本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/01

菊池 正士(きくち せいし、1902年明治35年)8月25日 - 1974年昭和49年)11月12日)は物理学者日本原子物理学の黎明期を起ち上げた一人である。


大阪大学教授。日本学士院会員。文化勲章勲一等瑞宝章受章者。贈正三位(没時叙位)。

人物
数学者教育者貴族院議員枢密顧問官として活躍した男爵菊池大麓の四男として東京府に生まれた[1]


1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1920年(大正9年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、のちに最高裁判所判事となった下村三郎獨協大学学長となった市原豊太、東京大学名誉教授の坪井忠二、フランス文学者の中島健蔵などがいた。


旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後理化学研究所に入った。


1928年(昭和3年)に後に菊池像と呼ばれることとなる現象の電子線回折に関する実験に成功して世界的に認められ[2]、1932年(昭和7年) 東京大学から理学博士号を授与される。題は「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」。 大阪帝国大学理学部教授に就任してからはサイクロトロンの建設に尽力した[1]。その後東京大学原子核研究所長[1]日本原子力学会会長[1]日本原子力研究所所長、東京理科大学長等を歴任した[1]


1951年(昭和31年)文化勲章受章[1]。さらに1972年(昭和47年)には勲一等瑞宝章を受章している。

弟子に渡瀬譲などがいる[3]

家族
妻・妙子は元函館どつく社長・川田豊吉の長女[1]。1男4女をもうけた。


長男・士郎は父と同じく原子物理学者で日本原子力研究所に勤務していた[1]


長女は慶應義塾大学工学部教授を務めた藤岡知夫と結婚した[4]。知夫の祖父・藤岡作太郎日本文学者[4]、父・藤岡由夫埼玉大学の学長を務め[4]、叔父・藤岡通夫東京工業大学教授を務めた[4]。また知夫の子、すなわち正士の孫にあたる藤岡幸夫指揮者


次女はSF作家野田昌宏の弟・玲二郎と結婚した[5]。昌宏・玲二郎兄弟の母は麻生財閥の3代目総帥・麻生太賀吉の妹なので[5]、野田兄弟は第92代内閣総理大臣麻生太郎の従兄にあたり[5]、菊池家は野田家を通じて麻生家と姻戚関係で結ばれることになった[5]


三女は東急不動産社員と[6]、四女は伊藤忠商事社員と結婚した。


法学者
美濃部達吉鳩山秀夫末弘厳太郎はともに大麓の娘と結婚しているため[1]、3人とも正士の義兄にあたる[1]


又従姉は正士と同じく物理学者の長岡半太郎に嫁いでいる[7]。経済ジャーナリスト佐藤朝泰は正士を「戦後日本の代表的物理学者」と[8]、長岡を「戦前日本の代表的物理学者」と評しているが[8]、正士の父・大麓と長岡の義父・箕作麟祥は従兄弟同士で大麓・麟祥がともに箕作阮甫の孫にあたるため[7]、菊池正士と長岡半太郎はともに箕作一族が輩出した物理学者であるといえる[8]

著書
単著
・『原子物理学概論』 岩波書店岩波全書)、1947年

・『物理学の概説』 冨山房、1947年

・『原子論より素粒子論へ』  丘書房、1948年

・『物質の構造』 創元社、1948年

・『粒子と波』 創元社(百花文庫)、1948年

・『原子核物理学』 共立出版、1949年

・『現代自然科學講座12・原子核の光分解』 弘文社、1952年

・『原子核の世界』第二版  岩波書店(岩波新書)、1973年

共著
・『原子核及び元素の人工転換』 湯川秀樹 共著、岩波書店、1940年

参考文献
佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2

・西村明爾 『現代政治家閨閥百科』 竹書房、『歴史探偵』(近代麻雀2013年4月25日号増刊)20-24頁

脚注
1. a b c d e f g h i j 『門閥』、482頁。
2. この業績についてはルイ・ド・ブロイ及びド・ブロイ波を参照。
3. 日本の天文学者の系図
4. a b c d 『門閥』、482-483頁。
5. a b c d 『歴史探偵』、21頁、『現代政治家閨閥百科』。
6. 『門閥』、483頁。
7. a b 『門閥』、480-481頁。
8. a b c 『門閥』、484頁。

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧

第一高等学校 (旧制)の人物一覧

菊池像

外部リンク
菊池家

箕作阮甫とその子孫
(wikiより)

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〇 稲垣平右衛門長茂墓 付 累代墓所
稲垣長茂は慶長 6年 ( 1601 ) に伊勢崎 1万石の大名となった人で、入部すると伊勢崎を中心に城下町としての町屋の形成や、領内の検地を行い、新田開発に努めました。


また、下植木の地 ( 現在の昭和町 ) に天増寺を建立して菩提寺と定め、その後、慶長 17年に没すると墓を天増寺に営みました。


現在「天増寺殿快巌当慶居士」と法名を刻した宝篋印塔が墓地のほぼ正面に建っています。


また、長茂の没後は嫡子の重綱が家督を相続し、元和 2年 ( 1616 ) に越後國藤井 2万石の城主として国替になりましたが、その後、稲垣家代々の当主は墓を天増寺に営みました。


初代伊勢崎藩主稲垣家は、長茂・重種だけが伊勢崎を統治し、その後は新潟・滋賀・栃木・三重 ( 各県 ) へと転封になっている。


遠方に移封となった子孫はその後も、永い歳月に渡りその当主の亡骸をここに納め立派な墓を建てて供養した。


こういった例は他の諸大名ではあまり例がなく、全国でも希有で貴重な文化財である。
(案内板より)


1. 則茂 没年、寛文 5 ( 1605 ) 年 長岡藩牧野家家老・長茂の次男


2. 重昌 慶長 19 ( 1614 ) 年 ~ 寛永 12 ( 1635 ) 年 21歳 重種の長男


3. 長茂 天文 8 ( 1539 ) 年 ~ 慶長 17 ( 1612 ) 年 74歳 初代伊勢崎藩主 1万石・初代大名


4. 長茂室


5. 重種 ( 綱 ) 天正 11 ( 1583 ) 年 ~ 承応 3 ( 1654 ) 年 72歳 伊勢崎~越後国藤井 2万石~三条~三河国刈谷 2万 3千石・2代


6. 重太 文禄 3年 ( 1594 ) 年 近江国山上藩祖の父・長茂の末子分家1代


7. 重定 慶安元 ( 1648 ) 年 ~ 宝永 4 ( 1707 ) 年 60歳 近江国山上藩主 1万3千石・分家 2代


8. 重定室


9. 重房 寛文 10 ( 1670 ) 年 ~ 享保 5 ( 1729 ) 年 51歳 山上藩主・分家 3代


10. 定享 宝永 7 ( 1710 ) 年 ~ 元文 5 ( 1740 ) 年 31歳 山上藩主・分家 4代


11. 定計 ( 同室 ) 享保 13 ( 1728 ) 年 ~ 享和 4 ( 1804 ) 年 77歳 山上藩主・分家 5代


12. 定淳 宝永 12 ( 1762 ) 年 ~ 天保 3 ( 1832 ) 年 71歳 山上藩主・分家 6代


13.定成 天保 14年 ( 1843 ) 年 山上藩主・分家 7代


14. 重昭 寛永 13 ( 1636 ) 年 ~ 元禄 16 ( 1703 ) 年 68歳 三河国刈谷藩主 2万 3千石・3代


15. 重富 延宝元 ( 1673 ) 年 ~ 宝永 7年 ( 1710 ) 年 38歳 刈谷~上総大多喜~下野国烏山 3万石・4代


16. 昭賢 元禄 11年 ( 1698 ) 年 ~ 宝暦 2 ( 1752 ) 年 55歳 烏山~志摩国鳥羽藩主 3万石・5代


17. 昭央 ( 同室 ) 享保 16 ( 1731 ) 年 ~ 寛政 2 ( 1790 ) 年 60歳 鳥羽藩主・6代


18. 長続 明和 7 ( 1770 ) 年 ~ 文政元 ( 1818 ) 年 48歳 鳥羽藩主・長以の養子 高田藩榊原政永の 6男・8代


19. 長以 ( 同室 ) 宝暦 2 ( 1752 ) 年 ~ 文政 6 ( 1833 ) 年 75歳 鳥羽藩主・7代


20. 長綱 ( 同室 ) 文化 4 ( 1807 ) 年 ~ 弘化 4 ( 1847 ) 年 41歳 鳥羽藩主・9代


21. 長明 天保元 ( 1830 ) 年 ~ 慶応 2 ( 1866 ) 年 37歳 鳥羽藩主・10代・鳥羽市常安寺にも墓あり


それ以外に、稲垣家霊塔が有ります。

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菊屋新助は、安永二年 ( 一七七三 ) 越智郡波方町小部の農家に生まれた。


文化年間に松山の松前町二丁目に店舗を出し菊屋と号した。


郷土物産伊予絣 ( がすり ) の前身ともいうべき伊予結城 ( ゆうき ) の改良増産に着眼し、京都西陣から絹織を移入して研究を重ね木綿機 ( もめんばた ) に適する高機 ( たかばた ) を発明し、広く人々にその用法を伝授したので、地域織物業界に新機軸をもたらした。


また関西、九州方面への販路の拡大に成功した功績は極めて大きい。


この高機を利用してつくられたのが、鍵谷カナの創始による伊予絣である。


天保六年十月 ( 一八三六 ) に没した。
(案内板より)

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吉田蔵澤 ( ぞうたく )


蔵澤は松山藩士で、南画家として高名である。


享保七 ( 一七二二 ) 年松山に生まれる。


野間郡、風早郡の代官、物頭などをつとめ、施政に当っては民衆の幸福を第一としたので、広く藩民から慕われた。


蔵澤は政務のかたわら、画道に精進を続けた結果、墨竹において独特の妙義を発揮した。


その墨竹は、一切の画法を脱皮し、豪快な筆致で竹の本質を描写し、神業に入るといわれる。


蔵澤の愛用した雀印は宮本武蔵遺愛の印章であると伝えられている。


武蔵の絵にはきびしい勝負の世界に生きる、すさまじいまでの気迫が感じられる。


蔵澤の絵は温かい人間の情感をこめた陶酔がある。


性格は違うがともに武人らしい気魄があふれ、武士の絵の双璧といわれる。


近年、蔵澤は池大雅、与謝野蕪村と並び賞せられるようになった。


享和二 ( 一八〇二 ) 年に逝去した。
(案内板より)


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水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体水野 廣德明治8年(1875年5月24日 - 昭和20年(1945年10月18日)は、日本海軍軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。

経歴
愛媛県松山市に生れる。幼少に両親を失い、伯父に育てられる。伯父の妻は秋山好古真之兄弟の親戚。


松山中学校を経て、日清戦争後の明治31年(1898年)に江田島の海軍兵学校を卒業(26期)。同期の野村吉三郎小林躋造とは生涯の親友となる。 義和団の乱では陸戦隊小隊長として上海の警備を担当する。明治36年(1903年)、海軍大尉となる。日露戦争では(第41号水雷艇長)として明治37年(1904年)の旅順口閉塞作戦黄海海戦、翌年の日本海海戦に従軍。


日露戦争中に書いた閉塞隊の記録が全国紙に掲載されたことにより、明治39年(1906年)、軍令部戦史編纂部に出仕を命ぜられ、東京で『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事し、黄海海戦、日本海海戦部分などを担当。明治44年(1911年)、『此一戦』を博文館から刊行。編纂作業終了後は舞鶴水雷団、佐世保海軍工廠副官兼検査官、海軍省文庫主管、「出雲」「肥前」の各副長などを歴任した。


第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を私費で視察、戦時下である1度目の視察の後に大正6年(1917年)に『東京朝日新聞』に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京が灰になる可能性を早くも指摘。戦後の2度目の際には、兵士同士の戦いから国家総力戦となり民間人である女性子供老人たちの死体の山を目の当たりにし、帰国後、海軍大臣加藤友三郎に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告(加藤は後にワシントン軍縮会議に日本側全権として出席、軍縮条約を締結)。


「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」として軍国主義者から一転して平和主義者に転じ反戦・平和論を説いた。大正10年(1921年)に『東京日日新聞』に連載した「軍人心理」で軍人にも参政権選挙権)を与えよと書いたことが海軍刑法に触れ謹慎処分を受ける。謹慎最終日に加藤友三郎の意を受けて野村吉三郎が海軍残留を促すが、職業と思想の乖離への葛藤や、軍に所属しているままでは思うように執筆できないことなどから、退役し評論家としての道を進む。


ワシントン会議前後より、『中央公論』などの大手総合雑誌を中心として、矢継ぎ早に平和論・軍縮論を発表。大正12年(1923年)、軍部が『新国防方針』(米国を仮想敵国としたもの)を奏上、それをスクープした新聞記事をもとに、日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した『新国防方針の解剖』を発表。アメリカのメディアにも注目される。


昭和5年(1930年)、日米戦の未来戦記『海と空』を刊行。空襲を受ける東京を「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声」「跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町」と描写した。昭和6年(1931年)、関東軍満州を制圧し、傀儡政権満州国を建国、政府・軍部のみならず130社以上の新聞社が歓迎の共同宣言した翌年、『海と空』を膨らませた『打開か破滅か・興亡の此一戦』を発刊。「日本の満州国承認は、国際連盟を驚愕せしめ米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた」等、満州問題を論じた部分によって発売禁止となる。


昭和16年(1941年2月26日情報局が大手総合雑誌に配布した執筆禁止者リストに載る。また、昭和20年(1945年)、米軍機より大正14年(1925年)4月号の『中央公論』に執筆した『米国海軍と日本』の一部を引用[1]した伝単ビラが全国に撒かれた。


同年、腸閉塞を発症し、10月18日今治市内の病院で死去した。なお、昭和14年(1939年12月30日の日記に「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」の句がある。

栄典
位階
1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[2]

1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[3]

1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[4]

1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[5]

1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[6]

1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[7]

勲章等
1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[8]

作品

此一戦
明治44年(1911年)に博文館より刊行された日本海海戦を描いたルポルタージュである。明治38年(1905年5月27日東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊は、当時無敵の艦隊として世界に名を轟かせたロシア・バルチック艦隊日本海に迎え撃った。海軍大尉として従軍した水野は、日露両艦隊の戦力比較から丁字戦法、後に東郷ターンと言われた奇跡の敵前大回頭など、日本海海戦の実像を臨場感をもって記した。また戦闘の合間にある士官・兵卒の会話、バルチック艦隊の大遠征、秋山真之が敵艦に乗艦し降伏を受け入れる緊迫した場面などが克明に描かれている。当時のベストセラー作品であるが、常陸丸事件で降伏を拒否し自決した軍人を好意的に描き、その後の日本人捕虜観への影響が指摘される[9]

なお、『此一戦』が無許可出版であったので処罰されたとする評論がいくつかあるが、これは2作目の『次の一戦』の時のことである。『此一戦』は許可を受けての刊行であり、許可を得る際に当局の意を受けて海軍充実の意見を加筆しているし、東郷らの題字や加藤友三郎らの序文が掲載されてもいる。

『次の一戦』
大正3年(1914年)に金尾文淵堂より刊行。日米戦争の未来戦記。

日露戦争のときはロシア海軍の旅順艦隊とバルチック艦隊を時期を分けて別々に撃破することが可能であったが、対アメリカ戦ではパナマ運河開通により太平洋艦隊と大西洋艦隊の両艦隊と間をおかず戦わねばならず、日本が敗北する結末を描いて海軍の拡張を訴えた。無許可出版であったため処罰を受けたが、時の海軍大臣・八代六郎が海軍の必要を訴える内容であったことに気を良くし10日の謹慎処分を5日に軽減した。

『戦影』(『血の飛沫』)
大正3年(1914年)に金尾文淵堂より刊行。

明治37年(1904年)の日露戦争における旅順方面の作戦を水雷艇長であった著者の視点で描いた。旅順口封鎖のための哨戒任務や、第三回旅順口閉塞作戦に閉塞隊員収容の任務に当たった時の状況などが克明に描かれる。


昭和5年(1930年)、改訂版を改造社より刊行。初版でしばしば訴えていた海軍の拡張を訴える文言を削除。


昭和10年(1935年)に香風閣より刊行された際には『血の飛沫』と改題。しかし昭和14年(1939年)の潮文閣での刊行の際は元の題名に戻した。この潮文閣の版は発売後間もなく発禁となり、問題とされた数ページを切り取って再発売された。

『海と空』

昭和5年(1930年)に海洋社より刊行。日米戦の未来戦記。


海戦において大艦巨砲主義が既に時代遅れであり、戦局を決定するのが航空戦力であることを明示し、東京大空襲を予言。


また、日本の資源不足やアメリカ依存の産業構造により経済面で戦争続行が困難であることを市民生活が窮乏していく形で描く。

『打開か破滅か 興亡の此一戦』

昭和7年(1932年)に東海書院より刊行。


『海と空』を膨らませたもので、戦闘シーンの一部や東京大空襲の描写、経済的な困窮を描写するシーンは『海と空』を流用。当時多数刊行されていた日米戦争を煽り立てる著作に対する批判や社会評論が随所に挿入されている。満州問題を論じた部分が検閲に引っかかり、発売後まもなく発禁となる。


検閲で不可とされた部分を伏字とし『日米興亡の一戦』と改題、東海書院より再刊行。なお、東京空襲の描写が後に実際に起こった東京大空襲と酷似しているために、これを発禁理由としているものがあるが、それは誤りである。『海と空』は発禁になっておらず、『日米興亡の一戦』の東京空襲の描写に伏字は全くない。


『秋山眞之』

昭和8年(1933年)に秋山眞之会から限定刊行。平成21年(2009年)5月マツノ書店より限定復刻。


桜井真清を代表として複数で執筆された秋山真之の伝記で、水野は立案監修を担当。翌年これを一般刊行のため簡略化した『提督秋山眞之』(岩波書店刊)には「巻頭に寄す」を書く。

『秋山好古』

昭和10年(1935年)に秋山好古大将伝記刊行会より刊行。平成21年(2009年)5月マツノ書店より限定復刻。秋山好古の伝記。


『秋山眞之』同様桜井真清が代表者となっているが、執筆は水野が主導して松下芳男と2人で行われた(刊行直前に松下に宛てた水野の礼状が残っている)。


『秋山眞之』『秋山好古』ともに秋山兄弟を研究する際の必須資料となっており、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』なども両書から多大な影響を受けている。

水野広徳著作集』(全8巻)

粟屋憲太郎前坂俊之、大内信也監修、雄山閣出版 平成7年(1995年)。当初は全10巻の予定であったが全8巻に規模縮小され(「水野広徳の書誌学」石渡幸二)、言論統制が激しくなってから書いた水野の最後の単行本である戦国武将の評伝『日本名将論』が収録されておらず、全集ではなく著作集として刊行になった。水野の文名を一躍天下に知らしめた日露戦記『此一戦』・『戦影』(後に発禁)、日米未来戦記『次の一戦』・『興亡の此一戦』(発禁)、『自伝』『日記』などのほか、新聞、『中央公論』、『改造』などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などの論考の大部分を網羅した唯一の著作集。

評価
古典的研究としては、戦後直後に水野の伝記を著した松下芳男[10]。日本における国際平和主義の伝統を水野に見出し、統帥権の独立を否定し、アジア太平洋戦争の帰結をいち早く予言した人物として高く評価する家永三郎の研究が代表的である[11]。また、1980年代に入ると、「郷土の偉人」として再発掘され、地方史の分野で再評価が進んだ。


1990年代から2000年代に入ると、粟屋憲太郎前坂俊之を中心に編纂された『水野広徳著作集』刊行に前後して、宮本盛太郎関静雄、福島良一らによって、水野の「平和主義者」への転身過程を中心とした実証的な研究が進展した。宮本は、水野の「平和主義者」転身は、それほど劇的なものではないとして、転身前と後の連続性を指摘し、水野の平和論を日本国憲法の源流の一つとして評価する[12]。関は、ワシントン会議前後の言説分析から、国際秩序維持の制度的保障を求めつつ、戦争の危険と軍備負担をこれ以上増大させない、むしろなるべく軽減する方策を模索する「相対的軍備拡張的制限論者」と定義した[13]。福島は、水野が「国防力」=「国力」の涵養こそが最優先課題と認識し、国民生活の向上実現という実利的判断を通じて、軍縮への国民的支持を調達しようとしたこと。そのために軍備を「軍人の専檀」から「国民の手」に解放することを目的とした民本主義に基づく、国民の意思を政治に反映させるための普選即行論と政党内閣制支持の構造を明らかにした[14]


近年では、それまでの研究が、水野を「平和主義者」とアプリオリに規定した上で、「平和主義」転身過程前後に分析を集中していたことに対し、水野の平和主義の限界を捉えようとする研究が現れはじめている[15]

詳しいことは「水野廣徳ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BB%A3%E5%BE%B3
(wikiより)

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所在地東京都江東区深川2-15-20
位置北緯35度40分31.8秒 東経139度47分50.9秒
山号幽遠山
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年寛永6年(1629年
開山還蓮社本誉玄故上人
開基理照院
文化財木造阿弥陀三尊像(江東区登録文化財)、銅製伏 西村和泉守作(江東区登録文化財)、玄信寺興誉法名授与状(江東区登録文化財)、薬師供養塔(江東区登録文化財)

玄信寺(げんしんじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要
1629年寛永6年)、関東郡代伊奈忠順の妻の理照院の開基である。元々は深川下佐賀町(現・東京都江東区佐賀)に位置していたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転した[1]

伊奈忠順は、関東郡代として深川地区の埋め立て工事を行っていたため、当地とは縁があり、妻の理照院としても馴染みの土地であった[1]

墓所
・理照院(開基、伊奈忠順の妻)
三代目鼈甲斎虎丸浪曲師
紫檀楼古喜狂歌師
紀伊國屋文左衛門縁者
  文左衛門本人の墓ともいわれているが、実際は縁者のものとみられている。

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩6分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、64p

参考文献
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)

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武士・松山藩家老。

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木村貞行、大高忠雄を介錯した宮原久太夫が、木村岡右衛門の遺髪を祀った御墓になります。

 宮原久太夫は、この介錯の後、武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。

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木村貞行、大高忠雄を介錯した宮原久太夫が大高源吾の遺髪を祀った御墓になります。


 宮原久太夫は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。

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加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日1859年2月24日) - 大正12年(1923年3月26日)は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎阪急電鉄車掌阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツ養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。

人物
伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった[1]。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。


1883年11月、フランス留学のため出国し、翌1884年1月、パリに到着。1886年、外務省に入りフランス在勤となる。1890年12月、パリを発ち、1891年2月に帰国する。外務省政務局を経て、1892年-1897年にフランス公使館書記、その後、大臣秘書官、人事課長、ベルギー公使などを務める。


1906年(明治39年)にジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になるが、伊藤博文と対立し、翌年に退職した。大阪新報社長兼主筆、大阪北浜銀行(現UFJ銀行)取締役となる。


1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に愛媛県松山市区より出馬して当選。衆議院議員を一期務める。1912年5月27日、貴族院勅選議員となり[2]交友倶楽部に属し死去するまで在任。1917年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]1919年第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加。シベリア出兵後、1919年8月12日、特命全権大使となりシベリア派遣大使に就任し、錦鶏間祗候は消滅した[4]1922年(大正11年)に第5代松山市長に就任したが、翌1923年、任期途中に食道がんで死去した。勲一等旭日大綬章が追贈された。墓所は松山市の相向寺(現松山市拓川町)にある。

栄典
位階
1891年(明治24年)12月5日 - 正七位[5]

1892年(明治25年)11月14日 - 従六位[6]

1896年(明治29年)10月30日 - 正六位[7]

1898年(明治31年)12月22日 - 従五位[8]

1900年(明治33年)12月25日 - 正五位[9]

1906年(明治39年)1月31日 - 従四位[10]

1908年(明治41年)3月30日 - 正四位[11]

1923年(大正12年)3月27日 - 従三位[12]

勲章等
1898年(明治31年)4月6日 - 勲五等双光旭日章[13]

1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章[14]

1902年(明治35年)12月28日 - 旭日小綬章[15]

1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[16]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[17]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[18]

1919年(大正8年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[19]

1923年(大正12年)3月27日 - 旭日大綬章[12]

外国勲章佩用允許
1888年(明治21年)7月7日 - ベルギー王国:レオポール勲章シュワリエー[20]

1892年(明治25年)11月8日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[21]

1893年(明治26年)2月13日 - スペイン王国:イザベルラカトリク勲章シュワリエー[22]

1901年(明治34年)

  ・10月4日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[23]

  ・10月4日 - スペイン王国:イザベルラカトリック勲章グランクロワ[23]

1907年(明治40年)2月1日 - スペイン王国:シャールトロワー第一等勲章[24]

1906年(明治39年)11月2日 - ベルギー王国:レオボール勲章グランクロアー[25]

詳しいことは「加藤恒忠ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%81%92%E5%BF%A0
(wikiより)

0136  加藤恒忠(拓川)墓

加藤恒忠

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真宗 ( しんしゅう ) の
 
            伽羅いかめし

                   稲の花


正岡子規
( 1867 - 1902 慶応三年 - 明治三五年 )


愚陀仏庵 ( ぐだぶつあん ) で静養していた子規が明治二八年一〇月二日、石手川を散策していた時の『散策集』の句。


昭和四三年一〇月建立。


境内に子規の叔父・加藤拓川 ( 五代目・松山市長 ) の墓がある。
(案内板より)

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なつかしき

 
     父の故郷

         月もよし


高浜年尾
( 1900 - 1979 明治三三年 - 昭和五四年 )


年尾は、高浜虚子の長男。名付け親は、正岡子規。


俳句は中学時代に虚子から手ほどきを受け、昭和九年三五歳のころから本格的に句作に精通した。


虚子最晩年より俳誌「ホトトギス」を継承主催した。


昭和四七年一一月建立。
(案内板より)

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南千寿


こころざし

     富貴 ( ふうき ) にあらず

                   老 ( おい ) の春


柳原極堂 ( 一八六七 ~ 一九五七 慶応三年 - 昭和三二年 )


本名 正之 昭和五九年九月一七日建立。


自筆句碑


極堂は松山中学校入学で子規を知り以後俳誌「ほととぎす」「鶏頭 ( けいとう )」を創刊したり、「松山子規会」の結成を提唱したり子規顕彰に一生を捧げた。


晩年愛媛文化賞 ( 愛媛新聞社 ) 愛媛教育文化賞 ( 愛媛県 ) を受賞、また米寿 ( べいじゅ ) 祝賀会が道後公会堂であり、参会者三〇〇名と華やかな晩年となった。


句はその年の作である。
(案内板より)

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河東静渓 ( かわひがし - せいけい )

旧松山藩士。

儒者。

河東碧梧桐の父


維新後は旧藩主・久松家の家扶。


正岡子規に詩文のつくり方を教授する。

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秋晴れて
  
     両国橋の
    
          高さかな

         子規


一〇四五勝 前人未到の記録を成し遂げた


五十八代横綱・千代の富士貢 現九重親方


ここにその栄誉をたたえ 現役時代から親交のあった正宗寺 第二十世住職により


子規の句をそえ 記念し建立する
(碑文から)


 土台は、土俵になっています。

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松山にてホトトギス六百号記念会

極堂も席に在り

笹啼 ( ささなき ) が 

          初音になりし 

                 頃のこと


高浜虚子 ( 一八七四 - 一九五九 )
( 明治七年 - 昭和三四年 )


俳誌「ほととぎす」は、明治三〇年 柳原極堂が子規の支援によって松山で創刊し、二〇号まで発行。


その後 高浜虚子が継承したもので、昭和二一年一一月「ホトトギス」六百号記念会を当寺で催し、昭和二四年一〇月二四日記念句碑建立となった。
(案内板より)

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春風や
 
   ふね伊豫に寄りて
 
             道後の湯


柳原 極堂 ( 1867 - 1957 慶応三年 - 昭和三二年 )


明治 30 ( 1897 ) 年 4月 3日松山の俳句結社、松風会例会の席題吟「名所詠みこみ」の句です。


「ふね伊予によりて」という中七の字余りが、いかにも伊予の松山らしい、ゆったりとした風土の味を出しています。


今もつづく俳誌「ホトトギス」は明治 30年松山で極堂が創刊しました。


彼は終世子規の顕彰に努め、初の愛媛県民賞を受け、また松山名誉市民第一号となりました。
(案内板より)

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内藤 鳴雪 ( ないとう - めいせつ )
( 一八四七  -  一九二六 弘化四年 - 大正一五年 )

裏面に「髯塔 昭和三年五月建」とある。


鳴雪は大正一五年二月二〇日没。


三回忌に建立したもの。


この塚も下村為山の設計による。


髯はあごひげ。


正面の図柄の「あごひげ」がおさめてある。


鳴雪と為山は従兄の間柄である。


詩は祖父に 俳句は孫に 春の風

                         鳴雪
(案内板より)

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世にこびず 

   人におもねらず 

        我はわが 

          正しと思ふ 

              道を進まん

水野廣徳先生は一八七五年三津浜に生まれ、少壮海軍に志し日露戦争には水雷艇長として殊功あり。戦後「此一戦」等を著して名声一世に鳴る。
 
第一次世界大戦後欧州の戦跡を訪ねて戦争の惨禍を痛感し剣を投じて敢然平和主義者に轉ず。


日米未戦論起るに及び之を反撃してやまず、然れどもその高論も世と相容れず遂に太平洋戦争起る。


悶々悲憤の情は僅に詩歌によりて慰むるの他なかりき。


終戦直後の一九四五年十月十八日大島の疎開地にて病没す。
 
一九五七年十一月  後学松下芳男建之
 
賛助 野村吉三郎 安倍能成 小林躋造 二荒芳徳 片山哲 高橋龍太郎
(碑文より)

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朝寒や

   たのもとびく

           うち玄関

愚陀仏庵 ( ぐだぶつあん )に漱石と同宿していた子規が明治二八年一〇月七日、今出 ( いまづ ) の村上霽月 ( むらかみ - せいげつ )を訪れる途中、住職で俳人の一宿和尚を誘うため正宗寺 ( しょうしゅうじ ) へ立ちより、案内を乞うた時の趣 ( おもむき ) をそのまま句にした。

句碑の文字は『散策集』の筆蹟を拡大。
(案内板より)

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師匠は、十六代・時津風正博 ( 元前頭・時津海 ) 。


昭和十七 ( 1943 ) 年、当時現役であった第三十五代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在時津風部屋創設につながっています。


幕内最高優勝十二回 ( 内、全勝八回 ) 、いまだに破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十 ( 1945 ) 年十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。


双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。


十二代・時津風は昭和四十三 ( 1968 ) 年十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱 ( 鏡里・・・十三代・時津風 ) 、三大関 ( 大内山、北葉山、豊山・・・十四代・時津風。第八代相撲協会理事長 ) をはじめ、多くの力士を育成しました。

(案内板より)

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蒲生忠知 ( 一六〇五 ~ 一六三四 ) は会津若松城主・蒲生秀行の二男で蒲生氏郷の孫。

また徳川家康の外孫に当る。


寛永四 ( 一六二七 ) 年 加藤嘉明の会津移封に伴い出羽上城主から松山城主となったが、わずか七年にして寛永十一 ( 一六三四 ) 年に病没した。


世継ぎがなく平安時代の武将・藤原秀郷 ( 俵藤太 ) 以来の名門が断絶した。


忠知ははじめ味酒二丁目の大林寺に葬られたとも伝えられているが、忠知のあと松山城主となった松平定行が興聖寺を創建して蒲生家の零位等を同寺に移した。


碑は、高さ二.五四メートル、幅〇.五三メートル、厚さ〇.二 ~ 〇.二五メートルで、表面の刻字は「興聖院殿前拾遺華岳宗栄大居士」とある。


安永七 ( 一七七八 ) 年蒲生家遺臣の子孫九名が往時を追懐して供養碑を建立したが、その経過は興聖寺所蔵の「建碑略記」のなかにきされている。
(案内板より)

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伊佐庭如矢 ( いさにわ - ゆきや ) は、明治二十三年道後湯之町の初代町長として、道後温泉本館建築に情熱のすべてを注ぎ、幾多の困難を乗り越えながらも明治二十七年四月落成に至った。


棟梁は城大工の坂本又八郎で、重厚な伝統技術を生かしながらも洋風建築の優れた点を取り入れ、伊佐庭如矢を助けた。


伊佐庭翁は、明治三十五年に任期満了により町長退職。


余生は詩歌、茶の湯などの風流に親しみ、明治四十一年九月、永眠した。
(碑文より)

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母と行く

    この細徑の

          たんぽぽの花


高橋一洵先生は松山に生まれ

大正十四年早大卒業後 三十三年間 松山商大に教鞭をとり


古代印度の宗教社会政治の研究 聖徳太子 一遍上人の賛仰等多数の論文を発表す 

仏教の実践 名講演は青年と大衆の心を打つ


俳人山頭火を敬愛し その最後を見守る


昭和三十三年一月二十六日没 山翁と共に五十九歳なりき
(碑文より)

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山頭火の句は昭和一五年の俳誌「層雲」に発表した最晩年の句。
(案内板より)

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牡丹園跡。


詳細不明。

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正岡 子規 ( 一八六七 - 一九〇二 )
( 慶応三年 - 明治三五年 )


裏面に、「明治三七年九月一九日樹 ( たつ )」とある。


子規は明治三五年九月一九日死去、一〇月二八日ここで遺髪埋葬式と追悼会が行われ、三周忌に この遺髪塔が建立された。


文字やデザインはすべて親交のあった下村為山 ( しもむら - いざん ) による。


昭和二三年一〇月二八日、県の「記念物・史跡」に指定された。
(案内板より)

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正岡子規は わが国野球草創期に選手として活躍、明治二十年代 はじめて松山の地にこれを伝えた。


最も早くベースボールの技術、規則を訳述解説し、その妙味を強調して ひろく世に推奨「野球」の名づけ親と称される


また短歌、俳句、小説など文学の題材に初めてこれをとり入れた


実は子規は わが球界の先駆者であり 普及振興の功労者である

 
うちはづす球 キャッチャーの手に在りて
   ベースを人の行きがてする
 今やかの三っつのベースに人満ちて
   そぞろに胸の打ち騒ぐかな

(明治三十一年ベースボール九首のうち)
(碑文より)

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二代目 尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、1913年大正2年〉3月28日 - 1989年平成元年〉6月25日)は、日本歌舞伎役者。屋号音羽屋定紋四つ輪に抱き柏、替紋は藤輪に花菱日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。

本名は藤間 豊(ふじま ゆたか)。六代目尾上菊五郎の薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代・世話を問わず立役として活躍した。踊りの名手としても知られ、日本舞踊藤間流家元として四世藤間勘右衛門を名乗った。

来歴・人物

七代目松本幸四郎の三男として東京・日本橋浜町に生れる[1]。長兄が十一代目市川團十郎、次兄が初代松本白鸚四代目中村雀右衛門は義弟にあたる。三味線奏者の三代目・今藤長十郎はいとこ。

永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校[2]京華中学校[2]卒業。小学校では鉱物学者櫻井欽一と同級であった[3]

1918年(大正7年)、帝国劇場において松本豊で初舞台。1927年(昭和2年)、父の意向により六代目菊五郎のもとへ修行に出され、以後立役としての厳しい稽古をつけられる。1935年(昭和10年)、歌舞伎座伽羅先代萩』の荒獅子男之助ほかで二代目尾上松緑襲名する。

1937年(昭和12年)には父から日舞の一派藤間流の宗家を譲られ、四世家元四代目藤間勘右衛門を襲名する。

太平洋戦争が始まると中国戦線に出征するが、敗戦により生還した。翌1946年(昭和21年)、長男の亨(後の初代尾上辰之助)が生まれるが、まもなく父と師の相次ぐ死に見舞われる。六代目菊五郎の死後、菊五郎劇団を率いるようになり、この頃から活発な舞台活動を見せはじめる。

1975年(昭和50年)、二代目藤間勘斎を名のって勘右衛門を長男・辰之助に譲ったが、1987年(昭和62年)、その辰之助に先立たれるという悲運に見舞われる。美声だった辰之助のことを「あいつの笛は俺より上等だ」と言って悔しがったほど期待をかけていた後継者だっただけに、端で見ていても気の毒になるような落胆ぶりだった。その後自身も身体の不調をうったえるようになるが、辰之助の忘れ形見となった孫の二代目尾上左近(四代目松緑)の成長を気にかけていた。辰之助の死から2年経った1989年(平成元年)6月25日、急性肺炎のため死去。76歳だった。墓は神奈川県鎌倉市鎌倉霊園に建てられている。

新橋芸者に生ませた男児があり、光と名づけて次男として認知、のち藤間勘左を名のった[4]

東京・千代田区のホテルニューオータニの近くに自宅を構え、住所からは「紀尾井町の松緑さん」と呼ばれて親しまれた[5]大向うの掛け声も「音羽屋っ!」ではなく「紀尾井町っ!」とかかるのが常だった。


芸風

立役の後継者に恵まれなかった師・六代目菊五郎の芸風の良き継承者だった。また七代目尾上梅幸三代目市川左團次十七代目市村羽左衛門らとともに菊五郎劇団を支えて、大正から昭和初期の歌舞伎を戦後に伝えることに大きな功績があった。


恰幅のいい体つきと、明るく豪放磊落な仁で、『勧進帳』の弁慶、『』の鎌倉権五郎、『毛抜』の粂寺弾正のような荒事や、『義経千本桜』のいがみの権太などを当たり役とした。また『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の新三、『曽我綉侠御所染』(御所五郎蔵)の五郎蔵、『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の梅吉・竹垣道玄、『新皿屋舗月雨暈』(魚屋宗五郎)の宗五郎といった世話物、そして『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助・寺岡平右衛門、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷直実、『義経千本桜』の平知盛・狐忠信などの時代物も得意で、幅広い役に取り組んでいる。


舞踊では同世代の中で抜きんでた名手で『土蜘』、『茨木』、『積恋雪関扉』(関の扉)、『六歌仙容彩』(六歌仙)、『船弁慶』など代表作は数多い。


テレビ
映画の出演も多く、NHK大河ドラマでは第1作の『花の生涯』で井伊直弼(主役)、『勝海舟』で勝小吉、『草燃える』で後白河法皇を演じた。


実兄・十一代目市川團十郎が「團十郎」襲名の3年後に急死すると、市川宗家の名代としての自覚も芽生え、歌舞伎十八番の『象引』『七つ面』『解脱』『関羽』『不動』などの埋もれた古典の復活を次々に行った。また、『宿無團七』などの上方狂言に挑戦したり、東大寺二月堂お水取りを取材して作った新作舞踊『達陀(だったん)』の初演や、『オセロ』『シラノ・ド・ベルジュラック』など、洋の東西を問わず、歌舞伎以外の商業演劇でも積極的に新劇俳優と共演する芸域の広さも見せていた。


また、演劇のジャンルを越えて後進や若手の役者を育てることにも熱心だった。喜劇役者の伊東四朗がまだ無名時代に松緑に教えを請おうと自筆の芝居の台本を持って歌舞伎座へ押し掛けたところ、松緑は伊東を自らの楽屋に通し、台本を読んでアドバイスをしたばかりか、女形芸について訊かれると当時自身に師事していた四代目坂東鶴之助(後の五代目中村富十郎)を伊東に紹介してまでいる[6]。また後に時代劇俳優として名を成す高橋英樹は、日活在籍時の18歳の頃から一時期松緑の下で、着物の着付けや基本動作、そして時代物を演じるときの基礎的な所作などをしっかりと学んでいる[7]十八代目中村勘三郎は、『松録のおじさん』と慕い、「俺は体は動かないが、心で形は出来ているんだ」と言って、体が動かなくなった晩年でも、歌舞伎の形の稽古を付けてもらっていたという。


各賞・栄典
受賞・受章
・1952年(昭和27年)- 毎日演劇賞劇団賞。第7回文部省芸術祭奨励賞(『若き日の信長』の平手中務で)
・1955年(昭和30年)- 第1回テアトロン賞
・1964年(昭和39年)- 第9回テアトロン賞
・1965年(昭和40年)- 藤間勘右衛門として日本芸術院賞受賞[8]
・1967年(昭和42年)- NHK放送文化賞
・1984年(昭和59年)- 文化功労者
・1987年(昭和62年)- 文化勲章
・1989年(平成元年)- 従三位勲一等瑞宝章追贈


その他
・1972年(昭和47年)- 人間国宝
・1973年(昭和48年)- 日本芸術院会員


当たり役
時代物
・『』の鎌倉権五郎
・『毛抜』の粂寺弾正
・『菅原伝授手習鑑』の梅王丸
・『天満宮菜種御供』(時平の七笑)の時平
・『勧進帳』の弁慶
・『御所桜堀川夜討』「弁慶上使」の弁慶
・『義経千本桜』の平知盛・狐忠信・いがみの権太
・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷直実
・『寿曾我対面』の曽我五郎
・『梶原平三誉石切』(石切梶原)の梶原平三
・『伽羅先代萩』の荒獅子男之助
・『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助・寺岡平右衛門
・『絵本太功記』の武智十兵衛光秀
・『妹背山婦女庭訓』の鱶七
・『傾城反魂香』「吃又」の又平
・『雷神不動北山桜』(鳴神)の鳴神上人・粂寺弾正・不動明王(三役)

世話物
・『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の按摩竹垣道玄
・『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の髪結新三
・『雪暮夜入谷畦道』(蕎麦屋)の片岡直次郎
・『水天宮利生深川』(筆屋幸兵衞)の船津幸兵衛
・『天衣紛上野初花』(河内山と直侍)の松江出雲守
・『天竺徳兵衛韓噺』の天竺徳兵衛
・『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)の水野十郎左衛門
・『三人吉三巴白浪』の和尚吉三
・『夏祭浪花鑑』「鳥居前」「三婦内」「泥場」の団七
・『塩原多助一代記』の塩原多助・道連れ小平(二役)


舞踏
・『土蜘』の智籌
・『茨木』の渡辺綱
・『積恋雪関扉』の関の扉
・『六歌仙容彩』の六歌仙
・『船弁慶』の静御前・知盛の亡霊(二役)
・『達陀』の僧集慶


詳しいことは、「二代目・尾上松緑ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E6%9D%BE%E7%B7%91_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

071 二代目・尾上松緑

⇧ 二代目・尾上松緑

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奥平貞幹 ( さだもと ) ( 一八一七 ~ 一八八二 ) は、松山藩士で通称は左衛門、月窓と号した。


貞幹は、藩校明教館で学んだのち、周布郡・久万山・和気郡の代官を歴任した。


周布郡・桑村郡・久万山において、大きな業績を残したが、特筆されるのは、和気郡における大可賀新田の開発である。


嘉永四 ( 一八五一 ) 年、温泉郷の税収減少に対処するため、同郡別府・吉田両村の海岸地域の干潟に着目し、山西村庄屋の一色儀十郎に干拓工事を担当させ、安政五 ( 一八五八 ) 年に約五十町歩の大可賀新田を開いた。


また、彼は第二次長州征討の事後処理にあたり、慶応二 ( 一八六六 ) 年に周防屋代島で長州の林半七と和議交渉を行った。


この時の記録は『月窓之巻』として残されている。
(案内板より)

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浅山勿斎 ( あさやま - もっさい ) ( 一七五四 ~ 一七九七 ) は、通称を太郎左衛門、松山藩士で、故辞学者である。


彼は学者として傑出しており、二五歳の時に藩主・松平定静に抜擢されて講師となり藩士に経書の講義をした。


さらに注目すべきことは一二項目わたる藩政改革案を献策したことである。


この改革案は、文武の奨励、倹約の厳守、綱紀の粛正等藩政の補強工作に結びつくものがあり、藩主自身が率先して学問に志し、学校を設けること、藩士の任免に留意すること、家老屋敷の訪問は、冗費が多くかかるのでひかえること等藩主にも厳しいものであり、順次に実地され、善政と称賛された。


しかし、最もよい理解者であった定静の急逝により、守旧派の老臣たちの妨害で改革事業は中断されたと伝えられている。
(案内板より)

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正岡子規の叔父。

「武士は藤野」といわれたくらい気骨のある人物で、文武両道に優れていた。

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土佐十五代 藩主 山内容堂 ( 豊信 )

一八二七 ~ 一八七二年


幕末激動の時勢に際し その識見と才能をもって国事に参与


幕末四賢候の一人として天下に名を馳せる


慶応三年十月 大政奉還を建白し維新への扉を開く
(案内板より)

〇 山内神社
山内神社
(やまうちじんじゃ)は、高知県高知市にある神社である。土佐藩初代藩主山内一豊同夫人、および土佐藩歴代藩主を祀る。旧社格別格官幣社で、現在は神社本庁などに属さない単立神社となっている。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

歴史
文化3年(1806年)、土佐藩10代藩主豊策により、初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まる。当時、初代藩主を神として祀ることが各藩で行われていた。天保6年(1835年)、「藤並大明神」の神号が贈られた。


明治4年(1871年)、土佐藩最後(16代)の藩主で、初代藩知事となった豊範が、藤並神社の御旅所であった現在地に山内神社を創建し、3代忠豊から14代豊惇までの霊を祀った。翌明治5年(1872年)、山内神社は高知県庁に引き渡され、村社に列格した。


昭和7年(1933年)、15代豊信(容堂)・16代豊範の明治維新での功績を顕彰する神社を新たに造ることとなり、山内神社に祀られていた歴代藩主の霊を藤並神社に遷座し、新しい社殿を造営した。昭和9年(1935年)4月に竣工し、豊信・豊範を祀る「別格官幣社山内神社」として創建された。


昭和20年(1945年)、戦火により両神社とも焼失し、以降、仮宮で祭祀が行われていた。昭和45年(1970年)、社殿を再建して藤並神社を合祀し、土佐藩歴代のすべての藩主を祀る神社となった。平成2年(1990年)、高知城内にあった熊野・春日・住吉の三社を境内に遷座した。

周辺
旧山内家下屋敷長屋(隣接)

土佐山内家宝物資料館(隣接)

鏡川(隣接)

旧山内家下屋敷長屋(国の重要文化財)

高知市立龍馬の生まれた町記念館

関連図書
・白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、243頁

関連項目
土佐山内氏

外部リンク
山内神社(公式サイト)
(wikiより)

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慶応三年 ( 西暦一八六七年 ) 二月十七日


薩摩島津公の命に依り西郷隆盛来藩す


山内容堂は当邸内物見座敷此君亭に土佐藩士・福岡孝弟を従へ西郷隆盛及薩摩藩士・吉井友美を引見し共に時局の重大性を語り西郷隆盛は頻に山内容堂公に上洛を促した


結果ここに肝胆相照し遂に明治維新回天の基礎を確立した由緒深き邸跡である。
(案内板より)

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現在の鷹匠公園付近

土佐藩 15代藩主・山内容堂の公邸があった場所

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武市戸建て小楯 通称は半平太瑞山と号す


文政十二年九月長岡郡吹井村に生る


天資英偉明秀人格一世に高し幕末多難の際


土佐勤王党を率い国事に奔走す後に吉田東洋暗殺に連坐し慶応元年閏五月十一日この地に割腹す

時に年三十有七
(碑文より)

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吉田東洋 ( よしだ とうよう ) ( 1816 - 1862 )


本名 正秋 通称 元吉 

15代藩主・山内豊信 ( 容堂 ) に信任され 安政改革を推進文武館を建設


「海南政典」を編さんしたが公武合体策を堅持したため 武市瑞山の率いる土佐勤王党の刺客により 文久 2年 4月 8日この地に暗殺された
(碑文より)


 実際に暗殺された場所は、『吉田東洋先生記念之地』から 約50メートル離れた商店街の中です。


そしてまた『武市瑞山先生殉節之地』も数分の場所にあります。

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立志社

立志社は明治前期に、国会開設・憲法制定・言論の自由などを求めた自由民権運動を全国的にした中心的民権結社である。


1874 ( 明治 7年 ) 板垣退助らによって九反田に創設され、その後旧町会所 ( 現高知大丸 ) に移された。


1883 ( 明治 16年 ) に解散し、海南自由党がその使命を引き継いだ。


1881 ( 明治 14年 ) に起草された立志社の「日本憲法見込案」は現憲法に大きな影響を与えている。


立志社は全国の民権結社の中で、その先駆者・指導性・人材の輩出・組織力・財政力など最高の存在であった。
(案内板より)

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中山高陽 ( なかやま こうよう ) ( 1717 - 1780 )


土佐文人画の第一人者 

冨商阿波屋勝久の次男


はじめ京都の彭城百川 ( さかき ひゃくせん ) に師事


のち江戸に出て詩 書 画の名流と交友


わが国文人画の先駆者となった


画の代表作に「蘭亭曲水図巻」著書に「奥游目録」等がある
(碑文より)

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片岡健吉 ( 1843 ~ 1903 )


自由民権家、土佐藩士として戊辰戦争に参加後、イギリスに留学。


帰国後立志社社長をつとめ、終始自由民権運動の先頭に立った。


第 1回衆議院選挙以降当選を重ね、衆議院議長在任中に病死。


また基督教徒であり、同志社社長をつとめた。
(碑文より)

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板垣退助 ( 1837 - 1919 )


戊辰の役には藩兵千人を率い東山道先鋒を務めた


立志社をつくり自由民権運動をおこす


自由党の総理となり全国遊説中 明治 15年岐阜で刺される


「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名


晩年は社会事業に全力をあげる
(碑文より)

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後藤象二郎 ( 1838 ~ 1897 )


天保 9年 19日この地に抜擢される


第 15代藩主・山内豊信 ( 容堂 ) の信任を受け公武合体論を唱え土佐勤王党と対立


武市瑞山らを断獄する


のち坂本龍馬と接し 容堂公にすすめて 大政奉還の大業を成す


明治維新後は竹馬の友・板垣退助と共に自由民権運動を推進


在野勢力の大同団結に指導者の光芒を放つ 伯爵
(碑文より)

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南北朝時代 ( 1333 ~ 1391 ) の土佐は足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったが、南朝勢力は大高坂城 ( 現在の高知城と同一地 ) を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続いた。


やがて、後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝時代は一時勢力をもりかえした。


そこで北朝方はここ升方近辺にあったといわれる安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃をくり返しおこなった。


一方、新田、金沢らは花園宮を奉じて潮江山 ( 筆山 ) に陣をもうけ、数千騎が大高坂城を救援しようとした。


その最も激しい戦いがくり広げられたのがこの辺りであったといわれる。


「佐伯文書」によると大高坂城は興国元年 ( 暦応三年・1340 ) に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれ、花園宮はその後西国方面へ脱出した。


なお松王丸の墓はもと高知市役所敷地内の大公孫樹 ( 銀杏 ) の場所にあったと伝えられ大高坂神社が建てられたが、戦災で焼失したため昭和二十一年に久万の松熊神社に合祀された。


市役所前広場には松王丸の記念碑が建てられている。
(案内板より)

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甕にあれば


      甕のかたちに


             春の水

     
義子
(案内板より)

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⇧ ふなや

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⇧ ふなや裏入口

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夏目漱石が、明治 28 ( 1895 ) 年 4月、松山中学校の英語教師として松山に赴任したときの下宿があった場所である。


漱石はここで正岡子規と共同生活をした。


「愚陀仏庵」は、昭和 20 ( 1945 ) 年 7月 26日、松山大空襲のため焼失し、現在は、萬翠荘 ( ばんすいそう ) 裏に復元されている。
(案内板より)

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高知県の青年有志が募金活動を行い、当時の金額にして 2万 5千円を集め建立。


昭和 3年 5月 27日午後 2時、除幕式を行い姿を現した龍馬像。


和服姿に懐手、ブーツ姿の龍馬は、はるか太平洋の彼方を見つめています。


像の高さは 5.3m 台座を含めた総高は 13.5m。


毎年龍馬の誕生日であり命日でもある。

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ここ永福寺門前で、井口事件がおきました。


〇 井口村刃傷事件
井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)とは、文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にて起こった刃傷事件。事件後の処分を巡って上士郷士が対立し、緊張が高まった。

事件の経過
文久元年3月4日の夜、小姓組山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝いの宴会の帰りに井口村(現・高知県高知市井口町)の永福寺という寺の門前で郷士中平忠次郎と肩がぶつかる。当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうとしたが、相手を郷士と見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。


口論の末に逆上した山田は抜刀し、忠次郎もこれに応戦するが敵わず殺害されてしまう[1]


忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田を発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。


寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。


翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。 『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とだけ記されている。


事態は寅之進と喜久馬の切腹をもって終結した[2][3]


宇賀喜久馬の切腹は親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実兄である寺田知己之助(寺田利正。宇賀市良平の次男。18歳の時、同じく郷士の寺田久右衛門の養子となる。寺田寅彦の父親)であった。実弟を介錯した当時25歳の知己之助はその後、精神を病んだとも伝わっている。

事件後の対応
事件後、藩は山田の父新六を謹慎処分としたが、弟次郎八には家督の相続を許し、一方で事件に巻き込まれた形の松井家(益永家)と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄(家格・禄高)没収との処分がなされた。この決定に郷士側の人々は憤り、事件より半年後に結成される「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながる一つの要因ともなっていったと言われる。[4]

補注
1. ちなみに、これは郷士側の言い分であり、上士側の言い分では忠次郎は謝罪しなかった為、山田と口論になり殺害されたとなっている。

2. この時武市半平太が駆け付け、他の郷士達が「敵討ちは武士の誉れ」と庇うも、武市は「ここは土佐だ。他藩の常識は通用しない」、「寅之進は敵討ちを成し遂げ武士の本望を全うした。このまま、上士に討ち取られるくらいなら、潔く切腹し責任も全うせよ」と切腹を強要したと言うエピソードは創作である。

3. 上士と押し問答をしていた龍馬は中の異変に気付くも間に合わず、すでに寅之進が助からないことを悟った龍馬は彼の介錯をしてやった。そして、自分の刀の白い緒を解いて、それを寅之進の血汐に浸し、郷士の団結を誓ったという逸話は創作である。

4. 創作ではこのように説明される場合もあるが、そのような証言やその後の土佐勤王党の活動との繋がりはなく、根拠はない。

外部リンク
青空文庫 寺田寅彦「柿の種」-『安政時代の土佐の高知での話である。』
(wikiより)

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朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし


漂泊の俳人、種田山頭火は昭和十四年十月一日、遂に念願の四国遍路を果し松山に着き、御幸寺山の麓に一草庵を結んだ。


流浪の疲れた身と魂を静かに休めるべきところを松山に求め御幸寺山のみどり、道後温泉の湯、石手川の水、そして山の辺りの花咲く里は山頭火の晩年を美しくするには十分であった。


この句は道後温泉で詠んだもので山頭火の直筆である。


山頭火はふなや庭園の鴉渓をよく散策し、大正三年十月、彼の師・萩原井泉水がこのふなやに宿している。


「大きい落ち着いた感じのする宿である」と記している。


そんな縁で平成七年七月二十一日句碑を建立。


裏面の「ほんにあたたかな人も旅もお正月」の句は道後周辺で詠んだ句である。
(案内板より)

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日根野弁治 ( べんじ ) が築屋敷に開いた道場。


郷士の門下生が多く、龍馬ここで十四歳から十九歳まで修業、「小栗流和兵法事目録」を受けた。

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この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受持ちの区域 ( 丁場 ) の境界を示す標柱です。


西は、上町の観音堂より、東は雑喉場 ( ざこば ) に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。


各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いてました。


水丁場には、目盛りをつけた標木も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出動の人数を決めていたといわれています。


他に同様の標柱が、鷹匠町二丁目・上町五丁目に残っています。
(案内板より)

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