2021/04
5749 数姫墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
5748 万千代姫墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
5747 益姫墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
5746 宣姫墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
5745 吉川経忠墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
生涯・
吉川経倫の長男として生まれる。寛政4年(1792年)、父の隠居により家督を相続する。岩国の財政は経忠の襲封以前から悪化していた。経忠は文武教育を奨励し、敬神崇祖の範を示すことによって土風の刷新を図った。その上で財政の健全化を図り、家老の宮庄親徳と香川景晃らを中心に財政改革を推進した。しかし享和3年(1803年)に38歳で、麻疹の合併症のため死去した。
系譜
・父:吉川経倫(1746-1803)
・母:多芽 - 華厳院、一柳末栄娘。側室高木氏との説もある
・正室:悌 - 喬松院、織田信憑次女
・生母不明の子女
・長男:吉川経賢(1791-1807)
・四男:吉川礼成
(wikiより)
5744 喬松院墓(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)
以前の記事「 吉川家納骨堂 ( 記事番号 985 ) 」で書きましたが、今回はピンポイントでの再訪なので恐らく全部のお墓を撮影できたと思うのですが・・・
小雨が降る中で傘をさして、また時間的制約で駆け足の撮影なので「ボケ」てるのもありますがご容赦ください。
吉川家納骨堂
納骨堂は「家紋の形」をしているのでしょうか?
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〇 喬松院
8代藩主・経忠の正室。
戒名 喬松院殿妙境日悌大比丘尼。
5743 槍倒し松(錦帯橋傍)
槍倒 ( こか ) し松
この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒 ( こか ) し松です。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。
岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれをみて憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。
今では昭和十年 ( 1939年 ) の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。
昭和十九年 ( 1944年 ) 頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年 ( 1952年 ) 八月残念ながら枯れてしまいました。
この松は初代の松の実から自生した直系のの松を昭和四十三年 ( 1968年 ) 二月十五日三代目槍倒 ( こか ) し松として吉香公園から移したものです。
5742 巌流ゆかりの柳(錦帯橋傍)
5741 錦帯橋(山口県岩国市岩国1)
概要
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた[1]。「錦帯橋」という美名は、完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル[2]、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られている[2]。 石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる[2]。 また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建された。 西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。 現在、そのほとりには、錦帯橋友好の石碑が建立されている。
1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、現在の橋は1953年(昭和28年)、建造当時のまま復元されたものである[2]。
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。
歴史
創建時
錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって建造されたものである[2][4]。
初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水によりたびたび流失していた[4]。
3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。 橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。 しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。
広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという[4]。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている[5]。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた[6]。
広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという[5]。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた[5]。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した[5]。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。
なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
近代以降
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。
1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。
1950年(昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、それまでの戦時体制下で橋の補修がおろそかになっていたことや、前年に米軍が岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどが指摘されてもいる。
翌1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。
2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。
2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
特徴
構造
川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル[2]、桁橋は34.8メートル。
アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配をゆるめながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。
こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコの世界遺産に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。
2005年の台風被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。橋脚に衝撃を受けた場合、接続部のホゾ構造が橋本体に損傷を与えずに抜ける構造になっていたためである。
なお、近年、錦帯橋のアーチ形状は、カテナリー曲線(懸垂線)である可能性を複数の研究者が指摘している[7]。
材質
現在の橋体に使われている木材はアカマツ、ヒノキ、ケヤキ、クリ、カシ、ヒバで、木材の特性により使い分けられている。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が集められ、100%国産材で造られた。なお、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐りにくい青森産のヒバが初めて使われた。
一方、橋脚の石垣や河床の石畳は創建後に造り替えられた記録はなく、昭和の再建の際も崩壊した石材を集めて造り直された。このため、錦帯橋で唯一、創建時の部材が残っている箇所と言われている。ただし石垣の内部には、昭和の再建の際にコンクリートが打ち込まれている。
技術の継承
錦帯橋は、創建時から現代までの修復記録が、藩政の史料などでほぼ完全に残り、歴代の大工棟梁の人物名もすべて分かっている。
記録によると、江戸期にはアーチ橋(第二、第三、第四橋)は約20年ごと、桁橋(第一、第五橋)は約40年ごとに架け替えられ、橋板や高欄は約15年ごとに取り替えられてきた。現代までに行われた架け替え工事の回数は、第一橋10回、第二橋14回、第三橋14回、第四橋16回、第五橋9回である。橋自体は50年以上持つにもかかわらずこうした手法がとられたのは、大工技術の継承の意味合いが大きかったと推測されている。
現存する絵図面は、2回目の架け替えとなる1699年(元禄12年)のものが最古。そのほかにも12枚が残る。これらの架け替え記録から、架け替えのたびに改良が加えられ、1796年(寛政8年)の改良で現在の形状が定まったことがわかっている。以後210年間、形状や意匠の変更はされていない。
平成の架け替えの際は、こうした古図をもとに当時の技術の再現をめざすため、設計や測量はすべて尺貫法で行われた。釘もステンレス製などは一切使わず、手打ちしたたたら鉄の和釘が使われた。
江戸後期には架け替えに必要な用材を確保するため、計画的な植林がされていた記録が残っている。現代に
おいても、岩国市は将来にわたって架け替え材の自給をめざす「錦帯橋用材備蓄林200年構想」を打ち出して[8]植林活動を実施している。
入橋料
1966年以降は、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管理の財源に充てられるようになった。「通行料」ではなく、往復同額である。
料金所の営業時間は8時から17時まで(夏期は19時まで)で、それ以外の時間帯では、夜間料金箱に料金を入れて渡るようになっている。
渡橋自体は、24時間可能である(夜間ライトアップは22時まで)。
車両の進入
橋は、車両の進入が禁止されている。橋を破損させた場合、文化財保護法に触れるほか、損壊した箇所の修復に要する費用を請求されることがある。 1998年(平成10年)5月6日、橋を軽トラックで渡った3人の男が逮捕された。橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。 2020年(令和2年)7月17日、橋を400ccのオートバイで渡った男が後日警察に出頭、逮捕された[9]。
アクセス
・岩国駅から、いわくにバス「錦帯橋」(錦帯橋バスセンター)方面行きのバス(系統番号:12、13、21、31、32、42など)、防長交通バス「徳山駅」「高森」行きにて、乗車時間約15分-20分。下車場所から見える(下車後、徒歩100m程度)。
・西岩国駅からは、いわくにバス(系統番号:13)にて「錦帯橋バスセンター」に連絡。
・川西駅からも移動可能(岩徳線・錦川清流線経由)。列車下車後、徒歩約20分。川西駅から連絡する、いわくにバス(系統番号:42、65、66)もあり。
・新岩国駅から、いわくにバス(岩国駅行き)で約12分。
脚注
1. “錦帯橋 名前の由来”. 岩国市. 2018年2月25日閲覧。
2. a b c d e f 浅井建爾 2001, p. 218.
3. 『名勝 写真帳 上』明治後期-大正期撮影アルバム、静岡県立中央図書館蔵書、2020年5月18日閲覧
4. a b c 武部健一 2015, p. 124.
5. a b c d 武部健一 2015, p. 125.
6. 武部健一 2015, pp. 124–125.
7. 松塚展門「錦帯橋のアーチ形状に関する基礎的研究(立体骨組構造の施工ほか 構造i)」『学術講演梗概集. B-1, 構造I, 荷重・信頼性,応用力学・構造解析,基礎構造,シェル・立体構造・膜構造』、社団法人日本建築学会、2001年7月31日、 865-866頁、 NAID 110006565680。
8. 『錦帯橋みらい計画 - 基本方針』(平成24年3月、岩国市) p13
9. “錦帯橋にバイクで侵入 文化財保護法違反容疑で男逮捕”. 朝日新聞 (2020年7月21日). 2020年7月20日閲覧。
参考文献
・浅井建爾『道と路がわかる辞典』日本実業出版社、2001年11月10日、初版。ISBN 4-534-03315-X。
・武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。
関連項目
・日本三大一覧
・かずら橋
・猿橋
・木橋
・依田照彦
・中国防長新聞(錦帯橋を題字の字模様にあしらっていた)
・岩国飛行場(岩国錦帯橋空港)
・アサヒスーパードライ 2015年冬季のCMに錦帯橋が登場した。出演者は福山雅治。
外部リンク
・岩国市
5740 古歌碑(広島県尾道市・千光寺公園)
5739 河東碧梧桐句碑(広島県尾道市・千光寺公園)
5738 頼山陽像(広島県尾道市・千光寺公園)
5737 旧佐伯丹下屋敷(山口県萩市南古萩町)
当屋敷は、幕末安政年間 ( 1854 ~ 59 ) に描かれた「萩城下町絵図」によると、萩藩大組士 ( おおぐみし ) 佐伯丹下 ( さえきたんげ )( 125石 ) の屋敷であったことがわかる。
佐伯丹下は幕末期、直目付 ( じきめつけ ) や撫育方仕組掛 ( ぶいくしくみかかり )、奥番頭役 ( おくばんがしらやく ) など藩の要職を歴任、多年藩の財政整理や岩国吉川家との交渉に尽力した。
明治 5年 ( 1872 ) 65歳で没するまで、この家が本拠であった。
その後、安富五三郎 ( 通称 : 伊勢屋 ) の所有となり、親戚の久原房之助が衆議院議員に立候補の時には選挙事務所になったこともある。
戦時中は九州大学名誉教授の永積純次郎が住み、戦後は萩中学校の河内才三や、第六高等学校 ( 現岡山大学 ) 校長の金子幹太などが住んでいた。
屋敷は昔の状態がよく保たれており、映画のロケにも使われたことがある。
「直目付 ( じきめつけ )」 : 藩士の職務等を監察する役
「撫育方仕組掛 ( ぶいくしくみかかり )」 : 藩の別途会計を管理する役所。
「奥番頭役 ( おくばんがしらやく )」 : 藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統轄する役。
(案内板より)
5736 青木研蔵旧宅(山口県萩市南古萩町2)
青木研蔵 ( あおき - けんぞう )
文化 12年 ( 1815 ) ~ 明治 3年 ( 1870 ) 9月 8日
生まれは、周防国大島郡和田村
父・地下医 青木玄棟 母・モンの間に 2男として生まれる。
・天保8年 兄・周弼と長崎に遊学して蘭医シーボルトに学ぶ。日田の広瀬淡窓について蘭学を学ぶ。
後に江戸に出て字田川楱斎に医術を学ぶ。その他、伊藤玄朴の塾で教授もした。
・弘化 2年 藩命により江戸の出て長崎へ行く。その後、萩に帰る。
・弘化 3年 再び長崎に行く。
・弘化 4年 医学所の西洋書翻訳御用掛になる。
・嘉永 2年 種痘法伝習の命を受けて長崎に行き、痘苗を持ち帰り初めて藩内に種痘が実施された。
・嘉永 3年 好生館の西洋原書頭取役になる。
・嘉永 5年 都講役に。
・安政 2年 西洋学所師範掛に。
・文久元年 好生堂助教役を経て、
・元冶元年 侍医兼好生堂教諭役になる。測医となる。
・明治 2年 典薬寮医師になり、主計大允から大典医に昇任した。
・明治 3年 明治天皇に従って東京深川の閲兵式に参列し、その帰途、家屋倒壊して圧死した。
5735 青木周蔵旧宅(山口県萩市南古萩町2)
来歴
生い立ち
長門国厚狭郡生田村[注釈 1](のち山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医・三浦玄仲の長男として生まれ、22歳の時毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼(1803年 - 1864年)の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏(1815年 - 1870年)の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の娘・テルと結婚する。
留学
明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て1868年(明治元年)、藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年(明治5年)、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し、物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。
外務省勤務
1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。1876年にはエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った[1]。
この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた[2]。1878年には、オランダ公使も兼任している。
1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任、1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている[3]。1885年(明治18年)にオランダ、ノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった[4]。1886年(明治19年)、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、1887年まで井上外交を支えた[4]。
1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した[4]。
外務大臣就任、条約改正交渉
「外国人司法官任用問題」も参照
来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた[4]。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。
帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。
1894年(明治27年)駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。
1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を経て叙勲され子爵となる。
1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。
1914年(大正3年)2月6日、肺炎のため死去[5]。
政策
外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。
ドイツ文化の導入
留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。獨逸学協会にも会員として在籍し、獨逸学協会学校の評議委員も務めた[6]。
「青木覚書」
大隈重信遭難後、第1次山縣内閣と第1次松方内閣の外務大臣として条約改正交渉を主導した。条約改正方針として「青木覚書」を山縣内閣の閣議に提出している。その骨子は、
1. 外国出身の法律家を大審院の法官に任用せざること。
2. 法典を早きに及びて編成発布することを約束せざること。
3. 不動産の所有権は、領事裁判を撤去せざる間は、其抵償物として之を外国人に許与せざること。
4. 外国人取扱上に付、経済上又は法律上、或る場合に於ては、特権の制限を設くること。
であり、「其範囲内に於て全権を実際に便宜運用するは改正事務を委任されたる人の裁酌する所に任すべし」というものであった[4]。
家族
・最初の妻にテル(養父青木研藏の娘)
・2番目の妻としてプロイセン貴族令嬢エリザベート(エリーザベト)・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade)。
・エリザベートとの子・ハナ(1879年 - 1953年)[7]は、プロイセン・シュレージェン州(現・シレジア)の領主の次男で駐日ドイツ公使館主任外交官補のアレキサンドル・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク伯爵[8]と1904年に東京で結婚し、夫婦の間に一人娘ヒサ[9]が生まれ、ドイツとオーストリアにその子孫が健在する[1]。ヒサの外孫の一人、ニクラス・ザルム・ライファーシャイト[10]が2004年に那須別邸を訪れ、ハナの写真などを寄贈した。
・養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫などを歴任)の三男[11](テルと周蔵の離婚にともない、青木家の家督継承者として梅三郎が養子に入った)
・義孫青木重夫は梅三郎の長男。貴族院子爵議員を務めた[11]。梅三郎の長女田鶴子の長男
・ペルー日本大使公邸占拠事件時の在ペルー特命全権大使青木盛久は義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)。
・日本ホテル協会会長などを務めた原範行も義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)[12][13]。
栄典
位階
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[14]
・1914年(大正3年)2月16日 - (没後追叙)正二位[15]
勲章等
・1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[16]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[17]
・1890年(明治23年)6月30日 - 勲一等瑞宝章[18]
・1894年(明治27年)8月29日 - 旭日大綬章[19]
・1914年(大正3年)2月16日 - (没後叙勲)旭日桐花大綬章[15]
外国勲章等佩用允許
・1885年(明治18年)12月25日
・ザクセン=コーブルク=ゴータ公国:エルコスト第一等勲章[20]
・メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライヘン第一等勲章[20]
・1887年(明治20年)9月27日 - ポルトガル王国:キリスト勲章グランドクロア[21]
・1888年(明治21年)2月21日 - 勲一等タイ王冠勲章[22]
・1891年(明治24年)5月27日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章[23]
・1895年(明治28年)8月17日
・1等オスマニエ勲章
・1902年(明治35年)7月22日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロワー[25]
著作
・坂根義久 校注『青木周蔵自伝』
(平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4
(平凡社東洋文庫ワイド版、2004年) ISBN 4-256-80168-5
詳しいことは、「青木周蔵ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%91%A8%E8%94%B5
(wikiより)
青木周蔵
5734 青木周弼旧宅(山口県萩市南古萩町2)
この家は、藩医 ( 西洋内科 ) 蘭学者であった青木周弼の旧宅である。
安政 6年 ( 1859 ) に建てられたものであるが、あまりれ改造されておらず当時の様子をよく残している。
青木周弼は、大島郡和田村 ( 現東和町 ) の医師に生まれ、藩主・毛利敬親 ( たかちか ) の侍医や医学館の館長をつとめた。
日本屈指の医師として全国的に知られ、各地から集まった多くの弟子を育てた。
また、村田蔵六 ( のちの大村益次郎 ) が萩藩に出仕した時には、親代わりとなり世話をした。
(案内板より)
〇 青木周弼
青木 周弼(あおき しゅうすけ、享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医。周防国大島郡和田村の村医青木玄棟の長子。諱は邦彦で、周弼は字。号は月橋。
初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した[1][2]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。
1839年に長州藩医、1842年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、1855年に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。
著書に「袖珍内外方叢」、「察病論」など。
山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。
脚注
1. “青木周弼・研蔵生誕の地”. 周防大島町. 2010年3月3日閲覧。
2. 萩市観光課 (2009年10月23日). “青木周弼旧宅”. 萩市. 2010年3月3日閲覧。
(wikiより)
5733 円政寺金毘羅社(山口県萩市大字南古萩町6・円政寺)
伊藤博文、高杉晋作、両公幼年勉学之所
金毘羅社の建立年は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享 2年 ( 1745 ) と彫られている点や天保年間 ( 1830 ~ 43 ) に編纂された「八江萩名所図面」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。
本殿は木造切妻造檜皮葺で桁行 1.73m、梁間 1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。
釣屋は桁行 5.41m、梁間 5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。
拝殿は一重裳階付、入母屋造本瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行 4.0m、梁間 6.1mの本県独特の楼造風である。
このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でもみられる点で貴重な遺構である。
石鳥居は花崗岩製で高さ 2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反りがあり、柱には転びがあり、柱頭部には題輪がついている。
建立年代は延享 2年 ( 1745 ) である。
山門は桁行 2.42m、梁間 1.34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に 1.35mの潜門がついている。
建築年代は不明である。
石灯篭は玄武岩製で高さ 4.3m、さらに 77cmの 4段の台座上に立ち、県下最大のものである。
竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ 1.14m、直径 52cmである。
制作年代安政 5年 ( 1858 ) で萩の石工・五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同制作であり、付近の町人たちが寄進したものである。
(案内板より)
5732 松下村塾(山口県萩市椿東1537)
5731 松陰神社(山口県萩市椿東1537)
山口県萩市椿東に所在。旧社格は県社。JR山陰本線東萩駅下車。
1890年(明治23年)、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である。1907年(明治40年)、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたものである。創建当時の土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっている。
境内には松下村塾が現存している。また松陰幽囚の旧宅・吉田松陰歴史館などがある。2009年10月28日には松陰没後150年を記念し、宝物殿『至誠館』が開館した。また、2017年12月18日には明治改元(1868年)から150年の節目に際し、“自立学習の祖”と記した「吉田松陰先生」顕彰碑が建立された。萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
松門神社の諸祭神
外部リンク
・松陰神社 山口県萩市鎮座 明治維新胎動の地
脚注
1. a b c d 東京都神社庁.
2. a b c “平成 27(2015)年版 ふるさと萩のすがた (PDF)”. 萩市. p. 9 (2015年). 2020年7月2日閲覧。
(wikiより)
5730 吉田松陰句碑(山口県萩市椿東1537)
親思う心にまさる親こころ
今日のおとづれ何ときくらん
尊王の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が幕府を刺激し、安政の大獄により捕らえられた。
この歌は、処刑を覚悟した松陰が安政六年 ( 1859 ) 十月二十日郷里の両親に宛てた別れの書簡「永訣 ( えいけつ ) の書」の中で詠まれたものである。
享年 三十
松陰の両親に先立つ不孝を詫びている気持ちが込められている。
付記
碑文は松陰の自筆を模写拡大したもので、寅二郎は松陰の通称である。
(案内板より)
5729 明治維新胎動之地(山口県萩市椿東1537)
5728 宮川由多加墓(台東区谷中・谷中霊園)
宮川由多加 ( みやかわ - ゆたか )
慶応 2年 ~ 明治 37年 1月 22日 ( 1866 - 1904 )
日本で初めてニッケルメッキの工業化した人。
三河出身。
薬剤学者でメッキ法を発明。
明治 25年 ( 1892 ) 宮川由多加が、ニッケルメッキを日本ではじめて工業化し、本格的なメッキ工場を東京で創業した。
因みに、 日本で電気メッキをはじめて行なったのは、鹿児島藩主・島津斉彬 ( しまず - なりあきら ) で、安政 2年 ( 1855 ) ダニエル電池を用いて、甲冑製品に金、銀メッキをおこなったとされる。
大阪宮林電鍍工場宮林操三の実兄。39歳没。
正面「宮川由多加之墓」。大きな顕彰碑がある。
5727 厚東常吉翁之像(山口県萩市椿東1537)
5726 薩長土連合密議之處(萩市椿東1537)
この石碑は、明治百年記念の昭和 43年 ( 1968 ) に建立された。
文久 2年 ( 1862 ) 1月、土佐藩士・坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山の書簡を持って久坂玄瑞を訪ね来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。
たまたま薩摩藩士・田上藤七も同藩士・樺山三円の書簡を持参して来ていた。
図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士が一同に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。
久坂の武市瑞山宛の、書簡によれば、「諸侯も公卿も恃むに足らず、草莽の志士を糾合し、義挙の外にはとても策無し」と述べられており、松陰の「草莽崛起論 ( そうもうくっきろん )」に通じる内容を語り合ったと思われる。」
5725 高岡熊雄生誕地(島根県鹿足郡津和野町大字後田山根丁)
5724 高岡直吉生誕地(島根県鹿足郡津和野町大字後田山根丁)
5723 頼山陽碑(広島県尾道市・千光寺公園)
5722 大岡家老門(津和野町後田殿町)
5721 内田嘉一墓(台東区谷中・谷中霊園)
5720 亀田鶯谷墓(今戸2-5-4・称福寺)
5719 川路利瞑墓(台東区谷中・谷中霊園)
5718 戸田忠義墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる[1]。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった[1]。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった[1]。
父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する[1]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。
1883年(明治16年)、宮中賢所勤番に就任する[2]。1890年(明治23年)7月、貴族院子爵議員に選出され、1900年(明治33年)9月29日に辞職した[2][4]。
1915年(大正4年)4月、横須賀市汐入の自宅で病のため死去した[5]。
親族
・先妻 清子(すがこ、岡部長職長女、離縁)[1]
・後妻 慶子(けいこ、鶴田氏)[1]
・男子 戸田忠粛(子爵、大蔵官僚)[1]
脚注
1. a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』下巻、190頁。
2. a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。
3. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
4. 『官報』第5177号、明治33年10月2日。
5. 『大正過去帳』63頁。
参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
5717 戸田忠節墓(台東区谷中・谷中霊園)
5716 戸田忠顕墓(台東区谷中・谷中霊園)
5715 戸田忠和墓(台東区谷中・谷中霊園)
5714 戸田忠肅墓(台東区谷中・谷中霊園)
5713 戸田忠綱墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
天保11年(1840年)12月3日、下野宇都宮藩の家臣・戸田和三郎(後の高徳藩主戸田忠至)の長男として江戸の宇都宮藩邸で生まれる。慶応3年(1867年)9月9日に山陵奉行見習に任じられる。明治元年(1868年)に即位間もない明治天皇に馬術の指導を行った。明治2年(1869年)5月15日、父の隠居により家督を継いで高徳藩主となり、6月25日に従五位下・備後守に叙位・任官して高徳藩知事に任じられた。
明治3年(1870年)3月19日、藩庁を下総曾我野陣屋に移し、8月12日に曾我野藩知事に任じられる。明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免官された。明治15年(1882年)6月、家督を長男の忠義に譲って隠居する。
大正11年(1922年)1月28日に死去、享年83。
(wikiより)
戸田忠綱
5712 戸田忠至墓(台東区谷中・谷中霊園)
来歴
文化6年(1809年)、宇都宮藩の重臣田中忠舜(第2代宇都宮藩主戸田忠翰の弟で、200石の重臣として5代藩主戸田忠明や6代藩主戸田忠恕を補佐した)の次男として生まれる。文政元年(1818年)3月に家臣の木村内蔵助の養子となったが、文政12年(1829年)11月、養子縁組を解消される。天保4年(1833年)12月23日、宇都宮藩の家臣となり200石を知行した。天保13年(1842年)3月25日、重臣の間瀬家を相続し、600石を知行した。後に加増されて1000石となる。用人や番頭職を歴任し、弘化元年(1844年)6月に家老、安政3年(1856年)10月に上席家老になった。
文久2年(1862年)閏8月14日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年10月22日、藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)1月21日、従五位下・大和守に叙任する。元治元年(1864年)1月29日に大名格となり、同年7月12日に諸侯(正式の大名)に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)9月25日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。
元治元年に天狗党の乱が発生すると、水戸天狗党による藩への援助要請を拒絶したが、乱後、追討しなかったために幕府から結託を疑われ、宇都宮藩は陸奥棚倉への減移封を命じられそうになった。しかし、山稜修補の功労者であった忠至が朝廷に運動した結果、移封は中止となった。
慶応2年(1866年)3月、藩主戸田忠友は忠至の功により1万石を分与し、忠至は高徳藩を興した。同年12月28日、幕府から禁裏付頭取との兼任を命じられる。慶応3年(1867年)7月5日、若年寄との兼任を命じられる。
慶応4年(1868年)1月20日、新政府から参与兼会計事務掛を命じられる。同年4月29日、京都裁判所副総督との兼任を命じられ、閏4月22日、従四位上に昇進する。
明治2年(1869年)5月15日に隠居し、長男の忠綱に家督を譲った。同年12月12日、明治政府は山陵修復の債務に苦しむ忠至に対し、7000両を支給した。
明治16年(1883年)、死去、享年75。
関連項目
・御陵衛士 - 忠至の配下として結成された。
(wikiより)
戸田忠至
5711 山田文雄墓(台東区谷中・谷中霊園)
5710 山田文太郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
文久元年 ~ 昭和 7年 12月 30日 ( 1861 - 1932 )
神岡鉱山事務所長・工学博士。
父、福井県士族・田口十内 ( 三男 )。
明治 8年 ( 1875 ) 山田慎の養嗣子となる。
明治 22年 ( 1889 ) ドイツ鉱山学校に留学。帰国後、御料局技師。
明治 29年 ( 1896 ) 官を辞し、明治 22年 ( 1889 ) から皇室財産となっていた生野銀山に奉職。
明治 29年 ( 1889 ) に三菱に払下げられ、三井鉱山に転じ、神岡鉱山事務所長となる。
明治 34年 ( 1901 ) 工学博士。従六位。
著書:「一日之化学」。
※ 神岡鉱山事務所長時代の逸話:赤字続きで閉山をしたいが、村ひとつが潰れるというので、ずるずると先延ばし挽回をしている最中に、亜鉛の発明があり、亜鉛鉱に対する需要がおこり、亜鉛採掘が可能になり、閉山を回避できたという。


5709 稲山嘉寛墓(台東区谷中・谷中霊園)
来歴・人物
東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。銀行を始めたのは祖父稲山久仙で千葉県の農家の二男として生まれ幕末、11歳の時江戸へ出て働くうちに見込まれ、稲山家の養子になり勤倹貯蓄のすえ、小なりとはいえ銀行をつくった。
入学試験・入社試験には苦労し続け、泰明小を経て、中学受験では東京府立一中、府立四中、開成中、麻布中に落ち、神田の錦城中に入学する。その後も府立一中の転入試験を二度受け、二度目の受験時には制服制帽も買い揃えていたが失敗。高校入試も水戸高等学校に落ち、翌年仙台の第二高等学校に入る。大学は当時新設学科のため無試験だった[1]東京帝国大学経済学部商業学科に入学することができたが、就職活動でまた一苦労する。大蔵省、鉄道省、日本銀行、三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)、三井銀行(現・三井住友銀行)その他に立て続けに落ち続け、ようやく商工省より高等文官試験パスを条件に内定を獲得、見事高文に合格し、1927年官営八幡製鐵所に入所する。
入所後販売畑を歩み、1946年日本製鐵(日鉄)営業部長、1950年日鉄分割によって発足した八幡製鐵常務兼営業部長、1960年副社長を務めた後、1962年社長に就任する。社長就任後は日鉄時代の上司である富士製鐵社長の永野重雄とともに、旧日鉄の復活を目指し、公正取引委員会他の反対を乗り越えながら、1970年八幡・富士合併による新日本製鐵(現:日本製鉄)誕生を実現させた。稲山が合併推進に尽力したのは、1960年代後半から鉄鋼業界の過当競争が激しくなり、価格安定のためには1位・2位メーカーが合併して需給調節をするしかないという結論に至ったからであった。このように、つねに「競争より協調を目指すべき」という信念が経済人稲山の行動原理として貫かれており、「ミスター・カルテル」の異名を取るに至った。
稲山は新日鉄の初代社長(1970年~1973年)、会長(1973年~1981年)を務めたのち、1980年土光敏夫の後継として第5代経団連会長に就任する。1980年代より欧州・米国との間で貿易摩擦問題が発生したが、稲山は国際協調を重視し「我慢の哲学」を押し出して自動車・VTR等の輸出自主規制を指導した。また「増税なき財政再建」を目指すべく「行革推進5人委員会」のメンバーとなり、土光臨調をバックアップした。1982年勲一等旭日大綬章受章。
銀行頭取の御曹司だけあり、若い頃から小唄・常盤津節をたしなむなど洒脱であったが、私生活は質素であり、死去まで約40年近く世田谷の新日鉄社宅に住み続けた。
1987年10月9日、肺癌のため逝去。享年83。
韓国への技術供与
浦項総合製鉄(現在:ポスコ)の当時の社長の朴泰俊(現在は名誉会長)は「物を盗むのは泥棒で悪いことだが、心を盗むのは良いことで戦略的なこと」と誇り、新日本製鉄の会長だった稲山を「いろいろと助けてくれた。心が開かれた方だった。」とし、103万トンの1次高炉が成功した後に会いにいった当時、日本の最新流行歌を多く知っていたので稲山会長が自分の車に同乗させると、歌ってみろと言われて歌ってみると、『よくやった』と大喜びされるほど親しかった」とエピソードを明かし、「親しくなってこそ全てを持ってこられる。こうした戦略がなければ技術は導入できない。このように人間の心を盗んでこそ技術まで、願うものを持ってこれる」と語っている[2]。
朴曰く稲山会長は全面支援を約束したが、製鉄所の現場は世界最高の技術をなぜ他人に譲らなければいけないのかと、上からの命令にも抵抗したが、製鉄所のアイデンティティーといえる規定集(製鉄技術マニュアル集)、図面設計、機械の性格を日本の先進製鉄所からほとんどすべて導入することができた[3]。
稲山の死後、技術流失はさらに加速し、後にポスコによって経営難に追い込まれるなど日本の製鉄業界に負の遺産を後世に残した[4][5]。
家族 親族
・三男 稲山孝英(ヤナセ第3代社長) – 妻はヤナセ第2代社長梁瀬次郎の娘[6]
・その他の親戚 赤城宗徳(政治家)、鹿島守之助(実業家)など
詳しいことは、「稲山嘉寛ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B1%B1%E5%98%89%E5%AF%9B
(wikiより)
5708 松居松翁墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、二歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。
1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。
1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。この頃から歌舞伎に通った。文学を志し坪内逍遙に師事し、1891年の創刊から、早稲田文学の編集に従った。
1894年(明治27年)(24歳)、初めての脚本『昇旭朝鮮太平記』を読売新聞に発表し、1895年中央新聞の、1896年報知新聞の、1897年万朝報の記者を務めた。速筆だった。小説や翻訳も発表し、それらのうちの史劇『悪源太』を、1899年、初代市川左団次一座が演じた。座付きでない文士の作品を歌舞伎が取り上げた最初だった[1]。続いて、『源三位頼政』『後藤又兵衛』『敵国降伏』も上演された。
1905年(明治38年)に初代左団次が没すると、長男の市川莚升を助け、その年から翌1906年にかけて『粗忽の使者』、『江戸気性』を書き、ユーゴーの『エルナニ』を翻案して与えた。新派の伊井蓉峰や高田実にも書いた。
1906年、ヨーロッパへ演劇研究に渡り、翌年、二代目左団次襲名後の莚升を呼んで英・仏・独の演劇を学ばせた。そして1908年、書き下ろしの『袈裟と盛遠』ほかを上演させたが、興行的には失敗し、東京を去った。
1909年(明治42年)(39歳)、三越の嘱託になって『三越タイムス』を編集し、また、発足した坪内逍遙・島村抱月の文芸協会演劇研究所に招かれて講師を勤めた。1911年、新開場の帝国劇場の演劇主任を引き受けたが三越側の苦情でやめ、1913年、抱月脱退後の文芸協会を指導したものの間もなく解散となり、次いで河合武雄と『公衆劇団』を組織した。
1918年(大正7年)(48歳)、三越を退き松竹の文芸顧問となって台本を書き舞台を監督をした。1919年、欧米の劇団を視察。帰国後、暫く休養した。
1922年、演劇活動を再開し、また、1927年、電気療法を会得して診療し、1929年には合気道の免許を受け、1930年からはフロイトを研究し、1933年からはギリシャ語を修めてエディプス王を翻訳し上演した。
その1933年夏、リンパ腺炎に尿毒症を併発して没した。63歳。『無名院松翁高風大居士』。墓碑は、春性院谷中墓地。乙11号14側通路前にある[2]。
家族
妻・勝(1951年没)、長男・主税(1938年没)、三男・桃多郎(1994年没)
業績
台本の初演の記録(抄)
翻訳は原作者名:『外題』、主演者、劇場(上演年月)、[備考] の順に記す。
・『昇旭朝鮮太平記』、福井茂兵衛、大阪(1894)
・『源三位頼政』、初代左団次、(1901.1)
・『山賊芸者』、伊井蓉峰・河合武雄ら、真砂座(1902.1)
・『後藤又兵衛』、初代左団次、明治座(1904.1)
・『敵国降伏』、初代左団次、 明治座(1904.5)[ 日露戦争開戦]
・『粗忽の使者』、二代目市川左団次、明治座(1904.9)[初代左団次没後]
・『江戸気性』、二代目左団次、明治座(1904.9)
・ダンテ:『フランチェスカの悲哀』、高田実ら、本郷座(1904.9)
・ウィリアム・ル・キュー(William Le Queux):『虚無党奇談』、伊井蓉峰・河合武雄ら、真砂座(1904.9)
・ユーゴー:『エルナニ』、二代目左団次、明治座(1905.1)
・『袈裟と盛遠』、二代目左団次、明治座(1908.1)
・ホール・ケン(Hall Caine):『ボンドマン』(Bondman)、川上音二郎、本郷座(1909.1)
・『見合い』、高田実・河合武雄ら、本郷座(1909.4)
・オーガスタ・グレゴリー:『噂のひろまり』(The spreading the news)、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.1)
・T.W. Roeston:『デヴィッド・ガーリック』(David Garrick)、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.3)
・『女』、河合・伊井・藤沢浅二郎ら、本郷座(1910.7)
・原作者不詳:『孤島の兄弟』、文芸協会生、文芸協会演劇研究所(1910.7)
・『最愛の妻』、河合武雄、新富座(1911.7)
・小デュマ:『椿姫』、河合・伊井・藤沢ら、帝国劇場(1911.4)
・原作者不詳:『結婚反対倶楽部』(Me a man)、帝劇女優ら、帝国劇場(1911.1)
・『胡蝶の舞』、柴田環ら、帝国劇場(1911.1)
・『邯鄲城』(翻案)、高田・河合ら、本郷座(1911.1)
・『女優募集』(翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1911.1)
・『陽気な女房』(翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1912.2)
・『釈迦』(翻案)、浅野太郎、帝国劇場(1912.6)
・『貞操』(ローベルト・ブラッコ(Roberto Bracco) のファンタズム(phantasms)の 翻案)、帝劇女優ら、帝国劇場(1912.9)
・『願の石』(翻案)、伊井蓉峰ら、明治座(1912.1)
・バーナード・ショー:『二十世紀』(You never can tell)、文芸協会生、帝国劇場(1912.1)
・フェルスター:『思ひ出』、文芸協会生、有楽座(1913.2)
・サルドゥー:『トスカ』、川上貞奴・松本幸四郎、帝国劇場(1913.6)
・『マクベスの稽古』、河合武雄ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)
・ロビンソン(Lennox Robinson):『茶を作る家』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)
・ホフマンスタール:『エレクトラ』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、帝国劇場(1913.1)
・『富士の麓』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、本郷座(1914.4)
・『暮の廿一日』、河合武雄・小織桂一郎ら公衆劇団、本郷座(1914.4)
・『混戦』、帝劇女優ら、帝国劇場(1914.8)
・『敵軍来たれり』、伊井・河合ら、、(1914.9)[ 第一次世界大戦期]
・『英雄と美人』、川上貞奴・松本幸四郎、帝国劇場(1914.1)
・『秀吉と淀君』、東儀鉄笛・河村菊江、帝国劇場(1914.1)
・『稚児姿一休禅師』、伊井・河合・小織、新富座(1915.9)
・『軍神』、尾上菊五郎・中村吉右衛門・川上貞奴、市村座(1915.9)
・『灯篭大臣』、松本幸四郎・森律子、帝国劇場(1915.9)
・『飛行芸妓』、初代沢村宗之助・初瀬浪子、帝国劇場(1916.2)
・『医師の母』、帝劇女優ら、帝国劇場(1916.5)
・『他人の子』、帝劇女優ら、帝国劇場(1917.2)
・『寝台列車』、沢田正二郎・倉橋仙太郎、新富座(1917.4)
・『散楓恋血祭』、市川猿之助、新富座(1917.9)
・『三組盃』、伊井・河合・喜多村緑郎、新富座(1917.9)
・ヴェルディ:『アイーダ』、貞奴・河合・伊井、新富座(1917.1)
・『信夫里仏師物語』、沢村宗之助、帝国劇場(1918.5)
・『白耳義の悲哀』、舞台協会、有楽座(1918.5)
・『結婚の前』、帝劇女優ら、帝国劇場(1918.7)
・『増補兜軍記』、二代目左団次・三代目中村雀右衛門、明治座(1918.9)
・『淀君』、五代目中村歌右衛門・二代目左団次、歌舞伎座(1918.11)
・『坂東武者』、二代目市川猿之助、明治座(1918.11)
・『妖霊星』、主演者不詳 、明治座(1918.11)
・『太閤記朝鮮巻』、市川中車、帝国劇場(1918.12)
・『烈女初子』、歌右衛門、歌舞伎座(1919.1)
・『羅馬の使者』、二代目左団次、明治座(1919.3)
・『堀川夜討』、文芸座、帝国劇場(1919.1)
・『護国女太平記』、歌右衛門、歌舞伎座(1920.1)
・『春の村』、 喜多村緑郎、新富座(1920.1)
・『雪のふる夜』、猿之助、明治座(1921.3)
・『明治第一年』、歌右衛門・二代目左団次、歌舞伎座(1921.4)
・『養蚕の家』、歌右衛門・吉右衛門、新富座(1921.7)
・『雷鳴』、猿之助・坂東秀調、歌舞伎座(1921.8)
・『織田信長』、二代目左団次・三代目阪東寿三郎、知恩院(1922.1)[野外劇]
・『清洲城』、歌右衛門、新富座(1923.1)
・『薩摩の淀君』、歌右衛門、本郷座(1923.3)
・『人形師』、片岡仁左衛門、明治座(1923.4)
・『聖母』、歌右衛門、明治座(1923.5)
・『家康の母』、歌右衛門、新富座(1923.6)
・『淀君と五右衛門』、帝劇女優ら、帝国劇場(1923.7)
・『卑怯者』、猿之助、本郷座(1924.4)
・『政子と頼朝』、猿之助、本郷座(1924.6)
・『弱虫』、猿之助・四代目片岡市蔵、日本橋劇場(1924.7)
・『開国秘話』、市川筵升・中村芝鶴、松竹座(1924.7)
・『吉田松陰』、沢田正二郎、演技座(1924.7)
・『義経と伊勢三郎』、「中村扇雀・板東寿三郎、浪花座(1924.8)
・『美代吉殺し』、喜多村緑郎・片岡我当、中座(1924.9)
・『大磯・小磯』、猿之助・秀調、邦楽座(1924.1)
・『応挙と芦雪』、松本幸四郎、邦楽座(1924.1)
・『朝日丸』、河合武雄、本郷座(1925.1)
・『ユウデット』、河合・英太郎、邦楽座、(1925.2)
・『パリアッチ』、十三代目守田勘弥、帝国劇場(1925.2)
・『乃木将軍』、幸四郎、歌舞伎座(1925.1)
・『坂崎出羽守』、阪東寿三郎、角座(1926.1)
・『老松若松』、六代目尾上梅幸、帝国劇場(1926.1)
・『山吹の里』、二代目実川延若・秀調、中座(1926.3)
・『淀君と小田原陣』、歌右衛門、歌舞伎座(1926.4)
・『楠木正成』、二代目左団次、歌舞伎座(1926.5)
・『明治の曙』、幸四郎、帝国劇場(1926.7)
・『和田の酒盛』、幸四郎、帝国劇場(1926.7)
・『楓橋雪夜譚』、市村羽左衛門、歌舞伎座(1926.7)
・『和宮樣御使』、梅幸・幸四郎・河合、帝国劇場(1926.1)
・『女楠』、歌右衛門、歌舞伎座(1926.1)
・『法場換子』(とりかえご)、守田勘弥、帝国劇場(1926.1)
・『養蚕の家』、花柳章太郎ら、角座(1927.1)
・『児島高徳』、二代目左団次、歌舞伎座(1927.2)
・『源平盛衰記』、歌右衛門・中車、歌舞伎座(1927.4)
・『前々太平記』、六代目市川団之助・五代目高助、帝国劇場(1927.4)
・『参照四谷五更話』、六代目市川寿美蔵、帝国劇場(1927.8)
・『増補太平記』、東京俳優協会、歌舞伎座(1927.1)
・『和泉式部』、歌右衛門、歌舞伎座(1928.1)
・『又五郎兄弟』、羽左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.3)
・『春霞旅行橘』、菊五郎・羽左衛門、歌舞伎座(1928.3)
・『平清盛』、市川中車、歌舞伎座(1928.5)
・『上野戦争』、仁左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.6)
・『六韜三略恋兵法』、市川寿美蔵、帝国劇場(1928.7)
・『義経記』、寿美蔵・秀調、明治座(1928.8)
・『おまん源五兵衛』、守田勘弥、帝国劇場(1928.9)
・『人情深川祭』、仁左衛門・菊五郎、新橋演舞場(1928.1)
・『命髪切り』、羽左衛門・菊五郎、歌舞伎座(1928.1)
・『夢相兵衛胡蝶譚』、守田勘弥、帝国劇場(1928.1)
・『尾形光琳』、中村福助・片岡我当、中座(1929.1)
・『泡』、主演者不詳、市村座(1929.1)
・『遠山の金ちゃんと鼠小僧』、水谷八重子・梅島昇、市村座(1929.2)
・『台湾神社』、二代目左団次・猿之助、歌舞伎座(1929.3)
・『討てば討たるる』、幸四郎、帝国劇場(1929.7)
・『秀吉と淀君』、伊井、喜多村、河合ら、明治座(1929.8)
・『緊縮』、帝劇女優ら、帝国劇場(1929.9)
・『新宿行進曲』、吉右衛門、歌舞伎座(1929.9)
・『高野長英』、菊五郎、新橋演舞場(1929.1)
・『恋愛競争』、八重子・二代目市川小太夫、新橋演舞場(1929.1)
・『吹雪の夜』、井上正夫、南座(1930.4)
・『旅順包囲録』、二代目左団次・守田勘弥、歌舞伎座(1930.6)
・『玉藻前』、中村魁車・寿三郎、中座(1930.1)
・『日蓮上人』、幸四郎、歌舞伎座(1931.3)
・『ある陪審裁判』、河合・喜多村、帝国劇場(1931.4)
・『山田長政』、片岡我当、帝国劇場(1931.5)
・『治承の秋』、菊五郎、歌舞伎座(1931.6)
・『江戸から東京』、菊五郎・幸四郎、東京劇場(1931.1)
・『紅葉散故郷の唄』、羽左衛門、歌舞伎座(1931.1)
・『満州事変』、猿之助・沢村訥子、東京劇場(1931.1)[満州事変期]
・『肉弾三勇士』、菊五郎・羽左衛門、歌舞伎座(1932.3)[ 第一次上海事変期]
・『上海の殊勲者』、新派合同、明治座(1932.3)
・『大場鎮総攻撃』猿之助、東京劇場(1932.3)
・『エディプス王』、フロイト祝祭劇、朝日講堂(1933.4)
・『岩倉具視』、二代目左団次、歌舞伎座(1933.5)
詳しいことは、「松居松葉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%85%E6%9D%BE%E8%91%89
(wikiより)
「無名院松翁高風大居士」。
松居松葉
5707 田崎長国墓(台東区谷中・谷中霊園)
5706 田崎忠篤墓(台東区谷中・谷中霊園)
5705 田崎忠恕墓(台東区谷中・谷中霊園)
5704 田崎忠純墓(台東区谷中・谷中霊園)
5703 土谷秀立墓(台東区谷中・谷中霊園)
嘉永 2年 ~ 大正 8年 12月 18日 ( 1849 - 1919 )
我が国で初めてゴム製造業を創業した人。
幼名、庫三郎。
父、旧松前藩士・田崎忠純 ( 三男 )。
田崎東の次弟。
東京本所出身。
15歳で土谷駒三郎の養子となる。のち藩公に仕え 120石を賜る。
若いころは、勤王の兄・田崎束に従って国事に奔走し、功あり 50石を加増される。
25歳のとき辞めて、実業に従事。
はじめ煉瓦製造、さらに教育品製造・化学機械製造を経営。
明治 11年 ( 1878 ) 沈没船引き上げ、海産物採取などを業とする。
このとき、潜水服に使用するゴム服が全て輸入品であることに着目、兄弟で協力してゴムの研究をし、ゴムの加硫化に成功。
明治 20年 ( 1887 ) 東京府内国工業品共進会に出品し、3等賞となる。
明治 25年 ( 1892 ) 弟の田崎忠篤・田崎忠恕・田崎長国らと土谷護謨製造所 ( 三田ゴム製造 ) を興し、工場を新設する。
以後、日清・日露・日独の 3つの戦争では、軍需品・産業品・生活用品を供給、国に貢献する。
電気事業で必要な絶縁物のエボナイトを作り、輸入品に対抗。71歳没。
※ これが日本のゴム工業の誕生といわれているが、グッドイヤーの加硫発見に遅れること約 50年後であった。
※ 田崎東 ( たざき - あずま : 1844 - 1869 ) : 名は忠貞。松前藩士で勤王。
明治元年 ( 1868 ) 正義隊のメンバーとなり、官軍に属し、榎本武揚軍に敗れ、のち幕府脱走軍と戦い戦死。27歳没。




5702 山崎直胤墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身[2]。山崎直高の長男として生まれる[6]。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官[3]。
明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた[1]。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める[2]。1882年2月、各国憲法の視察を行う伊藤博文一行に加わり欧州へ出張し、1883年8月に帰国した[1][2]。
1885年6月、初代の内務省県治局長に就任[7]。1887年3月、山梨県知事に転任。予算編成に当たっては県民の負担軽減に配慮を行う[2]。1888年6月、三重県知事に転任。前年度と同規模の予算編成を行う[6]。1889年12月、知事を非職(休職)となる[8]。
1890年2月、宮内省に転じ、宮内書記官兼調査課長、兼山階宮別当に就任[9]。以後、調度局長などを務め、1897年9月に退官し錦鶏間祗候となる。
年譜
・内務大書記官
・1884年(明治17年)1月23日 - 内局第二課兼務申付[10]
・山梨県知事 免官
・1889年(明治22年)12月26日 - 三重県知事 非職
・宮内書記官 任官
・山階宮別当 兼任
・1891年(明治24年)2月7日 - 帝室会計審査官(奏任官一等) 兼任[11]
・調度局長 任官
・1893年(明治26年)
・1895年(明治28年)1月9日 - 内匠頭堤正誼不在中代理[15]
・帝室会計審査官調査課長 兼任
・1897年(明治30年)
・9月16日 - 錦鶏間祗候 仰付、調度局長 兼 帝室会計審査官調査課長 依願免官[19]
栄典・授章・授賞
位階
・1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[20]
・1897年(明治30年)9月16日 - 従三位[19]
勲章等
・1882年(明治15年)3月11日 - 勲五等双光旭日章[23]
・1887年(明治20年)5月27日 - 勲四等旭日小綬章[24]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[25]
・1890年(明治23年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[26]
・1918年(大正7年)2月4日 - 勲二等瑞宝章[27]
外国勲章佩用允許
・1883年(明治16年)8月30日 - ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章[28]
親族
・父 山崎直高
・子 山崎直三 文学者
著作
著書
・『通俗経済小話』 1897年
・『比国憲法釈義』 1886年 内務省総務局
訳書
・『近代欧洲史観 2』 セーニョボス・シャルル(著)
・『仏国道路記事』 墺国博覧会事務局
・『澳国水陸通路記事鉄道説』 澳国博覧会事務局(編) 績文社
・『仏国民法註釈 第1冊』 谷森真男(校) 1875年 博聞社
・『佛國 民法註釈 第四冊 財産篇 第二篇 財産』 1877年
・『租税説』 ア・チェル(著) 1877年 坂上半七
・『欧洲現代政治史』 山崎直三(共訳) 1911年 大日本文明協会
編訳
・『仏国政法掲要』 1878年 博聞社
・『佛國 政法掲要』(第一巻~第三巻) 1878年 博聞社
脚注
1. a b c 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、702頁。
2. a b c d e 『新編日本の歴代知事』492頁。
3. a b c 「山崎直胤叙勲ノ件」
4. 『官報』第1652号、大正7年2月6日。
5. 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、702頁では「2月2日」。
6. a b 『新編日本の歴代知事』605頁。
7. 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』92頁。
8. 『官報』第1951号、明治22年12月27日。
9. 『官報』第1987号、明治23年2月17日。
10. 『官報』第169号「官庁彙報」1884年1月24日。
11. 『官報』第2281号「叙任及辞令」1891年2月9日。
12. 『官報』第2504号「叙任及辞令」1891年11月2日。
13. 『官報』第2858号「叙任及辞令」1893年1月11日。
14. 『官報』第2954号「叙任及辞令」1893年5月8日。
15. 『官報』第3457号「叙任及辞令」1895年1月10日。
16. 『官報』第4075号「叙任及辞令」1897年2月3日。
17. 『官報』第4142号「叙任及辞令」1897年4月27日。
18. 『官報』第4171号「叙任及辞令」1897年5月31日。
19. a b 『官報』第4265号「叙任及辞令」1897年9月17日。
20. 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
21. 『官報』第1993号「叙任及辞令」1890年2月24日。
22. 『官報』第3500号「叙任及辞令」1895年3月4日。
23. 「参事院議官補西園寺公望外八名叙勲」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025800
24. 『官報』第1172号「叙任及辞令」1887年5月28日。
25. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
26. 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
27. 『官報』第1652号「叙任及辞令」1918年2月6日。
28. 『官報』第54号「叙任及辞令」1883年9月1日。
参考文献
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
・富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。
・内閣「山崎直胤叙勲ノ件」大正7年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・勲00523100
(wikiより)
山崎直胤
5701 山崎直三墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
・1882年(明治15年)8月26日 - 山崎直胤の長男として生まれる。
・フランス文学博士(パリ大学)授与。
・早稲田大学教授
・1914年(大正3年) - 内閣総理大臣秘書官(第2次大隈内閣) 任官
・1914年(大正3年)11月10日 - 高等官五等 陞叙[1]
・1915年(大正4年)8月2日 - 高等官四等 陞叙、三級俸下賜[2]
・1916年(大正5年)10月5日 - 高等官三等 陞叙、一級俸下賜[4]
・東京銀行集会所書記長
・1933年(昭和8年)10月31日 - 死去。
栄典
・1916年(大正5年)1月19日 - 勲五等瑞宝章[5]
・1916年(大正5年)10月6日 - 従五位[6]
親族
・祖父 山崎直高
・父 山崎直胤
出版物
訳著
・『理想の青年ジヨン・ハリフアックス』 クレイク夫人 原著 尚文堂書店 1913
・『社会学原理と応用』 ジェームス・キール・ディーレー 著 二松堂書店 1915
共訳
・『近代歐洲史觀 第2』 セーニョボス,シャルル 著 山崎直胤 共訳
・『欧洲現代政治史』 山崎直胤 共訳 大日本文明協会 1911
脚注
1. 『官報』第684号「叙任及辞令」1914年11月11日。
2. 『官報』第901号「叙任及辞令」1915年8月3日。
3. 『官報』第1117号「叙任及辞令」1916年4月25日。
4. 『官報』第1256号「叙任及辞令」1916年10月6日。
5. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
6. 『官報』第1257号「叙任及辞令」1916年10月7日。
(wikiより)