中山胡民( なかやま - こみん )
( ? ~ 1871 )
・流派
羊遊斎派
・略歴
江戸末期の江戸において、柴田是真と並び称された印籠蒔絵師です。
等時から高名でしたが、実はその経歴は殆ど不明です。
葛飾郡寺島村の名主・金兵衛の子に生まれ、祐吉を通称としました。
幼くして江戸へ出て原羊遊斎の門人となり、若くして名をなしました。
夕顔、小倉山、片輪車手箱、鶴岡手箱など羊遊斎のテーマや作風を継承しています。
胡民斎、泉々、風観子、観などと号し、後に法橋に叙せられました。
明治三年に没し、向島の法泉寺に葬られ、「泉々菴玉龍胡民居士」と謚されました。
これまで六十三歳没と伝えられていましたが、七十七歳在銘作品の存在や、松平不味、酒井抱一との直接の関係から、八十三歳没と推測されます。
・門人
小川松民、渡辺東民
・住居
両国矢の倉に住んでいましたが、明治二年に今戸に転居しました。
今戸は生家の寺島村とは隅田川を挟んで対岸ですが、渡し舟があったので、実はすぐ近くなのです。
生家近くの白髭神社には、嘉永二年に奉納した一対の石灯籠が現存しており、正面には「法橋胡民斎」と刻まれています。
胡民の菩提寺・法泉寺もその近くです。
・逸話
余暇に茶事を好み、俳諧をよくしたと伝えられます。
香川大学所蔵の中山胡民の下絵集には「風観子」という号が書き添えてあります。
恐らく蒔絵師であり俳人でもあった先人の小川破笠を慕ったものでしょう。
破笠は卵観子と号していたからです。
それ以外の逸話が知られていません。
興味深いのは、年齢の問題です。
なぜ六十六歳という誤った没年齢が伝えられたかということです。
この年齢の根拠は、横井時冬著「工芸鑑」の中にあり、胡民の未亡人の談話とされています。
聞き間違え、書き間違えかもしれません。
しかしもうひとつの可能性もあります。
法泉寺にある胡民の墓には嘉永元年に没した女性と、明治二十八年に没した女性と二人の女性も合葬されています。
未亡人というのは、この明治二十八年に没した女性でしょう。
恐らく後妻さんです。
あるいは再婚する時、胡民先生は、後妻さんに歳をごまかしたかもしれません。
法泉寺にある胡民の墓石は立派で、正面に「泉々胡民墓」、墓台には「名花山」とあります。
「名花山」は、「中山」の洒落字で、「なかやま」と読ませたいのでしょう。