本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2020/08

早川 二郎(はやかわ じろう、1906年2月22日[1] - 1937年11月8日[1])は、日本の歴史学者。本名は小出 民声(こいで みんせい)。

略歴
東京出身。1929年3月東京外国語学校ロシア語科卒[2]。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に入り、ソ連事情、ソ連史学の翻訳・紹介をおこなう。のち日本古代史などを研究。奥秩父を登山中、遭難死した。31歳[3]

著書
・『日本王朝時代史』白揚社 1933

・『日本歴史読本』白揚社 1934

・『古代社会史』(唯物論全書)三笠書房 1936

・『日本歴史論』白揚社 1937

・『日本上代文化史』(三笠全書) 三笠書房 1938

・『日本古代史の研究』白揚社 1947

・『日本民族の話』岩崎書店 1947

・『日本文化史ノート』真善美社 1949

・『早川二郎著作集』全4巻 福富正実, 加藤喜久代編. 未来社

1 (日本歴史とアジア的生産様式論) 1978

2 (日本古代史研究と時代区分論) 1977

3 (日本歴史読本) 1984

4 (古代社会史と日本文化論) 1986

翻訳
カール・マルクスフリードリツヒ・エンゲルス共著、リヤザーノフ編『共産党宣言大田黒年男共訳 マルクス主義の旗の下に社, 1930

・ボチヤロフ, ヨアニシアニ 共著『唯物史観世界史教程』白楊社 1932-33

・スヴェトロフ『日本資本主義の発生』白揚社 1933

・[コムアカデミー]ソヴエート・マルクス主義東洋学者協会 編『「アジア的生産様式」に就いて』白揚社 1933

コンラード, メシン, ヂューコフ 共著,ソヴェート中央委員会編『日本歴史』白揚社 1934

・サフアロフ『支那社会史 前資本主義時代』白揚社 1934

・パクロフスキー監修『世界原始社会史』白揚社 1934

・ゴルンシユタイン『自然科学概論』大野勤共訳 白揚社 1935

・パクロフスキー監修『原始共産社会』白揚社 1935

・ソヴエート同盟国立物質文化史アカデミー編『考古学概論 N.Y.マル氏の四十五週年紀念論叢に拠る』白揚社 1935

・ソ同盟物質文化史アカデミア編『唯物史観日本歴史』橋本弘毅共訳 白揚社 1936

・マヂヤル『支那の農業経済』白揚社 1936

・スヴェトロフ『明治維新への展望』白揚社 1937

・N.コンラード『奈良時代の土地制度 附・レーニン日本論』白揚社 1937

・サファロフ『近代支那社会史』白揚社 1937

・『社会主義と宗教』(レーニン重要著作集) 白揚社 1937

・L.A.ボチャロフ, A.Z.ヨアニシアニ『世界史教程 第1 (原始時代-紀元五世紀)』白揚社 1947

参考文献
岡林辰雄「追悼 早川二郎の死 略歴」『唯物論研究 : 唯物論研究会機関誌』第62号、唯物論研究会、1937年、 166-167頁。

脚注
1. a b 岡林辰雄 1937
2. 東京外国語学校一覧 附:第十二臨時敎員養成所一覽 昭和4年度』 東京外国語学校、1929年、188頁。 
3. コトバンク
(wikiより)

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楠田謙蔵 ( くすだ - けんぞう )    
文久 2年 ~ 明治 42年 3月 2日 ( 1861 - 1909 )

    
明治期の産婦人科の名医。

父、松岡栄次郎 ( 4男 )。

号、秀峰・不識叟。

兵庫県神崎出身。

楠田氏の養子となる。

明治 10年 ( 1877 ) 兵庫県医学校に入り、明治 14年 ( 1881 ) 淡路に開業。

明治 20年 ( 1887 ) 東京の桜井郁次郎の産婦人科病院医員となり、産科手術を教授、産婆の養成に努める。

のち東京市日本橋区浜町に楠田病院を開業。49歳没。

著書:「桜井氏産科手術学」、「櫻井氏産婆手術書」。

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井上文雄 ( いのうえ - ふみお )    
寛政 12年 4月 19日 ~ 明治 4年 11月 18日 ( 1800 - 1871 )

歌人・田安家侍医・国学者。

通称、玄真。号、歌堂・柯堂・調鶴。

江戸出身。

初め岸本由豆流 ( きしもと - ゆずる ) に国学を学び、のち一柳千古に皇国学を学ぶ。

和歌においては、世人に賞賛され香川景樹以後の名人といわれた。

田安家侍医として 45俵を賜る。

晩年の歌には政府に咎められたものがあり、投獄されたこともある。門下には、佐々木弘綱、藤尾景季、竹川政恕、川喜田政明、三輪義方、大野完子、島津永子、井上淑蔭らがいる。72歳没。

著書:「大和物語新註」、「伊勢の家苞」、「大井川御幸和歌序考証」、「思草」、「文雄翁歌集」など多数。

 辞世: 老はてゝ命惜しとは思はねど死ぬとしいえはかなしかりけり」

「文雄院歌先明道居士」。

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三好 晋六郎(みよし しんろくろう、1857年9月9日安政4年7月21日〉 - 1910年明治34年〉1月28日)は、日本造船学者であり、明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力した人物。江戸裏猿楽町(後の東京都千代田区猿楽町)出身[1]大審院判事永井岩之丞の実弟[2]

人物歴
工部大学校(後の東京大学工学部)を首席で卒業後、渡欧してイギリスのグラスゴー・ロバート造船所とグラスゴー大学で造船学、舶用機関学を修めた[1]1883年(明治16年)に帰国、工部省の御用掛となり、翌1884年(明治17年)には工部大学校の助教授に就任、翌1886年(明治19年)に工部大学校の教授として造船学を担当し、造船技術者の教育に当たった[3]


造船関係者の啓蒙を図るべく、1885年(明治18年)に木船と鉄船の比較論を学会で発表。造船技術者の養成のため、1887年(明治20年)に工手学校(後の工学院大学)を設立し、初代校長に就任した[3][4]


技術者の養成のみならず船舶設計にも優れた腕を振るっており、三好の設計による蒸気船は、日本固有の材料と先進国の技術の折衷による優秀な船として模範になったといわれる[1]1893年(明治26年)には通信省の嘱託となり、1896年(明治29年)には日本初の造船規定を制定[1]


1897年(明治30年)に造船協会(後の日本船舶海洋工学会)を創立し、同会の副会長と理事を歴任。同年、教育と海事関係の評価により正三位勲三等に叙され、1899年(明治32年)には工学博士の学位を授与された[1]

1910年に講義中に脳出血で倒れ、教授室で看護を受けたがそのまま死去[5]。前年には卒業生たちにより三好の在職25年を記念して奨学資金を拠出されたばかりであり、資金の一部により三好懸賞論文制度が発足された[1]


謹直・精緻・謙遜な人物とされ、その業績と人徳を称え、後に東京大学工学部船舶試験水槽前に胸像が建てられている[1]

栄典・授章・授賞
位階
1897年(明治30年)7月10日 - 正五位[6]

1910年(明治43年)1月29日 - 従三位[7]

勲章等
1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[8]

1906年(明治39年)4月1日 - 旭日中綬章[9]

1910年(明治43年)1月29日 - 勲二等瑞宝章[10]

脚注
1. a b c d e f g 谷林英毅他『日本の機械工学を創った人々』前田清志編、オーム社〈テクノライフ選書〉、1994年、32-33頁。ISBN 978-4-274-02258-6
2. 三島由紀夫系図”. 近現代・系図ワールド. 2015年1月30日閲覧。
3. a b 日本人名大辞典上田正昭他監修、講談社、2001年、1869頁。ISBN 978-4-06-210800-32015年1月30日閲覧。
4. 北山敏和. “明治の文明開化を開いた工部大学校”. 北山敏和の鉄道いまむかし. 2015年1月30日閲覧。
5. 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.201
6. 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
7. 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。
8. 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
9. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
10. 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。11.
(wikiより)


2062  三好晋六郎

三好晋六郎

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伊集院兼常 ( いしゅういん - かねつね )    
天保 7年 ~ 明治 42年 6月 20日 ( 1836 - 1909 )

    
実業家・造園師。

鹿児島出身。

薩摩藩の営繕関係の仕事を手がけていたが、明治維新時には官僚のち軍人となり戊辰の役、鳥羽伏見、上野戦争に赴く。

明治 5年 ( 1872 ) 海軍 8等出仕、海軍大主計。

明治 11年 ( 1878 ) 工部 2等技手となり営繕局勤務。

のち官を辞して実業界に転向し、参宮鉄道、大日本土木会社社長となった。

建築や造園にも優れた審美眼を発揮し宮家の御殿などの建築に携わり、「鹿鳴館」の建築を担当し熟練の名を残す。

また「近世の遠州公」とも称された。

その一つの廣誠院 ( 京都市中京区河原町通二条下る ) は、明治 25年 ( 1892 ) 伊集院兼常が東京から京都に移り、屋敷を構え約 5年間住んだが、後に伊集院家より藤田家、下郷家を経て廣瀬家の所有となり、昭和 27年 ( 1952 ) より臨済宗の寺廣誠院 となった。

また、市田氏対流山荘庭園 ( 京都市左京区南禅寺福地町:未公開 ) は、明治 30年ころ寺院の敷地であったこの場所に伊集院兼常が草居を建てたのが始まりで、小川治兵衛 ( 植治 ) が庭園として創作したが、茶席など伊集院時代のものが残っているという。74歳没。

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高木友之助 ( たかぎ - とものすけ )     
大正 13年? ~ 平成 12年 2月 10日 ( 1924? - 2000 )

中央大学総長。

中国哲学者。

父、立浪弥右衛門 ( 長男 )。

平成 2年 ( 1990. 11 - 2000. 2 ) 第 11代中央大学総長。

日本学生相撲連盟会長。心不全により没する。

贈従四位勲二等瑞宝章。76歳没。のちに、「高木友之助記念学術奨励賞」が設けられている。

 タレントの高木ブーも本名高木友之助で、中央大学出身。「高木友之助様 高木友之助より」という手紙があるらしい。

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立浪弥右衛門 ( たつなみ - やうえもん )    
明治 10年 1月 12日 ~ 昭和 27年 12月 16日 ( 1877 - 1952 )

関取、大横綱双葉山定次・大関羽黒山の師匠。

本名、高木友之助。

富山県出身。

はじめ京都力士となるが、明治 31年 ( 1898 ) 春日山万蔵に入門、緑島友之助の四股名で幕下付け出しで登場。

明治 36年 ( 1903 ) 東西合併後、明治 41年 ( 1908 ) 小結に昇進。

大正 5年 ( 1916 ) 引退。

4代目立浪を襲名。

幕内在位 27場所。幕内成績 78勝 120敗。

横綱双葉山・羽黒山・大関名寄岩等の力士を排出。74歳没。

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関 宗喜 ( せき - むねよし / そうき )    
安政元年 ~ 大正 7年 11月 28日 ( 1854 - 1918 )

実業家・北海道拓殖銀行取締役。

父、関與兵衛。

江戸出身。

明治 6年 ( 1873 ) 入間県に出仕したのをはじめとして、熊谷・愛知・鹿児島を歴任。

のち司法・農商務・大蔵各省を転任。

さらに林務官・会計検査院・内閣・台湾総督府などを歴任。

明治 31年 ( 1898 ) 逓信書記官。

明治 36年 ( 1903 ) 逓信省経理局長。

南満州鉄道創立委員。

退官後は、明治 45年 ( 1912 ) 北海道拓殖銀行理事。

正四位勲三等。65歳没。

正面「正四位勲三等関宗喜墓」。「大樹院宗喜日穣居士」。

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能勢 栄 ( のせ - さかえ )     
嘉永 5年 ~ 明治 28年 12月 18日 ( 1852 - 1895 )

明治前期の教育学者。

東京本郷出身。

旧幕臣の家に生まれる。

明治 3年 ( 1870 ) 大阪より渡米。

オレゴン州のパシフィック大学理学部卒業。

明治 9年 ( 1876 ) 帰国。

岡山師範学校・岡山中学教頭・学習院教諭・長野県師範学校校長・福島県師範学校校長を歴任、ベスタロッチ主義の開発主義教授法を指導。

明治 19年 ( 1886 ) 文部大臣森有礼により文部省書記官・視学官に起用、修身書の編纂に参加。

東京高等女学校 ( お茶の水大学付属高校 ) 校長。

晩年は著述に従事。43歳没。

訳本:アメリカのグリーンウッド、フランスのコンベーレ、ドイツのラインの書など。

著訳書:「虔氏応用教育論」、「学校管理術」、「根氏教授論」、「内外教育史」、「新教育学」、「?因氏教育学」、「倫理学初歩」、「実践道徳学」など。

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渡部欽一郎 ( わたなべ - きんいちろう )    
弘化 2年 ~ 明治 19年 8月 25日 ( 1845 - 1886 )

日本語の横書き・左起こしを提案し、制度となるきっかけを作った人。

美濃大垣藩 ( 岐阜県 ) 出身。

父、藩士・吉田益五郎 ( 次男 )。

号、柳圃。

明治 3年 ( 1870 ) 権少属。

明治 4年 ( 1871 ) 出納少属。

明治 7年 ( 1874 ) 出納大属。

以後累進し明治 17年 ( 1884 ) 権大書記官 ( 官吏の役職等級で 5級 ) となり、翌 1885年には勲六等単光朝日章を受章。

あるとき井上馨大蔵大輔のお供で大阪造幣寮 ( 庁 ) に行ったとき、西洋人の整然とした簿記を知り啓発され、帰京後に日本の簿記の横書き・左起こしを進言。

それが制度にまでなったという。

碑には、「渡部欽一郎が勤勉で功績を誇らなかった。長命であれば大きな業績を残したに違いない。4人の息子 と2人の娘に『ひとに接しては正しく、文人や儒学者のようであれ。ものに対しては一心に励んで妥協してはいけない。詩歌と音楽を楽しんでゆったりと過ごしなさい』という言葉を残した」とある。42歳没。

並木時習書「故渡部欽一郎君之碑」。墓は、浅草本願寺墓地。

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清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日1857年11月29日) - 明治18年2月26日1885年))は、日本の医学者産婦人科医医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。

来歴・人物
慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。


明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。大学東校は第一大学医学校、東京医学校、明治10年(1877年)には東京大学医学部と名称を変え新発足したが、郁太郎はその本科1回生を首席で卒業し、現在の医学博士に相当する医学士の称号を受ける。


また文部省はこの時、卒業生の中で特に成績優秀なものをドイツの大学に留学させ、将来傭外人教授に代わらせることを企図し、郁太郎はこれに選ばれ他2名と明治11年(1879年)渡欧した。ドイツではベルリン大学ウィーン大学で当時最も高名な多くの教授に学び、婦人科学のみならず医学各科の基礎、臨床学習に励み3年後の明治16年(1883年)帰国。外人教授に代わり産婦人科外来の診察、及び臨床講義を実施。翌明治17年(1884年)、日本人初の東大教授に任ぜられた(28歳)。清水は初代の東京大学医学部産婦人科学教授であり、したがって日本最初の産科学婦人科学担当大学教授に当たる。


当時まだ漢方医学の影響が強かった産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入、診療講義、臨床講義、産科模型実習等のほか、病室および教場の整備を行う。また穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行。共に当時は驚異とされていたものであった。他に漆塗子宮鏡ペッサリーを発明し、ロンドンへ出品する等、日本のドイツ流医学新体制実現へ心血を注いだが病に倒れた。明治18年(1885年)、肺結核により29歳で死去、在職はわずか8ヶ月であった。

参考文献・ウェブサイト
・『医界風土記 中国・四国篇』 酒井シヅ監修、日本医師会編 、思文閣出版、1994年

東京大学医学部の歩み 1878~1911|医学図書館デジタル史料室

関連項目
東京大学の人物一覧



外部リンク
誠之館人物誌 「清水郁太郎」 医学者、東京大学教授

清水郁太郎 とは - コトバンク

東大病院だより

東京大学医学部産科婦人科学教室
(wikiより)



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伊藤幹一 ( いとう - かんいち )    
弘化元年 11月 ~ 大正 11年 5月 28日 ( 1844 - 1922 )

    
学習院創立に功績・東京株式取引所常任理事。

父、幕臣伊藤幸之助 ( 長男) 。

東京出身。

維新の動乱に際し脱走の徒に加わり官軍と戦うが敗れて静岡に帰る。

明治 4年 ( 1871 ) 東京府に出仕。

明治 5年 ( 1872 ) 学制の制定に従い、東京師範学校・学習院の設立に功績を挙げる。

明治 11年 ( 1878 ) 教育界を去り、東京株式取引所書記官、のち常任理事。

日本陶料・日韓瓦斯電機・東京瓦斯・東京湾汽船・石狩石炭・二十七銀行・日本昼夜貯蓄銀行・旭日生命保険各監査役。

東京株式取引所相談役。

明治 22年 ( 1889 ) 鵠沼海岸別荘地開発に関与。

明治 29年 ( 1896 ) 東京市会議員 ( 小石川区 )。

 学習院 : 起源は、弘化 4年 ( 1847 ) とくに教育機関がなかった公家 ( くげ ) のための学習所として京都御所内に設立された「学習院」( 1867閉鎖 ) にまで遡る。

現在の学習院の直接的な起源は、華族有志が結成・創設した華族会館によって明治 10年 ( 1877 ) に東京・神田錦 ( かんだにしき ) 町に設立された華族学校であり、明治天皇の勅諭により「学習院」と名づけられた。

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高木久成 ( たかぎ - ひさなり )    
文化 14年 10月 13日 ~ 明治 7年 12月 29日 ( 1817 - 1874 )

    
神奈川県大参事。

通称、喜久左衛門。

父、山城淀藩高木瀬兵衛久寿。

京都紅伊出身。

父と共に京都に出、のち伏見に移る。

生活苦に陥り代官手代林文太夫の養子となる。

天保 6年 ( 1835 ) 大和五条県令蓑笠之助の公庁見習。

天保 11年 ( 1840 ) 県令竹垣三右衛門公庁書記。

弘化 4年 ( 1847 ) 元締に昇進。

嘉永 2年 ( 1849 ) 養父の実子泰蔵に家督を譲り、原姓に復帰。

万延元年 ( 1860 ) 幕府普請役元締格、神奈川奉行支配調役並となり、永世幕府拝謁以上の騎士に加えられる。

維新で、神奈川少参事・大参事。

明治 6年 ( 1873 ) 病気のため辞職。57歳没。

正面「正六位高木久成/妻 信子 之墓」。「本覚院殿正六位久成日諦居士」。

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三間 正弘(みつま まさひろ、1836年天保7年7月) - 1899年明治32年)6月3日)は、日本の警察官陸軍軍人政治家。最終階級少警視、陸軍大佐石川県知事通称、市之進。

経歴
長岡藩士の家に生まれる。戊辰戦争に参加。明治3年(1870年)10月、小諸藩大参事となり、明治4年(1871年)11月、廃官。1873年(明治6年)5月、明治政府文部省10等出仕として入り、同年12月、免出仕となる。1874年(明治7年)2月、警視庁に10等出仕として入り、大警部、権少警視、少警視と昇進。1877年(明治10年)3月、陸軍少佐兼権少警視となり、西南戦争別働第3旅団参謀として出征した。


1881年(明治14年)3月、憲兵中佐に昇進し東京憲兵隊本部長に就任。1884年(明治17年)10月、憲兵大佐に進級。1889年(明治22年)3月、初代憲兵司令官に着任。


1893年
(明治26年)4月から1896年(明治29年)12月まで石川県知事を務めた。1893年9月、後備役となり、同年12月に非職、1897年(明治30年)2月、免官となる。

栄典
1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[1]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[2]

脚注
1. 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
2. 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
(wikiより)

2085  三間正弘

三間正弘

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三幣春庵 ( さんぺい - しゅんあん )     
文政 9年 ~ 明治 8年 3月 14日 ( 1826 - 1875 )

幕末の医師。

名、圭。字、君玉。号、春庵。

遠祖は、藤原氏武智麻呂の第 5子三平嘗居。

のち、”平”を”幣”に改める。はじめ喜多村良宅に医学を学び、のち青木春岱に師事。50歳没。

「三幣家之墓」。広群鶴刻の碑あり。

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高山保綱 ( たかやま - やすつな )     
安政 6年 ~ 大正 3年 8月 17日 ( 1859 - 1914 )

海軍造船大監。

父、高山保教 ( 長男 )。

京都出身。

フランスに留学し機械工学を研究。

明治 19年 ( 1886 ) 海軍少技官、造船大監。

明治 35年 ( 1902 ) 退官。

石川島造船所技師長を経て、機械輸入業を創立。

従四位勲三等。56歳没。

「海軍造船大鑑従四位勲三等高山保綱之墓」。

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嵯峨根良吉 ( さがね - りょうきち )    
天保 8年 ~ 明治元年 6月 27日 ( 1837 - 1868 )

    
薩摩藩開成所助教。

丹後国 ( 京都 ) 宮津出身。

医者嵯峨根季重。

嘉永 7年 ( 1854 ) 宮津藩の派遣で緒方洪庵の「適塾」に入門、蘭学を学び、長崎にて英学を学ぶ。

江戸では江川担庵塾で砲術も教える。

幕府が初めて汽船を製造すると勝安房・榎本武揚・伊沢謹吾らと乗り組み、近海を測量する。

安政 5年 ( 1858 ) 島津斉彬を乗せ鹿児島を訪れ、その縁で薩摩藩士寺島宗則の推挙を受け、慶応 2年 ( 1866 ) 薩摩藩に招かれた。

「船中八策」を薩摩藩に建議。

慶応 3年 ( 1867 ) 藩士の列に加えられ邸宅を賜る。

船奉行補助役・開成所助教。

正面「英峰院嶽岳良心居士 / 英機院俊岳江蓮大姉」。

初め田之浦良英寺に埋葬、のち明治 25年 ( 1892 ) 3月 25日改葬。 

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嵯峨根不二郎 ( さがね - ふじお )    
元治元年 ~ 明治 24年 ( 1864 - 1891 )

    
学習院教授・法学士。

鹿児島県出身。

明治 20年大学院給費生となり、明治 21年学習院教授。

従七位奏任五等。28歳没。

著書:「財政学 上巻 国家支出論 租税汎論」、「財政学」。

訳:「新旧両派経済学要領」、「応用経済学」。

正面「大機院不二見性居士/忘機院不染貞操大姉」。

裏側「鹿児島県士族/故学習院教授法学博士嵯峨根不二郎」。

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中山光重 ( なかやま - みつしげ )    
明治 38年 11月 21日 ~ 昭和 41年 1月 4日 ( 1905 - 1966 )

    
医者・東大医学部教授。

父、塩田広重 ( 長男 )。

のち、中山信重 ( 嵯峨根不二郎の子 ) の養子。

京都出身。

明治 45年 ( 1912 ) 東京大学医学部内科卒業。

昭和 15年 ( 1940 ) 糖尿病の研究で医学博士となる。

東京大学医学部教授。

昭和 28年 ( 1953 ) 東京女子医科大学教授。

日本糖尿病学会設立に参画。

昭和 33年 ( 1958 ) ドイツのデルセルドルフで開かれた第 3回国際糖尿病学会に代表 3名の一人として出席。

昭和 34年 ( 1959 ) 糖尿病学会会長。

従五位勲四等瑞宝章受章。60歳没。

著書:「糖尿病」。

正面「降徳院殿道誉大安居士 / 清徳院殿春誉愛文大姉」。

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中山幸子 ( なかやま - さちこ )    
天保 12年閏 1月 20日 ~ 明治 41年 10月 18日 ( 1841 - 1908 )

慈善家。

父、鹿児島藩嵯峨根季重 ( 四女 )。

中山信安の妻、17歳で嫁ぐ。

中山信重の母。

薩摩と幕府が反目する中で、新徴組取締の夫が、鹿児島出身の妻を離婚しようとしたが、幸子はこれを知り離婚されるより餓死を選ぶとして、食膳を廃し数日後、夫の知るところとなり、却ってその美徳を賞したという。

維新後、慈善事業多く、「婦人共立育児会」のために私財を投じ奔走する。

また「愛国婦人会」ができると、同会のために尽力する。

東京育児院・淑徳女学会等の幹事。

明治 39年 ( 1906 ) 勲六等宝冠章。

正面「孝徳院殿温室知照大姉」。

墓碑に略歴あり。同墓域に嵯峨根季重・中山信重・信重の実父嵯峨根不二郎の各墓もある。

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大屋斧次郎 ( おおや - おのじろう ) / 大屋祐義 ( おおや - すけよし )     
天保 5年 11月 ~ 明治 12年 10月 17日 ( 1834 - 1879)

上野館林藩士のち裁判官。

初称、斧次郎。名、祐義。号、東寧。

父、館林藩中村数右衛門 ( 二男 )。

群馬県館林出身。

藩主秋元志朝の縁戚長州藩と幕府との紛議が起こると、同志 9人と髪を切って死を決し、開国論者家老岡谷瑳磨介を責めて退陣させる。

戊辰戦争時、大村益次郎の推薦で軍監。

彰義隊戦争では、神奈川方面を分担。

明治初期横浜県少参事。

明治 5年 ( 1872 ) 名村泰蔵・沼間守一・大東義轍・三島毅・河口定義・川西徳化らと司法裁判所 7等出仕となり、10回におよぶ建白書を提出。

「建白屋」の異名を持つ。

西郷隆盛の知遇を得ていたが、彼の死を知ると、憂憤し自著を宮内省に献じ割腹自殺する。46歳没。

著書 : 「永世特立論」、「訐姦志」。

 エピソード:横浜県少参事の時代に三浦半島を訪れ、郷学校の開設を強く説いた。

大屋の働きかけに応えて浦賀の町は、東浦賀の乗誓寺に東岸郷学校、西浦賀の叶神社に西岸郷学校を開設した。

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稲延利兵衛 ( いなのぶ - りへい )    
嘉永 4年 12月 15日 ~ 昭和 12年 1月 14日 ( 1851 - 1937 )

    
日本通商銀行頭取・東京市議会議員・富士紡績取締役。

江戸本材木町に生まれる。

父、稲延安兵衛 ( 長男 )。

日本橋江戸橋西詰で代々手広く履物商「常陸屋」を営み、利兵衛も家業を継ぎ、組合頭取を務める。

明治 4年 ( 1871 ) 結婚。

のち、鐘淵紡績・富士瓦斯紡績・内国通運・第一機鑵保険の取締役、ならびに稲延銀行設立・日本通商銀行頭取に従任。

区会・市会・商工会議所議員等の公職に就く。

二男に歌舞伎役者 5代目市川三升 ( いちかわ - さんしょう : 1882 - 1956 ) がいる。87歳没。

正面「稲延家之墓」。「成勝院釈紫藤」。

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下 文朔 ( しも - ぶんさく )     
天保 6年? ~ 明治 12年 10月 15日 ( 1835? - 1879 )

将軍家馬医・陸軍軍医副。

静岡県出身。

嘉永年間より桑島新五右衛門・その息桑島新助・落合十三郎・下与市右衛門・若林息嵐・稲垣司馬・桑島左近らと共に将軍家馬医。

明治 7年 ( 1874 ) ころ陸軍馬医副。従七位。

西南の役に砲兵第 6大隊馬医官として熊本に篭城。

明治 12年 ( 1879 ) 千葉県下志津原野営演習中に没する。44歳没。

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田中弘義 ( たなか - ひろよし )     
弘化 4年 ~ 明治 21年 12月 5日 ( 1847 - 1888 )

明治期の天文学者。

名、弘義。通称、周太郎。

父、田中匡。

東京目白台出身。

代々徳川幕府に仕える。

村上英俊に英語を学ぶ。

開成所句読師・元治元年 ( 1864 ) 教授。

慶応 2年 ( 1866 ) フランス公使通訳。

フランスに渡り海軍造船研究をする。

慶応 3年 ( 1867 ) 横須賀造船所専任。

明治元年 ( 1868 ) 2等教官。

明治 2年 ( 1869 ) 大学中助教。大学大教授。大学南校教官。

明治 5年 ( 1872 ) 文部省 6等出仕。

明治 6年 ( 1873 ) 開成所校長事務兼天文学教場事務。

金星の太陽面通過を適中。

渡欧米星学士。

明治 7年 ( 1874 ) 伝兵学少教授。

明治 8年 ( 1875 ) 陸軍省 7等出仕兼幼年士官学校教官。

明治 18年 ( 1885 ) 従六位勲六等旭日章綬章。

明治 19年 ( 1886 ) 東京仏学校長。42歳没。

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児玉氏精 ( こだま - うじやす )     
天保 10年 ~ 明治 16年 3月 15日 ( 1839 - 1883 )

宮城県伊具宣理郡長。

初名、外記。

父、伊予大洲藩臣清右衛門氏鎮。母、児玉氏。

愛媛県出身。

大洲藩の参政・藩務に参与。

明治 2年 ( 1869 ) 集議院議員、松山藩権大参事。

明治 5年 ( 1872 ) 磐前県権参事兼判事。従六位。

のち県統合につき官を解かれ、明治 12年 ( 1876 ) 宮城県伊具宣理郡長となり治績をなす。

仙台にて死亡。45歳没。

 集議院 : 公議所の後身として設置された明治 2年 ~ 6年 ( 1869 - 1872 ) まであった議政機関で、太政官が提出した議案を審議した。

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峰岸北林 ( みねぎし - ほくりん )     
寛政元年 ? ~ 天保 15年 7月 24日 ( 1789? - 1844 )

書家。

名、灑。字、麗水。通称、嘉蔵。号、北林。

武州児玉郡吉田林 ( 埼玉 ) 出身。

書を山城鳬山に師事。

詩文も得意とする。55歳没。

正面「北林先生之墓」。明治 12年 12月 14日改葬。

昌平学教官安積信 ( 艮斎 ) 撰文の略歴があるが、難文で難解。

安積艮斎は、名を信・重信、字を思順、号を艮斎・見山楼などと称し、幼くして二本松藩の藩儒今泉徳輔に学び、江戸に出て佐藤一斎・林述斎らに師事、昌平校の教授となった儒者。

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佐々木 男也(ささき おなり、天保7年5月26日1836年7月9日) - 明治26年(1893年11月25日)は、幕末長州藩士、明治期の実業家。


実名()は一貫。別名に仙之助。また宇多朔太郎・牧山騎之助と変名した。

経歴
長州藩遠近附士・佐々木五郎兵衛の子として、長門国で生まれる。

文久
2年(1862年)右筆となり、文久3年(1863年学習院用掛となって以降京都で国事に奔走する。

同年の八月十八日の政変後も暫く京都に潜伏するが、間もなく帰国した。

帰国後は政務座見習や蔵元役を務め、元治元年(1864年禁門の変では福原元の隊に所属して戦うが、敗戦とともに再び潜伏。

桂小五郎とともに鳥取藩邸への援助を求めるも断られたために再び長州へ逃れた。

同年の内に八重垣隊を結成し、間もなく南園隊と改称して自身はその総督となる。

慶応元年(1865年)長州の他隊とともに長州藩へクーデタを起こしてこれに勝利し、藩論の転換に成功。

慶応2年(1866年)第二次長州征伐の際には石州口の主軍としって幕府軍と交戦しこれを破った。

慶応3年(1867年)には南園隊と義昌隊が合流して結成された振武隊の総督を務め、戊辰戦争では北越戦争で活躍した。


維新後は山口藩国政方、施政司試補を歴任したのち、第百十国立銀行支配人、共同運輸会社支配人、日本郵船支配人を務めた。


明治26年(1893年)下関で没。

墓所は東京都台東区にある谷中霊園

登場作品
テレビドラマ
・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 演:佐藤滋
(wikiより)

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福岡健良 ( ふくおか - たてよし )     
安政 3年 10月 15日 ~ 明治 38年 6月 23日 ( 1856 - 1905 )

古河鎔銅所長・鉱業家。

旧姓、三田村。

福井県出身。

7歳のとき埼玉県深谷の医師 福岡春海の養子となる。

尾高淳忠に学び。

渋沢栄一の支援を受けて、明治 5年 ( 1872 ) 伊東玄伯の塾開成学校官費生となる。

鉱山寮 14等出仕。

小坂銀山顧問技師として活躍。

のち第一国立銀行に勤務。

明治 12年古河市兵衛に招かれ、のち足尾銅山古河鎔銅所長。

軽便消火器および軽便湯沸器を発明。49歳没。

妻、福岡鯤 ( 安政 6年 3月 6日 ~ 明治 45年 7月 20日 )。

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山岸 荷葉(やまぎし かよう、1876年1月29日 - 1945年3月10日)は、日本小説家書家、劇評家。本名、惣次郎


日本橋通油町の丸合小間物問屋(扱い品:鼈甲・朝鮮・眼鏡・鏡・磁針)加賀屋(吉郎兵衛・通称:加賀吉・屋号:山吉)の次男。雲石と号し、巌谷一六門下の天才書家として知られる。加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟に当たる尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。


明治36年(1903年)川上音次郎一座が上演した「ハムレット」の翻案を土肥春曙とともにおこない、ハムレットを葉村年丸とした。明治39年(1906年)には同座にメーテルリンクの「モンナヴァンナ」を翻訳するなど劇界にも活動した。


1945年3月10日東京大空襲で死去した。

著書
・リンクは国会図書館近代デジタルライブラリー

・『紺暖簾』春陽堂 1902 [1]

・『五世尾上菊五郎』編 文学堂 1903 [2]

・『五人娘』文禄堂 1903 [3]

・『失恋境』春陽堂 1903 [4]

・『反魂記』青木嵩山堂 1903 [5]

・『ふところ鏡』金港堂 1903 [6]

・『町女房』春陽堂 1906 [7]

・『金蒔絵』今古堂 1907 [8]

・『新作女判任官』春陽堂 1907 [9]

・『氏か育か 少女小説』博文館 1911 [10]

・『女優』春陽堂 1913 [11]

・『明治文学全集 22 硯友社文学集』山岸荷葉篇「紺暖簾」筑摩書房 1969

翻案
・シェークスピア『ハムレット 沙翁悲劇』土肥春曙と翻案 冨山房 1903 [12][13]

・Terumaro : the Japanese Version of "Hamlet" translated by J. Umezawa. Japan Herald, 1905.


・(浄瑠璃本文の筆耕)『定本 常磐津全集』全12巻、同刊行会 1940ー1943

伝記と書誌
・『近代文学研究叢書 第55巻』「山岸荷葉」昭和女子大学近代文化研究所 1983

関連項目
蒲原有明

外部リンク
早稲田と文学(山岸荷葉) - (早稲田大学
(wikiより)


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初代・西川忠亮 ( にしかわ - ただすけ )    
安政 2年 1月 ~ 明治 45年 7月 14日 ( 1855 - 1912 )

    
築地活版製造所会長。

実業家。

幼名、友三郎。号、可求。

父、旧長崎役人西川忠之 ( 五男 )。

天文学者西川如見の後裔。

肥前長崎出身。

広運館で学ぶ。のち、丸山作楽に国典・漢籍を学ぶ。

明治 4年 ( 1871 ) 上京し、外務省語学校に入学、ロシア語を学ぶ。

横浜の外国商館で貿易業を 8年間勤める。

明治 15年 ( 1882 ) 独立し、「西川求林堂」を興して印刷用インキ・印刷用機械などの貿易業を始める。

明治 22年 ( 1889 ) 印刷用インキの国産化に成功し販売する。

のち、東京築地活版製造所会長。東京印刷監査役。58歳没。

 我が国の活版印刷術の発展は、築地活版の話しを抜きにしては語れない。

正面「西川家之墓」。「可求院忠亮日友居士」。

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田辺貞吉 ( たなべ - さだきち )     
弘化 4年 ~ 大正 15年 1月 3日 ( 1847 - 1926 )

住友銀行初代支配人。

父、田辺四友 ( 長男 )。

静岡県沼津出身。

幼少時より西洋の学問を修める。

東京師範学校長。

明治 14年 ( 1881 ) 教職を辞し実業界に転ずる。

住友銀行重役局詰。

明治 23年 ( 1890 ) 神戸支配人。

明治 27年 ( 1894 ) 本店支配人、最高顧問。市区会議員。大阪商業会議所特別議員。日本セルロイド・人造絹糸・桜セメント・摂津電機・瓦斯マントル各取締役。汽車製造監査役。甲南女子大学初代理事長。

勲五等。79歳没。

 明治 38年 ( 1905 ) 住吉村反高林 ( たんたかばやし ) に二千坪をこえる土地を取得し、明治 41年 ( 1908 ) 邸宅を建設し、引退後を過ごした。

関東大震災で被害を受け取り壊しの危機となったが、武田薬品工業の手で京都薬用植物園の迎賓資料館として、移築再生された。

旧田辺貞吉邸として現存する。

正面「田辺貞吉/室 恒子 墓」。「厳正院貞純日慈居士」。

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穂積 敬重(ほづみ たかしげ、1849年6月4日嘉永2年4月14日[1]) - 1904年明治37年)8月28日[1])は、幕末の小倉藩士明治時代の官吏東京市赤坂区長。旧姓は鈴木[1]

経歴

江戸神田橋の小倉藩邸に生まれる[1]1869年(明治2年)金沢純直、山田直矢らと刑部史正を拝命し、1872年(明治5年)頃、東京権少属となる[1]1887年(明治20年)11月、東京市赤坂区長に任じ、1889年(明治22年)5月まで務めた[2]。同月、滋賀県栗太野洲郡長に転任し[3]、のち同県犬上郡長を務めた[4]

脚注
1. a b c d e 大植 1935, 773頁.
2. 江戸東京を知る_大東京35区物語_歴代区長一覧”. 東京都総務局. 2020年3月29日閲覧。
3. 『非職元東京府赤坂区長穂積敬重滋賀県栗太野洲郡長ニ転任ノ件』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ、明治22年5月31日。
4. 『滋賀県犬上郡長穂積敬重滋賀県収税長高等官六等ニ任叙ノ件』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ、明治27年11月18日。

参考文献
・大植四郎 編 『国民過去帳 明治之巻』 尚古房、1935年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271
(wikiより)

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横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日[1][2]1869年11月11日) - 没年不詳)は、日本裁判官検事

経歴
豊前国宇佐郡封戸村(現在の大分県宇佐市)出身[1]1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる[1]東京地方裁判所判事、同部長、検事・司法省参事官、東京控訴院検事、横浜地方裁判所所長を歴任した[3]


のち、朝鮮総督府法務局長に転じ、さらに朝鮮総督府高等法院長も務めた[3]

栄典
1929年(昭和4年)5月15日 - 従三位[4]

親族
横田国臣 - 兄[3]男爵。司法次官検事総長大審院院長。

脚注
1. a b c 帝国法曹大観 p.179 1915.
2. 『人事興信録』では10月9日。
3. a b c 大衆人事録 1930.
4. 『官報』第837号「叙任及辞令」1929年10月12日。

参考文献
『帝国法曹大観』帝国法曹大観編纂会、1915年。

・帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
(wikiより)

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奥野南卜 ( おくの - なんぼく )    
? ~ 文政 10年 6月 4日 ( ? - 1827 )

    
占術「天源術」の大家。

天源術は真言密教系の占術で、徳川家を支えた高僧・天海が用いていた占術。

天海は江戸城を風水的な観点から立地・建築し、徳川 300年の基礎を固めた。

この天海の流れをくむのが、奥野南卜翁。

昭和に入って、四柱推命術が普及しだすと、天源術も陶宮術も、急速に廃れた。

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森田 稔 ( もりた - みのる )     
大正 12年 8月 26日 ~ 昭和 60年 8月 3日 ( 1923 - 1985 )

松下電器産業専務・生産技術本部長。

神奈川県出身。

昭和 26年 ( 1951 ) 東京工大機械学科卒。61歳没。

正面「森田家祖先招魂之碑」。

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小林義二 ( こばやし - よしじ )     
明治 19年 9月 4日 ~ 明治 45年 4月 23日 ( 1886 - 1912 )

小林善兵衛の子。

東京出身。

博覧会に出品のため渡独。

ベルリンにて病没。27歳没。

義二:「清亮院釈浄?義薫居士」。

塩谷青山撰文、平戸星州書の碑がある。

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小林渙斎 ( こばやし - かんさい )     
嘉永 4年 ~ 大正 2年 12月 25日 ( 1851 - 1913 )

明治期の貿易商。

本名、小林善兵衛 ( 初代 )。

東京出身。

時辰器 ( 時計 )・表皮鎖條 ( ? )・釧環 ( 腕輪 ) 類・磁針羅盤 ( 羅針盤 ) を製造し輸出し、国内産業の発展に寄与する。

博覧会に出品。

日清・日露役に貢献。

緑綬章受章。

商業会議所議員。

中風を患い没する。63歳没。

正面「清亮院釈浄?義薫居士/誓覚院釈浄善義照居士 / ( 略 ) / ( 略 ) 」。左側「善導院釈浄信居士 / ( 略 ) / ( 略 ) 」。

渙斎:「誓覚院釈浄善義照居士」。塩谷青山撰文・書の碑がある。

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西田春耕 ( にしだ - しゅんこう )     
弘化 2年 ~ 明治 43年 9月 10日 ( 1845 - 1910 )

日本画家。

名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。

東京入船出身。

号、西圃のち春耕・腐翁。

父、幕閣久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚 ( 末っ子 )。

魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。

福田半香 ( ふくだ - はんこう : 1804 - 1864 ) の塾幹部となる。

半香没後、北越 ( 柏崎 ) に赴き藍沢南城 ( あいざわ - なんじょう : 1792 - 1860 ) に漢学を学び、2年後江戸に帰り独立。

南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。

作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。

俳句集「句集『空尊集」。66歳没。

正面「春耕西田先生墓」。

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武内 徹(たけうち とおる、慶応3年5月4日1867年6月6日[1] - 昭和4年(1929年11月25日[1])は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将福井市長

経歴
越前国足羽郡木田村(現在の福井県福井市)出身。陸軍士官学校を卒業後、1887年明治20年)に工兵少尉に任官し、日清戦争には工兵大尉として出征した。1896年(明治29年)、陸軍大学校を卒業し、参謀本部に勤務するとともに陸軍大学校教官を兼務した。1899年(明治32年)に工兵少佐に昇進し、翌年には軍事研究のためオーストリア=ハンガリー帝国に派遣された。帰国後は参謀本部員となり、工兵中佐に昇進した。日露戦争時には線区司令官、大本営幕僚、野戦鉄道提理を歴任し、工兵大佐に昇進した。戦後は第一師団司令部付、参謀本部付、陸軍大学校教官、陸軍省軍務局工兵課長、参謀本部第三部長などを歴任し、1912年(明治45年)に陸軍少将に就任した。1916年(大正5年)に陸軍中将に昇進し、1918年(大正7年)にはシベリア出兵に派遣された。シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付、野戦交通部長、連合国軍事輸送部長を歴任した。その後、参謀本部付に任命され、1920年(大正9年)に予備役となった[2]


1921年
(大正10年)に福井市長に選出され、5年間在職した。

栄典
位階
1920年(大正9年)5月10日 - 正四位[3]

勲章等
1915年(大正4年)11月7日 - 旭日重光章大正三四年従軍記章[4]

1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章功二級金鵄勲章大正三年乃至九年戦役従軍記章[5]

脚注
1. a b 『稿本 福井市史(上)』pp.474-475
2. 『内外福井県人士録 第1巻』pp.12-15
3. 『官報』第2330号「叙任及辞令」1920年5月11日。
4. 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
5. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。

参考文献
福井黎明雑誌社編『内外福井県人士録 第1巻』福井黎明雑誌社、1922年。

・『稿本 福井市史(上)』福井市、1941年。
(wikiより)

2058  武内徹

武内 徹

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椎塚修房 ( しいづか - しゅうぼう )     
明治 9年 ~ 明治 43年 5月 28日 ( 1876 - 1910 )

洋画家。

父、椎塚猪野◇ ( 長男 )。

椎塚蕉華の夫。33歳没。

「椎塚家之墓」。修房:「静照院清山修房居士」。

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椎塚蕉華 ( しいづか - しょうか )    
明治 14年 ~ 昭和 9年 4月 21日 ( 1884 - 1934 )

日本画家。

本姓、岸田。名、ハル ( 春子 )。

東京神田出身。

明治 40年 ( 1907 ) 椎塚修房と結婚するも明治 43年 ( 1910 ) に死別。

はじめ村田丹陵に、のち、歌川派の浮世絵師水野年方に師事。

得意は麓人画。

日本美術協会展・文部省美術展覧会に出品。

山脇高等女子学校図画教師。51歳没。

「椎塚家之墓」。蕉華:「淑善院育誉蕉華大姉」。

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丹羽雄九郎 ( にわ - ゆうくろう )     
? ~ 明治 39年 9月 21日 ( ? - 1906 )

明治期の貿易商。

三重津海軍学校教官を経て佐賀藩鍋島家に仕える。

明治 3年 ( 1870 ) 藩所有の軍艦「日進丸 ( のち日進艦 ) 」朝廷献艦 ( 海軍に編入 ) 時に乗組員として上京。

明治 4年 ( 1871 ) 佐賀藩海軍官員としてアメリカの蒸気船チャイナ号で留学のため渡米。

同行者は、名古屋藩の 5名・大蔵省運上所出仕佐藤百太郎・華頂宮附安藤直太郎 ( 鹿児島藩 )・彦根藩遊学生相馬信一郎・神奈川山内一太郎。

退役後は、神田司町で貿易商「アサヒ屋」を創業。

のち「日本商会」に改名 ( ? )。東京商工会議所会員 ( 当時の会頭は渋沢栄一 )。

 明治 9年 ( 1876 ) 末、丹羽雄九郎と橘成彦の両貿易商が、直輸出発展のための財政資金融資を政府宛に上申。

これが認められ両名がアメリカ向輸出のために国債寮から荷為替資金を借入れ、商品をニューヨークの委託販売人である佐藤百太郎に送り、この販売代金をニューョーク領事館に納付する方法が創設されたが、これは政府貸下金に依存した荷為替取組の初例となった。

翌年には準備金取扱規則が改正され、この方式が制度化された。

のちには民間の横浜正金銀行が荷為替金融を行うこととなった。

正面「丹羽家之墓」。「アサヒ屋」時代の商標の石標が誌と共にある。

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斉藤十一郎 ( さいとう - じゅういちろう )    
慶応 3年 8月 10日 ~ 大正 9年 6月 11日 ( 1867 - 1920 )

    
大審院検事・関西大学学長。

山形県天童出身。

明治 24年 ( 1891 ) 東京帝国大学独法科を卒業し司法省に勤務。

明治 26年 ( 1893 ) 検事となる。

その後、判事として東京・横浜地方裁判所、東京控訴院などを歴任。

明治 32年 ( 1899 ) ドイツ、オーストリアに赴き法律を調査し翌年帰国。

明治 35年 ( 1902 ) 司法省参事官兼大審院検事となる。

その後、公証人制度を創設し委員も務める。

この間に法学博士の学位を受ける。

大正 2年 ( 1913 ) 大阪控訴院部長、同年 5月関西大学学長に就任、大正 6年 ( 1917 ) 12月まで勤めた。

従三位勲三等旭日重光章。52歳没。

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羽山光和 ( はやま - みつかず )    
天保 7年 ~ 明治 16年 7月 16日 ( 1836 - 1883 )

    
会津藩士・根室県大書記官。

本名、堀和光。

旧名、堀悌助。

父、堀光則。

青森県羽山氏の養子。

福島県出身。

戊辰時は 33歳、石高 11石 2人、御用所御用部屋。

戊辰後、斗南に入り、少属庶務掛に任じられている。

明治 9年 ( 1876 ) 開拓権大主典官制改革により一等開拓使。

明治 13年 ( 1880 ) 准奏任御用掛として根室に移り 15年間滞在。

根室県少書記官、のち大書記官となる。

その後東京へ戻り肺病にて病没。48歳没。従六位。

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三好長経 ( みよし - ながつね )
? ~ 明治 25年 3月 20日 ( ? - 1892 )


同家は、戦国武将・三好長慶 ( 1522 - 1564 ) の末裔で、先祖は清和源氏武田氏流小笠原氏。


長経は、長慶を初代として 13代目。


長経は、岩倉公爵家の家令を勤めた。


次の 14代長祥 ( ながよし ) は十五銀行勤務。

明治以降のみで、江戸期の墓所は京都。

向って右側より「長経 ( 明治 25年 3月 20日 )」、「長経室佐多子 ( 大正 2年 2月 16日 )」、「長祥 ( 明治 14年 11月 20日? )」、「長祥室寿子 ( 大正 11年 7月 10日 )」、「比 ( 明治 3年 12月 19日 )」。

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大畑春国 ( おおはた - はるくに/おおはた - しゅんこく )    
文政元年 3月 15日 ~ 明治 8年 12月 17日 ( 1818 - 1875 )

    
紀州の医師で国学者・浅草神社祠官。

号、金斎。

医家・歌人の大畑円治の孫。

紀伊日高郡志賀村出身。

国学者で新道家大国隆正 ( おおくに - たかまさ : 1793 - 1871 ) の門人。

初め野々口隆正に医学を学ぶが、後浅草神社祠官となる。

神道霊学者でありながら亀卜の研究家。

明治元年 ( 1868 ) 大学小助教宣教権少博士。

明治 3年 ( 1970 ) 大崎昌庸らと権少宣教使・宣教中講義生。

明治 5年 ( 1872 ) 浅草神社祠官となる。58歳没。

著書:「瑞兎奇談 ( ずいときだん ) 」・「亀卜雑記」。

妻文子 ( 1823 - 1875 )。

子に浅草神社祠官大畑弘国がいる。

 亀卜とは、亀の甲を焼き、そのひび割れの入り方で吉凶を占う卜占術。

正面「大畑春国夫妻之墓」。大畑弘国の建之。

墓誌は、金井之恭書・廣群鶴◇刻。墓と碑が甲 5号 14側にあったものを移設し、碑を墓とした形跡がある。

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山田成章 ( やまだ - なりあき / せいしょう )     
? ~ 明治 31年 11月 16日 ( ? - 1898 )

洋画家。

大阪出身。

はじめ医学校に勤務。

明治 4年 ( 1871 ) 大学少写字生準席から文部省権少録、同編輯寮出仕、文部省御御用掛。

傍ら、横山松三郎が上野池之端通天樓の離れ茶室風の建物で開いた「洋画塾」で洋画を学ぶ。

同じ時期に高橋由一も日本橋浜町一丁目に画学場を新築して、開いた「天階画塾」でも学んだとされる。

明治 16年 ( 1883 ) 東京大学御用掛。

明治 19年 ( 1886 ) 非職。

のち、開成v中学・独協中学図画教師。

第 1回内国勧業博覧会に「松浦佐用姫別れを惜しむ図」および「仁徳天皇高き屋に登り御詠の図」を出品。

第 2回内国勧業博覧会に「聖帝脱衣寒氏を想う」を出品。

門下に平瀬作五郎 ( ひらせ - さくごろう : 1856 - 1925 ) ・吉野寿吉らがいる。

著書:図画教科書「画学法範」。

正面「山田成章之墓」。「霞岳院釈成章居士」。

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高浜虚子の句


昭和 7年の秋


八雲旧居を訪れた高浜虚子は、この句を詠みました。


『 くわれすもす

   
        八雲旧居の


              秋の蚊に 』
(案内板より)

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四辻公賀 ( よつつじ - きんよし )    
天保 11年 7月 19日 ~ 明治 13年 12月 19日 ( 1840 - 1880 )

越後府知事・宮内権大丞。

父、権大納言四辻公績 ( 二男 )。母、正二位権大納言広橋胤定の娘広橋麗仙 ( 1812 - 1882 )。

典侍四辻清子の弟。

兄、四辻公建の死により嫡子となる。

嘉永 5年 ( 1852 ) 12月従五位下。

嘉永 6年 ( 1853 ) 元服し昇殿を許される。

文久元年 ( 1861 ) 1月侍従。

文久 2年 ( 1862 ) 右少将。

慶応元年 ( 1865 ) 12月参議。

明治維新の際、右宰相中将。

明治元年 ( 1868 ) 7月越後府知事。

同年 9月 3等陸軍将、従三位。

明治 2年 ( 1869 ) 1月辞退。

同年 7月平松時厚・梅渓通善らと宮内権大丞。

明治 3年 ( 1870 ) 雅楽助。

明治 4年 ( 1871 ) 8月式部寮 7等兼大掌典。

明治 6年 ( 1873 ) 6月大伶人。

明治 7年 ( 1874 ) 大伶人兼務。

明治 10年 ( 1877 ) 4等伶人。

正三位。室は、正親町実徳の二女順子。41歳没。

四辻家は、鎌倉時代西園寺公経の四男、四辻実藤によって創立され、四辻とする。

四辻公賀の養子室町公康によって家名を四辻から室町に改める。

明治 17年室町公康に対して、伯爵位を授けられた。

室町家 ( むろまちけ ) は、羽林家の家格を有する公家。

藤原北家閑院家流。西園寺家の一門。

家業は和琴、筝。

四辻公賀室の正親町順子 ( おおぎまち - よりこ? ) 墓および母で四辻公績室墓「廣橋麗仙墓」に並ぶ。

正面「正三位四辻公賀卿墓」。

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中村莞爾 ( なかむら - かんじ )     
天保 2年 8月 10日 ~ 明治 28年 9月 21日 ( 1831 - 1895 )

陸軍1等獣医。

父、中村幽軒。

群馬県出身。

茶人宗偏流 8世家元山田宗有 ( 山田寅次郎 )( 1866 - 1957 ) の父。

明治 13年 ( 1880 ) ころ馬医試補。

病馬厩付兼近衛騎兵中隊馬医官。

明治 15年 ( 1882 ) 馬医補、病馬院病馬厩付。

明治 19年 ( 1886 ) 2等獣医。

明治 21年 ( 1888 ) ころ騎馬第 1大隊獣医官。

日清戦争に従軍。

明治 28年 ( 1895 ) 凱旋後予備役。

従六位勲五等。広島で病没。65歳。

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