本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2020/01

〇 村山たか女 ( じょ ) 創建の弁天堂
此の弁天堂は、舟橋聖一作


花の生涯のヒロイン、村山たか女 ( 妙寿尼 ) が慶応三年に創建したものです。


たか女は文化六年 ( 1809年 ) 已已 ( きみ ) の年に生まれました。


已 ( 白い蛇 ) は、弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思われます。


井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年の後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼僧として行いすまし、明治九年九月丗日当寺に於て、六十七才の生涯を閉じたのでした。


法名、清光素省禅尼
(案内板より)

村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。

0372 村山たか女

⇧ たか女晒し者の図(金福寺蔵)


生涯
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮侍女となる。


20歳になり京都に上って、祇園芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であったために自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。


1860年
安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられるも女性ということで殺害を免れたが、三条河原に3日3晩晒された。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩士・長州藩士によって斬殺され、首を晒されている。


その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。墓は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。


長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年平成23年)の末、京都市東山区の井伊美術館で、直弼がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られている[1]

脚注
1. “井伊直弼、生身の恋文 東山の美術館発見”. 京都新聞 (京都新聞). (2012年2月13日). http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120212000068 2012年2月13日閲覧。 

〇 金福寺
金福寺(こんぷくじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺である。山号は佛日山。本尊は聖観音菩薩詩仙堂の少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵がある。


また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである村山たか(村山たか女)ゆかりの寺として知られる。

由緒
864年貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。


その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。


幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。

芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。


元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。

文化財
・芭蕉翁像・・与謝蕪村筆

・洛東芭蕉庵再興記・・与謝蕪村とその一門が芭蕉庵を再興した際に、蕪村が寄せた俳文。

・宝塔・・蛇が入っているもので、村山たか女が寄進した。




所在地

〒606-8157

京都府京都市左京区一乗寺才形町20
(wikiより)

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⇧⇩ 村山たか女 ( じょ ) 創建の弁天堂

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⇧ 寺内を、可愛いコンパニャンが案内してくれました。



昭和 34年 9月に建てられたもので、もとは昭和 6年 5月に一度建てられているが東京大空襲で破損してしまった。


さらに遡って大正 2年 10月に建てられた墓が元祖であるという。


通称を太鼓塚といって、5月場所後に法要が行われているという。由来は昭和 58年に建てられた副碑に記されている。


〇 歴代呼出し各々之霊位
・寛吉  =  飯田寛吉
・賢市  =  田村賢市
・善三郎 =  杉本善三郎
・永男  =  福田永男
・兼三  =  上田兼三
・米吉  =  安藤米二
・忠   =  上田忠
・照夫  =  高栖照雄
・一夫  =  溝口和年
・政弘  =  佐藤正博
・長八  =  川村憲司
・三平  =  伊藤三平
・幸太郎 =  多田幸太郎
・康夫  =  新井培隆
・勝巳  =  加藤克己
・三郎  =  荒俣武雄
・勲   =  佐々木勲
・安雄  =  高沢安雄
・秀雄  =  山本秀人
・護   =  雑喉護
・拓郎  =  花里拓郎
・琴二  =  上江田勝二
・次郎  =  西出和夫
・克之  =  小山克之
・志朗  =  嶋田義和
・重夫  =  谷口卓美
・吾郎  =  赤山正春
・峰三  =  佐藤峰三
・長太郎 =  澁谷長太郎
( 2012.06.14当時 )


〇 呼出
呼出(よびだし)とは、大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。呼び出しとも書かれる。行司と異なり特に受け継がれている名跡はないが、力士・行司と違い、下の名前しかないことが特徴。

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⇧ 呼出(服装)


歴史
呼出の元々の云われは上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、「前行司」「言上行司」[1]といって行司の役割に含まれる職種であった。


平安時代節会相撲には呼出という呼称は存在しなかったが、天皇貴族に相撲人の奏上する「奏上(ふしょう)」という役目があって、「奏上者」の職名があった。これが現在の呼出の始まりとされている[1]


江戸時代以後に勧進相撲になり組織的な制度ができるにつれて独立した職種となった。「触れ」とか「名乗り上げ」と呼ばれた時代もあったが、享和年間(1801-1804年)になって「呼び出し」といわれるようになった(しかし、それ以前の寛政年間(1789-1801年)の番付に「呼び出し」の文字が確認されている)。


現在の呼出の定員は45人、採用資格は義務教育を修了した満19歳までの男子、停年(定年。以下同)は65歳。大相撲においては、力士、行司、床山と同様に各相撲部屋に所属する。2019年3月場所前の相撲誌の記事によると、1場所の研修期間後に面接を経て採用となるという[2]

役割
呼出の主要な役割は、呼び上げ、土俵整備、太鼓叩きであるが、その他にも多種多彩な業務を行っている[3]


・呼び上げ

呼出の役割のうち、最も目立つものである。土俵上で扇子を広げて、独特の節回しにより東西の力士を呼び上げる。初日から数えて奇数日は東方から先に、偶数日は西方から先に一声で呼び上げ、十両最後の取組および、片やが三役以上の力士の場合には二声で呼び上げる(優勝決定戦を除く)。奇数日の場合、一声は「ひ~が~し~、琴~×~×~、に~し~、○~○~やま~」、二声は「ひ~が~し~、琴~×~×~、琴~×~×~、に~し~、○~○~やま~、○~○~やま~」となる。仕切りの制限時間は呼出の呼び上げが終わった時点から計測する。


・土俵整備

本場所・巡業・各部屋の土俵造り(土俵築)、取組の合間にほうきで土俵を掃き清める、乾燥する土俵への水打ち、力水・力紙・塩・タオルの補充と管理、全取組終了後に仕切り線を書くなど。


・太鼓叩き

触れ太鼓(初日の取組を触れ歩きながら打つ太鼓)、寄せ太鼓(本場所の早朝に打つ太鼓)、はね太鼓(本場所の全取組の終了後に翌日の来場を願って打つ太鼓)など。触れ太鼓の口上は、「相撲は明日が初日じゃぞぇ~、琴~×~×~には、○~○~やま~じゃぞぇ~、ご油断では詰まりますぞぇ~」となる。


拍子柝打ち

土俵入り横綱土俵入り、土俵の進行などの合図など。


懸賞金

懸賞幕をもって土俵を一周する、懸賞金を行司に渡すなど。


・力士の世話

座布団を交換する、時間制限を伝える、水桶の横にてタオルを渡すなど。地方巡業では力水を力士につけることもある。


審判委員、行司の世話

審判委員の座布団交換、ひざ掛けの世話、顔触れ言上の介助など。


・役員室、相撲部屋の雑務


現在では全員が呼び上げを行っているが、古くは分業制で、呼び上げ専門の呼出もいれば、他の仕事を専門とする者、つまり「呼出と名がつくものの、呼び上げない呼出」もいた。現在のように全員が呼び上げを行うようになったのは、1965年(昭和40年)からである。また、呼び上げのときの声の通り具合や声量は評価の対象ともなっている。

階級
大相撲において、呼出の番付制が導入されたのは1994年(平成6年)7月場所からで、以下の9階級となる。それまでの階級は、1等から5等までの等級制であった。それと同時に本場所における場内アナウンスでも紹介されるようになった。


現在は十両呼出以上の名前が番付に書かれており、それ以前は1949年(昭和24年)5月場所から1959年(昭和34年)11月場所までの10年間、呼出が番付に掲載された(番付には「呼出し」と書かれた)。初めて呼出として番付に掲載された者は太郎、夘之助、栄次郎、源司、安次郎、栄吉、福一郎、小鉄、徳太郎、茂太郎、粂吉、松之助、寅五郎、雄次、多賀之丞、島吉の16人。歴史的経緯もあり、呼出は行司よりもやや地位が低く見られた[1]

現在の階級
9階級の役責に分類され、行司の階級と違い、幕内格、十枚目格といった「格」という名称は用いない。


・立呼出

・副立呼出

・三役呼出

幕内呼出

・十枚目呼出

幕下呼出

三段目呼出

序二段呼出

序ノ口呼出


力士・行司はすべての階級が番付に表記されているが、呼出は十枚目呼出以上が番付表に表記されていて幕下呼出以下は番付表に表記されない。


また、幕下格以下の行司と同様、幕下呼出以下は本場所の取組における場内アナウンスでの紹介は行われていない。ただし、千秋楽の幕内土俵入りの前に行われる十枚目以下各段の優勝決定戦では、幕下格以下の行司・幕下呼出以下でも「呼出は○○、行司は木村(式守)○○、○○(階級)優勝決定戦であります」との場内アナウンスが行われる。


基本的にはほぼ年功序列であるが、昇格のときに地位の追い抜きが発生することもある。例えば、1999年1月場所から2000年11月場所までは次郎と克之の序列が現在と入れ替わっていた。

詳しいことは、「呼出ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BC%E5%87%BA
(wikiより)

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他の合祀されている方は、以下となります。

墓誌は下記のとおり。戒名は省略した。太字が歴代藩主。


・慶長10年5月15日初代忠明室織田上野介信?女??
・万治3年2月12日初代忠明后室出藩?子吉政女
・元禄11年6月23日2代忠弘室細川越中守忠利女藤姫寿17歳・・・「天眼寺殿」
・元文2年3月25日3代忠雅松平大膳太夫綱広寿女58歳
・享和元年7月16日4代忠刻室酒井左衛門?忠寄女寿76歳
・安永8年6月29日5代忠啓室松平大膳太夫重就女寿23歳
・寛政3年3月13日6代忠功室5代忠啓嫡女久仁姫寿27歳
・文政3年正月10日8代忠翼室5代忠啓女国姫寿36歳
・天保12年6月27日9代忠堯??宮?敬親????7歳
・万延元年3月27日10代忠彦室松平因幡平斎女?姫寿48歳
・慶応2年5月10日11代忠国室奥平大膳太夫昌?女寿39歳
・大正8年4月8日13代忠敬室伏見宮邦家親王王女節宮?63歳
・昭和57年7月7日14代忠寿 100歳
・昭和14年9月13日14代忠寿室男爵奥田義人女咲子寿48歳
・昭和22年10月24日14代忠寿室藤光曜妹都和子寿41歳
・平成15年9月1日15代忠晃寿89歳
・平成11年6月7日15代忠晃室義83歳

以上 17人となります。

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松平忠晃(まつだいらただあきら)・15代     
大正3年?~平成15年9月1日(1914?-2003)

奥平松平家15代当主。

日本銀行勤務。89歳没。

墓は、天眼寺墓地。

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松平忠寿(まつだいらただひさ)・14代     
明治15年~昭和57年7月7日(1882-1982)

奥平松平家14代当主。

父、松平忠敬(長男)。

大正7年(1918)襲封。

海軍兵学校卒業。日露戦争に出征。

昭和3年(1928)予備役、海軍大学に入学。

横須賀鎮守府海軍軍需部第1課長・「榛名」副長。

また、大礼使としてオランダへ行く。

海軍大佐。

貴族院議員。従三位勲二等瑞宝章。元華族の最高令者であった。

太平洋戦争で戦災に遭った目黒の自宅300坪を松平農園とし、70歳で東京農業大学聴講生となり、野菜作りに励む。

尚友会倶楽部理事長。100歳没。

先妻は、男爵奥田義人の娘咲子。後妻は、藤光曜の妹都和子。

墓は、天眼寺墓地。

「天寿院殿徳翁玄忠大居士」。

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松平忠敬(まつだいらただのり)・13代 
    
安政2年7月14日~大正8年11月15日(1855-1919)

奥平松平家13代当主。

武蔵忍藩主(5代)。

幼名、篤之助。

父、12代米沢藩主上杉斉憲(6男)。母、松平頼恕の娘。

明治2年(1869)松平忠誠の養嗣子となり、忠誠の死去により相続。

版籍奉還で忍藩知事。

封地は、武蔵・伊勢・播磨の3カ国、218カ村。実収14万1725石。

2回の藩政改革を実施。

養豚奨励政策を実施。

廃藩置県で免官。東京に移転。

明治5年(1872)イギリスに留学。

明治17年(1884)滋賀県御用掛・子爵。

旧藩士の不正事件で地位を追われ米沢に帰り中学校教師を勤めた。

明治28年(1895)東京に戻る。

正3位。

夫人は、一品伏見宮邦家親王第12王女節宮貴子。65歳没。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「忠恭院殿敬巌柏堂大居士」。

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松平忠誠(まつだいらただざね)・12代     
天保11年1月5日~明治2年6月5日(1840-1869)

奥平松平家12代当主。

武蔵忍藩主(4代)。

幼名、八五郎。

父、下野国烏山藩主大久保忠保の弟の大久保忠声(長男)。

後継予定の松平忠毅の廃嫡により養子となる。

文久3年(1863)家督を譲りうけ藩主となる。

天狗党鎮圧・京都警護などに活躍。

房総沿岸警備。

下総守。四品に叙す。溜間詰。従四位侍従。少将。

鳥羽伏見の戦いの後、隠居の父忠国が恭順にまとめ、新政府軍に降伏。30歳没。

正室は、太田資始の娘。

墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。

「霊源院殿潤渓了澤大居士」。

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松平忠国(まつだいらただくに)・11代     
文化12年10月19日~明治元年7月10日(1815-1868)

奥平松平家11代当主。

武蔵忍藩主(3代)。

幼名、匡丸のち匡一郎・忠国。

父、8代松平忠翼(5男)。母、平野氏(妙善院)。

10代当主の実弟。

黒船来航時の房総沿岸警備、品川第3台場警備を担当。

「明君少将」と呼ばれた。

戊辰戦争では新政府に恭順。54歳没。

墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。

「泰嶺院殿忠峰道秀大居士」。

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松平忠彦(まつだいらたださと)・10代    
文化2年9月9日~天保12年3月27日(1805-1841)

奥平松平家10代当主。

武蔵忍藩主(2代)。

幼名、要三郎。

父、松平忠翼(3男)。

兄の忠堯の養嗣子。

式部大輔・侍従。

養父の病気隠居により家督を相続。下総守。溜間詰衆。

文を好み武をたしなみ、他人を意見を良く聞く。

「影葵紋」の使用を許される。

子なし。藩主在任は3年に満たなかった。37歳没。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「惇宗院殿道嶽功顕大居士」。

 没年月に4月27日の資料があるが、墓誌の3月27日を採用した。

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松平忠堯(まつだいらただたか)・9代     
享和元年~元治元年8月14日(1801-1864)

奥平松平家9代当主。

伊勢桑名藩主(7代)。

武蔵忍藩主(初代)。

父、松平忠翼(長男)。

文政6年(1823)武蔵忍藩に転封。

父、死亡により21歳で家督を相続。

文政6年(1823)113年間治めた桑名より武州忍藩に移封となる。64歳没。

室幸宮は、伏見宮貞敬親王の3女。文政9年(1826)京都伏見町から輿入れし江戸上屋敷で婚礼をあげる。

墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。

「大休院殿仙翁道閃大居士」。

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松平忠翼(まつだいらただすけ)・8代     
安永9年~文政4年3月20日(1780-1821)

奥平松平家8代当主。

伊勢桑名藩主(6代)。

名、鳥之助。

父、井伊直朗(3男)。母、吉田氏。

寛政6年(1794)松平忠和の養女(松平忠啓の末娘周姫)の婿養子。

寛政10年(1798)将軍徳川家斉に拝謁。

従五位下織部正に叙任。のち、家督を相続。

溜間詰となり侍従。42歳没。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「文明院殿厳恭道健大居士」。

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松平忠和(まつだいらただとも)・7代     
宝暦9年8月27日~享和2年4月22日(1759-1802)

奥平松平家7代当主。

伊勢桑名藩主(5代)。

幼名、頼徳のち唯之丞。号、澹寧斎・無礙居士・梅花堂主人。

父、紀州藩7代藩主徳川宗将(9男)。母、植田さよ(保福院)。

寛政5年(1793)既に婿養子となっていた兄の忠功に子がなく、兄の養子となった。

同年将軍徳川家斉に拝謁。襲封し桑名城に住む。

35歳で従五位下下総守に叙任。

寛政6年(1794)従四位下に叙任。

算学を古川氏清に学び、専門の域に達する。

また、理学・蘭学を修め、物心和尚から禅を学ぶ。

正室なく、側室に3男1女があったが皆夭折する。

祖父忠啓の末娘周姫を養女とし松平忠翼を婿養子とする。44歳。

著書:「遊心公遺文・惠礼幾天留(エレキテル)記」、「空華集」、「澹寧斎詩集」。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「遊心院殿無礙了空大居士」。

 没年月日に5月10日の資料があるが、墓誌の4月22日を採用した。

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松平忠功(まつだいらただかつ)・6代     
宝暦6年5月21日~文政13年7月29日(1756-1830)

奥平松平家6代当主。

伊勢桑名藩主(4代)。

幼名、頼久のち職之丞。

父、紀州藩7代藩主徳川宗将(7男)。母、伏見宮貞建親王の養女富宮(浄眼院)。

天明3年(1783)忠功の長女久仁姫の婿養子となる。

天明7年(1878)遺領を継ぎ、将軍徳川家斉に拝謁。従五位下下総守に叙任。

寛政2年(1790)従四位下。

寛政5年(1793)病気を理由に隠居し、家督を実弟で養子の松平忠和に譲り、大外記に改める。75歳。

墓所は、台東区谷中天眼寺。「大乗院殿融明慈証大居士」。

 没年月日に8月6日の資料があるが、墓誌の7月29日を採用した。

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松平忠啓(まつだいらただひら)・5代     
延享3年12月15日~天明6年12月10日(1747-1787)

奥平松平家5代当主。

伊勢桑名藩主(3代)。

幼名、岩次郎のち民部・兵庫。

父、松平忠刻(次男)。母、純性院市原氏。

宝暦13年(1763)長男忠泰の死により世子となり、将軍徳川家治に拝謁。

従五位下駿河守に叙任。

明和8年(1771)父の隠居に伴い相続。第3代藩主となる。下総守に改める。

安永元年(1772)従四位下。

安永5年(1776)侍従。度重なる城下の火災や大洪水、天明4年(1784)の天明の大飢饉など多難となり、百姓一揆も起こる苦難な状況となった。

後継は、養子の松平功。室は、長州藩8代藩主毛利重就の娘澄(蘭惠院)。

台東区谷中天眼寺。

「崇厳院殿功運道惇大居士」。

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松平忠刻(まつだいらただとき)・4代     
享保3年9月11日~天明2年12月24日(1718-1783)

奥平松平家4代当主。

伊勢桑名藩主(2代)。

初名、清種・岩吉。通称、奥平主膳清種。

父、松平忠雅(3男)。母、永林院関口氏。

嫡子の6男松平忠張死去に伴い、世子となる。

元文3年(1738)将軍徳川吉宗に拝謁。

従4位下信濃守に叙任。

延享3年(1746)父忠雅死去に伴い相続。

奥平松平家4代当主・2代藩主となる。下総守。

明和4年(1767)侍従となり、将軍若君の養育係「御使」。

城下の大火・洪水に遭い多難続きで明和5年(1768)に家臣から半知借上げをする。

明和8年(1771)病気のため致仕し、家督を二男松平忠啓に譲り信濃守に戻る。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「龍光院殿天山宗見大居士」。

 没年の日に27日の資料があるが、墓誌の24日を採用した。

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松平忠雅(まつだいらただまさ)・3代     
天和3年9月24日~延享3年6月20日(1683-1746)

奥平松平家3代当主。

出羽山形藩主(2代)・備後福山藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主。

幼名、斉宮。通称、左膳。

父、松平清照(長男)。母、妙惠院。白川に生まれる。

父清照が病弱だったため祖父忠弘の養嗣子となる。

元禄4年(1691)9歳のとき将軍徳川綱吉に拝謁。

元禄5年(1692)家督を継ぐ。

元禄9年(1696)従五位下、下総守に叙任。

元禄13年(1700)山県を改め備後福山城主となる。

宝永元年(1704)従四位下。

宝永7年(1710)伊勢桑名藩移封。

松平家初代藩主となる。

のち、侍従。

のち江戸に戻り少将に任ぜられる。

室は、毛利綱広の5女。

日光参代、鳥越三味線堀西に1万920坪の下屋敷を持つ。

馬場先門に6230坪の守屋敷を持つ。64歳。

墓所は、台東区谷中天眼寺。

「大梁院殿仁嶽紹裕大居士」。

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松平忠弘(まつだいらただひろ)・2代     
寛永8年11月8日~元禄13年5月16日(1631-1700)

奥平松平家2代当主。

姫路藩主(2代)→山形藩主→宇都宮藩主→白河藩主→山形藩主(初代)。

父、松平忠明(長男)。母、妙応院(三好氏)。

寛永21年(1644)父の死去に伴い、12歳で家督を相続、2代姫路藩主となる。

4年後年少と家中不祥事を理由に山形に転封となる。

のち、宇都宮に転封となり、さらに白河に移封となる。

白河騒動が起こり、責任を取り隠居。

家督は、忠弘の子清照が病弱のため清照の長男斉宮(松平忠雅)が養嗣子となり継いだ。70歳。

室は、越中守松平忠利の娘藤姫。

没年月に複数の異説資料があるが、墓誌を採用した。

墓所は、和歌山県高野山中性院。

「枴伽院殿前四品拾遺端翁道厳大居士」。

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松平忠明(まつだいらただあきら)・初代    
天正11年~寛永21年3月25日(1583-1644)

三河作手藩主→伊勢亀山藩主→摂津大坂藩主→大和郡山藩主→播磨姫路藩主(初代)。

父、奥平信昌(4男)。母、徳川家康の子亀姫(加納殿)。

天正16年(1588)家康の養子となり松平姓となり、奥平松平家初代となる。

文禄元年(1592)兄の松平家治の死去に伴い、家督を相続。

上野長根に7000石を賜う。

慶長4年(1599)忠明と改名。

関が原の戦いでは、父と共に徳川方として参加。

慶長7年(1602)三河作手藩主となり、三河作手17000石・伊勢亀山5万石を賜る。

慶長15年(1610)伊勢亀山藩5万石の藩主として移封。

大坂冬の陣では、病没した実兄松平忠政の兵も加えて活躍。

大坂夏の陣では、道明寺の戦いや誉田の戦いに参戦。

戦後、10万石で大坂城主10万石。元和5年(1619)大和郡山藩12万石へ加増移封。寛永16年(1639)播磨姫路藩18万石に加増移封。

晩年は、江戸幕府の宿老として幕政に務めた。62歳。

墓所は、和歌山県高野山中性院。「天祥院殿心玄鉄大居士」。

 大坂に陣で中断していた運河を完成させ、「道頓堀」と名付けた。

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荏柄天神社の「かっぱ筆塚」は、昭和 46年、漫画家清水崑が愛用した絵筆を納めるために建設したもの。


筆を担いだ河童の絵が彫られた石碑の裏には、作家川端康成が揮毫した「かっぱ筆塚」の文字が刻まれている。


平成元年、「かっぱ筆塚」の背後に、清水崑の遺志を継いだ横山隆一らが「絵筆塚」を建立している。


毎年 10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われる。

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荏柄天神社の「絵筆塚」は、「かっぱ筆塚」を建てた漫画家清水崑の遺志を継いだ同じく漫画家の横山隆一らが建立してもの ( 平成元年 )。


横山隆一をはじめとする漫画家 154人によるカッパのレリーフが飾られた筆形の塚。


毎年 10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われている。

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 ここは何度行っても、空気がよどんでいて気持ちが悪くなります。( 筆者談 )

秀次公の御首を納めたと伝わる「石びつ」を奉じる石塔と、まわりを親しく取り囲むご一族 39名および公に殉じて自刃した家臣 10名の合計 49基の五輪石塔があります。

瑞泉寺(ずいせんじ)は、京都府京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院である。山号は慈舟山。

概要
桃山時代ここは三条河原の中洲であった。慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。


慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。

秀次供養塔
文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。秀吉は伏見首実検し、8月2日9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。


慶順の死後、洪水で塚が荒れ、角倉了以が石櫃を発見したのは前述の通りである。了以はその際に石塔(石櫃)の「秀次悪逆」の4文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建てた。このような経緯から秀次供養塔は「秀次悪逆塚」とも言うが、現在も碑銘の削られた姿で残る。

墓所
・豊臣秀次 墓石(かつて秀次の首が入れられた石櫃)

・秀次の幼児、妻妾たち39人、賜死した家臣10人の五輪の塔(五輪卒塔婆)

補足
豊臣秀次と母とも(智、法名日秀)の墓所は、善正寺にある。瑞泉寺は秀次の首塚の跡の供養と、その一族・家臣の墓所である。また三条河原で処刑された側室らは大雲院でも供養されたという記述があり、2014年、石材の一部が発見された[1]


毎年命日の7月15日に、善正寺と瑞龍寺の住職により、かつて秀次の居城が置かれていた、滋賀県近江八幡市の八幡山で、秀次の供養が行われている。

寺宝
処刑者の辞世の和歌

交通
・鉄道利用の場合は、京阪三条駅地下鉄三条京阪駅下車。

・バス利用の場合は、河原町三条下車。

脚注
1 “非業の関白、豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?”. 京都新聞. (2014年8月22日). http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140821000106 2014年11月24日閲覧。 

参考文献
・瑞泉寺縁起より

・山折哲雄、槇野修『京都の寺社505を歩く』PHP新書、平成19年(2007年ISBN 978-4-569-69247-0

外部リンク
1. 京都市観光文化情報システム:瑞泉寺
(wikiより)


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 この御墓には、今井幸三郎、石川地恵子、石川力夫の法名が刻されています。


石川力夫は、『 仁義の墓場 』( 1975年公開作品。原作:藤田五郎。監督:深作欣二。脚本:鴨居達比古・神波史男・松田寛夫。) のモデルとなったそうです。

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⇧ 映画のポスター


〇 石川力夫 

大真院力夫居士 

昭和二十四年十月八日 俗名 石川力夫



〇 石川地恵子
石川力夫が強姦で手にした妻、後に自殺に追い遣った。


中真院恵情大姉 

昭和二十六年一月二十日 俗名 石川地恵子



〇 今井幸三郎
今井幸三郎は、金や生活の面倒を見てくれていたのに、ヘロイン中毒となり逆恨みのすえ殺害。


秋雲法華幸信士 

昭和二十四年十月八日 俗名 今井幸三郎


この御墓には「その筋の人達」もお参りに来られていたそうです。


〇 石川力夫
石川 力夫(いしかわ りきお、1926年 - 1956年2月2日)は、ヤクザで、昭和20年代に新宿駅東口に一大勢力を築いた新宿和田組」(組長・和田薫)の乾分幹部。ヤクザの憲法である「仁義」に背いた反逆者として斯界の伝説になり、後に「仁義の墓場」というタイトルで半生が映画化された。

来歴
大正15年、茨城県水戸市出身。10代で東京に出るとグレて身を落とした。和田組の組長和田薫からを貰い東京・新宿の闇市を根城に生活していたが、1946年の10月に親分・和田薫の家に殴り込み日本刀で斬りつけ、全治1ヶ月の重傷を負わせた。


襲撃した直後に可愛がって貰っていた新宿十二社の鳴島栄次郎のもとを訪れた。親分にケジメをつけたという石川に怒ったが、石川が和田を斬りつけたとは知らなかったので鳴島は石川を捕まえ無かった。和田とは幼い頃よりの友人である鳴島は以前に和田組の若い衆が石川を制裁しようとする場面で庇ったことがあり、石川をその場で捕まえて和田に引き渡さなかったことが痛恨事となった(このエピソードは村上和彦の『仁義絶叫』で引用された)。


石川は傷害罪で逮捕され、懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて府中刑務所に服役。また、ヤクザ社会からは、「関東処払い10年」(関東には10年間近づいてはならない)という制裁を受けた。


この後は流転の人生を送り密かに東京に戻ったが、庇ってくれた兄弟分の今井幸三郎をも殺した。1956年、服役中の府中刑務所屋上から飛び降り自殺した。辞世の句は「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」。


関東を代表する大親分になっていた和田(足を切られ生涯不自由だったという)は石川については一切口にしなかったが、死の報を聞くとの中で「親不孝な奴だ」とだけ呟いたという。

石川力夫関連の書籍
藤田五郎『仁義の墓場』徳間書店<徳間文庫>、2002年、ISBN 4198917256

・藤田五郎、天龍寺弦平野仁『実録 極悪ヤクザ伝 仁義の墓場 石川力夫』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6660-5

石川力夫関連の映画
・『仁義の墓場』(1975年東映)、主人公・石川力夫役は渡哲也

・『新・仁義の墓場』(2002年大映)、主人公・石松陸夫のモデルは、石川力夫。石松陸夫役は岸谷五朗
(wikiより)

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⇧ 石川力夫 ( 中央赤丸内 )

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須山 萬 ( すやま - よろず )

須山家は数代の医家であった。


萬は 17才で藩儒の正墻 ( しょうがき ) 薫や江戸の名儒・塩谷宕陰の教えを受け、のちに藩の周旋方に任ぜられ勤王のために東西に奔走した。


江戸に出て長州藩留守居役の僕しもべとして活躍しているところを、元治元年 ( 1864 ) 幕府のために捕らえられた。


いったんは逃げたが、再び捕らえられ、討幕計画に加わったという罪で伝馬町の獄に投ぜられ、慶応元年 ( 1865 ) 3月 6日斬首の刑で壮烈な死を遂げた。年 24才。


明治 31年、正 5位を贈られた。

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上古内村 ( 現城里町 ) 鹿嶋神社の神官。


文政末から天保初め草創期の日新塾に学ぶ。


水戸藩主・徳川斉昭が謹慎を命じられると、静村 ( 現那珂市 ) の斎藤監物 ( 静神社長官 ) ら神官たちと江戸に上り、老中・阿部正弘に嘆願書を提出するなど雪冤運動に奔走。


捕えられて入獄、嘉永 2年に許されるも、安政 5年、6年の小金屯集に参加。


勅諚返上問題を阻止すべく長岡にも屯集した。


斎藤監物・海後磋磯之介らとともに桜田門外の変に加わり、井伊家の従士と戦って重傷を負い、八代州河岸で切腹して果てた。

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六物 空満(ろくぶつ くうまん、享和元年(1801年) - 安政6年11月(1859年))は、幕末尊皇攘夷派志士。森新吾の次男。幼名・龍蔵。六物は通称だが、後に姓として使った。


大和国葛城に生まれる。天文学や暦数学を修め、また和泉国松浦南陽に医術を学ぶ。上洛して大覚寺門跡に仕え、療病院別当となる。嘉永6年(1853年ペリー来航の際には朝廷の命によって攘夷の祈祷を行った。その後も尊攘派の志士たちと交流し、また近衛家老女村岡や僧月照らとともに公卿への工作にも従事した。しかし安政5年(1858年安政の大獄で幕府に逮捕されて江戸へ送られる。翌安政6年(1859年)占察祈祷を咎められて遠島刑と決まるも、間もなく獄中で病没した。享年59。


明治31年(1898年)贈正五位小塚原回向院に墓石があるほか、奈良県御所市名柄の竜正寺に墓があるともされる[1]

脚注
1. 西口紋太郎『天誅組重坂峠』原書房、1978年10月1日

外部リンク
六物空満』 - コトバンク
(wikiより)

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後藤哲之介 ( ごとう - てつのすけ )

水戸藩郷士。


安政 5 ( 1858 ) 年の藩難、ついで勅書問題に東奔西走して雪冤罪奉勅を計ったが志を達せ得ずして越後に去り、新潟に隠れた。


文久元 ( 1861 ) 年、冬幕吏の審問を受けるや偽って桜田要撃者である広木松之介と名乗ったため、江戸に送られて投獄されたが、食を絶って文久 2 ( 1862 ) 年 9月 13日死去。享年 32歳。

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川辺佐次衛門 ( かわべ - さじえもん )
( 1832 - 1862 )

幕末の武士。


天保 ( てんぽう ) 3年生まれ。


常陸 ( ひたち ) 水戸藩士。


安政 4年小普請組に入る。

平山兵介らの老中・安藤信正襲撃計画に加わったが、文久 2年 1月 15日の襲撃に遅れ、萩 ( はぎ ) 藩邸に桂小五郎を訪ねて斬奸 ( ざんかん ) 趣意書を渡し自刃 ( じじん ) した。31歳。


名は元善。変名は内田万之介。

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桜田門外の変関連で処罰。

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蓮田 一五郎(はすだ いちごろう、天保4年3月5日1833年4月24日) - 文久元年7月26日1861年8月31日))は、幕末水戸藩士。桜田門外の変の襲撃者(桜田烈士)の一人。水戸藩寺社方手代。名は正美。幼名は仙之介。市五郎は誤記とされる[1]。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。明治22年(1889年)5月靖国神社に合祀[2]。贈正五位

人物
蓮田一五郎の父・蓮田栄助宗道は水戸の町方同心、扶持7石で私塾を開いていた。栄助は42歳で死去したので、一五郎の老いた祖父・蓮田栄吉が一家を支えた。栄吉は町方同心に再勤したが家計は苦しく、一五郎の母と2人の姉は裁縫の賃仕事をし、また一五郎も11、12歳から内職して家計を補っていた。孫の教育を疎かにしなかった栄吉は、玉川立蔵[3]の塾に一五郎を入門させたが、一五郎は金銭が足りず十分に通えなかった。一五郎はこれらの窮乏があって朝4時に起き、夜は10時頃まで内職をしてもなお苦学に励んだ。一五郎は18、9歳頃に書道など年長者を驚嘆させるほど上達し、算数絵画も秀でて多芸だったようである。独学不可の武芸は貧困ゆえ我慢していたが、15歳頃から金子健四郎の道場に通い、上達早く3年程で人に秀でた腕前となって、無念流の印可を受けた[4][5]


安政2年(1855年)6月、水戸藩軍用方小吏として出仕する。同年10月、寺社方に転ずる。職務上、静神社神職及び弘道館内・鹿島神社神官の斎藤監物を知り、その思想に非常に感化を受けた。斎藤監物は、かつて弘化元年(1844年)、徳川斉昭の隠居謹慎時、領内の神職を糾合して処罰解除運動に参加している。安政5年(1858年)、幕府大老井伊直弼により尊攘派をはじめとする反幕府勢力の弾圧(安政の大獄)が始まり、翌年斉昭が水戸での永蟄居を命ぜられた。一五郎はこれに憤激し、斎藤らとともに大老井伊直弼襲撃計画に加わった[6]。安政7年(1860年)2月11日、一五郎は江戸へ向かって家を出た。母は56歳、長姉は35歳、次姉は32歳、一五郎は26歳の時だった[7]


一五郎が安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変に至る間に作った和歌が複数残されている[4]

たらちねにまたも逢瀬おうせせきなればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき

あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ

かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり [8]

安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外の変の直後、負傷した一五郎は同士と老中脇坂安宅邸へ自訴し、その夜に細川家へ、のち幕吏方へ引き渡された。細川家滞在中に、一五郎は桜田門外の変の襲撃の図[9][10]を描き残した。幕府からの尋問中、彼は幕吏の池田頼方より狼藉(桜田門外の変)の趣旨を問われ、委細を尽くしてある『斬奸趣意書』[11][12]でご承知ありたい旨を述べた。幕吏側では前水戸藩主・徳川斉昭を罪に陥れるつもりで誘導尋問を繰り返したが、それを悟っていた一五郎の方は「もし前君(斉昭)の内命にて掃部頭様(井伊直弼)を討つなら水戸藩に立場ある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた[13]。また彼は獄中で、『蓮田市五郎筆記』[14]にこの取調べの仔細を記した。彼はこの筆記を残した意図について、「幕吏の横暴はいうまでもないが、老公(斉昭)へ冤罪を帰そうとする気炎も幕府方にあり、自分(一五郎)の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らない為、幕吏による取調べの大意を書にしたためた」と自ら記した[15]。彼はこの間、幾つかの詩歌[16]を残したがその中の一つに、次の歌がある。

世の為と思ひつくせし真心は天津み神もみそなはすらむ[17]

一五郎は文久元年(1861年)7月26日送られた伝馬町獄舎で、幕吏の手により同志ら6名と共に斬首された[4]。享年29。

逸話
・一五郎は、母が節制のため灯火を消して彼も床に就いたようにみせてから、母姉の熟睡を見計らって起き出し、灯火が漏れないよう行灯に衣服をかけながら読書、暁まで徹夜する事が常だった。母は行灯消滅の多さから燃料を一五郎が使っていると知り、火吹き竹で一五郎を打って叱ったが、一五郎はこれを恨まず却って己の非行を謝った。一五郎は翌日から食事を減らしてその料金を灯火代に充ててくれるよう請いなお読書を続けた為、母は彼の夜間の読書を許した。学習用の紙や筆、墨なども容易ではなく、水戸・馬喰町の小泉屋という油紙問屋の主人は一五郎の苦学に感じ、商品の上包みの紙を何度も蓮田家へ送り届けた。また一五郎の母の生家であった水戸・下町の沼田屋にいた彼の伯母(一五郎の母の姉)は、彼の学資に毎月2朱ずつの金を2年ほど贈った。また一五郎親類の塙重任も何かと彼を補助した。本を買うのは更に困難の為、一五郎は茅根伊予之介会沢正志斎の蔵書を借りて書き写して読んだが、一五郎14、5歳の頃からその数は数百巻に及んだ。明治19年(1886年)の水戸大火でその大半は潰えたが、なおそのうち30巻余りは蓮田家にあったという。また一五郎が16歳の頃謄写した『日本外史』は香川敬三の家、会沢正志斎による注疏の『孝経』一部が古澤介堂の家に珍蔵されていたという。


・ある年、かねて恩をうけてきた沼田屋の伯母[18]が大病であると蓮田家へ告げてきた。一五郎は早速、伯母の所へ見舞いへ行ったが、その夜から毎晩丑三つ時(深夜3時頃)になると彼の姿が見えなくなった。家族は変だと思ったが謹直な一五郎の事なので特に詮議はしなかった。のち、彼が12月の寒空の下、17日間、半里(約2キロメートル)先の愛宕神社へ参拝し、伯母の病が癒えるよう祈願していた事が分かり、伯母は涙を流して喜んだ[19]


・一五郎は雷が嫌いだったが14、5歳頃、雷鳴中に仏前で裃をつけ跪き、物言わず礼拝していた為その理由を人が尋ねたところ、「男子非業の最期は君子の道ではなく、もとより君国の為には惜しむべからざる命だが、落雷で死んだとあっては残念なので神仏の加護を祈っている」と答えた[20]


・一五郎は孝心が深く、祖父や母の怒りに触れず、衣服なども大抵自分で始末し、少しでも母や姉の手を省こうとしていた。一五郎は出宅・帰宅の際には必ず手をついて祖父と母に告げ、食事の度に礼を言った。また祖父や母の心を傷ましめることを憂い、病気になってもこれを告げなかった。夜には祖父と母の足腰を揉み、彼らが熟睡するのを待ってから己は勉強に取り掛かった。成長後に友人宅に呼ばれ珍しいものを御馳走になった時、自分は一品も手をつけず持ち帰って祖父と母へ勧めた。彼は元来寡黙だったが、昼間見聞した面白そうな話を祖父と母に聞かせ、彼らの心を慰めた。彼は祖父や母が病気の時には一晩中寝ずに看護し、夜中に3、4里(約11.8~15.7キロメートル)も遠くに行って彼らの好物を買ってくる等、孝養に心を尽くした[19]


・一五郎の祖父・栄吉は孫をどうにか出世させたく、その祈願に栄吉の好んだ煙草を廃していた程だった。一五郎が16歳のころ栄吉は80歳余りと高齢だった。栄吉は一五郎を自らの代わりに町方同心の代番へ立てた。ここに一五郎は初めて3両2人扶持にありついて世間へ出て人と交わったが家計なお足りず、内職を止める事ができないままだった。しかし、一五郎は間もなく同心勤めをやめた。そのころ打ち首1人に立ち会えば5両の手当てがあるため、同心らは進んでこれに勤めていたが、その職務は一五郎の性質に合わず、一度これに立ち会ったが、「あんな役目はとても人間のする事ではない」と言っていた。その後、寺社方の手代となった一五郎は5石2人扶持で家計も少し楽となった上、前職と異なってそれなりに学問のある人物と会う事になった為、彼はこの職が気に入り、盛んに奉職した[7]


・一五郎は平生はごく寡黙な人物であったが、酒を銚子に一杯も呑めば酔い、酔って語る事は必ず楠公(楠木正成)忠誠だった。一五郎は楠公の話になると徹夜でも語り止めなかった。そのため、一五郎が楠公談をしだすと、友人は辟易した[21]


・一五郎の母の姉の一人は裕福な家に嫁ぎ、この伯母に一五郎と同じ年頃の娘(一五郎のいとこ)がおり、名をお絹といった。一五郎11歳の頃、お絹が一五郎は貧乏人の子で麦飯ばかり食べているから色が黒いと言ったため、子供心にも非常に悔しく思い、それから彼は伯母の所へ進んで行かなくなった。その後、一五郎が15歳のとき、お絹が絵本の挿絵を一五郎に写すよう求めたが、一五郎は承諾しつつ中々描かなかったので、お絹が焦れて茶菓子を与えるから早く写すよう催促し、茶菓子を普段食べられない一五郎を揶揄した。一五郎はこれに怒り、自分は今に神様になってお前に拝ませてくれると言って彼女を散々に罵った。それきり、お絹のいるうちに一五郎は伯母の所へ出かけなかった。桜田門外の変の後、明治22年(1889年)5月に一五郎が靖国神社へ合祀される事になると、70歳近い老婦人となったお絹は、思い出多き当時の事を語ったという[22]

・細川家預り中に、一五郎は故郷の母と姉へ訣別書を残し、また幼時から世話になった塙重任へ後の事を頼んだ書を残した[23]。これは母への深い感謝と礼、姉への心遣い、世話になった伯母と塙への厚意を述べてあるもので、彼が人目を忍びながら二度書き初めては、執筆半ばで落涙に沈んでしまって上手く書けず、三度目にして漸く仕上がったとも記してある。この書の中で彼は、「人の一命は限りあるもの、死すべき時生きるもあり、生きるべき時死ぬもありて、仏家がいう前世の約束事、天命であり、昨年10月に大病を煩った自分は病死するより天下の為に死ぬこそ本望」と、今生に訣別している[24]

辞世
故郷の空をし行かばたらちめに身のあらましをつげよかりがね[25]

脚注
1. 常磐共有墓地の蓮田一五郎墓碑より。岩崎p123。
2. 岩崎p120。
3. 桜田烈士の一人、森山繁之介は蓮田一五郎と共に、文武を玉川立蔵と金子健四郎に学んでいる。岩崎p123。
4. a b c 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
5. 岩崎p115-118。
6. 『近世義勇伝』、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
7. a b 岩崎p122。
8. 岩崎p275によると、一五郎が幽囚の間に母を思い、国事を憂う情を寄せた詩歌。
9. 岩崎p285、扉の頁にある絵。
10. 『桜田門外之変図』茨城県立図書館蔵。
11. 『斬奸趣意書』、桜田烈士、2014年4月閲覧。
12. 太田p182-194。
13. 岩崎p245。『蓮田市五郎筆記』(『評定吟味書』)による蓮田への尋問の詳細は岩崎p243-294。
14. この筆記を、岩崎英重は『評定吟味書』とも言っている。これらの書簡集は、塙重任から三条実美の手を経て、「忠魂義魄櫻田烈士蓮田市五郎遺物」と書簡集を納めた箱に大書され木戸孝允家にあったという。また塙はこの一五郎筆記(評定吟味書)を事前に写しておいたが、この写しは明治42年(1909年)11月28日栃木県庁で特別大演習の際、母姉への訣別書と共に明治天皇が閲覧したという。岩崎p285。
15. 岩崎p248。
16. 岩崎p287-289。
17. 岩崎p289。
18. かつて学資を送った一五郎の母の姉。沼田屋は一五郎の母の実家。
19. a b 岩崎p121。
20. 岩崎p118。
21. 岩崎p123。
22. 岩崎p118-120。
23. 岩崎p282-283。
24. 岩崎p276-282。
25. 文久元年(1861年)10月のある日、絹八丈の小袖、墨染めの法衣を着た50歳ばかりの僧侶が蓮田家を訪ね、「拙僧は蓮田氏から頼まれて居る物が御座って、今日持参仕った」と一封の書を懐中から取り出し、一五郎の姉へ渡した。姉が座敷に入って母へその封書を渡して再びそこへ戻ると、僧侶は既にいなかった。母と姉が封書を開けると一五郎の辞世と別紙に戒名が現れたので驚き、日暮れまでその僧侶を探したがどこの宿にもいなかった。がっかりして引き返した母娘は、一五郎の遺物を仏壇へ納め香花をたむけ、なお彼の回向にその夜を明かした。岩崎287。

参考文献
岩崎英重『桜田義挙録 維新前史 下編』吉川弘文館、1911年

太田龍『長州の天皇征伐』中央精版印刷、2005年 ISBN 4-88086-189-8

・但野正弘『桜田門外の変と蓮田一五郎 』錦正社、2010年7月 ISBN 978-4-7646-0285-4
(wikiより)

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信太仁十郎 ( しのだ - にじゅうろう )
( 1826 - 1858 )

幕末の尊攘 ( そんじょう ) 運動家。


文政 9年生まれ。


水戸藩家老の武田耕雲斎の家僕になり、尊攘運動に加わる。


安政 4年アメリカ公使ハリス襲撃を計画したが、藩庁に探知され、幕府に自首。


安政 5年 5月 9日江戸伝馬町の牢 ( ろう ) で病死。33歳。


陸奥 ( むつ ) 石川郡 ( 福島県 ) 出身。

本姓は阪本。名は義正。

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桜田門外の変関連で処罰。

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児島 強介(こじま きょうすけ、天保8年(1837年)- 文久2年6月25日1862年7月21日)は、幕末尊皇派志士。文久2年の坂下門外の変に関与して収監された。その辞世が、「義烈回天百首」に収められている。本姓は小島、名は「強助」「孝助」とも書かれる。号は草臣葦原処士など[1]

人物略歴
天保8年(1837年)、下野国宇都宮に生まれる[1]。手塚家の養子に入り、儒学宇都宮藩の江戸定府の儒者大橋訥庵に学んだ[1]。また、安政6年(1859年)には平田門下の師岡正胤の紹介で平田銕胤平田篤胤の養子)の国学気吹舎に入門している[2][注釈 1]


安政7年(1860年)の桜田門外の変ののち、幕府の最高実力者となった老中安藤信正公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を推し進めたが、師の大橋訥庵はこの結婚に強硬に反対し、討幕も考えるようになった[3]文久元年(1861年)9月、訥庵は強介を水戸に派遣し、外国人を襲撃して幕府を混乱させ、公武合体策の頓挫を図った[3]。これに対し、水戸藩の激派からは宇都宮藩の志士と協力して安藤を暗殺したい旨の回答があり、強介はそれを訥庵に伝えた[3]


訥庵は門弟たちとともに輪王寺宮を擁立して攘夷の兵を挙げることも計画したが、十分な人数が集まらず計画は断念した[4]。水戸側では挙兵よりも老中暗殺を優先させたい意向が強かった[4]。ここにいたって訥庵は老中暗殺に向けて行動を開始し、強介もその意を受けて行動した[4]


文久
2年正月12日、訥庵は一橋慶喜近習の山本繁太郎の密告により幕府によって捕縛された。これにより、正月15日1862年2月13日)、強介ら6名の志士は安藤信正を襲撃(坂下門外の変)、横田藤四郎は逃亡したが、強介や横田藤太郎(藤四郎長男)、小山長円らは捕縛された[2][5][注釈 2]。強介が獄死したのは同年6月25日のことであった[1]。その間、『孤囚日記』を書き記している[1]。享年26。

辞世
・天地(あめつち)にはぢぬ心のいかなれば 我が身にはづるいましめの縄

脚注
注釈
1. 安政6年、師岡正胤は、水戸学の信奉者であった下総国相馬郡出身の剣客百姓身分)宮和田光胤も気吹舎に紹介している。足利三代木像梟首事件で捕縛・幽囚された宮和田勇太郎は光胤の実子である。宮地(2012)p.115
2. 横田藤四郎はこののち、元治元年(1864年)の天狗党の乱に三男藤三郎(横田元綱)とともに参加している。

出典
1. 
 a b c d e コトバンク「児島強介」
2. a b 宮地(1994)pp.243-244
3. a b c 『宇都宮市史』pp.462-465
4. a b c 『宇都宮市史』pp.468-469
5. 『宇都宮市史』pp.473-479

参考文献
・『宇都宮市史』近世通史編、宇都宮市史編さん委員会、1982年

宮地正人「幕末平田国学と政治情報」『日本の近世 第18巻 近代国家への志向』田中彰編、中央公論社、1994年5月。ISBN 4-12-403038-X
宮地正人『幕末維新変革史・下』岩波書店、2012年9月。ISBN 978-4-00-024469-5

関連項目
坂下門外の変

義烈回天百首

外部リンク
コトバンク「児島強介」
(wikiより)


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桜田門外の変関連で処罰。

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斎藤監物 ( さいとう - けんもつ )


生年: 文政 5年 ( 1822 )
没年: 万延 1年 3月 8日 ( 1860. 3. 29 )


桜田門外の変で死亡した水戸藩尊攘派。


諱は一徳、号は文里、変名は佐々木馬之助。父は斎藤文静。


代々常陸国那珂郡静村 ( 茨城県瓜連町 ) 静神社の神職、静長官を襲う。


藤田東湖に学ぶ。


藩主・徳川斉昭が設置した弘道館内の鹿島神社の神官となる。


弘化 1 ( 1844 ) 年、斉昭の隠居謹慎時、領内の神職を糾合して処罰解除運動に参加、隠居居村慎。


嘉永 2 ( 1849 ) 年 11月処分解除。


安政 5 ( 1858 ) 年、戊午の密勅の遵奉と安政の大獄の阻止を求めて活動、6年 5月神職 61人を率いて出府、連署建議した。


他方、他藩との連携、テロを企図し桜田門外の変に参加、負傷し死亡。


辞世「国の為め積る思ひも天津日に融て嬉しき今朝の淡雪」。

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金子 孫二郎(かねこ まごじろう、文化元年(1804年) - 文久元年7月26日1861年8月31日))は、幕末水戸藩郡奉行である。尊王攘夷派志士。幼名は子之次郎。仮名は孫二郎、孫三郎。は教孝、を錦村といった。位階贈正四位靖国神社合祀[1]

生涯
水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれ、水戸藩士・金子孫三郎能久の養子となった。はじめ小普請組となる。

文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、父・教徳らとともに徳川斉昭を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で歩行目付、吟味役、奥右筆を経て郡奉行となった。弘化元年(1844年)、天保の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって安政の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行・吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。


安政5年(1858年)に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年(1859年)に安政の大獄が起こると、かねてから計画していた大老井伊直弼要撃を企て、高橋多一郎関鉄之介らとともに脱藩して江戸京都に潜伏し、安政7年3月3日1860年3月24日)、桜田門外の変を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて、佐藤鉄三郎、薩摩藩士・有村雄助とともに大坂で後挙を謀ろうとしたが、伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。明治維新後、正四位を贈位される[2]

年譜
・1804年 水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれる。

・1829年 藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立。

・1830年 - 1844年 郡奉行。

・1844年 禁固刑に処せられる。

・1853年 復帰して郡奉行再勤。

・1858年 勅書問題で奔走。

・1860年 桜田門外の変に加わる。

・1861年 斬罪に処せられる。享年58。

参考文献
・明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年) ISBN 4404013353

・茨城新聞社編『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、262頁。

・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902

脚注
1. 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)ISBN 40頁参照。
2. 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) 399頁参照。

関連項目
幕末の人物一覧

常磐共有墓地

金子勇二郎
(wikiより)



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小林 良典(こばやし よしすけ、文化5年3月28日1808年4月23日) - 安政6年11月19日1859年12月12日))は、幕末地下人小林元次の長男、母は小森頼望の娘・叙子。


鷹司家
諸大夫正四位下民部権大輔と筑前守を兼ねた。


尊皇の志篤く、青蓮院宮尊融法親王近衛忠熙三条実万らと交流する一方で、日下部伊三治橋本左内ら志士たちとも接点を持ち国事に奔走した。

将軍継嗣問題水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を説いて攘夷派の重鎮へと転換させた。

また一橋派に属して政通・輔煕父子を補佐する。

しかし安政5年(1858年安政の大獄に連座して江戸に捕えられる。

翌安政6年(1859年)水戸・福井藩を密勅降下のために入京させたとして遠島刑となる。

後に肥後人吉藩預かりに減刑されるも、江戸に獄中で病没した。享年52。


墓所は東京都世田谷区松蔭神社。そのほか、京都府京都市京都霊山護国神社長徳寺にも墓石が建つ。

外部リンク
小林良典』 - コトバンク
(wikiより)

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安政の大獄関連で処罰。

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日下部 裕之進(くさかべ ゆうのしん、天保7年(1836年) - 万延元年3月3日1860年4月22日))は、幕末薩摩藩士。日下部伊三治の長男、母は山形氏。諱は信政

生涯
天保7年(1836年)、水戸藩士・日下部伊三治の長男として常陸国多賀郡で誕生。父・伊三治が幹事を務める太田学館で学ぶ。


安政2年(1855年)、父とともに薩摩藩に帰藩。安政5年(1858年)、家老鎌田出雲の命で上洛し、水戸藩への降勅に関与して、実際に降勅されると父とともにその写しを持って江戸へ下り、小石川の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかし、江戸幕府による安政の大獄が起こると伝馬町の獄に捕えられ、翌安政6年(1859年)に遠島刑となるが、配所前の万延元年(1860年)に獄死した。享年25。


死後、正五位に追贈された。

関連項目
安政の大獄

戊午の密勅

外部リンク
日下部裕之進』 - コトバンク
(wikiより)

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伊藤博文 ( 1841 ~ 1909 ) は、幕末から明治時代に活躍した政治家です。

幼名は利助・俊輔、号は春畝 ( しゅんぽ )。

父は萩藩 ( 現、山口県 ) の下級武士。

吉田松陰に師事して尊王攘夷運動に身を投じましたが、イギリスに留学して開国論に転じています。

明治維新後、政府の要職を務め、明治 15年 ( 1882 ) にはヨーロッパに渡って憲法や政治制度などの調査を行ってきました。

その成果をもとに大日本帝国憲法の制定や内閣制度の採用など、近代日本の政治制度の基礎を築き、明治 18年 ( 1885 ) には初代内閣総理大臣となりました。

明治 38年 ( 1905 ) から 5年間韓国統監を務めたあと、明治 42年 ( 1909 ) にロシア蔵相との会談のため、中国東北部のハルビンを訪れたとき、朝鮮の独立運動家、安重根 ( アンジュングン ) に狙撃され亡くなりました。

国葬のあと別邸 ( ) がこの近くにあったことから、この地に葬られました。

高さ 2メートルの円墳の前に配した神式の墓所で、右隣りのやや小型のものは梅子夫人の墓です。

 伊藤博文別邸は、現在の品川区大井 3丁目 18番付近にありましたが、平成 10年に解体され、その一部は山口県萩市の伊藤博文旧宅の地の隣に移築、保存されています。
( 伊藤博文墓所説明書より引用 )

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⇧ 入口

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⇧  ( 門柱 ) 貴族院議員有志建 明治 43年 10月
もともとは、伊藤博文墓の敷石の入口のところに建てられた鳥居であった。

関東大震災で倒壊し、その後門扉に利用されたとのことである。

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⇧⇩ 大正 8年 10月 26日丁伊藤公 10周年祭左記

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⇧⇩ 水盤前に伊藤博文墓所説明書が置いてありました。

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⇧⇩ 左右 14基の石燈が並んでいます。


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⇧⇩ 伊藤博文墓。

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⇧⇩ 祠 ( 神社 )

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⇧⇩ 梅子墓。

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徳巌院殿 : 長明
天保元 ( 1830 ) 年 ~ 慶応 2 ( 1866 ) 年

37歳没。

鳥羽藩主・10代・鳥羽市常安寺にも墓あり。


〇 稲垣長明
稲垣 長明(いながき ながあき(ながあきら))は、志摩鳥羽藩の第6代藩主。鳥羽藩稲垣家10代。

生涯
文政13年(1830年)5月12日、第5代藩主稲垣長剛の長男として鳥羽城で生まれる。天保13年(1842年)5月11日、父の隠居により家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航により、幕命で鳥羽藩沿岸の警備を務め、同時に軍備も増強した。しかし大地震や安楽島大火、大津波による被害をたびたび受けて藩財政は悪化し、8万2500両の借金を作り上げた。この窮境を打開するため、安政4年(1857年)には財政白書を出して財政の状況を領民に教えて協力を求めている。


幕末
期では佐幕派として行動し、元治元年(1864年)の禁門の変では京都に出兵して油小路門の守備を務めた。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加するために大坂に出征するが、間もなく病に倒れ、また第14代将軍徳川家茂が死去して長州征伐が中止されたため、長明も鳥羽に帰国するが、9月29日に死去した。享年37。跡を長男の長行が継いだ。
(wikiより)

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大應院殿 : 長綱
文化 4 ( 1807 ) 年 ~ 弘化 4 ( 1847 ) 年

41歳

鳥羽藩主・9代


常全院殿 : ( 同室 )


〇 稲垣長綱
稲垣 長綱 ( いながき - ながかた )

( 1807 ~ 47 ) 江戸時代後期の大名。


文化 4年 8月 18日生まれ。稲垣長続の子。


文政 2年志摩 ( 三重県 ) 鳥羽藩主稲垣家 5代となる。


在任中に城米船からの米の抜き取り事件 ( 波切騒動  ) が起こる。


佐藤信淵らに財政再建策「鳥羽領経緯記」を書かせ、その実現を図った。


弘化 4年 2月 14日死去。41歳。

〇 波切騒動
波切騒動(なきりそうどう)は、天保元年9月23日1830年11月8日)に志摩国大王崎で難破した幕府の御用船を巡る騒動[1]

概要
天保元年、大王島の沖で幕府の御用米を積んだ千石船が難破した。翌日、漁に出た村人が沈んだ船と積荷の米を発見し、村に持ち帰った。後日、難破の状況を調べに来た幕府の役人が覆面をして夜更けに村に入ったため、盗賊と勘違いした村人が役人を殺害した。後に幕府の知るところとなり、庄屋をはじめとした村人4人[2]を含む人々が獄門(3人)、死罪(6人)、遠島(2人)、獄死(3人)の刑に処された[3]

偽装難破疑惑
一説であるが、積荷を横領するための偽装難破であったとされる[1]。この事件では難破を偽装した船頭のほか、取り調べに来た役人を死亡させてしまった住民らが処刑された。


山田吉彦は自著の中で波切騒動を偽装難破であったとする立場から紹介している[4]。山田によれば、御用船の船頭らは小遣い稼ぎのため、立ち寄る港ごとに米を売っていたが、海の難所であった大王崎で沈没したことにして逃亡した[1]。しかし船は座礁して残っていたため、波切の村人は船から米を回収し、役人には知らぬ存ぜぬで押し通そうとした[5]。ところが役人は事実を掴み、村人に脅しをかけ賄賂を要求した[6]。役人の要求はエスカレートする一方であったため、村人は役人を殺害してしまった[6]


役人の殺害に関しては、要求された賄賂を支払ったにもかかわらず便宜を図らなかった怨恨によるとする説と、泥棒と誤認して取り押さえた結果の過失致死とする説がある[7]


山田吉彦は、波切では荒天時にかがり火を焚いて沖合の船に港があると知らせるふりをして暗礁に座礁させ、積み荷を奪う共同略奪行為を働くことが日常的に行われていたとし、波切騒動もその1つであったとする[1]。こうした行為は当然に禁止されていたが、波切に限らず、伊豆国下田などでも行われていたという[5]

脚注
1. a b c d 山田 2003, p. 77.
2. 思案地蔵碑より
3. 海の博物館・石原 1996, p. 8.
4. 山田 2003, pp. 76-78.
5. a b 山田 2003, pp. 77-78.
6. a b 山田 2003, p. 78.
7. 高野澄著『伊勢神宮の謎』、『大王町史』、吉村昭著『朱の丸御用船』(小説ではあるが、史実に基づいて小説化したものとされている)

参考文献
海の博物館・石原義剛『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』風媒社、1996年7月20日、165p。ISBN 4-8331-0045-2
・山田吉彦『天気で読む日本地図 各地に伝わる風・雲・雨の言い伝え』PHP研究所PHP新書244〉、2003年3月28日。ISBN 4-569-62735-8

関連項目
志摩市

大王崎

(wikiより)


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太玄院殿 : 長以
宝暦 2 ( 1752 ) 年 ~ 文政 6 ( 1833 ) 年

75歳没。

鳥羽藩主・7代。


春台院殿 : ( 同室 )。


〇 稲垣長以
稲垣 長以(いながき ながもち、寛延2年1月14日1749年3月2日)- 文政6年5月14日1823年6月22日))は、志摩鳥羽藩の第3代藩主。鳥羽藩稲垣家7代。


第2代藩主・稲垣昭央の長男。正室は加藤泰衑の娘、継室は太田資俊の娘。官位は従五位下、摂津守。

生涯
安永2年(1773年)7月22日、父の隠居により家督を継ぐ。藩政においては天明の大飢饉による被害や大風雨による城壁破損などのため、多難を極めた。


養子としていた弟の長守が早世したため、寛政6年(1794年)11月11日に家督を養嗣子の長続に譲って隠居した。長続が文政元年(1818年)に死去した後は、次いで藩主となった長剛が幼少のため藩政を後見した。文政6年(1823年)5月14日、75歳で死去した。
(wikiより)

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霊鷲院殿 : 長続
明和 7 ( 1770 ) 年 ~ 文政元 ( 1818 ) 年

48歳没。

鳥羽藩主・長以の養子 高田藩榊原政永の 6男・8代。


〇 稲垣長続
稲垣 長続(いながき ながつぐ)は、志摩鳥羽藩の第4代藩主。鳥羽藩稲垣家8代。


明和8年(1771年)8月15日、越後高田藩榊原政永の十男として高田城で生まれる。

天明7年(1787年)に鳥羽藩第3代藩主稲垣長以の養子となり、寛政6年(1794年)11月11日の長以の隠居家督を継いだ。


文政元年(1818年)12月29日に死去した。享年48。跡を四男の長剛が継いだ。
(wikiより)

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高陽院殿 : 昭央

享保 16 ( 1731 ) 年 ~ 寛政 2 ( 1790 ) 年

60歳没。

鳥羽藩主・6代。


光照院殿 ( 同室 )。


〇 稲垣昭央

稲垣 昭央(いながき てるなか、享保16年11月29日1731年12月27日)- 寛政2年5月17日1790年6月29日))は、志摩鳥羽藩の第2代藩主。鳥羽藩稲垣家6代。


稲垣昭辰(先々代稲垣重富の次男)の子。正室は松浦誠信の娘。子に稲垣長以(長男)、稲垣長守(次男)、娘(三浦前次正室)。官位は従五位下、和泉守、対馬守。

経歴
宝暦2年(1752年)12月29日に先代藩主の伯父昭賢が死去したため、翌年正月25日に家督を継いだ。安永2年(1773年)7月22日に隠居して家督を長男の長以に譲り、寛政2年(1790年)5月17日に60歳で死去した。
(wikiより)

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泰政院殿 : 昭賢
元禄 11年 ( 1698 ) 年 ~ 宝暦 2 ( 1752 ) 年

55歳没。

烏山~志摩国鳥羽藩主 3万石・5代。


〇 稲垣昭賢

稲垣 昭賢(いながき てるかた、元禄11年4月10日1698年5月19日) - 宝暦2年12月29日1753年2月1日))は、江戸時代前期の大名下野国烏山藩2代藩主、志摩国鳥羽藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家5代。


烏山藩初代藩主稲垣重富の長男。母は木下俊長の娘。正室は小出英貞の娘。官位は従五位下和泉守。


宝永
7年(1710年)、父が死去したため家督を相続した。享保10年(1725年)、烏山藩から鳥羽藩に移封される。

宝暦2年(1752年)12月29日、55歳で死去した。嗣子がなかったため、弟稲垣昭辰の子の昭央が養子となって跡を継いだ。
(wikiより)

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清光院殿 : 重富
延宝元 ( 1673 ) 年 ~ 宝永 7年 ( 1710 ) 年

38歳没。

刈谷~上総大多喜~下野国烏山 3万石・4代。

〇 稲垣重富
稲垣 重富(いながき しげとみ、延宝元年(1673年) - 宝永7年4月17日1710年5月15日))は、江戸時代前期の大名三河刈谷藩3代藩主、上総大多喜藩主、下野烏山藩初代藩主。鳥羽藩稲垣氏4代。

経歴

三河刈谷藩第2代藩主稲垣重昭の長男。正室は木下俊長の娘。子に昭賢(長男)、昭辰(次男)。官位は従五位下、和泉守。


貞享
5年(1688年)、父の隠居により刈谷藩主となる。徳川綱吉政権下では、元禄12年(1699年)から宝永6年(1709年)まで若年寄を務めていた。元禄15年(1702年)、刈谷藩から上総大多喜藩に移封されたが、わずか21日間で城地が狭すぎるという理由で下野烏山藩に移ったとされる。


宝永7年(1710年)に38歳で死去し、長男の昭賢が跡を継いだ。
(wikiより)

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寂照院殿 : 重昭
寛永 13 ( 1636 ) 年 ~ 元禄 16 ( 1703 ) 年

68歳没。

三河国刈谷藩主 2万 3千石・3代。


〇 稲垣重昭

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楳翁院殿 : 定成
天保 14年 ( 1843 ) 年

山上藩主・分家 7代。

〇 稲垣定成

稲垣 定成(いながき さだなり、天明4年12月29日1785年2月8日)- 天保14年5月3日1843年5月31日))は、近江山上藩の第6代藩主。


第5代藩主稲垣定淳の長男。母は小出英常の娘。正室は秋月種徳の娘。子は稲垣太篤(長男)、稲垣成方近藤政賢養子、離縁)。なお、成方の子は上杉義順(高家旗本上杉義為養子)。通称は熊次郎、藤五郎。官位は従五位下、備後守、長門守。


文化5年(1808年)12月11日、従五位下備後守に叙任する。後に長門守に改める。文政6年(1823年)9月5日、父定淳の隠居により、藩主となる。天保5年(1834年)10月10日、長男の太篤に家督を譲って隠居し、天保14年(1843年)に60歳で死去した。
(wikiより)

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桃石院殿 : 定淳
宝永 12 ( 1762 ) 年 ~ 天保 3 ( 1832 ) 年

71歳没。

山上藩主・分家 6代。


〇 稲垣定淳

稲垣 定淳(いながき さだあつ、宝暦12年6月11日1762年7月31日)- 天保3年11月8日1832年11月29日))は、近江山上藩の第5代藩主。


第4代藩主稲垣定計の長男。母は松平忠暁の娘。正室は小出英常の娘。子は稲垣定成(長男)、娘(小笠原長厚室)。官位は従五位下、若狭守。幼名は藤五郎。


安永8年(1779年)6月15日、将軍徳川家治にお目見えする。天明元年(1781年)12月16日、従五位下若狭守に叙任する。寛政4年(1792年)11月20日、父の隠居で跡を継いだ。文化5年(1808年)1月、大坂定番を命じられる。文政6年(1823年)9月5日、長男の定成に家督を譲って隠居し、天保3年(1832年)11月8日に71歳で死去した。法号は桃石院如蘭鉄筆大居士。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺。
(wikiより)

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香林院殿 : 定計
享保 13 ( 1728 ) 年 ~ 享和 4 ( 1804 ) 年

77歳。

山上藩主・分家 5代。

栄松院殿 : 同室。


〇 稲垣定計
稲垣 定計(いながき さだかず、享保13年(1728年)- 享和4年1月18日1804年2月28日))は、近江山上藩の第4代藩主。


旗本
稲垣昭倫(宗家・稲垣重昭の次男)の次男。母は渡辺輝の娘。正室は松平忠暁の娘。子に稲垣定淳(長男)、稲垣定時(次男)、稲垣定賢(三男)、稲垣定邦(四男)、娘(増山正賢正室)。官位は従五位下、若狭守、周防守、長門守。


享保13年(1728年)、もしくは享保18年(1733年)6月22日生まれと言われている。幼名は鎌吉。先代藩主の稲垣定享には女児2人しかいなかったため、元文5年(1740年)6月21日、定享が死去した後、その末期養子として跡を継いだ。延享元年(1744年)11月15日、将軍徳川吉宗にお目見えする。延享2年、従五位下若狭守に叙任する。宝暦8年(1758年)11月15日に大番頭天明元年(1781年)10月12日に大坂定番となる。寛政3年(1791年)10月13日に定番を辞任し、翌年11月20日に長男の定淳に家督を譲って隠居し、南岳と号した。享和4年(1804年)正月18日、77歳で死去した。法号は香林院海栄南岳大居士。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺。
(wikiより)


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