2021/05
5902 二代目・遠藤波津子墓(台東区谷中・谷中霊園)
5901 三善茂子墓(台東区谷中・谷中霊園)
文化 12年? ~ 明治 24年 1月 20日 ( 1815? - 1891 )
公卿・近衛忠煕 ( 1808 - 1898 ) の側室。
通称、玉橋大夫。
父、三善亮績 ( 長女 )。
有栖川宮職仁親王の第 5王女の泰宮薫子 ( くんこ : 1784 - 1840 ) 女王 ( 円台院 ) に 12歳で仕える。
薫子女王は、近衛忠煕公の祖母である。
薫子女王亡きあと、忠煕公の側室となり、3男 3女を生む。
正室の島津興子は 2子を設けたため、茂子の男子 3人は高田山の仏門に入れた。76歳没。
※ 島津斉彬の養女・篤姫は、近衛忠煕の養女となった後、将軍・徳川家定に嫁し天璋院となる。
※ 近衛忠煕の四男・近衛忠房は、正室の子とされているが、三善茂子の子とする説もある。
正面「本寿院明旭影薫大姉」。




5900 生源寺節子墓(台東区谷中・谷中霊園)
5899 永田正吉墓(台東区谷中・谷中霊園)
略歴
後に永井氏となる長田氏の支流とする説もあるが不明。遠江山名郡新貝村に120石を領し、同村の八幡宮の神主を務めていた。元亀元年(1570年)遠江に入った徳川家康に仕える。以後、徳川軍の軍事行動に際し幾度と兵糧米を供出したため、家康に称された。また案内役として従軍して遠江平定に転戦し、家康より太郎馬の名乗りを与えられる。
天正10年(1582年)家康が甲斐を得ると、石和の代官に任命され、鎌田郷の御殿番に任じられた。後に洪水によって領民が飢えた際、家康の許可を得て私蔵の米を分け与えた。これにより和田郷に所領を与えられた。後年、伊奈忠次とともに甲斐の検地を命じられたが、その途上で病に罹ったために引き返し、富士山の麓あたりで死去した。家督は婿養子の正次が継承したが、家名は正次の実家の大草氏となった。
逸話
ある時、徳川軍が浜松城へ帰陣する際、一言坂で武田勢と行き合った事があった。正吉は家康のすぐそばに控えていたため、すぐに飛び出して黒い鍋状の兜の兵を討ち取り、武田勢を追い払った。家康はこれを賞し、そのとき敵兵を斬った同田貫正国作の刀を「鍋割」と名付けたという。
太田川に架かる三ヶ野橋は当時仮橋であり、一度洪水が起きればたちまち流されてしまう危険があった。そこで正吉は資材を投じて板橋を架けた。この橋は江戸時代に至るまで往来に用いられている。また家康が太田川辺りに遊んだ際、座興として藁束を抱えて川に飛び込み、水中で馬沓を作ってみせた。この場所を後に太郎馬淵と呼ぶようになったという。
参考文献
・「寛政重修諸家譜」巻第1068
(wikiより)
5898 下啓助墓(台東区谷中・谷中霊園)
安政 4年 ~ 昭和 12年 8月 21日 ( 1857 - 1937 )
水産講習所長。
下 長良 ( 長男 )。
東京出身。
小学校教員をへて、明治 18年 ( 1885 ) 農商務省に入り、水産課長・水産講習所 ( 東京水産大学 ) 技師・同所長などを歴任。
全国の水産業の実態調査をはじめて実施し、明治 27年 ( 1894 )「水産業特調査」にまとめる。81歳没。従四位勲四等。
著作 : 「明治大正水産回顧録」、「露領漁業沿革史」など。夫人の安子 ( ? - 1923 ) は、文学博士・重野安繹の長女。
正面「従四位勲四等下啓助 / 室 安子 墓」。「寿雲院実相啓翁居士」。



5897 岩村芳俊墓(台東区谷中・谷中霊園)
5896 岩村一木墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
東京市小石川区、現在の東京都文京区千石2丁目35番地[3]で、貴族院勅選議員・岩村通俊の八男として生まれる[1][3][4]。1915年、長兄岩村八作の養子となり[3]、その死去に伴い、1924年9月1日、男爵を襲爵した[1][4][5]。
京北中学校を経て[3]、1917年、東京農業大学高等科を卒業[2][3][4]。以後、臨時産業合理局過燐酸肥料改善委員会幹事、人造肥料連合会理事、燐酸肥料工業組合常務理事、日本藁工品配給監査役、肥料配給公団総裁、農林水産奨励会副会長などを務めた[1][2][3][4]。
1932年7月、貴族院男爵議員に選出され[6]、公正会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで2期在任した[2]。その他、内閣委員、大東亜省委員、肥料審議会委員などを務めた[2]。
親族
・妻:芳子(三宅猶之丞二女)[1]
・長男:和俊[1]
脚注
1. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、221-223頁。
2. a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。
3. a b c d e f 『高知県人名事典 新版』94頁。
4. a b c d 『人事興信録』第14版 上、イ277頁。
5. 『官報』第3610号、大正13年9月3日。
6. 『官報』第1664号、昭和7年7月18日。
参考文献
・『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
5895 岩村薩馬墓(台東区谷中・谷中霊園)
明治 12年 9月 11日 ~ 昭和 22年 4月 16日 ( 1879 - 1947 )
満州船渠常務・謡曲家。
号、櫻處。
父、岩村通俊 ( 三男 )。67歳没。
夫人、きよ ( きんちゃく型電話機の発明と”もしもし”の考案者で知られる加藤木重教の娘 )。長女、英子。英子の夫は俳優宇・佐美淳 ( 本名、駒木五郎 )、その長女は声楽家・宇佐美瑠璃。次女、愛子 ( 板谷商船社長 3代目板谷宮吉 / 真満に嫁ぐ )。
岩村一族墓域内。正面「岩村薩馬家代々之墓」。
岩村通俊 ( 五男 ) 岩村有助 ( 平成 5年 2月 9日歿 96歳 ) 墓、同 ( 七男 ) 岩村九八 ( 昭和 41年 1月 5日歿 ) 墓も同墓域にある。


5894 岩村英俊墓(台東区谷中・谷中霊園)
文化元年? ~ 明治 15年 8月 5日 ( 1804? - 1882 ) ・・・ 1808説あり
名、茂俊・有助。号、礫水。
岩村通俊・岩村高俊の父。
土佐山内家の国老で宿毛邑主・安東氏 ( 後の伊賀氏 ) の臣。
岩村家は、平清盛の後裔といわれる。
壇ノ浦で敗れ、土佐に子孫が逃れ、門脇と名乗り、のち安芸国虎に仕え大井姓を名乗り、のち長曾我部元親に仕え岩村と改める。
長曾我部氏が滅亡した後、山内一豊が入国し、一豊の家老宿毛邑主・安東節氏に仕え、縮毛に移る。
英俊の代になり、和漢・文武に秀でた英俊は、重用され 10代安東氏固・ 11代安東氏理に仕える。
とくに理財に優れ禄 10石を加増される。
その後嘉永元年 ( 1848 ) にも功績を認められ 10石を加増されている。
佐幕・攘夷の騒然とするにいたり、尊王攘夷に導く。
維新後は、東京に移り、会計検査院長。のち余生を楽しむ。
妻・加乃は、小野義質の娘。従四位勲四等。79歳没。
正面「岩村英俊之墓」。岩村有助という墓碑もあるが別人。


5893 岩村通俊墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を務める。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け初代北海道庁長官となる。
生涯
土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。明治2年(1869年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
開拓官僚
開拓使の首席判官であった島義勇の後を受け、明治4年(1871年)、開拓判官として札幌の開発継続に着手する。区画を京都に倣い条・丁目とし、当時重要災害であった火災を減らすために草小屋の撤去に乗り出す。この時の撤去の手法はまず撤去の旨触書を発した後にわざと火をつけ火事を起こした。このためこれを「御用火事」というが、つまりは放火であるため通俊はこの時退官覚悟だったという。しかし、札幌の消防隊はこの時設置され以後は火災が減ったという。
こ
の間、開拓大判官に昇り、増えてきた移住者や土木作業員のために遊郭の設置に乗り出す。部下の薄井龍之に歓楽地を作らせ名を一字とって「薄野遊郭」とする。すなわち後の「すすきの」である(由来には異説もある)。
各地の県令を歴任
明治6年(1874年)7月佐賀県権令に任命され、同地で治績を挙げる。中央に召還され工部省出仕となることが決まると後任の佐賀県権令に弟の岩村高俊を推挙し、これが許される。
明治9年(1876年)、山口地方裁判所長を経て明治10年(1877年)には西南戦争が起こり、通俊は鹿児島県令として赴任した。通俊はこの時、敵将である西郷隆盛の遺体を軍部の了解を得て鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったという。
鹿児島県令としても治績を挙げた通俊は元老院議官・会計検査院長に昇り、明治15年(1882年)には沖縄県令となる。
北海道庁設置
2年の沖縄県令の後司法大輔となり、北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年)に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。長官として北海道開拓の任に当たり、旭川市に東京・京都に継ぐ「北京」設置を構想した。
大臣を経て華族に
明治21年(1888年)長官を永山武四郎に交代し元老院議官に就任する。農商務次官を経て明治22年(1889年)12月24日、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。大臣退任後は宮中顧問官・貴族院議員・御料局長・錦鶏間祗候[3]を歴任する。明治29年(1896年)6月5日に功により男爵を叙爵し華族に列せられる[4]。翌年の12月28日に勲一等瑞宝章を受章する。明治33年(1900年)、朝鮮京釜鉄道会社が設立され常務理事に就任する。
明治37年(1904年)6月23日、勲一等旭日大綬章を受章する。大正4年(1915年)2月20日、東京府東京市小石川区小石川丸山町(現在の東京都文京区千石三丁目)の自宅で薨去。享年76。墓所は東京都・谷中墓地。
通俊の功績を称え旭川市の北海道神宮末社開拓神社・上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されている。高知県宿毛市の旧岩村邸には記念碑が設置されている。
栄典
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[5]
・1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[6]
親族
・次弟 林有造 - 逓信大臣・農商務大臣
・三弟 岩村高俊 - 北越戦争において、長岡藩家老の河井継之助に新政府への恭順を促したが、受け入れられずに北越戦争開戦の端緒となったことで知られ、その後佐賀、愛媛、石川、福岡、広島各県の知事を務め男爵に叙せられる。
・長男 八作 - 通俊の後を継ぎ男爵となり、北海道開拓に生涯を捧げる。
・五男 通世 - 司法大臣となった後、1945年9月にA級戦犯容疑者として逮捕されたが、1948年(昭和23年)に至って不起訴処分で釈放された。
・八男 一木 - 八作の養子となり貴族院男爵議員を務める[7]。
・甥 林譲治 - 有造の子、衆議院議長・厚生大臣。
脚注
1. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
2. “岩村通俊 (いわむら・みちとし)”. 琉球新報. (2003年3月1日) 2020年2月28日閲覧。
3. 『官報』第6368号、明治37年9月19日。
4. 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
5. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
6. 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
7. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、221頁。
参考文献
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
関連項目
・本山白雲 - 戦前建てられていた岩村通俊の銅像の作者。
・高畑利宜
外部リンク
・宿毛人物史-岩村 通俊-
・岩村道俊の墓
(wikiより)
岩村通俊
5892 丘浅次郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大阪英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となる。このため大学への正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学する。1891年から3年間ドイツに留学し、アウグスト・ヴァイスマン及びカール・ロイカルトに師事する。帰国した翌年の1895年山口高等学校教授に、その2年後の1897年高等師範学校教授に任命され、1929年に定年退官となり、東京文理科大学非常勤講師として勤める。
蛭、ホヤなどの分類、発生について研究し、カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka, 1891などを記載している。また、進化論の啓蒙活動に貢献し、1904年に日本の大衆向けに書かれた初の進化論の解説書である「進化論講話」を著す[1]。それ以外にも「生物学講話」・「最新遺伝学」など旧制中学水準の生物学教科書を多く執筆し、『丘浅次郎著作集』全5巻がある。1925年帝国学士院会員、日本動物学会会長。
東京文理科大学が母体の一つとなった筑波大学の生物学類標本室には、ホヤ類の正基準標本が20点ほど所蔵されている[2]。
丘は国際補助語にも関心を寄せており、ヴォラピュクを学んだのち、1889年頃にはラテン語などヨーロッパ諸国の言語を基にジレンゴ(Zilengo)という人工言語を考案している。その後、ドイツ留学中の1891年にエスペラント(発表は1887年)を知り、日本人初のエスペランティストとなった。そして1906年には黒板勝美らと共に日本エスペラント協会(現在の日本エスペラント学会の前身)を設立した。
家族
妻ツキは岩村通俊の三女。長女ひさは佐佐木信綱の二男文綱と結婚。三男英通も動物学者で、親子二代で日本動物学会会長を務めた。四男正通は横浜正金銀行に勤め、安藤幸の娘淳子と結婚。
栄典
・1908年(明治41年)6月25日 - 勲六等瑞宝章[3]
著書
・新編中等動物学 六盟館 1898.4。
・近世生理学教科書 三木佐助 1898.11(中等教育理科叢書)。
・近世動物学教科書 三木佐助 1899.11(中等教育理科叢書)。
・中学生理教科書 六盟館 1899.12。
・中学動物教科書 六盟館 1900.1。
・教育と博物学 開成館 1901.12(博物学叢書 第1巻)。
・簡易動物学講義 開成館 1902.3(博物学叢書 第2巻)。
・進化論講話 開成館 1904.1 全国書誌番号:40055275。 のち講談社学術文庫 ISBN 978-4061580138, ISBN 978-4061580145。
・進化と人生 東京開成館 1906.6 のち講談社学術文庫。
・最新動物学教科書 六盟館 1906。
・女子理科生理衛生教科書教授資料 開成館 1909.1。
・女子理科動物教科書教授資料 開成館 1909.1。
・最新生理衛生教科書 六盟館 1913。
・人類之過去現在及未来 日本学術普及会 1914。
・人類進化の研究 大学館 1915。
・生物進化論 大学館 1915。
・生物学講話 開成館 1916。
・最新遺伝論 六盟館 1919。
・煩悶と自由 大日本雄弁会 1921。
・猿の群れから共和国まで 共立社 1934。
・生物・人生・哲学 浅間書房 1949。
・丘浅次郎著作集 全5巻 有精堂出版 1968。
・近代日本思想大系 9 丘浅次郎集 筑摩書房 1974。
・生物学的人生観 講談社学術文庫 1981 ISBN 978-4061585393, ISBN 978-4061585409。
出典、注釈
1. ゴダール、クリントン (2007年). “「コケムシから哲学まで――近代日本の「進化論・生物学の哲学」の先駆者としての丘浅次郎」”. 『日本哲学史研究』 4: 75-99 頁 .
2. 井上勲 まぼろしの「博物学雑誌」,つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 20-21.
3. 『官報』第7499号、「叙任及辞令」1908年06月26日。
外部リンク
・丘 浅次郎:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)
5891 広部達三墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
宮城県仙台市生まれ[1][3]。太田可一の弟[1]。1907年、東京帝国大学農学科卒業[1][3][4]。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる[1][3]。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職[1][3]。『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある[1]。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真[1][3]。住所は東京市渋谷区神山町[1]。
家族・親族
広部家
・妻・清子(1894年 - ?、東京、広部清兵衛の長女)[1][3]
・長男[1]
親戚
・妻の兄・広部清一郎(広部鉱業社長)
・広部和三郎(広部拓殖代表社員、広部鉱業常務[2])
脚注
1. a b c d e f g h i j k l m 『大衆人事録 第14版 東京篇』837頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月15日閲覧。
2. a b c 『日本紳士録 第33版』東京ヒ、フの部680頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月15日閲覧。
3. a b c d e f 『帝国大学出身名鑑』ヒ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月15日閲覧。
3. 『東京帝国大学一覧 明治41-42年』学士及卒業生姓名 農学士267頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月15日閲覧。
参考文献
・『東京帝国大学一覧 明治41-42年』東京帝国大学、1886 - 1912年。
・交詢社編『日本紳士録 第33版』交詢社、1929年。
・校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
5890 二代目・広部清兵衛墓(台東区谷中・谷中霊園)
慶応 3年 ~ 昭和 8年 ( 1867 - 1933 )
箱根土地会社 ( 国土開発 ) 設立。
幼名、清太郎。
父、先代・清兵衛 ( 長男 )。
明治 20年 ( 1887 ) 家督を相続、清兵衛を襲名。
広部銀行 2代目行主。
昭和 2年 ( 1927 ) 財界ショックのため事業を解散。
箱根土地会社 ( 国土開発 ) を設立。
東京土地会社・尾張屋信託会社各取締役。66歳没。
※ 下北沢の市谷監獄が移転した跡地を、廣部清兵衛の廣部銀行・箱根土地会社 ( 国土開発 ) が払い下げを受け、宅地に整地して、分譲地として売り出したが、刑場跡に慰霊のための等身大の観音様 ( 高村光雲作 ) を建て供養した。
また、谷中 2丁目の高台を昭和 16年 ( 1941 ) ころ整地分譲したのも箱根土地会社。



5889 広部清兵衛墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
日本橋本銀町に先代清兵衛の長男として生まれる[6]。生家は質商を営む[1][5][6]。藤樹私塾に入り、読書、算数を学ぶ[5]。15歳の頃、元浜町の質商・尾張屋事峰島家の店員となる[6]。1883年、家督相続と共に前名・清太郎を改める[4][8][10]。18歳に至り主家を辞して帰宅する[6]。
質商を主業とする[6]。1887年、東京市日本橋区本町に広部銀行を創立する[1][5][6]。銀行業を営む[13]。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[13]。住所は東京市芝区田町[1]、東京市日本橋区本町四丁目[3][7][8](現日本橋本町)、東京府荏原郡目黒村中目黒八幡[5][11]。
家族・親族
広部家
・父・清左衛門(質商[1]、東京平民[11][12]) - 前名・清兵衛で[6]、1882年、清左衛門と改称して隠居する[6]。
・妻・トク(1869年 - ?、埼玉県の足袋商・橋本喜助の妹)[4]
・長男・清一郎[2](1890年 - ?、広部鉱業社長、玉川農園経営主)[4]
・同妻・ゆう(1895年 - ?、東京の煙草商・千葉直五郎の妹)[4]
・二男・賢二[12](1897年 - ?、千代田火災海上専務)
・三男・三郎[12][14](1901年 - ?、1929年に慶應義塾大学経済学部卒業[14])
・長女・清子[12](1894年 - ?、広部達三の妻)[15]
・三女[12]
・四女[12]
・妻の甥・橋本喜助(足袋商、埼玉県多額納税者、行田電灯社長)
・長女の夫・広部達三(農事試験場技師[15]、東京帝国大学農学部教授)
・広部和三郎(木綿染糸商、広部拓殖代表社員)
脚注
1. a b c d e 『京浜実業家名鑑』713頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月13日閲覧。
2. a b 『日本紳士録 第16版』東京ひ738頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
3. a b 『東京商工博覧絵 上』(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
4. a b c d e f 『人事興信録 第10版 下』ヒ70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
5. a b c d e f g 『大正名家録』ヒの部10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
6. a b c d e f g h i j 『大正人名辞典』1151頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
7. a b 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
8. a b c 『人事興信録 第9版』ヒ65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
9. 『日本紳士録 第35版附録』附録 全国多額納税者 東京府4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
10. a b c 『人事興信録 第7版』ひ15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
11. a b c d 『人事興信録 第6版』ひ12 - 13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月15日閲覧。
12. a b c d e f g 『人事興信録 第3版』ひ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
13. a b 『貴族院多額納税者名鑑』貴族院多額納税議員互選者住所氏名 東京府11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月24日閲覧。
14. a b 『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』慶應義塾塾員名簿554頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月13日閲覧。
15. a b 『帝国大学出身名鑑』ヒ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月12日閲覧。
参考文献
・深満池源次郎編『東京商工博覧絵 上』深満池源次郎、1885年。
・遠山景澄編『京浜実業家名鑑』京浜実業新報社、1907年。
・・人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
・原田道寛編『大正名家録』二六社編纂局、1915年。
・『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
・東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
・人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
・慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』慶応義塾、1924 - 1942年。
・人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
・織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
・人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
・交詢社編『日本紳士録 第35版附録』交詢社、1931年。
・校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
5888 中根虎四郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
慶応 2年 ~ 昭和 3年 4月 10日 ( 1866 - 1928 )
小田急電鉄社長等・実業家。
父、東京府士族・堀江新左衛門 ( 四男 )。
中根家の養子となる。
安田銀行に入り、営業部長兼証券課長、のち副支配人を歴任後辞し、東京米穀取引所理事・日本倉庫取締役・大萱生金山社長・小田急電鉄社長・箱根登山鉄道創起。
安房鉄道・小倉鉄道・京浜電鉄・甲武鉄道・極東鉛筆・安房白土等の監査役歴任。東京商業会議所常議員。東京穀物信託社長。日本鉛筆・北海産業・箱根観光会社取締役および理事。気仙水力電気・帝国火災保険各監査。中根炭鉱事務所を開設し、各地で鉱山の経営をする。63歳没。


5887 高橋応真墓(台東区谷中・谷中霊園)
略歴 松本楓湖及び柴田是真の門人。通称は善之助または善之介。安政2年(1855年)に武蔵国(江戸)北豊島郡鴬塚村金杉(後の下谷区下根岸、現・台東区根岸)において田安家の家士の高橋栄賢の長男として生まれる。9歳のころに楓湖の門に入り、翠岳の号を称すとともに服部波山に漢画を学ぶ。楓湖の画塾では自由放任の教育方針であり、楓湖は狩野芳崖を極めて高く評価していて、門下には自身が教える以上のことを望む場合、芳崖の所へ行けと言ったほどであった。応真は師の勧めもあり、鑑画会の研究会へ出席して学んだ。明治15年(1882年)の第1回内国絵画共進会に作品を出品、賞を受けたことを筆頭に翌年、第1回パリ日本美術縦覧会に作品を出品した。また、明治17年(1884年)の第2回内国絵画共進会にも作品を出品、賞を得、明治19年(1886年)の第2回鑑画会では「芥子花図」が四等賞を得ている。その後、柴田是真に入門、応真の遺号を授かり、その才能を開花させて是真門下の四天王とも、池田泰真らとともに十哲とも呼ばれる活躍をする。明治20年代前半には日本美術協会において活躍するが、新しい日本画を模索する若手画家の潮流にのって明治24年(1891年)に日本青年絵画協会の結成に参加した。また、明治31年(1898年)の第5回絵画共進会、明治33年(1900年)のパリ万国博覧会にも作品を出品してそれぞれ受賞するなど、長期的な活躍がみられた。明治34年(1901年)7月12日に下根岸の自宅で食中毒により没し、東京下谷の谷中墓地に葬られた。享年46。
作品
・「笹之雪書画帖」 牡丹図、草花の図を描く。
脚注
1. 『日本美術院百年史 一巻上』図版編は安政2年10月3日生まれとする。
参考文献
・荒木矩編 『大日本書画名家大鑑』 第一書房、1975年
・『近代日本美術事典』 講談社、1989年
5886 坊城俊政墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
山城国京都で坊城俊明の六男として生まれ、父の弟坊城俊克の養子となる[2][3]。天保8年3月28日(1837年5月2日)に元服し昇殿を許される[2]。安政4年5月15日(1857年6月6日)侍従となる[2]。以後、右少弁、蔵人、御祈奉行、左少弁、賀茂下上社奉行、氏院別当、兼右衛門権佐、右中弁などを歴任[2]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年3月29日(1868年4月21日)参議、右大弁、参与に就任[4]。以後、弁官事、兼内弁事、給禄取調御用掛、大弁、制度分局御用、大嘗会御用掛、式部長などを務め、明治4年8月10日(1871年9月24日)式部頭に就任[4]。以後、宮中の祭祀、典礼を司った[1]。
系譜
・父:坊城俊明
・母:不詳
・養父:坊城俊克
・妻:小出英発娘
・男子
・女子
・次女:直 - 中御門経明室
・美津(木越安綱夫人、慶応元年10月24日(1865年12月11日)-明治26(1893)年12月27日)[3][5]
・式子 - 松平頼纉室
・梓子 - 長谷信篤正室
・六女:伊万子(本田あふひ、本田親済夫人)[3]
脚注
1. a b 『明治維新人名辞典』78頁。
2. a b c d 『公家事典』551頁。
3. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』下巻、469-471頁。
4. a b 『百官履歴 上巻』179-182頁。
5. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、484頁。
参考文献
・修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
5885 坊城俊民墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
東京市にて、堂上華族の嫡子として誕生。父・坊城俊良(としなが)[1]は伯爵で宮内官。母は子爵入江為守の娘・朔子(叔父に、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政)。神田区駿河台と麻布区笄町に育つ。
1935年(昭和10年)から翌年にかけ、親友・長與道夫の叔父・長與善郎(作家)の邸宅にて、中世国文学の研究者風巻景次郎の指導で源氏物語を初めて読み、文学的に大きな影響を受ける。
学習院では文芸部委員をつとめ、校友会誌『輔仁会雑誌』に詩や散文を発表すると共に、文芸部発行の「雪線」誌に自伝的小説『鼻と一族』などを発表。高等科在学中、三宅徳嘉(フランス文学者)の紹介でヴィリエ・ド・リラダンの作品を知り傾倒する。
1937年(昭和12年)秋、高等科3年のとき、当時中等科1年の平岡公威(作家・三島由紀夫)と相識る。三島の文才を最も早く認めた者の一人で、三島と大部の文学的な手紙を毎日やりとりし、三島の短篇『詩を書く少年』のRのモデルとなった。
1939年(昭和14年)、東文彦との共著の形で作品集『幼い詩人・夜宴』を刊行する話が持ち上がったため、東の両親と懇意な美術史家児島喜久雄の紹介で志賀直哉へ序文を貰いに伺ったが、「作品として甘い」ことを理由に序文執筆を拒絶される。
1941年(昭和16年)、東京帝国大学文学部国文科卒業。このころ経験した恋愛を題材に、1941年(昭和16年)から1942年(昭和17年)にかけて小説『舞』を執筆。しかし、この恋愛が原因で三島や東や徳川義恭(兄は侍従の義寛)から見捨てられた形になる(このため、三島、東、徳川の同人誌「赤絵」創刊に加えてもらえなかった)。
三島が、「しかし坊城さんはいつまで志賀、芥川、リラダンからお脱け出になれないのでせう」(1943年2月3日付 東文彦宛書簡[2])と嘲ったように、1943年(昭和18年)2月には二人の関係は冷却していたが、坊城の側では三島への友情を断ち切れず、1943年(昭和18年)、同人誌「赤絵」に対抗する気持ちから50部限定の豪華な小冊子『縉紳物語』を発行。扉に「三島由紀夫に捧ぐ」と記した。
1948年(昭和23年)、自伝的短篇集『末裔』を上梓。三島から、「少年期における私の最初の芸術的衝動の萌生えは、これを悉く坊城氏に負ふと言つても過言ではない」と跋文を寄せられてはいたが、三島との関係はこのとき既に冷却していた。
1955年(昭和30年)ごろ、西銀座の路上で偶然に出会った三島から「よう!」と挨拶され、その不遜な態度に感情を害す。以後、永らく絶交状態が続く。
1969年(昭和44年)2月20日前後に、発刊間もない『豊饒の海 第一部・春の雪』の感想を、三島へ書き送り、1969年(昭和44年)3月12日付の返書で、「永い御無沙汰をお詫びいたします」、「ほめていただいたことは、何よりも確実性のある喜びであります。正にお墨附きを頂いたようなもの」と礼を述べられ、これがきっかけとなり旧交が復活。さらに三島は、菊田一夫演出の『春の雪』芸術座公演の上演プログラムにも、「堂上華族の坊城俊民氏が、これを読んで太鼓判を捺してくれたところから、私の描いた貴族生活は、少なくとも太宰治の『斜陽』のやうなイカサマものではないと思はれる」と寄稿している。
1970年(昭和45年)1月17日、銀座の「マキシム・ド・パリ」にて三島夫妻と晩餐。1970年(昭和45年)2月27日から4月3日にかけて、フジテレビ(当時、末弟・坊城俊周が勤務していた)で『春の雪』がドラマ化(主演は吉永小百合と市川海老蔵〈12代目市川團十郎〉)。その際三島の要望により時代考証を担当した。
1970年(昭和45年)11月19日付で三島は、坊城に宛てた最後の書簡を書き、一節に、「十四、五歳のころが、小生の黄金時代であつたと思ひます。実際あのころ、家へかへると、すぐ『坊城さんのお手紙は来てなかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、その後行き会ひません」と筆記した。
1941年(昭和16年)旧制芝中学校(私立)を経て1943年(昭和18年)から公立学校教員(地方公務員)となり東京府立第二十四中学校(東京都立北園高等学校内に設置)および、東京府立第二十四中学校設置中止にともない東京府立第九中学校(東京都立北園高校)で国語教師を務める( - 1964年)。東京都立池袋商業高校校長、東京都立志村高校校長(2007年(平成19年)東京都立板橋有徳高校に統合)。
終生にわたり、式部職嘱託(歌会始講師〈こうじ〉)を務めた。
著書
・『末裔』(草美社、1949年、序渡辺一夫 跋三島由紀夫。新版・集英社(解説篠沢秀夫)、1994年)
・『焔の幻影 回想三島由紀夫』(角川書店、1971年)、書簡3通を収む
・『ふるさとの青春-王朝文学管見-』(表現社、1960年)
・『京の翳』(表現社、1963年)
・『家家のむすめ達』(表現社、1982年)
・『歌會始(歌会始)』(五月書房 名作シリーズ、1979年)、和装本
・『伝大弐三位註紫式部日記抄』(昭森社、1980年)
・『みやび-その伝承-』(昭森社、1981年)
・『君し旅ゆく』(桜楓社、1985年)
・改訂版『おほみうた 今上陛下 二二一首』(桜楓社、1986年)
・『詩集 ねずみもち』(不識書院、1986年)
・『詩集 ミモザの別れ』(不識書院、1987年)
・『詩集 君し旅ゆく考』(不識書院、1988年)
・『にほへわがうたわがふみのあと 坊城俊民作品・書簡集』(不識書院、1992年)、遺著
親族
・妻 坊城章子(あきこ、戸田氏秀四女)[3]
脚注
1. 回想記に『宮中五十年』(明徳出版社、1960年)がある。
2. 『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)
3. 『平成新修旧華族家系大成』下巻、470頁。
参考文献
・坊城俊民『焔の幻影 回想三島由紀夫』角川書店、1971年。
・『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)
・『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』新潮社、2004年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
関連項目
・坊城家
・清水文雄
・松尾聰
・板橋区立上板橋第二中学校
(wikiより)
5884 坊城俊良墓(台東区谷中・谷中霊園)
5883 坊城俊徳墓(台東区谷中・谷中霊園)
5882 日暮豊年墓(台東区谷中・谷中霊園)
明治 21年 ~ 昭和 21年 4月 21日 ( 1888 - 1946 )
海軍少将。
東京出身。
大日本海洋少年団常務理事。
大正元年 ( 1912 ) 大尉。
大正 5年 ( 1916 ) 「夕凪」艦長。
大正 7年 ( 1918 ) 「曙」艦長。同年 12月少佐。
大正 9年 ( 1920 ) 第 2水雷戦隊参謀。
大正 11年 ( 1922 ) 中佐。
大正 13年 ( 1924 ) 練習艦隊参謀。
昭和 2年 ( 1927 ) 「早鞆」艦長。同年大佐。
昭和 3年 ( 1928 ) 「名取」・「青葉」艦長。
昭和 6年 ( 1931 ) 「金剛」艦長。
昭和 7年 ( 1932 - 1933 ) 海軍水雷学校長兼海軍通信学校長。
昭和 8年 ( 1933 ) 少将。
昭和 9年 ( 1934 ) 第 2水雷戦隊司令官。
昭和 10年 ( 1935 ) 呉警備戦隊司令官。
昭和 11年 ( 1936 ) 軍司令部勤務。
昭和 12年 ( 1937 ) 予備役となる。従四位勲二等。58歳没。


5881 長沢別天墓(台東区谷中・谷中霊園)
慶応 4年 5月 1日 ~ 明治 32年 11月 22日 ( 1868 - 1899 )
文学評論家・ジャーナリスト。
本名、説 ( せつ )。号、半眼子・坂東太郎・別天楼・渺茫居士 ( びょうぼうこじ )。
土浦藩重臣・長沢岩五郎 ( 長男 )。
常陸国出身。
功玉社・立教学校に学び、江東義塾の教員となる。
「学」・「書生」・「筆之力」の同人。
「江湖新聞」記者を経て明治 23年 ( 1890 ) 国粋政治文化団体の「政教社」に入る。
三宅雪嶺のもと「日本人」、「亜細亜」も編集をする。
明治 24年 ( 1891 ) アメリカ留学。
明治 26年 ( 1893 ) 帰国し、鎌倉で保養、アメリカ論「ヤンキー」を著す。
ミルトンやバイロンの英文学の紹介に尽力し、明治 27年 ( 1894 ) 社会主義に共鳴して「政教社」の雑誌「日本人」に「社会主義一斑」という研究論文を連載し、マルクス紹介号で発禁処分を受けた。
「山陽新報」主筆を経て、明治 31年 ( 1898 )「東京朝日新聞」に入社、政治主任となる。内藤湖南・田岡嶺雲と交流あり。
エドガー アラン ポーの詩を初めて紹介。
肺結核で没する。32歳没。「長松院文淵別天居士」。
著書:「盲詩人」。


5880 吾妻俊夫墓(台東区谷中・谷中霊園)
明治 24年 5月 16日 ~ 昭和 30年 7月 22日 ( 1891 - 1955 )
内科医。
父、医師・吾妻 博 ( - 1921 )。
東京出身。
大正 7年 ( 1918 ) 東京帝国大学卒業。
大正 8年 ( 1919 ) 1月医学部副手。
大正 13年 ( 1924 ) 医学博士の学位を受ける。
昭和 2年 ( 1927 ) 2月退職。
昭和 3年 ( 1928 ) 昭和医学専門学校教授兼付属医院医長。
昭和 10年 ( 1935 ) 4月長野県嘱託。
昭和 18年 ( 1943 ) 10月昭和医学専門学校理事。
昭和 21年 ( 1946 ) 10月同校後身の昭和医科大学教授。
昭和 22年 ( 1947 ) 1月同大学理事。
昭和 26年 ( 1951 ) 日本公衆衛生協会理事などをつとめる。64歳没。
正面「川内家之墓」。「慈眼院俊機樹徳居士」。


5879 山口宗樹墓(台東区谷中・谷中霊園)
5878 山口堅吉墓(台東区谷中・谷中霊園)
5877 山口宗義墓(台東区谷中・谷中霊園)
嘉永 4年 ~ 昭和 9年 5月 6日 ( 1851 - 1934 )
日本銀行監事。
父、旧松前藩の兵家軍兵衛 ( 長男 )。
藩の貢進生として大学南校に学ぶ。
大蔵省に出仕、大蔵省主計官。のち台湾総督府財務部長。
明治 20年 ( 1887 ) 日本勧業銀行に入社。のち日本銀行に移る。
明治 30年 ( 1897 ) 退官し、国庫局長となる。正四位勲三等。
漢詩人としても知られ、昭和 5年 ( 1930 ) 多数の貴重な漢籍を郷里島根県の松江図書館に寄贈した。84歳没。
建築家の山口半六の兄。学習院院長の山口鋭之助の兄。子に帝国海軍中将の山口多聞 ( 青山墓地 ) がいる。


5876 木村正辞墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
下総国埴生郡成田村(現・千葉県成田市)生まれ。はじめ清宮荘之助。号を欟斎。伊能穎則に国学、岡本保孝に音韻学を学び、和学講談所、水戸藩駒込文庫に出仕する。維新後は史料編輯・大学大助教を皮切りに、神祇官、太政官、文部省、司法省、宮内省の諸官、帝国大学文科大学教授、高等師範学校教授を歴任した。『万葉集』を主として研究し、珍書の蔵書でも知られる。1890年東京学士会院会員(後に帝国学士院会員)。1901年文学博士を授与。1902年文部省国語調査委員会委員に任命された。
1913年、腎炎のため死去[1]。
栄典
・1884年(明治17年)7月24日 - 正六位[2]
著書
・日本略史 文部省 1875.4
・日本史要 東京師範学校 1878.11
・国史案 文部省 1877-1879
・賜暇遊覧 博聞社 1888.7
・欟斎雑攷 博聞社 1888.12
・万葉集書目提要 大八洲学会 1888
・日本号の攷 大八洲学会 1889.6
・万葉集美夫君志 大八洲学会 1889.2
・播磨の浜づと 大八洲学会 1889
・万葉集訓義弁証 早稲田大学出版部 1904.12 のち勉誠社文庫
・万葉集字音弁証 早稲田大学出版部 1904.12 のち勉誠社文庫
・万葉集総釈 早稲田大学出版部 1904?
・万葉集古義存疑 1900-1904
・万葉歌百首講義 早稲田大学出版部 1926
・万葉集講話 大日本歌道奨励会 1935
・日本小作制度論 日本に於ける小作制度の本質究明 木村荘之助 叢文閣 1936
脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)10頁
2. 『官報』第322号「叙任及辞令」1884年7月25日。
参考文献
・昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 第13巻』昭和女子大学光葉会、1959年7月
・小松英雄「木村正辞」臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年
外部リンク
・木村正辞(近代日本人の肖像)
(wikiより)
木村正辞
5875 友平親教墓(台東区谷中・谷中霊園)
5874 友平親徽墓(台東区谷中・谷中霊園)
天保 13年 ~ 明治 24年 2月 22日 ( 1842 - 1891 )
壬生藩の大砲奉行。
名、親徽。
通称、慎三郎。
父、壬生藩士・斉藤佐左衛門 ( 三男 )。
栃木県出身。
養父、友平 栄。
安政 2年 ( 1855 ) 実弟の斉藤留蔵 ( 佐左衛門・四男 ) と共に江川太郎左衛門の塾に入門。
天狗党が太平山に籠ったとき大砲を率いて出陣。
天狗党が太平山から筑波へ戻った後の鎮撫戦でも大砲隊を率いて活躍。
慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰の役で会津軍に加わり大砲隊を指揮し各地を転戦。
宇都宮城を占領した旧幕府軍に壬生城内の状況を内通したため、「安塚の戦」となる。
明治 3年 ( 1870 ) 友平 栄の養子となり、その娘・伊代子を娶る。
明治 4年 ( 1871 ) 兵部省に出仕。
明治 5年 ( 1872 ) ころ佐井正民・岩上俊温らと陸軍武庫中令史。
明治 6年 ( 1873 ) 陸軍武庫権大令史となる。
明治 8年 ( 1875 ) ころ綾部幸煕・米田精らと陸軍省 9等出仕。
明治 12年 ( 1879 ) 大尉に任じ砲兵第 1方面本署員。
明治 16年 ( 1883 ) 砲兵会議所付。正 7位。
妻・伊代子 ( 明治 35年 2月 21日歿 )。子に友平親教がいる。50歳没。
※ 斉藤留蔵(1844-1917): 16歳のとき勝海舟らと共に咸臨丸で渡米、その後岩倉使節団に同行して再び日本を離れる。
※ 壬生藩: 現在の栃木県にあった藩で、幕末には、幕府側に付くか、新政府側に付くか二分し揺れて、最終的には新政府側に付。
正面「友平親徽 / 友平伊代子 / 友平親教 之墓」。


5873 吉川重吉墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
安政6年12月(1860年1月)、吉川経幹の三男として、岩国横山の仙鳥屋形で生まれる。文久3年(1863年)には名目的ではあるが、子のなかった毛利敬親の養子となる。
明治3年(1871年)に岩倉使節団に同行してアメリカへの留学を果たす。同行者は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、佐々木高行、山田顕義、田中光顕、田中不二麿など当時の要人の他、旧大名家・公家の子弟としては他に、岩倉具綱(具視の養子)、大久保彦之進、牧野伸顕、山県伊三郎等が参加。鍋島直大、前田利嗣、前田利同、黒田長知、鳥居忠文、大村純煕、毛利元敏等もいた。重吉の従者として、岩国藩士の子でのちにペルーの日本人移民事業の立役者となった田中貞吉(1857-1905)が同行した[1]。
明治16年(1883年)、留学先のハーバード大学を卒業。帰国後に井上馨の強い勧めもあり外務省に入省、公信局に配属される。明治19年(1886年)にはベルリン公使館二等書記官となり、西園寺公望に従ってドイツへ赴任。その後、外務省を退職し、ドイツ・ハイデルベルヒ大学へ留学するも、兄の吉川経健補佐のために中途で帰国。明治24年(1891年)11月21日に男爵に叙任された、翌年には最後の大洲藩主加藤泰秋の娘、須賀子と結婚する。
明治26年(1893年)6月、貴族院議員に補欠選挙で当選し、亡くなるまで在職した。明治43年(1910年)に建築家のジェームズ・ガーディナーによって自宅を建築。大正4年(1915年)に南洋協会の設立に参加、副会頭となったが、同年末に死去した。享年56。
死後、その遺志によって岩国徴古館が建設されるに至った。墓所は谷中霊園にある。
松陰神社(世田谷区)に重吉が寄贈した石燈篭が残っている。また、谷中霊園の墓所にはアメリカ・ハーバード大学寄贈の石灯籠がある。
栄典
位階
・1915年(大正4年)12月27日 - 従三位[2]
勲章
・1915年(大正4年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[3]
子孫
・和田昭允(外孫:生物物理学者 東京大学名誉教授 元東京大学理学部長 元日本学術会議第四部長 元理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長)
著書
・The Autobiography of Baron Chokichi Kikkawa (1925年)
・『吉川重吉自叙伝』 尚友倶楽部史料調査室編 (芙蓉書房出版「尚友ブックレット」、2013年)
脚注
1. 田中貞吉とペルー移民事業 移民送り出しまでの前史の分析大島正裕、海外移住資料館研究紀要12号
2. 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
3. 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
(wikiより)
吉川重吉
5872 吉川重国墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。
戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。昭和34年(1959年)の皇太子明仁親王と正田美智子のご成婚の際は、お妃教育を担当。また、秋篠宮文仁親王の后となった川嶋紀子に宮中儀礼の指導を行ったのも重国である。
平成8年(1996年)死去。墓所は谷中霊園。
脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.502
参考資料
・吉川重国 『戴冠紀行』 毎日新聞社、1954年。
(wikiより)
吉川重国
5871 鳩山秀夫墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
法律家・政治家の鳩山和夫の次男で、のちに首相となった鳩山一郎の弟。妻の千代子は東大総長を務めた菊池大麓の次女。長男の道夫は一郎の次女・玲子と結婚した。曽孫に鳩山玲人がいる。
1908年、東京帝国大学を卒業する。秀夫は、東京高師附属小(現・筑波大附属小)時代から仲の良かった穂積重遠と並んで、大学始まって以来の優秀な成績だったという。1911年刊行された『優等学生勉強法』には、中学時代には朝4時に起床し2時間、学科の予習をし、朝食をとり登校し帰宅後は参考書や自分が好む本を読み、また1時間運動をしてから8時には必ず就寝した、と書いてある[1]。
一郎より優秀とされ、「賢弟愚兄」と評されたという。兄は政治家の道に進んだが、秀夫は法律家として身を立てた。1926年に42歳で東大を退官して弁護士を開業し、1932年の第18回衆議院議員総選挙に旧千葉2区から立憲政友会公認で立候補し当選、1期のみ代議士を務めている。ただし、鳩山秀夫には政治家としての目立った業績はない。比較的短命だったのは酒におぼれたせいだと佐野眞一は記している。
愛弟子であった我妻栄はこうした鳩山の生涯を『透徹・犀利な頭脳をもってドイツ法学を学んだため、日本法の隅から隅までが瞭然として疑問の余地が無いようになり、そこで更に進んで経済学や社会学など、新しいものを学んで方向転換する必要に迫られたが、そこで勉強が嫌になってしまった、ドイツ流儀の法律学の極致に達し、そのままで終わった』と評している[2]。
経歴
・1896年(明治29年) - 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
・1901年(明治34年) - 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
・旧制第一高等学校を経て、1908年、東京帝国大学を優等で卒業、穂積重遠らと共に銀時計を賜る。ただちに同大講師に任命される。
・1910年 - 東京帝国大学助教授
・1911年 - ドイツ、フランスへ3年間留学を命じられる。
・1914年 - 帰国
・1916年 - 東京帝国大学教授
・1917年7月16日 - 法学博士(大学総長推薦)[3][4]
・1932年 - 代議士
学説
明治末から大正にかけて「民法といえば鳩山、鳩山といえば民法」とまでいわれた民法学会の寵児である。鳩山は、梅謙次郎、富井政章らの日本の民法起草者による解説・注釈の時代を乗り越え、川名兼四郎、石坂音四郎らと共にドイツ法研究の結果に依拠した解釈論を発展させて日本民法の解釈論として主張した[5]。その中でも、鳩山理論の影響力は多大で、ある公理(批判的論者によれば、ドグマ)から演繹的に具体的規範を定立し、その公理系内における体系化を推し進めて精緻な理論を完成させ、一時代の通説を築いた。特に、主著『日本民法債権総論』は当時の裁判官がしばしばそのまま判決文に引用したという程の影響力を誇った[6]。
大学卒業後わずか2年の時に著した『法律行為乃至時効』は、出世作となった鳩山法学初期の代表作である。日本民法がドイツ法由来の法律行為を中核とした体系を採っていることに着目し、法律行為に関するドイツ法の学説を研究してその成果を取り入れることを意図したもので[7]、法律行為を意思表示そのものと見ていた従来の学説に反対して両者の位置付けを行い、その後の法律行為理論研究の出発点とも言うべき地位を占めている[8]。これは本来民法典全体についての注釈書の一部として企画され、鳩山が該当部分を担当執筆したものであったが、大部分が未完成に終わったため、「鳩山があまり立派なものを書いたので後が続かなかったのだ」と噂された。我妻栄によれば、この噂は、事実ではないか、少なくともそれが唯一の原因ではなかったということである[9]。
確かに、法典が編纂された直後の法解釈学が、概念の正確を優先し、硬直した形式論理の体系を築き上げる傾向を持つことは、古今東西を通じての常例であり[10]、初期の鳩山もこの傾向を強く持っていたことは否めないが[11]、鳩山の学説は必ずしもそれにとどまらず、ドイツ民法典の基盤をなす取引安全尊重の法思想そのものを抽出して日本民法の上に展開し、静的安全と動的安全の調和をもって民法の指導原理としたところにその功績があり[12]、例えば不動産についてわが国の不動産取引の実情を顧慮し、相対的公信主義の採用を提唱したのはその現れである。この静的安全と動的安全の調和のテーゼはこんにちでは自明の理とされるに至っている[13]。
また、末弘厳太郎[14]によるドイツ流法学への批判を受けて煩悶した後、牧野英一の研究に示唆を受け、ドイツ民法において明文化されていた信義誠実の原則が日本民法にも妥当すべきものとして、債権法における指導原理とする論文『債権法における信義誠実の原則』を書き上げた後、学界を去る。これは後に戦後の大改正において民法1条2項の新設に結実することとなる。
これらのことから、単なるドイツ法学の直輸入にとどまるものではなく、日本民法学自立化への先駆者としての評価もなされている[15][16]。
著書
・『法律行為乃至時効』(巌松堂書店、1912年)
・『日本債権法各論・上下』(岩波書店、1924-1925年)[4][5]
・『民法研究第1~4巻』(岩波書店、1929年)
・『日本民法総論[増補改訂版]』(岩波書店、1931年)
・『債権法における信義誠実の原則』(有斐閣、1955年)
門下生
・我妻栄 - 彼に学者になるように勧めたのは鳩山であると言われている[17]。
脚注
1. 『優等学生勉強法』P2-3、P32[1]
2. 鳩山秀夫『債権法における信義誠実の原則』附録二「鳩山先生の思い出」461頁(有斐閣、1955年)
3. 『大日本博士録』1巻P182-183[2]
4. 『官報』第1545号、大正6年9月25日。
5. 鳩山・債権法における信義誠実の原則444頁(我妻栄執筆)
6. 鳩山・債権法における信義誠実の原則465頁(末弘発言)
7. 鳩山秀夫『法律行為乃至時効』3頁
8. 我妻栄『新訂民法総則(民法講義I)』238頁(岩波書店、1965年)
9. 鳩山・債権法における信義誠実の原則序文1~2頁(我妻栄執筆)
10. ハインリヒ・デルンブルヒ著・坂本一郎=池田龍一=津軽英麿共訳『獨逸新民法論上巻』30頁(早稲田大学出版部、1911年)
11. 鳩山・債権法における信義誠実の原則序文2頁(我妻栄執筆)
12. 鳩山・債権法における信義誠実の原則
13. 潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』294頁(鈴木禄弥執筆)法学セミナー増刊(日本評論社、1974年)
14. 末弘厳太郎の妻は菊池大麓の三女・冬子であり、鳩山の義弟に当たる。
15. 鈴木禄弥・前掲書295頁
16. 鳩山・債権法における信義誠実の原則462頁(牧野発言)
17. 星野英一「我妻栄」(法学教室176号68頁)
参考文献
・早川隆 『日本の上流社会と閨閥(菊池・鳩山・石橋家 個性豊かな人物群)』 角川書店 1983年 165-168頁
5870 三条西公正墓(台東区谷中・谷中霊園)
明治 34年 1月 8日 ~ 昭和 59年 1月 25日 ( 1901 - 1984 )
三条西家 18代当主・文学博士・香道家。
父、三条西家実義 ( 二男 )。
東京出身。
号、尭山 ( ぎょうざん )。
東京帝国大学卒業。宮内省図書寮編集官。東京帝室博物館監査官。香道御家流家元。実践女子大学部教授・名誉教授。
昭和 22年 ( 1947 ) 御家流宗家を継ぐ。
有職・服飾史に通じ、書をよくした。日本香道協会会長。正四位勲三等。83歳没。
著書 : 香道関係多数、「組香の鑑賞」、「概観日本服装史」、また「万葉集」・「栄華物語」の現代語訳で知られる。
夫人は、香淳皇后の妹にあたる久邇宮家の信子女王。後継は、三条西実謙。


5869 三条西信子墓(台東区谷中・谷中霊園)
5868 三条西公允墓(台東区谷中・谷中霊園)
天保 12年 ~ 明治 37年 6月 13日 ( 1841 - 1904 )
三条西家 16代当主・新潟県知事・伯爵。
父、三条西季知 ( 長男 )。
幼名、徳丸。
京都山城出身。
宮内省歌道御用掛。
安政勤王 88廷人の一人。
安政 4年 ( 1857 ) 左近衛権少将。
安政 5年 ( 1858 ) 外交措置幕府委任の勅答案に反対し、有志公家と共に九条関白邸に列参する。
慶応 3年 ( 1867 ) 孝明天皇諡号宣下の儀の山陵使。
明治元年 ( 1968 ) 皇太后宮権亮・侍従。
明治 2年 ( 1869 - 1870 ) 10月 3日水原県知事。
明治 3年 ( 1870 ) 新潟県知事。
明治 17年 ( 1884 ) 伯爵・大鳥神社大宮司。
明治 19年 ( 1886 ) 家名を西三条と改称 ( 大正 3年に復する )。
明治 21年 ( 1888 ) 正二位奏任二等下勲五等瑞宝章。64歳没。


5867 三条西季知墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
安政5年(1858年)、権中納言となり重んじられるが、文久3年(1863年)八月十八日の政変により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。その後さらに大宰府まで走り、やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年(1868年)には皇太后宮権大夫となった。
明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。
三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範となった。季知自身は三条西家分家当主の高松公祐に師事した。 明治11年(1878年)、13年(1880年)出版の『開化新題歌集』第一編に三首、二編に二首、以下の通り歌が収められている。
第一編
題「電信機」 「ことのはのかよふをみれば風の音の遠きさかひはなき世なりけり」
題「寒暖計」 「天地のこころやこれにかよふらんさらすはしららじ暑さ寒さを」
題「国旗」 「くもりなき御世のしるしはおほかれど先づあふがるる日の御旗かな」
第二編
題「水上警察」 「川くまの隈ももらさず見ることは水の濁りを残さざるなり」
題「道路修繕」 「きのふまで行なやみしも新しくひらけし道の心ちこそすれ」
また、三条西家は香道の宗匠家としても知られ、季知自身も公家文化を担うこの時代の文化人の一人であった。
系譜
・父:三条西実勲
・母:三条実起長女
・正室:山内豊敬の娘
・継室:仙石節子 - 仙石久道の娘
・生母不明の子女
・男子:三条西公允(きんあえ) - 伯爵
・五女:幾子 - 白川資訓室
・男子:乗禅
・女子:浜子 - 三条西実義室
(wikiより)
三条西季知
5866 蜷川式胤墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物・生涯
子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している[1]。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
・1869年7月、太政官制度取調御用掛、権少史から少史へ進み、従7位。
・1871年、少史が廃官となり、外務省の外務大録として編輯課御用書類下調掛。
・1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。
・1875年、内務省博物館掛。
・1877年、1月、病を理由に退職。
在任中の業績に、次があった。
・1869年 - 1871年、民法編纂の会議に列して、フランス民法典の翻訳に協同した。海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。
・1871年、2月、太政官に許可を願い、3月、写真師横山松三郎・洋画家高橋由一と、『旧江戸城写真帖』を作った[2]。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成らと建議した。5月、田中芳男らと九段坂上で物産会を開いた[3]。10月の京都博覧会の開催に尽力した。岩倉使節団のための、書類の準備に携わった。
・1872年、3月 - 4月一杯、町田久成、当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めのハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物局主催の日本初の博覧会を開いた。東京国立博物館の始まりとされている[4]。これは翌年のウィーン万国博覧会の準備でもあった。5月から10月まで、(太政官の前年5月の布告『古器旧物保存方』に基づき)、町田久成に従い、高橋由一・横山松三郎らと、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の宝物を調査し、さらに正倉院の調査を行った。『壬申検査』と呼ばれる[5]。この調査のうちの正倉院開封の状況を、日記『奈良の筋道』に残した。
・1875年、4月1日からの奈良博覧会に出展のため、再び正倉院へ出張した。
道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 - 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西へ調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年に刊行した。石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った[6] 。仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった。
『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースも訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である[7]。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている[8]。
1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47。谷中の葬儀に参列したモースは、死因をコレラと記している[9]。
1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部』、『観古図説瓦之部』を刊行した。
正倉院の所蔵品の散逸に式胤が関わる、との推論が行われている[10]。
親族
・嗣子の蜷川第一(にながわ ていいち)は美術史家として活動。叔父である式胤の追慕録をまとめた。また野々村仁清の研究家として仁和寺門前御用窯の発掘も手がけた。[11]
・孫の蜷川 明(にながわ あきら)はギリシャ・ローマ美術のコレクターとして知られる。[12]蜷川家3代に渡り、また自身も40年をかけて蒐集した自身のコレクションを展示した、倉敷蜷川美術館と京都ギリシアローマ美術館を設立し、同館の館長となった。[11]
・孫の蜷川親繼(にながわ ちかつぐ)は日本文化大学の創学者[13]で、第一の長男である。
・孫の蜷川親正(にながわ ちかまさ)は日本文化大学二代目学長で、親繼の弟[14]である。
柏樹書院
室町時代から続く有職故実の学塾で、日本文化大学の前身である。式胤は、第22代当主である。自身の死後、息子の第一が第23代当主として引き継ぎ、第一の死後、その息子の親繼が第24代当主として引き継いだ。敗戦後、柏樹書院は教養学の学校として復興。しかし、親繼は日本の伝統・文化・秩序が失われていることに喪失を危惧しヨーロッパへ留学。帰国後、東京大学で歴史、日本大学で政治、中央大学で法律を学んだ。その後、柏樹書院の精神を受け継ぎ、日本本来の道徳的伝統と伝統・叡智・美風を継承し次代を背負う優秀な人材を育成する目的で、「手作り教育・徹底した少人数教育」を教育方針に、日本文化大学の建学[15]に生涯を捧げた。尚、1987年(昭和62年)に親繼が他界した後、弟の親正が日本文化大学の学長に就任したが、1995年(平成7年)以降は一家が学長を務めることはなく、佐々木秀雄[16]、杉田博[17]、大森義夫 (官僚)[18]、遠藤豊孝[19]が学長を務め、現在に至る。
おもな著述
・『蜷川式胤日記』、(1869 - 1882)、蜷川家蔵
・『旧江戸城写真帖』、(1871)、東京国立博物館蔵、重要文化財
・『壬申検査社寺宝物図集』31冊のうちの第1 - 第7冊、および、『壬申検査古器物目録』5冊のうちの巻1 & 3、(「壬申検査」の共著)(1872)、東京国立博物館蔵、重要文化財[20]
・『観古図説 陶器之部』第1 - 第7巻、(1876-1880) → 蜷川親正編、中央公論美術出版(1990)
・『観古図説 陶器之部』第8巻、未完、原稿はボストン美術館蔵
・『観古図説 城郭之部』1巻、(1878) → 新訂、中央公論美術出版(1990) ISBN 9784805501856
・『観古図説 瓦之部』1巻、(1902)
・『観古図説 陶器瓦之部』1巻、(1902)
・『古器物記』、(1877 - 1882)、蜷川家蔵
・『徴古図説』4巻(未完)
・『好古図説』4巻(未完)
・米崎清実編 『奈良の筋道』、中央公論美術出版(2005)
『服制に関する建言書案』、『服制に関する書状案』、『明治三年覚書』、『奈良之筋道』(1872)
・米田雄介編 『八重の残花』、中央公論美術出版(2018)
脚注
1. 西川明彦 東京国立博物館所蔵木漆工模造品p.24
2. 重要文化財『旧江戸城写真帖』
3. 木下直之 大学南校物産会について
4. 東京国立博物館の歴史
5. 東京国立博物館 壬申検査 120年前の文化財調査
6. 林忠正旧蔵、《観古図説 陶器之部》
7. 『モース日本陶器コレクション』
8. 林望「蜷川式胤の奇妙な依頼」。
9. モース著、石川欽一訳、『日本その日その日3』、東洋文庫179、167 - 171頁。
10. 由水常雄:『天皇のものさし』、麗澤大学出版会、2006年。ISBN 9784892054983
11. a b 西井奨(同志社大学講師)研究ブログ2012年8月10日記事『京都ギリシアローマ美術館について』
12. 所さん&おすぎのトホホ人物伝・第46回
13. 初代学長で、理事長も兼ねる。
14. 第一の次男
15. 1978年(昭和53年)開学
16. 1995年(平成7年)から2000年(平成12年)まで務める。大学歌作詞。
17. 2000年(平成12年)から2012年(平成24年)まで務める。
18. 2012年(平成24年)から2016年(平成28年)まで務める。
19. 2017年(平成29年)から現職。
20. 東京国立博物館歴史資料
参考文献
脚注の記事のほか、
・林望「蜷川式胤の奇妙な依頼」、『書藪巡歴』、新潮文庫、1998年所収。
・蜷川第一編、『蜷川式胤追慕録』(1932)(没後50年の記念展観の冊子)
・「ドロシー・G・ウェイマン著、蜷川親正訳、『エドワード・シルベスター・モース』下、中央公論美術出版(1976) ISBN 9784805501030 」巻末の、『蜷川親正:あとがき』
・守屋毅編、『共同研究 モースと日本』、小学館(1988) ISBN 9784093580212
・人名辞典類
・今井祐子、明治期の在留フランス人と蜷川式胤、EBOK (17)、 53-79、2005年
・今井祐子、On the Unpublished Draft of Part VIII of The Kwan-Ko-Dzu-Setsu (Ceramic Art) Held in the Collection of the Museum of Fine Arts, Boston (USA)、福井大学教育地域科学部紀要 (4)、325-350、2014年
外部リンク
・朝日日本歴史人物事典『蜷川式胤』 - コトバンク
(wikiより)
蜷川式胤
5865 蜷川親継墓(台東区谷中・谷中霊園)
5864 秋元春朝墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
東京府出身。子爵・毛利元功の三男として生まれ、子爵・秋元興朝の婿養子となる[1][2]。1904年、学習院高等科を卒業[3]。イギリスに留学し、1908年、バーミンガム大学商科を卒業した[2][3]。養父・興朝の死去に伴い、1917年5月15日、家督を相続して子爵を襲爵した[1][4]。
1912年以降、拓殖局嘱託、拓殖局総裁秘書官兼逓信大臣秘書官、鉄道大臣秘書官、日英博覧会事務局嘱託、英皇太子接伴準備委員、帝都高速度交通営団監事、鉄道会議議員、海事審議会委員、上毛電気鉄道相談役などを務めた[2][3]。
1915年1月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。
親族
・妻 - 秋元光子(こうこ、養父の二女)[1]
・長男 - 秋元順朝(埼玉銀行頭取)[1]
脚注
1. a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、21-22頁。
2. a b c 『人事興信録』第14版 上、ア73頁。
3. a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』33-34頁。
4. 『官報』第1435号、大正6年5月16日。
参考文献
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
・人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
関連項目
・中央大学講堂 - 神田区駿河台の秋元邸跡に建設された[1]。
外部リンク
・旧秋元別邸(館林市)
(wikiより)
秋元春朝
5863 秋元興朝墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
のちに下野高徳藩主となる戸田忠至の次男として生まれる。兄に戸田忠綱。幼名は和三郎。出生当時、実父は間瀬和三郎と名乗り、宇都宮藩家老として戸田家本家に仕えていた。
明治4年(1871年)9月9日、旧館林藩主秋元礼朝の養子となり[注釈 1]、従五位に叙され、翌日に元服して興朝と名乗る。同年9月23日、礼朝の隠居により家督を継ぐ。1883年(明治16年)1月、外務省書記生(専門職)としてフランスの在パリ公使館勤務となるが、間もなく職を辞し欧州各地を遊学した。1885年(明治18年)12月に日本に帰った。この間、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[1]。
明治22年(1889年)10月、「北海道土地払下規則」により、三条実美を中心に興朝ら華族組合で、北海道庁の土地5万町歩の貸下げを申請し、華族組合雨竜農場を創設した(米式の大農場経営による開墾を行ったが軌道に乗らず、明治24年(1891年)に三条が没すると求心力を失い、明治26年(1893年)解散)[2]。
外務官僚として、明治25年(1892年)12月より弁理公使、明治28年(1895年)3月には特命全権公使に昇進した。しかし健康が優れず、任地に赴かず職を辞し、明治33年(1900年)に伊藤博文の立憲政友会ができるとこれに加わって、東京支部長をつとめた。東洋商業学校の校長となった[3]。東京駿河台の邸宅のほか、旧領地館林にも別邸を持ち、同地の城沼の新田開墾事業などにも尽力した。大正6年(1917年)、61歳で没する。娘光子の婿で徳山藩主毛利元功の三男の春朝が遺蹟を継いだ。
明治35年(1902年)、日下(ひのした)会を創設し相撲道の発展に寄与し、また常陸山の後援会「常陸山会」の会長もつとめた。
墓所
・谷中霊園 乙14
脚注
出典
・先祖の戸田忠昌の正室が秋元富朝の娘であった関係で、戸田家一族からしばしば秋元家へ養子入りする者が出ていた。
出典
1. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
2. 北空知河川事業所・洪水と治水の歴史
3. 『最近調査男子東京遊学案内』明治42年博文館刊に校長で記載あり
参考文献
・日本人名大辞典 講談社刊
・興朝公葬儀録(同書内の興朝の肖像)
(wikiより)
秋元興朝
5862 秋元礼朝墓(台東区谷中・谷中霊園)
生涯
嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男として生まれる。安政6年(1859年)に館林藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により幕府から隠居させられたため、家督を継ぐ。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。
明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官。同年9月に隠居し、養子の興朝に家督を譲る。明治16年(1883年)6月13日に死去。享年36。
5861 二代目・小布施新三郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
明治 6年 ~ 昭和 18年 11月 14日 ( 1873 - 1943 )
先代より引き続き株で財をなし寄贈寄付で知られた富豪・東京株取引所商議員総代。
神奈川県横浜出身。
前名、福太郎。のち新三郎を襲名。
家業の株式仲買業を継ぎ大正 14年 ( 1925 ) 家督を相続する。
昭和 4年 ( 1029 ) イタリア皇帝よりクーロンヌ勲章を賜る。
日中戦争がはじまると私財 30万円を投じて飛行機を陸軍に献納して個人献納のトップをきった。
当時戦闘機 7万円・偵察機 8万円であった。
個人献納は、海軍機にも献納が行われ「報国号」となったが、新聞社への献金でつくったものには「愛国号」「全日本号」と命名された。
なお、文京区の不忍通りが目白通りにぶつかる辺りにある「小布坂」の名は、小布施新三郎の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。71歳没。
二代目は、「温容院釈浄楽新成居士」。



5860 初代・小布施新三郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
弘化 2年 2月 14日 ~ 大正 14年 2月 17日
富豪・東京株式取引所監査役。
信濃国 ( 長野県 ) 出身。
明治維新後、横浜に出て外国商会に勤務。傍らドル相場を研究。
明治 12年 ( 1879 ) 東京兜町に「小布施商店」を開業し、公社債株式仲買業と古金銀売買業を経営。
明治 20年 ( 1887 ) 代初めの活況・日清日露戦争から第 1次世界大戦などの好景気で業績を伸ばす。
明治 22年 ( 1889 ) 家督を継ぐ。また、東京株式取引所監査役、のち相談役を務める。80歳没。
正面「金龍院釈布施新歓居士/南無阿弥陀仏/貞松院釈道光寿鶴大姉」。
「金龍院釈布施新歓居士」は、初代。


5859 藤田喜作墓(台東区谷中・谷中霊園)
人物
新潟県生まれ。東京帝国大学文学部社会科および法学部経済科を卒業。
ドイツ・ベルリン大学などに文部省給費生として留学。東京大学、明治大学、法政大学、帝国女子大学で教鞭をとっていた。社会主義思想の洗礼を受け、当時の学会のアカデミズムに馴染まず、また迫りくる軍靴の足音にも半身に構える反骨思想の持ち主だった。
大正期の自由大学運動にも関わっていた。
昭和10年に自由ヶ丘学園を設立したが、これは手塚岸衛の創設による自由ヶ丘学園を引き継ぐも、理念や経営方針を新たにした学校として再出発させた学校である。
同学園について、「この学校は不自由学園だ。何をしてもよいというのは本当の自由ではない」と校長挨拶でしばしば語っていた。 東京の谷中霊園に眠る。
名言
・眼が輝き、足取りも軽く、明日も学校に行こう。学校には何かがある筈だと思えるような魅力ある教育が出来ればその時生徒は宝物になるはず。
・すべての人がエリートだろうか。社会はエリートを必要としているのか。そのようなコースがあるかの如く競わせ狭い道を漸く辿りついた一握りの人々が果たして良い社会を作れたか。
・心の欲する所に従えども矩を超えず。
・人生は草紙にあらざれば書き直しを許さず。一日一日が清書なれば若き友よ常に真剣であれ。
関連項目
・自由ヶ丘学園高等学校
(wikiより)
5858 鶴田皓墓(台東区谷中・谷中霊園)
略歴
・幼少時は草場船山に学ぶ。
・1853年(嘉永6年)江木鰐水に学ぶ。(のちに娘の蝶子が鰐水の五男・保男に嫁ぐ)
・1869年(明治2年)大学校へ入り大学少助教となる。3年刑部大録「新律綱領」編纂。
・1872年(明治5年)5年明法助「改定律令」編纂。江藤新平に命じられ司法省調査団として井上毅らと渡仏。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受ける。
・1874年(明治7年)明法権頭となる。
・1875年(明治8年)司法大丞一等法制官となる。
・1877年(明治10年)太政官大書記官となる。
・1879年(明治12年)一等法制官、検事兼元老院議官となる。
・東洋大日本国国憲按の起草に参加。
・1881年(明治14年)大審院検察長、陸軍刑法審査員、海軍軍律刑法審議員となり、陸軍刑法、海軍刑法、旧商法、他を起草。
・1885年(明治18年)元老院議官へ復帰。
・享年54。
栄典・授章・授賞
位階
・1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[1]
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[3]
勲章
・1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[4]
エピソードなど
・1882年(明治15年)、古賀謹一郎父子、市川兼恭、津田真道、赤松則良らと高畠五郎宅で小宴し、記念写真撮影した[5]。
脚注
1. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
2. 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
3. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
4. 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
5. 幕末洋学史の研究
参考文献
・原平三『幕末洋学史の研究』、1992年。ISBN 978-4-40-401900-4。ASIN 4404019009
外部リンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『鶴田皓』 - コトバンク
・“多久市の賢人(多久市立図書館)”. 2013年7月19日閲覧。
・鶴田徹(鶴田皓の曾孫). “「経国の文章」 日本近代法典の編纂者 鶴田皓(つるた あきら)その事績と思想”. 2013年7月19日閲覧。
(wikiより)
5857 北大路公久墓(台東区谷中・谷中霊園)
慶応元年 ~ 明治 28年 8月 11日 ( 1865 - 1895 )
三条末流阿野分家の男爵 ( 1884. 7. 8 )。
祖父、興福寺東北院住職の北大路季敏 ( 阿野公誠の次男 )。父、北大路実慎 ( 滋野井実在の子。従兄・季敏の養子 )。
上賀茂神社の社家の北大路清操は弟で、その子には北大路魯山人がいる。北大路家は、季敏を祖とする。
墓誌の記載は次のとおり。
北大路 公久 明治 28年 8月 11日
北大路 ミツ子 明治 35年 10月 3日
北大路 信平 明治 40年 1月 6日
北大路 信雄 大正 10年 5月 13日
北大路 実秀 昭和 3年 1月 13日
正三位勲二等 実信 昭和 10年 9月 22日
5856 渋谷米太郎墓(台東区谷中・谷中霊園)
略歴
・1877年(明治10年) - 山形県東田川郡藤島町下町(現・鶴岡市)に生れる。
・1896年(明治29年) - 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業
・三菱合資会社入社
・門司副支店長
・1911年(明治44年) - 香港支店長
・1919年(大正8年) - 三菱商事(株)常務取締役
・1920年(大正9年) - 三菱内燃機(株)常務取締役
・1928年(昭和3年) - 三菱航空(株)常務取締役
・理研金属(株)監査役
・1949年(昭和24年) - 国際電気通信(株)取締役
・三菱ふそう自動車(株)初代会長就任
・同相談役
・(財)荘内館・理事
・1971年(昭和46年) - 死去。享年94、東京都台東区上野の谷中霊園に墓がある。
受賞歴
・1931年(昭和6年) - レジオンドヌール勲章
・1969年(昭和44年) - 藤島町名誉町民顕彰
関連項目
・三菱グループ
外部リンク
・三菱ふそうトラック・バス株式会社
5855 山口鋭之助墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
出雲国(現・島根県)松江に松江藩士・山口軍兵衛礼行の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。
東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。
その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
親族
・妻 山口ソノ(数学者・藤沢利喜太郎の妹)
栄典・授章・授賞
位階
・1886年(明治19年)7月8日 - 従七位[1]
・1929年(昭和4年)7月1日 - 従三位[7]
勲章等
・1905年(明治38年)6月24日 - 勲四等瑞宝章[8]
・1916年(大正5年)1月19日 - 勲三等旭日中綬章[10]
著作
著書
・『普通教育 物理学』 大日本図書、1907年7月
・『山陵の研究』 明治聖徳記念学会、1923年2月
・『皇道早わかり 御国寿の歌』 本学会、1936年7月
・『祭政一致 皇道の教学 : 近藤真琴先生の和魂漢洋才主義と教学の方針』 本学会出版部、1937年3月
・『世界驀進の皇道経済』 本学会、1938年12月
脚注
1. 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
2. 『官報』第2597号「叙任及辞令」1892年3月1日。
3. 『官報』第3858号「叙任及辞令」1896年5月12日。
4. 『官報』第6256号「叙任及辞令」1904年5月11日。
5. 『官報』第7770号「叙任及辞令」1909年5月22日。
6. 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
7. 『官報』第853号「叙任及辞令」1929年11月1日。
8. 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
9. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
10. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
参考文献
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
・『昭和人名辞典』第1巻、日本図書センター、1987年(『大衆人事録』第14版「東京篇」帝国秘密探偵社、昭和17年刊の改題複製)
・『大正人名辞典』Ⅱ下巻、日本図書センター、1989年(『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、昭和2年刊の改題複製)
関連文献
・「従三位勲二等山口鋭之助外一名叙勲並勲章加授ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・大正十年・叙勲巻三」)
・東郷茂彦 「宮内省諸陵頭山口鋭之助の事績と思想」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第48号、2011年11月)
外部リンク
・歴代総長・教授・助教授履歴検索システム(旧制) - 京都大学大学文書館。
・谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 山口鋭之助
(wikiより)

山口鋭之助

