本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2019/12

山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方武将尼子氏家臣通称鹿介(しかのすけ)[注釈 1]。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎[注釈 3](じんじろう)。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。


尼子十勇士
の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦[注釈 4]を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。

生涯
出自・若き日
幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。


山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが[注釈 5]、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。


山中家は尼子氏の家老[注釈 6]であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた[5]。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち[6]、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた[7]


16歳のとき、主君・尼子義久伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(因幡国伯耆国。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った[7]

幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが[注釈 7]、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。

尼子氏の滅亡
永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する[9]。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢厳島の戦いで破ると[10]弘治3年(1557年)には大内氏を滅ぼし[11]、防長(周防国長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め[12]中国地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため[13]、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等[注釈 8]もあり勢力が衰えつつあった。


毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え[15]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。


永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる[16]白鹿城へ攻撃を開始する[17]。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。


9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する[16]。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った[18][注釈 9]。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している[20] [注釈 10]


永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関[注釈 11]・弓浜[注釈 12]で戦い、幸盛もこれに参戦する(弓浜合戦[注釈 13]。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた[22]。 以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。


永禄8年4月(1565年5月)[23]、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると[24][注釈 14]、城下で麦薙ぎをおこない[25]月山富田城へ攻撃を開始する。


4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う[24][注釈 15]第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)[注釈 16]で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した[26]。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った[7]


4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ[27]、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した[24]


9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員[注釈 17]を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った[24][注釈 18]


永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なかった[29]


11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため[30]、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る[31]。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し[注釈 19]、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる[33]。義久ら尼子3兄弟[注釈 20]は、一部の従者[注釈 21]と共に円明寺[注釈 22]へ連行され幽閉されることとなった[21]。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた[21][24]。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。

尼子再興運動
幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。

第一次尼子再興運動
尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬温泉で傷を癒した[35]後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏武田信玄)・長尾氏上杉謙信)・北条氏北条氏康)などの軍法をうかがい、越前国朝倉氏の家風を尋ね入り[36]、その後、に上ったとされる[21]


永禄11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久還俗させると[37]、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。


永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると[38]、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する[39]


このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった[注釈 23]山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられる[40]。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領内を攻められ[注釈 24]、支援はままならなかったようである。


6月23日(8月6日)[36]、幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると[42][注釈 25][注釈 26]、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する[44]。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという[43][36]。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると[45]、続いて宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築いて[46]ここを拠点(末次城)とし[47]山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。


7月中旬[48]、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり[37]、また、城内より投降者がでる[49]など尼子方が優勢であった。


しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う[50]。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略[51][注釈 27]し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた[51]


また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛[注釈 28]三刀屋久扶などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると[注釈 29]、出雲国の一円を支配するまでになった[56][37]


さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡国との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略[57]。謀略を用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ[58]日野郡一帯を支配する日野衆を味方につける[59][注釈 30]など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、美作高田城で城番をしていた姉婿の佐伯七郎次郎を謀略により寝返らせるなど[45]、因幡・備後備中美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている[注釈 31][注釈 32][注釈 33]


加えて10月11日(11月19日)、大内輝弘が大内家再興を目指して周防国山口へ攻め込み[64]、築山館跡を占領する事態が発生する[65]。10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する[66]。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると[64]、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する[67]。輝弘は富海で自刃し[68]、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している[37]


永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する[69]。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える[注釈 34]


2月14日(3月20日)[71]、尼子再興軍は、布部で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の末次城へ帰還している[72]。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し[37]、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。

6月、布部の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた[73]。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる[74]など危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する[75]と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。

幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに[76]、一時、清水山要害を攻略して[77]再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を奪い[78]増築する[79]。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込む[80]など、その攻勢を強めている。さらに、隠岐国国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており[81]、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。


元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の水軍部隊・児玉就英を派遣する[82]。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が[83]、12月には満願寺城が落城する[84]など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していった[注釈 35]


そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城[87][注釈 36]。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている[89]


同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ[90]、吉川元春に捕らえられた[91]。捕らえられた幸盛は尾高城へ幽閉されることとなったが、宍戸隆家口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされた。しかし幸盛はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している[91]。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。

詳しいことは、「山中幸盛ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
(wikiより)

0926  山中幸盛像

山中幸盛

0926a

0926b





森 光子(もり みつこ、1920年大正9年)5月9日 - 2012年平成24年)11月10日[3])は、日本女優歌手マルチタレント司会者日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長フジテレビジョン番組審議会名誉顧問[4]国民栄誉賞受賞。栄典従三位勲三等瑞宝章紫綬褒章文化功労者文化勲章東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使[5]


京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。 俳優の嵐寛寿郎従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。

略歴・人物

女優デビュー、ジャズ歌手、結核との闘病
母・艶は祇園の芸妓。父親は紡績会社社長の御曹司で、学生時代に母を見初めるが、家族の反対に遭い結婚がかなわず、森は母の私生児として育てられる[1]。幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時にはNHKラジオ番組にも出演している。母の実家は京都・木屋町二条下ルで割烹旅館『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の阪東妻三郎が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに肺結核で相次いで死去。このため入学した京都府立第一高等女学校(京都一女、現・京都府立鴨沂高等学校)を1学期で中退している。


森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも[6]従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが[7]1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、居づらくなったため映画界から一時身を引く。


1939年(昭和14年)10月、映画法が制定。映画出演が制限され始めたため、1941年(昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の満州慰問団に参加した[8]。戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎らの前座歌手としてミスワカナ・玉松一郎らと中国戦線や南方戦線を巡回する。慰問団では赤木春恵と出会い、以後60年以上に渡り親交を深めることとなる[9]。後年、セレベス島滞在中の体験談を語っている。森は事前に、空襲の際にはホテル防空壕よりも、堅固な近くの刑務所の防空壕に逃げるように説明されていたが、ある日、買物からの帰り際、空襲警報に遭遇、やむなくホテルの防空壕に避難した。しかし、空襲で直撃弾を受けたのは刑務所の防空壕だったため、難を逃れたという[10][出典無効]


この時期、映画『小島の春』(監督:豊田四郎)を観て、この映画の杉村春子の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと述懐している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」とも語り、杉村を生涯の師とした[11]

終戦後は役者活動に留まらず、ジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。1947年(昭和22年)、27歳の時、そこで森を見初めた日系アメリカ人2世の米軍属リチャード・ウエムラからプロポーズを受け婚約する。だが芸能界に未練があった森は決まっていた渡米をキャンセルし、日本に留まった。ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、短い結婚生活は終わった[12][13]。 その後1949年(昭和24年)の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都山科で闘病生活を余儀なくされる(これ以前の1944年戦地慰問先の南京で既に肺浸潤性疾患を患っている)。この頃「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、のちに復帰作となったNHK大阪放送局製作のラジオドラマ『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した赤木らもそう信じていたという[14]


当時すでに結核の特効薬である抗生物質ストレプトマイシンは発見されていたが、非常に高価であり病気のため収入の途絶えた森に治療を受けることは難しいと思われた。しかし療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンの効果を確認するため、「モルモット(実験台の意)」との名目で森に投与したことで一命を取り留める。


その後1951年(昭和26年)に大阪へ戻り、仕事復帰の準備を始めるが、森を待っていたのは芸能界の厳しい現実だった。約3年のブランクに加え、一度は「死んだ」と噂された若手女優に再び手を差し伸べる相手は無く、森は御用聞きのように「仕事無いですか?」と知り合いを渡り歩く日々を送る[14]


そんな森に関心を示したのは当時NHK大阪放送局で芸能番組担当プロデューサーを務めていた富久進次郎だった[注釈 1]。富久は1952年(昭和27年)新春から立ち上げる予定だったラジオコメディー番組に森の起用を決める。これが前述の『エンタツちょびひげ漫遊記』である。横山エンタツの相手役として、翌年の続編『エンタツの名探偵』にも出演し、その後は開局間もない民放ラジオ番組にも起用され始める。この間、ラジオドラマへの出演が決まったばかりの頃は収入が不安定で知人の裏千家千宗室(14代淡々斎)夫人・千嘉代子[注釈 2]の秘書として雇ってもらい、生計を立てていたという。


1955年(昭和30年)、ラジオ出演に関して朝日放送と専属契約[15]。大卒初任給が1万2千円程度というこの時代[16]に「契約金60〜65万円、番組へのレギュラー出演を局側が保証する」との高条件の下、ミヤコ蝶々南都雄二夢路いとし喜味こいしらと『漫才学校』にレギュラー出演[17]。芸達者な実力者を向こうに回し、関西をホームグラウンドにラジオタレントとしての確固たる人気を獲得、『ロート東西お笑い他流試合』での大阪方の司会役などバラエティー番組のみならず、ラジオドラマでも活躍する。

放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へ
ラジオへの出演と共に黎明期のテレビ在阪局(NHK大阪、大阪テレビ放送)製作のドラマにも出演するようになる。ABC専属の森は、系列の大阪テレビ放送(のち、朝日放送と合併)において1956年(昭和31年)、在阪局制作のコメディー番組としては初の全国ネットとなった中田ダイマル・ラケット主演のコメディ『ダイラケのびっくり捕物帖』(放送期間中の会社合併に従い大阪テレビ→朝日放送)で藤田まこと演じる与力・来島仙之助の“めっぽう腕の立つ妹”・妙を演じ、関東にもその顔と名を知られるようになった[18]。なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど色黒だったが、尋常性白斑のため年齢を重ねるにつれ白くなっていった。


1958年(昭和33年)、梅田コマ劇場でダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、防空壕から洗濯物を持って出るシーンの台本に台詞が無く「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、アドリブでこの当時のヒット曲『船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を1フレーズずつ繋げたものを歌ったところ客うけがよく、この時、偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた東宝菊田一夫に「芸術座で芝居をやらないか[18]」と上京を誘われる。大阪で絶大な人気を誇り、実力を認められた森であったが、かねてから、東京からのスターとの共演では香盤が4番手程度になることに不満を持っていた[18](脇役専門の女優として甘んじていたこの頃のエピソードとして、三木のり平と共演したある舞台の楽屋でのこと、「名前を書かずに、自分の胸の内を川柳にして詠みあおう」と仲間内で遊んでいた際、「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」と詠んだ話がつとに有名である)。そこで、東宝と専属契約を結び上京を決意[19][20][出典無効]し、この年の芸術座公演『花のれん』(原作:山崎豊子、脚色:菊田一夫、主演:三益愛子)で東京進出を果たし[18]、その後も『がめつい奴』などに出演する。当時ABCとの契約も残っていたため、『びっくり捕物帖』の出演分は、VTRで撮りだめして対応した[18]


1959年(昭和34年)、大阪から東京に拠点を移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後にラジオ東京に移籍したプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚。岡本が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。


1961年
(昭和36年)、前年の舞台『がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け[21] 、菊田はこれを発展させる形で『放浪記』の脚本を執筆。森は主役の芙美子役に抜擢される。この年の芸術座10月公演で初演にして8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)[22] を受賞。以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となる[1][23]と共に、それまで脇役だった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。また劇中、森扮する芙美子が自分の小説の新聞広告を見つけ、喜びのあまりでんぐり返りをする場面は、名物[1][24]と言われるまでになった。また、森は、林芙美子役について「舞台で死んでもこの役を渡したくない」と、並々ならぬ思い入れを語っていた[25]


1963年(昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という退職金失業保険もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」と、当時のインタビューで答えている。そんな妻に対して、夫・岡本は「君は仕事に殺される、仕事を半分に減らせ」、「夫の忠告がなぜ聞けないのか!」と、森を思うが故、反発するが、その亀裂はもはや修復不可能となっていた。結局、森は仕事を選び、この年2人は離婚。この結論に至った事については「私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ」と語っている[26]。結局、森はこの時の決意を全うし、この離婚以後、生涯独身を貫いた。ただ、一方ではその後、作家の水上勉五味康祐との恋愛関係[27]や、作曲家の渡辺岳夫との長期にわたる不倫関係を取り沙汰されたこともある[28]


1965年
(昭和40年)、当時人気のテレビ時代劇で、偶然、家で見ていたNET(現・テレビ朝日)系『新選組血風録』(制作:東映京都テレビプロダクション)に興味を示し、いきなり東映京都撮影所に電話を入れ、自ら出演を打診、最終回(1966年1月2日放送分、第26話「燃える生命」)に、急遽設定された架空の人物、山南敬助(演:早川研吉)の恋人・光枝役として特別出演している。


同年、乳腺腫瘍の摘出手術、1967年(昭和42年)には急性肝炎のため1か月の入院[注釈 3]を余儀なくされ、この時期は健康上の不安に見舞われている[27]


1966年(昭和41年)、東宝でマネージャーを務めていた吉田名保美が独立し「吉田名保美事務所」を設立[29]。森も東宝から同事務所に移籍(ただし、これ以降も提携関係を継続)。


東芝日曜劇場・天国の父ちゃんこんにちは』(TBS、1966年 - 1974年)、『時間ですよ』(TBS、1970年 - 1973年、以後シリーズ化)、『土曜グランド劇場おふくろの味』(日本テレビ、1970年)、『銀座わが町』(NHK、1973)、『かくれんぼ』(日本テレビ、1981年)等数多くのテレビドラマにも出演。山岡久乃京塚昌子とともに日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものとし、「日本のお母さん」の異名を取っている[25][30]。特に、時間ですよシリーズでは下町の銭湯のおかみさん役が当たり役として話題になった[23]。確立したイメージはCMでも活かされ、特に1968年(昭和43年)から起用された「タケヤ味噌」のCMでは、途中に空白期間はあるものの2008年(平成20年)まで約40年にわたりCMキャラクターを務めている。


1974年(昭和49年)から1988年(昭和63年)までの14年間にわたり、フジテレビワイドショー番組『3時のあなた』で月曜日・火曜日のメイン司会を担当し、この間、石原裕次郎の追悼特集(1987年7月20日放送)や田中角栄との対談(1984年9月3日放送)[20][出典無効]などの大役をこなし、女性司会者としての地位も確立、同番組での歴代最長司会者でもある[注釈 4]。また、この番組では森を姉と慕っていた美空ひばりが第1回と最終回にゲストで出演した[20][出典無効]。司会者としての実力は『NHK紅白歌合戦』の紅組司会者としても発揮されており、第13回1962年(昭和37年)〉、第29回1978年(昭和53年)〉、第35回1984年(昭和59年)〉の3回、起用されている。また『輝く!日本レコード大賞』でも、1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで司会を務めている。


1975年(昭和50年)11月から翌年5月、TBS系で放送された『花吹雪はしご一家』で母子役として共演した西城秀樹からは「東京のお母さん」と呼ばれ公私にわたり親交を深めた。プライベートで年上の有名女優と交際していた西城の恋愛についてアドバイスしたり、コンサートにも数多くゲスト出演している。


1977年
(昭和52年)、「吉田名保美事務所」から独立し、個人事務所「オフィス・モリ」を開設する[32]

大阪での喜劇女優としての経験を生かしてザ・ドリフターズとの『ドリフと女優の爆笑劇場』(1977年〜1989年、テレビ朝日系)や加藤茶志村けんとの『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』(1987年〜1994年、フジテレビ系)といったスペシャル枠コント番組にも長年出演するなど、その芸域の広さと柔軟性も見せている。


好奇心旺盛にして有り余るほどの行動力を発揮し、興味を持った歌手やアーティストの公演には足繁く通い、その姿勢は自らも「若さの秘訣のひとつ」と語っていた。中でもジャニーズ事務所所属タレントらや、クレイジーケンバンドとの交流は有名だった。ジャニーズ所属タレントの中では少年隊東山紀之の歌と踊りを高く評価。公私にわたり親交を深め「森の右手を握れる男性は東山だけ」ともいわれ、実際に交際の噂を立てられる程で[33]舞台では5作品(6公演)、テレビドラマでも共演作がある[注釈 5]。また、2011年11月5日、東山と前年10月に結婚した木村佳乃との間に、第1子となる女児が誕生した際には祝福のコメントを寄せている[35][注釈 6]。80歳にして「絶叫コースターに挑戦したい」と希望し、テレビ番組の企画でTOKIO長瀬智也と実際にコースターに乗ったこともある。


ジャニーズ事務所
の創立者であるジャニー喜多川との親交は古く、喜多川の父親が大阪の道頓堀劇場で森の舞台をよく見に行って「森光子は踊りがうまい」と褒めていたことを覚えており、のちにジャニーズ事務所開設とともに交流を深めることとなった[33]


大橋巨泉
(以下、巨泉と記述)司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。特に『クイズダービー』では、森の「ドッキリ発言」のエピソードが知られている(第684回、1989年4月8日放送分)。森は出場者側(ギャンブラー席・赤チーム)として登場の際、CM明けの6問目に初代2枠レギュラー解答者・五月みどりの曲『恋する蝶ちょ』の歌詞当て問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人[注釈 7]は全員不正解)と巨泉が発表した直後の事である。出場者の森は突然「私は、もしかしたらあの…『ホテルにとまれ』かと思った」と真顔でコメント。この森の発言に全解答者のみならず、出場者側で出演したタレント達も大爆笑、巨泉も流石に「それは過激すぎますよ!」と苦笑する始末だった。また、『世界まるごとHOWマッチ』においては、森自身が「レギュラー解答者に成りたい」という程でもあり、当番組の最終回スペシャルにも出演していた。その後、森は巨泉が番組スーパーバイザーも兼任したTBSの大型バラエティ番組『ギミア・ぶれいく[注釈 8]のレギュラー陣の1人としても起用されている。

詳しいことは、「森 光子ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%85%89%E5%AD%90
(wikiより)

0362 森光子

森 光子

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⇧ 見覚えのあるお名前がいっぱいです。

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米船オネイダ号沈没事故慰霊碑。

『1870年 1月 24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。


船はこの地点から真東に 4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後 15分の間に沈んだ。


この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む 115人の乗組員の命の損失であった。


そのうち回収された遺体はわずか 3体だけであった。


ちなみに、沈没時に積んでいたのは 40万ドル相当の大判小判だとか。


また横須賀米軍基地に、「米国船オネイダ号 国際平和記念碑」が有ります ( 横須賀米海軍基地の開放日に見る事ができます )。

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1st World War Memorial : Memorial for soldiers from Yokohama died overseas.


横浜から第 1次世界大戦へ出征し死亡した外国人達の慰霊碑。

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横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は神奈川県横浜市中区山手にある外国人墓地。また、それを管理する財団法人。なお、横浜市には他に3か所外国人墓地が存在する。

概要
19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている。1854年嘉永7年)に、2度目の来航により横浜港に寄港していたアメリカ海軍水兵ロバート・ウィリアムズ(24歳)がフリゲートミシシッピ」のマスト上から誤って転落死し、艦隊を指揮していたマシュー・ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求したため、の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことに由来する[1]。その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年文久元年)に外国人専用の墓地が定められた。


基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日日曜日祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。キリスト教形式の墓石が多いため意外に思われることが多いが、元々は、現在の元町にあった真言宗準別格本山増徳院の境内墓地であった。平成の初期まで、当地では増徳院による供養も行われていた。

横浜市内の他の外国人墓地
根岸外国人墓地(中区仲尾台)。1861年文久元年)山手の横浜外国人墓地が手狭になったため設けられた横浜市営墓地。観光スポットにもなっている山手に比べ、市民の間でも知名度は低い。第二次世界大戦後米軍に接収され、アメリカ軍兵士と日本人女性との間にできたものの、遺棄された嬰児が多く埋葬されている。


余りの荒廃ぶりに、市議会でも取り上げられ、その後横浜市立仲尾台中学校と横浜市立立野小学校の生徒・児童らにより整備され、管理人も置かれた。


中華義荘(中区大芝台)。1871年明治4年)山手の横浜外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑が移されたものである。南京墓地とも呼ばれる。


英連邦戦死者墓地保土ケ谷区狩場町)。第二次世界大戦後に設けられ、1955年に締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」[2]によって確認がなされている。管理はコモンウェルス戦争墓地委員会が行っている。イギリス王室関係者やイギリス連邦加盟国の要人などが来日すると墓地を訪問することがある[3]


毎年4月25日ANZACの日には、追悼式典が行われている[4]

主な埋葬者
フランソワ・ペルゴエドワード・コーンズメアリー・キダーウィリアム・ヘーグ (外交官)ルイーズ・ピアソンアルバート・アーノルド・ベネットネイサン・ブラウンチャールズ・ウォルフ (宣教師)ランスフォード・スティーヴンズ・ミラージェームス・ハミルトン・バラ快楽亭ブラック (初代)ウィリアム・コープランドハインリッヒ・アーレンス(ドイツ貿易商アーレンス商会創業者)など。

脚注
1. 横浜外国人墓地の成り立ち”. 公益財団法人横浜外国人墓地. 2015年8月3日閲覧。
2. 日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定 外務省
3. 英戦死者墓地で献花=母の写真に見入る-ウィリアム王子”. 時事通信 (2015年2月27日). 2015年2月27日閲覧。
4. アンザックデー追悼式典 英連邦戦死者墓地で開催 在日ニュージーランド大使館

関連項目
外人墓地

エリザ・シドモア

参考資料
横浜開港資料館

外部リンク
公益財団法人横浜外国人墓地
(wikiより)

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春光院殿乏斎宗栄居士


( 柳生俊睦 天保九年戌戌六月四日 ) 六十歳
(案内板より)


〇 柳生俊睦

柳生 俊睦(やぎゅう としちか、安永8年(1779年) - 天保9年6月4日1838年7月24日))は、大和国柳生藩の世嗣。8代藩主柳生俊則の三男。正室は松平忠済の娘。通称は内膳。生年は安永5年(1776年)とも。


兄・俊永の早世により柳生藩嫡子となる。

寛政5年(1793年)に徳川家斉に拝謁するが、文化2年(1805年)に廃嫡された。

代わって、大和国郡山藩から俊豊が養子に迎えられ嫡子となった。

墓所は、奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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戒名 : 春紅宗桂禅定門


( 柳生巌勝 元和二年四月五日 ) 六十五歳
(案内板より)
  
〇 柳生 巌勝 ( やぎゅう - よしかつ )( 柳生 新次郎 )  
  柳生宗厳 ( 石舟斎 ) の嫡男。柳生新次郎厳勝


松永久秀の筒井順慶攻めで初陣し、鉄砲で腰を撃たれ足を引きずるようになる。


その後回復したが、筒井攻めで股に深傷を負い、下半身不随となった。


柳生に寺子屋を建て私塾を開いた。

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大興院殿一渓卜雲居士


( 柳生家巌 天正十三年十一月廿一日 ) 八十九歳
(案内板より)

〇 柳生家
柳生 家厳(やぎゅう いえよし、明応6年(1497年) - 天正13年(1585年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大和国柳生荘の主、大和柳生城主とも伝わる。柳生宗厳の父。柳生重永の子。


柳生氏
は大和国の土豪。多くの剣豪を輩出し、菅原氏一門(播磨国赤松氏と同族ともされる)と自称した。柳生氏の事項が明らかになるのは南北朝時代で、柳生永珍(ながよし)が元弘の変の時に笠置山に篭った後醍醐天皇を助けた(笠置山の戦い)ため、鎌倉幕府から所領を没収。幕府滅亡後、実弟で笠置寺衆徒の中坊源専が恩賞として柳生荘を返還された。以後、柳生の国人として根を下ろす。


応仁の乱により室町幕府が衰退すると、天文5年(1536年)、畠山氏重臣の木沢長政信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出す。家厳は長政に従い、筒井氏二木氏らと戦った。しかし、木沢長政は管領細川晴元三好長慶と対立し、天文11年(1542年)に河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生氏の居城である子柳生城も攻められた。家厳は筒井氏に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和に三好長慶の重臣松永久秀が進出すると松永久秀に寝返り、大和攻略戦で活躍する。


その後、三好長慶が死去すると松永久秀と対立した三好一族や筒井順昭らが衝突し、合戦となる(東大寺大仏殿の戦い)。家厳は久秀方に付き、東大寺大仏殿もこの時焼け落ちた。松永久秀が織田信長に従属し大和に攻めこんだときにも久秀に属して筒井順慶を攻めた。後に筒井氏も信長に降り、大和の戦乱は収まった。家厳はこの直後、家督を宗厳に譲り、隠遁した。


ちなみに、子の柳生宗厳は家厳が31歳を数えたときの子と伝わっている。この時、家厳はすでに壮齢の年代であったが、この時期の動静は不明である。
(wikiより)

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芳徳院殿故但州刺史荘雲巌居士


( 柳生宗巌 慶長十一年丙牛四月十九日 ) 七十八歳 ~ 八十歳
(案内板より)


〇 柳生宗巌
柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし、宗嚴)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将新陰流兵法家柳生家厳の子。百官名但馬守は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎した。子に柳生厳勝柳生利厳の父)、柳生宗矩柳生宗章ほか。

概略
はじめ筒井順慶に、後に松永久秀に仕え戦功を重ねるも、松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で若年時から武芸を好み、上泉信綱から新陰流の印可を授けられて諸大名に剣術を伝授するなど剣豪として名声を得た。中でも徳川家康の師範となり、息子宗矩を徳川家に推挙したことは柳生家ならびに柳生家が伝える新陰流が大きく飛躍する切欠となった。そのため、宗厳自身は自身の流派名として生涯「新陰流」を名乗ったが、いわゆる柳生流(柳生新陰流)の流祖に位置づけられることもある

生涯

出生から筒井氏臣従
代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算して享禄2年(1529年)を生年とする説もある[2]


若年時から剣術を好んで諸流を学んだと伝えられ、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』では戸田一刀斎富田流を学んで奥義「獅子の洞入」[注釈 1]を修めたとあり、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある[3]


宗厳が生まれた当時の大和は争乱が続いており、柳生家は木沢長政に味方して筒井氏や二木氏らと戦った。しかし長政が河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭によって長政の残党は次々と攻略されていき、天文13年(1544年)宗厳17歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城も順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。


その後、父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図ったと見られ、年次不詳ながら筒井氏から所領を安堵されている[4]。宗厳もまた父と共に筒井氏の家臣として戦って戦功を挙げ、吐山(奈良市)で行われた合戦では「比類無き働きを果たして負傷した」として順慶から得た感状が残る[5]

三好政権下
永禄2年(1559年)宗厳32歳の時、畿内を支配する三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻し、宗厳の主家・筒井氏の本拠筒井城を攻めて当主・筒井順慶を敗走させ、大和を支配下におく。 柳生家は久秀侵攻直前の永禄2年7月には筒井氏より引き留め工作として、白土(奈良県郡山市)を与えられているが[6]、久秀侵攻を機に筒井氏に離反して松永氏に与した。


永禄
5年(1563年)には久秀の仕える三好氏は当主・長慶の弟三好実休の戦死を機に、一時苦境に陥っているが、その間久秀からは宗厳が離反しないよう、軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている[7]

柳生家にはこの他にも、久秀が宗厳以外の家臣や三好家の重臣に宛てた書状が残っており、当時の宗厳は久秀の側近となり、久秀の書状を三好家中枢へ伝える取次を務めていたと見られる。永禄6年(1564年)に長慶の嫡男・ 三好義興が病床に臥した際には、三好家次期当主の危篤という機密情報の取次も任され、書面にも記されていない主君の考えも伝えるなど、この時期には久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われている[8]


永禄6年(1563年)正月二十七日、多武峰の戦いに参戦する。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は味方が敗走する中「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして、久秀から「後口比類無き御働き、いよいよ戦功をぬきんでらるべき事」として感状を与えられている[9]。 このとき宗厳は、敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、後に源次郎の長子(同源次郎)に新陰流の印可状を与えた際には、父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。[10]


その年の6月、久秀からの直状で、かつて筒井氏より得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ[11]、久秀との主従関係を強化されている。

新陰流入門
永禄6年(1563年)宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が上洛の途上で奈良に立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。


入門の経緯について、宗厳の曾孫・柳生利方は『新陰流兵法由来』に残しており、当初宗厳は信綱との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したとある[12]。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では宗厳の立合いの相手を同じく信綱の弟子の疋田豊五郎としており、また利方の子孫である柳生厳長は『正伝新陰流』で、門弟ではなく信綱直々に宗厳の相手を務めたとしている[13]


いずれにしろ信綱が編み出した新陰流に完敗した宗厳は、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。


翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して[注釈 2]信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという[14]

三好氏内乱
永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。三人衆は当主・義継を擁立し、宗厳の元主家である筒井順慶をはじめとする大和の国人の多くが三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった[15]


その後も久秀と三人衆の戦いは久秀の劣勢で推移するが、永禄10年(1567年)2月、三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことで久秀はかろうじて復活を遂げる[16]


膠着する戦況を打開するため、久秀が当時急速に台頭してきた織田信長の上洛を画策すると、宗厳もこれに協力し、同年の8月21日には信長からの書状で、自身の通路安全のために奔走するように指示を受け[17]、続く28日には信長の重臣佐久間信盛から、信長の上洛が延引していることについて弁明を受けとっている。


この頃の宗厳は松永氏の弱体化によって、与力として半ば独立する状態となっていたと見られ[18]、信長から直接書状を受け取っているほか、久秀の嫡男・松永久通を取次として久秀の主君である三好義継から直接感状[19]を受けている[20]


同年12月、信長より書状を受け「自分(信長)は間もなく 足利義昭に従い上洛する。自分は必ず久秀親子を見放さないので、久秀親子と連携するように」と命じられる[21]。この書状は同じ内容のものが興福寺在陣衆、岡因播守、多田四郎、瓶原七人衆中、椿井一郎にも送られており、このうち興福寺在陣衆宛ては柳生家に保管されている。このことから、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いていたと見られる[22]

信長上洛から久秀滅亡
信長が上洛を果たし、松永久秀が信長より送られた援軍と協力して大和の平定を進めると、宗厳も嫡男・柳生厳勝と共に織田家の宿将・柴田勝家に見え、大和の国人・十市氏と協力するよう命じられるなど[23]織田家と連携して活動している。


元亀二年(1572年)8月4日、松永久秀の指揮の下、かつての主君・筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多聞院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした[24]。同時代の日記である『多聞院日記』によると、宗厳の息子(「柳生息」)もまたこの戦いで重傷を負ったといい、宗厳の子孫・柳生厳長はこの息子を宗厳の嫡男・厳勝のこととして、これ以降厳勝は生涯柳生庄に引きこもっていたとする[25]


同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久通の命を受けて東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった[26]


元亀2年(1573年)4月、主君・松永久秀と三好義継は織田信長との対決姿勢を示すと、信長は筒井順慶と結んで久秀と対決した。信長に反抗する勢力には足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となり元亀3年に義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。


この間の宗厳の動向は明らかではないものの、天正2年頃には 本願寺の下妻頼興から、当時信長に攻められて籠城していた伊勢の長島(長島一向一揆)と大阪の本願寺との取次ぎを依頼されており[27]、松永久秀の配下にあって、信長と対立する本願寺と通じていた形跡もある[28]


天正5年(1577年)宗厳50歳の時、久秀は信貴山城に立て籠もって再び信長との対決姿勢を示すが、同年10月に織田軍の攻撃を受けて天守に火をかけ自害した。

詳しいことは、「柳生宗巌ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%8E%B3
(wikiより)


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( 柳生宗春 貞享三年丙寅九月廿二日 ) 二十九歳
(案内板より)


● 柳生宗春
柳生 宗春(やぎゅう むねはる、慶安2年(1649年) - 延宝3年2月4日1675年2月28日))は、大和国柳生藩の世嗣。

3代藩主柳生宗冬の長男。母は京極高通の娘。正室は九鬼久隆の娘。子に柳生俊方(長男)、九鬼副隆(次男)。通称は大膳。


柳生藩嫡子として育てられ、明暦2年(1656年徳川家綱に拝謁する。

延宝3年(1675年)、家督相続前に早世した。代わって、弟の宗在が嫡子となった。

墓所は、奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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透関院殿機伝宗用禅定門


( 柳生友矩 寛永十六年乙卯六月六日 ) 二十七歳
(案内板より)


〇 柳生友矩
柳生 友矩(やぎゅう とものり)は、江戸時代前期の将軍の近臣、旗本通称は左門あるいは刑部。父は徳川将軍家の兵法指南を務めて柳生藩を立藩した柳生宗矩。異母兄に剣豪として知られる柳生三厳(十兵衛)、同歳の異母弟に柳生宗冬列堂義仙がいる。生母は側室であり、友矩は庶子であった。徳川家光の勘気をこうむって致仕した兄・三厳に代わって家光に仕え、常に剣術の相手を務めるなど[注釈 1]大いに寵愛されたが早世した。

略歴
慶長18年(1613年)に柳生庄(現在の奈良市柳生町)で誕生した。寛永4年(1627年)に初めて家光に謁見し、その小姓となる[注釈 2]。寛永11年(1634年)の家光の上洛に供奉し、同年7月に徒士頭となる。8月には父・宗矩に並ぶ従五位下刑部小輔に叙任し、11月には山城国相楽郡の2000石の領地を授かるなど厚遇を受ける。その後、病にかかって職を辞し、父・宗矩の封地・柳生庄で静養するが、寛永16年(1639年)に27歳で死去した(『寛政重修諸家譜』では38歳とされる)。


墓所は、奈良市柳生町の芳徳寺にある。また、異母弟の宗冬は菩提を弔うために、友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立している(『玉栄拾遺』)。

人物
柳生家の家譜である『玉栄拾遺』では、当時の人々から将来必ず股肱の臣となると言われたとある[注釈 3]他、「性質無双文才に富み、又新陰の術に長したまふ」と評している。家光の寵遇厚く、13万石(あるいは4万石とも)を与える旨の御墨付きを受けたという記述もあるが[注釈 4]、事実を疑う意見もある。


早世した事もあって父や兄弟たちと違い、武術書の類は残していないが、異母弟・宗冬の著述の中には、兵法について友矩と交わした対話を記したものがあり、友矩の兵法観の一端を知ることができる。

フィクションでの扱い
友矩は27歳で夭折したとされる。また徳川家光がその死を聞きつけ、父・宗矩に対して激昂したともされる。しかし、この種の逸話についての真偽は不明であり、人物像もその死の状況もまたはっきりしない。歴史学など学術的視点からは、そもそも事跡の研究対象として扱われることがあまりない人物である。そうしたことから、各種フィクションのキャラクターとしての友矩(左門)は「謎の頓死を遂げる柳生の御曹司・悲劇の美男」として物語の必要に応じた自在なアレンジを加えやすい人物で、その最期も多くの作家が様々に描いている。ただし一方では、最初から存在すらしなかったことにしている作品もある。


家光の寵愛や友矩の死を受けての激昂の理由としては、家光と友矩の間に衆道の関係があったと設定する作品が少なくない。さらには友矩の死後の時代が描かれる場合には、家光が友矩の死に対する怨恨を柳生家に向け、宗矩の死に際して遺領を三厳と宗冬で分割するように命じ、柳生家を大名の地位から追い落としたという設定がされることもある。


山岡荘八の小説『柳生宗矩』では、家光の寵愛が重すぎると判断した宗矩にその美貌を破壊され、柳生に隠棲する。その後、宗矩の使わした者に斬られ、絶望ゆえの自殺のような状況で死を迎える。


五味康祐の短編小説『堀主水と宗矩』では、堀主水一党を尾行中に真鍋小兵衛によって斬られる。


隆慶一郎の短編小説集『柳生非情剣』所収の『柳枝の剣』では、家光の寵愛が重たすぎることに激昂した宗矩によって、兄・十兵衛を刺客に放たれる。この兄弟対決で友矩は覚悟を決め、堂々と立ち会う。この作品は第101回直木賞候補になっている。のちに本作は『柳生非情剣 SAMON』として漫画化された。


荒山徹の小説『柳生大戦争』では、家光の寵愛が重すぎると判断した宗矩と立ち会いこれを撃破、朝鮮に渡り大陰謀を企てることとなる。


深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』では烏丸少将に斬殺される。同じく深作監督の映画『魔界転生』では、転生した宮本武蔵に撲殺される。


工藤かずや武本サブローの劇画『荒鬼』では、家光の命により密かに大太刀を修業し、柳生の大太刀を賭けた御前試合で柳生兵庫介に勝利するが、直前まで何も知らされず面目を潰される格好になった宗矩の苦渋の依頼で荒木又右衛門に討たれる。


加藤廣の小説『秘録島原の乱』では、島原の乱に加わり、その後琉球に落ち延びることとなる。


映像作品における友矩(左門)役は、過去に平田昭彦田村亮目黒祐樹などが演じており、主に20代後半から30歳前後までの、アクションシーンないし殺陣ができて若手期待株と目される俳優が配される役どころである。

脚注

注釈
1. 「これより先常に剣術の御相手をつとむ」という記述がある[1]
2. 前年の寛永3年(1626年)には、先に家光に仕えていた兄の三厳が、家光の勘気に触れて出仕停止に処せられている。
3. 「時人称曰、後必股肱臣為」[2]
4. 「十三万石の御内印あり。或云、四万石」[2]

出典
1. 寛政重修諸家譜
2. a b 『玉栄拾遺』
(wikiより)


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西江院殿前但州大守贈従四位大通宗活居士


( 柳生宗矩 初代正保三年丙戌三月廿六日 ) 七十六歳
(案内板より)


〇 柳生宗矩
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将大名剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。

生涯

誕生から徳川家仕官
元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる[1]。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。


若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉小田原征伐陣借りをしていたとする話が伝わっている[注釈 1]文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に[3]、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる[4][3]

柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り[5]、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった[6][7][1]


慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め[8]、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという[注釈 2]。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。

坂崎事件
大坂の陣の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し[注釈 3]、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡われもこうに雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠にがいがさを加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。

家光の下での躍進から大名へ
元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3,000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4,000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2,000石の加増もあり、所領は1万2,500石に達した[6][7]。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である[注釈 4]。また、友人の沢庵宗彭[注釈 5]を家光に推挙したのも、この頃のことである[注釈 6]

晩年
晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり[注釈 7]、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。


遺言によって武州端芝で火葬の上、豊島郡下練馬圓満山廣徳寺に葬られた[7][11]。その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。


子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。

評価
・剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人[12]」「刀術者之鳳(おおとり)[13]」「父(石舟斎)にも勝れる上手[14]」「剣術古今独歩[15]」「剣術無双[16]」など様々に賞賛されている。また、新井白石勝海舟なども自著にて賞賛している。


・一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術武道に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟剣道殿堂(別格顕彰)に列せられている。この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書』は、『五輪書』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。


・流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)[注釈 8]を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った[注釈 9]


幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏伊達政宗)、鍋島氏鍋島勝茂鍋島元茂)、細川氏細川忠興細川忠利)、毛利氏毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。


・将軍・家光には若い頃からの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている[17]。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった[注釈 11]


・父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている[18]

詳しいことは、「柳生宗矩ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9
(wikiより)

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大心院殿前備州刺史随転紹幽居士


( 柳生俊峯 七代宝暦十三年癸未八月廿九日 ) 四十七歳
(案内板より)


〇 柳生俊峯
柳生 俊峯(やぎゅう としみね、享保4年(1719年) - 宝暦13年8月29日1763年10月6日))は、大和柳生藩の第7代藩主。


信濃
松代藩主・真田信弘の四男。正室は牧野康重の娘。子に娘(柳生俊則正室)、娘(池田政朗正室)、娘(秋月種穀正室)。官位は従五位下、但馬守、備前守。幼名は亀之丞、采女。


享保18年(1733年)12月22日、先代藩主の柳生俊平の養嗣子となる。

享保19年3月13日、将軍徳川吉宗御目見する。

寛保2年(1742年)11月16日、俊平の隠居により跡を継いだ。

同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。しかし、宝暦元年(1751年)12月12日、江戸藩邸の失火により処罰されている。

宝暦13年(1763年)8月29日に死去し、跡を養嗣子の俊則が継いだ。

法号は随転紹幽大心院。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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翠峰院殿前備州刺史機運招鑑大居士


( 柳生俊方 五代享保十五年庚戌四月四日 ) 五十八歳
(案内板より)


〇 柳生俊方

柳生 俊方(やぎゅう としかた、寛文13年1月3日1673年2月19日) - 享保15年4月4日1730年5月20日))は、大和柳生藩の第5代藩主。


柳生宗春(第4代藩主・柳生宗在の兄)の長男。母は九鬼久隆の娘。正室は亀井茲政の娘。継室は岩城重隆の娘。養子に柳生宗盈柳生矩美柳生俊平。官位は従五位下備前守。


延宝
4年(1676年)2月24日、早世した父・宗春の代わりに家督を継いだ叔父・宗在の養嗣子となった(その後生まれた宗在の実子は、三田藩主となった俊方の実弟・九鬼副隆の養嗣子・九鬼隆久となった)。


元禄
2年(1689年)、宗在の死去により跡を継いだ。

当初の宗弘。享保元年(1716年)9月28日、俊方に改名した。

元禄6年(1693年)1月28日、幕府の奥詰衆に加えられる。

享保15年(1730年)4月4日、58歳で死去した。

墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺


俊方は3度にわたり養嗣子を迎えており、1人目の宗盈は廃嫡、2人目の矩美は早世し、3人目の俊平が跡を継いだ。


正徳2年(1712年)、村田伊十郎に柳生姓を授けた。

伊十郎は柳生久寿と改名、子孫は旗本の家系となった。
(wikiより)

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常林院殿前飛州大守決岩勝公居士


( 柳生宗冬 三代延宝三年乙卯九月廿九日 )
(案内板より)


〇 柳生宗冬
柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の武士新陰流剣豪幼名は主膳、は宗冬。通称は内膳正、俊矩[注 1]


大和国
柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。家督を継承した兄三厳が急死したため、その跡を継ぎ、将軍家兵法指南役に任じられて徳川家綱徳川綱吉らに新陰流を伝授した。これらの功により加増を重ね、父の死後旗本となっていた柳生家を大名に復帰させた。

生涯
少年時
慶長18年[注 2]1613年大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて、領主・柳生宗矩の三男として誕生する。
寛永5年(1628年)、14歳の時に徳川3代将軍・徳川家光の小姓となり、後に書院番に任じられて300石を拝領する。少年時代は病弱のために剣術の稽古を嫌うところがあったが、18歳の時に喜多十太夫申楽能の入神の芸を見て感じ入るものがあり、日夜兵法に精進して父祖の業を継ぐにいたったという[2]。寛永16年(1639年)に行われた家光の兵法上覧の際には、兄・三厳(十兵衛)や父の高弟木村友重(助九郎)と共に抜擢され、家光の御前で兵法を披露した[4]

家督相続
正保3年(1646年)、父・宗矩が死去すると、その遺言によって遺領1万2千500石を兄・三厳との間で分け与えられ[注 3]、宗冬は4千石を相続して柳生家から分家した[5]。この時家督を継いだ三厳の石高が1万石を下回ったために、柳生家は柳生藩立藩以来11年目にして大名から旗本の地位に戻った。また将軍・家光は既に宗矩より新陰流の印可を受けていたこともあり、宗矩の死後改めて師を持つことはなかった。


父の死から4年後の 慶安3年(1650年)に兄・三厳が急死する。三厳には嗣子がいなかったものの、亡き宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けられ、宗冬が4千石を返上して兄の遺領を継ぎ、柳生家当主となるよう取り計られた[注 4]。翌慶安4年(1651年)1月に将軍家光が病に倒れると、諸国の武芸の達人が江戸城に集められ、3カ月間にわたって家光の御前で武芸を披露する上覧会が開かれた。宗冬はこの期間中、2月11日と2月29日に家光に謁見し、3月2日および上覧最終日となった4月14日には、家光や諸大名の前で武芸を披露している[注 5]。その6日後の4月20日に家光は没し、跡を継いで4代将軍に就任した徳川家綱に引き続き仕えた。

将軍家指南役就任
家光の死から5年後の明暦2年(1656年)、宗冬に対し16歳になった将軍家綱へ新陰流を伝授する命が下り、名実ともに父・宗矩の死後空位となっていた将軍家兵法指南役となる[8]。家綱は病弱で生涯病に臥せがちであったが、宗冬の指導の下、剣術を愛好すること甚だしく、熱心に稽古を重ねたという[注 6]。明暦3年(1657年)1月3日、家綱より召されて剣術始めの儀を取り行い[10]、これ以降家綱時代の恒例行事となった[9]。同年12月、従五位下飛騨守に任じられ、寛文元年(1661年)には、後の5代将軍・徳川綱吉からも入門の誓紙を受けて指南するようになる。


寛文4年(1664年)、家綱より正式に新陰流入門の誓紙を受け、翌寛文5年(1665年)、家綱25歳の時に印可を与えた。同年1月3日の稽古始めでは、16歳となった長子・宗春も共に家綱の相手を務め、以後家綱の稽古の際には常に宗春も相伴するようになった[9]寛文9年(1669年)、大和国山辺郡1700石の加増により総石高1万石となり、父の死から23年ぶりに柳生家は大名への復帰を果たした。

最後
延宝3年(1675年)1月、嫡男・宗春が26歳で急死すると、その3カ月後の同年4月、病[注 7]に倒れた。将軍・家綱からは老中久世広之若年寄土井利房らが見舞いに遣わされ[注 8]、治療の限りが尽くされたが、遂に回復することはなかった。同年9月29日、いよいよ病が重くなったことを自ら悟ると、次男・宗在や家臣たちを集めて子細を遺言書に書き残し、その晩多くの門弟や親族に見守られる中、この世を去った。享年61。


遺体は遺言に基づいて火葬され、江戸の広徳寺に埋葬された。また、故郷である柳生庄にも分骨され、末弟・列堂が住持を務める芳徳寺に墓所が建てられた[2]

逸話

史料上の逸話
・三厳の死によりその跡を継いだ際、家光の命により、その遺児である2人の娘も宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本の元に嫁ぐまで育て上げている。[11]


・早世した異母兄・友矩と親交が深く、著書『宗冬兵法聞書』では「兄左門(友矩)云う」として新陰流の様々な術理について友矩の見解を書き留めている。友矩が27歳で[12]死去した後には友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立してその菩提を弔っている[13]


・晩年は池辺を逍遥し、池水に浮沈するボウフラの動きをみて兵術悟道のヒントを得、画師にその絵を描かせ、それにちなんで柳陰とも号した(『玉栄拾遺』)[2]


・宗冬が残した遺書は全11条にわたり、遺族や藩士や流儀の門弟、小者の末にいたるまで生き届いた心遣いを記している。一方で、当時芳徳寺の住持を務めながら寺を留守にしがちであった末弟の列堂に対しては厳しく接しており、寺に押し込めるか、反抗するようなら殺してしまうようにと書き遺している[14]。 


1927年6月16日に広徳寺で行われた区画整理による墓地の改装の際に、小野玄入の作と推測される世界最古(発見当時)の黄楊木製総義歯が発見された[15][16]

真偽不明の逸話
・3代将軍家光の命で父・宗矩と立ち合って一本を取られ、「竹刀がもう少し長ければ勝てたのに」と口にしたため、今度は長い竹刀を持って再度父と立ち合うことになったが、面を撃たれて昏倒した(『明良洪範』)[17]


慶安4年(1651年)に家光が開いた兵法上覧会には、宗冬の従兄利厳の子で、尾張徳川家家臣厳包・利方兄弟も招集されており、4月5日と6日の2日間に渡って剣術を披露し、好評を博した[注 9]。この際、利厳の子孫である尾張柳生家には、「家光の命により厳包と宗冬が木刀をもって立ち合った結果、厳包が宗冬の親指を砕いて勝利を収めた」とする口伝が伝わっており、尾張柳生家第11代当主・柳生厳長が昭和32年(1957年)に著書の中で公に紹介して以来、広く知られている[注 10]。ただし前述の通り、4月14日には宗冬が家光と諸大名の前で兵法を披露しているため、その8日前に親指が砕かれたとするのは現実的ではないという意見もある[18]

詳しいことは、「柳生宗冬ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%86%AC
(wikiより)

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長岩院殿金甫宗剛居士


( 柳生三巌 二代慶安三年庚寅三月廿一日 ) 四十四歳
(案内板より)


〇 柳生三巌
柳生 三厳(やぎゅう みつよし、慶長12年(1607年) - 慶安3年3月21日(1650年4月21日))は、江戸時代前期の武士剣豪旗本[注釈 1]。初名は七郎、は三厳、通称十兵衞(じゅうべえ)。

大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。はじめ徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)についてその発展に努めるが、家督を継いで程なく急死した。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。著書に『月之抄』、『武蔵野』など。

生涯
誕生から蟄居まで

慶長12年(1607年大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる 柳生宗矩 [注釈 2]。母は豊臣秀吉が若年時に仕えていたことで知られる松下之綱の娘・おりん。同母弟に柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。


元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に、何らかの理由で家光の勘気を被って[注釈 3]蟄居を命じられ、小田原に一時お預けの身となる。


蟄居の原因となった家光の勘気自体は、早くて1年後には解けていた形跡もあるものの[注釈 4]再出仕は許されず、その後11年にわたって江戸を離れる[注釈 5]。その間の動向について、三厳自身は著作の中で、故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝、目録について研究し、時に祖父の門人を訪ねるなどして、兵法の研鑽に明け暮れていた、と書き残している。一方でこの間、武者修行などで諸国を遍歴していたとする伝説があり、後に多くの講談や創作物の材料となった(後述)。

再出仕まで
寛永14年(1637年)5月初旬の夏稽古が始まる頃、致仕して以来11年ぶりに江戸に帰還し、柳生の藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受ける。同年秋の終わりごろ、それらの至極をまとめて伝書を著し[注釈 6] 父に提出して講評を仰ぐ。しかし宗矩より全て焼き捨てるよう(「一炬焼却去」)、[注釈 7]命じられたため、驚愕して当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧沢庵宗彭に相談したところ、沢庵から宗矩の真意を説かれた上で、焼却を命じられた伝書に加筆と校正を施される[注釈 8]。沢庵の教示を受けた三厳が「父の以心伝心の秘術、事理一体、本分の慈味を了解し、胸中の疑念が晴れ」[注釈 9]たとして、再度伝書を父に提出すると、宗矩も更なる精進を促すためとしながらもこれを認め、三厳に印可を授けた[注釈 10]


翌寛永15年(1638年)、家光に重用されていた次弟友矩が病により役目を辞すのに前後して、再び家光に出仕することを許され[注釈 11]、江戸城御書院番に任じられた。

再出仕後
寛永16年(1639年)2月14日、家光の御前にて、父の高弟木村友重(助九郎)と弟の宗冬と共に兵法を披露する[8]。寛永19年(1642年)2月から同年3月にかけて、謹慎していた12年間で収集した資料やそれまでに記した草稿を元に、流祖上泉信綱以来の新陰流の術理をまとめ上げ、後に代表作と評される『月之抄』を著す。


正保3年(1646年)に父宗矩が死去すると、遺領は宗矩の遺志に基づき、一旦幕府に返上された上で家光の裁量により兄弟の間で分知され、三厳は8300石を相続して家督を継ぐ[注釈 12]。この時、三厳の石高が1万石を下回ったため、宗矩が柳生藩を立藩してから11年目にして、柳生家は大名から旗本の地位に戻った。宗矩生前の三厳は「強勇絶倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという[1]。その後間もなく役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも言われるが、詳細は不明[10]

最後
慶安3年(1650年)、鷹狩りのため出かけた先の弓淵(現・京都府相楽郡南山城村[11]。早世した弟友矩の旧領)で急死した[注釈 13]。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人たちも尋問を受けたが、死因は明らかにならないまま[注釈 14]、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44[1]。墓所は東京都練馬区桜台広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。


三厳には嗣子がなかったものの、亡き父・宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けられ、弟の宗冬が自身の領地を返上した上で三厳の跡を継ぐことを許された[注釈 15]。三厳の遺児である2人の娘(長女・松、次女・竹)は、家光の命により宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本に嫁いでいる。その母である三厳の妻(大和の豪族・秋篠和泉守の娘)は貞享4年(1687年)まで生き、死後は麻布の天真寺に葬られたという[1]


三厳の跡を継いだ宗冬はその後順調に加増を重ね、寛文9年(1669年)には総石高1万石となって再度大名としての地位を回復させた。そのため、三厳自身は大名に列したことはないものの、便宜上柳生藩第2代藩主とされている。

容姿の特徴
若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」のイメージが広く知られている。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たった(『正傳新陰流』)、あるいは宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物[注釈 16]は両目が描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述はない。

謹慎期間中の動向について
家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。

三厳の著作における記述
・『昔飛衛という者あり』(再出仕する前年の寛永14年の作)


愚夫故ありて東公を退て、素生の国に引籠ぬれは、君の左右をはなれたてまつりて、世を心のまゝに逍遥すへきは、礼儀もかけ天道もいかゝと存すれは、めくるとし十二年は古郷を出す。何の道にか心をいさゝかもなくさめそなれは、家とするみちなれは、明くれ兵法の事を案し、同名の飛衛被官の者とも、是等にうち太刀させ所作をして見るに、身不自由にしておもふまゝならぬ事のみなり[3]


【現代語訳=とある事情で家光公の元を退いて、故郷(柳生庄)に引き籠った。主君の側を離れておいて、世を自由に出歩くのは、礼儀に欠け、天道にも背くと思ったので、12年間は故郷を出なかった。他にするべき事もなかったので、一日中家業の兵法の事を考えて過ごし、同名の飛衛被官の者を相手に組み太刀を試みてみたものの、身は不自由にして思うようにならない事ばかりであった。】

・『月之抄』(再出仕後の寛永19年の作)

先祖の跡をたつね、兵法の道を学といへとも、習之心持やすからす、殊更此比は自得一味ヲあけて、名を付、習とせしかたはら多かりけれは、根本之習をもぬしぬしが得たる方に聞請テ、門弟たりといへとも、二人の覚は二理と成て理さたまらす。さるにより、秀綱公より宗厳公、今宗矩公の目録ヲ取あつめ、ながれをうる其人々にとへは、かれは知り、かれは知不、かれ知たるハ、則これに寄シ、かれ知不ハ又知たる方ニテ是をたつねて書シ、聞つくし見つくし、大形習の心持ならん事ヲよせて書附ハ、詞にハいひものへやせむ、身に得事やすからす。[2]


【現代語訳=先祖の跡をたずね、兵法の道を学んでみたものの満足できず、宗厳公の門弟達を訪ねてみたが、各人が独自に解釈したものを教えと称しており、定まった理を得ることが出来なかった。そこで、上泉秀綱公から宗厳公に与えた目録、宗厳公から宗矩公に与えた目録をとりまとめ、新陰流を学んだ人々を訪ねて、各人が知っていることを、聞きもし、見もし、およその要領を書きつけ、文章にしてみたもののそれらを容易に体得することはできなかった】

柳生十兵衛廻国説

・『玉栄拾遺』の記述(宝暦3年編)


寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の萩をなす。公(三厳)彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず[1]


【現代語訳=寛永年中に父君(宗矩)の領地である武蔵国八幡山において山賊が出没し、旅人に恐れられていた。三厳公は単身密かにこの地に来て、山賊達を懲らしめた。また山城国梅谷の賊を追い払ったのもこの時期の話である。この他に諸国を巡っていたとする話もあるが、これまで証拠を見たことはない】

その他の逸話
・京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にし、12人を切り捨て、追い散らした(『撃剣叢談』)

・奥州から始めて各地の道場を片端から訪れては仕合を申し込みつつ、諸国を巡った(『柳荒美談』)

・家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、宗矩の指示を受けて様々に活動した(柳生村・村史『柳生の里』)[14]。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたという話まである(出典不明)

詳しいことは、「柳生三厳ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E4%B8%89%E5%8E%B3
(wikiより)

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寂光院殿前対州刺史霊峰宗剣居士


( 柳生宗在 四代元禄二年已已四月十二日 ) 三十六歳
(案内板より)


〇 柳生宗在
柳生 宗在(やぎゅう むねあり、承応3年(1654年) - 元禄2年4月13日1689年5月31日))は、大和柳生藩の第4代藩主。


第3代藩主・柳生宗冬の次男。母は京極高通の娘。正室は五条為庸の娘。子に九鬼隆久(長男)。官位は従五位下、対馬守。


延宝3年(1675年)兄の宗春が早世したため、同年閏4月6日に世子となる。

同年9月に父が死去したため、同年11月26日に家督を継いだ。

日光祭礼奉行、剣術指南役、日光山法会の火番などを務めた。

元禄2年(1689年)4月13日、36歳で死去し、跡を養嗣子の俊方(兄・宗春の長男)が継いだ。

法号は寂光院。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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得真院殿前飛州刺史心源妙証居士


( 柳生俊平 六代明和五年戌子二月十八日 ) 八十二歳
(案内板より)


〇 柳生俊平
柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。

伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。


幼名は六弥。通称は靭負。

先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。

同年11月28日、将軍徳川吉宗御目見する。

享保15年(1730年)5月29日、俊方の死去により跡を継ぐ。

同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。

後に飛騨守に改める。

寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。法号は心源妙証得心院。

墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺

関連作品
時代小説作家の麻倉一矢は、俊平を主人公とした『剣客大名 柳生俊平』シリーズを二見時代小説文庫より発表している。
(wikiより)

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寛弘院殿前但州刺史仁□義勇居士 ( □は変換できませんでした。)

( 柳生俊則 八代文化十三年酉子六月四日 ) 八十七歳
(案内板から)

〇柳生俊則
柳生 俊則(やぎゅう としのり、享保15年(1730年) - 文化13年6月5日1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。


蝦夷
松前藩松前邦広の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。


松前で生まれる。

通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。

延享4年(1747年)1月15日、将軍徳川家重御目見する。

宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となる。

同年9月18日、将軍徳川家重に御目見する。

宝暦13年(1763年)10月22日、俊峯の死去により跡を継いだ。

同年12月9日、従五位下・采女正に叙任した。

天明8年(1788年)、将軍徳川家斉の剣術指南役を務めている。

文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。

墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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要信院殿前但州刺史大有宗根大居士


( 柳生俊豊 九代文政三年庚辰九月八日 ) 三十一歳
(案内板より)


〇 柳生俊豊
柳生 俊豊(やぎゅう としとよ、寛政2年(1790年) - 文政3年9月17日1820年10月23日))は、大和柳生藩の第9代藩主。


郡山藩主・柳沢保光の六男。母は大野氏。正室は村松藩主・堀直方の娘・サヨ。子は俊章(長男)、小笠原長守(次男)。官位は従五位下、飛騨守、但馬守。幼名は久次郎。初名は光致。


先代藩主・柳生俊則の三男・俊睦が廃嫡された後に養嗣子となる。

文化4年(1807年)8月5日、俊則の隠居により跡を継いだ。

同年12月16日、従五位下・飛騨守に叙任する。

後に但馬守に改める。

文政3年(1820年)9月17日、31歳で死去し、跡を長男の俊章が継いだ。

墓所は東京都練馬区奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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大源院殿前備州刺史天真招性居士


( 柳生俊能 十一代嘉永三年庚戌八月四日 ) 二十一歳
(案内板より)


〇 柳生俊能
柳生 俊能(やぎゅう としよし、天保元年(1830年) - 嘉永3年9月13日1850年10月18日))は、大和柳生藩の第11代藩主。


遠江
相良藩主・田沼意正の次男で、田沼意次の孫に当たる。

官位は従五位下、飛騨守。幼名は雄七郎。


嘉永2年(1849年)、田沼意正の娘を正室としていた先代藩主・柳生俊章の養嗣子となり、同年11月14日に俊章が隠居したため跡を継いだ。

田安御門番役を務めた。

嘉永3年(1850年)9月13日、21歳で死去し、跡を養嗣子の俊順が継いだ。

法号は天真紹性大源院。

墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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大機院殿前備州刺史智峯紹転大居士


( 柳生俊章 十代文久二年壬潤八月八日 ) 五十四歳
(案内板より)


〇 柳生俊章

柳生 俊章(やぎゅう としあきら、文化6年(1809年) - 文久2年閏8月17日1862年10月10日))は、大和国柳生藩の第10代藩主。


第9代藩主・柳生俊豊の長男。正室は田沼意正の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。幼名は英次郎。


文政
3年(1820年)11月8日、父俊豊の死去により跡を継ぐ。

日光祭礼奉行、大坂青屋口御加番、半蔵口御門番などを勤めた。

江戸城普請などでも功を挙げている。

嘉永2年(1849年)11月14日、岳父田沼意正の次男で養嗣子の俊能に家督を譲って隠居した。

嘉永5年10月7日、不行跡により謹慎を命じられる。

文久2年(1862年)閏8月17日に54歳で死去した。

法号は智峰紹転大機院。

墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
(wikiより)

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陽徳院殿前但州刺史剛厳宗建大居士


( 柳生俊順 十二代文久二年 壬戌七月十四日 ) 二十五歳
(案内板より)


〇 柳生俊順
柳生 俊順(やぎゅう としむね)は、大和柳生藩の第12代藩主。

生涯
高家
旗本武田信之の次男。嘉永3年(1850年)11月5日、先代藩主の柳生俊能が死去すると、その養嗣子となって跡を継いだ。嘉永4年12月16日、従五位下・対馬守に叙任する。後に但馬守に改める。半蔵口御門番を務めた。文久2年(1862年)7月24日、27歳で死去した(幕府には閏8月3日死去と届けられた)。跡を弟で養嗣子の俊益が継いだ。

時代江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕天保7年(1836年
死没文久2年7月24日1862年8月19日
戒名陽徳院殿剛厳宗建大居士
墓所東京都練馬区桜台広徳寺
奈良県奈良市柳生町の芳徳寺
官位従五位下、対馬守、但馬
幕府江戸幕府
大和柳生藩
氏族武田氏柳生氏
父母父:武田信之、養父:柳生俊能
兄弟俊順俊益柳沢光邦
正室:木下俊敦の娘
娘(三条公恭室)
養子:俊益

(wikiより)

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上泉伊勢守秀綱の供養塔
(案内板より)


〇 上泉信綱
上泉 信綱(かみいずみ のぶつな、あるいは、こういずみ のぶつな〈cf. 〉。永正5年〈1508年〉? - 天正5年1月16日1577年2月3日〉?)は、戦国時代日本兵法家武将。一時期の武家官位名を添えた「上泉 伊勢守( - いせのかみ)」の名でもよく知られる(cf. 武家官位としての伊勢守)。上泉氏本貫地の出身で、出生地は上野国勢多郡桂萱郷上泉村(現・群馬県前橋市上泉町内)あるいはその近傍とされる (cf. )。生年は推測 (cf. )、没年は天正10年(1582年)など諸説ある (cf. )。

剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の祖

同時代史料上の上泉信綱

『言継卿記』の大胡武蔵守
上泉信綱は、戦国時代の史料上には、山科言継日記言継卿記』に、永禄12年(1569年)1月15日 - 元亀2年(1571年)7月21日まで32回みえている。「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない。


『言継卿記』によると、永禄12年1月15日、卜部兼興の子・長松丸の訴状に「叔母舅」の大胡武蔵守としてみられる。以後、武蔵守は言継を訪問するようになる。ただし5月16日から元亀元年(1570年)5月22日までは年始の挨拶1回のみである。元亀元年5月23日には言継は軍配を上泉武蔵守信綱から伝授された。6月28日信綱は従四位下に叙せられたことを言継に語っている。また武蔵守が兵法を披露するのは元亀元年8月10日の梨本宮門跡と19日の太秦真珠院での2回のみである。 元亀2年3月には武蔵守は近日在国するとあり、7月2日に武蔵守が大和国から上京している。7月21日、信綱は京を去り故郷へ向かうことを言継に伝え、言継から下野国結城氏への紹介状を得ている。



その他の古文書
・長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主[* 1]としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006年)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。


・上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍・足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564年)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565年)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。[1]


・永禄8年(1565年)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。


・永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する[1]


・丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567年)2月に与えた目録[1]と、同年5月に与えた印可状[2]が残る。


これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。尾張柳生の『兵法由来覚』には、「上泉伊勢守後、武蔵守と改申候」と記されている(『前橋市史 第一巻』 p.981.比較的信用できる資料としている)。

伝承や後世史料にみえる上泉伊勢守
上野国赤城山麓の川原浜(上野国勢多郡川原浜。現在の群馬県前橋市河原浜町[gm 1]、明治22年の勢多郡大胡村河原浜、明治初期の南勢多郡河原浜村)に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ[3]、大胡城の西南2に位置した桂萱郷上泉村(現・前橋市上泉町内)に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流神道流念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して[4]新陰流を大成した。


信綱は箕輪城長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。


嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える[5]


剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏[* 2]も独自の家伝を持っている(後述)。

信綱の誕生と出自
名字は「大胡(おおご)」。通称は「上泉」で、読みは「かみいずみ歴史的仮名遣:かみいづみ)」もしくは「こういずみ歴史的仮名遣:こういづみ)」[6]。居城のあった現在の前橋市上泉町の「上泉」の読みは「かみいずみ(歴史的仮名遣:かみいづみ)」。


名は、『言継卿記』では大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱。『武芸流派大事典[7]』によると、自弁当流(神影正兵法備具兵神宜武士道居合)の伝書に秀長とあり(綿谷によれば初名)、次に秀綱、永禄8 - 9年から信綱だとする。『関八州古戦録』では金刺秀綱。伊勢守、のち武蔵守を名乗った[8]


上野国赤城山麓の上泉(現在の群馬県前橋市上泉町[gm 2])で生まれたと伝えられるが、異伝は上泉城を生誕地とする[9]生年は史料が無く、不明。尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』(1957年)で永正5年(1508年)としている。


父は、『武芸流派大事典[7]』や『国史大辞典』など通説によると大胡武蔵守秀継とされる。ただし異説もあり、『撃剣叢談』(三上元龍、1790年)では憲綱、上泉家伝来の系譜[10]では上泉武蔵守義綱とある。


なお通説では大胡氏の一族とされるが[3]、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える[10]

剣の師について
陰流神道流念流を学んだという信綱であるが、その師については諸説ある。

陰流
  愛洲移香斎(久忠)を師とする説と、移香斎の子・元香斎小七郎(猿飛陰流)を師とする2説がある。
  愛洲小七郎説
下川潮は『剣道の発達』(大日本武徳会、1925年)で小七郎説をとる[* 3]。また、久忠の子孫・平沢氏の記録「平澤家傳」[11](「平澤家伝記」[1])には信綱に陰流を伝承した記述はない。
疋田豊五郎が発行した伝書は全て、愛洲移香ー>愛洲小七郎ー>上泉武蔵守ー>疋田豊五郎となっている[12][13]
  
  愛洲移香斎(久忠)説
  尾張柳生家柳生厳長は『正伝新陰流』にて移香斎説をとる[* 4]。今村嘉雄は『図説日本剣豪史』で『正伝新陰流』の見解に賛同する。
  
  神道流
  松本備前守を師とする説とこれ以外を挙げる説がある。

  松本備前守説
  「武術流祖録」(天保14年)では、松本備前守政元に師事したという。
天真正伝香取神道流宗家・飯篠家では代々飯篠家直の高弟である松本備前守に信綱が師事したと伝承する[14]
太田亮は『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)で松本尚勝に師事したとする。ただし太田は愛洲氏について指摘しない。
武術史研究家・綿谷雪[7]直心影流15代[* 5]山田次朗吉[15]によると、直心影流などの伝書にみえる「杉本備前守」は「杉本」が「松本」の誤字であって「松本備前守」を意味するとされている。

  杉本備前守政元説
  直心影流18代[* 5]石垣安造は著書『直心影流極意伝開』(新樹社、1992年)で、武術流祖録の内容は直心影流の兵法伝記からの写しであり、姓だけを勝手に杉本から松本にすり替えて改変したもので、「杉本」が「松本」の誤字ではなく、元禄の初めから現在まで直心影流は「松本備前守」ではなく「杉本備前守政元」が流祖であると主張している。

  師の名を不記載

  今村嘉雄は『図説日本剣豪史』では、信綱は念阿弥慈恩を流祖とする念流の流伝を学び、さらに飯篠長威斎の流伝になる神道流を修めたとし、師の名は挙げない。

  『正伝新陰流』では、備前守の信憑は飯篠宗家の記録が唯一だとし、ただ長威より50 - 60年代後代の人とあるだけでは、極めてあいまいだと論考している。

詳しいことは、「上泉信綱ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1
(wikiより)


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上泉信綱

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芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派寺院山号は神護山(じんごさん)で、本尊釈迦如来芳徳禅寺とも称される。

概要
柳生藩柳生氏菩提寺。柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える。柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。


北から寺へ登る坂が霊源坂、その登り口の橋は古楓橋であり、東南の小高い台地である山王台(清風台)とともに柳生十景に挙げられている。また、霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。

歴史
寛永15年(1638年大和国柳生藩柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。宗矩の子列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。


廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義の弟・基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた[1]

文化財
本堂には本尊釈迦三尊像の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている[2]


木造但馬守宗矩坐像は慶安4年(1651年)に宗矩の7回忌にあたり、柳生宗冬が京都の大仏師康看に彫らせたもの。また、木造沢庵和尚坐像は明暦3年(1657年)に、列堂が京都の大仏師康春に彫らせたものであり、ともに前述の火災を免れ、今に伝えられている[3]

指定文化財
・本堂 - 江戸時代建立、市指定文化財(建造物)

・柳生家墓所附列堂和尚墓所 - 室町時代~江戸時代、市指定文化財(史跡)

正木坂剣禅道場
昭和38年(1963年)に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道座禅道場。柳生三厳の正木坂道場に習って命名された。橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成徳富蘇峰犬養毅長谷川伸吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われた。奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一乗院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されている[4]



交通アクセス
・JR奈良駅または近鉄奈良駅から柳生・邑地中村行バスで50分「柳生」下車、徒歩15分

周辺
天石立神社

旧柳生藩家老屋敷

柳生陣屋跡

小山田家分家

柳生街道

脚注
1. 柳生観光協会編『新版・柳生の里』、柳生観光協会刊、86、94-97頁、2000年
2. 同上、26頁
3. 同上、94頁
4. 同上、25、102-117頁

参考文献
・日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年-2002年 を基にしたデータベース)

関連項目
柳生藩  

外部リンク
芳徳寺 - 柳生ドットコム
(wikiより)


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奥野 昌綱(おくの まさつな、文政6年4月4日1823年5月14日) - 明治43年(1910年12月12日)は日本の牧師横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。

生涯
初期
1823年(文政6年)江戸幕府の下級武士である徒士竹内五郎左衛門直道の三男として、江戸に生まれた。通称を銀三郎と言った。1827年に4歳で母を亡くし、その後継母が来た。1833年に上野の寛永寺の中の春性院の随身者になり、仏学をはじめ漢学、武術、音曲などを学んだ。1838年に昌平坂学問所に通い、四書五経を二年間で習得して試験に合格する。


1847年に輪王寺宮御家司の近江守奥野昌忠の養子になる。二、三年後に輪王寺宮に仕え、納戸役にまで昇進する。

戊辰戦争
輪王寺宮一品慈性法親王が、1867年(慶応3年)に、輪王寺門跡を公現法親王(北白川宮能久親王)に譲る。奥野は公現法親王に仕える。


1868年(慶応4年)5月15日に上野戦争彰義隊が敗北し、輪王寺宮は奥州へ逃走する。その際家臣の奥野も同行する。輪王寺宮は白石城奥羽越列藩同盟の盟主に迎えられる。奥州が新政府軍に制圧されると、輪王寺宮は朝敵として謹慎を命じられる。


奥野は輪王寺宮の釈放を嘆願したが聞き入れられず、神仏に祈るも無駄であった。そして、明治維新に際して、輪王寺と離別した。

横浜時代
1872年(明治5年)に奥野の女婿の友人小川義綏の誘いでJ・C・ヘボンの日本語教師になった。8ヶ月間ヘボンの助手として『和英語林集成』第二編の編集を手伝った。ヘボンが上海に出張すると、S.R.ブラウンを助けて、1872年に始まった文語訳聖書の翻訳に際して協力者になった。


1873年(明治6年)の夏にジェームズ・バラの「ペテロの拒絶」という説教を聞いた時に、自分が主イエスを拒絶したのち、主のまなざしに出会い激しく泣いた使徒ペテロは、自分のことであると感じて洗礼を受ける決心を固めた。そして、その年、49歳でS.R.ブラウンより洗礼を受けた。日本人では27人目であった。その後、ヘボンやジェームス・バラを助けて、賛美歌の翻訳や編集に関係した。

牧師時代
1873年(明治6年)2月より、小川と一緒に日本で初めてのプロテスタント伝道旅行を始めた。


1877年
(明治10年)10月東京一致神学校に入学した会員を中心に、麹町教会を設立した。11月3日に奥野が仮牧師に就任した。[1] 1878年(明治11年)に、小川と一緒に按手礼を受けて、一致教会教師になり、東京・大阪・横浜の教会を牧会した。その年の5月に東京で行われた第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部の一人として参加する。 1888年(明治21年)の『新撰讃美歌』の成立には大きく寄与した。晩年は巡回教師になって活動した。88歳で死去するまで、3回にわたって日本各地で伝道旅行をした。

逸話
・ジェームズ・バラの「ペテロの拒絶」と題する説教を聴いたとき、奥野は自分自身がそのペテロであることを感じて、それから二三年、彼は口を開けばペテロのことを語ったので、「ペテロのことを聞きたければ、奥野さんのところに行け」と言われていた。


・奥野が築地病院に入院中に、激痛に襲われた時に、賛美の歌詞が口からあふれてきて歌い、医師に叱られた。その時に作られた賛美が「やまいの床にも」(賛美歌396番)である。[2]

作詞
・讃美歌96番「朝日は昇りて

・讃美歌293番「知恵とちからの

・讃美歌323番「よしや世の人の

・讃美歌356番「わが君イエスよ

・讃美歌396番「やまいの床にも

・讃美歌537番「わが主のみまえに

著作(新版)
・『新撰讃美歌』 植村正久・松山高吉と共編、岩波文庫、2017年

・『文語訳 聖書』 岩波文庫、全5巻、2014-15年

・『元始(はじめ)に言霊あり 新約聖書約翰傳全〈現代版〉-禁教下の和訳聖書ヨハネ伝』 久米三千雄編・校注、キリスト教新聞社、2015年

参考文献
黒田惟信編『奥野昌綱先生略伝並歌集』一粒社、1936年。復刻版「伝記叢書」大空社、1996年

・『讃美歌略解(歌詞の部)』日本基督教団出版局、1954年

中村敏『日本キリスト教宣教史』いのちのことば社、2009年

大塚野百合『讃美歌と作曲家たち』創元社、1998年

関連項目
北白川宮能久親王

白石会議

お雇い外国人   

脚注
1. 『日本キリスト教歴史大事典』825ページ
2. 『長老・改革教会来日宣教師事典』301ページ
(wikiより)

1524 奥野昌綱

奥野昌綱

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1524b



初代 快楽亭 ブラック(かいらくてい ブラック、1858年12月22日安政5年11月18日〉 - 1923年大正12年〉9月19日)は、落語家講釈師、奇術師イギリス領オーストラリアアデレード生まれ。国籍は初め英国、のち日本に帰化している。本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラック(Henry James Black)、帰化後の日本名は石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)。

来歴
青い眼の落語家
先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人[1]1865年慶応元年)、アジア各地を巡業する歌手として来日したのち横浜居留地初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者となった父・ジョン・レディー・ブラックの後を追い、母とともに来日した。父はのちにダ・ローザの支援により『日新真事誌』という新聞を発行して明治政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所にいた演説好きの堀竜太と親しくなり、自身も数度演説に立った[1]


18歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、1876年明治9年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年7月には浅草西鳥越芳川亭日本橋南茅場町宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の2〜3年間は、一説によるとアメリカシアトルで母と共に生活していたという。


1878年(明治11年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師2代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った。1880年(明治13年)6月11日に父が53歳で死去[1]


当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊東燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌1880年(明治13年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。1884年(明治17年)には三遊亭圓朝3代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った。

多種多彩の芸人
1891年(明治24年)3月より快楽亭ブラックを名乗る。その2年後の1893年(明治26年)4月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の石井アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貎刺屈と改めた、この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった、その後アカとは離婚している[1]。石井家より婿養子の願いが東京府に出された際、内務省よりブラックの素行調査が指示され、警視庁がそれに当たったが、「ブラックは常に男色を好み、婦女子に対しては不都合なふるまいはなく、一回り年下の高松元助なる男と夫婦同然の暮らしをしており、不品行な形跡はない」との京橋警察署長の報告により、無事入籍及び帰化が許可された[2]


これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調[3]をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、1896年(明治29年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている。


1903年
(明治36年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲かっぽれなど諸芸を録音円版に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、4代目橘家圓喬初代三遊亭圓右初代三遊亭圓遊3代目柳家小さん浪花亭愛造豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった[4]

晩年
1907年(明治40年)になると人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる[5]1908年(明治41年)9月23日、兵庫県西宮の恵比須座に出演中に亜砒酸で自殺未遂騒動を起こすまでになった[5][6]。1914年9月からイギリスの手品雑誌「マジック・マンスリー」に日本の奇術のやり方を連載する[7]関東大震災の衝撃覚めやらない1923年大正12年)9月19日白金三光町の自宅で満64歳で死去[8]、死因は脳卒中[1]。遺骸は横浜外国人墓地の父の隣に埋葬された。

弟子
・快楽亭ホスコ:本名は石井清吉(旧姓・大野)。養子でもある。後に奇術に転じ、松旭斎天左を名乗る。ブラックと男色関係とされるが、のちにフランス人女性と結婚[2]

二代目談洲楼燕枝:駆け出しの頃一時期弟子だった。

・ほかにハレ、楽松、快柳、楽正がいた[1]

作品
書籍
快楽亭ブラック口演『英國龍動劇塲土産』福島昇六速記、銀花堂、1891年8月1日。NDLJP:891255

・快楽亭ブラック講演『流の暁』今村次郎速記、三友舎、1891年9月18日。NDLJP:891410

・快楽亭ブラック訳述『薔薇娘 探偵小説』今村次郎速記、三友舎、1891年9月29日。NDLJP:891432

・快楽亭ブラック演述『車中の毒針 探偵小説』今村次郎速記、三友社、1891年10月19日。NDLJP:891333

・快楽亭ブラック講演『切なる罪』今村次郎速記、銀花堂、1891年10月21日。NDLJP:891391

・快楽亭ブラック講演『剣の刃渡』今村次郎速記、文錦堂、1895年7月。NDLJP:891401

・快楽亭ブラック口演『孤兒 英國實話』今村次郎速記、金桜堂、1896年7月29日。NDLJP:891462 ※原作はチャールズ・ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』。

・快楽亭ブラック口演『神田武太郎 探偵實話』今村次郎速記、菅谷与吉、1900年9月。NDLJP:891228

・快楽亭ブラック「たばこ好き」『落語名作全集』第5、小島貞二編、立風書房、1968年。

・快楽亭ブラック「煙草好き」『名人名演落語全集』第3巻、斎藤忠市郎ほか編集、立風書房、1982年8月。

・快楽亭ブラック『快楽亭ブラック集伊藤秀雄編、筑摩書房〈ちくま文庫 明治探偵冒険小説集 2〉、2005年5月。ISBN 4-480-42082-7 ※『流の暁』『車中の毒針』『幻燈』『かる業武太郎』を収録。

録音資料
快楽亭ブラック (1987-10), “蕎麦屋の笑”, 明治大正夢の名人寄席, コロムビアミュージックエンタテインメント  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:67分16秒。


・快楽亭ブラック (2000-2), “そば屋の笑い(落語)”, お笑い百貨事典明治時代 (文明開化の嵐を越えて), 布目英一監修, キングレコード (発売)
  - 形態:録音カセット1巻 + 説明書1枚。


・快楽亭ブラック (2000-2), “〈落語〉~そば屋の笑い”, お笑い百貨事典~明治時代 文明開化の嵐を越えて, キングレコード
  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:49分10秒。


・快楽亭ブラック (2000-12), “(咄)江戸東京時代の咄”, 日本吹込み事始~一九〇三年ガイズバーグ・レコーディングス, 東芝EMI
  - 形態:CD 1枚、収録方式:モノラル収録、収録時間:39分43秒、収録年月:1903年2月。石井ブラック名義の録音も同じ物に残っている。


・初代快楽亭ブラック (2006-9), “滑稽咄 蕎麦屋の笑”, 昭和戦前面白落語全集 東京篇 特典盤, エニー
  - 形態:CD 1枚、モノラル収録。


・快楽亭ブラック (2008-8), “蕎麦屋の笑”, 〈SP盤復刻〉芸能全集 明治・大正 寄席編, コロムビアミュージックエンタテインメント
  - 形態:CD 1枚、モノラル収録、収録時間:68分。

墓前祭
快楽亭ブラックを偲ぶ墓前祭(快楽忌)は1985年から開催されていたが、関係者の高齢化などにより2007年を最後に休止していた。没後90年にあわせて快楽亭ブラック研究会が2013年の命日である9月13日に墓前祭を復活[9]。これを機に、再び毎年開催されるようになる。

関連項目
美味しんぼ(同名の落語家が登場する。)

脚注
1. a b c d e f 『演芸博物館 紅編』小島貞二、P.7-35
2. a b 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p169-173「男色者の外国人婿養子 快楽亭ブラック」
3. 「こいでその」「どうもその」「そいから」「ごぜえやした」など彼独特の言葉ぐせ 小島貞二『決定版 快楽亭ブラック伝』1997年 p.9
4. CD『全集日本吹込み事始』(2001年)東芝EMI
5. a b 伊藤(2005)、479頁
6. 石井ブラック自殺を図る 明治41年9月26日都新聞『新聞集成明治編年史. 第十三卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
7. Harry BlackMagicpedia
8. 伊藤(2005)、480頁
9. 青い目の噺家・快楽亭ブラック 没後90年に合わせ墓前祭 横浜の外国人墓地」『産経ニュース』2013年9月19日。

参考文献
伊藤秀雄編「快楽亭ブラック年譜」『快楽亭ブラック集』筑摩書房〈ちくま文庫 明治探偵冒険小説集 2〉、2005年5月、477-480頁。ISBN 4-480-42082-7

小島貞二決定版 快楽亭ブラック伝』恒文社、1997年7月。ISBN 4-7704-0937-0

イアン・マッカーサー『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』内藤誠堀内久美子訳、講談社、1992年9月。ISBN 4-06-205738-7

村松定孝快楽亭ブラックと泉鏡花 : "The Adventures of Oliver Twist" の翻案をめぐる考察」『上智大学国文学論集』第21号、上智大学国文学会、1988年1月16日、 27-44頁。

・佐々木みよ子、森岡ハインツ『快楽亭ブラックの「ニッポン」』 PHP研究所、1986年10月

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『快楽亭ブラック』 - コトバンク

放送大学特別講義「ジャーナリストの父、タレントの息子 ~明治日本に貢献したブラック親子~」
(wikiより)

1533 ヘンリー・ジェームス・ブラック

ヘンリー・ジェームス・ブラック

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1533c

1533d



谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日1837年3月18日) - 明治44年(1911年5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した日本武士土佐藩士)、陸軍軍人政治家階級陸軍中将栄典正二位勲一等子爵通称申太郎守部隈山


第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。

熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。

生涯
生い立ち
天保8年2月12日(1837年3月18日)、儒学者谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に生まれた。3人の兄が相次いで夭逝したので総領息子となる。後に父が土佐藩の上士(小姓組格・武道師範)として取り立てられる[1]


伯父好円に養育された幼少期は落ち着きが無い子供だったが、成長すると勉強熱心になり藩に注目され、安政6年(1859年)に江戸へ出て安井息軒儒学)、安積艮斎朱子学)、若山勿堂山鹿流軍学[2]の門弟として学び、文久元年(1861年)に帰国した後の翌文久2年(1862年)には藩校致道館で史学助教授となった。帰国途中に武市瑞山(半平太)と知り合って尊王攘夷に傾倒、藩政を主導していた吉田東洋と対外方針を巡り討論する。谷は東洋の開国方針を悠長だと反発しながらもその度量に感服したが、東洋が暗殺された時は彼との対立関係から周囲に犯人だと疑われている[3][4]


東洋暗殺後は武市と共に藩主山内豊範の側近に引き立てられ、彼等と共に京都へ上洛すると諸藩と交流し攘夷実現に向け尽力した。江戸や長崎も行き来する中、豊範の従兄弟で前藩主山内容堂とも接触し度々意見を出したが、武市が失脚(後に処刑)されると同志の谷も元治元年(1864年)に左遷され、翌慶応元年(1865年)に致道館助教に復職するまで逼塞していた[5]


復帰後も東洋の方針を継いだ後藤象二郎の富国強兵を非難するなど攘夷の考えは変わらなかったが、西洋の長所を認め徐々に外国人に対する視線が変わり、慶応2年(1866年)12月の長崎視察の際、翌3年(1867年)1月に長崎へ着いた谷は後藤や坂本龍馬と交わり、彼等から攘夷が不可能であることを説明された。直後に船で渡り到着した上海で西洋の軍事力を目の当たりにしたことでそれを実感、日本へ戻ると後藤の賛同者に変化し開国・倒幕論者となっていった[3][6]

倒幕に参加
慶応3年5月21日、中岡慎太郎の仲介によって板垣退助毛利吉盛と共に京都の小松清廉邸で、薩摩藩西郷隆盛吉井友実と会い、薩土密約薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。だが、後藤が結んだ薩土盟約は大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため谷の目標と食い違い、容堂に重用された後藤が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせていたが、慶応4年(明治元年・1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。万一の場合に備え、同族で本家から谷乙猪を養子に迎え、彼とその兄谷重喜(神兵衛)と共に戦線に加わった[7]


戊辰戦争では、板垣率いる迅衝隊の小軍監(後に大軍監に昇格)として北関東・会津戦争で活躍する。3月は新選組から改名した甲陽鎮撫隊甲州勝沼の戦いで破り、江戸開城で待機し4月に北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦いを経て5月に一旦土佐へ戻り、戦線へ復帰すると会津へ向かい、8月の会津城籠城戦に加わり11月に土佐へ凱旋、戦功として家禄400石に加増され、仕置役に任命された[3][8]


明治2年(1869年)は参政、翌3年(1870年)には少参事に任じられ高知(土佐)で藩政改革に尽力した。だが東京にいた後藤と板垣が積極財政と浪費を重ね藩財政を傾けていたことに反発、片岡健吉と共に後藤等の頭越しに藩士のリストラと費用削減を遂行したが、これが彼等の怒りを買い藩政から排除された。だが浪費で財政が傾いたため谷は反対派から信望を集め、それを無視出来ない藩の要請で明治4年(1871年)4月に少参事に復帰、藩兵の軍制改革に尽くした[9]

廃藩置県以降
明治4年7月の廃藩置県後、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌明治5年(1872年)には陸軍裁判長に転任し陸軍少将に任命、明治6年(1873年)には更なる転任で熊本鎮台司令長官となる。同年に発布された徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任し賛成派の谷を徴兵令を作成した山縣有朋が任じた事情があった。谷は軍の近代化に取り組み部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣が下野したことで高知出身の軍人も多数下野、鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣との確執を強めていった[10]


明治7年(1874年)2月に佐賀の乱が勃発すると政府から鎮圧命令を受け取ったが、岩村高俊県令の護衛として派遣した部下の山川浩率いる第11大隊が佐賀城で不平士族に包囲され、大隊約300人のうち半分近くを失う痛手を負った。出鼻は挫かれたが、乱自体は大阪・東京鎮台からの増援で鎮圧されている[11]


同年5月から12月の台湾出兵に際しては陸軍中将・西郷従道の下に海軍少将・赤松則良と共に参戦した[注 1]。その際熊本鎮台司令長官から参軍に転任したが、出兵後は政府の方針に不満を抱き高知に逼塞、同郷の佐々木高行から帰京を促される中、明治9年(1876年)10月の神風連の乱で不平士族に殺害された種田政明の後任として11月に再び熊本鎮台司令長官となり、樺山資紀参謀長児玉源太郎川上操六参謀として脇を固めた[12]。この人事は祖先に山崎闇斎門下の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば薩軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。


明治10年(1877年)の西南戦争の際には、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。薩軍からは反政府派の1人とみなされ、樺山と共に寝返りを期待されていたが、谷も樺山も薩軍との対決を選び籠城を決行した。戦いは2月19日に熊本城から出火、天守閣を始め主要施設を失い兵糧が欠乏し、22日から開始された薩軍の攻撃を必死に耐えしのぐ中銃撃で樺山が負傷、与倉知実も戦死する苦戦になったが、薩軍が無計画かつバラバラに攻撃したこと、対する鎮台兵が大砲・銃火器を活用した火力集中で応戦したことが功を奏し侵入を防いだ。薩軍は翌23日にも攻撃したが失敗したため強襲を諦め、24日から包囲に切り替えた[13]


包囲中も鎮台兵と薩軍の攻防は続いたが、3月に入ると北から救援軍が迫り、海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代に上陸し熊本城に近付いた。好機と見た谷は樺山・児玉らと相談の上で4月8日奥保鞏を隊長とする外部との連絡部隊を城外へ放ち、衝背軍との合流に成功した。3日後の11日に谷は狙撃され重傷を負ったが、14日に旧知の山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城へ入城、包囲は解放された。籠城後も休む暇はなく山縣の指揮下で九州を転戦、鎮台兵は19日の城東会戦で薩軍と戦い、大分方面へ転戦し野村忍介の部隊とも激戦を展開、9月の城山の戦いで終止符を打った。西南戦争の勝利で谷の名声は高まり政府や明治天皇の信頼を獲得、軍部からも一目置かれるようになっていった[14]

西南戦争以降
西南戦争の功績により明治11年(1878年)11月に陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長陸軍戸山学校長となった。しかし明治14年(1881年)3月に先の台湾出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置していたと知って、抗議の辞任をする。この時、明治天皇は谷の意見を評価して辞任を差し止めさせようとしたり、佐々木を通じて帰郷を延ばして自分に忠節を尽くすように伝言している。この問題は6月に天皇が谷の陸軍中将を慰留する代わりに陸軍士官学校長と陸軍戸山学校長を免職するまで持ち越された。また、地元高知で自由民権運動が過激化することを憂い、急進的な民権派の政治団体立志社に対抗し、佐々木と共に穏健な政治運動を標榜する中立社を立ち上げたが、立志社の勢いに太刀打ち出来ず明治11年秋に廃社となった[15]


この頃から政治関与を始め、同年7月の開拓使官有物払下げ事件で政府に動揺が広がる中、谷は曾我祐準鳥尾小弥太三浦梧楼ら3人の軍人と四将軍派を結成し佐々木と共に払下げ反対を表明、9月に連名で国会開設の建白書を提出、10月には佐々木と同志の元田永孚土方久元らと結託して中正党も結成するなど、現役軍人でありながら政治にのめり込む姿勢は山縣に危険視され、明治十四年の政変大隈重信が政府から追放され事態が収拾されると、佐々木が政府に取り込まれ中正党の運動も不明瞭になり、明治15年(1882年)に山縣が軍人の政治関与を禁じた軍人勅諭を制定、四将軍派の活動は抑えられた[16]


谷は非職でありながら度々政府から復職を望まれ、明治17年(1884年)5月に学習院院長として復帰した。かねてから華族の教育を構想していた伊藤博文は谷に改革を依頼、応じた谷は皇室の藩屛になることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注いだ。また将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も考え、軍人だけでなく政治、外交にも役立つ多様な人材育成を目指した。華族有志青年会の設立も議会へ活動する人材育成の一環で、谷が学習院を去った後も華族青年会と改名し華族同方会も結成、谷や多くの華族を引き付け議会に備えていった。これらの功績が認められ、7月に華族令が制定されると子爵に叙せられ、翌明治18年(1885年)の内閣創設により第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任し政治家に転身した。ただし、明治22年(1889年)に予備役へ編入されるまで現役軍人としての活動も続けていた[17]


一方、四将軍派は陸軍が薩長藩閥の主流である状態に反発し、軍の人事や組織案などに口出しして軍で活動を再開、谷も四将軍派の1人として山縣と大山巌桂太郎・川上操六ら主流派と対立、軍事方針とそれに伴う外交を巡り衝突した。前述の谷の農商務相就任は伊藤が四将軍派の関心を得るための人事であり、天皇も谷の閣僚登用を望んだ事情から成り立っていた。伊藤と井上馨ら政治家は主流派の軍拡とへの強硬姿勢に反対、三浦の軍縮案に傾いていた。ただ、陸軍紛議と呼ばれる明治19年(1886年)の対立では谷はヨーロッパへ外遊中だったため関わっておらず、主に三浦と大山の主導権争いに終始、勝利した大山により四将軍派は軍から追われ、支持基盤だった軍事研究団体・月曜会も明治22年に解散させられた。


谷には左遷・罷免された三浦・曾我と違い報復人事は無かったが、陸軍の政治関与に否定的だった児玉が陸軍大学校の校長になり、教育を通して四将軍派の影響力は軍から排除された。以後、谷は政治へ本格的に関わっていくようになる[18]

詳しいことは、「谷 干城ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E
(wikiより)

1523 谷 干城

谷 干城

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川上 操六(かわかみ そうろく、嘉永元年11月11日1848年12月6日) - 明治32年(1899年5月11日)は、日本の陸軍軍人華族。官位は参謀総長陸軍大将栄典従二位勲一等功二級子爵。幼名宗之丞。長男の素一陸軍少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。桂太郎児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。

生涯
薩摩藩士・川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。


戦後上京し明治4年(1871年)4月から陸軍に出仕。同年7月、陸軍中尉御親兵第2大隊付に任ぜられる。近衛歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀局出仕を経験し階級は陸軍少佐に昇る。


明治10年(1877年)に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。


明治11年(1878年)12月、陸軍中佐・歩兵第13連隊長。


明治13年(1880年)5月に歩兵第8連隊長、同15年(1882年)2月には大佐に進み近衛歩兵第1連隊長に就任する。


明治17年(1884年)には陸軍卿・大山巌に随行し欧米諸国の兵制を視察する。帰国後の明治18年(1885年)に陸軍少将参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、同20年(1887年)には再びヨーロッパに渡りドイツ兵学を学ぶ。


明治21年(1888年)、帰国し同22年(1889年)3月より参謀次長。明治23年(1890年)、陸軍中将に進級。


明治26年(1893年)から清国に出張の後、同年10月に参謀本部次長に就任し、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。明治28年(1895年)3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。


台湾仏印シベリア出張を経て明治31年(1898年)1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に薨去。享年52。薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜る。


薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物であったが、本人は派閥意識を持たず、出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、成城学校(新宿区原町)校長を務めるなど、優秀な軍人育成に貢献した。墓所は東京都港区・青山霊園

栄典
位階
1885年(明治18年)7月25日 - 正五位[1]

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[2]

1890年(明治23年)6月19日 - 従三位[3]

1898年(明治31年)3月8日 - 正三位[4]

1899年(明治32年)5月11日 - 従二位[5]

勲章等
1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[6]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]

1895年(明治28年)

  ・8月5日 - 勲一等旭日大綬章功二級金鵄勲章子爵[8]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[9]

1899年(明治32年)5月11日 - 旭日桐花大綬章[10]

外国勲章佩用允許
1885年(明治18年)10月5日 - ドイツ帝国:赤鷲第三等勲章[11]

1888年(明治21年)6月29日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グロヲスコムトゥルクロイツデスグライフェン勲章[12]

1892年(明治25年)4月11日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章[13]

1894年(明治27年)10月10日 - カンボジア王国:ロイヤル・デュ・カンボジュ勲章グランクロア[14]

1896年(明治29年)5月4日 - ドイツ帝国:双剣付赤鷲第一等勲章[15]


川上操六が登場する作品
書籍
坂の上の雲 - 司馬遼太郎・著

王道の狗 - 安彦良和・著

映像
夜会の果て(1997年)NHK、演:森田順平

坂の上の雲(2009年-2011年)NHKスペシャルドラマ、演:國村隼

八重の桜(2013年)NHK大河ドラマ、演:奥田達士  

著作等
・『印度支那視察大要』川上操六著、(発行者不明)、1897年。

親族
・妻:ユイ(田中万左衛門三女)[16]

・長男:素一(子爵、陸軍歩兵少佐、主猟官)[16]

  ・妻:千代子(伊東祐麿三女)[16]

・孫:邦良(子爵、素一長男)[16]

  ・養子・姪:典子(ふみこ、佐竹義履長女、坂本力夫人)[16]

・孫:保枝(素一長女、佐竹義履夫人)[16]

※1934年9月の邦良没後、女戸主となり爵位を返上した[16]

詳しいことは、「川上操六ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%93%8D%E5%85%AD
(wikiより)

1519 川上操六


川上操六

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長與 善郎(ながよ よしろう、新字体長与 善郎1888年明治21年)8月6日 - 1961年昭和36年)10月29日)は、日本小説家劇作家評論家白樺派作家として人道主義的な作風で知られた。

略歴
医学者長與專齋の五男として東京に生まれる。長與家は漢方医として代々肥前大村藩に仕えた家系である。


1900年(明治33年)、東京麻布の南山小学校から学習院に転校する。1911年(明治44年)、志賀直哉武者小路実篤らの同人誌白樺』に参加する。同年、東京帝国大学文学部英文科入学、1912年大正元年)に退学する。

関東大震災で『白樺』が廃刊になった後は『不二』を主宰した。


1944年
(昭和19年)、大東亜文学者大会第3回大会に日本団団長として参加する。


1948年
(昭和23年)、芸術院会員。1960年(昭和35年)に自伝小説『わが心の遍歴』で読売文学賞を受賞。


1961年(昭和36年)10月29日、心臓衰弱のため世田谷区北沢の自宅で死去した[1]


作品に『盲目の川』、『項羽と劉邦』(白井鐵造作・演出の宝塚歌劇団初の一本立てミュージカル虞美人』の原作)、『青銅の基督』、『竹澤先生と云ふ人』など。『項羽と劉邦』には、親交のあった画家河野通勢が挿絵を描いた。

家族
医学者である父・長与専斎は、内務省衛生局の初代局長を務めるなど日本の医療制度の開拓者であり、鎌倉由比ヶ浜結核療養施設(サナトリウム)海浜院を開設、保養地としての鎌倉を拓いた人物でもある[2]


善郎は8人兄弟の五男で末子[3]。22歳年上の長兄長與稱吉は医師で父の功により男爵、妻は後藤象二郎の娘。長姉・松方保子は松方正義長男・巌の妻。次兄・長與程三は実業家(日本輸出絹連合会組長、茂木合名理事など)[4]。次姉・長與藤子は善郎が6歳の時に15歳で海水浴中に溺死した(没後、下田歌子が藤子や近親者の歌をまとめた追悼歌集『うたかた』上梓[5]。藤子の死で両親は病み、長與家は暗澹たる淋しい生活に一変したと善郎は記している[3])。三兄長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵、妻は森村財閥(現・森村グループ)を築いた森村組創業者・森村豊の娘。四兄岩永裕吉(母方の岩永家養子)は同盟通信社の初代社長。三姉・平山道子は、日本消化器医学会会長、日本医科大学理事なども務めた胃腸病学の大家で夏目漱石などの主治医でもあった平山金蔵[6][7]の妻。

妻に市川茂。

著書
・『盲目の川』洛陽堂、1914年

・『求むる心』洛陽堂、1916年

・『彼等の運命』洛陽堂、1916年

・『項羽と劉邦新潮社、1917年、のち岩波文庫。初版復刻(ほるぷ出版)

・『結婚の前』新潮社、1917年

・『生活の花』新潮社、1918年

・『陸奥直次郎』春陽堂、1918年、のち岩波文庫

・『明るい部屋』春陽堂、1919年

・『平野』文武堂書店、1919年

・『頼朝』新潮社、1920年

・『孔子の帰国』以文社、1920年

・『或る人々』春陽堂、1920年

・『画家とその弟子』叢文閣、1921年

・『因陀羅の子』叢文社、1921年

・『春乃訪問』芸術社、1921年

・『文明主義者』曠野社、1922年

・『二週間』金星堂、1922年

・『三戯曲』岩波書店、1922年

・『青銅の基督改造社、1923年、のち新潮文庫、岩波文庫

・『余の宗教への前提』新しき村出版部、1924年

・『或る社会主義者』新しき村出版部、1924年

・『波』新しき村出版部、1924年

・『韓信の死』玄文社、1924年

・『エピクロスの快楽』而立社、1924年

・『竹澤先生と云ふ人』岩波書店、1925年、のち岩波文庫(度々復刊)、新潮文庫

・『豹』春秋社、1926年

・『緑と雨』日向新しき村出版部、1926年

・『生活と芸術』日向新しき村出版部、1926年

・『菜種圃』岩波書店、1926年

・『一人旅する者』武蔵野書院、1929年

・『輝く廃墟』新潮社、1931年

・『自然とともに』小山書店、1934年

・『この男を見よ』三笠書房、1936年

・『満支このごろ』岡倉書房、1936年

・『大帝康煕』岩波新書、1938年

・『少年満洲読本』日本文化協会、1938/徳間文庫カレッジ、2015年

・『日本文化の話』弘文堂、1939年

・『人世観想』小山書店、1939年

・『夕子の旅行記』建設社出版部、1939年

・『幽斎父子』人文書院、1940年

・『幽明』河出書房、1940年

・『満洲の見学』新潮社、1941年

・『乾隆御賦』錦城出版社、1942年。『乾隆と香妃』角川文庫、1956年

・『韓非子日本評論社「東洋思想議書」、1942年

・『世相と藝文』不二書房、1942年

・『東洋の道と美』聖紀書房、1943年

・『見つゝ思ふ』北方文化出版社、1943年

・『生活覚え書』道統社、1943年

・『多面の統一』錦城出版社、1943年

・『東洋芸術の諸相』矢貴書店、1944年

・『一夢想家の告白』朝日新聞社、1946年

・『銀河に対す』桃李書院、1947年

・『クールベの娘』圭文社、1947年

・『野性の誘惑』光文社、1947年、のち角川文庫

・『布袋とヴヰーナス』桜井書店、1947年

・『あたし』操書房、1948年

・『ショーペンハウエルの散歩』雄文社、1948年/河出書房新社、2012年

・『麒麟児』一灯書房、1949年

・『戸隠』東京出版、1949年

・『人間の探求』弘文堂、1950年

・『人間の教師たち』梧桐書院、1951年

・『わが師わが友』筑摩書房、1951年

・『その夜』朝日新聞社、1948年-1951年

・『最澄と空海』創文社、1953年

・『遅過ぎた日記』朝日新聞社、1954年

・『彼を見我を思う』筑摩書房、1954年

・『一つの今日』河出書房、1955年

・『切支丹屋敷』大日本雄弁会講談社、1956年

・『泡のたはごと』ダヴィッド社、1957年

・『わが心の遍歴』筑摩書房、1959年。筑摩叢書、1963年、復刊1983年、解説安倍能成。のち潮文庫

脚注
1.岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)246頁
2. 海水浴の開拓者が龍神へささげた人身御供藤沢法人会「しおかぜ」303号
3. a b 亡き姉に『彼等の運命』長与善郎 著(洛陽堂、1916年) 4. 長与又即日記 昭和十二年十月ー十二月照沼康孝、中野実、「東京大学史紀要」第4号、1983年(昭和58年)7月
5. 『うたかた』下田歌子、1896
6. 平山金蔵『20世紀日本人名事典』
7. 大量吐血で入院中の夏目漱石、担当医にこわごわ回復具合を尋ねるサライ.jp、小学館、2016年2月10日

外部リンク
長与 善郎:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)


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門野重九郎 ( かどの - じゅうくろう )
1867年 9月  ( 慶応 3年 ) ~ 1958年 4月 28日  ( 昭和 33年 )

明治〜昭和期の実業家

出生地 : 三重県

学歴〔年〕 : 帝国大学工科大学土木科〔明治24年〕卒

経歴 : アメリカに留学、土木工学を研究、帰国後山陽鉄道に入り、明治30年大倉組に移った。

ロンドン支店長を経て43年合名会社大倉組副頭取となり、3大直系会社の大倉商事大倉鉱業、大倉土木各会長を兼任、当主喜八郎に次ぐ大倉財閥の重鎮として活躍した。

昭和12年日本商工会議所、東京商工会議所各会頭となり、同年日本経済使節団長として欧米を訪問した。

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門野重九郎

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3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉 - 1961年1月16日)は、日本落語家。本名小林 七郎(こばやし しちろう)。出囃子は「つくま」。NHKとんち教室落第生。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。当時まではとりわけて注目もされていなかった、円朝作と云われる落語芝浜を独自に練り上げ得意にした。以降、芝浜は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」他にも通称は田端の三木助」「隼の七」

来歴・人物
実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。実父は相貌の非常に良く似た2代目桂三木助という説があったが、近年の研究でこれは間違いであったことが明らかとなっている。ただし本人は生前に「実は(湯島天神の床屋に)藁の上からの貰い子だったんだよ。」と発言している。三木助の長女(小林茂子)がブログ(2012年3月28日記事)で明かしたことによると、七郎の実父は東京都紀尾井町のある華族("M"という名の男爵家)の次男であり、実父が長野県の貴族院議員の家へ養子縁組した際に、息子の七郎は床屋の小林家へ養子縁組されたとのこと。


母親(実母ではなく小林家の育ての親)の実の弟が4代目春風亭柳枝(後の初代春風亭華柳)。彼に弟子入りしようとするが、既に老齢のため断られ、自分の総領弟子である6代目春風亭柳橋に弟子入りするよう勧められる。柳橋に入門した。以上のような経緯をたどったため、二人は年齢差が極めて小さい(2歳差)師弟となった。しかし修行はきちんとこなし、柳橋の住み込みの内弟子となる。以後、三木助自身が日本芸術協会を脱退するときまで、柳橋に師事する。


若い頃は大阪名古屋へも流れるなど放浪を繰り返し、一時は日本舞踊花柳流の師匠(花柳太兵衛(はなやぎたへい))となり落語も廃業している。戦後も賭場通いを繰り返し日本橋界隈の賭場の連中に『橘ノ圓(まどか)』(落語家としての当時の芸名)では通じないが「隼の七」(賭場で名乗っていた名)と聞けば誰もが知っているという荒んだ生活を繰り返した。


彼の人生を変えたのは、踊りの師匠時代の弟子仲子への直向な愛である。25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら。」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている。)ついに3代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。以降三木助の名跡は小林家で受け継がれていく。


名人への道を進んだのは壮年になってからで、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風で、とりわけ「芝浜」を得意演目とし「芝浜の三木助」と呼ばれた。話の構成力、写実力に優れておりその輝きは現在も光を失っていない。初代雷門福助の話によると、噺家仲間相手に演じてみせた8代目桂文楽の「芝浜」を見た三木助がそれを気に入り、嫌がる文楽に無理を言って教えてもらった、といういきさつがあるという。文楽はネタとして「芝浜」を持ってはいたが、高座にかけることはしていなかった。 また、浪曲の鬼才2代目広沢菊春と意気投合し、落語界に持ち込んだネタが「ねずみ」である。


長年日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属していたが、8代目桂文楽に私淑し、また序列問題でのゴタゴタもあり、フリーを経て最晩年落語協会に移籍。日本芸術協会会長の師匠柳橋とは最後までそりが合わなかったとされる。落語協会移籍前には、5代目柳家小さんに、6代目三遊亭圓生を担いで新協会設立の画策を相談したこともあった。昭和36年1月16日午後4時37分、東京都北区田端にある自宅で胃がんのため死去した。


昭和36年に夭逝した三木助の口演を記録した映像は一本も残されていない、もしくは発見されていない。昭和39年没の3代目三遊亭金馬8代目三笑亭可楽の完全な口演映像が一本ずつ残されていることに比しても惜しまれる。三木助の落語の録音は、40演目のべ46席のみが残されており、それらを全て収録した全集が市販されている。同時期に活躍した落語家達と比べても残された口演音源が少ない理由の一つとして、落語全集の出版のため普通社に保管されていた三木助の音源を、当時普通社に出入りしていた或る女性が社外へ持ち出した結果、紛失したことも挙げられる。


日本芸術協会退会時、既に二つ目になっていた弟子は芸術協会に残した。前座の弟子のうちほとんどは、自らに帯同させ、約一年間フリー(彼ら前座は、木馬館で、浪曲の前座として落語を演ずる機会を与えられた)を経て落語協会に移籍させた(3代目三遊亭圓輔らは帯同せず)。前座の弟子は、三木助死後も(落語協会の幹部の門下に直り)落語協会に留まった。前者は8代目春風亭柏枝(後の7代目春風亭柳橋、大師匠6代目柳橋門下へ)など。後者は9代目入船亭扇橋(当時は桂木久八、三木助の兄弟分だった5代目柳家小さんの門下に直る)や林家木久扇(初代林家木久蔵、当時は桂木久男)等。彼ら元三木助門下の弟子たちは、一人一人それぞれまったく違ったキャラクター・芸風となり(そのため高座を見ただけでは旧師三木助の痕跡を辿るのは極めて困難である)、しかも彼らの多くは売れている。

得意演目
芝浜火事息子へっつい幽霊、ざこ八、味噌蔵、崇徳院三井の大黒ねずみ宿屋の仇討御神酒徳利さんま火事蛇含草近日息子加賀の千代化物使い巻き返し、など。

エピソード
小さんとは同姓で、義兄弟の杯を交わしたほどの大親友であった。この縁で、最晩年に生まれた長男の名前に小さんの本名と同じ盛夫と名付ける。盛夫は後年小さんに入門し、4代目桂三木助を襲名した。孫(娘茂子の子)の康浩は5代目桂三木助。なお、4代目三木助と5代目三木助は叔父甥の関係になる。


賭博にはまっただけに博打にまつわる噺をよくした。ある日仲間の噺家が6代目三遊亭圓生に「へっつい幽霊」の稽古をつけているとき、「あなた!それじゃあ盆の使い方が悪い」と言ってサイコロの際の振り方を演じた。それはあまりにも真に迫っているので、圓生は感心したが、そこまでやらなくてもいいのにと思ったという。


また、新宿末広亭の席亭、北村銀太郎の話によると、柄に似合わず甘党であったという。


死の際、もう死ぬからと小さんなど仲間を枕元に呼び、娘にピアノをひかせて、いよいよお別れとなったが、死なない。三木助は怒り出し、「どうも今日はだめだな」ということでみんな帰ったが、居合わせた5代目古今亭志ん生は「世の中そう都合よく死ねるわけがねえ」と言っていた。実際に息を引き取った時に枕元に居たのは2人の弟子、桂木久八(のちの9代目入船亭扇橋)と桂木久男(のちの林家木久扇)であった。


2代目三木助は東京から流れてきた3代目をわが子のように可愛がった。3代目にとっても大阪の1年間は「近日息子」「崇徳院」などのネタを教わるなど、その後の芸風に影響を与える貴重な時期であった。


いびきのうるささと朝寝坊で知られる。となると、まず肥満や睡眠時無呼吸症候群を疑うが、生涯を通じて痩身であった。また旅に出る時もラジオを手放さず(注:当時はラジオはすべて大型・卓上型だった)、チューニングを合わせながらかすかな音に耳を傾けていた。他の随行者と雑談をすることに疎んじていたからかもしれない(とんち教室収録のため地方に行くことが多かったが、ともに旅をする“落第生”(レギュラー出演者)には師匠柳橋も含まれていた)。


寝言もうるさく、また睡眠中の夢の中でしている行動をそのまま実行してしまうのは周囲を困らせることであった。二階へ階段を駆け上がる夢を見て睡眠中に足をバタバタ動かすのはよくあることで、内弟子として師匠柳橋家に住み込んでいたが、新婚だった柳橋夫妻の夜の営みを何度となく妨害した。地方巡業に行ったとき、寝ている状態なのに立ち上がり暴れだした。刀(はないのでこうもり傘)を手に相手(はいないので部屋の柱)と斬り合いを演ずるのである。柳橋は三木助のことを夢遊病と評している。


生涯最後の高座は1960年秋の東横落語会における「三井の大黒」であった。三木助はこの時すでに身体は病魔に蝕まれ両足も腫れ歩行困難の状態であった。仕方なく釈台を置いて投げだした足を隠し、「ええ、まことに不思議な形でお目どおりをいたします。我々の仲間では金馬がこのような形で演じていますが・・・・実は足が酷くむくみまして、座ることが出来ないン・・・。足を投げ出してはお客様に失礼にあたる、・・・実は出してるんですけれど。(客席爆笑)」と自身の病状を笑いで済ませ、1時間近く演じた「三井の大黒」は、最後に登場人物の名を間違えるしくじりはあったものの、実によい出来であった。なおこれは収録もされレコード化されている。


三木助の芸を賞賛し、支援し続けた人物としては、落語評論家演芸プロデューサー安藤鶴夫が知られる。しかし、安藤といえば落語評論の論調はある意味で通人気取りでまた極端に攻撃的な上、評論という手法を用いて新作落語を手がける落語家を徹底的に排斥しようとした人物であったがゆえ、熱烈な支持者がいる一方で強烈なアンチも落語・演芸業界の内外に数多く抱えており、これら安藤を嫌悪する人々の反感が、その身代わりとして三木助やその弟子たちへと向かってしまうという弊害も生まれ、三木助没後も弟子たちは長年アンチの存在に悩まされた。三木助の没後、安藤は本牧亭で「桂三木助君をしのぶ会」という追善興行を主催した。だが、同日同時刻、同じ本牧亭内の食堂では、「桂三木助君をしのばず会」という催しが安藤には極秘の内に開催されており、こちらの参加者の中にはこともあろうに本牧亭の席亭である石井英子も含まれていた。なお、この会は実質的には三木助をけなすものではなく、あくまで安藤の陰口を言い合うために設けられた席であった。ただし芸人や寄席関係者にとっては両方共が一種の踏み絵のようなもので、先約など適当な理由を付けて回避した者も少なくない。その中にあって8代目桂文楽だけは2つの会に堂々と出席したが、安藤から評論で賞賛を受けていた文楽のこの行動は、落語関係者を驚嘆させるものであった。

詳しいことは、「桂三木助 (3代目)ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%8A%A9_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

1855 三・桂三木助

三代目・桂三木助

1856a

1856b

1856c



長與 又郎新字体長与 又郎、ながよ またお、1878年明治11年)4月6日 - 1941年昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵研究の世界的権威。号は雷山。

略歴・人物
医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎正則学校第一高等学校を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業する。ドイツフライブルク大学に留学し、帰国後、東京帝国大学の病理学教授となる。夏目漱石の主治医でもあり、1916年大正5年)、漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。


伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任する。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された[1]


昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、石井四郎軍医と交流があった。


また癌研究所日本癌学会を設立し、癌の解明に努力する。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。享年63。

逸話
東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという(東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている)。


1996年、日本癌学会は長與を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。

日記
・『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』全2巻、小高健編、学会出版センター、2001年2月

栄典
位階
1918年(大正7年)2月20日 - 従五位[2]

勲章等
1941年(昭和16年)

  ・8月15日 - 男爵[3]

  ・8月16日 - 勲一等瑞宝章[4]

親族
長兄長與稱吉も医師で男爵。弟岩永裕吉同盟通信社の初代社長。弟の長與善郎白樺派の作家。妻は森村組創業者の一人森村豊の娘・玉。長男の長與太郎は銀行員で男爵位を継承、妻は志賀直哉の次女・留女子(るめこ)。四男の長與健夫も医師で、愛知県がんセンター総長などを務める。

脚注
1. 『官報』第3597号、昭和13年12月29日。
2. 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。
3. 『官報』第4383号「叙任及辞令」1941年8月16日。
4. 『官報』第4385号「叙任及辞令」1941年8月19日。

外部リンク
長与又即日記 昭和十二年十月ー十二月照沼康孝、中野実、「東京大学史紀要」第4号、1983年(昭和58年)7月

長与又郎日記 昭和十三年一月~五月照沼康孝・中野実・前田一男、「東京大学史紀要」第5号、1986年(昭和61年)2月

長与又郎日記 昭和十三年六月照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第6号、1987年(昭和62年)3月

長与又郎日記 昭和十三年七月照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第7号、1989年(平成元年)3月

長与又郎日記 昭和十三年八月照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第8号、1990年(平成2年)3月

長与又郎日記 昭和十三年九月中野実・照沼康孝、「東京大学史紀要」第9号、1991年(平成3年)3月

長与又郎日記 昭和十三年十月中野実・照沼康孝・清水康幸、「東京大学史紀要」第10号、1992年(平成4年)3月

東京帝大経済学部問題と長与又郎―長与又郎日記を中心に―照沼康孝、「東京大学史紀要」第8号、1990年(平成2年)3月
(wikiより)


1514 長與又郎

長與又郎

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朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年4月16日 - 1975年6月30日)は日本の薬学者薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士[1]帝国学士院会員、文化勲章受章者。昆虫学者の朝比奈正二郎は次男[2]、薬学者で南極探検家の朝比奈菊雄は四男。

略歴
東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。東京府士族・朝比奈和四郎の長男[1]旧制府立一中旧制第一高校を経て、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。大学院に入り助手となる[1]


1909年
、ヨーロッパに渡り、リヒャルト・ヴィルシュテッターエミール・フィッシャーに師事する。1910年、薬学博士の学位取得[1]1912年、東京帝国大学助教授、1918年、教授。


1923年、「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞1943年、文化勲章受章。1951年文化功労者

人物
1912年、下山順一郎教授の後任で講座担当となった朝比奈は、1941年に停年退官するまでの約30年間にわたりサクラニン、ナリンギンなどのフラバノンの研究を始めとする各種和漢薬成分の化学的研究を展開した[3]


生前、1951年1952年ノーベル化学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[4]

栄典
1935年(昭和10年)4月10日 - 勲二等瑞宝章[5]

家族・親族
朝比奈家
・父・和四郎(東京府士族[1]

・妻・こと(静岡、河辺富助の長女)[1]

1884年 -

・次男・正二郎[1]

1913年 - 2010年

・三男・英三[1]

1914年 -

・四男・菊雄[1]

1917年 - 2003年

・女[1]

著書
・日本隠花植物図鑑 三省堂, 1939

・私乃たどった道 南江堂, 1949

・日本之地衣 第1冊(ハナゴケ属、1950年、廣川書店)、第2冊(ウメノキゴケ属、1952年、資源科学研究所)、第3冊(サツオガセ属、1956年、資源科学研究所)

正倉院薬物 植物文献刊行会, 1955

共著編
・医薬処方語羅和和羅辞典 清水藤太郎共編 南江堂書店, 1926

・植物薬物学名典範 清水藤太郎共編 春陽堂, 1931

・処方解説医薬ラテン語 清水藤太郎共編 南江堂書店, 1933

・有機化学攬要 浅野順太郎共著 南江堂, 1936

・地衣成分の化学 柴田承二共著 河出書房, 1949

翻訳
・有機化学攬要 オットー・ディールス 蒼〓堂, 1915
Asahinaは、植物の学名命名者を示す場合に朝比奈泰彦を示すのに使われる。命名者略記を閲覧する/IPNIAuthor Detailsを検索する。)

脚注
1. a b c d e f g h i j 『人事興信録 7版』人事興信所、1925年、あ一〇一頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。
2. 朝比奈 正二郎とはコトバンク。2015年12月25日閲覧。
3. 天然物化学教室のあゆみ東京大学大学院薬学系研究科 天然物化学教室。2015年12月25日閲覧。
4. 東京新聞:朝永氏、受賞前に7回「候補」 ノーベル賞選考資料:国際 Archived 2014年8月19日, at the Wayback Machine. 東京新聞、2014年8月14日夕刊
5. 『官報』第2480号「叙任及辞令」1935年4月12日。
(wikiより)


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島田 三郎(しまだ さぶろう、1852年12月17日嘉永5年11月7日) - 1923年11月14日)は、日本の政治家ジャーナリスト官僚。幼名は鐘三郎、号は沼南。族籍は神奈川県平民[1]。衆議院議員[1]。旧姓は鈴木

経歴
幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれる。昌平黌で漢学を修め、維新後、ブラウン塾[2]沼津兵学校大学南校大蔵省附属英学校で学ぶ。1874年(明治7年)、『横浜毎日新聞』社員総代、島田豊寛(とよひろ)の養子となり、同紙の主筆となる。翌年、元老院書記官となり、1880年(明治13年)に文部省に移り文部権大書記官となるが、明治十四年の政変大隈重信派として諭旨免官となり、『横浜毎日新聞』に再び入社(この当時名称は『東京横浜毎日新聞』に変わっている)。1882年(明治15年)、嚶鳴社幹部として立憲改進党の創立に参加、同年に神奈川県会議長となった。1888年(明治21年)、沼間守一から『東京横浜毎日新聞』社長の座を受け継いだ。


1886年(明治19年)1月3日植村正久から夫婦で洗礼を受け一番町教会(現・富士見町教会)に所属する。[3]

1900年
(明治33年)にユニテリアン協会に加わるも、後に植村に謝罪して復帰を認められた。


帝国議会開設後は、神奈川県第一区(横浜市)選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。進歩党憲政党憲政本党立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩くが、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党(立憲同志会)に入り、後に憲政会に合流する。だが、憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして同党を離党して、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して新党革新倶楽部の結成に参加した。


他に、キリスト教会の諸活動、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済運動、矯風事業、選挙権拡張運動を生涯にわたって支援、労働組合運動にも理解を示し、第一次世界大戦後は軍縮を主張した。足尾鉱毒事件を告発した田中正造とは盟友であり、栃木県佐野市惣宗寺にある田中正造の分骨墓碑石に刻まれた「嗚呼慈侠 田中翁之墓」という文字は三郎の直筆である。


政治上の不正にも厳しく対応し、星亨の不正を攻撃、シーメンス事件を弾劾した。


自身は、東京専門学校の創立期のメンバー。

栄典
1896年(明治29年)3月14日 - 勲四等瑞宝章[4]

1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[5]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6]勲二等瑞宝章[7]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[8]

家族・親族
島田家
・養父・豊寛[1]

・妻・のぶ[1]

・長男・孝一交通経済学者

 1893年 - 1987年

 早稲田大学総長流通経済大学学長などを歴任した。

著書
・『立法論網』全四巻 ベンサム原著、重訳、1878年。

・『開国始末-井伊掃部頭直弼伝』私家版、1888年。

・『条約改正論』博文堂、1889年。

・『日本改造論』暸文堂、1921年。

・『島田三郎全集』全五巻、島田三郎全集刊行会、1924-5年。

・『島田三郎全集』全七巻、龍渓書舎、1989年。

脚注
1. a b c d 『人事興信録 第4版』し45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月10日閲覧。
2. 高橋昌郎、2003,20頁
3. 高橋昌郎2003年,129頁
4. 『官報』第3811号「叙任及辞令」1896年3月16日。
5. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
6. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
7. 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
8. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献
・人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。

・高橋昌郎『島田三郎伝』まほろば書房、1988年。

・井上徹英『島田三郎と近代日本』明石書店、1991年。

・高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年。

関連項目
第1次山本内閣
(wikiより)


1517 島田三郎

島田三郎

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牧田環 ( まきた - たまき )
( 1871 - 1943 )


大正・昭和初期の三井財閥の経営者。

大阪市出身。


1895年 ( 明治 28 ) 帝国大学工科大学採鉱冶金 ( やきん ) 学科を卒業して三井鉱山に入社。


技術者として、とくに 1913年 ( 大正 2 ) 以降は役員として、三井財閥の炭礦鉱山部門の近代化、同部門を拠点とする石炭化学工業、鉄鋼業などの重化学工業の多角的展開に大きく貢献した。


三井財閥の最高指導者であった団琢磨 ( だん - たくま ) と、鉱山技術者の後輩かつ女婿として密接に結ばれていたことも、彼の活発な経営者行動に力あった。


1936年 ( 昭和 11 ) 三井鉱山取締役会長を辞任したのちは、昭和飛行機社長、石炭液化の帝国燃料興業総裁、財界諸団体役員に就任し、技術者出身財界人として重きをなした。

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長與 專齋新字体長与 専斎、ながよせんさい、天保9年8月28日1838年10月16日) - 明治35年(1902年9月8日)は、日本医師医学者官僚本姓藤原氏、号は松香、は秉継。

略歴
肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。


大村藩藩校である五教館長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。


文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツオランダの医学および衛生行政を視察した。


明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。


明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった[1]


1886年
(明治19年)4月27日、元老院議官1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[2]。明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。

栄典
位階
1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[3]

1892年(明治25年)4月1日 - 正四位[4]

勲章等
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]

1895年(明治28年)6月21日 - 勲二等瑞宝章[6]

家系

・妻・園子 - 長與家が侍医として仕えていた旧大村藩の名族・後藤多仲の長女。剣術家の斎藤歓之助は義兄(姉の夫)にあたる。

・長男・長與稱吉(1866年 - 1910年) - 医師(長与胃腸病院院長)であり、専斎の功により男爵を授けられた。
  ・妻は後藤象二郎の娘・延子。

  ・長女・美代子は斎藤博妻。

  ・次女・仲子は犬養毅三男の犬養健妻。

    ・孫に評論家犬養道子、元共同通信社社長犬養康彦

・長女・松方保子 - 松方正義長男で十五銀行頭取の松方巌に嫁ぐ。

  ・長女・竹子は黒木三次妻。

・次男・長與程三(1875年 - ?) - 実業界に進み、横浜の大手生糸商社・茂木合名理事、日本輸出絹連合会組長。学習院卒業後、横浜製糸合名会社に入社、のち渡米してペンシルベニア大学に学び、帰国後に横浜の野沢屋茂木輸出店(のち茂木合名)の総支配人として、先代急逝により年若くして社長となった3代目茂木惣兵衛を支えた[7][8]。系列の横須賀鉄工場、日本火薬製造の重役も務める[7]

  ・妻の沢子は2代目茂木保平(初代茂木惣兵衛の娘婿で名古屋の豪商瀧定の次男)の娘[7]

・次女・長与藤子 - 1894年に15歳で鎌倉由比ガ浜沖にて溺死。

・三男・長與又郎(1878年 - 1941年) - 病理学者で東京帝国大学総長、男爵。

  ・妻の玉は森村財閥森村組創業者・森村豊の娘。

  ・男爵を継いだ長男・長与太郎の妻は志賀直哉の次女・留女子(るめこ)。

・四男・岩永裕吉(1883年 - 1939年) - 幼少期に実母の弟夫婦の養子となる。同盟通信社の初代社長。日本の通信自主権の確立に尽力した[9]

・三女・平山道子 - 医師・平山金蔵に嫁ぐ。

  ・平山は義兄・稱吉の死後、長与胃腸病院院長を引き継ぐ。日本消化器医学会会長、日本医科大学理事なども務め胃腸病学の大家となる。

・五男・長與善郎(1888年 - 1961年) - 白樺派の小説家、劇作家。

詳しいことは、「長與專齋ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%88%87%E5%B0%88%E9%BD%8B  
(wikiより)

1512 長與專齋

長與專齋

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河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日慶応2年1月12日) - 1945年昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。


中国や日本に伝承されている漢語翻訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たした。


西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。また全ての著作が戦前に出版されたものであり、既に著作権が切れているため、国立国会図書館デジタルコレクションなどで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは青空文庫などでも公開されている。

経歴
1866年(慶応2年)摂津国山伏町(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁)生まれ。父は川口善吉、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする職人であった。6歳から清学院という寺子屋に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二番錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年明治19年)、京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。


1888年(明治21年)に堺市立宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が東京市に創設した哲学館東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度を受け出家し、同寺の住職となる。1892年(明治25年)3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗する(その理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている)。

邦人未踏のチベットへ
1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。


1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士英語版より釈迦牟尼如来舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地にてボダナートの住職であるブッダ・バジラ・ラマ師(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、ポカラムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。


1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。それまで中国人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方、以前に中国人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。


たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる(本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。


1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。 親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。


同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了・偶然出会った探検家の藤井宣正・後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。


同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。


その後、河口慧海は1913年大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。


ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。

帰国後
1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年(明治42年)に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。


帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。 慧海の遺骨は谷中天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園(1種ロ 15号 5側(西1地区))に改葬されている。

記念碑など
現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。 また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。 世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。 和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。 その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。 同じくネパールのマルファ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されている。 さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。

詳しいことは、「河口慧海ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%85%A7%E6%B5%B7
(wikiより)

1511 河口慧海

河口慧海

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高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日1854年12月22日) - 大正11年(1922年7月22日)は、日本科学者実業家。名誉工学博士[1]薬学博士[要出典]タカジアスターゼアドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[2]三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。

経歴
幼少からアメリカ永住まで
1854年越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた。母は造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)の娘で名を幸子(ゆき)と言う、後年の清酒醸造のの改良にも繋がっている。


1865年
慶応元年)、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都兵学塾大阪緒方塾(適塾)に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。


1880年からイギリスグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年アメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。博覧会取材のラフカディオ・ハーンに会う。帰国後の1886年専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年に結婚[3]1890年に渡米しアメリカへ永住することになる。

研究とビジネス
1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立[4]。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本のを使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なデンプンの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、高峰は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、高峰の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、高峰の暗殺を試みた。その時高峰は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは高峰の研究所に侵入、結局高峰を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。


1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。


高峰が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界で初めてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。


高峰は1899年に東京帝国大学から名誉工学博士号を授与された[1]1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学士院会員となる[5]。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。


また、アメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、富山県黒部川の電源開発による電気を利用した日本初のアルミニウム製造事業の推進に取り組み、1919年高峰譲吉らによって 東洋アルミナムを設立。アルミ精錬に必要な電源確保のため黒部川に発電所を建設することになり、その資材輸送手段として鉄道建設も計画し黒部鉄道を設立、1921年鉄道免許状が下付された。また宇奈月温泉の礎となった黒部温泉株式会社や、黒部水力株式会社を立ち上げている。


1922年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去[6]。日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった[7]。また黒部鉄道の開業が同年11月5日だったため、目にすることは叶わなかった[8]

栄典
1906年(明治39年)4月18日 - 勲五等双光旭日章[9]

1915年(大正4年)11月10日 - 勲四等旭日小綬章[10]

家族
・父・高峰精一 (1827-1900)


・母・津田幸子 (1835-1894)


・妻・キャロライン・ヒッチ (Caroline Field Hitch, 1866-1954) - ファルマス (マサチューセッツ州)で生まれ、ルイジアナ州ニューオーリンズで育つ[11]。父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなどをしていた[12][13]。母親はクレオール[14]。アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して1884年にニューオーリンズで開催された博覧会World Cotton Centennial で譲吉と知り合う。ヒッチ家で開かれた若い博覧会スタッフの打ち上げパーティに譲吉が出席したことが縁とも[15]、譲吉がヒッチ家に下宿したとも言われる[11]。1887年にニューオーリンズで結婚[15]。キャロラインの母は高峰がアメリカに設立したジアスターゼ製造会社の初代社長に就任、以降キャロラインの両親が高峰の事業の重役を務める[15]。譲吉没後、キャロラインは地所を処分し、1926年にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若いチャールズ・ビーチ(Charles Pablo Beach、1889-1967、カンザス生まれカルフォリニア育ち。アリゾナ大学農学部卒)と再婚、農場を次々と購入し大牧場主となった(所有地はキャロライン没後1956年に夫により売却)[16][17][18]。1935年に農場で働くメキシコ人労働者のために地元の町Valiにカトリック教会「Santa Rita in the Desert」を建設、のちにキャロライン、チャールズとも同教会で葬られた[19]。キャロラインの妹(Marie Morel Septima Hitch)の夫(Henry George Jr.)と、ウィリアム・C・デミルの妻(Anna Angela de Mille)はともにヘンリー・ジョージの子であるため、高峰家とデミル家は親戚にあたる[20][21][22]


・長男・譲吉II:ジューキチ・ジュニア(Jokichi Jr., 1888-1930)[23] - 名門ホレース・マン・スクールイエール大学卒業後、ドイツに化学留学、パリパスツール研究所でも学ぶ[24]。帰国後父の会社で働き、1915年に引退した父親に代わり代表となる[24]。Hilda Petrie(スコットランドとノルウェーの混血)と結婚し、2人の子をもうける[24]。父親の没後、全事業を引き継いだが、41歳でニューヨークのルーズベルト・ホテルの14階から転落死した[24]。母キャロラインは高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と断定したが(以前にも放火され会社が全焼している)、公式発表では飲酒による事故死とされた[24]


・次男・エーベン・孝(Ebenezer Takashi, 1890-1953)[23] - イエール大学卒業。1916年にEthel Johnsonと結婚。披露宴はニューヨークの社交クラブコスモポリタン・クラブで400人を招いて盛大に行われたが、1925年に離婚[25]。健康のためアリゾナに移住し、のちに母親の再婚相手となるチャールズ・ビーチと同居していた[19](キャロラインとの離婚を望んでいた父の譲吉は日本にいることが多く、エーベンは孤独な母のために若い友人をよく紹介しており、ピーチもその一人だった[26])。1928年にジーグフェルド・フォリーに出演していたショーガールのOdette Jeanと駆け落ちし結婚[24]。兄没後事業を引き継ぎ、さらに発展させた[24]。日本生まれだったためアメリカの市民権が得られず第二次大戦勃発で財産没収の可能性があったが特例で許され、ペニシリン製造などでアメリカ軍を支援した[24]。1943年にイギリス女性Catherine MacMahonと結婚。エーベン没後、妻が事業を売却し、財産は散逸したが、寄付により、サンフランシスコゴールデンゲート公園高峰庭園が造られた[24][27]


・孫・ジョーキチ・タカミネIII( Jokichi (“Joe”) Takamine III, 1924- 2013[28]) - 5歳で父である二代目譲吉を亡くし、母方で育つ。マサチューセッツ州のウイリアムス・カレッジ (Williams College) とニューヨーク大学医学部を卒業後、ニューヨークとロサンゼルスの病院勤務を経て、1957年に開業。1974年に仲間とセント・ジョンズ化学物質依存症治療センターを立ち上げ、アルコール中毒と薬物依存症の分野での指導的な役割を果たした[29]


・親戚・南桂子 - 妹・節子の孫

評価と志を継ぐ事業
生涯に亘り科学者、かつ企業人として、数々の国際的業績をあげてその生涯を全うした。1922年高峰没後、正四位勲三等瑞宝章を授与。また、「ニューヨーク・タイムズ」は「光輝ある故高峰博士」と題した社説を掲載し、高峰の業績を大きく称えた。

高峰譲吉博士顕彰会
1950年昭和25年)、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成され、1952年高峰賞を制定し、在米高峰家拠出の奨学金により10年間、その後更に10年間は在米マイルス製薬会社の高峰研究所取締役L.A.アンダーコフラー博士に引き継がれ、現在は顕彰会の事業費とも三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄っている。個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、2006年度(第56回)までの受賞者は742名に上り各界で活躍している。

107年目の名誉回復、2006年4月
アドレナリン1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三がウシの副腎から世界で初めて結晶化した。一方、エピネフリン抽出をした米国研究者が高峰譲吉は研究上の盗作を行ったと、事実誤認の非難をしたことも災いし、また高峰譲吉は醸造学者であり薬学での業績が少なかったことなどの経緯もあり、ヨーロッパではアドレナリンと呼ばれる薬は日本と米国では、副腎髄質ホルモン「エピネフリン」と長らく呼ばれてきた。


しかし、高峰譲吉の業績に詳しくその著書もある菅野富夫北海道大学名誉教授)らが、日本は発見者高峰譲吉の母国であり、「エピネフリン」に代わり正式にアドレナリンの呼称として欲しいとの厚生労働省への要望が実り、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれることとなった。アドレナリンの発見およびエピネフリン参照。

その他
ワシントンD.C.ポトマック川にある美しい並木は、1912年に東京市が寄贈したが、高峰は寄贈の計画発案当初から参画、尾崎行雄東京市長らとともに実現に大きな役割を果たした。今日では寄贈を記念して毎年全米桜祭りが行われている。


・1905年にはニューヨークに日系アメリカ人と日本人のための紳士クラブ「Nippon Club」を設立した。


・菩提寺は金沢市寺町5丁目にある臨済宗国泰寺である。塀の瓦に高峰家の家紋「八ツ矢車」が彫られている。高峰自身は亡くなる前に病床でカトリックに改宗した[19]


・金沢市梅本町(現在の大手町)にあった実家の離れが丸の内の黒門前緑地に移築されている。


・生誕の地である高岡の土地は高岡市に寄贈、同市は生家跡を「高峰公園」として整備。園内には顕彰碑と胸像が建ち、毎年生誕祭が行われている[30]。また、高峰公園に隣接する、高岡信用金庫本店別館内に高峰譲吉の功績を紹介するコーナー「たかしん高峰譲吉記念館」が2017年平成29年)12月1日に開館した(入館無料)。

詳しいことは、「高峰譲吉ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89  
(wikiより)

1510 高峰譲吉

高峰譲吉

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三輪田真佐子 ( みわた - まさこ )
( 1843 - 1927 )


1866年 ( 慶応 2 ) 岩倉具視 ( ともみ ) の内殿侍講となり、69年 ( 明治 2 ) 27歳で三輪田元綱と結婚。


1979年夫と死別後、松山で明倫学舎を開き、松山師範学校教師を務める。


1987年上京して翠松 ( すいしょう ) 学舎を設立。東京音楽学校、日本女子大学校で教鞭 ( きょうべん ) をとる。


1902年 ( 明治 35 ) 翠松学舎を発展させて三輪田高等女学校を創設。


その女子教育思想は、儒教的女徳論と明治的国家主義との結合した良妻賢母主義であった。

愛国婦人会などにも関与。


著書に『女子の本分』(1894)、『女子処世論』(1896)、『女子教育要言』(1897)などがある。

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品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日1843年11月20日)- 明治33年(1900年2月26日)は、日本武士長州藩士)、政治家[1]栄典従二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。は扇洲。別称に橋本八郎松本清熊などがある。

経歴
天保14年(1843年)、長州藩足軽品川弥市右衛門池田六左衛門の長女まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。


明治維新
後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツイギリスに留学する。内務大書記官や内務少輔農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。


明治24年(1891年)に第1次松方内閣内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。


民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。


明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去[2]。享年58。

人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる。


・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している。


・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年(1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[3]


・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した。品川の死後、山口県下関市功山寺にも建立されている。


東京都千代田区九段南田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲の監督によるという。


大日本山林会初代幹事長を務めた。


大日本水産会 第一次幹事長(初代会長に相当)を務めた(任期:明治15年(1882年)2月12日 - 同19年(1886年4月26日[4]


大日本農会初代幹事長を務めた。


・1885年(明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている。


栄典
位階
1885年(明治18年)10月31日 - 正四位[5]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6]

1891年(明治24年)6月15日 - 従二位[7]

1900年(明治33年)2月26日 - 正二位[8]

勲章等
1884年(明治17年)7月17日 - 子爵[9]

1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[10]

1900年(明治33年)2月26日 - 勲一等旭日大綬章[11]

系譜
・品川氏
弥一右衛門━━弥二郎━━弥一━━清太郎

脚注
1. 品川弥二郎”. kotobank.jp. 2018年10月10日閲覧。
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)140頁
3. 鳥谷部春汀『明治人物評論・正』博文館、1898年、22-30p。
4. 『大日本水産会百年史』社団法人大日本水産会、1982年。
5. 『官報』第711号「叙任」1885年11月12日。
6. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
7. 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
8. 『官報』第4995号「叙任及辞令」1900年2月28日。
9. 『官報』第316号「叙任及辞令」明治17年7月18日。
10. 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
11. 『官報』第4994号「叙任及辞令」1900年2月27日。

関連作品
テレビドラマ
・『竜馬が幾く』(1968年、NHK大河ドラマ、演:岡本富士太

・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:荒川太郎

・『竜馬が幾く』(1982年テレビ東京 ワイドドラマ、演:天田俊明

・『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:廣田高志

・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:音尾琢真

関連項目
第2回衆議院議員総選挙

本山白雲九段坂公園にある品川弥二郎の銅像の作者)

外部リンク
品川弥二郎 | 近代日本人の肖像

品川 弥二郎(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)

品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館 憲政資料室

品川弥二郎関係文書(その2)|国立国会図書館 憲政資料室 
(wikiより)


1506 品川弥二郎

品川弥二郎

1506a

1506b

1506c



長州藩士。

文久三(1863)年1月21日京都日ノ岡で保守派の同藩士・香川助蔵を暗殺、3月7日河原町藩邸で自殺した。
享年 22歳。

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長州藩士。

文久三(1863)年1月21日京都日ノ岡で保守派の同藩士・香川助蔵を暗殺、3月7日河原町藩邸で自殺した。
享年 23歳。

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村井修理少進は尾張の出身。

天保6年生れ。


安政5年、蔵人所衆となる。


広く国漢の書を学び、兵法にも達しており、尊攘の精神に燃え、常に幕府の専横に憤りの念を抱いていた。

嘉永安政の頃より尊王の志士達と交わり、尊攘の大義を称えた。


安政の大獄の折には、危うくその難を免れた。


文久2年3月、長藩長井雅楽の所説航海遠略策に断然反対し、また、和宮降嫁に反対して、これに尽力した岩倉具視らの排斥運動をした。


武市瑞山らのために尽力し、薩長連合のことについても奔走した。

山陵奉行戸田忠至(大和守、宇都宮藩家老)の下で諸陵調方をつとめた。


文久3年9月、幕吏によって逮捕されて、六角獄に投獄された。以後5年間の獄舎生活をすることになる。

獄中にあっても政礼は学問を怠らず、在獄の同志らと詩歌の交換をしたりした。

元治年間に至ると獄中における悲惨な処刑を目のあたりにする。


元年7月20日夕刻、禁門の変の火災に慌てた、六角獄内の処刑は、悲惨の限りであった。

当時もまた同じ獄中にあって、この厄を免れた。


政礼は獄中の様子を縲史に書き残した。

慶応3年12月12日朝、与力・三浦貞次郎の命令で、政礼は同志10数名とともに、断罪に処せられた。享年33歳。


遺骸は他の人々とともに、二条御土居の刑場の穴に埋められたが、村井の義弟・藤原某が刑場番人に何がしかの金を与え、村井の遺骸を掘り出して、その首を洗い清めて、東山霊山へ改葬し、御所を拝するごとく墓を建てた。

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林 忠五郎(はやし ちゅうごろう、天保9年(1838年)? - 元治元年6月16日1864年7月19日))は、水戸藩士。


水戸藩士林正清の子。

文久
3年(1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行、水戸藩・一橋家警衛世話役として京に滞在し、禁門を守衛する。

当時は公武合体派諸侯の中心人物が徳川慶喜であり、その仲介実行役で攘夷派を駆逐しようと図っていたのが一橋家家老並平岡円四郎と見られていた。

元治元年6月16日、江幡広光ら数名とともに、平岡を京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で斬殺した。

平岡は即死だったが、一橋家使役過人川村恵十郎により、江幡広光とともに殺された。

墓所は京都市東山区霊山墓地
(wikiより)

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清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)下旬 - 1933年昭和8年)7月31日)は、明治期の女性作家自由民権運動の女性活動家。出生届出は1868年1月。

生涯
出身地は岡山県[1]、出生地は京都府[2]。本名は清水豊子、筆名はつゆ子。戦前の興信録では名を「トヨ」としているものもある[1]


京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚[2]。晴正とともに自由民権運動に携わるが[2]、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と結婚後も妾として囲っていたため[2]、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い[2]、その後は女権運動に携わるようになる[2]。男女同権の立場から一夫多妻や二重結婚を否定するようになり[2]、1889年(明治22年)晴正と離婚[2]。翌1890年(明治23年)『女学雑誌』記者となり[2]、翌1891年(明治24年)、「こわれ指環」で文壇に登場[2]。この頃自由党所属の政治家・自由民権運動家である大井憲太郎によって妊娠させられ正式に結婚しないまま出産し[2]、その子供を兄の養子とした[2]。1892年(明治25年)、農芸化学者古在由直と結婚し[3]古在紫琴の名で女性作家として活動したが、1901年(明治34年)、「夏子の物思ひ」以後、筆を絶つ[2]。作家の山口玲子は『泣いて愛する姉妹に告ぐ - 古在紫琴の生涯』(草土文化、1977年)を上梓している。

主な作品
・『こわれ指環』(1891年)

・『したゆく水』(1898年)

・『移民学園』(1899年)

・『夏子の物思ひ』(1901年)

・『紫琴全集』(1983年) - 次男・古在由重の編纂により発行。

家族・親族
父親の清水貞幹は漢学・国学に通じた人物で、1870年(明治3年)に備前国和気郡片上村(現.備前市)より一家で京都に転居し[4][5]、1881年(明治14年)まで京都府庁勧業課などに勤務[6]舎密局で化学製品の実験製造なども担当した[7]。妻の留以との間に6人の子をもうけ、豊子はその三女で、姉2人兄2人妹1人がいる[7]


最初の夫・岡崎晴正は岩手県出身の免許代言人で、免許代言人制度が誕生した翌年の1877年(明治10年)に免許取得[8][9]。全国各地の代言人は法律の専門知識を活かして事件の解決に取り組むとともに、盛んに政談演説会を開き、日本の自由民権運動・政党運動をリードしたが、岡崎も1880年(明治13年)に盛岡市内の芝居小屋で開かれた「政談演説討論会」で他の免許代言人らとともに「国会は是や否や」を巡る討論に参加している[9]。のちに奈良の代言人中心の知識人グループ「興和会」(寧良交諭会)の中心的メンパーとなり、1887年(明治20年)には妻の紫琴とともに奈良瓦堂劇場に二千人を集めた演説会に登壇するなど、奈良民権家、大同団結運動派の人々と活動し、興和会発行の『興和之友』の特別寄稿家でもあった植木枝盛と紫琴が知り合うきっかけとなった1888年(明治21年)の懇親会にも同席していた[10][11]。紫琴との間に男児をもうけたが、結婚4年後の1889年(明治22年)に離婚[12]


2人目の夫・古在由直との間に4男1女をもうけるが[3]、三男と長女は夭折[3]。長男・由正は東洋史学者幣原坦の次女・澄江と結婚[1][13]。次男・由重は哲学者[3][14]天文学者古在由秀は由正・澄江夫妻の長男であり[1][14][15]農学者古在豊樹は由重の子なので、由秀と豊樹はともに紫琴の孫にあたる。


大井憲太郎との子・清水家邦(1891年生)は紫琴の兄・清水謙吉の養子となったが1901年に謙吉が亡くなり、祖父貞幹が面倒をみたのち、小山慎平(貞幹の弟子で紫琴の姉・貞の夫。倉敷町初代町長)に育てられ、岡山商業高校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)、慶應義塾理財科を卒業し、古在家とも親しく交流があった[16][17][18]。大学卒業後はチュコスロバキアでの外交関係その他の職についた[19]

詳しいことは、「清水紫琴ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%B4%AB%E7%90%B4
(wikiより)

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神保長治 ( じんぼう - ながはる )
1715没 


新五左衛門。

江戸期の旗本。


元禄年間 ( 一六八八 ~ 一七〇四 ) の図に名がある。


家康の墓所日光山の管理を行っていた。


一七一二年佐渡奉行となる。


現在の神保町に広大な屋敷があり、屋敷内を通る小路は神保小路とよばれていた。
そこから神保町の名がうまれた。

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昭和七年十月一日、足立区の誕生とともにこの地にあった千住町消防組屯所は、足立消防署 ( 昭和二十二年八月一日、千住消防署と改称 ) となり、近代消防が発足した。


消防組織の歴史を遡れば、享保四年 ( 一七一九 ) ときの江戸町奉行・大岡越前守忠相 ( ただすけ ) の肝煎 ( きもい ) りで江戸町火消 ( まちびけし ) が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとする。


千住も江戸四宿の一つとして栄え、東北路要衝であったところから、文政十二年 ( 一八二九 ) に戒坊更番所 ( かいぼうこうばんしょ ) を建て町民が管理したという。


安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治二十八年からは自治体の千住消防組として活躍した。


ここにある南北消防組記念碑は、大正十二年四月に建てられたもので、創始以降の殉職物故者の指名を記し慰霊顕彰している。
(案内板より)

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師半井桃水に宛てた書簡分だそうです。


樋口一葉玉梓( たまづき ) 乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡分である。


「塵中につ記」に一葉は明治二十七年三月二十六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。


"君はいたく青みやせてみし面かけは何方にか残るへき"とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。
(碑文より)    

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「羅漢 ( らかん )」は「阿羅漢 ( あらかん )」の略で古代インド語サンスクリットの「アルハット」が語源です。


直訳すると「するに値する人」「受ける資格のある人」の意味です。


これから発展して「修業を完成し、尊敬するに値する聖人につけられる名称となりまた。
(案内板より)

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