2019/09
1849 門田久太郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1848 梅原伊勢太郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1847 沢田庫次墓(会津若松市大町2・東明寺)
1846 安右衛門墓(会津若松市大町2・東明寺)
1845 猪助墓(会津若松市大町2・東明寺)
1844 与太郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1843 三蔵墓(会津若松市大町2・東明寺)
1842 恵助墓(会津若松市大町2・東明寺)
1841 豊島作治郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1840 末広学校・正岡家墓地跡(松山市柳井町3-8-14・法龍寺)
〇 末広学校
「子規は、この小学校に入ったとき、まだ"まげ"を結っていた」
と、柳原極堂 ( きょくどう 正之 ) という子規の同郷の友人が書き残している。
子規の母方の祖父は大原観山という旧松山藩随一の学者でながく藩儒をつとめていたが、このひとが大の西洋ぎらいで、自分も"まげ"を切らさず、外出には脇差 ( わきざし ) 一本を帯びさせた。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』( 文藝春秋刊 ) 単行本:1巻より
「・・明治六年、七歳になった子規は、また、良と二人で学校に通い始めた。学校は、末広町の法龍寺の本堂を校舎とした殺風景なもので、・・」( 松山市教育委員会「伝記・正岡子規」)
この学校は、末広学校という寺子屋式の小学校で、全校生徒 103名、教官 2名で、教科は、習字が中心であった。沢山の生徒の中で、二人だけは、大原観山の方針で、髷を結ったなりで通っていたが、それを二人はいやがった。
「・・末広学校は子規が入学して1年たらずで智環学校という呼称に変わった。学科というのは習字専門であった。・・」( 小説『坂の上の雲』)
〇 正岡家墓地跡
当寺は、もと正岡家の菩提寺であった。
子規は日清戦争従軍記者として出征に際し、明治二十八年三月十五日ここに父の墓を詣でた。
休戦後、帰国の船中で喀血、大患養生の後、八月末に松山へ帰り法龍寺に墓参の折、「法龍寺に至り、家君の墓をたづぬれば、今は畑中の荒地と変り果てたるにそぞろ涙を催されて」と前書して次の句を詠んだ。
1839 子規堂(松山市末広町・正宗寺)
正岡子規 ( 1867 ~ 1902 ) は、慶応 3 ( 1867 ) 年 9月、温泉郡藤原新町 ( 現・松山市花園町 ) で生まれたが、まもなく湊町 4丁目に転居、17歳で上京するまでここに住んだ。
大正 15 ( 1926 ) 年この旧宅の用材をつかい、柳原極堂の記憶に基づいて、子規の旧居を模して、正宗寺の本堂の傍らに建てられたのが最初の子規堂である。
その後、昭和 8 ( 1933 ) 年に寺の火災で類焼し、再興されたが、同 20 ( 1945 ) 年松山大空襲によって再び寺とともに焼失した。
現在の建物は、旧宅の間取りを模して建てられたもので、総建築面積 151㎡の木造平屋建、室内には子規の遺墨や遺品が多く展示されている。
埋髪塔は、明治 37 ( 1904 ) 年子規の 3周忌に正宗寺の住職仏海によりたてられ、拝石に彫られた子規像と文字は、下村為山の筆になるものである。
1838 三上是庵墓(愛媛県松山市朝日ヶ丘1-1424・宝塔寺)
1837 森孫六墓(中京区蛸薬師通大宮西入ル北側・正運寺)
1836 菊屋新助墓(松山市木屋町2・円福寺)
1835 奥平藤左衛門墓(松山市末広町・正宗寺)
1834 鳴雪先生髯塔(松山市末広町・正宗寺)
1833 子規居士髪塔(松山市末広町・正宗寺)
1832 佐原(本郷)喜三郎墓(千葉県香取市佐原イ1057・法界寺)
生涯
文化3年(1806年)、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の百姓、本郷武右衛門の子として生まれる。武右衛門の3人の子供のうち、唯一の男子だった。武右衛門は、耕地30町歩、小作米600俵といわれた大身代であった。
天保7年(1836年)、29歳の時、芝山(現在の山武郡芝山町)の博徒仁三郎を殺した。原因は、渡世上の争いとも、女絡みともされる。この間、同年2月21日に逮捕され、5月25日、勘定奉行によって遠島の沙汰が下り、10月10日に島送りになり、三宅島で風待ちの後、天保8年(1837年)5月、八丈島に到着した。島に着いた喜三郎は、虚無僧となって恵みを受けて命をつないだ。乞食同然の暮らしぶりだったとされる。
天保9年(1838年)7月3日、喜三郎は吉原の遊女花鳥他5名を伴に島を脱出する。島を後にしてから翌日までは順調だったものの、大島と三宅島の間に差し掛かると、風向きが変わり激しい時化に見舞われ帆柱を破損しながら困難な航海を続け、9日には鹿島荒野浜に到着した。その後喜三郎は花鳥を連れ鹿島神宮に参詣したのち、13日には密かに佐原に帰った。
家に帰ってみると父は重病であったが、思わぬ喜三郎の来訪に涙を流して喜んだ。しかしまもなく佐原の町にも、喜三郎の島抜けの噂が伝わり、子分が面会を求めたりするなど、潜伏しづらい状況となっていた。そして7月22日には花鳥をつれて佐原を離れ、江戸に向かった(翌月1日に武右衛門は死去している)。
翌23日、江戸に着いた喜三郎は、花鳥と伴に浜町に潜伏したものの、同年10月3日に捕まった。伝を頼り、下関に向かう途中だったともされる。その後、花鳥は死罪になったものの、蔵前の札差から金が差入れられた事が功を奏してか喜三郎は永牢となり、牢名主を務めた。この間著書「朝日逆島記」を著し幕閣に提出したことが評価され、弘化2年(1845年)江戸十里四方追放に減刑。5月9日釈放されるも、長年の牢暮らしで病に罹り翌月3日、39歳で死去。江戸で火葬にふされ、遺灰だけが佐原に戻ってきたとされる。墓所は千葉県香取市の法界寺。
人物
・喜三郎は細面で鼻筋が通った美男子だったという。
・義太夫や小唄が上手く、獄中で著書を著していることなどから、侠客ながらすぐれた教養人であったとされる。
・当時、渡世人は大多数が人別帳から除外され、無宿人の身分だったが、喜三郎の父は、農民籍を抜かなかった。それにより、入獄時も無宿牢ではなく百姓牢に入れられた。
著書
・朝日逆島記
参考文献
・加太こうじ「関東侠客列伝」(さきたま出版会、1984年)
関連項目
・伊能忠敬-伊能家の一族と係わりがあったとされる。
・遠島
(wikiより)
1831 佐藤義亮墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴・人物
明治11年(1878年)に秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)に佐藤為吉、とく夫妻の四男として生まれる。両親は荒物屋を営み、彼の幼名は儀助であった。父親の為吉は商人には珍しく読書好きな人物で、熱心な仏教徒だった。義亮は明治16年(1883年)小学校に入学、優等生で二段進級を許された年もあった。14歳で高等小学校を卒業すると奉公に出されることになっていたが、向学心に燃える義亮は進学の許しを父に幾度と無く請い、為吉は仕方なく官費の師範学校ならばと進学を許可した。師範学校は18歳でなければ入学できないので大曲の小学校長浅沼正毅の家に書生として住み込み、続いて秋田の積善学舎(神沢繁私塾)に入学した。月五円五十銭の学費その他を父は賄えず、一部は姉の嫁ぎ先から支援してもらった。
日清戦争前夜のその頃、学問を志していた義亮は文学に夢中になり、博文館の投書雑誌『学生筆戦場』に投稿を繰り返した。同誌の投稿仲間には仙台の中学生だった吉野作造がいた[3]。当時、高山樗牛ら赤門派(東京帝国大学関係)の新人作家や泉鏡花ら尾崎紅葉門下が文壇に登場し、百花繚乱の文学時代が現出しており[3]、文学熱がますます高じた義亮は、明治28年(1895年)3月に積善学舎を辞め上京する。友人二人と秋田市から鉄道のある黒沢尻駅(現・北上駅)まで約150kmの雪道を歩き、東京行きの列車に飛び乗った[3]。
上京した義亮は新聞配達、運送屋、荷車引きなどを経て[3]、秀英舎(現大日本印刷)の職工の仕事に就き、夜は勉学に励んだ。ある日義亮の投稿文「文学小観」の載った雑誌『青年文』が工場の支配人の目にとまり、彼は校正係に抜擢される。『青年文』(明治29年創刊、少年園)は投稿歓迎の月刊誌で、森鴎外らの文章とともに義亮の文章も掲載されたのだった[3]。肉体労働から好きな文字や文章を扱う仕事に移り彼の心にはいつしか出版事業を行おうという夢が芽生えていった。出版業界を知るにつれ、文壇が赤門出と硯友社の二派に専有されており、この文閥以外の作家はなかなか世に出られないことを知り、自ら出版事業を興すことを決心する[3]。
出版の資金を捻出する為の耐乏生活で貯金を行ったが、その様子を見かねた秀英舎印刷部長の妻である荻原雪が資金援助をしてくれた。そうして明治29年(1896年)新声社を設立し、7月10日、作品投稿雑誌『新声』を創刊する。菊判41ページ、定価5銭。800部の印刷だったが完売した。同誌の3号からは「文界小観」という批評欄で硯友社派に対する批判を行い、尾崎紅葉の怒りを買い、紅葉は新声社員に会うことはなかったという。文閥打破を標榜し、前年に山縣五十雄が創刊した青年投稿誌『文庫』と並んで一時天下の呼び物となった[4]。
1903年経営不振のため、『新声』を同人だった正岡芸陽に譲渡して身を引き[4]、義弟(妻・龍子の弟)の中根駒十郎らの力をかりて1904年新たに新潮社を創立、文芸雑誌『新潮』を創刊[1]。中村武羅夫ら編集者に人材を得て、同誌は明治末以降今日まで日本の代表的文芸雑誌とされている[1]。社是に「良心に背く出版は殺されてもせぬ事」「どんな場合でも借金をしない事」「決して約束手形を書かぬ事」の3か条を掲げ[5]、自然主義文学運動と結んで多くの文学作品や雑誌を出版、新潮文庫(1914年),「世界文学全集」(1927年)などで文芸出版社としての地位を確立した[1]。1922年より、同社の全出版物を角館図書館に寄贈し始める[6]。1934年富士印刷社長に就任(1946年退任)[2]。
昭和10年ごろ、PL教団の前身である「ひとのみち」教団に入信し、社員や取引先なども強制的に入信させた[7]。娘の病気回復を願って一家で入信した義亮は[8]、教団のパトロンでもあり、新潮社の雑誌『日の出』でも、三角寛ら「ひとのみち文士」と呼ばれる書き手を多く起用した[9]。新潮社の名物編集者として知られた斎藤十一も同教団の信仰を通じて義亮の四男・哲夫と知り合い、義亮の孫・亮一の家庭教師となり、それが縁で新潮社へ入社した[8]。
戦後、公職追放となり[10]、昭和26年(1951年)8月18日、73歳で死去。没後、1953年に角館町の有志からなる佐藤義亮先生顕彰会が銅像(朝倉文夫制作)を火除け地広場に建立[11]。2000年には義亮の顕彰を目的に「新潮社記念文学館」が仙北市の公共文化施設として建設された[11]。
子に新潮社二代目社長の佐藤義夫(1900-67)、孫は新潮社第3代社長の佐藤亮一。
詳しいことは、「佐藤義亮ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%BE%A9%E4%BA%AE
(wikiより)

1830 落合直文墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
略歴・人物
陸奥国本吉郡松崎村字片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜 : 煙雲館)にて仙台藩伊達家一家筆頭の家柄で、鮎貝太郎平盛房の二男として生まれた。11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学ぶ。1874年(明治7年)、国学者・落合直亮の養子となる。養父転任で伊勢に移り、神宮教院に学ぶ。
1881年(明治14年)に上京し、翌年には東京大学文科大学古典講習科に入学。1884年(明治17年)、中退し入営、3年間の軍務をつとめる。1888年(明治21年)、伊勢神宮教院時代の師・松野勇雄に招かれ皇典講究所(現・國學院大學)の教師となり教育者・国文学者としての道を歩む。翌年からは第一高等中学校(現・東京大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)、跡見女学校(現・跡見学園女子大学)など多くの学校にて教鞭をとる傍ら、歌集、文学全書の刊行など多彩な文筆活動を展開した。とりわけ 1889年(明治22年)には、森鴎外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影(おもかげ)』(雑誌『国民之友』の夏期付録)を刊行した[1]。なお、一高時代の教え子には尾上柴舟がいる。皇典講究所→國學院→國學院大學には晩年まで在職した。
1893年(明治26年)には浅香社(あさかしゃ)を結成し、与謝野鉄幹、尾上柴舟、金子薫園、鮎貝槐園、久保猪之吉、服部躬治(もとはる)などが集まり、短歌の改革に努め、その後門流から与謝野晶子、石川啄木、北原白秋など輩出し、浪漫的近代短歌の源流となった。また『日本大文典』『ことばの泉』などの文法書や事典の編集刊行に尽力し、功績を残した。
直文は明治の新時代に古来の和歌が一般人に平易な言葉で作歌できるようにし、また貴族、老人のものであった和歌を若い人でも作歌できるように努めた。また門弟には真似することを戒め、個性をとても大事にした。明治33年(1900年)に門弟である与謝野鉄幹の創始した『明星』には、監修の協力や歌文を寄稿した。
代表新体詩に「桜井の訣別(青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ)」「孝女白菊の歌(阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれ)」の名作を残し、また短歌に「緋縅のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山さくら花」等がある。上記の歌によって「ひおどしの直文」と呼ばれた。
1903年(明治36年)、肺疾患のため東京市本郷区浅嘉町(現・東京都文京区本駒込)の自宅で死去。42歳没。墓所は青山霊園[2]。
著作
歌集
・『孝女白菊の歌』1888年(明治21年)
・『萩之家遺稿』1904年(明治37年)
・『萩之家歌集』1906年
・『ことばの泉』
・「騎馬旅行」(福島中佐の単騎シベリア横断を扱った長詩)
・「陸奥の吹雪」(八甲田山の雪中行軍遭難事件を扱った詩)
脚注
1. 『於母影』は、訳者名を伏せて「S・S・S」(新声社の略記)とのみ署名されたため、訳者が誰なのか話題になったという。その新声社の同人は、森鴎外、井上通泰、市村瓚次郎、三木竹二(鴎外の弟)、小金井喜美子(鴎外の妹)、直文本人の計6名。ただし竹二は、『於母影』の共訳に参加していない。
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)82頁
参考文献
・『皇典講究所草創期の人びと』、國學院大學、1982年
・大原敏行『明治長編詩歌 孝女白菊 -井上哲次郎・落合直文からちりめん本、鷗外、画の世界までー』(創英社、2015年)〈この書籍は「孝女白菊の歌」を、原典となった井上の漢詩「孝女白菊詩」との比較検討をしているが、「〈落合直文〉小伝」があり、それは「追悼録」としての『明星 第貮号』(明治37年2月1日)と『国文学 62号』(明治37年2月25日)、さらには、西田耕三『落合直文を知るために』(耕風舎、1983年)、『落合直文その生涯と事績』(落合直文会、2004年)などに基づいて記されている〉
関連項目
・井上通泰
・水上不二
・森鴎外
(wikiより)
1829 川島忠之助墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
1828 星野恒墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴
越後国蒲原郡白根町(現在の新潟県新潟市)生まれ。万延元年(1860年)江戸に出て塩谷宕陰について漢学を学び、明治8年(1875年)修史事業に参加、明治14年(1881年)編修官に任ぜられ、明治21年(1888年)10月帝国大学文科大学(現在の東大文学部)教授に転任、明治24年(1891年)8月文学博士の学位を受け[1][2]、明治39年(1906年)帝国学士院会員となり、明治44年(1911年)史学会評議員長となる。
大正6年(1917年)、脳出血のため死去[3]。
業績
・明治12年(1879年)から明治18年(1885年)にかけて『国史纂要』を著す。
・1890年、重野安繹、久米邦武とともに『国史眼』を編纂した。同1890年、「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文を発表、スサノオが「新羅の主」であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに日鮮同祖論として形成される言説の先駆となった。
・明治26年(1893年)、久米邦武筆禍事件により久米、重野とともに編修官を解任されている。
・明治42年(1909年)『史学叢説』を著した。
栄典・授章・授賞
位階
・1890年(明治23年)11月1日 - 従六位[4]
・1913年(大正2年)8月11日 - 従三位[5]
勲章等
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
・1910年(明治43年)6月24日 - 勲二等瑞宝章[7]
脚注
1. 『官報』第2447号、明治24年8月25日、p.250
2. 8月14日に文部省で行われた学位授与式において星野は学位承受者総代として謝辞を述べている。
3. (『官報』第2448号、明治24年8月26日、p.261)
4. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)269頁
5. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
6. 『官報』第311号「叙任及辞令」1913年8月12日。
7. 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
8. 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
参考文献
・中尾尭「星野恒」(『日本古文書学講座』第9巻月報、雄山閣、1977年)
・中村昌司「星野恒」(『郷土の碩学』、新潟日報事業社、2005年)
関連事項
・明治政府の修史事業
(wikiより)
1827 野口坤之墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
人物・来歴
陸奥国耶麻郡五十軒村(現・福島県猪苗代町)に生まれた、旧会津藩・士族である。幼名は坤之助。翁島小学校を卒業後教職に就いたが、退職し秋月悌次郎門下となる。1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任官[1]。陸軍大学校(4期)を卒業。中尉時代に立見尚文の娘と結婚したが死別。少佐時代に再婚している。第一師団参謀(大尉)として、日清戦争に従軍。金州、大連、旅順、蓋平、田荘台と転戦した。1897年(明治30年)少佐、1902年(明治35年)中佐へ進級。教育総監部参謀、歩兵第三十三連隊長などを務めている。
日露戦争では第四師団参謀長として、師団長・小川又次を補佐し、大石橋、海城、沙河会戦と歴戦。遼陽会戦において小川と共に負傷し、日本に帰国した。第二軍司令部から伝令として派遣された石光真清が負傷現場を目撃している。石光によれば師団司令部が置かれた民家でロシア軍の砲弾が炸裂し、野口は頭部を負傷した[2]。
出征中に大佐へ進級し、戦後は陸軍中央幼年学校長を務め、1908年(明治41年)3月少将へ昇進。歩兵第11旅団・歩兵第三十五旅団・歩兵第一旅団の旅団長を歴任し、陸軍士官学校長に就任したが病を得、1911年(大正元年)11月に待命となる。翌年8月、中将へ進級するとともに予備役編入となった。
容貌瀟洒、思慮稠密であったといわれ、同郷の後進育成組織・稚松会の副会長を務めている[3]。野口尚一は長男。
栄典
・1908年(明治41年)3月9日 – 大韓帝国李花大勲章[4]
脚注
1. 『官報』第151号、明治16年12月27日。
2. 石光真清『望郷の詩』龍星閣。47頁
3. 会津会会報第14号「野口坤之君逝去」
4. 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
参考文献
・会津会『会津会会報第14号』
・小島一男『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 芙蓉書房出版
・福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版
・帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年。
・「陸軍中将林太郎外六名特旨叙位ノ件」(JACAR Ref.A12090162100、叙位裁可書・大正二年・叙位巻十七(国立公文書館))
(wikiより)
1826 大築尚志墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
人物・親族
沼津兵学校頭取、兵部省兵学助、陸軍省砲兵局長などを歴任。江戸幕府、明治政府で軍事技術者として活躍、日本における大砲などの武器の整備の近代化に大きく貢献した。息子の大築千里は京都帝国大学教授、また東京帝国大学出身で1905年(明治38年)に麹町女学校を創立した大築佛郎は四男。六女・壽天は田中義一に嫁いだ。孫に作曲家の大築邦雄がいる。
略歴
下総国、佐倉藩士大築弥市尚忠の子として、佐倉城内で生まれる。母はつな。佐倉藩の藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で12歳の時の1847年(弘化4年)4月21日には、儒学の基礎である四書(論語、孟子、中庸、大学)を声に出して読む素読の試験を受け優秀な成績を収める。
1851年(嘉永4年)に藩から高島流砲術修行を命ぜられた。1853年(嘉永6年)と翌年のペリー艦隊来航に際して、沿岸警備のため下総国千葉郡寒川浦(現、千葉市)へ出張。藩命により1854年(嘉永7年)から、藩の洋学者である手塚律蔵などから蘭学、英学などを学んだ。1860年(万延1年)、佐倉において藩の洋学指南役を拝命、師の推挙で1862年(文久2年)蕃書調書出役教授手伝となった。
1865年(元治2年)幕臣に取立てられ、幕府陸軍で歩兵差図役として幕府の洋式軍隊編成にあたり、1864年(元治元年)8月には翻訳した『歩兵心得』(1860年版オランダ歩兵武器取扱等心得)が刊行された。明治維新後、主家の駿河移封に従い、沼津兵学校創設を推進し、西周を頭取として招くことに尽力。西辞任後1870年(明治3年)には頭取並となる。
1871年(明治4年)の廃藩置県後に沼津兵学校は兵部省に移管され、陸軍中佐兼兵学助となる。その後、陸軍省第3局副長、造兵正御用取扱、砲兵本廠提理、砲兵会議副議長、砲兵局長、砲兵会議議長心得を経て、1886年(明治19年)陸軍少将・砲兵会議議長となる。さらに砲兵監、日清戦争の際は臨時東京湾守備隊司令官を命じられ、1889年(明治32年)には陸軍中将となり同時に後備役に編入された。
1900年(明治33年)6月12日、66歳で死去。死去にあたり正四位旭日重光章を賜る。青山墓地(東京都港区南青山)に葬られ、戒名は大興院殿真常尚志大居士。
栄典・授章・授賞
位階
・1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[1]
・1887年(明治20年)12月27日 - 金製黄綬褒章[4]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
・1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等瑞宝章[6]
脚注
1. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
2. 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
3. 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
4. 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
5. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
6. 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
関連文献
・樋口雄彦『大築尚志略伝』・沼津市博物館紀要(第11号)、1987年。
・宮地正人編『幕末維新論集〈12〉明治維新の人物像』吉川弘文館、2000年。ISBN 9784642037327 (4642037322)
関連項目
・幕府陸軍
・幕府陸軍の将校
(wikiより)
1825 安田老山墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
1824 勅使河原蒼風墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴・人物
いけばなにおいて斬新な手法を多く提供し「花のピカソ」と呼ばれた(1955年パリ個展の盛況で、フランスのフィガロ、米タイム誌等でそう賞賛された)。既存の華道の世界において重要な型を否定、自由ないけばなを提唱したため異端視された。しかし1957年、フランスから来日した前衛芸術の評論家ミシェル・タピエが蒼風の作品を絶賛し世界に紹介したことにより国際的な評価が高まるとともに日本でも認知されるようになる。1959年のバルセロナ個展に感激したサルバドール・ダリに自宅に招かれ、流木のオブジェを制作し、柔和な表情のダリと談笑する映像が残されている。1966年にはミロ展のために来日したミロ夫妻が草月会館に来訪した。
『いけばなは生きている彫刻である』と提言する蒼風は、日本のいけばなを世界に発信した第一人者といえる。戦後、マッカーサー元帥夫人をはじめ米軍将校夫人にいけばなを指導。1952年ニューヨーク個展をはじめ、世界各国で展覧会やデモンストレーションを精力的に行った。デモンストレーションは草月流特有のもので、観客側を正面として、観客に向かい作品の背後から手探りでいけていく「後ろいけ」によって行われる。1960年、フランスの芸術文化勲章、1961年にはレジオンドヌール勲章、1962年には芸術選奨を受賞。創作はいけばなに留まらず、彫刻、絵画、書にも亘る。映画『切腹』や『怪談』では題字をてがけている。
1953年「抽象と幻想」展に鉄のモビール作品『群れ』を出品。「若しこの世の中に、植物が一つもなかったとしたらどうだろう。どっちを見ても花はない。そういうとき私たちは、一体何をいけるだろう。私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら、土をいけるだろう」という発言があり、著書「花伝書」にも記されている。花が手に入りにくい時代にもあらゆる素材で作品を手掛けた。蒼風の言葉『花は、いけたら、花でなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。』は、花がいけばなの作品となった時に、作り手の人となりを露わにするものであることを表している。
勅使河原蒼風「草月五十則」部分
・第1則 花が美しいからといって、いけばなのどれもが美しいとは限らない
・第2則 正しいいけばなは、時代や生活と遊離していない
・第3則 精神に古今なく、作品は変転自在
・第4則 一輪、一と枝、の強調。大自然を圧縮したような一瓶
・第5則 花と、語りつついける
・第22則 上手な人ほど、器前、器後の仕事が入念
・第23則 花は大切にすること、花は惜しまぬこと
・第31則 いけばなは絵だという、音楽でも、彫刻でもある
・第35則 家庭だけが場ではない。個人的な場、公共的な場
・第36則 花の色だけでなく、器も、台も、壁も、光線も
・第39則 環境から生まれたように
・第44則 重複がないかを見る、強調があるかを見る
・第47則 花を、器を、場所を、探す努力
・第48則 意外ないけ方がある。意外な題材を忘れている
・第49則 新、動、均、和、の四原則。線、色、魂、の三拍子
・第50則 見る目と、造る手と、片寄らぬ精進
草月流 家元継承年
・初代 勅使河原蒼風 創流1927年〜1979年
・第二代 勅使河原霞 1979年〜1980年
・第三代 勅使河原宏 1980年〜2001年
・第四代 勅使河原茜 2001年〜
2009年2月15日、蒼風夫人、勅使河原葉満(はま)が105歳で他界した。
著書
・蒼風随筆 秋豊園出版部 1937
・鋏だこ 生活社 1942
・草月流いけばなの生け方 主婦之友社 1942
・草月流いけばな 投入篇 盛花篇 婦人書房 1947
・一花一葉 随筆 生活研究社 1948
・新しいお花のいけ方 講談社 1949
・草月流生花独習書 主婦之友社 1951 (主婦之友の独習書全集
・勅使河原蒼風作品集 第1集 ホームライフ社 1952
・草月流お花のいけ方 大日本雄弁会講談社 1953 (実用家庭百科
・私の十二ケ月 中央公論社 1955
・ヨーロッパの旅 東峰書房 1956
・花ぬすびと 宝文館 1956
・草月の家庭生花 勅使河原霞共著 主婦の友社 1957 (いけばな双書)
・草月流生花 主婦の友社 1959 (独習シリーズ)
・草月の花 婦人画報社 1962
・花ぐらし 主婦の友社 1963 (主婦の友新書)
・草月流 いけばなグラフィック 主婦の友社 1963
・蒼風の花 主婦の友社 1966
・私の花 講談社インターナショナル 1966.5
・華 勅使河原蒼風名作選 三省堂 1971
・草月 蒼風の芸術 主婦の友社 1971
・草月流 勅使河原霞共著 小学館 1974 (オールカラーいけばな全書)
・花伝書 草月出版 1979.11
・草月テキスト 花材 秋・冬 / 春・夏 草月出版 1980-81
・花ぐらし わが造形人生 主婦の友社 1980.3
・勅使河原蒼風瞬刻の美 二玄社 2000.6
・草月五十則 草月文化事業・出版部 2004.11改訂(創流5年目頃に執筆)
翻訳
・ヨーロッパのフローラルアート 伝統と創造の花の芸術 ローランス・ビュッフェシャイエ 東京インターナショナル出版 1970
脚注
外部リンク
・いけばな草月流 - 公式サイト
・いけばな草月流Facebookページ - 公式サイト
(wikiより)
勅使河原蒼風
1823 尾崎三良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
仁和寺宮諸大夫の若林盛之の三男[注釈 1]として山城国葛野郡西院(現在の京都市右京区)で生まれたが、幼くして両親と死別し、学問への志をもちながらも、1857年から烏丸家、そして冷泉家に仕えた後、三条実美に気に入られて、元家人の戸田造酒(みき)の養孫となり、戸田雅楽(のち戸田三郎)と名のり[2]、実美の家人となる。
文久2年(1862年)、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従して江戸に赴き、翌年の八月十八日の政変で三条ら過激派公卿が京都を追放された七卿落ちでは三条に随行し、長州藩へ落ち延びた。慶応元年(1865年)、三条に随って大宰府に移った。この間、撃剣・乗馬を習い、読書を積んだ[1]。 「戸田雅楽」の別名で、三条の名代として西郷隆盛など尊皇攘夷派との連絡役をつとめたのもこの時期である。大宰府では、公卿の臣下や諸藩の人士との交流によって攘夷論から開国論へと転向した[3]。
慶応3年(1867年)、三条の諒解を得て見物の名目で長崎に赴いた際にアメリカ領事や坂本龍馬・中島信行らと親交を結び、大政奉還の策を協議して岩倉具視に建策する。その際に出されたのが、後の三職制度であるとされている。坂本・陸奥宗光らとともに土佐へも赴き、ついで京都にむかい、そこで坂本と同席しているあいだに京都二条城で徳川慶喜により大政奉還がおこなわれた[4]。 そこで急遽西郷隆盛らと同船して大宰府に戻り、事態を三条実美に報告した[4]。維新後、実家の尾崎氏の姓を継ぎ「尾崎三良」と称した。
龍馬の死後、三条は朝廷に復帰するが、尾崎は龍馬から聞いた海外の話に関心を持って留学を志す。これは伊藤博文にも支持され、三条は嫡男・公恭とともにその従者としてイギリス留学することを命じた[4]。 慶応4年(1868年)3月、公恭、中御門寛丸、毛利元功およびその従者の一行8人で神戸港から渡英した。長崎からは62日間の船旅となった[4]。イギリスでは河瀬真孝に英語を学んだが、のちにオックスフォード大学聴講生としてイギリス法を修得するまでになっている。後に河鰭実文のイギリス留学の世話もしている。
ロンドンでの英語学習中の明治4年(1871年)、岩倉使節団のアメリカ到着を知って渡米し、木戸孝允や岩倉と会見して条約改正の時期尚早を献策し、寺島宗則などとともにロンドンに戻った[4]。 ロンドン留学中、三良は英語教師のウイリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・キャサリン・モリソン(Bathia Catherine Morrison)と明治2年(1869年)に結婚し、三女をもうけた(1881年に離婚)[注釈 2]。
明治6年(1873年)には木戸の要請で帰国、太政官に出仕して法制整備の任にあたる。明治7年(1874年)に養祖父・戸田造酒の孫の戸田八重と結婚。明治11年(1878年)、尾崎の英国での結婚を知った上司の伊藤博文はモリソン家に一時金を渡すよう井上馨に依頼、明治13年(1880年)にはモリソン家からも井上に相談があり、尾崎が八重を離縁し英国妻パサイアとの婚姻届けを井上に提出したことにより三条実美にも知れ、実美を激怒させた[2]。バサイアから尾崎の欧州赴任の嘆願もあり[2]、同年、ロシア駐在一等書記官として、公使柳原前光とともにサンクトペテルブルクに入る。翌年、バサイアとの離婚約定書を英国で交わし[2]、帰国後太政官大書記官、内務大丞などを歴任。明治18年(1885年)には元老院議官として大日本帝国憲法の審議にあたった。
明治23年(1890年)の帝国議会発足とともに同年9月29日貴族院議員に勅撰され[5]、翌年成立した第1次松方内閣においては法制局長官に就任した。 明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「尾崎三良氏の演説は中々上出来 三浦安氏の弁舌は流暢なり共に老練々々」と記されている。
後に田口卯吉の帝国財政革新会の結成を支援する。明治29年(1896年)6月5日に男爵を叙爵[6]。明治40年(1907年)には宮中顧問官。晩年には文部省維新史料編纂委員を務めた。
中央公論社より、各3巻で『尾崎三良自叙略伝』(1976-77年、中公文庫 1980年)と、『尾崎三良日記』(伊藤隆・尾崎春盛編、1991-92年)があり、足跡を詳しくたどる事ができる。
家族
・妻
・バサイア・キャサリン・モリソン(Bathia Catherine Morrison, 1843-1936)- ロンドンでの尾崎と三条公恭の滞在先であり英語を習っていたウィリアム・モリソン(William Mason Morrison)の娘。父親はケンブリッジ大学中退後、地方の学校で教師となり、その後ロンドンで個人教師業と下宿屋を営んでいた(父の兄はドイツ語翻訳家として多数の著書のあるAlexander James William Morrison)[2]。尾崎と1869年に英国で結婚したが(日本での届け出は1880年)、1873年に妻子を置いて尾崎が帰国したまま放置されたため[7]、井上馨に書面で尾崎の欧州赴任を懇願、1880年に外務一等書記官としてペテルスブルクに赴任した尾崎と再会するも翌年離婚[8]。離婚理由は、帰国中に尾崎が日本人妻を娶ったことを知ったバサイアが日本への同行を拒否したためとされる[8]。長女の英子は義弟の洵盛に「父は母を捨てて帰国した」と語ったという[7]。1885年に父ウィリアムが亡くなると金銭的に困窮し、駐ロンドン日本領事の園田孝吉に親子の窮状を訴え救いを求めたことから、この騒動が日本でスキャンダルとなったが、バサイアは離婚後もオザキ姓を名乗り続け、尾崎の悪口を聞くと怒ったという[8]。93歳まで長らえ、次女に看取られ亡くなった[8]。バサイアと尾崎が署名した同意書は英国法では離婚でなく別居合意書であったため[7]、死亡届は日本の外交官の妻バサイア・オザキとしてなされた[8]。
・八重(1855-1943) - 滋賀の本行寺住職・藤山澤證と妾の千代浦(尾崎の義祖父・戸田造酒の娘。千代浦の妹・戸田玉井は尾崎の義母にあたる)との三女[9]。尾崎が留学する前に許嫁となり、帰国した半年後の1874年3月に入籍したが、1880年にバサイアを入籍するため一旦離縁され、のちにパサイアと尾崎が離婚後再び入籍[2]。尾崎が妾を迎えたのちの1886年に一女をもうける。
・ミチ(?-1902) - 士族・藤木行顕の娘。1879年に妾となり、長男はじめ14人の子を産む[2][9]。美知、道、道枝、道栄とも[2]。
・子供
・英子(O'yei Evlyn Theodora Kate)- 1870年生まれ。16歳で来日。慶應義塾幼稚舎の教師のほか、駐日英国公使夫人の秘書などを務める。タイムズ特派員のオートラリア人と恋愛関係にあったが、尾崎行雄と結婚[8]。日本の昔話の英訳で知られる。子に品江と雲香。
・政子(Masako Maude Mary Harriett)- 1872年生まれ。フランス造船学校を出た松岡右左松との縁談のため1899年に来日するも破談となり帰国[7]、1906年に英国人Alfred Games Herwittと結婚し、母のバサイアを看取る[8]。娘のMuriel Herwittは俳優のラルフ・リチャードソンと結婚した[7]。
・君子(Kimie Florence Bathia Alexandra)- 1873年生まれ(尾崎帰国後に誕生)。尾崎が毎月バサイアに生活費を仕送りする代わりに君子を日本に送るという両親の生活援助協定により1889年に来日したが、日本の生活に馴染めず一年後に帰国、1904年に再来日して横浜のフレイザー商会で働く[7]。1909年にスウェーデン人商人のHenrich Ouchterlony(1882-1948)と日本で結婚[8]、スウェーデンで一女をもうけた[10]。夫は1906年に来日し、Ouchterlony & Co Ltdを大阪で開業し、フィンランド・パルプの代理人を務めるほか、神戸と大阪でフィンランドとスウェーデンの領事館に勤務したのち、1940年にはフィンランド総領事となる[11]。夫とともに1946年にスウェーデンに戻り、1964年にヨーテボリで没[10]。
・洵盛 - 1880年生まれ。外務省参事官。中国陶磁器研究者として著書もある。
・盛貞 - 1883年生まれ。
・昌盛 - 1884年生まれ。
・寿子 - 1886年生まれ。八重の子。小野義一と結婚
・望盛 - 1887年生まれ。
・繁盛 - 1890年生まれ。子に尾崎盛光
・雄盛 - 1891年生まれ。
・元子 - 1895年生まれ。物部長穂と結婚
・寿恵子 - 1896年生まれ。
詳しいことは、「尾崎三良ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E4%B8%89%E8%89%AF
(wikiより)
尾崎三良
1822 福羽逸人墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴・人物[2]
石見国津和野藩にて津和野藩士、佐々布利厚の三男として生まれる。父とは3歳のときに死別した。1872年(明治5年)、16歳のとき、国学者の同藩士・福羽美静の養子となる。その年に上京することになった実兄に頼み込んで従僕として同行する。上京してからは最初は旧津和野藩主、亀井茲監が設立していた培達義塾に身を置き、ドイツ語その他を学び、1874年(明治7年)、溜池に開校した工部省工学寮(のちの工部大学校)の小学校に入学した。工学寮の小学校は工部大学校の予科であり、少年時代から回顧録にあるが、幼少の頃から梅、柿などの果樹木も接ぎ木で育て、梅、柿、菊などの栽培に強い興味を持っていた福羽には数学や物理学が性に合わなかったためか、翌1875年(明治8年)に内藤新宿試験所の実習生となる。1877年(明治10年)には津田塾を興した津田梅子の実父津田仙が主宰する学農社農学校に入学、農学と農芸化学を修める。「大日本農史」には「伝習希望ノ者ヨリ適当ナル者ヲ選抜シー(中略) 明治十一年日給改メテ農毫,生ト称ス」とあり、福羽はごくわずかの間ではあるが、日給30銭を支給される伝習生という立場で雑多な農業実修に従事していたと考えられる。また当時の試験場には、松方や大久保が米欧の旅先から送った苗や、旧薩摩藩士で後に山梨県令、農商務省次官になる前田正名がフランスから大量に持ち帰ったりんごやぶどうの苗なども植えられており、特にぶどうは同場の果樹栽培技術確立の主要な目標の一つであった。
1878年(明治11年)に内務省勧農局試験場に入り、農事修学所に勤務、農業園芸の実習と加工製造を研鑚する。1879年(明治12年)、三田育種場詰・植物御苑掛となる。果樹栽培に関して山梨、兵庫、和歌山の地方などを調査し、日本随一の先進地、甲州への調査結果をもとにぶどう栽培の利点をとりまとめた長編の「葡萄園開設論」を作成し、翌年、フランスから帰国した松方正義勧農頭(大蔵大輔兼務)に提出した。その後一介の農業生に過ぎず、またぶどう栽培に関する特別な知識、経験のない福羽に、重要な任務が任された理由などは自身が遺した回顧録にも何も記されていないが、このことがその後の福羽の運命を決めた主因であったと考えられ、同年には甲州のぶどう栽培の現地調査を命じられる一方、兵庫県加古郡(現・稲美町)に国立の播州葡萄園を設立、1886年(明治19年)に同園の園長となる。
ほか、欧州園芸の実地を研究のためイタリアとフランスへ派遣され、その後米国を巡回して帰国した。1889年、パリ万国博覧会を視察する。また、ヨーロッパと北米を出張訪問した。これは明治18年(1885年)の夏の台風により播州ぶどう園が甚大な被害を受けて再起不能の状態に陥ったことを、一時は身の不幸と慨嘆したと回顧録に記しているが、回顧録ではその憤懣を本場、欧州、特にフランスでのぶどう栽培、ワイン醸造と園芸の視察及びその技術の学習,習得意欲に転換し、留学を決心したが当時、政府の財政は厳しく、また、一介の農商務省吏員が熱望すれば叶えられるというものではなかったとし、大蔵大臣松方正義、農商務大輔品川弥二郎および大蔵·農商務大書記官前田正名を巻き込んで、ようやくその年の秋頃には許可の目途をつけたとしている。よほどのことがなければ、松方や品川の支援を得ることなどは困難であったが、大久保の命によりワイン造りに取り組み、松方、品川とも親しかった薩摩藩出身の前田正名がフランスから持ち帰ったぶどうを播州ぶどう園で精魂こめて育てたのが福羽であった。しかし、福羽の留学は公費留学であったため、内閣の決裁が必要であり、最終決裁者の総理大臣は伊藤博文で、伊藤は不同意だったという。福羽は総理大臣に直接、留学の目的、必要性、すなわち日本の農業の発展にはぶどう栽培、ぶどう酒醸造は言うまでもなく、欧州の果樹、花卉、蔬菜園芸の技術導入が最も急を要する課題であり、自分の留学の目的がそこにあることを執拗に説明して、ようやく欧州留学の道をこじ開けたとしているが、前田の支援があったことは想像に難くない。
1890年農商務省技師補に就任、東京農林学校(後の帝国大学農科大学)兼務となり、はじめて園芸学を担当した。1891年(明治24年)から御料局技師として内匠寮勤務。
1896年(明治29年)、宮内省式部官を兼務し、伏見宮貞愛親王とロシアへ随行。これもロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に親王が参列することを聞き、その随員となって、ロシアのほか欧州皇室の苑園を視ようと目論んだものである。政府は特命全権大使として山縣有朋を派遣することにしていたので、既に面識があった福羽のごり押しにも好都合だったと思われるが、この福羽の要求は当時上司として積極的に支援していた岩村御料局長でさえ尻込みし、福羽はやむなく内務大臣になっていた前任の品川弥二郎に助けを求めた結果、最終決裁者への請願の道を与えられた。その相手は奇しくも、1892年(明治25年)8月から第5代内閣を率いていた伊藤博文であった。この時も福羽は伊藤の「はよーそれ むつかしき」と否定する言葉をさえぎり目的を、縷々陳述した結果、後に田中光顕宮内大臣から随員として内定した旨の通知を受け取ったという。
1897年(明治30年)には植物御苑掛長になり、ルソン島・マニラへ調査出張する。1899年(明治32年)にロシアとフランスへ出張する。翌1900年(明治33年)にもパリ万国博覧会へ出展園芸物の審査にフランスのパリに出張、博覧会園芸万国会議に列する。その合間にベルサイユ園芸学校校長アンリ・マルチネに御苑の改造の相談と計画指導を依頼している。和洋の様式が混在した造園として面積18万余坪を占める新宿御苑は、2年後から5年間かけて完成させる。十数年前から多種多様の内外樹草を育成準備したため、わずかな経費で豪華にして優麗な大庭園に改造した。同年に西欧風公園である日比谷公園の建設に際し造営委員会に加わる。園芸花壇の設計および花壇の造成指揮をとり、西欧園芸の粋をきわめた花壇を出現させる。その後新宿試験場跡の植物御苑発足に当たり、1891年に宮内省御料局技師に任命され、1903年には植物御苑苑長に就任、御苑改造完成後の1904年(明治37年)には宮内省内苑局長に就任。全般の指揮をとる立場となった。以後、宮内省に大正六年の退職まで奉職する。
1906年(明治39年)には東京市の依頼で、市内の街路樹の試験研究を委嘱する。東京市の街路並木改良について長年の経験を基に、白沢保美と協力立案した。スズカケノキ挿穂2万本、ユリノキの種子数種を交附し育成を指導した結果、3年で街路樹木を育成定植させた。1907年(明治40年)に爵位を継承。また、大韓帝国の昌慶宮に建設するガラス張り温室の設計を行った[3]。1908年(明治41年)に武庫離宮(現在の須磨離宮公園)の庭園設計を行った。そのほか邸宅庭園では、李王邸や溝口伯爵邸の改良、麻布鳥居坂町の佐々木邸などを手がける。また小沢圭次郎の別府公園(明治41年)は、福羽の推薦による。その後も明治43年まで欧米視察をし、日本に西欧の園芸学を導入し、学問としての基礎を築いた。
1913年(大正2年)に大膳頭並内匠寮御用掛に就任。これは翌年京都の二条城で行われる大正天皇の即位礼「大饗」の指揮監督官を担ったもの。福羽はこれまでにも新宿御苑において栽培した西洋野菜や果物を宮中晩餐会で用いたり、洋ランなどの花卉で会場を装飾するなどの饗宴を手掛けておりまた、海外留学や渡航実績、国内外の国家行事への知識や経験が豊富であったことも高評価され、大正4年に行われる大饗指揮官に大抜擢される。抜擢には福羽自身も「予想外の人事であった」という驚きがあり、また「千載一遇の機会」との思いで承諾したと語っている。そして大正4年に報告書『大饗紀事』を記しており、大正天皇即位礼の後に行われる宮中の食事会・大饗について、献立や材料調達、会場設備や室内装飾、スケジュール、職員の心得などを事細かに記録。報告書の序文は「大饗は国家儀式のなかで最も重要なもの」で「式典に関与する者もっともは慎重・誠実にこの儀式を遂行しなければならない」と記している。
なお実際に福羽は、料理を特技の一つとしていた。[4]
1917年(大正6年)7月21日、大膳頭並に内匠寮御用掛を退任し、正三位勲一等瑞宝章、宮中顧問官となる[5]。1919年(大正8年)、農学博士を授与されている。
福羽逸人と菊
隣家に毎年菊花壇を設けて菊自慢をしていた人がいたことから、早くから、菊は変化に富み観賞花であることを知り、菊好きになっていったと思われる。学農社に入った頃、薩摩藩出身の司法官僚で、民法典編纂委員をも務めた水本成美に菊の栽培、鑑別に関する薫陶を受けたとされるが、氏は駿河台の自邸に菊花壇を設けて近隣住民に観覧させる菊栽培家としても著名であった。福羽は明治24年に宮内省御局技師に異動し、内匠寮兼務となって植物御苑の再興を果たした後、明治31年末には内匠寮技師、新宿植物御苑掛長を拝命し、その責任者となったが、その頃、以前から番町の自宅の菊を植物御苑に持ち込んで試験栽培していた中から大造りに適した優良種を作出するなど、菊の栽培技術を向上させていたという。このような福羽の努力により、明治33年にパリで開催された万博ではフランスの菊を使用し、また日本とは異なる気候などの条件下ではあったが、市川之雄らとともに苦心して仕立てた大造菊は各国の審査官を驚嘆せしめたようである。
イチゴの栽培への貢献
福羽逸人は日本におけるイチゴ栽培への貢献で知られている。西洋イチゴの日本での栽培は輸入した苗が輸送中にかれるなどなかなか成功しなかった。福羽はフランスのヴィルモラン商会から取り寄せたジェネラル・シャンジー種の種子を新宿御苑で実生させ、苗の中に大きな果実がつくものを選び、1899年に「福羽」という新品種として発表した。新宿御苑は皇室のための栽培園のため、一般に栽培の許可がされたのは1919年からとなったが、「福羽」から改良されたイチゴの品種には、1980年代後半から1990年はじめに、作付け面積の50%近くを占めた品種「女峰」などがある[6]。
詳しいことは、「福羽逸人ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%BE%BD%E9%80%B8%E4%BA%BA
(wikiより)
福羽逸人
1821 福羽美静墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
津和野藩士・福羽美質の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、19歳で藩校・養老館に入学して漢学や山鹿流兵学を学ぶ。津和野藩主亀井茲監の命を受け、嘉永6年(1853年)京都に上り、大国隆正の門に入る。この際に国学思想の影響を受けて尊皇攘夷論に関心を抱き、次第に意を国事に用いるようになったとされている。安政4年(1857年)に帰藩し、養老館で教授を務める。文久3年(1863年)、御所に召され孝明天皇に近侍する。八月十八日の政変に際しては、七卿と共に西下し帰藩、藩主亀井に認められ、藩政刷新に尽くすところがあった。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。そして明治元年(1868年)、茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、徴士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度確立に尽力した。
明治2年(1869年)には明治天皇の侍講、同年大学御用掛、明治3年(1870年)に神祇大福、明治5年(1872年)に教部大輔となるが、「外国の長所を取り入れるべきだ」との意見に反対意見が続出したため免官され、宮内省歌道文学御用掛となる。
明治9年(1876年)に国憲調査委員、明治12年(1879年)に東京学士会会員、明治13年(1880年)に文部省御用掛、明治18年(1885年)に元老院議官となり、明治20年(1887年)には子爵を授爵した。
この間、明治13年(1880年)から翌年まで東京女子師範学校摂理(校長)を務めた。
明治23年(1890年)7月、貴族院子爵議員に選出され[1]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。その後、貴族院議員を明治30年(1897年)7月まで務めた[1]。
園芸・造園家・宮中顧問官の 福羽逸人 農学博士(子爵)は、養嗣子にあたる。
栄典
位階
・1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[3]
・1907年(明治40年)8月14日 - 正二位[7]
勲章等
・1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[8]
・1904年(明治37年)3月25日 - 勲一等瑞宝章[6]
エピソード
・幼少の頃に軽業(かるわざ、曲芸)師の真似をしようとして綱渡りをした際に誤って転落、腰部の関節を挫傷したために身長が伸びなかった。大人になっても5尺(約151.5cm)に満たなかったといわれる。しかし、父の友人から諭され、また荒木田守武の和歌に感銘を受けるなどして勉学に励んだ。
・明治天皇が京都より東京へ行幸(東京奠都)する際、伊勢神宮より早馬が到着して「神宮の鳥居が倒れた、御神意は天皇の行幸に反対なのでは」という連絡を受けたが、福羽は「人が作ったものなら倒れるのも当然じゃないか」と相手にしなかった。他の国学者、神祇官僚とは一線を画した福羽の合理的精神の一端と言われる。
脚注
1. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52-53頁。
2. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
3. 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
4. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
5. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
6. a b 『官報』第6217号「叙任及辞令」1904年3月26日。
7. a b 『官報』第7240号「叙任及辞令」1907年8月16日。
8. 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
参考文献
・『国史大辞典』第12巻(平成3年6月30日第1刷発行)吉川弘文館 P95「ふくばびせい-福羽美静」の項
・沢弘吉 「明治教育の先覚者を数多く輩出した津和野藩校養老館など」『人物を中心とした教育郷土史』、文部省大臣官房調査統計課、帝国地方行政学会、1972年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)

福羽美静


1820 宮崎小三郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1819 二川為次墓(会津若松市大町2・東明寺)
1818 上田長三郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1817 池田陽三郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1816 原庄九郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1815 金子和三郎墓(会津若松市大町2・東明寺)
1814 岩井猪之助墓(会津若松市大町2・東明寺)
1813 岩原久万吉墓(会津若松市大町2・東明寺)
1812 河野忠之進墓(会津若松市大町2・東明寺)
1811 楠島熊吾墓(会津若松市大町2・東明寺)
1810 呉文炳墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
東京府東京市麹町区で統計学者呉文聰・やす夫妻の四男として生まれ[1]、麹町小学校を卒業[脚注 1]。1913年(大正2年)に慶應義塾大学法学部を卒業すると母校の予科講師・三菱銀行勤務を経て、渡米してシカゴ大学とコロンビア大学へ留学。
帰国後の1927年(昭和2年)に創立された三菱信託へ入社し、同社に勤務しながら立教大学教授を務め、さらに法政大学と専修大学に出講するなど信託業務の実務と普及に携わった。1935年(昭和10年)東京帝国大学経済学部講師となった後、1939年(昭和14年)に日本大学へ移って商経学部教授に就任。日大では商経学部長・理事・学長を歴任して、1946年(昭和21年)に日本大学第4代総長に就任。日大総裁→理事長→会頭も兼任しながら、戦争で疎開した日大各学部のキャンパス確保や整備を古田重二良理事長と共に東奔西走し、その一方で1946年(昭和21年)7月8日には貴族院議員に勅選され[2]日本国憲法の審議に関わり、交友倶楽部に所属して1947年(昭和27年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。
1958年(昭和33年)に日本大学会頭を古田に総長を永田菊四郎にそれぞれ譲り、自らは総裁として名目的な地位にとどまった。また大学設置審議会・私立学校審議会委員や神奈川県公安委員を務め、文学や演劇史にも関心を持ち『日本演劇の起源』などの著作を残している。1975年(昭和50年)には広島県呉市の名誉市民第一号となった。また、著作に『江の島錦絵集成』があるように、江の島に関する浮世絵を収集していた。そのコレクションは1980年(昭和55年)市政40周年を記念して藤沢市に寄贈され、2016年(平成28年)に開館した藤沢市藤澤浮世絵館の中核となっている。1981年(昭和56年)に91歳で死亡。
人物
生家の呉家は、学者の家系として著名な箕作家に連なり、祖父で蘭学医の呉黄石は蘭学者の箕作阮甫の弟子で娘婿にあたる[4]。父の呉文聰は「国勢調査の父」と謳われた統計学者で、日本で初めて精神医学と精神医療を確立し「精神医学の父」と謳われた呉秀三は叔父[4]。書家の日高秩父は義叔父[脚注 2]。
兄は内科学者の呉建[4]。妻は荵、長男は正恭(日本大学芸術学部教授)長女は直子(伊東基保に嫁ぐ)次男は直彦(医師 呉内科診療所長)。
父方の従弟に西洋古典学者の呉茂一と文部官僚の日高第四郎がおり[脚注 3]、母方の従弟に歌手の高英男がいる。
詳しいことは、「呉 文炳ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%96%87%E7%82%B3
(wikiより)
呉 文炳
1809 久保猪之吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
人物・来歴
旧二本松藩士・久保常保の子として現在の福島県に生まれる。1900年、東京帝国大学医科大学を卒業、岡田和一郎の副手をつとめた後1903年に結婚、ドイツへ留学すると1907年に帰国し京都帝国大学福岡医科大学教授となる。俳人久保より江の夫。長塚節の主治医[1][2]。
日本の耳鼻咽喉科学の先駆者。1903年にアルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクに留学するとグスタフ・キリアン教授の下で気管支鏡検査法・キリアン披裂を学び、1907年に帰国して京都帝国大学福岡医科大学教授に就任。耳鼻咽喉科教室を創設し、日本で初めて食道直達鏡を行った[3]。1913年にはコペンハーゲンで開催された第1回万国耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席し、およそ半年かけてヨーロッパ諸国を視察している[4]。視察は1924年にも行った。1935年に名誉教授となり、東京へ移るとルドルフ・トイスラーが創設した聖路加国際病院で耳鼻咽喉科の顧問を務めた。1939年死去、青山墓地に埋葬される。
また、歌人としては、落合直文に師事し、1898年尾上柴舟らと「いかづち会」を結成した。その後は俳句を初め、高浜虚子に師事する。1922年、初めて不如帰に取り上げられる。妻のより江とともに雑誌「エニグマ」(1913年) を発行し、福岡在住のあいだ夫妻の住まいは文化人のつどうサロンともなり、柳原白蓮などの文人、また九州以外からも俳人や文人が集った[5]。
・1928年 ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ会員[7]
・1934年 フランスのレジオンドヌール勲章を受勲
久保記念館
九州大学馬出キャンパスには博士の名を冠した博物館「久保記念館」および「久保猪之吉博士像」、「久保通り」[8]および「歌碑」[9]が存在する。久保記念館は1927年に開館した日本第1号の医学史専門の博物館で、1907年に久保が創設した耳鼻咽喉科教室の20周年を記念して建てられた。和風と西洋風の折衷様式の2階建てで収蔵品[10]には久保が洋の東西を問わず集めた耳鼻咽喉科に関わる書籍、論文、標本、機械、医療器具、図画に加えて、かつての同僚や知人から贈られた記念品も含む [11]。生涯に学術論文530本、医学史を取上げた原稿を多数執筆し、医学の分野のほかにも新聞寄稿ほか論考やエッセーなど[12]172本書いている。
詳しいことは、「久保猪之吉ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%8C%AA%E4%B9%8B%E5%90%89
(wikiより)
久保猪之吉
1808 宮武三郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1956年12月11日)は、日本のプロ野球選手。
学生時代から投打ともに抜群の実力を兼ね備え、1936年に結成された阪急軍の初代主将として、草創期の日本プロ野球の人気を支えた。
来歴・人物
香川県高松市生まれ。高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は「四国の麒麟児」と称され、後輩・水原茂とともに甲子園に出場。1925年(大正14年)夏の甲子園で全国制覇を達成した。もともとは柔道をしていたが、人材不足であった野球部の監督が宮武の抜群の運動神経に目をつけて頼み込む形で迎え入れたという。
大学時代
卒業後、慶應義塾大学に進み、いきなり1927年の東京六大学野球春季リーグの開幕戦(対東京帝大1回戦)で先発デビューし、6安打完封で勝利を収め、打っては3安打、神宮球場の柵越え第1号本塁打をも放った。1年生投手の開幕戦勝利は2007年に斎藤佑樹(早大)が記録するまで現れなかった。以後、投打にわたって野球部の主力選手として活躍する。慶大のチームメートでもあった水原や山下実、加えて三原修・小川正太郎(早大)、それに若林忠志・苅田久徳(法大)らが昭和初期、人気絶頂にあった東京六大学野球のスター選手として人気を博した。中でも宮武を擁する慶応に数年来全く歯が立たなかった早稲田が和歌山中学のエースで甲子園の覇者である小川を切り札として慶応に挑戦を開始して以降は、早慶の激闘が全国的に注目を浴びるなど、熱狂を煽った。特に優勝を賭けて小川との投げ合いとなった1929年春秋の早慶戦は空前の関心を呼び、「宮武・小川時代」と称された。なお「早稲田の至宝・小川」に対して宮武は「慶應の超ド級」と言われたが、それは小川の洗練されたスタイルに対して宮武の豪快さが巨大戦艦を思い起こさせたためである。
早稲田の挑戦にも関わらず宮武は大学時代は4度のリーグ優勝を果たし、東京六大学史上初の10戦全勝優勝も経験した。宮武在籍中の4年間、慶大は3位以下になることはなかった(1928年春の1シーズンのみ、チームの渡米遠征のため欠場)。
投手として通算61試合に登板し38勝6敗、188奪三振(勝率.864は20勝以上の投手で最高。慶大の投手としては現在まで通算最多勝利数である)。
打者としては1930年の春季リーグ戦で首位打者に輝いた。通算72試合出場し、237打数72安打、7本塁打、72打点、打率.304。通算7本塁打は後に、1936年に呉明捷(早大)もマークし、1957年に長嶋茂雄(立大)に破られるまで、東京六大学野球の最多本塁打記録だった。また織田淳哉(早大)に破られるまで70年近く投手としての本塁打最多記録でもあった。通算打点72も1968年に田淵幸一(法大)に破られるまでのリーグ記録だった。前述の神宮球場第1号スタンドインの他、若林から場外ホームランを放ったこともある。この場外ホームランは相撲場(現在の神宮第二球場)まで届いたことから「相撲場ホームラン」の異名がある(その翌1931年に外野スタンドが増築されているため神宮唯一の記録と思われる)。また投手として通算3割(通算200打数以上)を記録したのは宮武以外には江川卓(法大)のみである。
このようにエースとしてチームを支える一方、強打の好打者としても名をはせたことから、戦前最高の天才選手と評する人は今なお多い。
社会人・プロ時代
1931年にクラブチーム・東京倶楽部に加入し、投打の中軸として都市対抗野球大会で3度の優勝をもたらす(第5回、第7回、第9回)。1931年に大リーグ選抜が来日した際は、投手として、全日本チームのメンバーに選ばれた。
1936年に阪急軍が結成され入団。背番号1を着けた[1]。学生時代と変わらず、投手のかたわら強打者として活躍。阪急の初代主将を務めた[1]。入団1年目の1936年には打率.355[1]、1937年には本拠地・西宮球場で初の本塁打を放った[1]。投手としても現役最後の1938年には9勝を挙げている[1]。
戦後は実業団クラブの監督などを務めた。1956年に狭心症のため49歳で急死したが、生前の功績が認められ1965年に野球殿堂入りしている。
娘は、同じく後に野球殿堂入りした小山正明に嫁いだ。
詳しいことは、「宮武三郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E
(wikiより)
宮武三郎
1807 阪井重季墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において土佐藩馬廻役300石・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。
戊辰戦争に従軍し、1970年、大坂兵営予備生徒[1]となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。歩兵第24連隊大隊長、歩兵第12連隊大隊長などを歴任し、1877年3月から10月まで西南戦争に従軍した。
歩兵第13連隊長、歩兵第11連隊長、名古屋鎮台衛戍司令官、歩兵第17連隊長などを経て、日清戦争末の台湾に近衛歩兵第2連隊長として出征。1895年10月、陸軍少将に進級し、死去した山根信成少将の後任として近衛歩兵第2旅団長となる。歩兵第10旅団長、近衛歩兵第2旅団長などを歴任し、1902年6月、陸軍中将となり予備役に編入。日露戦争勃発により召集を受け、留守第1師団長の後、後備第1師団長として奉天会戦に参加、1906年3月、召集解除となった。同年3月16日、後備役に編入され[2]、1909年4月1日に退役した[3]。
1907年9月、男爵を叙爵し華族となり、牛込区議、貴族院議員を務め、富士生命社長となった。
栄典
位階
・1894年(明治27年)10月10日 - 正五位[4]
・1916年(大正5年)9月30日 - 従三位[6]
勲章等
・1895年(明治28年)12月4日 - 功四級金鵄勲章[7]
・1896年(明治29年)11月25日 - 勲二等瑞宝章[8]
・1905年(明治38年)5月30日 - 勲一等瑞宝章[9]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、旭日大綬章、明治三十七八年従軍記章[10]
・1915年(大正4年)
脚注
1. 大阪陸軍兵学寮予備生徒
2. 『官報』第6916号、明治39年7月19日。
3. 『官報』第7754号、明治42年5月4日。
4. 『官報』第3388号「叙任及辞令」1894年10月11日。
5. 『官報』第4918号「叙任及辞令」1899年11月21日。
6. 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
7. 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
8. 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
9. 『官報』第6627号「叙任及辞令」1905年8月2日。
10. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
11. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
12. 『官報』第813号「宮廷録事 – 恩賜並追賜」1915年4月21日。
13. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
・秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)
1806 井深梶之助墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
会津時代
会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1968年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った[1]。
敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河辺郡水谷地村(現、喜多方市)帰り、親族と共同生活をする。
明治2年4月、塩川町に藩校日新館が仮の建物で再開される。井深は舎弟の勝治と共に通学する。7月に井深は、校長中弥次衛門に、校内に寄宿していた生徒の世話係に命じられる[2]。
横浜時代
明治2年(1868年)10月に日新館校長中根弥次衛門より、洋学修業辞令を受ける。明治3年(1870年)4月13日の早朝水谷地村を出発する。横浜に着くが洋学を学ぶ方法が分からず、父親のつてで東京に滞在する。東京の土佐藩洋学塾で学ぶが、1871年1月(明治4)に退学する。その時たまたま横浜の修文館で学僕を置く話を聞いたので、横浜の修文館まで行き学僕志願の旨を伝えた。たまたま、桑名藩出身の知り合いが学僕をしていたので、斡旋してもらい学僕になった。学僕は教室の掃除や教員の給仕などを行い、報酬として寝室と三度の食事が与えられた。井深の学力に応じて授業の出席を許された。
修文館ではアメリカ合衆国長老教会の宣教師S.R.ブラウンが一人で英語教育を担っていた。ブラウンに出会い、正規の英語を学ぶ[3]。ブラウンにJ・C・ヘボンの診療所で行われていたバイブルクラスに紹介されて、出席するようになる[4]。
1873年(明治6年)1月5日、19歳の時ブラウン宣教師から受洗[5]。
1873年(明治6年)3月に修文館が火事になった頃、井深は会計係を罷免され学費に窮すると、ブラウンが好意により月謝と食費を負担した。1874年(明治7年)にブラウンが修文館を辞任することになると、井深と松平定敬ら約10名の生徒により、ブラウンの自宅で私塾を開くことになった。これがブラウン塾と呼ばれることになる[6]。ブラウン塾で神学を学ぶ。1877年(明治10年)東京一致神学校が開校されると第一期生になり、植村正久、押川方義、三浦徹、瀬川浅らと共に学ぶ[7]。
旧会津藩の家老の娘との縁談話が持ち上がるが、相手もキリスト者でなければならないと主張して、彼女をフェリス女学院に入学させ、洗礼を受けることになったが、この縁談は成立しなかった。
牧師時代
明治12年(1878年)に教師補に任職を受け。翌年の明治12年(1979年)12月24日の朝に植村正久が、昼に井深梶之助が、夜に田村直臣が按手礼を受け日本基督一致教会の牧師となった。
明治13年(1880年)1月より、麹町教会(現、日本基督教団高輪教会)牧師に就任する。同年4月に元幕臣の娘、水上せき子(21歳)と結婚。井深は26歳だった。同年5月に東京青年会(会長小崎弘道)が設立されたときに、田村直臣、植村正久らと共に役員に選ばれた[8]。
明治14年(1881年)から東京一致神学校の助教授になる。
明治16年(1883年)5月に数回に亘ってに開催された第三回全国基督教信徒大親睦会で日本基督一致教会の代表として副議長に選出された[9]。
明治19年(1886年)に明治学院創立理事会が開かれて、日本人理事として井深が選出される。白金の用地購入など設立のための業務を担当する。
明治20年(1887年)に明治学院が設立されると、井深は教授に就任する。
文語訳聖書の旧約聖書にヘボン、グイド・フルベッキ、P・K・ファイソン、松山高吉、植村正久らと共に協力して、
明治21年(1888年)に完成する[10]。
明治22年(1889年)には初代明治学院総理ヘボンの元で、副総理に就任する。山縣有朋内閣の宗教教育の規制に対して、信教の自由を主張した[要出典]。
明治学院総理時代
明治23年(1890年)に米国留学し、ニューヨークのユニオン神学校で教会史を学ぶ。明治24年(1891年)9月に帰国し、同年11月初代総理J・C・ヘボンの後を継いで、明治学院の第2代目総理に就任する[11]。
明治31年(1898年)3月妻せき子が死去する(享年39)。明治32年(1899年)に大島はなと再婚する。
明治37年(1904年)5月16日、芝公園忠魂祠堂会館で開催された大日本宗教家大会に本多庸一、海老名弾正、小崎弘道らと共に参加する。また、アメリカに渡り、元在日宣教師G・W・ノックスの自宅で、ウィリアム・インブリーと共に明治学院の将来について語り合った[12]。
明治37年から明治38年の間に日本基督教会のミッションからの独立論議の問題が発生した。植村正久が日本の教会の独立を主張してミッションと対立したのである。井深はミッションと植村たち日本基督教会牧師との調停役に奔走した。しかし、ミッションとの関係は冷え切っていた。途中で始まった、日露戦争によりミッションとの関係が好転した。また、本多庸一と一緒に欧米を訪問し、日露戦争について日本の立場を説明するため遊説をして回る。
明治38年(1895年)3月4日本多庸一と基督青年大会創立50年記念世界基督教青年大会に、日本のキリスト教会の代表として出席するためにフランスに向けて出発する[13]。
また、同年4月に芝三田惟一館で開催された宗教家懇談会で結成された日本宗教家協和会の発起人に本多庸一、小崎弘道、海老名弾正、江原素六、平岩愃保、元田作之進らプロテスタント代表の一人として名を連ねる[14]。
明治39年(1906年)の日本基督教会の第20回大会で、井深とウィリアム・インブリー、植村正久の三人は「協力ミッション法」を決議した。ここに、日本基督教会とミッションとの関係が修復された。
明治44年(1911年)~大正4年(1915年)まで基督教教育同盟会(現・キリスト教学校教育同盟)の第2代理事長をつとめる。
1914年(大正3年)から、1917年(大正6年)まで行われた全国協同伝道の総委員長に選ばれ、東部の部長植村正久と西部の部長宮川経輝と共に、大規模な伝道活動を行った。その結果大正期のキリスト教会は大きく飛躍した。
大正10年(1921年)に明治学院の総理を辞任して、名誉総理になる。大正13年(1924年)には明治学院を退職する。
大正10年(1921年)に警醒社より出版された『信仰三十年基督者列伝』の中で、キリスト教への入信にの経緯が、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造、小崎弘道、海老名弾正、押川方義らと共に記される[15]。
昭和9年(1934年)6月に脳溢血で倒れてからは、臥しがちになる。昭和15年(1940年)に東京府で死去する。
栄典
・1915年(大正4年)11月10日 - 勲五等瑞宝章[16]
親族
梶之助の父・宅右衛門は、知行550石で学校奉行(日新館館長)を務め、戊辰戦争では第二遊撃隊頭として越後方面で戦った。梶之助は叔父が近藤勇から譲られた銃[17]を持ち父と共に実戦に参加し1人を討ち取っている。梶之助の弟は衆議院議員の井深彦三郎、姪にハンセン病者に仕えた看護婦、井深八重がいる。次男の健次は陸軍軍医学校長を務めた陸軍軍医中将、ソニー創業者の1人井深大は一族、妹は真野文二、長女は荒川文六に嫁ぐ。
脚注
1. 星亮一『会津白虎隊』成美堂出版、1996年、273-274頁。
2. 守部(2013)63-64頁。
3. 『横浜開港と宣教師たち』有隣堂(2009)、55-56頁。
4. 守部(2013)66頁。
5. 『日本キリスト教史年表』教文館、1988年、35頁。
6. 現在の明治学院
7. 『長老・改革教会来日宣教師事典』
8. 高橋昌郎2003年、129頁。
9. 高橋昌郎2003年、128頁。
10. 中村敏2009年、164頁。
11. 高橋昌郎2003年、58頁。
12. 『長老・改革教会来日宣教師事典』163頁。
13. 『日本キリスト教史年表』51頁。
14. 高橋昌郎2003年、192頁。
15. 中村敏2009年、170頁。
16. 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
17. 『戊辰落日』「光芒」所収の井深の談話
参考文献
・中村敏 『日本キリスト教宣教史』いのちのことば社,2009年
・中村敏『著名人クリスチャンの結婚生活』 ファミリー・フォーラム・ジャパン
・『井深梶之助とその時代』明治学院
・綱淵謙錠 『戊辰落日』文藝春秋
・『大衆人事録 東京篇(第13版)』1939年
・高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館2003年
関連項目
・植村正久
・片岡健吉
・坂本直寛
・山田平左衛門
(wikiより)
井深梶之助
1805 中上川彦次郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日(1854年10月4日) - 明治34年(1901年)10月7日)は、明治時代の官吏・実業家。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。
福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。
経歴
生い立ち
現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。
手島物斎(仁太郎)と弟の橋本塩巖(手島中次郎)の下で漢学を修め、15歳頃まで藩校・進脩館で四書五経を学んだ後、講師となる。その後、大阪に出て適塾の山口良蔵に学ぶ。1869年(明治2年)には東京留学が許され慶應義塾に入学。卒業後、中津市学校・伊予宇和島藩の洋学会社の教員などを歴任後、小泉信吉と共にイギリス留学、元老院議官井上馨を知る。
井上馨の知己
1878年(明治11年)、工部卿・井上馨に誘われて工部省に入省。井上馨の秘書官となる。井上が外務卿となると中上川も外務省に入り、従六位に叙せられ太政官少書記官となり、中野健明の後を次いで公信局長となる。1880年(明治13年)に、外務省太政官権大書記官に昇進、従五位に進む。井上の下で条約改正案の作成にあたる。同時期に、慶應義塾で同窓であった小松原英太郎が外務省権少書記官に居た。
この頃、伊藤博文から要請を受けた官制新聞『公布日誌』発刊の計画の打診について、福澤諭吉の代わりに断りの打診を告げる。明治十四年の政変による失脚という政変に伴い、外務省を辞す。後に福澤の勧めで時事新報社社長となる。
山陽鉄道時代
三菱の荘田平五郎から社長就任の要請があり、1887年(明治20年)山陽鉄道(現在のJR山陽本線の前身)創設時の社長となる。建設に当たっては、瀬戸内海航路との競争を意識して、「線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にせよ」との方針を打ち出し、「百分の一」「ワン・ハンドレッド」とあだ名された[2]。しかし90年不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年(明治24年)に社長を辞任する。1892年(明治25年)、社長に就任した松本重太郎は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原~広島間の敷設を1894年(明治27年)までに完成させた。
三井改革
1891年(明治24年)、三井銀行の経営危機に際して井上馨の要請を受けて福澤諭吉は当初、学卒第一号の高橋義雄を慶應から選んだが、失敗した。そこで、慶應を卒業して福澤の甥っ子であり、上述のように井上とも知己であった中上川が山陽鉄道を退社して三井財閥に入る[3]。1891年(明治24年)、山陽鉄道を辞して三井銀行に入行、理事となる。三井鉱山理事、三井物産理事、三井呉服店調査委員を兼務し、三井大元方参事となる。
三井銀行及び同財閥の経営を任された中上川は益田孝らとともに三井財閥が政商として抱えていた明治政府との不透明な関係を一掃。不良債権の回収に奔走し、まず手始めに本願寺から差し押さえも辞さない態度で債権回収に成功、また伊藤博文の京遊びの不足分の借り受けの申し込みも断り、さらに井上馨の反対を押し切って桂太郎の邸宅を差し押さえるなど、豪腕にして財務体質の健全化を図ったが、水面下では次第に中上川反対派が結成された[4]。一方、王子製紙・鐘淵紡績・芝浦製作所などを傘下に置いて三井財閥の工業化を推進した。1893年(明治26年)、日本郵船会社取締役に就任。
没後の1904年(明治37年)に三井呉服店(旧越後屋)を三井本体から分離して三越百貨店としたのも中上川の構想とされている)。また、学卒者の定期採用としてほぼ慶應出身者のみを採用し、柳荘太郎、藤山雷太・武藤山治・藤原銀次郎・小林一三・池田成彬らを有能な人材を育てた。中上川の死後、中上川の「工業化路線」は、益田孝の「商業化路線」に取って代わられ、さらに後継最有力候補と目されていた朝吹英二らも益田を補佐する地位に一旦はあったが、最後は退任に追い込まれた[4]。
中上川の政府高官に対するあまりにも厳しい貸金回収策は、井上馨の意見を無視してのものであったために、のちに中上川と井上の関係はうまくいかなくなるという、中上川には好ましからざる結果を生む事になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E5%BD%A6%E6%AC%A1%E9%83%8E
(wikiより)

中上川彦次郎


1804 下村宏(海南)墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
下村 宏(しもむら ひろし、1875年(明治8年)5月11日 - 1957年(昭和32年)12月9日)は、明治・大正・昭和の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。号は海南(かいなん)。
玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られている。拓殖大学第6代学長。
略歴
和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。
和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学し帰国後に為替貯金局長(1913年・大正2年)。1915年(大正4年)に台湾総督府の明石元二郎に招かれて民政長官となり、更に総務長官(1919年・大正8年)となる。台湾総督府時代には、八田與一を支援し嘉南大圳の建設に貢献した。
1921年(大正10年)に台湾総督府を退官すると朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した。1923年(大正12年)2月6日、早稲田大学で科外講義の講師を務めた[1]。1937年(昭和12年)に貴族院議員に勅選され、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任。1943年(昭和18年)に社団法人日本放送協会会長となり、1945年(昭和20年)に鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。終戦直後戦犯として一時拘留された後に公職追放を受け、東京商業学校の運営に関わりながら1953年の参院選に無所属で出馬するも落選に終わっている。
息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫(1913年 - 1977年)がいる。
歌人
歌人としては1915年に佐佐木信綱主宰の竹柏会に入会し、竹柏会の「心の花」に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。1921年、兵庫県西宮市の苦楽園に邸宅を構え「海南荘」と称して約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した。
玉音放送
1945年8月15日正午、昭和天皇による玉音放送に際し、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べた。
栄典
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[2]
・1945年(昭和20年)5月17日 - 勲一等瑞宝章[3]
著作等
著書
・『新聞に入りて』日本評論社、1926年
・『人口問題講話』朝日新聞社 朝日常識講座第1巻、1928年
・『終戦秘史』大日本雄弁会講談社、1950年、講談社学術文庫、1985年
・『我等の暮し方考え方』 池田書店、1953年 ほか多数
講演
・「新聞の功罪」(1925年3月、社団法人東京放送局より放送)
社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、1925年11月、23~30頁
参考文献
・坂本慎一『ラジオの戦争責任』(2008年2月14日、PHP研究所)ISBN 978-4569697758
・坂本慎一『玉音放送をプロデュースした男―下村宏』(2010年7月16日、PHP研究所)ISBN 978-4569790312
(wikiより)
下村 宏
1803 森村市左衛門墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
森村家の系譜
初代・市左衛門は遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身とされる。旗本屋敷などに出入りする武具商であり、江戸・京橋に店屋敷をおいた。2代は初代の娘・歌子と結婚した甥の長次郎で、娘・吉子をもうけたが早世した。同様にこれ以降、5代までは森村家の娘が夫に迎えた者が当主となっている。3代は歌子が再婚した相手である。4代は吉子の夫であり、その娘・松子の夫が5代となった。5代と松子の間には6代が生まれ、松子の死後5代が再婚したもと子との間には息子・豊(6代とともに森村財閥を創設)と娘・ふじが生まれた。ふじの夫は、大倉陶園を創業するなど森村財閥の発展に大きく寄与した大倉孫兵衛。7代は6代と妻・とめの次男・開作である。
6代目の活動
森村組設立まで
1839年、5代目森村市左衛門と松子の長男・市太郎として江戸京橋白魚海岸に生まれる[1]。7歳で母を失い、13歳で呉服商・笹山宇兵衛の小僧となる[1]。16歳の時に江戸の大火により屋敷・家財を全て失い、五郎兵衛町に転居するも、翌1855年の安政江戸地震に再び焼失したため銀座三丁目に賃居し、震災の片付け人足としての労働の傍ら、夜は銀座で露店を出し煙草入や財布を売った[1]。こうして得た資金により一家はほどなく武具商に戻った。1858年の日米修好通商条約締結による開港を受けて、翌年から横浜で外国人の洋服・靴・鉄砲・懐中時計などを仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。この時、中津藩の福澤諭吉と知り合う。さらに戊辰戦争期には官軍の総督参謀である板垣退助の軍需品調達を担当し、騎兵用の鞍や軍服を売り財をなした。
明治維新後、この資金を元手に1869年から翌年にかけて大阪城内での養蚕や小樽での網を抵当とした漁師への融資事業、四国での銅山経営などを次々と行ったが、ほとんどが失敗し負債を抱えて破産した。しかし戊辰戦争での関係から帝国陸軍重騎兵用の馬具を製造・販売する工場の経営を始める。フランス軍から製造法を学び、工員が数百人を超えるまでに事業が成長して借金の返済に成功したが、担当の役人に賄賂を要求されたことから馬具製造業をやめたとされる。その後銀座で洋裁店モリムラテーラーを営んでいたが、1876年に異母弟の森村豊がニューヨークへ渡ることを決めたことから匿名組合森村組(現:森村商事)を設立した。
森村組設立後
森村豊(トヨ)は、慶應義塾を卒業後、助教として勤めていたが、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福澤諭吉の協力の下、佐藤百太郎が計画した「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡る[2]。現地の学校で商業・語学を3ヶ月学んだ後、現地で商売をしていた佐藤百太郎とともに日の出商会を設立。6代は骨董品や陶器・提灯などを仕入れて送り、業績が好調なことから森村豊は1878年にニューヨークの六番街で森村組の現地法人として森村ブラザーズ (Morimura Bros. & Company) を単独で開業した。また、6代の義弟・大倉孫兵衛は日本橋で老舗の絵草紙屋を経営していたが、間もなく森村組に参加した。森村ブラザーズの経営は小売から卸売への転換で順調に軌道に乗り、翌1879年には売上高が5万ドルを超えた。新しい店に移転(住所:546 Broadway)し120人以上の従業員を擁した。森村豊は福澤諭吉の推薦により村井保固を日本から迎え入れ、森村ブラザーズのアメリカ支配人とした。1893年(明治26年)に森村豊は、森村と同じ船で渡米した仲間の一人である新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company) を設立。
ここで個々の商品当たりの利幅が大きい小売業から大量取引が可能な卸売業への転換を決断し、当時アメリカでの生産がほとんどなかった陶磁器、特に日用の食器を扱うようになる。1885年より注文を受けてから生産を行い、かわりに通常よりも値引きをすることで効率的な在庫管理に成功し、1889年には売上高が25万ドルに達した。1906年には推定売上げが約500万ドルと大きく伸びた。
取引の規模が大きくなったことから1893年には生地の生産地である名古屋に専属窯を設けるようになり、さらに翌年には、それまで東京・京都に外注していた絵付け(上絵付)の工程も集約して名古屋に絵付工場を設立した。なお、1894年1月16日には6代・市左衛門を襲名している。1906年には専属工場を全て合併し、錦窯組とした(後に日本陶器が吸収)。
日本陶器設立
このように経営を拡大する一方で、それまでの主力商品だった壺やコーヒーカップなど一点物の陶磁器だけでなく、百点近い皿・椀などからなるディナーセットの生産を目指して日本陶器合名会社(現在のノリタケカンパニーリミテド)を1904年に設立した。ディナーセットに用いる白色硬質磁器の開発は困難を極めたが、1910年に製作責任者に招きいれた江副孫右衛門の尽力などによって1914年についに完成し、7年後の1921年には対米輸出が6万セットを超えるまでになった。
従来からの一点物も輸出は順調であり、1914年日本の陶磁器輸出に占める日本陶器社製品の割合は40%以上となり、その後シェアは低下するものの金額は数倍に増えて1921年には会社の輸出額が1,000万円を超えた。また開発コスト負担の問題などから1909年に組織を見直し、日本陶器が生地を生産し、森村組は絵付けを担当、森村ブラザーズが営業・販売を行うこととなった。さらに1917年から翌年にかけてそれまでの森村組の事業と陶磁器以外の物品の輸出入を行う森村商事株式会社を設立し、森村組は持株会社となった。
この他、硬質磁器の製造技術を活かして1905年より高圧がいしの製造を始めて芝浦製作所(現:東芝)に納入し、没年の1919年には日本碍子株式会社として独立している。また、衛生陶器について1912年から研究を行い、1917年に東洋陶器株式会社(現:TOTO)を設立した。
その他の事業・社会活動
貿易の専門家として1882年の日本銀行設立時に監事となった経験を活かし、1897年に森村銀行を設立した(1929年に三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)が吸収合併)。1895年には植林を目的として森村同族株式会社(現:森村産業株式会社)を設立し、山梨県富河村(現:南巨摩郡南部町)の山林を購入した。
また、市左衛門は教育・社会活動にも非常に積極的で、1901年に財団法人森村豊明会を設立し、教育事業や社会事業に多額の寄付を行った。豊明会の名称は、設立前年の1900年に相次いで死去した弟・豊と長男・明六の名から命名したものである。特に、早稲田大学、慶應義塾大学、日本女子大学、高千穂大学には多額の寄付を行っており、早稲田大学については、理工科開設期に基金管理委員に就任し寄附を、また6号館応用化学実験室「豊明館」の建設資金寄附をし、早稲田大学終身維持員となった[3]。慶應義塾大学については、三田大講堂の建設(後に戦災で焼失した)や日吉台植樹資金寄附に尽力[4]、慶應義塾特選塾員となった。また、日本女子大学附属豊明小学校・幼稚園は、森村豊明会の寄付を記念して命名されたものである。
さらに、1910年には自邸内に私立南高輪尋常小学校・同幼稚園(現:森村学園)を創設した。
この他にも北里柴三郎の活動を早くから支援し、1892年に設立された伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所、初代所長は北里柴三郎)や、北里が伝染病研究所から独立して1914年に設立した北里研究所にも多額の寄付を行った。
1915年にそれまでの功績に対して男爵・従五位に叙せられた。1919年に胃の幽門部の癌と萎縮腎のため79歳で死去し[5]、正五位勲三等瑞宝章が追贈された。次男森村開作が7代目市左衛門を襲名した。
詳しいことは、「森村市左衛門ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9D%91%E5%B8%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
(wikiより)
六代目・森村市左衛門
1802 山路一善墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
現在の愛媛県松山市に松山藩士・山路一審の三男として生まれる。
1890年(明治23年)7月17日、海兵17期卒業。海軍少尉候補生として「比叡」乗組。
日露戦争開戦時は連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀(少佐)。日本海海戦には第一艦隊第三戦隊参謀として参加(中佐)。
第一次世界大戦は第三特務艦隊司令官(少将)。イギリス政府の要請により、ドイツの通商破壊活動への海上護衛任務のために軽巡洋艦「筑摩」「平戸」を率いてオーストラリア・ニュージーランド方面に出撃。シドニーを拠点に海上護衛任務を行う。
最終階級は海軍中将。
栄典
位階
・1914年(大正3年)1月30日 - 正五位[1]
・1923年(大正12年)4月30日 - 正四位[2]
勲章等
・1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[3]・明治二十七八年従軍記章[4]
・1904年(明治37年)11月29日 - 勲四等瑞宝章 [5]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[6]
・1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[7]
・1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[8]
・1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[9]
・1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[10]
人物
海兵17期の卒業席次は88人中3位。同期首席卒業は同郷の秋山真之であった。
第三特務艦隊司令官のとき、ドイツ仮装巡洋艦ゼーアドラー号の艦長フェリクス・フォン・ルックナーと面会している。
長男は、太平洋戦争終戦時の築城海軍航空隊司令・山路一行大佐(海兵49期・東京出身)。妹のヨシは横山新治陸軍大佐に嫁ぎ、その長男が横山勇である[11]。
著書
・『禅の応用-日露海戦秘録』秀文閣、1941年。
・『隻手の声-禅の活用』筑度書房、1958年。
・『日本海軍の興亡と責任者たち』筑土書房、1959年。
出典
1. 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
2. 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
3. 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
4. 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
5. 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
6. 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
7. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
8. 『官報』第2578号「叙任及辞令」1921年3月9日。
9. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
10. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
11. 『続 現代史資料 (4) 陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房)536頁
・明治の人物一覧
・日本海海戦における連合艦隊幹部
(wikiより)
1801 小川一真墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951)は実弟。
略歴
万延元年(1860年)、武蔵国埼玉郡忍藩(現・埼玉県行田市)に生まれる[2]。忍藩培根堂で学んだのち[3]、明治6年(1873年)に旧藩主松平忠敬から学費の支給を受けて、有馬頼咸が開設した東京の報国学舎(有馬学校)へ入学し土木工学を学んだ[2][3][4]。一眞は同校在学中に写真術に興味を持ったという[2]。明治8年(1875年)に同校を卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学び、上州富岡町で自身の写真館を開いた[3]。同地では古沢福吉と親交を深め彼の支援を受けている[3]。明治13年(1880年)に築地のバラー学校へ入学して英語を習得し、翌明治14年(1881年)には横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤めるほどとなった[2]。
明治15年(1882年)、前年の第2回内国勧業博覧会に出品した作品が評価されないことに衝撃を受けた一眞は[3]、更に進んだ写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンへと渡り、同地のハウスティング写真館に住み込んで働きつつ、欧州からもたらされた当時の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得して明治17年(1884年)1月に帰国した[2]。帰国した一眞は東京飯田町に写真館玉潤館を開業して評判を得、企業家としても活動した[2]。一眞の起ち上げた写真乾板製造会社は失敗に終わったが、明治18年(1885年)にはカーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている[2]。
一眞の写真技術の評判は政府の耳目を集め、明治20年(1887年)、内務省の委嘱により皆既日食のコロナ撮影を行い、明治21年(1888年)には図書頭である九鬼隆一による近畿地方での古美術文化財調査に帯同し、文化財の調査撮影を行った[2]。これをきっかけにフェノロサの日光の美術史調査にも帯同し、岡倉天心らと国華社を設立して明治22年(1889年)にはコロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌「国華」の創刊へと繋がった[2]。また、一眞は同年に休刊していた雑誌「写真新報」を編集人兼発行人として復刊して刊行を重ねた[2]。一眞は数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清・日露戦争、明治天皇の大喪の礼、濃尾地震やアイヌ民族の生活調査など数多くの題材を写真に収めた[2]。明治43年(1910年)、帝室技芸員として顕彰され、東京写真師組合を組織し同初代会長に任ぜられた[5][6]。
小川一真写真店(小川写真製版所)」
小川一真(1860 - 1929)はボストンで写真術を修業し、明治18年(1885)、飯田町に写真館「玉潤館」を開業すると、東京有数の写真家として知られるようになった。21年(1888)、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を開始。翌年、京橋区日吉町に小川写真製版所を開き、27年(1894)、写真銅板の製版、印刷に着手した。43年(1910)、帝室技芸員を拝命。写真の産業化、写真文化の発展に大きな足跡を残した。写真撮影に使われた用具の一部が描かれている。「小川一真写真店は当今写真界の冠にして東京名物の一也」と記載あり。
— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「小川一真写真店(小川写真製版所)」より抜粋[7]
年譜
・万延元年8月15日(1860年9月29日)- 武蔵国忍藩(現・埼玉県行田市)藩士原田庄左衛門の二男として生まれる。
・文久3年(1863年)- 武蔵国行田藩士小川石太郎の養子となり、一眞(かずま)と名を改める。
・明治6年(1873年)- 上京して英語学を修める。
・明治8年(1875年)- 写真師を志して、群馬の豊岡町の吉原秀雄に師事して湿版式写真術を会得する。
・明治10年(1877年)- 群馬県富岡に「小川写真館」を開く。
・明治14年(1881年)- 写真館を廃業して、横浜の下岡太郎次郎(下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学ぶ。
・明治15年(1882年)- 横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に水兵として乗船し、単身渡米留学をする。アメリカでは、旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法やコロタイプなどの当時最新の写真術を学ぶ。
・明治17年(1884年)- 帰国。帰国後すぐ、東京府飯田橋に「玉潤会」を設立し、写真師として活躍。
・明治22年(1889年)- 日本で初となるコロタイプ印刷工場として小川写真製版所を京橋区日吉町(現・銀座8丁目6番周辺)に設立[5][8]。
・明治24年(1891年)- 凌雲閣(浅草12階)開催の「百美人」コンテストのため写真を撮影。
・一真は、二人の妻に先立たれていたが、明治36年(1903年)6月2日、12歳年下で板垣退助伯爵の三女、婉(えん)と再婚する。
・明治43年(1910年)10月18日 - 帝室技芸員に任命される[9]。
・大正2年(1913年)- 小川写真化学研究所を創設[8]。
・昭和4年(1929年)9月6日 - 神奈川県平塚市で死去[10]。享年70。
詳しいことは、「小川一真ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9C%9F
(wikiより)
小川一真