2020/03
3539 畝傍の森(通報艦・千島)(港区南青山2-32-2・青山霊園)
砲艦「千島」( 750トン ) は、魚雷兵装が強化されていたので、水雷砲艦といわれていました。
同艦は、日本側回航員及びフランス側乗員合わせて 90名が乗り込み、明治 25年 4月 18日に日本に向かって出港しました。
瀬戸内海に入った頃には風波が激しく、船体は 30度も傾斜するありさまでした。
11月 30日、午前 4時 20分ごろ愛媛県和気郡堀江沖、興居島と睦月島との間で英国ビーオー汽船会社所有「ラベンナ号」の船首が「千島」の中央部に激突、「千島」は気缶が爆発し、4時 58分沈没しました。
この時「ラベンナ号」に救助されたのは、士官 2名・下士官 13名の日本人と、フランス人 1名の計 16名だけであったといわれています。
なお、広島県呉市の呉海軍墓地に、畝傍乗組下士官兵の碑があります。
3538 畝傍の森(巡洋艦・畝傍)(港区南青山2-32-2・青山霊園)
巡洋艦「畝傍 ( うねび )」と水雷砲艦「千島」は、いずれも明治時代にフランスで建造された軍艦です。
「畝傍」は、日清両国の対立が決定的となり、清国北洋艦隊に対抗しうる海軍力の増強のため、財政上の困難の中で発注されたものです。
「千島」は、海軍公債発行による特別費で、当初は通報艦として建造発注されたものです。
両艦とも、建造後間もなく、消息を絶ったり沈没するなどの悲運に見舞われました。
正面の石碑は、海軍将校の親睦団体であった水交社が明治 21年 12月に建立した「軍艦畝傍乗員哀悼之碑」です。
参道の左右には、飯牟礼俊位大尉ほか 7人の乗組員の墓表が並んでいます。
また右に並んでいるのは、「千島」で殉職した 6人の墓表です。
「畝傍」( 3,615トン ) は、竣工後直ちにルアーブル港を出港し日本に向かいました。
同艦には艤 ( ぎ ) 装や回航のために派遣された飯牟礼大尉 ( 海軍兵学校第 5期 ) ほか 7人の日本人と、フエブル中尉ほか 75人のフランス側乗組員が乗艦していました。
明治 19年 10月 18日、ルアーブルを出港した「畝傍」は、天候不良で風波が高く、艦の動揺が大きく航行に危険を感じたので引き返し、翌 19日、天候の回復を待って再出港しました。
地中海では猛烈な暴風雨に遭い、大揺れに揺れたので主砲 1門を下したといわれています。
その後、インド洋の荒海を乗り越え、シンガポールに到着、12月 3日出港、モンスーン最盛期の南シナ海、台湾海峡へと向かいましたが、以来消息を絶ちました。
「畝傍」は遅くとも 12月 13日ごろには横浜に到着するはずでしたが、年が明けた明治 20年正月になっても音沙汰がありませんでした。
海軍当局は、軍艦「扶桑」「海門」や、逓信省灯台局所轄の「明治丸」、日本郵船(株)の「長門丸」で小笠原からフィリピン一帯を捜索しました。
またイギリス海軍東洋艦隊所属の軍艦 2隻及び米国軍艦も捜索に協力しましたが、乗員の遺体・船体・船具の破片など何一つの手掛かりも得られませんでした。
荒天による沈没、火薬庫の爆発、海賊、暴動などの憶測が飛び交いました。
明治 20年 10月 19日、海軍省は「畝傍」が消息を絶ったことを認定しました。
明治 21年、保険金 65万フラン ( 120万円 ) で、「畝傍」の代艦である「千代田」がイギリスのタムソン社に発注されました。
(案内板より)
3537 垣内霞峰墓(谷中7-14-8・天王寺)
3536 渡壱岳墓(谷中7-14-8・天王寺)
3535 渡東嵎墓(谷中7-14-8・天王寺)
3534 渡東皐墓(谷中7-14-8・天王寺)
3533 渡後凋墓(谷中7-14-8・天王寺)
3532 妻恋神社と夢枕(湯島3-2-6・妻恋神社)
その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に会い、妃(きさき)の弟橘(おとたちばな)姫が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
途中尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は、尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝へる。
後、稲荷明神(倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭った。
江戸時代、妻恋稲荷と呼ばれ、関東惣社(そうじゃ)と名のり王子稲荷と並んで参詣人が多かった。
また、正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。
"お宝お宝と大音声(おんじょう)に呼ばわったり"(宮島五丈原)「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の二枚の夢枕は、万治年間(1658~61)に創案され当社が版権を所有していた。
版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和五十二年十二月、刷師(すりし)の家出見つかった。
幻の夢枕は、関係者によって日の目を見て、売り出されるようになった。
(案内板より)
〇 妻恋神社
妻恋神社(つまこいじんじゃ)は、東京都文京区湯島三丁目にある神社。神紋は「檜扇に御の字」。
江戸時代には関東総司稲荷神社とされており[1]、「關東總司 妻戀神社」と称する。また、日本七社(日本七稲荷)[2]の一つに数えられる。
祭神
・倉稲魂命
・日本武尊
・弟橘姫命
歴史
この神社の創建年代等については不詳であるが、日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられる。その後、稲荷明神(倉稲魂命)が合祀された。
江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」[1]と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かった。
氏子地域
・文京区湯島三丁目1、2(一部)、一丁目12
湯島天満宮と重複
・千代田区外神田二丁目10~15、16(一部)、六丁目1・2、3(一部)
※神田明神と重複
脚注
1. a b 文京区教育委員会 (2015年4月). 妻恋神社 (案内板). 妻恋神社.
2. “冠稲荷神社と日本七社”. 冠稲荷神社. 2018年11月26日閲覧。
妻恋坂
妻恋坂は、妻恋神社の鳥居前を通り東から西へ上る坂道。別名、大超坂、大長坂、大帳坂、大潮坂。坂下近くにある蔵前橋通りと昌平橋通りの交差点の名称も妻恋坂である。
関連項目
・日本武尊にちなむ神社
・吾妻神社
・妻恋神社
(wikiより)
3531 花井歌国墓(荒川区西日暮里3・修性院)
3530 日蓮聖人龍口法難六百五十年記念碑(神奈川県藤沢市片瀬3-13-37・龍口寺)
当地は鎌倉幕府時代の刑場地である。
幕府の記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。
奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。
これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。
文永八年 ( 1271 ) 九月十三日丑の刻 ( 午前 2時 )、日蓮大聖人は『立正安国論』の諫言により、幕府に捕らえられ、この刑場・敷皮石 ( 首の座 ) にすえられた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇瑞の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。
かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。
(案内板より)
3529 河島英五墓(奈良県奈良市十輪院町27・十輪院)
※ 墓石の裏側には、河島英五さんの手帳に書かれていた
奥様へのメッセージが刻されています。
ふりかえると いくつもの幸せ
ふりかえると いくつかの哀しみ
いそがしさを いいわけにして
あなたとゆっくり話すこともなかったが
あなたがいてくれたから
がんばってこれたんだ
あなたを支えにして
あなたに ほめられたくて・・・・
英五
英五 1952.4.23 〜 2001.4.16
〇 河島 英五
河島 英五(かわしま えいご、1952年(昭和27年)4月23日 - 2001年(平成13年)4月16日)は、日本のシンガーソングライター、俳優。大阪府東大阪市出身。長女・河島あみるはタレント、長男・翔馬は歌手。次女・河島亜奈睦は音楽ユニット「アナム&マキ」メンバー。公称身長184cm[1]。
人物
大阪府立花園高等学校卒。晩年は大阪府四條畷市に在住していた。
男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている。若いころにギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島英五の音楽の礎を築いている。
内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で唱いあげる姿、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴。
コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。
来歴
・1969年、高校在学中にフォークソングを始める[1]。高校卒業後「ホモ・サピエンス」というグループで活動[1]。京都の自主レーベル・京都レコードからデビュー。支離滅裂派フォークとしてあのねのねらと活動を共にした[1]。デビュー当時は、その風貌とボーカルスタイルから"吉田拓郎の再来"などと騒がれた[1][2]。
・1973年、グループ解散後ソロ活動開始。
・1975年4月、メジャーデビュー[1]。
・代表曲は「酒と泪と男と女」(作詞・作曲:河島英五、編曲:宮本光雄)。この歌は河島が19歳のとき、彼の叔父の姿を見て作曲したものである。萩原健一がカバーし、テレビの歌番組などで歌っていたが、同じ頃、河島の歌唱版が京都・伏見の清酒メーカー・黄桜酒造(現:黄桜)のCMソングとして使われるようになると全国的なヒットとなり、河島の名も全国的に知られるようになった。
・1981年3月に西城秀樹がカバー(アルバム『HIDEKI SONG BOOK』)。
・1988年10月にBOROがカバー(アルバム『LOVE & TEARS-BORO BEST SELECTION』)。
・2007年7月に柏原芳恵がカバー(アルバム『アンコール』)。
・2008年5月に大友康平がカバー(アルバム『J-STANDARD 70’S』)。
・2008年9月に藤田恵美がカバー(アルバム『ココロの食卓 〜おかえり愛しき詩たち〜』)。
・その他の代表曲は「野風増」(橋幸夫らとの競作)、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」(加藤登紀子に書き下ろした楽曲で、のちに河島もシングル発売)など。「時代おくれ」は、現在も多くのおやじ世代にカラオケで歌われており、松本人志、朝青龍や山本浩二、久保竜彦らも愛唱歌としている。また、“ランバダ”がダンスナンバーとして日本で流行する以前に『花の種』というアンデスを舞台にした哀調の日本語ナンバーに仕上げてレパートリーとしていた。
・1980年代、ケニアの首都ナイロビにある「グリーンバー」という酒場のジュークボックスには「酒と泪と男と女」のレコードがあり、日本人客が来ると現地の娼婦などがよくかけてくれた。当時、旅行者の間では、河島がグリーンバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったために自分のレコードを置いていった、という逸話がある。
・1980年代、NHKの番組「北陸東海」(中部7県で放送)の「英五のろまんちすと紀行」に旅人として出演、中部7県(愛知県・岐阜県・三重県・静岡県・富山県・石川県・福井県)各地を訪れた。なお、河島はこの番組のオリジナルテーマソングも歌っている。
・「時代おくれ」で、『第42回NHK紅白歌合戦』(1991年)の出場歌手として選出されるに至った。当日は第1部の白組トリで、ピアノを弾きながら歌われている。
・阪神・淡路大震災の被災者を励ますために、友人の桂南光らと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を開いていた。死去した年のコンサートでは、河島の3人の子供たちと桂南光が、遺作『旧友再会』を観客と共に歌った。
・長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日、肝臓疾患のため急死した。48歳没。亡くなる2日前にライブに立ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ息を引き取った。
・告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。
・河島の忌日となった4月16日は『桜風忌』と呼ばれている。
河島英五とホモ・サピエンス
メンバー
・河島英五
・新井基浩
・木下景弘
・河島哲
1976年9月に解散
ディスコグラフィ
アルバム
・人類(1975年)
・運命(1976年)ここまで「河島英五とホモ・サピエンス」名義で発表
・信望(1977年)
・ライブてんびんばかり(1977年)(ホモ・サピエンスのメンバーが参加)
・仁醒(1978年)
・河島英五作品集(1979年)
・EIGO SPECIAL(1979年)
・ホモサピエンス門外不出(1979年)
・文明 I(1980年)
・文明 II(1980年)
・文明 III(1980年)
・トップシングルコレクション(1983年)
・河島英五 の世界(1984年)
・発汗(1985年)
・時代おくれ(1986年)
・ベスト・セレクション(1986年)
・ろまんちすと(1987年)
・河島英五1975-1986(1987年)
・「文明」ベスト&名作集(1987年)
・季節(1988年)
・河島英五 SCENE OF38(1989年)
・いくつかの場面(1991年)
・河島英五 アコースティックベストセレクション(1992年)
・ほろ酔いで(1993年)
・自選集(1993年)
・ボーカル&カラオケ・ベスト5(1994年)
・自選集II〜カヌーにのって(1995年)
・大全集Vol.1〜ホモサピエンス(1997年)
・大全集Vol.2〜酒と泪と男と女(1997年)
・全曲集’98(1997年)
・ベスト・コレクション(1997年)
・大全集Vol.3〜心から心へ(1998年)
・コレクション 酒と泪と男と女(キングCD文庫)(1999年)
・河島英五 ベスト撰集(2000年)
・河島英五 LASTLIVE〜今日は本当にありがとう(2001年)
・DREAM PRICE 1000 河島英五(2001年)
・酒と泪と男と女 メモリアル(2002年)
・GOLDEN☆BEST 河島英五 SINGLES(2002年)
・河島英五 History 〜天夢〜(2003年)
・GOLDEN☆BEST 河島英五 ヒット全曲集(2009年)
・旧友再会〜ベスト オブ 河島英五〜(2011年)
詳しいことは、「河島英五ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E8%8B%B1%E4%BA%94
(wikiより)
河島英五
3528 北川宗助墓(千葉県香取市佐原イ1057・法界寺)
情報産業立国の祖
北川宗助は明治 41年 当地に生まれました。
昭和の初期に輸入した統計機械に魅了・触発され、経営近代化の理念を抱き、これをライフワークとして生涯をとおして推進してこられました。
その間、数々の情報処理企業を創設し、将来に備えて人材の育成に努め、コンピューター産業の発展に格段の努力をされ、わが国の情報化の促進に多大な貢献をされました。
北川門下からは情報産業界において多くの社長を輩出、北川宗助の独創的にして果敢な行動思想は情報産業界において脈々として受け継がれ、今日のIT産業の礎となりました。
わが国情報産業界に不滅の足跡を残した個人の威徳を偲び、後世に伝えんがためこの碑を建立する。
(碑文より)
3527 帝国海軍駆逐艦・橘鎮魂之碑(北海道函館市汐見町)
3526 武者小路公香墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3525 杉孫七郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴・人物
植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現在の山口県山口市)で生まれる。母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、吉田松陰にも師事した。藩主の小姓を務めた後、1861年(文久元年)、藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳・松平康英らに従って欧米諸国を視察する。帰国後、下関戦争では井上馨とともに和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。四境戦争では長州軍の参謀として活躍した。
明治維新後には山口藩副大参事となる。廃藩置県後の1871年(明治4年)、宮内大丞、秋田県令を歴任後、再度宮内大丞を務める。1874年(明治7年)に宮内少輔、1877年(明治10年)に宮内大輔、1878年(明治11年)に侍補を兼務、後に皇太后宮大夫に転じる。
明治17年から同20年まで皇居御造営事務局長をつとめる。1887年(明治20年)に子爵に叙せられる。 1897年(明治30年)に枢密顧問官に転じた。 大正九年まで枢密顧問官をつとめ、その間、明治三一年から同三三年まで東宮御所御造営局長をつとめる。
書にも優れていた。墓所は青山霊園立山墓地。杉聴雨墓と刻まれており、分かりづらい。
栄典
位階
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[1]
・1920年(大正9年)5月3日 - 従一位[4]
勲章等
・1886年(明治19年)11月30日 - 勲二等旭日重光章[5]
・1887年(明治20年)
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
・1896年(明治29年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[9]
・1904年(明治37年)12月27日 - 旭日大綬章[10]
・1920年(大正9年)5月3日 - 旭日桐花大綬章[4]・
外国勲章佩用允許
・1884年(明治17年)8月20日 - イタリア王国:イタリア王冠勲章グランコルドーネ[11]
脚注
1. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
2. 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。
3. 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
4. a b 『官報』第2325号「叙任及辞令」1920年5月5日。
5. 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
6. 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
7. 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
8. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
9. 『官報』第4050号「叙任及辞令」1896年12月26日。
10. 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
11. 『官報』第363号「叙任及辞令」1884年9月11日。
外部リンク
・杉 孫七郎(すぎ まごしちろう)
・国立国会図書館 憲政資料室 杉孫七郎関係文書(寄託)
(wikiより)
杉孫七郎

3524 米津政賢墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる[1][3][4]。父の死去に伴い、1895年11月22日、子爵を襲爵した[3][4][5]。
学習院中等科、第六高等学校を経て[3]、1908年7月、東京帝国大学農科大学を卒業[2][3][4]。
同年、農商務省嘱託となる[2]。
以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた[2][4]。
1915年6月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[6]、研究会に所属して活動し、死去するまで五期在任した[2][4]。
栄典
・1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[7]
・1929年(昭和4年)5月15日 - 従三位[8]
親族
・妻:益子(ますこ、戸沢正実三女、1911年5月結婚)[1][3]
・長男:政福(子爵)[1]
・叔父:酒井忠利(父の弟、海軍少将)
脚注
1. a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下巻、831-832頁。
2. a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』59頁。
3. a b c d e 『華族畫報』上、329頁。
4. a b c d e 『人事興信録』第13版 下、ヨ85頁。
5. 『官報』第3723号、明治28年11月25日。
6. 『官報』第859号、大正4年6月14日。
7. 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
8. 『官報』第837号「叙任及辞令」1929年10月12日。
参考文献
・杉謙二編『華族畫報』上、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
3523 米津政明墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3522 税所篤文墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
人物
陸軍士官学校旧2期卒。1886年(明治19年)、陸軍砲兵大尉に任官し、砲兵第5連隊第1大隊中隊長を拝命する。
1895年(明治28年)、陸軍砲兵中佐に任官すると、軍務局砲兵課長、軍務局兵器課長を歴任する。1902年(明治35年)、陸軍少将に任官と同時に呉要塞司令官に補され、翌年同要塞が広島湾要塞に改称されると再度司令官に任用された。1906年(明治39年)8月、旅順陣歿露兵遺骸合理委員会が設置されると委員長に選任される。その翌年には旅順要塞初代司令官伊地知幸介の後任として第2代司令官に任じられるが、約3年後の1910年(明治43年)2月26日、現職のまま卒去した。同日付で正四位を追叙された。
官歴
・1879年(明治12年)2月1日 - 陸軍士官学校(旧2期)卒業[1]、任 陸軍砲兵少尉
・1886年(明治19年)
・1890年(明治23年)
・3月28日 - 補 軍務局課員(兼陸軍将校生徒試験委員如故)[5]
・1891年(明治24年)9月16日 - 任 陸軍砲兵少佐。[6]
・1891年(明治24年)8月24日 - 御用有之北海道並仙台及青森へ主張ヲ命ズ。[7]
・1891年(明治24年)9月16日 - 任 陸軍砲兵少佐。[8]
・1892年(明治25年)
・1894年(明治27年)9月26日 - 参謀本部御用掛兼勤ヲ命ズ。[11]
・1895年(明治28年)
・1896年(明治29年)10月29日 - 補 軍務局砲兵課長。[13]
・1897年(明治30年)
・1900年(明治33年)4月25日 - 兼 兵器監部員[1]
・1902年(明治35年)5月5日 - 任 陸軍少将、補 呉要塞司令官。[1][16]
・1903年(明治36年)5月1日 - 広島湾要塞司令官[1]
・1904年(明治37年)3月10日 - 第二軍砲兵部長[1]
・1906年(明治39年)
・1907年(明治40年)4月1日 - 補 旅順要塞司令官[1][18]
栄典・授章・授賞
位階
・1885年(明治18年)11月27日 - 正七位[19]
・1910年(明治43年)2月26日 - 正四位[24]
勲章等
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[25]
・1895年(明治28年)
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章
外国勲章佩用允許
・1901年(明治34年)10月4日 - プロイセン王国:赤鷲第二等勲章[28]
・1902年(明治35年)9月6日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章オフィシェ[29]
・1908年(明治41年)8月17日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第一等勲章[30]
詳しいことは、「税所篤文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8E%E6%89%80%E7%AF%A4%E6%96%87
(wikiより)
3521 西徳二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
西 徳二郎(にし とくじろう、1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官、枢密顧問官、薩摩藩出身の男爵。
若年のころはロシアの帝都サンクトペテルブルクに遊学し、その後はロシア・中国(清)両勢力圏に挟まれる中央アジアを調査した経歴を持つ。19世紀末に外務大臣を務め、日本とロシアの韓国問題を調停したことで知られる。子に、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで活躍し、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐がいる。
経歴
・1847年 父・西藤左衛門勝成、母・加納ヒロの次男として生まれる。幼名を常二郎。
・1873年-1880年 中央アジアを調査のために踏破する。ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、タシケント、ウイグル、新疆を調査した。
・1874年 フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
・1886年6月 駐ロシア公使を拝命(兼スウェーデン、ノルウェー公使)。
・1896年8月 駐ロシア公使離任。
・1897年3月 枢密顧問官任命。
・1897年(明治30年)11月6日-1898年(明治31年)1月12日 第2次松方正義内閣の外務大臣就任。
・1898年(明治31年)1月12日-1898年(明治31年)6月30日 第3次伊藤博文内閣の外務大臣就任。
・1898年(明治31年)4月25日 第3次日露協定(西・ローゼン協定)。
・1899年10月 清国駐在公使を拝命。1900年の義和団の乱(北清事変)では北京に籠城。
・1899年(明治32年)12月27日、勲一等旭日大綬章受章。
・1901年1月、駐清公使離任。
・1901年11月、枢密顧問官。
栄典
位階
・1886年(明治19年)10月20日 - 従四位[1]
・1897年(明治30年)11月30日 - 正三位[2]
勲章
・1892年(明治25年)11月15日 - 勲二等瑞宝章[3]
・1895年(明治28年)8月20日 - 男爵、勲一等瑞宝章[4]
・1899年(明治32年)12月27日 - 勲一等旭日大綬章[5]
栄誉
外国勲章佩用允許
・1896年(明治29年)10月23日 - スウェーデン王国 北極星第一等勲章[6]
脚注
1. 『官報』第994号「叙任」1886年10月21日。
2. 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
3. 『官報』第2818号「叙任及辞令」1892年11月17日。
4. 『官報』第3644号「叙任及辞令」明治28年8月21日
5. 『官報』第4949号「叙任及辞令」明治32年12月28日
6. 『官報』第4005号「叙任及辞令」明治29年11月2日
参考文献
・西徳二郎 『中亜細亜紀事』 <異域叢書>青史社、1987年(この著作は1886年に記した)。
・『シルクロード紀行1 中亜細亜紀事』 金子民雄訳
<海外渡航記叢書3>雄松堂出版、1990年。
・『日本外交史人物叢書第2巻 男爵西徳二郎伝』 坂本辰之助
ゆまに書房、2002年、吉村道男監修、初版1933年。
・金子民雄 『中央アジアに入った日本人』 中公文庫、1992年。
外部リンク
・西徳二郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室
(wikiより)
西徳二郎
3520 有地品之允墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
長州藩士で武術指南役(1000石)であった有地藤馬の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。
明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。明治14年(1881年)に「日進」艦長に就任。明治15年(1882年)には海軍大佐に昇進し、海防艦「比叡」、「筑波」の艦長を歴任する。
「筑波」艦長であった明治17年(1884年)、遠洋航海に出発した。前年の航海では乗組員に多数の脚気患者が発生し、23名が死亡していた。そこで、海軍軍医・高木兼寛の指導で洋食を導入した結果、脚気患者の発生が激減し、一人の死者も出ることがなかった。
同年12月に軍事部(後の軍令部)次長となり、参謀本部海軍部第1局長を経て、明治19年(1886年)に海軍少将・横須賀軍港司令官、翌年まで海軍機関学校校長を兼務。明治20年(1887年)に海軍兵学校校長となり、教育に柔道を導入している。明治22年(1889年)から同24年(1891年)まで海軍参謀部長、さらに常備艦隊司令長官を経て、明治25年(1892年)12月12日に海軍中将・呉鎮守府司令長官[1]となり日清戦争を迎えた。
明治28年(1895年)5月に再び常備艦隊司令長官となり連合艦隊司令長官を兼務した。同年10月、日本領となった台湾において、抵抗した中国人がイギリス商船「テールス号」に逃げたため、配下の通報艦「八重山」がこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の処罰を要求した。その結果、有地と八重山艦長の平山藤次郎大佐を予備役に編入することで解決が図られ、同年11月16日、待命となり[2]、同12月19日、予備役に編入された[3]。
明治29年(1896年)に男爵に叙せられ、翌年から10年間(大正6年(1917年)4月30日まで[4])、貴族院議員を務めた。明治32年(1899年)、帝国海事協会初代理事長となり、有栖川宮威仁親王を総裁に奉戴し、帝国義勇艦隊結成に尽くした。明治44年(1911年)3月15日に退役した[5]。
大正6年(1917年)に枢密顧問官となった。青山墓地に葬られる。墓碑には本名ではなく、一葦乗海居士と彫られている。
栄典
位階
・明治4年
・1874年(明治7年)
・1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6][8]
・1892年(明治25年)2月13日 - 正四位[6][9]
・1900年(明治33年)5月30日 - 従三位[6][10]
・1910年(明治43年)6月11日 - 正三位[6][11]
・1919年(大正8年)1月17日 - 従二位[12]
勲章等
・1878年(明治11年)6月28日 - 勲四等旭日小綬章[6]
・1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[6][13]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6][14]
・1893年(明治26年)11月29日 - 勲二等瑞宝章[6][15]
・1895年(明治28年)11月21日 - 旭日重光章[6][16]・明治二十七八年従軍記章
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[6][18]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6][19]
・1919年(大正8年)1月17日 - 旭日大綬章[20]
外国勲章佩用允許
・1884年(明治17年)12月15日 - ハワイ王国:クラウンオブハワイ勲章[6]
著作など
・論説「海事ヲ論シテ教育家諸君ニ望ム」会員有地品之允、『大日本教育会雑誌』99、1890年8月15日
・「明治24年4月11日 有地海軍中将 海防意見書」(伊藤博文編『秘書類纂 10 兵政関係資料』196-201頁)
・論説「義勇艦隊建設について」男爵有地品之允、帝国海事協会機関誌『海事雑報』197、1905年2月10日
親族
・三男・嗣子 有地藤三郎(海軍造兵大佐・貴族院議員)
・五男 有地十五郎(海軍中将)
・弟 梨羽時起(海軍中将)
脚注
1. 『官報』第2839号「叙任及辞令」1892年12月13日。
2. 『官報』第3718号「叙任及辞令」1895年11月18日。
3. 『官報』第3745号「叙任及辞令」1895年12月20日。
4. 『官報』第1423号、大正6年5月2日。
5. 『官報』第8317号、明治44年3月16日。
6. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『履歴書写送付の件』 アジア歴史資料センター Ref.A06050224400
7. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号111
8. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
9. 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
10. 『官報』第5071号「叙任及辞令」1900年5月31日。
11. 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
12. 『官報』第1937号「叙任及辞令」1919年1月20日。
13. 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
14. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
15. 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
16. 『官報』第3723号「叙任及辞令」1895年11月25日。
17. 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
18. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
19. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
20. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
参考文献
・別冊歴史読本『連合艦隊司令長官』戦記シリーズ№61、新人物往来社、2003年
・『日本海事協会 - その100年の物語』財団法人日本海事協会、1999年
関連文献
・佐藤進一「壬午事変に参加した有地品之允の日記」中央大学文学部紀要120、1986年
外部リンク
・海軍柔道の歴史
・「有地品之允書翰(史料翻刻)」大阪工業大学紀要59巻2号
(wikiより)
有地品之允
3519 松野クララ墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。1876年(明治9年)に来日し、ドイツで知り合った松野礀(まつの はざま、林学者、農商務省官吏)と結婚。日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第1号だった。翌年、娘の文(ふみ、Frida Fumi)を出産[3]。
以後、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組み、東京女子師範学校附属幼稚園の最初の主席保母として、ドイツの養成所で学んできたフレーベルの理論や保育内容の実際をほぼ舘に直接教え、後には東京女子師範学校の保母練習科の生徒たちにも教授した。[4]また当時珍しかったピアノを弾いて一緒に子どもたちと遊戯を楽しんだ保育者の第一号でもる。1908年(明治41年)5月4日、クララは夫の死去後にドイツに帰国し、1941年、ベルリンにおいて88歳で逝去した。なお、クララが離日した時期や、その事情は定かではない。また墓所も研究者の調査にもかかわらず不明のままである[5]。
活動と業績
1876年に設立された東京女子師範学校付属幼稚園にて、初代監事(園長)関信三の下で首席保母となり、豊田芙雄(ふゆ、女性)[6]・近藤濱を保母として、フレーベルの恩物の使い方や遊戯、実際的な保育の技法を通じて、フレーベルの教授法を初めて日本に導入するに当たり功績があった。また、1878年設置の同校保母練習科で保育法をも教授した。宮内省式部職の命により、1879年から雅楽部の小篠秀一、芝葛鎮、東儀季芳、奥好義に、1884年から辻則承に、ネイサン・リチャードソンの教則本「ピアノフォルテのためのニュー・メソッド」を用いてピアノを教えている[7]。のち1881年以後は、華族女学校でピアノを指導している。
なお、夫が死去した翌年の1909年(明治42年)、千葉県清澄山周辺にある東京大学千葉演習林の外国樹種植栽一帯を「松野記念林」[8]とし、クララの主導により外国樹種の記念植林が行われた。
家族
娘の文はリチャード・ニクラス・オーリー(Richard Nikolaus Ohly)に嫁ぎ、2子を儲けるも24歳で死去する。その遺児はクララに引き取られたが、いずれも早世した[9]。クララの妹・エンマの夫であったフリードリッヒ・プッチール[10]もお雇い外国人として来日し、旧制一高、東京外国語学校などでドイツ語を教えている。フリードリッヒも1901年に死亡したので、クララは夫の死後から離日まで、妹・エンマと夫の姉・章子と女世帯で暮らしていた。
その他
児童文学者の巌谷小波(当時8歳)は、クララの来日直後より、彼女からドイツ語の指導を受けている。
顕彰
1976年11月16日に発行された「幼稚園100年記念」の記念切手には武村耕藹の絵には、子どもたちと一緒に遊戯(フレーベルの『母の歌と愛撫の歌』の「家鳩」)をしているクララの姿が描かれている。当時、幼稚園の遊戯室にはピアノが1台しかなく、弾けるのは彼女だけだった。
2011年11月、青山霊園にあるクララの夫と娘の墓所のそばに、クララの顕彰碑が建立された。これは日独交流150周年の記念事業の一環として行われたものである。
参考文献
・小林富士雄『松野礀と松野クララ 明治のロマン 林学・幼稚園教育事始め』大空社 2010年
・原田朋香「松野クララの経歴ー先行研究の整理に基づいて」武庫川女子大学大学院 教育学研究論集 第5号 2010年 p.119 - 128
脚注
1. Tietermannと表記された文献もある。日本ペスタロッチー・フレーベル学会編『ペスタロッチー・フレーベル事典』玉川大学出版部 2006年の「松野クララ」の項では旧姓をツィーデビルマンだとしている。また、名も以前はKlara表記が多かったが、近年の研究ではClara表記が主流である。
2. 姓の最初のアルファベットがZかTかということについては、2011年5月、津守眞、本田和子、宮里暁美、小林恵子、立浪澄子を発起人とし、26人名の教育学者、保育学者、教育史研究者と3つの施設、機関を賛同者として松野クララ顕彰碑建設基金事務局が、顕彰碑建設のための寄付を募った文書で、使用されている欧文名を国内では定説となっているものとして尊重した。
3. 南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その一) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 11 ) , pp.32 - 37 , 1976-11-01 , 日本幼稚園協会
4. 土山忠子、山本和美『新版現代保育原理』建帛社 1997年 p.161
5. 南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その二) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 12 ) , pp.12 - 17 , 1976-12-01 , 日本幼稚園協会
6. 藤田東湖の姪で、生涯を女子教育、幼児教育に捧げた実践家。
7. 「(大正9年11月「月刊楽譜」第9巻第11号)最初のピアノの教師クララ女史 奥好義氏談」『日本の洋楽百年史』秋山龍英、第一法規出版、1966年、335頁。
8. 大日本山林会 - 松野はざまと東京大学演習林
9. 2010年8月、長野県短期大学教授の立浪澄子が、ドイツのルードルシュタットを訪問。クララの子孫の調査を行った。現地のニュース
10. Friedich Putzier、外国語学校、東京大学予備門、第一高等学校でドイツ語を教えた。
関連項目
・幼稚園
・幼児教育
(wikiより)


3518 松野礀墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
伏見満宮の随員としてドイツにわたり、1872年ベルリン郊外にあるエーベルスワルド官立フォレストアカデミーに入学する。帰国後は内務卿となっていた大久保利通に後の内務省山林局となる地理寮木石課に職を用意してもらい官吏に任命される。
松野はまずは樹木の試験研究機関を開設することにし、東京府北豊島郡西ヶ原村(現北区西ヶ原)を地権者から買い上げて敷地を確保し、山林局樹木試験場を設置した。1881年、内務省山林局が新設の農商務省へ移管され、農商務卿には西郷従道が就任。これを時期とみて松野は山林学校開設を提案し了承された。同年山林局に学務課が設置され、松野は課長に任命された。
こうして1882年、東京山林学校が西ヶ原試験場内に開校して、樹木試験場はその付属となる。宿願を果たした松野は校長・教授に就任する。
その後松野は山林学校合併後の東京農林学校、また帝国大学農科大学で教授職を歴任するが、後に森林行政官に戻り、東京林区暑林務官、長野林区暑林務官などを経て、農商務省林業試験所長を勤める。
松野については直接間接に教えをうけた幾人かがその著書や雑誌「山林」に書き残している。
親族
・妻 松野クララ
脚注
1. 『日本人名大辞典』1781頁。
参考文献
・戦前期におけるわが国林学高等教育の展開
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
(wikiより)
3517 開基養源院殿墓(江東区深川2-16-7・心行寺)
3516 ストーン墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3515 ディートリッヒ夫人墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3514 大久保利和墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3513 新島襄海外渡航の地碑(函館市大町11)
新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を函館に選びました。
元治元年 ( 1864年 ) 江戸からきて、ニコライ主教 ( ハリストス正教会 2代主教 ) に、日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていましたが、同年 6月 14日 ( 新暦 7月 17日 ) 深夜、福士成豊 ( 日本最初の函館測候所開設者 ) の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学 10年の後、明治 7年 ( 1874年 ) 帰国し、翌 8年京都において同志社大学の前身てある同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故国の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治 2年 ( 1865年 ) 香港での作です。
渡航前の名前は新島七五山太 ( シメタ ) でしたが、航海中船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄 ( ジョー )」の字をあてました。
3512 中村舟路文学碑(北海道函館市住吉町・立待岬)
3511 三浦玄中墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3510 室町清子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3509 松田道之墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴
鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれる。はじめ藩医木下主計に養われ、のち松田市太夫の嗣子となる。藩校尚徳館と咸宜園に学び、幕末は尊皇攘夷運動に傾倒していた。明治維新後に内務官僚となり、明治2年(1869年)京都府大参事、明治4年(1871年)大津県令、翌年は滋賀県令に就任し、明治8年(1875年)には内務大丞に転任。同年、琉球処分官として沖縄を視察。以後、明治12年(1879年)まで琉球処分官として琉球・沖縄を三度訪問し、明治12年(1879年)の琉球処分断行に尽力した。同年、東京府知事に就任。遠い琉球と日本本土とを往復する処分官としての激務に心身の健康を害していたのか、明治15年(1882年)に満43歳で死去した。
京都府大参事時代の教師として、京都府顧問山本覚馬の記載がある[1]。山本は家では講座を開いて政治や経済に関する講義をされた。これに習った知名の士を挙げると、官員では、槙村正直・松田道之・藤村紫朗らである。松田も藤村も槇村の下の官員で、のち、松田は滋賀県知事・東京府知事、藤村も大阪府知事に栄転した。なかでも松田はもっとも山本と親交があった。
主な著書
・「琉球処分」1879
参考文献
・木山竹治著 『松田道之』鳥取県教育会 1925年
・『鳥取藩史』第一巻 鳥取県立図書館 1969年
・青山霞村原著 住谷悦治校訂、田村敬男編集 『山本覚馬伝』 宮帯出版社 2013年 ISBN 978-4-86366-873-7
脚注
1. 青山[2013:163]
関連項目
・明六社
(wikiより)
松田道之
3508 中村重遠(進一郎)墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴
1840年(天保11年)、宿毛村(現在の高知県宿毛市)に小野弥源次の子として生まれた。のち中村儀平の養子となる。山内氏固の家臣で1862年(文久2年)、宿毛文館の句読役になった。戊辰戦争では、1868年(明治元年)、東征軍に従ったが途中帰国し、宿毛出兵を説き機勢隊を編成しその責任者となる。北陸に進み功をあげる。
1871年(明治4年)[西暦年要検証]、兵部省七等出仕。のち陸軍少佐任官。1873年(明治6年)6月、陸軍省第4局第1課長に就任し、同年12月、熊本鎮台参謀長心得に転じ佐賀の乱に出征。1874年(明治7年)8月、第4経営部司令官となる。1877年(明治10年)1月、広島鎮台参謀長兼衛戍司令官に着任するが、同年3月、西南戦争により別働第2旅団参謀長として出征し軍功をあげ勲四等。
1877年12月、第4局次長に就任し、1878年(明治11年)11月、工兵大佐に昇進し第4局副長となる。同年12月、工兵第1方面提理に転じ、1884年(明治17年)2月、東京で病死。
逸話
明治維新が一段落付いた明治10年(1877年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。のちの世界遺産姫路城はこの頃、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。
陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠工兵大佐やドイツ公使マックス・フォン・ブラントらが修復を太政官に上申するよう願い出て、明治11年(1878年)12月、陸軍卿山縣有朋により、名古屋城と姫路城両城の保存が決定された。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。明治12年(1879年)には大天守の地階の補強支柱工事が行われた。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であった。
市民による「白鷺城保存期成同盟」の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく明治43年(1910年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。
参考資料
・『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
3507 秋山雅之介墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3506 久保断三墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
長州藩士・久保五郎左衛門の長男として、萩城下松本村(現:山口県萩市)で生まれる。
松下村塾で玉木文之進、吉田松陰に学ぶ。13歳で家督を相続。
安政2年(1855年)、江戸藩邸の大番手として約二年間勤める。
この間、古賀茶渓、羽倉簡堂、東条英庵、塩谷宕陰に学んだ。
安政4年4月29日(1857年5月22日)に帰藩し、富永有隣の出獄に尽力して、彼と松陰の三人で協力して松下村塾を独立させる。
安政5年7月(1858年8-9月)に藩務に復帰し、明倫館出勤、三田尻講習堂出勤、政事堂出勤、舟木代官、上関代官、筑前伊崎代官、山口藩会計主事などを歴任。
明治3年(1870年)、山口藩権大参事となる。
廃藩置県後、山口県少参事に就任。
明治5年(1872年)、名東県(現:徳島県)参事となり、のち権令に就任。
1874年(明治7年)11月、度会県(現:三重県)権令に転任。
1876年(明治9年)7月20日に退官し、東京に転居した。
参考文献
・『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年。
・山口県教育会編『吉田松陰全集』第10巻、大和書房、1974年、514-515頁。
(wikiより)
3505 上田章墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
3504 丹羽長国墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
天保5年(1834年)4月14日、二本松藩9代藩主・丹羽長富の六男として誕生。幼名は保蔵。
弘化3年(1846年)12月18日、従五位下越前守に叙任する。弘化4年12月16日、従四位下に昇進する。安政5年(1858年)10月11日、父・長冨の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、侍従に任官する。文久3年(1863年)10月25日、上洛し、参内する。元治元年(1864年)4月9日、幕府から京都警備を命じられる。同年、従四位上に昇進する。慶応元年(1865年)9月5日、幕府から冬期の京都の警備を命じられる。
慶応4年(1868年)、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍である新政府軍と戦ったが、各地で敗戦した。7月29日、二本松城は陥落した(二本松の戦い)。藩主・長国は米沢藩に逃れた。9月10日、二本松藩は新政府に降伏し長国は謹慎を命じられた。10月23日、東京の前橋藩邸に移される。12月7日、新政府から隠居を命じられた。また、領地10万700石のうち5万700石を没収された。なお、家督は養子・長裕が継いだ。
明治2年9月28日(1869年11月1日)、謹慎を解かれた。明治35年(1902年)5月3日、養孫にあたる長保の死去により、家督を再び相続して子爵を襲爵した[1][2]。なお、長保は長裕の実弟であった。明治37年(1904年)1月15日に死去した。享年71(満69歳没)。跡を養子の長徳が継いだ。
なお、長国の長女峯は丹羽長裕夫人、五女鉏子は丹羽長徳夫人、六女花子は丹羽長保夫人となった。
栄典
・1889年(明治22年)7月30日 - 正四位[3]
系譜
・父:丹羽長富(1803-1866)
・母:松尾氏
・正室:戸田氏正の娘
・生母不明の子女
・長女:峯 - 丹羽長裕正室
・女子:稲葉正邦養女
・五女:鉏子(くみこ) - 丹羽長徳室
・六女:花子 - 丹羽長保室
・養子
・男子:丹羽長徳(1873-1947) - 伊達宗徳の六男
脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』下巻、333-334頁。
2. 『官報』第5647号、明治35年5月5日。
3. 『官報』第1828号「叙任及辞令」1889年8月2日。
参考文献
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
(wikiより)
丹羽長国
3503 大久保利武墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
略歴
慶応元年、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる(幼名三熊)。
1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。
1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し内務大臣秘書官に就任。さらに内務省監獄局長を務める。
1900年(明治33年)1月、鳥取県知事となる。以後、大分県・埼玉県の各知事を歴任。1907年(明治40年)12月、農商務省商工局長となり、さらに商務局長を務めた。1912年(大正元年)12月、大阪府知事に就任。1917年(大正6年)12月、大阪府知事を退任後、貴族院勅選議員に任じられ研究会に属した。1922年(大正11年)2月13日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[1]。
継嗣がいなかった兄・利和の養子となり、1928年(昭和3年)6月5日、利和の隠居に伴い家督を相続し、6月15日には侯爵を継承し貴族院侯爵議員に就任。その他、維新史料編纂会委員、日本赤十字社理事などを務めた。
栄典・受章・受賞
位階
・1910年(明治43年)8月10日 - 正四位[2]
勲章等
・1896年(明治29年)3月31日 - 勲六等単光旭日章[3]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章[4]
・1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等瑞宝章[5]
・1915年(大正4年)
・1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[8]
親族
・妻 大久保栄(近藤廉平の長女)
・長男 大久保利謙
・三男 大久保通忠(三菱石油秘書室長)
脚注
1. 『官報』第2858号、大正11年2月14日。
2. 『官報』第8142号「叙任及辞令」1910年8月11日。
3. 『官報』第3861号「叙任及辞令」1896年5月15日。
4. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
5. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
6. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
7. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
8. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
外部リンク
・ウィキソースには、日本赤十字社録事(1920年6月26日官報)の原文があります。
(wikiより)
大久保利武
3502 林檉宇墓(新宿区市谷山伏町16)
3501 林鵞峰墓(新宿区市谷山伏町16)
人物・略歴
京都出身。那波活所(なわかっしょ)に師事し、その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えた。父羅山の死去後の明暦3年(1657年)林家を継ぎ、幕政に参与した。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。
日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。
多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評される[1]。
寛永20年(1643年)の著書『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記し、これが現在の「日本三景」の由来となった。2006年(平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定された。
家族
父林羅山は幕府草創期の儒者として著名である。長兄・次兄は夭逝し、三男春勝が鵞峰として羅山の後を継いだ。子の信篤は林家3代を継ぎ、林鳳岡と号した。
弟守勝は読耕斎(とくこうさい)と号し、やはり幕府に召し抱えられた。読耕斎の子孫の家を「第二林家」と呼ぶ(林家の項目参照)。
脚注
1. 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス
関連項目
・本朝通鑑
・日本三景
外部リンク
・松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス(ISIS本座)
(wikiより)
3500 林鳳岡墓(新宿区市谷山伏町16)
人物略歴
儒学者・林鵞峰の次男として江戸に生まれた。兄の春信(梅洞)が早世したため林家を継いだ[1]。
延宝8年(1680年)に父・鵞峰が死去したのちは、その職禄を継いで大蔵卿法印・弘文院学士となった[1]。その後、江戸幕府の4代将軍・徳川家綱以後、8代将軍・徳川吉宗まで5代にわたって幕府に仕えた。特に5代将軍・綱吉、8代将軍・吉宗からの信任が厚く、綱吉の命により殿中諸士に講義したこともある[1]。
元禄4年(1691年)、それまで上野不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した[1]。これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた[1]。以後、鳳岡は聖堂学問所(のちに昌平坂学問所)を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勤めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般に士として扱われるようになった[1]。
その後、鳳岡は吉宗までの歴代将軍に仕え、講学だけではなく官爵や系譜、祭典など、幕府の文書行政に参与し、この間、朝鮮通信使の応接にもかかわった。また『武徳大成記』などの編纂に従事し、林家の官学的傾向をつよめ、服忌令を定めた。また、その門下は幕府や諸藩に仕え、儒学の発展におおいに寄与した[1]。
享保8年(1723年)、子の信充(林榴岡)に家督を譲った。享保17年(1732年)、87歳で死去した。
著書・門人
著書に『鳳岡学士集』などがあり、元禄4年(1691年)以降は、もっぱら湯島を文教の府として儒教の振興に努めた[2]。門人には嫡子信充のほか井上蘭台、秋山玉山、岡島冠山、黒沢雉岡、松平乗薀[注釈 1]がおり、さらに、桂山彩巌、後藤栗庵、良野華陰、速見常房など多数におよんでいる[3]。
演じた俳優
・佐野浅夫 :『忠臣蔵』(年末時代劇スペシャル、1985年、NTV)
・鈴木瑞穂 :『八代将軍吉宗』(大河ドラマ、1995年、NHK)
脚注
注釈
1. 享保元年生まれの松平乗薀は鳳岡晩年の弟子で、のちに美濃国岩村藩の藩主となった。また、乗薀の三男の松平乗衡は林家の養子に入り、林述斎として8代当主を継いだ。
参照
1. a b c d e f g 藤谷(1979)pp.107-108
2. 玉懸(2004)
3. 師弟関係図 (PDF) (小林松篁)
参考文献
・藤谷俊雄「林鳳岡」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第8巻 は-ま』河出書房新社、1979年11月。
・玉懸博之「林鳳岡」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
関連項目
・昌平坂学問所
(wikiより)



3499 林榴岡墓(新宿区市谷山伏町16)
略歴
享保8年(1723年)、大学頭となり、翌年林家4代を継ぐ。寛保3年(1743年)、徳川家治の侍講となった。
江戸麹町八重洲河岸に屋敷を構えていたが、宝暦6年(1756年)11月23日、自邸より出火、大名小路・数奇屋町・木挽町まで焼失、さらに築地より出火、西本願寺地内十五ヵ寺・小田原町まで焼失、さらに青山権太原六道の辻より出火、三田あたりまで焼失、最初に出火したのが信充であったことから大学火事と呼ばれた。
編著書
・「馴象編」
・「武州豊島群城南麻布邑多聞山天現寺毘沙門天王縁起」天現寺所蔵
・「詩法蠡測(れいそく)」
・「本朝世説」
・「御撰大坂軍記」(編著)
3498 林鳳谷墓(新宿区市谷山伏町16)
3497 林錦峯墓(新宿区市谷山伏町16)
林 錦峯(はやし きんぽう、明和4年(1767年) - 寛政5年4月20日(1793年5月28日))は、江戸時代中期の朱子学派儒学者。林家7代。諱は信敬。実父は富田明親(信濃小諸藩藩主牧野康周三男)。
略歴
天明7年(1787年)、林鳳潭の跡を継ぎ、幕府儒官となり、大学頭となった。寛政2年(1790年)には幕府から寛政異学の禁を行うように通達されている。寛政5年(1793年)、27歳で死去した。
子がなかったため、ここに林羅山から続く血統的家系は断絶した。同年、将軍徳川家斉の命により美濃国岩村藩主松平乗薀の三男・乗衡が林家8代となり、林述斎(林衡)と称して林家が再興された。
関連項目
・林鳳潭#年貢先納金騒動
(wikiより)
3496 林鳳潭墓(新宿区市谷山伏町16)
略歴
父の林龍潭が早く亡くなったため、14歳で祖父・鳳谷の跡を継ぎ、幕府儒官となる。天明5年(1785年)大学頭(だいがくのかみ)となった。天明7年(1787年)、27歳で死去。同年、林錦峯(きんぽう)が林家を継いだ。
年貢先納金騒動
鳳潭の代の1785年(天明5年)に、湯島聖堂領である武蔵国久良岐郡多々久郷(最戸村・久保村・弘明寺村・中里村の4村で、現・横浜市南区・港南区の一部に当たる地域)に対し、年貢先納金(年貢の納期前に領民に納めさせる金で、年貢納期時に清算する。領主から領民への前借り金のようなもの)50両を命じた[1]。多々久郷では、近隣の金井村(久世広民領・現横浜市港南区)から借金をして納め、翌年の年貢米で金井村に返済する予定だったが、翌年が凶作だったため、返済期限を伸ばしてもらったところ、翌々年、領主の林家が先納金の清算を無視して年貢の全納を命じたことから金井村への返却が不可能となったため、金井村は幕府評定所に多々久郷を訴えるとともに、多々久郷と協議して林家への年貢米送付を阻止した[1]。
聖堂領からの年貢は、湯島聖堂の孔子像を祀る費用として使途を限定して5代将軍徳川綱吉が林家に与えたもので、流用は禁じられていたが、この金井村の訴訟によって、林家が財政的困窮から聖堂領の年貢を家計へ流用していたことが発覚し、これをきっかけに、幕府による林家の粛正と聖堂の学制改革が始まり、のちの寛政異学の禁、湯島聖堂の「昌平坂学問所」への改編、聖堂領の「学問所領」変更などに繋がった[1]。
脚注
1. a b c 日本史を動かした久良岐の村々 江戸時代後期 最戸村の知られざる実像 港南歴史協議会、陶山誠(2013/11/16)
(wikiより)
3495 林学斎墓(新宿区市谷山伏町16)
生涯
安政6年(1859年)、父の死によって大学頭を継承する。元治元年(1864年)12月、兄とともに幕府に林羅山以来、幕府の外交文書は林家が管掌していたことを理由に江戸城の紅葉山文庫に保管されていた欧米との条約文書も林家が保管することを願い出た。ところが、外国奉行の竹本正雅が反発して論争となり[1]、「林家では横文字には対応できない」という意見が強く、翌年林家の申請は却下された上に管理権は外国奉行側に移されることとなった[2]。だが、慶応3年(1867年)の幕府内の保守派や攘夷派の反対に屈せず、学監中村敬宇および少年12名のイギリス留学を行うなどの進歩的な側面も有していた。
大政奉還後は寺社奉行の職務を扱ったが、徳川宗家の静岡藩移封に同行して徳川家の用人となる。明治7年(1874年)に東京に戻り、司法省明法権大属に任じられる。その後は教育の世界に戻り、明治10年(1877年)群馬県師範学校教諭、明治14年(1881年)に群馬県女学校校長を務めた。明治21年(1888年)、日光東照宮主典となり、後に禰宜を務めた。明治33年(1900年)、病気のために隠退して旧領の埼玉県大幡村で余生を過ごした。明治39年(1906年)7月14日に死去。享年74。子がいなかったために、羅山以来の林大学頭家の家系は学斎をもって断絶した。なお、羅山の血統的家系についても学斎の死から113年前の寛政5年(1793年の林錦峯の代で既に断絶しており、林大学頭家は血統と家統両面で途絶えた。
脚注
1. それまでも林大学頭の許可を得なければ外国奉行といえども外交文書を見ることも許されていなかった。
2. 田中健夫『前近代の国際交流と外交文書』吉川弘文館、1996年、P30。
参考文献
・石山洋 他編『江戸文人辞典』東京堂出版、1996年。
・市古貞次 他編『国書人名辞典』第4巻 岩波書店、1995年。
(wikiより)
3494 林鶯渓墓(新宿区市谷山伏町16)
生涯
父の復斎は林大学頭家当主林述斎の六男であり、鶯渓が生れた当時は分家である第二林家の林琴山の家督を継いでいた[1]。父や佐藤一斎、安積艮斎に儒学を学ぶ。幼い頃に痀瘻病によって背中が曲がってしまう障碍に見舞われたため、父・復斎はこれを嘆いたとき、佐藤一斎は「禍福は糾える縄の如し」の故事を引用してこれを慰めた。後に鶯渓が立身した時、復斎は一斎に深く感謝したという。
天保14年(1843年)、初めて将軍徳川家慶に拝謁を許される。弘化4年(1847年)、幕府の儒者見習となる。ところが、嘉永6年(1853年)、復斎の甥で大学頭家の当主であった林壮軒が死去、急遽復斎が家督を継承することとなり、弟の学斎とともに大学頭家に戻る。このため、鶯渓が第二林家の家督を継承して幕府儒者に任ぜられた。鶯渓が父の没後に大学頭家を継承しなかったのはこのことによる。安政6年(1859年)、西丸留守居となり、学職を兼ねる。父の没後は弟を良く補佐した。
明治元年(1868年)に職を免ぜられて、2年後に静岡に移住するが間もなく東京に戻り、門人の教育に専念した。幼い頃から学問を好み、書物を熟読しては要点をまとめた抄書を山のように作成し、成人してからは人に教えることに熱心で少しの時間も惜しみ1ヶ月休みなしで講義を行うこともあったが、公正で温厚な性格から門人からは慕われていたと言う。
脚注
1. 第二林家は林羅山の子林読耕斎(靖)を祖とし、林春東(勝澄)-林葛廬(春東の養子、信如)-林菊渓(信亮)-林観山(信方)-琴山(信隆)に継承され、文化7年(1810年)の琴山の死によって大学頭家からの養子である復斎が家督を継いだ。
参考文献
・石山洋 他編『江戸文人辞典』東京堂出版、1996年
3493 林龍潭墓(新宿区市谷山伏町16)
林 龍潭(はやし りゅうたん、延享元年(1744年) - 明和8年5月28日(1771年7月10日))は、江戸時代中期の儒学者。林家5代林鳳谷の嫡男で、6代林鳳潭の実父。諱は信愛・寛恕。字は子節。通称は又四郎・内記。林家の後継者であったが、父に先だって没し、大学頭を継承しなかったため歴代当主には数えられていない。
宝暦8年(1758年)、将軍徳川家重に初めて拝謁する。2年後に儒者見習いになるとともに幕府中奥にて御小姓の次席に任ぜられ、毎月儒書を講義するように命じられ、同年布衣を許された。宝暦14年(1764年)、朝鮮通信使聘礼を担当するにあたり従五位下・図書頭に任ぜられる。明和8年(1771年)、28歳で死去した。
参考文献
・石山洋 他編『江戸文人辞典』東京堂出版、1996年。