本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

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星島保禄 ( ほしじま - やすとし )     
安政 5年 4月 6日 ~ 明治 30年 5月 14日 ( 1858 - 1897 )

第十五国立銀行頭取。

字、天中。通称、定之丞のち定吉。

父、岡山県士族長瀬鉄蔵。

岡山県出身。

ほぼ独学でフランス語を修得。

第十五銀行頭取。

銀行簿記学を研究し、銀行職員に教授。40歳没。

 第十五国立銀行 : 明治 10年 ( 1877 ) 岩倉具視の呼びかけで徳川慶勝ら華族が発起人となり設立。初代頭取は、毛利元徳。

明治 30年 ( 1897 ) に普通銀行に転換し、以後変転とする。

正面「岡山県士族星島保禄之墓」。「常照院保禄安住居士」。

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小川松民 ( おがわ - しょうみん )    
弘化 4年 ~ 大正 9年 5月 30日 ( 1847 - 1920 )

蒔絵師。

東京出身。

本名、小川繁次郎。

父、煙草入金具師小川忠蔵。

江戸出身。

文久 2年 ( 1862 ) 蒔絵を中山胡民に、光琳絵画を池田孤村に学ぶ。

明治 3年 ( 1870 ) 浅草馬道に蒔絵師として独立。

古典絵巻を研究し光琳派の技法を受け継ぎ複製を得意とした。

明治 9年 ( 1876 ) フィラデルフィア万国博覧会視察のため家財を売り払って渡米。

明治 10年内国博覧会に蒔絵茶箱を出展し、龍紋賞牌を獲得。

明治 12年法隆寺の代物片輪車の手箱を模造。

博物局農務省の依頼により各種模造制作と修理を行う。

明治 23年 ( 1890 ) 東京美術学校教授。

明治 24年 ( 1891 ) 柴田是真らと日本漆工会を創立。遺品は国立博物館に保存されている。

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川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年)6月14日 - 1972年昭和47年)4月16日)は、日本小説家文芸評論家大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。1968年ノーベル文学賞受賞。


大阪府
出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、的、抒情的作品、浅草物、心霊神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った[1]。その後は、や流転のうちに「日本の」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界幽玄、妖美な世界観を確立させ[1][2]、人間のも、非情や孤独絶望も知り尽くした上で、美やへの転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた[3][4]。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人死生観美意識を世界に紹介した[5]


代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている[6][7][8]


川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎武田麟太郎藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子岡本かの子中里恒子三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる[9][10][11]。また、その鋭い審美眼で数々の茶器陶器仏像埴輪俳画日本画などの古美術品蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い[12]


多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブ国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった[13][14]

生涯
生い立ち――両親との死別

1899年明治32年)6月14日大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生[15][16][17](川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた[18][19][20])。7か月の早産だった[21][22]。4歳上には姉・芳子がいた[23]。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、を病んでおり虚弱であった[24][15]。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった[25]。蔵書には、ドイツ語の小説や近松西鶴などの本もあった[26][27][28]


しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)[15][29][17]。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」というを遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した[24][注釈 2]


2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった[29][30][31]。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った[32][15][33][34]

宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた[23][35]。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った[15][36]。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった[23]。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした[25][36]


川端の家系は北条泰時から700年続き[35]、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)[29][37][38]。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった[29][35]。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる[37][39]。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった[32]。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に[40][24]、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる[28][2]

「寂寥の家」の神童
幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ[41][32]、「神童」と呼ばれることもあった[42]。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた[21][43][32]


1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた[41][32][22]

人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では雨戸をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。

                                     — 川端康成「行燈――落花流水」[41]


康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)[44]、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた[33]。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという[29]。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している[41][22]。なお、笹川良一とは小学の同級生であった[45][46]。祖父同士が囲碁仲間で[45]、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという[29][15][36]


しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した[33]。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという[23]。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身をで占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた[47]。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ[35]。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった[32]


小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「」であった[46]。康成はが得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった[27]。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み[48]講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫冒険小説家・押川春浪に親しんだ[22][27]

作家志望と「孤児の感情」
1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた[32]。康成は学校まで約一半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった[49]


しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった[41][24][32]。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている[50][25]


康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた[27]。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった[25]。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している[51]。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物梅干ばかりであった[25]。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる[52]


中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった[35]。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている[53][54]。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした[47]。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている[55]

お祖父さんの――。私はをかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからとが鳴る。小さい方の骨壺を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、同情のうちにも、好奇心をまじへてゐるやうに思はれる。

                                                  — 川端康成「骨拾ひ」[55]


川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている[47]。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった[56][57][16]。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている[22]。また自身の出目(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている[58]

私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。

                                                 — 川端康成「一流の人物」[58]


両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた[59]。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ[60][59]。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる[59][2]


8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった[51][61]

詳しいことは「川端康成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
(wikiより)

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川端康成

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伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年明治13年)3月23日 - 1931年昭和6年)12月19日[1])は、日本の政治家華族貴族院子爵議員

経歴
東京府出身。子爵伊東祐帰の長男として生まれる[1][2]。父・祐帰の死去に伴い、1894年5月15日、家督を相続し子爵を襲爵した[1][3]1907年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[2][4]


1911年
7月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して死去するまで在任した[4]。また、道路会議議員、労働保険調査会委員、統制委員会委員、学習院評議会会員などを務めた[4]

栄典
1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[5]

親族
・妻 伊東経子(つねこ、松平康民四女)[1]

・長男 伊東祐淳(貴族院子爵議員)[1]

・妹 吉田彜子(吉田良正の妻)[1]

脚注
1. a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、164-165頁。
2. a b 『人事興信録』第9版、イ55頁。
3. 『官報』第3261号、明治27年5月16日。
4. a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』35頁。
5. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・人事興信所編『人事興信録』第9版、1931年。
(wikiより)

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伊東祐弘

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藤森朝雄 ( ふじもり - あさお )     
明治 24年 ~ 昭和 48年 10月 10日 ( 1891 - 1973 )

すきやきの老舗「今朝」の 3代目。

父、2代目藤森勝三郎 ( 長男 )。

長野県出身。

妻・一恵 ( 平成 2年 7月 1日歿、86歳 ) は、小笠原助重の長女。82歳没。

 「今朝」の創業は、明治 13年 ( 1880 )。

なお、2代目藤森勝三郎が寄進した門柱が、目黒区八雲の氷川神社の三の鳥居の手前階段横に在る。

正面「藤森家歴代之墓」。「清閑院朝誉栄岳法道居士」。

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林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日1768年8月5日) - 天保12年7月14日1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者林家8代で林家中興の祖。父は美濃国岩村藩松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑は初め(松平乗衡(のりひら)、後に((たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。

人物・略歴
渋井太室らに師事する。寛政5年(1793年)、林錦峯の死去で途絶えた林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山古賀精里尾藤二洲寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政異学の禁)。


述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』・『徳川実紀』(成島司直と共同)・『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』・『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した。

門人
著名な門弟に佐藤一斎(同じ岩村藩出身で、生まれながらの主従)・松崎慊堂がおり、井部香山葛西因是青葉半山らも門人として知られる[1]

家族
死後は嫡男の林檉宇が林家を継いだ。三男は鳥居耀蔵、六男は林復斎。娘には設楽貞丈の妻、堀利堅の妻があり、外孫に岩瀬忠震(設楽貞丈の子)、堀利煕らがいる。

脚注
1. 師弟関係図 (PDF) (小林松篁)

外部リンク
林述斎』 - コトバンク
(wikiより)

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この紅梅は、『銭形平次』の作者として有名な野村胡堂が昭和 7年から 14年まで居宅とした世田谷区砧 8丁目・佐藤様宅に植えられていたものである。


銭形平次が神田明神界隈を舞台に活躍し神社境内に「銭形平次の碑」も建立されていることから、平成 23年 4月に佐藤家より植樹した。


かつて胡堂もこの梅を見ながら平次親分の活躍する捕物にふけったのであろう。
(案内板より)

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釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日1860年1月10日) - 大正8年(1919年11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎洪嶽楞伽窟不可往


日本人の僧として初めて「」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。

生涯

出生から妙心寺時代
1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町農家に生まれた[2]。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった[2]


1870年
、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり、福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が越渓の母九十二歳の祝いを終えて京都に帰る際、僧侶になる修行のため常次郎(宗演)が両親から越渓守謙に預けられたのである[注釈 2]


そして常次郎は越渓守謙のもとで得度。越渓は丁度天授院に僧堂を開単した頃であった。そして、妙心寺山内に「般若林」という学林もでき、そこに通って漢籍や禅籍の素読などを学んだという。

千葉俊崖 西山禾山 中川大宝 儀山善来
1873年建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に就き学問と修行に励む。ここで後に建仁寺派管長になった竹田黙雷と知り合う。その後黙雷とは知友となる。しかし1875年に俊崖師が遷化して建仁寺山内の「群玉林」での学林生活は終わった。


1876年
、師匠の越渓守謙の命令で愛媛県八幡浜大法寺に行き越渓の法嗣弟子西山禾山について修行をするが、僅かな日数で挫折して、その後、越渓守謙の許可を得て滋賀県三井寺の中川大宝律師に就き倶舎論を研究する。この三井寺での勉学中に、当時阪上真浄(後の臨済宗大学初代学長)が住職をしていた、永雲寺(大徳寺派)に1年ほど滞在した。その縁があったこともあり、その後釈宗演が臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長となった。



1877年、再び越渓守謙の命を受けて、備前岡山の名刹曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった。[3]。儀山善来は、釈宗演の得度師匠である越渓守謙そしてその後円覚寺で替わって師匠となった今北洪川の二人の師匠でもあった。釈宗演が師事した頃、既に儀山善来は76歳の老境であったが、提唱および参禅の指導を受けたのである。

師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン
1878年、釈宗演は秋に鎌倉円覚寺今北洪川に参じて修行。それから5年して1883年、師匠の今北洪川は遂に弟子の釈宗演に、「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。釈宗演が満23歳の時である。


1884年
、釈宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。


1885年慶應義塾に入った。慶應へ行くことに師匠の今北洪川は反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。


1887年、慶應義塾別科で学んだあと、当時のセイロン(スリランカ)に行って、仏教の原典を学ぼうとした。当時のセイロン行きは文字通りの命がけであった。師の今北洪川はこれにも猛反対したが、山岡鉄舟福沢諭吉等からの助けもあり、セイロン行きを敢行した。渡航に関して、恩師の福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ、山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と言われた。そしてセイロンでパーリ語を学び、僧院で修行して帰国した。

円覚寺派管長 万国宗教会議
1889年、帰国後に永田寶林寺道場に於いて、初めて師家として、修禅者を指導する[3]


1892年、1月16日師匠の今北洪川の遷化に伴い、釈宗演は塔頭仏日庵住職を辞して、円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。


1893年
シカゴ万国博覧会の一環として開催された万国宗教会議に出席することとなった。福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でアメリカはバンクーバーに上陸した。会議は、9月11日から17日間行なわれた。釈宗演は、二回にわたり演説し、第一回の演説は、「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。この釈宗演の演説を聞いた有名な仏教学者ポール・ケーラス(アメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘を受けたことが縁となり、釈宗演が帰国した後に、ケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼したので、宗演は修行していた居士の鈴木大拙を渡米させ、鈴木大拙はその後、ポール・ケーラスの下で翻訳等の仕事を手伝うこととなった。


1902年、シカゴ万国宗教会議において通訳を務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコの家具商ラッセル夫人と、その友人、ドレッセル夫人等の一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅することとなった。外国人が来日してのこれが初めての参禅と言われ、帰国するまでの間、一行は熱心に参禅したという。翌年の1903年には、建長寺派全派の要請により管長を兼務することとなる。さらに1904年には、日露戦争が勃発し、建長寺派管長の資格を以て、第一師団司令部に従属して満州に従軍布教をなす。

東慶寺そしてルーズベルトとの会見 各国歴訪
1905年、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。この時、円覚寺派の管長に就任したのは、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺 荻野独園の法嗣)であった。宗演は、以前来日して宗演に参禅していたラッセル夫人の勧めもあって6月に、通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い再び渡米することとなった。サンフランシスコのラッセル邸に約9ケ月滞在し、禅の指導をすることとなった。


その後、ワシントンに行きルーズベルト大統領と会見して、鈴木大拙の通訳を介して世界平和について語り合ったと言われる。そしてアメリカからの帰りには足を延ばし、ヨーロッパ、アジアを歴訪し、更にインドに立ち寄って、翌年の1906年8月に帰国した。その年の11月には、徳富蘇峰野田大塊、早川雪堂らによって「碧巌会」が結成され多くの名士が毎月、釈宗演の碧巌録提唱に聞き入った。

二度目の円覚寺管長から 遷化まで
1911年朝鮮を約一ケ月巡錫、翌年には満洲を巡錫、更に1913年には台湾を巡錫した。そして翌年の1914年、臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長に就任。学長職は、1917年に辞職するまで務めた。


1916年
、円覚寺派管長に再び選ばれた。この時は法嗣弟子の古川堯道を僧堂師家に任じて自らは管長職のみとした。またその年の10月には、『碧巌録』を講了したので碧巌会を閉じた。この年の12月9日には、弟子である文豪の夏目漱石の葬儀の導師を引き受けた。戒名も宗演が授与している。そして1917年には中国を約三ケ月に亘って巡錫した。



1919年肺炎のため遷化。世寿六十一。[4]。61歳[5][6][7][8]

釈宗演の法嗣
・古川堯道(堯道慧訓) 第6・8代円覚寺派管長

・棲梧寶嶽(寶嶽慈興) 第9代円覚寺派管長

・太田晦厳(晦厳常正) 第7代円覚寺派管長、第8代大徳寺派管長

・間宮英宗(英宗義雄) 第2代方広寺派管長

・釈大眉(大眉敬俊) 第4代国泰寺派管長

・釈宗活(輟翁宗活) 弟子に後藤瑞巌がいる

・円山慧勘(太嶺慧勘)

・大亀宋達

参禅した主な居士の弟子
鈴木大拙(生没 1870-1966)仏教学者、哲学者

夏目漱石(生没 1867-1916)小説家、英文学者

徳川慶久(生没 1884-1922)政治家

前田利為(生没 1885-1942)陸軍大将

松平直亮(生没 1885-1942)農業経営者、政治家

詳しいことは「釈 宗演ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E5%AE%97%E6%BC%94
(wikiより)



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小林 勇(こばやし いさむ、1903年3月27日 - 1981年11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者の女婿であり、同社会長を務めた。

人物
長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる[1]。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。


岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院[2]、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。1937年には『回想の寺田寅彦』を編んでいる。1945年5月治安維持法違反の嫌疑で逮捕され拷問を受ける(横浜事件)が、同年8月29日釈放[1]


1946年岩波書店支配人、岩波映画を興し、のち岩波書店代表取締役、1955年初の随筆集『遠いあし音』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1962年岩波書店会長、1972年退任。


中谷宇吉郎
、初代中村吉右衛門など[1]文化人たちとの交遊は幅広く、生涯にわたり書画を描き「吉井画廊」などで個展を十数回催した。数多くの随筆評伝などの著書を上梓している。晩年は、山梨県にある清春白樺美術館創設に関わった。

著書
・『闘うアメリカの第三党』同友社, 1948

・『遠いあし音』文藝春秋新社, 1955

  ・『遠いあし音・人はさびしき』筑摩叢書, 1987

・『蝸牛庵訪問記 露伴先生の晩年』岩波書店, 1956、講談社文芸文庫, 1991

・『小閑』東京創元社, 1960

・『雨の日』文藝春秋新社, 1961

・『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』岩波書店, 1963、講談社文芸文庫, 1993

・『竹影』筑摩書房, 1965

・『彼岸花 追憶三十三人』文藝春秋, 1968、講談社文芸文庫, 1992

・『蓑雲 歌集』新星書房 1968

・『隠者の焔』文藝春秋 1971

・『山中独膳』文藝春秋, 1971

・『山中独膳・厨に近く』筑摩叢書, 1988

・『随筆 書画一如』求龍堂, 1972

・『人はさびしき』文藝春秋, 1973、のち筑摩叢書

・『夕焼』文藝春秋, 1974

・『一本の道』岩波書店, 1975、復刊2003

・『冬青庵楽事』新潮社, 1977

・『厨に近く』中央公論社, 1978、のち筑摩叢書 

・『赤い鞄』新潮社, 1980

文集
・『小林勇文集』全11巻、筑摩書房, 1982‐1983

1. 遠いあし音、彼岸花 他

2. 蝸牛庵訪問記 他

3. 惜檪荘主人

4. 人はさびしき 他

5. 隠者の焔 他

6. 山中独膳、厨に近く

7. 冬青庵楽事、赤い鞄

8. 随筆書画一如 他

9. 小閑、竹影、雨の日

10. 夕焼、故人今人 他

11. 一本の道、竹頭木屑 他

別巻『回想 小林勇』谷川徹三井上靖

関連文献
・『冬青 小林勇画集』中央公論美術出版, 1969。限定版

・『冬青 小林勇画集』同刊行会編、岩波ブックサービスセンター, 1987

・『絵筆を持って 冬青小林勇画文集』求龍堂, 2003。生誕百年記念の画文集

・『懐遠 小林勇-娘への絵手紙』アートデイズ, 1997、東京堂出版, 2015。小松美沙子編著 

・『私の履歴書 反骨の言論人』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉, 2007。文庫新版

脚注
1. a b c 冬青 小林 勇 年譜 (PDF)
2. 
鉄塔書院は、1929年4月東京市神田区一ツ橋通で開業し、6年間存続した。--冬青 小林勇展 梅野記念絵画館・ふれあい館 , 三木清『社会科学の予備概念』鉄塔書院、1929年、奥付、国立国会図書館デジタルコレクション

書評
小林勇『蝸牛庵訪問記』(「松岡正剛の千夜千冊」第二百四十七夜【0247】2001年3月12日)
(wikiより)

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大松 博文(だいまつ ひろふみ[2]1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、日本バレーボール指導者、参議院議員自由民主党、1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。


ニチボー貝塚監督時代は辞任までに175連勝を記録、1964年東京オリンピックでは全日本女子を監督として金メダルに導く。「回転レシーブ」などを考案、その過酷な練習で「鬼の大松」ともいわれた。情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられた。


バレーボール殿堂入り。

生涯
坂出商業学校から関西学院大学商学部に進学したのち、ニチボーに入社する。


1941年(昭和16年)、陸軍に召集され中国ビルマラバウルを転戦する。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に従ってくれるよう、自ら率先して行動をとった。その後第31師団下に配属され、インパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人でもある。これら経験が、大松の性格を大きく変える出来事となった。


1954年(昭和29年)、ニチボー貝塚女子バレーボール部監督に就任する。たとえ女子であっても、「鬼の大松[3]と呼ばれるほど、徹底したスパルタ式のハードトレーニング[4][5]は、世間を騒がせるほどであったが、後述の通りハードトレーニングの効果は徐々に成績に現れていった。


1958年
(昭和33年)には、当時の日本国内の四大タイトル(全日本総合、全日本実業団、都市対抗、国民体育大会)を独占した。


1961年
(昭和36年)、ヨーロッパ遠征での全勝により、チームを「東洋の魔女」と呼ばれるほどの成長を遂げさせた。


1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権で優勝。


1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは、全日本女子バレーボールチームを「回転レシーブ」に象徴される守備を重視した戦法により金メダルに輝かせた。選手への「俺についてこい!」「なせば成る」(上杉鷹山の言から引用)などの名文句からは著書を生み出し、「俺についてこい!」は同タイトルで映画化もされた[6]


1964年
(昭和39年)末、ニチボーを退社。


1965年(昭和40年)、周恩来の招きにより中国を訪問し、中国女子バレーチームの礎に貢献した。


電通に入社したのち、1968年(昭和43年)、第8回参議院議員通常選挙全国区自由民主党公認で立候補し初当選する[7]


1974年(昭和49年)、再選を目指して第10回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補するも落選した。


その後は再びバレーボール界に戻り、各地で指導活動を行う他、イトーヨーカドーバレーボール部の創部に参加、技術顧問を務めた。


その直後の1978年(昭和53年)、ママさんバレーの指導のため出張していた岡山県井原市の宿泊先で心筋梗塞を訴えて入院、57歳で急逝した。戒名は最勝院克堂博文居士。


2000年(平成12年)、アメリカのスポーツ記念館にてバレーボール殿堂入りを果たした。また、香川県宇多津町の名誉町民を受けており、同町では大松の名前を冠する「大松杯バレーボール大会」が開催されている。

著書
・『俺についてこい!』(講談社 1963年)

・『なせば成る』(講談社 1964年)

演じた人物
ハナ肇(映画『おれについてこい!』、東宝堀川弘通監督、1965年

徳井義実(大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』、NHK2019年

関連項目
ユニチカ・フェニックス

東洋の魔女

1964年東京オリンピックのバレーボール競技

タレント政治家

根性論

長谷川忠男(参議院議員時代の公設第一秘書)

脚注
1. Hirofumi Daimatsu - International Volleyball Hall of Fame - 2020年5月16日閲覧。ただし「Hirobumi Daimatsu」などと表記している資料等もある。
2. 歴代議員一覧(50音順):資料集:参議院 - 2020年5月16日閲覧。ただし「だいまつ ひろぶみ」としている資料等もある。
3. 妻は「夫はトレーナー等とも相談し、選手の体調を考えながら指導していた。それをサド呼ばわりされるのはひどい」とこう呼ばれるのを嫌った(読売新聞のインタビューより)。
4. 「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった! | デイリー
5. 1964東京五輪“東洋の魔女”率いた鬼の大松 当時のエース・井戸川さんが明かす苛烈秘話 | 東京スポーツ 6. 『俺についてこい!』(1965年製作、配給:東宝

監督:堀川弘通

出演:ハナ肇(大松博文 役)、白川由美淡島千景草笛光子

7. 同期当選に、石原慎太郎青島幸男横山ノックらがいる。

外部リンク
月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識2004年8月号 > オリンピックの歴史に燦然と輝くキーパーソンからキーワード > 大松博文
(wikiより)

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織田 幹雄(おだ みきお、1905年明治38年)3月30日 - 1998年平成10年)12月2日)は、日本陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト[1][2][3]

人物
日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人としても個人初のオリンピック金メダリストでもある[5][6][7]。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる[8][9]。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した[4][10][11][12]。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、長過ぎるので織田が「三段跳」と訳した[13]。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平1932年五輪)・田島直人1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから当時日本のお家芸とも言われた[14]。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある[12][15][16]。「陸上の神様[10][17]、あるいは「日本陸上界の父[1][12][18]と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導普及したいわば育ての親のような存在である[19]国際オリンピック委員会(IOC)オリンピック功労賞受賞。


文化功労者
、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。


実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎[20]。妻は貴族院議員中村純九郎の三女[21]。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄[21]。妻の伯母は天文学者寺尾寿の先妻[21]。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している[22]。一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生[23])として知られ、上皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。

来歴
若年期
1905年明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた[3][4]


海田尋常小学校(現海田町立海田小学校)へ入学[3]、在学中に海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校[24] ができ同校を卒業する[4]。なお鼓浦尋常高小の後進は広島市立船越小学校であるが[24]、この経緯から織田の出身校は海田小[3][4]で統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での200m走で優勝している[25]。怒った顔を見たことがないといわれるほど温厚な人物だったが、小学校時代から人一倍負けず嫌いだった[13]


1918年
大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学[4]、同年1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝している[26]。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部する[25][27]。第4代日本サッカー協会会長の野津謙広島カープの設立で知られる谷川昇はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の深山静夫は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生からフルバック(DF)左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになる[25][28]。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足[29] を使うことになっていった。

陸上の世界へ
1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技代表の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった[4]。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった[3]。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている[2]


1921年
(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した[4]。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み[27]、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した[3]走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した[1][2]。この年、上海で開かれた第5回極東選手権競技大会[30]で、日本の走高跳陣は惨敗した[13]。織田は自分の力なら十分入賞できることを知って残念がった[13]。織田の記録は地方に埋もれたままだった[13]。上海からの帰途、広島に立ち寄った極東大会のサッカー代表の中に十種競技をやっていた佐々木等がいた[13]。指導を受けた織田は何をやっても佐々木を凌ぎ、走高跳では日本記録を軽く超えた[13][31]。びっくりした佐々木が惜しいことをしたと雑誌『運動界』に織田を紹介した[13]


1922年(大正11年)、広島一中5年の時、9月に大阪神戸高商主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知る[32]。矢もたてもたまらず校長室に行き、弘瀬時治校長に「全国大会に参加させてください」と直談判[32]。弘瀬から「参加させてもいい。しかし本校の方針は参加させるだけではいかん。勝つ者しか参加させない主義である。キミは勝つ自信があるのか」と問われた。「勝てるかどうかわかりません」と言えば参加のチャンスは失われると考えた織田は思わず「絶対に全国制覇する自信があります」と答えた[32]。弘瀬は「そんなに自信があるなら行け。石にかじりついても勝ってこい」と激励し「ところで遠征する金はあるのか」と聞いた。「ありません」と答えると弘瀬はポケットから70円を出し、「これでがんばってこい」とお金を手渡した[32][33]。広島一中はサッカー部の全盛時代で陸上部は創部二年目で日陰の存在、部費は30円だった。70円は大金で織田は感激のあまり体が震えた。早速十数人の部員を集めて「どうしても勝とう」と誓い合った。夏休みの40日間、暑い広島の夏にサッカー部が朝夕の涼しい時間を練習時間に当てられ、陸上部が割り当てられたのは午後1時から3時まで。部員は日射病で次々に倒れ最後までやり抜いたのは織田と1年先輩の沖田芳夫の二人だけ[13][32]。織田はもともとジャンプが専門だったが部員がいなくなったため、あらゆる種目に取り組んだ。こうして広島一中は全国中等学校陸上競技大会に織田と沖田に貫田武を加え、たった3人で初参加し[32]、初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した[27][34]。織田と沖田は中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われる[4][26]


一か月後の11月、17歳の時に広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立[13]、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった[4][26]。灼熱の猛練習が名選手への道を拓いた[32]


1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学する[4]。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる[35]。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出[33]。うち広島出身者は織田と沖田、浅岡信夫ら5選手だった[33]。初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝[4][26]。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った[26]日本体育協会は「此の大会の偉大なる収穫は日本の陸上及び水泳競技においてようやく世界的レベルに至った一事と、陸上の織田幹雄、水泳の高石勝男と天才的少年が活躍したことである」と評した[36]


1924年
(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場[4]五輪日本選手団は陸上・水泳テニスレスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表[4]だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした[3][4]

早稲田と金メダル
1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属する[4][37]。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下[38]、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した[15]。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している[4]。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー山口直三大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録している[4]


1928年昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学する[4][37]。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり[4][16]、早稲田スポーツの先駆者となった[12]。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため[12][39]中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した[40]。当時早大競走部部長[4]であり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した[41]


同1928年、アムステルダムオリンピックに出場、五輪日本選手団には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・住吉耕作木村一夫井沼清七が選ばれていた。7月28日に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。8月2日[42]三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得する[4]。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記#逸話参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m平泳ぎ鶴田義行の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している[43]。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想している[44]


1929年
(昭和4年)、早大競走部主将となる[4]。以降も一線級の陸上競技者として活躍した[4]

現役後期と戦争
1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社に入社し大阪朝日新聞社運動部に所属した[3]。同年第1回一般対学生陸上競技大会(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した[45]。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる[45]。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している[45]


1932年
(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが織田の選手寿命を縮める結果となった[4]


同1932年、ロサンゼルスオリンピックが開幕、織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの[4]、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった[4]。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを[45]大島鎌吉が銅メダルを獲得している。


五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚した[46]。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった[4]


その後も織田は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めた[47]。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に朝日新聞毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した[48]。この間、戦争へ向かって進む中でスポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、1938年(昭和13年)東京五輪開催権返上であった。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想している[49]。更に太平洋戦争では選手たちが死亡している[4]


終戦4ヶ月後にあたる1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場した[4]。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する[50][51]。つまりこの日が日本陸上界復活の日となった[4]

戦後復興
戦後も織田は世界を相手に戦える人材の育成に奔走した[12]1948年(昭和23年)、日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任[4]。同年に行われたロンドンオリンピックには日本はまだ参加が許されず、また日本人の海外渡航も未だほとんど許されない時代、同郷の松本瀧藏らの支援を受け、この年強化の見識を広めるため単身5ヶ月に渡り欧米競技会を視察した[50][51]


1949年
(昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に古橋廣之進ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学[52]、そこで今後はスピード時代であると痛感し陸上界に進言し、また織田の大学の後輩でもあるアマチュアレスリングの八田一朗にも進言すると八田は翌1950年にアメリカレスリングチームを日本に招いた[52]。それまで力一辺倒の日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた[52]。同1949年、米国体育協会(AAU)のダニエル・J・フェリス(ダン・フェリス)事務局長、GHQ民間情報教育局(CIE)のウィリアム・ニューフェルド英語版体育官に交渉して、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収する[40]。招かれたスペインでは、織田はルイス・フェリペ・アレタスペイン語版に跳躍技を指導した[40]。後にアレタは東京オリンピック走幅跳でスペイン陸上史上初の入賞(6位)を果たしたことから、スペインチーム団長だったフアン・アントニオ・サマランチは織田の自宅にお礼に来たという[40]


これらの渡航資金は、カリフォルニアのフレッド・イサム・ワダ(和田勇)やハワイの米谷克巳などアメリカ在住の日系人たちの支援によるものである[53][54]。和田には後にその金を返そうとすると第二の故郷である和歌山の学校に寄付してほしいと言い決してお金を受け取らなかった[54]第442連隊戦闘団出身で歯医者だった米谷には、織田がロンドン五輪視察前に立ち寄ったハワイでみすぼらしいスーツを着ていたためスーツと帽子を新調してもらっている[54]。欧州遠征する選手全員のスーツをプレゼントしたのも米谷である[54]


1950年(昭和25年)、国際陸上競技連盟(IAAF)への復帰が許されIOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられた[50]。男女別に正月返上の強化合宿を行う[50]1951年(昭和26年)戦後初の海外遠征となったニューデリーアジア競技大会から1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック1954年(昭和29年)マニラアジア競技大会まで連続、陸上競技日本代表監督を務める[55][56]。また1951年7月、14年ぶりに復活させた日米対抗戦を全国12ヶ所で18日間開催、この競技会は戦後の強化に大いに貢献して数十年の遅れを一年で回復したと言われる[56]


1958年
(昭和33年)、国立霞ヶ丘陸上競技場が開場、「織田ポール」(後述)が建てられた[4]。同年開催の東京アジア競技大会がこけら落としとなり、織田は聖火ランナーの最終走者を務め、聖火台に点火した[4][57]

東京五輪
1959年(昭和34年)、西田修平に代わりJAAF強化委員長に就任し、東京オリンピックまでの5年間の強化を一任された[56]


1960年(昭和35年)ローマオリンピックでは入賞者0と惨憺たる成績で、織田は中体連高体連学連実業団という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表する[58]。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶ[58]。また専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めた[58]。特に世界的なコーチといわれたアーサー・リディアード英語版のマラソントレーニング方式は、高橋進中村清らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与した[58]


陸上界から完全に引退していた同郷の小掛照二をJAAF強化コーチとして復帰させたり[59][60]棒高跳盛田久生のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせる[61] など、ギリギリまで陸上強化に尽力した。


また陸上競技メダル獲得のため、当時身体能力に優れていたプロ野球入団前の野球選手[62] に声をかけていた。その中で有名なのが、権藤博である。織田は「何とかコイツを東京五輪に出せないものか。出れば金メダルは確実」「400mハードルの選手に転向してほしい」と要請をした[63]。具体的な競技種目まで話が進んだのは権藤のみである[62][63]。また長嶋茂雄は「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と声をかけられたと証言している[62]。実際、織田は1953年KRテレビ『日本の百人』に出演した際に「長嶋茂雄のような素質の人が欲しい」とコメントを残している[4]


1964年
(昭和39年)、東京オリンピックでは織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍した[4][12][64]円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した[1][65][66][67]

詳しいことは「織田幹雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84
(wikiより)

2457  織田幹雄

織田幹雄

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中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年11月18日 - 1975年3月20日 )は、日本法学者


東北大学
名誉教授金沢大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。銀杯一組。東京府(現・東京都)生まれ。

略歴
・旧制金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、旧制第四高等学校卒業

・1921年 東京帝国大学法学部卒業

・1922年9月 東北帝国大学法文学部助教授(民法学第一講座)

・1927年 東北帝国大学法文学部教授

・1940年 仙台法経専門学校校長(1975年まで)

・1961年 東北大学定年退官 学習院大学政経学部教授

・1967年 金沢大学学長

・1973年 金沢大学退官。まもなく、弁護士登録。法制審議会民法部会長等を務めた[1]

・1975年 仙台法経専門学校の学校長として卒業式に向かう途上、上野駅で倒れ死去[2]

研究
・東大で穂積重遠に師事。特に家族法分野での実績は秀逸で、旧来の家制度の解体に尽力し、現代家族法の父と称される。財産法における法律行為に対する概念として身分行為を提唱し、独自の身分法学を確立。1946年には我妻栄と共に臨時法制調査会委員として民法改正事業に従事している。

・元日本学士院会員

社会活動
・1960年に宮城県児童福祉審議会委員長を務めていたが、宮城県の青少年条例の制定に反対し、宮城県が青少年条例を制定した際に、審議会に辞表を提出した[3]


この件に関し、朝日新聞1960年4月12日(夕刊)で、中川教授は、「青少年問題は社会的、政治的に実質的な手が打たれなければ解決しない。うわっつらのものだけを条例でしばってもなんにもならない。現に(青少年条例を)制定した県の統計でも、その後少年犯罪はちっとも減っていないではないか。いかつい条例を作ることは、むしろ若者を反発させ、逆効果だ。・・・実際家は青少年対策に自信を失い、おぼれる者はワラをもつかむ気持ちで条例をほしがるのだろう。しかし、実際には、ワラにもならない。」と述べている。

書籍
・『民法』

・『家族法』

・『親族法』(青林書院 1960)

・『家族法研究の諸問題』(勁草書房 1969)

・『民法風土記』(日本評論社、1965年 講談社<講談社学術文庫>、2001年)

・『相続法 (第四版)』泉久雄 共著<法律学全集24>(有斐閣、2000年)

門下生
森泉章(青山学院大学名誉教授)、島津一郎(一橋大学名誉教授)、泉久雄(専修大学名誉教授)、山畠正男(北海道大学名誉教授)、深谷松男(金沢大学名誉教授)等多数。

家族・親族
次女は化学者坪井正道地球科学者文化功労者坪井誠太郎の長男)に嫁いだ[4]

脚注
1. 内田貴『民法IV 補訂版 親族・相続』(東京大学出版会、2004年)4頁、林屋禮二「中川先生と仙台法経専門学校」
2. 内田貴『民法IV 補訂版 親族・相続』(東京大学出版会、2004年)4頁、林屋禮二「中川先生と仙台法経専門学校」
3. 奥平康弘『青少年保護条例・公安条例学陽書房1981年ISBN 9784313220072 16頁
4. 『第45版 人事興信録』 つ - 55頁 興信データ 2009年1月26日発行

関連項目
法学
民法

家族法

親族法

相続法

日本の法学者一覧

外部リンク
中善並木(東北大学法学部)

中川善之助文庫(専修大学図書館神田分館)

中川善之助収集史料(学習院大学史料館)

仙台法経専門学校(長く校長職を務めた)
(wikiより)

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小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年明治35年)4月11日[注釈 1] - 1983年昭和58年)3月1日)は、日本文芸評論家編集者作家

人物
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボーシャルル・ボードレールなどフランス象徴派詩人たち、ドストエフスキー幸田露伴泉鏡花志賀直哉らの作品、ベルクソンアラン哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。


妹の高見沢潤子は、作家随筆家[注釈 2]。その夫は『のらくろ』で著名な漫画家田河水泡


長女の明子は、白洲次郎正子夫妻の次男・兼正の妻。英文学者西村孝次、西洋史学者の西村貞二兄弟は従弟にあたる。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]

経歴
1902年明治35年)4月11日、東京市神田区(現東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造は[注釈 4]ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常西竹一ら、一期上には富永太郎蔵原惟人河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。


1925年
(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海中島健蔵三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也と識る。同年11月、長谷川泰子同棲1928年昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。


1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二武田麟太郎林房雄川端康成らと『文學界』を創刊。

1935年
(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。1938年(昭和13年)6月、明治大学教授に昇格。1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。


1946年
(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[3]1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(昭和51年(1976年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。

1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。1983年(昭和58年)3月1日、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶應義塾大学病院で死去[4]

業績
学生時代
父・豊造の洋行土産のレコードと蓄音機の影響で小林は若い頃から音楽ファンとなる。学生時代は友人間で流行したレコードの竹針に否定的であり、蓄音機の針のテストのために父に貸したレコードをガリガリにされて憤慨したといった記録も残っている[5]。豊造の洋行土産であるバイオリンのレッスンを受けていた時期もあり(後年、小林は「ノコギリ引き」と評している)、府立一中時代には、河上徹太郎と「ブーブーガンガン」モーツァルトの合奏をするために楽器を鳴らしていた[6]。学生時代にはマンドリンクラブに所属し、演奏会なども催している。父豊造は小林19歳の時に没しており、以後、小林は家長としての責任を負うことになる。同年、神経症で第一高等学校を休学。初期の文章には、当時の自分への記述が見られる。小林は、同世代の若者たちに人気のあった新劇よりも歌舞伎などの旧劇を好んだ。後年の「平家物語」の評論にその影響を見ることができる[注釈 8]。青年時代には、美術学校にある彫刻科の公開されている参考室で、ギリシアやルネッサンス彫刻の模造に親しんだということを書いている[7]。府立一中時代から文芸同人誌活動を開始しており[8]、一高時代に雑誌『跫音』に発表した「蛸の自殺」で志賀直哉の、『山繭』に発表した短編「ポンキンの笑ひ」に対し、武者小路実篤の賞賛を受けるなどしていた[9]

詩人ランボーとの出会いと文学的青春
1924年(大正13年)春、第一高等学校在学中に神田の書店街でフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』の「メルキュウル版の豆本」と出会う[注釈 9][10]1947年(昭和22年)3月『展望』に書いた「ランボオの問題」(現行タイトル「ランボオⅢ」)で、「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」と書いている[11]。しかし以後、二十代の小林において、ランボーは、約4年ののちには回復しようもなく失われてしまう[注釈 10][注釈 11]


一方、訳業においては、1929年(昭和4年)10月、同人雑誌『文學』創刊号より翌1930年(昭和5年)2月号にランボオ「地獄の一季節」の9篇を翻訳掲載。同年10月、新たに訳した詩を加え、「ランボオⅠ」「ランボオⅡ」とあわせて、『地獄の季節』を白水社より刊行。のち、1938年(昭和13年)には改訳を施したうえで岩波文庫より『地獄の季節』を刊行した[12]。『地獄の季節』のランボーとの出会いは、ここに袖珍本による普及という具体的成果を得たのである。

そら、科學だ。どいつもこいつも又飛び附いた。

肉體の爲にも魂の爲にも、―― 醫學もあれば哲學もある、―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた俗謡さ。
それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、やれ天文學、機械學、化學・・・・・・
科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。これが大衆の夢である。
俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も僞りもない。

俺には解つている、たゞ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。あゝ、喋るまい。
                                             — 『地獄の季節』小林秀雄訳

[13]

大正末期から昭和初期の時期は、世界史においては、第一次世界大戦後の混乱から生じた西洋進歩主義にゆらぎが生じた時期でもあった[注釈 12]。この頃、詩人ポール・ヴァレリーテュービンゲン大学における講演で、「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」と言った。また、大戦末期にロシア革命が成立していた。このような時代の前段階である19世紀に、ランボーは、早々と、科学による学問の進歩とそれとは異なる逆戻りの志向が世の中に共在し得ることを詩の中に示している。


小林は、学生時代はしばしば講義を休む学生で、乱読家であり、1926年(大正15年)、24歳の時に東大仏文研究室の『仏蘭西文学研究』に発表した「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)を読んだ指導教官の鈴木信太郎らが「これほど優秀なら」と卒業認可した。


1927年
(昭和2年)「芥川龍之介の美神と宿命」を『大調和』9月号に[注釈 13]、「『悪の華』一面」を同年11月発行の『仏蘭西文学研究』に発表[注釈 14][注釈 15]。さらに、1930年(昭和5年)より、文藝春秋において文芸時評を始める。「一番初めに文藝春秋に」書いたときは、「学校を出てから、金がなくってお袋を養わなきゃならない、そのために文芸時評を書いた。それが、一番確かな動機」であった。「思い切り悪口を言えば、評判を取るだろうと思ってやった」もの[14]。小林は若い時代を顧みて「評判を取るだろうと思ってやったんだ。果して評判を取ったよ」という旨のことを言っている[14]。この時期、小林らは同人誌『作品』を立ち上げ、小林はランボーの『飾画』を掲載している[注釈 16]


初期小林批評は、翌年1931年(昭和6年)の『文藝春秋』1月号「マルクスの悟達」[注釈 17]、2月号「文芸時評」、3月号「心理小説」で一区切りを付ける。そして、同年7月『文藝評論』を白水社より刊行する。

なお、後年、小林は文藝春秋創立者の菊池寛を回顧する文章の中で[15]、菊池が1921年(大正10年)に書いた「社会主義について」では、「日本が社会主義化して行く事は時の問題であり、ただ手段を誤り、過激な事で、そこに進もうとすると、却って反動期をまねく恐れがあるのが心配であるという考え」を表明し、1947年(昭和22年)に書いた「半自叙伝」では、「今になって言っても益もない事だが、自分の予想は不幸にして的中し、大正末から起った共産主義の弾圧のとばっちりを受けて、自由主義的なものから社会主義的なものへの健全な発展がはばまれて了った」と記していることに注目している。


当時、世界は大恐慌にさしかかり、日本は統帥権問題を端に発した軍部の暴走、その延長として起きた満州事変5.15事件による立憲政治の中断、特別高等警察の設置などによる緊迫した情勢下にあった。この時期1932年(昭和7年)『中央公論』9月号に書かれた小林の「Xへの手紙」は、サント・ブウヴボードレールニイチェゲエテの4者の名を呼ぶのみの小説であり、以後、小林によるランボーへの言及は機会を減らしていく。評論にあっては、海外思潮の分野では、ランボーとの出会い以前に小林に影響を与え、ランボー詩と並行して翻訳を行ったフランスの象徴詩人ボードレールや同じくフランスの哲学者ベルクソンに対する言及が現れてくる[注釈 18][注釈 19][注釈 20]


また、小林のドストエフスキー論がこの時期以後に始まる。ときはファシズム興隆期の戦前昭和の時代であった[注釈 21]。ドストエフスキー論で小林は、帝政ロシアの反動体制において西欧進歩主義の世界に遠い憧憬の眼を投げる若いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛すぎる夢」というドストエフスキーの青年期の書簡での言葉を引きつつ、「青年達は西欧の理想に憑かれながら、この理想をはぐぐむ社會條件を、空しく周圍に捜し求めた」と記した[16]


1933年
(昭和8年)10月より発刊された『文學界』の同人となり、1936年(昭和11年)1月には、高齢同人に退いてもらい、新たな同人を入れ、自分たちの世代の文学的理想の実現の場を確保[注釈 22]。また、同年には、自身による翻訳書アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の刊行とともに創元社に編集顧問として参加している。同社ではさらに自身の著作である『ランボオ詩集』、『ドストエフスキイの生活』などを出版し、社に貢献しつつ、自分の文業を広めることとなる。


小林は、戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、論壇に論議を起こすこととなる林房雄が、戦前、二度の入獄を経て転向する以前の作品『青年』を評価し紹介していた[17][注釈 23]。1936年(昭和11年)1月の同人改組前後には、小林は左翼作家を標榜する島木健作と中野重治に参加を働きかけ、島木は参入。しかし、中野は拒絶した[18]。敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で、同年12月に小林が『東京朝日新聞』に発表した「文学の伝統性と近代性」をめぐって論争した相手の一人[注釈 24]だった戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる[注釈 25]。以後、1937年(昭和12年)日中戦争開始後になっても小林は、河上とともに『文學界』の編集に関与し続け、雑誌同人を拡大しながら文学の社会の中における機能を継続させようと図る[注釈 26]

思想と実生活論争
日中戦争が始まる前年の1936年(昭和11年)に、小林は正宗白鳥との間で、ロシアの文豪レフ・トルストイの最晩期の家出を巡って、後年「思想と実生活論争」と呼ばれることになる論争を行う[19]。小林が『讀賣新聞』に掲載した論文「作家の顔」の中で、正宗白鳥が家出したうえ野垂れ死にしたトルストイについて自己流の感慨を述べた文章を抜粋し、これを批判。この論文に白鳥が反駁した。さらに小林は、『文藝春秋』4月号に白鳥にこたえる形で論文「思想と実生活」を載せる。トルストイが妻を怖がって家出した。天才も竟に細君のヒステリイには敵わなかった。抽象的な思想でなく実生活の退屈で凡庸な瑣事が偉大な思想家の命運を決した。これはどういうことか。白鳥はそこに、⦅卑小な実生活上の瑣事⦆に「人生の真相を鏡に掛けて見るが如」き感慨を覚え、小林は巨大な精神が負わねばならぬ「実生活」という屑肉の退屈を感じた。論争の発端はこの認識の差である。


その後、昭和23年の正宗との対談(「大作家論」)で小林は以下のように述べ、意見相違は表面上に過ぎなかったとの認識を示した。

小林:僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。というのは、あの時あなたのおっしゃった実生活というものは、一つの言葉、一つの思想なんですな、あなたに非常に大切な……。僕はトルストイの晩年を書ければ書いてみたいと思っているのですけど、書けば、きっと九尾の狐と殺生石を書くでしょうよ。思想なんて書きませんよ。

また、昭和38年の河上徹太郎との対談(「白鳥の精神」)でも同様の見解を述べた河上に賛意を示している。

河上:理想主義で合理主義……、ぼくは今度きみと正宗さんとの有名なトルストイ家出論争というのをまた読み直してみたよ。そうしたら、当時感じたのとちょっと違ったものを感じたな。当時ぼくは間違えて批評していたんだ。きみは理想主義で、向こうがリアリズムだというふうにぼくは簡単にさばいていたけれども、そうじゃないな。向こうもリアリズムじゃないよ。あれは一種の理想主義だ。
小林:うん、そうだ。
河上:だから同じことなんだ。きみと同じことをいっているのだ。

詳しいことは「小林秀雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84_(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)
(wikiより)

2455  小林秀雄

小林秀雄

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関東大震災で壊滅した寺を復興し、書院・本堂などを再建。


空華と号して観音・達磨・布袋など、多くの画を残した。


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井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年(明治44年)1月20日 - 2006年(平成18年)1月26日)は、日本の禅僧。元東慶寺住職相模工業大学教授。学僧として名高く、また自然保護運動でも活躍した。

生涯
神奈川県高座郡渋谷村高倉に円覚寺派東勝寺の禅僧の三男として生まれる。大正の初め、父の転住に伴い、足柄上郡南足柄村の狩野極楽寺に移る[1]。この極楽寺は臨済宗円覚寺の末寺であり、そこで少年時代の井上は、晩年の釈宗演の法話を聞き、感銘を受ける。1921年春、10歳にして親元を離れ単身鎌倉に赴き、東慶寺住職として釈宗演の跡を継いでいた佐藤禅忠の弟子となる。


神奈川県立湘南中学校(現在の神奈川県立湘南高等学校)、松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学(東京大学文学部印度哲学科で辻直四郎の指導を受け、また和辻哲郎にも学ぶ。ちなみに辻も和辻も、哲学者美学者かつピアニストケーベル博士の弟子であり、またともに東慶寺に墓がある。


井上は、ギリシア正教からカトリックに改宗したとされるケーベル博士の孫弟子になる[2]。ちなみに後年のことであるが、クリスチャンであるのに大学生のとき東慶寺で草むしりのバイトをしていた兼子盾夫(のち横浜女子短期大学教授(西洋哲学専攻))に、「ところでおまえは耶蘇だそうだな」と尋ね、「はい」と兼子が答えると「耶蘇も仏も、つまるところは同じだな」と井上は語ったという[3]


大学卒業後、天龍寺関精拙に弟子入りし、1941年東慶寺住職となる。同年、釈宗演の弟子である鈴木大拙とともに、宗演への報恩のため松ヶ岡文庫を創設する。寺の土地の一部を文庫に充て、大拙を住まわせる。

1943年召集令状に応じ、千葉県佐倉の部隊に入る。1945年6月、大拙の無二の親友西田幾多郎が亡くなると、応召中ではあったが、佐倉の部隊から特別許可を貰い、一時、鎌倉に戻って、悲嘆に暮れ放心状態の大拙のかたわらで[4]、東慶寺にて読経回向した[5]。この西田の葬儀を機縁として、葬儀委員長の岩波茂雄や葬儀の参列者である安倍能成[6]もこの寺に墓を作ることになった。これはいわゆる岩波文化人をはじめとする、日本を代表する知識人の多くがこの寺を菩提寺とする一つの契機となったといえよう。


終戦後、軍務を解かれ、鎌倉に戻る。1946年、松ヶ岡文庫を財団法人化する。1966年の大拙没後、同文庫は大拙その他の所蔵する貴重な資料の保管と研究の場として機能し、また大拙の書簡等、未公刊の大拙の文書の翻刻も行っている。1964年に勃発した鶴岡八幡宮裏の御谷騒動のとき、小説家の大佛次郎、禅の在家修行者である天野久弥、保守派と目される評論家の小林秀雄、さらに大拙や朝比奈宗源円覚寺派管長らとともに[7]開発のブルドーザーを阻止し、1966年の古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)の制定に尽力した。


1970年には乱開発反対を唱える正木千冬候補(市長在任期間1970年-1978年)を鎌倉市長選において、労農派マルキスト大内兵衛や御谷騒動で一緒に闘った大佛次郎、小林秀雄らと一緒に応援し、革新市政の実現に貢献した。大内も大佛も小林も、井上と同じ東大卒で鎌倉在住であるという人脈上のつながりも活かされていた[8]。なお、正木の応援がてら東慶寺に寄った野坂参三に、この世を浄土と化す禅宗と地上の楽園をめざすマルクス主義とは近いと語り合ったと、井上は振り返って述べている[9]


1971年から1974年まで円覚寺派宗務総長として、朝比奈宗源管長を支える。1981年8月より浄智寺住職。東慶寺住職は長男の井上正道[10]が継ぐ。浄智寺では、TBSの人気番組のプロデューサーを経て、父親の没年の1979年より55歳にして仏門に入った、副住職の朝比奈宗泉[11]を指導する[12]。晩年も鎌倉市立御成小学校校舎の保存に努めない市の姿勢に抗議して、鎌倉市文化財専門委員会委員の辞表を提出したり(1992年9月)、環境保護派として知られる竹内謙鎌倉市長(在任期間1993年-2001年)[13]を側面から支えたりして、鎌倉市の緑と環境の保全に尽くした。


環境保護のための井上のラディカルな姿勢は、大拙の次の文章に照応しよう。「ある意味では、禅はいつも、革命的精神の鼓吹者ともいえる。また過激な叛逆者にもなれば頑固な守旧派にもなりうるものを、そのなかに貯えている。なんでも危機-いかなる意味でもよいが、それに瀕した時は、禅は本来の鋭鋒を現して、左右いずれとも現状打破の革新力となる」[14]。2006年1月26日、胸膜炎のため逝去。95歳。

主要著書
・『駈​込​寺​ ​:​ ​松​ヶ​岡​東​慶​寺​の​寺​史​と​寺​法』小山書店[15]、1955年

・『円覚寺史』(玉村竹二と共著)春秋社、1964年

・『鎌倉東慶寺の縁切寺法』鎌倉市教育委員会、1966年

・『駆込寺 : 離婚いまとむかし』現代史出版会、1976年

・『駈込寺東慶寺史』春秋社、1980年

・『日本仏教の心 12 覚山尼と東慶寺』ぎょうせい、1982年

・『鈴木大拙未公開書簡』禅文化研究所、1989年(共編著)

・『東慶寺と駆込女』有隣堂、1995年

・『釈宗演伝 : 禅とZenを伝えた明治の高僧』禅文化研究所、2000年

脚注
1. 「東慶寺の歴史~現代」(東慶寺 公式ウェブページより) http://www.tokeiji.com/history/now/
2. なお釈宗演との関係からいえば福沢諭吉の孫弟子でもある
3. 藤沢カトリック教会の公式ウェブ掲載の文章より。 4. http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(1) これは飄々としてこだわりのない井上の生き様をよく伝えるエピソードである。
5. 森清『大拙と幾多郎』(岩波書店、2011年)によると大拙は放心状態であったように伝えられるが、葬儀の折の集合写真をみると、錚々たる西田門下生が後ろに控えるなか、西田の夫人や子息らとともに大拙は最前列の真ん中に陣取って写っている(大橋良介『西田幾多郎: 本当の日本はこれからと存じます』ミネルヴァ書房、2013年所収の写真)。
6. 井上禅定『東慶寺と駆込女』有隣堂、1995年。
7. 当時第一高等学校長であった安倍は、その後『西田幾多郎全集』(岩波書店、旧版)の筆頭編集人にもなった。なお安倍は東大の学生時代、漱石、虚子からとともに、当時東大講師であり後に京大教授、玉川大学学長になる波多野精一から強く影響を受けたといわれている。キリスト教の立場で宗教哲学を展開した波多野はケーベル博士の愛弟子であるし、またケーベル当人からも安倍は学んでいたので、その意味でもケーベルの孫弟子である井上と相通ずるところがあったはずである。
8. 『朝日新聞』1981年11月6日夕刊1面「新人国記'81 神奈川④」。
9. 井上は晩年、東大の地域同窓組織である、東京大学鎌倉淡青会の名誉会長も務めていた。
10. 井上禅定『東慶寺と駆込女』有隣堂、1995年。
11. 2013年逝去。住職は正道の子息、禅定の孫の井上大光が継ぐ。
12. 朝比奈宗源の子息。本名、朝比奈健。東京放送を経て、浄智寺副住職、住職、閑栖。2012年逝去。
13. なお、水戸黄門大岡越前等のTBSの時代劇の題字が朝比奈宗源の筆によるものであることはよく知られているが、それはこの宗泉がTBSの職員であったから実現したものである。
14. ちなみに正木はゾルゲ事件の被告尾崎秀実企画院時代極めて親しく、竹内の祖父は尾崎の弁護人であった。
15. 北川桃雄訳『禅と日本文化』岩波新書、pp.37-38。この文章に続いて大拙は時頼時宗、さらには時宗の正室で東慶寺の開山である覚山尼に言及する。
16. 小山書店の店主小山久二郎は安倍能成の甥であり、岩波書店の元店員である。

参考文献
・『湘南20世紀物語』有隣堂刊 http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/428_4.html

・「東慶寺の歴史~現代」(東慶寺 公式ウェブページより) http://www.tokeiji.com/history/now/

・「井上禅定氏死去 前東慶寺住職」http://www.47news.jp/CN/200601/CN2006012701000814.html

・「Webcat Plus: 井上 禅定」http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/19878.html

・「井上禅定さん(かながわ・100人の肖像:42)/神奈川」(朝日新聞神奈川版1995年2月12日朝刊)

・井上禅定『東慶寺と駆込女』有隣堂・有隣新書、1995年

・森清『大拙と幾多郎』岩波現代文庫、2011年
(wikiより)

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覚山尼(かくさんに、建長4年7月4日1252年8月10日) - 徳治元年10月9日1306年11月15日))は、鎌倉時代中期の安達一族の女性。鎌倉幕府の第8代執権北条時宗正室。父は有力御家人安達義景、母は北条時房の娘。兄(養父)に安達泰盛堀内殿松岡殿覚山志道潮音院殿とも。

略歴
父義景が出生の翌年に死去したため、21歳離れた異母兄泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(1261年)に10歳で北条得宗家の嫡子で11歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治3年(1277年)には流産をしている。


弘安7年(1284年)4月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺[1] で落髪(出家)たとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した[2]。 時宗は34歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安8年(1285年)に、内管領平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。55歳で死去。

出典
1. 禅興寺は時宗の父時頼が別業(公邸に対する私邸)内に建てた持仏堂を前身として文永5(1268)年に蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として開いて寺である。この禅興寺は時宗の別業のある谷戸の奥であり、事実上時宗私邸内とも云える。明月院は元はその禅興寺の塔頭であり、禅興寺跡は現在明月院の敷地内である。
2. 鎌倉市史・寺社編 p.341

参考文献
川添昭二『北条時宗』吉川弘文館、2001年

・鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・寺社編』吉川弘文館、1959年10月。

登場する作品
北条時宗 (NHK大河ドラマ)-2001年、演:吉谷彩子児玉真菜西田ひかる十朱幸代、作中では祝子(のりこ)という名で呼ばれていた。

関連項目
安達氏

〇 霜月騒動
霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府政変。8代執権北条時宗の死後、9代執権北条貞時の時代に、有力御家人安達泰盛と、内管領平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦安達泰盛の乱秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。


源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。

拝啓
安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、北条氏得宗家の外戚として執権北条時宗を支え、越訴頭人御恩奉行などの重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の嫡子貞時乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力を具現する立場にあった。幕府では外様御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。弘安7年(1284年)に両者の調停役となっていた執権時宗が死去し、14歳の貞時が9代執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威を発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので[1]、得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった。

経過
弘安8年(1285年)11月4日と14日に頼綱は日光山別当源恵に依頼し、泰盛討伐の祈祷を行った。合戦の状況を語る唯一の一次史料である霜月騒動覚聞書によると、11月17日の午前中、松谷の別荘に居た泰盛は、周囲が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、貞時邸に出仕したところを御内人の手勢に阻まれ、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所が延焼、午後4時頃に合戦は安達方の敗北となり、泰盛、嫡子宗景、弟長景以下一族は自害・討ち死にして果てた。

安達時景は相模国飯山(現・厚木市)に逃亡したが殺害された。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である上野国武蔵国の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、遠江国では安達宗顕、常陸国では安達重景、信濃国では伴野彦二郎盛時らが自害した。九州では泰盛の子安達盛宗岩門合戦で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。


泰盛与党として罹災したのは泰盛一族の他、足利氏小笠原氏伴野氏)、伊東氏武藤氏少弐氏)、その他は藤原相範吉良満氏、殖田又太郎(大江泰広)、小早川三郎左衛門、三科蔵人、天野景村伊賀景家二階堂行景、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られる。一方頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の佐々木氏今川氏千葉氏なども加わっており、同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。泰盛と縁戚関係のあった金沢顕時(泰盛の娘婿)は下総国に蟄居の身となり、宇都宮景綱長井宗秀[2]らは失脚した。

霜月騒動後の鎌倉幕府
実権を握った平頼綱は泰盛の弘安改革を否定し、幕府の人事は得宗を頂点に大仏流名越流を中心に北条一族の支配となり、足利氏ら旧来の御家人の姿は無かった(得宗専制)。京都では泰盛と協調して弘安徳政を行っていたと見られる亀山上皇院政停止(持明院統伏見天皇即位)が行われた。


権勢を誇った頼綱も8年後の平禅門の乱で滅亡することになるが、泰盛の弟の子孫(安達氏)及び頼綱の弟の子孫(長崎氏)は、再び取り立てられて両家間で婚姻関係を結ぶ[3]までになり、北条得宗家が滅亡した東勝寺合戦において両家とも得宗家と運命をともにすることになった。

将軍問題
保暦間記』によると、頼綱は泰盛の子宗景源頼朝落胤であると称して源氏に改姓し、謀反を起こして将軍になろうとしている、と貞時に讒言したという。泰盛は源氏将軍に伝えられる「髭切太刀」を京都のある霊社から探し出して法華堂の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は霜月騒動で行方不明になったのち、12月5日に探し出され、貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれて再び法華堂に奉納された。


本来将軍御家人の主従関係で成り立っていた幕府内部において、総領制が行き詰まる中で零細化した御家人が得宗被官の御内人として取り込まれ、得宗と御内人の主従関係を築くようになっていた。泰盛の改革で救済対象であった零細御家人は、御内人として得宗方の討手に回ったのである。一方、幕府創設以来の御家人達にとって、一段身分が低く、あくまでも北条家の家臣に過ぎない内管領御内人が権勢を振るう事への反発は強く、それら外様御家人層の多くが泰盛方に加わっていた。将軍問題は得宗が幕府の頂点にありながらも、その出自の低さ故に自ら将軍になる事の出来ない北条氏が最後まで乗り越える事の出来ない壁となっていた。

脚注
1. ただし、五味文彦のように泰盛も得宗の外戚の立場にあり一連の法令は得宗権力を強化するものとして捉え、得宗専制の始期を霜月騒動ではなく弘安徳政に求める見解もある。五味は霜月騒動を得宗権力内部の抗争と捉える(五味「得宗専制政治」『国史大辞典』第10巻、吉川弘文館、1989年 P313-314)。
2. 平禅門の乱後に復帰した
3. 安達泰盛の弟の曾孫・高景の妻は平頼綱の弟の孫(長崎円喜の娘)にあたる。

参考文献
永井晋 『金沢貞顕』 〈人物叢書〉吉川弘文館、2003年。

福島金治 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』 有隣新書、2006年。

本郷和人 『新・中世王権論』 新人物往来社、2004年。

村井章介 『北条時宗と蒙古襲来』 NHK出版、2000年。

関連項目
平禅門の乱

徳政

外様
(wikiより)

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第五世用堂尼 ( ようどうに ) は『過去帳』に「後醍醐天皇姫宮、入当山薙染受具、応永三 ( 1396 ) 丙子年 8月 8日巳刻入寂」とある。


寺記等では、この尼公 ( にこう ) 住持 ( じゅうじ ) 以来「松岡御所」と称し、比丘尼びくに御所同格紫衣寺しえでらなりとある。


寺蔵の北条氏康の書状で十七世旭山尼を指して「御所様」といっている。


江戸時代の文書では寺をさして「松岡御所」とか「鎌倉御所」と書いてある。


本堂に霊牌、木像安置、裏山の岩窟の中に五輪塔の墓がある。


岩窟の前を石柱で囲み石段をつけ、「後醍醐天皇皇女用堂女王墓宮内庁」の石標が建てられたが、中央の公孫樹 ( いちょう ) は本来は天秀尼 ( てんしゅうに ) 墓の前立であり、明治以前は、石段は天秀尼墓前の一基であった。


ちなみに、この石標の女王の文字に、若い人は奇異な目を向ける者があるが、この場合は内親王の宣下のない皇族の女子の意味である。


寺伝では用堂尼は護良親王の菩提を弔うために入寺されたというこうした。


縁で江戸時代に護良親王の土の牢やお墓のある鎌倉二階堂は当山の寺領となり、土の牢や墓、霊牌の安置された理智光寺等も管理した。


現在も獅子舞、五林山などに寺有の山林があるのも、その名残である。

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理学博士。
( 人工繊維石綿を製造 )

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真杉 静枝(ますぎ しずえ、1901年10月3日 - 1955年6月29日)は、日本の小説家

略歴
教職を務める父と住職の娘である母との間にできた私生児として福井県伊那郡殿下村に生まれる[1]神官の娘。父が台湾宮司になったため3歳から台湾で過ごす。1911年に一旦日本に戻ったが、再び台湾に戻り、台中看護婦養成所を卒業して1916年から看護婦として台中病院に務める[1]。台中高等女学校中退。1917年、17歳で台中駅助役(のちに旧城駅長)と結婚。相手は13歳年上で、内縁の妻がいた[1]1921年に離婚し、大阪の祖父母の元で暮らす[1]


タイピスト、事務員を経て、1925年に大阪毎日新聞の記者となる[1]。その頃、正岡容の愛人となって心中を図るも未遂に終わる。のち武者小路実篤と知り合って、1927年その愛人となる。武者小路の指導で小説家を志し、1927年に武者小路が主宰する『大調和』8月号で『駅長の若き妻』を発表したのち、武者小路や中村地平との恋愛をもとにした処女作『小魚の心』を発表[1]長谷川時雨の『女人藝術』に参加。武者小路が経営する神田猿若町の美術店「日向堂」を手伝いながら、文芸雑誌に作品を発表しつづける[1]


武者小路と別れた後、中村地平菊池寛などと恋愛。1939年に、中村とともに18年ぶりに台湾を訪れ、台南に住む家族と久しぶりの再会を果たす[1]1941年には長谷川時雨、円地文子らと中国・広東へ日本軍の慰問にも出向いている[1]1942年中山義秀と結婚したが1946年に離婚。この間、中国戦地の慰問団に参加して陸軍中尉の佐藤賢了と恋愛。


戦後は娯楽月刊誌「鏡」を刊行したが3号で廃刊。また「読売新聞」で「身の上相談」を担当し、被爆少女の教護に尽した。昭和28年に渡欧、エリザベス女王戴冠式と国際ペンクラブ大会にそれぞれ出席。


癌に苦しみ、死の直前にキリスト教洗礼を受けた。1955年6月29日、肺癌のため東京大学医学部附属病院小石川分院で死去[2]。通夜の席にはかつての夫、中山義秀が参列している。

小説に描かれた真杉静枝
吉屋信子「小魚の心 真杉静枝と私」(『自伝的女流文壇史』中公文庫

林真理子「女文士」新潮文庫 ISBN 978-4-101-19117-1

石川達三「花の浮草」文春文庫 ※モデル小説

十津川光子「悪評の女」真杉静枝の伝記

火野葦平「淋しきヨーロッパの女王」(新潮 1955年1月号、p230~262)

その他
生年は1905年説(吉屋信子など)あり。墓地は北鎌倉の東慶寺にある。

著書
・『小魚の心』(1938年)竹村書房 序坂口安吾

・『草履を抱く女』春陽堂、1939 

・『その後の幸福』昭森社、1940 

・『ひなどり』(1939年)竹村書房

・『万葉をとめ』(1940年)人文書院      

・『愛情の門』(1940年)国際女性社

・『歴史物語薄幸の姫宮』(1940年)画高畠華宵、装丁蕗谷虹児

・『甲斐なき羽撃き 随筆』(1940年)協力出版社

・『ことづけ』(1941年)新潮社

・『南方紀行』(1941年)昭和書房

・『天日爽やかに』(1941年)墨水書房

・『凱歌』報国社、1942 

・『三つの誓ひ』むらさき出版部、1942 

・『鹿鳴館以後』(1942年)実業之日本社

・『妻』博文館、1942 

・『母と妻』全国書房、1943 

・『帰休三日間』(1943年)秩父書房

・『松山氏の下駄』

・『思はれ人』(1946年)丹頂書房

・『鏡と鬘』(1947年)前田出版社

・『愛情の門』(1948年) 国際女性社 

・『花怨』(1948年) 六興出版部 

・『美くしい人』 (1948年) 京都印書館 

・『後宮の人』 (1948年) 九州書房 

・『仇ごよみ』(1948年)鏡書房 

・『夜会服の乙女』(1949年)

・『嵐の中の姉妹』偕成社、1949 

・『小説人生案内』(1951年)四季社

訳書
ヨーロッパの横顔 サム・ウエルズ(Sam Welles)著 ジープ社、1950

(原書:Sam Welles, "Profile of Europe", herper & Brothers New York, 1948)

脚注
1. a b c d e f g h i 植民地を語る苦痛と快楽 - 台湾と日本のはざまにおける真杉静枝のアイディンティティ形成李文茄、日本台湾学会
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)298頁

外部リンク
真杉静枝著作集 - 近代デジタルライブラリー
(wikiより)


2448  真杉静枝

真杉静枝

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田村 俊子 (たむら としこ、1884年明治17年)4月25日 - 1945年昭和20年)4月16日)は、日本小説家。別名、佐藤露英佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ[1]東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退[1]。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された[1]

生涯
代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1893年(明治26年)4月、浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学。翌年2月、下谷区下谷金杉上町(現在の台東区下谷竜泉入谷辺り)に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学。1895年(明治28年)、浅草区馬道(現在の台東区浅草花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学。1896年(明治29年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学。作家を志し、幸田露伴の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、尾崎紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は「ひげ男」の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった[2]


1902年
に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子[1]。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚(事実婚)した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。悦とともに現地の邦字紙大陸日報の編集に参画する。


1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した[3]。1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[4]。享年62。墓所は鎌倉東慶寺にある[1]


大相撲
力士両國勇治郎のファンであり、彼を題材にした俳句も複数残している。

主な作品
・生血

・女作者

・炮烙の刑 - 俊子と田村松魚、伊東六郎の三角関係をもとに作品化したもの

・山道


  ・著書 

・あきらめ 金尾文淵堂 1911

・誓言 新潮社 1913

・山吹の花 植竹書院 1914 (文明叢書 ; 第33編)

・木乃伊の口紅 牧民社 1914

・恋むすめ 牧民社 1914

・恋のいのち 実業之世界社 1915

・小さん金五郎 新潮社 1915 (情話新集)

・お七吉三 新潮社 1916.6 (情話新集)

・彼女の生活 新潮社 1917 

・あきらめ・木乃伊の口紅 1952 (岩波文庫)

・田村俊子作品集 全3巻 オリジン出版センター 1987-88

・木乃伊の口紅・破壊する前 1994.6 (講談社文芸文庫)

・田村俊子全集 全9巻+別巻1 ゆまに書房 2012.8-刊行中


  ・復刊

・木乃伊の口紅 不二出版 1986.6 (叢書『青鞜』の女たち)

・恋むすめ ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・山吹の花・恋のいのち ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

・作家の自伝 87 田村俊子 日本図書センター 1999.4 (シリーズ・人間図書館)

・紅 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)

・彼女の生活 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)


  ・翻訳

・機械時代の恋愛 フロイド・デル 中島幸子,田村とし子訳 先進社 1932

参考文献
・『田村俊子』 瀬戸内晴美(寂聴)著、文藝春秋新社、1961年、のち角川書店、講談社。

・『田村俊子とわたし』 丸岡秀子 著、中央公論、1973年、のちドメス出版。

・『晩香坡(バンクーヴァー)の愛―田村俊子と鈴木悦』 工藤美代子、S・フィリップス共著、ドメス出版、1982年。

・『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』 工藤美代子 著、筑摩書房、1985年、のち集英社文庫。

・『大百科事典』平凡社、1985年。

・『田村俊子作品集1~3』ドメス出版、1987年。

・『現代女性文学辞典』 村松定孝渡邊澄子 編、東京堂出版、1990年。

・『日本現代文学大事典』 三好行雄竹盛天雄他 編、明治書院、1994年。

・『作家の自伝87』 長谷川啓 編解説、日本図書センター、1999年。

・『田村俊子 谷中天王寺町の日々』 福田はるか 著、図書新聞、2003年。

・『田村俊子の世界 作品と言説空間の変容』 山崎眞紀子 著、彩流社、2005年。

・『今という時代の田村俊子―俊子新論』 渡辺澄子 編集、至文堂、2005年。

脚注
1. a b c d e 江刺昭子・史の会編『時代を拓いた女たち 第2集』神奈川新聞社、2011年、142-143頁。ISBN 978-4-87645-475-4
2. 「婦人と文学」宮本百合子
3. 日本女作家田村俊子的上海冒險” (中国語). 徐靜波 (2020年5月20日). 2020年5月20日閲覧。
4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)204頁

外部リンク
田村 俊子:作家別作品リスト青空文庫
(wikiより)

2421  田村俊子

田村俊子

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小説家。

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三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年(明治25年)5月20日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本哲学者。 思想史科学史や技術史についての研究も多い。

経歴
広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。


1922年大学卒業[1]後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学立正大学法政大学などで教職に就いた。1928年無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。

1932年戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。機関誌『唯物論研究』の初代の編集部長となる。1933年思想弾圧により1ヶ月間拘禁の難に遭い教職を辞した。この事件を機に富士川らの薦めで日本哲学思想史の本格的研究を始めた。


戦後は鎌倉大学校(後の鎌倉アカデミア)の創立に加わり、第2代校長。後に日本科学史学会会長や明治大学教授、横浜市立大学教授・学長、国鉄鶴見事故で死去。帰宅中で列車に乗っていた。


中村雄二郎の『共通感覚論』(1979)は、三枝や戸坂ならびに三木清中井正一の仕事を振り返ることで、西田幾多郎の場所の論理を発展的に乗り越えうると評している。


蔵書は横浜市立大学学術情報センターに「三枝文庫」として収蔵された。なお墓所は鎌倉市の東慶寺に、鎌倉アカデミアの同僚高見順三上次男の墓と共にある。

著書
認識論考 大雄閣 1928

資本論弁証法 刀江書院 1931

ヘーゲル・論理の科学 其把握の為めに 刀江書院 1931

・文化の危機 時潮社 1933

・日本に於ける哲学的観念論の発達史 文圃堂書店 1934

・弁証法談叢 中央公論社 1935

・論理学 三笠書房 1935 (唯物論全書)

・小説と論理 野田書房 1936

・日本の思想文化 第一書房 1937、中公文庫 1978

・ヘーゲル論理学 河出書房 1938 (名著研究文庫)

・文学のフィジカとメタフィジカ 河出書房 1938

・日本の知性と技術 第一書房 1939

・現代日本文明史 第14巻 技術史 東洋経済新報社 1940

三浦梅園の哲学 第一書房 1941

・技術の思想 第一書房 1941

・日本の文学への眼 朝日新聞社 1942

・梅園哲学入門 第一書房 1943

・技術家評伝 科学主義工業社 1940-43

・技術史研究 十一組出版部 1944

・資本論の弁証法 時潮社 1946

・私の敬愛する哲学者たち 十一組出版部 1947

・哲学するための序説 国土社 1948

・技術の思想性 早川書房 1948

・ヘーゲル大論理学 日本読書組合 1948

・唯物論者の倫理 中央公論社 1949

・美しい生活の倫理 若き女性のための哲学 田園社 1950

産業革命 福村書店 1951 (中学生歴史文庫 世界史 4)

・技術の哲学 岩波書店 1951 (岩波全書)

・哲学史入門 創元社 1952-53

伊能忠敬 国土社 1955 (少年伝記文庫)

・日本の唯物論者 英宝社 1956

・西欧化日本の研究 中央公論社 1958

・河原の石 三枝博音・その人と思想 飯田賢一編 清水弘文堂書房 1969

・三枝博音著作集 全12巻 中央公論社 1972-73

三枝博音著作集 別巻 中央公論社 1977.7

共編著
ヘーゲルの観念論的マルクス唯物論弁証法新研究 今田竹千代共編 モナス 1931

・日本講座 第5巻 宗教 鳥井博郎共著 三笠書房 1937、改題「日本宗教思想史」

・日本文化の構想と現実 中央公論社 1943 (大東亜基礎問題研究)

三浦梅園岩波文庫 1953

・日本の産業につくした人々 鳥井博郎共著 毎日新聞社 1954 (毎日少年ライブラリー)

・日本文化史講座 第5巻 宗教と科学の歴史 新評論社 1955

・日本哲学思想全書 全20巻 清水幾太郎共編 平凡社、1956-57

・日本近代製鉄技術発達史 八幡製鉄所の確立過程 飯田賢一共編 東洋経済新報社 1957

・講座・科学技術教育 岡邦雄・長谷川淳共編 明治図書出版 1959

・近代日本産業技術の西欧化 野崎茂・佐々木峻共編 東洋経済新報社 1960

・世界史における日本の文化 三枝博音記念論集編集委員会 第一法規 1965

翻訳
・精神科学序説 ヴイルヘルム・ディルタイ 大村書店 1928

・ヘーゲル弁証法 原文対訳 人文書房 1930

・記述的分析的心理学 デイルタイ 江塚幸夫共訳 モナス 1932

・技術と文化 ウルリヒ・ヴェント 吉沢忠雄共訳 河出書房 1939

・道具と人類の発展 上 ノワレ 1954 (岩波文庫)

  • デ・レ・メタリカ 近世技術の集大成-全訳とその研究 アグリコラ 山崎俊雄編 岩崎学術出版社 1968

    伝記
  • ・前川清治『鎌倉アカデミア--三枝博音と若きかもめたち』(サイマル出版会、1994年)

    ・前川清治『三枝博音と鎌倉アカデミア』(中公新書、1996年)

    ・飯田賢一『回想の三枝博音 人間と技術と教育』(こぶし書房、1996年)

    ・書誌 飯田編『三枝博音』<人物書誌大系27>(日外アソシエーツ 1992年)

    脚注
    1. 『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1939年、p.308

    外部リンク
    三枝博音:作家別作品リスト - 青空文庫
    (wikiより)

    〇 鶴見事故
    鶴見事故(つるみじこ)は、1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に日本国有鉄道(国鉄)東海道本線鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切(神奈川県横浜市鶴見区)付近で発生した列車脱線多重衝突事故である。


    福岡県大牟田市三井三池炭鉱で死者458人を出した大爆発事故が同日に発生したため、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれた。

    概要
    ※外部リンク先の図入りの事故状況説明も、必要に応じて参照されたい。


    事故地点における貨物線品鶴線)を、定刻より4分遅れで走行中の佐原野洲行き下り貨物列車(2365貨物・EF15形電気機関車牽引45両編成)後部3両目のワラ1形2軸貨車(ワラ501)が突然脱線。引きずられた後、架線柱に衝突し編成から外れたことにより、隣の東海道本線上り線を支障した(2365貨物列車は非常制動が作動し停止)。そこへ同線を走行中の横須賀線電車久里浜東京行き上り2000S列車と、下り線を走行中の東京発逗子行き下り2113S列車(いずれも12両編成)がほぼ同時に進入した[注釈 1]


    90km/h前後という高速のまま進入した上り列車は、貨車と衝突。先頭車(クハ76039)は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目(モハ70079)の側面に衝突して串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目(クモハ50006)の車体も半分以上を削り取って停止した。


    その結果、下り列車の4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほどに粉砕され、5両目に乗り上げた形で停止した上り列車の先頭車も大破。上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となった。

    原因
    事故後、ワラ1形が曲線出口の緩和曲線部(カーブから直線になる地点)でレールに乗り上げていた痕跡が認められた。そして国鉄は脱線原因を徹底的に調査・実験した結果、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況などが複雑に絡み合った競合脱線であるとした。


    それまで競合脱線事故の多くは貨物列車単独に被害が及ぶもので、人的被害を発生させた例は少なかったが、本事故はたまたま貨車の競合脱線とほぼ同時に上下方向から旅客列車が進入してきたことで甚大な人的被害をもたらす結果となった。これについては、貨物列車の機関士が脱線直後に発煙筒を焚いたが、短時間で消えてしまったこともあって上り列車の運転士(死亡)が見落とし、直前まで脱線に気付かず高速で貨車に激突、勢い余って横の列車を大きく破壊するに至ったものとされている。前年1962年三河島事故と同様に視界の悪い夜間であったことが被害の拡大を招いたとも言える。


    また「競合脱線」という原因が見出され、原因不明として処理された過去の2軸貨車脱線事故も多くはこれが原因である疑いが強まったが、「競合脱線」とは脱線にいたる主因が不明確であるという点からも実質的に「原因不明」に近いものであった。後日、脱線を起こしたワラ1形はワム60000形類似車として配備前の実車試験が省略され、軽負荷時の激しいピッチング特性が見逃されたことが明らかにされており、当時は高速電車開発で確立されつつあったバネ下重量、蛇行動など走行装置の理論を貨車にも適用可能な時期でもあって、これは事故調査が当事者ではない独立機関で行われていれば「試験の手抜き」と「予見可能性」とで別の結論になり得た重要な事実であった。

    対策
    事故後に技術調査委員会を設け、模型実験・2軸貨車の実走行実験などで競合脱線のメカニズム解明に向けた様々な角度での研究が続けられた。1967年(昭和42年)からは、新線切替により廃線となった根室本線狩勝峠旧線(新得 - 新内 通称:狩勝実験線[注釈 2])を利用し、貨物の積載状態や空車と積載車の編成具合から運転速度や加減速度等さまざまな条件に基づいて実際に鉄道車両を脱線させる大規模な脱線原因調査が行われた。実験は1972年(昭和47年)2月に一応の結論を出し、護輪軌条の追加設置・レール塗油器の設置・2軸貨車のリンク改良・車輪踏面形状の改良などにつながることになる。前述の通り軽負荷時の走行特性に問題のあったワラ1形も相応の改良を受けた上で国鉄末期の1986年(昭和61年)まで使用された。


    これらの対策は1975年(昭和50年)までに終了し、さらに車扱貨物輸送の減少で2軸貨車が激減したため、現在は日本国内では2軸貨車の競合脱線はほぼ起こりえなくなっている。

    その他
    ・事故現場に近い岸谷1丁目の線路沿いに慰霊碑がある。犠牲者の遺体の一部は、緊急措置として付近の總持寺に運ばれた。一時安置場所とされた長廊下では、現在でも1日2回供養のために線路状に水を撒く水供養[1]が行われている。


    ・本事故を描いたテレビドキュメンタリー番組『カメラルポルタージュ ひとり帰ってこなかった』がTBSテレビにより製作された。この事故で犠牲となったある男性サラリーマンにスポットを当て、男性の母親と婚約者の女性の悲痛な叫びが事故の悲惨さを物語っている。


    ・当時TBSアナウンサーの吉川久夫が下り電車に偶然乗車しており、事故発生後は吉川本人が現場からリポートを行った。ボクシング中継の実況アナウンサーであった吉川は、東京都渋谷区に存在していたリキ・スポーツパレスでのプロボクシング興行の収録を終えて、渋谷から品川に出て、品川から帰宅のため乗車していたところ事故に巻き込まれた[注釈 3]


    横浜市立大学学長・日本科学史学会会長を歴任した哲学者三枝博音も、この事故で犠牲となった。三枝は日本学術会議講堂で開かれたシンポジウムの司会を務め、下り電車で鎌倉の自宅へ帰る途中だった。他にも本事故の犠牲者には、第五次南極観測隊隊員だった松川義雄、松竹歌劇団団員の千早みゆき関由利がいる。また、女優・樹木希林(当時の芸名は悠木千帆)の実父も負傷している。


    ・当時毎日放送のアナウンサーだった金子勝彦はこの事故で義弟を失った事が契機となり、翌年1964年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)へ開局と同時に移籍した。


    ・事故発生時には、NETテレビ(現在のテレビ朝日)でアメリカ製作のテレビドラマハワイアン・アイ」が、TBSテレビで「ザ・ルーシー・ショー」が、それぞれ放映されていて、その事から事故捜査を担当した警察が付近住民を事情聴取した際、番組を見ていた多くの住民が事故発生時刻をはっきりと覚えている結果に繋がった。また、これらの検証により貨物列車が約4分遅れで運行していたことがわかった[2]

    脚注
    注釈
    1. 当時は、東海道線と横須賀線の分離が行われておらず、いずれも同じ線路を走行していた。両者が分離されるのは、1980年のことである。
    2. 現在も国道38号沿線に試験車マヤ40形の遠隔操縦やデータ収集に使った無線塔などの実験跡が残っている。
    3. 1963年当時は、現在のように湘南新宿ラインで渋谷から横浜方面まで直接東海道本線横須賀線に列車を乗り入れるルートが存在していなかった。

    出典
    1. 本山布教部 (2011年4月12日). “曹洞宗大本山總持寺【伝道標語】”. 曹洞宗大本山總持寺. 2011年10月26日閲覧。 “鶴見事故の他、桜木町事故の供養も行われている。”
    2. 483: 昭和38年、国鉄鶴見事故と外国産TVドラマ”. 東京スポーツ (2014年9月24日). 2018年10月13日閲覧。

    関連項目
    鉄道事故

    国鉄戦後五大事故

    国道15号

    鶴見神社 (横浜市)

    特定都区市内

    横浜市消防局特別高度救助部隊 - 発足理由の1つ

    外部リンク
    「鶴見事故」から50年 現場を再現したジオラマ完成、JR東日本横浜支社で展示/神奈川 - カナロコ

    【1963年11月9日】 鶴見で国鉄二重衝突事故、161人死亡 同じ日に三井三池炭鉱が爆発、458人死亡 - 毎日ニュース

    図説 鶴見事故 (インターネットアーカイブ保存データ)
    (wikiより)

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    京城日報社長、国民新聞副社長。

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    前田青邨筆塚。

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    石井光雄 ( いしい - みつお ) 
    ( 1881 - 1966 ) 大正 - 昭和時代前期の銀行家。


    明治 14年 2月生まれ。


    神戸地裁検事から朝鮮咸鏡農工銀行に転じ、朝鮮銀行をへて朝鮮殖産銀行の理事。


    昭和 2年日本勧業銀行に移り 11年、総裁。


    昭和 41年 3月 17日死去。85歳没。

    三重県出身。

    京都帝大卒。

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    野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日1853年12月21日) - 昭和2年(1927年2月23日)は日本の政治家実業家。号は大塊[1]衆議院議員逓信大臣商工大臣などを務めた。福岡県平民[2]。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である[1]

    来歴・人物
    筑後国三池郡岩津村(のち福岡県三池郡高田町(現みやま市)に地域の豪農だった野田伊七の長男として生まれた[1]。一介の雑貨商であったが、非常に活動的で、炭鉱関連において三井財閥と関係を持ち、また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなった[1]


    明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で初当選。以降10期衆議院議員を務め(5回 - 11回、13回 - 15回)、この間原内閣高橋内閣逓信大臣(大正7年(1918年9月29日 - 大正11年(1922年6月12日)、加藤高明内閣では商工大臣(大正14年(1925年4月17日 -8月2日)を歴任。大正13年(1924年)6月には立憲政友会副総裁となった。昭和2年(1927年)2月23日、死去。


    俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際には同じく同郷の頭山満中野正剛緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。

    栄典位階
    1927年(昭和2年)2月23日 - 正三位[4]

    勲章等
    1920年(大正9年)9月7日 - 勲一等旭日大綬章[5]

    1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[6]

    1927年(昭和2年)2月23日 - 帝都復興記念章[7]

    家族・親族
    野田家
    福岡県三池郡高田町(現みやま市)、東京麻布材木町[2]
    男・俊作[2](福岡県平民[8]、実業家、政治家、衆議院議員福岡県知事

     明治21年(1888年5月生 – 昭和43年(1968年)7月没

      ・同妻・男爵古市公威二女[8]

    ・男・野田秀助[2]

     明治33年(1900年1月[2] – 没

    ・長女・タキノ[9]熊本県松野鶴平に嫁す[9]

    ・二女・ムメ[9](福岡県人大石繁雄に嫁す[9]

    ・三女・トメ[9]三重県士族加藤虎之助に嫁す[9]

    親戚
    古市公威男爵東京帝国大学名誉教授)

    松野鶴平(実業家、政治家、参議院議長

    ・孫・松野頼三(政治家、農林大臣

    ・曾孫・松野頼久(政治家、内閣官房副長官

    出典・脚注
    1. a b c d 野田卯太郎
    2. a b c d e 『人事興信録. 7版』(大正14年)の四
    3. 田中健介柴田徳二郎伝』(PDF)、9頁。2011年6月5日閲覧。
    4. 『官報』第45号「叙任及辞令」1927年2月25日。
    5. 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
    6. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
    7. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
    8. a b 『人事興信録. 7版』(大正14年)の六
    9. a b c d e f 『人事興信録. 7版』(大正14年)の五

    外部リンク
    野田卯太郎 | 近代日本人の肖像
    (wikiより)

    2441  野田大塊

    野田大塊

    2441a

    2441b

    2441c





    前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友

    略歴
    青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。


    晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。


    岐阜県中津川市に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があった(2015年6月に閉館)。青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定された。

    年譜
    1885年(明治18年)1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現・中津川市)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、母たかの次男だった。本名、廉造といった。


    1898年(明治31年) 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。


    1901年(明治34年) 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門


    1902年(明治35年) 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰うことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。


    1907年(明治40年) 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。  


    1911年(明治44年) 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹すゑ(荻江露友)と結婚。


    1912年(明治45年) 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。


    1914年(大正3年) 再興された日本美術院の同人となる


    1915年(大正4年) 朝鮮旅行


    1918年(大正7年) 日本美術院評議員に推挙される


    1919年(大正8年) 中華民国へ旅行


    1922年(大正11年) 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。 


    1923年(大正12年) 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館が所蔵)


    1930年(昭和5年) 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞


    1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作


    1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員に推挙される


    1943年(昭和18年) 満洲・支那旅行


    1944年(昭和19年)7月1日 帝室技芸員に推挙される[2]


    1950年(昭和25年) 文化財保護委員会専門審議会委員に就任


    1951年(昭和26年) 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受けることとなる 


    1955年(昭和30年) 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる


    1956年(昭和31年) 日本美術家連盟会長に就任


    1957年(昭和32年) 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる


    1958年(昭和33年) 日本美術院常務理事


    1959年(昭和34年) 国立近代美術館評議員


    1960年(昭和35年) 訪中日本画家代表団団長


    1962年(昭和37年) 東京芸大名誉教授


    1964年(昭和39年) 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成


    1967年(昭和42年) 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任


    1970年(昭和45年) 皇居長和殿「石橋の間」に1955年(昭和30年)に謹作した壁画「石橋」を加筆。新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作


    1973年(昭和48年) 高松塚古墳壁画模写事業総監修者


    1974年(昭和49年) ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成


    1977年(昭和52年)10月27日 老衰のため逝去(92歳没)。贈従三位

    主な作品
    ・「竹取物語絵巻」 1914年(大正3年) 再興1回院展出展

    ・「清水寺(京名所八題)」紙本墨画淡彩・軸 東京国立博物館 1916年(大正5年) 再興3回院展出展

    ・「花売」 紙本着色・額 東京国立博物館 1924年(大正13年) 再興11回院展出展

    ・「羅馬使節」 三曲一隻 絹本着色・屏風 早稲田大学図書館 1927年(昭和2年) 再興14回院展出展

    ・「西遊記」 紙本墨画淡彩・巻子 MOA美術館 1927年(昭和2年) 再興14回院展出展

    ・「洞窟の頼朝」 二曲一隻 絹本着色・屏風 大倉集古館 1929年(昭和4年) 再興16回院展・ローマ日本美術展覧会出展 重要文化財

    ・「唐獅子」 六曲一双 紙本着色・屏風宮内庁三の丸尚蔵館 1935年(昭和10年) 御大典記念献上画

    ・「観画」 絹本着色・額 京都市美術館 1936年(昭和11年) 改組第一回帝展出展

    ・「阿修羅」 紙本着色・軸 東京芸術大学 1940年(昭和15年) 紀元二千六百年奉祝美術展出展

    ・「おぼこ」 紙本墨画・額 東京国立近代美術館 1944年(昭和19年)

    ・「Y氏像」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1951年(昭和26年) 再興36回院展出展 洋画家安井曾太郎を描いた人物画

    ・「出を待つ」 二曲一隻 1955年(昭和30年)

    ・「浴女群像」 紙本着色・額 滋賀県立近代美術館 1956年(昭和31年) 再興41回院展出展

    ・「お水取」 紙本着色・巻子 平木浮世絵美術館 1959年(昭和34年) 再興44回院展出展

    ・「白頭」 紙本墨画淡彩・額 東京芸術大学 1961年(昭和36年) 再興46回院展出展 喜寿の記念に描いた青邨唯一の自画像

    ・「石棺」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1962年(昭和37年) 再興47回院展出展

    ・「赤い壁(天壇)(中国三部作)」 紙本着色・額 1960年(昭和35年)

    ・「山霊感応」 紙本着色・額 日光二荒山神社 1964年(昭和39年)

    ・「蓮台寺の松蔭」 紙本着色・額 山種美術館 1967年(昭和42年) 再興52回院展出展

    ・「異装行列の信長」 紙本着色・額 山種美術館 1969年(昭和44年) 再興54回院展出展

    ・「腑分」 紙本着色・額 山種美術館 1970年(昭和45年) 再興55回院展出展

    ・「知盛幻生」 紙本着色・額 個人蔵 1971年(昭和46年) 再興56回院展出展

    ・「土牛君の像」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1973年(昭和48年) 再興58回院展出展 日本画家奥村土牛を描いた人物画

    ・「天正貴婦人像(細川ガラシア夫人像)」 紙本着色・額 バチカン美術館 1974年(昭和49年)

    著書
    ・日本の冑 前田青邨スケッチ集 中央公論美術出版 1957

    ・作画三昧 青邨文集 新潮社 1979。秋山光和

    ・前田青邨の歴史画 鹿島出版会 1978。秋山光和監修

    ・新潮日本美術文庫 前田青邨 1998。小著

    主な画集
    ・前田青邨作品集 朝日新聞社 1972

    ・現代日本美術全集15 前田青邨 集英社 1973、新版1980

    ・日本の名画26 前田青邨 講談社 1973

    ・日本の名画15 前田青邨 中央公論社 1975、新版1979

    ・美術特集日本編12 前田青邨 朝日新聞社「アサヒグラフ別冊」 1978

    ・現代日本絵巻全集9・10 前田青邨 小学館 1981-1984

    ・定本前田青邨作品集 鹿島出版会 1981。限定本・2分冊

    ・巨匠の日本画8 前田青邨 学研 1994、新版2004

    脚注
    1. 『秋晴れ 文化の日 文化勲章授与式』「天皇陛下から励ましのお言葉」、前列左から平沼享三、二木謙三、大谷竹次郎、後列左から増本量、前田青邨、和辻哲郎、毎日新聞、1995年11月3日。
    2. 『官報』第5239号、昭和19年7月3日。

    関連項目
    原三渓

    市川團十郎 (11代目)

    守屋多々志

    荒川豊蔵

    東慶寺

    DC-8(Fuji(富士))

    外部リンク
    前田青邨記念大賞

    NPO靫彦・沐芳会

    前田青邨 - NHK人物録
    (wikiより)

    2440  前田青邨

    前田青邨

    2440a

    2440b

    2440c



    高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本小説家詩人

    経歴
    1907年福井県知事阪本釤之助[1]非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性である。


    1908年
    、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、東京市麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。

    1924年東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。

    1925年ダダイスムの雑誌『廻転時代』を創刊する。

    1926年、校友会文芸部委員に就任する。

    1927年
    に一高を卒業[2]東京帝国大学文学部英文学科に入学する。同人雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また

    1928年
    左翼芸術同盟に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。


    1929年、『大学左派』の後身『十月』や『時代文化』の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進んだ。

    1930年に東大を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務する。その後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務する。雑誌『集団』創刊に参加、この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚する。


    1933年
    治安維持法違反の疑いで大森署に検挙される[3]が、「転向」を表明し、半年後に釈放された。妻・愛子は他の男性と失踪し、離婚した。[4]雑誌『日暦』創刊に参加した。


    1935年饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』[5]を『日暦』に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立した。水谷秋子と結婚する。


    1936年、『人民文庫』の創刊に『日暦』同人とともに参加する。また、コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。思想犯保護観察法が施行され、擬似転向者として再調査される。

    1938年、浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める。


    1939年
    、『如何なる星の下に[6]を『文芸』に発表、高い評価を受ける。


    1941年、陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される。戦場にも出たが、鉄兜も帽子もなくしてしまい、心細さの挙句に鉢巻をしたが、「多少は心強くなった、鉄砲玉には何の効果もないだろうが、いくらかは安心感がある。戦場の心理とはおかしなものだ」と、戦後になって海音寺潮五郎に語っている[7]。その後、1944年には中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席している。1945年6月に日本文学報国会参加。


    1950年
    、『胸より胸に[8]を『婦人公論』に発表する。


    戦後は、『わが胸の底のここには』『あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。また晩年は、昭和という時代を描く『激流』『いやな感じ』『大いなる手の影』の連作を発表する。長編などでは他に『都に夜のある如く』『生命の樹』『今ひとたびの』などがある。


    詩人としても活動し、『樹木派』『わが埋葬』、最晩年に『死の淵より』(度々再刊)などを発表する。永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともなった『高見順日記』を著す(『敗戦日記』が度々再刊)。回想記に『昭和文学盛衰史』がある。


    晩年に、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の建設に尽力したが、落成間近の1965年8月17日、食道癌のため放射線医学総合研究所病院で亡くなった。戒名は素雲院文憲全生居士[9]文化功労者が追贈された。勁草書房で「全集」「全日記」が刊行された。

    著書
    ・『起承転々』改造社 1936年

    ・『故旧忘れ得べき』人民社 1936年 のち角川文庫、新潮文庫

    ・『女体』竹村書房 1936年

    ・『虚実 小説集』竹村書房 1937年

    ・『手袋』版画荘文庫 1937年

    ・『描写のうしろに寝てゐられない』信正社 1937年

    ・『流木』竹村書房 1937年

    ・『昨日の黄昏 他九篇』新小説選集 春陽堂 1938年

    ・『人間』竹村書房 1938年

    ・『化粧』青木書店 1939年

    ・『爪髪集』新選随筆感想叢書 第9 金星堂 1939年

    ・『私の小説勉強』竹村書房 1939年

    ・『文芸的雑談』昭森社 1940年

    ・『愛恋風俗』時代社 1940

    ・『如何なる星の下に』新潮社 1940年 のち文庫、角川文庫、講談社文芸文庫

    ・『更生記』昭森社 1940年

    ・『わが饒舌 評論随筆』富士出版社 1941年

    ・『蘭印の印象』改造社 1941年

    ・『ある晴れた日に』河出書房 1941年

    ・『東京暮色』明石書房 1941年

    ・『高見順文芸随感』河出書房 1942年

    ・『諸民族』新潮社 1942年

    ・『ビルマ記』協力出版社 1944年

    ・『東橋新誌 前篇』六興出版部 1944年

    ・『遠方の朱唇 創作集』新紀元社 1946年

    ・『眼で見る愛情』南北書園 1946年

    ・『今ひとたびの 高見順小説集』鎌倉文庫 1946年 のち角川文庫、河出文庫

    ・『流れ藻』丹頂書房 1946年

    ・『日曜と月曜』実業之日本社 1946年

    ・『山の彼方の空遠く 短編集』新生活社(新生活叢書) 1946年

    ・『仮面』青竜社 1947年

    ・『霙降る背景』地光社 1947年

    ・『恋愛年鑑 長篇』虹書房 1947年

    ・『炎と共に』新潮社 1948年

    ・『神聖受胎』永晃社 1948年

    ・『文学者の運命』中央公論社 1948年

    ・『真相』共立書房 1948年

    ・『天の笛 長篇』六興出版社 1949年

    ・『高見順叢書 全4 わが胸の底のここには』六興出版社 1949年-1950年

    ・『インテリゲンチア』池田書店 1951年

    ・『胸より胸に』黄土社書店 1951年 のち角川文庫

    ・『拐帯者』北辰堂 1951年

    ・『朝の波紋』朝日新聞社 1952年 のち角川文庫

    ・『高見順詩集』中村真一郎編 河出書房(市民文庫) 1953年

    ・『この神のへど』大日本雄弁会講談社 1954年

    ・『一囘だけの招待』新潮社 1954年

    ・『各駅停車』毎日新聞社 1954年

    ・『私の文学観』社会思想研究会出版部(現代教養文庫) 1955年

    ・『花自ら教あり』山田書店 1955年

    ・『本日は晴天なり』東方社 1955年

    ・『都に夜のある如く』文藝春秋新社 1955年 のち角川文庫、文春文庫

    ・『罪多い女』角川小説新書 1955年

    ・『駄目な夜』東方社(東方新書) 1955年

    ・『二番線発車』東方社 1956年

    ・『天使の時間』雲井書店 1956年

    ・『湿原植物群落』三笠書房 1956年

    ・『悪女礼讃』酒井書店 1956年

    ・『ひと日わが心の郊外に』三笠書房 1957年

    ・『愛と美と死 エッセイ集』宝文館 1957年

    ・『対談現代文壇史』中央公論社 1957年

    ・『人生の周辺』平凡社 1957年

    ・『愛情列島』角川書店 1957年

    ・『虹の橋』大日本雄弁会講談社 1958年

    ・『エロスの招宴』新潮社 1958年

    ・『昭和文学盛衰史』 文藝春秋新社(全2巻) 1958年 のち講談社、福武書店、角川文庫、文春文庫(全1巻)

    ・『愛のために・青春のために』凡書房 1958年

    ・『生命の樹』講談社 1958年 のち文春文庫(自身の浮気を描いた私小説)

    ・『敗戦日記』文藝春秋新社 1959年 のち文庫、中公文庫

    ・『三面鏡』中央公論社 1959年

    ・『都会の雌雄』講談社 1959年

    ・『完本・高見順日記 昭和二十一年篇』凡書房新社 1959年、「終戦日記」文春文庫

    ・『遠い窓』中央公論社 1960年

    ・『異性読本』角川書店 1960年

    ・『文学的現代紀行』講談社 1961年

    ・『ちょっと一服』朝日新聞社 1961年

    ・『愛が扉をたたく時』講談社(ロマン・ブックス) 1962年

    ・『いやな感じ』文藝春秋新社 1963年 のち角川文庫

    ・『激流 第1部』岩波書店 1963年

    ・『高見順日記』全8巻 勁草書房 1964年-1965年、のち新版+続編(全9巻)

    ・『高見順文学全集』全6巻 講談社 1964年-1965年

    ・『詩集 死の淵より』講談社 1964年 のち文庫、文芸文庫

    ・『わが埋葬』思潮社 1965年

    ・『高見順全集』全20巻 勁草書房 1970年-1974年

    ・『三十五歳の詩人』中公文庫、1977年

    ・『高見順詩集』思潮社・現代詩文庫 1977年

    編著
    ・『眠られぬ夜のために 療友に贈る書』(編)四季社 1950年

    ・『目撃者の証言』(編)青銅社 1952年

    ・『文学に見る日本の川 隅田川』(編)日本週報社 1960年

    詳しいことは「高見 順ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E9%A0%86
    (wikiより)

    2439  高見順

    川端康成(右)とともに(1949年)


    2439a

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    歌人。

    三渓原富太郎の息女。

    2438a

    2438b



    和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。

    人物
    日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。主著の『倫理学』は、近代日本における独創性を備えた最も体系的な哲学書の一つであると言われている。


    西田幾多郎などと同じく日本独自の哲学体系を目指した京都学派の一人として扱われることがある一方で、東京帝国大学文学部倫理学教室教授でもあり、相良亨金子武蔵湯浅泰雄らを始め後進を多く育てた。現在でも高校倫理教科書熊野純彦菅野覚明他編『新倫理』など)では、『風土』の「モンスーン型」や『日本倫理思想史』の「祀る神・祀られる神」といった、和辻倫理学に基づいた記述がなされている。


    姫路市
    の主催で、和辻哲郎文化賞が、(生誕百年記念し1988年度より)毎年優れた著作に与えられている。


    和辻の全蔵書は、1961年に和辻の親友で法政大学教授であった谷川徹三の仲介で法政大学に寄贈された。

    長らく整理されないでいたが、1985年に法政大学図書館長となった浜田義文が中心となって整理が開始され、1994年に「法政大学和辻哲郎文庫目録」がまとめられた。浜田は「和辻文庫の生命は、和辻の読んだ書物への書き込みにあるといって過言でない」と述べている。


    『和辻哲郎全集』は校訂の際、旧字体から新字体、旧仮名遣いから現代仮名遣いへ改められ、読みやすくなった一方で学術的には批判を受けている(苅部直『日本思想史への道案内』など)。

    経歴
    1889年 - 兵庫県神崎郡砥堀村(とほりむら)仁豊野(にぶの)(現:姫路市仁豊野)にて誕生。


    1906年 - 旧制姫路中学校(現:兵庫県立姫路西高校)卒業。


    1909年 - 第一高等学校卒業。

      ・同年、後藤末雄大貫晶川木村荘太谷崎潤一郎芦田均らとともに同人誌、第二次『新思潮』に参加、第一号に載せたのは戯曲「常盤」。以後も、バーナード・ショーの翻訳などをするが、次第に文学から遠ざかる。谷崎の才能に及ばないと感じたからといわれる。


    1912年 - 東京帝国大学文科大学哲学科卒業、同大学院進学。ラファエル・ケーベルを尊敬し、卒論を読んでもらいたいが為に英語で執筆した[注 1]

      静かな環境のもとで卒論に取り組むため、藤沢市(当時は高座郡藤沢町)鵠沼にあった後輩高瀬弥一邸の離れを借りて執筆する。卒論完成と同時に高瀬弥一の妹、照に求婚した。

      ・同年、高瀬照と結婚。阿部次郎との親密な交流が始まる、また安倍能成とも終生交流した。


    1913年 - 紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになる。『ニイチェ研究』を出版。

      ・漱石の『倫敦塔』に強い感銘を受けた和辻は、熱烈な敬慕の情をしたためた手紙を書き送った[1]


    1915年 - 藤沢町鵠沼の妻・照の実家の離れに1918年まで住む。

      この間、別の離れに安倍能成阿部次郎も住み、交流。小宮豊隆森田草平谷崎潤一郎芥川龍之介らの来訪を受ける。


    1916年 - 漱石および岳父高瀬三郎の死。この時期、日本文化史に深い関心を寄せ始める。


    1917年 - 奈良を旅行し、古寺を巡る。


    1918年 - 東京市芝区に転居。


    1919年 - 『古寺巡礼』を出版。


    1920年 - 東洋大学講師


    1921年 - 雑誌『思想』の編集に参画を始める。


    1922年 - 法政大学教授


    1925年 - 京都帝国大学助教授。京都市左京区に転居。


    1927年 - ドイツ留学。(~1928年)


    1929年 - 龍谷大学講師兼務。


    1931年 - 京都帝国大学教授[注 2]


    1932年 - 大谷大学教授兼務、京都大学より文学博士号取得 「原始仏教の実践哲学」。


    1934年 - 東京帝国大学文学部倫理学講座教授。東京市本郷区に転居。


    1943年 - 宮中にてご進講、講題は「尊皇思想とその伝統」。


    1945年 - 雑誌『世界』の創刊に関わる。


    1949年 - 定年退官。日本学士院会員


    1950年 - 日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)。


    1951年 - 『鎖国』で読売文学賞。賞金は倫理学会に寄贈した。


    1953年 - 『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞


    1955年 - 秋に文化勲章受章。


    1958年 - 皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師を務めた。


    1960年 - 心筋梗塞により練馬区南町の自宅で死去。墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺。戒名は明徳院和風良哲居士[3]


    親族
    父親は砥堀村仁豊野(現:姫路市仁豊野)の医師・和辻瑞太郎で、和辻家は代々続く医家の家系であった[4]。瑞太郎の弟に京都大学医学部耳鼻咽喉科初代教授の和辻春次がおり、その子供には大阪商船専務、京都市長造船協会理事長などを務めた和辻春樹(船舶工学者)と、朝日新聞記者の和辻広樹、岡山医大学長・田中文夫に嫁いだ娘のみつがいる[4][5][6]。母親のまさは印南郡神吉村庄屋の娘で、その甥に最高裁判所判事田中二郎がいる[4]


    妻の照子(1889年 - 1977年)は横浜の貿易商・高瀬三郎の娘で、友人高瀬弥一の妹である。結婚時に持参金として照子の父から鵠沼の土地1万坪を贈られる[7]。長女の京子(1914年 - 2013年)は社会学者の尾高邦雄に嫁し、経済学者の尾高煌之助をもうけた。京子は幼少のころ中勘助に偏愛されたことでも知られる。邦雄の兄尾高朝雄東京大学法学部を出たあと、和辻在任中の京都大学哲学科で学んでいる。長男の夏彦(1921年 - 1979年)は武蔵高等学校中学校教師(倫理)[8]目白学園女子短期大学教授などを務めた。夏彦の妻の和辻雅子は夫の没後、東宮女官として美智子妃に仕え[9]、1985年からは宮内庁御用掛や侍従職御用掛として紀宮に仕えた[10]。親類に歌手のロミ山田がいる(ロミ山田の実父・和辻広樹が和辻と従兄弟)。和辻との共訳書もある林達夫は和辻と相婿の義兄弟(妻の妹の夫)である。


    和辻夫妻が暮らした練馬の自宅は神奈川県秦野にあった江戸時代後期の民家を移築したもので、1961年に川喜多長政・かしこ夫妻が購入して鎌倉に再移築し、来日した映画関係者を迎える場として使われた[11][12]。映画『東京画』(1985年)の撮影にも使用された。その後鎌倉市の所有となり、2000年には景観重要建造物に指定され、春夏に公開されている[11]

    業績

    倫理学
    『人間の学としての倫理学』では、西洋哲学の個人主義を批判し、人間という字が本来意味するように、それは間柄的存在であるといい、個人と社会の相互作用が不調に陥ると全体主義・個人主義が台頭すると述べた。『倫理学』も、『人間の学としての倫理学』を受け継ぐもので、日本の倫理学を打ち立てようとするものだったが、戦争が始まると論旨が一貫しなくなり、失敗に終わった。

    倫理思想史
    『日本倫理思想史』では、古代から明治までの倫理思想を描き出した。倫理学は仏教朱子学など体系性を持った外来思想であり、中国の思想になってしまうため、倫理思想という言葉で日本の倫理思想史を題材にした。和辻の持つナショナリズム天皇観が現れている。戦後、和辻は象徴天皇制論を発表した。


    『鎖国ー日本の悲劇』では江戸時代鎖国により西洋の文物を輸入できなかったために、日本の近代化が遅れたとする。

    風土
    『風土』は留学中、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』に示唆を受け、時間ではなく空間的に人間考察をおこなったもの。1931年に刊行。第二次世界大戦後、盛んになった日本文化論の先駆的な作品ともいえる。風土をモンスーン(日本も含む)、砂漠、牧場に分け、それぞれの風土と文化、思想の関連を追究した。『風土』の中に見られる「風土が人間に影響する」という思想は、悪しき環境決定論であるという批判や、天皇制肯定論になっているという批判がある。一方、この風土という考え方こそがグローバリゼーションをとどめるための積極的な方法論である、とする評価(オギュスタン・ベルク)もある。

    詳しいことは「和辻哲郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E
    (wikiより)

    2437  和辻哲郎

    2437a

    2437b





    谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年明治28年〉5月26日 - 1989年平成元年〉9月27日)は、日本哲学者法政大学総長などを務めた。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市保示町)生まれ。京都帝国大学哲学科卒業。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。


    ジンメル
    カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。詩人谷川俊太郎は長男。作曲家谷川賢作は孫。スタイリスト谷川夢佳は曾孫。元愛知県常滑市長の庭瀬健太郎は甥[1][2]林達夫三木清とは同期の友人。

    人物・生涯
    1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現・常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(のち愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年第一高等学校(のち東京大学教養学部)に入り、在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学哲学科へ入学して師事する。1922年に卒業し、同志社大学講師などを経て、1928年法政大学文学部哲学科教授となる。その後、文学部長、能楽研究所長を経て、1963年に法政大学総長に選出され、1965年まで務めた。大学で同僚だった野上豊一郎弥生子夫妻とは深い交流が続いた。文部省の国民芸能文化専門会(1942年設置)の委員も務めた[3]


    論壇には1929年改造』に発表した論文で登場した。『思想』の編集に関わったのち、戦時中は海軍の思想懇談会に参加し[4]、戦後は三年会、世界連邦運動に加わる。『婦人公論』主幹、帝室博物館(現・東京国立博物館)次長、『』編集代理委員を務めた。大正教養主義の流れに立った知識人で、旧制高校出身の学歴貴族たちに大きな影響があった。その流れで、作家阿川弘之とは志賀直哉白樺派関係で、平岩外四とは同郷でもあり終生交流があった。


    また宮沢賢治の研究家でもあり、自ら詩も書いた。賢治については「雨ニモマケズ」を高く評価し、同作に否定的な見解を表明した中村稔の評論に批判をおこなって、中村から反論を受けた(雨ニモマケズ#「雨ニモマケズ」論争を参照)。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動を支えた。晩年に終生の座右の書は『論語』『正法眼蔵』『ファウスト』と述べている。草野牛郎のペンネームを用いて自由律短歌も書いた。


    戦後短期間、博物館次長に在任中に館長の安倍能成和辻哲郎田中耕太郎らと昭和天皇の話し相手をしたことをたびたび述べることで、象徴天皇制を擁護している。『世界』の創立メンバーの一人でもあり、昭和天皇崩御に際しての『世界』の特集号では、ただ一人天皇を称える文章を載せている。


    1960年
    、法政大学文学博士。「茶の美学序説 芸術としての茶の構造」。1967年、叙勲二等瑞宝章。1970年、宮沢賢治[5]を制作するよう高田博厚に依頼[6]する[7]1987年文化功労者


    1989年9月27日未明、虚血性心不全により自宅で死去。94歳没。前日まで職務を行っていた。叙従三位、叙勲一等瑞宝章。弔辞は阿川弘之が読んだ。墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺にある。


    妻・多喜子は立憲政友会の議員だった長田桃蔵の娘[8]。京都帝大時代に音楽会で出会ったことがきっかけで交際に発展し、結婚するまでの2年間に多くの恋文が交わされた[8][注釈 1]。多喜子は徹三より5年早く世を去ったが、没して10年後の1994年、息子の俊太郎は、多喜子が残した恋文の一部を『母の恋文』(新潮社)として出版した[8]

    著書
    単著
    ・感傷と反省 (岩波書店、1925年)

    ・享受と批評 (鉄塔書院、1930年)

    ・生活・哲学・芸術 (岩波書店、1930年)

    ・思想遠近 (小山書店、1933年)

    ・内部と外部 (小山書店、1933年)

    ・文学の世界 (改造社、1934年)

      ・文学入門 (講談社学術文庫、1977年)

    ・展望 (三笠書房、1935年)

    ・文学の周囲 (岩波書店、1936年)

    ・日本人のこころ (岩波書店、1938年、講談社学術文庫、1977年)

    ・東洋と西洋 (岩波書店、1940年)

    ・私は思ふ (中央公論社、1940年)

    ・支那知識人の動向 (東亜研究所、1940年)

    ・哲学的文学 (三笠書房、1941年)

    ・心の世界 (創元社、1942年)

    ・東洋と西洋 続 (近藤書店、1942年)

    ・芸術小論集 (生活社、1943年)

    ・茶の美学 (生活社、1945年)

    ・雨ニモマケズ (生活社、1945年、講談社学術文庫、1979年)

    ・読書について (生活社、1946年)

    ・考えるということ (生活社、1946年)

    ・文化論 (金文堂出版部、1947年)

    ・知識人の立場 (文化書院、1947年)

    ・文芸小論集 (有恒社、1947年)

    ・生の哲学 (角川書店、1947年)

    ・谷川徹三選集 第1-3巻 (斎藤書店、1946年-1947年)

    ・芸術覚書 (有恒社、1949年)

    ・戦争と平和 (雲井書店、1949年)

    ・ヒューマニズム (細川書店、1949年)

    ・第四次元の芸術 宮沢賢治第三論 (弘文堂アテネ文庫)、1950年)

    宮沢賢治 (要書房、1951年)

    ・芸術のみかた (磯部書房、1951年)

    ・読書ノート (三笠書房、1951年)

    ・平和の哲学 世界連邦政府運動のために (社会思想研究会出版部(現代教育文庫)、1953年)

      ・世界連邦の構想 (講談社学術文庫、1977年)

    ・東と西との間の日本 平和共存への道 (岩波新書、1958年)

    ・山と漂泊 (朋文堂、1958年)

    ・調和の感覚 (中央公論社、1958年)

    ・現代知性全集15 谷川徹三集 (日本書房、1958年)

      ・日本人の知性2 谷川徹三 (学術出版会、2010年)

    宮沢賢治の世界 (法政大学出版局、1963年)

    ・人・文化・宗教 (日本経済新聞社、1964年)

    ・哲学と文学への三つの案内 (日本経済新聞社(日経新書)、1964年)

    ・芸術の運命 (岩波書店、1964年)

    ・現代人生論全集4 谷川徹三集 (雪華社、1966年)

      ・私の人生論4 谷川徹三 (日本ブックエース、2010年)

    ・人間の生き方 (講談社現代新書、1971年)

    縄文的原型と弥生.的原型 (岩波書店、1971年)

    ・人間であること 現代日本のエッセイ (毎日新聞社、1972年)

    ・自由人の立場 (平凡社、1975年)

    ・こころと形 (岩波書店、1975年)

    ・哲学案内 (講談社学術文庫、1977年)

    ・黄塵居清賞 私の眼とこころ (小学館、1986年)

    ・生涯一書生 (岩波書店、1988年)

    ・自伝抄 (中央公論社、1989年、中公文庫 1992年)

    ・芸術における東洋と西洋 (岩波書店、1990年)

    ・日本の相撲 (ベースボール・マガジン社、1995年)

    ・愛ある眼 父・谷川徹三が遺した美のかたち (谷川俊太郎編、淡交社、2001年)

    主な編著
    ・読本現代日本文学 志賀直哉読本 (三笠書房、1936年)

    ・志賀直哉の作品 (三笠書房、1942年)

    ・回想の三木清東畑精一共編、文化書院、1948年)

    宮沢賢治詩集 (岩波書店、1950年)

    ・哲学とは何か (瀬川行有共著、法政大学出版局、1953年)

    ・東洋と西洋(毎日ライブラリー、毎日新聞社、1957年)

    ・宇宙と心の世界 (対談湯川秀樹 読売新聞社、1969年)

    ・日本人にとっての東洋と西洋 (福田定良共著、法政大学出版局、1981年)

    ・回想小林勇井上靖共編、筑摩書房、1983年)

    ・九十にして惑う 対談集 (竹井出版、1986年) 湯川秀樹田中美知太郎らとの対談

    ・母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 大正十年八月〜大正十二年七月 (谷川俊太郎編、新潮社 1994年、新潮文庫、1997年)

    翻訳
    カントとゲエテ ジムメル (大村書店、1922年、新版が岩波文庫

    ・映画劇 その心理学と美学(ヒューゴー・ミュンスターバーグ著、大村書店、1924年)久世昂太郎名義[9]

    ・ゲーテ全集 芸術論集 (大村書店、1927年)

    ・西洋哲学史 (シェヴェーグラー 松村一人共訳、岩波文庫(上下)、1949年)

    脚注
    注釈
    1. 林達夫による紹介。谷川徹三『自伝抄』 中公文庫 1992 p.52

    出典
    1. 中日新聞』1995年2月28日付朝刊、県内版、16面、「庭瀬ゆりさん死去」。
    2. 『中日新聞』1996年2月10日付朝刊、知多版、「谷川俊太郎さん 18日にサイン会 常滑の書店」。
    3. 谷川徹三『人事興信録. 第14版 下』
    4. 谷川徹三『自伝抄』 中公文庫 1992 pp.105-107
    5. 遠野高校と宮沢賢治(菊池弥生講演会)”. 岩手県立遠野高等学校. 2020年2月22日閲覧。
    6. 高田博厚著作集Ⅳ. 朝日新聞社. (1985-11-1). p. 109 
    7. 谷川徹三を勉強する会 (2020-02-10). 森下肇. ed. 谷川徹三への手紙 高田博厚書簡集: P.30,45,51,52. 
    8. a b c Who's Who - 同志社女子大学ウェブサイト
    9. [1] 牧野守「映画における京都学派の成立」『アート・リサーチ』4号、2004年

    関連項目
    常滑市立図書館 - 谷川徹三から寄贈された資料による谷川徹三文庫が設置されている

    谷川徹三を勉強する会 - 谷川徹三の息子で詩人の谷川俊太郎の許可を得て、岩波書店から借りている段ボール6箱分の書簡等「谷川徹三資料」を整理し、書簡集や資料集にまとめて公開している。

    外部リンク
    谷川徹三からラッセルへの手紙、その他

    宮沢賢治詩碑(書を書いている)
    (wikiより)

    2436  谷川徹三

    谷川徹三

    2436a

    2436b



    出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年8月22日 - 1981年3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員

    人物
    神戸高等商業学校(現・神戸大学)水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した[1]


    弟・出光計助1966年10月から1972年1月まで第2代社長。長男・出光昭介1981年6月から1993年5月まで第5代社長。主に九州でガソリンスタンドを展開する新出光(資本関係は無かったが出光本体への出資が2005年に決定)の創業者・出光弘とも兄弟関係にあった[2]


    新出光社長の出光芳秀は甥にあたる。甥の妻が推理作家の夏樹静子である[要出典]


    佐三は故郷である福岡県宗像市に在る宗像大社を厚く信仰していた事で知られている[要出典]


    故郷の宗像市に在る宗像大社の再建に貢献した[3][4]

    略歴
    1885年明治18年)8月22日 福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)に誕生。父は藍問屋を営む出光藤六、母は千代。


    1901年(明治34年) 福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。


    1905年(明治38年) 神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学。神戸大学在学中、将来外交官になろうと考えていた。


    1909年(明治42年) 同校卒業。卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。当時同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常だったが、神戸で小麦粉石油・機械油などを扱う従業員3人の酒井商店に丁稚として入店。学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と言われる。


    1911年(明治44年)6月20日 日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私(日田)が金を出したことは他言するな。」と資金6,000円を渡され満25歳で独立。福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・JXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱った。


    1914年大正3年) 南満州鉄道に車軸油の納入成功。


    1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1927年昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。


    1923年(大正12年) 関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。


    1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。


    ・1929年(昭和4年)朝鮮における石油関税改正のために奔走。


    1932年(昭和7年) 門司商工会議所会頭に就任。


    ・1935年(昭和10年)「満州国」の石油専売制に反対。


    1937年(昭和12年)2月 貴族院議員(多額納税)として登院。


    ・1938年(昭和13年)国策会社大華石油設立に反対。


    1940年(昭和15年)3月 出光興産株式会社を設立。


    ・1941年(昭和16年)北支石油協会の設立に反対。


    ・1943年(昭和18年)石油販売法に反対。


    1945年(昭和20年)8月 出光佐三は、終戦の2日後、従業員に「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。


    ・1946年(昭和21年)国際石油カルテル独占を規制することを建言。


    ・1947年(昭和22年)公職追放令該当のため貴族院議員資格が消滅(3月12日)[5]。出光、石油配給公団の販売店に指定される(10月)。出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発(11月)。


    ・1949年(昭和24年)出光興産、元売業者に指定される(10月)。


    ・1950年(昭和25年)出光興産、石油製品の輸入を主張。


    ・1951年(昭和26年)出光興産、日章丸二世を建造。「消費者本位の石油政策」を発表(9月)。


    ・1952年(昭和27年)出光興産、高オクタン価ガソリンを輸入。


    1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化英国と係争中のイランアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港。英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。


    ・1957年(昭和32年)出光興産の徳山製油所、竣工(3月)。


    ・1960年(昭和35年)出光興産、ソ連石油を輸入(4月)。


    1962年(昭和37年) 生産調整に反対し、出光興産、石油業法に反対。石油連盟脱退を決める(1966年(昭和41年)、生産調整・廃止を受けて復帰)。


    ・1963年(昭和38年)出光興産の千葉製油所、竣工(1月)。出光興産、石油化学工業へ進出(4月)。出光興産、石油連盟から一時脱退(11月)。


    ・1966年(昭和41年) 出光興産の社長を退き、会長に就任。


    ・1972年(昭和47年) 出光興産の会長を退き、店主に就任。


    1976年(昭和51年) フランス共和国文化勲章コマンドール受章。


    1981年(昭和56年)3月7日 満95歳で死去。

    その他
    ・小学校の頃から神経症と眼病を患い、読書により自分の頭で考え抜く習慣を身につける。


    皇室を極めて篤く崇敬したので死去した際に昭和天皇が「出光佐三逝く 三月七日 国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」と詠んだ


    ・出光興産一社提供の『題名のない音楽会』であるが、通常30分番組は15分程度で中途にCMが入るところを、佐三の「芸術に中断は無い」との考えに基づき、最初と最後の提供コール前後しかCMは入らず、本編は通しで放送される構成となっている。


    2011年6月20日の出光創業100周年記念日には「日本人にかえれ」の名言の新聞広告が全国紙と一部の地方紙に掲載された。


    ・娘・真子は「父・佐三は徹底した儒教的・家父長的男女観を抱いていて妻と娘4人を「女こども」として軽蔑し、その自立を否定し人格的に抑圧した」と述べている。

    賞詞
    紺綬褒章

    ・勲四等瑞宝章

    ・フランス共和国文化勲章コマンドール

    福岡県宗像郡赤間町名誉町民

    ・福岡県門司市名誉市民

    著書
    ・『四十年間を顧る』 1951年

    ・『わが四十五年間』 1956年

    ・『人間尊重五十年』 春秋社 1962年

    ・『「人の世界」と「物の世界」―四十の質問に答える』 出光興産社長室 1963年

    ・『マルクスが日本に生れていたら』 春秋社 1966年(1972年改訂)

    ・『働く人の資本主義』 春秋社 1969年

    ・『日本人にかえれ』ダイヤモンド社 1971年

    ・『永遠の日本―二千六百年と三百年 出光佐三対談集』 平凡社 1975年

    ・『道徳とモラルは完全に違ふ』 出光興産 1983年

    ・『出光の言葉』 出光興産 1984年

    脚注
    1. 木本正次『士魂商才の経営者出光佐三語録』
    2. 社長ご挨拶|企業情報|新出光 IDEXホームページ”. 2018年4月16日閲覧。
    3. http://www.idemitsu.co.jp/company/history/founder/library/mov1.html
    4. http://rkb.jp/idemitsu/
    5. 『官報』第6051号、昭和22年3月18日。

    参考文献
    ・『私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社, 1980年) - 昭和31年7月日本経済新聞連載

    ・高倉秀二『評伝出光佐三』(プレジデント社, 1990年)

    ・滝口凡夫『決断力 (中)』(日本工業新聞社, 2001年)

    ・佐々木聡編『日本の戦後企業家史-反骨の系譜』(有斐閣選書, 2001年)

    水木楊 『難にありて人を切らず 快商・出光佐三の生涯』(PHP研究所, 2003年)

    ・水木楊 『出光佐三 反骨の言魂』(PHPビジネス新書, 2013年)

    ・出光真子『ホワット・ア・うーまんめいど ある映像作家の自伝』(岩波書店, 2003年)

    高杉良 『虚構の城 完全版』(角川文庫, 2015年)

    関連項目
    福岡県出身の人物一覧

    木本正次 - 出光を題材とした小説『小説出光佐三〜燃える男の肖像』を執筆

    海賊とよばれた男:出光をモデルとした百田尚樹の小説

    宗像大社

    赤間宿 - 佐三の生家がある。

    仙厓義梵

    出光美術館 - 門司分館に、佐三の執務室の一部が移築・展示されている。

    福岡教育大学

    日章丸事件

    外部リンク
    創業者「出光 佐三」(出光興産株式会社WEB)

    出光創業家のサイト
    (wikiより)

    2435  出光佐三

    出光佐三

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    鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (Daisetz Teitaro Suzuki)[2][3][4]1870年11月11日明治3年10月18日) - 1966年昭和41年)7月12日)は、についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教学者」。[要出典]1949年に文化勲章日本学士院会員


    名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[5]


    生前、1963年ノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[6]

    来歴
    石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。


    第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺今北洪川釈宗演参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒ベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという[7]


    1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。


    1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した[8]。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した[8][注 1]1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。


    晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学エール大学ハーバード大学プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。


    1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。


    1966年に、絞扼性イレウス腸閉塞)のため[9]東京築地の聖路加病院で死去、没年95[注 2][注 3][注 4]


    没後は、鈴木学術財団松ヶ岡文庫)が設立された。


    墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎和辻哲郎安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。

    家族
    東京ブギウギ」の作詞者・鈴木アラン(勝)は、大拙とベアトリスの実子とも養子とも言われる。その妻がジャズ歌手の池真理子で、その間に生まれたのがセラピストの池麻耶である[13]

    《霊性の自覚》と《即非の論理》
    大拙は仏教の核心に、霊性の自覚を見出した。大拙の生涯の思索の大部分はその《霊性の自覚》に向けられていたといってもよく、これが普遍性や世界性を持つと確信したので、仏教思想を欧米へも紹介したのである。大拙が見出した仏教の霊性的自覚というのは《即非の論理》の体得である。


    彼の著作群は膨大な量に上るが、その多くが《霊性の自覚》や《即非の論理》を巡るものとしてとらえることができる。たとえば『禅論文集1-3』は、における霊性的自覚つまり悟りの具体相と心理的過程をとらえている。『禅思想史研究第一 盤珪禅』は盤珪の不生禅を霊性的自覚としてとらえなおしたものである。『日本的霊性』は日本における《霊性の自覚》の歴史を解明した書である。『臨済の基本思想』は臨済が唱えた一無位真人のうちに《霊性の自覚》を見出したものである。『浄土系思想論』は浄土思想を《霊性の自覚》の立場から扱ったものである。

    年表
    詳細は鈴木大拙館の略歴を参照[2]
    1887年(17歳) - 石川県専門学校初等中学科卒業。

    1889年(19歳) - 第四高等中学校(現・金沢大学)中退(予科卒業)。

    ・1889年(19歳) - 飯田町小学校教師(英語担当)。

    1890年(20歳) - 美川小学校訓導1891年まで)。

    ・1891年(21歳) - 東京専門学校(現・早稲田大学)中退。

    1892年(22歳) - 帝国大学(現・東京大学)文科大学哲学科選科入学。

    1895年(25歳) - 同修了。

    1909年(39歳) - 学習院講師(英語担当)。

    1909年(39歳) - 東京帝国大学(現・東京大学)文科大学講師(1916年まで)。

    1910年(40歳) - 学習院教授(1921年まで)。

    ・1921年(51歳) - 大谷大学教授[8]1960年まで)。

    1930年(60歳) - 英語論文で大谷大学より文学博士号を取得。題はStudies in the Lankavatara Sutra

    1934年(64歳) - 大谷大学教学研究所東亜教学部部長。

    1939年(69歳) - 夫人ベアトリス・アースキン・レイン死去。

    1945年(75歳) - 鎌倉に松ヶ岡文庫を設立。

    1949年(79歳) - ハワイ大学で講義。日本学士院会員。秋に文化勲章受章。

    1950年(80歳) - プリンストン大学ニューヨーク大学などで講演。ニューヨークに居住する。

    1952年(82歳) - コロンビア大学客員教授。

    1954年(84歳) - 英国・ドイツ・スイスなどで講演。

    1958年(88歳) - 帰国。

    1959年(89歳) - 松ヶ岡文庫で研究生活を送る。

    1966年7月12日(95歳)- 聖路加国際病院にて没する。

    主な著書
    ・『鈴木大拙全集 増補新版』 (全40巻、岩波書店、1999年-2003年)

      ・旧版『鈴木大拙全集』(全32巻、1968-71年、復刊1980-83年)

      ・『禅思想史研究』(全4冊、岩波書店、復刊1987年)

    ・『鈴木大拙禅選集』 (全11巻別巻1[注 5]春秋社、新装版2001年)

    ・『語る大拙 鈴木大拙講演集1 禅者の他力論』、『同 2 大智と大悲』 (書肆心水、2017年)

    ・『日本的霊性』 角川ソフィア文庫(完全版、2010年、解説末木文美士

      ・岩波文庫(解説篠田英雄)、中公クラシックス橋本峰雄校注)、大東出版社(新版2008年)

    ・『浄土系思想論』(法蔵館、新版1999年/岩波文庫、2016年)

    ・『無心ということ』 角川ソフィア文庫(新版2007年)

    ・『禅とは何か』 角川ソフィア文庫(新版2008年)

    ・『一禅者の思索』(講談社学術文庫、1987年)。講演、随想集

    ・『禅の第一義』(平凡社ライブラリー、2011年)。初期代表作

    ・『新編 東洋的な見方』(上田閑照編、岩波文庫、1997年、ワイド版2002年)。随想集

      ・『東洋的な見方』(角川ソフィア文庫、2017年)。解説中村元・安藤礼二

    ・『東洋の心』(春秋社、新版2011年) ISBN 4393133994 - 講演集・同社で多数刊。

    ・『東洋的一』(大東出版社、新版2010年) ISBN 4500007504、同社で多数刊。

    ・『仏教の大意』(角川ソフィア文庫、2017年、解説若松英輔/中公クラシックス、2017年、解説山折哲雄)。講義録

    ・『鈴木大拙の世界』(燈影撰書15:燈影舎ISBN 4924520306。随想集

    ・『禅のつれづれ』(河出書房新社、2017年)。随想集、新書版

    主な英文著作(訳書新版)
    ・『禅と日本文化 正・続』(北川桃雄訳、岩波新書)- 後者は旧かな版

    ・『禅』(工藤澄子訳、ちくま文庫、ワイド版2017年) ISBN 4480021574

    ・『禅学入門』(講談社学術文庫、2004年)- 英文著作を自ら訳した。

    ・『禅に生きる 鈴木大拙コレクション』(守屋友江編訳、ちくま学芸文庫、2012年、編年体で書簡併録) ISBN 4480094458

    ・『禅学への道』(坂本弘訳、アートデイズ、2003年) ISBN 4861190126

    ・『神秘主義 キリスト教と仏教』(坂東性純・清水守拙訳、岩波書店、2004年/岩波文庫、2020年)

    ・『禅堂生活』(横川顕正訳、岩波文庫、2016年) ISBN 4003332334

    ・『大乗仏教概論』(佐々木閑訳、岩波書店、2004年/岩波文庫、2016年) ISBN 4003332342 

    ・『禅仏教入門』(増原良彦訳、春秋社、新版2008年/中公クラシックス、2017年)- 元版「選集7」

    ・『禅による生活』(小堀宗柏訳、春秋社、新版2008年)- 元版「選集3」

    ・『真宗入門』(佐藤平訳、春秋社、新版2011年)

    ・『禅八講 鈴木大拙最終講義』(角川学芸出版〈角川選書〉、2013年、常盤義伸編/酒井懋訳) ISBN 404703522X

    ・『鈴木大拙 コロンビア大学セミナー講義』(重松宗育・常盤義伸編訳、方丈堂出版(上・下)、2017年)

    CD
    ・『CD版 禅者のことば 鈴木大拙講演選集』(全6巻:アートデイズ、2003年)

    ・『禅と科学』、『最も東洋的なるもの』、『禅との出会い―私の自叙伝』

      鈴木大拙講演(新潮CD:新潮社、新版2007年)。旧版は同・カセット

    ・『CDブック 大拙 禅を語る-世界を感動させた三つの英語講演』

      (アートデイズ、2006年、重松宗育監修・日本語訳) ISBN 4861190665

    ・『CD版 禅 東洋的なるもの 鈴木大拙講演集』(全4巻:アートデイズ、2017年)

    詳しいことは「鈴木大拙ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99
    (wikiより)

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    鈴木大拙

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    安宅 弥吉(あたか やきち、1873年4月25日 - 1949年2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙パトロン的存在としても知られる[1]


    長男の安宅英一神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子1925年1926年全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。


    弥吉の創業した安宅産業は三菱商事三井物産伊藤忠商事丸紅住友商事日商岩井トーメンニチメン兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。しかし弥吉の死後、同族経営の弊害が現れるなどし、1977年には安宅産業破綻として伊藤忠商事及びメインバンクの住友銀行協和銀行の主導で伊藤忠商事との間で吸収合併がなされ、消滅することになった。

    来歴・人物
    1890年当時、東京で仕入れをしていた金沢の小間物商・國本栄作に連れ立って同年3月降雪の親不知(現新潟県糸魚川市)を草履を履きて徒歩で上京。ちなみに後(1922年12月27日付)に本人より國本家へ礼状と金杯が送られている。1895年7月東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。

    実業家として
    高商を卒業した1895年に日本海陸保険株式会社(1901年解散)にいったん入社するが、貿易商を志して同年10月に日下部商店(後破綻)へ入社、香港支店(現地では日森洋行という商号を使用した)責任者となる。1901年香港支店(日森洋行)の共同経営者となる。1904年日下部商店本店の破綻に伴い退店。帰国し、安宅商会(後の安宅産業)を設立した。1907年大阪羊毛社長、1935年大阪商工会議所会頭、1936年南満州鉄道(満鉄)監事。


    1935年には故郷金沢市の大野湊神社拝殿を寄贈している。1939年貴族院議員(1946年5月14日辞職[2])。

    1940年
    勲四等瑞宝章受章。



    1942年6月に安宅産業社長を退任し、相談役に就任。

    教育家として
    高商の先輩にあたる平生釟三郎による財団法人甲南学園(現学校法人甲南学園)の設立に協力し甲南学園の理事に就任した他、1920年には甲南高等女学校(現学校法人甲南女学園甲南女子中学校・高等学校甲南女子大学)を設立、1926年から1946年まで同第2代理事長。


    久徴館(旧加賀藩主前田家が石川出身者支援のために東京の本郷区駒込西片町に建てた寄宿舎[3])で居を共にした鈴木大拙に対し、「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援し、松ヶ岡文庫の設立にも尽力した[1]。同文庫の入り口には、「自安」(安宅のこと)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。

    晩年・死後
    1943年6月に脳出血で倒れて以降、自宅静養が続いていたが、1949年2月5日に75歳10ヶ月で死去した。


    遺骨は鈴木大拙ゆかりの鎌倉市東慶寺、故郷である金沢市の本竜寺、ならびに西宮市の海清寺の3ヶ所に分骨され、それぞれに墓が立てられている。


    兵庫県神戸市東灘区住吉本町(当時の住吉村)にあった邸宅跡地は、野村不動産及び三井不動産によりマンション開発がなされ、2005年から「住吉本町レジデンス」(11階建て、総戸数172戸)として販売開始となった。

    経済団体活動
    ・1935年 大阪商工会議所会頭

    受賞等
    ・1940 勲四等瑞宝章

    脚注
    1. a b 鎌倉文学散歩安宅夏夫、松尾順造、保育社, 1993
    2. 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
    3. 安宅弥吉『大拙の風景: 鈴木大拙とは誰か』岡村美穂子, 上田閑照、燈影舎, 1999/06

    関連項目
    大阪市立東洋陶磁美術館 - 安宅コレクションを継承


    阪神間モダニズム
    (wikiより)

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    安宅弥吉


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    川田 順(かわだ じゅん、1882年明治15年)1月15日 - 1966年昭和41年)1月22日)は、歌人実業家住友総本社常務理事。


    漢学者川田甕江の三男。女優・歌手の佐良直美は従曾孫娘。

    来歴・人物
    東京市浅草区三味線堀生まれ。府立四中一高を経て、1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学では当初文科文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。


    元来、住友では中途で外部の官学出身者を引き抜いて採用していたが、1907年(明治40年)に新卒の第1期定期採用がスタートし、川田ら東大法科出身者は7名、京大法科出身者が5名の計12名が入社した。1930年(昭和5年)に理事就任後、同年一足飛びで常務理事に就任、1936年(昭和11年)、小倉正恆の後任として住友の総帥たる総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職した[1]。その間佐佐木信綱門下の歌人として「新古今集」の研究家としても活躍。1942年4月に歌集『鷲』『国初聖蹟歌』で第1回帝国芸術院賞受賞[2]。1944年に朝日文化賞受賞。戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめた。


    1939年、和子夫人を脳溢血で亡くす。1944年から、元京都帝国大学経済学部教授・中川与之助夫人で歌人の鈴鹿俊子(中川夫妻は既に3子をもうけていた)の作歌指導にあたる。川田と中川は旧知の間柄であったが、俊子に「新古今集」研究の手伝い等をつとめてもらう中で、川田と俊子の交際は人目を忍ぶ仲へと発展、俊子との仲は中川の知るところともなる。川田は俊子との別れを中川に誓うが、結局逢瀬に再び身をやつすこととなり、1948年8月、中川夫妻は離婚に至る。しかし川田は自責の念に苛まれたことなどから、同年11月30日に家出、12月1日に亡妻の墓前で自殺を図った。一命をとりとめたが、川田が家出の際に谷崎潤一郎たち友人に宛てて遺書を、新聞社に告白録などをそれぞれ送っていたことから、自殺未遂の顛末が報道され、俊子との交際が公になり、いわゆる“老いらくの恋”として騒がれることとなる。翌49年に川田は俊子と結婚、再婚後は京都から神奈川県に転居、俊子の2人の子を引き取って同居生活を送った。1963年日本芸術院会員。1966年1月22日、全身性動脈硬化症のため東京大学医学部附属病院で死去。戒名は泰順院殿諦道博文大居士[3]


    京大教養部教授(英語)の川田周雄は養子。従曾孫佐良直美がいる。

    著書
    ・『伎芸天 歌集』竹柏会 (心の華叢書) 1929

    ・『陽炎』竹柏会(心の華叢書) 1930

    ・『青淵』竹柏会(心の華叢書) 1930

    ・『鵲 満鮮歌鈔』改造社 1931

    ・『山海経』白帝書房(心の華叢書) 1932

    ・『新古今集の鑑賞』立命館出版部 1932

    ・『立秋』改造社 1933

    ・『利玄憲吉岩波書店 1935

    ・『旅雁』改造社 1935

    ・『山海居歌話』非凡閣 1936

    ・『日光』改造社 1936

    ・『俊成定家西行人文書院 1936

    ・『晩来抄 自選歌文』第一書房 1937

    ・『山海居閑話』人文書院 1938

    ・『源実朝 歴代歌人研究 第8巻』厚生閣 1938

    ・『宗良親王 吉野朝柱石』第一書房 1938

    ・『高岳』河出書房 1939

    ・『歴代秀吟百首』三省堂 1939

    ・『幕末愛国歌』第一書房 1939

    ・『吉野朝の悲歌』第一書房 1938-39

    ・『西行』創元社 1939

    ・『寒窗記』第一書房 1940

    ・『鷲』創元社 1940

    ・『西行研究録』創元社 1940

    ・『夕陽と妻』甲鳥書林 1940

    ・『評釈日本歌集』朝日新聞社 1941

    ・『藤原定家』創元社 1941

    ・『国初聖蹟歌』甲鳥書林 1941

    ・『愛國百人一首』大日本雄辯會講談社 1941

    ・『新古今論抄』全国書房 1942

    ・『完本川田順歌集』朝日新聞社 1942

    ・『史歌熱帯作戦』八雲書林 1942

    ・『史歌太平洋戦』八雲書林 1942

    ・『歴史と詩歌』全国書房 1942

    ・『偶然録』湯川弘文社 1942

    ・『戦国時代和歌集』甲鳥書林 1943

    ・『史歌南北作戦』甲鳥書林 1943

    ・『西行の伝と歌』創元社 1944

    ・『史歌大東亜戦』養徳社 1944

    ・『寸歩抄』生活社 1945

    ・『細川幽斉』甲文社 1946

    ・『読書余情』八雲書店 1946

    ・『香雲 詩集』創元社 1946

    ・『枯草録』全国書房 1946

    ・『寒林集』創元社 1947

    ・『山海抄』甲文社 1947

    ・『孤悶録』朝日新聞社 1949

    ・『住友回想記』正続 中央公論社 1951-53

    ・『川田順全歌集』中央公論社 1952

    ・『東帰』長谷川書房 1952

    ・『源三位頼政春秋社 1958

    ・『葵の女 自叙伝』講談社 1959

    ・『女性の愛の歌 「万葉集」-「みだれ髪」』川田俊子共著 協同出版 1966

    ・『川田順遺稿集香魂』甲鳥書房 1969

    ・『春の雪』協同出版 1973

    ・『宿命』短歌新聞社 1986

    ・『羽族の国 思草(佐々木信綱歌集)評釈』短歌新聞社 1994

    脚注
    1. a b 『行動する異端: 秦豊吉と丸木砂土』森彰英、ティビーエスブリタニカ, 1998、p88-89
    2. 山口日太郎『メガバンク学閥人脈』新風舎、2006年、167頁。
    3. 『朝日新聞』1942年4月14日(東京本社発行)朝刊、3頁。
    4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)107頁

    参考文献
    辻井喬『虹の岬』(中央公論社) - 恋愛事件を題材とした小説(1999年に映画化、川田順:三國連太郎

    ・鈴鹿俊子『黄昏記 回想の川田順』短歌新聞社 1983

    ・川田順ノート 鈴木良昭 教育出版センター 1991

    外部リンク
    川田順:作家別作品リスト - 青空文庫

    吉井勇と川田順
    (wikiより)

     京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30・法然院にも墓所が有ります。

    0402 川田順

    川田 順

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    2432b



    貧者に無料の仁術を施した人。

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    太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の歌人国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。

    生涯
    長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首和歌を教えられる。


    高等小学校卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山浅井洌高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。同級生に島木赤彦伊藤長七がいる。1898年(明治31年)に卒業後、東筑摩郡山辺尋常高等小学校訓導を経て、和田村尋常高等小学校校長に赴任する。この頃、窪田空穂と親交を持つようになり、空穂らと和歌同好会「この花会」を結成。1902年明治35年)歌集『つゆ艸』を発表。1903年(明治36年)、松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に転任。1905年(明治38年)には久保田柿人(赤彦)との合同歌集「山上湖上」を刊行。1906年(明治39年)、文部省主催の日露戦争戦跡見学団に加わり、全国の教育団体とともに満洲朝鮮を旅行する。1907年(明治40年)には信濃毎日新聞の歌壇選者となる。


    1908年(明治41年)、女学校を辞して上京四谷霞ヶ丘町を経て西大久保に転居し、吉江喬松日高只一と同居する。日本歯科医専(現・日本歯科大学)の倫理科教授となる。1909年(明治42年)、原町に転居し、同郷で「この花会」会員であった有賀みつ(四賀光子)と結婚。妻みつは会津高等女学校(現・福島県立葵高等学校)に勤務していたため、翌年まで別居していた。この頃、親族の太田喜志子が寄宿しており、水穂宅を訪れた若山牧水と知り合い、後に結婚することとなった。牧水との親交は深く、1913年大正2年)の第二期『創作』発刊に助力した。


    1915年(大正4年)歌誌『潮音』を創刊、主宰となる。この際に牧水の助力を受けた。歌論や古典研究にも力を注いだ。1916年(大正5年)、養嗣子に兄・嘉曾次の三男・兵三郎を迎えた。後の歌人で漢文学者の太田青丘である。この頃から名古屋新聞選歌を担当。1920年(大正9年)阿部次郎安倍能成幸田露伴小宮豊隆和辻哲郎などと「芭蕉研究会」を結成。『潮音』内で連歌を流行させるなど、松尾芭蕉の文芸を短歌の世界に取り込んだ。これを批判した斎藤茂吉との間に「病雁論争」が起こり激しい対立を招いた。


    1934年昭和9年)神奈川県鎌倉市扇ガ谷に山荘を構える。以後はここを中心に創作活動を行い、「古事記」「万葉集」などの古典研究に傾倒し始める。1939年(昭和14年)一家で鎌倉に移住。1940年(昭和15年)、名誉会員として所属していた「大日本歌人協会」の解散勧告を斎藤瀏吉植庄亮と連名で出す。以後は大政翼賛へとなだれ込み、「愛国百人一首」の選歌を担当するなど戦争協力に向かう。1945年(昭和20年)故郷に疎開。

    1948年(昭和28年)、日本芸術院会員に選ばれる。1955年(昭和30年)死去。享年79。北鎌倉東慶寺に葬られる。法号は潮音院杳荘水穂居士

    著書
    ・つゆ艸(1902年)

    ・山上(1905年)

    ・『新訳伊勢物語』博信堂 1912 

    ・『紀記歌集講義 附・紀記万葉以外の上代の歌』洛陽堂 1922

    ・雲鳥 歌集(1922年)

    ・『紀記歌集講義 附・上代歌謡解』共立社 1926 

    ・『芭蕉俳諧の根本問題』岩波書店 1926 のち名著刊行会 

    ・『和歌俳諧の諸問題』共立社 1926 

    ・『冬菜 歌集』共立社 1927 

    ・『万葉百首選評釈』主婦之友社 1928

    ・『芭蕉連句の根本解説』岩波書店 1930 のち名著刊行会 

    ・『日本和歌読本』立命館出版部 1933 

    ・鷺鵜 歌集(1933年)

    ・『現代歌論歌話叢書 第2 (太田水穂篇)』改造社 1935 

    ・『神々の夜明 古事記の地上展開』人文書院 1940 

    ・『新選太田水穂集』新潮社 新潮文庫 1940 

    ・『螺鈿 歌集』人文書院 1940

    ・『和歌上達の書』人文書院 1941 

    ・『太田水穂選歌集並に批評』京都印書館 1944

    ・『古事記の開顯 神々の夜明』人文書院 1944

    ・『流鶯 歌集』晃文社 1947 

    ・『和歌史話』京都印書館 1947 

    ・『花鳥余論』講談社 1948

    ・『風雅秘帖』人文書院 1948 

    ・『日本和歌史論 中世篇』岩波書店 1949

    ・『日本和歌史論 上代篇』岩波書店 1954

    ・『老蘇の森 歌文集』潮音社 1955

    ・『太田水穂全集』全10巻 太田五郎等編 近藤書店 1957-59 

    ・『太田水穂全歌集』太田青丘編 短歌新聞社 1984 

    共編著
    ・『刈萱集 潮音歌選』潮音社 1925

    ・『初ざくら 潮音歌選』潮音社 1928 

    ・『錦木 潮音第四歌選』潮音社 1935

    ・『和歌評釈選集 第3巻 新古今集名歌評釈』四賀光子共著 非凡閣 1935

    ・『銀河 潮音第五選歌』潮音社 1939

    ・『かちどき』選 古今書院 1943 

    ・『寒梅集』潮音社 1948

    ・『双飛燕 歌集』四賀光子合著 長谷川書房 1952

    参考文献
    ・「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年

    ・「異端の桜 太田水穂研究のために」(森本善信 日本図書刊行会 2005年ISBN 4823107926
    (wikiより)

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    野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本英文学者能楽研究者。臼川(きゅうせん)と号する。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者[1]

    来歴・人物
    大分県臼杵市出身。臼杵中学第一高等学校を経て1908年東京帝国大学文学部英文科を卒業。同級生に安倍能成藤村操岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。


    東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる[1]1909年法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平内田百閒井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職[2])。1939年に文学博士の学位を受ける[1]。終戦直後の1946年に法政大学総長に選ばれ、戦争で被害を受けた大学の復興にあたった。総長在任中の1950年に死去。

    バーナード・ショーなど英語演劇の研究と紹介を行う傍ら、能楽の研究と海外への紹介にも尽力した。1938年には日英交換教授として外務省から派遣され、ケンブリッジ大学などで世阿弥を講義し、自ら監修した能としては初のトーキー作品『葵上』を紹介して反響を呼んだ。岩波文庫で世阿弥や謡曲の校訂版を、岩波新書で『能の話』を出版したほか、没後、収集した資料を基にして「野上記念法政大学能楽研究所」が作られた。また近年書肆心水で、能楽関連の『野上豊一郎批評集成』が刊行されている。

    家族・親族
    妻は同郷の小説家・野上弥生子。長男はイタリア文学者京大教授の野上素一。次男は物理学者・東大教授の野上茂吉郎。その妻・正子は高野岩三郎・バルバラ夫妻の三女。三男は東京大学教授・物理学者の野上耀三。その妻・三枝子は市河三喜・晴子(渋沢栄一の孫)夫妻の一人娘。哲学者長谷川三千子は耀三の娘である。

    著書
    ・『巣鴨の女』野上臼川 春陽堂 1912年

    ・『能 研究と発見』岩波書店 1930年

    ・『能の再生』岩波書店 1935年

    ・『世阿弥元清』創元社 1938年

    ・『草衣集』相模書房 1938年

    ・『翻訳論 翻訳の理論と実際』岩波書店 1938年

    ・『能の話』岩波新書 1940年

    ・『クレオパトラ エジプトの王たちと女王たち』丸岡出版社 1941年 のち冨山房百科文庫

    ・『西洋見学』日本評論社 1941年

    ・『能の幽玄と花』岩波書店 1943年

    ・『能面論考』小山書店 1944年

    ・『太郎冠者行状』生活社 1946年

    ・『謡曲鑑賞』目黒書店 1946年

    ・『大臣柱』能楽書林 1947年

    ・『シェバの女王』東京出版 1947年

    ・『花伝書研究』小山書店 1948年

    ・『エヂプトの驚異』要書房 1948年

    ・『観阿弥清次』要書房 1949年

    ・『バーナード・ショー』東京堂 1949年

    ・『能とは何か 野上豊一郎批評集成』書肆心水 2009年

    共著編
    ・『朝鮮台湾海南諸港』野上弥生子共著 拓南社 1942年

    ・『能二百四十番 主題と構成』(編)丸岡出版社 1943年

    ・『謡曲全集』(編)全6巻 中央公論社 1949年-1951年



    翻訳・校訂
    バーナード・ショオ『結婚論』新潮社 1917年

    ・『バーナード・ショオ氏の結婚と恋愛に関する常識的意見』新潮社 1917年

    ピエエル・ロティ『お菊さん マダム・クリザンテエム』新潮社 1923年 のち岩波文庫

    ヴエデキント春のめざめ 少年悲劇』岩波書店 1924年 のち文庫、角川文庫

    ジエーン・オースチン高慢と偏見』国民文庫刊行会 1926年

    世阿弥花伝書』岩波文庫 1927年

    ヂョナサン・スウィフトガリヴァの旅』国民文庫刊行会 1927年 のち岩波文庫

    ・『マリ・バシュキルツェフの日記』国民文庫刊行会 1927年-1928年

    杉田玄白蘭学事始』岩波文庫 1930年

    ・世阿弥『能作書・覚習条条・至花道書』岩波書店 1931年

    ・バアナアド・ショウ『聖女ヂョウン』岩波文庫 1932年

    ・世阿弥『申楽談義』岩波文庫 1934年

    ・『謡曲選集 読む能の本』岩波文庫 1935年

    ・『謡曲全集』第1至6巻 中央公論社 1935年-1936年

    ・『能面』 岩波書店 1937年

    シェイクスピアマクベス』岩波文庫 1938年

    デフォーロビンソン・クルーソー』岩波文庫 1946年-1947年

    脚注
    1. a b c 野上豊一郎『人事興信録』第13版、昭和16
    2. 法政大学 『法政大学と戦後五〇年』 2004年、8-9頁

    関連項目
    法政大学野球部 - 2代目部長に就任

    外部リンク
    Vol.66 野上豊一郎博士の遺品法政大学

    野上記念法政大学能楽研究所

    野上豊一郎の能楽研究 - 法政大学学術機関リポジトリ

    野上豊一郎 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所

    野上 豊一郎:作家別作品リスト - 青空文庫

    能:研究と発見 著作権切れの為全文閲覧可。google books.
    (wikiより)


    2429  野上豊一郎

    野上豊一郎

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    野村洋三 ( のむら - ようぞう ) 
    ( 1870 - 1965 )

    明治 - 昭和時代の実業家。


    明治 3年 1月 20日生まれ。


    27年横浜に古美術商サムライ商会を開業。


    大正 15年ホテル・ニューグランド設立と同時に取締役、昭和 13年会長。


    横浜商工会議所会頭などもつとめた。


    昭和 40年 3月 24日死去。95歳没。


    美濃 ( みの )( 岐阜県 ) 出身。東京専門学校 ( 現早大 )卒。

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    安倍 能成(あべ よししげ、1883年明治16年)12月23日[1] - 1966年昭和41年)6月7日)は、日本哲学者教育者政治家法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員文部大臣貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。

    経歴
    医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校[3]から第一高等学校[4]を経て、東京帝国大学文科大学へと進む(ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである)。


    在学中、夏目漱石波多野精一高浜虚子の影響を受けた。同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と1912年大正元年)に結婚した[5]。また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年は岩波書店の経営に「哲学叢書」の編集者として関与し[6]、岩波の没後には、公式伝記も執筆した。


    1906年
    (明治39年)、東京帝国大学1年生時に、友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬して師事した。「ホトトギス」などに文芸評論を発表し1911年(明治44年)には阿部次郎ら4人の合著による「影と声」を刊行する[1]小宮豊隆森田草平・阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで「漱石門下の四天王」と称された。鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。漱石が修善寺の大患(1910年)に陥った時、安倍たちが駆けつけると、来たからには「あんばいよくなる」と言われたとの挿話があった。


    帝国大学在学当時の哲学科同期生には伊藤吉之助小山鞆絵宮本和吉らがいた。同学卒業[7]後、朝日新聞自然主義文学批判の文芸評論を手がける一方[8]1913年(大正2年)に「予の世界」を刊行してからは哲学に活動の場を移し、「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを発表した[1]。安倍は特にルドルフ・オイケンの思想を日本に紹介し、この思想は大正期の理想主義思潮の形成に影響を与えた[8]。また、この期間には女子英学塾日蓮宗大学慶應義塾大学、一高の各講師、法政大学教授を歴任、1924年(大正13年)から1926年(大正15年)にかけてヨーロッパへ留学している[1][8]。帰国後、京城帝国大学教授となり[9]朝鮮の文化を詳細に検討し、日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている。1940年(昭和15年)に、母校一高校長となり[10]名校長と謳われた[11]。その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象になったとされている。


    戦後の1946年(昭和21年)、幣原改造内閣文部大臣に就任するも、数箇月間務めたのちに辞任した[12]。在職中の第一次アメリカ教育使節団の来日歓迎挨拶では、アメリカが力でなく「正義と真理」によって日本に臨むよう申し入れている[11]。文相退任後も、帝室博物館総長・国立博物館館長を務めるかたわら、教育刷新委員会委員長として[13]学制改革教育基本法制定など教育制度改革に尽力したほか、国語審議会会長として当用漢字表現代かなづかいの制定を推進した(なお後に「新仮名としたのは一世一代の過ちであった」と悔恨。国語学者の山田孝雄から「一世一代の過ちですむか」と叱責されたという)。同時期に新制学習院院長となり、没時まで在任した。


    また平和運動にも参画し、岩波書店の『世界』創刊期の代表責任者となり、一方で1951年(昭和26年)結成の平和問題談話会に発起人として参加、代表を務めた[6]。戦前・戦後を通じて一貫した自由主義者であり、戦前の軍国主義に対する批判のみならず、戦後の社会主義への過大な評価に対しても批判的な態度を取った。太平洋戦争後の平和条約締結問題では全面講和論中立主義を説き、世論に大きな反響をもたらした[6]


    1966年(昭和41年)6月7日、デューリング病(疱疹状皮膚炎)に顆粒白血球減少症を併発し、東京都文京区本郷順天堂医院で没[14]。享年82。戒名「慈仙院学堂能成居士」。墓地は東慶寺神奈川県鎌倉市山ノ内、北鎌倉駅近く)にある[15]

    係累
    実弟の安倍恕(はかる)は裁判官で、司法研修所所長などを歴任。同じく裁判官で弁護士に転じた安倍晴彦は恕の次男。


    チャタレイ裁判で被告人のひとりとなった小山書店店主・小山久二郎(おやまひさじろう)も能成の甥にあたる。

    略歴
    1902年(明治35年) 旧制第一高等学校入学

    1909年(明治42年) 東京帝国大学文科大学哲学科卒業

    1920年(大正9年) 法政大学教授

    1926年(大正15年) 京城帝国大学教授

    1940年(昭和15年) 旧制第一高等学校校長

    1945年(昭和20年) 貴族院議員(12月)

    1946年(昭和21年) 文部大臣(1月 - 5月)、学習院院長(10月 - 没まで)

    1957年(昭和32年)『岩波茂雄伝』で読売文学賞(評論・伝記賞)受賞[1]

    ・1966年(昭和41年) 死去。叙正三位、賜銀杯一組

    栄典
    1945年(昭和20年)5月17日 - 勲二等瑞宝章[16]

    1964年(昭和39年)11月3日 - 勲一等瑞宝章

    著書
    ・『予の世界』東亜堂書房、1913

    ・『無用語』日月社、1914

    ・『西洋古代中世哲学史』岩波書店、1916、「哲学叢書5」同、1949

    ・『西洋近世哲学史』岩波書店、1917、「哲学叢書10」同、1948

    ・『カントの実践哲学』岩波書店、1924/勁草書房、1949、新版1979

    ・『思想と文化』高陽社、1924

    ・『山中雑記』岩波書店、1924

    ・『青丘雑記』岩波書店、1932

    ・『ギリシヤとスカンデイナヰヤ』小山書店、1933

    ・『静夜集』岩波書店、1934

    ・『スピノザ 倫理学』「大思想文庫10」岩波書店、1935、復刊1985

    ・『草野集』岩波書店、1936

    ・『孟子荀子』「大教育家文庫2」岩波書店、1937、復刊1984

    ・『朝暮抄』岩波書店、1938

    ・『青年と教養』岩波書店、1940

    ・『時代と文化』岩波書店、1941

    ・『自然・人間・書物』岩波書店、1942

    ・『巷塵抄』小山書店、1943

    ・『西遊抄』小山書店、1944

    ・『戦中戦後』白日書院、1946

    ・『槿域抄』斎藤書店、1947

    ・『一日本人として』白日書院、1948

    ・『西洋道徳思想史』角川書店「角川全書」、1948

    ・『能楽雑叢』斎藤書店、1948

    ・『文化・思想・哲学』勁草書房、1949

    ・『私の歩み』要書房、1949

    ・『安倍能成選集』(全5巻)、小山書店、1948-49/日本図書センター(復刻版)、1997

    ・『平和への念願』岩波書店、1951

    ・『一リベラリストの言葉』勁草書房、1953

    ・『岩波茂雄傳』岩波書店、1957、復刊1993ほか、新装版2012
    ・『戦後の自叙傳』新潮社、1959、再版1966/「人間の記録149」日本図書センター、2003

    ・『現代知性全集(1) 安倍能成集』日本書房、1959、新版1965

    ・『人生をどう生きるか』講談社現代新書、1966

    ・『我が生ひ立ち 自叙傳』岩波書店、1966[17]

    ・『涓涓集』岩波書店、1968

    詳しいことは「安倍能成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
    (wikiより)

    2427  安倍能成

    安倍能成

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    西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日明治3年4月19日) - 1945年昭和20年)6月7日)は、日本を代表する哲学者である。京都大学名誉教授京都学派の創始者。学位は文学博士(京都大学・1913年)。

    経歴
    加賀国河北郡森村[1](現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となり、『善の研究』(弘道館、1911年1月)に結実、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。


    哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した北条時敬は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。柏田盛文校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り、教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。


    自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は、18年間、教鞭を執り、三木清西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。


    戦時中の晩年、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だった事や、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で、「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。


    鎌倉姥ケ谷の自宅にて、尿毒症により急逝、北鎌倉の東慶寺で葬儀が行われた。法名は曠然院明道寸心居士。その際鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。

    ゆかりの場所など
    ・石川県かほく市(出生地)[2]

      ・宇野気駅前に銅像が建てられている(1990年建立)。

      ・宇野気駅近くの本楽寺付近(3歳から13歳頃まで住んでいた家の跡)に「生い立ちの碑」がある。

      ・宇野気駅から約1km南東にある長楽寺付近に出生地の石碑と説明板がある。


    ・山口市

      ・1897年9月から1899年6月までの間、西田幾多郎は山口で暮らした。山口時代に住んだ最後の住宅が山口市下竪小路45番地にいまもあり、2階が当時の姿をよく残している。現在、山口大学の研究者有志による哲学書の読書会が定期開催されている。

    ・住宅の1階には辻村公一の蔵書を保管している。

    ・住宅の外壁に説明板がある。


    ・京都市

      ・西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。

      ・西田幾多郎が1912年から1922年まで住んでいた京都市左京区の木造2階建ての家はその後も長年にわたり貸家として使われていたが、マンション建設のため2016年6月8日に解体された。この民家の廊下などは、京都大学総合博物館などで保管される予定である[3]

    年表
    ・1884年 石川県師範学校予備科卒業

    ・1888年 第四高等中学校予科修了

    ・1890年 第四高等中学校中途退学

    ・1894年 帝国大学文科大学哲学科選科修了

    ・1895年 石川県能登尋常中学校七尾分校教諭(4月)、得田寿美と結婚(5月)

    ・1896年 第四高等学校講師

    ・1897年 この頃から参禅への関心が高まり、洗心庵の雪門玄雪[4]滴水、広州、虎関の諸禅師に就く

    ・1899年 四高生の「披露堕落」を雑誌『日本人』に投稿した首謀者と見なされ解職。山口高等学校(旧旧山高)教授(3月)、第四高等学校教授(7月。心理、論理、倫理、ドイツ語を担当し「デンケン(考える)先生」と親しまれる)、臥龍山雪門老師に参禅


    ・1900年 同僚の三竹、杉森とともに公認下宿・三々塾(さんさんじゅく)を作り、学生指導に当たる

    ・1901年 雪門老師から寸心居士の号を受ける

    ・1903年 京都大徳寺孤蓬庵広州老師に参じ、無字の公案透過

    ・1905年 富山県国泰寺で瑞雲老師に参じる

    ・1909年 吉村寅太郎校長と反目が続き四高を去る。学習院教授(7月)、日本大学講師(10月)

    ・1910年 豊山大学(現:大正大学)講師(4月)、京都帝国大学文科大学助教授(8月・倫理学)

    ・1911年 真宗大谷大学(現:大谷大学)講師

    ・1912年 京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学)講師

    ・1913年 京都帝国大学文科大学教授(8月。宗教学)、文学博士(12月)

    ・1914年 宗教学講座担当を免じ、哲学、哲学史第一講座担任を命じられる

    ・1922年 京都市内の西田邸の一部に「骨清窟」がたてられる(1974年に宇ノ気町に移転)。

    ・1925年 妻寿美死去(1月)

    1927年 帝国学士院会員

    ・1928年 京都帝国大学停年退職

    ・1929年 京都帝国大学名誉教授(2月1日)[5]

    ・1931年 山田琴と再婚(12月)

    ・1933年 慶應義塾大学文学部講師。

    1940年 文化勲章受章。興亜工業大学(現:千葉工業大学)の設立に参画

    栄典
    1940年(昭和15年)11月10日 - 文化勲章[6]

    思想
    西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

    郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。


    最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教学での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。


    西田は思想輸入的・文献学的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、の実践から抽出された独自の学風は文献学者、「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼでもありえよう
    [独自研究?]。一方、田辺元高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。


    デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄[7]に基づいている。

    名言
    ・「善とは一言にていえば人格の実現である」

    ・「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある」

    ・「自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素となることである」

    家族
    ・上田彌生:歌人、長女。上田操(裁判官)に嫁ぐ。幾多郎逝去の数か月前に急死。

    ・西田静子:エッセイスト。彌生の妹。三女。

    上田薫:彌生の長男、初孫。教育哲学者。

    ・上田久:彌生の次男。祖父を回想。

    ・上田滋:彌生の三男。

    ・上田正:彌生の四男。

    金子武蔵:東大教授(倫理学)。六女、梅子の夫。

    ・西田外彦:甲南高等学校(旧制)教授。次男。(長男の謙は早世)

    ・西田幾久彦:財団法人日本ゴルフ協会理事、元東京銀行常務、外彦の長男、正仁親王妃華子の義兄。

    高橋ふみ:妹の次女(姪)。石川県の女生徒として最初の帝国大学生(東北帝国大学)となり、西田の論文をドイツ語に訳した。

    その他
    同郷の鈴木大拙(貞太郎)山本良吉藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。

    詳しいことは「西田幾多郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩


    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
    (wikiより)

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    岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年8月27日 - 1946年4月25日[1])は、日本出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員


    次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。

    経歴
    長野県諏訪郡中洲村諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていた。


    尋常小学校高等小学校をへて、1895年明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)へ入学。在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。息子を勉強させたいばかりに働いたのだという。翌年に卒業。


    1901年
    (明治34年)、第一高等学校に入学する。ボート部で活躍するが、2年になる頃から人生問題に悩むようになる。この頃には内村鑑三の影響を受けており、また、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶近角常観のもとを訪れ、近角から著書『信仰の餘瀝』を渡される。1903年5月、藤村操(1学年下)が「巌頭之感」を遺して自殺したことに大きな衝撃を受ける。試験を放棄したため落第し、夏休みの約40日間、茂雄は哲学書等を携えて野尻湖の弁天島に1人で篭もることがあった。この間に自殺を心配した母親が島を訪れたこともあり、学校を続けることを決意する。翌1904年も試験放棄のため落第し、高校を中退する[2]。再起して1905年東京帝国大学哲学科選科に入学[3]1906年には結婚


    大学選科修了後、神田高等女学校(現在の神田女学園)に奉職するも教師としての自信を喪失し退職。1913年大正2年)、神田区南神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売を実施、古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て1914年には「こゝろ」を出版。これは自費出版であったが、岩波書店の処女出版と位置付けられる。漱石没後は安倍能成らと「漱石全集」を刊行した。


    『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、1927年昭和2年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と日本軍に対して批判的な立場から活動を展開していた。これによって軍部の圧力をかけられるようになる。


    1940年
    には学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立。同年、津田左右吉の著作『古事記及日本書紀の研究』他4点が発禁処分となった事件では発行元として、津田と共に出版法違反で起訴。1942年に有罪判決、上告中の1944年免訴となる。また美濃部達吉天皇機関説を支持する投稿を朝日新聞に行ったが、同紙が不掲載としたため、朝日は意気地なしだ、と批判した。


    1945年
    3月に貴族院多額納税者議員に互選、任命されるが、それから6ヶ月後に脳出血で倒れる。翌年には雑誌『世界』が創刊され、文化勲章も受けるが、同年に64歳で死去。戒名は文猷院剛堂宗茂居士。墓所は鎌倉東慶寺

    略歴
    1913年8月5日:岩波書店創業。

    1914年夏目漱石の「こころ」を出版(岩波書店の処女出版)。

    1921年:「思想」創刊。

    1927年岩波文庫創刊。

    1933年岩波全書創刊。

    1938年岩波新書創刊。

    1945年貴族院議員。

    1946年2月:文化勲章を受章。

    1946年4月:逝去。

    参考文献
    ・『岩波茂雄 茂雄遺文抄』 日本図書センター「人間の記録」、1998年

    安倍能成『岩波茂雄傳』 岩波書店、1957年、新装版1978年、復刊1993年、改訂版2012年

    小林勇『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』 岩波書店、1963年、講談社文芸文庫、1993年

    岩波書店編集部編『岩波茂雄への手紙』 岩波書店、2003年

    岡茂雄「岩波茂雄さんとの出会い」 - 『本屋風情』 平凡社、1974年、224~228頁。中公文庫角川ソフィア文庫で再刊。

    司馬遼太郎街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈』 朝日新聞社、1992年

      「哲学書肆」、「三人の茂雄」[4]を収録。朝日文庫ほかで再刊

    ・東京刑事地方裁判所編『津田左右吉 岩波茂雄 出版法違反予審終結決定書』1941年。

    評伝
    村上一郎 『岩波茂雄』(砂子屋書房、1982年)

      ・『岩波茂雄と出版文化 近代日本の教養主義』(講談社学術文庫、2013年)。解説竹内洋

    十重田裕一 『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』(ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2013年)

    中島岳志 『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店、2013年)

    作品
    ・読書子に寄す - 岩波文庫発刊に際して(青空文庫

    ・『岩波茂雄文集』(全3巻、植田康夫紅野謙介・十重田裕一編、岩波書店、2017年)

    注釈
    1. 『官報』第5803号、昭和21年5月22日、p.92
    2. 安倍能成『岩波茂雄伝』p36-74.
    3. 東京帝国大学一覧 従明治39年至明治40年』 東京帝国大学、1907年、(78)頁。 
    4. 他は岡茂雄反町茂雄

    関連項目
    教養主義

    学歴貴族

    旧制高校

    外部リンク
    岩波 茂雄:作家別作品リスト青空文庫

    岩波茂雄について(諏訪市)

    信州風樹文庫(岩波茂雄記念館を併設)
    (wikiより)

    2425  岩波茂雄

    岩波茂雄

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    堀田 善衛(ほった よしえ、1918年大正7年)7月7日 - 1998年平成10年)9月5日)は、日本小説家評論家中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞[1]

    来歴・人物
    富山県高岡市出身。父は富山県会議長の堀田勝文、母は大正年間に富山県で初めて保育所を創設した堀田くに。経済学者で慶應義塾大学商学部名誉教授の堀田一善は甥にあたる。生家は伏木港廻船問屋であり、当時の北前船日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた[2]


    1936年
    旧制金沢二中から慶應義塾大学政治科予科に進学。1940年文学部仏文科に移り、卒業。大学時代はを書き、雑誌『批評』で活躍、その方面で知られるようになる。


    第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会が中国に置いていた上海資料室に赴任。現地で敗戦を迎える。1945年8月に現地日本語雑誌『新大陸』にエッセイ「上海・南京」を発表。敗戦直後、上海現地の日文新聞『改造日報』に評論「希望について」を発表。同年12月に上海昆山路128号にあった中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用され、現地日本語雑誌『新生』の編集と、現地中国語紙『中央日報』の対日輿論の翻訳を担当。1946年6月に現地日本語雑誌『改造評論』に「反省と希望」を発表。翌年12月まで留用生活を送る。12月28日(29日の夜明け)にアメリカ軍の上陸用舟艇引き揚げ。上海での生活と留用体験について、陳童君『堀田善衛の敗戦後文学論-「中国」表象と戦後日本』(鼎書房、2017年)参照。また『新生』は中国国家図書館アメリカ議会図書館に現存している[3]


    1947年、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。

    アガサ・クリスティ
    の『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。


    1948年
    、処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。 1950年10月23日品川駅でかっぱらいをして逮捕されたと報じられたが[4]、『高見順日記』によると、酔った上でのいたずらだったらしい。


    1951年、『中央公論』に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(『文學界』1951年9月)も受賞作の対象となっていた。


    1953年国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年日中戦争初期の南京事件をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。


    1956年
    、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。ソビエト連邦の首都モスクワパキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと知り合ったのは1960年代である。ジャン=ポール・サルトルとも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解した後、1974年に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり[5]、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった[6]マルクス主義には賛同せず日本共産党などの党派左翼でもなかったが、政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。


    1977年
    フランシスコ・デ・ゴヤの評伝『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。


    1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。


    1998年に「国際政治の問題点を浮き彫りにした活躍」が評価され、芸術院賞を受けた後体調を崩し神奈川県横浜市の病院へ入院するも、同年9月5日午前10時7分に脳梗塞のため帰らぬ人となった[7][8][9]

    エピソード
    宮崎駿が最も尊敬する作家であり、宮崎は堀田の文学世界や価値観から非常な影響を受けていることを常々公言、堀田と幾度も対談している。たとえば宮崎の作品によく出てくるゴート人のイメージは、堀田のスペイン論に由来している[10]。また、宮崎は堀田の『方丈記私記』のアニメ化を長年にわたって構想していた。2008年には、宮崎吾朗などのスタジオ・ジブリスタッフによって、『方丈記私記』などの堀田作品をアニメ化するという仮定の下のイメージ・ボードが制作され、神奈川近代文学館に展示された。

    海外での受容
    大学図書館システムNACSISで確認できる範囲では、英語ロシア語中国語韓国語に著作が翻訳されている。このうちロシア語訳されたものは4作確認でき、最も多い。

    英訳作品
    ・「審判」(1994年)

    TR:Judgment / Yoshie Hotta ; translated with an introduction by Nobuko TsukuiPUB:Hirakata-shi, Osaka-fu, Japan : Intercultural Research Institute, Kansai Gaidai University , 1994

    ロシア語訳作品
    ・「海鳴りの底から」(1968年)

    TR:Из глубины бушующего моря : роман / Хотта Ёсиэ ; перевод с японского И. Львовой

    PUB:Москва : Изд-во "Художественная литература" , 1968

    http://www.livelib.ru/book/1000540119


    ・「審判」(1969年)

    TR:Суд / Ё. Хотта ; перевод с японского З. Рахима

    VT:RM:Sud

    PUB:Москва : Изд-во "Прогресс" , 1969


    ・「記念碑」(1962年)

    TR:Памятник : роман / Ёсиэ Хотта ; перевод Я. Берлина и З. Рахима

    RM:Pami︠a︡tnik

    PUB:Москва : Изд-во иностранной литературы , 1962


    ・「時間・歯車」(1958年)

    TR:Шестерни : повесть ; Время: роман / Ёсиэ Хотта ; перевод с японского род редакцией И .Л. Иоффе||||:Shesterni : povest' ; Vremi︠a︡ : roman

    PUB:Ташкент : Государственное изд-во художественной литературы УзССР , 1958

    ウズベキスタンでの受容
    ロシア語版の「時間・歯車」の出版地はウズベキスタンの首都タシュケントで、第2回アジア・アフリカ作家会議は1958年10月にタシュケントで開かれている。

    2005年5月にウズベク語で刊行された『ウズベキスタン国家百科事典』第9巻には、二葉亭四迷と並んで堀田の項がある[11]

    中国語訳作品
    ・「鬼無鬼島」

    鬼无鬼島 / 堀田善卫著 ; 李芒, 文洁若譯||キブキジマ||gui wu gui dao

    PUB:北京:作家出版社 , 1963.4


    ・「時間」

    秦刚訳、人民文学出版社、出版2018年7月

    韓国語訳作品
    ・「ゴヤ Vol.1」(1998年)

    TR:에스파냐 : 빛과 그림자 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||에스파냐 : 빛 과 그림자

    VT:TT:Francisco Goya

    PUB:서울 : 한길사 , 1998


    ・「ゴヤ Vol.2」(1998年)

    TR:마드리드 : 사막과 초목 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||마드리드 : 사막과 초목

    ST:마드리드 : 사막과 초원||마드리드 : 사막 과 초원

    PUB:서울 : 한길사 , 1998


    ・「ゴヤ Vol.3」(1998年)

    TR:거인의 그림자 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||거인 의 그림자

    PUB:서울 : 한길사 , 1998


    ・「ゴヤ Vol.4」(1998年)

    TR:운명 : 검은 그림 / 홋타 요시에 지음 ; 김석희 옮김||운명 : 검은 그림

    PUB:서울 : 한길사 , 1998


    書籍を紹介する韓国のウェブサイトでは、翻訳者による堀田へのインタビューを見ることができる。「浜の近くにある丘の上の小さな家に大作家を訪ねる」「アジア/アフリカ作家会議の指導者」と題され、一貫して深い敬意をもって語られている[12] 韓国における堀田作品の出版元である「ハンギル社」社長の自伝『本で作るユートピア』(日本では2015年4月、北沢書店刊行)において、この訪問が詳しく記されている。

    ミャンマーでの受容
    刊行物は未確認であるが、2013年6月に在ミャンマー日本国大使館で開催された「第8回日本文学翻訳コンテスト」では、堀田の『美しきもの見し人は』が題材となっている[13]

    詳しいことは「堀田善衛ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%84%E8%A1%9B
    (wikiより)

    2424  堀田善衛

    堀田善衛

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    旧制第一高等学校の記念の塚


    「向陵塚」の三字は、夏目漱石の親友で、独語学者だった菅虎雄 ( 1864 ~ 1943 ) の手による。

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    佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年明治27年)11月11日 - 1966年昭和41年)12月1日)は日本の小説家編集者文藝春秋新社社長。

    略歴
    京都府出身。実家は代々種油製造業だったが父親の代に没落して人手に渡り[1]京都府第一中学校中退。朝鮮仁川にいた叔父の元に身を寄せたが、1918年内地へ戻り、『子宝』の記者、新潮社、中央美術社、時事新報社などで働き、1919年に『新小説』に「おじいさんとおばあさんの話」を発表し、作家デビュー[1]芥川龍之介に師事。1925年に発表した「曠日」が芥川の賞賛を受ける。1925年、芥川の媒酌で大橋房子(佐佐木ふさ)と結婚。房子(1897-1949)は、東京市公園課の造園技師長岡安平の娘として生まれ、11歳で実姉大橋繁の養女となり、青山女学院卒業後婦人矯風会ガントレット恒子の秘書を経て作家となった女性で、断髪洋装で渡欧経験もあるモダンガールだった[2]


    長編小説1編と短編小説約90編をものしたのち[1]、1930年を最後に作家として筆を折り文藝春秋の幹部として活動、1935年に菊池寛らと芥川龍之介賞直木三十五賞を創設。公職追放により出版界を一時退いたが[3]、戦後改組して発足した文藝春秋新社(現・文藝春秋)の社長として復帰、没するまで活動した。

    著書
    ・『春の外套』金星堂 1924

    ・『夢ほどの話』新潮社 1925

    ・『南京の皿』改造社 1928

    ・『新選佐佐木茂索集』改造社 1929

    ・『新進傑作小説全集第3巻 佐佐木茂索集』平凡社 1929

    ・『佐佐木茂索小説集』文藝春秋 1967

    ・『佐佐木茂索随筆集』文藝春秋 1967

    関連項目
    形影 菊池寛と佐佐木茂索

    松山省三

    新薬師寺 - 行方不明だった銅造薬師如来立像(通称・香薬師像)の右手を長年所持していた

    脚注
    1. a b c 佐佐木茂索研究内山照美、奈良教育大学、昭和60年度修士論文要旨
    2. ささきふさ 断髪洋装のモダン派作家『時代を拓いた女たち: かながわの131人』江刺昭子, 史の会、神奈川新聞、2005
    3. 『朝日新聞』1947年10月23日第1面。

    外部リンク
    佐佐木茂索:作家別作品リスト - 青空文庫

    佐佐木茂索 單行本書目稀覯本の世界
    (wikiより)

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    鐘楼前にある女流作家田村俊子の記念碑は、高さ 90センチの自然石で作られており、表には自作の一文が刻まれ、裏には銅板の略歴がはめこまれています。


    俊子は晩年中国に渡り、昭和 20年 4月 16日上海北西川路上で急逝しました。


    旧友の湯浅芳子、山原鶴等が当山に墓を設け、昭和 26年に 7回忌を営み、昭和 30年にこの文学碑を建てました。


    その後湯浅芳子が中心となって「田村俊子賞」を創設。


    第 1回は瀬戸内晴美の『田村俊子』に贈られ、瀬戸内は記念として 2本の桜を碑の側に植えました。


    以後毎年 4月 16日にこの碑前において、女流作家の優れた作品に対し草野心平筆の賞状が贈呈されました。

    この賞は第 17回をもって終了しました。


    〇 田村俊子
    村 俊子
    (たむら としこ、1884年明治17年)4月25日 - 1945年昭和20年)4月16日)は、日本小説家。別名、佐藤露英佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ[1]

    東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退[1]。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された[1]

    生涯
    代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1893年(明治26年)4月、浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学。翌年2月、下谷区下谷金杉上町(現在の台東区下谷竜泉入谷辺り)に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学。1895年(明治28年)、浅草区馬道(現在の台東区浅草花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学。1896年(明治29年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学。作家を志し、幸田露伴の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、尾崎紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は「ひげ男」の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった[2]


    1902年
    に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子[1]。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚(事実婚)した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。悦とともに現地の邦字紙大陸日報の編集に参画する。


    1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した[3]。1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[4]。享年62。墓所は鎌倉東慶寺にある[1]


    大相撲
    力士両國勇治郎のファンであり、彼を題材にした俳句も複数残している。

    主な作品
    ・生血

    ・女作者

    ・炮烙の刑 - 俊子と田村松魚、伊東六郎の三角関係をもとに作品化したもの

    ・山道


      ・著書 

    ・あきらめ 金尾文淵堂 1911

    ・誓言 新潮社 1913

    ・山吹の花 植竹書院 1914 (文明叢書 ; 第33編)

    ・木乃伊の口紅 牧民社 1914

    ・恋むすめ 牧民社 1914

    ・恋のいのち 実業之世界社 1915

    ・小さん金五郎 新潮社 1915 (情話新集)

    ・お七吉三 新潮社 1916.6 (情話新集)

    ・彼女の生活 新潮社 1917 

    ・あきらめ・木乃伊の口紅 1952 (岩波文庫)

    ・田村俊子作品集 全3巻 オリジン出版センター 1987-88

    ・木乃伊の口紅・破壊する前 1994.6 (講談社文芸文庫)

    ・田村俊子全集 全9巻+別巻1 ゆまに書房 2012.8-刊行中


      ・復刊

    ・木乃伊の口紅 不二出版 1986.6 (叢書『青鞜』の女たち)

    ・恋むすめ ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

    ・山吹の花・恋のいのち ゆまに書房 1999.12 (近代女性作家精選集)

    ・作家の自伝 87 田村俊子 日本図書センター 1999.4 (シリーズ・人間図書館)

    ・紅 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)

    ・彼女の生活 ゆまに書房 2000.11 (近代女性作家精選集)


      ・翻訳

    ・機械時代の恋愛 フロイド・デル 中島幸子,田村とし子訳 先進社 1932

    参考文献
    ・『田村俊子』 瀬戸内晴美(寂聴)著、文藝春秋新社、1961年、のち角川書店、講談社。

    ・『田村俊子とわたし』 丸岡秀子 著、中央公論、1973年、のちドメス出版。

    ・『晩香坡(バンクーヴァー)の愛―田村俊子と鈴木悦』 工藤美代子、S・フィリップス共著、ドメス出版、1982年。

    ・『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』 工藤美代子 著、筑摩書房、1985年、のち集英社文庫。

    ・『大百科事典』平凡社、1985年。

    ・『田村俊子作品集1~3』ドメス出版、1987年。

    ・『現代女性文学辞典』 村松定孝渡邊澄子 編、東京堂出版、1990年。

    ・『日本現代文学大事典』 三好行雄竹盛天雄他 編、明治書院、1994年。

    ・『作家の自伝87』 長谷川啓 編解説、日本図書センター、1999年。

    ・『田村俊子 谷中天王寺町の日々』 福田はるか 著、図書新聞、2003年。

    ・『田村俊子の世界 作品と言説空間の変容』 山崎眞紀子 著、彩流社、2005年。

    ・『今という時代の田村俊子―俊子新論』 渡辺澄子 編集、至文堂、2005年。

    脚注
    1. a b c d e 江刺昭子・史の会編『時代を拓いた女たち 第2集』神奈川新聞社、2011年、142-143頁。ISBN 978-4-87645-475-4
    2. 「婦人と文学」宮本百合子
    3. 日本女作家田村俊子的上海冒險” (中国語). 徐靜波 (2020年5月20日). 2020年5月20日閲覧。
    4. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)204頁

    外部リンク
    田村 俊子:作家別作品リスト青空文庫
    (wikiより)

    2421  田村俊子

    田村俊子

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    山門の石段の右下にある高さ 1メートル 23センチの碑は、平成 6年 12月に夏目漱石の参禅百年を記念して建立した記念碑。


    漱石が円覚寺の釈宗演に参禅したのは明治 27年末から翌年初のことで、小説『門』にそのときのことが描かれています。


    漱石が二度目に宗演老師を訪ねた大正元年 9月 11日、宗演老師は東慶寺の住職をしておりました。


    その際漱石に同道した満鉄総裁の中村是公は、東慶寺山門の手前の田んぼに向って立ち小便をしますが、漱石も並んで”連れション”をしたことが『初秋の一日』に「その顰 ( ひん ) に倣った」と洒落て書かれています。


    宗演老師は、この日漱石が来山したことをその日のうちに手紙に書いて阿部無仏に送っています。


    この記念碑には『初秋の一日』と宗演老師の手紙の文章の一部が刻まれており、”連れション”をしたと思われる位置に建てられています。


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    岩波 雄二郎(いわなみ ゆうじろう、1919年大正8年)6月25日 - 2007年平成19年)1月3日)は、神奈川県出身の実業家岩波書店社長・会長・相談役。

    経歴
    岩波書店の創業者である岩波茂雄の次男として生まれる。東京府立第一中学校旧制成城高校を経て、東京帝国大学文学部を卒業。


    1946年(昭和21年)に岩波書店に入店する。1949年(昭和24年)、同社が株式会社に改組されたおり社長に就任した。1949年(昭和24年)9月3日、東京青年商工会議所(現・東京青年会議所)の発足に参画し、発足当初のチャーター・メンバー48名のひとりとなる。およそ30年に渡って社長を務め、社長在任中には広辞苑を刊行している。1978年(昭和53年)には会長に就任、1998年(平成10年)には会長を退任して相談役に就任した。


    2007年(平成19年)1月、多臓器不全のため死去した。87歳。

    家族
    ・妻の岩波淳子は岩波ホール総支配人である高野悦子の姉であり、淳子も岩波ホールの支配人を務めた。娘の岩波律子は1990年(平成2年)から岩波ホール支配人を務めている。

    関連項目
    三宅雪嶺
    (wikiより)

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    楠本 正敏(くすもと まさとし、1866年11月7日(慶応2年10月1日[1]) - 1938年昭和13年)2月19日[1][2])は、明治から大正期の実業家政治家華族貴族院男爵議員都新聞社長。幼名・清七郎[1][3][4]

    経歴
    肥前大村藩士・楠本正隆の長男として生まれる[1][3][4][5]。父の死去に伴い、1902年2月28日、男爵を襲爵[1][5][6]1905年10月、正敏と改名した[3][4][5][7]


    1910年6月、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[8]公正会に属して活動し、1925年7月まで3期在任した[2]。その他、都新聞社長として同紙の経営に当たった[3][4][5]

    栄典
    1920年(大正9年)5月10日 - 正四位[9]

    1929年(昭和4年)5月15日 - 従三位[10]

    親族
    ・妻 アイ(野沢俊元長女)[1]

    ・長男 大助(男爵)[1][3]

    脚注
    1. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、542頁。
    2. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』70頁。
    3. a b c d e 『華族畫報』上、400頁。
    4. a b c d 『大日本人物誌』く29頁。
    5. a b c d 『人事興信録』第10版 上、ク37頁。
    6. 『官報』第5594号、明治35年3月1日。
    7. 『官報』第6685号、明治38年10月9日。
    8. 『官報』第8103号、明治43年6月27日。
    9. 『官報』第2330号「叙任及辞令」1920年5月11日。
    10. 『官報』第837号「叙任及辞令」1929年10月12日。

    参考文献
    ・杉謙二編『華族畫報』上、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。

    霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

    ・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

    ・人事興信所編『人事興信録』第10版 上、1934年。

    ・成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌:一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
    (wikiより)

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    江木保男の先妻・蝶子の墓。

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    2417b



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