラマ)』(NETテレビ1975年、演:辰巳柳太郎
・『将軍家光忍び旅』(テレビ朝日、1990~1993年、演:神山繁
・『家光謀殺 三代将軍に迫る謎の暗殺軍団!』(ANB1995年、演:金田龍之介

脚注
1. 鈴木将典「依田松平氏の信濃佐久郡支配」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9

関連項目
大久保氏
幸田町 - 忠教をゆかりの人物として掲げ、毎年7月末に「彦左まつり」と呼ばれる歩行者天国の祭りを開催している。
大久保彦左衛門 (テレビドラマ)

外部リンク
大久保氏系譜

大久保彦左衛門忠教の年表[リンク切れ]

大久保忠教の墓『歴史写真. 大正10年2月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)
(wikiより)

824 大久保 忠教

⇧ 大久保忠教

824a

824b

⇧⇩ 大久保忠教の碑

824c

824d

⇧ 一心太助の碑

824e

⇧ 大久保家の墓群

824g

⇧ 大久保忠教の墓


824f

⇧ 奥様のお墓です



松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末大名陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主[注釈 1])。京都守護職高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

生涯
誕生
天保6年(1835年)12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれる。

母は側室の古森氏。幼名を銈之允と称す[1]


弘化3年(1846年)4月27日、実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第8代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった[2]


嘉永
4年(1851年)、会津へ赴く。文武を修め、追鳥狩を行い、日新館に至り文武の演習を閲す[3]

会津藩主就任
嘉永5年(1852年)2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主・肥後守となる[4]


嘉永6年(1853年)4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る[4]。10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる[4]


安政元年(1854年)10月3日、台命(将軍の命)により、駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる[3]


安政2年(1855年)10月2日、大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる[3]


安政6年(1859年)9月、品川の守備を解かれ、蝦夷地の守備を命じられる[4]

幕府水戸間の調停と幕政参画
万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こる。老中久世広周安藤信正尾張紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は、問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる[5]

京都守護職就任

文久2年(1862年)28歳

5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与[6]


閏8月1日
京都守護職に就任する。この時、容保は時疫にかかって病の床にあり、再三これを固辞した。容保は「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命と藩祖の遺訓を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と断り続けたが、政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する[7]


家老の西郷頼母田中土佐らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。西郷・田中や家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、

「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」

とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという[8]

幕府への建議書
容保はまず、家老田中土佐、公用人らに先発させ、京の在任準備、情勢視察をさせた。国家混乱を治めるため目的は公武一和(天皇と幕府が協力し国内の混乱を平定、その上で対外政策を取る)となり、そのため容保は幕府へ建議書を提出する。その内容は低頭謙虚な挨拶から始まり、天下の体制、朝廷の幕府への不信、上は孝明天皇の叡慮である鎖国、下は人民たちの主張の攘夷、これらを尊重しつつ、諸外国の長所を取ること、巨艦大砲の軍備の備え、などに至っている。孝明天皇が幕府と力を合わせることを望んでいることから、この時点で容保の考えは朝廷と幕府が力を合わせ(公武合体)、叡慮(天皇の考え)や世論は鎖国攘夷であるがこれを徐々に少しづつ開国に向かわせることとなっている。その上で次の対策を挙げている[9]


1. 夷人の無礼や驕慢に毅然とした態度をとり、江戸府内の居住を制限する。

2. すでに開港した三港(長崎横浜箱館)はそのままとし、その他の条約で定められた兵庫新潟の開港と江戸大坂の開市は延期するよう外国と交渉する。

3. 朝廷より江戸へ下る勅使の待遇を改め、礼節をもって迎えること。


この容保の建白を幕府は採用し、開港を5年延期することに成功し、列国の公使館が品川の御殿山に新築され制限された。また、勅旨を携え江戸に到着した三条実美は好感をもって帰京し、孝明天皇はこの建議書の話を聞き「中正の卓見である」と嘉賞して喜んだ[10]

「言路洞開」と「策を用いるな」
文久2年12月24日、会津藩兵を率いて上洛する。この日は道の両側にその行列を見る市民が、蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に本禅寺を休息所として旅装を礼装に改め、関白近衛邸にて天機(天皇の御機嫌)を伺い着任の挨拶をした。その後、金戒光明寺に入った。この行動が折り目正しいと、都人から好感と評価を得ることになった[11]


文久3年(1863年)29歳


1月2日、参内。小御所にて初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜う。「陣羽織直垂に作り直すがよい」と恩詔がある。これは前年に幕府へ意見した「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」に尽力した功であり、武士で御料の御衣を賜るのは古来稀有のことであった[12]


2月、この頃容保は公卿の薄禄と窮乏の改善にも取りかかっている。天皇家の御料は戦国以来旧習の定額にもかかわらず物価は何倍にもなり窮乏を極め、中には内職で生計を立てている者もいた。そこへ幕府の裕福へのねたみがあり、さらにはそこへつけいり利用する過激浪士がいたことから公武一和の障害となっていたためである。容保は天皇家の御料の見直しと定額制廃止を幕府へ建議する。孝明天皇の食卓にでる魚に関しても、食べられる品質のものではなく、箸をつける素振だけすることが決められていた。それを聞いた容保は、急ぎ大阪湾より新鮮な魚を直輸送し献上している。天皇は「これは肥後の魚か、これは肥後の魚か」と繰り返し、喜び、さらにはほぼ魚の身を食べたというのに「次の食事の時に続きを食すのでそのまま出すように」と名残惜しんだという。


次に京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り、暴徒の警戒を行った。その頃、京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し、治安の最も下がった状態にあり、日に2、3度は暗殺が行われ、その首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり、邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず、「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らないため、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令し、幕府へも建議した。しかしこの時、一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の轟武兵衛、長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが、容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている[13]


2月7日、山内豊信の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して鷹司輔煕のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた[14]


2月22日、足利三代木像梟首事件が起こる。攘夷派浪士により等持院にある足利将軍3代の木像の首が引き抜かれ、三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような凶暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命した。


2月25日、過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。


以後、治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい、職の責任を重んじ尽くした[15]

詳しいことは、「松平容保ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E4%BF%9D
(wikiより)

818   Matudaira_Katamori

⇧ 松平容保

818a

818b

818c

818d

818e

818f




静間小次郎 ( しずま - こじろう )
( 1868 - 1938 )

明治 - 大正時代の舞台俳優。


慶応 4年 7月 15日生まれ。


小学校教師をへて、明治 24年 川上音二郎一座に加わる。


32年大阪で一座を結成、のち京都で定 ( じょう ) 興行を行う。


立役 ( たちやく ) を得意とし、関西新派に重きをなした。


昭和 13年 6月 20日死去。71歳。


周防 ( すおう )( 山口県 ) 出身。

俳名は雲外。屋号は時雨庵。

819a

819b




双鶴飛天の図のオブジェが向かい合って有ります

作者は、平山郁夫さんです。


〇 平山郁夫
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日[1])は、日本画家教育者日本美術院理事長一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号広島県名誉県民広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。


子に古代生物学者の平山廉早稲田大学教授)。妻は平山美知子(公益財団法人 平山郁夫シルクロード美術館館長)。実弟は平山助成海上自衛官 海将補(防衛大学校10期)、現平山郁夫美術館(広島県尾道市)館長。

人物
旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠広島市への原子爆弾投下により被災[1][2]。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。


第二次世界大戦
後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する[1]


東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。


仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。


郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している[1]。その成果は奈良薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。


アッシジ
のサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や[1]ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介[3]して高句麗前期の都城と古墳高句麗古墳群世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章した。


また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアアンコール遺跡救済活動、敦煌莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

批評
日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く、日中友好協会会長も務め、「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。


一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」として批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という根拠薄弱な説に基づいて寄付金を募り、梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学(後に国立大学法人)である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示即売会で多額の利益を上げている点などを批判されることもある。 東京藝術大学学長を辞任した1995年には岩橋英遠の「赤とんぼ」という作品からの盗作疑惑が持ち上がっている[4]

詳しいことは、「平山郁夫ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB
(wikiより)

811 平山郁夫

⇧ 平山郁夫

811a

811b

811c

811d

811e



杉本哲郎 ( すぎもと - てつお )

日本画家。

滋賀県生。京都絵専卒。

はじめ山元春挙の門に学ぶが、次第に仏教美術傾倒、印度・蒙古等の壁画を模写し、カンボジア・ジャワ等でも仏教美術調査を行うほか、宗教発生の世界各地を巡り、キリスト教絵画・エジプト絵画まで幅広く学び、力感溢れる宗教画を描いた。

印度国立中央大学教授。

京都市文化功労者。

昭和60年(1985)歿、85才。

820 杉本哲郎

⇧ 杉本哲郎

820a

820a2

820a3



西宮宣明 ( のぶあき ) は、水戸藩の学者。

弘道館訓導。松宇は雅号。


天保十年 ( 1839 ) には異本八種を校訂し、「常陸風土記」を公刊した。


天保十二年 ( 1841 ) から明治十五年 ( 1882 ) まで「松宇日記」を残した。


明治元年 ( 1868 )、新政府に出仕し、山陵調査に当たった。


藩内の藤田東湖、会沢正志斎らのほか、藩外では橘守部、伴信友とも交友があった。年82で没。

821a

821b

821c

821d

821e



1993年4月に、錦華小学校・小川小学校・西神田小学校を併せて統合し、お茶の水小学校となる。

お茶の水幼稚園も併設する。


卒業生
・夏目漱石 ( 文豪 / 旧・錦華小学校 1期生出身 )

・滋賀重列 ( 建築家、東京高等工業建築科長 / 旧・錦華小学校 1期生出身 )

・波多野完治 ( 文学者 / 旧・錦華小学校出身 )

・石川忠雄 ( 慶應義塾大学元塾長 / 旧・錦華小学校出身 )

・清水 司 ( 早稲田大学元総長 / 旧・錦華小学校出身 )

・石川 武 ( 三井住友海上火災元会長 / 旧・錦華小学校出身 )

・高林恒夫 ( 元読売ジャイアンツ / 旧・錦華小学校出身 )

・北城恪太郎 ( 経済同友会代表幹事 / 旧・錦華小学校出身 )

・藤原正彦 ( 数学者 / 旧・小川小学校出身 )

・加賀まり子 ( 女優 / 旧・小川小学校出身 )

・三宅裕司 ( タレント / 旧・西神田小学校出身 )

808a

808b

808c



〇 奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)

この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。


これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。


このことからも、境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。

798a



明治二十五年 ( 1892 ) 銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。


明治三十八年 ( 1905 )、日露戦争の旅順要塞 ( りょじゅんようさい、中国東北部 ) 陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。


当地にある石碑は、この時建てられた記念碑です。


石碑正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋區同志會」と陰刻されています。


設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。


対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目 ( 現在の勝どき一・三町目の境 ) の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。


勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。


とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。


大正十二年 ( 一九二三 ) の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。


渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年 ( 一九四〇 ) 六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。


勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
(案内板より)

789a

789b

789c



荷田東丸は、京都伏見稲荷社家に生る。

通称・羽倉斎本名信盛なり。


元禄十三年 三代将軍・家光五十年祭に勅使として、大炊御門前右大臣・経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で、享保七年まで在府せり。


その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり。


その講席は当社神主・芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人・岡部三四真渕もこの邸を借用せり、当時神主は芝崎宮内少輔好高、その男・宮内大輔好寛その舎弟・豊後守好全の三代約百年に亘れり、然も好全妻女は東丸の女直子なり、されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師・東丸のために尽し学園の場を供して国学振興に寄与せり。

師・東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき。


殊に元禄十五年、門弟の宗徧流茶人・中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る。


この東丸出てて吾が国学は加茂真渕、本居宣長と伝統して今日に至る。


今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ。。 ( 今 東光撰文 )

783a

783b



〇 江下武二 えした - たけじ ( 1910 - 1932 )
昭和時代前期の軍人。

明治 43年 11月 22日生まれ。

昭和6年久留米工兵第十八大隊に入隊。

翌年の上海事変に出征し、2月22日廟行鎮(びょうこうちん)で中国軍陣地の鉄条網破壊のため、北川丞(すすむ)、作江伊之助とともに点火した爆薬破壊筒をかかえて突進し爆死した。

爆弾三勇士のひとり。23歳。佐賀県出身。


〇 北川丞 きたがわ - すすむ ( 1910 - 1932 )
昭和時代前期の軍人。

明治 43年 3月 8日生まれ。

昭和 6年久留米(くるめ)工兵第十八大隊に入営。

7年上海事変に出征し、2月22日廟行鎮(びょうこうちん)で江下武二、作江伊之助とともに中国軍陣地の鉄条網に爆薬破壊筒をもって突入し,爆死した。23歳。

軍神として顕彰され,伍長に特進,爆弾(肉弾)三勇士の名で熱狂的にたたえられた。長崎県出身。


〇 作江伊之助 さくえ - いのすけ ( 1910 ‐ 1932 )
昭和時代前期の軍人。

明治 43年 10月 17日生まれ。

昭和 7年 2月 22日第1次上海事変の廟行鎮(びょうこうちん)の戦闘で久留米(くるめ)工兵第十八大隊の一等兵として歩兵の突撃路をつくるため、江下武二,北川丞(すすむ)とともに爆薬筒をかかえて鉄条網に突入、生還できず爆死。23歳。

陸軍が覚悟の自爆と発表したため爆弾(肉弾)三勇士として熱狂的にたたえられた。長崎県出身。


爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、独立工兵第18大隊久留米)の江下武二(えした たけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)の3名の一等兵である。1932年第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。肉弾三勇士とも言われた。

1045   Three_Human_Bombs-Osaka_Asahi

⇧肉弾三勇士(左より右へ:江下武二、作江伊之助、北川丞)、『大阪朝日新聞


概要
第一次上海事変中の1932年昭和7年)2月22日日本軍蔡廷鍇率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカ鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するため、鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死したが、鉄条網の破壊には成功した。戦闘工兵の任務の中でも非常に危険性が高いものではあるが、必死の作戦ではなかった[1]


当時陸軍大臣荒木貞夫がこの件を爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)と命名[2]大阪毎日新聞東京日日新聞は「爆弾三勇士」を使い、大阪朝日新聞東京朝日新聞肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)と称した。吉川弘文館国史大辞典』では前者、平凡社世界大百科事典』第2版では後者の名称により解説されている[3]


3名は戦死後それぞれ二階級特進して、陸軍伍長となる[4]。事件の直後2月24日には『東京朝日新聞』で「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に『西部毎日新聞』で「忠烈まさに粉骨砕身」、『大阪朝日新聞』で「葉隠れ主義の露堂々」など、美談として広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられた。軍国熱も高まり映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる弔慰金が集まった。


しかし、3名の死は技術的失敗によるものという説もあり[5]、それによると「導火線を短く切断し、予め導火線に点火して突入したところ、3人の先頭に立った北川丞が撃たれ、3人とも倒れてしまいタイムロスを生じ、戻ろうとしたところそのまま突っ込めと言われたので、その通り突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が爆発してしまった事故」とみている。同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊も同様の攻撃を行い、戦死者はこの3人の他にも出ている。

反応
新聞各紙は「まさしく『軍神』—忠烈な肉弾三勇士に、『天皇陛下の上聞に達したい』。陸軍省は最高の賛辞」(大阪朝日・1932年2月25日)などの最大級の賛辞から、「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(大阪朝日・1932年2月27日)というファナチックなものまで無数の記事を連日のように書き、弔慰金の金額と寄託者を一面に載せた。『大阪朝日』には34,549円、『大阪毎日』には30,575円の弔慰金が集まった。さらにキャンペーンはエスカレートし、三人の遺族による靖国神社や陸軍省訪問記事を情感たっぷりに書き、新聞購読者をより多く獲得しようとした。後述の歌もその一環である。

1045    Bronze_Statue_of_the_Three_Human_Bullets

⇧ (大東京)國の華忠烈肉彈三勇士の銅像、青松寺


映画では急きょ日活新興キネマといった大手の映画会社から、河合映画製作社赤沢映画東活映画社、福井映画社といった群小のプロダクションの計6つの映画社が競ってドラマチックな愛国の美談として映画化。事件報道後10日足らずの3月3日に新興と河合が封切り、6日に東活、10日に日活、福井も3月17日、と事件の起こった翌月3月に中に7本の映画が封切られた。いずれも無声映画。いち早く作られたものは既存の外国映画の戦争場面に新撮された場面を加える粗雑な作りで、いずれも映画の完成度は拙速であるのは否めなかった。前年の満州事変から日本軍の戦場での悲劇や美談をモチーフに多くの映画が劇場公開され、軍国熱をいやが上にも煽ることになった[6]。当時の報道機関は新聞とNHKラジオだけだったため、この種の映画は大衆性の強いニュース映画でもあった。


彼らを題材に大阪毎日新聞・東京日日新聞や東京朝日新聞などがそれぞれ顕彰歌の歌詞を公募し、大阪毎日・東京日日が与謝野鉄幹作詞・辻順治作曲による「爆弾三勇士の歌」、東京朝日公募1席が中野力作詞・山田耕筰作曲、2席が渡部栄伍作詞・古賀政男作曲による「肉弾三勇士の歌」になった。以上2曲とも歌:江文也・日本コロムビア合唱団。


歌舞伎文楽新派新国劇新声劇曾我廼家五郎劇志賀廼家淡海劇エノケン浪曲落語三亀松映画説明(活動写真弁士)流行歌都都逸安来節レコード劇軍歌小唄琵琶音頭、果ては童謡まで、検閲があるにも関わらず、先を競うように急ごしらえで三勇士ものが制作・上演された。


・東京木挽町歌舞伎座「肉弾三勇士」3月6日初日(歌舞伎)

・東京新宿新歌舞伎座「上海の殊勲者 三勇士」3月6日差し替わり(歌舞伎)

・浜町明治座「上海の殊勲者 三勇士」3月5日初日(新派)

・大阪道頓堀浪花座「上海の殊勲者 三勇士」3月6日(早川雪洲と新派合同)

新橋演舞場「肉弾八勇士」3月13日差し替わり

・大阪道頓堀中座「肉弾勇士 母と嫁」3月(五郎劇)

・大阪道頓堀角座「勇士の家」3月二の替わり(淡海劇)

京都座「肉弾三勇士」3月(新声劇)

・神戸新開地松竹劇場「三勇士」3月24日初日(関西大歌舞伎)

・大阪四ツ橋文楽座「三勇士名誉肉弾」4月1日初日(文楽)

・大阪道頓堀浪花座「爆弾決死隊」4月(新国劇)

・京都南座「三勇士名誉肉弾」6月初日(文楽)[7]


三勇士人気に便乗し多くの図案などにも採用され、さらには三勇士もののグッズ(菓子・ヘアスタイル・和服のデザイン)まで出る騒ぎとなった。小中学校の運動会競技にもなっている。当時の人気漫画「のらくろ」の1932年5月掲載分においても、爆弾三勇士がモデルと思われる3頭の犬が活躍するエピソード[8]が描かれている。1933年には大藤信郎によるアニメーション映画『蛙の三勇士』が公開された[9]


子供たちに「肉弾三勇士ごっこ」が大流行したという[10]


書籍では、小笠原長生『忠烈爆弾三勇士』(実業之日本社)、大和良作・栗原白嶺『護国の神・肉弾三勇士』(護国団)、滝渓潤『壮烈無比爆弾三勇士の一隊』(三輪書店)、宗改造『軍神江下武二伝』(欽英閣)などが出版され、1933年教育総監部による『満州事変軍事美談集』に「点火せる破壊砲を抱き、身を以て鉄条網を破壊す」と題して収められた。

教科書で取り上げるべしという意見も多く挙がり、1941年から45年までの初等国語科と唱歌教材[11]に取り上げられた。

各々の菩提寺の他、3人とも浄土真宗本願寺派の門徒であった縁故から大谷本廟などに合同墓が存在する。また、東京・芝の青松寺には新田藤太郎(にったとうたろう)[12]作による彼らの銅像が建てられたが、その後切り離され江下武二の像のみが残され、北川丞の像は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築された[13][14][15]。作江伊之助の像は所在不明となっている。

詳しいことは、「爆弾三勇士ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%B8%89%E5%8B%87%E5%A3%AB
(wikiより)

1045a

1045b



池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年2月23日 - 1997年3月8日)は、画家版画家挿絵画家彫刻家陶芸家作家映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐にわたる活動、多才がゆえに“池田芸術”は高い知名度のわりに現在でもなかなか正当に評価されていない[1]

生涯
満州国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ[2]、戦後長野県長野市で育つ。長野北高等学校(現長野県長野高等学校)卒業[3]。高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京するが、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。このうち、1回は油絵科志望、2回は彫刻科だった。酒場で似顔絵を描いて生活費を稼ぐ生活を送りながら19歳で自由美術家協会展に入選。その後、画家、瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。この時期、平井蒼太主宰の真珠社から豆本のシリーズを刊行。1957年東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年には同展で文部大臣賞を得て脚光を浴びた[4]


1961年には、上野・不忍画廊で初の個展を開く。1965年には、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題となる。1966年、32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞。池田の名を国際的にも第一線の芸術家にした。版画のドライポイントでは、パウル・クレーウィレム・デ・クーニングに加え、雪舟水墨画の影響も受けていた。東京国際版画ビエンナーレ展などで、外国人審査員が評価したのは池田作品の中に“東洋の影”を見たからである。


後に水彩画文学方向にも関心が傾く。1977年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。この『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって現され、非常に話題となった(主演はのちにイタリアの国会議員にもなったチチョリーナことシュターッレル・イロナ。官能的な女性を描かせたら、当代一であったといわれる。制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられる。


1980年代以降は、テレビにも盛んに出演、人気クイズ番組日立 世界・ふしぎ発見!の準レギュラーなどで一般大衆への知名度もアップし、文化人としても活躍したが、晩年、陶芸制作に没頭したことはあまり知られていない。

1965年に初訪米したときから、米国陶芸界の第一人者であるピーター・ヴォーコスと交流。帰国後の1983年から陶芸にも没頭した。死の3年前に制作した般若心経シリーズの作品は池田の陶芸作品の中で最高傑作といわれる。般若心経という精神世界を平面ではなく、立体的に造形化した。地蔵や佛塔の作品などは、エロスの作家といわれた池田版画のイメージとは全く異なる。池田の陶芸作品はあえて割れるように制作したのが特徴であり、池田本人は“破壊の美学”と述べている。


国際的に精力的な創作活動を展開し、多忙な生活を送っていたが、1997年3月8日静岡県熱海市の自宅にいたところ地震に遭遇し、愛犬に飛びつかれて昏倒、心不全にて急逝。享年63。4月に、長い期間、担当していた多摩美術大学客員教授から、多摩美術大学教授(専任)への就任が内定しており、後進の指導にも本格的に当たろうとしていた矢先の死だった。


19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったため、生涯戸籍上の妻はこの女性のみで、その後に同居した作家富岡多恵子やバイオリニスト佐藤陽子などは内縁の妻だった。ただし、画家であった米国人女性とは国外で正式に入籍している。終生連れ添うことになる佐藤とはおしどり夫婦として知られ、池田の講演と佐藤の演奏をセットにした催しなども行っていた。


主な所蔵作品は、長野市池田満寿夫美術館三重県菰野町のパラミタミュージアム、熱海市の池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館でそれぞれ常設展示されている。京都市京都国立近代美術館は佐藤陽子から寄贈された版画作品を所蔵する。広島市現代美術館長野県信濃美術館は池田作品のコレクションを所有。

人物・活動
コラージュ・カット
池田が挿絵家としても一流だったことはいまでは忘れられている。カット類をまとめると1000点を超えるとみられる[5]コラージュは新聞紙、雑誌、布などを組み合わせて貼り付ける手法だが、池田は版画制作を始める前にコラージュを手掛け、カット版画などに活用するようになった[6]。1960年代~70年代、池田の作品はイラストレーターやグラフィック・デザイナーに刺激を与えた。


池田のカット、コラージュの全容の一部が分かるのが、池田著『コラージュ アフォリズム』(1986年、創樹社)である。300点強のカット、コラージュを収録。カットや版画作品を見ると、池田が作品制作にコラージュの手法を多用していることが分かる。コラージュは池田の制作活動の基本的な手法の一つとなっている。『コラージュ論』(1987年、白水社)を著している。

1
961年以降、岩波書店発行の雑誌『世界』とPR誌『図書』、『朝日ジャーナル』、新聞・雑誌にカットを描いていたが、芥川賞受賞以降は出版社が遠慮して注文自体が少なくなった。


国立国会図書館新館ロビーに設置されたタピスリー・コラージュ「天の岩戸」(1986年)が著名だ。天女が空へ舞い上がるイメージで制作された西陣織を使った「天女乱舞A」(1987年、池田満寿夫美術館蔵)は親友の澁澤龍彦へのオマージュとして完成させた。

油彩とアクリル、水彩
高校2年のとき、油彩「橋のある風景」(池田満寿夫美術館蔵)が第1回全日本学生油絵コンクールでアトリエ賞を受賞した。高校卒業後、画家を目指して上京したが、公募展に出品した油彩作品は世に認められなかった。版画を始めた後も、しばらくの間、油絵を制作。約20年間中断し、80年代以降は、アクリルでまず下絵・原画を描いてから版画制作に取り掛かる手法を用いたこともあった。雑誌『婦人公論』『月刊現代』の表紙を飾った女性像はアクリルだ。


池田の油彩は、中学、高校時代、20代以降で大きな振幅を示す。ユトリロヴラマンクモディリアニ佐伯祐三松本俊介にあこがれた少年時代は灰色調だったが、その後、原色を使用し、さらに、ピカソ風、シュルレアリスム風、抽象 などへ作風が揺れ動いた[7]。アクリルの表紙画は具象性写実性が強い。


亡くなる約半年前、池田は東京・新宿の画材店で、油絵の材料を大量に購入し、「これから油絵をしよう」と話していたという。死後、熱海市のアトリエのイーゼルには100号のアクリル作品3点が未完のまま残されていた。

一方、水彩には50年代に描かれたカンディンスキー風の小品や大作「美しさと哀しみと」(1965年、不忍画廊蔵)がある。『みづゑ』表紙や1977年、野性時代新人文学賞を受賞した角川書店発行の『エーゲ海に捧ぐ』の表紙の裸婦は水彩とフロッタージュで描かれている。


「美しさと哀しみと」は同年に制作された松竹映画『美しさと哀しみと』の中に登場する。原作はノーベル賞作家の川端康成で、堕胎した女流画家とその弟子で画家への恋慕から画家の元恋人に近づく若いレズビアンの女性がからむストーリーを監督篠田正浩が映像化した。池田は主人公の女流画家を演じる八千草薫に代わり畳3畳分の絵を描いた。その数年前から池田と交際し、池田の銅版画を高く評価していた篠田[8]が「地獄と怪物」の画家といわれるオランダのボッシュの絵のようにと制作を依頼。上中下畳3畳分の絵のうち、真ん中部分のみ残り、残りは行方不明である。

詳しいことは、「池田満寿夫ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%BA%80%E5%AF%BF%E5%A4%AB
(wikiより)

914 池田満寿夫

⇧ 池田満寿夫

914a

914b

914c



宍戸 璣(ししど たまき、文政12年3月15日1829年4月18日) - 明治34年(1901年10月1日)は、日本武士長州藩士)、政治家官僚子爵)。前名の山県半蔵でも知られる。

略歴
文政12年(1829年)、長州藩士・安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。は子誠、のち敬宇。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(松下村塾)に学び、また藩校明倫館に学ぶ。嘉永元年(1848年)、藩儒・山県太華の養子となり、半蔵と称する。安政元年(1854年)には幕府の役人・村垣範正に従い、蝦夷地および樺太露国巡視を行う。翌年には長崎へ遊学。その頃から諸藩の志士と交流し、安政5年(1857年)に藩に戻ると、明倫館都講本役に任ぜられ、世子・毛利定広(のち元徳)の侍講となった。万延元年(1860年)、定広に従って江戸へ赴き国事に奔走する。文久2年(1862年)には同藩の久坂玄瑞土佐藩中岡慎太郎らとともに松代藩で謹慎中の学者佐久間象山を訪問。長州藩へ招聘するも叶わなかったが、国際情勢や国防論について薫陶を受ける。翌年帰藩した後、九州諸藩に尊王攘夷論を遊説。同年の八月十八日の政変後は京阪に潜伏して形勢を視察した。


その後も長州藩は尊王攘夷運動に邁進するが、禁門の変の敗北、下関への四国連合艦隊襲来により窮地に陥る。長州藩は恭順派(俗論派)の牛耳るところとなり、半蔵も禁固されるが、高杉晋作伊藤博文らの挙兵によって藩論が再転換し、赦免される。しかし幕府は長州藩へ問罪使の派遣を決定。藩は半蔵を家老宍戸家の養子として宍戸備後助と改名させ、広島国泰寺で幕府問罪使・永井尚志に応接させた。交渉の長期化に伴い、広島藩に拘留されたが、翌年の第二次長州征伐開戦にあたり、幕府側の敗戦の調和策として放免された。この間の功績を認められ、宍戸家の末家を新たに建てることを認可され、直目付役に任ぜられた。また長防士民合議書を起草し各戸に配布し領内の団結を深めることに貢献した。


明治維新後は、明治2年(1869年)に山口藩権大参事となる。翌年上京し、10月に刑部少輔。明治4年(1871年)11月には司法大輔。明治5年(1872年)には文部大輔となる。明治10年(1877年)、元老院議官となる。明治12年(1879年)3月には国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した(琉球処分)直後であり、琉球の帰属問題が両国間の懸案となっていたが、宍戸は琉球に対する日本の領有権の法的根拠を明記した寺島宗則井上馨外務卿の覚書を清国総理衙門へ提出、翌年交渉は妥結する。しかし清朝の重臣李鴻章らの反対により調印には至らず、明治14年(1881年)1月には交渉を打ち切って帰国した。


帰朝翌年には宮内省出仕となり、明治17年(1884年)4月には参事院議官。明治18年(1885年)12月には再び元老院議官。明治20年(1887年)5月24日にはこれまでの功績を認められ子爵を叙爵[1]。明治23年(1890年帝国議会の発足に際し貴族院議員に任命され、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]


明治34年(1901年)10月没。享年73。

親族

・妻 宍戸千枝子(清水谷公正四女)[3]

・養嗣子 宍戸功男(陸軍騎兵大佐、貴族院子爵議員、毛利元功五男)[3]

・四女 宍戸幾子(功男の妻)[3]

詳しいことは、「宍戸 ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8D%E6%88%B8%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D
(wikiより)

799 宍戸 環

⇧ 宍戸

799a



伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日(万延元年12月16日[1])- 1923年大正12年)2月7日[2])は、日本の宮内官、政治家華族貴族院侯爵議員宮中顧問官

経歴
宇和島藩主・伊達宗徳の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い1905年12月27日に侯爵を襲爵し[4]貴族院侯爵議員に就任し[1][2]、死去するまで在任した[2]


明治学舎、学習院で学び、1886年小松宮彰仁親王に随行してイギリスを訪問し同国に留学した[5]。帰国して1889年以降、式部官兼主猟官、宮中顧問官などを務めた[2]

親族
・妻 伊達納子(のりこ、有馬頼咸七女)・伊達孝子(たかこ、徳川茂承二女)[1]

・養嗣子・甥 伊達宗彰(官僚・実業家、弟紀隆の三男)[1]

・弟妹[1] 本多康虎伊達紀隆丹羽長徳丹羽長国養子)、一柳直徳一柳頼明の弟・紹念の養子)、伊達重正二荒芳徳能久親王妃富子北白川宮能久親王妃)

脚注
1. a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、59-61頁。
2. a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』19頁。
3. 『人事興信録』第6版、た157頁。
4. 『官報』第6750号、明治38年12月28日。
5. 『華族総覧』440頁。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

千田稔『華族総覧』講談社〈講談社現代新書〉、2009年。

・人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。
(wikiより)

807a

807b



藤田 小四郎(ふじた こしろう、天保13年(1842年) - 元治2年2月23日1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士水戸天狗党の首領格。贈従四位

生涯
常陸国茨城郡水戸(茨城県水戸市)で当時水戸藩主徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男として生まれる。名は信(まこと)、字は子立(しりゅう)。東海を雅号とし、一時期小野贇男(おの・あやお)と変えたこともある。
母は東湖の妾であった土岐さき。


2歳の時、母さきが暇を出され藤田家を出る。原因は東照宮の例祭でさきが妾でありながら正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席したことによる。これは身分を弁えない無作法な振る舞いであると世間から見咎められ、夫である東湖も批判の対象となったことから、家内の混乱を心配した里子により放逐されたものである。


小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。


安政
2年(1855年)、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事する。


文久3年(1863年)3月、藩主・徳川慶篤の上洛に随従。京都では長州藩士の桂小五郎久坂玄瑞を始めとする志士と交流したほか、公家に周旋活動を行う。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。同年5月、将軍後見職一橋慶喜に従って江戸に下る。


同年8月、八月十八日の政変により長州藩勢力が京都から一掃され、急進的尊攘派は衰退した。一方で孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、幕府に対して横浜港鎖港の早期実行を要求した。これを受けて幕府は鎖港交渉を開始したものの、首脳部内の意見対立も相まって交渉は遅々として進まなかった。


元治元年3月27日1864年5月2日)、小四郎は即時鎖港の要求・支援のため同志など60人余りとともに筑波山にて挙兵する(詳細は天狗党の乱に記述)も失敗し、越前国新保(現在の福井県敦賀市)にて加賀藩に捕縛される。


小四郎らは(にしん)倉に監禁された後、加賀藩から幕府へ出された処分寛大の嘆願も空しく元治2年2月23日(1865年3月20日)敦賀の来迎寺にて処刑された。享年24。なお、この来迎寺は元々町人を処刑する場所であった。処刑後、小四郎の首は武田耕雲斎らの首と共に水戸に送られ、罪人として晒されている。


墓所は処刑場所となった福井県敦賀市松原町の来迎寺、および茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地


辞世の歌は後に『義烈回天百首』(明治7年(1874年)発行)に掲載されている。


  兼て与梨 思ひ初にし真心を けふ大君に 徒希て嬉しき

  (かねてより おもいそめにしまごころを きょうたいくんに つげてうれしき)

評価
渋沢栄一

 ・「平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の藤田小四郎といふのが一を聞いて十を知るとは斯る人のことであらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。…(中略)…私は之を聞いて廿二歳にしては実に能く気の付く賢い人だと思つたのである。」[1]

 ・「東湖の四男藤田小四郎には前条にも申して置いたやうに、私も親しく遇つたこともあるが、非凡の智慧者で、珍らしい人材であつた。」[2]

 ・「藤田小四郎は耕雲斎が頭目であつた正党に入つて兵を挙ぐるのを是れ即ち義であると信じたものだから、生を捨て強ひて耕雲斎の仲間に党し、遂に斬首に処せられたのである。この点から観れば小四郎はまさしく義を見て為さざるは勇無きなり、との意気があつた人と思はれる。」[3]


脚注
1. 『実験論語処世談』2.平岡円四郎と藤田小四郎
2. 『実験論語処世談』4. 水戸会津にも人物あり
3. 『実験論語処世談』8. 東湖の遺子藤田小四郎

参考文献
デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団)

関連項目
幕末の人物一覧
(wikiより)

773a

773b

773c



四十七士の御墓の脇に「明治戊辰芸州藩戦死者墓」が有ります


戊辰戦争における芸州藩の戦死者の墓で計 39名の名が記されています。

・林 吉蔵 : 福山藩 
明治元年8月若松で戦死。


・百々常吉 : 福山藩
常助とも。卒。沼田郡楠村の人。明治元年東北征戦、9月 4日東京で病没。21歳。


・有野鹿之助 : 福山藩
明治元年奥羽で戦死。


・藤川喜作 : 広島藩
第六小隊。沼田郡上北方村の人。明治元年 5月 15日江戸王子村で彰義隊と戦い死す。24歳。


・中田文右衛門 : 広島藩
中村とも。文左衛門とも。卒。沼田郡中須村の人。明治元年 5月 18日江戸で戦死。


・戸村小源太 : 広島藩
左源太とも。卒。高宮郡中筋古市村の人。明治元年 7月 6日江戸で病死。19歳。


・梶川五郎左衛門 : 広島藩。
明治元年 8月 26日下野横川村で戦死。26歳。


・友田織之丞 : 広島藩。
応変隊。明治元年 8月 26日下野横川村で戦死。24歳。


・大川左源太 : 広島藩。
左源次とも。応変隊。明治元年 9月 1日下野横川村で戦死。33歳。


・大村豊次郎 : 広島藩。
応変隊。戦士。明治元年 9月 1日岩代栃沢村で戦死。17歳。


・日高砂蔵 : 広島藩。

応変隊。戦士。明治元年 9月 1日岩代火玉峠で戦死。27歳。


・松浦熊雄 : 広島藩。
応変隊。戦士。明治元年 9月 1日岩代火玉峠で戦死。25歳。


・渡辺他人之丞 : 広島藩。
応変隊。戦士。明治元年 9月 2日岩代栃沢村で戦死。40歳。


・松田林蔵 : 広島藩。
応変隊。明治元年 9月 3日下野横川村で戦死。23歳。


・川本久次郎 : 広島藩。
応変隊。戦士。明治元年 9月 5日会津飯寺村で戦死。28歳。


・石井三蔵 : 広島藩。
戦士。明治元年 9月 9日会津田島で戦死。36歳。


・沖 久米六  : 広島藩。
粂六とも。戦士。明治元年 9月 9日会津田島で戦死。37歳。


・住田甚吉 : 広島藩。
御小人。明治元年 9月 9日会津?で陣没。


・田部内蔵之進 : 広島藩。
田辺とも。応変隊。明治元年 9月 9日会津勝間美峠で傷、のち死。20歳 ( 24歳とも )。


・山本他人輔 : 広島藩。
明治元年 9月 9日岩代栗生沢村で戦死。27歳。


・菅野徳之助 : 広島藩。
指揮役。明治元年9月10日岩代上三依村で戦死。28歳。


・神原朝之進 : 広島藩。
明治元年 9月 14日若松城下で戦死。27歳。


・古清水初次郎 : 広島藩。
応変隊。明治元年 9月 14日若松城下で戦死。24歳。


・中村豊吉 : 広島藩。
豊蔵、豊助とも。応変隊。明治元年 9月 14日若松城下で戦死。20歳。


・川本四郎七 : 広島藩。
御小人。明治元年 9月会津で戦死。


・石川佐太平 : 広島藩。
佐太郎とも。神機隊。卒。賀茂郡南方村の人。明治元年東北征戦中罹病。12月 2日東京和泉橋病院で死。24歳。


・井原喜三郎 : 広島藩。
伊原とも。神機隊。明治元年下野で傷、帰国後佐伯郡草津村で死。


・牛島才吉 : 広島藩。
手島とも。卒。沼田郡久地村の人。明治元年東北で戦死。27歳。


・小笠原俊太郎 : 広島藩。
明治元年奥羽で戦死。


・高橋四郎兵衛 : 広島藩。
四郎助とも。神機隊。豊田郡久芳村の人。戊辰征戦中罹病、江戸で死。


・福永宗平 : 広島藩。
神機隊。卒。賀茂郡南方村の人。明治元年東北で戦病死。


・細川吉蔵 : 広島藩。
藩士家来。明治元年東北で戦死。


・三宅市左衛門 : 広島藩。
神機隊。三次の人。明治元年奥羽で戦病死。


・松下文蔵 : 広島藩。
応変隊。明治元年 8月 26日下野横川 ( 会津田島とも ) で傷、2年 2月 14日東京で死。30歳。


・工藤剛太郎 : 徳島藩。
家老 稲田九郎右衛門家来。明治元年 5月 14日江戸上野付近で彰義隊に殺される。36歳。


・佐野四郎兵衛 : 徳島藩。
明治元年 5月 15日江戸上野山で戦死。


・橋野加賀吉 : 徳島藩。
明治元年東北征戦。東京で病死。


・藤木文助 : 徳島藩。
明治元年東北征戦後東京で病死。


・門田馬次 : 土佐藩。
馬治とも。明治元年若松で病死。22歳。


812a



荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日1836年6月12日) - 明治42年(1909年7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長幼名は幾之助。は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。

略歴
出生から修養時代
天保7年(1836年)4月29日、江戸・湯島天神下上手代町(東京都文京区)の組屋敷に生まれる[1]。父は幕府御家人で後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)で、郁之助は長男[2]。幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなむ[3]。荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄[4]。郁之助出生時の荒井家には曾祖母・祖父母・二人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族であった[5]


7歳より隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学儒学を学び、素読を始める[6]。8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門し、内山の私宅で素読を行う[7]。郁之助は素読を嫌い、13歳で素読吟味を済ませたという[8]。14歳で湯島の昌平坂学問所に入学する[9]。15歳より六笠弘太郎の勧めで書家の関雪江に書道を学ぶ[10]。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学ぶ[11]。18歳より西洋砲術を学びはじめ、20歳で幕府出仕(100俵10人扶持)、蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられた。

幕府出仕から戊辰戦争
航海術測量術および数学にも通じ、文久2年(1862年)9月には軍艦操練所頭取に就任、松平春嶽徳川慶喜ら要人を船で大坂まで送るなど重役を果たしていたが、元治元年(1864年)4月に講武所頭取を命じられたため海軍職を一時離れ、慶応元年(1865年)には歩兵差図役頭取となり、横浜大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応3年(1867年)5月には歩兵頭並に進級した[12]


慶応
4年(1868年)1月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じることとなる。


箱館政権(俗に蝦夷共和国)下では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。

開拓使出仕から晩年
降伏後は死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治9年(1876年)6月に辞任して開拓使仮学校・女学校校長を勤める。


気象学
・翻訳に励み、後に明治20年(1887年)に新潟県永明寺山(現在の三条市)において皆既日食の観測を行う観測隊を率い、観測隊に参加した杉山正治が日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させている[13]

明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長に就任。


明治42年(1909年)、糖尿病がもとで永眠。享年74。息子の荒井陸男画家となり、絵画館に収蔵されている『水師営の会見』などの作品をのこした[14]

栄典・
1888年(明治21年)12月26日 - JPN Zuiho-sho (WW2) 6Class BAR.svg 勲六等瑞宝章[15]

1889年(明治22年)11月29日 - Imperial Constitution Promulgation Medal (Japan).png 大日本帝国憲法発布記念章[16]

1894年(明治27年)5月11日 - 正五位[17]

人柄
海軍職に深く携わっていた荒井だが、水泳が不得手で、更に下戸だった。 反面、甘い物が大好物で健啖家、箱館湾海戦時も大量の汁粉を作らせていたほどだったが、性格は身分・学歴をおごらず、温和でひどく謙遜家だったと言われている。


気象台長時代には、部下の報告書を見て決して訂正する事なく「至極結構」と言って許可したので、部下達からは『至極結構』というあだ名で呼ばれていた。 一方、ある晩不意に入った強盗を槍で猛然と立ち向かっていって追い出したという武勇伝も残る。 しかし宮古湾海戦などについて聞いても「あの時は夢中だった」と答えるのみだったと言う。


戸籍には士族華族などとは書かずに"平民"とした。 その時質問を受けた荒井は、「敗軍の将、再び兵を語らず。牢獄から出てきた時に剣を捨てて、生まれ変わって再生をしたのであるから、平民となるのである」と答えたそうだ。

関係者
矢田堀鴻江戸幕府海軍総裁。父清兵衛の弟で、郁之助の叔父にあたる。
勝海舟幕末の幕臣。後、明治政府海軍卿。軍艦操練所時代に親交が深かった。
榎本武揚…幕末の箱館政権(蝦夷共和国)総裁。後、開拓使仲間。
大鳥圭介横浜三兵伝習所時代のルームメイト。箱館政権陸軍奉行。後、同上。
土方歳三…箱館政権陸軍奉行並。宮古湾海戦を共に戦った。箱館戦争で戦死。

  荒井は箱館戦争戦死者の墓である碧血碑の写真を土方家に送ったと伝わる。
甲賀源吾…箱館政権軍艦頭および軍艦"回天"艦長。宮古湾海戦にて戦死。・

  荒井宅に住み込んで、共に幾何学代数学を学んでいた。
松本良順…幕末時の奥医師。荒井妻トミ子の一応の義兄にあたる。
田辺太一元老院議官。妹キミ子の婿。
安藤太郎香港総領事。妹フミ子の婿。

詳しいことは、「荒井郁之助ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E9%83%81%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

806 荒井郁之助

⇧ 荒井郁之助

806a



江戸時代この地には、現在の不忍池より大きい桜ヶ池という池があったが、 その後埋め立てられ現在に至る。


お玉ヶ池の由来は池の畔の茶屋のお玉が入水したことによりその名が付つけた稲荷を奉ったという。

795a

795b

795c



文具至宝碑由来


中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた


今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日 ( 文化の日 ) を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する


平成元年十一月三日
     文具資料館
(案内板より)

788a

788b



明治十六年 ( 1883 ) ごろ、この付近 ( 当時の京橋区入船町八丁目一 ) に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。


作家・芥川龍之介 ( 1892 ~ 1927 ) は、明治二十五年三月一日、その経営者・新原敏三の長男として、ここに生まれました。


龍之介は誕生後七ヵ月にして、家庭の事情から母の長兄・芥川道章に引き取られて、本所区小泉町 ( 現・墨田区両国三丁目 ) に移り、十二歳の時、芥川家の養子になりました。


東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、「地獄変」、「羅生門」、「河童」、「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和二年七月二十四日、三十五歳で自害しています。
(案内板より)

738a

738b



水戸烈公斉昭 ( 慶喜の父 ) の真磧になる「尊譲」の二文字を刻み、尊皇攘夷実行の密勅をうけ、江戸藩邸にとどけた。


鵜飼吉左衛門とその子幸吉、父子 ( 両名とも当寺に墓碑をまつる ) は、処刑された没後の文久二年十月にその罪が赦されたと、また明治二十四年十二月には、従四位の官位が贈られたことを鵜飼家の後継者・幸吉が鵜飼吉左衛門父子をまつる墓碑のそばに表記し、その功績をたたえて建立された。
(案内板より)


〇 尊皇攘夷
尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している[1]

概要
国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。古代中国春秋時代において、王朝の天子を尊び、内へ侵入する夷狄中華思想における異民族。ここでは南方のを指す。)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。桓公は周室へのを失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。


日本でも鎌倉時代室町時代天皇と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には「尊皇」に置き換えて用いることが多くなった。


なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の出典はここに求められる

[2]。弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の「弘道館記述義」によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。

尊王論
  詳細は「尊王論」を参照

攘夷論
  詳細は「攘夷論」を参照

江戸幕府が、オランダや朝鮮を除いて鎖国政策を続け、その鎖国下で封建ファシズム的な支配を続けていた約250年の間に、欧州米国は各種の根本的な革命を成し遂げていた。

1638年清教徒革命(広義では1638年の主教戦争から1660年の王政復古まで)

1688年権利の章典および名誉革命1688年1689年

1776年アメリカ独立宣言

1789年アメリカ権利章典

1789年フランス革命

1793年フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)


また、は、大航海時代以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に帝国主義の波に乗ってアフリカアジアに進出し、植民地化を行った。欧米列強は東アジア各国にとって脅威となっていた。


1840年天保11年)、清国イギリス戦争アヘン戦争)となり、香港島を奪われた(1997年平成9年)返還)。

日本でも、北海道ゴローニン事件九州フェートン号事件といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。


また、国内では平田篤胤などによる国学の普及にともなって民族意識がとみに高まっていた時代でもあった。


1853年嘉永6年)、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー黒船で来航した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた[3]


このペリーの黒船来航による外圧にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府(老中阿部正弘)が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。


1854年嘉永7年)、それまでの異国船無二念打払令(1825年)に取って代わり、下田箱館を開港地とする日米和親条約などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、石炭、その他の便宜を与えることとなる。


その後、安政の大獄公武合体運動和宮降稼第一次長州征伐長幕戦争に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、1858年不平等条約(「安政五カ国条約」)による5港の屈服開港を京都朝廷と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田神奈川(横浜)箱館長崎兵庫(神戸)新潟であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。


このような徳川幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する薩摩藩や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な開国による攘夷を要求する長州藩が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した島津久光、幕政の主導権を握ろうとして四賢候会議を企画・周旋した小松帯刀(小松清廉)西郷吉之助(西郷隆盛)大久保一蔵(大久保利通)1858年の時点で欧米への留学を希望していた吉田寅次郞(吉田松陰)桂小五郎(木戸孝允)1861年に建白によって航海遠略策を幕府に認めさせた長井雅楽、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた桂小五郎(木戸孝允)久坂義助(久坂玄瑞)など)。


ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた1865年(慶応元年)、孝明天皇はそれまで一貫して安政の不平等条約への勅許を拒否し続けていたのであるが、将軍後見職徳川慶喜による執拗な圧力に根負けしたためか、安政五カ国条約に勅許を与えることとなり、このため「即今攘夷」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「破約攘夷」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、日露戦争勝利後の1911年明治44年)、明治政府により達成される)。


長州藩吉田寅次郞(吉田松陰)桂小五郎(木戸孝允)長井雅楽越前藩松平春嶽津和野藩大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきであるとする「大開国・大攘夷」が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「公議政体論」、「倒幕」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力が諸藩を糾合しつつ明治維新へと向かっていくこととなる。

詳しいことは、「尊王攘夷ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7
(wikiより)

810a

810b

810c



累代の墓であると共に、( 正岡 ) 子規両親の墓でもある。


戒名の月光院常堅慧照 ( じょうけんけいしょう ) 居士は父常尚 ( つねなお ) ( 隼太 ) で明治 5年 ( 1872 ) 3月 7日死去 ( 40歳 )、研光院月窓慧雲 ( げっそうけいうん ) 大姉が常尚の先妻 ( 倉根姓 ) で、安政 6年 ( 1859 ) 5月 14日死去 ( 20歳 )。


もと法龍寺にあったが、昭和 2年 ( 1927 ) 5月 12日、子規の母堂正岡八重死去 ( 83歳 ) の際、松山に分骨を納めるに際し、当寺の住職・釈仏海師 ( しゃくぶつかいし ) が幼児より子規と親交あり、子規の墓碑建立を熱望していたので、正岡家の諒承 ( りょうしょう ) を得てこれが実現したものである。
(案内板より)

816a

816b

816c

816d

816e

816f



両名は赤穂浪士四十七士の中でも文化・文人として知られる。


木村岡右衛門は漢詩に秀で、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。

  
身寄浮雲滄海東

  
久愆恩義世塵中

  
看花對月無窮恨

  
散作暁天草木風


大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。

 
梅てのむ 茶屋も有べし 死出の山


大高子葉 ( しよう ) ( 不詳 - 一七〇三 元禄一六年 )


赤穂浪士・大高源五は、子葉と号し宝井基角 ( たからい きかく ) に俳諧を学んだ。


元禄一五年一二月一四日主君の仇を報じて後、江戸松山藩邸に預けられ同一六年二月四日同藩邸において切腹を命ぜられた。


その死に臨んでこの句を遺して潔く自刃、享年三二歳。


基角遺稿の俳諧選集『類柑子 ( るいこうじ )』( 宝永四年刊 ) の文字により昭和三九年建立。
(案内板より)

817a

817b

817c

817d

817h

817e

817f

817g



この御寺には『おまねぎ様』が祀ってあります


お招き様に、商売繁盛を願い、江戸の頃は花街の遊女たちが信仰していたとか


御利益は商売繁昌、夫婦和合、子宝などだそうです。


祠の扉が閉まっていたので、覗いてみると


石像らしきものを頂点に、左右に陽石と陰石が  そして真ん中にはお尻みたいな石が有りました。


820b a

820b b

820b c

820b d

⇧ 陽石は、男石とも呼ばれ陽物の形の石。陰茎の形をした石。崇拝の対象とされています。

820b f

⇧ 陰石は、女石とも呼ばれます。女陰を象ったものです。


大屋根は

 みな寺にして

      風薫る


東京の人、おとぎばなし作家として児童文学につくした功は大きい。


この句は、昭和七年、尾道を訪れた際この地の風光をよんだ数句の中の一つである。
(案内板より)

732 巌谷小波

⇧ 巌谷小波

732a

732b

732c



二〇三高地は、日露戦争において激戦地となった旅順市 ( 中国北部遼東半島南端 ) 背後にそびえる標高二百三メートルの高地である。


当地の石を横須賀鎮守府が日本に持ち帰って別地に寄贈したが、のち当社境内に移設され現在に至る。


この「二〇三」に爾霊山 ( にれいさん。「なんじの霊の山」の意 ) の字をあてたのは乃木希典将軍である。
(案内板より)


〇 二〇三高地

203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。

813   1280px-203_Meter_Hill

⇧ 海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』(1909年)より



1904 - 1905年日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。

地理
旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。

813   203high

⇧ 203高地の忠魂碑。文化大革命で先尖部分が破壊されたが、のちに復元された

813   PortArthur2006

⇧ 203高地から見た旅順港。直線距離で4km


現状
大連市により、文物保護単位に指定されている。


中国海軍軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは長く禁じられてきたが、1990年頃から水師営と共に観光客に開放されるようになった。



日露戦争
  詳細は「旅順攻囲戦」を参照


日露戦争において、旅順攻略は必要不可欠になり、日本陸軍第3軍を編成し旅順要塞および旅順艦隊を攻撃した。


203高地は、元々は旅順要塞防衛線の一翼を担う筈であったが、予算削減により防衛線が縮小された際にそこから外れ、前進陣地として運用された。日本側は当初は重要視せず、第三軍に用意された地図には前進陣地すら書いていなかった。陸軍は要塞自体の攻略を作戦目的としており、その形は旅順要塞が陥落するまで変わらなかった。陸軍は日露戦争のかなり早い段階から旅順要塞を攻略することを決定していて、その理由はロシア軍主力との決戦に備え、後方の、しかも物資揚陸地点の大連の目と鼻の先にロシア軍が立て籠もっていることを懸念したからである。封鎖も検討されたが、封鎖するだけでも相当数の部隊を割かねばならず、降伏するまでの長期間、封鎖部隊は他方面に活用できなくなり、ロシア軍と比べて戦力の乏しい日本にその決断はできなかった。そのため大山巌児玉源太郎らは要塞攻略を第一に考え、後に海軍から旅順艦隊の無力化を要請されても、要塞攻略を第一とする方針は変えなかった。


203高地は港湾部を一望できる観測点としては有意義な地点であったが、要塞攻略にはあまり重要ではなかった。さらに盤龍山保塁や東鶏冠山保塁などの後方にある「望台」の方が標高で勝り、港湾だけでなく要塞全体も一望できたので、第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする決断を下し、大山、児玉ら満州軍総司令部もこれを支持していた。これに対して長岡外史参謀次長など、一部は203高地よりもさらに西方の平坦な地域からの主攻撃を主張したが、補給面や部隊展開の不利などの理由から採用されなかった。海軍はこの時点では第三軍の方針に関して意見を述べた事実はなく、実際はこの時点で203高地のことを注目していた人物は誰もいなかった。


ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。


2度にわたる攻撃失敗、さらにバルチック艦隊の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出す。そのための観測点として前進陣地であり規模も大きくなく、簡単に落とせそう(と海軍が判断した)な203高地を攻略して欲しいと進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった大本営が同調して203高地攻略を支持する。


これに対し大山や児玉、現地軍である第3軍司令官の乃木希典らは


1. すでに大孤山からの観測砲撃や黄海海戦で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。

2. 艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない[1]

3. 東北方面にある「望台」の方が、要塞も艦隊も一望でき、重要性が高い。


と判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。

しかし御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。


結局12月5日に203高地は陥落する[2]。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、殆どの艦艇は黄海海戦での損傷が治っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略すると直ぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した[3]


結果的に203高地の占領は戦略的にも戦術的にも日本側に寄与しなかった。旅順艦隊は黄海海戦と、大弧山や海鼠山からの観測射撃で大損害を被っていたが、これを修理する設備は旅順港にはなかった。装甲巡洋艦以上の大型艦を入渠できるドックはロシア軍は極東ではウラジオストクに1個持ってるだけであり、旅順港の艦隊維持能力は低かった。このため旅順艦隊は黄海海戦後は乗員や火砲を陸揚げして防衛戦に投入させており、実質消滅していた。日本側は第三軍などの観測調査である程度のことは掴んでいたが、大本営や海軍側はこれを信じず、第三軍側もそれを実証する証拠もなかったので、艦隊は戦力を保持しているという前提で203高地攻略の是非を議論し続けることになった。ロシア軍の予備戦力を消耗したことも結果論であり、203高地に主攻撃を替えずとも、このまま東北方面への攻撃を継続することでも予備兵力を消耗させることは出来ており、逆に主攻撃を替えたことで寄り道をしたことになり、仮に203高地への攻撃を変更しなかったら、史実よりも早くにロシア軍は降伏していた可能性もあった。


本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字爾霊山(にれいさん=お前の霊の山)と詠んだ。

詳しいことは、「203高地ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/203%E9%AB%98%E5%9C%B0
(wikiより)

813a

813b



土肥 庄次郎(どひ しょうじろう、天保4年12月1834年1月)[1] - 明治36年(1903年11月23日)は、江戸時代末期の武士。明治期には幇間松廼屋露八として活躍した。

経歴
生家の土肥家は一橋家の被官で、庄次郎の父土肥半蔵(一説に平蔵)は近習番頭取であった。一橋慶喜が将軍となるのを機に幕臣となった[2]


庄次郎は嫡男であったが、13の頃から花魁遊びを覚えて放蕩三昧を尽くした。跡取りは弟・八十三郎に譲って家出し、吉原遊郭で幇間となった後、父と祖父に連れ戻され、廃嫡の上で江戸を追放される[3]。一方で放蕩の合間に武道に精を出し、剣術、馬術、槍術、大砲、水泳など多岐にわたって熱心に習い、成績は良かったものの、いずれも免許皆伝前に手を放していた。周囲は飽き性の故だと惜しがっていたが、本人は後に、「将軍に対する忠義の心を忘れないために、武芸の奥義からは意図的に距離を置いていた」と明かしている[4]。その後は長崎や堺などで幇間を続けていたが、元治元年(1864年)に慶喜が禁裏御守衛総督になった際に帰参し、第一次長州征伐にも従軍した[3]


戊辰戦争期において、彰義隊の幹部となっていた弟の八十三郎の説得を受け、江戸開城の前後に彰義隊に入隊する。隊内にあっては応接掛として防諜活動に専念した。上野戦争で隊が壊滅して後は旅芸人に変装して榎本武揚の幕府艦隊に合流して咸臨丸に乗船するが、暴風雨のため寄港した清水港で官軍の襲撃を受けて蝦夷行きを断念した[5][3]


以後は静岡や吉原で幇間として永らく活動した。榊原鍵吉撃剣興行に参加したこともある[3]。1903年、廃業を宣言し、同年死去[5]

脚注
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus
2. 加来, p. 226.
3. a b c d 『幕末維新大人名事典』下巻(新人物往来社、2010年)p.483-484
4. 加来, pp. 226-229.
5. a b 加来, p. 230.

参考文献
・『真説 上野彰義隊』中央公論社〈中公文庫〉、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8
(wikiより)


800a



慶応二年四月十日 立石孫一郎の率いた長州からの一隊は代官所を襲撃


観龍寺に陣屋を設けて物資を調達した。


山門左側小門の鴨居にある槍の突きあとはその史跡として現存している。
(案内板より)


〇 倉敷浅尾騒動
倉敷浅尾騒動(くらしきあさおそうどう)は、慶応2年(1866年)、長州藩第二奇兵隊幹部の立石孫一郎に率いられて脱走した約100人が倉敷代官所を焼払い、総社浅尾藩陣屋を襲撃した事件。


・倉敷代官所は、江戸幕府直轄の代官所。

・浅尾藩は、元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに御門直近の警護をしていた藩。

倉敷代官所襲撃
慶応2年4月10日(1866年5月24日)早暁、強雨の中襲撃、代官所襲撃の主目標は、代官の誅殺であったが、代官桜井久之介は、広島に出張中で不在。幕府側の上級武士はいち早く逃亡し、代官所に踏みとどまった長谷川仙介小松原芳太郎など9名が死亡した。 襲撃後、立石ら襲撃部隊は総社に向い、宝福寺に宿営した。

総社浅尾藩陣屋襲撃
同4月13日暁七ツ(午前2時)、浅尾藩陣屋に到着した襲撃部隊は、まず郡会所観蔵寺に放火。さらに藩士宅などに火をかけた。浅尾藩陣屋内はたちまち大混乱に陥った。浅尾藩は大砲3発を発射したが、生存者の全員が陣屋から逃げ去った。

襲撃後
浅尾藩陣屋襲撃後、襲撃部隊は高梁川河口付近において休憩中に、広島から派遣された幕府軍の銃撃を受けて潰走、長州藩領へ逃げ帰る。立石孫一郎は隊士の助命嘆願工作中に潜伏先で殺害され、脱走隊士の多くが藩政府により捕縛、処刑された。

関連作品
・『倉敷の若旦那』 司馬遼太郎、(講談社文庫『アームストロング砲』収録)

外部リンク
倉敷・浅尾暴動事件
(wikiより)


785a

785b

⇧ 槍の刃の痕だそうです。

785c



寶川伊豫川の秋の出水哉

村上霽月 ( せいげつ )
( 1869 - 1946 明治二年 - 昭和二一年 )


名は半太郎、一高中退後郷里西垣生 ( にしはぶ ) に帰って終生農村経済の振興に尽力した。


子規、漱石の友人。


句の寶川は石手川、伊豫川は重信川の古称で改修前のこれらの川をしのび詠んだ句である。


ともに大正一四年 ( 1925 ) 建立。


献灯碑脚句として異色のものである。
(案内板より)

781c

781d

781e



功 ( いさおし ) や三百年の水も春


内藤鳴雪 ( めいせつ )
( 1847 - 1926 弘化四年 - 大正一五年 )


名は素行 ( なりゆき ) ・別号南塘、文部省退職後常磐会寄宿舎監督。


俳句は四五歳のとき、舎生・子規の指導を受け、日本派俳句の普及に貢献した。


句は足立重信公三百年忌に当って治水の功績をたたえたものである。
(案内板より)

781 村上霽月

⇧ 内藤鳴雪

781a

781b

781e



中村吉蔵 ( 春雨 ) と号す幼名「常治」当地 ( 今市 ) に生まる


明治 32年作家「広津柳浪」をたより上京


東京専門学校 ( 早稲田大学 ) に通学


明治 34年大阪毎日新聞の懸賞小説に応募し家庭小説「無花果 ( いちぢく )」が一位当選明治 36年大學卒業


明治 39年渡米し演劇史を学び欧州を経て


明治 42年帰国


大正 2年「島村抱月」( 浜田市出身 ) 「松井須磨子」等の芸術座に参加 


大正末期から演劇などの普及に貢献


昭和 16年"日本戯曲技巧論"で文学博士を受ける この年 12月に永眠する


墓は津和野 ( 永明寺 ) と東京世田谷 ( 豪徳寺 )


店名は吉蔵の代表作である"無花果"よりとる


記念館には吉蔵関係の貴重な資料が多数展示されている。
(案内板より)

805 中村吉蔵

⇧ 中村吉蔵

805a

805b

805c

805d



平井隈山 ( 収二郎 ) 辞世

嗚呼悲哉兮綱常不張

洋夷陸梁兮辺城無防

狼臣強倔兮憂在蕭牆

憂世患國兮忠臣先傷

月諸日居兮奈我神皇


収二郎獄中の爪書きの辞世を妹加尾が墓碑に刻するも藩吏が削除。


維新後、再び加尾が碑を立て復刻。


没後百四十年を記念し、加尾の曾孫 平井○○、西山○○之建
(碑文より)


〇 平井収二郎
平井 収二郎
(ひらい しゅうじろう、天保6年7月14日1835年8月8日) - 文久3年6月8日1863年7月23日))は、幕末土佐藩士。は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。

生涯
1835年8月、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡久万村に生まれる。


1861年武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿薩摩藩長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。また、安政の大獄で処罰された水戸藩鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。


のち、土佐勤王党が構想する運営方針を藩が容れないのを憂慮し、青蓮院宮令旨を請いて藩政改革を迫る。しかし、前藩主山内容堂が青蓮院宮を問い詰めて実情を聞き出したことによって計画は失敗し、間崎哲馬弘瀬健太と共に切腹を命ぜられる。享年29(28とする説もある)。

備考
・平井家は、武市や坂本龍馬岡田以蔵など下士が占める土佐勤王党には珍しく、新留守居組格という上士階級に属している。 
・実妹は平井加尾といい、のちに西山志澄に嫁す。
・「隈山春秋」と「帰南日記」の著書がある。

平井収二郎が登場する関連作品

漫画

・『お~い!竜馬

演じた俳優
平泉征 -『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬
古尾谷雅人 - 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬
宮迫博之 -『龍馬伝

関連項目
土佐勤王党 
(wikiより)

775a

775b

775c

775d

775e

775f



鮎沢 伊太夫(あいざわ いだゆう、あゆさわ いだゆう文政7年(1824年)- 明治元年10月1日1868年11月14日))は、幕末の武士・志士水戸藩士。名は國維、字は廉夫、高橋諸往の二男、高橋多一郎の弟。

生涯
養子となり鮎沢家の家督を継ぐ。早くより文武の才に秀でた人物として弘道館舎長に挙げられる。弘化年間前藩主徳川斉昭の謹慎免除のために奔走し禁錮されるが、復権後は抜擢されて藩の勘定奉行となる。安政5年(1858年)、戊午の密勅を水戸藩に降してこれを諸藩に伝達すべきよう諭すが、安政の大獄により豊後佐伯藩に禁錮される。3年後赦されて京都に留まり尊皇攘夷の志士と交流を持つ。


帰藩し、元治元年(1864年)、武田耕雲斎の挙兵(天狗党の乱)に加わり西上したが途中より離れて京都大徳寺に潜伏し正義派の回復を謀る。戊辰戦争が始まり、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚が出されると、明治元年(1868年)3月水戸に帰り、その後奥羽征伐に従う。同年10月諸生党藩士たちが水戸城を襲撃するが(弘道館戦争)、伊太夫は寡兵を以てこれを防ぎ奮戦するも戦死した。享年45。明治31年(1898年)従四位を贈られる。

参考文献
・『大百科事典』(平凡社、1931-35年) 著作権保護期間満了
(wikiより)

804a

804b

804c

804d



狩野家九代素川


法号 鶴翁院寿信日軣居士


明治三十三年 十一月 十五日没 享年 八十有一

802a

802b

802c

802d

802e



「合同舩」と題された彰義隊士 8人の合同慰霊碑。


右から上段に山田八郎 ( 遊軍隊組頭のちの 16番隊組頭 )、松本義房 ( 第三青隊隊長のち三番態組頭 )、大塚嘉久治 ( 第二白隊隊長のち頭取並 )、小林一知、下段に西村賢八郎 ( 18番隊組頭 )、前野利正 ( 第一赤隊伍長 )、羽山寛一、百井求之助 ( 会計係 )の名が刻まれている。


797a



・碑文 ( 表 )

明治七年、海軍会計舎が芝山内天神谷に設けられたが後、幾変遷を経て明治四十年にそれが海軍経理学校となった。


その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。


明治時代の付近には海軍の施設が多く、その一帯は海軍発祥の地とも称せられている。


校舎はさらに幾度か移改築を経て昭和七年、この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員急増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。


戦後の海軍解体に伴い昭和二十年九月、同校は約七十年の歴史を閉じた。


その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。


戦後三十年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。


・碑文 ( 裏 )

海軍経理学校 校歌   作詞 片岡 覚太郎


ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭波よする


築地の岸に聳えたつ われ等が母校


星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす

ああなつかしき われ等が母校


母校の光栄はわれ等が誇り この誇りすてず進みゆくこそ

われ等が担う 永遠の使命ぞ


728a

728b



牧 百峰 ( まき ひゃっぽう )
( 1801 享和元年 ~ 1863 文久 3年 2月 13日 )


名は輗 ( げい )、字は信侯、また信矦・信吾に作る。通称・善助、また善輔に作る。


自ら百峰山人と号し、別号に戇斎 ( とうさい )。本巣市文殊の人。


頼山陽後年の門下にして、銅駝坊に帷を下した後も足繁く交通し、後藤松陰とともに最も信を置かれた。


弘化年間に学習所 ( 後の学習院 ) の設けられるや儒師に聘せらる。


長楽寺に師と共に眠る。


著書に『戇斎漫稿』ある由、一般には『日本楽府』註解ならびに蒲生氏郷論で有名。

803a

803b



中江兆民 ( 1847 ~ 1901 )


自由民権の思想家。


フランス留学から帰国後「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢談」等に自由民権論を発表した。


第 1回衆議院議員に当選したが民党一部の行動に憤慨して辞職。


「三酔人経論問答」「一年有半」等の著作がある。
(案内板より)


 この場所から十数メートルの場所に岡田以蔵の家があり、またそこから数メートルの場所で『岡田以蔵』が処刑されました。

397 中江 兆民

⇧ 中江兆民

792a

792b

792c



近代医学のあけぼの 観臓の記念に


一七五四年 宝暦四年閏二月七日に山脇東洋(名は尚徳 一七○五~一七六二)は所司代の官許をえて、この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった


江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと十七年前であった


この記録は五年後に「蔵志」としてまとめられた


これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで、日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるため

ここに碑をたてて記念とする。


一九七六年三月七日

          日本医師会
          日本医史学会
          日本解剖学会
          京都府医師会
(碑文より)

779 山脇東洋

⇧ 山脇東洋

779a

779b

779c

779d



明治 9年 6月 17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験が行われた。


これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。


検査 100年を記念して 


昭和 51年 6月
     郵政省
     日本電信電話公社
(案内板より)

731a

731b



↑このページのトップヘ