本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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( 宗信実母 )

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島津 勝久(しまづ かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国大名島津氏第14代当主。

生涯
文亀3年(1503年)、 島津氏第11代当主・島津忠昌の三男として誕生する。忠兼(勝久の初名)は最初、頴娃氏の名跡を継いでいた。しかし、室町時代末期の頃の薩摩守護・島津氏は、家中の内乱や当主の相次ぐ急死により弱体化しており、そのような中で忠兼は永正16年(1519年)に兄で13代当主の島津忠隆の死去によりその跡を継いだ。急遽家督を継いだこともあり政権基盤は弱く、なおかつ薩州家第5代当主・島津実久が自らの姉が忠兼の夫人であるのをよいことに次第に権勢を強める始末であった(その妻とは後に離縁)。そのため島津氏の有力分家である伊作家の協力を得るために、大永6年(1526年)11月伊作忠良(島津忠良)の長男・貴久を養子に迎えて家督を譲り、国政を委ねて伊作へ隠棲した。ところが、島津実久がこの決定に猛烈に反対し、大永7年(1527年)6月に清水城の貴久を急襲、これを追い落として忠兼を再び守護へと戻した(『島津国史』・『貴久記』など)。翌大永8年(1528年)に忠兼から勝久へと改名した。


ところが、実際には家督を継いだ直後の勝久は亡兄・忠隆時代からの老中(家老)を積極的に入れ替えたために守護家の重臣の間に勝久への不満が高まっていた。新しく起用された老中たちは伊作家に近い者が多く、彼らの影響を受ける形で貴久との養子縁組および家督譲渡が推進されたとみられている。一方、解任された老中は実久の貴久追い落としに加担している上、復帰した勝久によって再登用されている。山口研一は貴久への家督譲渡は勝久の積極的意思ではなく伊作家に近い老中によって動かされた可能性が高く、このため実久により守護職の悔返を求められるとあっさり同意してしまった。だが、こうした朝令暮改を地で行くような勝久の行動が家臣団に非常な動揺を与えたと評している[2]


勝久は実久に擁され鹿児島に戻ると、再び国政を執ろうと図る。享禄2年(1529年)、この事態を憂慮した豊州家島津忠朝は、新納忠勝禰寝清年肝付兼演本田薫親樺山善久島津運久島津秀久阿多忠雄ら島津一族と共に勝久を諌めたが、勝久は聞き入れず一同を憤激させた。また、天文3年(1534年)にも国老である川上昌久が勝久を諌めようと寵臣末弘忠季を殺害する。勝久はこれを恐れて禰寝重就を頼って逃亡するも、翌年に戻って昌久を切腹においやった。これに憤激した実久も遂に勝久を除く意思を固め、同年8月に川上氏と共同して勝久を襲撃した。勝久は直臣にも見捨てられ、実久に「屋形」号を譲って帖佐へ逃亡した。実久はこの時点で守護家の家臣団や国人領主に推される形で守護職に就いたが、その後の貴久系の宗家継承によってこの事実が消されたとみられている[2]。翌月に日向国真幸院北原氏大隅国帖佐の祁答院氏の協力を得て反撃に及ぶが、初戦こそ勝利したものの再び敗れて逃亡、まず祁答院氏を頼り、次いで北原氏、更に日向国庄内北郷氏を頼った。その後、忠良・貴久父子と再度連携して一時的に巻き返しが成功するも、北郷氏を含めて貴久の擁立へと傾き始め、結局勝久は母の実家である大友氏を頼って豊後国へ亡命した。


天正元年(1573年)、同地の沖の浜という地[3]で死去。享年71。墓所は鹿児島の隆盛院、後に福昌院。子に天文4年(1535年)生まれの島津忠康らがいる。忠康は後に薩摩国へ戻り、三人の子は島津義久に仕えて次男は藤野姓、三男は亀山姓を名乗った。また、次男久考以下は大友氏に仕え、大友氏の豊臣氏による改易後、子孫は関東徳川氏に仕えた。また女子の一之台は大友氏の室となり、宗俊は兄の又四郎により殺害されている(詳細不明)。

脚注
1. 『西藩野史』(鹿児島県私立教育会)
2. a b 山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(初出:『青山学院大学文学部紀要』第28号(1986年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5
3. 『島津歴代略記』(島津顕彰会)では、瓜生島の沖之浜としている。

参考文献
・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年

・『西藩野史』(鹿児島県私立教育会 明治29年)
(wikiより)

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島津 忠隆(しまづ ただたか)は、室町時代後期の薩摩国大名島津氏の第13代当主。

生涯
明応6年(1497年)、島津氏第11代当主・島津忠昌の次男として誕生。


永正12年(1515年)、兄で第12代当主・島津忠治の死去により家督を継ぐ。永正13年(1516年)、琉球支配を企んでいた備中国蓮島の三宅国秀を討ち、島津氏の琉球における権益を守った(ただし、この事件を島津氏が琉球貿易独占の口実の為に創作した虚偽の事件とする説もある[1])。兄が倒せなかった吉田位清を討って領内の平定を進めたものの、兄同様に戦乱を好まず文学に傾倒し、古今伝授を受けている。このために島津氏内部の内乱は続いた。


永正16年(1519年)4月14日死去。享年23。墓所ははじめ鹿児島の隆盛院、後に福昌寺に改葬されている。跡を弟の島津勝久が継いだ。

脚注
1. 田中健夫「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって」福島金治 編『島津氏の研究』(吉川弘文館、1983年)、小山博「中世の薩琉関係について」『鳴門史学』7号(鳴門教育大学、1993年)のち、新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年)所収
(wikiより)

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島津 忠治(しまづ ただはる)は、室町時代後期の薩摩国大名島津氏の第12代当主。

生涯
長享3年(1489年)、島津氏第11代当主・島津忠昌の長男として誕生。


永正
5年(1508年)、父・忠昌が自殺したため、その跡を継いで当主となった。この頃の島津氏は、領国内で一族や国人らによる内乱をかかえていたが、忠治は温厚かつ学問好きの当主で、『織鷹秘訣集』を著したり、亡き足利尊有のために鹿児島に大興寺を建立したりするなど、戦国の世と合わないことを多く行ったため、内乱はさらに促進された。


永正12年(1515年)、大隅国吉田城吉田位清攻めのときに陣中で死去。享年27。墓所ははじめ吉田佐多浦の津友寺であったが、後に鹿児島の福昌寺に改葬された。後を弟の島津忠隆が継いだ。
(wikiより)

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島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代守護大名薩摩大隅日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮陸奥守


父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。


日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作家伊作城から櫛間城へ、新納家志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。


文明
3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。


文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を市来雲竜寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。

参考文献
・新名一仁「室町期島津氏〈家中〉の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-」(初出:日本史史料研究会企画部 編『日本史史料研究会論文集2 戦国・織豊期の西国社会』(2012年)/改題所収:「室町期島津氏〈家中〉の成立と再編」・「室町期島津氏の解体過程」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0
(wikiより)

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島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代武将守護大名薩摩大隅日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久立久久逸勝久忠経守棟忠弘頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫陸奥守。法名は大岳玄誉。

経歴
応永10年(1403年)に日向国穆佐院高城(穆佐城)にて誕生、応永32年(1425年)、父が没したため家督を継ぐ。


応永34年(1427年)に日向の伊東祐立と和睦し、永享2年(1430年)に総州家島津久林を討ち取って島津氏を統一させたが、永享4年(1432年)に伊東祐立との和睦が崩壊して再度日向に侵攻するが、領国では渋谷氏伊集院氏ら国衆を中心とした国一揆が発生した。この国一揆は領国支配が危機に瀕するほどの国一揆が起こり、弟の好久(用久)を守護代に任じてその処理をさせたとされている。しかし、好久が力を持ちすぎたことにより兄弟間の争いが始まった、とされる。ところが、近年になってこの時に忠国が隠居したとする史料[1]の存在や、好久が発給した文書が守護の書式である書下方式を用いる一方、守護代が発給する文書である遵行状打渡状が存在しない事実を指摘し、国一揆鎮圧に失敗した忠国は隠居して好久に家督(守護)を譲ったものの、一時的なものと捉えて家督に復帰して実子に家督を譲ろうとした忠国とそうは考えない好久の間で内紛が発生したとする新名一仁の説もある[2]


永享7年(1435年)頃より、樺山孝久北郷知久新納忠臣末広忠勝高木殖家らが重臣・国衆を集めて日向国末吉にいた忠国を奉じて一揆を結成し、これに対して伊作教久山田忠尚種子島幡時伊集院継久ら好久を支持する重臣・国衆たちもこれに対抗する一揆を結成した。もっとも、両者は最初から軍事衝突を意図していたものではなく、特に忠国派は忠国の嫡男とした次男・安房(後の立久)を後継者とすることを好久が認めるように交渉していた[3]


その後、忠国・好久の争いは両者の間で一旦は妥協をみて好久が島津氏の当主として文書の発給を行っているが、謀反を企てた6代将軍足利義教の弟大覚寺義昭を幕命により嘉吉元年(1441年3月13日に自害させたのを機に一転して幕府がこの争いに介入し、同年12月12日に管領畠山持国が忠国に対して好久討伐を命じる御教書を下したことから、忠国は再び挙兵する。ところが、その矢先、忠国が高木殖家を好久に通じたとして討伐をしようとしたところ、家中最大の実力者にして殖家の親友であった樺山孝久が叛旗を翻して殖家救出に乗り出したために好久派の総攻撃を受けることになった。このため、幕府は嘉吉2年10月25日に改めて好久治罰の御教書を発給している[4]。だが、新納忠臣らの奔走で肝付兼忠を寝返らせ、樺山孝久の復帰に成功した忠国は文安5年(1448年)に好久を薩摩国谷山に追い詰める。だが、かつての国一揆の中心であった渋谷氏一族が菊池氏・相良氏の支援を受けて再び挙兵の動きを見せると、これを危惧した新納忠臣らの仲介で両者は和睦を結び、家督は再び忠国に戻された[5]。和解後、好久に分家の薩州家を立てさせた。


宝徳2年(1450年)、かつて伊集院氏領であった石谷(現在の鹿児島市石谷町)が忠国から町田高久(石谷高久とも)に与えられたことにより高久を一族の有力者であった伊集院煕久が一宇治城にて殺害した事件を発端として煕久を肥後へ追放し居城の一宇治城を没収、改修し国内支配を安定させた。また、渋谷氏や相良氏、その他反抗的な国衆との戦いで獲得した出水・阿久根などを好久に譲渡することで、兄弟関係の回復も実現した。ところが、次第に家中に対して強権的な態度で臨むようになり、かつて忠国を支持する一揆を起こした重臣・国衆とも対立を強めることになる。そのため、長禄2年(1458年)に再び忠国排斥の動きが高まり[6]長禄3年(1459年)10月頃に嫡男の立久は新納忠治(忠臣の子、立久には母方の叔父)・樺山長久(孝久の孫)とともに事実上のクーデターを起こし、忠国を薩摩南部の加世田に追放して家督を奪取した[7]。蟄居を余儀なくされた忠国は文明2年(1470年)に没した。


享年
68。晩年は琉球への渡海を画策していたとされる。


没後、立久が後を継ぎ3ヶ国の守護となった。内紛の過程で家督継承から排除された友久が相州家、3男久逸が伊作家(伊作教久の養子となる)、4男勝久が桂氏、5男忠経が迫水氏、7男忠弘が島津系喜入氏(肝付系喜入氏もある)の、それぞれ祖となっている。このうち久逸の孫にあたる島津忠良が伊作・相州両家の家督を兼ね、やがてその系統が近世島津氏へと成長していくことになる。


墓は鹿児島県鹿児島市福昌寺、鹿児島県南さつま市の坊津にある。

脚注
1. 「酒匂安国寺申状」など
2. 新名、2015年、P188-193
3. 新名、2015年、P193-205。なお、長男の友久は好久派である伊作教久の姉を母としており、忠国を擁立した一揆は敵方の血を引く友久を排除して同志の一人である新納忠臣の娘が生んだ立久を後継者として擁したとされる。
4. 新名、2015年、P205-211・248-252。
5. 新名、2015年、P211-218。
6. 『相良家文書』「相良氏山門知行以下由緒書」。なお、同書には好久を再び当主に擁立する動きがあったと記されているが、系譜によれば長禄3年2月に好久は没したため失敗したとみられる。
7. 新名、2015年、P315-316

参考文献
・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。


・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年


・新名一仁『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0

  ・「永享・文安の薩摩国〈国一揆〉-薩摩国山北国人の反島津闘争-」(原題:「永享・文安の薩摩国〈国一揆〉について-薩摩国山北国人の反島津闘争-」『九州史学』122号(1999年))


  ・「嘉吉・文安の島津氏内訌」(原題:「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」『史学研究』235号(2001年))


  ・「文安元年日向国南部国人一揆の意義」(原題:「文安元年日向国南部国人一揆の意義-守護島津氏・庄内国人による山東進出とその挫折-」『都城市史編さんだより 都城地域史研究』9号(2003年))


  ・「室町期島津氏〈家中〉の成立と再編」(原題:「室町期島津氏〈家中〉の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-」日本史史料研究会企画部 編『日本史史料研究会論文集2 戦国・織豊期の西国社会』(2012年))

関連項目
稲荷神社 (鹿児島市)

姫木城

外部リンク
島津忠国の墓
(wikiより)

29 島津忠国

島津忠国

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島津 師久(しまづ もろひさ)は、南北朝時代武将島津氏6代当主(総州家初代当主)。

生涯
5代当主・島津貞久の三男として誕生。


足利尊氏
に属して武功を挙げたため、薩摩国内や肥前国内の地頭に任じられた。父の死の直前である正平18年/貞治2年(1363年)4月、次兄・宗久が早世した為、父から家督と薩摩守護職を継ぐこととなった(大隅守護職は弟・氏久が継ぎ、奥州家の祖となった)。これが総州家の始まりである。その後、家督を子・伊久に譲っている。


天授元年/永和元年(1375年)、今川了俊の謀略で少弐冬資が暗殺されると(水島の変)、この行為に激怒して了俊と対立した。翌年3月、52歳で死去[1]。墓所は初め川内隈之城の称名寺跡にあったが、後に福昌寺跡に改葬された。

脚注
1. a b c d e 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年、198頁。ISBN 464205233X
2. a b c d e 島津顕彰会編 『島津歴代略記』、1985年。 
(wikiより)

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島津 宗久(しまづ むねひさ)は、南北朝時代武将島津氏5代当主・島津貞久の嫡男(次男)。


建武
5年(1338年)、父・貞久と共に高師直の軍に属して、北畠顕家と戦い功を上げる。家督相続の有力候補だったが、僅か19歳で没した。興国元年/暦応3年(1340年)、山門院から薩摩郡平佐へ向かう途中に落馬したのが原因だとされる[1]


その早すぎる死に伴い、弟の師久氏久が守護国の分与を巡って争い、島津氏は総州家奥州家の2家に分裂した。

脚注1. 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1985年)277頁
(wikiより)

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島津忠重男子。

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由羅(ゆら、寛政7年(1795年)- 慶応2年10月28日1866年12月4日)は、薩摩藩主・島津斉興側室である。「遊羅」とも表記する。名字は「岡田氏」を名乗った(岡田利武の養女)が、町人の出身である。法名は「妙深忍大弾定尼」(一説には「妙浄寛忍大禅定尼」)。

人物
出身については江戸大工・工藤左衛門の娘と言われているが、江戸・三田八百屋の娘、その他に舟宿の娘など多数の説がある。薩摩藩邸で奉公していた際に斉興に見初められ、老女・島野の養女となり斉興の側室となる。藩邸には正室・弥姫(周子)がいたため、由羅は薩摩に置かれたが、参勤交代の度に江戸と薩摩に由羅を連れて行くほど斉興の寵愛は深かったともいわれている[注釈 1]


由羅は斉興の三女智姫(夭折)、5男久光、7男唯七郎(夭折)の3子を生む。この3人の子は弥姫との子が生まれた同じ年か1年後に生まれている。斉興は弥姫との間に、智姫の生まれる約3ヶ月前の文化12年(1815年)9月14日に候姫を、久光の生まれる7ヶ月前の文化14年(1817年)3月17日に諸之助を、唯七郎の生まれる1年ほど前の文政2年(1819年)2月13日に珍之助を生んでいる。


文政7年(1824年)に斉興の正室・弥姫が死去すると、由羅は、当時弥姫との子(島津斉彬、池田斉敏)以外で斉興の生き残った息子を生んだ唯一の生母であったこともあり「御国御前」と呼ばれて正室同様の待遇を受けた。その後、息子・久光の藩主就任を謀り、長兄・斉彬の廃嫡を目した事からお由羅騒動と呼ばれるお家騒動高崎崩れともいう)を巻き起こしたとされるが、騒動の鎮圧後に罰を受けることはなかった。斉彬急死後に孫・忠義が藩主に就任したところも見届け、慶応2年(1866年)、鹿児島城下で死去。墓所は福昌寺跡にあり、鹿児島市玉里町に「由羅屋敷」と呼ばれる建物が残っている(見学は出来ない)。


なお、孫である忠義の七女俔子久邇宮邦彦王に嫁し、その長女良子女王は、大正天皇の第一皇子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の妃となった。


お由羅の方が登場する作品
映画
南国太平記1954年東映、演:木暮実千代

・南国太平記(1960年・東映、演:喜多川千鶴

テレビドラマ
・西郷隆盛(1964年フジテレビ、演:月丘夢路

風の隼人1979年NHK、演:南田洋子

翔ぶが如く1990年・NHK大河ドラマ 演:草笛光子

篤姫2008年・NHK大河ドラマ、 演:涼風真世

西郷どん2018年・NHK大河ドラマ、演:小柳ルミ子

小説
・南国太平記(1931年、著:直木三十五

脚注
注釈
1. ただし、斉興が弥姫以外に子を生ませた初めての女性は関根氏であり、文化10年(1813年)10月12日に順姫を生ませており、由羅が文化12年(1815年)12月28日に智姫を生んだ翌年の文化13年(1816年)5月に関根氏との間に男子を生んでいる(翌月死去)。側室の中では斉興の子を多く生んでいた方であったが、弥姫を超えて寵愛されたとは言い難い。なお江戸中期頃の薩摩藩には御国御前になった側室を参勤交代の度に江戸と薩摩に連れて行く先例があった。また由羅は弥姫が最後に生んだ珍之助が生まれた翌年に唯七郎を生むが、その後、斉興との間に子を生むことなく、天保元年(1830年)に斉興の最後の子を生んだのは、西良岱成駿の娘であった。(『伊地知季安著作史料集』に国夫人となった後の島津吉貴生母於重(二階堂氏)が延宝2年と天和2年の2回に渡り、島津綱貴の参勤交代に同行している。なお延宝2年の際には翌年に薩摩に戻り、綱貴を出生している。)。
(wikiより)


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島津 斉興(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名島津氏27代当主。薩摩藩10代藩主。

生涯
家督相続
寛政3年(1791年)11月6日、第9代藩主島津斉宣の長男として江戸で生まれた。生母の実家鈴木氏は浪人であったため、斉興出生後に藩と鈴木氏との間で諍いが起きている[注釈 1]


文化
元年(1804年)10月に元服、将軍・徳川家斉より偏諱を賜って、初名の忠温(ただよし/ただはる/ただあつ)から斉興に改名。従四位下、侍従兼豊後守に叙任。


文化6年(1809年)6月、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は重豪に握られていた。


天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。藩政改革では調所主導の元、借金の250年分割支払いやとの密貿易、砂糖の専売、偽金作りなどが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復した。しかし嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。また対外危機の高まりに際しては、洋式砲術の採用を決め、藩士を長崎に派遣して学ばせたり、鋳製方を設置して大砲の製造などにも着手した。

お由羅騒動
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児に正室・弥姫(周子)(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた(次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた)。本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動(お由羅騒動)が勃発した。これは、斉彬の擁立を望む山田清安高崎五郎右衛門近藤隆左衛門ら50余名が対立する久光とその生母・お由羅の暗殺計画を謀ったものであるが、事前に計画が露見して自害させられた事件である。その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えなかったが、嘉永4年(1851年)2月、老中阿部正弘の調停により、斉興は隠居し、斉彬が家督を継ぐ事となったのである。

晩年と最期
安政5年(1858年7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主を継いだ久光の長男・忠徳が若年であることを理由に、再び藩政を掌握。斉彬が計画していた率兵上洛は取りやめ、安政の大獄で京都から薩摩へ逃れてきた月照の保護を拒んだものの、西郷隆盛の身柄については奄美大島に隠し、幕府には西郷の死を偽装した。また集成館事業の縮小を命じるなど復古的な政策を行ったが、安政6年(1859年)9月12日に病死。享年69(満67歳没)

人物・逸話
・斉興時代に行なわれた改革で薩摩藩は経済発展を果たし、幕末期の財産となったといえる。


・斉彬を嫌ったのは、正室の弥姫(周子)と仲が悪かったためとも言われている。反対に、弥姫との仲はよかったとも言われている。斉興は周子との間に4男1女を儲けており、うち3人目の諸之助は久光と同じ年の生まれである。文政2年に諸之助は死去するが同年に4男の珍之助を生む。翌年珍之助は死去する。実は周子にはお由羅を含む側室たちよりも多くの子を産ませているが、これは薩摩藩では異例なことであった。


・斉彬の急死に関しては、江戸幕府と対立姿勢を強める斉彬の姿勢に対して不満を持つ斉興による毒殺ともいわれる。しかしながら、斉彬が幕府のいいなりになっていることに不満を感じていた資料が存在している。


・斉興がなかなか隠居しなかったのは従三位への官位昇進を狙っていた為という。このため、隠居しても官位昇進が可能だと知るとあっさり隠居したという。


・隠居後も斉彬を後見すること宣言しており、これをやめさせるのに半年かかったという。


薩摩切子の名で知られる薩摩藩のガラス製造は、斉興が製薬館を設置した際に、江戸からガラス職人を招いて薬瓶を製造させたことから始まった。


・若い頃から密教に対する関心が強く、文化7年(1810年)以前に大覚寺門跡亮深より「亮忍」の法諱を授けられ、文政5年(1822年)6月には在俗のまま大僧都法印の免状を受けている。また、文政4年(1821年)には寺社奉行を通じて、領内全域の寺社に『法華経』の「普門品」を与えている[2]

島津斉興と「直看秘法」
鹿児島県歴史資料センター黎明館には「玉里島津家資料」の1つとして『直看経作法伝書』と呼ばれる黒漆塗りの函に納められた文書群が存在する。金泥が施された函の蓋の表題および裏蓋に記された目録の文字は斉興本人の直筆であり、蒔絵が施された目録には文政11年2月25日の日付と斉興自身の花押があることから、斉興自身によって作成・保管された文書群であったことが分かる[3]


斉興は元々島津家に関して独自の歴史観を持っていたことは文政5年に自らの草稿を元に木場貞良に整理・作成した『系譜略』(東京大学史料編纂所所蔵)で知られていた。同書下巻の諸言によれば、瓊瓊杵尊から三種の神器とともに代々伝えられてきた歴代天皇の秘法が存在していたが、清和天皇が我が子経基王臣籍降下する際にこの秘法を授けて経基が「虎ノ巻」と呼び、「虎巻秘法」の名で代々嫡流に伝えられたとする。源頼朝は「虎巻秘法」を島津忠久(島津家には忠久を頼朝の落胤とする伝承がある)に授け島津家歴代当主によって守られてきたが、島津光久の時代に江戸幕府にそのことを追及されたため「虎巻秘法」は失われたと偽って秘かに「直看秘法」と改めて歴代当主のみが知る「最極甚深秘事」としたと記す。すなわち、斉興は「瓊瓊杵尊以来の歴代天皇の秘法が清和源氏の嫡流である島津家当主によって今日まで継承されている」という主張していたことになる。「直看秘法(虎巻秘法)」の実際の由来など不明な部分もあるが、少なくても斉興はこれを史実として信じて、その実践が島津家歴代当主の勤めと信じていた[4]


『直看経作法伝書』は斉興が存在を主張する「直看秘法(虎巻秘法)」に関する集大成であり、その中にある『虎巻根本諸作法最口伝規則』という斉興自筆の文書には文政10年(1827年)に硫黄島八咫鏡が発見され、斉興がこれを入手した時の感慨が記されている。斉興は京都御所(当時)にある八咫鏡は本物ではなく、本物は安徳天皇によって硫黄島に持ち出され、「直看秘法」の実践者である自分が得ることになったと確信し、上山城(現在の城山)に宮を造営して安置したという[5]。安徳天皇の末裔を名乗っていた硫黄島の長浜家(いわゆる「長浜天皇」)には島津家によって中身を持ち出されたとする「開かずの箱」事件が伝えられており[6]、この2つの出来事は対応しているとみられている。


なお、斉興が入手して本物であると主張した八咫鏡とそれを収めた宮の所在は現在では不明となっている[7]

履歴
※日付は旧暦
文化元年(1804年)10月、元服。将軍・徳川家斉の1字を与えられ、斉興と名乗る。従四位下に叙し、侍従に任官。豊後守を兼任。


・文化6年(1809年)6月17日、家督相続。12月16日、左近衛権少将に転任。豊後守兼任留任。


文政元年(1818年)12月16日、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。豊後守の兼任留任。


天保3年(1832年)5月16日、兼任の豊後守から大隅守に改む。


・閏11月2日、正四位下に昇叙。左近衛権中将・大隅守留任。


・天保9年(1838年)12月5日、参議に補任。


・天保13年(1842年)12月1日、正四位上に昇叙。参議留任。


嘉永4年(1851年)2月2日、隠居。


安政4年(1857年)12月15日、従三位に昇叙。


※参考=幕末明治重職補任・附諸藩一覧 東京大学出版会 2016年発行



系譜
・父:島津斉宣(1774-1841)

・母:佐竹義和養女 - 鈴木勝直娘、側室

・正室:弥姫(1792-1824) - 周子、賢章院、池田治道の娘

  ・長男:島津斉彬(1809-1858)

  ・次男:池田斉敏(1811-1842) - 池田斉政の養子

  ・次女:候姫(1815-1880) - 山内豊熈正室

  ・四男:諸之助(1817-1819) - 早世。文化14年(1817)3月17日生

  ・六男:珍之助(1819-1820) - 早世。文政2年(1819)2月13日生

・側室:お由羅の方(1795-1866) - 町人の出

  ・三女:智姫(1815-) - 夭折

  ・五男:島津久光(1817-1887) - 種子島久道島津忠公の養子

  ・七男:唯七郎 - 夭折

・側室:関根常忠

・側室:西成駿

・生母不明の子女

  ・長女:順姫 - 本多康融正室

・養子

  ・女子:郁姫(1807-1850) - 興子、島津斉宣娘、近衛忠煕正室

  ・女子:有馬晴姫(1820-1903) - 晴雲院、島津斉宣娘、有馬頼永正室

  ・女子:勝姫 - 島津斉宣娘、松平康寿正室


玄孫に香淳皇后昭和天皇后)、子孫に上皇今上天皇

脚注
注釈
1. 当初、鈴木氏が娘を旗本に養女に出してから側室にしたのがとがめられたとされる[1]。しかし、徳川将軍家の側室もこのような形で出身を底上げしていることは多く、何故このことが諍いとなったのかは今なお解明されていない。

出典
1. 薩藩旧記雑録』所収文書など。
2. 鈴木、井上編(2016年)、P98
3. 鈴木、井上編(2016年)、P101-102
4. 鈴木、井上編(2016年)、P99-100
5. 鈴木、井上編(2016年)、P103-106
6. 鈴木、井上編(2016年)、P86-89、94-97
7. 鈴木、井上編(2016年)、P106

参考文献
・鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4

登場作品
NHK大河ドラマ
・『翔ぶが如く』(1990年) 演:江見俊太郎

・『篤姫』(2008年) 演:長門裕之

・『西郷どん』(2018年) 演:鹿賀丈史
(wikiより)

24 島津斉興

島津斉興

24a

24b

24c

24d

24e




万千代丸 ( 島津義弘・男子 )

13a

13b

13c



鶴寿丸 ( 島津義弘・男子 )

12a

12b

12c



家房夫人 ( 持明院 ) 樺山善久女。

11a

11b

11c

11d



島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代から室町時代武将守護大名大隅日向薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。久豊の兄。子に仲翁守邦


至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主島津伊久守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡硫黄島を含む)を譲られた[1]。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題今川了俊の4男尾崎貞兼北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も、両島津家は協力して了俊に協力していた国人入来院氏渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家・奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた[2]


しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し[1]、更に薩摩に清水城を作ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される[2] )。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされて後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している[2]


応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどしたが、伊集院頼久伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する[2] 。また、樺山氏新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった[2] 。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ[1]、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津泊津を奪った[2] 。応永16年(1409年)9月10日には薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。なお、この際、日向にいた久豊と会談して和睦している[2]


その後も、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、李氏朝鮮琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺鹿児島神社の社殿建立も行った。


応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。


奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。

参考文献
・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。

・都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年

・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年

・新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0

関連項目
伊集院頼久の乱

郡元 (鹿児島市)

脚注
1. a b c d 『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年
2. a b c d e f g 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0
(wikiより)

8 島津元久

島津元久

10a

⇧⇩ 何故に島津元久のお墓が 2基有るんでしょう?

10b

10c

10d



島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国武将大名戦国大名島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公いしんこうとの敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている[2]

生涯
黎明期
天文4年7月23日1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれる[3]。はじめ忠平と称したが、後に室町幕府15代将軍足利義昭から偏を賜って義珍(よしたか)と改め、さらに義弘と改めた。


天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重入来院重嗣蒲生範清菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る[3]弘治3年(1557年)、大隅国の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受け重傷を負った[3]


永禄3年3月19日1560年4月24日)、日向国伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入った[3]。しかし永禄5年(1562年)、薩摩国の本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。


北原氏
の領地が伊東義祐に奪われたため島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降は飯野城を居城とすることになる[3]


永禄9年(1566年)、伊東義祐が飯野城攻略のために三ツ山城を建設中と聞き及ぶと、兄・義久、弟・歳久と共にこの完成前に攻め落とそうとするが、城は落とせずまた伊東の援軍と挟み撃ちにあい、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。

勢力拡大
義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。


天正
5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げている。天正9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食するが、志賀親次など大友方の城主の抗戦によってその攻勢を頓挫になった。


天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉九州平定軍と日向根白坂で戦う(根白坂の戦い)。このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。その後の5月8日6月13日)に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日6月27日)に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて高野山の木食応其の仲介のもと降伏した。このとき秀吉から大隅国を所領安堵されている。


なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。


天正16年(1588年)に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜された。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された[4]


豊臣政権下
その後は豊臣政権に対して協力的で、天正20年(1592年)からの文禄の役慶長2年(1597年)からの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。


文禄の役では四番隊に所属し1万人の軍役を命ぜられたが、旧態依然とした国元の体制や梅北一揆により、豊臣体制下では生存条件とも成る軍役動員がはかどらなかった。


義弘は軍役を果たすため、大隅国栗野の居城を23騎で出立し、肥前国名護屋に期日までに着到したが、国許の義久らから送られてくるはずの軍勢・軍船が延引した。そのため、義弘は書状に「龍伯様のおんため、御家のおんためと存し、身命を捨てて名護屋へ予定通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまった……無念千万である」と書くほど、島津の軍勢は遅陣となった[5]


その後、島津の軍勢は四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。


慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。


慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。


朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。


日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」[注釈 3]と朝鮮・明軍から恐れられていたとされている[注釈 4]

関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)の秀吉死後、慶長4年(1599年)には義弘の子・忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動が起こる。この頃の島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵だけであった。 そのため、義弘はこの時、参勤で上京していた甥の島津豊久らと合流し、豊久が国許に要請した軍勢などを指揮下に組み入れた[5]


慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した(『島津家代々軍記』)。


しかしながら、家康が上杉征伐のために出陣し、上杉征伐を行おうとしていた慶長5年(1600年)の7月15日に、義弘は上杉景勝に対して「毛利輝元宇喜多秀家前田玄以増田長盛長束正家小西行長大谷吉継石田三成らが「秀頼様御為」であるので上杉景勝に味方する。そして、それに私も加わる。仔細は石田三成より連絡があると存します」という書状を送っており、この頃には、すでに西軍の首謀者の一人として、毛利・石田らと共に、反家康の動きに参加していた[8][9]


伏見城攻めで奮戦し、討ち死・負傷者を出した後、濃州垂井の陣所まで進出した義弘が率いていた兵数は、1000人ほどであった。そして、この時に、義弘が国許の家老の本田正親に宛てた書状で援軍を求めた結果、新納旅庵伊勢貞成相良長泰大田吉兵衛後醍院喜兵衛長寿院盛淳らを始めとした譜代衆と有志・志願者の390人ほどの兵が国許から上京し、合流した[5]


石田三成
ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策[注釈 5]が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いたと言われているが、これは後世に書かれた『落穂集』という二次的な編纂物にしか記載されておらず、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、この逸話は史実だと断じることはできない[10]。関ケ原直前には、黒田長政も義弘に調略の書状を送っている。その内容は婚姻関係を結ぶなど家康の計略と同じであった。

9月15日10月21日)の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。


関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。


島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この撤退劇に対して井伊直政本多忠勝松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した[注釈 6]。 しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。


このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで11月28日まで70日間滞在し無事帰国した。無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。その際に義弘は摂津国住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている[11]。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。



島津家の存続
薩摩に戻った義弘は、徳川に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で徳川との和平交渉にあたった。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼した。直政は徳川・島津の講和のために奔走している。また福島正則の尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久が家康と親しい間柄ということもあり、両者の仲介に当たったといわれる。


慶長5年9月30日(1600年11月5日)、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令した。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず膠着した状態が続いた。関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、もしここで長期戦になって苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。そのため、徳川家は交渉で決着をつけようと島津家に圧力をかけていた最中、薩摩沖で幕府が国家運営で行っていたとの貿易船2隻が襲われ沈められるという事件が起きてしまう。この事件の黒幕は島津家とされており、もし武力で島津家を潰せば旧臣や敗残兵が海賊集団を結成し、貿易による経済的基盤の脅威になるという、いわば徳川家に対する脅しをかけたとされる。こうした事態から家康は態度を軟化せざるを得ず11月12日12月17日)、島津討伐軍に撤退を命令した。そして、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」また、義弘の処遇も「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めは無しとする」とした。こうして島津氏に対する本領の安堵、忠恒への家督譲渡が無事承認された(異説あり)[注釈 7]


島津家を誅伐出来なかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされる。

晩年
その後、大隅の加治木隠居した。隠居後は若者たちの教育に力を注ぎ、元和5年7月21日(1619年8月30日)に同地で死去。享年85(満83歳没)。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死している。

辞世の歌として、

・「天地(あめつち)の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」

・「春秋(しゅんじゅう)の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり」


の2首が伝わっている。

詳しいことは「島津義弘ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
(wikiより)

9 島津義弘

島津義弘

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島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代から室町時代武将守護大名大隅日向薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。久豊の兄。子に仲翁守邦


至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主島津伊久守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡硫黄島を含む)を譲られた[1]。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題今川了俊の4男尾崎貞兼北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も、両島津家は協力して了俊に協力していた国人入来院氏渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家・奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた[2]


しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し[1]、更に薩摩に清水城を作ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される[2] )。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされて後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している[2]


応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどしたが、伊集院頼久伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する[2] 。また、樺山氏新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった[2] 。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ[1]、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津泊津を奪った[2] 。応永16年(1409年)9月10日には薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。なお、この際、日向にいた久豊と会談して和睦している[2]


その後も、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、李氏朝鮮琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺鹿児島神社の社殿建立も行った。


応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。


奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。

参考文献
・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。

・都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年

・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年

・新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0

関連項目
伊集院頼久の乱

郡元 (鹿児島市)

脚注
1. a b c d 『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年
2. a b c d e f g 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0
(wikiより)

8 島津元久

島津元久

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島津 久豊(しまづ ひさとよ)は、室町時代武将守護大名薩摩大隅日向守護。島津氏第8代当主。6代当主・島津氏久の次男で元久の弟。母は佐多忠光の娘。子に忠国用久季久有久豊久


応永8年(1401年)頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。その後、応永10年(1403年)に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永17年(1410年)に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた[1]


応永18年(1411年)8月に兄が死去、甥の仲翁守邦は出家していたため、兄から後継者に決められていた甥の伊集院煕久が継承することになった。だが、久豊は閏10月になって鹿児島に乗り込んで元久の位牌を奪取した上で煕久を追放し8代当主となった。久豊の強引なやり方により国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになり、伊集院頼久(久氏の子で煕久の父)と衝突した。久豊には穆佐城に近く元久時代に権力を振るった伊集院氏を嫌う大隅・日向の一門・家臣が、頼久には薩摩の一門・家臣及び大隅の肝付兼元が支持し、更に総州家島津久世もが頼久を支援した。さらに応永19年(1412年)には義兄である伊東祐立が離反して久豊の居城であった日向の穆佐城を奪って妹である久豊室と2人の息子(忠国・友久)を捕らえようとしたが、落城寸前に樺山教宗北郷知久が久豊の妻子を救出した[1]


一時苦戦したが、応永23年(1416年)に和睦を名目に鹿児島に呼び出した久世を討ち取る。しかし、久世を騙し討ちにしたことは久豊の心にも重くのしかかり、この年に出家して存忠と称している。翌応永24年(1417年)に和睦が成立。伊集院頼久とその盟友である伊作久義・勝久父子は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。また、応永25年(1418年)には市来氏と入来院氏も久豊に従い、戦いの焦点は久豊の奥州家と島津守久(久世の父)・忠朝兄弟が依然として抵抗を続ける総州家との争いに絞られていく[1]


応永28年(1421年)に島津忠朝を降伏させて総州家に伝わる島津宗家の文書を接収するとともに総州家の拠点である薩摩郡を平定、また伊作氏と久豊派国人との所領争いを仲介して薩摩半島の安定化にも成功した。翌応永29年(1422年)に島津守久及び久林(久世の嫡男)を肥後に追放して総州家・奥州家の両島津氏の抗争も終結させた[1]室町幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねた事を認め守護職を与えた[2]。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。


応永30年(1423年)、伊東氏に報復するために日向への出兵を行い、大淀川以南を奪還して一旦は薩摩へ帰国する。だが、この年に病を発した久豊は2年後の応永32年(1425年)に鹿児島で病没した[1]享年51。


家督は嫡男の忠国が継いだ。また後に、次男の用久が薩州家、三男の季久が豊州家、四男の有久が羽州家(後に大島氏)、五男の豊久が伯州家(後に義岡氏・志和地氏)をそれぞれ興した。

脚注
1. a b c d e 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0
2. 久豊が守護職を与えられた年次は不明であるが、久豊が管領畠山満家の重臣・遊佐助国(豊後守)に充てた書状の中に「去年、上様(将軍足利義持)から三ヶ国の安堵と官途を戴いた」とあるため、将軍義持ー管領満家体制が存在した時期からみて前年にあたる応永28年(1421年)もしくは翌応永29年(1422年)に限定される(「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」)。

参考文献
・都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年。

・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年

・新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0

関連項目
伊集院頼久の乱

慈眼寺 (鹿児島市)

知覧城
(wikiより)

7 八代・島津久豊

島津久豊

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島津 久保(しまづ ひさやす)は、安土桃山時代武将島津義弘の次男。

略歴
豊臣秀吉九州征伐後、日向国諸県郡に所領を与えられたが一時的ではあるが豊臣氏の人質となる。早くから伯父・義久、父・義弘から後継者と目され、小田原征伐文禄の役に参陣したが、文禄2年9月8日1593年10月2日)、朝鮮国の唐島(巨済島)で病死した。享年21。殉死者が3名出ている。


伯父である義久は久保を弔う為に、冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている[3](後述)。 また、堀之内久規平山忠続という者が、久保の菩提を弔うために山伏となり(久規は日限坊、忠続は一忠坊と改名)、六十余州を廻歴して一国三部の法華経を納めている。

愛猫
朝鮮出兵で父・義弘は正確な時刻を計るためにを7匹従軍させた。これは猫の目が明るいところでは細くなり、暗いところでは丸くなる変化から、時刻を読み取ったものである。7匹のうち生還できたのは2匹だけだが、そのうちの1匹を久保が可愛がり、ヤスという名前で、白地に黄色の波紋があった。磯庭園の一角に猫神神社がありこの7匹の猫が祀られている。絵馬は白と黄色の猫で、ヤスの模様を表している[4]

島津義久の弔いの和歌
・「南」 なく蟲の 聲は霜をも 待やらて あやなく枯るる 草の原かな

・「無」 紫の 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行衛なるらん

・「阿」 雨はただ 空にしられぬ 習なれや 憂き折々の 袖にかかりて

・「弥」 みし夢の 名残はかなき ね覚かな 枕にかねの 聲ばかりして

・「陀」 尋ねても 入らまし物を 山寺の ときおく法の 深きこころを

・「佛」 筆をみぎに 弓を左に もてあそぶ 人のこころや 名に残らまし

脚注・出典
1. 『戦国史料叢書6 島津史料集』島津氏略系に記述。
2. 『戦国史料叢書6 島津史料集』島津氏略系、『上井覚兼日記』、『延陵世鑑』他に記述。
3. 『島津中興記』青潮社 1979年
4. 須磨章『猫は犬より働いた』(柏書房、2004年)145-149頁
(wikiより)

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島津 歳久(しまづ としひさ)は、戦国時代武将島津貴久の三男で、島津義久島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。

生涯
略歴
祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。


その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方(現在のさつま町の大部分と薩摩川内市の一部)へ退くこととなる。


しかしその1年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。


永禄
5年(1562年)、島津氏・北郷氏相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。


この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城(現・宮之城屋地)に拠った祁答院良重は、なお入来院氏東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(島津実久の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏、東郷氏などの渋谷一族はこぞって帰順し、ここに島津氏は鎌倉時代以来強勢を誇った渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る事になる。


天正3年(1575年)には先行した弟の家久に引き続いて、歌道の伝習のために上洛。ただ歌道伝習は名目的なものであり、実際は情報収集と織田信長とのパイプを強化することが最大の目的であった。


天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢の侵略により豊後国に一時的に退去すると、伊東氏一族の娘であった梅を梅君ヶ城に連れ帰る。梅は歳久の側室となり、後に伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。


天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城(現在のさつま町宮之城)を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。

九州征伐
豊臣秀吉九州征伐の際、家中が抗戦へ傾く中で秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して、四兄弟中ただ一人上方との和平を唱えたという。しかし評議の場で和睦案は一蹴され、島津氏は秀吉と戦うことになる。[2]


一方で家中が和睦に傾いた時に、歳久は、「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張。義久・義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗。秀吉が川内泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家臣を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。予め襲撃に備えた秀吉の駕籠は空駕籠にしていた為、秀吉は難を逃れたが、矢を射かけたのは歳久の家臣の本田四郎左衛門であった。

秀吉の征討
1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵文禄の役)も病気(中風)を理由に出陣しなかった[3][4][5]。嘘ではなかったのだが、今回だけではなく普段から上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久、義弘、家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われるが、これ以後も、島津氏は長兄義久から本当に独立してしまった兄弟はいない。


それに加えて、同年に島津氏の家臣・梅北国兼が秀吉に対して反乱(梅北一揆)を起こしたとき、その反乱軍に歳久の家臣が多く参加したことなどからも、秀吉の怒りを一手に買うことになり、兄・義久の追討を受けて自殺しようとしたが、追手が立ちはだかっていたため、竜ヶ水にて追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦うことになった。その最中に自害しようとしたものの、体が不自由なため、上手く自害できず、また追手も太守の実弟ということで手が出せずにいたところで「早う近づきて首を取れ」と歳久が言い暫くの後、原田甚次が首を取った。享年56。歳久の自害の際伴の者二十七名が殉死し、討手の者たちも皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し、声を上げて泣いたという[6]


亡骸を調べると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤殿下の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではない」という主旨の文がしたためられていたと伝わる。


辞世の歌は「晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」。


首級は京都一条戻橋に晒された後島津忠長によって盗み出され京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った[7]


歳久死後、娘婿・忠隣の嫡男島津常久が跡を継いだ。その子孫は藩政時代を通して日置領9000石を領したために日置島津家と称され、維新に至り男爵に叙された。

人物・死後
・酒豪であったといわれ、家中内の酒宴などでは下戸と伝わる兄・義久に代わり家臣の杯を受けることも多かったといわれる。しかし晩年は中風を患い、後述するように自害の際もそれが原因で難儀している。


・前述のとおり、島津家中では豊臣秀吉を脅威とする数少ない人物の一人であった。だが皮肉なことに、最終的には反秀吉の最も強硬派の一人となる。


・自害の折中風により刀を握ることが出来ず、傍らの石を持って割腹せんとして苦痛を味わったとも伝えられている[1]。この際に「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と言ったともされており、平松神社には「戦の神」として以外に「安産の神」としても信仰されている[1]。またこの故に「お石様」とも呼ばれるようになった。


・歳久が死ぬまで領した祁答院領は都城島津家の北郷時久が入り[8]、さらには島津貴久の三弟である尚久の息子忠長(宮之城島津家)が領して維新を迎えることになったが、現在でも旧祁答院領(鹿児島県さつま町)の住民の歳久に対する思い入れは深く、「島津金吾左衛門督歳久(金吾様)」を祀る神社が町内の各地に見られる。特に旧薩摩町中津川地区にある『大石神社』では、毎年9月18日前後の秋季例大祭において「金吾様踊り」が奉納され、祭礼当日は多くの人で賑わいを見せている。


・旧薩摩藩内ではその生き様から多くの藩士の崇拝を受け、妙円寺詣りと同様に心岳寺詣りも盛んに行われた。また幕末に安政の大獄にて錦江湾海上に追い詰められた西郷隆盛が、自身の覚悟として小舟の上で同乗していた僧月照に歳久の故事を語った後、心岳寺の方角へと手を合わせ闇夜の海に身を投じたともいわれる。


島津義久・義弘の追悼の和歌
・島津義久

  ・岩木まで 蔭ふる寺を 来てみれば 雪の深山ぞ 思ひやらるる[1]

  ・住み馴れし 跡の軒端を 尋ねてきて 雫ならねど 濡るる袖かな[1]

  ・写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋[1]


・島津義弘

  ・夕浪に 月と雪とを 待ちとらば いづくはありと 磯の山寺[1]

  ・み佛を 頼むものゆえ 袖に散る あられの玉を 手向けにやせむ[1]


家臣・陪臣
鎌田政金(囚獄左衛門)

木脇祐定

木脇祐春(民部丞)

遠矢良時

本田四郎左衛門

上床新助

脚注
1. a b c d e f g h i 『島津歳久の自害(増補改訂版)』島津修久著 島津顕彰会、2000年10月
2. 以上は島津家側の史料による。豊臣側の史料『豊臣鎮西軍記』には、歳久の名前はなく、活動は不明である。また、島津家の代表者は義久・義弘となっている。本文中では、義久・義弘・家久と肥後口の総大将であった政久(まさひさ)が登場する。
3. さつま人国誌「島津歳久、波乱の生涯・下」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6826
4. さつま人国誌「島津歳久の最期」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6877
5. 九州征伐の頃には病気のため乗馬できず、輿に乗って闘ったと史料にある
6. 『宮之城人物伝』宮之城町史談会編纂 1983年3月
7. 現在の平松神社はこの心岳寺の跡地に立てられたもの。毎年旧暦7月18日にはその遺徳を偲んで「心岳寺詣り」が行われる。
8. 尚、時久が祁答院に入部した際に旧領の都城を偲んで祁答院の中心部(虎居・舟木・時吉など)を「宮之城」と命名したといわれる。このため現在において「祁答院」と呼ばれる薩摩川内市祁答院町は藺牟田・大村・黒木であり、「本来の祁答院」からいえば端に当たる。

外部リンク
特集/金吾さぁ 島津歳久の史跡を訪ねて

・さつま人国誌「島津歳久、波乱の生涯・上」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6788

・さつま人国誌「島津歳久、波乱の生涯・中」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6810

・さつま人国誌「島津歳久、波乱の生涯・下」http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=6826
(wikiより)

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島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩守護大名戦国大名。島津氏の第15代当主。

略歴
戦国大名としての島津氏の中興の祖である伊作忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏9代島津忠国の玄孫にあたり、14代島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。薩摩守護職・大隅守護職・日向守護職。官位は従五位下修理大夫、陸奥守。


正室は肝付兼興の娘、彼女の死後後妻として入来院重聡の娘を迎える。他、側室に本田氏(島津家久の母)。

生涯

家督相続
永正11年5月5日(1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作家相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。


そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)11月、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者となった。大永7年(1527年)4月[1]、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入って正式に家督を継承した[2]

島津実久の台頭
加世田出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、実久方で加治木伊集院重貞・帖佐の島津昌久が叛旗を翻した。実父の伊作忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り、島津勝久の守護職復帰を説いた。貴久は鹿児島で攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退いた。大永7年(1527年)5月に貴久は島津勝久との養子縁組を解消され、勝久は守護職の悔返(譲渡の無効)を宣言した。


従来、この一連の流れは近世の薩摩藩によって編纂された『島津国史』などによって実久の謀反として解釈されて通説となっていたが、実際には守護である勝久と先代当主であった兄(忠治・忠隆)の時代からの老中(家老)との間で対立があり、勝久は自分に近い者を老中として登用していた。勝久と貴久の縁組を推進したのは忠良の支援で本宗家の立て直しを図ろうとした後者の働きかけによるところが大きく、勝久の積極的な意思ではなかった。これに対して勝久に罷免された古くからの老中は貴久との縁組に反対して実久と結んだのである(伊集院重貞は勝久以前からの本宗家の老中であった)。このため、実久の挙兵を見た勝久は一転して考えを変えて守護職の悔返を図って自らの政治的権力の回復に乗り出したのであった[2]


ところが、勝久と老中達の対立は解消されないどころか却って深刻化し、老中達は実久を新たな本宗家の当主に擁立する動きを見せ始め、その結果、天文4年(1535年)には老中達は実久を迎え入れてクーデターを起こし、勝久を追放して実久を新しい本宗家当主・薩摩守護職にして擁立したのである。大隅国日向国の国人の中でも実久を支持する動きがあり、実久は一時的ではあるが名実ともに守護としての地位を確立したのである(こうした事情はこの時期の古文書の研究から明らかになったもので、貴久による統一後に作られた島津氏の史書からは抹消されている)[2]


この間、伊作忠良は薩摩半島南部の国人衆(「南方衆」)を味方に取り込んで薩摩半島の掌握に努めた。天文2年(1533年)、貴久は日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げている。そんな中で起きた島津本宗家のクーデターが発生し、守護を追われた勝久が再び忠良・貴久父子と結んだのである。一方、新しく守護になった実久から見ても守護所のある清水城(鹿児島)は薩摩半島の付け根にあり、忠良・貴久父子の存在は脅威であった。このため、両者の間で戦いが始まるが、実久の本拠地であった出水と鹿児島の間には距離があり、その間には渋谷氏一族(祁答院入来院東郷の諸氏)の支配地域があった。忠良は渋谷氏一族と結んで実久を牽制したのである[2]



薩摩統一
天文5年(1536年)、反攻を開始した忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して、入城した。続いて、天文7年(1538年)から翌にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し、攻め落とした。そして、天文8年(1539年)に紫原において決戦が行われて実久方を打ち破った。実久は再起を期すために出水に撤退して守護としての実質を失い、そもそもの混乱の発端であった勝久も鹿児島に復帰する支持を得る事が出来ず、母方の大友氏を頼り豊後国亡命していった。ここに伊作家出身の貴久は鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座についた[2]


ところが、忠良・貴久父子の急激な台頭は島津氏の一門や薩摩・大隅の国人衆に動揺を与えた。天文10年(1541年)になると、豊州家島津忠広肝付兼演本田薫親(ともに勝久時代の老中)らが共謀し、豊州家以下13氏が勝久の子・益房を擁して貴久方である大隅・生別府(おいのびゅう)の樺山善久を攻めた。13氏の中にはこれまで貴久方であった筈の渋谷氏一族も含まれており、忠良・貴久父子に味方するのは南方衆や肝付兼続など少数に過ぎなかったが、辛うじてこれを撃退した。忠良・貴久父子は本田薫親に樺山氏を生別府から薩摩谷山に移封させてその空地を与えると持ち掛けて和睦し、13氏の連合を崩すことに成功した[2][3]。天文14年(1545年)に入ると朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して貴久が同国の国主として朝廷に公認される形になった。また、同じ天文14年(1545年)には伊東氏の侵攻と家督相続問題を抱えた豊州家が貴久の保護を求めて従属し、天文18年(1549年)には肝付兼演が降伏、本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも独自の行動が多く[注釈 2]、天正17年(1549年)に朝廷に対して勝手に官位を申請したことが叛逆とみなされて討伐・追放された[注釈 3][3]。そして、出水で抵抗を続けていたとみられている島津実久も天文22年(1553年)に病死して後を継いだ義虎は貴久を守護として認めたのである[2]


天文19年(1550年)、貴久は伊集院城から鹿児島へと移るが、薩摩守護の島津氏の守護所であった清水城を避け新たに内城を築いて戦国大名島津氏の本城とした。天文21年(1552年)、貴久は歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられるとともに、自分の嫡男である忠良(貴久の実父と同名である)に将軍足利義輝から偏諱を授けられて「義辰」(後に「義久」と再改名)と名乗らせることに成功した。また、同年には実久の薩州家以外の島津氏一門・庶家から守護である貴久を中心に「一味同心」することを盟約した起請文が作成された。貴久が勝久から守護職を譲られてわずか1か月で悔返されてから25年、薩摩の国主としての地位を確立してから13年にして、ようやく朝廷・室町幕府および島津氏一門のほとんどから守護として名実ともに認められたのである[2][3]

大隅合戦
大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域であった。これらは島津氏の領土拡大において多大な障害となっていた。天文23年(1554年)、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛(兼演の子)を蒲生範清祁答院良重入来院重朝菱刈重豊らが攻めた。加治木を救援するために島津氏は貴久はじめ一族の多くが従軍した。貴久は祁答院氏のいる岩剣城を攻めることで、加治木城の包囲を解こうと考えた。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清・祁答院一族ら2000余人が押し寄せた。島津軍は蒲生軍を撃破し、祁答院重経・西俣盛家など50余人の首級を挙げた。


貴久は続いて、弘治元年(1555年)、帖佐平佐城を攻略し、弘治2年(1556年)、松坂城を攻略した。支城を3つ失った蒲生氏は本拠の蒲生龍ヶ城を火にかけて祁答院へと逃げ帰った。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにすることができた。

晩年
永禄9年(1566年)、剃髪して長子の義久に家督を譲り、自らは伯囿と号して隠居した。


元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に加世田にて死去。享年58。

死後
1920年(大正9年)11月18日従三位が贈られた[6]

人物・逸話
・貴久は悲願の旧領三州(薩摩、大隅、日向)の回復こそ果たせなかったが、彼の遺志は息子達に受け継がれていた。義久は翌年には日向の伊東氏を木崎原で撃破。さらに次の年には肝付氏を服属させ、島津家は薩・隅・日三州の太守としての地位を確立させている。後に九州制覇を成し遂げた戦国大名島津家の基礎を形成したという意味で、父の忠良とともに「中興の祖」と並び称されている。


・島津家は室町時代から琉球と交易をしており、貴久も琉球の尚元王と修好を結び、ポルトガル船などから銃や洋馬を輸入し、産業事業を興した。また、貴久は永禄中インド総督親書を送るなど外交政策にも積極的に取り組んだ。鉄炮種子島氏より献上されると数年後には実戦で利用している。天文18年(1549年)に来日したフランシスコ・ザビエルキリスト教の布教許可を出している。しかし寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから、後に布教を禁止している。


・史料上、鉄砲を実戦に初めて使用した戦国大名は貴久であるとされており、入来院氏との戦いが初見とされている。

脚注
注釈
1. 戒名の院号より。没後の敬称。
2. 天文14年(1545年)に町資将が薩摩に下向した際に代々老中を務めていた本田薫親が饗応役を務めていた。だが、2年後に朝廷が賀茂社再興の為に協力を依頼するために町資将から本田薫親に書状が送られた際、忠薫は返書の中で大隅の半分は鹿児島(貴久)に「不忠」で同国での奉加徴収は困難であると書いた。寺社造営のための段銭徴収は守護の責務と考えられていたこの当時、この返書は貴久が大隅を守護としての統治を確立できていないという事実を朝廷や幕府に伝えたのも同然で、貴久にとっては政治的打撃であった[4]
3. 薫親の子・重親は天文16年9月に左京大夫に補任され、自身も四位への叙位を申請していた。島津本宗家当主の代々の官位は四位の修理大夫であり、薫親父子の申請が認められれば、島津本宗家と同格となってしまうため、本田氏がその本拠地である大隅守護の地位を狙っているとみなされる性格を持ち、またこれが認められれば島津氏本宗家の権威が低下して大隅や日向の国人衆の自立化に拍車をかける恐れがあった。更に貴久が守護として内外に認められるためには薩摩だけでなく大隅支配が確立していることを内外に示す必要があったが、大隅の有力な国人でもあった本田氏の討伐は島津氏の大隅支配が進んでいることを朝廷や幕府に示す好機でもあった[5]

出典
1. 「(大永7年)6月16日付土持右馬頭宛島津忠朝書状」(『鹿児島県史料旧記雑録』前編2010号)
2. a b c d e f g h 山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(初出:『青山学院大学文学部紀要』第28号(1986年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5
3. a b c 大山智美「戦国大名島津氏の権力形成過程―島津貴久の家督継承と官途拝領を中心に―」(初出:『比較社会文化研究』25号(2009年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5
4. 大山、2014年、P284-289
5. 大山、2014年、P283-290
6. 『官報』第2491号、「叙任及辞令」1920年11月19日。
(wikiより)

4  Shimazu_Takahisa

島津貴久

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島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国守護大名戦国大名島津氏第16代当主。


島津氏の家督を継ぎ、薩摩大隅日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国龍造寺氏を撃ち破った。


義久は優秀な3人の弟(島津義弘歳久家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。

生涯
幼少時
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。


幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩大隅日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。


元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)をとし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱(「義」の1字)を受け、義辰(よしたつ)、後に義久と改名している(以下、本記事中では全て義久と記す)。

三州統一
天文23年(1554年)、島津氏と蒲生氏祁答院氏入来院氏菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557年)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570年)には東郷氏・入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。


この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。


島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国伊東義祐と対峙していた。元亀3年(1572年)5月、伊東義祐の重臣・伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎伊東祐青(修理亮)らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安、伊東祐信、伊東又次郎など大将格五人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである(木崎原の戦い)。

また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、天正元年(1573年)に禰寝氏を、翌年には肝付氏伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たしている。


最後に残った日向国に関しては天正4年(1576年伊東氏高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退をする。こうして伊東義祐は豊後国大友宗麟を頼って亡命し、三州統一が達成された。

耳川の戦い
詳細は「耳川の戦い」を参照


伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578年)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。


11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏城氏が島津氏に誼を通じてくる。


天正8年(1580年)、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、天正10年(1582年)後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった[1][2]

天正9年(1581年)には球磨相良氏が降伏、これを帰順させている。

沖田畷の戦い
詳細は「沖田畷の戦い」を参照


耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582年)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯川上忠堅ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。


天正12年(1584年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した(沖田畷の戦い)。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。

九州統一への戦い
詳細は「豊薩合戦」を参照


天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国隈部親永親泰父子、筑前国秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585年)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(「惣無事令」)。


島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586年)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方筑紫広門勝尾城を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降り、義久は広門を大善寺に幽閉した。これを見て、筑後の原田信種星野鎮種草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊後城井友綱長野惟冬の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。


これにより筑前・筑後で残るは高橋紹運の守る岩屋城立花宗茂の守る立花城高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。しかしこの戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を、また幽閉先を脱出した筑紫広門に勝尾城を奪還されている。


義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。


12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親長宗我部信親十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく戸次川を挟んで対陣した。合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親・十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した(戸次川の戦い)。


この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とした。家久は大友宗麟の守る臼杵城を包囲した。



秀吉の九州征伐
詳細は「九州平定」を参照


天正15年(1587年)、豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利小早川宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘・家久など2万余人が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛たが、継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した(根白坂の戦い)。


島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主・島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに川内泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。義久は降伏したものの、義弘・歳久・新納忠元北郷時久らは抗戦を続けていた。高野山の木食応其から和議を促され義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。

豊臣政権下
秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子・久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。


天正16年(1588年)、秀吉から義弘に、羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年(1590年)、義久に羽柴の名字のみ与えられた[3]。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。しかし島津家は刀狩令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。この頃京都では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないという噂が立ち、石田三成の家臣が義弘に内報している。また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。


秀吉は朝鮮出兵を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人梅北国兼名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こした(梅北一揆)。これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また文禄2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・忠恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。


文禄3年(1594年)、義弘は石田三成に検地実施を要請する。検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われることとなった[注釈 1]。 これは

秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったためとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた。これを「両殿体制」という。


秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は5万石の加増を受けた[注釈 2]

しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、事前に義久の了解を得ていたという説もある[注釈 3]。 事件後には家臣達から忠棟の子・伊集院忠真と連絡をとらないという起請文をとっている(庄内の乱)。

関ヶ原の戦いと戦後処理
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。


ただし、義久・忠恒は関ヶ原の際には、九州において、西軍の小西行長の所領である宇土城麦島城(八代城)が加藤清正の軍勢に包囲された際に、小西勢の救援のために嶋津(島津)圖書頭・新納武蔵・伊集院下野・本田六右衛門尉・本郷作左衛門尉などの諸将と軍勢を送り、加藤清正の軍勢と交戦している。そして、小西領の宇土城が落とされると、麦島城(八代城)の城代であった小西行重らを受けいれた後、島津の軍勢は撤退している[注釈 4][4]。また、これに加えて、島津の軍勢は肥後人吉の相良の軍勢と共同して、加藤清正の所領の佐敷に侵攻し、佐敷城を攻撃している[注釈 5][5]


そして、関ヶ原本戦後の同年9月末には、家康によって徳川秀忠を総大将とした薩摩遠征が計画され[注釈 6]、関ヶ原本戦後も戦いが継続していた九州では、同年10月25日に筑後柳川城を開城させた黒田如水と加藤清正らによって黒田・加藤・鍋島・立花らの九州大名の軍勢による薩摩攻めが計画され、この計画が黒田如水により徳川家康に報じられた[4]


しかしながら、こうした計画は同年11月12日に出された家康の黒田如水宛ての書状により、中止が命じられた[注釈 7][4]。また、こうした計画と並行して進められていた立花宗茂を仲介に立てた黒田如水・加藤清正らによる島津との講和も家康が中止の書状を発給する前日の11月11日にはすでに成立し[注釈 8]、九州では薩摩攻めの計画は取り止めとなっていた[4]


そして、島津義久は西軍への荷担は庶弟の義弘が行ったもので、島津家の当主である自分(義久)はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。この講和交渉は、2年に渡って行われた。


この交渉は、家康側からは義久の上洛が条件として提示されていたが、義久はこれを家臣の鎌田政近や島津忠長・島津忠恒などを代わりに上洛させ、病気や金銭不足、道を修繕中、上洛を準備中などの様々な理由で固辞するなどして、最後まで家康の要求通りに上洛することはなかった。そして、交渉は、義久が所領の安堵を求め、家康が保証するという段階を経、これを受けて、家康の起請文でないことを義久が訴え、家康が自身の名で起請文を発給し、所領安堵の更なる保証を与える。といったように、2年の間に家康が島津氏に譲歩を重ねていくという形で進展していき[注釈 9]、家康の要求である義久の上洛はついに満たされぬまま、慶長7年(1602年)12月に、義久の代わりとして、島津忠恒を上洛させることによって島津領国の安堵が確定することとなった。また、こうした島津の所領安堵は、立花宗茂・黒田如水・加藤清正らが家康に積極的に働きかけ、取り成したことにより、実現したことでもあった[注釈 10][4]


また、義久に代わって、上洛しようとした忠恒は上洛の際に、義久から「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対されている[8]。そして、忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛し、義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できないため、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。こうして、島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。

晩年
徳川家康による領土安堵後の慶長7年(1602年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この頃の体制を指して「三殿体制」とよぶ。


慶長9年(1604年)には大隅の国分国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。


しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから関係は次第に悪化したと言われる。忠恒・亀寿夫妻の間には1人も子が無かったことから外孫の島津久信を忠恒の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。慶長15年頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」[9]いたという。

慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。享年79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」。

詳しいことは「島津義久ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
(wikiより)

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島津義久

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 ここは入口が3カ所あり それぞれ入りなおさないと全部を見ることが出来ません

また山の上にはキリシタンの墓があるのですが、膝の痛みで断念しました。


〇 福昌寺
福昌寺
(ふくしょうじ)は、かつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩島津氏菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった[1]。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。

沿革
応永元年(1394年)、島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧・先に妙円寺 (日置市)を建てた石屋真梁を開山として招いて建立[1]。その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となる。天文15年(1546年)に後奈良天皇勅願所となる[1]


江戸時代
に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたという。


明治廃仏毀釈により薩摩国大隅国など旧薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていた。しかし、島津忠義の妻・暐姫(島津斉彬の長女)が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定した(72世時)。この時に歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったりしたままで、鹿児島県文化財過疎県である一因になっている。

廃寺後
現在は歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている。跡地には鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校(現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校)が建てられた。1953年9月7日、県指定史跡に指定された[1]


また、廃仏毀釈の収束後、有志が同地に福昌寺を再建しようとしたが許可されず、1898年、現在の薩摩川内市に後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立された。

キリスト教と福昌寺
フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。


また1870年浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。

所在地

現在の地番
鹿児島県鹿児島市池之上町48

交通アクセス
JR九州鹿児島本線鹿児島駅から車で5分

参考文献
結城了悟『鹿児島のキリシタン』春苑堂書店、改訂版1975年

ルイス・フロイス松田毅一川崎桃太訳『完訳フロイス日本史(6)‐ザビエル来日と初期の布教活動‐大友宗麟篇.1』中央公論社、のち中公文庫、2000年 ISBN 4122035856

関連項目
妙円寺 (日置市)

鶴嶺神社

鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校

瑠璃光寺 - かつての末寺[1]

羅漢寺 (中津市) - かつての末寺[1]

脚注
1. a b c d e f 福昌寺跡 鹿児島県

外部リンク
福昌寺跡 - 鹿児島市観光サイト
(wikiより)



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⇧ 左側の建物は、玉龍高校の建物です。

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⇧⇩ メッチャ広いです 後ろにある玉龍高校も福昌寺跡に建設されていますから大きなお寺ですね。

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 この記事にて、知覧・島津墓地は終了となります。
また知覧は、「 知覧城 」、「 知覧特攻平和会館 」、「 ホタル館富屋食堂 博物館 」等々の見どころも多いです。


島津久徴
( 1826 ~ 1880 )


生麦事件。


薩英戦争。


戊辰の役。


廃藩置県。

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島津 久福(しまづ ひさとみ)は、幕末薩摩藩家老。島津氏の分家・知覧島津家21代当主。家格は一所持で佐多・知覧を所領した。

生涯
文化10年(1813年)、父・島津久典が讒言を受けて隠居させられると、翌年にその跡を継いだ。天保5年(1834年)に江戸へ参勤し、2年あまり在府した。嘉永4年(1851年)若年寄に抜擢され、嘉永6年(1853年ペリー来航の際には藩主・斉彬の命で再び江戸へ出府し、その後3年の間勤務した。


安政
3年(1856年)家老に就任。斉彬の養女・篤姫右大臣近衛忠煕の養女となる際に、表立って名前が見える。

安政5年(1858年)に斉彬が没すると、幕府への報告の使者を務めている。その後は後継の茂久にも引き続き仕え、安政6年(1859年)には御軍役掛に就任したが、文久3年(1865年)家老職を辞した。また、この頃に嫡男・久徴に家督を譲っている。

登場作品
テレビドラマ
・『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:長沢大
(wikiより)

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島津 久典(しまづ ひさのり)は、江戸時代後期の薩摩藩士。知覧島津家20代当主。

生涯
寛政3年(1791年)、父・島津久邦の死去により家督を相続し、知覧領主となる。


文化
10年(1813年)、讒訴されて種子島に流罪となり、後に許され知覧に隠居する。水垂に隠居所を設けたため、水垂御隠居様と呼ばれた。家中の士風の衰えを憤慨し、弓術は遊戯であると退けて、撃剣柔道を奨励した。弘化2年(1845年)8月14日没、享年65。

参考文献
・『知覧郷土史』
(wikiより)

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島津 久邦(しまづ ひさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての薩摩藩士。知覧島津家19代当主。

生涯
宝暦3年(1753年)3月19日、島津久峰の三男として生まれる。明和9年(1772年)、父・久峰が死去すると、兄・久容(久徴)は一門の島津加治木家を相続していたため、知覧島津家の家督を相続する。


安永
3年(1774年)、藩主・島津重豪の帰国許可の謝恩使として江戸城に登城し、将軍徳川家治に拝謁する。安永7年(1778年)、寺社奉行。安永8年(1779年)、大目付となる。安永9年(1780年)、国分地頭職。同年若年寄。天明7年(1787年)、家老となる。同年、藩主・重豪の参勤に随行して江戸に下った。


寛政3年(1791年)3月19日没、享年39。

参考文献
・『知覧郷土史』
(wikiより)

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島津 久峰(しまづ ひさたか)は、江戸時代中期の薩摩藩士。知覧島津家18代当主。

生涯
享保17年(1732年)、藩主・島津継豊の三男として生まれ、家老・島津久豪の養子となる。延享2年(1745年)、養父の死去により家督を相続する。寛延2年(1749年)、藩主の兄重年の家督相続御礼言上の登城に同行して、江戸城将軍徳川家重に拝謁する。宝暦3年(1753年)、若年寄となる。同年、谷山地頭職。


宝暦9年(1762年)、若年寄を免じられ、引き続き月番国老として家老と共に国政に参画することを命じられ、席次を宮之城家島津久亮の上席とされる。宝暦10年(1763年)、末吉地頭職。宝暦13年(1766年)、出水地頭職。同年、病を理由に職を辞することを願い出て許された。


明和9年(1772年)6月没、享年41。

参考文献
・『知覧郷土史』
(wikiより)

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島津 久豪(しまづ ひさたけ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。知覧島津家17代当主。

生涯

貞享元年(1684年)、島津久逵の次男として生まれる。兄・久基が早世したため、嫡男となる。元禄3年(1690年)、藩主・島津綱貴の久逵邸御成の際に、綱貴の加冠で元服した。


宝永2年(1705年)、藩主・島津吉貴の帰国許可の謝使として江戸城に登城し、将軍徳川綱吉に拝謁する。宝永5年(1708年)、大目付となり職田500石を賜る。正徳元年(1711年)、島津吉貴より、父・久逵の功績を賞されて島津姓を代々名乗ることを許される。享保3年(1718年)、父の隠居により家督相続、国老となり1300石の職田を賜る。高岡地頭職となる。


享保17年(1732年)、藩主・島津継豊の三男・久峰を極秘のうちに養子とし、直子とする。延享2年(1745年)10月6日没、享年62。


家督は養子の久峰が相続した。

参考文献
・『知覧郷土史』
(wikiより)

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島津久達
( 1651 ~ 1719 )


島津本家・光久の五男。


城代となる。


知覧を一所持する。


城代、留守居家老を兼ねる。


島津姓を許される。

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島津久利
( 1646 - 1671 )


肝付兼屋三男。

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島津久孝
(1628 ~ 1656 )

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島津忠治
( 1605 ~ 1632 )


江戸桜田藩邸での将軍家光の御成りに列す。

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島津忠充
( 1588 ~ 1632 )


関ヶ原の戦い。


知覧を再び領す。

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島津久慶
( 1558 ~ 1604 )


海賊事件・川辺転封。


朝鮮出兵。


知覧城焼失。

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島津久政
( 1546 ~ 1587 )


島津氏三州統一。


島津氏九州制覇。


豊臣秀吉の島津攻略。


田北城にて戦死。

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島津忠将
(1517 ~ 1596 )


蒲生氏討伐。


鉄砲の使用。

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島津忠成
( 1498 ~ 1549 )


島津忠良・貴久に仕え、運功をあげる。

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島津忠和
( 1477 ~ 1521 )

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島津忠山
( 1441 ~ 1484 )


伊作久逸の乱。


南郷城にて戦死。

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島津忠遊
( 1409 ~ 1462 )


佐多城に住す。


佐多の支配が終わる。

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島津親久
( 1375 ~ 1458 )


知覧城の戦い。


知覧城に入る。


鹿児島和泉埼に住す。

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島津氏義
( 1355 ~ 1427 )


佐多に西福寺を建立。


後に知覧に移す。
(案内板より)

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島津忠直
( 1335 ~ 1359 )


国合が原で戦死。
(案内板より)

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島津忠光
( ~ 1363 )


島津本家忠宗の三男。


佐多を領す。


知覧を領す。

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 これから島津家を特集しますが、ちょっと数量が有りますが宜しくお願い致します

取り合えず「 島津家 ( 4カ所の墓地 ) 」のみを一気にupします ( 家臣等に対しては後々という事でお願いします。 )


〇 西福寺
西福寺は禅宗系 ( 曹洞宗 ) のお寺で、知覧島津氏の菩提寺となっています。


第 3代佐多氏義の命により、覚隠和尚が開山したのが、応永年間中期 ( 15世紀初旬 ) のことです。


元々は、姓の由来ともなった大隈の佐多に建てたものを知覧を治めるようになり、こちらに移したものです。


この墓地には、文和 2年 ( 1353 ) より知覧を地頭として治めた第 4代国主島津忠宗の第 3子の忠光から、現在まで歴代当主が眠っています。


明治 2年の版籍奉還の領主までだと 22代ということになります。


この忠光を知覧島津氏 ( 佐多氏 ) の初代としています。


また、初代忠光から第 15代久利までは佐多姓を名乗り、第 16代久達から島津姓を名乗ることが許されています。


当初、拠点となったのはここから約 1.5km南東にある知覧城 ( 国指定史跡 ) でした。


ところが天正 19年 ( 1591 ) 第 11代久慶の時代、海賊事件により川辺の宮村に転封となります。


このころ知覧城は火災により焼失したと伝えられています。


この事件で知覧は島津本家の直轄地となり、次いで文禄 4年 ( 1595 ) から慶長 4年 ( 1598 ) まで種子島氏が知覧を治めました。


慶長 15年 ( 1610 ) に再び知覧地頭に復帰した第 12代忠充は、本拠 ( 御仮屋 )をここから約 500m東の地点に移しました。


佐多氏は初代の忠光から第 15代の久利までは知覧を地頭として治めています。


ところが、久利が夭死 ( ようし ) したため藩主光久の五男久達が佐多氏第 16代として迎えられます ( 寛文 12年・1672 )。


この久達の活躍により、知覧を私領地とするこ ( 延宝 5年・1677 ) と島津姓が許されます ( 正徳元年・1711 )。


また 第 18代久峰の時代に御仮屋を上郡 ( 現在残る武家屋敷群内 ) に移し、区画整備を行ったとされています。


しかしその時代は宝暦治水もあり財政的にかなりひっぱくしていたことから、現在の武家屋敷地区を整備したのは、知覧を初めて私領地とした久達の可能性もあります。


知覧島津氏は領主となって以降も代々、家老・若年寄など薩摩藩の重席にあり藩政の充実に貢献しました。
(案内板より)

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⇧ 墓地のチョイ手前の目印

此方の墓地は以前バス旅行で、知覧特攻平和会館に来た時に見かけて気になっていました

今回はピンポイントで来訪しました。

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⇧⇩ 陶板タイルで作られた説明版です。

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⇧⇩ ザックリとこんな感じです 墓石には案内板も無く、以降の記事では画像を使いまわしとなります。

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⇧ 入口です。

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⇧⇩ 変わった形です。

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鄭永寧 ( てい - えいねい )    
文政 12年 8月 11日 ~ 明治 30年 7月 29日 ( 1829 - 1897 )

 外務省権大書記官 ( 外交官 )。

父、呉用蔵 ( 6男 )。

長崎出身。

呉家は、中国福建省泉州の旧家で、明朝の遺臣でわが国では浄瑠璃の国姓爺として知られる鄭成功の子孫。

明朝末期の動乱を避け長崎に渡来し永住。

代々長崎奉行の唐通事をつとめる。

英語と中国語ができたので、明治元年 ( 1868 ) 翻訳方を命じられる。

明治 2年 ( 1869 ) 東京に召し出され 1等訳官となり、ついで大訳官、3等文書権正。

外務省に登用され、支那代理大使を勤めた。

台湾事件では柳原公使を助け手腕を発揮。

朝鮮問題では、森有礼を助け李鴻章との談判通訳に当たる。

明治 12年 ( 1879 ) 7月外務権大書記官。

明治 14年 ( 1881 ) 辞職。

明治 18年 ( 1885 ) 再び外務権大書記官。

伊藤博文に随行し、天津条約締結の通訳を担う。

東京外国語学校中国語学科長。69歳没。

子 ( 養子 ) に日本初の喫茶店を開いた鄭永慶がいる。三男に鄭永邦がいる。

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鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日文久2年12月28日) - 1916年大正5年)8月20日)は、明治時代日本の外交官。

人物

肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷清朝の役人の通訳を稼業とした。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である[1]。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔の庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる[2][3][4]


東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。1895年日清戦争の講和条約(下関条約)締結のための北京会談では伊藤博文の通訳を務めた。1905年日露戦争後の満州善後条約締結時には小村寿太郎の通訳を務めた。

受賞
1904年(明治37年)5月20日 - 勲五等瑞宝章[5]

関連人物
広瀬実光 - 弟鄭永昌娘婿[6]

著書
・『官話指南』(1882年呉啓太と共著)

脚注
1. 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典, デジタル版. “鄭永寧(てい えいねい)とは - コトバンク” (日本語). コトバンク. 2018年5月25日閲覧。
2. 日本コーヒー文化学会『コーヒーの事典』柴田書店、2001年、p. 136
3. 鄭永慶日本人名大辞典
4. 倉敷珈琲物語 第28話「鄭永慶の生涯-その1」”. 株式会社サンヨーフィル. 2018年5月26日閲覧。
5. 『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
6. 「廣瀨實榮 (男性)」人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科
(wikiより)

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堤 正義(つつみ まさよし、1874年明治7年)7月24日[1] - 1943年昭和18年))は、日本機械工学者。旧名は佐久間

経歴
静岡県出身。賀茂水穂の二男として生まれ、堤豊の養子となった[1]第一高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学工科大学機械科を卒業した[1]逓信省に入り、船舶司検所司検官補、同司検官、逓信技師、海事官、神戸海務署長、海事局技師、航路標識管理所技師、逓信管理局技師、高等海員審判所審査官、管理局船舶課長などを歴任[1]。その間、1900年(明治33年)にイギリスに留学し、1915年大正4年)に工学博士の学位を得た[2]1925年(大正14年)、大阪高等工業学校校長に就任し、1929年(昭和4年)に大阪工業大学 (旧制)に昇格した後も引き続き学長を務めた[2]1933年(昭和8年)、退官[2]

栄典
位階
1931年(昭和6年)1月16日 - 従三位[3]

勲章等
1920年(大正9年)11月1日 - 勲二等瑞宝章[4]

親族
賀茂厳雄 - 兄[1]。海軍中将。

加太邦憲 - 妻の父[1]。貴族院議員。

・久原正安 - 二男。衆議院議員久原房之助の婿養子[2]

脚注
1. a b c d e f 大衆人事録 1930.
2. a b c d 人事興信録 1934.
3. 『官報』第1225号「叙任及辞令」1931年1月31日。
4. 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。

参考文献
人事興信所編『人事興信録 第10版』人事興信所、1934年。

・帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
(wikiより)

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堤 正義

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林 民雄 ( はやし - たみお )     
慶応元年 5月 23日 ~ 昭和 11年 11月 11日 ( 1865 - 1936 )

日本郵船専務。

父、林直庸 ( 長男 )。

高知県出身。

大学予備門に学ぶ。

のち明治 18年 ( 1885 ) 渡米しペンシルバニヤ大学政治理財学科に学び、バチュラー オブ フィロソフィの学位を得る。

欧州各国を視察して帰国。

明治 24年 ( 1891 ) 日本郵船に入社。

営業部回漕係長・支配人、横浜支店長・上海支店長。

明治 37年 38年 ( 1904 - 5 ) の日露戦争時には大連で御用船事務。

明治 39年 ( 1906 ) 客船課長。のち事務取締役。

日本郵船客課長、のち日本郵船専務。

大正期には、法蔵院書院のあるところを別荘としていた。勲四等。71歳没。

夫人は、元帥侯爵野津道貫の二女栄子。

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