本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/03

金山奉行。

172a

172b

172c



詳細不明。

171a

171b

171c

171d



詳細不明。

170a

170b

170c

170d



橋口 伝蔵(はしぐち でんぞう、天保2年(1831年) - 文久2年4月23日1862年5月21日[1])は、幕末薩摩藩士。

同藩士・橋口与三次の次男[1]。諱は兼備[1]

経歴
天保2年(1831年)鹿児島城下で誕生。江戸安井息軒に学び、後に江戸藩邸の記録所書記となった[1]

文久2年(1862年)橋口壮介らと江戸を脱して[1]上洛し、有馬新七らと佐幕派の九条尚忠酒井忠義襲撃を画策する。

しかし京都寺田屋で集合中に島津久光に派遣された鎮撫使側の奈良原繁らによって斬殺された[1]寺田屋事件)。


従四位[1]。墓所は京都市伏見区大黒寺[1]

親族
・兄 橋口兼三(貴族院議員)

・弟 樺山資紀(海軍大将)

・子息 橋口勇馬(陸軍少将)[2]

脚注
1.a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』775頁。
2. 浜島速夫『三代軍人列伝 - 薩摩の武人たち』南日本新聞社、1975年、153頁。

参考文献
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
(wikiより)

169a

169b

169c



示現流剣士。


八月十八日の政変後、七卿落ちで福岡にいた五卿を京都へ送る警護の途中、大坂で襲撃され奮戦の末、戦死。

168a

168b

168c

168d

168e



薩摩藩英国留学生の一人で、戊辰戦争で戦死。

167a

167b

167c

167d

167e



戊辰戦争戦死者。

166a

166b

166c



薬丸 兼義(やくまる かねよし、文化2年12月25日1806年2月13日) - 明治11年(1878年12月1日)は薩摩藩剣術師範。薬丸兼武の長子。幼名は、壱之助。通称ははじめ長左衛門、次いで半左衛門兼包兼義。当時の一般的な呼称は薬丸半左衛門であり、史料中には主にこの名で登場する。薬丸流(薬丸自顕流)の師範として弟の薬丸新蔵とともに剣名が高く、下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。


家格は小番[1]であり、明治3年(1870年)4月の「人別改帳」では3番組8番小番であったことが分かる。 また、代官就任時の役料から石高は50石以下。奄美大島徳之島の役人や代官[2]を勤める。



経歴 (月日は旧暦)
・文化12年(1815年)8月21日、初お目見え。


天保6年(1835年)12月28日、同年7月14日に父兼武が屋久島で死去したため、家督相続。


・天保7年(1836年)8月15日、通称を長左衛門に改名する。


・天保9年(1838年)6月21日、通称を半左衛門に改名する。


・天保14年(1843年)、大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任[3]


弘化元年(1844年)、任期満了につき帰臥。


嘉永4年(1851年)春、深見休八有安[4]の後任として徳之島蔵方目付となり、徳之島に赴任[5]

・同年4月16日、徳之島の亀津に着く。


・嘉永6年(1853年)春、任期満了につき帰臥。


・嘉永7年(1854年)1月22日、年功者ではなかったが、特別に代官に就任し、役料銀5枚30目を支給される[6]


文久元年、藩主島津茂久の命により二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となる。当時、幕末の情勢により、武術を稽古する者が増え、演武館では手狭となったので、鹿児島城二ノ丸にも稽古所が置かれた。[7]

・同年6月、剣術師範となったことにより、切米5石を与えられる[8]


・文久2年(1862年)に島津久光が上洛。その際、什長としてこれに従う。


元治元年に薬丸自顕流が二之丸稽古所での稽古から撤収する[9]


・明治11年(1878年)に死去。法名あるいは神号は南林寺由緒墓にある現在の墓石には記載されていない。

人物
父の兼武の代に薬丸自顕流は異端として排斥されていたが、兼義もまた剣名が高いことや示現流師範家の東郷家と和解したこともあり、天保年間の薩摩藩の軍制改革に際し剣術師範として取り立てられた。


復権したものの、薬丸家は兼武の代の没落によってかなり貧しくなっており[10]、兼義兄弟はかぼちゃばかり食べて暮らしていたため、「かぼちゃ薬丸どん」と呼ばれていた。


兼義は、城下士の下級武士を中心に数多くの弟子を育てた。その弟子の中から幕末維新に活躍する人物が数多く出ることになる。(弟子の名前は薬丸自顕流を参照)


島津久光が上洛した際には什長としてこれに従ったとき、配下から突出するものがないように気を配ったが、結果として寺田屋事件がおき、弟子達が同士討ちすることとなった。しかし、この寺田屋事件で薬丸流の名が高まり、入門者が増えることとなった。例えば、加治木郷では、それまで真影流(直心影流)が主流であったが、これにより薬丸流が広まることとなった。


維新後は官途に就かず就農した。


西南戦争でさらに弟子の多くを失い、戦後ほどなくして失意のうちに病死した。長子の兼文が流派を継いだ。墓は現在、南林寺由緒墓にあり、南州寺および月照の墓に近い列にある。

宅地
『鹿児島城下絵図散歩』によると、天保13年(1842年)の頃、現在の鹿児島市加治屋町の地に「薬丸半左衛門 759」とある。また、安政5年(1858年)の段階でも加治屋町に居住していたことがわかる。なお、文政4年(1821年)の『鹿児島城下明細図』の方には、父の「薬丸長左衛門」の名がどこにもなく、かわりに加治屋町には親族と思われるが続柄不詳の「薬丸半兵衛」が住んでおり、天保13年(1842年)の頃まで「薬丸半兵衛」が住んでいたことがわかる。なお、兼義の宅地のあった場所は現在、鹿児島市立病院本館が建っている。


また、兼義の宅地の近くにあった小道は「薬丸殿小路」と呼ばれた。

家族
・妻

  ・生家不明。1817年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」によると当時54歳)


子女(2男1女)

  ・兼文(壱之助、生没年は1850年(嘉永3年)5月13日~1914年(大正3年)6月24日)

  ・娘。1855年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」では当時16歳)

  ・猪之丞1857年~1870年以降(明治3年4月時点で14歳)

参考文献
・『鹿児島市史III』

・松下志郎『奄美資料集成』南方新社

・『鹿児島県資料集1 薩藩政要録』

・塩満郁夫、友野春久 編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版

・宮下満郎「池上四郎伝補説」(「敬天愛人」第20号別刷、西郷南州顕彰会、平成14年9月24日)

・村山輝志『示現流兵法』島津書房

脚注
1. 薬丸自顕流が下級武士を中心に行われたため薬丸家も下級武士だと書かれることが多い。しかしながら、薬丸家の家格は代々小番であるので、厳密に言うと家格の上では中級家臣でも上の方であった
2. 薩摩藩では地頭とは別に代官という職がある。地頭は家老や側用人などの藩の重役が兼務するのに対し、代官は藩内の席次が西郷吉兵衛の勘定方小頭より5つ下で、中級の職であった。
3. 『奄美資料集成』参照
4. この人物は真影流(直心影流)剣術師範であり、嘉永7年に江戸で死去したと『薩陽過去帳』にある。養子の深見休八有正は兼義同様に二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となり、西南戦争に薩軍として参加。
5. 『奄美資料集成』参照
6. 『薩藩政要録』によると、この役料は持高50石以下の者がもらうことがしるされている。また、代々小番は10人扶持相当の家格であるが、代官職は5人扶持級の役職であった。但し、当時は代々小番でも5人扶持級の役職に就けない者もいた。
7. 「池上四郎伝補説」参照
8. 『示現流兵法』参照。
9. 「池上四郎伝補説」参照
10. 大久保利世西郷吉二郎の項にあるように、流刑者のでた家の家族は全員失職する。なお、一番重い終身流刑地の沖永良部島遠島の場合は、知行や財産まで没収される。〈山田尚二著「西郷吉二郎の、土持政照あて書間」(「敬天愛人」別刷)参照〉
(wikiより)

165a

165b

165c

165d

165e




詳細不明。

164a

164b

164c

164d



詳細不明。

163a

163b

163c



詳細不明。

162a

162b

162c



藩士。


天真流。

161a

161b

161c

161f



詳細不明。

160a

160b

160c

160d

160e



平田 宗乗(ひらた むねのり、慶長19年10月11日1614年11月12日) - 貞享3年7月14日1686年9月1日))は、薩摩藩鹿児島城下士。剣術家。水野流居合[1]の師範であった。本姓桓武平氏宗乗幼名鍋五郎。通称は初め孫六、後に監物。同じ通称の子孫がいるので一般には平田大監物で知られる。万治2年の石高は628石

経歴
平田宗保より始まる桓武平氏流平田氏次男家に生まれる。父は平田宗衛で、兄は平田新左衛門宗徳。元和9年3月13日に兄が25歳で死去したので、その養子となり家督相続。三河国の人で薩摩藩に来ていた水野柳滴より水野流居合を学んで皆伝を授かった。吟味役や町奉行などに就任。


寛永
13年(1636年)に作成された「薩州鹿児島衆中屋敷検地帳」に「平田孫六(傍注に監物)・中屋敷2段2せ12分」とある。このことから、この年以降に通称を「孫六」から「監物」に変えたようである。


万治
2年(1659年)作成の「万治鹿府高帳」には「平田監物・628石」とある。


菩提寺は曹洞宗松原山南林寺。「抄名墓録」では南林寺墓地の丸瓦羅橋[2]付近にあったという。墓は現在、南林寺由緒墓にある。


桂太郎兵衛忠増(初め忠益)の長女を妻とする[3]が男子なく、故に出水衆中の山田吉左衛門の子を婿養子とする。ただし、剣術は免許皆伝した家臣の武井種次が継ぐ。

脚注
1. なお、水野流は『示現流聞書喫緊録付録系図』では関口流居合のことという。薩摩藩では『水野流居合』の呼称が一般的であることは諸資料で散見できる。
2. 現在の鹿児島県鹿児島市の清滝川(鹿児島城築城前は甲突川本流だったという川)にかかっていた。
3. 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『桂彦大夫家系図』参照

参考文献
・太原久雄『南林寺に蔵む』

・上野尭史『鹿児島士人名抄録』高城書房

・「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」
(wikiより)

159a

159b

159c

159d



詳細不明。

158a

158b

158c

158d



藩士・平瀬治右衛門。

157a

157b

157c



森元貊、森元貞興、森元貞謙の合祀墓。


詳細不明。
 
156a

156b

156c

156d

156e

156f

156g

156h

156i

156j




森元貞謙、森元貊、森元貞興の合祀墓。


詳細不明。

155a

155b

155c

155d

155e

155f

155g

155h

155i

155j



森元貞興、森元貞謙、森元貊の合祀墓。


詳細不明。

154a

154b

154c

154d

154e

154f

154g

154h

154i

154j



藩士。


垂水島津家次男家の末川家祖、島津重豪・母方の叔父。

153a

153b

153c

153d



医者。

152a

152b

152c



幕末の西郷隆盛派の藩士。


島津久光と対立し山川港の船中に軟禁される。


その後寺田屋事件で息子が死んだことを知り自刃。

151a

151b

151c

151d



戊辰戦争戦死者。

150a

150b

150c

150d

150e

150f



戊辰戦争戦死者。

149a

149b

149c

149d

149e



戊辰戦争戦死者。

148a

148b

148c

148d

148e



国学者。

吉備津神社宮司。

147a

147b

147c

147d

147e



生野の変で平野国臣と挙兵したが失敗し戦死。

146a

146b

146c

146d

146e



剣術家。

145a

145b

145c

145d



猪谷徳蔵と東郷実羔の合祀墓。


詳細不明。

144a

144b

144c

144d

144e

144f

144g

144h

144i



東郷実羔と猪谷徳蔵の合祀墓。


詳細不明。

143a

143b

143c

143d

143e

143f

143g

143h

143i



詳細不明。

142a

142b

142c



藩士。

造士館初代教授、『島津国史』編者。


近思録崩れに巻き込まれ、その一部始終を「文化朋党実録」として残す。

141a

141b

141c

141d

141e

141f

141g

141h

141i

141j



迫田 利済(さこた としなり、天明6年(1786年) - 安政2年9月21日1855年10月31日))は幕末薩摩国郡奉行。通称は太次右衛門(たじえもん)。若き日の西郷隆盛を郡方書役助(こおりかた かきやくたすけ)として雇った。西郷の聞き入れにより藩に年貢を下げるよう申し出たが、聞き入れられず辞職した。詳しい生涯はよく分かっていない。


墓所は鹿児島県鹿児島市南林寺町曹洞宗松原山南林寺(現在は臨済宗相国寺派南洲寺)、戒名は風松堂淸山涼心居士。

参考文献
・「三百藩家臣人名事典・6」新人物往来社、1987年(昭和62年)
(wikiより)

140a

140b

140c

140d



篠崎 仲苗(しのざき なかなえ、文政9年6月3日1826年7月7日) - 慶応3年12月25日1868年1月19日))は幕末薩摩藩武士は仲苗。通称は彦十郎。島津斉興から島津忠義に仕えた名越彦太夫高房の次男で本姓橘氏で母方にあたる篠崎蔵太左衛門家の養子となり、名跡を相続する。


江戸芝藩邸において江戸留守居を務めていたが、庄内藩を中心とする江戸幕府軍による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に戦死。墓は現在、鹿児島県鹿児島市の南林寺墓地にある。

宅地
・『鹿児島城下絵図散歩』では安政6年(1859年)の地図に、現在の鹿児島市清水町の地に『篠崎彦十郎』の名が見え、宅地221坪と表記されている。

親族
・実父:名越彦太夫高房(名越左源太家分家筋の当主。家格代々小番。広敷御用人や側役、当番頭などを務める)

・母:篠崎蔵太左衛門仲教の姉

・兄:名越彦之進盛恭(仲苗が篠崎家にいって以降、夭折)

・弟:名越彦太夫高温(初め彦兵衛。父の家督を相続。奥小姓や目附を務める)

参考文献
・宮下満郎『戊辰・西南戦争と名越彦太夫』(敬天愛人別刷)西郷南州顕彰会

・塩満郁夫、友野春久『鹿児島城下絵図散歩』高城書房

・『要用留 天明6年 名越氏』鹿児島県立図書館所蔵
(wikiより)

139a

139b

139c



尊王攘夷派の志士、森山永賀の息子。


寺田屋事件で藩主の使者に抵抗したとして死罪となり切腹。

138a

138c

138d



戊辰戦争戦死者。

137a

137b

137c

137d

137e



戊辰戦争戦死者。

136a

136b

136c



戊辰戦争戦死者。

135a

135b

135c

135d

135e



詳細不明。

134a

134b

134c

134d

134e



詳細不明。

133a

133b



詳細不明。

132a

132b

132c

132d

132e



剣術家。

131a

131b

131c



吉田大蔵・子息。

130a

130b

130c



薬丸 兼陳(やくまる けんちん/かねのぶ、慶長12年(1607年) - 元禄2年8月5日1689年9月18日))は、江戸時代前期の薩摩藩士。剣客通称ははじめ大炊兵衛、後に刑部左衛門。は兼陳、兼速。隠居して如水と号した。島津家中の武辺の士として知られた薬丸壱岐守の孫で薬丸兼利の子。息子は薬丸兼福示現流の達人として東郷重位の五高弟の一人に数えられた。後に子孫の薬丸兼武によって薬丸自顕流の流祖とされたが彼自身が新流派を組織した事実はない。

経歴・
祖父の薬丸壱岐守が東郷重位の初陣の際に親代わりを務めた縁、またお互い屋敷が近かったこともあり[1]、東郷重位の勧めで示現流に入門した。ときに14歳。


東郷重位の子重方と同年代だったので、互いに切磋琢磨し、またたくまに上達した。16歳のときに早くも二段目を授かり、20歳の頃には皆伝して弟子を取ることも許された。


特に小太刀の技に優れた。当時はまだ戦国の気風が残っており、兼陳も刀傷沙汰に巻き込まれたり試合を挑まれたりしたが、その全てに打ち勝って剣名を高めた。


ある夜、兼陳は島津綱久に招かれ示現流の「意地」について問われた。その部屋には茶釜が置いてあったので兼陳は言った。「この茶釜を例えに使って示現流の『意地』を説明しましょう。」綱久は答えた。「よろしい。」兼陳「茶釜に水を入れて炭火を起こしこれを煮ます。水はだんだんとお湯になりそして熱湯になります。湯が蒸発し、炉の火は燃え続け茶釜を焼き、その色は紫、紅と変わります。こうなると、茶釜に触れるものは焼き尽くされます。これが当流の『意地』です。」


兼陳が稽古をすると、その気合のあまりのすさまじさに肥前焼きの茶碗が割れてしまうほどだったので、稽古中は茶碗を伏せるようにしていたという。その剣名は藩内で高く、東郷重位の五高弟に数えられるまでとなった。


83歳まで長生きし、東郷重位の教えを知る直弟子として流派内で重きを成した。


墓所は曹洞宗松原山南林寺[2]法名は昌岳院殿薬翁清性大居士。現在、南林寺由緒墓に墓がある。

年譜
寛永3年2月;東郷重位より示現流聞書誓喩奥書を与えられる。なお、このときの通称は大炊兵衛であった。[3]


承応2年(1653年)2月;初代長崎御使人となる。


万治2年;「万治2年鹿府万治高帳」[4]に「薬丸刑部左衛門 219石」とある。


元禄5年2月17日;妻の弟、蒲地八左衛門貞隆が82歳で死去[5]

備考
1. 「鹿児島市史III」の「寛永十三年、鹿児嶋衆中屋敷御検地帳」によると、新堀の下に、『東郷肥前守 下屋敷 2反5畝』と『薬丸伴左衛門 下屋敷 5畝10歩』との記述がある。「本藩人物誌」では「半左衛門」となっているがこの「伴左衛門」は兼陳の父兼利と思われる。「伴左衛門」の「伴」は本姓が伴姓肝付氏であったことにちなむか?。
2. 玉龍山福昌寺の末寺。師匠家の東郷家も同寺に埋葬されていた。
3. 「鹿児島市史III」の『薬丸家文書』参照
4. 「旧記雑録追録1」に掲載
5. 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集Ⅲ」の『蒲地四郎左衛門家系図文書写』参照

参考文献
・鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年

・鹿児島市史III《同書には「薬丸家文書」あり》

・「三国名勝図会」

・村山輝志「示現流兵法」

・「鹿児島県史料 旧記雑録追録1」
(wikiより)

129a

129b

129c



刀工。

128a

128b

128c



詳細不明。

127a

127b

127c

127d

127e



詳細不明。

125a

125b

125c

125d



儒学者。

124a

124b

124c



詳細不明。

123a

123b

123c



福岡藩士。

脱藩後、客死。

122a

122b

122c

122d

122e



↑このページのトップヘ