本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2020/09

酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老酒井了明の長男。幼名虎之進元服して吉弥。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃吉之丞を襲名した。了恒(あざな)は伯通である。戊辰戦争において庄内藩二番大隊・大隊長。明治維新後、大泉県参事。


戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。


弟には、庄内柿の生みの親として有名な酒井調良と、書家の黒崎研堂がいる。

戊辰戦争における戦歴
詳細は「秋田戦争」を参照


戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩は会津藩仙台藩米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった。庄内軍は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていたが、久保田藩新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒であった。


数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩は最新兵器と巧みな戦術で反撃した。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したという。


新庄攻略後、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、角間川の戦いで大勝を挙げると、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍した。


久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩・仙台藩が降伏し、庄内藩領内にも敵が出没するという情勢を受け、庄内藩の部隊は一斉に撤退を開始した。これを知った新政府軍は秋田方面の兵力を増強し追撃に回ったが、了恒の見事な采配により一進一退の攻防を繰り返しながら退却を進め、庄内藩兵はほとんど犠牲者を出さずに撤退を完了させた。

略歴
1842年12月13日 - 庄内藩の家老酒井了明の長男として生れる。


1857年 - 軍師・秋保政右衛門に長沼流兵学を学ぶ。


1863年 - 庄内藩が江戸市中取締を命ぜられ番頭となる。


1868年 - 戊辰戦争で庄内藩第二大隊・大隊長として、新庄・秋田方面に出陣し官軍から鬼玄蕃と呼ばれ恐れられる。


1871年 - 大泉県参事となる。政府に仕官し兵部省七等出仕。


1874年 - 政府の密命で清国を偵察する。帰国後「直隷経略論」を刊行し、開拓使の黒田清隆に提出した。


1876年2月5日 - 肺病を患い、死去する。享年34。東京の谷中霊園に葬られている。

逸話
・了恒は剣術に秀で、兵学を講ずる一方で、漢詩を詠み、書を嗜み、雅楽に通じ、笛の名手であったという。転戦先においても「戊辰役二十絶」を詠むなど、その多才ぶりを発揮している。


・鬼玄蕃と恐れられた了恒だが、実際の性格は温和で慈悲深かったといわれる。味方の若い兵を気遣うだけでなく、占領地の孤児や窮民を救済したり、乱暴狼藉や窃盗を厳しく戒め、敵兵の死骸も手厚く埋葬したという。そのため敵方の武士にさえその遺芳が語り継がれ、百姓からは「庄内様庄内様」と慕われたという。


・肺を病む身でありながら、陣中では常に兵らと同じものを食べ、寝る時も軍装をゆるめず決してわらじを脱がなかった。雨が降ればまず部下を先に屋内に入れ、斥候を出せばその帰投復命するまで夜通しでも眠らなかった。玄蕃のこうした大将ぶりを見た兵たちは感激し、玄蕃を隊長に戴いたことを無上の誇りとしたという。


・新庄を攻略した際、玄蕃のもとに十二歳の少年が捕虜となって引き立てられたという。玄蕃はその少年をあわれみ、天を仰いで「涙闌干」と泣き、自らいましめを解いて路銀を与え、ねんごろにさとして親兄弟のもとに走りなさいと放免した。そして少年の波乱の運命を嘆き一詩を賦したという。その少年は、後の首相小磯国昭の叔父であり、国昭の伝記にも記されている。


・久保田藩領において刈和野の地(現在の秋田県大仙市内)を占領した際、玄蕃は風邪をこじらせて倒れてしまった。玄蕃が病床に伏している間、松山・仙台藩兵が刈和野を守っていたが隙をつかれて敵方に奪回されてしまった。そこで玄蕃は翌日輿に乗って指揮をとり、これに鼓舞された二番大隊は刈和野を再び奪回したという。


・後の首相となり、日露戦争を勝利に導いた宰相となる長州藩士桂太郎が、この戦いに新政府軍の隊長として参加している。敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事していたため、桂自身はかすり傷1つ負わなかったといわれるが、数で勝るはずの新庄での戦いに敗れ、久保田藩領内でも庄内藩に負け続け、延々と逃げ回ることになり、庄内藩が降伏した時には、桂の部下約200名の半数近くが死傷していたという。


・薩摩藩参謀であった大山格之助が、明治維新後に東京で了恒に会った際、「あの鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは……」と驚嘆したという。


・政府の密命により清国を偵察した後、地理、気候風土、言語、食糧事情、歴史的な背景や影響など様々な観点から日本が中国大陸において戦争を行うことに問題が生じることを指摘している。その指摘の多くが後の戦争において的中することになるという。

親族一族
・祖父:酒井了安

・伯父:酒井右京 - 庄内藩家老

・父:酒井了明 - 庄内藩家老

・弟:酒井調良 - 大泉県参事

・妹:白井久井 - 婦人運動家

・弟:黒崎研堂 - 書家

・甥:酒井駒太郎 - 園芸家

・大甥:酒井駿次 - 園芸家

・甥:黒崎幸吉 - 聖書学者


出典・参考文献
・「庄内人名辞典」(庄内人名辞典刊行会)

・「図説・幕末志士199」(学研)

・「秋田・庄内戊辰戦争」(郡義武著・新人物往来社)

・「酒井玄蕃の明治」(坂本守正著・荘内人物史研究会)
(wikiより)


2208  酒井吉之丞

酒井吉之丞

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志賀天民 ( しが - てんみん )    
文政 5年 ~ 明治 9年 9年 4月 5日 ( 1822 - 1876 )・・・1824説あり

    
宇和島藩医師。

愛知県北宇和島郡出身。

父、布俊悟 ( 長男 )。

諱、英達。号、高養楼。旧名、布清恭。

天保 4年 ( 1833 ) 京都・大坂・長崎で医学を修業。

弘化 4年 ( 1847 ) 宇和島で開業。

嘉永 2年 ( 1849 ) 竜光院下の川中島に移る。

嘉永 4年 ( 1851 - 1853 ) 再度長崎にて修業。

安政 2年 (1855 ) 宇和島で種痘を施す。

安政 3年 ( 1856 ) 長崎に赴き藩の支援を得て中風治療の医療用新式電気機械を購入し蘭医ハンデブリュッツらに電気での治療法とその効用を学ぶ。

この治療が前藩主伊達宗城に認められ、万延元年 ( 1860 ) 藩の御目見得医師となり、文久 2年 ( 1862 ) 典医となる。

布清恭を名乗り、さらに天民と改名した。

慶応 3年 ( 1867 ) 姓を志賀と改めた。

維新後、藩主に従い東京に出て軍医寮に出仕。

明治 4年 ( 1871 ) 栃木県医に出向。のち、長野県上田病院長となる。

病気となり退職し東京に帰った。

2基並ぶ向かって右側の五輪塔墓。正面「志賀家先祖各霊神」。

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長谷川 泰(はせがわ たい/やすし、天保13年6月8日1842年7月15日[1] - 明治45年(1912年3月11日)は、幕末期の越後長岡藩軍医、「済生学舎」(日本医科大学の前身、本記事内で詳述)創立者、内務省衛生局長、衆議院議員従三位勲三等。幼名は多一、は子寧、通称は復庵。に蘇山・蘇門道人・柳塘・八十八峰外史・信水漁夫など。綽名は「ドクトル・ベランメー」[2]

経歴
越後国古志郡福井村(現・新潟県長岡市福井町)で長岡藩医漢方医・長谷川宗斎(春)の2男1女の長男として生まれる。幼名は太一(多一)、長じて泰一郎、泰と称し、蘇山・蘇門同人・柳塘などの号を用いた。はじめ、良寛と親交のあった鈴木文台が主宰する漢学塾長善館漢学を、鵜殿春風に英学、父宗済の下で漢方医学を弟子たちと共に学ぶ。文久2年(1862年)江戸に出て坪井為春(芳州)に英語、西洋医学を学ぶ。その後、転じて佐倉藩佐藤泰然順天堂に入門して長崎でポンペから外科手術学を修得して帰ってきた佐藤尚中西洋医学を学び、特にフーフェランドの内科書 Enchiridion Medicumの巻末にある「医学必携」に感銘し、「済生救民」思想を体得する。慶応2年(1866年)松本良順幕府西洋医学所外科手術を修め、慶応3年(1867年)に句読師となる。慶応4年(1868年)戊辰戦争の勃発により、北越戦争河井継之助に三人扶持で雇われ長岡藩に藩医として従軍し、河井継之助の最期を看取った。


維新後、順天堂時代の先輩相良知安の弟で同窓でもある友人相良元貞の推薦で、明治2年(1869年大学東校少助教、明治3年(1870年)大助教、明治4年(1871年)ミュルレルホフマンについてドイツ医学を学ぶ。次いで明治5年(1872年)9月14日一大学区医学校の校長に就任するも同年10月8日、先輩相良知安に席を譲り校長心得となる。明治7年(1874年)8月27日長崎医学校校長に就任。征台の役に伴い長崎医学校が廃校となると辞して、学生を東京医学校に転学させた。明治8年(1875年)12月27日東京府知事から済生学舎開業願が許可され、明治9年(1876年)4月本郷元町1丁目66番地に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)を開校する。


一方で長谷川泰は、東京府病院長・東京癲狂院長・避病院院長・脚気病院事務長・警視庁医長など多くの役職を兼任すると同時に、1890年に始まる第1回衆議院議員総選挙から議員を3期、後藤新平の後を受けて内務省衛生局長(1898年3月から1902年10月)、日本薬局方調査会長(1900年4月から1902年7月)等をも務める。


衆議院議員としては、1891年から1892年にかけて「関西にも大学を造るべし。帝国大学一校のみでは競風が失われる。」と予算委員会で提言し、政府は3年後その準備に着手し、1897年に京都帝国大学が設立される。

開会式で総長の木下広次は長谷川泰の功績を讃え、2年後の医学部開設に当って猪子止戈之助病院長は予算不足を長谷川泰に訴え、長谷川泰は文部省に掛け合い、聖護院近くの2万坪を買収させ、医学部および付属病院を造らせている。また、1893年には北里柴三郎のために大日本私立衛生会付属伝染病研究所設立の演説を度々行って実現させたり、下水道法制定(1900年)などに尽力した。


1912年、大腸狭窄症(大腸癌)のため東京市本郷区本郷元町の自宅で死去[3]

長谷川泰の済生学舎廃校宣言
1903年の長谷川泰による突然の済生学舎廃校宣言の理由は、従来文部省が済生学舎を私立大学として許可しない、今後官立府県立医学校が新設されるので医学専門学校として継続して行く必要はもはやないという長谷川泰の判断と、済生学舎の建物・環境が粗末であったので医学専門学校として認められないからであると一般的には考えられている。しかし、実際は以下に述べるように山県有朋の私怨により泰が廃校宣言を決意せざるを得なかった経緯が存在している。


医薬分業問題と衛生局長の辞任
1901年「薬律改正問題(医薬分業論)」が起り、長谷川泰は医師数が約3万2千人、薬剤師数が2千5百人と絶対数が足りないので医薬分業は時期尚早である事を理由に反対すると、日本薬局方調査会の丹波敬三青山胤通入沢達吉等の委員が総辞職し、長谷川泰は時の総務長官山県有朋に責任を取らされ衛生局長職の辞表を提出させられ、衛生局長就任時の貴族院議員勅選の誓約も入沢達吉の叔父池田謙斎に奪われて精神的失望感を味わう。しかも誓約の立会人芳川顕正逓信相は山県の側近であった。


山県は、北越戊辰戦争時新政府が組織する征東軍の北陸道鎮撫総督府(会津征討越後口総督府軍)参謀で、会津への途中長岡藩に2ヵ月半に及ぶ想わぬ抵抗に遭う。その時の長岡藩家老上席軍事総督が河井継之助で、長谷川泰は河井に3人扶持で雇われた軍医であり、特に山県は松下村塾での親友時山直八をこの戦いで失っており、泰に嫌悪感を久しく持っていた。

医師会法案と専門学校令
長谷川泰等は「医師は医師会に加入するに非ざれば、患者を診察することを得ず、診察する者あるときは、其の業務を停止す」という内容を含む「医師会法案」を1898年に国会へ提出した。東京帝国大学医科大学の教授入沢達吉、青山胤通、森鴎外等は、エリート意識より生じた医師差別論からその案を貴族院で廃案にせしめ、更に「明治医会」を組織して「日本の医学を良くするためには医術開業試験を廃し、粗末な私立医学校を廃校にして官立の医学校を充実させるべきである」と決議(「医学教育統一論」)し、文部省と秘密裡に協議の上1903年3月26日、今後私立医学校が存続する為には文部大臣の「認可」が必要であること、官立並みの実験設備及び建物の完備を求め、「期限は翌年の3月31日までに手続きを取らなければ廃校と看做す。調査により一点でも欠点があり、不認可の命令を受けたるものは、その命令を受けた日に於いて廃校と看做す」という済生学舎を標的とした「専門学校令」(勅令第61号)を発布せしめる。その背景には、天皇の侍医であり、長州閥の山県有朋の主治医であった初代東京帝国大学綜理池田謙斎がおり、山県との50通にわたる書簡から特別な関係であった事と池田は入沢達吉の叔父にあたり、東京帝国大学赤門派閥教授入沢達吉等による藩閥政治的権力による政治活動を可能にした実力者山県有朋との橋渡し的役割を果していたことがあげられている。


済生学舎廃校宣言から済生学舎同窓医学講習会
長谷川泰は専門学校令に対応すべく本郷真砂町の黴毒医院跡地に2千余坪の校舎を新築する改革案を持っていたが、1年以内では実現不可能であり、苦悩の末、済生学舎廃校の決心を固め、1903年8月30日、『東京日日新聞』等に「済生学舎廃校の理由に付広告」を掲載して廃校宣言を行った。


しかし、実際には済生学舎は既に1884年東京医学専門学校として届け出て認められており、1887年には文部省令第五号による文部大臣森有礼の布達で済生学舎が官立府県立学校と同等であることが認められている。また1896年の卒業式において坪井次郎が済生学舎の顕微鏡実験室は設備完全にしてドイツの大学よりも遥かに優れていると指摘している様に、設備・環境とも整っていたのである。そして直ちに勉学の道を失った学生達の中から有志が集り、その10日後に校長は変わったが同じ教師により同じ教科書を用いて旧済生学舎の生徒へ済生学舎同窓医学講習会として授業が行われ、それが「医学研究会」、日本医学校の設立や東京医学校との合併等を経て今日の日本医科大学に至っている。


維新の元勲と云われる人の中で、凡そ山県有朋ほど、幕末の政局を根に持って執着して忘れ得なかった人はいないと云われ、その私怨から逃れられず長谷川泰は済生学舎廃校宣言を行うが、もはや医学校済生学舎は泰一人の個人的な学校ではなくなり、社会的存在であることを泰は認識出来ていなかったと云う事が指摘できる。

済生学舎
明治初期、外国との交流が活発になるにつれ、コレラ赤痢チフス等の急性伝染病が流行し、西洋医の早期育成は、近代国家出発における明治政府の使命であった。政府は、1874年太政官による医制制定、翌年2月に医術開業試験規則を制定発布し、これから新たに医術の開業を行おうとするものは正規の医学校を卒業した者を除いて医術開業試験を受験して開業免状を受けることとした。当時の日本には漢方医が2万人余りいたが伝染病には対応できず、西洋医は絶対的に不足していた。長谷川は政府の方針を受けて1876年(明治9年)4月7日に日本最古の医術開業試験予備校・済生学舎を本郷元町1丁目66番地に創設し、開業医速成を実践して明治期の国民医療を支えて行く。


済生学舎は、フーフェランドの「医戒」にある言葉「済生救民」(特に貧しい人々を病から救済すること)を実践しようとした師佐藤尚中の精神)を長谷川が受け継いで開校したもので、その教育は、ドイツの19世紀の「自由教育―学ぶ者の自由、教える者の自由」を導入し、「済生救民」の思想を建学の精神とした。長谷川泰の演説は情熱的で学生達に学問に対する使命感を充分に与えた。「済生救民」とは貧しくして、その上病気で苦しんでいる人々を救うのが医師の最も大切な道であるという意味で、長谷川泰は「患者に対し済恤(さいじゅつ)の心を持って診察して下さい」と書き残しており、自ら「貧しい人々を無料で入院させてほしい」という願書を年に120通以上東京府知事宛に書き送り、その思想を実践している。


済生学舎が開校した当初は、教員5名、医学生28名であった。医学生は寄宿生と通学生に分かれ、医術開業試験のための講義の外に、英語・ドイツ語・ラテン語と数学の講義も行われ、入学には学歴を必要とせず、いつでも入学できた。講義期間は原則6期制3年とし、医術開業試験に合格すれば直ちに卒業とされた。1882年1月には、学生数の増加に伴い校舎が手狭になり湯島4丁目8番地に移転した。後期試験に実地試験が加わり、付属蘇門病院を設立して対応した。1883年には学生数も484名と増加し、済生学舎は順調な発展を遂げ、1884年3月済生学舎は「東京医学専門学校 済生学舎」として届け出て認められており、同12月に初めて女子医学生の入学を許可し、高橋瑞子はその第1号となり、17年余りの間に130余名が女医となった。また、1896年5月30日済生学舎臨床講堂にてレントゲン博士がX線発見後7ヶ月にして、丸茂文良が日本初のX線実験・臨床講義を行うなど実践的で最先端の充実した教育を実施している。


著名な卒業生としては、野口英世(1897年卒)、吉岡弥生(1890年から1892年迄在学)、浅川範彦(1883年卒)、須藤憲三(1893年卒)、小口忠太(1891年卒。小口病の発見者で名古屋医科大学学長も務めた)などがいる、医学教育機関として28年間に渡り延べ9,000名以上の医師、医学者を輩出している。


特に野口英世は、経済的理由から済生学舎への入学は遅かったが、血脇守之助の援助で1897年(明治30年)4月1日から10月まで約半年間済生学舎に在籍して最短期間で卒業している。野口は済生学舎では細菌学を坪井次郎(後の京都帝国大学医科大学学長)に学び、順天堂時代には菅野徹三(済生学舎卒業生)から論文の書き方や図書館の利用法等を指導され、伝染病研究所時代には浅川範彦(済生学舎卒業生)からジフテリア血清の検査法・組織培養法等を習っている。


機関誌として全国の卒業生に学内の臨床講義や済生学舎内の情報伝達を目的とした医学雑誌「済生学舎医事新報」が山田良叔を主幹として1893年に創刊され、128号(1903年)まで刊行された。

詳しいことは「長谷川 泰ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B3%B0
(wikiより)

2206  長谷川泰

長谷川 泰

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島田俊彦 ( しまだ - としひこ )     
明治 41年? ~ 昭和 50年 12月 8日 ( 1908? - 1975 )

軍事史家・武蔵大学教授。

父、島田穆堂。

昭和 6年 3月旧制浦和高等学校文化丙類卒業。

昭和 9年 3月東京帝国大学文学部国史学科卒業。

昭和 11年 3月東京帝国大学大学院退学。

昭和 12年 ( 1937 - 1942 ) 1月旧制聖心女子学院高等専門学校教授。

昭和 17年 6月軍令部嘱託、戦史編纂事務。

昭和 18年 12月海軍編修。

昭和 20年 10月終戦のため依願免官。

昭和 22年 1月財団法人文化復興調査会嘱託。

昭和 25年 4月武蔵高等学校講師。

昭和 26年同校教諭。

昭和 28年 4月武蔵大学講師兼任。

昭和 32年 4月武蔵大学教授。

昭和 41年 ( 1966 - 1967 ) 10月東京外国語大学講師。

昭和 44年 4月武蔵大学人文学部教授。

昭和 46年 4月東海大学文学部史学科講師。67歳没。

論文・著作:「昭和 7年上海停戦協定成立の経緯」、「上海停戦協定侵犯問題」、「太平洋戦争への道」、「張作霖爆殺事件」、「関東軍 在満陸軍の独走」、「満州事変と日中戦争」、「昭和の激流」ほか多数。

「智徳院静照俊因居士」。

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島田穆堂 ( しまだ - もくどう ) / 島田鈞一 ( しまだ - きんいち )     
慶応 2年 7月 15日 ~ 昭和 12年 12月 13日 ( 1866 - 1937 )

漢学者・教育家。

名、鈞一。字、彦和。号、穆堂。

父、島田篁村 ( 長男 )。母は、大野右仲の妹。

新潟県出身。

幼くして漢学を学び、

のち儒者藤沢南岳 ( 通天閣の命名者 ) の門人となる。

帝国大学卒業。第一高等学校教授。東京文理科大学教授。東方文化学院東京研究所研究員。

中国哲学者服部宇之吉 ( はっとり - うのきち : 1867 - 1939 ) ・漢学者安井小太郎 ( やすい - こたろう : 1858 - 1938 ) らと親交あり。

妻は漢学者川田甕江 ( かわた - おうこう : 1830 - 1896 ) の娘。72歳没。

著書:「春秋左氏伝新講」、「論語全解」など

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岩橋 教章(いわはし のりあき、天保6年2月5日1835年3月3日) - 明治16年(1883年2月4日[1])は、幕末・明治の地図制作者、洋画家版画家

経歴
伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木下新八郎の子としてに生まれる。のちに岩橋家に入ったともされるが、諸説がある。幼名は新吾、のち教章。正智とも称したとされるが、これは戒名「正智院明達教章居士」から取られた誤伝である[2]嘉永年間に江戸に出て、狩野洞庭(教信)に狩野派を学び、洞翠と号した。また、漢学や蘭学鳥羽藩侍医・安藤文沢に学んだという。文久元年(1861年軍艦操練所絵図認方として出役し、各地の測量および地図製作に従事している。更に、島霞谷から写真を学んだという。


慶応
4年(1868年)旧幕府軍に加わり開陽丸江戸を脱出、砲手頭として箱館戦争に従軍した。明治2年(1869年)2月五稜郭が開城になると謹慎を命じられたが、翌年4月禁錮御免となり、5月には静岡学校付属絵図方に任じられる。ところが同月、明治政府から兵部省出府を命じられ、海軍操練所(のちの海軍兵学校)に十三等の製図掛として出仕した[3]。静岡では師の洞庭と再開し、後にその子重次を海軍兵学校に推薦し[4]、洞庭を東京に迎えたという。なお、海軍兵学校の職員名簿には狩野姓が複数見られ、橋本雅邦も教章の推薦で海軍兵学校に出仕したとも言われる[5]


明治6年(1873年ウィーン万国博覧会の際には博覧会御用として、4月1日に横浜から出国、5月23日ウィーンに到着する。初め石版画を学び、次いで維納府地図学校に入学し地図製作や銅版画を習得しており、修行中のスケッチが神戸市立博物館に所蔵されている。明治7年(1874年)に帰国した。その後は大蔵省紙幣寮や内務省地理寮に勤務して身につけた技術を活かすとともに、伝習生に指導をした。明治11年(1878年)には『測絵図譜』出版に功績があった。一方、麹町区永田町の自宅に銅版彫刻の会社・文会舎(社)を興して、門弟も指導している。この頃油彩画も手がけていたらしく、「いろは順 明治八年出版皇國名誉君方獨案内」の最初に「油繪 岩橋教章 永田町」と紹介されているが、教章の油彩画は関東大震災で失われてしまったとされ発見されていない。他にも『洋画見聞録』『石版伝習録』を執筆し、近藤真琴が校閲にあたっている。明治14年(1881年)の第2回内国勧業博覧会では、三区二類の審査員を務めた[6]。地理寮奉職中、胃がんのため死去。墓所は谷中霊園。長男の岩橋章山も地図局雇となり銅版画制作も引き継いでおり、晩年には父・教章に関する文章を残している。他の弟子に堀健吉など。


現存する作品は極めて少ない。地図を書籍を除くと版画作品は1点も現存しておらず、ウィーン帰国後の絵画作品も下記の「鴨の静物」のみしか確認されていない[7]

作品
・「箱館戦争図会」 (2冊全64図、函館市立中央図書館[8]

・「鴨の静物」(1875年7月以前、水彩・紙、三重県立美術館蔵、款記「いわはし/のりあき」)

著書
・『正智遺稿』私家版、台北刊、1911年(函館戦争日記、澳国渡航日記他)。

・『洋画見聞録』(『日本近代思想大系17 美術』 岩波書店、1989年、所収)

・『石版伝習録』(攻玉社蔵)

脚注
1. 谷中霊園の墓籍台帳や、『公文録』収録の「故岩橋教章祭粢料下賜伺書」の記載より。生年については天保3年(1832年)とする説もあるがこちらのほうが正しいと考えられる。
2. 井野(2004)p.48
3. 海軍兵学校編 『海軍兵学校沿革』 1919年。原書房より1968年復刊。
4. 海軍兵学校の明治4年職員名簿に製図掛・兵学少属といして「狩野辰信(静岡)、重之」とあり、これが重次のことか(井野(2004)p.62)。
5. 矢田挿雲『江戸から東京へ』 再建社、1953年。
6. 「第二階内国勧業博覧会審査評語 下」『明治美術基礎資料集 内国勧業博覧会絵画共進会(第一・二回)編』 東京国立文化財研究所、1975年
7. ただし、牧野研一郎「岩橋教章の周辺」(『びる・うぃんど』第17号、三重県立美術館、1986年)では、教章作の可能性がある油彩画として「柳楢悦像」を挙げている。
8. 霜村紀子 「「箱館戦争図会」を描いた岩橋教章について」『函館昔話』13号、函館パルス企画、2001年。

外部リンク
『幕末・明治の写真師』総覧

参考文献
田中芳男平山成信編『澳国博覧会参同記要』森山春雍、1897年明治30年)、第30章「墺国博覧会後岩橋教章事歴

東京国立近代美術館ほか編集 『写実の系譜1 洋風表現の導入 ー江戸中期から明治初期までー』 東京国立近代美術館、1985-86年、p.233

吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年

論文
・楠善雄 「岩橋教章の生涯と業績─近代における地図図式の先駆者─」『測量』第17巻第10号、1969年(楠善雄『土木屋さんの史学散歩』 (楠善雄刊行記念会、1976年)に再録)

・三輪英夫 「岩橋教章 鴨図」『美術研究』321号、1982年

・塚原晃 「近代美術と地図~川上冬崖と岩橋教章」『神戸市立博物館研究紀要』第17号、2001年

・井野功一 「岩橋教章、章山」『茨城県近代美術館研究紀要 11』2004年3月、pp.47-71
(wikiより)

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岡野 敬次郎(おかの けいじろう、1865年11月9日慶応元年9月21日) - 1925年大正14年)12月23日)は、日本の官僚、政治家、法学者。男爵法制局長官(第11代、第13代、第15代)司法大臣(第25代)、農商務大臣(第33代)、文部大臣(第41代)、枢密院副議長(第9代)、東京帝国大学法学部教授、中央大学学長を務めた。

来歴
上野国生まれ。共立学校第一高等中学校等を経て、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学)を卒業した後、同大学大学院に進学。法学博士となり、教授に就任する。同時に政府に入り、農商務省官房長、内閣恩給局長、高等捕獲審検所評定官を歴任。1906年、第1次西園寺内閣で法制局長官に就任。1908年4月21日、宮中顧問官を兼任[1]。同年12月28日に貴族院勅選議員となる[2]。1911年、第2次西園寺内閣で再び内閣法制局長官に就任。1913年、第1次山本内閣で三度内閣法制局長官に就任。同年6月9日、宮中顧問官を辞任[3]

1922年、加藤友三郎内閣で司法大臣に就任し初入閣。1923年、第2次山本内閣で文部大臣兼農商務大臣として二度目の入閣を果たした。1925年10月に枢密院副議長に就任し、男爵を授けられたがその年の暮れに没した。

著述
・『法学士 岡野敬次郎講義 英国保険法』。東京専門学校1896年)、NDLJP:792795

・『法学士 岡野敬次郎講義 会社法』。中央大学1906年)、NDLJP:792817

・『故 法学士 岡野敬次郎著 会社法』。岡野奨学会1929年)、NDLJP:1442407

・文部大臣・法学博士岡野敬次郎『国際教育の必要』。国際連盟協会1923年)『我国の震災に対する諸外国の同情と震災に関する諸名士の所感』、NDLJP:976936/6

親族
岡野昇 - 弟[4]。鉄道次官、(旧)西武鉄道社長。

栄典
位階
1891年(明治24年)7月6日 - 従七位[5]

1896年(明治29年)1月20日 - 正七位[5]

1898年(明治31年)

  ・3月7日 - 従六位[5][6]

  ・4月30日 - 正五位[5][7]

1906年(明治39年)1月31日 - 従四位[5][8]

1911年(明治44年)2月10日 - 正四位[5][9]

1914年(大正3年)4月20日 - 従三位[5][10]

1919年(大正8年)5月10日 - 正三位[5][11]

1925年(大正14年)12月23日 - 従二位[5][12]

勲章
1898年(明治31年)6月29日 - 勲四等旭日小綬章金杯一組[5]

1903年(明治36年)5月21日 - 金杯一組[5][13]

1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[5][14]

1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[5]

1907年(明治40年)2月21日 - 勲二等旭日重光章[5]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[5]

1913年(大正2年)12月27日 - 勲一等瑞宝章[5]

1914年(大正3年)3月24日 - 旭日大綬章[5][15]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[5][16]

1916年(大正5年)1月19日 - 金杯一個[5]

1919年(大正8年)

  ・2月11日 - 金杯一個[5]

  ・9月29日 - 金杯一組[5]

1920年(大正9年)11月15日 - 金杯一個[5]

1924年(大正13年)5月31日 - 金杯一組[5][17]

1925年(大正14年)

  ・12月18日 - 男爵[5][18]

  ・12月23日 - 旭日桐花大綬章[5][12]帝都復興記念章[5][19]

脚注
1. 『官報』第7443号、明治41年4月22日。
2. 『官報』第7654号、明治41年12月29日。
3. 『官報』第258号、大正2年6月10日。
4. 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
5. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 岡野敬次郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051175900 
6. 『官報』第4401号「叙任及辞令」1898年3月8日。
7. 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
8. 『官報』第6774号「叙任及辞令」1906年2月1日。
9. 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
10. 『官報』第516号「叙任及辞令」1914年4月21日。
11. 『官報』第2029号「叙任及辞令」1919年5月12日。
12. a b 『官報』第4001号、1925年12月24日。
13. 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
14. 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
15. 『官報』第498号「叙任及辞令」1914年3月30日。
16. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
17. 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
18. 『官報』第3998号「叙任及辞令」1925年12月21日。
19. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。※岡崎敬次郎と誤記
(wikiより)

2204  岡野敬次郎

岡野敬次郎

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小野 義眞(おの ぎしん / よしざね[1]1839年5月29日天保10年旧暦4月8日) - 1905年明治38年)5月9日)は、明治時代の実業家。通称は強一郎[2]従五位。従兄弟に岩村通俊岩村高俊林有造[3]

略歴
1839年(天保10年)4月8日、土佐藩宿毛(現高知県宿毛市)の大庄屋の家に生まれた。


1866年(慶応2年)宿毛領仕置役小頭として、大阪と宿毛の間を帆船「宿毛丸」で行き来するようになった[2]

1867年(慶応3年)12月27日、陸援隊大江卓に金を調達し、高野山へ送付するよう依頼を受けた[2]


1870年(明治3年)設立された後藤象二郎の商社・蓬莱社の組合員となった[2]

1871年(明治4年)2月頃には、小野梓の欧米留学を支援した[2]


1871年(明治4年)4月14日、工部省へ出仕した。その4日後の4月18日、工部権大丞山尾庸三から大隈重信宛の手紙で小野を庶務専務とすることが提案された。同年10月7日、工部省土木寮土木助、10月8日に土木寮が営繕寮と合併して大蔵省へ移管したことから、大蔵少丞に任ぜられた。1872年(明治5年)11月26日には、同省営繕土木寮頭に昇進した[2]


大蔵少丞をへて土木頭となり、大阪港の築港や淀川の改修に関わった[3]

1873年(明治6年)10月14日にはジョージ・アーノルド・エッセルと淀川改修の契約書を交わした[2]


1874年
(明治7年)1月9日、営繕土木寮が内務省へ移管する際、退官した[2]。退官後の2月15日から2月21日にかけて、エッセル、ヨハニス・デ・レーケらと京都お大堰川の洪水対策のため出張している[2]


その後、三菱財閥の顧問となって、岩崎弥太郎を補佐した[4]重大事案では必ず岩崎は小野の意見を聞いたうえで決断したという[2][3]


1877年(明治10年)、西南戦争が起きた際には、汽船の購入を岩崎弥太郎に進言、東京から九州の戦場まで武器弾薬や食糧の輸送を一手に引き受けさせて、財を築かせた[3]


1879年
(明治12年)、渋沢栄一が中心に東京海上保険が設立された際、岩崎が筆頭株主になる交渉を担った[2]


1881年(明治14年)2月6日、日本鉄道の設立計画に際して、岩崎から個人的代表として送り込まれた[2]岩倉具視より日本鉄道会社設立主任に抜擢されて、政府や資本家相手に奔走し、資本金1,000万円(現在の数千億円)の会社設立に成功した[3]。同年12月6日に18名の理事委員が選ばれたが、小野は選ばれなかった[2]


1884年
(明治17年)2月22日、日本鉄道の理事委員に選出され、同年10月24日にも理事委員に選出された[2]

1885年(明治18年)8月9日、検査委員(監査役のこと)に選出された。


1887年(明治20年)8月16日副社長に選出され、10月29日に就任した。

1890年(明治22年)10月29日の臨時株主総会でも副社長に再任された[2]


1891年(明治24年)、三菱社社長の岩崎弥之助鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり3名の頭文字から「小岩井」農場と名付けられた[5][6]。小野は農場の開設に尽力しただけで、経営には参加しなかった[2]


1892年(明治25年)3月14日、奈良原繁日本鉄道社長が宮中顧問官就任のため辞任、3月16日後任社長に選出された[7]

1894年(明治27年)社長に再任された[2]

1898年(明治31年)4月6日、労働組合運動が盛んになった最中開催された臨時株主総会を病気のため欠席、毛利重輔が後任社長に選ばれた[2]


1905年(明治38年)5月9日胃ガンのため死去[8]。67歳[2]

人物
巨万の富を築きながら、非常に質素倹約家であった[3]

脚注
1. 『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年、122頁
2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 井上琢智 (2009年12月15日). “小野義真と日本鉄道株式会社 (PDF)”. 関西学院大学. 2013年5月4日閲覧。
3. a b c d e f 小野義真”. 宿毛歴史館. 2013年5月4日閲覧。
4. 小岩井農場の歴史”. 小岩井農場. 2013年5月4日閲覧。
5. 小岩井乳業の歴史”. 小岩井乳業. 2013年5月4日閲覧。
6. 探訪 三菱ゆかりの地-岩手県・雫石町 小岩井農場”. 三菱広報委員会 (2011年8月). 2013年5月4日閲覧。
7. 『日本鉄道史. 上編』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
8. 明治38年5月10日日本新聞『新聞集成明治編年史. 第12卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

外部リンク・
小岩井農場
(wikiより)

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石碑が建立された明治二十六年 ( 1893 ) は、二世歌川国政 ( 四世歌川豊国 ) の十三回忌にあたり、これが石碑建立のきっかけと考えられる。


石碑の表には、自称するところの「二世豊国」と「三世豊国」の肖像と、豊斎国貞が詠んだ追善の和歌「幹はみな 老を忘れて 梅の花 楳堂」 ( 楳堂は梅堂国政、つまり豊斎国貞が国貞を継ぐ前の名前 ) が刻まれている。

また石碑の右下には、石碑建立の主幹事であり、肖像の下絵を描いた豊斎国貞 ( 三世歌川国貞 ) と豊原国周、石碑を篆刻した田鶴年の名前がみえる。

石碑の裏には、石碑建立に関わった人物の名前が刻まれている。

歌舞伎役者から錦絵問屋、そして弟子をはじめとする絵師たちと生前から交流のあった人の名前が並んでいる。


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島村 三七雄(しまむら みなお、1904年明治37年)7月9日[1][2] - 1978年昭和53年)10月25日[1][2])とは、日本洋画家[1][2][4]大阪府大阪市北区出身[1]

来歴
1904年(明治37年)7月9日、大阪府大阪市北区に生まれる[1][2][4]


1924年(大正13年)3月、大阪府立天王寺中学校卒業[1]。同年4月、東京美術学校西洋画科入学[1][8]。在学中の1928年(昭和3年)10月、帝展に「読書」が初入選[1]。翌1929年(昭和4年)、東京美術学校西洋画科を卒業[3][4][注釈 2]


同年渡仏[4]、フランスで「午後」がサロン・ドートンヌ入選[4]。翌1930年(昭和5年)パリ国立美術学校リュシアン・シモン教室に入学するも2年後の1932年(昭和7年)に中退する[1][4]。その後ポール・ランソンのアカデミー・ランソンでフレスコ画法を学び[4]、1933年(昭和8年)からサロン・デザルティスト・フランセに毎年出品を開始、翌1934年(昭和9年)出品の「ユゲット・トノン孃肖像」はマンション・オノラブル賞を受賞している[4]。帰国直前の1936年(昭和11年)までに「幼児の思い出」(1933年)「日本大使館付武官澄田中佐像」(1935年)など出品は続けられ、その後も入選を続けた[1][4]。同年帰国[4]。在仏中は学資を得るために壁画制作助手を勤めた[1][4]


1940年(昭和15年)5月、第4回日本壁画会展に「英霊に捧ぐ」「工業の日本」の2点を出品し日本壁画会会員となる[1][4]。同年独立美術協会の第10回独立展で「村婢」「支那楽」「駅」の3点を出品、独立賞[注釈 3]を受賞し会友に選出[1][2][4]。1946年(昭和21年)独立美術協会会員[2][4]。1956年(昭和31年)新樹会会員[4]


1957年(昭和32年)、母校東京美術学校の後進である東京芸術大学にて講師となり壁画フレスコ画法を指導する[1][2][4]。1964年(昭和39年)、中間冊夫山下大五郎原精一らと欅会を結成[9]


1966年(昭和41年)、第34回独立展出品作「巽橋」が昭和41年度第23回日本芸術院賞受賞[10]。同年東京芸術大学助教授を経て翌1967年(昭和42年)同校教授[1][4]、1971年(昭和46年)退官まで教職を続けた[4]


1978年(昭和53年)10月25日、食道がんにより東京都板橋区の日大付属板橋病院で死去[1]享年74[1][2]。没後、勲四等旭日小綬章受章[1]

著作
島村三七雄『人物デッサン鶴書房、1967年6月。

・島村三七雄、竹内晟『油絵入門』鶴書房、1968年。全国書誌番号:68011582

・島村三七雄『島村三七雄"若き日のパリ"展』日動出版部、1974年。ASIN B000J93694

脚注
注釈
1. 東京芸術大学美術学部油画科[3]
2. 卒業生同期に橋本八百二倉員辰雄斎藤二男などがいた[3]
3. 別資料によれば「協会賞」[2][4]

出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「島村三七雄」(2015年12月14日)、2016年10月6日閲覧。
2. a b c d e f g h i j デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “島村三七雄 しまむら みなお”. コトバンク. 2016年10月6日閲覧。
3. a b c 斎藤 二男 略歴”. 盛岡市 (2016年8月21日). 2016年10月6日閲覧。
4. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 20世紀日本人名事典. “島村 三七雄 シマムラ ミナオ”. コトバンク. 2016年10月6日閲覧。
5. 物故会員名簿”. 独立美術協会. 2016年10月6日閲覧。
6. 「黙示録 - 絹谷幸二」 展”. 丹青社. 2016年10月6日閲覧。
7. “特集連載『私の履歴書 ⑨』=洋画家 絹谷 幸二(きぬたに・こうじ)=”. 日経新聞: p. 44. (2015年11月10日) 
8. 第44回放談会 (PDF)”. NPO法人あーと・わの会. p. 2 (2016年1月11日). 2016年10月6日閲覧。
9. 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「山下大五郎」(2015年12月14日)、2016年10月6日閲覧。
10. 
作品詳細”. 日本芸術院. 2016年10月6日閲覧。

外部リンク
島村三七雄 - 東京文化財研究所
(wikiより)

 正面「島村家之墓」。ふさの:「智明院妙徳日證大姉」。三七雄:「天晴院顕真日雄居士」。フランス語で書かれた碑がある。

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佐久間裕三 ( さくま - ゆうぞう )     
大正 12年 2月 20日 ~ 平成 16年 3月 15日 ( 1923 - 2004 )

大日本図書会長。

東京出身。

東京大学医学部中退。

昭和 28年 ( 1953 ) 学習院大学法学部正治科卒業。

大日本図書に入社。

昭和 34年 ( 1959 ) 取締役総務部長。

昭和 36年 ( 1961 ) 常務取締役。

昭和39年 ( 1964 ) 専務取締役。

昭和 45年 ( 1970 ) 社長。

平成 5年 ( 1993 ) 会長。

この間、教科書協会長・国語審議会委員・中央社社長などを歴任。印刷図書館開設に参画。

昭和 60年 ( 1985 ) 藍綬褒章受章。

平成 5年 ( 1993 ) 勲三等瑞宝章受章。81歳没。

正面「佐久間家之墓」。

 佐久間鉄次 ( 陸軍中尉 : 昭和 20年 6月 3日南京戦にて戦死 : 22歳 ) も合祀。

大日本図書・大日本印刷の創業者である佐久間貞一は、当墓に合祀されていない。

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上領定子 ( うえりょう - さだこ )     
明治 30年 ~ 昭和 49年 11月 17日 ( 1897 - 1974 )

「敬愛学園」創立者。

東京出身。

満州にて敬愛幼稚園を経営。

引き上げ後、昭和 44年 ( 1969 ) 八王子に社会福祉法人「敬愛学園」を創立。

初代理事長。

上領三郎の妻。78歳没。

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上領三郎 ( うえりょう - さぶろう )     
明治 22年 ~ 昭和 20年 12月 24日 ( 1889 - 1945 )

教育哲学者・「敬愛小学校」創立者。

父、上領頼方 ( 長男 )。
 
上領家 19代当主。

東京出身。

満州の間島省立民衆教育館長。

妻・定子と共に、「すべてのものを愛しむ」との敬愛の教育理念を掲げ、高円寺に「敬愛小学校」を創立。

しかし、私財力尽き、昭和 12年 ( 1973 ) 3月に閉校となった。

しかし、のちに上領頼正らにより、「敬愛学園」として復興させた。57歳没。

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上領頼正 ( うえりょう - よりまさ )     
大正 6年? ~ 平成 8年 12月 28日 ( 1917? - 1996 )

敬愛学園第二代理事長。

父、上領三郎 ( 三男) 。

上領家 20代当主。

昭和 14年 ( 1939 ) 満州国延吉において、「教育こそ人民を幸福にする! 民衆のために教育を!」この使命と信念の基に「敬愛学舎」を設立。79歳没。

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房州 ( 千葉県 ) 舘山十代城主・里見安房守忠義公は、慶長十九年倉吉に転封されて当院門前に居住された。


元和八年二十九歳にして関金町堀の地において逝去され、近臣八人が殉死を遂げた。


遺言により、当院において葬送し殉死八臣の遺骨を埋め、御位牌とともにお祀りしている。


この時当院で授けた忠義公の法名を「雲晴院殿心叟賢涼大居士」といい、殉死した八人の法名もすべて「賢」の字を付けたところから、彼らは「八賢士」と呼ばれていた。


のちにこれが、滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』のモデルになったのではないかといわれている。


尚、この墓所には忠義公の祖父・正木大膳と里見家家老・堀江能登守も、ともに埋葬されている。
(案内板より)

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西山真平 ( にしやま - しんぺい )     
? ~ 大正 3年 12月 25日 ( ? - 1914)

日光町長。

明治11年 ( 1878 ) 3月元老院 3等書記生として刑法草案審査局御用掛。

明治 24年 ( 1891 ) ころ貴族院書記官。

明治 43年 ( 1910 ) 9月 30日旧日光市 ( 日光町 ) の 8代町長となる。

細道 = 日光間の牛車軌道を電車軌道にするために尽力。

明治 45年 ( 1912 ) に国立公園化を請願、日光町を代表し、西山真平が署名。

西山真平没後も数回にわたり、請願書が出され国立公園となる。正五位勲五等。

 刑法草案審査局:総裁は伊藤博文、委員に細川潤次郎、津田出、村田保、鶴田晧、井上毅らがいる。正面「正五位勲五等西山真平 / 室 萬通子 墓」。「斎荘院殿寒山得真大居士」。

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衣笠豪谷 ( きぬがさ - ごうこく )    
嘉永 3年 7月 ~ 明治 30年 4月 26日 ( 1850 - 1897 )

日本画家。

本姓、大橋縉侯。

字、薫明・紳卿。号、豪谷・天桂山人・豪渓・白楽村農。母の姓衣笠を名乗る。

岡山県倉敷出身。

11歳で詩画を石川晃山に学ぶ。

のち、本城梅屋に書を、森田節斎・坂谷朗谷に学問を習う。

慶応 2年 ( 1866 ) 江戸に出て講武所で操銃を習いながら、市川万庵に書を、大沼枕山に詩を、佐竹永海・松山延州に画を学ぶ。

また京都で中西耕石に師事。

明治 7年 ( 1874 - 1876 ) 清国に遊学し、南南宗画・六書を研究、養鶏法にも興味を持ちその勉強に熱中する。

帰国して勧農局・内務省・農商務省に勤務する傍ら、「清国式孵卵図解」を著わし新しい孵卵法の普及につとめた。

また、耐火煉瓦の研究・水蜜桃の栽培など清国の産業をわが国に移植することにも尽力。

明治 25年 ( 1892 ) 退職してから南画をよく描いた。また、山が好きで、山に登り写生し粉本にした。

明治 17年 ( 1884 ) 創設された「東洋絵画会」の学術委員。

明治 30年 ( 1897 ) 川村雨石・高橋砕巖・菅原白龍らと「日本南画協会」を創立。48歳没。

作品:「豪谷の真景」。

著書:「清国式孵卵図解」、「読課余録」、「清国地誌」、「狩猟図説」、「本邦墨林今話」、「西泛帰録」、「欽定授時通考」、「農時有功伝」など多数。

子爵品川彌二郎篆額の墓碑。正面「豪谷衣笠君碑」。

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近藤真鋤 ( こんどう - しんすけ )    
天保 11年 4月 1日 ~ 明治 25年 11月 1日 ( 1840 - 1892 )

    
朝鮮国京城駐代理公使。

姓、藤原。号、内軒。

父、近江大津の医家近藤誠介。

近江大津出身。

17歳で膳所藩の黒田某に師事し蘭学を学び、美濃大垣の江馬春齢に師事し医学を修める。

家業の医師を継ぐにおよび京都に移る。

姉小路公知・沢宣嘉ら 2卿の知遇を受け侍医として常に機密に参画した。

明治 3年 ( 1870 ) 伊東祐保・斉藤実俊らと外務権大録。

明治 5年 ( 1872 - 1876 ) ロンドン勤務。

明治 10年 ( 1877 ) 外務権少書記官・管理官として朝鮮釜山に赴任。

明治 13年 ( 1880 ) 初代釜山浦領事。

明治 15年 ( 1882 ) 京城在勤書記官・判事補・仁川領事。同年 7月大院君の扇動による兵変が起こり、公使館が暴徒の襲撃を受けたが、館員と協力し大被害を免れた。

明治 16年 ( 1883 ) 帰朝し権大書記官。

明治 17年 ( 1884 ) 参議井上馨特派全権大使に随行して朝鮮に赴任となり、陸軍中将高島鞆之助・海軍少将樺山資紀・1等警視安立利綱・外務権大書記官斉藤修一郎・外務省御用掛吉川重吉らと「金剛」艦に便乗す。

帰国後、記録局長となるが明治 18年 ( 1885 ) 外務書記官を兼ね再び京城に勤務。

明治 19年 ( 1886 ) 臨時代理公使・奏任 1等中。

明治 21年 ( 1888 ) 朝鮮国王に謁見。正五位勲三等瑞宝章。53歳没。

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島村ふさの ( しまむら - ふさの )    
明治 38年 2月 11日 ~ 昭和 52年 9月 23日 ( 1905 - 1977 )

服飾デザイナー。

東京出身。

大正 13年 ( 1924 ) 東京女子専門学校卒業。

滋賀県立愛知高等女学校教諭。

昭和 4年 ( 1929 ) 島村三七雄と結婚。

退職後、パリで婦人服のデザイン・仕立て技術を習得。

裁縫師組合・警視庁認可の「上一級裁縫師」の資格を取る。

昭和 9年 ( 1934 ) パリに婦人服店を出す。

昭和 11年 ( 1936 ) 帰国し三越本店に入社し、チーフデザイナーとなる。

昭和 41年 ( 1966 ) 退職。

六本木に婦人服店を開業。

昭和 49年 ( 1974 ) 日本デザイナークラブを設立し理事長。

デパート専属の服飾デザイナーの先駆者となった。72歳没。

正面「島村家之墓」。ふさの:「智明院妙徳日證大姉」。フランス語で書かれた碑がある。

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大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日慶応4年1月3日〉 - 1934年昭和9年〉3月9日)は、日本農芸科学者土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した研究者。

略歴
信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校東京農林学校を経て1894年帝国大学農科大学農芸化学科を卒業後、農商務省農事試験場技師、東京帝国大学講師、特許局技師、九州帝国大学教授、朝鮮総督府勧業模範農場技師を経て、九州帝国大学第3代総長に着任する。さらに1929年同志社第9代総長に就任した。


1934年3月9日、盲腸炎により死去。


エジプト
ローマにおいて彫刻のモデルとして使われる、死者の顔を形に止めた大工原のデスマスクが現存する。

信仰
1890年に番町教会で小崎弘道から受洗[1]。同志社総長就任により同志社教会に転会した[2]日本基督教連盟基督教教育同盟会京都基督教青年会の役員を歴任した[1]

著書
・『肥料ト土壌』 神奈川県内務部、1916年

栄典
勲二等瑞宝章 - 1934年〈昭和9年〉3月9日[3]

脚注
1. a b 『日本キリスト教歴史大事典』 811頁
2. 『同志社山脈』 22-23頁
3. 『同志社九十年小史』 115頁

参考文献
・『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年 ISBN 4-7642-4005-X

・同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年

・同志社山脈編集委員会 『同志社山脈』 晃洋書房、2002年 ISBN 4771014086

外部リンク
大工原銀太郎先生余話 - 肥料科学研究所

大工原銀太郎博士のデスマスク 九州大学へ移管 - 「散策と思索」(2005年、農業環境技術研究所)
(wikiより)

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大工原銀太郎

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内田 豊 ( うちだ - ゆたか )    
明治 43年 3月 5日 ~ 平成 12年 11月 5日 ( 1910 - 2000 )

実業家・青森大学教授。

茨城県出身。

昭和 8年 ( 1933 ) 東京商科大学卒。

沖電気工業に入社。

計画課長・営業部次長兼官庁課長・営業第一部長を歴任。

昭和 34年 ( 1959 ) 参事。同年取締役。

昭和 41年 ( 1966 ) 常務。

昭和 48年 ( 1973 ) 相談役。

昭和 50年 ( 1975 ) 顧問。

東北沖通信機設備社長・明豊興産社長、のち会長。青森大学教授を務める。

正面「内田累世之墓」。「泰嶺院仙翁豊隆大居士」。

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萩原西畴 ( はぎはら - せいちゅう )    
文政 12年 ~ 明治 31年 2月 19日 ( 1829 - 1898 )

漢学者。

名、裕。字、公寛・好問。通称、英助。号、西畴。

父、儒者萩原善韶 ( 嵩獄 )。

東京出身。

父を 3歳で亡くし、読書を好まず。14歳の時勉学に目覚める。

はじめ叔父の萩原緑郎 ( 楽亭 ) に学ぶ ( 祖父、大麓・片山兼山説あり )。

26歳で儒業を修め新井白石の「読史餘論」を校訂し刊行、名声を上げる。

米艦来航もあり、林洞海・杉田成卿に師事し洋学を学ぶ。

明治初期に伊予今治藩に招かれ 3年間藩政に参加。

廃藩置県後東京に帰り、明治 5年 ( 1872 ) 陸軍省に出仕。のち、修史局勤務。

明治 14年 ( 1729 ) 再び太政官に入り。

宮内省にて「台湾琉球始末」、「善隣始末」など外交史の編纂にあたる。

修史局廃止後は、退官し私塾を開く。

晩年に学習院・高等師範学校講師。

正七位。70歳没。

著書:上記のほか「顕承述略」、「宣戦詔勅釈史」、「鹿鳴園叢書」、「東坡外伝」、「献承述略」、「女訓」、「諸子大意」、「四子左氏伝講義録」、「古本大学講義録」、「虚子註解」、「詩文集遺稿」など。

正面「萩原家之墓」。「西畴院」。太田謹書。

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草鹿 浅之介(くさか あさのすけ、1900年10月25日 - 1993年8月11日)は、日本の裁判官検察官最高裁判所判事石川県出身。長兄は海軍軍人の草鹿龍之介[1]

概要
1925年(大正14年)に京都帝国大学法科を卒業[1]


1927年
(昭和2年)12月に判事となり、東京地裁甲府地裁に勤務[1]1939年(昭和14年)5月に司法省から上海に派遣され、興亜院調査官、阿部信行特命全権大使随員、汪兆銘政権日華基本条約締結の法律顧問を務めた[1]


この後、東京で裁判官生活を送り、1946年(昭和21年)7月に函館地検検事正を務める[1]。その後、千葉地検検事正、最高検検事、法務府刑政長官、最高検公安部長、札幌高検検事長、福岡高検検事長、大阪高検検事長を歴任[1]。大阪高検検事長時代には岸本義広の選挙違反事件を指揮した[1]


1962年
(昭和37年)8月に最高裁判所裁判官に就任[1]1970年(昭和45年)7月31日に仁保事件の裁判長として死刑判決を破棄して広島高裁にやり直しを命ずる破棄差戻し判決を言い渡した[2]。この判決について草鹿は「別件逮捕等の法律問題に触れなかったのは、それよりもまず被告が犯人であるかどうかという最も重要な問題に取り組んだからだ。最高裁が証拠調べをするかどうかについて、16年前の事件であるため、当時以上の証拠を集めうることは難しいと判断してやらなかった。差し戻した広島高裁での証拠が十分でなかったら無罪にせざるをえないと思う」と話した[2]


1970年(昭和45年)10月に定年退官[3]。その後は弁護士を登録し、三島事件の弁護人やロッキード事件田中角栄被告弁護団の最高顧問を務めた[3]

脚注
1. a b c d e f g h 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)106頁
2. a b 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)107頁
3. a b 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)108頁
(wikiより)

正面「?応院殿天性◇◇居士/瑞応院殿天室妙綱大姉」。本人の法名は「自源院汲道清泉居士」。

◇は判読不可

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宮尾 矯 ( みやお - たかし )    
天保 7年 ~ 明治 6年 6月 21日 ( 1836 - 1873 )

紙幣少屬。

長野県出身。

明治元年 ( 1868 ) 貨幣局属史。

明治 3年 ( 1870 ) 大蔵省掌、出納少令史。

明治 4年 ( 1871 ) 紙幣少属・会計官出納属史および掌貨幣事。

明治 6年 ( 1873 ) 新貨幣が造られたおり、西日本各県を巡行し、旧貨幣を交換したが、福岡県において県民の疑いの風評にさらされ義心被害に遭い、煽乱に怒り自決死する。38歳没。

正面「紙幣少屬宮尾君碑」。 島田重礼撰文・伊藤桂洲書による碑がある。

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佐久間長吉郎 ( さくま - ちょうきちろう )    
明治 26年? ~ 昭和 59年 7月 8日 ( 1893? - 1984 )

大日本印刷株式会社社長・大日本図書社長・東京ロータリークラブ会長。

旧制第一高等学校卒業。91歳没。

著書:「追憶 ( 佐久間鉄次遺稿と追憶集 )」。

正面「佐久間家之墓」。

 佐久間鉄次 ( 陸軍中尉:昭和 20年 6月 3日南京戦にて戦死: 22歳 ) も合祀。

大日本図書・大日本印刷の創業者である佐久間貞一は、当墓に合祀されていない。

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猪谷善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日-1980年1月16日[1])は、日本の経済学者。


富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて27年助教授、37年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した[2]


妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。中谷多恵子の名で『進み行く娘達へ』の著書もある[3]

著書
・『経済学説の相対性』同文館 1927

・『朝鮮経済史』大鐙閣 経済生活研究 1928

・『日本資本主義 其歴史・機構・改造』日本評論社 1928

・『明治維新経済史』改造社 1928

・『アジヤ経済の展望』千倉書房 1931

・『世界経済学要論』森山書店 1932

・『亜米利加社会経済史』章華社 各国社会経済史叢書 1935

・『商業経済講話』三省堂 1935

・『日満支経済論』言海書房 1935

・『日本経済及経済政策』一元社 1937

・『戦時貿易・為替・物価論』一元社 1938

・『日本貿易論 最近日本貿易の伸展に関する実証的研究』科学主義工業社 1938

・『世界経済の再編成』一元社 1940

・『戦時経済と国策会社』大阪商工会議所 1940

・『南方経済論』一元社 1940

・『経済新体制確立の方嚮』大阪商工会議所 1941

・『戦時経済の再出発』一元社 1941

・『商工経済会の本質と使命』経済図書 1943

・『アメリカ経済史』桃山書林 1948

・『日本経済史』税務経理協会 1965

・『西洋経済史』税務経理協会 1966

・『金融論』文化書房博文社 1968

・『世界貿易の現段階』文化書房博文社 1968

・『経済史概論』文化書房博文社 1970

・『国際貿易の理論と政策』文化書房博文社 1970

・『経済随想』文化書房博文社 1975

編纂
・『近世社会経済学説大系 第7 新井白石集』誠文堂新光社 1936

論文
<猪谷善一

脚注
1. 『著作権台帳』
2. "" 大島真理夫「1930年代の猪谷善一」
3. 『猪谷妙子傳』猪谷善一、1943
(wikiより)

「経学院釈不断善法居士」。

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柳田直平 ( やなぎだ - なおひら )     
嘉永 2年 ~ 昭和 7年 12月 7日 ( 1849 - 1932 )

大審院判事。

信州飯田出身。

父、飯田藩槍術師安藤辰武 ( 二男 )。

柳田家に養子となる。

司法官を経て明治 27年 ( 1894 - 1904 ) 大審院判事。

明治 34年 ( 1901 ) 5月民俗学者柳田国男を養子とする。

明治 37年 ( 1904 ) 4月四女孝 ( 17歳 ) と国男を結婚させる。

実弟に陸軍大将安東貞美、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。

妻、琴子。長女は、矢田部良吉の後妻順 ( 1869 - 1959 )。

正四位勲三等。84歳没。

正面「柳田直平 / 柳田琴子 墓」。「誠光院法誉感月直道居士」。

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辻本満丸 ( つじもと - みつまる )    
明治 10年 12月 ~ 昭和 15年 4月 24日 ( 1877 - 1940 )

    
応用化学者・スクワレン発見者。

東京出身。

東京帝国大学応用科学科卒業。

明治 34年 ( 1901 ) 工業試験所入所のち技師、大正 4年 ( 1915 ) 第二部長。

イギリスでの発見より 1年も早くスクワレンを発見。

鮫肝油中の炭化水素の研究で大正 7年 ( 1918 ) 日本化学学会桜井褒章受賞。

大正 9年 ( 1920 ) 油脂の研究で学士院恩賜賞受賞。

 スクワレン : 鮫の中でも、水深 300m ~ 1000mに棲息し、体重の 25%という非常に大きな肝臓を持つ深海鮫の肝油に多く含まれている。

スクワレンは水を水素と酸素に分解して水素を自ら取り込み、一方の酸素を体内細胞に送り込む性質を持っていて、その酸素は細胞内でエネルギーを生み出し、新陳代謝を促す。「靜安院覚誉満盈居士」。

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神山 譲 ( かみやま - ゆずる )     
天保 7年 ~ 明治 25年 1月 24日 ( 1836 - 1892 )

控訴院評定官。

熊本県士族。

明治 7年 ( 1874 ) ころ司法大解部。

明治 8年 ( 1874 ) 1級判事補。

明治 10年 ( 1877 ) 大坂上等裁判所判事。

明治 15年 ( 1882 ) 松江始審裁判所判事長。

明治 21年 ( 1888 ) ころ函館控訴院評定官。57歳没。

正面「神山 譲 / 配 南寿 之墓」。

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日高 秩父(ひだか ちちぶ、嘉永5年12月5日1854年1月3日) - 1920年大正9年)4月19日)は、明治から大正期の内大臣秘書官[1][2][3]東宮御学問所御用掛書家正五位勲三等は梅渓。槑谿とも書く。

生涯
下野国栃木県)出身。長三洲に書を学ぶ。蘭学者・箕作阮甫の孫娘と結婚し箕作家と姻戚関係で結ばれた[4]文部省の委嘱で『尋常小学書キ方手本』(明治36年)等の国語書キ方の国定教科書揮毫した。この国定教科書は師の長三洲の書風を受け継いでおり、顔真卿の楷書の書風、いわゆる顔法で書かれた。没後の国定教科書の揮毫は弟子の山口半峰が引き継いだ。 石碑の書も手がけており、現在全国に30基ほどを確認できる[5]

栄典・授章・授賞
1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[6]

外国勲章佩用允許
1884年(明治17年)12月26日 - スウェーデン=ノルウェー連合王国:金製記章[7]

家族・親族
・妻・リキ - 呉黄石・せき夫妻の娘[4]、大槻ヤス・呉文聰・呉クミの妹[1][3][4][8]、呉秀三の姉[2][4]

・義父・呉黄石 - 広島藩医、旧姓・山田[4]

・義母・せき - 箕作阮甫の長女[4]

・義姉・ヤス - 伊予吉田藩医の大月魯庵に嫁ぐ[4]

・義兄・呉文聰 - 統計学者[1][3][4][8]

・義姉・クミ - 相原浩明に嫁ぐ[4]。相原と離婚後明治女学校校長を務める[4]

・義弟・呉秀三 - 精神医学者[2][4]

・長男・程一 - 夭折[1][2][3][8]

・次男・得二 - 貿易業に携わる[1][2][3][4][8]

・長女・愛子 - 北島常晴に嫁ぐ[1][2][3][4][8]

・次女・喜美子 - 大島予吉に嫁ぐ[3][4][8]

・三女・勲子 - 大束健夫に嫁ぐ[2][3][4][8]

・三男・光三 - 田中家の養子となる[1][2][3][4][8]

・四男・第四郎 - 元文部事務次官[1][2][3][4][8]

・四女・昭子 - 夭折[1][2][3][8]

・五男・第五郎 - 書家[1][2][3][4][8]

・五女・智子 - 夭折[1][2][3]

・義孫・木田宏 - 第四郎の娘婿、文部官僚・教育評論家[9]

脚注・出典
1. a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第3版 く之部―す之部』、ひ7頁。
2. a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第4版』、ひ2頁。
3. a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第5版』、ひ2頁。
4. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」、102頁。
5. 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「日高梅渓石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)
6. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年(明治41年)9月28日
7. 『官報』第453号「賞勲叙任」1885年1月6日。
8. a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第2版』、甲1341頁。
9. 読売新聞1977年昭和52年)12月15日朝刊、19面。

参考文献
・『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年(明治41年)6月18日発行

・『人事興信録 第3版 く之部―す之部』人事興信所、1911年(明治44年)3月25日発行

・『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年(大正4年)1月10日発行

・『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年(大正7年)9月15日発行

・水谷仁「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」『Newton2007年平成19年)4月号、ニュートンプレス、98-103頁。
(wikiより)


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町田 重備(まちだ しげとも、文久元年8月11日[1]1861年9月15日) - 大正11年(1922年2月12日[2])は、日本の逓信官僚錦鶏間祗候

経歴
東京府
に横瀬貞幹の二男として生まれ、町田きくの養子となった[1]1877年明治10年)に陸軍士官学校に入るが病のため退学した[1]1883年(明治16年)、東京外国語学校仏語簡易科(現在の東京外国語大学)を卒業[1]。その後帝国大学書記を務めた後、帝国大学法科大学に入学し、1888年(明治21年)に卒業した[1]枢密院雇、法制局参事官試補、衆議院書記官を経て、1895年(明治28年)に逓信書記官となった[3]。逓信省では京都郵便電信局長、神戸郵便電信局長、大阪郵便局長、逓信省経理局長を歴任した[3]1913年(大正2年)、退官[3]1915年(大正4年)7月9日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]

出典
1. a b c d e 人事興信録 1911.
2. 『官報』第2861号、大正11年2月17日。
3. a b c 町田重備特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113003200 
4. 『官報』第882号、大正4年7月10日。

参考文献
人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。

・「町田重備特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113003200 
(wikiより)

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山岡熊二 ( やまおか - くまじ )     
明治 4年 5月 2日 ~ 昭和 15年 7月 21日 ( 1871 - 1940 )

田口卯吉の義弟。

父、実業家山岡義方 ( 長男 )。

母、恵以子。

東京出身。

義兄田口卯吉を助けて「東京経済雑誌」の編纂に従事。著作も行う。

のち東海銀行を経て横浜正金銀行に入り、本店・漢口・布哇・済南・大連各支店に歴任。

大正 2年より勤めた布哇では、妻春子と共に在留邦人のために尽力する。

母の死去と考えるところあり帰朝。

春子が先逝したため、継妻敏と結婚。子はない。70歳没。

長妹千代は、田口卯吉と結婚するも早世。季妹鶴が後妻となる。

その妹力は、河田烋に嫁ぐ。なお、田口卯吉の異父姉は、木村鐙子。

共編:「新編普通辞典」。

正面「山岡熊二之墓」。側面に略歴あり。

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上領頼方 ( うえりょう - よりかた )     
嘉永 5年 ~ 大正 3年 5月 12日 ( 1852 - 1914 )

有栖川宮熾仁親王の高級副官。

父、上領頼軌 ( 長男 )。

上領家 18代当主。

東京出身。

陸軍歩兵大佐。

著書:「日本国防論」。63歳没。

「正行院敬誉端心頼方居士」。

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上領頼軌 ( うえりょう - よりのり )     
文政 9年 ~ 明治 28年 10月 21日 ( 1826 - 1895 )

長州藩校明倫館漢学教授。

山口藩士。

陸軍歩兵大佐。

上領家 17代当主。

妻上領楳子の遺言により山口県萩に階級年齢を問わない教育の場「敬愛塾」を開設する。

吉田松陰・西郷隆盛らと親交し、「敬愛」の名は、西郷隆盛から贈られたもの。

「敬愛塾」は、東京へ移住する明治 5年 ( 1872 ) まで続いた。70歳没。

 「敬愛」:西郷隆盛は、2度の遠島に遭い、その中で「敬天愛人」を座右の銘とする。

天は全ての人を愛す、自分を愛するのと同じように人を愛せ、ということらしい。

正面「上領家之墓」。頼方墓だけ独立しているが、墓誌は一緒になっている。また、墓誌には、上領家の略歴が書かれている。

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多 忠愛 ( おおの - ただよし )     
文化 8年 5月 25日 ~ 明治 13年 1月 7日 ( 1811 - 1880 )

雅楽家。

京都出身。

代々雅楽をもって朝廷に仕える。

文政 4年 ( 1821 ) 4月正六位下左近衛将曺。

累進し従四位上肥後守となる。

明治 2年 ( 1869 ) 旧宮人の官位が廃止となり、明治 3年 ( 1870 ) 11月中伶人正九位。

明治 8年 ( 1875 ) 4月権中怜人。

同月隠居。67歳没。

正面「多家之墓」。「信正院実誉忠愛居士」。墓碑に略歴あり。

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川勝 広道(かわかつ ひろみち)は、江戸時代後期の旗本。広氏流川勝家の9代当主。洋学者、洋式砲術家でもあった。

生涯
天保元年(1830年)、秀氏流川勝家(本家)の10代当主川勝広業の五男として江戸に生まれた。弘化4年(1847年)3月5日、実兄川勝広時の養子となり[1]、家督(丹波国氷上郡内700石)を継ぎ、広氏流川勝家の9代当主となった。なお、江戸城無血開城に際して若年寄を務めた、本家の12代当主川勝広運の2歳年下にあたる。


文久
3年(1863年)2月23日、書院番講武所砲術教授方出役から歩兵頭並となった。慶応元年(1865年)12月3日、諸大夫となり、慶応2年(1866年)8月27日に外国奉行となった。小栗忠順らが設立に関わった、幕府の横浜仏語伝習所の所長を務めた。慶応3年(1867年)11月、徳川昭武一行[2]の補佐のためフランス出張中であった外国奉行栗本鋤雲大政奉還のことを知らせ、これをフランス外務大臣とフランス駐在の各国使臣に急ぎ伝達させた。慶応4年2月6日(1868年2月28日)、外国事務副総裁[3]に進んで伝習掛、留学生掛を兼ね、同年閏4月5日(5月26日)に開成所総奉行となった。


幕府倒壊の際の(機密)外交文書等を集めた『川勝家文書』は、広道が所蔵していたものである。この史料は日本史籍協会によって昭和5年(1930年)に活字化されている[4]明治維新後、大阪兵学寮の校長を務め、明治7年(1874年)に陸軍中佐兼兵学助に進んだ。新政府は、旧幕臣であっても開明的人材は登用し、挙国的な体制作りに取り組み始めていたことが窺われる。明治21年(1888年)9月4日、59歳で没した。

脚注
1. 天保13年(1842年)12月27日、実兄の広時は広氏流川勝家の8代当主として養子に入っていた。
2. パリ万国博覧会に参列し、欧州各国(スイス、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリア)を歴訪していた。
3. 慶応3年(1867年)、慶応の改革が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各総裁が置かれた。
4. 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年 ISBN 4-13-097657-5

参考文献
・『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年

・小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典(第2巻)』東洋書林、1998年

・武内博編『日本洋学人名事典』柏書房、1994年

・宮崎十三八・安岡昭男編『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年

関連項目
川勝氏

横浜仏語伝習所

・『川勝家文書
(wikiより)

2173  川勝広道

川勝広道

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平沢道次 ( ひらさわ - みちつぐ )     
天保 14年 ~ 大正 11年 1月 22日 ( 1843 - 1922 )

石川島造船所専務取締役。

父、広島県佐藤鼎三 ( 二男 )。

東京本郷出身。のち、平沢家を継ぐ。

備後福山藩士陸軍軍吏。

24歳で藩通商役となり、北海道開拓に従事。

廃藩置県後、大蔵省に出仕。

のち陸軍省に異動し会計軍吏。陸軍 1等監督。

日清戦争時は、臨時支払命令官。

明治 33年 ( 1900 ) 退官。

石川島造船所専務取締役。豊山護法銀行頭取。日韓瓦斯電気会社監査役。

明治 40年 ( 1907 ) 辞職。

正五位勲 3等旭日中綬章。80歳没。

 平野富二の顕彰碑の発起人の一人。

正面「平沢家之墓」。「徳光院真誉顕道居士」。養子の平沢平八郎 ( 1870 - 1890 ) の墓碑も同域にある。

 平沢平八郎 : 明治 3年 ~ 明治 23年 9月 24日。

父、関野清一 ( 三男 )。

明治 8年 ( 1875 ) 平沢道次の養子となる。

東京大学を卒業し法学士となるが、わずか 20歳で没する。

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田村宣明 ( たむら - のりあき )    
大正 9年 9月 14日 ~ 平成 11年 1月 1日 ( 1920 - 1999 )

    
警察官僚。

新潟県出身。

昭和 19年 ( 1944 ) 東京大学政治学科卒。

北海道警察本部警備部長・近畿管区警察局保安部長を経て、昭和 38年 ( 1963 ) 大阪府警刑事部長。

昭和 42年 ( 1967 ) 警察庁刑事局捜査第一課長。

昭和 46年 ( 1971 ) 新潟県県警本部長。

昭和 48年 ( 1973 ) 警察庁刑事局長。

昭和 50年 ( 1975 ) 警察大学校長。

昭和 52年 ( 1977 ) 日本道路公団監事。

昭和 58年 ( 1983 ) 新潟ハイウェイ・サービス社長を歴任した。80歳没。

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飯田隆安 ( いいだ - たかやす )     
文政 9年 7月 ~ 明治 34年 5月 28日 ( 1826 - 1901 )

明治天皇皇女章子内親王の侍医。

漢方医。

号、梅園。

下総国羽鳥村 ( 千葉県 ) 出身。

豊後国岡藩に仕える。

安政 5年 ( 1858 ) 東京本町 2丁目に開業。

清水柳子と結婚。

藩主中川久昭公が維新で国に戻ると従うが、藩主が没すると再び上京し、東京府族に転じる。

漢方が没落する中明治 16年 ( 1883 ) 皇女章子内親王の侍医になる。76歳没。

正面「飯田隆安 / 飯田柳子墓」。

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筒井義信 ( つつい - よしのぶ )     
弘化 3年 ~ 明治 33年 11月 19日 ( 1846 - 1900 )

後備陸軍工兵中佐。

静岡県出身。

明治 5年 ( 1872 ) 粉陽光清・土屋元清らと陸軍大尉。

明治 10年 ( 1877 ) 西南の役で工兵第 6隊長。

明治 13年 ( 1880 ) 少佐となり電信隊副提理。

明治 18年 ( 1887 ) 工兵会議議員兼務。

明治 20年 ( 1887 ) 工兵会議議員。のち工兵第 1方面副提理。

明治 25年 ( 1892 ) 予備役。

明治 29年 ( 1896 ) 後備陸軍工兵中佐。

従五位勲四等旭日小綬章。55歳没。

正面「故陸軍工兵中佐従五位勲四等筒井義信之墓」。「義信院殿釈威徳貞證大居士」。

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佐佐木雪子 ( ささき - ゆきこ )     
明治 7年 ~ 昭和 23年 10月 19日 ( 1874 - 1948 )

歌人。

父、藤島正健 ( 長女 )。

東京出身。

明治女学校卒業。

卒業後、「竹柏会」に入り、博文館の小説雑誌に執筆する。

明治 29年 ( 1896 ) 佐佐木信綱に嫁す。

長男逸人は、母の父藤島正健の養子となる。二男文綱。三男治綱歌人。長女綱子。二女弘子。三女三枝子。四女富士子。五女道子。

墓碑に"刀自"と敬称がついているが、"主婦"という意味もあることから、また、子だくさんであることから、"歌人"と言われるほどの活躍はなかったものと思われる。

正面「佐々木信綱大人/佐々木雪子刀自 墓」とある。

墓碑は、門下の海軍主計中将武井大助の筆。

明治歌壇に活躍した父佐々木弘綱墓 ( 1828 - 1891 ) は隣り。長男藤島逸人墓は、乙8号5側。

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川上萬壽夫 ( かわかみ - ますお )     
昭和 18年 2月 19日 ~ 平成 16年 6月 16日 ( 1943? - 2004 )

富士総合研究所副社長。

兵庫県出身。

昭和 40年 ( 1965 ) 神戸大学経営学部卒業。

同年富士銀行 ( 現みずほ銀行 ) に入る。

ほぼ一貫して富士銀行 ( みずほフィナンシャルグループ ) の情報システムの仕事を手がけ、平成元年 ( 1989 ) 富士銀行でシステム関連の部長を務めた後、グループの関連会社に転出し、富士総合研究所専務取締役を経て副社長となる。61歳没。

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川上市松 ( かわかみ - いちまつ )    
明治 18年 ~ 昭和 50年 12月 17日 ( 1885 - 1975 )

正金銀行ロンドン等支店頭取。

父、畑孫一 ( 二男 )。

岡山県出身。

明治 38年 ( 1905 ) 正金銀行に入行。

上海・天津・北京・漢口・ロンドン支店頭取席請を歴任。

昭和 7年 ( 1932 ) 3月満州国中央銀行設立委員長補佐。

北京・奉天・漢口支配人を経て、昭和 10年 ( 1935 ) 席款課次長。

長男潔。90歳没。「松寿院仙空法光居士」。

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堀 直明(ほり なおあきら)は、江戸時代末期の大名信濃須坂藩の第14代(最後)の藩主。直重堀家14代。

生涯
天保10年(1839年)9月3日、第11代藩主・堀直格の六男として江戸で生まれる。母は側室で、先々代直武や先代直虎は異母兄にあたる。慶応4年(1868年)1月に直虎が江戸城内で自害し、同年5月24日に養子として跡を継いだ。直明は直虎とは180度方針を転換して、戊辰戦争では早々に新政府側に与して宇都宮北越会津に出兵し、信濃の諸藩では突出した数の藩士を送り込んだ。この功績を評価され、新政府から賞典禄として5000石を下賜された。明治2年(1869年)6月の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となる。


明治10年(1877年)2月13日、元来の姓であった奥田姓に復姓する(須坂藩の祖である堀直政は、もと奥田氏であった)。明治17年(1884年)7月8日に子爵となる。明治18年(1885年)9月18日[1]に東京で死去した。享年48。

脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、365-366頁。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
(wikiより) 

2165  堀直明

堀 直明

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堀 直格(ほり なおただ)は、信濃国須坂藩の第11代藩主である。直重堀家11代。


文化3年11月14日(1806年12月23日)、第9代藩主・直皓の三男として生まれる。文政4年(1821年)、長兄で第10代藩主の直興が死去したため養子となって家督を相続する。呉服橋門番、駿府加番を務めた。


弘化
2年(1845年)に家督を長男の直武に譲って隠居した。


明治維新
後は奥田姓に改姓した。明治13年(1880年)8月13日に死去した。享年75。


文人大名として知られ、著作として『扶桑名画伝』などがある。
(wikiより)

2164  堀直格

堀 直格

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西池茂顕 ( にしいけ - しげあき )     
弘化元年 6月 23日 ~ 明治 13年 7月 6日 ( 1844 - 1880 )

陸軍会計 2等副督監。

京都出身。

京都商業会議所書記長西池成義の父。

明治 3年 ( 1870 ) 兵部史生。

明治 4年 ( 1871 ) 陸軍権大録。

明治 7年 ( 1874 ) 会計 2等司契、工兵第 5方面司契課長兼方面会計官。

明治 8年 ( 1875 ) 広島鎮台司契課長。

明治 10年 ( 1877  )西南の役で第 4旅団会計部長。

従六位勲四等。37歳没。

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金末和雄 ( かねすえ - かずお )     
? ~ 平成 13年 1月 14日 ( ? - 2001 )

正三位勲二等。75歳没。 和雄:「寿宝院釈和敬居士」。

 詳細不明

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金末多志雄 ( かねすえ - たしお )     
明治 28年 3月 ~ 昭和 61年 10月 30日 ( 1895 - 1986 )

日弁連事務総長・弁護士。

広島出身。

大正 15年 (1926 ) 日本大学法学部卒業。

昭和 3年 ( 1928 ) 弁護士登録。

昭和 29年 (  1954 ) 度東京弁護士会副会長。

昭和 35年 (1960 - 1961 ) 度日弁連事務総長。

昭和 37年 ( 1962 - 1966 ) 日本調停協会連合会理事長。

昭和 39年藍綬章受章。

昭和 42年勲三等旭日中綬章受章。正五位。91歳没。

多志雄:「永寿院釈志願居士」。

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伊東 祐相(いとう すけとも)は、江戸時代後期から末期(幕末)にかけての大名。日向国飫肥藩の第13代藩主江戸幕府奏者番藩知事

経歴
第11代主・伊東祐民長男として江戸に生まれる。父・祐民は文化9年6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父・祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳で家督を継いだ。


藩政においては殖産興業政策、軍制改革、海防のための砲台建設、養蚕業の奨励や運輸業の改革、飫肥藩教学の確立などに努め、多くの成功を収めた。後にこの教学により郷校・明教堂が建設され、阿万豊蔵落合双石など多くの人材を輩出している。明治期に入ると薩摩藩に従って新政府側に与し、戊辰戦争では二条城甲府城の守備を務めた。


明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となったが、同年7月23日に長男・祐帰に家督を譲って隠居した。

明治7年(1874年)10月21日、63歳で死去した。

主要家臣

天保14年の武鑑や飫肥藩分限帳に見える家臣
『大武鑑』掲載の天保14年(1843年刊行の江戸武鑑に掲載される主要家臣。なお、参考文献では原本の一部しか記載していないので、記載分のみ。また、括弧内の石高などは天保13年(1842年)の『飫肥藩分限帳』で補足。

家老
・河崎権助

・川崎一学

・川崎宮内

・伊東中務(高300石、飫肥城下の馬廻

・河崎縫殿助

中老
・松岡勝四郎

以下は「飫肥藩分限帳」に記載の主な藩士
・高65石 長倉喜太郎(飫肥城下の馬廻)

・高65石 安井仲平(飫肥城下の馬廻)

・高100石 御加増 阿萬豊蔵(清武の馬廻)

関連作品
松竹によって2007年2月、劇化された。演出はラサール石井

・タイトル:「殿のちょんまげを切る女」

・演出:ラサール石井

・劇場:新橋演舞場

・伊東祐相役:中村勘三郎

他の出演:

・伊東祐相の妻 藤山直美

小村寿太郎役 中村七之助

波乃久里子新派

大村崑

・小村寿太郎の恋人 岡本綾

渡辺哲

上演当時の惹句
「黒船が来航する幕末、宮崎の小藩に実在した藩主・伊東祐相を中心に繰り広げる人情喜劇!殿のちょんまげの運命は果たして如何に!?どっと笑って、ほろりと泣いて、新橋演舞場でひと足早い「笑春」をお楽しみ下さい。」


あえて、史実と大幅に異なるストーリーとしている。伊東祐相は明治維新に伴い、武士を辞めて市井の人となっていた。しかし、県の圧政に苦しむ人民を救うため立ち上がり、県民の圧倒的支持を得て自らが知事になる… というものである。

参考文献
・野田敏夫校訂「飫肥藩分限帳」(昭和49年(1974年)12月3日、日向文化談話会)

・橋本傳「編年改訂 大武鑑 中巻」(1965年、名著刊行会)
(wikiより)

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伊東祐相

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伊東久子 ( いとう - ひさこ )     
文久 2年 10月 24日 ~ 明治 43年 5月 24日 ( 1862 - 1910 )

若狭国小浜藩第 12代 14代藩主酒井忠義 ( さかい - ただあき : 1813. 8. 4 - 1873. 12. 5 / 忠禄 ) の 7女。

向国飫肥藩第 14代藩主子爵伊東祐帰 ( いとう - すけより : 1855. 12. 11 - 1894. 4. 25 ) の継継室。

正室 ( 先妻 ) は、伊藤千賀子。継室は、伊藤文子。49歳没。

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