本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2019/10

尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日慶応3年12月16日) - 1903年明治36年)10月30日)は、日本小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸生まれ。帝国大学国文科中退。


1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花田山花袋小栗風葉柳川春葉徳田秋声など、優れた門下生がいる。

俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。

生涯
1868年1月10日慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生れる。父は幇間根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。紅葉は父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していた。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎狩野亨吉らがいたが、中退。愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。


紅葉の学費を援助したのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。紅葉が1899年(明治32年)に佐渡に旅した際に新潟で立ち寄ったのが、大蔵官僚で当時は新潟の税務署長をしていた横尾の伯父(母庸の姉婿)であり、紅葉の三女三千代は、荒木家(母庸の弟)に養女に出された後に、横尾の伯父の養子・石夫(海軍軍人)に嫁いでいる。石夫の実父(養父の兄)は内務官僚であったが、安濃郡長(島根県)の時に若くして亡くなった。石夫の弟に東京帝国大学教授の安夫がいる。


1883年(明治16年)に東大予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。そして1885年(明治18年)、山田美妙石橋思案丸岡九華らとともに硯友社を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが、好評のために活版化するようになった。1888年(明治21年)、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになる。しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになった。


1889年(明治22年)、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになった。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』が刊行された。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。この頃、井原西鶴に熱中してその作品に傾倒。写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。


一方、大学予備門の学制改革により、1886年(明治19年)に第一高等中学校英語政治科に編入1888年(明治21年)、帝国大学法科大学政治科に入学、翌年に国文科に転科し、その翌年退学した。この前年の末に、大学在学中ながら読売新聞社に入社し、以後、紅葉の作品の重要な発表舞台は『読売新聞』となる。「伽羅枕」「三人妻」などを載せ、高い人気を得た。このほか「である」の言文一致を途中から試みた「二人女房」などを発表。幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮となり、この時期は紅露時代と呼ばれた。


1895年(明治28年)、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書いた。そして1897年(明治30年)、「金色夜叉」の連載が『読売新聞』で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い、大人気作となった。以後断続的に書かれることになるが、元々病弱であったためこの長期連載が災いし、1899年(明治32年)から健康を害した。療養のために塩原修善寺に赴き、1903年(明治36年)に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断されて中断。10月30日、自宅で没した。享年37。戒名は彩文院紅葉日崇居士[1]。紅葉の墓は青山墓地にあり、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巌谷小波の父で明治の三筆の一人といわれた巌谷一六によるものである。

作家評
紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。しかし一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もあった。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べた。山田美妙の言文一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともあったが、それは彼の作品の中では主流にはならなかった。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功している。


紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出した時に、最初に売れた3部のうちの一つは紅葉が買ったものだったという(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、内田魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)[2]。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子として取り入れた作品も多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘された。

詳しいことは、「尾崎紅葉ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%B4%85%E8%91%89
(wikiより)

1446   尾崎紅葉

尾崎紅葉

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阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日[1]1872年12月10日) - 大正2年(1913年9月6日[2])は、日本の外交官外務省政務局長。

経歴
大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身[1]第三高等中学校を経て、1896年明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した[1]。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した[1]。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった[1]1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した[1]1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた[1]1909年(明治42年)、再び外務省参事官となり、1912年(明治45年)には政務局長に任命された[1]


1913年第二革命が勃発していた中華民国で、北京政府軍が9月1日南京を占領した際に、日本人が惨殺された[2]。外務省の姿勢を軟弱として批判が高まるなか、9月5日、阿部は岡田満・宮本千代吉の2名によって刺され、翌6日に死去した[2]。同日、阿部は駐ベルギー特命全権公使に任ぜられた[3]

栄典
1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等旭日重光章[4]

脚注
1. a b c d e f g h 『大分県人士録』pp.266-268
2. a b c 『回顧八十年史 第16輯』
3. 『官報』第334号、大正2年9月8日。
4. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。

参考文献
佐藤巌『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。

・『幕末・明治・大正 回顧八十年史 第16輯』東洋文化協会、1935年。
(wikiより)


1443   阿部守太郎

阿部守太郎

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蓮沼 門三(はすぬま もんぞう、1882年2月22日 - 1980年6月6日[1])は、社会教育団体「修養団」を設立した日本の社会教育家

来歴
1882年(明治15年)2月22日福島県耶麻郡相川村(現・福島県喜多方市山都町)出身[2]


小学校尋常科準教員を経た後の1903年(明治36年)、東京府師範学校(現・東京学芸大学)に入学し、寄宿舎に入る[3]。在学中の1906年2月11日、仲間と共に修養団を創立[2]、主幹を務めた。


1907年
に卒業、赤坂尋常高等小学校の訓導となる。1910年には修養団の運営に専念するため教職を辞し、四谷左門町に修養団の事務所を設置した[4]


戦後は、東京青年文化会館の運営に携わった[1]1973年6月、日本を守る会結成に参加。


1980年(昭和55年)6月6日午前3時30分、死去(98歳)[2]会津会会員[5]

賞詞
藍綬褒章(1960年)

勲三等瑞宝章(1964年、第1回生存者叙勲)

・喜多方市名誉市民第1号(1972年)

・勲二等瑞宝章(1974年)

正四位(没後)[2]

著書
・「蓮沼門三全集」全12巻

・「明魂」

脚注
1. a b 蓮沼門三 とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
2. a b c d 喜多方市ホームページ 蓮沼門三について
3. 喜多方市ホームページ 進学、同志との出会い
4.https://www.city.kitakata.fukushima.jp/site/hasunuma/1050.html 喜多方市ホームページ 修養団設立へ] 5. 『会津会雑誌第五十一号』
(wikiより)


1441 蓮沼門三

蓮沼門三

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中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ、天保8年2月24日1837年3月30日) - 大正5年(1916年3月30日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官子爵。幼名は武臣金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。

経歴
佐賀藩主・鍋島直正の推薦で安政3年(1856年)、20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、卒業後には三重津海軍所で佐賀藩海軍方助役を務めて海軍力の発展を促す。


慶応
4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると奥州方面へ出陣し、北越戦争に参戦して旧幕府軍を追討。明治2年(1869年)3月に新政府軍艦「朝陽丸」の艦長に任命されると、4月には品川沖を出航して蝦夷地での箱館戦争に参戦した。しかし箱館総攻撃の5月11日、旧幕府軍艦「蟠龍丸」の砲弾が「朝陽丸」の火薬庫を直撃し大爆発を起こす。中牟田は奇跡的にも英国船「パール号」に救助されて一命を取り留めたが重傷で、副艦長夏秋又之助以下50人余りの乗組員を失った。同年秋(明治2年10月)、慶應義塾に入り英学を学ぶ[1]


戊辰戦争時の勲功により明治3年(1870年)に海軍中佐、明治5年(1872年)には海軍大佐に昇進。海軍兵学寮校長を合計5年間務め、草創時の海軍兵学校教育にあたる。この時期の生徒が山本権兵衛上村彦之丞らである。明治10年(1877年)の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長や枢密顧問官も務める。1905年(明治38年)10月19日に退役した[2]


日清戦争直前、海軍軍令部長を務めていたが、北洋艦隊の戦力を高く評価し、徹底した非戦派であった。そのため、開戦派であった山本権兵衛軍令部長を解任され、樺山資紀と交代させられた。この出来事は、草創期の海軍にあって二大勢力であった佐賀藩出身者の薩摩藩出身者への敗北であったといわれる[3]。なお中牟田の開戦に対する慎重な態度を評価し、対米開戦に反対したのが佐賀海軍の後輩、百武源吾である[4]

大正5年(1916年)死去。享年80。

栄典
位階
1873年(明治6年)6月25日正五位[5]

1894年(明治27年)6月30日 - 正三位[6]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[7]

1899年(明治32年)12月20日 - 従二位[8]

勲章等
1884年(明治17年)7月7日 - 子爵[9]

1888年(明治21年)5月29日 - 勲一等旭日大綬章[10]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[12]


親族
・妻 梅子 - 佐賀藩士石井彦蔵(忠彬)の娘

・長男 中牟田武正 - 第67号水雷艇長として日本海海戦に参戦。のち海軍中佐。1918年2月1日死去[13]

・義弟 石井弥六 - 東京市深川区本所区四谷区

・義甥 石井義太郎 - 海軍少将

脚注
1. 明治2年10月14日付。『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年、283頁
2. 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
3. 『海軍兵学校物語』p.23
4. 
『異色の提督 百武源吾』pp.125-126
5. 甲1番大日記 式部寮達 中牟田少将外1名叙位の件』 アジア歴史資料センター Ref.C09111306400 
6. 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。
7. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
8. 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
9. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
10. 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
11. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
12. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
13. 『官報』第1651号、大正7年2月5日。

参考文献

・丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843

・『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、425-426頁。近代デジタルライブラリー

・石井稔編著『異色の提督 百武源吾』異色の提督百武源吾刊行会、1979年。

・鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年。

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会 
(wikiより)

1442 中牟田倉之助

中牟田倉之助

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⇧ 真ん中の墓石です。



六代目・芳村伊十郎
安政5年12月17日1859年1月20日) - 昭和10年(1935年10月3日)本名は鵜沢徳蔵。


駿河国
藤枝の生まれで5代目富士田千蔵の元で修行し富士田千平。

8歳で2代目杵屋彌吉に入門。

1873年、16歳で上京し5代目芳村伊十郎(後の6代目伊三郎)の弟子となり3代目芳村金五郎

1884年に5代目芳村伊四郎を襲名。

1890年歌舞伎座で立唄に昇進。

1893年に6代目伊十郎を襲名。

1922年に8代目芳村伊三郎を襲名。
(wikiより)

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郷 誠之助(ごう せいのすけ、元治2年1月8日1865年2月3日) - 昭和17年(1942年1月19日)は、日本実業家日本商工会議所会頭、日本経済聯盟会会長、東京電燈会長、東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院議員。

来歴・人物
元治2年1月8日、郷純造の次男として美濃国岐阜(現在の岐阜県岐阜市)で生まれる。父・純造は大蔵官僚で、退官後貴族院議員に勅選された。弟の昌作は数え2歳で三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の養子となると同時に豊弥と改名し、兄・誠之助と同じく実業界で活躍した。元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は誠之助の甥(岩崎豊弥の長男)で、随筆家入江相政は誠之助の義理の甥(岩崎豊弥の娘婿)にあたる。なお誠之助は生涯独身で末弟・朔雄(純造の九男)を養嗣子としたが、朔雄は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の三男で山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子となった稲葉正縄の三女・英子と結婚した。松浦詮の四男で出羽国秋田藩佐竹氏の分家・佐竹東家の養嗣子となった佐竹義準の三女・操子が弥太郎の嫡孫で三菱地所の取締役を務めた岩崎彦弥太三菱3代目総帥・岩崎久弥の長男)に嫁いだため、郷家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係にあり、岩崎彦弥太の妻と郷誠之助及び岩崎豊弥の弟の妻が従姉妹同士ということになる。また姉の幸子は東京川崎財閥の2代目当主・2代目川崎八右衛門(東京川崎財閥創業者・初代川崎八右衛門の三男)に嫁いでおり、東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助(2代目八右衛門の長男)は誠之助の甥にあたる。


平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後[1]官立東京英語学校(のちの一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年から12年まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。明治14年 同志社英学校に入るも行商をする同級生らに影響されこの年限りでやめ、明治15年の私塾通いなどを経て、明治16年(1883年東京大学(のち帝国大学、東京帝大)選科入学。明治17年(1884年2月)ドイツに留学し、ハイデルベルク大学で7年間に渡ってヘーゲルジョン・スチュアート・ミルなどを研究し、哲学博士号を授与される。明治24年(1891年)12月に帰朝し、農商務省に嘱託で勤務する。


明治28年(1895年)に日本運送社長となり会社の再建に当たった。その後は、財界に一貫して身を置き、日本メリヤス日本鋼管入山採炭王子製紙の社長や取締役を歴任して各会社の再建を成功させ、特に王子製紙では、新聞のためのの国産に成功したことが特筆される。明治43年(1910年)日本醤油醸造の再建は、失敗したが、明治44年(1911年東京株式取引所(現在の東京証券取引所の前身)理事長に就任した。同じ年に貴族院議員になり、終生務めた。大正2年(1913年東京商業会議所特別議員。大正6年(1917年日本工業倶楽部の設立に参加し自ら専務理事となった。大正11年(1922年)日本経済聯盟会常務理事に、昭和5年(1930年)には日本商工会議所会頭に就任し、こうして郷は、第一次世界大戦後から昭和戦前にかけて、日本財界のリーダー的存在となっていった。このほか、東京電燈の再建や、内閣参議大蔵省顧問にも郷の手腕が見込まれての起用となった。


しかし、郷が世話役となって主宰していた若手財界人の勉強会であった「番町会」が昭和9年(1934年帝人事件に巻き込まれ、番町会会員は検挙された。結局、帝人事件は斎藤実内閣を倒す陰謀で検挙者全員が無罪となった。

番町会
郷誠之助を中心として、財界の斡旋・調停などで活躍した若手実業家のグループ[2]。東京・番町の郷の邸宅で毎月1回会食したところから番町会と呼ばれ、1923年ころから1934年ころまで続いた[2]。メンバーとされる人物は、永野護河合良成長崎英造正力松太郎小林中中島久万吉、後藤国彦(元読売経済部長のちに京成電鉄社長)、中野金次郎(のちに日通社長)、伊藤忠兵衛[要曖昧さ回避]金子喜代太(のちに浅野セメント社長)、春田茂躬(日中合弁「中日実業」専務取締役)、渋沢正雄(渋沢栄一三男)、岩倉具光(岩倉具経三男)、松岡潤吉(松岡修造 (実業家)の娘婿)ら[2][3](河合良成は小林中と長崎英造は関係がなかったと後年の著書で述べている[4])。1933年に会のメンバーらが帝人株10万株を入手したことに対し、1934年に武藤山治(元鐘紡社長)経営の『時事新報』が「番町会を暴く」と題した糾弾記事を連載し、政治家と財界人の癒着による不正であると攻撃した[2][5]。連載中に武藤が暴漢に射殺されたことから番町会の疑惑が拡大し、また、帝人事件に絡んでメンバーが検挙されたことから会の名前が広く知られるようになった[2]

栄典
位階
1900年(明治33年)9月10日 - 従五位[6]

1926年(大正15年)12月1日 - 正四位[7]

勲章等
1924年(大正13年)

  ・2月11日 - 旭日小綬章[8]

  ・5月31日 - 勲三等瑞宝章[9]

1929年(昭和4年)3月4日 - 勲二等瑞宝章

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]



詳しいことは、「郷 誠之助ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E8%AA%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

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松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日慶応元年12月1日) - 1950年昭和25年)6月24日)は、日本実業家政治家川崎造船所社長、衆議院議員日本進歩党)、美術収集家。エール大学ソルボンヌ大学卒業。


父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣松方正義。妻は九鬼隆義の次女好子。四男二女あり、娘・花子は松本重治夫人。その娘で、幸次郎の孫の操は槇文彦に嫁す。

経歴
学生時代から政財界入りまで
1865年(慶応元年)薩摩藩士・松方正義の三男として薩摩国鹿児島に生まれる。1875年(明治8年)、明治政府高官に就いた父・正義の住む東京に移り、翌年1876年9月に海軍との関係が強かった攻玉塾(現・攻玉社)幼年科に入塾。1878年に同中年科に進学[1]。 共立学校(現・開成高校)に転校後、1881年(明治14年)に東京大学予備門旧制第一高校を経て現・東京大学教養学部)に入学した。1883年に東京大学の学生運動第一号と言われる「明治16年事件」に関わり、学位授与式をボイコットした。これは学位授与式の運営方法を巡って、かねてからの学校側の学生に対する管理強化に学生の不満が爆発したものだった。翌年1884年(明治17年)に東京大学予備門を中退。同年4月に渡米。ラトガーズ大学に入学の後、イェール大学に転学。法律学博士号を取得し、1890年(明治23年)帰国。1891年(明治24年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。一時、新聞事業経営や官途についたが、1894年(明治27年)に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。

政財界での躍進
1896年(明治29年)川崎財閥創設者で、幸次郎の米国留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった同郷の川崎正蔵に要請されて、株式会社川崎造船所初代社長に就任。この時、川崎造船所は川崎正蔵の個人経営から改め株式会社として再スタートした。それをきっかけとして大阪舎密鉱業(1898年)、神戸瓦斯(同)、神戸新聞社(1899年)、神戸桟橋(1908年)、九州電気軌道(同)、九州土地信託(同)、川崎汽船(1920年)、国際汽船(同)、神港倶楽部ベルベット石鹸日本ゴム蹄鉄の社長に就任し、その他11社の役員をつとめ、一方神戸商業会議所会頭、1912年(明治45年)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。

川崎造船所の躍進と挫折
幸次郎が船頭に就いた川崎造船所は、川崎正蔵の計画していた乾ドックの建設を皮切りに「攻めの経営」を展開し、折からの国家的規模の造船国産化の追い風もあり業績を順調に伸ばした。また1894年(明治27年)の日清戦争1900年(明治33年)の北清事変1904年(明治37年)の日露戦争の勃発により国家的規模で軍備強化が推進される中、海軍工廠に労働者を派遣し造艦技術を学ばせ、また呉に近い宇品には出張所を設け、海軍との交流を深めて海軍からも造艦の受注を受けるようになった。当初は小型艦艇の組み立てや修理を請け負ったが、やがて大型艦の造船も請け負い、川崎造船所は民間では三菱造船とならぶ軍艦造船会社にまで成長した。


しかし、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦期の好景気に乗じて、世界的な船舶不足を見込み幸次郎の案で展開した「ストックボート方式」(受注生産が主流の造船業で予め大量生産した船を売り込む方式)が、1918年に第一次世界大戦が終戦しヨーロッパの造船界が再稼働し世界の船舶需要が一挙に供給過多に転じたことで大量の在庫を抱える原因となり、また1922年ワシントン海軍軍縮条約軍縮による軍艦建造縮小の煽りも受け、さらに1927年(昭和2年)の金融恐慌を決定打に川崎造船所は事実上の破綻を喫する。幸次郎は不況の中でも積極策を続け、経営を圧迫したストックボート方式も1976年まで強行した。また、設立した商船会社も利益を生んでいなかった。金融恐慌で多くの銀行が取り付け騒ぎで休業に追い込まれ、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も同年4月に休業を余儀なくされた。関係が強く、大口債権者であった軍部の支援によって川崎造船所の倒産は免れたものの、不況下で積極経営を強行した責任を取り役員を務めていた全会社を辞任する。その後は衆議院議員を1936年(昭和11年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。

コレクターとして
川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指しヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は松方コレクションの名で知られ、その一部は国立西洋美術館の母体となった。


第一次世界大戦中、戦火の中渡英した幸次郎はフランク・ブラングィンの戦意高揚ポスターに感銘を受ける。幸次郎は本業の激務の合い間を縫ってブラングィンを訪れ、二人はたちまち意気投合した。日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願はブラングィンとの交流の中で芽生えた。西洋美術館の設立計画はかなり具体化しており、幸次郎は東京麻布仙台坂に美術館建設用地を確保していた。ブラングィンは幸次郎の計画をもとに石膏製の建築模型を作っており、設立予定の美術館の「共楽美術館」という名前まで決められていた。共楽美術館の名前にはコレクションを秘蔵せず、国民が等しく美術作品を楽しめるようにとの幸次郎の思いが込められていた。


第一次世界大戦後も幸次郎はヨーロッパに渡り、パリを中心に大規模な美術品収集を続けた。なお、この時期は川崎造船所の積極経営策に陰りが見え始めた時期と一致する。印象派の巨匠、クロード・モネを度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。幸次郎はモネの画家人生の集大成と評される「睡蓮、柳の反映」をモネ本人から直接購入している。


1910年代から20年代の短期間に築かれた松方コレクションは、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた約8,000点の浮世絵を含めると、作品総数は1万点におよぶ規模を誇っていたという。しかし、先述の川崎造船所の破綻によってコレクションは売り立てられ国内外に散逸。作品の一部はロンドンの倉庫火災で焼失し、第二次世界大戦末期にはフランス政府に敵国人財産として取り上げられる運命を辿ることになる。国立西洋美術館は、1959年にフランス政府から寄贈(第二次世界大戦での対立の過去を背景に「返還」の形式は取られていない)された松方コレクションの受け入れ機関として東京・上野に設立された。間接的にではあるが、日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願は、多くの悲劇や惨禍を乗り越え、紆余曲折を経て達成されたと言える。


戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[2]。追放中の1950年(昭和25年)死去。

栄典
1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[3]

エピソード
松方は思い切ったいたずらをする人物だった。神戸にある川崎造船所の構内に海軍の監督官の事務所があって、そこからドックへ行くのに広い道路を横切らなければならないが、雨の日は道がひどくぬかるむ。そこで海軍の監督官が道を横切る地下道を建設するように川崎造船所側に要求した。川崎造船所は得意先の海軍の要望だからと、注文通り地下道を建設した。そして松方はこの地下道に「海馬路」という名前をつけ、額にして入り口にかけて悦にいっていた。海馬(アシカ)というものは、海の上からくぐり、また海の上に出る。地上からくぐってまた地上に出るのだから「海馬路」という説明なのだが、松方の思いつきはそうではなかったようで「海軍の馬鹿野郎の通る路」というつもりだったらしい。そのうち海軍のほうでも感づいて馬鹿にしておると憤慨する者もいたという。[4]

脚注
1. 攻玉社人物誌. 攻玉社学園. (2013年3月15日). 
2. 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、326頁。NDLJP:1276156  
3. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
4. 『岡田啓介回顧録』 毎日新聞社 1950年12月25日 31p


関連項目
鹿島房次郎

孫文記念館

フランク・ブラングィン

神戸川崎財閥 - 「松方コンツェルン」とも呼ばれる

神戸新聞松方ホール   

外部リンク
川崎重工の歴史

神戸新聞 松方ホール - 神戸情報文化ビルにある松方の名を冠したホール
(wikiより)


1437 松方幸次郎

松方幸次郎



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河合武雄(かわい たけお、1877年明治10年)3月13日 - 1942年昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派女形俳優。大正期には、伊井蓉峰喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。

生涯
本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京市京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。


下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。

山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。派手で陽気な芸風だった。市川九女八千歳米坡川上貞奴らの女優がまだ珍しい時代で、河合は、喜多村緑郎を追い、児島文衛と競う女形だった。


1898年に水野好美らの浅草常盤座の『奨励会』へ、1900年に高田実喜多村緑郎らの大阪朝日座の『第二次成美団』へ、1902年に真砂座の『伊井蓉峰一座』へと移り、その後も座を変えたが、伊井や高田実を多く立役にした。


歌舞伎への執着から、1902年(明治35年)には、『心中天網島』『冥土の飛脚』『阿波の鳴戸』など『近松研究劇』を伊井と続演した。また、ドーデの『サッフォ』(1904年)、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(1904年)など、翻訳劇にも積極的に取り組み、1913年 - 1918年には、松居松葉と組織した『公衆劇団』で、ホーフマンスタールの『エレクトラ』、ハウプトマンの『沈鐘』などを演じた。


先輩たちがおいおい去り、マンネリ気味にもなった1917年、河合は伊井・喜多村と一座を組んで新派の人気を取り戻し、三人でその後の数年間の体制を支えた。『三頭目』と呼ばれた。


井上正夫
が独り立ちした。花柳章太郎柳永二郎伊志井寛らの若手が育って、1939年に新生新派を分家した。そういう時代の流れの中で、河合は新派の本流に留まり、手馴れた持ち役を演じ続けた。


1937年(昭和12年)(60歳)から、ときどき休演することがあった。1939年、支那事変下の中国日本軍慰問の巡業に出掛けた。1940年、舞台で狭心症を起こし、肋膜炎の療養を命じられた。1942年、療養先の畑毛温泉の別宅で死去した。


賢明院英誉水仙武雄居士。墓は青山霊園にある。

著書に、「『随筆 女形』、双雅房(1937)」がある。


息子の河合明石と河合栄二郎とは、1940年頃まで新派の舞台に立ったが、大成はしなかった。

おもな持ち役
行末の括弧内は、初演の西暦年次。

菊池幽芳:『己が罪』の環(1900年)

・菊池幽芳:『乳姉妹』の君江(1904年)

渡辺霞亭:『想夫憐』の雅子(1904年)

・中村春雨:『無花果』の、エミヤ(1902年)

泉鏡花:『通夜物語』の丁山(1905年)

田口掬汀:『伯爵夫人』のルイズ(1906年)

・ドーデ:『サッフォ』の佐保子(1906年)

・ホフマンスタール:『エレクトラ』のエレクトラ(1913年)

柳川春葉:『生さぬ仲』の清岡球江(1917年)

伊原青々園:『仮名屋小梅』の小梅(1919年)

真山青果:『浅草寺境内』のお楽(1923年)

瀬戸英一:『二筋道』のおすが(1931年)

出典
大笹吉雄:『日本現代演劇史 明治大正篇』、白水社(1985)ISBN 9784560032312

大笹吉雄:『日本現代演劇史 昭和戦中篇II』、白水社(1994)ISBN 9784560032992

早稲田大学演劇博物館編:『演劇百科大事典 第2巻』、平凡社(1960)


・外部リンク
河合 武雄 - 劇団新派 歴代の名優

文人と畑毛温泉 - 伊豆畑毛温泉 大仙家

関根裕子:公衆劇団の『エレクトラ』公演 (PDF)
(wikiより)

1436 河合武雄

河合武雄

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大木 遠吉(おおき えんきち、旧仮名遣:ゑんきち、明治4年8月5日1871年9月19日) - 大正15年(1926年2月14日)は、明治中頃から大正時代にかけて活躍した日本の政治家。佐賀藩出身の勤王志士の一人で明治維新後は新政府の要職を歴任した大木喬任の嫡男。伯爵東京出身。号に天籟がある。


明治32年(1899年)の襲爵後、明治41年(1908年)に貴族院議員(伯爵互選)となり政界入り。研究会に属していたが、早くから立憲政友会と結んでおり、政友会の原内閣高橋内閣司法大臣、政友会が閣外協力で与党となった次の加藤友三郎内閣でも鉄道大臣を務めた。大正5年(1916年)日本工業大学顧問に就任。仁義に厚い国粋主義者として人望を集め、大東文化協会帝国公道会の設立に深く関与し、大東文化協会初代会頭・帝国公道会第2代会長に就任した。晩年は政友会と政友本党の合同問題(政本合同)の仲介にあたったが、志半ばで死去した。

栄典
位階
1926年(大正15年)2月15日 - 従二位[1]

勲章等
1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[2]

1926年(大正15年)2月15日 - 勲一等瑞宝章[3]

家族
夫人は伊達宗敦の長女幸子。養嗣子の大木喜福日本工業大学創立者)は男爵徳川厚の次男で、徳川慶喜の孫。仏文学者東京学芸大学名誉教授大木吉甫は喜福の長男。


出典
1. 『官報』第4040号「叙任及辞令」1926年2月15日。
2. 『官報』第2858号・付録「辞令」大正11年2月14日
3. 『官報』第4040号「叙任及辞令」1926年2月15日。

参考文献・外部リンク
「大木遠吉」-『美術人名辞典』『 デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『朝日日本歴史人物事典』『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』コトバンク

「国粋会」-『世界大百科事典 第2版』(コトバンク)

・『平成新修旧華族家系大成』 霞会館、1996年

関連項目
国粋会

常盤軒
(wikiより)


1435 大木遠吉

大木遠吉


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吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日1828年4月10日) - 明治24年(1891年4月22日)は、日本武士薩摩藩士、官僚正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、後に幸輔。変名を山科兵部。

経歴
薩摩藩士・吉井友昌の長男として鹿児島城加治屋町に生まれる。藩主・島津斉彬藩政改革の下、安政3年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ね、若手改革派の1人として活躍する。


斉彬の死後、大久保利通税所篤ら同志40名と共に脱藩を企てたものの、藩主・島津忠義の慰留をうけて文久元年(1861年)に大目付役に就任。翌2年(1862年)の島津久光(忠義の父)が行った率兵上洛および勅使・大原重徳との江戸下向に随行、後に徒目付や御用部屋書役などを務め、西郷隆盛・大久保らと始めとする精忠組の中心人物として藩政をリードし、尊王討幕運動を推進した。元治元年(1864年)の禁門の変では長州藩を迎撃、第一次長州征討で西郷が征長総督・徳川慶勝に長州処分を委任された際、税所と2人で西郷と共に長州に乗り込み、その戦後処理に努めた。


慶応3年(1867年)、小松清廉・西郷らと共に土佐藩板垣退助中岡慎太郎らと薩土密約を結び、翌慶応4年(1868年)、戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧江戸幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげ、明治2年(1869年)に賞典禄1,000石を授けられた[1]


維新後は参与弾正大忠、弾正少弼、民部少輔大蔵少輔、民部大丞を歴任、明治4年(1871年)に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年(1873年)の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。明治8年(1875年)に元老院議官、明治10年(1877年)には侍補に任命され、翌11年(1878年)の大久保暗殺を契機に元田永孚佐々木高行土方久元らと共に天皇親政を政府に提案したが採用されず、明治12年(1879年)3月に政府により工部少輔兼任とされ工部省へ異動となった。同年10月の侍補廃止後は工部省に留まり、明治13年(1880年)6月に工部大輔に昇進したが、明治14年(1881年)中に日本鉄道会社への転出が決まり、翌明治15年(1882年)1月に工部大輔を辞任して2月に日本鉄道社長となり、一旦官界から離れた[2]


日本鉄道の方針として東京 - 前橋間の開通を実現させるべく、工事を政府に委託する代わりに資金を会社が負担する折衷案で工事を進めた(会社に鉄道技術がなく政府の独占だったため)。着工前は東京方面の始発駅をどこにするかで政府側の建設担当者・鉄道局井上勝と激論を交わし、上野を始点とする吉井に対し井上は品川を主張、明治15年(1882年)9月に上野が始点とした工事が始まっても井上が品川 - 赤羽間の線路工事を平行して進め上野側の線路との接続を提案すると、資金不足を口実に品川 - 赤羽間の停止を図るなど、井上との関係は円滑ではなかった。対立は明治16年(1883年)7月、工部卿になっていた佐々木を味方に付けた井上に折れる形で品川 - 赤羽間の着工を決断して終息、明治17年(1884年)1月に着工、6月25日に先に上野駅 - 高崎駅間(高崎線)が開業した。翌明治18年(1885年3月1日品川駅 - 赤羽駅山手線)も開業したが、それを待たずに明治17年7月、上野開業を機に辞職、明治天皇の任命で宮内大輔として宮中に復帰した(宮内卿は伊藤博文)。また同月、維新の功により伯爵に叙せられる。


明治19年(1886年)に宮内次官に任命されたほか、明治21年(1888年)に枢密顧問官も兼任、大日本帝国憲法の審議に参加した。明治24年(1891年)、63歳で死去。墓は東京都港区青山霊園。要人と交わした書簡が『吉井友実文書』として国立国会図書館憲政資料室に、『三峰吉井友実日記』が宮内庁書陵部に保管されている[3]

主な官歴
・明治元年(1868年):徴士参与職・軍防事務局判事、軍務官判事、弾正大忠、弾正少弼

・明治3年(1870年):民部少輔兼大蔵少輔、民部大丞

・明治4年(1871年):宮内大丞、宮内少輔

・明治8年(1875年):元老院議官

・明治10年(1877年):一等侍補

・明治11年(1878年):元老院議官兼任

・明治12年(1879年):工部少輔兼任

・明治13年(1880年):工部大輔兼任

・明治15年(1882年):日本鉄道社長

・明治17年(1884年):宮内大輔

・明治18年(1885年):元老院議官兼任

・明治19年(1886年):宮内次官

・明治21年(1888年):枢密顧問官

・明治24年(1891年):宮内省御用掛

栄典・授章・授賞
位階
・明治元年閏4月28日 - 従五位下[4]

・明治2年9月20日 - 正五位[4]

1875年(明治8年)12月28日 - 従四位[4]

1882年(明治15年)1月10日 - 正四位[4]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[4][5]

1887年(明治21年)10月20日 - 正三位[4]

1891年(明治24年)4月14日 - 正二位[4]

勲章等
1881年(明治14年)7月16日 - 勲二等旭日重光章[4]

1884年(明治17年)7月17日 - 伯爵[4][6]

1889年(明治22年)

  ・2月21日 - 銀製黄綬褒章[7]

  ・11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[4][8]

  ・12月27日 - 勲一等瑞宝章[4][9]

家族・一族

・長男:幸蔵(伯爵、海軍少佐貴族院議員

・子:高島友武(子爵、陸軍中将、高島鞆之助の養子)

・娘:沢子(公爵大山巌夫人)

・孫:(伯爵、歌人、脚本家)

  ・妻の吉井徳子は昭和8年(1933年)にいわゆる「不良華族事件」において摘発されている。勇は戦後まで健在だったが、この件で爵位を辞退し隠居、滋が襲爵した。

・曾孫:(伯爵、後楽園スタヂアム支配人、日本野球連盟評議員)

エピソード
・加治屋町に生まれたため、西郷や大久保・税所らは幼少期からの親友である。元治元年には流罪に処されていた西郷の復帰を嘆願し、その召還使として渡島している[10]

王政復古の功によって西郷に位階を授けられる際、西郷が不在のため古参の同志である吉井が西郷のを届け出ることになったが、西郷の諱を忘れてしまい、誤って西郷の父・吉兵衛の諱である「隆盛」で届け出てしまう。西郷は諱を元服時は「隆永」、後に「武雄」と改めていたが、この一件以降は隆盛を名乗っている。

・西郷の名誉が回復されなかった当時、伊地知正治岩下方平副島種臣と共に命日に極秘で祭礼を行い、遺児を明治天皇に拝謁させること等に尽力した。なお、上野の西郷像創設の発起人も吉井である。

・禁門の変においては、長州藩に対する朝廷の決意を固めるため、土佐藩士乾正厚久留米藩大塚敬介らと合議して意見書を朝廷に建白している。

寺田屋事件によって負傷した坂本龍馬が京都の薩摩藩邸へ移動する際、その護衛の任に当たっている。その後、坂本の薩摩での新婚旅行で自邸を宿舎として提供し、感謝の意として「来国光」の短刀を贈られている。また龍馬暗殺直後の近江屋に急行している(近江屋事件)。

・外遊中、パリで会った留学生の清水誠マッチの製造を勧めている。清水は後に、日本におけるマッチ製造業の元祖となった。

・親友の税所の老後の世話について遺言の中で言及しており、薩摩藩士同士の絆の強さをうかがわせる。

詳しいことは、「吉井友実ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8F%8B%E5%AE%9F
(wikiより)

1434 吉井友実

吉井友実

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吉井 勇(よしい いさむ、1886年明治19年)10月8日 - 1960年昭和35年)11月19日)は、大正期昭和期歌人脚本家である。華族伯爵)でもあった。

人物
生い立ち
維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区高輪に生まれた[1]


幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。漢学塾へ通い、『十八史略』『文章軌範』などを習う。この頃『海国少年』に短歌を投稿して1位となった。


その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。

1908年早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。

歌人として
大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎石井柏亭らと結成した。


1909年
1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木平野万里の3人で交替に編集に当たる。3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、続々と戯曲を発表して脚本家としても名をあげる。1910年、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。


1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。歌風は耽美頽唐であり、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。歌謡曲ゴンドラの唄』(中山晋平作曲)の作詞を手がけ、大衆の間に広く流行した。1919年11月、里見弴田中純久米正雄らと『人間』を創刊。1934年からの土佐猪野々(現在の香美市)での隠棲生活を経て1938年に京都府京都市に移り、歌風も大きく変化していった。

晩年
戦後は京都市より同府綴喜郡八幡町(現・八幡市)の松花堂付近に転居。八幡町在住時代は谷崎潤一郎川田順新村出と親しく、1947年には4人で天皇に会見している。


1948年
に八幡町から京都市に戻る形で再転居。相前後して歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている(1954年8代目桂文楽文部省芸術祭賞を受賞した時の言葉とされる)。


1960年胃癌から転移した肺癌のため京都大学医学部附属病院で死去。戒名は大叡院友雲仙生夢庵大居士[2]。墓所は東京・青山の青山霊園にある。

私生活
最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め、徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡在所村猪野々の山里に隠棲した。


1937年、国松孝子と再婚した。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている[3]


長男の吉井滋は後楽園スタヂアムの支配人を務め、1959年6月25日プロ野球天覧試合の実現に蔭で尽力したことで知られる。

その他
京都市東山区祇園白川沿いには、勇が古希を迎えた1955年11月8日(実際の誕生日からは一月遅れ)に「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」の歌碑が建てられている。毎年、祇園甲部舞妓が歌碑に白菊を手向けて勇をしのぶ「かにかくに祭」が行われている。また、高知県香美市香北町の「吉井勇記念館」の他に、蔵書や遺品の一部は京都府立総合資料館にも収められている。

・勇の死報に接した馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いた、と谷崎が伝えている。

井原西鶴を愛読、一部作品を現代語訳、戦前に春秋社「現代語西鶴全集 第7巻」を、戦後は創元社「西鶴好色全集」(全4巻)を刊行、数作が文庫再刊されている(下記参照)。

太宰府天満宮本殿裏手にある「お石茶屋」前には勇が詠んだ歌碑がある。

・2012年3月、与謝野鉄幹にあてた書簡(1905年8月11日投函)が発見され、短歌58首が記されていた紙の署名「吉井いさむ」が鉄幹の朱によって本名の「勇」と直されていた事実が判明。新詩社発行の「明星」1905年(明治38年)5月号では「吉井いさむ」となっていた筆名が同年9月号では「吉井勇」と変更されているが、与謝野鉄幹が名付け親だったことが明らかになった[4]

詳しいことは、「吉井 勇ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8B%87
(wikiより)

1433   吉井勇

吉井 勇

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森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日1865年8月8日) - 昭和12年(1937年1月24日)は、日本実業家森永製菓創業者。佐賀県伊万里市出身。安倍晋三首相の妻・昭恵外曾孫娘にあたる。

経歴
父・常次郎、母・キクの長男・伊左衛門として生まれる。生家の森永商店は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋だった。伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする幼少時代を過ごした。やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られて山崎太一郎となり[1]商人の心構えを教え込まれた。[2]12歳まで自分の名さえ正確に書けなかったことから、奉公の余暇に手習いをさせてもらう約束で本屋の住み込み店員となり、13歳で野菜の行商人になり、15歳から伊万里焼の問屋に奉公し、19歳で上京して、叔父も出資していた横浜の合資会社有田屋(伊万里焼の営業所)で働いた[1]


20歳で結婚し、翌年九谷焼を外国商館に販売していた横浜の陶器問屋道谷商店で数年を過ごしたが同店が倒産し、債権者への返済のために店の商品を海外で販売することを目論み、明治21(1888)年24歳の時に妻と長女を日本に残して渡した[1]


サンフランシスコで焼き物の販売を試みたが、労働者階級の地域であり、陶器の価格も高かったため、失敗に終わった[3]。日本から持ってきた陶器をオークションで売り払って日本に送金し、無料宿泊所である日本人ミッション教会の厄介になりながら、米人家庭の掃除や皿洗いなどで糊口を凌いだ[1]。 そこで日本では誰も手掛けていなかった西洋菓子の製造に目を付け、菓子工場の仕事を探したが、人種差別の強い時代のためもあってなかなか望む仕事は見つからなかった。オークランドに移り、下働きとして住み込んだスカンジナビア人とアイルランド人のクリスチャンの老夫婦に親切にされたことをきっかけにキリスト教に関心を持ち、のちにメリマン・ハリスから洗礼を受けた[1]


明治23(1890)年夏に一度は日本に帰国し、故郷の伊万里で福音伝道を試みたが、全く相手にされなかった。異教に入信したことを知った叔父に勘当され、森永姓に戻る[1]


3か月後今度こそ西洋菓子製法の習得を目指して再び渡米し、アラメダのジョンソン・ホームベーカリーの雑用係を経て、明治28(1895)年31歳の時にオークランドのキャンディー工場&キャンディーストア「ブルーニング社」の掃除係として入社した。この当時、森永は身長180cm、体重70キロの巨漢だった[1]。 ここでも多くの人種差別の苦難に会いながらも様々な西洋菓子の製法を身に付け、5年が過ぎ、日本に西洋菓子を普及させる時期になったと判断した太一郎は計11年間の滞米を終えて帰国の決心をした。 この時オークランドのブルーニング夫妻から「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む。自分も二坪ばかりの小さな家で菓子を作り、そこで寝泊りをして始めた。」と助言を受け、明治32(1899)年6月下旬に横浜に到着した。


帰国後1899年現在の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を東京・赤坂(旧溜池町、現在の赤坂1・2丁目付近)に設立した[4]。主にマシュマロを製造していたが、後にキャラメルを主力製品とする。当時「天使の食べ物」と呼ばれていたマシュマロは在米中に行なった市場調査で邦人にもっとも好まれた菓子だった[3]。1905年には貿易商社に勤めていた松崎半三郎を迎い入れ、森永は自らリヤカーを引いて販売に当たった[3][5]


帰国後キリスト教を離れたが、1930年に二度目の妻を亡くしたのをきっかけに再び信仰に戻り、1935年4月に社長を引退、その後はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごし、1937年に71歳で没した[1]

関連項目
森永乳業

森永   

脚注
1. a b c d e f g h 新島襄と森永太一郎―誕生より帰国まで森永長壹郎、同志社大学『新島研究』第102号[2011] 2. “森永太一郎…苦難乗り越え製菓王へ(佐賀県伊万里市) : 語り継がれる人びと : 九州発”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2007年10月27日). オリジナルの2008年5月29日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20080529013012/http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0710/kt_710_071027.htm 
3. a b c Morinaga & Co. Ltd. HistoryFinding Universe
4. 森永太一郎”. 港区ゆかりの人物データベース. 2017年8月10日閲覧。
5. 松崎半三郎 まつざき はんざぶろう日本人名大辞典

外部リンク
伊万里三人男 森永太一郎

港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (森永太一郎)

森永太一郎 近代デジタルライブラリー  
(wikiより)

1432 森永太一郎

森永太一郎


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飯田 年平(いいだ としひら、文政3年(1820年)8月 - 明治19年(1886年)6月26日は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。

生涯
因幡国気多郡寺内町の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる。


秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。 挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。 死と同時に明治19年6月28日、従六位に叙された。飲酒と貧窮の逸話に富み、家庭を営むことなく没す。

家族
・父:飯田 秀雄 - 加知弥神社祠官・国学者。

出典
・国学者伝記集成 第2巻.続編

・日本人名大辞典.第1巻

・明治維新人名辞典

・朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について


外部リンク
国学院大学COE.「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成」  
(wikiより)

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佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日文政5年12月28日) - 1902年明治35年)12月7日)は、日本武士佐賀藩士)、政治家日本赤十字社の創始者。官職枢密顧問官農商務大臣大蔵卿元老院議長栄典正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿栄寿左衛門。子は佐野常羽

経歴
1823年文政6年)、 佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。

1831年天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。

1839年(天保10年)、佐賀に帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学ぶ。

1842年(天保13年)、佐野家の養女・駒子と結婚する。

1846年弘化3年)、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、1848年嘉永元年)には大坂緒方洪庵適塾で学び、さらに紀伊国華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。適塾では大村益次郎明治維新で活躍する多くの人材と知遇をうる。

1849年嘉永2年)、江戸伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている。

1851年(嘉永4年)、長崎に移り、家塾を開く。

1853年(嘉永6年)、佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となり、藩主・鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。

1855年安政2年)6月に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、佐賀藩から常民ら四十八名が第一期生として参加する。この頃に藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となる。

1857年(安政4年)、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸の船将となり、翌1858年(安政5年)、三重津海軍所の監督となる。

1863年文久3年)、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。

1867年慶応3年)、パリ万国博覧会に参加し、その万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、オランダに行き、日進の建造を発注する。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌1868年(明治元年)に帰国。

1870年明治3年)3月10月までの8か月間、兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。しかし、増田明道ら他の海軍担当官との関係は良好とは言い難く、佐野の奮闘は空回りでしかなかった。罷免についても同僚の船越衛は同情している。

1871年(明治4年)、初代燈台頭に就任し、洋式燈台の建設にあたる(同時に工部大丞にも就任)。

1872年(明治5年)、博覧会御用掛に就任し、日本の産業の近代化をめざすべく、同年3月に日本初の博覧会を湯島聖堂で開催する。

1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーン万博に派遣される。博覧会を通じて日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を得る。通訳はアレクサンダー・フォン・シーボルトが努めた。

1875年(明治8年)、元老院議官となる。

1877年(明治10年)2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任。

熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」を参照


1878年(明治11年)、大給恒らと博愛社の総副長となる。

1879年(明治12年)、日本美術の海外流出を防ぐために、龍池会(後の日本美術協会)と呼ばれる美術団体を発足し、会頭に就任する。亡くなるまで会長を務め、芸術家の保護と育成に力を尽くす。同年10月には中央衛生会会長に就任する。

1880年(明治13年)、大蔵卿に就任するが、翌年の政変で辞任する。

1882年(明治15年)、元老院議長に就任する。

1883年(明治16年)、大日本私立衛生会が発足し、会頭に就任する。

1886年(明治19年)、東京飯田町に博愛社病院を開設する。

1887年(明治20年)、博愛社を日本赤十字社と改称し、初代社長に就任する。子爵。9月、日本赤十字社が国際赤十字に加盟する。12月、日本美術協会会頭に就任する。

1888年(明治21年)、枢密顧問官に就任する。7月、磐梯山噴火の救援活動を行う。

1892年(明治25年)、第1次松方内閣で農商務大臣に就任する。

1894年(明治27年)の日清戦争や、1900年(明治33年)の義和団の乱で日本赤十字社は、戦時救護活動を行う。

1895年(明治28年)、伯爵に陞爵。

1902年(明治35年)、東京の自宅で死去、80歳。死に際して勲一等旭日桐花大綬章が贈られる。

墓所は青山墓地

栄典
位階
1871年(明治4年)

  ・5月9日 - 正七位[1]

  ・12月18日 - 従五位[1]

1872年(明治5年)10月8日 - 正五位[1]

1875年(明治8年)12月28日 - 従四位[1]

1880年(明治13年)5月24日 - 正四位[1]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[1][2]

1888年(明治21年)10月20日 - 正三位[1]

1895年(明治28年)12月20日 - 従二位[1][3]

1902年(明治35年)12月7日 - 正二位[1][4]

勲章等
1878年(明治11年)6月28日 - 勲二等旭日重光章[1]

1882年(明治15年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章[1][5]

1887年(明治20年)5月24日 - 子爵[1][6]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[1][7]

1891年(明治24年)3月30日 - 御紋付御盃[1]

1895年(明治28年)

  ・10月31日 - 伯爵[1][8]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[9]

1901年(明治34年)2月4日 - 御紋付御盃[1]

1902年(明治35年)12月7日 - 旭日桐花大綬章[1][10]

日本赤十字社名誉社員章

外国勲章佩用允許
1877年(明治10年)12月24日

  ・オーストリア=ハンガリー帝国フランツヨーゼフヨルデン大十字型勲章[1]

  ・ザクセン王国第一等コムツールクロイツアルブレクトヨルデン勲章[1]

その他

・常民は、明治時代にを関東の内陸部に位置する本庄宿中山道で最大の宿場町)へ遷都する案を提出するも周囲の賛同を得られず、断念している。

・曾孫にジャーナリストの岡村昭彦、演出家の岡村春彦の兄弟がいる。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 佐野常民』 アジア歴史資料センター Ref.A06051168600 
2. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
3. 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
4. 『官報』第5831号「叙任及辞令」1902年12月9日。
5. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
6. 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
7. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
8. 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
9. 『官報』第4638号・付録「辞令」1898年12月14日。
10. 『官報』第5831号「叙任及辞令」1902年12月9日。

参考文献(和文)・出典
朝日恵子「佐野常民―近代国家のパイオニア」、『九州の蘭学-越境と交流』、303-310頁。
 ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人 共編、(京都:思文閣出版、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5

吉川龍子『日赤の創始者 佐野常民』吉川弘文館、2001年。ISBN 4-642-05518-5   

関連項目
西澤之助

外部リンク
佐野常民記念館

佐野常民 | 近代日本人の肖像

三重津海軍所跡が世界遺産に    
(wikiより)

1430 佐野常民

佐野常民


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橋本 実梁(はしもと さねやな)は、攘夷派の公卿。橋本家19代当主で橋本実麗の養子。戊辰戦争でも戦った功臣で、のち式部寮に籍を置いた。晩年に伯爵に叙勲され、元老院議官となる[1][2]幣原内閣で大蔵大臣を務めた澁澤敬三は孫にあたる。

出自
天保5年4月5日(1834年5月13日)、京都に生まれる。実父は左近衛中将小倉輔季、幼名は茂丸。のち中納言橋本実麗の養子となる[1][2][3]

経歴
安政5年(1858年)、25歳の時、廷臣八十八卿列参事件で参加した一人として実父の小倉輔季らと共に連座された[4]文久3年(1863年8月18日の政変でも差控を命じられている[1]


慶応4年の戊辰戦争(1868年)では東海道鎮撫総督に任ぜられて江戸城攻撃の先鋒の一角を担い、同年の江戸開城の折は、勅使として徳川家に対する朝廷からの沙汰を伝達した[5]


明治2年(1869年)7月6日 度会府(わたらいふ)が現今の三重県に置府され、ほどなく(17日に)渡会県となったが、実梁はその初代長官(度会府知事・度会県知事)に任命され、明治4年(1871年)11月22日に統合再編成された新生の度会県が生まれると、実梁はその権令(県令)となった[6]


明治5年(1872年)2月17日、式部寮に異動され、式部助(すけ=次官)に転任する[6]。このときの式部寮はまだ宮内省の所管ではなく太政官直轄であった。また類似の職務も掌っていた神祇省が同年3月14日から15日に統廃合され、祭祀の職務(大中少の掌典)はすべて式部寮に移管された。ともあれ人事の再編成もおこなわれ、同年11月に権助(ごんのすけ)兼大掌典[1]の役を得る(このとき兼務は得るかわりに、助から権助へ降格されている)。


実梁は、雅楽課長を務めていたこともあり、雅楽の衰退および楽師の窮状を憂いて岩倉具視に働きかけ、岩倉が没した翌年の明治17年(1884年)より楽道保存賜金の支給が実現されたとのエピソードが残されている[7]


晩年の明治17年(1884年)7月7日の勅旨による一連の叙任では、功を認められて伯爵の位を授けられた[8]


官歴
1834年(天保5年)4月5日 京都に生まれる。

1858年(安政5年)3月12日 廷臣八十八卿列参事件で処分[4]

1861年(文久元年)2月 侍従[2]

1862年(文久2年)12月 国事御用掛[2]

1863年(文久3年)3月 左近衛少将[1]。8月、八月十八日の政変で処分[1][3]

1867年(慶応3年)1月 禁を解かれて復権。12月、王政復古とともに参与[2]

1868年(慶応4年)1月 戊辰戦争で東海道鎮撫総督に任命。4月4日、江戸開城の際、徳川家処分の勅を伝令した[5]。左中将に昇任。

1869年(明治2年)7月6日 度会府知事。7月17日、度会県知事[6]

1871年(明治4年)11月22日 権令(県令)[6]

1872年(明治5年)2月17日 式部寮に配属となり式部助(次官)に転じる[6]。11月、式部権助兼大掌典[1]

1882年(明治15年)4月 式部助に昇任[3]

1884年(明治17年)7月7日の叙任で、伯爵に叙される[8]

1885年(明治18年)6月 元老院議官[3][9]。9月16日、死去。(死の間際に従二位に昇叙[1])

栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[10]

1885年(明治18年)9月16日 - 勲三等旭日中綬章[11]


系譜


父:小倉輔季

・母:不詳

・養父:橋本実麗

・妻:定子 - 谷衛昉

・生母不明の子女

  ・男子:橋本実陳

  ・男子:橋本実頴

  ・四女:秀子 - 清水谷実英

著書
・大塚, 武松 (Otsuka, Takematsu), ed (1929) (snippet). 橋本実梁陣中日記 (Hashimoto Saneyana jinchū nikki ). 日本史籍協会. p. 410. //books.google.co.jp/books?id=jw8Od_s5p-wC.

出典
1. a b c d e f g h i 野島, 寿三郎 (Nojima, Jusaburō) (1986) (snippet). 神道人名事典(Shintō jinmei jiten). 神社新報社. p. 238. ISBN 4-915-26556-0. //books.google.co.jp/books?id=wmoxAQAAIAAJ.  ISBN 978-4-915-26556-3
2.
a b c d e (snippet) 政治家人名事典(Seijika jinmei jiten). 日外アソシエーツ. (1990). p. 410. //books.google.co.jp/books?id=L3O6AAAAIAAJ. 
3. a b c d 国立国会図書館 (2012年12月20日). “西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)”. リサーチ・ナビ. 2013年3月閲覧。
4. a b 野島, 寿三郎 (Nojima, Jusaburō) (1994) (snippet). 公卿人名事典(Kuge jinmei jiten). 日外アソシエーツ. p. 627. //books.google.co.jp/books?id=-mgbAAAAYAAJ. 
5. a b 岩倉公実記』中、皇后宮職、東海道先鋒総督橋本実梁朝命ヲ田安慶頼ヘ伝達ノ事、1906年、382頁。NDLJP:781064
6. a b c d e 森, 嘉兵衛 (Mori, Kahei) (1959). 鄉土の歴史〈〔第7〕〉四国編. 宝文館. p. 391. ASIN B000JBHFTO. //books.google.co.jp/books?id=owcmAAAAMAAJ. 
7. 塚原, 康子「明治30年の宮内省式部職雅楽部」『Bulletin (of the) Faculty of Music, Tokyo National University of Fine Arts & Music』第31巻、 92頁、 NAID 40007460695
8. a b 官報』大蔵省印刷局、日本マイクロ写真、華族ヘ榮爵ヲ賜ル (明治十七年七月七日/叙任 (明治十七年七月七日))、1884年7月8日、1-5頁。NDLJP:2943511
9. 臼井, 勝美 (Usui, Katsumi) (2001). 日本近現代人名辞典. 宝文館. p. 820. //books.google.co.jp/books?id=HRkQAQAAMAAJ. 
10. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
11. 『官報』第667号「賞勲」1885年9月18日。

関連項目
西園寺公望

外部サイト
・国立国会図書館 (2012年12月20日). “西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)”. リサーチ・ナビ. 2013年3月閲覧。
(wikiより)



1429   橋本実梁


橋本実梁

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緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年明治21年)1月30日 - 1956年昭和31年)1月28日)は、日本ジャーナリスト政治家朝日新聞社副社長主筆自由党総裁自由民主党総裁代行委員国務大臣情報局総裁内閣書記官長内閣官房長官副総理などを歴任。栄典正三位勲一等旭日大綬章。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事

経歴
幼少時代から学生時代
山形県書記官・緒方道平の三男として山形県山形市旅籠町に生まれ、4歳の時、父の福岡県書記官への転任で福岡県福岡市に移る。父は第2次松方内閣によって福岡県書記官を退官させられた後、福岡農工銀行頭取を務めた。父は退官させられたことが腹に据えかね、子供たちに「お前らは一生役人になるな」と言ったという。緒方姓は備中国後月郡簗瀬村(現在の岡山県井原市)出身の祖父・大戸郁蔵大坂適塾を開く豊後国豊後大神氏の血筋を引く緒方洪庵へ入門して、洪庵と義兄弟の盟を結び、その姓を与えられたことにはじまる[2]


福岡師範学校附属小学校から福岡県立中学修猷館に進学。緒方は小学校から中学校を通じて、無欠席・無遅刻・無早退を通した。修猷館の1年上級に中野正剛(後の政治結社東方会総裁、衆議院議員)、同期に安川第五郎(後の安川電機会長)、斎村五郎(後の剣道範士十段)がいる。12歳で一到館に入門して剣道を習い始め、修猷館時代に小野派一刀流免許皆伝となり、既に剣道の達人の域に達した。終生交友を保った斎村五郎は「あの人が剣道一本に精進していたら、ぼくなどよりはるかに強くなっていたろう」が口癖だったという[3]。博多銘菓鶏卵そうめんが大好物で鶏卵素麺と鶴の子で巣を模した鶴の子を愛していた。


修猷館卒業後、中国貿易を志して東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学する[4]が、同学校の専攻部廃止の文部省令に反対し学生総退学決議を行った申酉事件のリーダ-として責任をとり武井大助らとともに退学。のちに算盤簿記が不得手で、退学したと述懐している。中野正剛に誘われ、申酉事件を支持して東京高商退学生受け入れを表明していた早稲田大学専門部の政治経済科に編入し、政治結社玄洋社の最高実力者・頭山満[注釈 1]、さらに頭山を介して三浦梧楼犬養毅古島一雄らの門に出入りした。

朝日新聞社での活躍
若手記者時代
1911年(明治44年)7月に早稲田大学専門部を卒業[5]後、やはり中野正剛に誘われ、同年11月大阪朝日新聞社に入社して弓削田精一率いる大阪通信部員(東京勤務)となる。新人記者でありながら、学生時代から出入りしていた枢密顧問官三浦梧楼から「大正」の年号をスクープした。当時の朝日新聞社内において、村山龍平鳥居素川派と上野理一西村天囚派との間で激しかった派閥対立で、弓削田は上野・西村派に属し、弓削田が村山と対立して退社すると、緒方は1916年大正5年)12月、外勤を外され整理課員に左遷された。


だが白虹事件で村山・鳥居派が退陣し、上野・西村派が新聞編集の中枢に返り咲くと、同派の客員、本多精一の下で30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されて論説班を切り盛りした。この時期、緒方は上海特派員から大阪朝日新聞社社会部員に呼ばれた美土路昌一と同宿し、友情を温めた。しかし翌1919年(大正8年)7月に村山が朝日新聞社を株式会社化して社長に復帰する際、実質的な大阪朝日新聞社編集局長だった西村天囚が村山の怒りを買って退社し、同年末から翌1920年(大正9年)年明けにかけて上野理一、本多精一が相次いで没すると、上野派と見られて村山によく思われていない緒方は社に居辛くなり、退社を決意して、「筑豊御三家」の1人の玄洋社員・安川敬一郎(安川第五郎の父)の出資でイギリスへ私費留学に出た。


しかし緒方がアメリカ経由でロンドンへ行く途中、ニューヨーク特派員として赴任していた美土路昌一が緒方から退社の意思を聞かされ、美土路は1921年(大正10年)7月に東京朝日新聞社通信部長として帰国した後、朝日首脳陣に緒方慰留を働きかけ、ワシントン会議取材の記者団に参加させた。

「緒方筆政」時代
緒方は1922年(大正11年)7月に帰国すると朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任。以降、1923年(大正12年)4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に政治部長、1924年(大正13年)12月に支那部長兼務となり、1925年(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と出世街道を走り、1928年(昭和3年)5月に取締役、村山龍平没後の主筆制採用で1934年(昭和9年)4月に東京朝日新聞社主筆、5月に常務取締役。そして1936年(昭和11年)の二・二六事件までは副社長の下村宏が東京朝日新聞社の責任者だったが、下村が広田内閣組閣に際して退社したため(拓務大臣として入閣しようとしたが、陸軍が拒否)、同年4月、緒方が後任の代表者となった[6]


さらに二・二六事件後に緒方の構想による筆政一元化で同年5月に朝日新聞社主筆、代表取締役専務取締役となった(専務取締役は1940年8月に辞任)。1940年(昭和15年)8月には編集総長を置いて美土路昌一をこれに当てて東京本社、大阪本社、中部本社(現名古屋本社)、西部本社の4社編集局を統括させ、編集会議を設置して自ら議長となり、討議の上、社論を決め、全責任を主筆が負うことにした。緒方は外部に対して朝日を代表する者と見られ、一切の責任を負う立場になった。

しかし同年5月に社長に就任した村山家の2代目・村山長挙は、主筆の緒方が社長を凌ぐ実力・声望を持ち、多くの政府機関諮問委員を務め、自分には何も回ってこないことを快く思っていなかった。また緒方への権力集中は、朝日新聞社内における反緒方派の台頭を促した。その急先鋒が、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役・西部本社代表の原田譲二と、緒方の出身の政治部・経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京朝日新聞社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役・鈴木文史朗だった。


政党内閣
期の「緒方筆政」においては、緒方自身は政友会寄りの立場だったが、自ら筆を執ることは少なく、社論は各論説委員の見識に任されていた。しかし満州事変五・一五事件以後は論説委員会議を開いて社論の統一に努めるようになり、親軍的な路線に転換して政党内閣を見限った[7]。 それでも二・二六事件で、当時東京・有楽町にあった東京朝日新聞社は中橋基明中尉率いる反乱軍に襲撃されるが、主筆の緒方は、これに悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。だが二・二六事件後、広田内閣支持を社の方針として決定すると、「緒方筆政」への抵抗を生む結果となり、論説委員の前田多門関口泰が相次いで退社した。論説委員室の不満は、反緒方派の勢力拡大に拍車をかけた。


近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会には、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄笠信太郎尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与した。しかしその中から、緒方が可愛がっていた尾崎秀実が1941年(昭和16年)10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた。鈴木文史郎は緒方の主筆辞任を要求したが、結局、緒方に対する責任追及は、主筆はそのままとし、1942年(昭和17年)6月15日に重役としての編集責任担当者を解かれるにとどまった。後任は原田譲二だった。同日、前政治経済部長・田中慎次郎が退社し、緒方派の取締役・東京本社編集局長・野村秀雄も同時に編集局長を解任された。


さらに緒方を窮地に追い込んだのは、修猷館時代からの親友だった中野正剛が1943年(昭和18年)10月、首相・東條英機の意に沿った憲兵隊に身柄拘束され釈放後に自殺したことだった(中野正剛事件)。中野の葬儀委員長を務めた緒方は、東條からの供花を拒否したため、緒方と東條の確執が大阪本社に誇大に伝えられた。

もともと緒方は、現場の新聞記者としては、学生時代から出入りしていた枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープしたことがあるものの、他には「記者として別にどういう特ダネを書いたということもなく、とくに目立つという程のこともなかつた」[8]。 しかし緒方は、郷里の関係から頭山満をはじめとする玄洋社の人々と交友が深く、右翼の内部事情まで考慮に入れたデリケートな右翼対策を行うことが出来た。右翼対策は、新聞社にとっては「言論の自由」の発揚に伴う避けることのできない課題であり、右翼との折衝は、論説委員たちの「言論の自由」を保障する地位にあった緒方が、裏側で行わなければならない日常的な業務であった。さらに満州事変期以降は、これに軍部との調整が加わった。しかし軍に対して「顔のきく」存在であったがゆえに、朝日新聞社は緒方を社の代表者とすることに意味があったのに、肝心の緒方が、中野の事件をきっかけとして東條内閣と対立的な関係に陥ってしまったため、朝日は東條との関係を修復するため緒方以外の人物をこれに代える必要に迫られた[7]


ゾルゲ事件の少し前になる1941年9月17日、日本新聞連盟の理事会は政府側参与理事の吉積正雄より新聞社の資本統合を諮問された。日本の新聞資本を1つにまとめ上げた共同會社案が検討されると会議は紛糾。最終的に理事長の田中都吉へ一任され、田中は共同會社設立を廃した統裁案を政府へ提出した。新聞事業令(1942)につながる田中提案書は理事であった緒方の案を元にしていた。吉積、奥村喜和男と組んでいた古野伊之助は資本統合が難しいとみると緒方に代案を頼み、緒方は社内持ち株、株式の権利行使の制限というテクニカルな問題として自治統制案を起草した。資本と経営の分離の持論は村山との関係が投影されていた。[9]


ゾルゲ事件で追い詰められた緒方は、1943年(昭和18年)夏、営業部門を握って緒方とともに「編集の緒方、営業の石井」として「朝日の両翼」と呼ばれた代表取締役専務取締役・石井光次郎と一緒に、社長・村山長挙と会長・上野精一は社主に退き、緒方を社長とするよう村山社長に申し入れると、村山は原田、鈴木らと反撃に出て同年12月に主筆制を停止して緒方を主筆から解任、実権のない副社長に棚上げした。村山は活動拠点を大阪から東京に移して経営を陣頭指揮し、緒方が務めていた政府機関の諮問委員など対外的な役職も全て取り上げ、自ら引き受けた[10]。 緒方は小磯内閣に入閣するため、1944年(昭和19年)7月に退社した。



政界進出と戦後政界への復帰
朝日新聞社退社後、小磯内閣に国務大臣情報局総裁として入閣した[11]緒方は、一方で「言論暢達」政策を採り、他方で編集責任者に対して新聞社に許される自主性の大枠に関する内面指導を行った。このような緒方の新聞指導は、情報局総裁たる緒方が戦局に関する十分な情報を入手していることを必要としたが、実際には陸軍の非協力などにより叶わなかった。情報政策の担い手たる情報局が、何ら自前の情報収集源を持てなかったことは致命的だった。


また緒方は、蒋介石重慶国民政府を相手とする和平工作(繆斌工作)を首相・小磯國昭とともに推進したが、外務大臣・重光葵、陸軍大臣・杉山元、海軍大臣・米内光政、さらに昭和天皇の反対に遭い失敗、内閣総辞職となった。その後も終戦を挟んで1945年(昭和20年)5月、鈴木貫太郎内閣内閣顧問、8月には東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任した。


敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方が内閣書記官長と内閣の大番頭を務め、文部大臣に元朝日新聞社論説委員・前田多門、内閣総理大臣秘書官に朝日新聞社論説委員・太田照彦、緒方の秘書官に朝日新聞記者・中村正吾、内閣参与に元朝日新聞記者・田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した[12]。 同年10月に内閣総辞職後、緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年(昭和21年)8月に公職追放1947年(昭和22年)9月に戦犯容疑解除、1951年(昭和26年)8月に追放解除となっている。A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった[13]


追放解除の翌年にあたる1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で中野正剛の地盤を引き継いで福岡1区から出馬し、地元財界の支持を得て当選する。第4次吉田内閣で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌1953年(昭和28年)5月成立の第5次吉田内閣でも副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣の外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。


なお、緒方は政界復帰前の1952年(昭和27年)4月、吉田茂、村井順とともに、アメリカのCIA、イギリスのMI5MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した[14]。これが現在の内閣情報調査室の源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した[15]

詳しいことは、「緒方竹虎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
(wikiより)

1428 緒方竹虎

緒方竹虎

1428a

1428b






中村 雄次郎(なかむら ゆうじろう、嘉永5年2月28日1852年3月18日) - 昭和3年(1928年10月20日)は、日本陸軍軍人政治家。陸軍中将正二位勲一等功四級男爵[1]貴族院議員

経歴
大庄屋中村一貫の二男として本籍地で生まれた。本籍・伊勢国一志郡波瀬村(現・三重県津市)。生家は素封家だったが幼年期には没落していた。


陸軍大学校
教授、参謀本部陸軍部第一局第一課長、砲兵第一方面提理、陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。


1907年日清日露戦争の功により男爵の爵位を賜る。又、貴族院議員、八幡製鉄所長官、南満州鉄道総裁、宮内大臣枢密顧問官等も務めた。

年譜
明治5年7月1872年) - フランス留学(- 1874年1月)

1874年(明治7年)2月 - 陸軍中尉・大阪鎮台

 ・8月 - 砲兵第7大隊

1876年(明治9年)4月 - 大阪予備砲兵第2大隊付

1877年(明治10年)2月 - 砲兵支廠付

1879年(明治12年)10月 - 大阪砲兵工廠監務

1880年(明治13年)4月 - 陸軍士官学校教官

 ・5月 - 砲兵大尉

1882年(明治15年)12月 - 陸大教授心得・陸士教官

1885年(明治18年)5月 - 砲兵少佐

1886年(明治19年)5月 - 参謀本部第2局員・兼陸大教授(- 1888年5月)

1887年(明治20年)4月 - 参謀本部陸軍部第1局第1課長

1888年(明治21年)5月 - 砲兵会議事務官兼議員

 ・11月 - 欧州出張(- 1889年9月)

1889年(明治22年)12月 - 砲兵中佐・砲兵第1方面提理

1890年(明治23年)3月 - 軍務局砲兵事務課長

1893年(明治26年)11月 - 砲兵大佐

1896年(明治29年)5月 - 軍務局砲兵課長

 ・10月 - 軍務局第1軍事課長・兼砲兵会議議長

1897年(明治30年)9月 - 陸軍少将・陸士校長・兼砲兵会議議長

1898年(明治31年)1月 - 陸軍次官・兼軍務局長(- 1900年4月)

1900年(明治33年)5月 - 陸軍総務長官

1901年(明治34年)2月 - 兼軍務局長(- 1902年4月)

1902年(明治35年)4月 - 陸軍中将・予備役・製鉄所長官

1904年(明治37年)8月22日 - 貴族院勅選議員[2](- 1917年8月)

1907年(明治40年)9月 - 男爵

1914年(大正3年)7月 - 南満州鉄道総裁(- 1917年7月)

1915年(大正4年)4月1日 - 後備役[3]

1917年(大正6年)7月 - 現役復帰・関東都督(- 1919年4月)

 ・8月17日 - 依願免貴族院議員[4]

1919年(大正8年)4月12日 - 退役[5]・貴族院議員[6](- 1920年7月)

1920年(大正9年)6月 - 宮内大臣(- 1921年2月)

1922年(大正11年)2月 - 枢密顧問官(- 1928年10月)

栄典
位階
1875年(明治8年)7月22日 - 従七位[7]

1880年(明治13年)7月20日 - 正七位[7]

1885年(明治18年)7月25日 - 従六位[7][8]

1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[7][9]

1893年(明治26年)12月16日 - 従五位[7][10]

1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[7][11]

1900年(明治33年)11月30日 - 従四位[7][12]

1905年(明治38年)12月20日 - 正四位[7]

1911年(明治44年)1月31日 - 従三位[7]

1914年(大正3年)8月20日 - 正三位[7]

1925年(大正14年)9月1日 - 従二位[7]

1928年(昭和3年)10月20日 - 正二位[7]

勲章等
1887年(明治20年)5月27日 - 勲六等単光旭日章[7][13]

1892年(明治25年)5月28日 - 勲五等瑞宝章[7]

1895年(明治28年)

 ・10月21日 - 功四級金鵄勲章双光旭日章[7][14]

 ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[15]

1897年(明治30年)5月10日 - 勲四等瑞宝章[7]

1900年(明治33年)12月20日 - 勲三等瑞宝章[7][16]

1901年(明治34年)12月27日 - 勲二等旭日重光章[7][17]

1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[7]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[18]明治三十七八年従軍記章[7]

1907年(明治40年)9月23日 - 男爵[7][19]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[7]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[7][20]

1920年(大正9年)11月1日 - 旭日桐花大綬章大正三年及至九年戦役従軍記章[21]戦捷記章[7]

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[22]

1928年(昭和3年)10月20日 - 帝都復興記念章[7][23]

外国勲章佩用允許
1889年(明治22年)10月31日 - ロシア帝国:神聖アンナ第三等勲章[7][24]

1898年(明治31年)4月29日 - イタリア王国:王冠第二等勲章[7]

1899年(明治32年)7月4日 - 大清帝国:第二等第二双竜宝星[7][25]

1901年(明治34年)10月4日 - プロイセン王国:王冠第一等勲章[7][26]

1902年(明治35年)3月25日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドゥール[7]

1903年(明治36年)9月21日 - 大清帝国:第二等第一双竜宝星[7]

1919年(大正8年)4月17日 - 支那共和国:一等文虎勲章[7]

1920年(大正9年)9月25日 - ルーマニア王国:エトアル・ド・ルーマニー第一等勲章[7]

親族
・次男 中村貫之

・末男 中村健兒

・三女 みつ子 兒玉友雄児玉源太郎陸軍大将の子)の

・娘婿 中川正左成瀬正二

・曾孫 橋本久美子 橋本龍太郎首相夫人。

伝記
石井満『中村雄次郎伝』中村雄次郎伝記刊行会、1943年。

出典
1. 『官報』 第549号 「官吏薨去、卒去及死去」 1928年10月23日」。
2. 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
3. 『官報』第809号、大正4年4月16日。
4. 『官報』第1515号、大正6年8月18日。
5. 『官報』第2013号、大正8年4月22日。
6. 『官報』第2006号、大正8年4月14日。
7. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 中村雄次郎』 アジア歴史資料センター Ref.A06051176800 
8. 『官報』第672号「叙任」1885年9月25日。
9. 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
10. 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
11. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
12. 『官報』第5226号「叙任及辞令」1900年12月1日。
13. 『官報』第1174号「叙任及辞令」1887年5月31日。
14. 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
15. 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
16. 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
17. 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
18. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
19. 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
20. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
21. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
22. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
23. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
24. 『官報』第1905号「叙任及辞令」1889年11月2日。
25. 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
26. 『官報』第5488号「叙任及辞令」1901年10月16日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)


1427 中村雄次郎

中村雄次郎


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平岩 愃保(ひらいわ よしやす、安政3年12月17日1857年1月12日) - 昭和8年(1933年7月26日)は日本の牧師


静岡教会
4代目・6代目牧師、静岡女学校(現:静岡英和女学院)の創立者、キリスト教界の指導者で日本メソヂスト教会第2代監督。


東洋英和学校会社(小林光泰平岩愃保土屋彦六浅川広湖の4牧師による組織)の一人[2]東洋英和女学校の創立者・2代目校主[2]


平岩馨邦
は次男。河上末河上丈太郎の妻)は四女。

小林豊子(静岡教会5代目牧師小林光泰の妻)は妹。

生涯
初期
安政3年(1856年)、三代続いたキリシタン宗門改役幕臣の父平岩馨明(八蔵)と母曾代子の三男二女の長男として、江戸小石川安房町に生まれる[3]

明治元年1868年)桜井竹処の家塾に入る[3]

明治3年1870年)市ヶ谷小学校教員となる。

明治4年1871年)官費生として東京府立洋学校で学ぶ。やがて東京府立洋学校は廃校となる。

明治5年1872年開成学校に入学、理化学を学ぶ。

キリスト教入信
明治7年(1874年)2月、開成学校化学教師E・W・クラークの家でジョージ・カクランカナダ・メソジスト教会の宣教師)の聖書講義を聞き感銘を受ける。それがきっかけで同人社でのカクランの講演を聴講するようになる[4]

明治8年(1875年)11月21日、中村正直同人社創立者)の家でジョージ・カクランより洗礼を受ける。このとき洗礼を受けたのは中村正直が1874年に洗礼を受けたのと同じ部屋である[4]

明治9年(1876年)10月、父の事業失敗と母の病気のため開成学校を休学。

牧師時代

明治9年(1876年)、メソジストの教職試補に選任される。


明治10年(1877年

  ・1月20日 母曾代子死去。それをきっかけにキリスト教への献身を決意し、開成学校を退学する[5]

  ・7月13日 日本メソヂスト教会第二回部会で杉山(土屋彦六)・細井省斉と供に教職試補となる[3]

  ・7月24日 - 8月20日 C・S・イビーと共に山梨県巨摩郡睦合村南部の猛軒学舎に招かれ同学舎で教え、周辺村落に伝道[3]

  ・11月 御茶ノ水の東京師範學校の教授になる。


明治11年(1878年)12月29日、牛込教会(現:頌栄教会)の初代牧師に就任[3]


明治12年(1879年)10月31日、中村正直の仲介で松井銀子(神田乃武の妹)と結婚[6]


明治13年(1880年

  ・2月22日 体操伝習所(後に東京師範學校の付属校となる)との兼務になる[3]

  ・7月 下谷教会に赴任し、2代目牧師となる。


明治14年(1881年)9月18日、山中笑土屋彦六浅川広湖と共に東京の下谷教会ジョージ・ミーチャムより按手礼を受けてメソジスト最初の日本人牧師になる[3][7]


明治15年(1882年)1月16日、東京師範學校の教授を辞める[3][8]甲府教会に赴任し、3代目牧師となる[9]


明治16年(1883年)、東京の新栄教会で行われた第三回全国基督教信徒大親睦会に、栗村左衛八らメソジストの牧師と共に幹部の一人として参加する。東洋英和学校会社、カナダ・メソジスト教会の男女ミッションスクールを計画[2]


明治17年(1884年

  ・4月 甲府教会の任期終了[9]

  ・5月25日 静岡教会に4代目牧師として赴任[10]

  ・9月25日 東京府知事より東洋英和女学校が設立認可される[2]

  ・10月20日 麻布鳥居坂に東洋英和女学校を開校[2]


明治18年(1885年)太田虎吉に洗礼を授ける[10]


明治19年(1886年

  ・4月 日本メソジスト教会伝道会社社長に就任[3]

  ・10月31日 高木壬太郎山路愛山洗礼を授ける[10]

  ・11月1日 銀子夫人、結核性腹膜炎により永眠。このことが、平岩愃保を女学校設立に駆り立てた契機となる。


明治20年(1887年

 ・静岡女学校(現:静岡英和女学院)設立のため関口隆吉と会談を持つ。

  ・5月 東洋英和女学校2代目校主に就任[2]

  ・6月 静岡教会から東京麻布教会(現:鳥居坂教会)に転任[10][11]

  ・11月19日 静岡女学校が認可される。

  ・11月26日 静岡女学校が開校。


明治23年(1890年)、下谷教会で開拓伝道を行う。


明治24年(1891年

  ・5月 藤井順子(藤井持満の長女)と結婚。

  ・7月7日 三派機関紙『護教』創刊。発行人となる[3]


明治25年(1892年

  ・小野善太郎に洗礼を授ける。

  ・7月 麻布教会牧師を退任。東洋英和学校総理に就任、同神学部教授および東洋英和女学校校主を兼任[3]


明治26年(1893年)6月、静岡教会に6代目牧師として再び赴任[12]


明治27年(1894年)4月、日本メソジスト教会伝道会社社長を退任[3]


明治29年(1896年)8月、静岡教会を去る。1ヶ年休養[12]


明治30年(1897年)7月、駒込教会に赴任し、築地教会牧師と兼任[3]


明治31年(1898年)6月、甲府教会に再び赴任、9代目牧師となる[13]。有朋義塾講師となる[3]


明治33年(1901年)5月8日、日本メソヂスト教会年会長に就任(三派合同まで)[3]


明治37年(1904年)6月、甲府教会を去り[13]本郷中央会堂(現:日本基督教団本郷中央教会)に赴任する。


明治38年(1905年)、トロントのヴィクトリア大学より神学博士の名誉学位を贈られる[3]


明治40年(1907年

  ・4月 駒込教会牧師を兼任[3]

  ・5月 メソジスト監督教会カナダ・メソジスト教会アメリカ南メソヂスト監督教会の三派合同が行われ、日本メソヂスト教会が設立。カナダ・メソジスト教会の代表として条例制定編纂委員長を務めた。合同後は、日本メソジスト教会の初代伝道局長となった[12]


明治41年(1908年)4月、駒込教会牧師を辞任[3]

詳しいことは、「平岩愃保ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A9%E6%84%83%E4%BF%9D
(wikiより)

1426   平岩愃保

平岩愃保

1426a

1426b

1426c



南無妙法蓮華経 先祖代々霊位 ( 前 )

旧会津藩士 大正七年十月三日 小桧山鉄蔵建立。


鉄蔵二男・小桧山岩次郎 ( 六石二人扶持 ) は戊辰戦争白河の戦いで戦死 ( 青竜足軽隊 )。

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南無妙法蓮華経 先祖代々霊位 ( 前 )


旧会津藩士 


大正七年十月三日 小桧山鉄蔵建立


鉄蔵 : 倅・小桧山包四郎 ( 六石二人扶持 ) は戊辰戦争越後三国峠で負傷。 ( 町野隊付 )

2182a

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元治元年(1864)。

棚井東隆寺家来洞仙倅。

集義隊伍長。

鷹司邸内で戦死。

1976a



元治元年(1864)。

周防吉井郡井関村農。

集義隊。

禁門之変で会津藩に捕縛され六角牢で斬死。

1975a



元治元年(1864)。

集義隊。

鋳銭司村農。

禁門之変で戦死。

1974a



元治元年(1864)。

集義隊伍長。

鷹司邸内で戦死。

1973a



元治元年(1864)。

山口平野村農民。

集義隊。

禁門之変で負傷。

大阪まで逃れたが死亡。

1972a



元治元年(1864)。

仙吉。

下松蛤屋彌吉三男。

集義隊旗手。

禁門之変で敗走中、洛西樫原札ノ辻で小浜藩兵と戦い戦死。

1971a



元治元年(1864)。

萩中津江農民。

神職とも。

狙撃隊。

禁門之変で京都御所内で戦死。

1970a



元治元年(1864)。

奥阿武高佐農民。

狙撃隊。

禁門之変で戦死。

1969a



元治元年(1864)。

三田尻植松村農民。

狙撃隊。

禁門之変で戦死。

1968a



元治元年(1864)。

大島郡志佐村農民。

狙撃隊。

禁門之変で戦死。

1967a



元治元年(1864)。

又次郎。

萩桜島農民。

狙撃隊。

禁門之変で戦死。

1966a



伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや、1828年9月12日文政11年8月4日) - 1907年明治40年)9月4日)は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校(明治19年に廃校)校長金刀比羅宮禰宜、初代道後湯之町長を務めた人物である。本名:成川 斧右衛門(なりかわ おのえもん)。:震庵。


道後温泉本館を改築し、道後温泉松山市の有名な観光地にした人物として知られる。

概要
伊予国(現・愛媛県松山市)に町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩に出仕し医療に携わり、和歌に造詣が深く弟子を多く持っていた家だった。如矢は家庭環境に恵まれ、勉学に勤め塾に行くこともなく育った。松山藩士・菅良弼に仕え、阿部家に養子として入った。1856年安政3年)には私塾「老楳下塾」を開き、1895年明治28年)まで門弟1,000人を数えるまでになった。鳥羽・伏見の戦いで、松山藩の武士が京都に出兵した際には、居留守を任された。


1868年慶応3年/明治元年)、明治維新終了と共に長男・柯(おのえ)が20歳になったのを機に、家督を長男に譲り、別家して、伊佐庭姓を名乗った。維新後に、まず愛媛県吏員になり、廃城危機にあった[1]松山城を、県参事・江木康直に嘆願して廃城から守った[2]。その後、内務省を経て役人生活を辞した後は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校初代[要検証]校長、金刀比羅宮禰宜を歴任した。


1890年(明治23年)2月、前年に町制を敷いたばかりの道後湯之町の初代町長に就任。道後湯之町町長としての最大の功績は、老朽化していた道後温泉の改築・観光地としての発展である。道後温泉本館を初めとして、道後温泉の建物は当時老朽化から建て替えの時期にあったにも関わらず、財政難のため手が付けられないままで荒れ果てていた。伊佐庭は、就任早々自らは無給とし、その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。総工費は13万5千円。当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾きかねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感じるほどであった(道後湯之町人民激昂事件と、当時の資料・『道後湯之町日誌』に残っている。)が、伊佐庭は、『この道後温泉が100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる』と、誠心誠意を持って町民を説得してこの偉大な業を完成させた。棟梁に城大工の坂本又八郎を起用し、唐破風を使用して姿を現した木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。また、本館内に振鷺閣(太鼓〈刻太鼓〉を鳴らす場所)を建て、そこに当時の松山では珍しかった鮮やかな赤色の『ぎやまんガラス』を取り付けた[3]。これに関しても『あれはこの湯之町の希望の灯ぞな』と人々に歓迎されたという逸話が残っている。他には、霊の湯[4]や日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)[5]増築、道後公園の整備にも手がけた。


伊佐庭はまた、温泉地への観光客の誘致を目的として、道後鉄道株式会社(1900年〈明治33年〉5月に伊予鉄道に吸収)を設立。一番町~道後(現・伊予鉄道道後温泉駅)、道後~三津口(現・伊予鉄道萱町六丁目停留場付近)間に軽便鉄道を走らせ、客を温泉へ運んだ。丁度関西から松山への航路が開かれた事もあり、急速に道後温泉への観光客は増えていった。1902年(明治35年)、高齢を理由に3期12年の町長生活から勇退茶道、詩歌、謡曲など悠々自適の余生を過ごした。1907年(明治40年)9月4日に死去。80歳没。墓は道後温泉を見下ろせる鷺谷墓地(松山市)にある。また、道後公園の中央庭園に銅像石碑「伊佐庭如矢頌徳碑」が建っている。

2013年平成25年)9月4日、伊佐庭の命日に道後温泉本館改築120周年イベントに先立ち、野志克仁市長と地元関係者が、道後温泉のさらなる発展を目指すことを伊佐庭の墓前に報告した[6]


また、愛媛・四国・瀬戸内の歴史文化伝統をテーマとした演目を公演している、坊っちゃん劇場(愛媛県東温市)では、2014年(平成26年)に道後温泉本館改築120周年を記念し、伊佐庭を主人公にしたミュージカル『道後湯の町』(仮題)を2014年4月11日~9月下旬に上演予定している[7]。尚、このミュージカルの脚本にジェームス三木が担当する事が決定した。


落語家桂文枝は、伊佐庭を先見の明がある人物として尊敬しており、2014年10月より自身の創作落語でも取り上げている。その際、伊佐庭と稲庭うどんを掛けるさわりを入れている。

経歴
1828年文政11年) - 9月12日、伊予国(現・愛媛県松山市)に町医者・成川国雄の三男として生まれた。

松山藩に出仕。

1844年天保15年/弘化元年) - 阿部家に養子として入る。

1847年弘化4年) - 阿部家の娘、射狭(いさ)と結婚。

1848年(弘化3年/嘉永元年) - 長男・柯が誕生。

1856年安政3年) - 私塾「老楳下塾」を開く(~1895年)。

1868年慶應3年/明治元年) - 長男に家督を譲り、分家して伊佐庭姓を名乗る。松山県石鉄県愛媛県吏員として勤務。

1873年(明治6年) - 松山城を県参事・江木康直に嘆願して、廃城の危機から救う。

1877年(明治10年) - 前年に香川県が愛媛県の管轄になったを機に、高松支庁長になる。

1880年(明治13年) - 内務省に出向。

1881年(明治14年) - 愛媛県に戻り、愛媛県吏員を辞した。

1882年(明治15年) - 山田郡郡長に就任(~1884年)。

1883年(明治16年) - 愛媛県高松中学校長を兼任する(~1885年?)。

1886年(明治19年) - 金刀比羅宮禰宜になる。

1890年(明治23年) - 2月、道後湯之町(1889年町制施行)初代町長に就任。道後温泉の改築に着手。秋、妻・射狭が死去。

1892年(明治25年) - 養生湯の改築が完了。

1893年(明治26年) - 道後鉄道を設立し、初代社長に就任(~1896年)。

1894年(明治27年) - 4月10日、道後温泉本館の改築が完了。

1895年(明治28年) - 8月、一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を開通させた。

1899年(明治32年) - 霊の湯、又新殿を新築した。

1902年(明治35年) - 3期12年の任期を満了して、道後湯之町長を勇退。

1907年(明治40年)- 9月4日脳溢血により死去。80歳没。「清浄基と為す(せいじょうもといとなす。清廉潔白な生き方こそ人生の基本であり、成功を収める秘訣でもあると言う意味)」という書を死の4ヶ月前の5月に遺している。

出典
・原田光三郎『伊佐庭如矢(翁概伝)』、松山市道後湯之町出張所、1944年[8]

・加藤惠一『道後の夜明け -伊佐庭翁ものがたり-』、道後温泉旅館協同組合、2011年

・『伊佐庭如矢翁偲び草』、愛媛県立図書館・三津浜図書館蔵、刊行年不明

・『しこく8』百年を見すえ 町をつくる ~道後温泉を築いた 伊佐庭如矢~ - NHK松山放送局2015年2月13日放送[9]。出演者:鹿沼健介アナ,眞鍋かをり桂文枝。語り:玉川砂記子。地元・愛媛県西条市出身の眞鍋が伊佐庭ゆかりの建築物・観光地を巡る紀行番組。

脚注
1. 松山藩は明治維新の時に朝敵だったため、松山城を残す事は許されないという世論があった。
2. 松山城を残す条件として、当時としては画期的だった城郭ごと公園に残すというアイデアを提案し、地元の有力者を説得させて最終的に江木を説得させていった。
3. 尚、ぎやまんの上にの彫刻を北向きになるように配置し、観光客の目印になるようにした。また、ぎやまんの内部には太鼓を配置し、火の見櫓の部屋(振鷺閣)となっている。
4. 神の湯とも言われる。伊豫国風土記に登場する神話をモチーフにしたと伝わっている。
5. 但し、1952年昭和27年)の10回目の使用(昭和天皇が来所され、湯に浸かるニュース映像が残されている)を最後に使用されておらず、現在は観光ガイド見学のための建物として残されている。湯釜には健歩如故(けんぽのごとし)と彫られた大国主命少彦名命の彫刻(大国主命が病気を患った少彦名命を道後の湯につけた所、回復したという伊豫国風土記の話から着想した)がある。
6. 伊佐庭如矢氏の命日に、道後温泉本館改築120周年の報告をします(松山市のホームページ)
7. 坊っちゃん劇場次回作、伊佐庭如矢が主人公愛媛新聞2013年10月17日記事。
8. 愛媛県立図書館・文庫目録
9. 全国放送では、ろーかる直送便(2015年4月30日)で取り上げられた。

関連項目
道後湯之町 - 初代町長(1890年 - 1902年)を務めた。
道後温泉

道後公園

道後温泉本館

道後鉄道   

外部リンク

・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『伊佐庭如矢』 - コトバンク

道後湯之町と伊佐庭如矢

近代松山のまちづくり -伊佐庭如矢・小林信近とその時代― (PDF) (2013年10月29日時点のアーカイブ

伊佐庭如矢 道後湯之町初代町長

道後温泉本館を生んだ男、伊佐庭如矢(道後公民館) - ウェイバックマシン(2013年10月29日アーカイブ分)

道後温泉(世界見聞録のHP)    
(wikiより)

1715 伊佐庭如矢

伊佐庭如矢

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中島通軒 ( なかじま - つうけん )
( 1683 - 1730 )

江戸時代前期 - 中期の儒者。


天和 ( てんな ) 3年生まれ。

常陸 ( ひたち )( 茨城県 )の人。


水戸藩儒・酒泉竹軒 ( さかいずみ - ちくけん ) らに師事する。


元禄 ( げんろく ) 13年水戸藩に仕え、彰考館で「大日本史」の編修にあたった。


享保 ( きょうほう ) 11年彰考館総裁。


享保 15年 5月 23日 ( 一説に 14年 ) 死去。48歳。

名は為貞。字 ( あざな ) は子幹。

通称は平次。

著作に「大日本史職官志稿」。

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神道無念流指南。

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明治三十三年 ( 1900 )。

藤巻。猷権三郎。


彰考館訓導。

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元治甲子志士。


〇 天狗党の乱

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。


背景
天狗党の発生
文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁初立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。


この斉昭擁立に動いた集団は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している[1]。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する「勅書」返納問題において鎮派激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市史』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に限定して使用している[2]


この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の結城朝道(寅寿)であった。もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・藤田幽谷と熾烈な党争を繰り広げた立原翠軒派の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。斉昭と親密であった水野忠邦が失脚すると、後任の阿部正弘は、天保15年(1844年)5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権。嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府より海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。



「勅書」返納問題
安政5年8月8日1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇より直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。

先に朝廷より水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。


この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件坂下門外の変などを起こすに至った。

詳しいことは、「天狗党の乱ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1
(wikiより)

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川口緑野 ( かわぐち - りょくや )
( 1773 - 1835 )

江戸時代後期の儒者。

安永 2年生まれ。

常陸 ( ひたち ) 水戸藩士。


総裁立原翠軒 ( すいけん ) の推薦で寛政 5年 ( 1793 ) 彰考館にはいり 藩主・徳川治保の侍講をかねる。


文化 12年総裁となった。


天保 ( てんぽう ) 6年 6月 10日死去。63歳。名は長孺。字 ( あざな ) は嬰卿。通称は三省,助九郎。

著作に「台湾鄭氏紀事」など。


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川瀬教徳 (かわせ - のりなり)
(1777 - 1838)

江戸時代後期の武士。


安永 6年生まれ。


金子孫二郎の父。


常陸 ( ひたち ) 水戸藩士。


郡 ( こおり ) 奉行などを勤め 天保 ( てんぽう ) 7年、藩主・徳川斉昭 ( なりあき ) により勘定奉行にとりたてられる。


天保の飢饉に際し、長崎や大坂に行き食糧の確保に努めた。


天保 9年 5月 2日死去。62歳。


本姓は田丸。初名は直正。通称は七郎衛門。

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茅根 伊予之介(ちのね いよのすけ、文政7年(1824年) - 安政6年8月27日1859年9月23日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士本姓藤原氏家系常陸国豪族小野崎氏の一門茅根氏は為宜、泰。は伯陽、士誠。は寒緑。

生涯
文政7年(1824年)、茅根伊左衛門為俊の子として誕生。母は増子幸八郎叔茂の女。


伊予之介は為俊の嫡男であったが、父の死後に生まれたために伯父・為敬が家督相続していた。天保2年(1831年)、伯父の養子となり茅根家の後継となった。天保13年(1842年)4月、床机廻に抜擢された後、同年11月には学問出精により藩より賞せられる。翌天保14年(1843年)7月には藩校弘道館の開設に向けて弘道館長に任ぜられ、藩士の教育に従事した。弘化元年(1844年)、藩主・徳川斉昭江戸幕府から嫌疑を受けて致仕・謹慎すると、宥免運動に参加した。これにより伊予之介も職を解かれるが、下野している間、家塾・養正舎を開き、国家のために尽くす人材を養成する道を歩んだ。


その後、藩内の尊皇攘夷派と佐幕派の対立が激化すると、伊予之介も尊皇派として抗争に参加、斉昭が復権を果たすと同時に伊予之介も復職した。安政元年(1854年)、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が日本に再来し、江戸表の緊張が高まったため、伊予之介は水戸藩江戸藩邸の警護の任に就いた。同年4月には小十人組、弘道館訓導の職を経て、12月には郡奉行奥右筆頭取となり、藩内佐幕派の一大勢力であった結城寅寿ら結城派の取り締まり、処罰に尽力した。以後は藩校・弘道館の開設に尽くし、同年10月には江戸定となる。安政4年(1857年)11月、奥右筆頭取を兼務し、翌安政5年(1858年)、藩主斉昭が幕府の大老井伊直弼との対立により蟄居謹慎となり、再び斉昭の宥免運動に奔走する一方、将軍継嗣問題に絡み、斉昭の実子・徳川慶喜を将軍後継に定める運動を続けた。


しかし、戊午の密勅安政の大獄日米修好通商条約調印の問題に絡み、尽く井伊側と対立した結果、幕府より不穏分子として警戒を招き、安政6年(1859年)、伊予之介はともに国事に奔走していた水戸藩家老安島帯刀とともに幕府評定所に出頭を命ぜられることとなった。評定所に出頭した伊予之介は摂津国三田藩九鬼氏の江戸藩邸に預けられ、同年4月、死罪の評定を受け、8月27日、伝馬町の牢内で斬首となった[1]。享年36。

子に一男(熊太郎)一女あり。


墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地位階贈正四位靖国神社合祀[2]


辞世の句 
振り捨てて 出にし後の 撫子は 如何なる色に 露や送らん

家系
小野崎通長茅根通景(次男、大和守)-茅根通茂茅根通利茅根通村

脚注
1. 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) 426頁参照。
2. 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)33頁参照。

参考文献
・明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353

・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902  

関連項目
茅根氏

幕末の人物一覧

水戸藩    
(wikiより)

1696   茅根伊予之介

茅根伊予之介

1696a

1696b

1696c



犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年明治20年〉6月8日 - 1981年昭和56年〉4月9日)は日本実業家。元帝国ホテル社長。


帝国ホテル社長犬丸一郎の父。

経歴
石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男[1]


小松の芦城小学校高等科[2]、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。


1908年
文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた[3]。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった[3]。その後、学校は欠席しがちとなり、と読書と政治演説に力を入れたため、成績はしだいにさがり、最後から数えて3番目の成績でかろうじて卒業した[4]


このため就職には苦労し、ようやく長春にある満鉄経営のヤマトホテルボーイとして採用されホテル業界に入る。だが最初は客に頭を垂れ、慇懃(いんぎん)なる口調で語ることがなかなかの難事で、一言発するごとに顔面紅潮するのを押さえることができなかった。はなはだしく自尊心を傷つけられた気持で、絶えず劣等感に襲われた[5]


ヤマトホテル
の三年間にボーイコック、金庫係、スチュワードなどの仕事を経験した[6]

上海ロンドンニューヨークのホテル勤務を経て、帝国ホテル常務で支配人だった林愛作に招かれる。1919年帝国ホテル副支配人となり、その後、常務、代表取締役、専務等を経て、1945年社長。1970年顧問となる。マッカーサーが着任した際には、焼け野原となった東京を視察する彼の運転手をした[7]

1981年4月9日に93歳で死去。

人物像
ホテル経営を積極的に改革をした結果、帝国だけでなく日本のホテル業界を一流に引き上げた功労者である。ただ、「傲岸不遜」「オーナーの金井寛人にも頭を下げなかった」等その性格に反発する人間も多かった。世界的文化遺産であるライト館取り壊しの責任者として世間の非難を浴びたが、これについては建物が老朽化していたなど犬丸にも同情すべき点はある。


帝国ホテル支配人当時の1957年、旅先のデンマークスモーガスボードスタイルに出会い、内容的に「これはいける」と確信し、当時パリリッツ・ホテル研修中であった村上信夫に研究させた。それらのヒントによって考案された供食スタイルが「バイキング」である。

略年譜
1887年明治20年)6月8日 - 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれる

1910年(明治43年)

  ・7月 - 東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業

  ・9月 - 長春にある満鉄経営のヤマトホテル勤務

1913年大正 2年)10月 - 上海バリントンホテルにコックとして雇われる 孫文と出会う

1914年(大正 3年) 8月 - ロンドンフェンチャーチ停車場近くの鉄道ホテルに雑用係として雇われる 窓ガラスふきが日課であった。

1915年(大正 4年) 9月 - クラリッジスホテルにコックとして雇われる

1917年(大正 6年)11月 - ニューヨークリッツカールトンホテルにコックとして雇われる

1918年(大正 7年) 3月 - ウォルドルフアストリアホテル勤務

1919年(大正 8年) 1月 - 帝国ホテル入社 副支配人に命ずる旨の辞令を社長大倉喜八郎より交付される

1923年(大正12年) 4月 - 同支配人

1931年昭和 6年) 9月 - 同取締役

1934年(昭和 9年) 9月 - 常務取締役

1942年(昭和17年) 3月 - 代表取締役

1943年(昭和18年) 9月 - 専務取締役

1945年(昭和20年) 2月 - 社長

栄典
1959年(昭和34年)11月 - 藍綬褒章

家族・親族
犬丸家
石川県能美市東京都

石川県能美郡根上村(現能美市)の犬丸家は、根上から4キロほど西へ隔たった“犬丸”から移って、旧幕時代には“犬丸屋”の屋号を用い、明治に入ってからこれをとして名乗るようになった[8]。“犬丸”という姓はこの地方にそれほど多く数えることはできない[8]


代々農業を営み自作小作を兼ねていた。富裕ではなかったが貧乏でもなかった。純然たる農家ではなく父六右衛門は小規模の機織り工場を経営していた[8]

  ・妻・治子(石川県、小林三郎の二女)

  ・息子

   ・一郎(実業家・元帝国ホテル社長)

    同妻 伊津子(実業家・元富士ゼロックス相談役最高顧問小林陽太郎の妹)

   ・二郎(実業家・芝パークホテル特別顧問)

       同妻 純子(愛媛県、政治家砂田重政の娘)

脚注
1. 『私の履歴書 経済人4』389頁
2. 『私の履歴書 経済人4』391頁
3. a b 『私の履歴書 経済人4』399頁
4. 『私の履歴書 経済人4』399-400頁
5. 『私の履歴書 経済人4』402頁
6. 『私の履歴書 経済人4』403頁
7. "The Incredible Power of Serendipity" by Boye Lafayette De Mente, Phoenix Books, 2012
8. a b c 『私の履歴書 経済人4』390頁

参考文献
・『私の履歴書 経済人4日本経済新聞社 387-440頁


佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク立風書房 2001年 476-479頁

関連項目
一橋大学の人物一覧 
石川県出身の人物一覧

私の履歴書

浄土真宗

大倉喜七郎

村上信夫  

外部リンク
犬丸徹三 とは - コトバンク

2004年度の殿堂入りした方々 犬丸徹三 - 日本国際ツーリズム殿堂

(wikiより)


1425 犬丸徹三


犬丸徹三


1425a

1425b



大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日天保3年3月23日) – 1899年明治32年)6月26日)は、日本武士佐賀藩士)、政治家通称幡六[要説明]民平[要説明]

栄典正二位勲一等伯爵

経歴
出自
肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。

幕末
藩校の弘道館で学び、1850年嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽義祭同盟結成に参加。後に江藤新平大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。

明治新政府
1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議司法卿1876年(明治9年)の神風連の乱萩の乱の事後処理に当たった。


戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。


1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。12月14日学習院講堂で開かれた大日本教育会の常集会で森有礼とともに演説を行った[1]1888年(明治21年)に枢密顧問官1892年(明治25年)に枢密院議長再任。


1899年
(明治32年)に死去、享年67。

評価
教育制度や法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の1人に数えられている。

家族
大木氏筑後国蒲池氏の一族で、筑後宇都宮氏宇都宮懐久の次男の資綱の嫡子大木政長を祖とし、資綱の兄の蒲池久憲の後裔の蒲池鎮漣の重臣で、のちに鍋島直茂に仕えた大木統光の子孫にあたる。


・長男:大木遠吉(原・高橋内閣の司法大臣、加藤内閣の鉄道大臣を歴任)

・娘(栃木の農家に嫁ぐ[2]

・娘:岡崎えん(喬任と芸妓の子。銀座の小料理屋の女将となり[3]、没


後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が執筆された)

資産
沼津磯部温泉に別荘を所有した。


栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)10月19日 - 従二位[4]

1896年(明治29年)6月20日 - 正二位[5]

勲章等
1877年(明治10年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章[6]

1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[7]

1899年(明治32年)9月11日 - 勲一等旭日桐花大綬章[8]

脚注
1. 『澤柳柳太郎と帝国教育会-成城大学』
2. 大木喬任夫人『明治大臣の夫人』岩崎徂堂 (大学館, 1903)
3. 岡崎えん日本人名大辞典
4. 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
5. 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
6. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
7. 『官報』第307号、「叙任及辞令」1884年07月08日。
8. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧  

関連文献
大木遠吉編 『紀念』 1904年5月序

・『明治大学刑事博物館目録 第2号』 明治大学刑事博物館委員会、1952年8月

  ・『明治大学刑事博物館目録 第4号』 明治大学刑事博物館委員会、1953年8月

・田中艸太郎、常安弘通著 『大木喬任 辰野金吾』 佐賀県青少年育成県民会議〈郷土史に輝く人びと〉、1971年3月

・島内嘉市著 『年譜考 大木喬任』 アビアランス工房、2002年7月、ISBN 490128410X

西川誠 「大木喬任」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415

・重松優 「大木喬任伝記史料「談話筆記」について」(『ソシオサイエンス』第12号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2006年3月、NAID 120000792718

佐々木隆 「「大木喬任関係文書」所収司法・検察関係者書翰翻刻」(『参考書誌研究』第66号、国立国会図書館、2007年3月NAID 40015326636

・重松優 「『大木喬任伯意見雑記』をめぐって」(『社学研論集』第10号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2007年9月、NAID 120002928913

・星原大輔 「幕末明治期の大木喬任日記」(『財団法人鍋島報效会研究助成研究報告書』第4号、財団法人鍋島報效会、2009年10月)

・重松優著 『大木喬任』 佐賀県立佐賀城本丸歴史館、2012年2月、ISBN 9784905172055

・「大木喬任」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一」) - アジア歴史資料センター Ref. A06051166700

  ・『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第1巻』 東京大学出版会、1996年10月、ISBN 4130987119   

関連項目
 
佐賀の七賢人

義祭同盟

弘道館 (佐賀藩)

大日本教育会(帝国教育会)

外部リンク

近代日本人の肖像 大木喬任 - 国立国会図書館

憲政資料室の所蔵資料 大木喬任関係文書 - 国立国会図書館リサーチ・ナビ

古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の大木喬任書翰などが閲覧できる。

古文書・古記録・古典籍データベース - 佐賀県立図書館。江藤家資料の大木喬任書簡などが閲覧できる。

Memory of the Netherlands - オランダ王立図書館。肖像写真が閲覧できる。
(wikiより)


1424 大木喬任

大木喬任

1424a

1424c



船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日1840年7月13日) - 大正2年(1913年12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚貴族院議員。男爵。初代千葉県知事。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。

経歴
幼少期・明治維新との関わり
幼少のころより広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)で学び後に教授となる。折りしも父が政争に巻き込まれて閉門を受けた時期であり、父から理財について学ぶところが大きかった。黒船来航後は尊皇攘夷を支持して、学問所の同僚であった山田十竹星野文平らとともに脱藩を企てるも未遂に終わった。後に藩執政辻維岳に認められて薩摩藩との交易事業を担当する。文久3年(1863年)の辻の上洛に随従して、尊皇攘夷派志士との関係を強め、長州藩攘夷監察に向かった正親町公董及び熊本藩河上彦斎の道案内役を引き受けて長州まで同行している。


第1次長州征伐の際には、長州藩と江戸幕府の和平交渉の仲介役に立ち、これが縁で大村益次郎から兵学を学んだ。また、慶応3年(1867年)に土佐藩から辻維岳に対して大政奉還構想が伝えられると、辻の命により本国の意見の取り纏めを行った。


明治政府成立後は父とともに新政府に召されて、明治元年(1868年)には江戸府判事に任じられ、次いで戊辰戦争では軍務官権判事・東北遊撃軍参謀となって庄内藩盛岡藩の攻略に戦功を挙げて賞典禄200石が授けられた。大村益次郎の死後は山縣有朋(後に船越の長男・光之丞は山縣の娘婿となる)と結んで兵制改革にあたり、明治3年(1870年)に兵部大丞となるが、兵部省改組により陸軍省に移籍する。ところが、陸軍大丞兼会計局長の時に山城屋事件に連座して退官に追い込まれて軍人生命は終わりを告げる。その後、明治7年(1874年)に戸籍権頭を務め、内務省成立後は内務官僚としての道を歩んだ。

千葉県知事(県令)時代
明治13年(1880年)3月、第2代の千葉県令(後に千葉県知事と改称)に任命される。当時高まりつつあった自由民権運動に対しては明治17年(1884年)の夷隅事件以文会を弾圧するなどの強硬策も取った。


当初は千葉県における鉄道建設を支持していたが、国策としての利根運河の建設が決定されると、鉄道と利根川水運の両立は困難であるとして井上勝とともに鉄道建設に慎重な立場に転じた。船越は県内鉄道敷設を働きかけていた武総鉄道と総州鉄道に対して計画の翻意や両者の合併を図ったが、総州鉄道が東京都知事を通じて正式に出願を行ったため、やむなく武総鉄道を千葉県知事として内閣に進達した。結局、両者の鉄道敷設の出願は政府に却下されたため、東京周辺では千葉県における鉄道の開通だけが大幅に遅れることになった[1]。ただし、船越が懸念していた「鉄道の利根運河との競合」自体は間違いではなかった事は、鉄道開通後の利根川水運の衰退からみても明らかである。


町村制導入の際には2,456あった町村を1/7の358に減らすという大規模な合併を行った。こうした政策に対して県議会自由党系が激しく船越を非難し、更に改進党系が自由党系の非難を始めたことから県政は混乱状態に陥った。このため、明治21年(1888年)11月船越は元老院議官任命を理由に事実上の更迭処分を受けたのである。

その後
その後、欧米視察を経て、明治23年(1890年)5月に石川県知事に任命され、明治24年(1891年)9月には宮城県知事に転じた。明治27年(1894年)1月23日には貴族院勅撰議員に任じられて[2]茶話会に属し、1910年10月19日まで務めた[3]。明治29年(1896年)には宮中顧問官に任じられて、同年6月5日、男爵に叙された[4]。明治43年(1910年)には枢密顧問官に任じられて在任中に死去した。

栄典・受章・受賞
位階
1892年(明治25年)2月13日 - 正四位[5]

1894年(明治27年)2月28日 - 従三位[6]

1904年(明治37年)2月29日 - 正三位[7]

勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲三等旭日中綬章[8]

1889年(明治22年)11月15日 - 銀製黄綬褒章[9]

1898年(明治31年)6月28日 - 勲二等瑞宝章[10]


家族
・弟・加藤隆義 - 軍人

・妹・くら - 山中隣之助の妻

・妹・きよ - 石井徹(日本郵船取締役、太平生命保険会長)の妻

・長男・船越光之丞 - 外交官。明治19年に品川弥二郎に連れられてドイツに遊学し、帰朝後外交官となり各国に公使として歴任、大正5年に特命全権公使・メキシコ駐剳に命じられたが、赴任せず退官[11]。妻は山県有朋の次女・松子[11]。子に長男・船越光輔(東京銀行常務)、三男・山縣有光など。光輔と有光の岳父はともに伊沢良立

脚注
1. 千葉県の鉄道史. 千葉県企画部交通計画課. (1980). pp. 2-3. 
2. 『官報』第3169号、明治27年1月24日。
3. 『官報』第8200号、明治43年10月20日。
4. 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
5. 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
6. 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
7. 『官報』第6196号「叙任及辞令」1904年3月1日。
8. 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
9. 『官報』第1938号「彙報 - 褒章」1889年12月12日。
10. 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
11. a b レファレンス事例詳細 広県図20140003レファレンス協同データベース、国立国会図書館、2014年09月25日

関連項目
修道中学校・修道高等学校の人物一覧

神機隊
(wikiより)


1423 船越衛

船越 衛

1423a

1423b



後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日1857年7月24日) - 昭和4年(1929年4月13日)は、日本医師官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵


台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。


計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京帝都復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。


甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔[1]、孫に社会学者鶴見和子[1]哲学者鶴見俊輔[1]演出家佐野碩、義孫に法学者の内山尚三[2]、曾孫に歴史家の鶴見太郎をもつ[3]

生涯
生い立ち・医師時代
仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる[1]。江戸時代後期の蘭学者高野長英は遠縁に当たる。


胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。


後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、高野長英への弾圧等の影響もあって医者を勧められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって、17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。


明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれるが、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。


明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。


明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。


明治26年(1893年)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。

「生物学の原則」に則った台湾統治
内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島宇品港似島似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。


明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

台湾の調査事業
まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘
開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。また、欧州留学中に知り合った林学者河合鈰太郎を招聘し[4][5]、河合は阿里山の森林資源調査、ひいては阿里山森林鉄路の開通に多大な成果をもたらしている。

阿片漸禁策
当時は中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。


後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。


しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬(創立者の星一が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている[6]

満鉄総裁
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。


当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。


そこで後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤がハルビンで暗殺されたため実現しなかった)。


当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

拓殖大学学長
大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)8月2日-昭和4年(1929年4月13日)。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(1922年)6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。大正9年(1920年)5月12日には、早稲田大学の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」と題する講義を行っている[7]。当時の邸宅は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、昭和第一高校の前の公園であった。



関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画


第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年7月14日 - 明治44年(1911年8月30日)、寺内内閣内務大臣(在職:大正5年(1916年10月9日 - 大正7年(1918年4月23日)・外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年12月17日 - 大正12年(1923年4月20日)、第2次山本内閣で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年1月7日、後述)等を歴任した。


鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。今日のJR九州肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。


関東大震災
の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため、財界等からの猛反対に遭った上、後藤のお膝元の帝都復興院も、積極派の副総裁・松木幹一郎、建築局長・佐野利器らと、消極派で拙速主義を取り予算を削減しようとする副総裁・宮尾舜治、計画局長・池田宏らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった[8]。結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも、後述するように、現在の東京都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。震災復興計画の方法について、後藤は、19世紀中葉のフランスナポレオン3世治下のセーヌ県知事オスマンが行ったいわゆるパリ改造を参考に、土地を地権者から大胆に収用する手法をとろうとした。ところが、日本は土地に対する絶対的な私有感覚が極めて強く、財産権の内在的・外在的制約(大日本帝国憲法27条2項、日本国憲法29条2項3項)に対する理解が存在しないため、意外にも19世紀フランスにおけるよりもよほど激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。中でも「銀座の大地主」と呼ばれた伊東巳代治が反対運動の中心になった。


道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つという大規模なもので、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。


現在、それに近い形で建設された姿を行幸通りなどで見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もある。しかし、昭和通りは、建設当初は大阪御堂筋に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路であったにも関わらず、前述の交差点の地下立体交差や首都高速道路の高架道路の建設により、後藤の意図したようなゆったりした緑の多い街路としての性質は、昭和40年代以降完全に失われてしまった[9]


一方で、後藤による都市計画は、東京の都市機能拡充の引き換えに江戸以来の情緒を喪失させ、「東京を無機質な町に変質させてしまった。」との批判もある
[要出典]。しかし、帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、帝都復興事業施行街区には、大正12年(1923年)9月の段階で、そもそも江戸の情緒を残す町並みは殆ど残されていなかったこと、震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの都市問題を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は必ずしも的を射たものではない。


緑地政策に関しては、隅田公園浜町公園など、近代的な公園緑地を建設することも忘れなかったが、比較的小規模なものにならざるを得ず、ロンドンニューヨークパリ等の大都市と比しても圧倒的に森が少なくなってしまったことが批判されている。また、後藤は地方自治のプロとして、小学校を地域の中核とする地域コミュニティの再編を進めたが、後藤が帝都復興計画の模範としたパリ大改造は、為政者にとって厄介なものだったフランス革命以来のパリの地域コミュニティを破壊することを隠れた目的としていたため、街路整備に不可避的に付随して、旧来の地域コミュニティの結束点をかなりの部分破壊してしまったという問題を指摘する者もいる。

詳しいことは、「後藤新平ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
(wikiより)

1422 後藤新平

後藤新平

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三代目尾上菊次郎(さんだいめ おのえきくじろう、1882年10月10日 - 1916年8月27日)は、歌舞伎役者。本名:岡田幸次郎、俳名:鶯友、梅花、屋号:音羽屋、紋:向い菊・裏菊菱。

略歴・芸風
東京麹町の生まれ、父は岡田常次郎。父親は大衆雑誌の出版をしていた[1]五代目尾上菊五郎の門下。12歳で尾上梅次郎の名で初舞台。1905年3月に名題に昇進し八代目尾上芙雀を襲名。1915年4月に『助六』の揚巻で三代目尾上菊次郎を襲名。六代目尾上菊五郎の女房役者として活躍。台詞に癖があったが色気のある芸で立女方や世話物などを得意とした。1916年東京帝国劇場『怪異談牡丹灯篭』でおみね役に出演中急逝した。これからの大成が期待される矢先の死は関係者を残念がらせた。


当り役は『義経千本桜・すし屋』のお里・『怪異談牡丹燈籠』のおみね・「伽羅先代萩」の政岡・『天衣紛上野初花』の三千歳。

名優の女房役者として
二代目市川左團次における二代目市川松蔦初代中村鴈治郎における三代目中村梅玉初代中村魁車らと同様、名優の女房役者として菊五郎を支えた。まず、自身が菊五郎よりも二つ年長にもかかわらず、それを隠し通して二歳年下で通した。そうすれば、菊五郎の情が深くなるという理由からである。また、三千歳を演じた時は、菊次郎は厳寒の中冷水に手を入れて、舞台で菊五郎の直侍に手を握らせ、菊五郎がいとおしさに思わず菊次郎を抱きしめたという伝説を持つ。


「牡丹灯籠」上演時での菊次郎の死は菊五郎に大きな衝撃を与え、同じ舞台で共演した四代目河原崎國太郎も急死したこともあって、菊五郎は爾来「牡丹灯籠」を演じることはなかった。

脚注
1. 『雨後』p145三宅正太郎、(木曜書房, 1948)
(wikiより)

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丸山 作楽(まるやま さくら、1840年10月27日天保11年10月3日) - 1899年明治32年)8月19日[1])は、明治時代外交官実業家政治家。別名:正虎、正路、佐久良。号:神習処・素行・磐之屋。

経歴
江戸・芝三田において、島原藩士・丸山正直の長男として生まれる。幕末期には平田派国学を学んで勤王派となり国事に奔走した。


1869年(明治2年)8月、外務大丞となり樺太に出張して対露交渉にあたった。翌1870年(明治3年)3月に帰国し、政府にロシア南下への積極対抗策を進言するが容れられなかった。また佐田白茅が唱えた征韓論に同調し、その実行を促したが、これも用いられなかった。同年11月、樺太問題の失敗により外務権大丞に転任となる。


丸山は篠山藩士・畑経世らとともに、外務省によって却下された征韓論を、反乱によって実行に移そうと試みる。しかし1871年(明治4年)に事は発覚してまず畑が逮捕され、5月10日に丸山も外務省出勤中に拘引された。5月29日、外務権大丞を免じられた。なおこの事件は「同権大丞(丸山)は固陋奇弁を有する人物を以て目せられ、今回の陰謀も朝鮮出兵を理由に、諸般及び浪士不平の徒を糾合した感があり、政治上重大化するに至らなかった」という[2]。終身禁錮の刑に処されたが、1880年(明治13年)1月、恩赦により出獄した。


出獄後、自由民権運動に対抗して忠愛社を結成し、新聞『明治日報』を発行する。1882年(明治15年)には東京日日新聞福地源一郎とともに立憲帝政党を結成し、保守的政治家として活動した。


1890年(明治23年)6月12日、元老院議官に就任し、同年10月20日、元老院が廃止され非職となる[3]。同年9月29日、貴族院勅選議員に任じられ[3]、死去するまで在任した[1]。1899年(明治32年)、心臓弁膜炎のため死去[4]


万葉調の歌人としても知られている。

栄典・授章・授賞
位階
1890年(明治23年)6月19日従四位[5]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

脚注
1. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』166頁。
2. 田保橋潔 『近代日鮮関係の研究 上』(1940年朝鮮総督府中枢院、P310)
3. a b 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』469-470頁。
4. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁
5. 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
6. 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。

参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。

関連項目
島原武家屋敷街 - 上新丁に1861年に丸山作楽が私塾神習処を開設した。

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 丸山作楽関係文書(MF:個人蔵)
(wikiより)


1419 丸山作楽

丸山作楽

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何 礼之(が のりゆき(れいし)、天保11年7月13日1840年8月10日) - 大正12年(1923年3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本翻訳家幕臣官僚、教育者。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。

略歴
英語の独習と通訳業
天保11年(1840年)肥前国長崎西上町に生まれる。父は唐通事住宅唐人の子孫である何静谷(栄三郎)。天保15年(1845年)父の引退に伴い、5歳で家督を継ぐ。15歳の頃中国語を修めた。この頃、外国艦が日本近海に迫り、開国を求める動きが加速していたため、西欧語の習得が必要性を増していた。礼之助は在長崎の唐人から華英辞典を求め、独学で英語を学んだという。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、長崎も開港地となり通商が開始されたため、幕府から税関業務の従事を命ぜられた。また、幕府が設立した長崎英語伝習所で英語を学び、後には教師も勤めた。文久元年(1861年)にロシアによって対馬が占拠される事件(ロシア軍艦対馬占領事件)が起きると、長崎奉行の退去交渉に通訳として随行した。英語通訳の功績により、文久3年(1863年)7月に長崎奉行所支配定役格に任ぜられ、幕臣となった。ついで英語稽古所学頭となる。同年孝明天皇攘夷を約束した幕府は12月に不可能を承知の上で横浜港の再封鎖を交渉するため、フランス外国奉行池田長発を全権とする交渉団を派遣することになったが、礼之助も通訳として随行を命ぜられる。しかし江戸へ向かう便船が途中で故障して遅延したため、随行はかなわなかった。

英語私塾開設
翌元治元年(1864年)には長崎の自邸で英語の私塾を開き、多くの弟子を育てた。翌年には長崎奉行の支援で塾舎を新設。塾生は百数十名を数えた。この時期に何礼之の教えを受けた者には前島密(内務省駅逓局長、逓信次官)、高橋新吉(英学者、日本勧業銀行総裁)、前田正名農商務省大書記官、東京農林学校長)、芳川顕正東京府知事文部大臣内務大臣など)、高峰譲吉工学博士、薬学博士)、白峰駿馬海援隊士、白峯造船所長)、陸奥宗光(海援隊士、外務大臣)などがいる。その後、慶応3年(1867年)7月、幕府開成所教授並となり、江戸へ赴く。江戸でも私塾を開き、星亨衆議院議長逓信大臣)、中村六三郎三菱商船学校初代校長)などに英語を教えた。王政復古の後は、幕府陸軍総裁勝海舟の通訳を務めた。

維新後の活躍
明治維新後は明治元年(1868年)6月に新政府の開成所御用掛、訳官となる。つづいて大阪行きを命ぜられ、外国事務局で小松清廉を補佐する一等訳官。また大阪中之島の高松藩邸でも開塾し、堂島川にかかる玉江橋にちなんで「瓊江塾」と称した。ここでは浜尾新帝国大学総長、文部大臣)、奥山政敬大阪英語学校長)などに教えている。この間、洋学校設立に奔走し、明治2年9月に設立、12月に開校すると自ら教鞭をとるかたわら『経済便蒙』『西洋法制』などを訳出。明治4年には新政府による欧米派遣使節(岩倉使節団)に外務省六等出仕として随行した。使節団副使の木戸孝允に附属し、憲法の調査を行い、モンテスキューの『法の精神』を翻訳。のちに『万法精理』として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与えた。


明治6年(1873年)7月帰朝。翌年には内務省出仕翻訳事務局御用掛となり、洋書の翻訳・調査にあたった。明治9年(1876年)2月内務権大丞、10年(1877年)1月内務大書記官に進む。明治17年(1884年)12月元老院議官となり、同23年(1890年帝国議会の発足に伴い元老院が廃止されるまで在職した。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[1]。明治24年(1891年)12月22日貴族院勅撰議員となり[2]大和倶楽部懇話会庚子会土曜会同成会に属した。大正12年(1923年)、死去。享年84。墓は東京都港区青山墓地にある。


著書はすべて訳書で、上記の『万法精理』のほか、ベンサムの『民法論綱』をはじめ、『政治略原』『英国賦税要覧』『世渡の杖』『開知叢書人事進歩編』『開知叢書人事退歩編』『法律類鑑』など。

養子の武は林洞海の子。

栄典・授章・授賞
位階
1885年(明治18年)2月6日 - 従四位[3]

1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[4]

勲章等
1886年(明治19年)11月30日 - 勲三等旭日中綬章[5]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[7]


脚注
1. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
2. 『官報』第2546号、明治24年12月23日。
3. 『官報』第479号「賞勲叙任」1885年2月7日。
4. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
5. 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
6. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
7. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献
大久保利謙「幕末英学史上における何礼之」(『鹿児島県立短期大学研究年報』6、1978年

稲田正次「何礼之」(『日本近現代人名辞典』、吉川弘文館2001年


関連項目
前島密

高峰譲吉

星亨

国是綱目
(wikiより)


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東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体: 東鄕茂德、生名:朴茂德、1882年明治15年)12月10日 - 1950年昭和25年)7月23日)は、日本外交官政治家太平洋戦争開戦時および終戦時の日本外務大臣欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣

略歴
生い立ち
萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村で生まれた[1]。苗代川は、豊臣秀吉文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった[2]。薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った[3]。苗代川の住民の多くは「郷士」よりも下の地位に位置づけられたが、前記の保護ともあわせて手厚く遇された[3]。しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には苗代川の男子364人の連名で「士籍編入之願」が鹿児島県庁に提出された[4]。この364人の中には、祖父・朴伊駒も名を連ねていた[1]。しかし、士族への編入は1885年の最後の請願まで却下され続けた[1]。その翌年にあたる1886年、朴家は東郷を名乗る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、9月6日付で当時満4歳まであと3ヶ月だった茂徳は「東郷茂徳」となった[5]。なお、鹿児島では「東郷」姓はありふれたもので、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係である[5]。茂徳の父・壽勝は陶工ではなかったものの、雇った陶工の作った作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いたという[6]


鹿児島県尋常中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)から1901年9月に、新設されたばかりの旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)に進学[7]。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった[8]。これに前後して、2年生の時に父の強い反対を押し切り、文科大学志望を明確にした[9]。1904年9月、東郷は東京帝国大学文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任[10]。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した[10]


1905年(明治38年)5月、大学の文芸雑誌『帝国文学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルトドイツ語版』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと)を題材とした文芸批評が掲載された[11]。これは東郷の唯一の文芸批評である。また、翌年1月に片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に初めて「青楓」の雅号を用いている[12]。東大時代の前半は登張の影響でドイツ文学者を志していた。

二度のドイツ赴任
1908年7月、東京帝大文科大学独文科を卒業。病気療養を理由に休学したため卒業まで通常より1年多く要し、卒業時は小宮豊隆と同期であったが、東郷は後年会った際に小宮を知らなかったという[13]。卒業に際しては母校の七高から来たドイツ語教授招聘の話を断り、明治大学のドイツ語講師を務めたりしたのち、1912年(大正元年)に外交官及領事官試験に3度目の受験で合格し、外務省に入省した[14]。同期に天羽英二(元内閣情報局総裁)。


1919年
(大正8年) - 1921年(大正10年)に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。また、東郷はこの赴任時にユダヤ系[15]ドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人、旧姓ピチュケ Pitsschke[16])と出会い、恋仲となる。ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年帝国ホテルで挙式した。


1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)に駐独大使となったが、この際にはナチスが勃興しており、状況は一変していた。対外的にはオーストリアチェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。元々ドイツ文学に傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。

日ソ中立条約の交渉
1938年(昭和13年)に東郷は駐大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争支那事変)の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。


しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に懲戒免職を求めて相手にしなかった。


なお、その後に松岡が締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟が成立していたこと、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていたこと、ソ連とナチスドイツとの関係が悪化したことなどによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蒋介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となったことにより、東郷には不満が残る結果となった。


外相経験もある元老西園寺公望は、東郷が松岡によって駐ソ連大使を更迭され外務省から追われそうだとの風説を自らの死の床にて聞き及び、深く慨嘆したと言われている。

開戦回避交渉
1941年(昭和16年)10月、東條内閣外務大臣として入閣する。大命降下を受けた東條はもともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。外務省における東郷は職業外交官としての手腕には定評があったが、主流派とは言えず、打ち解けない性格から省内人脈も少なかった。外相に就任した東郷は次官に西春彦アメリカ局長に山本熊一(東亜局長兼任)、アメリカ課長に加瀬俊一(としかず)を迎えて対米交渉の布陣とし、また分裂する省内を引き締めるために枢軸派の大使1名に辞表提出を求め、その他課長2名・事務官1名を休職として統制を回復した[17]。東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。


このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。


その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、ハル・ノートを「最後通牒」であると上奏、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。

真珠湾攻撃へ
1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、昭和天皇から東條英機総理大臣に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。


このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始。山本五十六連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。しかし、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となってしまった(通説では駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際が原因とされるが、異説も存在する)。また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。


開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。


東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られる。

終戦交渉
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。


1945年(昭和20年)4月、東郷は終戦内閣である鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任する。「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」[18]という鈴木貫太郎首相の言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていた。

対ソ交渉
東郷は和平に向けた意見交換の場を設けるため、総理大臣・外務大臣・陸海軍の大臣および統帥の長(参謀総長・軍令部総長)の6人による会合を開くことを他の5人に提案する[19][20]。当時、最高意思決定機関としては、この6人に加えて次官級が出席する最高戦争指導会議があったが、この席では軍の佐官級参謀が作成起案した強硬な原案を審議することが多く、それを追認する形になりがちであった[19][20]。東郷はトップが下からの圧力を受けずに腹蔵なく懇談できる会議を求めたのである。他の5人もこれに賛同し、内容は一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになった。


1945年5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になった。そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案した。これに対し陸軍大臣の阿南惟幾は、日本は負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止を主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷の見解に反対する。結局、米内光政海軍大臣が間に入り、まずソ連の参戦防止と好意的中立の獲得を第一目的とし、和平交渉はソ連の側の様子をみておこなうという方針が決定された[21][22]。この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、南満州の中立化などを容認することで一致した[21][22]


この決定を受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元総理を、疎開先の箱根に滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣し、ソ連の意向をさぐることにした。マリクと広田は旧知の間柄であった。しかし2度の会談ではお互いが自らの意見は明確にせず、相手の具体的要求を探る形に終始した[23]。マリクにはソ連の対日参戦の意向は知らされていなかったが、モロトフ外相に対する会談の報告には「具体的な要求を受け取らない限りいかなる発言もできないと回答するつもりだ」と記した[24]。これに対してモロトフはこの立場を支持し、今後は広田からの要請でのみ会談をおこない、一般的な問題提起しかなければその報告は外交クーリエ便だけにとどめよと訓令した[25]。その後、広田とマリクは2度の会談をおこない、6月29日の最後の会談では日本の撤兵を含む満州国の中立化・ソ連の石油と日本の漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論の用意を条件として挙げたが、成果をあげることなく終わった[26][27]モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申したが、東郷の受け入れるところとはならなかった。


この最高戦争指導会議構成員会合の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデンスイスバチカンなどでおこなわれていた陸海軍・外務省などの秘密ルートを通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになった[28]。ソ連大使時代に苦労をした東郷はもともとソ連外交の狡猾さを知り尽くしていたはずにもかかわらず、東郷は結果的にはソ連に期待する外交を展開してしまったわけである。これについては、ソ連大使時代から気心を通じていたモロトフ外相の心情に期待したのだという説もあるが[要出典]、当時外務省で東郷に直接仕えていた加瀬俊一(としかず)が証言するように、強硬派の陸軍が、ソ連交渉だけなら(中立維持のための交渉という前提で)目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的である。また昭和天皇がソ連交渉には好意的であったことも東郷の考えに影響していた。東郷自身はポツダム宣言受諾後の8月15日に枢密院でおこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合いに事態を導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏が前提になるとみられたので放棄し、ソ連への利益提供で日本の利益にかなうよう誘導して終戦に持ち込むことが得策とされたと述べている[28]


ソ連側の態度が不明なまま時間は推移していく中、6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定された。鈴木・東郷・陸海軍は近衛文麿元総理をモスクワに特使として派遣する方針を決め、7月に入り、ソ連側にそれを打診した。しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談の準備のため忙しいということで近衛特使案の回答を先延ばしにするばかりであった。こうして7月26日のポツダム宣言に日本は直面することになる。


ポツダム宣言
を知った東郷は、「1.この宣言は基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連が宣言に参加署名していないことや内容に曖昧な点があるため、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、ソ連との交渉と通じて曖昧な点を明らかにするべきである」という結論を出し、参内して天皇と話しあった[29]。このとき、昭和天皇がポツダム宣言に対してどのような反応を示したかは不明確である。東郷自身のメモでは「このまま受諾するわけにはいかざるも、交渉の基礎となし得べしと思わる」と述べたという[30]。一方、東郷の部下だった加瀬俊一(としかず)は「原則的に受諾可能と考える」と述べたと記しているが、纐纈厚はこの発言は確認不可能で、「天皇は、特に宣言に重大な関心を示さなかったという」と記述している[31]。天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見に賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めた[32]


しかし阿南陸相は東郷の見解に猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を主張する。またもともと和平派的立場だった鈴木首相と米内光政海軍大臣は、「この宣言を軽視しても大したことにはならない。ソ連交渉で和平を実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解であった。結局、ポツダム宣言に対しては「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。しかし、アメリカの短波放送がすでに宣言の内容を広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えることとした。だが、7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)といった表現が現れた[33]。28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた[33]。同日、鈴木首相の会見は「三国共同声明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては何等重大な価値あるものとは思はない、ただ黙殺するのみである。われわれは戦争完遂に飽く迄も邁進するのみである」という表現で報じられた[34]。連合国はこの日本語を「reject(拒否)」と訳した。東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している


こうして8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになる。

詳しいことは、「東郷茂徳ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
(wikiより)

1260 東郷茂徳

東郷茂徳

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斎藤 隆夫(さいとう たかお、1870年9月13日明治3年8月18日) - 1949年昭和24年)10月7日)は、日本弁護士政治家である。姓は「齋藤」とも表記する。


帝国議会衆議院において、立憲主義議会政治自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入やファシズムに抵抗した。

来歴・人物
但馬国出石郡、現在の兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが、12歳の頃「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。


21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[2]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉書生となる。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業[3]。同年判事検事登用試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法政治学などを学ぶ。


帰国後の1912年(明治45年・大正元年)に立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党立憲同志会憲政会立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官第2次若槻内閣では法制局長官を歴任している。


腹切り問答を行った浜田国松人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。


1935年(昭和10年)1月22日、「岡田内閣施政方針演説に対する質問演説」で「陸軍パンフレット[4]と軍事費偏重を批判。

1936年(昭和11年)5月7日(第69特別帝国議会)、「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を行った。

国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日(第73帝国議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。

1940年(昭和15年)2月2日(第75帝国議会)、「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。


反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会革新派中島派)、社会大衆党時局同志会など)より反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名された。しかし1942年(昭和17年)総選挙では軍部などからの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を免れ総務委員として党を代表する立場となり翌1946年(昭和21年)に第1次吉田内閣国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部総裁[6])として初入閣する。


1947年
(昭和22年)3月には民主党の創立に参加、同年6月に再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し1948年(昭和23年)3月に一部同志とともに離党。日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加、翌年心臓病肋膜炎を併発し死去。享年79。


故郷の出石に記念館「静思堂」がある。

栄典
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[7]

演説
「普通選挙賛成演説」、「粛軍演説」、「反軍演説」を斎藤の三大演説と扱われる。

普通選挙賛成演説
大正14年3月2日に衆議院本会議で行われた演説は帝国議会速記録に公開されており、演説後の登壇者に「齋藤君は二時間以上も喋って」という発言が見られる[8]

粛軍に関する質問演説

粛軍演説」を参照

国家総動員法案に関する質問演説

政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである.....[9]

など議会の審議、決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家総動員法の危険性を指摘した。


演説後、同僚議員に「この案はあまりに政党をなめている」「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と語っている。しかし斎藤の反対もむなしく、懐疑的であった二大政党もついに賛成に回り国家総動員法は可決された。

逸話
「ネズミの殿様」とのあだ名[10]で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は小柄でイェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる[11]


反軍演説で除名処分を受けた後、「第七十五帝国議会去感」という一編の漢詩を残している。

吾言即是万人声 (吾が言 即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委ねん)
請看百年青史上 (請う看よ 百年青史の上)
正邪曲直自分明 (正邪曲直 自ずから分明なるを)

詳しいことは、「斎藤隆夫ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB
(wikiより)


1259 斎藤隆夫


斎藤隆夫

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棚橋寅五郎 ( たなはし - とらごろう)

(1866 - 1955)


化学技術者。


新潟県の生まれ。


1893年 ( 明治 26 ) 帝国大学工科大学応用化学科を卒業。


日本化学工業、鉄興社、北海電気興業、昭和特殊製鋼、日本製錬鉱業などの各会社および化学工業時報社を創立して、国内資源の開発、化学工業の発展に寄与した。


在学中に海藻からヨードカリを製造する方法を研究したほか、硝酸カリ、硫酸カリ肥料、塩素酸カリ、クロム酸塩の製法など、国内資源による独自の技術を研究開発した点が高く評価される。


1939年 ( 昭和 14 ) 十大発明家として宮中賜餐 ( しさん ) の栄に浴した。

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吉田 精一(よしだ せいいち、1908年明治41年〉11月12日 - 1984年昭和59年〉6月9日)は、日本国文学者近代文学専攻

人物
1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。『自然主義の研究』『現代文学論体系』で1956年(昭和31年)芸術選奨文部大臣賞受賞、1959年(昭和34年)にはやはり『自然主義の研究』で日本芸術院賞受賞[1]1979年(昭和54年)勲二等瑞宝章、また1983年(昭和58年)近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となる。


文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立したが、芥川龍之介永井荷風谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東大教授だった時期が短く、名誉教授ではない。著作集25巻があるが、多作な学者を軽視する日本的伝統もあり、その研究の価値が十全に認められているとは言えない。

年譜
1908年明治41年) - 東京市本所区横網町に生まれる

1926年大正15年) - 府立三中卒業

1929年昭和 4年) - 第一高等学校文科丙類卒業

1932年(昭和 7年) - 東京帝国大学国文科卒業

1934年(昭和 9年) - 二松學舍専門学校教授

1940年(昭和15年) - 拓殖大学教授

1948年(昭和23年) - 日本近代文学会本間久雄らと創立、理事となる

1950年(昭和25年) - 中央大学教授

1953年(昭和28年) - 東京教育大学文学部教授

1955年(昭和30年) - 『現代文学論大系』全8巻の編纂で毎日出版文化賞を受賞

1956年(昭和31年) - 芸術選奨文部大臣賞、国語審議会委員

1959年(昭和34年) - 日本芸術院賞を受賞

1960年(昭和35年) - 東京大学より文学博士号を授与される

1964年(昭和39年) - ミシガン大学客員教授

1967年(昭和42年) - 東京大学文学部教授、東京教育大教授兼任

1969年(昭和44年) - 定年で東大退官、埼玉大学教養学部教授

1971年(昭和46年) - 埼玉大学教養学部長

1974年(昭和49年) - 大妻女子大学教授

1976年(昭和51年) - 同文学部長

1979年(昭和54年) - 勲二等瑞宝章

1983年(昭和58年) - 日本学士院会員

1984年(昭和59年) - 大妻女子大学名誉教授

・1984年(昭和59年) - 逝去、正四位    

著書

単著
・『春の口笛 歌集』 明星発行所, 1927

・『近代日本浪漫主義研究』 東京武蔵野書院, 1940

・『明治大正文学史』 東京修文館, 1941、角川文庫, 1960

・『芥川龍之介』 三省堂, 1942、新潮文庫, 1971

・『古典と教養』 郁文社, 1943

・『日本文芸学論攷』 目黒書店, 1945

・『永井荷風』 八雲書店, 1947

・『新日本文学史序説』 巌松堂書店, 1947

・『近代詩鑑賞 明治篇』 天明社, 1948、のち「日本近代詩鑑賞 明治編」新潮文庫、創拓社, 1990

・『日本近代詩鑑賞 昭和篇』 天明社, 1948、のち新潮文庫、創拓社, 1990

・『日本近代詩鑑賞 大正編』 天明社, 1949、のち新潮文庫、創拓社, 1990

・『日本抒情詩の鑑賞』 宝文館, 1949

・『現代文の研究』 旺文社, 1950

・『国文の研究』 旺文社, 1950

・『日本文学新史』 不昧堂書店, 1951

・『近代日本文学入門』 要書房, 1952

・『日本近代詩入門』 要書房, 1953

・『藤村名詩鑑賞』 河出書房・河出新書, 1954

・『自然主義の研究 上・下』 東京堂, 1955-1958

・『随筆入門』 河出書房新社, 1961、のち新潮文庫

・『現代文学と古典』 至文堂, 1961

・『鑑賞と批評』 至文堂, 1962

・『源氏物語の旅』 人物往来社, 1964

・『古典文学入門』 新潮社新潮選書, 1968

・『源氏物語の世界』 秋田書店, 1969

・『浪漫主義の研究』 東京堂出版, 1970

・『近代文芸評論史 明治篇』 至文堂, 1975

・『吉田精一著作集』 全25巻・別巻2、桜楓社, 1979-1981

・『近代文芸評論史 大正篇』 至文堂, 1980

・『文学入門』旺文社文庫, 1981

共著
・『現代文の研究』 旺文社(塩田良平と共著)

・『現代国語の研究』 旺文社(塩田良平と共著。「現代文の研究」の改題改訂版1968年に再度改訂を行っている)

・『新研究現代国語』 旺文社(森島久雄と共著。「研究現代国語」の森島氏による全面改訂版。)

・『現代文研究』績文堂(関良一と共著,昭和33年11月5日初版)

脚注
1. 『朝日新聞』1959年2月26日(東京本社発行)朝刊、1頁。
(wikiより)


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