江戸時代の医師・文化人であり、とくに古書籍の考証に深い見識を示した伊澤信恬 ( のぶさだ )、号蘭軒は安永六年 ( 1777 ) 十一月十一日に江戸本郷で生まれました。
儒学・医学・本草 ( ほんぞう ) を学び、とくに泉豊州の塾では同窓に狩谷棭斎 ( えきさい ) がおり、親交を結び、ともに考証学の道に進みました。
のちに棭斎の孫娘が蘭軒の子・柏軒に嫁し、また蘭軒の女が棭斎の養孫・矩之に嫁し、姻戚関係をも重ねることとなりました。
父、信階 ( のぶしな ) のあとをうけて、備後福山藩主・阿部氏の侍医となりましたが、足疾のため表医師にうつり、儒官を兼ねました。
彼の校勘 ( こうかん ) 解題 ( 古典の写本などを比べてその誤りや異同を調べ、できるだけ原本の形に再現した解説書 ) の主なものとしては「医心方 ( いしんほう )」・「元板 ( げんばん ) 千金方」・「元板千金翼方」・「弘安本考経」とその跋 ( あとがき ) が挙げられます。
文政十二年 ( 1829 ) 三月十七日没。五十三歳。
法名は「芳桜軒自安信且恬居士」といいます。
森鴎外は史伝小説「伊澤蘭軒」を執筆し、埋没していた蘭軒の業績を探し求め、明らかにしました。
(案内板より)
〇 伊沢蘭軒
伊沢 蘭軒(いざわ らんけん、安永6年11月11日(1777年12月10日) - 文政12年3月17日(1829年4月20日))は、江戸時代末期の医師、儒者[1][2]。名は信恬、号は蘭軒、通称は辞安、堂号は酌源堂。
備後福山藩の藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山や頼山陽、狂歌で知られる幕臣の大田南畝、書家の亀田鵬斎、考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。
藩主(阿部家)の信任が厚く、晩年に病で足が不自由になった後も特例として輦で城内に出仕することを許されたという。
多くの子弟を育てたが、榛軒・柏軒[3]の二子のほか、蘭門五哲(清川玄道、森立之、岡西玄亭、山田椿庭、渋江抽斎)と呼ばれる五人が著名である[4]。
文政12年(1829年)没し、麻布長谷寺に葬る。
脚注
1. 伊沢蘭軒 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2. 伊沢蘭軒 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
3. 伊澤磐安。福山藩典医を辞し後に幕府に仕える。黒田藩口中典医を勤める本家伊澤道盛に医を教え、後に一子伊澤信平を道盛の養子とした。
4. 岡西玄亭以外は幕府お目見得医師に列している。
5. 『鴎外全集』などに所収。新版『鴎外歴史文学集』第6巻 - 第9巻、岩波書店には村上哲見等による詳注が付されている。
(wikiより)