本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
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2020/04

中山胡民( なかやま - こみん )
( ? ~ 1871 )

・流派 
羊遊斎派


・略歴
江戸末期の江戸において、柴田是真と並び称された印籠蒔絵師です。


等時から高名でしたが、実はその経歴は殆ど不明です。


葛飾郡寺島村の名主・金兵衛の子に生まれ、祐吉を通称としました。


幼くして江戸へ出て原羊遊斎の門人となり、若くして名をなしました。


夕顔、小倉山、片輪車手箱、鶴岡手箱など羊遊斎のテーマや作風を継承しています。


胡民斎、泉々、風観子、観などと号し、後に法橋に叙せられました。


明治三年に没し、向島の法泉寺に葬られ、「泉々菴玉龍胡民居士」と謚されました。


これまで六十三歳没と伝えられていましたが、七十七歳在銘作品の存在や、松平不味、酒井抱一との直接の関係から、八十三歳没と推測されます。


・門人
小川松民、渡辺東民


・住居
両国矢の倉に住んでいましたが、明治二年に今戸に転居しました。


今戸は生家の寺島村とは隅田川を挟んで対岸ですが、渡し舟があったので、実はすぐ近くなのです。


生家近くの白髭神社には、嘉永二年に奉納した一対の石灯籠が現存しており、正面には「法橋胡民斎」と刻まれています。


胡民の菩提寺・法泉寺もその近くです。


・逸話
余暇に茶事を好み、俳諧をよくしたと伝えられます。


香川大学所蔵の中山胡民の下絵集には「風観子」という号が書き添えてあります。


恐らく蒔絵師であり俳人でもあった先人の小川破笠を慕ったものでしょう。


破笠は卵観子と号していたからです。


それ以外の逸話が知られていません。


興味深いのは、年齢の問題です。


なぜ六十六歳という誤った没年齢が伝えられたかということです。


この年齢の根拠は、横井時冬著「工芸鑑」の中にあり、胡民の未亡人の談話とされています。


聞き間違え、書き間違えかもしれません。


しかしもうひとつの可能性もあります。


法泉寺にある胡民の墓には嘉永元年に没した女性と、明治二十八年に没した女性と二人の女性も合葬されています。


未亡人というのは、この明治二十八年に没した女性でしょう。

恐らく後妻さんです。


あるいは再婚する時、胡民先生は、後妻さんに歳をごまかしたかもしれません。


法泉寺にある胡民の墓石は立派で、正面に「泉々胡民墓」、墓台には「名花山」とあります。


「名花山」は、「中山」の洒落字で、「なかやま」と読ませたいのでしょう。


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延台寺・開基川崎次郎右衛門の墓。


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伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名明治初期の政治家。伊予国宇和島藩8代藩主。伯爵

生涯
文政
元年(1818年)、大身旗本山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生。母は蒔田広朝の娘。幼名を亀三郎と称した。文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。

藩政時代
天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。


福井藩
主・松平春嶽土佐藩主・山内容堂薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。


阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。


養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。


慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスプリンセス・ロイヤル英語版)で宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流している[1]

明治維新以後
慶応3年(1867年)12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし明治元年(1868年)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏奥羽列藩同盟寄りであったのでの行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。


明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣としての全権李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。


明治14年(1881年)には、世界周遊の一環で日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウアを接待し、それに対する返礼として勲章を授与されている。カラカウアより宗城に授与された勲章は、宇和島伊達文化保存会に今なお保存されている[2]


宇和島伊達家は明治17年(1884年)、華族令によって伯爵を授けられた。明治24年(1891年)、養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によって侯爵に陞爵された。明治25年(1892年)、児島惟謙司法官弄花事件に際しては、反児島派から、児島の元主君の立場として、辞職を勧める役回りを任された。宗城は、依頼者(反児島派かつ政府側の人間)には、「会って説得したが、児島は涙ながらに拒否した」と書き送った。しかし、実際には児島には会っておらず、逆に児島宛に同じ書簡を同封して、留任を迫る旨の書簡を送った。同年、東京の今戸屋敷で病没した。享年75。

年譜
※日付=1872年(明治5年)までは旧暦

文政12年(1829年)4月11日、世子となる。

・文政13年(1830年)9月3日、兵五郎と改める。

天保5年12月16日、従四位下に叙し、大膳大夫に任官。

・天保6年(1835年)4月19日、元服。

・天保15年(1844年)

  ・7月16日、家督相続し、藩主となる。

  ・12月16日、侍従に遷任し、大膳大夫の兼任は元の如し。

安政5年(1857年)

  ・11月23日、隠居。

  ・11月25日、大膳大夫から伊予守に兼任替え。

元治元年(1864年)

  ・4月10日、左近衛権少将に転任。伊予守の兼任は元の如し。

  ・4月18日、従四位上に昇叙。左近衛権少将・伊予守は元の如し。

慶応3年12月28日、維新政府の議定に就任。

・慶応4年(1868年)

  ・1月3日、軍事参謀を兼帯。

  ・1月8日、軍事参謀を罷む。

  ・1月12日、外国掛を兼帯。

  ・1月17日、職制改正に伴い、外国掛を改め、外国事務掛の設置により、同総督を兼帯。

  ・1月20日、外国事務総督を罷む。

  ・1月22日、大坂鎮台の督を兼帯。

  ・1月27日、職制改正に伴い、大坂鎮台を廃し、大坂裁判所設置により、同副総督を兼帯。

  ・2月20日、外国事務局輔を兼帯。

  ・3月15日、大坂裁判所副総督を罷む。

  ・閏4月21日、職制改正に伴い外国事務局を廃し、外国官設置により同知事に就任。議定は罷む。

  ・5月10日、従三位に昇叙し、参議に補任。

  ・6月4日、仮に議定となる。外国官知事は元の如し。

明治元年(1868年)10月20日、従二位に昇叙し、権中納言に転任。議定に就任し、外国官知事兼帯は元の如し。

・明治2年(1869年)

  ・5月15日、議定を罷む。

  ・5月29日、外国官知事を罷む。

  ・7月6日、領各使に就任。

  ・7月14日、麝香間祗候に遇せられる。

  ・9月12日、民部卿大蔵卿に就任。

・明治3年(1870年)7月10日、民部卿を罷む。

・明治4年(1871年)

  ・4月27日、欽差全権大臣を兼帯し、清国に派遣。

  ・6月27日、大蔵卿・欽差全権大臣等を罷め、麝香間祗候に遇せられる。

・明治9年(1876年)

  ・5月23日、華族会館第一部長に就任。

  ・12月31日、華族会館第一部長を罷む。

・明治12年(1879年)

  ・8月1日、蜂須賀茂韶岩崎弥太郎と共に東京海上保険会社設立に関与。

  ・10月22日、明宮嘉仁親王に祗候す。

・明治14年(1881年)7月16日、勲二等旭日重光章を受章。

・明治16年(1883年)12月26日、修史館副総裁に就任。

・明治19年(1886年)1月9日、修史館の廃止に伴い麝香間祗候に遇せられる。

・明治22年(1889年)11月27日、勲一等瑞宝章を受章。

・明治23年(1890年)10月21日、勲一等旭日大綬章を受章。

・明治25年(1892年)

  ・12月17日、従一位に昇叙。

  ・12月20日、薨去。

大正2年(1913年)、同年創建した宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神として祀られる。

詳しいことは、「伊達宗城ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E
(wikiより)

1363  伊達宗城

伊達宗城

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安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎1884年明治17年)2月16日 - 1978年昭和53年)4月29日)は、大正~昭和期の日本画家能書家東京美術学校教授。東京府出身。芸術院会員。文化勲章受章。文化功労者


靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また靫彦自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。

略歴
靫彦は1884年、東京日本橋料亭「百尺」の四男として生まれた。1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、日本絵画協会絵画共進会にて横山大観菱田春草小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意した。1898年より小堀鞆音に師事する。青邨らと共に紫紅会(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し紅児会)を結成、東京美術学校に進むも中退した。後に岡倉覚三(天心)に認められ、1907年日本美術院に招かれた。院展の初回より作品を出品し、再興院展にても尽力。肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続けた。1974年の『鞍馬寺参籠の牛若』が靫彦の院展出品の最後になった。 1978年神奈川県大磯町にて没し、墓所は大磯の大運寺にある。


1934年12月3日帝室技芸員となる[1]。1935年から多摩美術大学美術学部教授、顧問として教えていた。[2][3]1944年東京美術学校教授となり、1948年文化勲章を受章。1958年、財団法人となった日本美術院の初代理事長となった。1959年宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。1965年東京芸術大学名誉教授となる。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任した。なお靫彦の門下に小倉遊亀森田曠平益井三重子岩橋英遠らがいた。


初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄に吉右衛門一座に在籍した五代目中村七三郎がいる。

代表作品
・「夢殿」(1912)(東京国立博物館) 聖徳太子瞑想に取材。

・「御産の祷」(1914)(東京国立博物館) 紫式部日記の中宮藤原彰子の安産祈祷場面を描く。再興院展の第一回に出品。

・「五合庵の春」(1920)(東京国立博物館) 良寛にちなんだ作品。

・「月の兎」(1934)(愛知県美術館) 孫武の婦人兵を鍛える場面を描く。第二回新文展に出品。

・「孫子勒姫兵」 (1938) (霊友会妙一記念館)

・「黄瀬川陣」(1940-41)(東京国立近代美術館) 黄瀬川の陣における頼朝義経兄弟の再会の場面を描く。まず左隻の義経が、翌年右隻の頼朝が描かれ六曲一双の大作として完成した。これらの中でも一番の代表作で、2011年重要文化財に指定された。

・「王昭君」 (1947)

・「窓」(1951)(横浜美術館

・「黎明富士」(1962)(川崎市市民ミュージアム

・「飛鳥の春の額田王」(1964)(滋賀県立近代美術館

・「卑弥呼」(1968)(滋賀県立近代美術館)

・「草薙の剣」(1973)(川崎市市民ミュージアム)

画集
・『靫彦』小高根太郎編集並解説 講談社版アート・ブックス 1955

・『安田靫彦画集』中央公論美術出版 1965

・『自選安田靫彦画集』朝日新聞社 1971

・『現代日本美術全集 14 安田靫彦』今泉篤男解説 集英社 1974

・『日本の名画 25 安田靫彦』水沢澄夫編著 講談社 1974

・『安田靫彦』三彩社 1975

・『川端康成全集装画帖』中央公論美術出版 1976

・『日本の名画 14 安田靫彦』編集:久富貢 中央公論社 1976

・『安田靫彦写生集』正続 中央公論美術出版 1979

・『安田靫彦の書』中央公論美術出版 1979

・『現代日本絵巻全集 8 小林古径・安田靫彦』竹田道太郎解説 小学館 1983

・『日本画素描大観 4 安田靫彦』佐々木直比古編集解説 講談社 1984

・『巨匠の日本画 安田靫彦 永遠の女性像』橋秀文編 学習研究社 1994


・『安田靫彦』新潮日本美術文庫 1998

著作
・『小堀鞆音歴史画素描集』美術思潮社 1943

・『高麗集 自筆歌帖』中央公論美術出版 1975

・『画想』中央公論美術出版 1982

・『安田靫彦の書簡』加藤僖一編著 創作舎 1983

重田哲三『座談五十年 靫彦先生の話』中央公論美術出版 1989

関連書籍
・竹田道太郎『安田靫彦 清新な美を求め続けた日本画家』中央公論美術出版 1988

脚注
1. 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
2. http://www.shiro1000.jp/tau-history/1935/professor.html
3. http://www.shiro1000.jp/tau-history/kaminoge/professor.html

資料
『安田靫彦』新潮日本美術文庫34 ISBN 4-10-601554-4 本稿略歴の底本
(wikiより)


1361  安田靫彦

安田靫彦

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1361b



渡辺華石(わたなべ - かせき)
嘉永5年~昭和5年(1852 - 1930)


日本画家・渡辺崋山・椿椿山の絵の鑑定家。


本名、小川静雄。

字、規道。別号、棲碧山房主人・寄春草堂等、父、旧備州藩士小川一清(三男)。

名古屋出身。


明治10年頃、渥美郡役所書記。


張月樵の子月載・森高雅等に師事する。


のち渡辺小華に師事、南画を学ぶ。


小華が東京に移ると、華石も東京に出る。
のち、養子となる。


明治38年(1905)日本南宗画会創立。


唐宋の画法に通じ、崋山に関し研究した。79歳没。


2代目渡辺華石は、小室翠雲の門下。

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三遊亭 新朝(さんゆうてい しんちょう)は、落語家名跡


三遊派
において受け継がれてきたが、現在は空き名跡となっている。下の名の読みが同じ古今亭志ん朝の知名度が高くなった現在、三遊亭新朝の名跡が復活する可能性は極めて低い。

2代目 三遊亭 新朝(生年月日不詳 - 1892年11月29日)は、落語家。本名は山田岩吉


初代と同じく圓朝門下で、三遊亭林朝から三遊亭圓遊(本来は2代目だが、通説では代数に数えられておらず、次の「ステテコの圓遊」が初代とされている)となる。


1874年
ころに真打昇進し2代目新朝となり、師匠譲りの人情噺を演じていた。


関根黙庵
によると「佃祭」「江島屋」「越後伝吉」などがあり手堅い芸風だったという。


墓所は谷中長明寺。
(wikiより)

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島崎静子 ( しまざき - しずこ )
( 1896 - 1973 )

大正 - 昭和時代の随筆家。

明治 29年 11月 8日生まれ。

女学校卒業の年にキリスト教に入信する。

大正 11年島崎藤村の婦人雑誌「処女地」の編集に参加し、昭和 3年藤村と結婚。

藤村の没後は思い出を「ひとすじのみち」などにあらわした。

昭和 48年 4月 29日死去。76歳。

東京出身。

津田英学塾中退。

旧姓は加藤。

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島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日明治5年2月17日)- 1943年昭和18年)8月22日)は、日本詩人小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾中山道馬籠[1](現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。


文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる[誰によって?]』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

生涯
家系
島崎家の祖は相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)発祥の三浦氏の一族で、島崎重綱の代に木曾義在に仕えて木曽谷に入り、その長男重通が郷士として馬籠を開拓して中山道の宿駅として整備し、代々本陣庄屋問屋を務めた。父の正樹は17代当主で平田派国学者だった。

生い立ち
1872年3月25日明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村[1]長野県を経て現在の岐阜県中津川市馬籠)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。

1878年(明治11年) 神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。

1881年(明治14年) 上京。泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。在学中は馬場孤蝶戸川秋骨北村季晴らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉西行などの日本古典文学も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。

1886年(明治19年) 父・正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

『文学界』と浪漫派詩人
卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後は関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)に女学校へ復職したが、透谷が自殺。さらに兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『』で描かれる。


1896年(明治29年)9月8日東北学院の教師となって宮城県仙台市に1年間ほど赴任[2]。同年10月25日に母の死に直面し、当時住んでいた広瀬川を見下ろす崖上の支倉町の住居で詩作を始め、仙台駅近くの三浦屋(参照)に移って第一詩集『若菜集』を執筆、これを発表して文壇に登場した[2][3]。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠仙台県仙台出身)と共に「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。


藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲『千曲川旅情の歌』も同じ詩集からのものである。

小諸時代から小説へ
1899年(明治32年) 小諸義塾の英語教師として長野県北佐久郡小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。北海道函館区(現・函館市)出身の秦冬子と結婚し[4]、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。『破戒』を執筆し始めたのもこの頃からであり[5]、同作の登場人物である市村代議士は、岩村田町(現在の佐久市岩村田)の立川雲平をモデルにしたとされる[6]


1905年(明治38年) 小諸義塾を辞し上京。翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃、栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『』で描かれることになる。


1907年(明治40年)「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。


1908年(明治41年)『』を発表。


1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。


1913年大正2年)5月末、神戸港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランスマルセイユ着、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。西洋美術史家の澤木四方吉と親交を深める。第一の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載、「桜の実の熟する時」の執筆を開始。下宿の世話した河上肇などと交流した。


第一次世界大戦が勃発により、1914年(大正3年)7月から11月まで画家の正宗得三郎とともにリモージュ疎開。第二の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載。


1916年(大正5年)7月、熱田丸にて英国ロンドンを経て神戸港に到着した。


1917年(大正6年) 慶應義塾大学文学科講師となる。


1918年(大正7年) 『新生』を発表し、こま子との関係を清算しようとした。このため、こま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。


1927年昭和2年) 「」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始める。


1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで 夜明け前が『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。


1940年(昭和15年) 帝国芸術院会員。


1941年(昭和16年)1月8日 当時の陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)


1942年(昭和17年) 日本文学報国会名誉会員。


1943年(昭和18年) 「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

親譲りの憂鬱
島崎藤村は自作で様々に「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、

1. 父親と長姉が、狂死した。

2. すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。

3. 後に姪の島崎こま子近親相姦を起こしたが、こま子の父である次兄・広助の計らいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。

等の事情による。

詳しいことは、「島崎藤村ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91
(wikiより)

1362  島崎藤村

島崎藤村

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荒尾 精(あらお せい、安政6年6月25日1859年7月24日) - 1896年(明治29年)10月30日)は、日本の陸軍軍人日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。

経歴
尾張藩士・荒尾義済の長男として尾張国琵琶島に[1]生まれる。幼名は一太郎、本名は義行、後に東方斎と号した。


1878年
(明治11年)、陸軍教導団砲兵科に入学。さらに陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。


1882年(明治15年)12月に同校(旧第5期)卒業後は、歩兵第13連隊付となる。


1885年(明治18年)、陸軍参謀本部支那部付けになった。


1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国()に赴任。岸田吟香の援助を受けて漢口楽善堂を運営、大陸調査活動の拠点とした。


1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、帰国。2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した [2]


1890年
(明治23年)9月、上海日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。


1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。


1896年9月(明治29年)、台湾ペストにかかり死去。

頭山満の荒尾評
玄洋社頭山満は荒尾の死後次のように語った。 [3]

余は大に荒尾に惚れて居った、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと云うとあり、常時最も偉人を憶うの時に荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬慕して居った。

彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以って独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精紳に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であって、世の功名利慾を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全くその選を異にし、誠に偉人の器を具え大西郷以後の人傑たるを失わなかった。   

彼の徳望、識見、容貌、何れも偉人の風格を存し、凛乎たる威風の裡に、一種云う可からざる柔和にして、かつよく人を安んじ、人を魅するの魔力を持って居った。この人ならば 必然東亜の大計を定め、醇乎としてその主義を世界に普及し、頗る後世を益するの鴻業を成し遂げ得ぺしと信じて居った。然るに絶大の抱負経綸を有し、徳望識見共に超凡絶群なるこの人にして、中途に逝去せんとは、実に思い設けざる所であった。彼の死するや、根津は余に書を送り、この時においてこの英傑を奪い去るとは、天は何の意ぞと、非常に痛恨の意を洩したが、余も畢生の恨事として真に同情に堪えなかった。余荒尾を信じ、かつ敬慕したるは、実にこの位であった。

・・・・

荒尾の崇敬して居った人物は、三代頃の人物では夏の禹王抔を慕い、日本では南洲を敬慕して居った。

著作
『対清意見』近代デジタルライブラリー

・『対清弁妄』日本は日清戦争後、清に対して領土や賠償金を要求してはならないと訴えた。

脚注
1. 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー 現在の名古屋市西区枇杷島
2. 社団法人滬友会、東亜同文書院大学史、興学社
3. 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー

参考文献
小山一郎『東亜先覚荒尾精』東亜同文会、1938年(日本語)。全国書誌番号:46065342

井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年。全国書誌番号:61001212

関連項目
荒尾氏

井田武雄

根津一 荒尾の盟友として日清貿易研究所の設立に参加、経営も任された。

向野堅一 日清貿易研究所を首席で卒業。日清戦争時、軍事探偵として活躍した。

松井石根 同郷(名古屋市)の後輩。南京虐殺事件の責任者(戦犯)として処刑されたが、生涯荒尾を崇拝していた。
(wikiより)


0884 東方斎(荒尾精)

荒尾 精


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荒尾精は十九世紀中葉より始まった西欧列強の中国侵略を阻止し東亜の保全を図るため、日中の協力団結、特に通商貿易の振興による両国の繁栄を唱導し、これに必要なる人材養成のため、盟友根津一と共に上海に日清貿易研究所を設立経営した明治の先覚者である。


この両者の思想と協力が近衛篤麿を盟主とする東亜同文会の結成と東亜同文書院の創立を具現したのであるが、荒尾は明治二十九年、三十八歳の若さで卒然病魔に倒れた。


大志半ばにして斃れた荒尾の死を近衛篤麿は痛く惜しみ、荒尾が対清意見、対清弁妄を著しアジア経論の宅見を世に問うたその寓居近くに追悼碑の建立を発起し、その業績をたたえる追慕の碑文を自ら選したのである。


東亜同文会の後身たる露山会はこの碑を維持管理するに当たり、日中提携、東亜保全に盡瘁した荒尾、近衛、根津三先覚の偉業を偲び、玆にこの碑の由来を記す次第である。
(案内板より)

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やぎゅうじょう ( 柳生城 )

奈良県奈良市柳生町にあった山城 ( やまじろ )。


柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗巌 ( やぎゅうせきしゅうさいむねよし ) の居城。


柳生城は、南北朝時代に大和柳生荘の豪族柳生氏が山上に城を築いたのが始まりとされる。


1544年 ( 天文 13 )、柳生家巌・宗巌父子は山中衆と共に大和に勢力拡大をはかる筒井順昭 ( じゅんしょう ) に抵抗したが、筒井軍の大軍に攻められ落城した。


織田信長の大和侵攻に功あって所領を得たが、豊臣秀吉の文禄検地で隠し田が露見して所領は没収された。


1600年 ( 慶長 5 ) 関ヶ原の戦いの戦功により柳生の旧領 2000石を与えられ、柳生家を再興した。


柳生家の菩提寺芳徳寺 ( ほうとくじ ) は初期の城跡に建てられており、付近には堀割などの跡がある。


また芳徳寺前には「石舟斎塁城」の石碑が建っている。


JR奈良線奈良駅または近鉄奈良線奈良駅からバス、柳生または正木坂下車。

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1869年(明治2年)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。



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楠公息女墓

建武の中興に大功のあった楠正成は戦術家として名高いが、その息女の墓と言われ別名「姫塚」とも呼ばれる。
(案内板より)

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小幡景憲一族の墓


甲州の人。


関ヶ原の合戦、大坂冬の陣などに徳川方に功のあった軍学者。
(案内板より)


〇 小幡景憲
小幡 景憲(おばた かげのり、1572年元亀3年)- 1663年4月3日寛文3年2月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将軍学者小幡昌盛の三男。養子に小幡景松(かげとし)。幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。

生涯
1572年(元亀3年)、甲斐武田氏の家臣で足軽大将・小幡昌盛の三男として誕生。


甲陽軍鑑』によれば、父・昌盛は信濃海津城主・春日虎綱を補佐して在城し、後に武田信玄旗本に転じ、海津在番の後任は叔父の小幡光盛が務めたという。父の昌盛は武田勝頼期に死去し、叔父の光盛も武田氏滅亡後は越後上杉氏に臣従している。景憲は他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕えたが、1595年文禄4年)に突如として徳川秀忠のもとを出奔して諸国を流浪したという。


1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げたといわれ、1614年(慶長19年)の大坂の陣では豊臣氏に与したが、内実は徳川氏に内通しており、江戸幕府京都所司代板倉勝重に連絡していたという。戦後は再び徳川氏に仕えて1500石を領した。のち、横田尹松の末子縄松(つなとし)を養子とした。


景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる。特に北条氏長近藤正純富永勝由梶定良は小幡の高弟として名高く「小幡門四哲同学」などと呼ばれている。剣術にも優れて小野忠明から皆伝を受けている。


江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』は、春日虎綱の甥・春日惣次郎が書き残した口述を小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。


1663年(寛文3年)、死去。

小幡景憲を題材にした作品
城塞 - 司馬遼太郎の歴史小説。
(wikiより)


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豊島氏墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り、武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明 10年 ( 1478 ) 太田道灌に改め落された。


その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次 ( 1643没 ) を中心にその一族の墓である。
(案内板より)


豊島家は桓武天皇の皇孫高望王を始祖とし豊島次郎武帝始めて豊島姓を名のる。


源頼家に仕へ前 9年の役に出陣、豊島康家八幡太郎義家に従い後 三年の役に出陣、豊島清光保元の乱以来交際のある源頼朝に仕へ信任に應へ鎌倉幕府開設に盡力す。


一族は平安朝末期より室町中期に至る約 400年間現在の東京都豊島・練馬・足立・板橋・荒川・北・文京・台東の諸区を所領としその周辺一帯に勢力をのばしていた。


然るに文明年間泰経の代に足利氏の内輪もめに巻き込まれ扇谷上杉家と戦う羽目になり敵将・太田道灌との江古田原沼袋の合戦に敗れ全滅その後一族中生き残りの豊島忠次は旗本として徳川家康に仕う、泰利を経て泰盈の時、享保 5年 11月武州王子熊野社別当宥相の望みに依り家系略 ( 金輪寺本豊島系図 ) を奉納その際家蔵往昔系図旧記は頗る乱雑故之を整理し子孫及一族のため系譜一巻 ( 泰盈本豊島系図 ) を伝う以後数代を経て豊島作兵衛泰道の代に至り徳川幕府は瓦解一時知行地千葉県木更津市小原半兵衛氏方に滞留し明治維新を迎える。


豊島作右衛門忠次 ( 菩提寺威光山法明寺 )
 
永禄 7年 ( 1564 ) 豊島経忠の長男として関東武蔵の国豊島郡に生る。


天正 19年 ( 1591 ) 遠州及江州徳川幕府直轄天領代官在任中滋賀県亀岡・松岡の両山間部を利用し広大な灌漑用水地を創設早田四十余ヘクタールをうるほす難工事に領民と共に取り組み完成す。


寛永 15年 ( 1638 ) 八丈島代官を勉む。


寛永 20年 ( 1643 ) 癸未 2月 13日没、80才。法名 : 法善院日養

白井平兵衛尉勝久 ( 豊島経忠の孫弥母氏徳川家継生母月光院付大年寄絵馬の祖父 ) 寛文 12年 7月2 3日没、法名 : 高雲院日勝 ( 宗圓 ) 明治 23年 ( 1890 ) 2月当主信雄雑司ヶ谷法明寺の墓碑を整理し豊島家先代々合葬儀の際、了達院殿義勇日進居士 ( 俗名・豊島作兵衛泰道 ) 夫妻を改葬す。
 
昭和 60年 ( 1985 ) 5月墓地を整備し先祖代々の追善供養を行う。
(石碑碑文より)

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夜は明るさをもつ櫻哉  
                    
                         錦風居士


勝峯普風が亡父の句を自ら書いたそうで、左下には普風書と刻まれています。


〇 勝峯普風

俳人・国文学者。

東京生。


名は晋三、別号に黄燈苑。

東洋大卒。


十五年間にわたり新聞記者生活をしたのち、俳諧の研究や著述に専念。


俳句は父・錦風、のち伊藤松宇に学ぶ。


誌「黄燈」を創刊、また『日本俳書体系』等を編纂、刊行、俳諧研究に大きく貢献した。


昭和 29年 ( 1954 ) 歿、66才。

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高田屋嘉兵衛 ( 1769 - 1827 ) は淡路の人。


28歳のとき渡来し、50で皈国するまで、函館を根拠地として北海の天地に活躍した。


初めてエトロフ島への海路を開き、17の漁場を作って北海漁業の先駆をなし、又箱館に大店舗を構え、奉行所松前移轉後もエトロフ、幌泉、根室場所の漁獲物の集散と仕込物資の調達をになって、箱館の繁栄を築き、更にゴロウイン拘囚のとき、沈着剛胆よく日露の間を奔走して、無事釈放につとめ、永く露国感謝せられた。


今年嘉兵衛の104回忌に当り、高田屋まつりを行い、この碑を建ててその功績を顕彰する。
(石碑碑文より)

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中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日1848年10月23日)は、日本における種痘法の祖。本名・小針屋佐七、別名・中川良左衛門。陸奥国生まれで蝦夷地に渡り、択捉島の漁場の番人を務めていたが、文化露寇の際にロシア側の捕虜となりシベリアに送られ、そこで種痘法を身に付ける。ゴローニン事件の際に日本に送還され、後に松前奉行松前藩に仕え、箱館松前を中心に種痘法を広めた。

生涯
明和5年(1768年)、廻船問屋・小針屋佐助の子として陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に生まれる。松前に行き、商家に奉公し、やがて松前の豪商・栖原庄兵衛の世話で、享和元年(1801年)に場所稼方として択捉島に渡る。帳役を経て番人小頭に昇進し、島内の漁場を取り締まる[1]。アイヌの女を妻にしていた[2]


文化4年1807年)4月24日、ロシアの軍人ニコライ・フヴォストフに番屋を襲撃され(文化露寇)、佐兵衛とともに捉えられてシベリアに連行される。文化6年(1809年)オリヤ河畔に脱走するが捕らえられ、オホーツクに送還される。翌年再び2人で逃亡しトゴロ地方に渡るが、佐兵衛は病死し、彼も再び捕われの身となり、ヤクーツクへ連行される。この頃から松前の商人・中川良左衛門と偽名を使う[2][3]。さらにイルクーツクに送られ取調べを受けるが、日本に幽閉中のディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン中佐との捕虜交換のために、文化7年(1810年カムチャツカに漂着した歓喜丸の水夫らとともに、日本へ送還されることとなる。


文化9年(1812年)2月にオホーツクで種痘書を入手し、医師の助手となって種痘法を習得する。同年8月4日ディアナ号副長ピョートル・リコルドに伴われ国後島に上陸、捕虜交換の交渉が行われるが、失敗し、五郎治が使者に立てられる。しかし、五郎治と共に上陸した歓喜丸の水夫1人が逃亡し、かえって交渉は難航する。五郎治は、日本の役人の指示によりゴローニンは死んだとリコルドに伝えるが、これを信じなかったリコルドは通りかかった官船・歓世丸を襲い、高田屋嘉兵衛をカムチャツカへ連行した。またこの際五郎治は日本の役人に『五郎治申上荒増』を提出している。松前及び江戸で取調べ[4]を受けた後、文政元年(1818年)、手代として松前奉行配下となり、その後松前藩に仕える。


ロシア滞在中から一貫してロシアに悪感情を抱いていたが、その一方で種痘法に注目し、箱館・松前を中心に、その技術を実践している。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど他に伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達され、さらに福井では笠原良策によって実践される。


弘化5年(1848年)9月27日、川に足を滑らせ溺死。享年81。

脚注
1. 左近(1999), p.623
2. a b リコルド, p.235
3. 左近(1999), p.655
4. このとき、ロシアの子供は軍隊ごっこをするから好戦的だとか、イルクーツクの状況を聞かれても、外出せず一日中日記を付けていたため判らないと答え、奉行に「愚か者」と笑われている。ゴローニン, pp.156-162

参考文献
左近毅日本人のシベリア認識--『五郎治申上荒増』をめぐって」 (pdf) 『人文研究 : 大阪市立大学大学院文学研究科紀要』第51巻第7号、大阪市立大学、1999年、 pp.621-668。


・ヴァーシリー・ゴローニン『日本俘虜実記(下)』徳力真太郎・訳、講談社、1984年。ISBN 4-06-158635-1


・ピョートル・リコルド『日本沿岸航海および対日折衝記(「ロシア士官の見た徳川日本」に所収)』徳力真太郎・訳、講談社、1985年。ISBN 4-06-158676-9


はこだて人物誌 中川五郎治 - 函館中央図書館

関連項目
吉村昭   「北天の星」講談社文庫、中川が主人公の小説

久蔵

善六

村上もとか 「侠医冬馬」集英社ヤングジャンプコミックス、中川の人物紹介のあとに続いて、主人公冬馬らの種痘普及の努力が話の主題となる

外部リンク
中川五郎治顕彰の碑
(wikiより)


0766 中川五郎治

中川五郎治

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石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を咳く 乞食ありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけて函館の名物男で名を万平といった。


ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。


一例を上げると「11月 1日 ( 明治 39年 ) 今朝好天気なれば先以て山田邦彦君 ( 函館区長 ) の芥箱を探しにゆく。


さすがに山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・・・」などとある。


この塚は、大阪から所用でで来た鉄工所主「藤岡惣兵衛」が万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正 4 ( 1915 ) 年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。
(案内板より)

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山谷田中巳之助銘の『力石』は、亀戸天神社、花畑大鷲神社等に有ります。

が、ここで疑問が・・・

刻まれている銘は『山谷田中巳之助』なのですが、山谷の田中巳之助なのか?

現・清川、旧・山谷町のお隣り、現・日本堤は、旧・田中町と呼ばれていました。


もしや山谷田中の巳之助かもしれませんね。

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狂歌師・安井甘露庵の碑です。



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春日とよ(かすが - とよ)    
明治14年9月15日~昭和37年4月13日(1881-1962)


春日流小唄家元。

本名:柏原トヨ。


父、英国人エドワード ホームズ。母は、浅草の芸妓。

東京浅草出身。


幼年より祖母と母に歌と踊りを習い、のち、2代今藤長十郎・杵屋勝太郎に長唄を習う。


16歳で浅草の芸妓となり鶴助を名乗る。"洋髪の文学芸者"とあだ名がつく。


結婚のため一時引退するが、大正2年(1913)復帰。邦楽各流派を研修。
とくに小唄に傾注する。


大正10年(1921)待合春日を開き、ラジオで毎月小唄を放送。


昭和3年(1928)小唄春日流を創始。
小唄の創作と演奏に新境地を拓く。


昭和35年(1960)紫綬褒章を受賞。


昭和36年(1961)8月財団法人春日会を結成。

作曲数は245曲。82歳。

代表作:「婦系図」、「春琴抄」、「梅一輪」、「心して」、「鶴八鶴次郎」など。

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三代目・菊池長四郎(きくち - ちょうしろう) 
嘉永5年12月10日~大正9年8月26日(1852-1920)


東海銀行頭取・貴族院議員。

名、慧吉。父、菊池教中(長男)。

屋号、佐野屋。

東京日本橋出身。


文久元年(1861)9歳で教中の家督を継ぎ、佐野屋長四郎となる。


日本橋元浜町で呉服太物商を営む。


明治22年(1889)同志・同族と資金50万円を出し合って東海銀行を創立する。


明治23年(1890)東京府議会議員。商業会議所議員。


明治30年(1897)多額納税者として貴族院議員に当選し2期勤める。


明治40年(1907)辞任。日露戦争の功績で従六位勲4等。

日本橋区会議長。東海銀行頭取。

千代生命保険・富士製紙・四十一銀行・東亜製粉・東洋モスリン・日本製麻 各取締役。書画骨董鑑定家でもある。


大正9年(1920)紺綬褒章。69歳。

妻美那子。養子に大橋晋二(菊池惺堂)がいる。

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墓碑の「山東野老埋骨之処」は大沼沈山の書で、碑陰は沈山の撰文です(「野老」は田舎老人の意)。


盧洲の生家は代々幕府の与力でしたが、若い時から文学に親しみ、わずか19歳で大沼沈山の弟子となって漢詩を学びました。


やがて家を弟に譲り文学に専念し、40年間も沈山に師事して一家を成しました。


盧洲は、師に深く愛され信頼されていましたが、明治18年8月56歳で師に先立ちました。


『盧洲詩鈔』『古詩註釈』等の著書があります。


なお、大山沈山は江戸下谷の生まれで、儒者で詩人。

明治24年没。

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となりに有る北条秀司撰文の墓誌に次のように記されています。

「明治27年2月11日、東京浅草に生まれ、昭和47年5月28日、78歳にて歿す。


全生涯を新派演劇に捧げ芸格高厳、気骨稜々、明治、大正、昭和を通じて最も偉秀なる大名優であった。

その示した演技のすべては後進にとって永遠の経典である。


俳優。

1894年2月浅草生まれ。


13歳のとき、藤井六輔に弟子入り。

「藤川宗六」と名乗るが、のちに本名の「大矢市次郎」となる。


新派の名優・伊井蓉峰を終生の師とし、戦前は新生新派、戦後は劇団新派の中心メンバーとして活躍。


枯淡でシブい芸風で、泉鏡花作『婦系図』、川口松太郎作『鶴八鶴次郎』、北條秀司作『佃の渡し』といった人気演目では、花柳章太郎、初世水谷八重子、市川翠扇らのよき相手役となった。


また、文学座公演『大寺学校』(久保田万太郎作)に客演するほか、映画、テレビ、ラジオへの出演もある。


1972年5月没。

著書に自伝エッセイ『日々願うこと』(六芸書房、1965年)がある。

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「菊の香や奈良には古き仏たち」と刻された句碑です。


この句碑は、奈良県最古の物だそうです。

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十輪院の魚養塚は朝野宿禰魚養 ( あさののすくねのなかい ) の墳墓と言われています。


本堂の東隣の御影堂脇にある径 4m位の小さな塚です。


塚の北側に横穴式石室のように開口部があり、奥壁に如来坐像が浮き彫りされています。


終末期古墳の横穴式石室のようですが、北に向けて開口するなど古墳の石室を転用したかについては詳細不明です。


〇 朝野魚養
朝野魚養 ( あさののなかい )

生年: 生没年不詳
 
奈良時代の官人、能書家。


延暦 6年 ( 787 ) 正六位上から外従五位下に昇り、翌年播磨大掾、典薬頭に任じられた。


同 10年申請によって、従来の忍海連から新たに朝野宿禰を賜る。


書に優れ、大和薬師寺の扁額および同寺所蔵の大般若経 33巻 ( 魚養経と称される ) は彼の筆になるものと伝える。


奈良市十輪院町の十輪院 ( 元興寺の一院 ) には魚養塚があり、彼の筆と伝える大般若経を所蔵する。


また同院の開基のひとりと伝える。

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江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。


正徳元年 ( 西暦 1711年 )、白木屋二代目の当主の大村彦太郎安全は、私財を投じて井戸掘りに着手しました。


翌二年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。


以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。


白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。


この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを平成十六年 ( 西暦 2004年 ) に移設再現したものです。
(石碑碑文より)

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江戸っ子漱石は ロンドンを舞台にした作品にも、日本橋を言挙したほどだ。


青春小説「三四郎」、倫理探究の名作「こころ」には ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。
(石碑碑文より)

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井口信海 ( いぐち - のぶみ?)
大正 3年 11月 8日 ~ 昭和 63年 8月 4日 ( 1914 - 1988 )


日揮常務。

滋賀県出身。


昭和 13年 ( 1938 ) 東京大学経済学科卒業。


73歳没。

「至心院釈信海」。

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Carl 2nd Schwartz ( カール 2世 ハーバート・ウッドワース・シュヴァルツ )

( 1857 - 1921 )

アメリカ

青山学院教授。 

記念碑。

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Frank W. Eastlake ( フランク・W・イーストレイキ )

( 1858 - 1905 )


アメリカ

英文週刊誌「東京独立新聞」を創刊。

国民英学会を創設。


各国語に精通し、「博言博士」の名で知られた。

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Percy Almerin Smith ( パーシー・アルメリン )

(1876 - 1945 )


アメリカ

聖公会宣教師。

広島高等師範学校で英語を教えた。


彦根に神社様式の教会が有名。

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Edwin Dun ( エドウィン・ダン )

( 1848 - 1931 )


アメリカ

畜産技術者・外交官。


北海道開拓使に招聘され来日。


牧畜を指導し、真駒内牧牛場を整備した。

その後アメリカ公使館に努め、特命全権公使となり日清戦争終結に尽力した。

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M.D. Duane B Simmons ( M・D・デュエイン・シモンズ )

( 1834 - 1889 )

アメリカ

医療宣教師。


横浜で医院を開く、回虫駆除剤セメンエンの調剤で知られる。


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Henry Hartshorne ( ヘンリー・ハッツホーン )

(1823 - 1897 )


アメリカ

医学者。

著した医学書の好評により来日し、各地で公演した。

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Peyton Jaudon ( ペイトン・ジョードン )

( 1831 - 1896 )


アメリカ

教師。


学習院や開成学校 ( 現東京大学 ) で英語を教えた。


天津条約において、日清の紛争解決に尽力した。

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Daniel Rial McKenzie ( ダニエル・リアル・マッケンジー )

( 1861 - 1935 )


宣教師・教師。

第四高等学校で英語を教えた。


関西学園理事、カナダミッション教会議長。

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Henry Spencer Palmer ( ヘンリー・スペンサー・パーマー )

( 1838 - 1893 )


イギリス

土木技術者。


横浜で日本初の近代水道を創設し、大阪、函館などでも水道の整備に携わった。


横浜港改港工事にも従事。

ジャーナリストとしても活躍した。


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Professore Edoardo Chiossone ( エドアルド・キヨソーネ博士 )

( 1833 - 1898 )


イタリア

版画・印刷技術者。


大蔵省に招聘され来日し、紙幣や切手の図案作成・銅板印刷を指導した。

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松本順の墓誌
松本順先生は天保3年(1832)東京は芝の生まれ。


もと徳川将軍の御殿区 後 明治新政府に請われて初代陸軍軍医総監となる程の医学界の第一人者であった。


明治18年(1885)一切の公職を退いて閑地に就かれ縁ありて大磯に来たり、「この地の潮水は病を治し空気は保生の効あり」と唱え、照ヶ崎海岸こそ海水浴の好適地と認定。


町の有識者と相計り、ここに日本最古の海水浴場が誕生した。


折しも交通革命とも申すべき鉄道の開通により東海道五十三次の宿場であった大磯の町が衰微を免れた上に日本国中の各界の名士が競って当地に別荘を設けその繁盛は旧に倍するものとなった。

これ偏に先生の先見の明によるものである。


その繁栄を町民と共に楽しみながら、明治40年(1907)3月先生は当地にてご他界、御年76才、この大恩に報ゆるため、時の有志者挙って先生遺愛の当山に墓碑を建立したものである。


往見 駅前ロータリー内記念碑及照ヶ崎海水浴場謝恩碑
(案内板より)


〇 松本良順
松本 良順(まつもと りょうじゅん、天保3年6月16日1832年7月13日) - 明治40年(1907年3月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本医師御典医軍医)、政治家爵位男爵


西洋医学所頭取将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院貴族院勅選議員などを務めた。父は佐倉藩藩医順天堂を営む佐藤泰然外務大臣林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、に改名した。は蘭疇、楽痴。

略歴
天保3年(1832年)6月16日、江戸麻布東京都港区)に生まれる。


嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。


・嘉永2年(1849年)、松本良甫の養子となる。


・嘉永3年(1850年)、長男銈太郎誕生。


安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。オランダ軍軍医のポンペ医学等の蘭学を学ぶ。


文久2年(1862年)閏8月8日、奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる。


・文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取東京大学医学部の前身)となる。医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。


元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。同年6月1日、奥医師の任を解かれ、寄合医師となる。同年8月15日、奥医師に再任される。将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。


会津藩の下で京都治安維持のために活動していた新選組の局長である近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。


慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、常に近侍するように求められ、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、その甲斐なく7月20日に死去した。


・慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立[1]山縣有朋などの薦めで明治4年(1871年)に兵部省に出仕。


・明治6年(1873年大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。


・明治23年(1890年)9月29日 貴族院議員に勅選される[2]


・明治35年(1902年)4月1日 退役[3]


・明治38年(1905年)3月2日 男爵の爵位を受ける。


・明治40年(1907年)3月12日 大磯の邸宅において心臓病のため死去[4][5]享年75。墓所は神奈川県中郡大磯町妙大寺

栄典
位階
1872年1月23日(明治4年12月14日) - 従五位

1873年(明治6年)5月25日 - 正五位

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6]

1893年(明治26年)7月19日 - 正四位

1905年(明治38年)3月2日 - 従三位

勲章等
1878年(明治11年)5月14日 - 勲二等旭日重光章

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]

1905年(明治38年)3月2日 - 男爵勲一等瑞宝章

親族
・八男 松本本松(医学博士、貴族院男爵議員)[8]

・実弟林董

・義兄(佐藤家養嫡子)佐藤尚中、その子に佐藤百太郎

・義兄(実姉の夫)林洞海、その子に林研海

・義弟(実妹の夫)山内作左衛門

・遠縁に榎本武揚森鴎外森電三などがいる。

その他
・親交のあった近藤勇土方歳三供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立した。


長野県湯田中温泉において、温泉入浴法を示し、湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えた。現在の湯田中大湯には現在も当時の温泉入浴法が掲げられている。


神奈川県大磯町海水浴が最適な別荘地として開発した。


牛乳の摂取や海水浴などの普及も行う。


2011年現在、日本で唯一「」の字を使用している日本医薬品製造社製の征露丸に当人の顔写真がロゴとして使用されている。


・西洋医学所の頭取であった頃、伊東玄朴を弾劾し失脚に追い込んでいる。

脚注
1. 日本大百科全書
2. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
3. 『官報』第5645号、明治35年5月2日。
4. 「大医松本順逝く」明治40年3月13日付萬朝報『新聞集成明治編年史』第十三巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
5. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)285頁
6. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
7. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
8. 『平成新修旧華族家系大成』下巻、649頁。

関連文献
参考文献
・著作は口述筆記で『病難除』、『民間諸病療治法』(明治13年に資生堂)、『通俗医療便方』、『民間治療法』(愛生館で多数の版)、『通俗衛生小言』などがある。

・『松本順自伝、長與專齋自伝』(小川鼎三酒井シヅ校注、平凡社東洋文庫、1980年、ワイド版2008年)、原題は『蘭疇自伝』

・鈴木要吾 『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯 伝記・松本順』

 復刻版〈伝記叢書137〉大空社、1994年、元版は東京医事新誌局、1933年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』、霞会館、1996年。

関連書籍
司馬遼太郎胡蝶の夢新潮文庫(全4巻)ほか。主人公は司馬凌海

吉村昭『暁の旅人』(講談社、2005年/講談社文庫、2008年)

火坂雅志『美食探偵』講談社文庫、新版・角川文庫。主人公は村井弦斎


関連項目
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト

司馬凌海 - 幕末期の門下生

長崎養生所

大磯町 - 2007年に同町の郷土資料館が、没後100周年記念展『大磯の蘭疇 松本順と大磯海水浴場』を催した。

弾左衛門 - 13代目の病を治療した事から縁ができ、維新の際に身分昇格に尽力した。

化学遺産

外部リンク
『幕末・明治の写真師』総覧

1865年の松本良順肖像 - ボードインコレクション
(wikiより)




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松本良順

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日本橋の変遷は「木橋」、「石橋」、「鉄橋時代」と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。

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碑の表に「隅田川七福之内福禄寿尊 正ニ位勲1等伯爵 土方久元」と刻まれ、碑陰に建立者名が連記されています。

明治41の建碑。

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名勝向島百花園は、文化元年佐原鞠塢(さわら - きくう)の開創する所にして、風流文雅の名所として聞ゆること久し。

鞠塢は仙台の人。

江戸に出でて骨董商を営み、北野屋平兵衛と称す。


性園圃(えんぽ)の技に通じ文墨の才に富めり。

晩年産を治め、寺島村多賀氏の旧地三千余坪を購(あがな)いて閑居するや、みずから鋤鍬の労をとり、文苑の名士と胥諮(あいはか)りて梅樹ならびに四季百花の粋をあつめ、詩韻(しいん)豊かなる花圃(かほ)となす。


春夏秋冬花開かざるなく、東西南北客争いて来たり、花屋敷、百花園の名、あまね(世に布<し)くに至れり。


しかるに、明治以来しばしば出水の厄にかかり、園景ついに荒廃に瀕するや、故小倉常吉氏は深くこれを惜しみ、大正の初め、資を投じて園地を収め旧景を保存し、他日公開の意図を有せられしが、不幸易簀(えきさく)せられたるを以て、未亡人小倉乃婦(のぶ)刀自はその遺志を継承し、昭和十三年十月、園地一切を挙げて東京市に寄附せられたり。
 
本市は寄贈者の芳志を体すると共に、さきに 昭和八年史蹟名勝天然記念物保存法により指定せられたる、本園保存の趣旨にしたがい、鋭意これが復旧を図り、今や公開を見るに際し、ここにその来由を記し以て後世に伝う。
 
昭和十四年七月  

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「朧夜や たれをあるしの 墨沱川  永機」と表に刻まれ、碑陰には、永機の略歴が記されています。
 
永機は、穂積氏、名は美之、老鼠肝の子で其角堂七世です。

28歳で受戒して無諍と名づけました。


明治32年77歳の時、友人等がこの碑を建てました。

建碑者は魚河岸の人が多いのですが俳優の5代目尾上菊五郎や書家の永井素岳の名も見えます

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「けふの月 さてもをしまぬ 光かな 美知彦」
 
碑陰に「世中の 梅のさきけり すみた川  文政13年(1830)9月一桑庵野月建之」とあります道彦の13回忌に、野月が道彦門の有志を語らって建てたものです。

道彦は鈴木氏、春秋庵白雄門の俳人であり医者でした。

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大窪詩仏の竹の画に、詩人佐羽淡斎が詩を題し、碑陰には、詩仏老人碑竹記として、碩学朝川善庵(常泉寺に墓碑あり)の撰、巻菱湖の書という、文人四大家の合作です。

文政5年(1822)の建碑です。
 
大窪詩仏(行)は徳川中期の漢詩人。

草書と詩で名高く、また好んで墨竹を画き、気韻に富んでいたといいます。

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「茶筅塚 おりたらん 草の錦や 花やしき 黙翁」
 
木石庵柘植黙翁の一周忌に門人達が師の遺志を継いで建てた碑で、漢学者大槻磐渓の長男大槻修の書です。
 
碑陰に関東空也門中として大勢の門人の名前が記されています。

関東空也門については詳らかではありません。


しかし空也上人門徒が茶筅を作りこれらを商ったという話しや、門人の号などから、茶道の一派ではないかと考えられます。


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「こんにやくの さしみも些し うめの花 はせを」


元禄6年(1693)の作で、芭蕉と去来との共通の知人の死を悼んで去来へ送った句です。

梅の咲くころ、せめて心ばかりでもと、梅を折り蒟蒻の刺身を供えて故人を祀ったとのお意でしょう。

金令舎鈴木道彦の書で、文化11年(1814)の建碑です。
 
碑陰の「イ文ヒ」という字は、「化」の字の中に「文」の字を入れたもので「文化」と読みます。

この手法は割書きといい昔の公文書などで、位勲、役職名、氏名などを一行に書かなくてはならない場合など、短く詰めるためによく使われました。


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万葉歌二首の碑。


憶良の和歌の碑というよりは、董堂敬義の絶筆となった「秋の七草の書」を残すために、門人達によって遺言通り百花園に建てられたものです。
 
董堂敬義は、本名中井敬義で、嘉右衛門と称しました。


商家の番頭ながら書に巧みで江戸の三右衛門の一人といわれました。狂歌でも活躍し、腹唐秋人と戯号しました。


董堂が亡くなった文政4年(1821)の建碑です。


読みは
  「秋の野に 咲きたる花を指折り かき数うれば 七草の花」
  「芽の花 乎花葛花 なでしこの花 姫部志 又藤袴 朝貌の花」

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