維新三傑の一人、桂小五郎。
容姿端麗にして神道無念流の達人。
吉田松陰の門下生で理性もあり流血に縁遠く、一生人を斬ったことがないと言われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。
勤皇芸芸妓の第一人者 三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎・二十八才、幾松・十八才、相思相愛の仲となり、激動の時代の中で苦楽を共にし、そして結ばれた。
勤皇の志士と云われる志士たちは最後は大方悲劇に終わっているが、明治十年 ( 1877 ) 五月二十六日に四十五才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、日のあたる道を歩んだ幸運児とも云える。
幾松とても同じで、威信の大業成るや正二位公爵・木戸考允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。
此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることが出来る。
(案内板より)
故内閣顧問贈一位木戸公神道碑の碑
〇 木戸孝允
木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、外国事務掛、参与、参議、文部卿、内務卿。和田 小五郎(わだ こごろう)、桂 小五郎(かつら こごろう)。
明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。名の孝允は「こういん」と読まれることもある。
概略
長州藩出身。藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の指導者となり、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁務座の最高責任者として活動する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚く信頼された。
しかし、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えず、西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。
その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。
生涯
少年時代
天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻。前妻が生んだ異母姉が2人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、7歳で向かいの桂家(家禄150石)の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛孝古)、長州藩の大組士という武士の身分と禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。
少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたという。このときの額の三日月形の傷跡が古傷として残っている。
10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。
嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。
嘉永2年(1849年)、吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。
剣豪桂小五郎
弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸へ帰途に5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上る。
江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。
幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間に剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれる[1]が、桃井春蔵や男谷信友に対しても同じような逸話があるため、本当に桂小五郎をそう評したかどうかはわからない。
一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、士学館の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐国に帰郷していたとの説もある[注 1]。
安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、2017年10月30日に発見された[3]。
留学希望・開国・破約攘夷の志士
マシュー・ペリーが最初に来航した嘉永6年(1853年)、海防の必要性を実感した幕府は大船建造禁止令を撤回し、雄藩に軍船の建造を要請した。さらに江戸湾防衛のための砲台(お台場)建設を伊豆代官江川英龍に命じた。ペリーが浦賀に入港する時には、長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主毛利慶親の警固隊の一員に任じられ、実際に警備にあたった。海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにした。それとほぼ同時期に、藩に軍艦建造の意見書(『相州海岸警衛に関する建言書』[4])を提出した[5]。この提言を受け、嘉永7年1854年に藩主毛利慶親は洋式軍艦を建造することを決定し、さらに安政3年(1856年)に長州藩は恵美須ヶ鼻造船所を開設、君沢形(スクーナー)軍艦丙辰丸と、バーク型軍艦庚申丸が製造された。
小五郎は練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(嘉永7年1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など幕府領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、
・兵学家で幕府代官の江川英龍から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
・浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ。短い修学期間であったが、互いの人格を認めあい、中島の家族からも厚遇された。開明家ながらも中島は幕臣としての立場を貫徹し、箱館戦争の際に2人の息子と壮絶な戦死を遂げた。一方、明治政府成立後も木戸は中島の恩義を忘れず、遺族の保護に尽力している。明治9年(1876年)の奥羽・北海道巡幸に随従した木戸は、往時を回顧して慟哭した。
・幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵からスクーナー洋式帆船造船術を学ぶ
・長州藩士・手塚律蔵から英語を学ぶ(維新の三傑の中で、木戸のみが英語で外国人と会話できたという)
など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。
安政5年(1858年)8月、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命される。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦したことによるもの。同年10月に結婚のため萩に戻る。同年12月24日に松陰の自宅を訪ね、老中間部詮勝の暗殺計画を諫めたため、松陰はこれを断念するも、別の計画(伏見要駕策)を立案したため松陰は野山獄に投獄される。松陰は松下村塾生たちの諫言は聞き入れなかったが、小五郎の言葉には「桂は厚情の人なり。この節同士と絶交せよと。桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」として聞き入れている。
安政6年(1859年)、長州藩江戸藩邸の藩校である有備館の御用掛に任じられ[6]、後輩藩士の育成にも大きく関わった。同年10月27日、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。
万延元年(1860年)年7月2日、大村益次郎と連名で「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出する。ただしこの時の竹島は、現代で言う「鬱陵島」であると考えられている[7]。
万延元年(1860年)7月、水戸藩士の西丸帯刀らと丙辰丸の盟約を結ぶ。
文久2年(1862年)1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追求された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。
同じく文久2年、京都で学習院御用掛に任命され、朝廷や諸藩を相手に外交活動を行う[8]。
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。これにより長井雅楽と、小五郎の義弟(妹治子の夫)である来原良蔵が切腹する。来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は顔を覆って泣き、周囲の者ももらい泣きしたという。
文久2年(1862年)閏8月、会津藩士秋月悌次郎に面会し、京都の事情等について情報を伝える[9]。
文久2年(1862年)9月、対馬藩士大島友之允と面談、対馬藩主宗義和に関わるお家騒動の解決の斡旋を行う。先代対馬藩主宗義章の正室慈芳院が、長州藩10代藩主毛利斉熙の娘であった縁もあり、以降幕末史において対馬藩は長州藩と深い関係を保つ。
同じく9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致することを了解しあった[10]。
文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。
欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。
5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める。この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払うということで決着する。
5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。
文久3年(1863年)8月18日、八月十八日の政変が起こる。三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放された(七卿落ち)。長州藩士は京都留守居役3人を除いて在京を禁じられたが、小五郎は変名を使い京都内を潜伏しながら情報収集と長州藩復権工作を続けたものの、奏功せず一旦帰藩する。
元治元年(1864年)1月、藩命を受けて上京、対馬藩邸などに潜伏し関係諸藩(因幡、備前、筑前、水戸、津和野など14藩に及ぶ)との外交活動を続ける。同年5月、正式に京都留守居役に命じられ、藩を代表して外交活動を行う。
元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。小五郎は会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸に向かったため難を逃れたという説と、池田屋より屋根を伝い逃げたという説がある。この事件により、追い詰められた過激派尊攘志士たちは慎重派の小五郎や周布・高杉らの意見を聞かず、暴発が避けられなくなってしまう。
詳しいことは「木戸孝允ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
(wikiより)
木戸孝允
⇧⇩ 故内閣顧問贈一位木戸公神道碑の碑