〇 村山たか女 ( じょ ) 創建の弁天堂
此の弁天堂は、舟橋聖一作
花の生涯のヒロイン、村山たか女 ( 妙寿尼 ) が慶応三年に創建したものです。
たか女は文化六年 ( 1809年 ) 已已 ( きみ ) の年に生まれました。
已 ( 白い蛇 ) は、弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思われます。
井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年の後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼僧として行いすまし、明治九年九月丗日当寺に於て、六十七才の生涯を閉じたのでした。
法名、清光素省禅尼
(案内板より)
村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。
⇧ たか女晒し者の図(金福寺蔵)
生涯
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。
20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であったために自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。
1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられるも女性ということで殺害を免れたが、三条河原に3日3晩晒された。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩士・長州藩士によって斬殺され、首を晒されている。
その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。墓は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。
長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年(平成23年)の末、京都市東山区の井伊美術館で、直弼がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られている[1]。
脚注
1. “井伊直弼、生身の恋文 東山の美術館発見”. 京都新聞 (京都新聞). (2012年2月13日) 2012年2月13日閲覧。
〇 金福寺
金福寺(こんぷくじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺である。山号は佛日山。本尊は聖観音菩薩。 詩仙堂の少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵がある。
また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである村山たか(村山たか女)ゆかりの寺として知られる。
由緒
864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年〜1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。
その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。
幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。
芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。
元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。
文化財
・芭蕉翁像・・与謝蕪村筆
・洛東芭蕉庵再興記・・与謝蕪村とその一門が芭蕉庵を再興した際に、蕪村が寄せた俳文。
・宝塔・・蛇が入っているもので、村山たか女が寄進した。
他
所在地
〒606-8157
京都府京都市左京区一乗寺才形町20
(wikiより)
⇧⇩ 村山たか女 ( じょ ) 創建の弁天堂
⇧ 寺内を、可愛いコンパニャンが案内してくれました。