本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2020/10

維新三傑の一人、桂小五郎。

容姿端麗にして神道無念流の達人。

吉田松陰の門下生で理性もあり流血に縁遠く、一生人を斬ったことがないと言われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。


勤皇芸芸妓の第一人者 三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎・二十八才、幾松・十八才、相思相愛の仲となり、激動の時代の中で苦楽を共にし、そして結ばれた。


勤皇の志士と云われる志士たちは最後は大方悲劇に終わっているが、明治十年 ( 1877 ) 五月二十六日に四十五才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、日のあたる道を歩んだ幸運児とも云える。


幾松とても同じで、威信の大業成るや正二位公爵・木戸考允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。

此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることが出来る。
(案内板より)

故内閣顧問贈一位木戸公神道碑の碑

〇 木戸孝允
木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日1833年8月11日) - 明治10年(1877年5月26日)は、日本武士長州藩士)、政治家外国事務掛参与参議文部卿内務卿和田 小五郎(わだ こごろう)、桂 小五郎(かつら こごろう)。


明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。名の孝允は「こういん」と読まれることもある。

概略
長州藩出身。藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の指導者となり、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁務座の最高責任者として活動する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。


維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主・毛利敬親明治天皇から厚く信頼された。


しかし、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えず、西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。


その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。

生涯
少年時代
天保4年6月26日1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻。前妻が生んだ異母姉が2人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、7歳で向かいの桂家(家禄150石)の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛孝古)、長州藩の大組士という武士の身分と禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。


少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたという。このときの額の三日月形の傷跡が古傷として残っている。


10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。


嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。


嘉永2年(1849年)、吉田松陰山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。

剣豪桂小五郎
弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸へ帰途に5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上る。


江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。


幕府講武所の総裁・男谷信友直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間に剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれる[1]が、桃井春蔵や男谷信友に対しても同じような逸話があるため、本当に桂小五郎をそう評したかどうかはわからない。


一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、士学館の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐国に帰郷していたとの説もある[注 1]


安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、2017年10月30日に発見された[3]

留学希望・開国・破約攘夷の志士
マシュー・ペリーが最初に来航した嘉永6年(1853年)、海防の必要性を実感した幕府は大船建造禁止令を撤回し、雄藩に軍船の建造を要請した。さらに江戸湾防衛のための砲台(お台場)建設を伊豆代官江川英龍に命じた。ペリーが浦賀に入港する時には、長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主毛利慶親の警固隊の一員に任じられ、実際に警備にあたった。海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにした。それとほぼ同時期に、藩に軍艦建造の意見書(『相州海岸警衛に関する建言書』[4])を提出した[5]。この提言を受け、嘉永7年1854年に藩主毛利慶親は洋式軍艦を建造することを決定し、さらに安政3年(1856年)に長州藩は恵美須ヶ鼻造船所を開設、君沢形スクーナー)軍艦丙辰丸と、バーク型軍艦庚申丸が製造された。


小五郎は練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(嘉永7年1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆相模甲斐など幕府領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。


吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、


・兵学家で幕府代官の江川英龍から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ


浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ。短い修学期間であったが、互いの人格を認めあい、中島の家族からも厚遇された。開明家ながらも中島は幕臣としての立場を貫徹し、箱館戦争の際に2人の息子と壮絶な戦死を遂げた。一方、明治政府成立後も木戸は中島の恩義を忘れず、遺族の保護に尽力している。明治9年(1876年)の奥羽・北海道巡幸に随従した木戸は、往時を回顧して慟哭した。


・幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵からスクーナー洋式帆船造船術を学ぶ


・長州藩士・手塚律蔵から英語を学ぶ(維新の三傑の中で、木戸のみが英語で外国人と会話できたという)

など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。


安政5年(1858年)8月、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命される。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦したことによるもの。同年10月に結婚のために戻る。同年12月24日に松陰の自宅を訪ね、老中間部詮勝の暗殺計画を諫めたため、松陰はこれを断念するも、別の計画(伏見要駕策)を立案したため松陰は野山獄に投獄される。松陰は松下村塾生たちの諫言は聞き入れなかったが、小五郎の言葉には「桂は厚情の人なり。この節同士と絶交せよと。桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」として聞き入れている。

安政6年(1859年)、長州藩江戸藩邸の藩校である有備館の御用掛に任じられ[6]、後輩藩士の育成にも大きく関わった。同年10月27日、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。

万延元年(1860年)年7月2日、大村益次郎と連名で「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出する。ただしこの時の竹島は、現代で言う「鬱陵島」であると考えられている[7]


万延元年(1860年)7月、水戸藩士の西丸帯刀らと丙辰丸の盟約を結ぶ。


文久2年(1862年)1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追求された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。


同じく文久2年、京都で学習院御用掛に任命され、朝廷や諸藩を相手に外交活動を行う[8]


文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。これにより長井雅楽と、小五郎の義弟(妹治子の夫)である来原良蔵が切腹する。来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は顔を覆って泣き、周囲の者ももらい泣きしたという。


文久2年(1862年)閏8月、会津藩士秋月悌次郎に面会し、京都の事情等について情報を伝える[9]


文久2年(1862年)9月、対馬藩士大島友之允と面談、対馬藩主宗義和に関わるお家騒動の解決の斡旋を行う。先代対馬藩主宗義章の正室慈芳院が、長州藩10代藩主毛利斉熙の娘であった縁もあり、以降幕末史において対馬藩は長州藩と深い関係を保つ。


同じく9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致することを了解しあった[10]


文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。


欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三井上勝遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。


5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める。この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払うということで決着する。


5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。


文久3年(1863年)8月18日、八月十八日の政変が起こる。三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放された(七卿落ち)。長州藩士は京都留守居役3人を除いて在京を禁じられたが、小五郎は変名を使い京都内を潜伏しながら情報収集と長州藩復権工作を続けたものの、奏功せず一旦帰藩する。


元治元年(1864年)1月、藩命を受けて上京、対馬藩邸などに潜伏し関係諸藩(因幡、備前、筑前、水戸、津和野など14藩に及ぶ)との外交活動を続ける。同年5月、正式に京都留守居役に命じられ、藩を代表して外交活動を行う。


元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。小五郎は会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸に向かったため難を逃れたという説と、池田屋より屋根を伝い逃げたという説がある。この事件により、追い詰められた過激派尊攘志士たちは慎重派の小五郎や周布・高杉らの意見を聞かず、暴発が避けられなくなってしまう。

詳しいことは「木戸孝允ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
(wikiより)

079  桂小五郎

木戸孝允

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⇧⇩ 故内閣顧問贈一位木戸公神道碑の碑

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嘉永六年(1853)六月のペリー率いる黒船来航以降、砲艦外交に屈服する形で解かれた諸外国との国交は安政元年(1854)日米和親条約、日露和親条約と続けて天皇の勅許なしに徳川幕府は締結してしまう。


外国を嫌い、攘夷論を推す孝明天皇の「皇祖に申し訳たたず退位する」という言葉に呼応する形で攘夷論と尊王論はひとつとなり、政局の中心は京へと移行、尊皇攘夷派志士たちは一挙に倒幕運動へと傾倒してゆく。


当時、徳川幕府は将軍継嗣問題、外交条約調印で政局が割れていた。

大老に就任した井伊直弼はこれらを強行採決し、反勢力への弾圧が対抗策として施行され、小浜藩士・梅田雲浜、鷹司家の小林良典、頼山陽先生の三男・頼三樹三郎、長州の吉田松陰ら多くの有能なる学識者が次々とその対象として捕縛されるに至った。


その総数は百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。

この大弾圧は全国の尊皇攘夷派志士を激昂させる結果となり、「違勅の元凶 井伊を葬れ」とついに井伊大老は、安政六年(1860)三月 登城途中、江戸桜田門で水戸藩浪士に襲撃を受け殺害される。


この事件を期に徳川幕府は終焉へと加速、明治維新へと大きく時代は流れてゆくのではあるが、憂国の赤誠もむなしく維新の鴻業の礎石となった殉難者のその損失は計り知れない。
(案内板より)

〇 梅田雲浜
梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日1815年7月13日)- 安政6年9月14日1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。

生涯
文化12年6月7日(1815年7月13日)、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。


はじめ藩校・順造館天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の大老井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。


捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らず、安政6年9月14日(1859年10月9日)に獄中で病死した。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある。


雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。

実業家としての側面
幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて「大困窮進退是れ谷(きわ)まり、一歩も動き候事も出来がたく候」と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており「暮し向き裕かで、訪客絶えず」と評されるほど成功した[1]。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。

辞世の歌

 ・君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

登場する作品
テレビドラマ
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演者:きたろう

関連項目
安政の大獄

出典
1. 服部之総「志士と経済」(1934)『黒船前後・志士と経済』所収、岩波文庫、1981年

外部リンク
梅田雲浜 | 近代日本人の肖像国立国会図書館
(wikiより)


446   梅田雲浜

⇧ 梅田雲浜

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玉松 真弘(たままつ まひろ、文化7年3月17日1810年4月20日) - 明治5年2月15日1872年3月23日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者通称(みさお)。雅号は毅軒。

生涯
西園寺家の庶流である山本家侍従山本公弘の二男として生まれ、醍醐寺無量寿院において出家得度し、法名を猶海とした。大僧都法印に任ぜられたが、寺中の綱紀粛正をつよく唱えたために反感を買い、1839年還俗。山本毅軒と号し、さらに玉松操と改めた。


京都で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草し、江戸幕府との交戦に備え官軍の士気を鼓舞するための錦旗のデザインを考案するなど、岩倉の活動を学殖・文才によって助けた。


王政復古の後は、内国事務局権判事となり、平田銕胤らと結んで大学寮(漢学所)を国学を中心とする大学官に併合することを求めるなど、きわめて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1869年には堂上家の一員となり、家禄30石3人扶持が給付される。東京奠都にあたっては猶予願を出し、1870年東京で大学中博士兼侍読に任ぜられたものの、政府の欧化政策を嫌悪し、同年10月に辞職する。京都に帰って隠棲したが、まもなく病没した。1884年7月、養嗣子玉松真幸男爵に叙された。


司馬遼太郎の短編小説『加茂の水』の主人公として描かれている。
(wikiより)

077a

077b



吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名した。久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。

生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年1月24日萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという[1]雅号は風萍軒(ふうひょうけん)。宝蔵院流槍術柳生新陰流の剣術を修める[1]。また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する[1]。松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容している[1]


安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。


松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩しているものの、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[1][注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。


文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。

最後
元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。享年24。


墓は京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。


明治
24年(1891年)、従四位を追贈された。

人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。

以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より


山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]

・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]

評価

吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[2]

渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[3]

品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」

伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」

近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[4]

関連作品

ゲーム

・『龍が如く 維新!』(セガ2014年、声:石川英郎

テレビドラマ

・『八重の桜』(2013年NHK大河ドラマ、演:石川雄亮

・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史)

小説

伊東潤『池田屋乱刃』(講談社2014年)

脚注
注釈
1. 松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2.
山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。
3. 嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。

出典
1. a b c d e 『歴史人』公式ホームページ
2. 『松陰とその門下』
3. 『吉田松陰全集 第12巻』
4. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13
(wikiより)

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⇧ 吉田稔麿

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有吉 熊次郎(ありよし くまじろう、天保13年(1842年) - 元治元年7月19日1864年8月20日))は、日本の武士長州藩士尊皇攘夷派の志士熊次郎通称で、良明(もしくは良朋)、子徳本姓藤原を称し、墓碑の刻字には藤原良明とある。贈正五位。作家有吉佐和子曾祖父にあたる。


天保13年(1842年)、長州藩士有吉忠助の次男(近習有吉傳十郎の弟)として生まれる。藩校明倫館に学んだのち、安政4年(1857年)、16歳の時に土屋蕭海の紹介により吉田松陰松下村塾に入塾する。ちなみに、渡辺蒿蔵[1]は、有吉に誘われて入塾した[2]。松陰は、「才」の岡部富太郎(子揖)、「実直」の有吉(子徳)、「沈毅」の寺島忠三郎(子大)と評して、この3名を一つのグループとして力にしようと考えている。


安政5年(1858年)、松陰の老中間部詮勝暗殺計画に血盟をしたことから、外叔の白根多助により家に幽閉される。松陰が野山獄に再投獄された際は、その罪状を問うために周布政之助ら重役宅に押しかけた塾生8名の中の一人である。 文久元年(1861年)、高杉晋作に随い御番手として江戸へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入る。


文久2年(1862年)、高杉ら同志と武州金澤(金沢八景)で外国公使を刺殺しようとしたが、計画が事前に藩主世子の毛利定広に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作る。この時に血判署名した同志は有吉を含む、高杉、久坂玄瑞大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵、寺島、赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎の11名である。


同年、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加する。


文久3年(1863年)、藩命により航海術を学び、その後京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進する。同年、八月十八日の政変により帰国後、久坂、堀真五郎らと山口にて八幡隊を結成する。


元治元年(1864年)の池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。その際、事件により厳重警戒中の京都を飛脚に変装して出立している。同年、急進派の藩士らと上京、禁門の変(蛤御門の変)において重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃する。享年23。


墓所は京都市霊山護国神社山口市朝日山招魂社(八幡隊招魂場)。

脚注
1. 後に日本の官僚工部省逓信省)や造船技術者(長崎造船所初代所長,日本郵船社長を歴任)として明治時代の日本の発展に貢献した。吉田松陰の弟子だった松下村塾塾生で唯一昭和時代まで生存し、松下村塾の保存運動にも実績を残した。1939年昭和14年)に97歳で大往生を遂げた。
2. 渡辺蒿蔵 (天野清三郎)萩の人物データベース

関連項目
幕末の人物一覧
(wikiより)

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入江 九一(いりえ くいち)は、江戸時代末期(幕末)の武士。長州藩士。は弘致、弘毅。通称は万吉、杉蔵。字は子遠。別名は河島小太郎。明治24年(1891年)に正四位を贈られた。戒名は精節軒弘致子遠居士。家紋は丸に並び鷹の羽。

生涯
天保8年(1837年4月5日、長州藩の足軽である入江嘉伝次・満智(村上与三右衛門の長女)夫妻の長男として生まれた。弟に野村靖(和作)、妹に伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)がいる。妻は九一の父の同僚である堀音右衛門の娘・粂。


安政
3年(1856年)に父が死去し、家督を継いだ。安政4年(1857年)に弟の和作が吉田松陰松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるべき立場であるため通う暇を作れず、安政5年(1858年)になって遅れて入門した。同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。


同年、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中間部詮勝暗殺計画を企んだ。この時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。その際に松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。そのため、後に松陰が安政の大獄で処刑された後も、九一は師匠の遺志を受け継いで間部詮勝暗殺計画を実行に移そうとしている。


同年、伏見にて藩主を拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に岩倉獄に投獄された。これにより入江家は困窮し、九一は獄中で内職を行って家計を助けた。


松陰の処刑から半年後、兄弟も万延元年(1860年)に釈放され、文久3年(1863年)には吉田稔麿らと共に足軽から士分[1]に取り立てられたが、無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。京都尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加した。


元治元年(1864年7月19日禁門の変では久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加したが敗れて久坂は自刃。久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったが、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。享年28。首級は福井藩士が藩主の松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後長らく長州藩側に忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した事をきっかけに、明治30年代に碑石が修築された。


後に木戸孝允大村益次郎たちによって
[要出典]長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。山口県萩市「長寿寺」にも入江家の父母、妻の粂らと共に墓碑がある。九一の没後、妻の弟の音次郎を養嫡子にしたが、アメリカへ官費留学した翌年の明治6年(1873年)に病で客死したため、九一の弟・野村靖の次男である貫一を明治13年(1880年)に養子に迎え入江家を継がせた[2]ニュージャージー州ニューブランズウィックウィロー・グローブ墓地には、幕末に同地のラトガース大学で学び、同地にて客死した日下部太郎の墓があり、それと並んで入江音次郎の墓碑がある(墓碑では1874年、19歳没)[3]。日下部家は旧福井藩士である。

著作
・「伝言録」

・「入江子遠遺稿」

関連作品
テレビドラマ
・『花神』(1977年NHK大河ドラマ)演:今村民路

・『奇兵隊』 (1989年日本テレビ年末時代劇スペシャル、 演:岡野進一郎)

・『花燃ゆ』(2015年NHK大河ドラマ、演:要潤

脚注
1. 武士の身分。長州藩制では足軽と士分には明確な身分差があった。
2. 家系図九一会
3. Changing our World for the BetterWHEEL OF DHARMA, Buddhist Churches of America, AUGUST 2010
(wikiより)

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寺島 忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう、天保14年(1843年) - 元治元年7月19日1864年8月20日))は、日本の武士長州藩士尊皇攘夷派の志士である。父は寺島直一。兄に寺島秋介昌昭子大作間忠三郎などの変名を名乗る。家格は無給通組。

経歴
周防国山口県)に生まれる。藩校明倫館、私塾松下村塾吉田松陰に師事した。文久2年(1862年)、高杉晋作久坂玄瑞大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎らと御楯組結成に参加、長州藩家老の長井雅楽暗殺計画にも参加する。元治元年(1864年)、八月十八日の政変で長州藩が失脚した後に、久坂玄瑞と共に禁門の変で互いに刺し違えて自害して果てた。享年21。

墓所は京都市霊山護国神社ほか。

関連作品
テレビドラマ
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:池田秀一

・『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ、演:加藤大治郎)

・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:鈴木伸之
(wikiより)

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久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年(天保11年)5月 - 1864年(元治元年)8月20日)は、幕末長州藩士。幼名は秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]


まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]


だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]


松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]


しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]


松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。


文久
元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。


文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]


文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。

二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。

玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。


このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]

廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。


『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]

(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。


同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]


文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。


幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。


4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]


この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。


長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]


この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、薩摩藩の田中新兵衛に暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]


6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。


攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]


玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]


しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]

詳しいことは「久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E
(wikiより)

072  久坂玄瑞

久坂玄瑞

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来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。幼名は亀之進。初名は光次郎。諱は政久。

生涯
文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村大組(八組)の上士・来島政常(又兵衛)の婿養子となった。天保12年(1841年)、柳川藩大石神影流の創始者大石進に剣術を学んだ。弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となった。


嘉永元年(1848年)に帰国、家督を継ぐ。同年10月に手廻組に入隊後、藩世子の駕籠奉行などの要職を歴任した。翌嘉永2年(1851年)、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名した。


文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変尊王攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作奇兵隊を創設したのに触発されて、又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。


翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元らと共に上洛、薩摩藩国父島津久光の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。


6月に福原・益田親施国司親相久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自らで喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48(満47歳没)。

長男の亀之助は藩主の命により又兵衛の変名の1つであった森姓に替えて森清蔵と改名、井上馨の末妹の厚子と結婚した。また、厚子の甥(厚子と馨の兄井上光遠の三男)祐三郎を養子に迎え、祐三郎は後に三井銀行下関支店長、三井物産門司支店長を歴任した[1]


現在、山口県美祢市にある美祢市立厚保(あつ)小学校には彼の銅像が建てられているが、これは近くに来島又兵衛の自邸(旧:美禰郡厚保村)があったためである。又兵衛は靖国神社や護国神社に祀られているが、厚保にも墓石が現存する。

関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:安部徹

・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:石橋雅史

・『奇兵隊』(1989年、NTV年末時代劇スペシャル、演:竜雷太

・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演:角田信朗

・『八重の桜』(2013年、NHK大河ドラマ、演:関戸将志

・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:山下真司

・『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:長州力[2]

脚注
1. 堀雅昭『井上馨』P18、P73、P176、P253。
2. 長州力、大河ドラマ初出演「西郷どん」で異例のリキラリアット演出 - スポーツ報知2018年7月2日

参考文献
・三原清尭 『来嶋又兵衛傳(再版)』 小野田市歴史民俗資料館、1992年。

関連項目
禁門の変

遊撃隊
(wikiより)

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大坂の人。土佐人とも。

明治元 ( 1868 ) 年 12月 17日死去。

他詳細不明。享年29歳。

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高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。


春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。暢夫(ちょうふ)。は初め楠樹、のちに東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。ほかに些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。


栄典正四位1891年(明治24年)4月8日)。

生涯
誕生
長門国
萩城菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200)とみちの長男として生まれる。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の三人の妹がいる。


10歳のころに疱瘡を患う。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・まさと結婚する。

留学
文久元年(1861年3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老佐久間象山横井小楠とも交友する。文久2年(1862年5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国上海へ渡航、欧米植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

尊王攘夷運動
長州藩では、晋作の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。


文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵寺島忠三郎有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎[1] が相談した。しかし玄瑞が土佐藩武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。


この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

下関戦争と奇兵隊創設
文久3年(1863年5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆にの報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。


京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。


8月には、イギリスフランスアメリカオランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島租借」を要求してきた。晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはない[2]

功山寺挙兵
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊石川小五郎率いる遊撃隊長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。


晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。


元治2年(1865年1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年3月29日には新知100が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。

四境戦争
再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年(1866年1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。


5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。


6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執った。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。


しかし、7月20日将軍徳川家茂が死去すると、7月30日には肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月大政奉還へとつながることとなった。


その後、下関市桜山で肺結核の療養中の慶応3年4月14日1867年5月17日)に死去。享年29(満27歳没)。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼山県狂介田中顕助が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。


詳しいことは、「高杉晋作ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
(wikiより)

717 高杉晋作

 高杉晋作

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池尻茂四郎 ( いけじり ‐ もしろう )
( 1840 ‐ 1864 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 11年生まれ。

池尻茂左衛門の養子。

筑後 ( ちくご )( 福岡県 ) 久留米 ( くるめ ) 藩士。

養父とともに尊攘 ( そんじょう ) 運動に加わる。


藩内の尊攘派勢力の回復に失敗し、脱藩して長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩に行く。

元治 ( げんじ ) 元年禁門の変で敗れ、7月 21日真木和泉 ( まき ‐ いずみ ) らと天王山で自決した。25歳没。

本姓は井上。名は懋 ( つとむ )。変名に北島務。

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竹本綱大夫
竹本 綱大夫(たけもと つなたゆう)は、義太夫節の太夫。江戸中期より9代を数える。

(生没年不詳)本名は飴屋万吉。


化政時代
に活躍。

通称「飴屋綱太夫」、二代目の門弟で浜太夫、紋太夫を経て文化4年(1807年)三代目綱大夫襲名。

文政から天保年間には紋下で活躍。

天保5年(1834年)にむら大夫に名を譲り自身は「三綱翁」を名乗った。
(wikiより)

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易学者。

播州赤穂の森候の家臣で大石氏の血族。

天文学に精通、陰陽寮に出仕。

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明治期画家 詳細不明。

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市川正寧 ( いちかわ - まさやす )     
天保 14年 ~ 明治 18年 4月 20日 ( 1843 - 1885 )

明治期の大蔵 1等主税官。

本姓、中島助一郎。

市川氏早の養子。

長野県出身。

大蔵省に入り地租改正局勤務。

明治 17年 ( 1884 ) 租税局長。

明治 18年 ( 1885 ) 一等主税官。主税局 1等主税官。

正五位勲四等。43歳没。

正面「一等主税官正五位勲四等市川君墓」。

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奥宮 慥斎(おくのみや ぞうさい)は、幕末土佐藩の学者で、維新後高知藩教部省官僚。


土佐藩
士の家に生まれ、田内菜園に国学江戸佐藤一斎陽明学を学び、幕末には藩校教授、山内豊範侍読を務め、土佐勤王党を支援した。明治維新高知藩板垣退助による藩政改革、教部省での大祓復活に関わったほか、愛国公党結成に参加し、今北洪川両忘会を結成した。

経歴
修学時代
文化8年(1811年)7月4日、土佐国土佐郡布師田村高知県高知市布師田)に土佐藩士奥宮正樹の子として生まれた[1]。15,6歳の時田内菜園に入門し、国学和歌を学び、また弓術を得意とした[1]


文政13年(1830年)閏3月江戸に出て、吉田環を介して佐藤一斎に師事しようとしたところ、父と病に罹り、快復後一旦帰郷し、天保3年(1832年)江戸を再訪し、一斎に入門した[1]。帰国後、南学の天下にあった土佐において南部静斎、市川彬斎、岡本寧浦等と陽明学の普及に務め、尾崎源八、都築習斎、島本黙斎等を弟子とした[1]

天保5年(1834年)高知の真如寺大休和尚に借りた「碧巌録」で疑団と格闘し、3月16日「陸象山先生集」を読書中省悟に至った[2]

幕末
嘉永末年の動乱期に当たり、藩主山内豊熈に救国の方策を上書したところ、重臣に疎まれ、嘉永7年(1854年)8月12日[3]奥向夫人附広敷役として江戸に左遷され、佐藤一斎、若山勿堂安積艮斎大橋訥庵、河田廸斎等と親交した[1]


安政4年(1857年)の門人帳には、島本審次郎、石川潤次郎小畑孫次郎、吉井茂市、秋沢貞之、北代正臣小笠原謙吉吉松速之助、島村源六の名が見える[4]


安政6年(1859年)1月暇を得て帰国すると、8月藩校教授役兼侍読に抜擢され、藩主山内豊範に従い江戸に戻り、藤森天山塩谷宕陰安井息軒羽倉簡堂芳野金陵等と交流したほか、山内容堂が鮫洲に蟄居した際、度々宴に招かれた[1]


万延
2年(1861年)帰国し、文久3年(1863年)免官、元治元年(1864年)官に復し、藩主に従い大坂に行き、10ヶ月余で帰国した[1]。平井善之丞、小南五郎佐々木高行武市半平太大石弥太郎土佐勤王党の人物と交流してこれを支援し、小畑美稲、小畑孫三郎、門田為之助、丁野遠影、吉永良吉、秋沢清吉、依岡城雄、長岡謙吉北代正臣島本仲道、淡中新作等を弟子とした[1]


慶応元年(1865年)12月教授兼侍読を罷免され、100日間の幽閉に処された[1]

高知藩時代
明治2年(1869年)文学教授に復し[1]、明治3年(1870年)1月10日諭俗司都教に任命され、3月9日から4月17日まで藩西部で名主層に宣教を行った[5]


明治3年(1870年)春「皇朝身滌規則」を起草し、5月15日上京、福羽美静等に掛け合い、6月27日斎藤利行の推挙で神祇官権大史に任命された[6]。また、フルベッキと出会って宗教を論じ、自身の見識を深めた[7]


間もなく板垣退助に高知藩の藩政改革への協力を求められ、11月25日神祇官を辞任、板垣、福岡孝弟と船で帰藩し、12月15日藩大属書記係に就任した[8]。「人民平均の理」を起草した[9]。明治4年(1871年)1月6日大属学校係、2月27日戸籍社寺係を歴任し、3月18日から4月7日まで「喩俗大意」「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」「皇朝身滌規則」を携えて土佐東部を巡回した[10]

教部省時代
明治5年(1872年)2月30日上京、教部省設置に伴い3月24日九等出仕、3月25日記録課、5月4日編集課、5月24日八等出仕、6月27日日誌課、7月28日大教院調掛、8月30日大録となった[11]。明治5年(1872年)福羽美静に自身の大祓復活案が認められ、式部寮と調整を行った[12]


明治6年(1873年)1月24日、キリシタンの活動が活発化した長崎への出張を命じられ、中教院の設置を進めたが[13]、2月24日禁教令が解かれたことにより現場で混乱が生じたため、4月下旬真意を量るため急遽帰京、代理として物集高見が九州に派遣された[14]。11月25日大講義兼務を解かれ、27日教部省考証課に配属された[15]


明治6年(1873年)民撰議院設立建白書の修正潤飾に関わり、明治7年(1874年)1月10日愛国公党結成に参加した[16]


明治7年(1874年)5月11日から9月6日まで第四大学区広島県鳥取県島根県北条県小田県愛媛県山口県浜田県を巡回したが、6月14日山口中教院で今北洪川に出会い[17]、明治8年(1875年)10月20日今北洪川を盟主として両忘会を結成した[18]


明治9年(1876年)11月2日教部省教務課に移ったが、明治10年(1877年)1月11日教部省は廃止された[19]。卿部省では、福羽が離れた後も、中村光枝を通して知った吉見幸和の実事神道に基づく建言等を行ったが[20]、新たに上層部となった黒田清綱三島通庸等薩摩閥には受け入れられなかった[21]

没後

明治10年(1877年)5月30日胃腸カタルのため下谷御徒町の自宅で死去し、谷中霊園に葬られた[22]


大正時代二度に渡り贈位の申請がなされたが、三男奥宮健之大逆事件で処刑された影響で実現しなかった[23]

家族
・父:奥宮正樹

・母 - 尾立兵蔵姉。文政元年(1818年)6月26日35歳で没[24]

・長姉:小枝(秋、高) - 文化3年(1806年)生。山本考庵妻[24]

・次姉:麻 - 文化6年(1808年)生。山本有徳妻[24]

・妹:猪佐 - 文政6年(1823年)生。西森久米之進妻[24]

・弟:奥宮暁峰 - 中央官僚、教師[24]。暁峰二男 - 奥宮衛(海軍少将・横須賀市長)[25]

・弟:奥宮岩治正時 - 27歳で病没[24]

・妻 - 慶応元年(1865年)から2年の間に死去した。名は熊と美留(竹村銘蔵妹)の2伝わっており、同一人物か後妻がいたか不明[24]

・長男:奥宮正治 - 宮城控訴院検事長[24]

・次男:健吉(謙吉) - 安政4年(1854年)生。東京府公証人[24]

・三男:奥宮健之 - 民権家。大逆事件で死罪[24]

・長女:兼(金井) - 天保12年(1841年)生。山梨県人斉藤安通妻[24]

・次女:鶴 - 嘉永2年(1849年)生。愛媛県士族田内逸雄妻[24]

5代目子孫奥宮正太郎は神奈川県在住[26][27]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l 杉山(2013) pp.17-20
2. 杉山(2013) pp.231-233
3. 杉山(2013) p.189
4. 杉山(2013) pp.194-195
5. 杉山(2013) pp.32-36
6. 杉山(2013) pp.50-52
7. 杉山(2013) pp.51-54
8. 杉山(2013) pp.71-74
9. 杉山(2013) pp.77-78
10. 杉山(2013) pp.36-40
11. 杉山(2013) p.126
12. 杉山(2013) pp.128-135
13. 杉山(2013) pp.171-173
14. 杉山(2013) pp.173-175
15. 杉山(2013) p.127
16. 大久保(1989)
17. 杉山(2013) p.241
18. 杉山(2013) pp.244-245
19. 杉山(2013) p.127
20. 杉山(2013) pp.137-138
21. 杉山(2013) pp.144-146
22. 島(2012/7) p.2
23. 島(2009/3) p.2
24. a b c d e f g h i j k l 杉山(2013) pp.21-24
25. 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年 p.171
26. 西郷隆盛の真筆漢詩を寄贈 高知市民図書館に産経新聞9月19日
27. 奥宮慥斎の子孫が高知市民図書館に西郷隆盛直筆の漢詩寄贈高知新聞2015年9月20日

参考文献
大久保利謙「愛国公党結成に関する史料―奥宮慥斎の日記から―」『日本歴史』第488号、吉川弘文館、1989年

島善高奥宮慥斎日記―明治時代の部(一)―」『早稲田社会科学総合研究』第9巻第3号、2009年3月

・島善高「奥宮慥斎日記―明治時代の部(完)―」『早稲田社会科学総合研究』第13巻第1号、2012年7月

・杉山剛『奥宮慥斎の研究 ―明治時代を中心にして―早稲田大学学位審査論文(博士)、2013年

外部リンク
・『奥宮慥斎日記』

  ・慶応4年4-11月明治2年7月-3年7月3年8-12月4年1-12月5年1-2月2-12月6年1-12月7年1-9月8年1-12月9年1-11月参考
(wikiより)

 勝海舟や大久保利通とは知りあいで、井上毅は、奥宮の隣りに住んでいたという。

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岡田 周造(おかだ しゅうぞう、1886年明治19年)11月 - 1983年(昭和58年)5月31日)は、東京府知事などを務めた内務官僚。

略歴
1886年明治19年)11月 - 見目竜造の二男に生まれる。

  岡田ヌイの入夫となる。


1914年(大正3年) - 東京帝国大学英法科を卒業。高等文官試験に合格。

  警視庁警部静岡県理事官愛知県理事官、復興局書記官内務省事務官、内務省書記官、地方局財務課長を歴任。


1931年昭和6年)11月9日 - 1931年(昭和6年)12月8日 - 千葉県知事を務める。


・1931年(昭和6年)12月18日 - 1933年(昭和8年)8月4日 - 山口県知事を務める。


・1933年(昭和8年)8月4日 - 1935年(昭和10年)1月15日 - 長野県知事を務める。

  途中、内務省地方局長を務める。


1936年(昭和11年)3月13日 - 1938年(昭和13年)6月24日 - 兵庫県知事を務める。


・1938年(昭和13年)6月24日 - 1941年(昭和16年)1月7日 - 東京府知事を務める。


1949年(昭和24年)8月13日 - 総理府奄美群島復興審議会委員となる。後に、会長となる。


1950年(昭和25年)8月16日 - 1951年(昭和26年)9月11日 - 総理府大蔵省奄美群島復興信用保証協会設立委員を務める。


1955年(昭和30年)1月27日 - 総理府奄美群島復興審会委員となる。


1958年(昭和33年)10月1日 - 総理府行政審議会委員となる。


・1958年(昭和33年)12月25日 - 自治省奄美群島復興審議会委員となる。


1960年(昭和35年)12月25日 - 自治省奄美群島復興審議会委員となる。


1967年(昭和42年)4月29日 - 銀杯一組を賜わる。このとき、勲二等


1972年(昭和47年)6月28日 - 紺綬褒章を賜わる。


1973年(昭和48年)4月28日 - 紺綬褒章に付する飾版を賜わる。


1983年(昭和58年)5月31日 - 死去。

  第二東京弁護士会所属の弁護士でもあった。

栄典
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[1]

脚注
1. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献
・東京都公文書館編『東京都職制沿革』東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、1986年
(wikiより)

2295  岡田周造

岡田周造

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塩谷恒太郎 ( しおのや - つねたろう )     
元治元年 ~ 昭和 25年 3月 6日 ( 1864 - 1950 )

足利鉱毒事件時の弁護士。

父、塩谷良翰 ( 長男 )。

東京出身。

英国法律学校に学ぶ。

明治 21年 ( 1888 ) 横浜・東京各地方裁判所判事歴補。

明治 23年 ( 1890 ) 判事。

東京裁判所勤務の後辞官。弁護士を開業。

「埼玉高鹿事件」、「足尾鉱毒事件」などの大事件を担当。

東京弁護士会会長・日本弁護士会理事・帝国弁護士会理事・司法省陪審法実施準備委員会委員。87歳没。

著書・訳:「英国弁護士制度 ( 1948年 ) : JRVマーチャント」、「黒岩氏と浅野セメント鎮灰問題」など。

「恒説院憲道至誠居士」。

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塩谷 良翰(しおのや りょうかん、1835年7月30日(天保6年7月5日[1] - 1923年大正12年)10月10日[2])は、幕末館林藩士、明治期の官僚宮城県青森県参事。諱・良翰、通称・甲介、直之進、雅号・謙堂[2]

経歴
羽前国村山郡の館林藩の飛地、漆山陣屋で、同藩士・塩谷市郎左衛門の息子として生まれる[2]弘化3年11月1846年または1847年館林に移る[3]。16歳で江戸に出て田口江村塩谷宕陰藤森弘庵に学ぶ[4][5]桜田門外の変の後、浪士の疑いを受け小日向清光院の住いを追われた[5]文久元年(1861年)関西を行脚し勤王の志士と交わり[2][5]、帰藩後、藩校・求道館の助教授となる[4]


明治元年(1868年)新政府軍の東下に際し、館林藩を勤王に導くことに尽力[2]。同年4月大鳥圭介の兵と戦い敗れたが、その後、奪われた砲8門を奪取することに成功[5]参謀大村益次郎に付き古河藩結城藩宇都宮藩を勤王方につくよう説得した[2]。その後、大総督府参謀附、民部省大祐を歴任し[2]、紙幣発行を担当した[3]。明治2年11月1870年12月)甲州大小切騒動の鎮定に当った[2]


明治3年9月1870年登米県大参事・通商権頭に就任。明治4年11月2日1871年12月13日)登米県が廃止され仙台県参事心得に就任。明治5年1月8日1872年2月16日)宮城県の初代参事となり、1873年2月7日に辞任[3]。同年11月7日、青森県参事に就任。1876年明治天皇巡幸前に人事問題で政府の許可が無く青森から上京したことにより、同年8月16日、参事を免ぜられた[4]


その後、銀行業に従事[5]1894年1月16日、群馬県邑楽郡長に就任し[6]1896年4月28日、非職[7]1899年4月27日、非職満期となり退官した[8]

著作
・述、塩谷恒太郎編『回顧録』塩谷恒太郎、1918年。

親族
・長男 塩谷恒太郎(弁護士)[1]

脚注
1. a b 「故従五位 塩谷良翰(雑部二ノ七)」
2. a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』474頁。
3. a b c 『新編日本の歴代知事』138頁。
4. a b c 『新編日本の歴代知事』94頁。
5. a b c d e 『三百藩家臣人名事典 2』230頁。
6. 『官報』第3163号、明治27年1月17日。
7. 『官報』第3848号、明治29年4月30日。
8. 『官報』第4746号、明治32年5月1日。

参考文献
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。

・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 2』新人物往来社、1988年。

・内閣「故従五位 塩谷良翰(雑部二ノ七)」昭和3年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-040-06・贈位00144100
(wikiより)

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壬生桄夫 ( みぶ - こうぶ )    
? ~ 大正 12年 3月 22日 ( ? - 1923 )

壬生基修伯爵家分家・男爵。

地下 官務。

正三位。

夫人の壬生保子は、壬生泰弘の母で、藤原北家長良流高倉家の庶流の公家樋口保康の二女。

正面「正三位男爵壬生桄夫墓」。

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壬生輔世 ( みぶ - すけよ )    
文化 8年 ~ 明治 12年 2月 17日 ( 1811 - 1879 )

公卿。

明治 9年 ( 1876 ) 従三位。

華族類第 6類。

小槻朝臣 垂仁天皇皇子於知別命後今雄裔。

権掌侍正六位壬生広子の父。

「廷臣八十八卿列参事件」に関与、日米修好通商条約締結にあたり官務壬生輔世と出納平田職修より地下官人 97名による条約案撤回を求める意見書が孝明天皇に提出され、その結果、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、条約の勅許を頑強に拒否することになった。

〇廷臣八十八卿列参事件
廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)は、1858年安政5年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。

経緯
日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中堀田正睦が参内することとなった。しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務壬生輔世出納平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。


その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。


勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる。

歴史的背景及び意義
江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。


条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。

詳しいことは「廷臣八十八卿列参事件ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%8D%BF%E5%88%97%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(wikiより)

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金津武夫 ( かねづ - たけお )     
明治 38年 ~ 昭和 59年 7月 7日 ( 1905 - 1984 )

児童文学者。

父、鈴村繁次郎。

養父、下谷区議会議員金津義次。

東京出身。

下谷区役所勤務。文化課長。浅草支所長。三木筆一台東区長の助役。傍ら、児童文学を研究・著作。

著書:「下町あの頃このころ」、「ガンバルおじいさん」、「お母さんとおへそ」、「こども議会」、「童心童顔」、「あるお池の出来事」など。81歳没。

正面「金津家之墓」。「久遠院黄石日武居士」。

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園池 公功 ( そのいけ - きんなる )      
明治 29年 5月 20日 ~ 昭和 47年 2月 15日 ( 1896 - 1972 )

 演出家・評論家。

父、子爵園池実康 ( 次男 )。

東京出身。

京都帝国大学卒業。

大正 11年 ( 1922 ) 帝国劇場入社、文芸部で演出を担当。のち松竹や東宝に勤務。

昭和 7年 ( 1932 ) 革命後のソヴィエトを視察。

戦後は女子美術大学の理事となる。75歳没。

著書:「ソヴエト演劇の印象」、「公共劇小脚本集 誰にも出来る芝居の本」、「素人演劇の方向」、「工場演劇脚本集」。共訳: ルネ・フューロップ=ミレーの「ソヴエト演劇史」。

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園池 公致(そのいけ きんゆき、1886年4月29日 - 1974年1月3日)は東京府出身の小説家子爵

略歴
東京市麹町区平河町にて、子爵園池実康(さねやす)の長男として生まれる。

父は宮内省に勤務し、のち宮中顧問官となった。祖父園池公静(きんしず)は子爵奈良県知事侍従。母は正親町春香(権大納言正親町実徳の娘、伯爵正親町実正の妹)。弟の園池公功(きんなる)は演出家評論家女子美術大学理事。


学習院を中退し、1896年から1901年まで侍従職出仕として明治天皇に侍した。


里見弴
たちと共に回覧雑誌『麦』を刊行。また『白樺』創刊に参加。


1919年
、小説『一人角力』(ひとりずもう)が広津和郎に激賞される。

晩年は安倍能成和辻哲郎武者小路実篤竹山道雄たちと共に、著名な白樺派作家も参加した文芸誌『』の同人だった。


長男園池実覧(さねみ)は応用物理学者、工学博士中央大学名誉教授。孫の園池公毅(きんたけ)は植物生理学者、早稲田大学教授
(wikiより)

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永峰正樹 ( ながみね - まさき )     
大正 9年? ~ 平成 9年 3月 10日 ( 1920? - 1997 )

ジャーナリスト。

著書:「あるジャーナリストの断章」、「八路軍とともに」。77歳没。

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久保悳鄰 ( くぼ - のりちか )     
安政 5年 8月 ~ 大正 8年 2月 ( 1858 - 1919 )

日枝神社宮司・皇典講究所 ( 国学院大 ) 文学部助教。

父、久保季茲。

東京本郷出身。

明治 6年 ( 1873 ) 教導職試補。

明治 7年 ( 1874 ) 少講義。

明治 9年 ( 1876 ) 権講義。

明治 10年 ( 1877 ) 神道事務局講師。

明治 14年 ( 1881 ) 大講義。

明治 17年 ( 1884 ) 皇典講究所 ( 国学院大 ) 文学部助教。

明治 23年 ( 1890 ) 国学院講師兼幹事。

明治 27年 ( 1894 ) 東京府神職取締所長・皇典講研究所試験委員。

明治 33年 ( 1900 ) 官幣中社東京日枝神社宮司。

大正 2年 ( 1913 ) 神社奉祀調査会および明治神宮造営局嘱託。東京府神職会長。従五位。61歳没。

著書:「清園語辞集」。

 皇典講究所:明治 15年 ( 1882 ) 東京に開設された皇典研究と神職養成を目的とした機関。

明治 23年 ( 1890 ) 国学院を設立。

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狩野洞庭教信 ( かのうどうてい - たかのぶ )     
文化 4年 ~ 明治 11年 3月 7日 ( 1807 - 1878 )

日本画家。

名、教信。

父、狩野言信。

猿屋町代地狩野家分家 7代。

神田明神下に塾を持つ。

門人に高橋由一 ( たかはし - ゆいち : 1838 - 1894 )・岩橋教章 ( いわはし - のりあき : 1835 - 1883 ) がいる。

作品:「大坂夏の陣図」など。72歳没。「本性院洞庭義山教信居士」。

 江戸中期にも類似名があり資料に混乱・不整合がみられるので要注意。

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園池 公静(そのいけ きんしず)は、幕末公家明治期の内政官僚。第一次奈良県知事子爵

経歴・
左近衛権中将[1]園池実達の二男[2]として生まれる。嘉永3年1月1850年)に元服し昇殿を許された。右京大夫を経て、元治元年6月1864年右近衛権少将に任官[2]


慶応
2年8月1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控となる[2][3]慶應4年1月5日1868年1月29日)書記御用掛となる[4]


慶応4年7月29日(1868年9月15日)奈良府知事に就任。明治2年7月17日1869年8月24日)奈良府が奈良県に改称され引き続き同県知事を務めた[2][4]。明治3年8月19日1870年9月14日)知事を免官[5]。同年9月17日(10月11日)侍従に就任[4]。以後、滋宮祗候・明宮祗候を務めた[2]


1884年7月8日、子爵を叙爵した[6]1915年4月15日に隠居し[7]、同月30日に長男実康が襲爵した[8]

栄典
1887年(明治20年)12月26日 - 正三位[9]

親族
・妻 園池千賀子(ちかこ、四辻公績六女)[1][10]

・長男 園池実康(子爵、宮中顧問官)[1]

・三男 北大路実信(貴族院男爵議員、北大路公久養子)[1]

・長女 室町賀寿子(室町公大夫人)[1]

・六男 岩佐公直(岩佐新養子)[1]

脚注
1. a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』上巻、804-805頁。
2. a b c d e 『明治維新人名辞典』551頁。
3. 『幕末維新大人名事典』下巻、13頁。
4. a b c 『百官履歴 上巻』293頁。
5. 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』104頁。
6. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
7. 『官報』第818号、大正4年4月27日。
8. 『官報』第822号、大正4年5月1日。
9. 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
10. 鷹司輔平の曾孫

参考文献
秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。

・修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
(wikiより)

2283  園池公静

園池公静

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園池実康 ( そのいけ - さねやす )    
安政 4年 12月 4日 ~ 昭和 3年 4月 23日 ( 1857 - 1928 )

宮中顧問官・子爵。

父、園池公静 ( きんしず )( 長男 )。

正三位勲三等。京都出身。

明治 25年 ( 1892 ) 宮内省出仕、掌典を経て掌典次長。

明治 34年に辞し、宮内省顧問官。

大正 4年 ( 1915 ) 襲封。72歳没。

夫人香子は、伯爵正親町実正の娘。

長男に小説家で子爵の園池 公致 ( そのいけ - きんゆき : 1886. 4. 29 - 1974. 1. 3 )、二男に演出家・評論家・女子美術大学理事の園池公功 ( きんなる )、純子、綾子、光子がいる。

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松平忠質の室である松平彦子 ( さとこ )
( 1814 - 1890. 9. 30 ) 嗣子松平説三建立。

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松平 忠容(まつだいら ただやす)は、江戸時代中期の旗本

略歴
信濃上田藩主・伊賀守系藤井松平家松平忠周の五男として誕生。


享保13年(1728年)6月15日、父の遺言により兄である上田藩主の忠愛より更級郡川中島(塩崎知行所)5,000石を分知され旗本寄合席となる。元文2年(1737年)8月25日に徳川家治小姓となり、8月28日に従五位下民部少輔に叙任。宝暦6年(1756年)2月21日に小姓組番頭、5月21日より西丸側役となり、10月29日に致仕した[1]。致仕号は笠翁[1]


跡は忠常が継いだ。

脚注
1. a b c d e f g h i 寛政重修諸家譜』巻第八

参考文献
・日本人名大事典(講談社)

寛政重修諸家譜
(wikiより)

石塔裏面の略歴は下記のとおり ( 不正確御免 )。

氏部少輔五位下諱忠容小字善大助姓源氏松平其先出自
信濃上田城主従四位下侍従無伊賀守諱忠周之季子也侍従
?之享保壬寅(7年)夏六月十一日生公於堀河部侍従公遷為執政
?公来於 東都而居青山之邸戌申四月侍従公卒嫡忠愛嗣
朝割信濃河中島5千石為公之食邑盖侍従公遺言也元文中
西域給事中以性多病?(しばしば)迄骸骨  優論不許特  恩令温
以養?世以為栄宝暦丙子(6年)春二日准親軍元帥其五月排侍中
如内謁(まみえる)者云無何以病致仕而難髪自号笠翁間適養老安永辛丑 ( 10年 ) 春正
月二十三日卒享年六十葬于  東都天徳寺男一人名忠常即嗣
?恭奉命為銘銘日生存相府憔仕在  公支封之祖有?令
安永十年歳次辛丑二月二十七日

 ?は判読不可。

正面「松平祖先之墓」。ただし、西久保天徳寺 ( 東京都港区 ) に葬ったとあるから、ただの記録だけかも知れない。

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垪和 為昌(はが ためまさ、安政3年5月23日1856年6月25日) - 大正3年(1914年11月21日)は、明治大正期化学者。東京帝国大学教授。無機化学の分野でエドワード・ダイヴァーズとともに亜硝酸塩硫化水素からヒドロキシルアミンが得られるのを初めて確認するなどした[1]

略歴
父親は備中浅尾藩士として仕え、東京府勧業課に務めた垪和為継[2]。自身も浅尾藩校で学んだ後、明治5年(1872年)、15歳で共立学校、開成学校、外国語学校などで語学を学ぶ。明治8年(1875年)、工学寮に入り、ダイヴァーズに実験無機化学を師事。明治14年(1881年)、工部大学校卒業、工学士となり工部省に出仕。明治19年(1886年)、ダイヴァーズと共に東京帝国大学理科大学助教授となり、無機化学を講義。明治27年(1894年)、理学博士となる。明治29年(1896年)より、フランスドイツイギリスに留学。明治31年(1898年)3月、帰国。明治32年(1899年)、ダイヴァーズ帰国により東京帝国大学理学部の無機化学教授に就任するも病気を患い、後任を柴田雄次に譲る。大正3年(1914年)、東京大学名誉教授。正四位勲三等。58歳。子弟に池田菊苗柴田雄次飯盛里安など。

脚注
1. 垪和爲昌 「ペルオキシルアミン、スルフオン酸及びヒドロキシル、アミンスルフオン酸の構造並に亞硝酸と亞硫酸との反應」 『東京化學會誌 Vol. 25 No. 10 』 東京化學會事務所 1904年
2. 東京府勧業課垪和為継(編) 『東京府下農事要覧』 東亰府勧業課 1881年

参考文献
柴田雄次 「Edward Divers 先生と垪和為昌先生」 『化学』16巻9号 化学同人 1961年9月

・東京大学理学部化学教室雑誌会 『東京大学理学部化学教室の歩み』 2007年

吉原賢二留学生たちのヨーロッパ(4) 日本の無機化学の先駆者たち」 『化学』2014年4月号 69巻4号

関連項目
垪和氏
(wikiより)

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川村雨谷 ( かわむら - うこく )    
天保 9年 8月 8日 ~ 明治 39年 12月 29日 ( 1838 - 1906 )

 南画家・大審院判事。

名、応心。字、広卿・守国。号、雨谷・休翁・陸蓮子・無生居士。俳号、烏黒。幼名、次郎太。通称、新助。

父、幕臣川村幽対。

江戸出身だが父の新潟奉行所勤務のため新潟で育つ。

はじめ父に書画・詩歌・俳句を学ぶ。松尾柴山に画、杉浦南陽に漢籍、官老館に武術を学ぶ。

安政 3年 ( 1856 ) 家督を相続。慶

応元年 ( 1865 ) 長崎奉行支配定役として長崎に赴く。

3年の赴任の間、木下逸雲 ( 1799 - 1866 )・日高鉄翁 ( ひだか - てつおう : 1791 - 1871 ) らに師事、南画の画法を学ぶ。

維新後は司法官として大阪、仙台、東京、松江などに赴任し、その後大審院判事にまで昇進し、明治 31年 ( 1898 ) 辞してのち、下谷に移り、田能村直入・田崎草雲らと交遊し、篆刻 ( 書画などに用いる印章彫 ) や俳諧も好んだ。

判事の傍ら、明治 15年 ( 1882 ) 第一回内国絵画共進会で「山水」・「梅」が銅賞、明治 17年 ( 1884 ) 同第二回でも「山水」・「花卉」が銅賞となる。

明治 17年 ( 1884 )「東洋絵画会」結成に際で会員となり、明治 30年 ( 1897 ) には高森碎厳らと「東京南画会」を結成。

門下に春田 ( 寺田寅彦 )、田能村小竹など。

篆刻や俳諧・俳画を好み俳号を枯木庵烏谷という。

東京下谷徒士町で没す。69歳。従五位勲五等。

作品:「童子睡臥」、「与謝薫村肖像」など。

円柱形の特徴ある墓標正面に「自得院応心無生居士」とある。

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大槻東陽 ( おおつき - とうよう ) / 大槻誠之 ( おおつき - せいし )    
文政 5年 ~ 明治 36年 5月 20日 ( 1822 - 1903 )

儒者。

名、籟次のち誠之。

号、泰嶺・東陽。

父、相模国大住郡下大槻村の名主原幸右衛門政房。

天保のはじめころ ( 1830 - ) 江戸に出て、巻菱湖の弟子牧野天嶺 ( まきの - てんれい ) に書を習うが、ここで旧友依田学海と再会する。

明治に入り、東陽と改名。

明治 11年 ( 1878 ) 小石川区より東京府会議員となるが、1年余りで辞職する。

明治 13年 ( 1880 ) 加藤桜老と東洋的学校「大同館」を創建。

続いて活動のPRのため「大同新報」を創刊。

明治 17年 ( 1884 ) 桜老没後は、一人で運営したものと思われる。

出版:「訓蒙 日本外史 全七冊」解釈者・「啓蒙国史略」編輯・「皇朝歴代沿革図解」編輯・「入蜀記註釈. 巻第1-6」 陸游 著:大槻東陽 註釈・「国字分類 古今歴史集覧」編集・「暦代日本伝 六巻」著。

82歳没。妻、矢野多津子。

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永峯 秀樹(ながみね ひでき、嘉永元年6月1日1848年7月1日) - 昭和2年(1927年12月3日)は、英文学者翻訳家

人物
甲斐国巨摩郡浅尾新田(山梨県北杜市明野町)出身。本姓は小野で、父は蘭方医の小野通仙。永峰家の養子となる。父に従い甲府に居住し、甲府徽典館を卒業後、沼津兵学校で英語を学ぶ。1871年(明治4年)、東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校)で英語数学教師。ギゾーの『欧羅巴文明史』の翻訳で、福地源一郎がソサエティの訳語として作った「社会」の語を広めた。ほか、『アラビアン・ナイト』を「暴夜物語」として初めて邦訳した。

栄典
1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[1]

著作・翻訳
・『支那事情』奎章閣、1874

・ウォーケル『富国論』奎章閣、1874

・『開巻驚奇暴夜物語』奎章閣、1875

・『物理問答』抄訳、内藤伝右衛門 1875

・『智氏家訓』査斯徳費耳士 (チェストルフヰールド) 種玉堂、1875-1876

・ハスケル『家政要旨 経済小学』抄訳. 内藤伝右衛門、1877

・ギゾー『欧羅巴文明史』ヘンリー訳、再訳. 奎章閣、1877

ジョン・スチュアート・ミル『代議政体』弥児 (ミル) 奎章閣、1875-1878

・ロベルト『官民議場必携』内藤伝右衛門、1880

・『華英字典』竹雲書屋、1881

・『博物小学』編 北原信太郎、1882

・『人と日本人』東海堂、1904

復刻
・「代議政体 ミル」『明治文化全集』第3集 (政治篇) 日本評論社、1927

・「暴夜物語 タチンスヱンド」明治文化全集. 第14巻 (時事小説篇) 日本評論社、1927

・「家政要旨 ハスケル」『家政学文献集成』 渡辺書店、1966

・「智氏家訓 チェストルフィールド」『家政学文献集成』続編 [第10冊] 渡辺書店、1968

伝記
保坂忠信『評伝永峯秀樹 明治初期翻訳・文化功労者』リーベル出版、1990

脚注
1. 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。

参考
コトバンク:日本人名大辞典
(wikiより)

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柴山 典(しばやま てん、文政5年(1832年)-明治17年(1884年10月11日)は、明治初期の地方官。久留米藩出身で初代宮谷(みやざく)県知事となった。通称は文平、名ははじめ富典、号は屏山。

生涯
久留米藩の儒者・池尻葛覃の高弟[1]真木保臣とともに久留米藩の尊皇攘夷運動の中心に立つ。だが、文久3年(1863年)以後藩内の内紛で3度にわたって謹慎処分を受けた。


戊辰戦争では東北地方の戦役で活躍。明治元年(1868年)7月[1]、安房上総監察兼知県事に任じられて上総国安房国天領旗本領の接収にあたり、そのまま同地域を管轄する宮谷県の初代権知事となり、明治4年5月17日に正式な知事となり従五位に叙された。


柴山は「一新確策」を掲げて水害に苦しむに農民の救済や貯穀法の実施、利根川治水工事を始め、県学校の開設や祭政一致政策を推進した。ところがこうした柴山ら尊王攘夷運動家系知事の儒学国学色が濃厚な「仁政」政策が、中央集権型の官僚国家を目指す明治政府の方針とぶつかる事になる。更に柴山は政府の方針に忠実な官吏との対立を招いた。その頃、県の組織は県令-大参事小参事大属という序列があり、宮谷県の大属は柴山と同じ久留米藩出身であった。ところが、大属は柴山の信任を盾に新しい戸長の人選を大小参事に許可を得ずに決定してしまった。そのため、大小参事が上京して直接民部卿に辞表を提出し、庁内は柴山・大属派と参事派に分裂した。このため柴山は知事昇任からわずか2か月後に知事を更迭(大属以上の他の3人も同時に更迭)され、翌年には一連の政策が政府の許可を得ないで行ったものであり、そこに税金を投じた行為は公金横領と専横の罪にあたるとして官職剥奪と30日の謹慎が命じられた(宮谷騒動)。


その後、罪を許されて明治8年(1875年)から2年間司法官を務め、明治13年(1880年)には宮内省から東伏見宮家付きとなり、明治15年(1882年)に再度従六位に叙せられた。


死にあたって特旨により従五位に復された。墓は谷中墓地にある。

参考文献
・篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)


1. a b 『久留米人物誌』p.285

関連項目
小河一敏豊後国岡藩出身の初代堺県県知事。柴山と同様の理由で解任された。
(wikiより)

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木南睡癖 ( こなみ - すいへき )     
寛政 2年 ~ 明治 3年 11月 23日 ( 1790 - 1870 )

江戸末期の医家。

名、晏。字、不忘。通称、文良。

代々医家。

父、春庵。母、斎木氏。

篠崎小竹門下。

岡山藩侍医。

楠 正成 ( くすのき - まさしげ ) の後裔であり、姓の「楠」を「木」と「南」に分け復姓する。病没。81歳。

正面「睡癖木南先生之墓 / 配 堀河道子之墓」。墓標は清水楽山 ( 1821 - 1888 ) 撰書。

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昭和期陶磁器研究家。

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寛文八年 - 宝永二年  ( 1668 - 1705 )

中常。

神道家。


本朝神道の復興を志し、両部習合神道を排して、卜部兼敬より賞書を賜った。『天地運行図』、『神代巻抄』

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井原応輔 ( いはら ‐ おうすけ )
( 1842 ‐ 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 13年 2月 20日生まれ。

土佐高知藩家老深尾鼎 ( かなえ ) の家臣。

古沢南洋らに学び、土佐勤王党に入る。

元治 ( げんじ ) 元年田中光顕 ( たなか - みつあき ) らと脱藩し長門 ( ながと )( 山口県 )、のち大坂へゆく。

2年島浪間 ( しま - なみま )、千屋 ( ちや ) 金策らと中国諸藩を遊説中、美作 ( みまさか )( 岡山県 ) 英田郡土居で賊と誤解されて包囲され、同年 2月 22日自刃 ( じじん )。24歳没。名は徳道。

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滋賀大学教授。

指揮法学者。

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明治期の篆刻家。

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江戸後期の四条派の画家。

京都生。

初名は暉三、字は成文・奇文、通称は主馬・詳介、号は霞城。

松村景文に学び、花鳥・山水・人物を能くする。

元治元年 ( 1864 ) 歿、73才。

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四時堂其諺 ( しじどう - きげん )
( 1666 ‐ 1736 )

江戸時代前期 - 中期の僧,俳人。

寛文 6年生まれ。

京都安養寺正阿弥の住職。

俳諧 ( はいかい ) は宮川松堅 ( しょうけん ) の門人で,貞徳 3世を称した。

斎藤如泉 ( じょせん ) には漢和俳諧を学ぶ。

享保 ( きょうほう ) ごろ京都俳壇で重きをなした。

元文元年8月22日死去。71歳没。

別号に肖菊翁。著作に「御傘取柄抄」「滑稽雑談」など。

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石川 潤次郎(いしかわ じゅんじろう、天保7年(1836年) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末期に土佐藩に仕えていた足軽。諱は直義。


元治元年、土佐藩の命を受けて京都黒谷三条家別宅の警備を勤めていた。

同年6月5日、土佐脱藩望月亀弥太を池田屋に訪ねたところ、池田屋事件に巻き込まれて死亡。享年28。

明治31年(1898年)、正五位を贈られる。
(wikiより)

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三条大橋西側から二つ目の南北疑宝珠に刀傷があります。

これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。

三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
(案内板より)

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「本間精一郎遭難之地」


木屋町四条上るにある本間精一郎 ( ほんましょういちろう ) 遭難之地の石碑です。


本間精一郎は越後の商家に生まれ、江戸に出て勘定奉行川路聖謨に仕えました。

その後京都に移り尊攘派浪士の中心的存在になりました。

しかし、同志達から誤解を招き、文久 2年、木屋町で土佐の岡田以蔵らに斬られました。享年 29歳。

石碑は本間精一郎が遭難した地を示すものです。

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⇧⇩ 刀傷と言われている傷

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鎌倉時代中頃、近衛 ( このえ ) 家からわかれた五摂家 ( ごせっけ ) の一つです。


江戸時代中期には閑院 ( かんいんの ) 宮家の皇子淳宮 ( おうじあつのみや ) が鷹司家を継ぎました。


孫の政通 ( まさみち ) は幕末期三十年以上も関白 ( かんぱく ) 務め、九條尚忠へ譲った後も、内覧 ( ないらん )、太閤 ( たいこう ) として朝廷で重要な役割を担いました。


政通夫人は水戸藩主・徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。


元治元年 ( 1864 ) の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました。
(案内板より)

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ラダ・ビノード・パール英語: Radhabinod Pal, ベンガル語: রাধাবিনোদ পাল, ヒンディー語: राधाबिनोद पाल, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インド法学者裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人


ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した[1]


ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表記では『ラーダービノード・パール』となるが、パール家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望している[2]。東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。

経歴
1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれた。父親はパールが3歳の時に死亡し、母親は子供達を一人で育て上げた[3]。パールは数学の道に進んでいたが、母親はインド独立のためには息子を法律家にすることが必要だと考えていた[3]1907年カルカッタプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年にインド連合州会計院書記生として就職した。


1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。1924年にはカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得した。論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」であった。


1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授。1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出された[注釈 1]1927年にインド植民地政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。


1941年にカルカッタ高等裁判所判事に就任。1944年、カルカッタ大学総長に就任し、1946年3月まで務めた[3]

1946年5月から開かれた極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[注釈 2]


1950年
10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。


1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。


1953年
、下中彌三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所で「インド法哲学思想の潮流」を講演。同年、インド国会下院議員補欠選挙に国民会議派から立候補し、3万6319票を得るが次点で落選(当選者は、5万8211票を獲得した共産党候補)。


1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任した。1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。


1966年10月に清瀬一郎岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。最晩年のパールは、所得税を滞納したことから自宅を失い、恵まれない生活だったと伝えられる。[要出典]

研究業績と思想
東京裁判当時はヒンズー法学者で、著書に『ベーダ時代のヒンズー法哲学』『インド長子相続法』『出訴期限法』などがある。パールは法律の基礎は「真理(リータム)」であるとしばしば語っており、法律は神からのたまものであるが故に尊く、その前に人は平等なのであると説いた[4]


中島岳志は、パールを一貫した「熱烈なガンディー主義者」であり、同時に絶対平和主義者だったと主張した。これに対し中里成章は、パールとガンディー主義に基づく運動との間には接点が見当たらないことと反論し、「概ねインド・ナショナリズムの右寄りの潮流に親近感を持ち、植民地政府と少なくとも表面上は良好な関係を保ちながら、優秀な法律家として活躍し、おそらくヒンドゥー大協会の支持を得てカルカッタ大学副学長にまで登り詰めた、植民地法曹エリート」であり、「そういう人物として植民地政府によって東京裁判の判事に指名され、したがって、インドの独立後、ネルーの新政府と緊張した関係をもたざるをえなかった」人物だと推定している[5]

東京裁判判事選任の経緯
2009年に発見されたインド総督官房の公文書によればパールは、1941-43年に、休暇中の裁判官の穴を埋める形で短期間裁判官代行を務めた弁護士であって、インド総督府の認める正式な判事ではなかったが、国内手続きのミス[注釈 3]により代表に選ばれた[6][7]

東京裁判における主張 (パール判決書)
パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。これは裁判憲章の平和に対する罪人道に対する罪事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではない[8]


パール判決書は法廷においては公表されず、多数派の判決のみが、あたかも全判事の一致した結論であるかのような角度において宣告された。ブレークニー弁護人は、少数派意見も法廷において公表すべきことを強硬に主張したが、容れられなかった。パール判決書は、未発表のまま関係者だけに配布された。[9]


なお、「パール判事は親日家故に日本に有利な主張をした」「反白人のため、欧米に不利な主張をした」という説は事実誤認であり、自身も強くこれを否定している[10]。また、パールの長男も「(パールは)国際法の専門家として東京裁判を批判しただけであり、日本を擁護することを考えていたわけではない」と2007年に語った[11]。事実、パールは意見書の中で、残虐行為などについても、敗戦国の日本やドイツ、戦勝国のアメリカに分け隔てなく批判的見解を述べ、一方の政策への個人的見解を前提とした恣意を強く戒めている。たとえば訴追理由となった日本軍兵の残虐行為についても、多くは実際に行われていたであろうと判定している[12]

パール判決書の概要
パールの裁判における判決書は、英文で1275ページに及ぶ膨大なものであり、全7部で構成されている[3]
一部
裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性[3]

侵略戦争の責任を個人に求めることの妥当性[3]

二部
侵略戦争と自衛戦争の区別。この中でパールは、日本の戦争を一方的な侵略戦争とは断定できないとしている[3]

三部
証拠および手続きに関する規則の検討[3]

四部
訴追事由の一つである「共同謀議」論の否定[3]

五部
裁判の管轄権。この中では真珠湾攻撃以前の案件を扱うことは事後法となり、管轄権を侵害しているとしている[3]

六部
厳密な意味での戦争犯罪の検討。この中では、非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原子爆弾投下を決定した者こそを裁くべきであろうとしている[3]

七部
この部分はパールが裁判に対して行った勧告である。この中で全被告人は無罪であるとしている[3]

南京事件
南京事件については「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの証言や証拠に強い疑問を呈した。ただし、パールは「宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」[13]と、犯罪行為その物は存在したと判断している。


ただし、「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らはたんに誇張されていることを言っているのであり、かつ退却中の中国兵が、 相当数残虐を犯したことを暗示した」[14]として、弁護側が一定規模の残虐行為の存在については争う姿勢を見せなかったために弁論主義の原則から真否を審理せずそのまま判決の基礎とした。そして残虐行為を行った人間は直接の上司と共に既に処罰されている事、「犯罪行為の指示」「故意の無視」といった事実は見受けられないことなどから、被告に繋がる問題ではないとして残虐事件の責任を問われた松井石根に対しても無罪を宣告している。

詳しいことは「ラダ・ビノード・パールウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
(wikiより)

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ラダ・ビノード・パール

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