本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/06

京極 高本 (きょうごく たかもと、元禄7年(1694年) - 宝暦8年3月28日1758年5月5日))は、江戸時代中期の高家旗本京極高甫の長男。初名は高包。通称は寅助、四郎左衛門。官位は従四位下侍従・近江守。


正徳
3年(1713年)3月15日、将軍徳川家継御目見する。享保14年(1729年)8月3日、家督を相続する。寛保2年(1742年)10月15日、高家職に就任し、従五位下侍従・近江守に叙任する。後に従四位下に昇進する。寛延元年(1748年)12月10日、辞職する。宝暦8年(1758年)3月28日、死去、65歳。


正室はいない。3女がいた。婿養子の高常牧野忠列の五男)は病気を理由に嫡子の地位を辞退し、孫の高厚が家督を相続した。
(wikiより)

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京極 高甫 (きょうごく たかすけ、寛文2年(1662年) - 享保14年5月28日1729年6月24日))は、江戸時代中期の高家旗本京極高国の三男。初名は高武、高茂、親信。通称は杢之助、大膳。官位は従五位下侍従・大膳大夫。


一時、落合姓を称す。寛文6年(1666年)5月7日、実父高国の改易により、池田光仲のもとに預けられる。延宝8年(1680年)9月2日、赦免される。その後、実兄京極高規の養子になる。元禄12年(1699年)12月28日、将軍徳川綱吉御目見する。宝永2年(1705年)11月29日、高規の隠居により家督を相続する。同日、実弟の京極高林(ただとき)に500石を分知する。宝永4年(1707年)12月15日、高家職に就任し、従五位下侍従・大膳大夫に叙任する。享保9年(1724年)12月9日、辞職する。享保14年5月28日、死去、68歳。


正室はいないが、側室との間に京極高本嫡男)、北条氏応(うじたか、玉縄北条家へ養子入り)など3男がいた。
(wikiより)

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京極 高規 (きょうごく たかのり、寛永20年(1643年) - 宝永5年10月19日1708年11月30日))は、江戸時代前期の高家旗本丹後宮津藩京極高国の嫡男。生母は千菊姫。初名は高頼。通称は兵勝丸、采女、近江。官位は従四位下侍従、対馬守。


父が改易されなければ国持大名・宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は関ヶ原の戦いで大功を挙げ、徳川家康より丹後一国を与えられた京極高知である。


明暦
元年(1655年)1月28日、将軍徳川家綱御目見する。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下近江守に叙任する。後に対馬守に改める。寛文6年(1666年)5月3日、父高国の改易により、藤堂高次のもとに預けられる。

扶助料3000俵を与えられる。延宝8年(1680年)9月2日、赦免されて、母方の実家伊達家の領地常陸竜崎に暮らす。


元禄
3年(1690年)8月18日、幕府の旗本となり、蔵米2000俵を与えられ、寄合に所属する。元禄8年(1695年)12月15日、高家職に就き、18日侍従に任官する。元禄10年(1697年)7月26日、あらためて安房朝夷郡などで2000石を与えられる。元禄14年(1701年)、浅野長矩の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったのは自分だと主張をし、梶川頼照と論争を生んだ。宝永2年(1705年)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子高甫(実弟)に家督を譲る。宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。


正妻はいない。2男1女があり、その他に養子が2人いた。
(wikiより)

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土井利孝 ( どい - としたか )     
明治 34年 ~ 昭和 41年 8月 25日 ( 1901 - 1966 )

子爵。

父、下総古河藩主・土井利与 ( 長男 )。母、みら。

昭和 4年 ( 1929 ) 襲封。正四位。嗣子、利泰。66歳没。

正面「土井家」。「慈照院誠誉英秀利孝大居士」。

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土井利與 ( どい - としとも )    
嘉永 4年 ~ 昭和 4年 1月 2日 ( 1851 - 1929 )

第 14代下総古河城主 ( 最後 )。

従二位子爵。

初名、泰次郎。

父、第 13代利則 ( 長男 )。

徳川家康・家忠・家光の 3代に仕えた幕閣の大老・土井利勝 ( 1573 - 1644 ) の子孫。

慶応 3年 ( 1867 ) 14歳で藩主となる。

明治維新以後は、古河藩知事、廃藩置県にともなう古河県知事などとなる。

明治 9年 ( 1876 ) 宮内省出仕、宮中勤番。

明治 21年 ( 1888 ) 狩猟官。

土井一族発祥の地は愛知県岡崎市土井町。

俳号、三友亭巨杉。

明治維新において朝敵とならなかった大名に所有権が与えられた土地である東京市本郷駒込片町に居住していたものと思われる。79歳没。

相続は、子爵・土井利孝。

正面「宝台院殿仁誉昌徳利譽大居士」。室、土居千賀子墓、正面「妙台院殿芳蕭慧薫大姉」も隣りにある。継室、土居みら墓、正面「智真院殿温誉明鏡永寿大姉」も同域にある。子、子爵土居利孝の墓も同域にある。

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白根 松介(しらね まつすけ、1886年明治19年)10月30日[1] - 1983年昭和58年)7月28日[1])は、日本の宮内官僚政治家華族貴族院男爵議員宮内次官

経歴
東京府内務官僚・白根専一の二男として生まれる[1]。父の死去に伴い1898年7月18日に男爵を襲爵[1][2]


東京高等師範学校附属中学校
第六高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[1]。同年8月、内務省に入省し神奈川県属となるが、1912年2月、依願免本官[1]1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格[1][3]


1913年12月、逓信省為替貯金局書記に任官し、1914年7月、宮内省に転じ帝室会計審査官補に就任[1]。以後、大臣官房庶務課長、兼秘書課長、大臣官房総務課長、内匠頭内蔵頭などを歴任し、1936年5月、宮内次官に就任し、1945年6月まで在任した[1]


1945年10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[4]。その後、日本赤十字社常任理事を務めた[1]

栄典
1944年(昭和19年)1月18日 - 勲一等瑞宝章[5]

親族
・妻 白根喜美子(実業家・金塚仙四郎の長女)[2]

・長女 桂富美子(桂広太郎の妻)[2]

・次女 伊藤美穂子(伊藤文吉 (男爵)長男・俊夫の妻)[6]

・叔父 河野忠三内務官僚

・従兄弟 白根竹介(内務官僚)

脚注
1. a b c d e f g h i j 『日本近現代人物履歴事典』274頁。
2. a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、765頁。
3. 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』207頁。
4. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。
5. 『官報』第5107号「叙任及辞令」1944年1月25日。
6. 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017、「伊藤博文」の章

参考文献
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。

・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)

「寿光院松柏道源居士」。

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白根松介

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黒羽英男 ( くろはね - ひでお )     
明治 22年 ~ 昭和 63年 3月 17日 ( 1889 - 1988 )

国文学者。

茨城県出身。

明治 43年 ( 1910 ) より御影師範学校教諭・府立第一中学校教諭を経て、昭和 22年 ( 1947 ) 東京商業大学専門部教授。のち、城西大学教授。正四位勲三等。

夫人は、石井松之助長女・雪江。100歳没。

著訳書 : 「漢書食貨志訳注」、「女殺油地獄通釈」、近松名作 「冥途の飛脚・心中天の網島」、「曽根崎心中・丹波与作」、「 不遇の史家司馬遷と史記」など。

正面「好文院馨雲尚友居士/松林院瑶雪貞秀大姉」。

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戸塚文雄 ( とつか - ふみお )     
明治 11年 12月 8日 ~ 昭和 4年 4月 5日 ( 1878 - 1929 )

明治大正期の医者。

父、戸塚文海 ( 三男 )。母、久保氏。

号、春浦。

東京出身。

明治 28年 ( 1895 ) 7月ドイツに留学し、細菌学を専攻。

ドクトル デル メジチーネの学位を受ける。

明治 41年 ( 1908 ) 4月帰国。

父・祖父に継ぎ一般診療に従事。

関東大震災で邸宅を焼失し、多くの学術資料も焼失した。52歳没。

正面「戸塚文雄墓」。「承徳院殿仁岳文雄居士」。

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戸塚忠政 ( とつか - ただまさ )     
明治 41年 12月 18日 ~ 平成 7年 3月 17日 ( 1908 - 1995 )

信州大学名誉教授。

東京大学医学部医学科卒業。内科学者。

昭和 23年 ( 1943 ) 9月松本医科大学 ( 信州大学医学部 ) 付属病院初代教授。

昭和 31年 ( 1956 - 1958 ) 信州大学付属病院長。勲三等旭日中綬章。86歳没。

著書:「高血圧と動脈硬化」。

正面「戸塚家」。「顕徳院殿澄察忠政大居士」。

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原田 一道(はらだ いちどう / かづみち[1]文政13年8月21日1830年10月7日) - 明治43年(1910年12月8日)は、江戸幕府旗本[2]幕末明治期の兵学者日本陸軍軍人陸軍少将正二位勲一等男爵

経歴
文政13年(1830年)8月21日、備中国鴨方藩藩医・原田碩斎の長男として生まれる。はじめ駒之進、のち敬策・吾一と称す。備中松山藩家老の山田方谷に学ぶなどした後、嘉永3年(1850年)、江戸にて蘭学医伊東玄朴に師事。砲術など洋式兵学を修めて幕府に出仕。安政3年(1856年)、蕃書調所取調出役教授手伝・海陸軍兵書取調出役に就き、兵学を講じるなど翻訳にも従事する。


文久
3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随いて渡欧。兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学ぶ。慶応3年(1867年)に帰朝。戊辰戦争が起こったため、故郷の鴨方藩に仕えたが、のち再度江戸へ出府し、陸軍所教授・開成所教授として洋学を教授した。西周津田眞道神田孝平福澤諭吉らと研究にも励んでいる。その後、慶応4年(1868年)には砲兵頭に任命された。


維新後は沼津兵学校教師を経て、新政府の徴士として出仕。明治2年(1869年)に軍務官権判事、同4年(1871年)に陸軍大佐、さらに兵学校御用掛や兵学校大教授、兵学校頭、太政官大書記官、一等法制官などを歴任。明治6年(1873年)には岩倉遣欧使節団に陸軍少将・山田顕義理事官の随行員として参加し、フランスオランダなど欧米各国を巡遊。明治12年(1879年)に陸軍省砲兵局長、同14年(1881年)には陸軍少将に進み、東京砲兵工廠長・砲兵工廠提理・砲兵会議議長等の陸軍の要職に歴任している。なお、桂太郎寺内正毅黒木為楨長谷川好道川村景明乃木希典ら、明治の将星は兵学校大教授時代の教え子である。


予備役編入後の明治19年(1886年)に元老院議官、同23年(1890年)9月29日には貴族院議員に勅選され[3]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治33年(1900年)、兵器・軍律刑法研究の功により男爵を授けられて華族に列せられる。明治39年(1906年)、勲一等瑞宝章。明治43年(1910年)8月、病を得て国府津別荘に移って静養するも回復せず、12月8日、肺炎のため東京・裏猿楽町の自邸にて死去。享年81。勲一等旭日大綬章を追贈される。墓は東京谷中墓地

親族
・妻の志計(弘化4年生まれ)は静岡県士族中村市五郎の長女[5]


・長男原田豊吉は地質学者、次男原田直次郎(母の名はあい[6])は洋画家として著名だが、二人とも30代で病死。豊吉の妻・照子は、一道が仕事を通じて知り合ったドイツ人の武器商人マイケル・ベアの娘[7]


・孫(豊吉の長男)は元老西園寺公望の秘書を務めて、『西園寺公と政局(原田熊雄日記)」などで知られる男爵原田熊雄である。熊雄の妹信子は有島生馬の妻。

その他
・晩年、裏猿楽町の自邸では地道に兵器研究を行っていた。敷地内にあった片隅の離れは「お爺さんの作業部屋」と呼ばれていた。


・維新当時の西園寺公望が欧州留学を検討していた際、留学について大村益次郎に教えを請いにいったところ、大村は「自分よりも外国知識が豊富だから」と原田を推薦している。


・貴族院議員のころ、一等車両パスの特権があったにもかかわらず、「お百姓さんの話が聴けるのが面白い」との理由で、下等であった三等車両に好んで乗車した。


・幼年期は寺子屋に学んだが、あまりに物覚えが悪くて馬鹿にされたことを契機として、以後、発憤して勉学に励んだ。


・江戸留学中、勉学に熱中するあまり頭は蓬髪だった。他の友人達と芝居を観には行ったものの、ひとり入らずに門前で教本を読みふけり、芝居を見終わった友人達が出てきた時には、髪をひねる原田の癖で頭髪がこよりだらけにしまっており、友人達が驚いたとの話が伝わる。


・オランダ留学中、刀大小を帯びて士官学校に通学する姿に白人が仰天したというエピソードが伝えられている。


・「凡そ人は如何なる人を問はず、欲望は人をして大ならしむる一の動機となるべきものである。然れども欲望によりて事をなしたる人は人間の中の屑の人間である。決して大事業をなしたるとて真の尊ぶべき人ではない」(「故原田一道閣下の言行」『原田熊雄関係文書』より)


・明治26年(1893年)、神奈川県大磯(北本町 165坪)に別荘を構えている。

栄典
位階
1873年(明治6年)11月15日 - 従五位[8]

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[9]

・1889年(明治22年)11月5日 - 従三位[10]

・1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[11]

・1905年(明治38年)5月30日 - 従二位[12]

・1910年(明治43年)12月9日 - 正二位[13]

勲章等
・1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[14]

・1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[15]

・1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[16]

・1910年(明治43年)12月9日 - 旭日大綬章[17]

脚注
1. 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』69頁。
2. 小川、2239頁。
3. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
4. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
5. 原田一道人事興信録. 初版(明36.4刊)、121頁。
6. 新収蔵品紹介岡山県立美術館 『美術館ニュース』(88) (岡山県, 2010-03) 。
7. 「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」『歴史読本』2013年10月号。
8. 『太政官日誌』明治6年、第152号
9. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
10. 『官報』第1911号「叙任及辞令」明治22年11月9日。
11. 『官報』第3266号「叙任及辞令」明治27年5月22日。
12. 『官報』第6573号「叙任及辞令」明治38年5月31日。
13. 『官報』第8243号「叙任及辞令」明治43年12月12日。
14. 『官報』第1473号「叙任及辞令」明治21年5月30日。
15. 『官報』号外「授爵叙任及辞令」明治33年5月9日。
16. 『官報』第7272号「叙任及辞令」明治40年9月23日。
17. 『官報』第8243号「叙任及辞令」明治43年12月12日。

参考文献
小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林、1997年。

・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。

関連項目
幕府陸軍

揖斐章- 同じく幕府陸軍出身者で大阪兵学寮にて士官候補生の教育にあたった。

大島貞薫
(wikiより)

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原田 豊吉(はらだ とよきち、万延元年11月21日1861年1月1日) - 明治27年(1894年12月2日)は、日本地質学者。兵学者原田一道の長男として江戸に生まれる。洋画家原田直次郎は弟。

人生・生涯
東京外国語学校フランス語を学び、軍人であり欧州経験の豊富な父親とその知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで[1]、14歳にして1874年明治7年)ドイツ留学ハンブルク近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年学んだのち、フライベルク鉱山学校を卒業[2]ハイデルベルク大学で地質学、ミュンヘン大学古生物学を学び、ベルリン大学から博士号を取得し、ウィーン地質調査所に勤務した[2]


1883年(明治16年)帰国し、農商務省御用掛権少書記官として地質調査所に奉職した。1884年(明治17年)東京帝国大学理科大学の地質学教授を兼任し、初の日本人地質学教授となった[2]ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが帰国した1885年(明治18年)以降は局に昇格した地質局の中心となり、1886年(明治19年)地質局次長となる。1888年(明治21年)に『日本地質構造論』を発表しナウマンの、フォッサマグナによる日本分断説に反対、原田・ナウマン論争を引き起こした。原田の主張では、日本列島は日本北弧(樺太山系)と日本南弧(支那山系)の二つからなり,両弧が衝突した接合部は関東付近にありフォッサマグナのような大地溝帯は存在しないとした。現代の知見ではナウマンの主張が正しかったと考えられている。


肺結核
のため1889年(明治22年)大学を辞職し、翌年地質局も休職。1891年(明治24年)肺結核治療のために、ツベルクリン研究で赴く親友の佐々木政吉と共にドイツに渡りロベルト・コッホの治療を受けるが、帰国後1894年(明治27年)に33歳で死去した。


14歳から留学したため帰国したときに日本語を忘れ通訳が必要であったというエピソードがある。

栄典
1883年(明治16年)12月25日 - 正七位[3]

1894年(明治27年)4月16日 - 正六位[4]

家族
・妻に照子(1870-?[5])。ユダヤ系ドイツ人の武器商人マイケル・ベア(1841-1904[6])と荒井ろくの娘だが、高田商会高田慎蔵の養女として結婚[1]


・息子の原田熊雄西園寺公望の秘書を務めた。豊吉が若死したため、祖父・一道の男爵を継承、日本で初めての混血の華族と目されている[1])。


・娘の信子は有島生馬の妻。

脚注
1. a b c 「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本2013年10月号
2. a b c 日本地質学の軌跡3 原田豊吉:帝国大学理科大学と農商務省地質局の星鈴木理、GSJ 地質ニュース Vol. 4 No. 2(2015 年 2 月)
3. 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
4. 『官報』第3236号「叙任及辞令」1894年4月17日。
5. 原田熊雄名古屋大学『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]
6. "Johannes Justus Rein. Briefe eines deutschen Geographen aus Japan 1873-1875"Koch, Matthias, Conrad, Sebastian, IUDICIUM Verlag, 2006, p148

参考文献
今井功地質調査事業の先覚者たち(3) 最初の若き指導者 - 原田豊吉 -」『地質ニュース』109号、30-34頁、1963年9月。

小出仁, 「地学雑誌 第一集第一巻「日本地質構造論」原田豊吉:夭折した先駆者」『地学雑誌』116巻、2号、294-296頁、2007年。doi:10.5026/jgeography.116.2_294

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『原田豊吉』 - コトバンク

「原田豊吉」横断検索 - ジャパンサーチ(BETA)
(wikiより)

「理城院殿学山宜豊大居士」。

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原田 熊雄(はらだ くまお、1888年明治21年)1月7日 - 1946年昭和21年)2月26日)は、大正昭和期の華族・政治家。栄典従三位勲三等[1]男爵


最後の元老西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。各方面に奔走する「原田男」の名は、政変があるたびに紙面を賑わすほどだった。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。

来歴
1888年(明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。1894年(明治27年)、父の没後、叔父で画家の原田直次郎(1899年末に没)に引き取られた[注釈 1]


1899年(明治32年)に高師附属小学校高師附属中学校から学習院中等科六年に編入し卒業。学習院高等科から京都帝国大学へと進学し、同級生の近衛文麿木戸幸一織田信恒など華族の子弟たちと交流をもった。この人脈は、のちに「宮中革新派」と呼ばれるようになる華族の政治的グループ(十一会)への関与に見られるように、彼の政治的背景を形作ることとなった。


1910年(明治43年)、祖父・原田一道の死去に伴い家督を継承し、1911年(明治44年)1月23日、男爵を襲爵[2]。母親がハーフ(ドイツ人武器商人と日本人妻との娘)のため、クォーターである熊雄は日本最初期の混血の華族となった[3]


京都帝大卒業後の1916年(大正5年)に日本銀行に入行するが、6年後に退行。宮内省嘱託としてヨーロッパを見聞した後、1924年(大正13年)から加藤高明内閣内閣総理大臣秘書官を務めた。


1926年(大正15年)7月、住友合資会社に入社。事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月、元老西園寺公望の私設秘書に就任。このことは日銀退行時から西園寺と近衛や木戸の間で話が進められていた。以後原田は政党や官僚、軍部、宮中、財閥など、政治の中枢部に絶えず接触を持って精力的に各界を飛び回り、表裏にわたるあらゆる情報を収集して西園寺に伝達、さらに元老の意志を各界要人へ伝達して、その信奉する国連協調主義・親英米主義の守護に努めた。


1931年(昭和6年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[4]、死去するまで三期15年を務めている[5]

二・二六事件が発生した際には、東京平河町の自宅で就寝していた。6時前に木戸からの連絡で事件を知り、宮内省へ向かおうと家を出たが反乱部隊の歩哨があちこちに立っているため自宅へと戻った。原田も暗殺の標的にされているとの連絡を受け、隣家の青地家に塀を越えて避難して事なきを得ている。翌日昼前に西園寺八郎が用意した車で公望が滞在していた興津へと向かった[6]


反乱部隊の指揮官の一人だった清原康平(湯川康平)少尉は、貴族院議員が集まり何事かを相談している華族会館を占拠しその中心人物の原田を殺害せよとの命令を栗原安秀中尉から受け取った。逮捕後の清原の手記によると、華族会館の玄関で原田を見つけたが、その態度があまりに惨めだったので軍刀で切り捨てる気にもなれず見逃したと述べている。清原は自身が死刑を免れたのは原田を助命したからだとも主張しているが、原田はこのとき既に車で興津へと向かっており清原の説明は勘違いか捏造である[6]


1940年(昭和15年)の西園寺没後、軍部独裁の流れに対して原田は抵抗を試みる。原田は軍部から親英米派と目されており、これより遡るが二・二六事件においても暗殺の対象とされていた。軍部が擁立する東條内閣の打倒を目標に、近衛文麿や吉田茂樺山愛輔など親英米派(重臣グループ)と共謀し、終戦工作を秘密裏に計画する。しかし計画は憲兵隊の内偵工作によって発覚。1945年(昭和20年)4月、吉田が検挙され、近衛や原田自身も取り調べを受けるなど、計画は頓挫するに至った(「ヨハンセングループ」事件)。


その後も終戦工作を模索したが、やがて脳血栓による病魔に倒れ政治活動は困難となった。終戦間もない1946年(昭和21年)2月26日、療養先である神奈川県大磯町高麗の別邸にて死去、満57歳。命日は二・二六事件の発生からちょうど10年後であった。

原田日記
・『西園寺公と政局』(岩波書店、全8巻・別巻1、新版2007年ほか)。林茂らによる校訂。初版は1950年(昭和25年)6月より出版、度々重版された。


  ・1930年(昭和5年)から、西園寺が没する1940年(昭和15年)までの西園寺を取り巻く政局動静を、近衛秀麿夫人・泰子を筆記役に口述、没後は里見弴(本名:山内英夫)に原稿整理を委託するが、軍部が同日記を危険視したため中絶(『日記』解説より)。原田没後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、証拠として『木戸日記』と共に採用された。400字詰原稿用紙7,000枚に上る厖大なもの。


・編著『陶庵公清話』(岩波書店、1943年、新版1984年)

逸話
・大学卒業後、原田は宮内省入省を希望。しかし採用担当官を相手に同省改革論を論じたため、西園寺公望らの政治的周旋があったにもかかわらず、不採用となってしまった。結局、当時の日銀総裁・三島弥太郎の周旋で日本銀行へ入行するに至る。


・日銀時代に大阪支店で勤務していたが、算盤勘定の苦手な原田の仕事が終わらないため、終わるまで行員全員が帰宅できなかった。


・秘書として忙しい日々を過ごしていたが、そのためか、原田の行動は随分とせっかちだった。時間に遠慮のない電話魔、アポイントなしの突然の来訪、性急すぎるゴルフプレー等々。当時の新聞記事のイラストには電話機を小脇に抱えて疾走する原田の姿を描いたものがあるが、これも各界の表裏を奔走した原田の様子をよく表している。


・大学時代の旧友でもあった近衛文麿や木戸幸一とは親友、政界においても緊密な連絡を保っていた。あるとき重要な要件を携えて夜更けに近衛邸を急遽訪問したが、公はすでに就寝していると言う家司の制止を振り切って寝室へ向かうと、近衛は果たして正妻と同衾中だった。近衛の女癖の悪さを忠告すること度々に及んでいた原田は、「馬鹿馬鹿しくなって」正妻を寝室から追い出し自らが近衛と一緒の布団に入り込んで深夜まで密談を続けた。


・そそっかしい性格でも知られ、当初は重要な情報を不用意に漏らすこともあったため、西園寺から「彼は馬鹿だから秘密は話せぬ」と酷評されたこともあった。しかしやがてその献身的な仕事ぶりを評価され、重要な局面で西園寺から見解を徴されるほどの信任を受けるようになった。

家族
父方の祖父・原田一道は、元岡山藩士の軍人で最終階級は陸軍少将元老院議官などを歴任し、1900年(明治33年)に男爵に叙されている。その子で父の原田豊吉は地質学者で東京帝国大学理科大学教授、叔父(父の弟)の原田直次郎は洋画家。


母・照子は、ドイツ人貿易商のミカエル・ベアと荒井ろくの娘。ベアがドイツに帰国する際に番頭格であった高田慎蔵の養子となった。ベア商会は慎蔵のもとで高田商会に発展した。妹・信子は芸術家・有島生馬に嫁しており、有島武郎里見弴とは姻戚に当たる。


妻・英子は子爵吉川重吉の娘。


長女・美智子は勝田主計の息子・勝田龍夫に嫁した。龍夫はのちに、戦前・戦中の原田、近衛、木戸、西園寺などを描いた『重臣たちの昭和史』を著した。長男・原田敬策(1919年生まれ)は学習院中等科時代にウクレレを覚え、朝吹英一(朝吹常吉長男)、芝小路豊和(男爵芝小路豊俊の長男)、朝比奈愛三(雪村いずみの父親)らとハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」として活躍した[7]テニスも得意で軽井沢国際テニストーナメントでダブルス優勝経験もある[8]。著書に自伝『テニス軽井沢ハワイアン』(私家版、1997)。妻の原田知津子は東京五輪のチーフコンパニオンを務めた[9]

脚注
注釈
1. 1899年12月28日、叔父の直次郎が天王寺に葬られたとき、竜蔵と熊雄の2児名が署せられた。また1909年7月11日、学習院の学生であった熊雄は、直次郎の遺作展を開きたいとして森鷗外を訪ねた。かつて東京美術学校で教職に従事していた鴎外が同校教授黒田清輝を発起人に巻き込み、同年11月28日(日曜日)、同校の校友会倶楽部で「原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会」が開催された。新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京藝術大学出版会、2008年、60-61、138-140頁。

出典
1. 『官報』 第5741号 1946年3月6日 「貴族院 議員薨去及弔辞」
2. 『官報』第8275号、明治44年1月24日。
3. 「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本2013年10月号
4. 『官報』第1214号、昭和6年1月19日。
5. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』82頁。
6. a b 勝田龍夫『重臣たちの昭和史(上)』文藝春秋、1981年。ISBN 4163626603
7. 昭和戦中期の軽音楽に関する一考察―カルア・カマアイナスについて古川隆久、研究紀要 / 日本大学文理学部人文科学研究所、2007
8. 軽井沢国際テニストーナメント歴代優勝者一般財団法人軽井沢会
9. 『希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年』幻冬舎ルネッサンス新社、2012年7月

参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧

外部リンク
原田熊雄関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室

KANDAアーカイブ:神田資料室 ケーベル邸をめぐる駿河台物語【中編】 ─原田家三千坪をめぐって
(wikiより)

2823  原田熊雄

原田熊雄

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白根 専一(しらね せんいち) は日本明治時代の内務官僚政治家長州出身。愛媛愛知県知事内務次官逓信大臣、第3代内蔵頭宮中顧問官貴族院議員などを歴任。位階従二位勲等勲二等爵位男爵

略歴
1850年2月3日(嘉永2年12月22日)、長州藩士白根多助(のちの埼玉県令)の次男に生まれる。長州藩校・明倫館に学び、次いで上京し、明治1年(1868年慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学。卒業後の1872年(明治5年)司法省に出仕、以後内務省及び大蔵省に勤務。1888年2月から愛媛県知事。1888年12月から愛知県知事。1890年5月、第1次山縣内閣の内閣改造時に西郷従道内務大臣のもとで内務次官となった。同年11月29日帝国議会開設に当たっては、政府委員12名[2]の一人となった。1892年中央交渉会国民協会の成立にも関与。


1891年
1892年第1次松方内閣では、内務大臣品川弥二郎の下で、引き続き内務次官を務めた。1892年の第2回衆議院議員総選挙において、品川と白根は、つながりの深い「古参地方官」(地方の有力知事)や警察を動かして大規模な選挙干渉を行い、民党側を圧迫。後日、品川は選挙干渉の責任を追及され、これに関する松方内閣の対応に辟易して辞任。白根は後任の内務大臣副島種臣が選挙干渉の責任者の処分を断行しようとしたことに反発して、これを辞任に追い込むが、松方は最終的に白根を罷免し、動揺した第1次松方内閣は閣内意見の対立から8月に崩壊した。


1892年10月から、宮内省内蔵頭。明治28年(1895年)10月、第2次伊藤内閣の改造時に、逓信大臣となった(1895年10月9日1896年9月26日)。逓信大臣在任中の1896年6月15日三陸沿岸で巨大地震が発生し、被災した三陸沿岸の有力者から「三陸鉄道株式会社創立申請書」を受けた。1897年2月7日、男爵を叙爵。同年7月、貴族院男爵議員に選出され、歿年まで務めた[3]1898年6月14日胃癌のため死去した。

人物
長州藩閥の父をもち、藩閥第二世代に当たるが、彼自身は内務官僚として、長州閥よりも内務省の立場を優先する傾向があった[4]。職務に精通し、内務次官時代には実質的には内務大臣をしのぐ影響力を省内に及ぼしていた。品川弥二郎は、陸奥宗光に対して、白根を「壮士次官」をして紹介している[5]。 同じ長州出身の元老山縣有朋ともつながりが深く、山県系と見なされる[6][7]


民党側にあった中江兆民は「一年有半」(1901年)の中で「余近時に於いて真面目なる人物、横着ならざる人物、ヅウヅウしからざる人物、ただ両人を見たり、曰く井上毅、曰く白根専一。今や即ち亡し」と惜しんでいる[8]


同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、白根が松方内閣のもとに行った選挙干渉は非行には違いないと評しつつ、「男子らしき男子を長州人物に求めば、余はまず彼を挙げて以て群鶏の一鶴なり」と賞賛する。

栄典
位階
1884年(明治17年)6月30日 - 従五位[9]

1890年(明治23年)6月11日 - 従四位[10]

1895年(明治28年)10月21日 - 正三位[11]

1897年(明治30年)2月7日 - 従二位[12]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[13]

1890年(明治23年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[14]

1891年(明治24年)5月11日 - 勲四等旭日小綬章[15]

1892年(明治25年)12月29日 - 勲三等瑞宝章[16]

1896年(明治29年)6月30日 - 勲二等瑞宝章[17]

1897年(明治30年)2月7日 - 男爵[18]

親族
・嗣子 白根松介

・弟 河野忠三

・甥 白根竹介

脚注
1. 『明治人の力量』203、227ページによる。『平成新修旧華族家系大成』には、嘉永元年12月2日生まれとある。
2. 「清風院12人男」『山県有朋と近代日本』79ページ。
3. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。
4. 『山県有朋と近代日本』76ページ
5. 『山県有朋と近代日本』84ページ
6. 岡義武『山県有朋』47ページ。
7. 藤村道生『山県有朋』153ページ。
8. 中江兆民『一年有半』
9. 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
10. 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
11. 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
12. 『官報』第4079号「叙任及辞令」1897年2月9日。
13. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
14. 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
15. 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。
16. 『官報』第2853号「叙任及辞令」1893年1月4日。
17. 『官報』第3901号「叙任及辞令」1896年7月1日。
18. 『官報』第4079号「叙任及辞令」1897年2月9日。

参考文献
佐々木隆「内務省時代の白根専一 「山県系」形成の起点」『山県有朋と近代日本』吉川弘文館 2008年

・佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史 21) 』講談社 2002年

・中江兆民『一年有半』井田進也校注 岩波文庫 1995年 初版は博文館、1901年

・『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目
自由選挙 - 第2回衆議院議員総選挙

三陸鉄道
(wikiより)

2822  白根専一

白根専一

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⇧⇩ 奥様墓

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伴野乙弥 ( ともの - おとや / ばんの - おとや )     
慶応 3年 ~ 昭和 20年 12月 8日 ( 1867 - 1945 )

水戸鉄道社長・日本興業銀行設立時理事。

父、伴野三司 ( 1828? - 1893 )( 二男 )。

東京出身。

明治 16年 ( 1883 ) 東京府中学校 ( 都立日比谷高等学校 ) 卒業。

日銀小樽出張所長。営業部第二課長。十五銀行支配人。水戸鉄道 ( のちの日本鉄道 ) 社長。

設立時の日本興業銀行理事兼営業第一部長。同監査役等歴任。西脇銀行・大正生命監査役。生気嶺粘土石炭取締役。79歳没。

妻・操は、兵庫県住友銀行専務八代則彦の妹。長男、清。

正面「伴野乙彌墓 / 伴野操墓」。「自彊院殿篤実乙彌日朗居士」。伴野三司墓も隣りにある。

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⇧⇩ 伴野三司墓

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佐竹直衛

元治元年 ( 1864 )。

周防・国分寺侍。

国分寺隊を結成。

隊長。

上京し、荻野隊に加わり禁門之変で戦死。

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元治元年 ( 1864 )。

周防国分寺家来。

荻野隊。

禁門之変で御所内で戦死。

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海老沢兌一 ( えびさわ - だいいち? )     
明治 10年 3月 ~ 昭和 10年 9月 26日 ( 1877 - 1935 )

鉄道技師。

父、海老沢兼 ( 二男 )。

姫路出身。

若くして鉄道技術を学び、明治 39年 ( 1906 ) 官途に就き累進して鉄道技師高等官三等に至る。

在官 24年、その間シベリア事件 ( )の際、鉄道管理官として現地に派遣され活躍する。

昭和 5年 ( 1930 ) 11月退官。以後自適に過ごす。正五位勲五等。59歳没。

正面「海老澤家之墓」。

 シベリア事件 : ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。大正 7年 ( 1918 ) 8月革命軍に囚われたチェコ軍を救出するという大義名分で連合国の一員としてシベリアに出兵。以後 4年 3ヵ月戦い 4600人の戦死者を出し撤退した。実際はザバイカル州以東に白色かいらい政権を樹立する目的だった。

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川辺白鶴 ( かわべ - はくかく )     
明治 4年 2月 20日 ~ 明治 25年 2月 3日 ( 1871 - 1892 )

号、九皐。

父、川辺御楯 ( 長男 )。

画法を父から学び、16歳で絵画共進会に出品し受賞。22歳没。

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飯沢八三 ( いいざわ - はちぞう )    
明治 29年 2月 29日 ~ 昭和 20年 7月 26日 ( 1896 - 1945 )

陸軍主計少将。

千葉県出身。

昭和 18年 ( 1885 ) 8月 25日第 54師団経理部長。

昭和 20年 7月 26日 戦死・陸軍主計少将進級。49歳没。

正面「佐倉飯沢氏墓」。「昭徳院至道義純居士」。

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菊池 菊崖(きくち きくがい)は幕末の商人。伊勢国白子干鰯問屋小川市兵衛家に生まれ、紀伊国栖原菊池海荘砂糖問屋河内屋孫左衛門店を継承した。

生涯
伊勢国河曲郡白子村の旧家小川市兵衛の長男として生まれた[1]。幼名は豊次郎[1]。小川家は江戸深川富川町の店舗で干鰯問屋[2]を営んでいたが、嘉永初年父市兵衛が死去し、家業が傾くと、隣に本店を構えていた同業者紀伊国栖原菊池家に拾われ、菊池海荘砂糖問屋新和泉町支店に奉公し、遂に婿入りした[1]


幕末、養父海荘が海防論を唱えて農兵の訓練を行うと、菊崖もその命で武芸を修行したが、番頭垣内晋兵衛・河内嘉兵衛等は海荘の出費を諌め、両者の板挟みとなった[3]幕末の通貨問題による金価高騰に加え[4]、支店は慶応以降の外国糖の流入[5]、本店は漁民への前貸金の不良債権化等により経営難となり、支配人等により経営改革が提案され、本店を継いだ次男晩香、支店を継いだ鉄渓、父海荘とやり取りを重ねたが、明治10年代共に廃業し[6]、債務を整理した[1]


晩年長男鉄渓に家督を譲ったが、先立たれ、家事に復帰した[3]。俳諧と剣の観賞を趣味とし、1899年(明治32年)9月29日病に罹り、10月9日死去した[3]。享年70[3]天王寺墓地の海荘墓域に葬られた[7]


次男晩香は本家を継ぎ、四男は中谷家に入り、長男鉄渓・三男東洲は早世したため、晩香は鉄渓の娘孝を養育し[3]、1906年(明治39年)8月[8]早稲田中学生山本武芳と娶せ、鉄渓の跡を継がせた[3]

親族
・実父:小川市兵衛(伊兵衛[7]


・養父:菊池海荘(孫左衛門、保定)


・妻:菊池保(やす) - 海荘の娘[9]


・長男:菊池鉄渓(孫左衛門、武恒)[3]

  ・孫:孝[3](コウ) - 孫左衛門の長女。1887年(明治20年)11月生[8]

  
  ・養孫:菊池武芳 - 和歌山県山本幸次郎の次男。1883年(明治16年)2月生。台湾総督府財務局会計課長・主計課長、鉄道省名古屋鉄道局経理課長[8]


・次男:菊池晩香(三九郎、武貞) - 早稲田大学教授。


・三男:菊池東洲(武虎)[3]


・四男:中谷楓渓(藤楠、武藤)[3]

脚注
1. a b c d e 菊池 1918, p. 16ウ.
2. 曲田 2015.
3. a b c d e f g h i j 菊池 1918, p. 17オ.
4. 新井 1961, p. 656.
5. 新井 1961, p. 650.
6. 山口 1999, pp. 7-8.
7. a b 上谷.
8. a b c 人事興信所 1925, p. き56.
9. 山口 1999, p. 8.

参考文献
菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/26

山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。

・曲田浩和「近世後期の魚肥市場としての名古屋・四日市」『知多半島の歴史と現在』第19号、日本福祉大学知多半島総合研究所、2015年10月、 NAID 120005724563

・人事興信所『人事興信録』人事興信所、1925年8月、第7版。NDLJP:1704004/1250

・上谷桜池. “菊池菊崖”. 谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー. 2018年4月1日閲覧。
(wikiより)

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簡野松太郎 ( かんの - まつたろう )     
明治 15年 ~ 昭和 20年 5月 26日 ( 1882 - 1945 )

陸軍 1等軍医。

父、簡野成章 ( 長男 )。

東京出身。

明治 42年 ( 1909 ) 陸軍 2等軍医。

大正 10年 ( 1921 ) 医学博士。

陸軍医学校教官を経て昭和 13年 ( 1938 ) 陸軍 1等軍医。

昭和 15年 ( 1940 ) 退官。

済生会病院麹町分院内科主幹。

昭和 20年 ( 1945 ) 簡野病院開業。医院長。正五位勲五等。63歳没。

共著 : 「最新産科学」。

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川辺 御楯(かわべ みたて、天保9年(1838年)10月[1] - 明治38年(1905年7月24日 )は、日本幕末から明治時代の日本画家守住貫魚山名貫義川崎千虎田中有美らと共に、幕末明治期を代表する大和絵師の一人である。

略伝
姓名について
通称は源太郎。号は最初は琴守、後に鷺外、更に花陵と改め、別号に墨流亭、都多之舎(蔦舎)、後素堂など。御楯ははじめ号だったが、後に名として使用した。姓は初期作には「川邊」と款記し、御楯存命中から昭和初期までの文献類でも同様だが、明治20年以降は作品に「川邉」と記し遺族も同じ名乗りなことから、この頃改姓したが文献類では最初の姓がそのまま使われ続けたと考えられる。本項目では常用漢字の「川辺」で立項している。姓の読みは「かわのべ」としている文献もある[2]が、御楯の子孫の指摘から「かわべ」が正しい[3]

生い立ち
筑後国
(現福岡県山門郡柳川上町(現柳川市柳川藩に生まれる。父の身分や生い立ちには複数の説が存在するが、総合すると古賀姓も名乗る川辺紋右衛門正胤(民)の長男として生まれる。源氏の末裔とされ、柳河藩の史料にも名が見出だせないほど下級役人の身分だったが、ある時期士分格に上がる。6歳から法眼狩野映信(久留米藩御用絵師の三谷家第5代)に学んだという父に狩野派を学ぶ。次いで嘉永2(1849年)の12,3歳の頃、狩野永悳の門人で久留米藩御用絵師三谷友信の三男・三谷三雄[4]に入門。三雄は当時「生き絵書きの三雄」と呼ばれるほど世評が高い絵師だった反面、勤王志士としても知られており、御楯にも強い影響を与えた。その一方、同藩で平田篤胤門人の西原晁樹国学有職故実を習い、真木保臣からも故実や兵学を学んだ。

柳川の志士
幕末期の藩内では、尊王攘夷派として名を知られるになっていた[5]安政6年(1859年)父が没したため家督を継ぐが、後に脱藩し、真木保臣について上京を図るが失敗。一時国事奔走を断念するが、各藩の志士たちは御楯を頼って身を寄せ、出費がかさんで資産を失った。また、平野国臣高杉晋作大村益次郎らと交わり、朝鮮に渡ろうとして失敗。帰藩を請い許されたという。慶応元年(1865年第二次長州征討で柳川勢として従軍中、久留米軍中にいた三雄と再開。軍を脱して大宰府に向かい、小倉城自焼の惨状の図を三条実美に呈した。実美はこれを喜び歌を詠じて御楯に与えたが、その中に「君が為め御楯となる」とあり、これに感銘して号とした。

神祇官として
明治元年(1868年)藩の貢士(柳河藩の石高では2名)の一人として選ばれ上京、太政官に出仕する。同3年(1870年)神祇少禄官となり京都で有職故実を精査、同5年(1872年)冬、吹上禁苑初の大嘗祭では用掛として出仕、同7年(1874年伊勢神宮権禰宜となる。また狩野永悳を補佐して、外務省の委嘱で製図を行う。こうした間に、土佐光文大和絵、永悳に狩野元信の画法、大国隆正宝田通文に国学、薗田守宣に故実を学び、近代の大和絵師として研究を続けた。なお宝田からは、花陵の号を貰っている。ところが、同10年(1877年)事故を起こして免職。上司で国学者の落合直澄の忠告もあり、以後画業に専念する。

近代の大和絵師
免職後は、京都陶器友禅の下絵を描き、大阪の博物場にも務めたという。この頃、町田久成の知遇を得て、正倉院宝物の模写などを手掛ける。明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会の際、町田の推薦があったのか東京への移住を命じられる。その後相次ぐ展覧会での授賞や皇室への献納などを通じて御楯は歴史画家としての評判を高めていく。同15年(1882年)第一回内国絵画共進会に「尹大納言叡山行図」「人物」で銅賞受賞。前者は特に評判となり、故実家の村田直景は息子(後に御楯の一番弟子となる邨田丹陵)を入門させ、明治天皇からも同一画揮毫の命を受ける。同17年(1884年)第二階内国絵画共進会でも銀賞一等。その後川端玉章山名貫義渡辺小崋らと東洋絵画会を結成。同22年(1889年日本美術協会幹事に任命され、本会を主たる発表の場とした。明治20年代が御楯にとって最も充実した時期であり、優れた歴史画や物語絵を次々と制作し、明治の土佐派として存在感を示した。反面、同25年(1892年)には将来を嘱望した長男・白鶴を22歳で亡くし、同30年(1897年)には妻に先立たれるなど家庭の不幸が重なり、御楯の事績も次第に減少していく。


晩年は門下生の展覧会「墨流会」を年2回開催するなど、後進の指導に全力を尽くしたという。しかし生活は困窮し、弟子の中村岳陵はしばしば水道ガスを止められたと回想している。明治38年7月24日浅草小島町の自宅で、急性胃腸カタルにより死去。享年68。27日に谷中天王寺で葬儀が行われ、谷中墓地に葬られた。諡は源御楯尊。

作風とその画系
武者絵でよく知られており、『太平記』の南朝に取材した作品が多い。御楯の作品上の人物はやや類型的で、群衆表現も故実にかなって描き分けがされてはいるが、個性を持った人間としては描かれていない。更に御楯より後の画家たちに見られる、人物の内面表現を重視する傾向はない。反面、構図は初期作を除いて粉本に依らず、自分で考案した斬新で密度の濃い画面を案出しており、近世の絵師たちとは異なる近代性が感じられる。


画業は長男は上述の通り早逝、次男は実業界に進んだため三男の川辺旭陵美楯が継いだが、大成しなかった。他の弟子に邨田丹陵中村岳陵鳥居清忠 (4代目)など。

詳しいことは、「川辺御楯ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%BE%BA%E5%BE%A1%E6%A5%AF
(wikiより)

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花山院侯爵家 ( かざんいんこうしゃくけ )

 花山院家 ( かざんいんけ  )は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。

花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。

代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。

家格は清華家。

平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。

明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。

侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。

花山院弘匡 ( かざんいん - ひろまさ )  
昭和 37年 ( 1962 ) ~ 現存

 春日大社宮司。

花山院家 33代目当主。

父、花山院親忠。

国学院大学文学部神道学科卒業。

県立奈良高校教諭として地理を担当。

平成 20年 ( 2008 ) 4月 1日春日大社宮司に就任。

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花山院侯爵家 ( かざんいんこうしゃくけ )

花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。

花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。

代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。

家格は清華家。

平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。

明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。

侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。

花山院親忠 ( かざんいん - ちかただ )  
大正 7年 8月 3日 ~ 平成 6年 2月 28日 ( 1918 - 1994 )

春日大社宮司・侯爵。

父、花山院親家 ( 長男 )。母、青地伊一の妹とし。花山院慈薫は姉。

神奈川県出身。

大正 13年 ( 1924 ) 襲爵。

国学院大学国文科卒業。

鹿島高等学校・佐賀西高等学校および佐賀県教育庁学校課長。佐賀県文化財専門委員。佐賀民族学会事務局。従四位。76歳没。

著書 : 「ふるさとの散歩道―肥前、筑後の旅」、「春日の神は鹿にのって」。

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花山院侯爵家(かざんいんこうしゃくけ)

花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。

花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。

代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。

家格は清華家。

平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。

明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。

侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。

花山院親家 ( かざんいん - ちかいえ )  
明治 11年 ~ 大正 13年 3月 11日 ( 1878 - 1924 )

侯爵。

父、公卿・堀河康隆。花山院忠遠の養子となる。兄、堀河護麿・岩倉具威。正三位勲三等。

妻、青地伊一の妹とし。嗣子、親忠。長女、大聖寺第 27世門跡花山院慈薫。

明治 36年 ( 1903 - 1924 ) 貴族院議員。日本製菓取締役。47歳没。「至誠院殿正三位勲三等侯爵親家卿」。

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花山院侯爵家 ( かざんいんこうしゃくけ )

 花山院家 ( かざんいんけ ) は、関白藤原道長の嫡孫関白師実二男左大臣家忠より出る。

花山院家忠が、一家を立て花山院姓を冒す。

代々大臣大将の職にあり、7清華の一人。

家格は清華家。

平安時代後期の藤原師実の次男・家忠に始まった。

明治維新以後、明治 17年 ( 1884 ) 忠遠のとき侯爵に列した。

侯爵は忠遠 ( ただとお )・親家 ( ちかいえ )・親忠 ( ちかただ ) の 3名。このうち忠遠と親家の 2名が墓誌にある。

花山院忠遠 ( かざんいん - ただとお )     
明治 9年 ~ 明治 28年 8月 15日 ( 1876 - 1895 )

忠遠のときに侯爵に列する。20歳没。「温良院殿侯爵忠遠卿」

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川口関之助 ( かわぐち - せきのすけ )     
嘉永 5年 6月 ~ 昭和 15年 3月 26日 ( 1853 - 1940 )

明治大正期の相場師。

三重県津市萬町出身。

明治 11年 ( 1878 ) 上京して米穀仲買業を始める。

屋号は、合印 ( あわせじるし )。

明治 32年 ( 1899 ) 病気をして一時帰郷するが、主に蛎殻町で活躍する。

売りと買いを自由に繰り出す「ドテン売買の名手」として知られる。

変幻自在に大玉を動かし、”ニンベン将軍”や”松村辰次”に次ぐ大手で、売買高ランキングは常に上位を占めた。88歳没。長男に川口佐一郎がいる。

 「相場師秘聞 波瀾曲折の生涯」に登場する。正面「至誠院徳山関叟勇義清居士/至心院節山貞妙大姉」。

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大野恒徳 ( おおの - つねのり )    
弘化 3年 5月 27日 ~ 明治 36年 5月 28日 ( 1846 - 1903 )

 陸軍医・種痘医。

本名、本橋縫之助。

大野松斎の養子。正七位。

常陸国稲敷郡根本村 ( 栃木県 ) 出身。

江戸で大野松斎に師事し、種痘を学ぶ。

大学東校に入り、得業生となる。

兵部省に出仕、明治 6年 ( 1873 ) 軍医補、兵部省軍医。

明治 10年 ( 1877 ) 西南の役に本病院第 1課員。内務省御用掛兼仮座御用掛。

明治 15年 ( 1882 ) 軍医、一時北支那占領地守備隊。のち退役陸軍一等軍医となる。

皇太子皇女に種痘を施術。

満州安東県守備隊にて功を認められ正七位勲五等瑞宝章を叙せられる。

著 : 「人乃命学の階梯」。訳 : 「製薬鑑法」。58歳没。

正面「陸軍一等軍医正七位勲五等大野恒徳墓」。墓碑は、石黒忠悳撰。

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二代目・若柳寿童 ( わかやぎ - じゅどう )   
大正 10年 8月 11日 ~ 平成元年 7月 17日 ( 1921 - 1989 )

    
日本舞踊家。

三世宗家若柳寿童。

京都市伏見区出身。

本名:竹内正次。

養父、若柳吉蔵 ( 宗家 2世、初代吉蔵 )。

父に舞踏を学び 16歳で正蔵を襲名。

昭和 19年 ( 1944 ) 養父亡き後、2代若柳吉蔵を襲名する。

昭和 20年 ( 1945 ) 日本大学芸術学部入学、翌年中退。

昭和 45年 ( 1970 ) 若柳寿邦と名乗る。

チャリティ公演を国内をはじめ、アメリカ、イタリア、香港、韓国など国外にて数多く開催した。

昭和 63年 10月2代若柳寿童を襲名。

子に五世若柳吉蔵 ( 本名:竹内英雄 ) がいる。

正面「若柳家累代之墓」。墓誌に「三世宗家若柳寿童俗名竹内正次」とある。「至芸院殿燦晃寿童日正居士」。

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津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日1832年3月3日) - 明治38年(1905年6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士官僚陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。は芝山[1][2]


弟は初代和歌山県知事正臣[3]

人物
紀州藩(のち和歌山藩)で家禄300石の布衣以上の頭役を務める父・信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。


蘭学
徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される[2]


明治維新後に和歌山藩大参事となり、明治新政府に先駆けて陸奥宗光とともに藩政を改革して徴兵制・郡県制を施行するなど、テストケースとして明治4年の廃藩置県及び明治6年の徴兵令に影響を与えた[1][2][3]維新三傑に津田を加えて維新四傑と称されることもあったといわれ[2]、大久保利通は日記で「実に非凡な人物」と評価し、後に歴史作家司馬遼太郎も著書で「天才的な経綸家」と評している[4]


西郷隆盛
の推挙を受け新政府に迎えられ大蔵少輔となるが、まもなく金銭スキャンダルで失脚した[1][2][5]


その後、陸軍大輔元老院議官貴族院議員などを歴任した[1]

年表
1832年 - 紀州藩で生まれる。


1854年安政元年) - 江戸へ蘭学修行に行き、帰藩後は蘭学教授となる。[6]


1853年 - 江戸藩邸にて蘭学教授を務める。


1857年 - 病弱を理由に和歌山に帰り、家督を弟の正臣に譲る。


1858年 - 第14代藩主に茂承が就任すると、御小姓役奥祐筆組頭に抜擢。


1864年 - 第1次長州征討後、再び、病を得て職を辞す。


1866年7月 - 第2次長州征討で藩主茂承留守中の執政を一任される。


1866年12月 - 藩主茂承の和歌山帰城後、執政太夫に任じられる。

  ・御国政改革趣法概略表の採用。


1867年 - 藩内抗争に巻き込まれ、地位を追われ、無期限禁固処分に付される。


1868年

  ・10月 - 明治天皇即位。

  ・11月 - 藩主茂承から藩政改革の全権を委任される。

  ・陸奥宗光に会い、郡県制度徴兵令の構想を伝える。


1869年

  ・2月 - 藩政改革で、軍務局を設置。

  ・7月13日 - 版籍奉還上奏後、和歌山藩大参事に任命。

  ・10月 - 最初の徴兵令である交代兵取立之制を発令し、交代兵要領で施行。

  ・11月 - プロイセン王国下士官カール・ケッペンを招聘し、ドイツ式軍政改革を遂行。


1870年

  ・1月 - 交代兵要領を廃して、兵制改革兵賦を編成し、兵賦略則を布達する(兵賦略則は、明治6年、新政府による徴兵令の先駆けとなる)。

  ・3月 - 徴兵検査に関する布達とつぎつぎに徴兵制に関する整備を行う。


1871年

  ・3月 - 上京。

  ・6月 - 陸奥宗光に都督(徴兵軍の総指揮官)を譲る。

  ・7月14日 - 新政府による廃藩置県により、和歌山県大参事に任命。

  ・7月28日 - 太政官制度が一新され、大蔵少輔に任命。従五位を叙位される。

  ・8月12日 - 病身を理由に依願免官。大蔵省四等出仕として、病気療養。


1872年

  ・1月 - 明治3年12月の賞賜米一時下げ渡しの処置に詮議が入る。

  ・2月13日 - 免出仕、位証返上。

  ・11月 - 裁判所判決下る。大蔵省四等出仕を免じ、従五位の返上、閉門100日の処分。


1873年3月29日 - 会計監督長兼陸軍省第五局長


1874年

  ・2月8日 - 任陸軍少将陸軍省会計監督長第一局長を兼ねる。

  ・3月31日 - 任兼陸軍大輔、免兼陸軍省第五局長

  ・4月5日 - 陸軍卿代理(6月3日まで、西南戦争への対応のため)。

  ・7月8日 - 再び陸軍省第五局長を兼ねる。

  ・10月5日 - 免兼陸軍省第一局長


1875年4月25日 - 元老院議官を兼ねる。年俸4,000千円一等官の地位。


1878年 - 千葉県茨城県にまたがり、アメリカ式大農法の試み始める。


1879年10月14日 - 会計監督長及び陸軍省第五局長の兼職を免ぜられる。


1881年7月16日 - 叙勲三等。


1885年 - 国内初、乳牛ホルスタイン種を導入。

  ・3月29日 - 元老院議官官等年俸、勅任一等年俸3,500円に改訂。

  ・10月20日 - 叙従三位。

  ・11月30日 - 叙勲二等。


1888年 - 予備役編入


1890年9月29日 - 貴族院議員に勅選される[7]

  ・10月20日 - 元老院廃官、非職。錦鶏間祗候[8]

  ・11月4日 - 依願免本官。


1894年5月21日 - 叙正三位。


1902年4月1日 - 退役。


1905年6月1日 - 従二位勲一等瑞宝章

  ・6月2日 - 死去。

栄典
位階
1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[9]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[10]

1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[11]

1905年(明治38年)6月1日 - 従二位[12]

勲章等
1886年(明治19年)11月30日 - 勲二等旭日重光章[13]

1905年(明治38年)6月1日 - 勲一等瑞宝章[12]

出典
脚注
1. a b c d 津田出(つだ いずる)とは”. コトバンク. 2020年7月19日閲覧。
2. a b c d e 津田 出(ツダ イズル)とは”. コトバンク. 2020年7月19日閲覧。
3. a b 紀州藩士・津田出の資料、和歌山市に寄贈(写真付)”. WBS和歌山放送ニュース (2018年8月17日). 2020年7月19日閲覧。
4. 「天才的な経綸家」津田出紹介 和歌山市立博物館、今春発見の史料も展示”. 産経ニュース (2018年11月7日). 2020年7月19日閲覧。
5. 西郷隆盛 弱点はストレス・人事下手”. 日経BizGate (2018年2月7日). 2020年7月19日閲覧。
6. 「津田出」項、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年
7. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
8. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
9. 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
10. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
11. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
12. a b 『官報』第6575号「叙任及辞令」1905年6月2日。
13. 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。

参考文献
司馬遼太郎『「明治」という国家』日本放送出版協会、1991年。のちNHKブックスで再刊

・「陸軍少将勲二等津田出叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112593300 

関連項目
徴兵制度
(wikiより)

2804  津田出

津田 出

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2804b



緑川 浩 ( みどりかわ - ひろし )    
明治 18年 ~ 昭和 45年 9月 9日 ( 1885 - 1970 )

    
医者。

父、医師・緑川興功 ( 長男 )。

東京出身。

泉橋三井慈善病院内科医局勤務。

大正 5年 ( 1916 ) 南胃腸病院副院長、伝染病研究所兼務。

昭和 3年 ( 1928 )「副腎のアドレナリン含有量の研究」で医学博士となる。

昭和 21年 ( 1946 - 1962 ) 癌研付属病院第 2内科部長。

「緑川家祖先之霊」、「慈賢院仁誉研学浩秀居士」。

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石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日慶応3年6月2日) – 1927年昭和2年)1月28日)は、日本小説家。本名、助三郎横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。


尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。

経歴
1867年(慶応3年)6月2日、横浜弁天町石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。このころ川上眉山と知り合い、進文学舎を経て入った大学予備門では、同期に尾崎紅葉がいた。東京帝国大学法科に進学したが、文科に移った後退学。


1885年(明治18年)、紅葉、山田美妙丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、「我楽多文庫」を発行する。これに処女作「仇桜遊里廼夜嵐」を発表した。當時雨香と号していたが、石橋思案を筆名とし(思案とは、父祖の故郷長崎にある思案橋に因む)、「花盗人」(1889年)、「乙女心」(1889年)、「京鹿子」、「わが恋」(1894年)などの小説を執筆した。一方、自劣亭と号し都々逸でも活躍した(「我楽多文庫」が都々逸を掲載するのをやめる際、廃止反対をしている)。


だが戯作臭の強い作品は読者に受け入れられず、1895年(明治28年)、博文館より『文芸倶楽部』が創刊されるにあたって編集主任を任された。この後、「いさみ新聞」、「名古屋中京新聞」、「團々珍聞」と渡り歩き、「中央新聞」では主任、「読売新聞」では社会部長となる。1903年(明治36年)、再び博文館に入り、『文芸倶楽部』の編集にたずさわった。1916年(大正5年)、博文館を退社、1927年(昭和2年)1月29日、脳溢血のため死去した。


福田恒存年譜には、思案が恒存の名付け親だと書かれている。

関連項目
石橋氏

大橋乙羽

外部リンク
石橋思案

石橋 思案:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

辞世の句は「極楽か地獄が我は知らねどもなるべく来るなこんなところへ」

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石崎 政一郎(いしざき まさいちろう、1895年12月8日 - 1972年7月25日)は、昭和期の法学者。東北大学名誉教授、立教大学教授、日仏法学会会長。

経歴
石崎丈太郎の長男として生まれる(石崎家第3代)。東京出身。東京帝国大学法学部卒業。1921年大正10年)に、渡欧、パリ大学、リヨン大学で法学を学び、博士号の学位を得る。1940年昭和15年)、家督を相続。戦時中は、東北帝国大学報国隊第4大隊に所属、学徒勤労動員に関わる。


定年後、1959年昭和34年)4月に立教大学法学部設立のメンバーとなり、設立して教授となる。立教大学には、フランスの労働法と日本の労働法全般の資料から成る2000冊近い「石崎政一郎文庫」が収まっている。フランス法を中心に広い比較法的視野から労働法社会法の研究を進めた。国際社会法学会(本部:ジュネーブ)、日仏法学会会長も歴任。

著書
「労働法講座」、「フランスの労働協約法」など。その他翻訳本も多い。
(wikiより)

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佐藤立軒 ( さとう - りっけん )    
文政 5年 6月 ~ 明治 18年 6月 18日 ( 1822 - 1885 )

    
儒学者・旧太政官権少史。

父、佐藤一斎 ( 三男 )。次女、士子 ( ことこ ) は、吉田茂の養父・吉田健三の夫人。

東京八重洲出身。

名、?・光。通称、新九郎。号、立軒。

長男は行状が良くなく他家を継ぎ、二男は夭折したので家を継ぐ。

幼くして水戸の青山拙斎に師事。戻って父について学ぶ。

安政 6年 ( 1859 ) 家を継ぎ、幕府儒官、東叡山宮侍読。

文久元年 ( 1861 ) 小普請に入り、文久 3年 ( 1863 ) 講武所奉行支配。

明治元年 ( 1868 ) 一斎の門人・島団右衛門の推薦により太政官権史のち権少史。

明治 5年 ( 1872 ) ころ正院 11等出仕。

明治 8年 ( 1875 ) 退官し、墨田向島小梅村に「詩灌園」を開く。

著書 : 「詩経輯疏」、「立軒文集」など。64歳没。

「立誠先生佐藤府君之墓」。「立誠院」。

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三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政5年1月2日) - 1906年明治39年)3月16日)は、日本の政治家、官僚、銀行家。衆議院議員貴族院議員、横浜正金銀行頭取

略歴
1858年(安政5年1月2日)2月15日、讃岐国丸亀に生まれる。東京大学法科を卒業し、忠愛社に入り、『明治日報記者となる。1884年(明治17年)に外務省御用掛となり、外務省書記官として米国公使館駐在、さらに公使館書記官としてワシントン駐在、次いで外務省参事官を務める。


その後、京都で『中外電報』で論説を執筆、弁護士業などを経て、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙香川県から出馬し、衆議院議員に当選する(以後4回連続当選)。立憲自由党に属したが、第1議会では土佐派の裏切りに同調して第1次山県内閣と妥協、予算案の成立に努めた後、同党を脱党する。また、法典調査会主査委員を務める。その後、復党し、1896年(明治29年)4月に板垣退助第2次伊藤内閣内務大臣に就任すると、内務省県治局長となり、同年12月には貴族院議員に勅選される。1899年(明治32年)に横浜正金銀行に入り、支配人を経て、1900年(明治33年)から1906年(明治39年)まで副頭取を務めた。

著書
・『国際公法』(英吉利法律学校、1888)

・『戦時国際公法』(東京法学院、1896)

・『局外中立法』(東京法学院、1897)

・『国際公法総論』(東京法学院、1897)

・『平時国際公法』(東京法学院、1899)

参考
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、『朝日日本歴史人物事典』

『20世紀日本人名事典』、『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』

『当代の実業家人物の解剖』

(wikiより)

2799  三崎亀之助

三崎亀之助

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黒川真武 ( くろかわ - またけ )    
明治 34年 ~ 昭和 57年 2月 5日 ( 1901 - 1982 )

    
工業技術院長。東京大学教授。

東京下谷出身。

昭和 38年 ( 1963 ) 11月四日市大気汚染に対して政府が編成した「四日市地区大気汚染. 特別調査団」( 通称「黒川調査団」 )団長。

昭和 39年 ( 1964 ) 4月三島市石油コンビナート反対闘争に対して政府が編成した「沼津・三島地区産業公害調査団」( 通称「黒川調査団」 )団長。

昭和 47年 ( 1972 - 1977 ) 科学技術会議議員・高圧ガス保安協会会長。

水墨画を趣味とし華雲と号す。従五位薫六等。

著書 : 「熱精算 箱欠」・「火の研究室」、共著 : 「燃料発熱量測定法 / 黒川真武,佐々木正治」。82歳没。

正面「黒川家之墓」。「嵩徳院華雲籠真大居士」。

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東大病院の解剖者の墓。


ご遺族をはじめご縁故深い方々により毎年解剖体慰霊祭が実施されている。


納骨堂は隣接している。

千体余の献体を慰霊するために、明治 14年 6月、明治 25年 6月、大正 2年 6月に建てられました。 「千人塚」の文字ですが、「人」の字の右の撥ねに、三つのはらいがあり、塚は偏の「土」の字がありません。

 
医学教育と医学の進歩・発展のために捧げられた御霊に感謝し、慰めるために、東京大学医学部は毎年、解剖体慰霊祭を行い、遺族や医学部関係職員、初めて解剖実習に臨んだ医学科の学生が参列しています。

明治三年十月至十三年九月在東京大学医学部〇剖觀屍體計一千有裨益于医学不為鮮

仝?十四年六月建石于其埋廃之處以表之

東京大学医学部総理正五位勲四等 池田謙斎題

東京大学医学部解剖学教授 田口和美記

最初の解剖が行われた明治 3年は大学東校と呼ばれていた。

7年、東京医学校、

9年、神田和泉町から本郷に移転

10年、開成学校と合併、東京大学医学部。

19年、東京帝国大学医科大学となった。
( だから左の塔、下の写真では医科大学となっている )

明治十三年九月至二十一年九月、剖觀屍體計一千有裨益


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牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日文久2年4月24日) - 1957年昭和32年)1月18日)は、日本植物学者高知県高岡郡佐川町出身。


日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。


94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数える。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以である。

生涯
1862年文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。


元は「成太郎」という名であったが、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた[1]


10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林1815年-1895年[2]に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。


名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[3]


酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた[3]。15歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足リなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。


そして、江戸時代本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙[4]に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した[3]


東京では博物局の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。


富太郎は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京する。そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。マキシモヴィッチからは、図を絶賛する返事が届いており、富太郎は天性の描画力にも恵まれていた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎田中延次郎染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。同雑誌には澤田駒次郎白井光太郎三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている[注釈 1]


同年、育ててくれた祖母が死去。


26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された[注釈 2]


この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった[3]


1889年
(明治22年)、27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった[注釈 3]


一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。


31歳で、矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。助手の月給で一家を養っていたが[注釈 4]、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどしていたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある[注釈 5]


その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされなかった[3]。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。


1900年
から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。


1926年
大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ[5]の協力を得て、個人で『植物研究雑誌[6]を創刊したが、3号で休刊した。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている[注釈 6]


1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。

1927年4月(昭和2年)、65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種のに翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。


1940年
昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。


1949年
(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。


1950年
(昭和25年)、日本学士院会員


1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた[7]。同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。


1953年
(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。


1954年
(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。


1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。


1957年
(昭和32年)、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されている。

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園した[8]

逸話
・植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。


・植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが[3]、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。


・富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。


尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の第一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。


・多くの植物の命名を行い「雑草という名の植物は無い」という発言をしている[9]


・生地の佐川町では、富太郎を主人公にした連続テレビ小説の誘致活動が行われている [10]

詳しいことは、「牧野冨太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

2796  牧野冨太郎

牧野冨太郎

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五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。


は裕、は有孚、蔵六をし、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。

略伝
三谷大足の次男として生まれ、東奥義塾洋学を修めた。23歳のとき上京。金子蓑香篆刻を学び、その後四世浜村蔵六の門下となる。四世蔵六に継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年(1894年)5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地を遊歴後、二度にわたって清国を訪問。康有為ら政治家と親交した。

また呉昌碩徐三庚と交わり、その奥義を伝えられる。このため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられた印籍類が火災で焼失したことが原因とも考えられる。初世蔵六以来の最大の印人と称された。石印以外にも陶印や金印の制作も巧みであった。印面・形・色彩のすべてに優雅な味わいがあり人気を博した。犬養毅幸田露伴などの名流がその印を用いた。門下に石井雙石がいる。


明治42年(1909年)11月25日、腸チフスのため病没[1]享年45。谷中天王寺に墓がある。

著作
・『蔵六居印藪』

・『蔵六居士結金石縁』

・『旅窓鐵戯』

・『蔵六銅磁印譜』

・『彫虫窟印藪』

・『蔵六金印』

脚注
1. 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.175

出典
中井敬所『日本印人伝』(収録『日本の篆刻』中田勇次郎二玄社、1966年)

関連項目
日本の篆刻家一覧

印譜
(wikiより)

2795  五世・浜村蔵六

五世・浜村蔵六

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四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年(1826年) - 明治28年(1895年2月24日)は、明治期の日本の篆刻家である。


正本氏、後に塩見氏を名乗る。は観侯、は大澥、蔵六をし、別号に薇山・雨村。通称参蔵。備前岡山(岡山県瀬戸内市)の人。

略伝
20代の中頃に江戸に出て、万延元年(1860年)には断絶していた浜村家を継いだ。行政官記録係になるが讒言を受けて退職し、宇都宮で教育者となる。廃藩置県後、東京に戻り須崎村に住む。明治15年(1882年)の「日本書画價額表」によれば、この頃既に篆刻家として知られていた。


明治18年(1885年)、依田学海らと白鴎社を結ぶ。明治20年(1887年)、「墨堤植桜之碑」の碑文を書しているが、後にこの碑は墨田区登録文化財に登録された。


明治27年(1894年)4月15日、火災に遭い家屋を焼失。浜村家に代々伝えられた法帖金石印譜などの貴重な書籍もすべて失ってしまう。榎本武揚の厚意により近所に仮住まいする。


明治28年(1895年)2月に没する。享年71。谷中天王寺に墓所がある。

著作
・『晩悔堂印識』

・『蔵六居印略』

出典
中井敬所『日本印人伝』(収録『日本の篆刻』中田勇次郎二玄社、1966年)

関連項目
日本の篆刻家一覧

印譜
(wikiより)

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柴田 芳洲(しばた ほうしゅう、天保11年〈1840年〉 - 明治23年〈1890年10月10日)とは、幕末から明治時代にかけての画家

来歴
尾張国の愛知郡柴田新田に生れる。名は弘、通称栄三郎。は子道。妻はのぶと云い月岡芳年門下の絵師柴田年人。はじめは岸派喜田華堂に絵を学んだが、後に村田香谷に師事、南画に転じた。その後名古屋から東京へ移り、自らの一生を画巻にしたといわれるが、奇行が多かったという。著書に『大東閨語』、絵の作に「明治初年愛知県公立病院外科手術の図」がある。

参考文献
・服部徳次郎編 『愛知画家名鑑』 愛知画家顕頌会、1997年

・上田正昭他編 『日本人名大辞典』 講談社、2001年
(wikiより)

「仙遊院錦洞芳洲居士」。

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高松保実 ( たかまつ - やすざね )    
文化 14年 12月 1日 ~ 明治 11年 9月 24日 ( 1817 - 1878 )

    
江戸後期の公卿・安政勤王八十八延臣の一人。

名、保実。

父、権中納言・高松公祐 ( 三男 )。養父、正三位・高松秀実。

文政 13年 ( 1830 ) 元服の昇殿を許され備中守。院 ( 光格上皇 ) 判官代。

嘉永 6年 ( 1853 ) 大膳太夫。

安政 5年 ( 1858 ) 年 12月 19日叙従三位。

文久 2年 ( 1862 ) 正三位。52歳時右近衛少将・非参議。

この間、安政 5年 ( 1858 ) 外交措置に関して幕府と折衝するため、上書して自ら関東に赴くことを請願。

また、日米通商条約勅許阻止のため、有志公家 88卿に加わり、文久 3年 ( 1863 ) には、幕府の上奏した攘夷期限に関する朝幕間評議の大要を明示すべきことを有し公家 60余卿と共に上書した。

高松家は権大納言武者小路実陰の子参議重季を祖とし、保実は 5世代目。

上京第 22区寺町通丸太町上ル松蔭町 18番地に高松保実邸があった。子に高松実村。62歳没。「正三位高橋保実之墓」。

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阿野 季忠(あの すえただ、1886年明治19年)10月4日[1] - 1944年昭和19年)12月3日[1][2])は、大正・昭和期の実業家政治家華族貴族院子爵議員

経歴・
子爵阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年10月20日、子爵を襲爵した[1][3][4][5][6]


1912年
7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業[2][4][7]1913年十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任[2][4]。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた[2][4]


1944年
3月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[8]研究会に所属して活動したが、同年12月に死去した[2]

栄典
1924年(大正13年)11月15日 - 正四位[9]

親族
・妻 国子(加納久宜五女、1906年11月結婚)[1][3]

・長男 李房(1908 - 1944)[1]

  ・妻 善子(よしこ、坂野常善長女)[1]

  ・娘 佐喜子(水谷川忠俊夫人)[1]

脚注
1. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、38頁。
2. a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』33頁。
3. a b 『華族畫報』下、704頁。
4. a b c d 『人事興信録』第14版 上、ア23頁。
5. 『大日本華族大鑑』210頁。
6. 『官報』第1295号、明治20年10月21日。
7. 『東京帝国大学一覧 從大正元年 至大正2年』東京帝国大学、1913年、学士及卒業生姓名98頁。
8. 『官報』第5158号、昭和19年3月27日。
9. 『官報』第3672号「叙任及辞令」1924年11月18日。

参考文献
・杉謙二編『華族畫報』下、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。

・筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
(wikiより)

妻 : 国子、長男は阿野季房 ( すえふさ : 明治 41年 ~ 昭和 19年 8月 21日戦死、36歳 )。

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阿野季忠

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⇧ 妻 国子の墓


江戸時代の戯作者、滝沢馬琴 ( 1767 ~ 1848 ) は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。


これを供養するため、馬琴の生い立ち ( 1810 ) に、青雲寺境内の山 ( 現在の西日暮里公園付近 ) に築いたのが筆塚である。


文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。


額字の「瘞聿冢名 ( ふでをうずめしつかのめい )は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷棭斎 ( かりや - えきさい ) 筆。


由来は儒学者の亀田鵬斎 ( かめだ - ほうさい ) が撰文し、筆をとった。


日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。


明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。


明治三十九年 ( 1906 ) には、前田家墓地から馬琴愛用の硯 ( すずり ) などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。
(案内板より)

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⇧⇩ 硯塚の碑

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新田 義美(にった よしてる、1899年3月2日 - 1969年11月20日)は、昭和時代華族男爵

人物
岩松新田氏新田忠純の子。兄弟は俊子(今村繁三室)、てい(桂与一室)、幸子(四女、松平慶民室)、義郎北畠克通養子)、義之岩松純行養子)ら。妻は高浜虚子の娘宵子。男子はなく、娘に恭子、汪子(山田栄作妻)、公子(宇佐美承妻)、容子(国井文扶妻)、矩子(小谷野晃一妻)。


1926年
大正15年)に明治大学政治経済学部を卒業し、第一生命保険相互会社に勤務する。1966年昭和41年)、自身が所蔵していた古文書や絵画など約9,000点を群馬大学に寄贈し、現在新田文庫として公開されている。婿の山田栄作と娘汪子の間の陽子(孫娘)が跡を継いだ。


分倍河原の戦いの戦場跡の記念碑の文言は義美のものである。
(wikiより)

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新田 忠純(にった ただずみ、安政3年11月18日[1]1856年12月15日) - 1931年昭和6年)1月21日)は、明治時代華族貴族院男爵議員

経歴・
新田俊純の次男で、幼名は岩松誠丸。父の俊純は交代寄合旗本で、新田氏の傍流で岩松氏を称していたが、南朝の忠臣の子孫のため、男爵を賜る。夫人は毛利元純五女の磯子。


大阪陸軍幼年学舎で学んだのちにパリ留学した。1882年明治15年)に外務省公信局御用掛となり、1894年(明治27年)、父が没したため家督を継ぎ、男爵を襲爵した。同年4月5日に忠純と改名[2]1897年(明治30年)に貴族院議員となる。1931年に76歳で没した。

栄典
1925年(大正14年)1月14日 - 御紋付銀杯[3]

親族
・兄弟は武子(井上馨室)、義誉ほか。子に新田義美、俊子(今村繁三室)、てい(桂与一室)、幸子(四女、松平慶民室)、北畠義郎北畠克通養子)、義之(岩松純行養子)。

脚注
1. 『日本人名大辞典』では安政3年10月生。
2. 『官報』第3227号、明治27年4月6日。
3. 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
(wikiより)

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河田省所 ( かわだ - しょうしょ ) / 河田 烋 ( かわだ - きょう )     
安政 3年 ~ 明治 44年 ( 1856 - 1911 )

儒者。

名、烋。

父、河田廸斎 ( 七男 )。母、佐藤一斎の 8女。

静岡県出身。

長男・河田寛堂の家を継ぐ。

明治 9年 ( 1876 ) ころ東京府 2等訳官。

明治 19年 ( 1886 ) 内務省県治局府県課長。

明治 23年 ( 1890 ) 貴族院書記官速記課長・逓信書記官・電信灯台用品製造所長。

明治 33年 ( 1900 ) 逓信秘書官。

明治 36年 ( 1903 ) 東京郵便電信学校長。

明治 38年 ( 1905. 2. 10 - 1908. 9. 12 ) 第 2代尾崎行雄市長時の東京市助役。56歳没。夫人は、山岡義方の二女・理起子。

 東京市長:第 1代松田秀雄、第 4代阪谷芳郎、第 13代堀切善次郎、第 17代頼母木桂吉。

正面「省所河田先生墓」。墓碑に没年日なし。夫人の里起子墓は、隣りにある。

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⇧⇩ 夫人の里起子墓

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河田貫堂 ( かわだ - かんどう ) / 河田 熙 ( かわだ - ひろむ )    
天保 6年 ~ 明治 33年 3月 11日 ( 1835 - 1900 )

 幕吏・儒者・遣英仏使節。

名、熙。字、伯緝。通称、貫之助。

父、河田 興 ( 迪斎 )( 長男 )。母、佐藤一斎 ( 儒学者、幕府の儒員で林家の塾長 ) の娘。

安政 6年 ( 1859 ) 家督を相続。

文久 2年 ( 1862 ) 10月外国奉行支配組頭となる。

文久 3年 ( 1863 ) 目付 ( 旗本、御家人取締役 ) となり、横浜港鎖港談判のための遣英仏使節池田長発 ( 正使 )・河津祐邦 ( 副使 ) 両外国奉行の監察としてフランスの軍艦に搭乗してフランスに渡るが、逆に開港を痛感し、帰国後開港を提言したが免職となる。

のち許され陸軍奉行、慶応 3年 ( 1867 ) 開成所頭取。

明治元年 ( 1868 ) 目付、明治 4年 ( 1871 ) 大目付 ( 諸大名取締役 )。

徳川 16代当主・徳川家達が駿河に封ぜられると、これに従って移り、やがて静岡藩少参事となり学政に努める。

廃藩後、家達公の家扶をつとめ東京に帰る。

明治 10年 ( 1877 ) 家達公の洋行に従いイギリスに渡り、明治 15年 ( 1882 ) 帰国。

以後、徳川家子女教育係となる。66歳没。「文粛院寛堂伯緝居士」。

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増巳山 豪(ますみやま たけし、1922年1月17日 - 1995年5月11日)は、1950年代に活躍した大相撲力士である。身長182cm、体重99kg。引退後は、年寄・阿武松や同・待乳山として後進の指導に努めた。

来歴・人物
和歌山県西牟婁郡(現・東牟婁郡串本町出身。本名は石谷 昌治(いしや まさはる)。


小学校卒業後は神戸市内の企業に勤めていたが、16歳の時に上京し、三保ヶ関部屋へ入門。1939年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、故郷の近くの名勝である熊野灘から1字を取った「熊ノ浦」(後、「秀ノ海」を経て「増巳山」へ改名している)。


1944年
5月、幕下にいた時に召集され、兵役に就く。その間、1946年5月に師匠の8代三保ヶ関(元十両4・滝ノ海)が亡くなり、それに伴って弟子達は出羽海部屋に預けられた。そのため、帰還した時には、出羽海部屋の所属となっていた。


1949年1月、新十両に昇進。1950年1月場所では13勝2敗と大勝ちして十両優勝を飾り、翌5月場所で新入幕を果たした。この場所から、兄弟子であった元大関・増位山の三保ヶ関親方(9代目)が出羽海部屋から独立して三保ヶ関部屋を再興したため、4年ぶりに同部屋へ戻る事となった。


突っ張りと叩きを主な武器としたが、幕内上位には上がれず、最高位は1950年9月場所に於いての西前頭13枚目に留まった。幕内を8場所連続保ったあと、1953年1月場所では十両に陥落し、その後は1場所だけ再入幕した。


以降、1958年9月場所まで十両に在り、十両在位は通算29場所に及んだ。


同年11月場所では幕下に落ちて初日より休場し、場所後、36歳で引退


引退後は年寄・阿武松から同・待乳山を襲名し、三保ヶ関部屋付きの親方として停年まで日本相撲協会に在籍した。


1995年5月11日、腎臓癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。73歳没。

主な戦績
・現役在位:54場所

・通算成績:321勝343敗1分12休 勝率.483

・幕内在位:9場所

・幕内成績:54勝81敗 勝率.400

場所別成績については、「増巳山 豪ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%B7%B3%E5%B1%B1%E8%B1%AA

各段優勝
・十両優勝:1回(1950年1月場所=13勝2敗)

改名歴
・熊ノ浦(くまのうら、1940年1月場所)

・秀ノ海(ひでのうみ、1940年5月場所-1947年11月場所)

・増巳山(ますみやま、1948年5月場所-1958年11月場所)

年寄変遷
・阿武松(おうのまつ、1958年11月-1960年3月)

・待乳山(まつちやま、1960年3月-1987年1月)

関連項目
大相撲力士一覧

参考文献
・『全幕内力士 個人別大相撲星取大鑑』(著者:小池謙二、発行元:医聖社)

・『戦後新入幕力士物語 第1巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社
(wikiより)




浄昌院入岱増久居士。

2785  幕内・増巳山(石谷家)

浄昌院入岱増久居士。

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歌沢 寅右衛門(うたさわ とらえもん)は、うた沢節のうた沢寅派名跡


初代と2代目は「歌沢虎右衛門」と漢字表記しそれ以降は女性が名乗ったため「歌沢寅右衛門」と表記した。

初代
文化10年(1813年) - 明治8年(1875年10月2日))本名は平田虎右衛門。あだ名を「平虎」。


江戸
橘町に住む畳職人で端唄を親しんでいた。歌沢笹丸と共に行動するようになり、安政4年(1857年)に歌沢相模と改名。


文久2年(1862年)に家元の笹丸の顕彰碑を向島木母寺に建て笹丸の後継者という意味合いを込めて「2世歌沢虎右衛門」と碑面に無断で刻んだ事で一門の結束力が薄れるようになり哥沢芝金等と袂を分かち合い一門を離れる。


晩年病に倒れ虎右衛門の名を譲っている。

2代目
初代の門下。


3代目

天保9年(1838年10月15日) - 明治37年(1904年12月6日))本名は平田かね。


初代の実子。最初は歌沢美和。1881年に3代目寅右衛門を襲名。明治中期以降うた沢の衰退のため信州小諸に引っ越し以降娘の指導に当たった。


娘には4代目。

4代目
(明治5年(1872年8月5日) - 昭和18年(1943年3月7日))本名は平田ゆき。


東京の生まれ、初代の孫で3代目実子。明治38年(1905年)に4代目寅右衛門を襲名。漢字表記を「虎右衛門」から「寅右衛門」とした。昭和2年(1927年)に長女に「寅右衛門」の名を譲り隠居し2代目歌沢相模を名乗る。

5代目

(明治34年(1901年4月10日) - 昭和58年(1983年12月19日))本名は平田秀子。


東京の生まれ、4代目の長女。若い頃から母の元で修行し寅秀の名で活動、昭和2年(1927年)に5代目寅右衛門を襲名。実子は6代目。

6代目
5代目の実子で劇団青年座所属の俳優である歌澤寅右衛門が6代目寅右衛門を襲名。現在は俳優業のほうが優先。

〇 うた沢
うた沢(うたざわ)は、端唄から派生した江戸後期の短い歌謡。

概略
創始は歌沢笹丸(うたざわ ささまる、1797年 - 1857年〈本名:笹本彦太郎〉)。本所割下水に住む旗本の隠居で、畳屋の寅・ご家人の柴田金・仕事師の茂兵衛・火消しの音・稲荷の滝・魚屋の定などの同好者を集めて好きな端唄を聞かせていた[1]。しかし端唄は聞かせどころがなく余りにあっさりとしていたところから工夫を加え、「歌沢節」と名づけ、自身は「歌沢笹丸」と名乗った。1857年安政4年)6月、官に乞うて嵯峨御所より歌沢大和大掾を受領する[2]


笹丸歿後の翌年、畳屋の寅が歌沢寅右衛門と名乗り、歌沢初代の家元となる[2]


その4年後にご家人の柴田金が哥沢の初代家元となり、芝金と名乗った[3]。(これはご家人であった畳屋出身の家元の傘下に入るのを潔しとしなかったためと言われている)。


いずれにせよ、発生は嘉永年間以後とされ、歌沢(寅派)・哥沢(芝派・哥沢芝金)を名乗る両派が生まれたので、共通の「うた沢」と表記されるようになり、今日に至っている。

音楽的特徴
端唄との違いはサラリとうたう端唄に対してこってりとうたう点にあり、それによって楽曲に渋みが加味される。節回しもより細かく、前奏がある。その結果、曲の長さも倍近くある。

代表的な曲
・梅にも春

・夕暮

・淀の川瀬

・淀の車

・和歌の浦

・蝶は菜種

・宇治茶

・苗売

・薄墨

・書き送る

・秋の夜

・萩桔梗

・露は尾花

・香に迷う

・我がもの

脚注
1. すみだゆかりの人々 1985, p. 48.
2. a b すみだゆかりの人々 1985, p. 49.
3. すみだゆかりの人々 1985, p. 50.

参考文献
・『すみだゆかりの人々』墨田区教育委員会、1985年、48-50頁。

関連項目
小唄

端唄

俗曲

上方歌

近世邦楽

外部リンク
邦楽豆知識一覧<日本伝統音楽振興財団>
(wikiより)



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