2021/03
5599 橋口杏庵墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5598 橋口与三次兼甫墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5597 橋口傳蔵伴兼備墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
同藩士・橋口与三次の次男[1]。諱は兼備[1]。
経歴
天保2年(1831年)鹿児島城下で誕生。江戸で安井息軒に学び、後に江戸藩邸の記録所書記となった[1]。
文久2年(1862年)橋口壮介らと江戸を脱して[1]上洛し、有馬新七らと佐幕派の九条尚忠や酒井忠義襲撃を画策する。
しかし京都寺田屋で集合中に島津久光に派遣された鎮撫使側の奈良原繁らによって斬殺された[1](寺田屋事件)。
贈従四位[1]。墓所は京都市伏見区の大黒寺[1]。
親族
・兄 橋口兼三(貴族院議員)
・弟 樺山資紀(海軍大将)
・子息 橋口勇馬(陸軍少将)[2]
脚注
1.a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』775頁。
2. 浜島速夫『三代軍人列伝 - 薩摩の武人たち』南日本新聞社、1975年、153頁。
参考文献
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
(wikiより)
5596 指宿五左衛門平永健墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5595 東郷愛之進實古墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5594 山之内次郎墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5593 薬丸半左衛門墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
薬丸 兼義(やくまる かねよし、文化2年12月25日(1806年2月13日) - 明治11年(1878年)12月1日)は薩摩藩の剣術師範。薬丸兼武の長子。幼名は、壱之助。通称ははじめ長左衛門、次いで半左衛門。諱は兼包、兼義。当時の一般的な呼称は薬丸半左衛門であり、史料中には主にこの名で登場する。薬丸流(薬丸自顕流)の師範として弟の薬丸新蔵とともに剣名が高く、下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。
家格は小番[1]であり、明治3年(1870年)4月の「人別改帳」では3番組8番小番であったことが分かる。 また、代官就任時の役料から石高は50石以下。奄美大島や徳之島の役人や代官[2]を勤める。
経歴 (月日は旧暦)
・文化12年(1815年)8月21日、初お目見え。
・天保6年(1835年)12月28日、同年7月14日に父兼武が屋久島で死去したため、家督相続。
・天保7年(1836年)8月15日、通称を長左衛門に改名する。
・天保9年(1838年)6月21日、通称を半左衛門に改名する。
・天保14年(1843年)、大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任[3]。
・嘉永4年(1851年)春、深見休八有安[4]の後任として徳之島蔵方目付となり、徳之島に赴任[5]。
・同年4月16日、徳之島の亀津に着く。
・嘉永6年(1853年)春、任期満了につき帰臥。
・嘉永7年(1854年)1月22日、年功者ではなかったが、特別に代官に就任し、役料銀5枚30目を支給される[6]。
・文久元年、藩主島津茂久の命により二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となる。当時、幕末の情勢により、武術を稽古する者が増え、演武館では手狭となったので、鹿児島城二ノ丸にも稽古所が置かれた。[7]。
・同年6月、剣術師範となったことにより、切米5石を与えられる[8]。
・文久2年(1862年)に島津久光が上洛。その際、什長としてこれに従う。
・元治元年に薬丸自顕流が二之丸稽古所での稽古から撤収する[9]。
・明治11年(1878年)に死去。法名あるいは神号は南林寺由緒墓にある現在の墓石には記載されていない。
人物
父の兼武の代に薬丸自顕流は異端として排斥されていたが、兼義もまた剣名が高いことや示現流師範家の東郷家と和解したこともあり、天保年間の薩摩藩の軍制改革に際し剣術師範として取り立てられた。
復権したものの、薬丸家は兼武の代の没落によってかなり貧しくなっており[10]、兼義兄弟はかぼちゃばかり食べて暮らしていたため、「かぼちゃ薬丸どん」と呼ばれていた。
兼義は、城下士の下級武士を中心に数多くの弟子を育てた。その弟子の中から幕末維新に活躍する人物が数多く出ることになる。(弟子の名前は薬丸自顕流を参照)
島津久光が上洛した際には什長としてこれに従ったとき、配下から突出するものがないように気を配ったが、結果として寺田屋事件がおき、弟子達が同士討ちすることとなった。しかし、この寺田屋事件で薬丸流の名が高まり、入門者が増えることとなった。例えば、加治木郷では、それまで真影流(直心影流)が主流であったが、これにより薬丸流が広まることとなった。
維新後は官途に就かず就農した。
西南戦争でさらに弟子の多くを失い、戦後ほどなくして失意のうちに病死した。長子の兼文が流派を継いだ。墓は現在、南林寺由緒墓にあり、南州寺および月照の墓に近い列にある。
宅地
『鹿児島城下絵図散歩』によると、天保13年(1842年)の頃、現在の鹿児島市加治屋町の地に「薬丸半左衛門 759坪」とある。また、安政5年(1858年)の段階でも加治屋町に居住していたことがわかる。なお、文政4年(1821年)の『鹿児島城下明細図』の方には、父の「薬丸長左衛門」の名がどこにもなく、かわりに加治屋町には親族と思われるが続柄不詳の「薬丸半兵衛」が住んでおり、天保13年(1842年)の頃まで「薬丸半兵衛」が住んでいたことがわかる。なお、兼義の宅地のあった場所は現在、鹿児島市立病院本館が建っている。
また、兼義の宅地の近くにあった小道は「薬丸殿小路」と呼ばれた。
家族
・妻
・生家不明。1817年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」によると当時54歳)
・子女(2男1女)
・兼文(壱之助、生没年は1850年(嘉永3年)5月13日~1914年(大正3年)6月24日)
・娘。1855年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」では当時16歳)
・猪之丞1857年~1870年以降(明治3年4月時点で14歳)
参考文献
・『鹿児島市史III』
・松下志郎『奄美資料集成』南方新社
・『鹿児島県資料集1 薩藩政要録』
・塩満郁夫、友野春久 編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版
・宮下満郎「池上四郎伝補説」(「敬天愛人」第20号別刷、西郷南州顕彰会、平成14年9月24日)
・村山輝志『示現流兵法』島津書房
脚注
1. 薬丸自顕流が下級武士を中心に行われたため薬丸家も下級武士だと書かれることが多い。しかしながら、薬丸家の家格は代々小番であるので、厳密に言うと家格の上では中級家臣でも上の方であった
2. 薩摩藩では地頭とは別に代官という職がある。地頭は家老や側用人などの藩の重役が兼務するのに対し、代官は藩内の席次が西郷吉兵衛の勘定方小頭より5つ下で、中級の職であった。
3. 『奄美資料集成』参照
4. この人物は真影流(直心影流)剣術師範であり、嘉永7年に江戸で死去したと『薩陽過去帳』にある。養子の深見休八有正は兼義同様に二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となり、西南戦争に薩軍として参加。
5. 『奄美資料集成』参照
6. 『薩藩政要録』によると、この役料は持高50石以下の者がもらうことがしるされている。また、代々小番は10人扶持相当の家格であるが、代官職は5人扶持級の役職であった。但し、当時は代々小番でも5人扶持級の役職に就けない者もいた。
7. 「池上四郎伝補説」参照
8. 『示現流兵法』参照。
9. 「池上四郎伝補説」参照
10. 大久保利世や西郷吉二郎の項にあるように、流刑者のでた家の家族は全員失職する。なお、一番重い終身流刑地の沖永良部島遠島の場合は、知行や財産まで没収される。〈山田尚二著「西郷吉二郎の、土持政照あて書間」(「敬天愛人」別刷)参照〉
(wikiより)
5592 志賀親墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5591 加賀武兵衛墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5590 松恵丸慰霊墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5589 加藤清風墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5588 入田養徳墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5587 平田大監物墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
経歴
平田宗保より始まる桓武平氏流平田氏次男家に生まれる。父は平田宗衛で、兄は平田新左衛門宗徳。元和9年3月13日に兄が25歳で死去したので、その養子となり家督相続。三河国の人で薩摩藩に来ていた水野柳滴より水野流居合を学んで皆伝を授かった。吟味役や町奉行などに就任。
寛永13年(1636年)に作成された「薩州鹿児島衆中屋敷検地帳」に「平田孫六(傍注に監物)・中屋敷2段2せ12分」とある。このことから、この年以降に通称を「孫六」から「監物」に変えたようである。
万治2年(1659年)作成の「万治鹿府高帳」には「平田監物・628石」とある。
菩提寺は曹洞宗松原山南林寺。「抄名墓録」では南林寺墓地の丸瓦羅橋[2]付近にあったという。墓は現在、南林寺由緒墓にある。
桂太郎兵衛忠増(初め忠益)の長女を妻とする[3]が男子なく、故に出水衆中の山田吉左衛門の子を婿養子とする。ただし、剣術は免許皆伝した家臣の武井種次が継ぐ。
脚注
1. なお、水野流は『示現流聞書喫緊録付録系図』では関口流居合のことという。薩摩藩では『水野流居合』の呼称が一般的であることは諸資料で散見できる。
2. 現在の鹿児島県鹿児島市の清滝川(鹿児島城築城前は甲突川本流だったという川)にかかっていた。
3. 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『桂彦大夫家系図』参照
参考文献
・太原久雄『南林寺に蔵む』
・上野尭史『鹿児島士人名抄録』高城書房
5586 無名墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5585 平瀬一鷗墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5584 森元貊墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5583 森元貞謙墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5582 森元貞興墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5581 末川久救墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5580 吉村遍宜墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5579 森山新蔵平永賀墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5578 伊地知愛四郎墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5577 二階堂右八郎墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5576 入佐助八墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5575 後醍院真柱墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5574 美玉三平墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5573 坂本廉四郎清東墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5572 猪谷徳蔵墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5571 東郷実羔墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5570 宮原清右衛門正行墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5569 山本正誼墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5568 迫田太次右衛門墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5567 篠崎仲苗墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
篠崎 仲苗(しのざき なかなえ、文政9年6月3日(1826年7月7日) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))は幕末の薩摩藩の武士。諱は仲苗。通称は彦十郎。島津斉興から島津忠義に仕えた名越彦太夫高房の次男で本姓橘氏で母方にあたる篠崎蔵太左衛門家の養子となり、名跡を相続する。
江戸芝藩邸において江戸留守居を務めていたが、庄内藩を中心とする江戸幕府軍による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に戦死。墓は現在、鹿児島県鹿児島市の南林寺墓地にある。
宅地
・『鹿児島城下絵図散歩』では安政6年(1859年)の地図に、現在の鹿児島市清水町の地に『篠崎彦十郎』の名が見え、宅地221坪と表記されている。
親族
・実父:名越彦太夫高房(名越左源太家分家筋の当主。家格代々小番。広敷御用人や側役、当番頭などを務める)
・母:篠崎蔵太左衛門仲教の姉
・兄:名越彦之進盛恭(仲苗が篠崎家にいって以降、夭折)
・弟:名越彦太夫高温(初め彦兵衛。父の家督を相続。奥小姓や目附を務める)
参考文献
・宮下満郎『戊辰・西南戦争と名越彦太夫』(敬天愛人別刷)西郷南州顕彰会
・塩満郁夫、友野春久『鹿児島城下絵図散歩』高城書房
・『要用留 天明6年 名越氏』鹿児島県立図書館所蔵
(wikiより)
5566 森山新五左衛門永治墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5565 岩下半之助墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5564 橋口与助墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5563 阿曽美久永墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5562 宮下文蟻墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5561 雨的墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5560 阪本清彦墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5559 細田四郎兵衛墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5558 吉田長清墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
5557 薬丸刑部左衛門入道如水墓(鹿児島県鹿児島市南林寺町・南林寺由緒墓)
経歴・
祖父の薬丸壱岐守が東郷重位の初陣の際に親代わりを務めた縁、またお互い屋敷が近かったこともあり[1]、東郷重位の勧めで示現流に入門した。ときに14歳。
東郷重位の子重方と同年代だったので、互いに切磋琢磨し、またたくまに上達した。16歳のときに早くも二段目を授かり、20歳の頃には皆伝して弟子を取ることも許された。
特に小太刀の技に優れた。当時はまだ戦国の気風が残っており、兼陳も刀傷沙汰に巻き込まれたり試合を挑まれたりしたが、その全てに打ち勝って剣名を高めた。
ある夜、兼陳は島津綱久に招かれ示現流の「意地」について問われた。その部屋には茶釜が置いてあったので兼陳は言った。「この茶釜を例えに使って示現流の『意地』を説明しましょう。」綱久は答えた。「よろしい。」兼陳「茶釜に水を入れて炭火を起こしこれを煮ます。水はだんだんとお湯になりそして熱湯になります。湯が蒸発し、炉の火は燃え続け茶釜を焼き、その色は紫、紅と変わります。こうなると、茶釜に触れるものは焼き尽くされます。これが当流の『意地』です。」
兼陳が稽古をすると、その気合のあまりのすさまじさに肥前焼きの茶碗が割れてしまうほどだったので、稽古中は茶碗を伏せるようにしていたという。その剣名は藩内で高く、東郷重位の五高弟に数えられるまでとなった。
83歳まで長生きし、東郷重位の教えを知る直弟子として流派内で重きを成した。
墓所は曹洞宗松原山南林寺[2]。法名は昌岳院殿薬翁清性大居士。現在、南林寺由緒墓に墓がある。
年譜
・寛永3年2月;東郷重位より示現流聞書誓喩奥書を与えられる。なお、このときの通称は大炊兵衛であった。[3]
・万治2年;「万治2年鹿府万治高帳」[4]に「薬丸刑部左衛門 219石」とある。
・元禄5年2月17日;妻の弟、蒲地八左衛門貞隆が82歳で死去[5]。
備考
1. 「鹿児島市史III」の「寛永十三年、鹿児嶋衆中屋敷御検地帳」によると、新堀の下に、『東郷肥前守 下屋敷 2反5畝』と『薬丸伴左衛門 下屋敷 5畝10歩』との記述がある。「本藩人物誌」では「半左衛門」となっているがこの「伴左衛門」は兼陳の父兼利と思われる。「伴左衛門」の「伴」は本姓が伴姓肝付氏であったことにちなむか?。
2. 玉龍山福昌寺の末寺。師匠家の東郷家も同寺に埋葬されていた。
3. 「鹿児島市史III」の『薬丸家文書』参照
4. 「旧記雑録追録1」に掲載
5. 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集Ⅲ」の『蒲地四郎左衛門家系図文書写』参照
参考文献
・鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
・鹿児島市史III《同書には「薬丸家文書」あり》
・「三国名勝図会」
・村山輝志「示現流兵法」