2020/12
5209 長宗我部元親公銅像(高知市南部)
〇 長宗我部元親公銅像
この銅像は元親公没後四百年に当たる平成十一年 ( 一九九九 ) 五月に、地元有志の発案により建立されました。
元親公は永禄三年 ( 一五六〇 ) 五月、二十二歳の折り、本拠地の岡豊城を進発し、宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。
その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。
その後、約二十五年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長四年 ( 一五九九 ) に六十一歳で京伏見の館に没しました。
銅像の高さは台座も含め約七メートル、槍の高さは五・七メートルあります。
(案内板より)
〇 初陣由来記
頃は永禄三年(一五六〇)五月末、
二十二歳で初陣を迎えた若武者元親は
父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる
長浜城攻めに取りかかる。
決戦前夜、若宮八幡宮社頭の
この地に陣をはり、必勝を祈願し、
見事これを打ち破る。
初陣以来二十五年、
ついに四国全土を掌握す。
元親公没後四百年に当たり、
文武両道にわたる公の郷土への
偉大なる業績を顕彰し、
歴史に名を残しながら
悲運のうちに倒れた長宗我部一族や、
あまたの武将達の御霊を鎮めると共に
末永く郷土の誇りとして
語り伝えん為、この像を建つ。
(案内板より)
5208 三谷家祖先墓(高知市南部)
5207 高畑誠一翁生家跡(喜多郡内子町)
世界の商人・日本貿易界の先覚者 高畑誠一翁
明治二十年三月二十日、内子本町二丁目の現在地に父、宗次郎、母、タキの長男として生まれる。
生家は、十三代継ぐ旧家で木蝋・生糸の製造業。
子供のころ心臓が弱く、松中を受験したが、身体検査ではねられ、第二志望の西条中一、神戸高商 ( 現・神戸大 ) を首席で出ると、すぐ秀才ぶりを見こまれて、当時新興商社の神戸市の鈴木商店へ招かれる。
二十七歳の若さでロンドン支店長になった。
翁はまもなく第一次世界大戦を迎える戦乱のヨーロッパにおいて、三井、三菱などの商社を向こうにまわし縦横の手腕をふるい鈴木商店の黄金時代を築いた。
大正十一年四十七歳で帰国、専務までになったが若槻内閣の時、戦後の景気後退でついに同商店は倒産、翁はその貿易部門を受け継いで、日商を創立、初代社長となり機械鉄工製品の輸出入を中心に確実な発展をとげ、我国有数の商社をつくりあげた。
昭和四十三年岩井産業と合併、日商岩井で新発足、日商会長を経て、相談役。
城山三郎の企業小説 " 鼠 " に「高畑は昏迷する欧州経済を尻目に果敢というよりも華麗にさえ見える思惑を展開した」と実名で書いている。
世界の商人である翁の教訓は常に「世界を相手に」だった。
著書に " 戦後日本の情勢 " " 戦後日本と平和条約 ""日本工業の繁栄と日本人の勤勉さ "( 八十二歳の著書 ) と題する経済を全英文で発刊。
また" ゴルフルール百科 " なる著作もあり、日本ゴルフ界の草分けの一人である。
昭和三十九年九月内子町名誉町民の称号を受けられた。
5206 兵士墓(高知市南部)
5205 吉田孫左衛門正幸夫妻墓(高知市塩屋崎町2周辺)
5204 吉田光四郎正清夫妻墓(高知市塩屋崎町2周辺)
5203 松岡時敏墓(台東区・谷中霊園)
経歴
土佐国高岡郡日下村(現日高村)で、土佐藩郷士・松岡甚吾の長男として生まれる[1][3]。その後、高知城下北奉公人町に転居[1]。江戸に遊学し安積艮斎の指導を受ける[1][4]。安政に入り吉田東洋に用いられ山内容堂の侍読となり、藩の法典『海南政典』と土佐藩史の編纂に従事し、『藩志内篇』を執筆した[1][4]。
明治維新後、新政府に出仕し明治元年11月2日(1868年12月15日)御雇・学校取調御用掛に就任[5]。以後、昌平学校掛、同校頭取心得、学校権判事、学校判事、大学大丞、大史・制度取調専務、文部権大丞兼文部中教授、文部大丞などを歴任し[5]、学校制度の整備を担当[4]。明治5年4月30日(1872年6月5日)左院に転じ中議官に就任。
その後、二等議官となり、制度御用掛、職制章程等取調、国憲編纂掛、地方官会議御用掛を務めた[5]。
1875年4月14日、左院が廃止され、同月25日に代って設置された元老院の議官に就任[5]。1877年11月に病のため在任中に死去した[5]。
著作
・松岡敏 「南海史略」(平尾道雄ほか編集委員 『皆山集 2 宗教(2) 歴史(1)篇』 高知県立図書館、1975年)
・高知県立図書館編 『土佐国群書類従 4 伝記部』 高知県立図書館〈土佐国史料集成〉、2001年12月
・松岡時敏著 『学古賸議』 梅巌堂、1875年11月(2冊)
・森春濤纂 『新文詩別集 上野博覧会雑詠』 茉莉巷凹処、1877年12月
脚注
1. a b c d e 『三百藩家臣人名事典 6』 546頁。
2. 『明治維新人名辞典』 913頁では「11月5日」。
3. a b 『明治過去帳』新訂初版、111頁。
4. a b c d e f 『明治維新人名辞典』 913-914頁。
5. a b c d e 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』381-384頁。
参考文献
・大植四郎編 『明治過去帳』 東京美術、1971年新訂初版(1935年原著私家版)。
・日本歴史学会編 『明治維新人名辞典』 吉川弘文館、1981年。ISBN 4642031146
・家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典 6』 新人物往来社、1989年。
・我部政男、広瀬順晧編 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』 柏書房、1995年。ISBN 4760111662
・『高知県人名事典 新版』編集委員会編 『高知県人名事典 新版』 高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854
・伊藤隆、季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典 3』 吉川弘文館、2007年。ISBN 9784642014472
関連文献
・細川潤次郎 「故議官松岡君墓誌」(前掲 『新文詩別集 上野博覧会雑詠』)
・亀山聿三編 『近代先哲碑文集 第卅五』 夢硯堂、1973年10月
・「松岡毅軒」(寺石正路著 『南学史』 冨山房、1934年5月)
外部リンク
・東京大学史料編纂所 所蔵史料目録データベース - 「松岡時敏関係文書」の目録が閲覧できる。
・憲政資料目録 - 国立国会図書館。「松岡時敏文書」(憲政史編纂会収集文書所収左院・元老院国憲案中)の目録が閲覧できる。
・渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫目録 - 東京都立中央図書館。松岡書簡・松岡宛書簡が多数含まれる。
・谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 松岡時敏
(wikiより)
5202 前田元温墓(台東区・谷中霊園)
天保 4年 3月 15日 ~ 明治 34年 9月 6日 ( 1821 - 1901 )
奥医師・明治期の医師。
名、元温。字、子恭。通称、杏・信輔。号、杏斎・松園。薩摩藩士。
若年で藩命で上京し皇居 ( 禁裏 ) 付医師に師事し医術を学ぶ。
皇居の荒れ果てた姿を見て勤王の志を抱く。
27代薩摩藩主島津斎興の参勤に従い江戸へでて将軍家侍医多紀楽真院 ( 1795 - 1857 )、蘭方医坪井信道 ( 1795 - 1848 ) らに師事し蘭学を学ぶ。
嘉永 2年 ( 1849 ) 長崎で蘭医モンニッケ ( 門尼計 ) について種痘を学び、帰郷後、薩摩藩にて種痘を実施。
元治元年 ( 1864 ) 上京し、禁門の変 ( 1864 ) において傷病兵の治療を行う。
筑前大宰府で三条実美の侍医。鳥
羽伏見の戦い ( 1868 ) では、英国公使館医師ウイルスを招き治療に当たらせる。
横浜陸軍病院を東京に移し、大病院と称し、その院務を司りウイルスを教師に任命した。
医学館・医学所・御薬園病院頭取。文部省御用掛、文部省医務局取締。
明治 5年 ( 1720 ) 警視庁医学校を創設し校長となる。
明治 10年 ( 1725 ) 権少警視。明治
16年 ( 1731 ) 司法省代言人試験委員。正七位。81歳没。





5201 田中維一墓(台東区・谷中霊園)
5200 井染禄朗墓(台東区・谷中霊園)
経歴
山梨県出身[1][2][3]。吉田文護の二男として生まれ、宮司・井染得佶の養子となる[1]。陸軍幼年学校を経て、1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[2]、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる[1][3]。日露戦争に出征[4]。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し参謀本部員となる[1][2][3]。
1911年(明治44年)11月、歩兵少佐に昇進[1]。1913年(大正2年)4月、ロシア大使館付武官補佐官に発令され、参謀本部付、近衛歩兵第3連隊付、参謀本部付、参謀本部員を務め、1919年(大正8年)7月、浦塩派遣軍司令部付となりシベリア出兵に出動[1]。ウラジオ特務機関長、チタ特務機関長を務め情報収集に従事[2][3]。1920年(大正9年)1月、歩兵大佐に進んだ[1][3]。
1921年(大正10年)4月、歩兵第37連隊長に就任[1][3]。第14師団参謀長を経て、1924年(大正13年)2月、陸軍少将に進級し第4師団司令部付となる[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、歩兵第16旅団長に転じ、軍事調査委員長を経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将となり第16師団留守司令官に就任したが、翌年4月、在任中に死去した[1][2][3]。
親族
・息子 井染道夫(元日本サッカー協会顧問)[5]
・息子 井染成夫(医師)[要出典]
・息子 井染壽夫(中小企業金融公庫総務部長)[要出典]
・息子 井染具夫(陸軍少佐)[1]
・兄 吉田護郎(陸軍少佐)[1]
・妹 吉田鞆子(貞明皇后御用掛)[6]
著書
・『西伯利経済地理』外交時報社出版部、1918年。
校閲
・綾川武治著『近代思想と軍隊』兵書出版社、1929年。
脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、12頁。
2. a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』77頁。
3. a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156頁。
4. 『人事興信録』第8版、イ6頁。
5. “明治大学体育会サッカー部 - MEIJI UNIVERSITY FOOTBALL CLUB”. meidaisoccer.jp. 2020年5月23日閲覧。
6. “神に仕えた人 御用掛吉田鞆子” (日本語). 神に仕えた人 御用掛吉田鞆子. 2020年5月23日閲覧。
参考文献
・秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
5199 小池堅治墓(台東区・谷中霊園)
明治 11年 4月 9日 ~ 昭和 44年 4月 24日 ( 1878 - 1969 )
ドイツ文学者・随筆家。
号、秋草。
福井県福井市出身。
第七高等学校・第二高等学校教授。のち、山形高校教授を兼ねる。
昭和 7年 ( 1932 ) 退官。
東北大学講師・千葉大学講師を経て、お茶の水女子大講師。多くの翻訳本を出す。
また、夏目漱石・二葉亭四迷・森鴎外らの日本文学をドイツ語訳した。
さらに徳富蘇峰・土井晩翠・岡崎義惠らの論文のドイツ語訳も行った。
研究論文として、「独逸表現主義文学の研究」がある。
著書:「紅毛人交遊帖」、「外遊印象」など。訳:ヘルマン・ズウデルマンの「フラウ・ゾルゲ憂姫」、「独訳昭和国民読本」 など。
正面「小池家之墓」。「寿徳院普賢秋草居士」。


5198 春木一郎墓(台東区・谷中霊園)
明治 3年 1月 ~ 昭和 19年 3月 6日 ( 1870 - 1944 )
ローマ法研究者。
京都出身。
養父、春木義彰。
明治 27年 ( 1894 ) 京都帝国大学法律学科卒業、大学院入学。
明治 30年 ~ 明治 34年 ( 1897 - 1901 ) ドイツ留学。
明治 34年 ( 1901 )京 都帝国大学法科大学教授。法学博士。
明治 45年 ( 1913 ) 東京帝国大学法科大学教授。帝国学士院会員。
昭和 9年 ( 1934 ) 退官。
英国法律の権威で、生涯を「ユースティーニアーヌス法典」の研究に捧げる。英仏独伊語のみならずラテン文も達者で語学の天才と称される。正三位勲二等。
訳書、「儒帝法学撮要重要語纂訳」、「ユースティーニアーヌス帝学説彙纂ΠΡΩΤΑ(プロータ)」。その他論文多数。73歳没。
正面「春木家之墓」。「桂林院寒山一乗居士」。


5197 春木義彰墓(台東区・谷中霊園)
経歴
大和国平群郡法隆寺村(現在の斑鳩町)出身。春木義道の二男[2]。伴林光平の弟子で、師が天誅組の変に加わって処刑されると、その遺志を継ぎ、1865年(慶応元年)に京都に入って志士と交わった。1867年(慶応3年)、鷲尾隆聚が倒幕の密勅を奉じて高野山で挙兵すると、大坂で軍費調達にあたった。翌年、鳥羽・伏見の戦いが起きると、高野山に駆けつけ、錦旗奉行・兵糧奉行に任じられた。その後、奥羽追討総督となった鷲尾に従い、白河口軍務応接係・書記として各地を転戦した。1869年(明治2年)、兵部省の命を受け、脱走が相次いでいた十津川郷士の鎮撫にあたった。
五条県や奈良県の地方官を経て、1873年(明治6年)からは司法官に転じた。累進して、1892年(明治25年)に検事総長に就任した[3]。1898年(明治31年)に東京控訴院長に転じ、1903年(明治36年)に休職を命じられた。
翌年、貴族院議員に勅選された[4]が、程なくして死去した。
栄典
位階
・1881年(明治14年)1月21日 - 従六位[5]
・1904年(明治37年)
・12月17日 - 従二位[11]
勲章等
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]
・1890年(明治23年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[13]
・1892年(明治25年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[14]
・1894年(明治27年)6月19日 - 勲三等瑞宝章[15]
・1901年(明治34年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[17]
・1904年(明治37年)12月17日 - 旭日重光章[18]
脚注
1. 『官報』第6443号、明治37年12月20日
2. 人事興信所 1903, 112頁.
3. 『官報』第2747号、明治25年8月23日
4. 『官報』第6345号、明治37年8月23日
5. 判事人見恒民以下三十五名昇進ノ件・附検事犬塚盛巍以下十二名昇進ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
6. 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
7. 『官報』第2136号「叙任及辞令」1890年8月12日。
8. 『官報』第3674号「叙任及辞令」1895年9月26日。
9. 『官報』第5226号「叙任及辞令」1900年12月1日。
10. 『官報』第6366号「叙任及辞令」1904年9月16日。
11. 『官報』第6443号「叙任及辞令」1904年12月20日。
12. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
13. 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
14. 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
15. 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
16. 『官報』第3555号「彙報 - 褒賞」1895年5月9日。
17. 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
18. 『帝国議会会議録』「第21回帝国議会・貴族院・議員の異動」。
参考文献
・人事興信所 編 『人事興信録 初版』 人事興信所、1903年 。
・『大和人物志』奈良県庁、1909年。
5196 牛久保守司墓(台東区・谷中霊園)
牛久保 守司氏 ( うしくぼ - もりじ = サンデン創業者、元社長 )
7月 24日午前、心疾患のため群馬県伊勢崎市の自宅で死去、96歳。
〇 サンデン
サンデン株式会社 ( 英: Sanden Coporation ) は、群馬県伊勢崎市に本社を置く電機メーカーである。
概要
主に自動車用エアコンや自動販売機、エコキュートなどを生産している群馬を代表する電機メーカー。
特にカークーラー用コンプレッサーは主力製品であり国内自動車メーカーはもとよりPSA・プジョーシトロエン、ルノー、フォードといった欧州を中心とした自動車メーカーにも納められている。
後付タイプのカーエアコン ( カークーラー ) は「レザム」の商品名で販売されていた。
また、自動車用のインタークーラーも開発しており、スバル車用STIブランド、スズキのWRCカーSX4のインタークーラーはサンデン製である。
1980年代に石川秀美の出演するテレビCMが存在した ( 同社のレザム ) が、その後は現在に至るまでテレビCMは無い。一方ラジオに於いてはTBSラジオでよくスポットCMを耳にする。
かっては寒冷地向けの住宅用石油ストーブを生産しており、業界第2のシェアを持っていたが、需要の縮小や自動車・流通機器に経営資源を一本化するため、2007年 7月に撤退、同業のサンポットへ事業譲渡。
近自然工法を導入して開発・造成した大規模な工業用地「サンデンフォレスト」は、地域やボランティア団体の活動のための場として提供され、環境保全活動にも力を注いでいる。
2004年 ~ 2008年までPWRCに参戦している新井敏弘選手のチームスポンサーであった。
沿革
1943年 三共電器株式会社を設立。
1948年 自転車用発電ランプを生産開始。
1958年 アイスクリーム冷凍ストッカー、冷蔵ショーケースの生産開始。
1961年 噴水型ジュース自動販売機の生産開始。
1963年 寒冷地向け石油ストーブの生産開始(同社では「オイルヒーター」)。
1971年 カークーラー及びカークーラー用コンプレッサーの生産開始。
1973年 商標を三共から「サンデン」に変更(10月。ただし石油ストーブは翌年から)。
1982年 社名をサンデン株式会社に変更。
1984年 現在のロゴマークに変更。
2002年 赤城山中に近自然工法を取り入れたサンデンフォレスト・赤城事業所完成。
2005年 自然冷媒ヒートポンプ式電気給湯機「エコキュート」を発売開始。
2007年 石油暖房機(ゼータス)の製造・技術をサンポットへ譲渡。
2007年 フード機器ビジネスに参入。レギュラーコーヒーエスプレッソマシーン、蒸気で調理するスープサーバーを発売開始。
2008年 石油暖房ボイラーの生産設備を長府製作所へ譲渡。
(wikiより)
5195 成川尚義墓(台東区・谷中霊園)
経歴
上総国山辺郡白幡村(現千葉県山武市)に、伊志田治平(石田治平[2])の次男として生まれる[3]。同郡本須賀村・成川家の養子となり名を尚義と改める[3][4]。
幕末の動乱期に勝海舟のもとで事態の収拾に奔走した。新政府軍の江戸城入城後、追及を受けて自首するが、沈着冷静な対応により釈放された。その際、刑法官判事・中島錫胤からの熱心な勧めを受けて出仕することを決意した[2]。
明治2年(1869年)、若森県大参事に就任。以後、新治県権参事、新川県権参事、宮城県大書記官、内務少書記官、大蔵権大書記官、同省庶務局長、同参事官などを歴任[1][2]。
1889年12月、三重県知事に就任。風水害・濃尾地震の救済復旧に尽力[5]。 1896年8月、知事を辞し退官した。1897年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ[6]、死去するまで在任した。
官歴等
・明治2年
・1876年(明治9年)1月 - 新川県が廃止されるため免官[7][8]。
・1877年(明治10年)3月 - 宮城県大書記官 任官[9]
・1880年(明治13年)12月 - 内務省入省、小書記官 任官[7][9]
・1881年(明治14年)11月 - 大蔵権大書記官 任官[9]
・1885年(明治18年)6月 - 日本鉄道会社会計検査官 兼任[9]
・1886年(明治19年)
・1月 - 免 庶務局長 兼 日本鉄道会社会計検査官[9]
・1887年(明治20年)11月5日 - 文官普通試験委員長 任命[10]
・1888年(明治21年) - 地方事務臨時取調委員 及び 東京市区改正委員 任命[9]
・1889年(明治22年)12月26日 - 三重県知事 任官[4]
・1890年(明治23年)1月17日 - 免 東京市区改正委員[12]
・1896年(明治29年)8月12日 - 三重県知事 依願免官[13]
・1897年(明治30年)
・12月23日 - 貴族院勅選議員
・東京商業銀行 頭取[4]
・1899年(明治32年)11月27日 - 薨去。
栄典・授章・授賞
位階
・1873年(明治6年)12月22日 - 従六位[15]
・1890年(明治23年)
・1897年(明治30年) - 正三位[4]
勲章等
・1888年(明治21年)5月29日 - 勲五等双光旭日章[20][21]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[22]
・1890年(明治23年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[23]
・1894年(明治27年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[24]
親族
・兄 伊志田友方 - 静岡県書記官[3]
脚注
1. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』149頁。
2. a b c d e 『明治維新人名辞典』729頁。
3. a b c d 『房総名士叢伝 前編』35頁。
4. a b c d e f 『房総の偉人』141頁。
5. 『新編日本の歴代知事』606頁。
6. 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
7. a b c d e f 『房総名士叢伝 前編』37頁。
8. a b c d e 『地方長官人物評』59頁。
9. a b c d e f g h 『地方長官人物評』60頁。
10. 『官報』第1308号「叙任及辞令」1887年11月7日。
11. 『官報』第1353号「叙任及辞令」1888年1月6日。
12. 『官報』第1964号「叙任及辞令」1890年1月18日。
13. 『官報』第3938号「叙任及辞令」1896年8月13日。
14. 『官報』第4350号、明治31年1月4日。
15. 『太政官日誌』明治6年、第155号
16. 『官報』第1995号「叙任及辞令」1890年2月26日。
17. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
18. 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
19. 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。
20. 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
21. 『房総名士叢伝 前編』38頁。
22. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
23. 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
24. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
参考文献
・中村尚武『房総名士叢伝 前編』中村尚武、1889年。
・大岡力『地方長官人物評』長島為一郎、1892年。
・林寿祐編『房総の偉人』多田屋支店、1925年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
5194 成川尚義墓(台東区・谷中霊園)
経歴
上総国山辺郡白幡村(現千葉県山武市)に、伊志田治平(石田治平[2])の次男として生まれる[3]。同郡本須賀村・成川家の養子となり名を尚義と改める[3][4]。
幕末の動乱期に勝海舟のもとで事態の収拾に奔走した。新政府軍の江戸城入城後、追及を受けて自首するが、沈着冷静な対応により釈放された。その際、刑法官判事・中島錫胤からの熱心な勧めを受けて出仕することを決意した[2]。
明治2年(1869年)、若森県大参事に就任。以後、新治県権参事、新川県権参事、宮城県大書記官、内務少書記官、大蔵権大書記官、同省庶務局長、同参事官などを歴任[1][2]。
1889年12月、三重県知事に就任。風水害・濃尾地震の救済復旧に尽力[5]。 1896年8月、知事を辞し退官した。1897年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ[6]、死去するまで在任した。
官歴等
・明治2年
・1876年(明治9年)1月 - 新川県が廃止されるため免官[7][8]。
・1877年(明治10年)3月 - 宮城県大書記官 任官[9]
・1880年(明治13年)12月 - 内務省入省、小書記官 任官[7][9]
・1881年(明治14年)11月 - 大蔵権大書記官 任官[9]
・1885年(明治18年)6月 - 日本鉄道会社会計検査官 兼任[9]
・1886年(明治19年)
・1月 - 免 庶務局長 兼 日本鉄道会社会計検査官[9]
・1887年(明治20年)11月5日 - 文官普通試験委員長 任命[10]
・1888年(明治21年) - 地方事務臨時取調委員 及び 東京市区改正委員 任命[9]
・1889年(明治22年)12月26日 - 三重県知事 任官[4]
・1890年(明治23年)1月17日 - 免 東京市区改正委員[12]
・1896年(明治29年)8月12日 - 三重県知事 依願免官[13]
・1897年(明治30年)
・12月23日 - 貴族院勅選議員
・東京商業銀行 頭取[4]
・1899年(明治32年)11月27日 - 薨去。
栄典・授章・授賞
位階
・1873年(明治6年)12月22日 - 従六位[15]
・1890年(明治23年)
・1897年(明治30年) - 正三位[4]
勲章等
・1888年(明治21年)5月29日 - 勲五等双光旭日章[20][21]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[22]
・1890年(明治23年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[23]
・1894年(明治27年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[24]
親族
・兄 伊志田友方 - 静岡県書記官[3]
脚注
1. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』149頁。
2. a b c d e 『明治維新人名辞典』729頁。
3. a b c d 『房総名士叢伝 前編』35頁。
4. a b c d e f 『房総の偉人』141頁。
5. 『新編日本の歴代知事』606頁。
6. 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
7. a b c d e f 『房総名士叢伝 前編』37頁。
8. a b c d e 『地方長官人物評』59頁。
9. a b c d e f g h 『地方長官人物評』60頁。
10. 『官報』第1308号「叙任及辞令」1887年11月7日。
11. 『官報』第1353号「叙任及辞令」1888年1月6日。
12. 『官報』第1964号「叙任及辞令」1890年1月18日。
13. 『官報』第3938号「叙任及辞令」1896年8月13日。
14. 『官報』第4350号、明治31年1月4日。
15. 『太政官日誌』明治6年、第155号
16. 『官報』第1995号「叙任及辞令」1890年2月26日。
17. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
18. 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
19. 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。
20. 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
21. 『房総名士叢伝 前編』38頁。
22. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
23. 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
24. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
参考文献・
(wikiより)
5193 村田保墓(台東区・谷中霊園)
村田 保(むらた たもつ、天保13年12月9日 - 1925年(大正14年)1月7日)は明治時代の法制官僚、政治家。幼名は虎之助[1]。元老院議官、貴族院勅選議員、水産伝習所二代目所長、大日本水産会副総裁、大日本塩業協会初代会長、大日本缶詰業連合会初代会長。
父は肥前唐津藩・小笠原氏の家臣の浅原耕司[5]。本因坊秀哉は甥(兄の息子)[6]。
生涯
生い立ち
天保13年12月(1843年1月)、大坂中之島唐津藩蔵屋敷に生まれた[1]。嘉永4年(1851年)頃江戸に出て、幕臣村田氏を継ぎ[2]、若山壮吉、林兵部少輔に学んだ[1]。依田市左衛門に弓術、剣道、山岡静山(高橋泥舟の兄)に槍術、小林金之丞に馬術を習った[7]。
安政4年(1857年)頃本郷大根畠稽古場の貸馬飛雀に乗り、求めに応じて浅草寺を往復して見せたところ、馬が暴れて路傍にいた子供を殺してしまったため、馬を殺し、自らも一端乗馬をやめたという[8]。
後、イタリアの曲馬師チャリネに対抗して曲馬術を練習し、1888年(明治21年)6月21日、九段坂の自邸で披露し、後に御馬場で天覧が行われた[9]。
新政府での法整備
明治元年(1868年)昌平学校に出仕し、明治2年(1869年)1月水本成美、鶴田皓、長野文炳と共に新律取調を命じられた。当初明清律を参照して新律綱領を編纂した[10]。
新律綱領の編纂中、箕作麟祥の翻訳したフランス民法典を閲覧して西洋法制の優位性を認め、明治4年(1871年)1月23日から1873年(明治6年)9月27日までイギリスへ留学し、刑法を学んだ[3]。帰国後、木戸孝允、伊藤博文に新律改正の必要性を訴え、左院刑法取調局で刑法改正に従事した。また、旧幕時代に投獄されたままの収監者の罪状決定を促して府下罪囚取締仮規則を作らせ、また軍鶏と呼ばれた拷問を廃止させた[11]。
1877年(明治10年)ボアソナードを交えて刑法草案が練り直されることとなり、草案審査委員の一員として参加した[12]。
1880年(明治13年)5月5日から1881年(明治14年)7月26日までドイツに留学[3]、ルドルフ・フォン・グナイストに行政裁判法、アルバート・モッセに憲法、アドレーに自治、ベルネに刑法を学んだ[13]。
帰国後、法律取調委員会に属して民法、商法、民事訴訟法等の制定に当たったが、条約改正を急ぐ急進派が民法典、商法典を公布すると、日本社会に適合しないとして強い反対の立場を取り、法案延期を画策した(法典論争)[14]。
法典論争での延期工作
1890年(明治23年)5月法案が元老院に上程されると、首相山県有朋に働きかけ、民法、商法の施行延期を取り付けた。「商法施行延期ヲ請フノ意見書」9月帝国議会が開設されると、自身も貴族院議員に勅選され、民法及商法施行条例施行延期議案を貴族院に提出し、採択された。明治24年1月、小畑美稲と共に「民法及商法の修正の件」を建議、1892年(明治25年)5月「民法商法を修正する為め二十九年十二月三月十一日迄之が施行を延期する法律案」を提出し[15]、5月16日賛成多数で可決された[16]。
水産振興
ドイツ留学時、グナイストと当時ベルリンで開催されていた万国水産博覧会の話に及び、日本の漁獲量がその豊富な水産資源に比して少ない点を指摘され、ドイツ水産会の存在を教えられたため、同様の機関設立を山田に諮り、1882年(明治15年)1月大日本水産会が設立され、名誉会員、漁業法律学芸委員に就任した[17]。
1888年(明治26年)、深刻化する漁場紛争や乱獲問題に対処するため、漁業権等について定めた漁業法案を提出したが、二度とも成立には至らなかった[18]。
1889年(明治22年)水産伝習所長に就任し、1894年(明治27年)日清戦争に際し、かつてドイツでヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケに普仏戦争の勝因は缶詰だと聞いたため、缶詰を製造して軍部に送った[19]。
1896年(明治29年)3月、日本近海に進出する他国漁船に対抗するため、日本の遠洋漁業に対し補助金を要請する議案を貴族院に提出した結果、1897年(明治30年)遠洋漁業奨励法が公布された[20]。 1897年(明治30年)3月、1891年(明治24年)より再三農林大臣に請願していた水産局復活が時の大隈重信大臣に認められ、6月復活した[21]。
1896年(明治29年)、水産調査会で水産博覧会開催が決定されると、これを議会に諮って可決され、1897年(明治30年)9月から11月まで神戸市で第二回水産博覧会が開催された[22]。1897年(明治30年)、規模拡大により財政維持が困難となっていた水産伝習所の官設化を議会に働きかけ、3月官設水産講習所が設置された[21]。1898年(明治31年)1月、大日本水産会において小松宮彰仁親王に水産翁の称号を賜った[23]。
塩業・缶詰業
十州塩田同盟が大日本塩業協会を組織すると、その会長に選ばれた。1898年(明治31年)議会に塩業調査所設置を建議して可決され、塩業調査会が発足し、会長に任命された[24]。
1905年(明治38年)11月、全国缶詰業連合会が発足、会長に就任、1906年(明治39年)大日本缶詰業連合会と改称した。1908年(明治41年)輸入練乳に対抗するため、国産品の原料戻し税導入を訴え、練乳原料砂糖戻税法が発布された[25]。
シーメンス事件弾劾演説
1914年(大正3年)第1次山本内閣がシーメンス事件が起こすと、これに酷く憤慨し、3月1日山本権兵衛に辞職を強く求め、壇上で「閣下の面貌は監獄へ行けば類似のものは沢山あると言って居ります」「今日小学校の児童なりと雖も、閣下を土芥糞汁の如く悪口を致して居る」「不徳義千万なる卑劣漢」などと強く非難、議長徳川家達に議院法92条[26]違反との注意を受け[27]、議員を辞職し、鎌倉郡腰越に退隠した。
鎌倉安養院の祇園山を借りて別荘とし、山一面に人形を配置し、村田山、人形山とも呼ばれた[28]。
1925年(大正14年)、腎炎のため死去[29]。 詳しいことは「村田 保ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E4%BF%9D
(wikiより)
5192 境野大吉墓(台東区・谷中霊園)
嘉永 6年 ~ 明治 42年 ( 1853 - 1909 )
姫路藩最後の仇討の主役・東京火災筆頭取締役。
父、境野求馬 ( さかいの - もとめ : 境野意英 )( 四男 )。
藩校「好古堂」に学び、同期の石本新六 ( のちの陸軍大臣 ) ・古市公威 ( のちの東京帝国大学教授 ) とともに「姫路の 3俊才」といわれる。
幕末のころ姫路藩では、佐幕派の筆頭家老高須広正 ( ひろまさ ) と、勤王派の家老河合良翰とが対立していた。
勤王派の河合惣兵衛 ( 宗元 ) の養子で大吉の実兄河合伝十郎 ( 宗貞 ) らが脱藩。勤王派の弾圧が始まる。
境野求馬の下僕が裏切り佐幕派に密書を渡したため、河合良翰・河合伝十郎らが捕縛される。
元治元年 4月 2日境野求馬は責任を感じ自刃した。
元治元年 ( 1864 ) 12月 26日伝十郎は斬首、河合惣兵衛ら約7 0人が自殺刑・禁固刑・蟄居謹慎などの処分となる ( 甲子の獄 )。
大吉はまだ子供で、その後姫路藩家臣力丸五左衛門の養子となる。
慶応 4年 ( 1868 ) 備前藩により姫路城は開城させられて、領地安堵・家名存続のため力丸が江戸の藩主を説得するため江戸に赴くが、佐幕派の藩士に暗殺される。このとき大吉 16歳。
養父の敵を追って 4年、一応の決着をつけ姫路に帰る。
幕府が瓦解し、形勢が逆転、勤王派は赦免となる。
大吉は、力丸家の長女と離婚し東京へ赴き、はじめ福地源一郎の塾で英語を、のちドイツ語を学ぶ。
印刷業をはじめ成功するが、資本主と対立し失敗。
炭屋を始め御用商人となるため、兄伝十郎の親友である内務省の武井守正を訪ねるが、勧められて明治 10年 ( 1877 ) 新政府の官史となり、のち明治 25年 ( 1892 ) 東京火災に武井守正と共に取締役として入社する。
明治 42年 ( 1909 ) 筆頭取締役。56歳没。
※ 古市公威の屋敷は、お茶の水駅前に現存し、子孫の方が保存されている。
※ 三島由紀夫の本名平岡公威は、古市を尊敬していた兵庫県出身の祖父が命名したもの。
※ 上記内容および墓碑は、境野大吉の後裔の方の情報により作成。


5191 久鄕公二男・尚央墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5190 七代目・島津久方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5189 久方公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5188 久亮公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5187 久倫公二女・逸墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5186 久鄕公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5185 久竹公二男・久知墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5184 久洪公二男・忠茂墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5183 忠倍公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5182 忠長公嫡男・忠倍墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5181 久通公嫡男・久武墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5180 久通公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5179 四代目・島津久通墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5178 三代目・島津久元墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
生涯
島津忠長の次男として誕生した。新納四郎忠真の養子となり新納近江守忠在と称する。慶長4年(1599年)の庄内の乱や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも、新納氏として従軍した。しかし、慶長14年(1609年)に兄・忠倍が32歳で死去すると、父・忠長の願いにより新納氏を去って父の家督を相続、以後より島津下野守久元と称した。また、翌慶長15年(1610年)には地頭であった馬越(現・鹿児島県伊佐市)から宮之城(現・鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城)へと移り、同年11月の父の死去に伴い、その翌年には父の在所であった鹿児島(現・鹿児島市)へと移った。
元和4年(1618年)に主君・家久(忠恒)の家老となる。元和7年(1621年)、主君・家久の命で、正室であった新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹(島津義弘の次女)・御下を娶る[1][2]。
寛永元年(1624年)に家久の嫡子・光久が元服すると、その理髪役となる。寛永9年(1632年)に加藤忠広が肥後国より改易となった際は、万一の加藤氏側の反抗に備え、460人を率いて出張している。寛永14年(1637年)の島原の乱では、病の家久に代わり出征する光久の供をし、家久死後も光久の家老を務めた。
寛永20年(1643年)に死去した。享年63。
脚注
1. 『島津氏正統系図』
2. 『諸氏系譜』
参考文献
・『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
(wikiより)
5177 五代目・島津久竹墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5176 六代目・島津久洪墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5175 久洪公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5174 久竹公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5173 祖先世功碑(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5172 久倫公奥方墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5171 九代、島津久亮墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
5170 八代目・島津久倫墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)
生涯
宝暦9年(1759年)、20代当主島津久茂の次男に生まれる。同11年(1761年)、兄の21代当主久般が早世し、男子がなかったため家督を相続する。明和6年(1769年)、鹿児島城に於いて元服し久倫と名乗る。
安永4年(1775年)、島津重豪が鹿児島において開催した犬追物に騎手として参加し、褒賞として綾紗3巻を賜る。同7年(1778年)、稽古館(学校)を、同9年(1780年)、講武館(武道場)を創建し、家臣に文武を奨励する。
寛政2年(1790年)、宗家島津斉宣の拝謝使として家老以下を随え江戸へ赴き、将軍徳川家斉に拝謁し、太刀、馬等を献上する。同3年(1791年)、都城と宮崎を結ぶ大淀川の水運の妨げであった観音瀬の開鑿を家臣の藤崎公寛に命じる。この事業は難工事の末、3年後に完工し、都城と赤江港(宮崎港)間で川舟の通行が可能となり、明治時代まで盛んに利用された。工事に従事した農民には手当を支給し、特に水中で作業をする者には粥や焼酎を支給するなど細やかな配慮を行っている。
同10年(1798年)、庄内旧伝編集方を設置し、領内の地誌編纂を命じる。この事業は息子の久統に引き継がれ、約30年後の文政年間に庄内地理志全113巻が完成した。
文政4年(1821年)、64歳で死去した。龍峰寺に葬られた。
参考文献
・瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
・『都城市史』