本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/01

近藤長次郎 ( 1838 - 1866 )


天保 8年 大黒屋の長男に生まる


長じて坂本龍馬に兄事して活躍


神戸海軍操練所をへて長崎 亀山社中に投じ


ユニオン号譲渡をめぐって薩長連合に一役をになうも


そのあと単独に海外渡航を企てたことが社規に反し 慶応 2年早春自刃して果てた 行年 29才
(案内板より)

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城山や

   筍のびし

       垣の上


柳原極堂 ( きょくどう )
( 1867 - 1957  慶応三年 - 昭和三二年 )


極堂は子規の新俳句普及のため、俳誌「ほととぎす」を発刊、松山俳句界の興隆につとめ、晩年は子規顕彰に尽くした。


この句は「ほととぎす」第七号 ( 明治 30年 7月 ) 所載の句で、それには「筍」が「竹の子」となっている。


極堂翁三一歳の時の句である。


句集『草雲雀』著書『友人子規』等。
(案内板より)

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 〇は判読不可

坂本龍馬の姉・栄が夫、柴田作衛門と離婚したあとの後妻。( 文久元年 10月、37才没 )
(案内板より)

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宇左衛門の子息。
(案内板より)

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栄 ( 坂本龍馬の次姉栄 ) の夫作衛門の父で、御小姓組柴田家の分家である。
(案内板より)

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漢詩人。


生涯就職せず徒食。


創始期の旗持ちをしたが、貧窮しても権威に媚びることはなかった。


安岡章太郎の小説「鏡川」の主人公。
(案内板より)

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兼松トヨ


清九郎の妻。

清貧に耐え、よく夫の画業を支えた。
(案内板より)

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兼松清九郎


画人。

号は南園。


山水、人物、特に美人画に優れていた。
(案内板より)

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画人。


本職は細工師 ( 指物大工 ) であったが、島本蘭湲のグループに属して国風の画を得意とした。


騎射図などが特に有名。
(案内板より)

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歌人。


下士、庄屋、冨商と交流が多かった。
(案内板より)

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歌人。


谷 真潮の門人。


馬詰親音、山地介寿、今村 楽らとも親交があった。
(案内板より)

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歌人。


井口事件当夜、山田広衛を宴席に招待した小野家の先代でもある。
(案内板より)

〇 井口村刃傷事件 ( 井口事件 )
井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)とは、文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にて起こった刃傷事件。事件後の処分を巡って上士郷士が対立し、緊張が高まった。

事件の経過
文久元年3月4日の夜、小姓組山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝いの宴会の帰りに井口村(現・高知県高知市井口町)の永福寺という寺の門前で郷士中平忠次郎と肩がぶつかる。当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうとしたが、相手を郷士と見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。


口論の末に逆上した山田は抜刀し、忠次郎もこれに応戦するが敵わず殺害されてしまう[1]


忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田を発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。


寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。


翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。 『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とだけ記されている。


事態は寅之進と喜久馬の切腹をもって終結した[2][3]


宇賀喜久馬の切腹は親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実兄である寺田知己之助(寺田利正。宇賀市良平の次男。18歳の時、同じく郷士の寺田久右衛門の養子となる。寺田寅彦の父親)であった。実弟を介錯した当時25歳の知己之助はその後、精神を病んだとも伝わっている。

事件後の対応
事件後、藩は山田の父新六を謹慎処分としたが、弟次郎八には家督の相続を許し、一方で事件に巻き込まれた形の松井家(益永家)と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄(家格・禄高)没収との処分がなされた。この決定に郷士側の人々は憤り、事件より半年後に結成される「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながる一つの要因ともなっていったと言われる。[4]

補注
1. ちなみに、これは郷士側の言い分であり、上士側の言い分では忠次郎は謝罪しなかった為、山田と口論になり殺害されたとなっている。

2. この時武市半平太が駆け付け、他の郷士達が「敵討ちは武士の誉れ」と庇うも、武市は「ここは土佐だ。他藩の常識は通用しない」、「寅之進は敵討ちを成し遂げ武士の本望を全うした。このまま、上士に討ち取られるくらいなら、潔く切腹し責任も全うせよ」と切腹を強要したと言うエピソードは創作である。

3. 上士と押し問答をしていた龍馬は中の異変に気付くも間に合わず、すでに寅之進が助からないことを悟った龍馬は彼の介錯をしてやった。そして、自分の刀の白い緒を解いて、それを寅之進の血汐に浸し、郷士の団結を誓ったという逸話は創作である。

4. 創作ではこのように説明される場合もあるが、そのような証言やその後の土佐勤王党の活動との繋がりはなく、根拠はない。

外部リンク
青空文庫 寺田寅彦「柿の種」-『安政時代の土佐の高知での話である。』
(wikiより)

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宅衛門は歌人。


谷真潮のグループに属し、宮地春樹、馬詰親音らと親交があった。


坂本直海 ( 龍馬曾祖父 )、久子 ( 龍馬祖母 ) も指導し、ともに土佐を代表する歌集「採玉集」に採歌されている。
(案内板より)

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歌人。


谷 真潮のグループに属し、藩の教授方としても熱心に指導にあたった。
(案内板より)

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国学者。


京都伏見藩邸留守居役のとき、本居宣長に入門。谷真潮、鹿持雅澄、今村楽らと広く交流。


土佐の歴史書「南路志」の編集にも協力した。
(案内板より)

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奇人として有名。


通町の郷士の子で坊主の養子となるが、賭博に負けた友人の鐘を取り戻すなど正義感による奇行が多かった。
(案内板より)

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野中兼山が進めた珍しい儒葬形式の墓で、地中に銘板 ( うるし文字の墓誌 ) 2枚が合わせて埋められていた。
(案内板より)

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井口事件の下士側・中平忠次郎の祖父。


忠次郎は事件当日、宇賀喜久馬 ( 地球物理学者・寺田寅彦の叔父 ) を同伴していた。


このため、池田寅之進と宇賀喜久馬は切腹した。
(案内板より)

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繁斎の父。
(案内板より)

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文久元年 ( 1861 ) 3月 4日、永福寺前で起った上士と下士の刃傷事件 ( 井口事件 ) の上士側の同伴者。


山田広衛が下士・中平忠次郎を斬り、駆けつけた池田寅之進が山田と益長繁齋を斬ったため、上士・下士間の争いになり、土佐勤王党結成の一つのきっかけになったともいわれている。
(案内板より)

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塾師匠で砲術家。


のち大阪でも塾を開き全国的に活躍した。
(案内板より)

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井口町に移転する前に前の長福寺の住職道察 ( 隠居後、北奉行公人町千蓮寺住職 )。


首から上の病に霊験ありと、豆腐を供え信仰された。
(案内板より)

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享保 7年 ( 1722 ) 金瘡医 ( 外科 ) として藩に登用され、代々藩医を受け継いだ。
(案内板より)

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本草学者。


京都で小野蘭山に師事。


帰国して北奉行人町で医を開業。


山野を歩き、植物を採集して、文化・文政年間を代表する優れた著書を残した。
(案内板より)

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幡多奉行として一条神社を奉祀するなど業績をあげ、幕末期には土佐藩大目付まで勤めた。
(案内板より)

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以心流槍術指南役。


合原政右衛門に流儀を伝授され、郷円之丞を後継者とした。
(案内板より)

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国産方として鉱山を開発するなど、その活躍と見識を買われて勘定頭となる。


甫喜峯坑道 ( 木材搬出用 ) 堀削計画を立て実現しなかったが、のち甫喜峯灌漑用水路及び水力発電計画のもととなった。
(案内板より)

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勘定小頭として幕末の土佐藩財政安定のため活躍した。
(案内板より)

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高木流槍術を土佐に伝え、藩指南役となり、高弟岩崎甚八郎に後を譲った。
(案内板より)

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杉山流槍術の名手。


多賀安右衛の門人として有名になり、土佐にその伝統を残した。
(案内板より)

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小栗流槍術師匠として、坂本龍馬の師匠 

日根野弁治と同時代に活躍した。
(案内板より)

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島村速雄元帥の祖父。


初代は長宗我部氏の家臣として戸次川で戦死しているが、子孫が白札となり、次第に栄進して徒士目付、近習小目付となった。
(案内板より)

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長宗我部氏家臣の系統であるが、代々山内家に仕え、小目付、江戸勤番などを勤めた。


子孫の正久は戊辰戦争に参戦。
(案内板より)

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池 伴仙の弟。


伴仙塾を引き継いで塾を隆盛させ、多くの子女を教育した。
(案内板より)

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池内蔵太の一族で塾の師匠として多数の子弟を育成した池伴仙。

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血盟勤王党員浪間 ( しま - なみま )( 並馬 ) の祖父。


浪間は文久 3年 ( 1863 ) 大和義挙に加わり、長州へ逃れたが、慶応元年 ( 1865 ) 備前 ( 現岡山県美作土居 ) で遊説中、強盗と間違われ、千屋金策、井原応助とともに自刃した。
(案内板より)

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血盟勤王党員・服部東蔵の父。


東蔵は文久 2年 ( 1862 ) 藩主に従い上京。


そのまま戊辰戦争に参加し、会津攻めのとき銃弾にあたって負傷、明治 12年 ( 1878 ) 没した。
(案内板より)

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服部興郎の父。

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血盟勤王党員で槍術の名人。


藩主に従い江戸詰めとなり、安政年間から水戸藩士らと広く交流した。


慶応 2年 ( 1866 ) 肺疾患のため小高村で没した。

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一瀬孫之進の娘。

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一瀬源兵衛の祖父。

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御馬廻。


数少ない上士血盟勤王党員・一瀬源兵衛の父。
( 龍馬も同じ血盟勤王党員として署名 )

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坂本龍馬を教えた楠山塾の師匠。


龍馬は少年時代、小高坂村にあった楠山塾へ通ったが、上士の子と争いを起こして退塾し、その後他の塾で学ぶことはなかった。


公平ですぐれた人物であったといわれる。

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⇧⇩ 奥様墓。

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山地介寿の妹。


山内家から眉寿 ( みす ) 姫が三条実万 ( さねつむ ) に輿入れしたとき、老女として三条家に仕え、王政復古後に大政奉還となった三条実美 ( さねとみ ) ら子女の教育にも当った。

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中老、仕置役、大目付。


山内容堂の御供役となり、後藤象二郎、福岡藤次 ( 孝弟 )、寺山左膳、神山左多衛らと協力して大政奉還を推進するなど、幕末土佐藩の重鎮として活躍した。

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土居昭夫

昭和六年 九月 十七日没 四才。

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土居清一


大正十一年 五月 十九日没 七ヶ月。

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土佐郡小高村の徒士 ( かち ) 迅衝 1番隊士として、隊長・日比虎作のもとで幕府大鳥軍と戦い、湯本街道において慶応 4年 ( 明治元年、1868 ) 6月 12日戦死。25歳。

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土佐郡小高村の徒士 ( かち )。


迅衝 6番隊士として、幕府大鳥軍と戦い白河表において慶応 4年 ( 明治元年、1868 ) 7月 27日戦病死した。33歳。

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 高知市丹中山・歴史公園での案内板の文章転用は前田秀徳様より御許しを頂きました。

以後の記事では、この表示はしません。



御馬廻。


迅衝隊 6番隊長、第 4胡蝶隊司令として会津まで若松城攻略戦まで転戦。


のち高知藩留学生団長として英国へ留学したが、帰国後の明治 12年 ( 1879 ) 自殺した。
(案内板より)

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