本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2021/07

司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日万延元年8月7日) - 1917年大正6年)9月26日[1])は、小野川部屋玉垣部屋雷部屋八角部屋に所属した元力士。7代大嶽、5代中立。本名は勇川政吉。大和国葛下郡(現在の奈良県葛城市)出身。身長不明、体重は70kg。最高位は西小結

経歴
大坂相撲の小野川部屋から、1880年5月に三段目格で初土俵。1885年5月には新入幕を果たした。所属が八角部屋になったことから、四股名を鶴ヶ濱から司天龍に改めている。以後幕内20場所を務め、その間にはのちの横綱小錦八十吉に幕内初黒星を付けた。1895年1月限りで引退し、年寄大嶽を襲名した。

成績
・幕内20場所50勝49敗78休23分預

改名
・鶴ヶ濱→司天龍→司天竜[2]

出典
1. http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3483&l=j
2. 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
(wikiより)

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栃富士 勝健(とちふじ かつたけ、1946年6月8日-2003年4月28日)は、埼玉県大里郡三尻村(現・熊谷市)出身(出生地は東京都渋谷区)で、春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は小暮 晴男(こぐれ はるお)。最高位は東前頭3枚目(1971年5月場所)。身長186cm、体重141kg。得意手は左四つ、寄り。

来歴・人物
渋谷区立上原中学校在学時の1961年に春日野部屋へ入門し、同年5月、14歳で初土俵を踏んだ。


小兵力士が多かった同部屋に於いて、珍しい大型力士として早くから注目されていた。


幕下
までは順調に昇進するも、ここで苦労する。特に1967年3月場所では東幕下筆頭で6勝1敗と好成績を挙げながら、場所後の「番付枚数削減」の煽りを受けて翌5月場所では東幕下3枚目に下げられた。しかし腐らず7戦全勝で幕下優勝し、7月場所で新十両昇進を果たした。


さらに、1968年9月場所では新入幕を果たしたが、6勝9敗と負け越して1場所で陥落。2場所後の翌年1月場所で再入幕して11勝4敗の好成績を挙げ、幕内上位に進出した翌3月場所では9日目に柏戸をうっちゃりで破り、初めての横綱戦で金星を挙げた。


だが同年9月場所では再び十両に陥落し、1971年1月場所で再々入幕。5月場所では自己最高位となる東前頭3枚目に進み、初日に横綱・大鵬と対戦した。この一戦で、大鵬の突き押しを凌いで押し返すと大鵬は尻餅を着き、柏鵬の両方から1度だけの対戦で金星を得るという記録を残した。大鵬は同場所5日目に貴ノ花に寄り倒しで敗れた後引退を表明したが、尻から落ちるという負け方を下位力士相手に2度も喫したことで限界を実感したとされ、栃富士戦での敗戦も引退の要因となっている。大鵬が幕内で対戦した全力士で1度も勝てずに終わったのは、福田山、本項目の栃富士と彼の師匠・栃錦、及び錦洋の4人だけである(2度戦った福田山以外は、いずれも1度のみの対戦)。


貴ノ花や輪島は十両から平幕の頃彼を苦手としており、貴ノ花に対しては4勝3敗、輪島に対しては4勝1敗の成績を残している。だが、彼らが三役に昇進した時期に対戦する機会はなかった。


左を差しての一気の寄りに威力があって時に横綱や人気力士を倒すことがあったので、「スター・キラー」という異名もあった。反面、取り口にムラがあり、鋭い切れ技も持ち合わせていなかったことから体力を持て余した。以

後は結局、幕内と十両との往復に終わった。


1974年
9月場所後、28歳で引退


引退後は年寄山分を襲名し、春日野部屋付きの親方となった。


1990年1月に師匠・春日野(元横綱・栃錦)が亡くなった後は、兄弟子だった元関脇栃東の玉ノ井親方の独立に同行。以降は玉ノ井部屋で、師匠の右腕として後進の指導に当たった。日本相撲協会では木戸委員、指導普及部委員を務めた。


2000年
頃より体の不調を訴えていたが、2003年4月28日、急性心筋梗塞のため死去した。56歳没。


亡くなった当日は、来客にちゃんこを振る舞うために自宅の台所で準備をしており、その際に倒れたという。

主な成績・記録
・通算成績:465勝445敗18休 勝率.511

・幕内成績:64勝101敗 勝率.388

・現役在位:80場所

・幕内在位:11場所

金星:2個(柏戸1個、大鵬1個)

・各段優勝

  ・十両優勝:2回(1968年3月場所、1972年9月場所)

  ・幕下優勝:1回(1967年5月場所)

詳しいことは、「栃富士勝健ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%8B%9D%E5%81%A5
(wikiより)

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吉の谷 彰俊(よしのたに あきとし、1949年4月23日-2000年1月14日)は、長崎県南松浦郡三井楽町(現・同県五島市)出身で、かつて出羽海部屋に所属した力士である。本名は吉谷 作利(よしたに さくとし)。最高位は西前頭4枚目(1974年9月場所)。現役時代の体格は177cm、104kg。得意手は右四つ、足取り下手投げ

来歴・人物
五島列島福江島出身で、同郷の横綱佐田の山に憧れて、中学校卒業後に彼が所属する出羽海部屋へ入門。1965年5月場所に於いて、16歳で初土俵を踏んだ。


当初の四股名は、本名でもある「吉谷」。


三段目
で3年半ほど苦労し、途中「宇戸の山」と改名したが1年ほどで本名に「の」の字を挟んだ「吉の谷」と四股名を改めた。1970年5月場所で三段目優勝して翌場所幕下に、1972年5月場所で十両に昇進し、1974年1月場所で念願の入幕を果たした。


弟弟子で同じ小兵だった鷲羽山(前・出羽海親方)とは、十両・幕内がほぼ同時期の昇進と、出世を競った[1]

1年後輩に当たる特等床山・床安にとって吉の谷は「忘れられない先輩」であり、曰く「言うこと為すことがはっきりしており、嘘もつけずごまかせない」好人物であったという。


ある日親方や関取衆がちゃんこを食べた後に漬物すらまともに残っておらず、泣く泣く鍋の残り汁だけで飯を食おうとしていた床安に対し、当時序二段だった吉の谷がこっそり卵とふりかけを持ってくる気遣いを見せたという逸話が伝わっている。この時吉の谷は「やす、俺も頑張るから、お前もな。関取になったらお前にまげを結ってもらうから」と誓い、結果として見事関取昇進を果たしたのであった。[2]


小さい体ながら、全身闘志の塊というほどに気合いの入った相撲を見せた。右を差して食い下がり、投げや捻りを見せて粘る取り口だったが、なんといっても十八番だったものが足取りで、1970年代の角界で「足取りといえば吉の谷」と言われるほどだった[1]


その足取りも、相撲の足取りである「波まくら」ではなく、レスリングの「シングルレッグダイブ」の要領で放たれるものであった。手取り型の力士で入幕5場所目で自己最高位の前頭4枚目に進むほど技量はあったが、右肘を故障したこともあって幕内からはわずか7場所で陥落、以後は十両と幕下を往復する苦しい土俵生活を送った[1]


西十両13枚目で迎えた1978年5月場所、6勝7敗と1敗もできない状況で14日目の相手は鳴り物入りで角界入りした長岡(のちの大関朝潮、現・高砂親方)に決まった。長岡はこの一番に幕下付出からの14連勝・2場所連続幕下優勝での十両昇進をかけていたが、吉の谷は必殺の足取りからの寄り倒しで長岡を破り名を上げた(なお、この一番は後にDVDマガジン『国技大相撲』に収録され、舞の海による解説がつけられている)。


この場所は残りを連勝して勝ち越して陥落を免れたが翌場所負け越して幕下へ陥落、1場所で返り咲いたものの再び負け越して、以後は1982年5月場所後の現役引退まで幕下で取り続けた[1]


肘の故障を抱えながら、引退まで102場所、930番一度も休場することなく取り納めた。


引退後は借株で年寄山科を襲名、名跡の保有者だった大錦の引退後は千賀ノ浦から入間川竹縄大鳴戸と名跡を変えつつ、出羽海部屋付きの親方として後進の指導に当たった。


1998年
5月場所後、同じ長崎県出身の中立親方(元小結・両国)が中立部屋(現・境川部屋)を興すと、これに同行した。


しかし、1999年夏頃に体調を崩し、緊急入院して治療を行っていた。

2000年1月14日、多臓器不全のため、入院先の東京都江東区内の病院で逝去。享年50。

主な成績・記録
・通算成績:461勝469敗 勝率.496

・幕内成績:48勝57敗 勝率.457

・現役在位:102場所

・幕内在位:7場所

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1973年9月場所)

  ・幕下優勝:2回(1975年11月場所、1976年5月場所)

  ・三段目優勝:1回(1970年5月場所)

詳しいことは、「吉の谷彰俊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E3%81%AE%E8%B0%B7%E5%BD%B0%E4%BF%8A
(wikiより)

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北の洋 昇(きたのなだ のぼる、1923年2月1日 - 2002年1月8日)は、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)出身で、1940年代後半から1960年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は緒方 昇(おがた のぼる)[1]

来歴
目標は、双葉山を倒すこと
1923年2月1日に、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)で料理屋を営む家に次男として生まれた。幼少期から地元では有名な腕白だったが、小学4年生の時に実兄が事故で没したことでショックを受け、それ以降は腕白な性格から内気な性格へ変わっていった。実家が地元で人気の料理屋だったことから、厳しい父親に毎日家の手伝いをさせられていた。当時の網走郡は網走刑務所のイメージから陰惨とした場所であると勘違いされやすかったが、本人が入幕後に語ったところによると冬の寒さは厳しいが、道立公園には6月頃から9月頃まではハマナスエゾキスゲカンゾウスズランヒオウギアヤメなど50種類程度の花が咲き誇る明るい街であったという。幼少期の緒方が育った網走では、ニシン漁がある時だけ駆り出されそれが終わると捨てられたどさんこが強く育ち、捨てられてから生き残ったどさんこがまたニシン漁に駆り出された[2]


1938年
の暮れのある日、自宅へ宿泊した旭川の馬飼いが緒方少年の大きな体格を見い出し、その人物が旭川幸之丞とも親しかったことで立浪部屋への入門を勧めたが、緒方少年は相撲好きだったものの「他の部屋に入って双葉山定次に勝つ相撲取りになりたい」と考えて出羽海部屋への入門を希望していた。当時の双葉山は、同年に玉錦三右エ門現役死亡したことで角界を代表する大横綱となっており、出羽海部屋では一門ぐるみで「打倒双葉」を合言葉に、どのように破るかで連日猛稽古と研究に明け暮れていた時期だった。馬飼いはこの姿勢に一度は引き上げたものの、1939年の春に再び訪ねて来て熱心に説得すると、一家の稼ぎ手を失うことを心配した母親から反対されたものの、立浪部屋への入門が決定した。

立浪部屋で初土俵
立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。入門時の体重は71kgだったが、入門直前の緊張から3kgも減ってしまった。これでは新弟子検査で合格しないと感じた緒方少年は、検査直前に飯や水を口にして増量を図るも1.5kg不足してしまった。検査を担当した若者頭鳴戸に目配せして合格を頼んだが聞き入れてもらえず、さらには力士を諦めて床山になることを勧められた。当時は入門者が殺到していたので検査も厳しく、体重の目溢しなどしてもらえなかった。さらに自費養成力士制度もなかったのも緒方に対して不利に働いた[2]


それでも力士になる夢を諦めなかった緒方少年は、翌場所も新弟子検査を受験して合格し、1940年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は郷里・北海道に因んで「北ノ海」にする予定だったが、同名の者が前相撲の初日にいたことが判り、「北ノ洋」に変更した。

幕内定着
新弟子時代の頃の立浪部屋を「1日、2日おきには新弟子たちがずらっと並んで、部屋には70人近くいたと思う。寝るところにも困って、稽古場、女中部屋にまであふれていた」と本人は述懐している[3]。この頃の立浪部屋は出羽海部屋のように一門連合稽古のようなことは行わず、新弟子時代には親方衆も少なかったため自分で相撲四十八手の本を買って相手がいると思って1人で技をかける相撲版シャドーボクシングのようなことをやるなどして、当時の大抵の所属力士達が自分のコンディションを中心として調整したように北ノ洋自身も稽古を積んだ[3]。入門後は第二次世界大戦が激化したが、幸いにも兵役に取られることが無いまま着実に昇進し、1948年10月場所にて新十両昇進を果たした。初めは軽量ながら立合いに頭で当たり、四つに組んでから投げを中心に俊敏な変化を交える半端な相撲だったが、体重が増えて着実に力を付けていくと左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る取り口に変わった[1]。この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹栃錦清隆千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。


1957年11月場所において腰痛と左足首関節を捻挫して以降は、稽古での申し合いを減らした上で、通勤ラッシュで混雑する平日朝8時頃の両国駅の階段を廻し姿で昇り降りするなど、足の鍛錬を増やしていった。本場所では負け越す回数が増えていくが、怪我をしたならば北の洋なりの回復方法を探って、少しでも長く幕内で活躍しようとする姿勢に、驚く乗客もいたが激励の声も多かった。

現役引退~晩年
1962年3月場所で5勝10敗と大きく負け越し、来場所の十両陥落が決定的になったところで現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退時は39歳で、両国駅での毎朝の自主トレーニングが丈夫で長持ちするということを実証した形となった。年寄・武隈としては日本相撲協会の理事や監事を歴任し、春日野理事長の体制を支える重要な役割を担った。弟弟子である安念山治(羽黒山礎丞)からも全幅の信頼をおかれ、1969年10月に先代立浪(元横綱・羽黒山)が亡くなると、年寄・追手風を襲名していた羽黒山礎丞(=安念山)が「立浪」を継承する際に「武隈親方がいれば大丈夫だ」と言われるほどだった[1]。在職中には日本テレビの相撲放送解説を務めていた。


1987年
の年末に横綱・双羽黒光司が立浪とちゃんこの味付けを巡って衝突し、女将を突き飛ばして部屋を飛び出す騒動が発生した(双羽黒廃業騒動)。武隈は双羽黒の居場所を突き止め、結果としてそのまま廃業となったことで失敗に終わったものの、双羽黒に対して部屋に戻って謝罪するように説得に当たるなど、騒動解決に奔走した。


1988年
1月場所を最後に停年退職し、娘婿の元関脇・黒姫山秀男[1]に年寄・武隈の年寄名跡を譲った。自身は本名の「緒方 昇」としてNHKの相撲解説を務めた[1]ほか、タレントとしてNHK総合テレビのクイズ番組「クイズ日本人の質問」に出羽錦忠雄と共に解答者(大相撲チーム)として準レギュラー出演していたほか、1996年には映画「スーパーの女」(伊丹十三監督)に出演したことが話題となった。


2000年
1月場所を最後に勇退した後も新聞などで相撲の評論活動を行っていたが、2001年の春に脳梗塞で突然倒れて療養生活を送る。そして、2002年1月8日栃木県内の病院で死去、78歳没[4]。墓所は旧・両國國技館が開館するまで相撲が行われていた、両国の回向院にある。

人物・エピソード
新入幕が初土俵から10年経過していたことで出世がゆっくりだったが、前述のように体重の重さと力量を生かして相手を土俵際へ追い詰める取り口で幕内に長く定着し、土俵際での逆転の網打ちうっちゃりで物言いが付く取組も多かった[3]。それでも左足を置いてから添えた右足を横一文字に引く颯爽とした仕切りは、相手に丁寧に合わせることから待ったをほとんどせず、土俵態度として立派だったという。


日本放送協会の相撲解説では現役時の四股名で務めるのが慣例だが(現役では北の富士勝昭舞の海秀平)、「きたのなだ」という四股名が大変読みにくいために本名での出演になったという[要出典]


白い稲妻というあだ名は、北の洋の没後に孫の羽黒灘逮捕された際に、やくみつるが描いた4コマに登場している。


双葉山に心酔しており、双葉山のことを語る時、何かと「崇高な」という形容詞を使った。羽黒山に関しては戦時中の角界で苦楽を共にした間柄であるため「ジャングイ」("大将"の意。日本軍の将校になぞらえた呼び方)と呼んでいたが、一方で「ケチ」などという見方をしていた。黒姫山が「ずっと同じ部屋で近くに接してきているから、『ケチ』などという見方も出てくる」「双葉山さんだって間近で接すれば、"崇高な"なんていう言葉は出てこないかもしれませんよ」というと北の洋は「この野郎!」と怒った[5]


曾孫は境川部屋に所属する現役大相撲力士の田中山虎之介。

主な成績・記録
・通算成績:494勝473敗29休 勝率.511

・幕内成績:368勝388敗24休 勝率.487

・現役在位:77場所

・幕内在位:52場所

・三役在位:8場所(関脇2場所、小結6場所)[1]

・三賞:10回

  ・殊勲賞:4回(1957年9月場所、1958年11月場所、1959年3月場所、1960年1月場所)[1]

  ・敢闘賞:1回(1954年5月場所)[1]

  ・技能賞:5回(1953年5月場所、1954年5月場所、1957年3月場所、1958年1月場所、1960年3月場所)[1]

  ・金星:10個(東富士:1個、吉葉山:2個、栃錦:2個、千代の山:1個、若乃花:1個、朝潮:3個)[1]


1957年11月場所で関脇昇進を果たしたが、34歳8ヵ月(※番付発表時)での新関脇は、三賞制定以後では当時の最年長記録であった(その後、2014年9月場所で豪風が更新している)。

詳しいことは、「北の洋昇ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%B4%8B%E6%98%87
(wikiより)


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北の洋昇

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蜂矢 敏行(はちや としゆき、本名は四股名と同じ、1950年11月16日 - 2001年1月27日)は、岐阜県本巣郡根尾村(※現役当時、現在の同県本巣市)出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士である。最高位は西前頭6枚目(1984年11月場所)。現役時代の体格は180cm、110kg。得意手は左四つ、吊り、寄り。

来歴・人物
地元・根尾村の中学校を卒業後、愛知県犬山市スーパーマーケットに勤務していたが、1967年7月に相撲見物に行った事を切っ掛けに相撲取りになる事を決意。しかし、体重が規定の75kgより下回っていたため、その後故郷に戻って体重増加に努めた。


1年後、春日野部屋への入門を許され、1968年9月場所で初土俵を踏んだ。序ノ口当初から、本名でもある「蜂矢」の四股名で相撲を取り(一時「栃ノ矢」と改名した時期もあったが、すぐに元の「蜂矢」の名に戻している)、1976年5月場所で新十両に昇進。以降は、幕下と十両との往復を幾度も繰り返した。だが、十両24場所目の1981年9月場所では東十両5枚目に在って10勝5敗と好成績を残し、これを手土産に翌11月場所で念願の新入幕を果たした。序ノ口に付いてから約13年、80場所目での超スロー入幕であった。


小兵だが腕力は強く、投げや吊り寄りの大きい相撲を取ったが、頭をつけて食い下がる相撲は少なかった。そのため幕内では通用しなかったが、十両在位は歴代1位(大潮とタイ)の55場所と、息の長い土俵生活を送った。

再入幕を果たした1984年9月場所では、東前頭14枚目の地位で10勝を挙げている。


1985年
1月場所を最後に幕内から遠ざかり、以降は長く十両で相撲を取ったが、幕下に落ちて全休した1987年9月場所を以って36歳で引退した。


春日野部屋が出羽海一門という事から、同じ一門で力士の人数が少なかった三保ヶ関部屋で横綱・北の湖付け人を長く務め、“北の湖の参謀”と呼ばれた。その縁から、引退後は北の湖親方から年寄名跡の「小野川」を借り、春日野部屋から北の湖部屋へと移籍して後進の指導に当たった。


2001年1月27日、上顎がんのため、東京都内の病院で死去。50歳没。

主な成績・記録
・通算成績:638勝625敗7休 勝率.505

・幕内成績:26勝34敗 勝率.433

・十両成績:399勝426敗 勝率.484

・現役在位:114場所

・幕内在位:4場所

・十両在位:55場所(史上1位タイ)

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1976年7月場所)

  ・幕下優勝:1回(1976年3月場所)

・通算連続出場:1263回(史上12位。初土俵からの記録では史上9位。1968年11月場所 - 1987年7月場所)

詳しいことは、「蜂矢敏行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E7%9F%A2%E6%95%8F%E8%A1%8C
(wikiより)

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安政 2年 ( 1855 ) 5月、徳島市生まれ。


草相撲で活躍し、明治 14年 7月に大阪竹縄弟子として見習に登場。


次いで京都に移って華ノ峰善吉の弟子となり、18年 5月には梅ヶ谷の弟子として東京に出た。しかも幕下十枚目格である。


23年 5月に入幕、得意は首投げと合掌捻りで、35年 5月に引退したときには 47歳だった。


昭和 6年 1月 15日歿、戒名は「清誉鬼勇居士」であるが、子孫が別に「本清院顕道信士」という戒名をつけている。

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この墓は昭和 43年 7月に本人が建てたもので、亡くなったのは 48年 7月 20日である。


この人は行司の木村今朝三で、明治 36年 4月 10日生まれ。


長野県池田町の産で、僅か 5歳で 2代目・峰崎 ( 木村銀治郎 ) の門人となった。


「けさぞう」は本名であるが、漢字で書くと「北原袈裟三」である。


師匠が大正 11年に亡くなってから片男浪、伊勢ノ海部屋へと移り、昭和 8年から錦嶋部屋所属となった。


17年 1月から三役行司となり 31年 5月に 9代目・錦嶋が亡くなり、今朝三が継ぐことになって 6月 20日に 10代目・錦嶋となった。


二枚鑑札となった次の年、行司の二枚鑑札は 33年 5月限りで廃止と決まったので、今朝三は 33年 1月を限りに年寄専務となり、のちには理事も務め、43年 4月 9日に定年退職した。

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八代目・山響、釋迦ヶ嶽庄太郎


山科 - 出羽海部屋


1922年 5月 - 1961年 1月 ( 定年 ) 退職。

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6代目・山響、嶽ノ越亀吉


伊勢ノ海部屋


1904年 1月 - 1913年 4月 ( 死去 )

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所在地東京都台東区蔵前4-18-11
位置北緯35度42分16.50240秒 東経139度47分18.96720秒
山号化用山
院号常照院
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年慶長元年(1596年
開山性誉上人


浄念寺(じょうねんじ)は、東京都台東区にある浄土宗寺院

歴史

1596年慶長元年)、性誉上人によって開山された。元々は神田駿河台に位置していたが、1605年(慶長10年)に現在地に移転した[1]

かつては、惣信院・光成院・源信院、露体院、月松院、称専院の支院を擁していた[2]が、現存していない。

文化財
・三島政行墓(東京都旧跡 昭和30年3月28日指定)[3]
木造阿弥陀如来立像(台東区有形文化財 平成2年度登載)[1]        

交通アクセス
蔵前駅A0出口より徒歩約4分(経路案内)。

脚注
a b 木造阿弥陀如来立像(浄念寺)台東区
・東京市浅草区 編『浅草区誌 下巻』文会堂書店、1914年、193p
三島政行墓東京都

参考文献
東京市浅草区 編『浅草区誌 下巻』文会堂書店、1914年
(wikiより)


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浪ノ音健藏(なみのおとけんぞう、1882年3月14日-1967年11月25日[1][2])は、高砂部屋に所属した元力士。11代振分。本名は鎌田健藏。現在の青森県青森市出身。166cm、79kg。最高位は西関脇[3]

経歴
子供の時から小兵ながら土地相撲で取っていたが、1897年の夏に高砂の一行が巡業に来た時に同県の綾浪を頼り入門した[4]。1898年1月初土俵、1906年1月新入幕。入幕3場所目には小結に上がり、当時大関であった荒岩亀之助引き落としで破る殊勲を挙げた。1907年5月関脇昇進。それ以降は中堅に甘んじた。1914年5月幕下に陥落して引退し11代振分を襲名[3]振分部屋を創設し、大ノ高などを育て、勝負検査役などを務めた。47年間年寄として在職し、78歳で1961年1月定年退職。


引退後は青森へ移住し、宿禰神社の社務をこなし、晩年は角界の生き字引として好角家との交流を楽しんだ。


1967年11月25日、85歳で死去。


1911年1月に起きた新橋倶楽部事件では力士側代表として協会との交渉に当たった[5]


1914年の高砂襲名争いでは綾川を推薦したが敗れ、出羽海一門に転属した。

取り口
前捌きのうまさから、右前ミツ、左ハズ、または右差し一気の寄りが持ち味であった。さらには巻き落とし蹴返しなども得意の、速攻相撲の技能派だった[3]

成績
・幕内16場所55勝56敗30休19分預

・通算20場所65勝59敗30休23分預

詳しいことは、「浪ノ音健藏ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E3%83%8E%E9%9F%B3%E5%81%A5%E8%97%8F
(wikiより)

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八代・常盤山小平治

1866年 11月 - 1870年 8月 ( 死去) 二枚鑑札、現役没


関脇


常盤山 - 玉垣 - 常盤山部屋

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十八代横綱・大砲 万右衛門 ( おおづつ - まんえもん )


本名:角張 満次 → 満右衛門


出身地 : 宮城県白石市


生年月日 : 明治 2年 ( 1869年 ) 11月 28日


身長、体重 : 194cm、132kg.


所属部屋 : 尾車 ( 2代 ~ 3代 )


初土俵 : 明治 20年 ( 1887年 ) 1月場所 序ノ口付出


最終場所 : 明治 41年 ( 1908年 ) 1月場所


改名歴 : 三沢滝 → 大砲


成績 : 通算 32場所、98勝 29敗 51分 4預 138休
金星 2個 ( 西ノ海、小錦 )
優勝相当成績 2回


年寄名 : 待乳山 ( 7代 )


没年月日 : 大正 7年 ( 1928年 ) 5月 27日 ( 48歳 )


備考 : 突っ張り、叩き、右四つ、寄りが得意。
    
明治時代生まれ最初の横綱。

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九代目・野州山徳之丞 ( 高砂部屋 )


いまの宇都宮市の出身で、安政 5年 ( 1858 ) 生まれ。


明治 10年 初代・高砂の弟子となり、19年 5月に十枚目に上がり 幕内には上がらなかったが十枚目を務めること 12場所、29年 1月で引退した。


尾上部屋を興して 2人の野州山を育てている。


2代目は幕内まで上がったが、モテすぎて脱走を繰り返した珍力士で 3代目は次の尾上を襲名した十枚目力士である。


大正 8年 1月 28日に歿し墓は未亡人亡きあと、3代・野州山夫婦が香華を手向けていたというが、いつしか無縁となり普通なら整理されてしまうところ、棹石だけ本堂脇の現在地に移されたという。


現在の台石は新しくつけられたもので、もともとの台石には姓の「信田」と彫られてあったそうだ。

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豊竹 湊太夫(とよたけ みなとたゆう)は、義太夫節の太夫。

七代目・豊竹湊太夫

(明治11年(1878年8月31日 - 昭和14年(1939年2月11日)本名は吉田団次郎。


大阪の生まれ、2代目竹本越路太夫(後の2代目竹本摂津大掾)の門弟。竹本小さの太夫、竹本さの太夫を経て7代目湊太夫を襲名。
(wikiより)

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野口勝一 ( 1848年 10月 16日 ~ 1905年 11月 23日 )


現在の北茨城市磯原町に生まれた野口勝一は、明治時代に政治家、ジャーナリスト、出版人として活躍した人物です。 


自由民権運動家、茨城県会議員『茨城日日新聞』の社長兼主筆と茨城県内での活動から離れ上京し、農商務省に勤務しました。


その後、衆議院議員を三期つとめた後、政治経済などの新聞や雑誌の編集出版活動を行っています。
 
また、勝一は弟・量平の息子である野口雨情にも大きな影響を与えた人物です。
 
北茨城市史 別巻 5 ~ 8に収録されている日記は、農商務省に初めて出任した明治 16年 8月 13日からはじまっています。


衆議院議員として活躍していた時期 ( 明治 25年 ~ 35年 ) の日記は欠落していますが、当時の社会・政治・経済・文化と多岐にわたる内容に驚かされると共に、多くの来訪者と訪問先が記録されており、その交友関係の深さには驚かされるばかりです。

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本名村井むらい 正秀まさひで
生年月日1932年2月1日
没年月日2002年2月2日(70歳没)
出身地日本の旗 日本東京都新宿区
師匠二代目海老一海老蔵
活動期間1945年 - 2002年
家族三遊亭圓駒(父)
海老一染之助(弟)
所属落語協会


海老一 染太郎(えびいち そめたろう、1932年2月1日 - 2002年2月2日[6])本名は村井 正秀

兄。東京都新宿区出身。盛り立て役。2002年2月2日、胃がんのため死去。70歳没。誕生日を迎えた翌日のことであった。

ナンシー関によると、マネージメントは染太郎が担当していたという。また、英語も達者であったとのことである。

略歴
1945年9月
 ・二代目海老一海老蔵9代目桂文楽の妻の父親)に入門。

1946年12月
 ・新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」の名で初舞台を踏む。

1949年
  ・「海老一染之助・染太郎」に改名。

1960年5月
 ・旧:ソ連文化省より招聘を受け旧:ソビエト連邦にて公演。初の海外公演。

1965年2月
 ・米国ABCテレビ出演。

1982年10月
 ・フジテレビ笑っていいとも!」にレギュラー出演( - 1989年3月)。

1989年3月
 ・CDシングル「おめでとうございます!!」をリリース。

2002年2月
 ・染太郎、死去。以後、染之助がピンで活動。

2003年1月
 ・落語家の林家木久蔵と共に「海老一染之助・木久太郎」を正月限定で結成。

2004年1月
 ・落語家でタレントの桂米助と共に「お染ブラザーズ2004」を正月限定で結成。
 ・「おめでとうございま〜す」の着ボイスが、「いろメロミックス」内「着と〜く」にて配信開始。

2017年12月
 ・染之助、死去。

エピソード
・染之助が芸を見せ、染太郎が話術で楽しませるというスタイルが定着していたが、染太郎が芸を見せることも稀にあった。

・芸風が芸風であったために、通夜・葬儀に来てほしくないタレントNo.1に選ばれたことがある。しかし、2人の恩人にあたる人物が死去した時には、故人の妻の頼みもあり芸を披露した。

海原千里・万里千里が妹、万里が姉)、海原やすよ・ともこ(やすよが妹、ともこが姉)らと同じように、弟である染之助の名前が先に来ている。やすよ・ともこは妹の方が先に弟子入りしたためであるが、村井兄弟については情報がないため不明。

春風亭小朝に一時期芸を教えていたことがあり、「あいつが出てくるだけでお正月と思える、明るいオーラがある」などと称えていた。

・「ミスターお正月 お正月と言ったら誰?」というアンケートで、1位をとったことがある。

・染之助は滅多に怒らない人物で「ヨイショの染さん」と呼ばれていたが、後輩芸人が染太郎に対し無礼な態度をとったときは、本気で激怒した。しかし、言った本人は冗談のつもりであったため、怒られた時はおろおろしていた(芸人仲間の連載より[要出典])。

・「スターどっきり(秘)報告」(1988年5月6日放送分)でやくざの宴会に呼ばれて芸をし、やくざが絡んで怖がらせたところでドッキリというシナリオだったが、染之助が絡まれて染太郎が突如激怒し、やくざ役を怒鳴りつけた。予想外の展開に、ネタばらし役の芸人も怯えながら登場する羽目となった。

・舞台での兄弟の掛け合いは見事なものだったが、実生活では兄弟仲が悪く、楽屋で喧嘩になることもあったという(本人コラムより[要出典])。ひとつには2人の芸の役割による確執もあるとされている。

・染太郎死去の際、染之助は葬儀会場に居並ぶ報道陣の前で号泣しながら「日本国中、世界の皆さまのお幸せを心から祈念して、まいります。『おめでとうございまーす!』」と絶叫した。

・染太郎死去直後、染之助は笑点の番組上で林家木久蔵(現在の木久扇)とのコンビで掛け合いを見せた。


主な台詞
・「おめでとうございまーす!!
・「ありがとうございまーす!!」
・「いつもより余計に(または、多く)回しております!!」
・「喜んでやっております」
・「弟は肉体労働、兄は頭脳労働、これでギャラは同じなの」
・「オープン・ザ・傘」
・傘で枡を回して「これを見た人、今後ますますご発展」
・「土瓶を回して落とすと損をします、これがほんとの土瓶損クルーソー」
・「土瓶の蓋を取るとき、身が落ちることもあります、身も蓋もない」
・「胸がドビンドビン」

出演
テレビ番組
ボキャブラ天国(キャッチフレーズは「ミスター正月」、お染ブラザーズ名義)
初詣!爆笑ヒットパレード[7][8]
笑っていいとも!(1982年10月 - 2014年3月※木曜日担当)
女橋(染之助のみ)
元祖どっきりカメラ
笑点

ラジオ番組
・染之助・染太郎のビバ!シルバー(文化放送

パチンコ
・「CRおめでとうございまーす」(2004年1月、ニューギン)

映画
Jリーグを100倍楽しく見る方法!!

ゲーム
半熟英雄対3D

CM
永谷園 - 即席みそ汁 柳家小さんと共演、1980年
ロッテ - クランキーチョコレート 1986年
サンヨー食品 - サッポロ一番 東京やきそば・これだね 1989年
ワットマン - 1990年
カネボウ ファッションカラー - 1995年
ファミリーマート - 1996年12月ごろ
・トーヨー衛材(現在のリブドゥコーポレーション) - はくパンツ 1998年
サトウ食品 - お染ブラザーズ2004として
・健康サプリ鮫珠(染之助のみ)

脚注
1.海老一染之助』 - コトバンク
2. 海老一染之助さん死去 83歳「ミスター正月」兄弟で傘回し芸 - スポニチアネックス(2017年12月7日)2022年1月31日閲覧。
3. 
会社情報>役員一覧 - テレビ東京。2022年1月31日閲覧。
4. 
“訃報 海老一染之助さん83歳=太神楽の曲芸師”毎日新聞. (2017年12月6日) 2017年12月6日閲覧。 [リンク切れ
5.“海老一染之助さん、急性肺炎で死去 日本のお正月を彩り続けた傘回し芸”. 産経ニュース. (2017年12月7日) 2017年12月11日閲覧。
6. 
海老一染太郎』 - コトバンク
7. 海老一染之助・染太郎 - オリコンTV出演情報
8. 海老一染之助 - オリコンTV出演情報

外部リンク
海老一染之助
海老一染之助・染太郎 - NHK人物録
(wikiより)

0271 海老一染之助染太郎

0271a

0271b

0271c


3代目 古今亭 志ん朝(さんだいめ ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、女優池波志乃は姪、俳優中尾彬は義甥にあたる。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。


7代目立川談志5代目三遊亭圓楽5代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた[1]。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。

来歴・人物
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。


獨協高等学校
ドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、後には毎年弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。当初は役者を志しており、噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した[2]。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。


同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に7代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。


一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。


落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父・志ん生から猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。


一方では、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭[注 1]の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。大阪では道頓堀角座に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになったという。大阪の定宿としていた千日前の旧・上方旅館の女将の葬儀で、関西のしきたりで一番重要な“止め焼香”を遺族に懇願されて行ったりもした。現在は旅館を建て替えた建物にトリイホールを設け、上方噺家のみならず、志ん朝一門など東京の噺家も“大阪で定席を打てるホール”として、今も活用されている。もちろん、生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだという。


落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は…」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。


二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。鰻については、1994年テレビ朝日徹子の部屋』出演時、「初めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、最晩年、『ニュースステーション』の「最後の晩餐」コーナーに出演の際には「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれた時も「鰻が食べたい」と語ったという。


晩年、時間がない時などは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。


所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。


父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。


大切にしていたドイツ語の辞書は、棺に納められた。

志ん朝に影響を与えた落語家
父である志ん生を尊敬していたが、芸の形を真似しても育った環境も人生経験も全く異なる父の境地に近づく事は不可能と考えていた。8代目桂文楽に注目して噺を丹念に組み立てる方法で自らの芸を構築していった[3]


6代目三遊亭圓生も敬愛する大先輩であった。1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。しかし当初見込みとは異なり、東京都内の落語定席[注 2]の席亭[注 1]たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。志ん朝一人だけならば3代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周囲の説得もあって脱退を撤回した。この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をし、落語協会の会長であった5代目柳家小さんは、新宿末廣亭席亭の北村銀太郎の助言もあり香盤を下げずに志ん朝を含む協会復帰組を受け入れた。


大阪の落語家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも群を抜いていた。6代目笑福亭松鶴に心酔し、自身「大阪の角座に出るたびに追っかけまわした」と証言するほどであった。そんな志ん朝を松鶴も可愛がり、その縁から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機会を得て、大阪の客に受け入れられ芸も上達した。志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを教えてくれたよき先輩でもあった。志ん朝自身、上方落語界復興の苦労話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。他には3代目桂春團治3代目笑福亭仁鶴とは二人会を開くなど親交を深めた。特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり双方とも格別の思い入れがあった。二人会になると文字通りの真剣勝負で、二人とも気合いの入った高座となった[4]立川談志との若手時代からのライバル関係は有名であり、志ん朝に真打昇進を追い越されたことが、談志が奮起するきっかけになった。


また落語協会分裂騒動では三遊亭圓生が三遊落語協会の自らの跡目を志ん朝としたことが、談志が土壇場で新団体参加を断念した大きな要因であったとされている。この件を巡り、談志とは激しい口論になった。談志の芸は協会離脱後志ん朝とのライバル関係がなくなったから衰えた、という説を談志の弟子が唱えていたことがある[5]

略歴
1957年2月 実父5代目古今亭志ん生に入門。前座名は父の前座名朝太5代目鈴々舎馬風(当時柳家小光)とともに2月1日から前座入り。


1959年3月 二つ目昇進。


1961年 NHK若い季節』レギュラー出演。


1962年5月 5代目春風亭柳朝とともに36人抜きで真打昇進し、3代目古今亭志ん朝襲名。抜いた先輩には兄弟子金原亭馬太郎6代目むかし家今松三遊亭全生柳家小ゑん橘家舛蔵がいた。

  ・映画初出演(東映『歌う明星・青春がいっぱい』)。
  ・フジテレビサンデー志ん朝』に司会としてレギュラー出演。


1978年5月 落語協会分裂騒動で落語協会を脱会し落語三遊協会に参加するが、僅か数日で落語協会に復帰。


1990年 大須演芸場での独演会を始める。(~1999年)


1996年8月1日 3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会副会長就任。兄馬生も1972年 - 1982年まで落語協会副会長を務めていた。


2001年 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

  ・10月1日 肝臓がんにより、家族に見守られる中、新宿区矢来町の自宅で死去。兄弟子8代目志ん馬と同じ死因であり、亡くなる半年前には弟子の右朝を肺がんで亡くしている。志ん朝没後の副会長には5代目鈴々舎馬風が就任した。

  ・10月6日13時より護国寺桂昌殿で落語協会葬として営まれた告別式には関係者、ファンなどが2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。戒名は「光風院楽誉観月志こうふういんらくよかんげつし朝居士ちょうこじ」。

一門弟子
直弟子
古今亭志ん橋

古今亭八朝

古今亭志ん輔

古今亭右朝

古今亭志ん上(一旦廃業し、その後9代目桂文楽門下で桂ひな太郎として復帰。)

古今亭志ん陽(師匠志ん朝の死後は初代志ん五門下に移籍するも志ん五も死去したため志ん橋門下に移籍)

移籍してきた者
古今亭志ん駒(父志ん生門下から兄馬生門下を経て移籍。弟子というよりは一門の顧問格だった)

初代古今亭志ん五(元は父志ん生門下の弟子だが、志ん生の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

7代目桂才賀(元は古今亭朝次9代目桂文治門下だったが、師匠の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

9代目古今亭志ん馬(元は志ん朝の兄弟子8代目志ん馬門下だったが、師匠の死去に伴い志ん朝門下に移籍)

色物
太田家元九郎

松旭斎美智

翁家和楽

笑組


詳しいことは、「三代目・古今亭志ん朝ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E6%9C%9D
(wikiより)

2951  3代目・古今亭志ん朝

三代目・古今亭志ん朝

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5代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、1890年明治23年〉6月5日 - 1973年昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京落語家。本名、美濃部みのべ 孝蔵こうぞう。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後の東京落語界を代表する落語家の一人と称される。


長男は10代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は3代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(10代目馬生の娘)。

生涯
出生
1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男[注釈 1]。出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[注釈 2]明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし[注釈 3][注釈 4]、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。


下谷区
下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。

1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした[1]

落語との出会い
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める[1]1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった[1]。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという[1]


1910年
(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る[2][3][4][5]。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた[6]1916年から1917年大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる[1]1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する[1]

結婚
1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である[注釈 5]。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。


当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた[7]。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという[8]。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる[9]


この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。

馬生・志ん生襲名
1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。

1938年
(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる[1]1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。


1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという[10]

満州へ〜帰国後
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る[11][12][注釈 6][注釈 7]満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。


1947年
(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅[1]。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった[13]。この頃から人形町末廣で余一の日[注釈 8]に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。


1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった[14]。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。

会長就任
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。


5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる[15]

病気
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。


1964年
(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。

事実上の高座引退
1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった[注釈 9]


この年、勲四等瑞宝章を受章する。


1968年
(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた[16]


1971年
(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した[17]


1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している)。




年表
5代目志ん生の無名時代の経歴は、資料が乏しい上、当人の記憶もあやふやだったために諸説ある。下記#改名遍歴と食い違う部分があるが、脚注に示した史料のままとした[18]

1890年(明治23年)6月28日[注釈 10] - 神田区神田亀住町に出生。


浅草区永住町127(現在の台東区元浅草2丁目)に転居(年月日不明)


・浅草区北稲荷町51(現在の台東区東上野5丁目)に転居(年月日不明)


1904年(明治37年) - 北稲荷町から浅草区浅草新畑町4(現在の台東区浅草1丁目)に転居


1905年(明治38年) - この頃、博打や酒などの素行不良が重なり家出する。


1907年(明治40年) - 芸事好きが嵩じて落語のセミプロになり、この頃、三遊亭圓盛の下で三遊亭盛朝の芸名をもらう。


1910年(明治43年) - この頃、2代目三遊亭小圓朝に入門。三遊亭朝太の芸名でプロの落語家になる。


1916年(大正5年) - この頃、三遊亭圓菊に改名して二つ目昇進。以降、目まぐるしく改名を繰り返す。詳細は#改名遍歴を参照。


1918年(大正7年) - 4代目古今亭志ん生門下に移籍し、金原亭馬太郎に改名。


1920年(大正9年) - 谷中清水町(現在の台東区池之端4丁目)に転居して下宿生活。


1921年(大正10年)9月 - 金原亭馬きんに改名して真打に昇進。


1922年(大正11年)11月 - 清水りんと結婚。


1923年(大正12年) - 北豊島郡滝野川町大字田端185(現在の北区田端1丁目)に転居。


1924年(大正13年)1月12日 - 長女・美津子誕生。


1925年(大正14年)
  ・4月 - 3代目小金井芦州門下で講釈師になり小金井芦風を名乗る。
  ・9月 - 師匠の3代目小金井芦州逝去により落語家に戻る。

  ・10月7日 - 次女・喜美子誕生。


1926年(大正15年) - 豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現在の渋谷区笹塚)に転居。


1927年(昭和2年) -
  ・初代柳家三語楼門下に移籍して柳家東三楼と改名。

  ・代々幡町大字幡ヶ谷(現在の渋谷区幡ヶ谷)に転居するが、すぐに元の笹塚の家に戻る。


1928年(昭和3年)

  ・1月5日 - 長男・清誕生。

  ・4月 - 本所区業平橋1丁目12(現在の墨田区業平1丁目)に転居。いわゆる「ナメクジ長屋」。


1934年(昭和9年) 9月 - 7代目金原亭馬生を襲名。


1936年(昭和11年)2月26日 - 浅草区浅草永住町(現在の台東区元浅草)に転居。


1937年(昭和12年)8月 - 本郷区駒込神明町338(現在の文京区本駒込)に転居。


1938年(昭和13年)3月10日 - 次男・強次誕生(戸籍上は3月11日)。


1939年(昭和14年)3月 - 5代目古今亭志ん生を襲名。


1943年(昭和18年)8月 - 長男・清が入門。


1945年(昭和20年)
  ・4月13日 - 空襲で罹災。本郷区駒込動坂町327(現在の文京区千駄木)に転居。

  ・5月6日 - 満州に慰問に出るがそのまま終戦を迎えて帰国できず、およそ1年8か月を現地で過ごす。


1947年(昭和22年)1月27日 - 満州から帰宅。


1951年(昭和26年)11月 - 日暮里町9丁目1114(現在の荒川区西日暮里3丁目)に転居。


1953年(昭和28年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を結ぶ。


1954年(昭和29年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を解除し、ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。


1956年(昭和31年)
  ・6月 - 『なめくじ艦隊』発行。

  ・12月 - 芸術祭賞受賞。演目は「お直し」。


1957年(昭和32年)
  ・2月 - 落語協会の会長に就任。戦後4人目の会長。

  ・4月 - 次男・強次入門。


1961年(昭和36年)12月15日 - 脳出血で倒れて入院する。


1962年(昭和37年)
  ・3月1日 - 退院。以降、自宅で療養する。

  ・11月11日 - 新宿末廣亭で高座復帰。


1963年(昭和38年)7月 - 落語協会の会長を辞任する。


1964年(昭和39年)
  ・4月 - 『びんぼう自慢』発行。

  ・11月 - 紫綬褒章受章。


1967年(昭和42年) - 妻・りん脳出血で倒れる。勲四等瑞宝章受章。


1968年(昭和43年)10月9日 - 精選落語会に出演。これが最後の高座となる。


1971年(昭和46年)12月9日 - 妻・りん逝去。


1973年(昭和48年)9月21日 - 逝去。

詳しいことは、「五代目・古今亭志ん生ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E7%94%9F_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

2950  五代目・古今亭志ん生

五代目・古今亭志ん生

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斉藤家歴代の墓の中に、齋藤玄昌 ( 玄正 ) の墓は有ったのですが 何代目なのかは判別不可でした。


〇 名医 齋藤玄昌
齋藤玄昌は文化 6年 ( 1809 )、梁田郡羽苅村に壬生藩医・齋藤玄正を父に生まれ、天保 5年 ( 1834 )、父と同じ壬生藩の藩医となり、蘭方医として活躍した人物である。


諱を知柔、通称を玄昌 ( 玄正 )、号を一瓢と称し、私塾を開き、門人の育成に当たった。


明治 4年 ( 1871 ) に、明治維新の動揺が収まらないとき、私学校の経営を企画したが、それを果たさぬまま翌 5年に 64歳で亡くなった。墓は壬生町常楽寺にある。


父が初代・玄正を名乗ったことから、知柔は二代目・玄昌と呼ぶ。


玄昌の跡は門人・佐久間玄悦が養子となって継いで、三代目・元昌を名乗った。


〇 二宮尊徳への診療

二宮尊徳 ( 1787 ~ 1855 ) は、報徳仕法という独自の方法によって、農村復興事業に取り組んだ農政家である。


安政 2年 ( 1854 )、真岡の東郷から今市報徳役所に移った尊徳は殆ど病床に臥し、翌 3年になると病状は一進一退をくり返し、当代の名医がつぎつぎと駆けつけて治療に当たった。


その一人が壬生藩医の齋藤玄昌である。


玄昌は何度も来診した。


帰ったその日に迎えに行くという状況で、片道九里、一日行程の地から玄昌は不便を押して往来した。


10月に入り病状は重くなり 20日、家族や門人に見守られながら息を引き取った。遺体は如来寺境内に葬られた。


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鳥居氏(とりいし)は、日本の氏族の一つである。

鳥居氏(徳川氏家臣)
出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。


室町時代
において三河で勢力を伸ばした松平氏徳川氏)に仕えるようになった。戦国時代では鳥居伊賀忠吉彦右衛門元忠の父子が著名である。


忠吉は今川氏の傘下において、主のない岡崎城で松平党を崩壊させずに保ち続けた。駿府で身柄を預けられている幼主・竹千代には、子息・元忠を付随させた。


その元忠は、家康より3歳年長ということもあり、家康の生涯にあった大小あらゆる合戦に参戦した。その集大成は関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる伏見城の戦いである。800人の兵で石田三成率いる数万の大軍と渡り合い、深溝松平家忠らと供に戦死した元忠は、のちに「三河武士の鑑」と称えられた。


徳川政権下では、元忠の子・左京亮忠政土佐守成次などが大名旗本となっている。鳥居宗家(左京亮家)は最大で24万石の大身となるが、元忠の孫・左京亮忠恒の代で無嗣断絶となった。しかし、元忠の功績に鑑みた公儀の計らいにより、忠恒の異母弟・主膳正忠春が減石ではあったが、改めて大名に認められた。


幕末
には、庶流の旗本家から鳥居耀蔵大給松平氏出身、林述斎の子)が出て、目付南町奉行を務めたが、天保の改革での厳しい取り締まりや捜査手法などから名の耀蔵(ようぞう)から「よう」・官位の甲斐守(かいのかみ)から「かい」を取り「ようかい(妖怪)」と蔑まれた。


現在、鳥居宗家は壬生に存在する。また、下野国であった栃木県内に散らばる多くの鳥居姓は、この鳥居氏の末裔たちである。愛知県岡崎市には鳥居氏発祥地の碑がある。


壬生藩鳥居氏の側近には斎藤氏森田氏井山氏佐々木氏の4氏がいた。その4氏の中でも、森田氏は鳥居家武芸教授指南役方、井山氏・佐々木氏は壬生城護衛方、斎藤氏は鳥居家台所役を預かる忠実な部下だったとの話がある。



鳥居氏が治めた藩の変遷
1590年 - 1600年 - 下総矢作藩(4万石)

1600年 - 1622年 - 陸奥磐城平藩(10万石)

1622年 - 1636年 - 出羽山形藩(22万石のち24万石。断絶)

1636年 - 1689年 - 信濃高遠藩(3万2000石。再興)

1689年 - 1695年 - 能登下村藩(1万石)

1695年 - 1712年 - 近江水口藩(2万石)

1712年 - 1871年 - 下野壬生藩(3万石)

支族
・1600年 - 1632年 - 甲斐谷村藩(1万8000石のち3万5000石。改易)
(wikiより)


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尾形乾山 ( 尾形光琳の弟 ) の碑があり

ふくろ鳴く壬生のうら山時雨きて、みのきるむれの立ち騒ぐ見ゆ

と刻されています。


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佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。


後に江戸藩邸留守居役などの重職を勤め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わっている。


53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。


森鴎外の師としても知られ『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。


向島の隅田川の土手を臨む須崎村 142 ( 向島 5丁目、言問小学校あたり ) に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている ( 実際は妾宅で、漢文の直しを乞いに訪ねた若い鴎外は気づかなかった )。


鴎外が 15歳の頃の出会いだが、その後も 2人の興隆は続き、鴎外のドイツ留学に際しては、『送森軍医遊伯林序』という僧別の漢詩を贈っている。


向島百花園にもよく足を運び、明治 15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。


同書は永井荷風著「墨東綺譚」の主人公が持って歩いていたことでも知られている。


また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海目録』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。
(案内板より)

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南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日明治2年10月10日) - 1946年(昭和21年)2月8日)は、日本の官僚政治家

経歴
後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校富山中学校第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。


その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。高岡市長を二期務めた南慎一郎は義弟[1]


官僚としては、内閣書記官を皮切りに主として内務省畑の諸職を歴任した。累進して1908年(明治41年)に第1次西園寺内閣内閣書記官長を務めたのち、1912年(大正元年)12月5日には貴族院議員勅選され[2]、その後、翌1913年(大正2年)には福岡県知事1918年(大正7年)には文部次官に、1932年(昭和7年)には第15代台湾総督に任ぜられた。


総督就任2ヶ月後の1932年5月五・一五事件の直後成立した斎藤実内閣の逓信大臣に任じられ、富山県出身者としては初の大臣となった(在任期間2年2ヶ月)。就任直後の同年7月、富山県にお国入りし、母校である仏生寺小学校で祝賀会が開かれた。彼は、そのときの感動を次のように書き残している。

「村人は余が母校である小学校に集つて祝賀会を開いてくれた。此会ほど余が嬉しく感じたものは他に多くはない。一杯の酒は醍醐の法味、一臠の肉は大牢の滋味あるかの如く思はれた。集つた村人の中に小学校時代の同級生がたつた一人雑つて居た。互いに手を握つたまま少時言葉も出なかつた。」(『南弘先生 その人と業績』117ページより引用)

8月1日に訪れた高岡高等商業学校では、鈴木弼校長による歓迎挨拶の「学校設立の産婆役」に対して「生みの親」と答えている[3]。高等商業学校設置が決定された当時の文部次官が南弘で、南家が学校近傍であることから、学校の位置並びにその設立に公私ともに尽力したとされている[4]


逓信大臣退任後、1934年(昭和9年)には国語審議会会長[5]1936年(昭和11年)には枢密顧問官に任じられた。国語審議会会長としては、それまでの国語が文語体やいわゆる旧仮名づかいを中心とし、漢字が多用されていたことなど学習が困難であるという認識から、その簡素化に尽力した。また枢密顧問官としては、大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関である枢密院の議事において、当時勢力を伸ばし始めていたいわゆる軍国主義に対して批判的な発言をしたため、軍部にけむたがれたといわれている。終戦後もその任を務めていたが、1946年(昭和21年)2月8日、会議中に炭火による一酸化炭素中毒で亡くなった。享年78。

人物
学問をよくし、特に漢詩の素養は高く、青園と号して「青園詩草」という漢詩集を残した。1937年(昭和12年)、内務省から保健・衛生部門等を独立させた新たな省を設立することとなり、その省名を検討していた際、中国の古典「書経」の「正徳利用厚生惟和」の一節から引用した「厚生省」の名を推薦して採用されており、「厚生省の名付け親」とも呼ばれている(同省は翌年発足)。 幕末の剣豪として著名な斎藤弥九郎は、南と同じく射水郡仏生寺村の出身で、斎藤の生家は、南の生家である岩間家と約2km離れた位置関係にある。年齢差は約70歳あるが、南は、同郷の斎藤を尊敬し、氏の伝記である「幕末偉人斎藤弥九郎伝」(大坪武門著)が出版されるにあたり、その序文を寄稿している。 森鷗外とも親しく、馬場久治が聞いた思い出の談話は魅力があり『森鴎外伝』の「大いなる原動力となった」[6]としている。

栄典
位階
1898年(明治31年)4月30日 - 従七位[7][8]

1899年(明治32年)5月20日 - 正七位[7][9]

1901年(明治34年)6月10日 - 従六位[7][10]

1903年(明治36年)7月31日 - 正六位[7][11]

1906年(明治39年)2月10日 - 従五位[7][12]

1908年(明治41年)

  ・2月21日 - 正五位[7][13]

  ・7月30日 - 従四位[7][14]

1921年(大正10年)7月29日 - 正四位[7]

1932年(昭和7年)6月1日 - 従三位[7]

1934年(昭和9年)6月15日 - 正三位[7][15]

1942年(昭和16年)12月15日 - 従二位[7][16]

1947年(昭和21年)2月8日 - 正二位[7][17]

勲章等
1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等双光旭日章明治三十七八年従軍記章[7][18]

1912年(大正元年)

  ・8月1日 - 韓国併合記念章[7]

  ・12月18日 - 勲四等瑞宝章[7][19]

1914年(大正3年)3月24日 - 勲三等旭日中綬章[7]

1915年(大正4年)11月11日 - 大礼記念章(大正)[7]

1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[7][20]

1919年(大正8年)5月24日 - 旭日重光章[7]

1921年(大正10年)

  ・3月23日 - 金杯一組[7]

  ・7月1日 - 第一回国勢調査記念章[21]

1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)金杯一個[7]

1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[7]

1932年(昭和7年)4月13日 - 勲一等瑞宝章[7][22]

1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日大綬章昭和六年乃至九年事変従軍記章[7]

1940年(昭和15年)

  ・4月29日 - 銀杯一組[7]

  ・8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7][23]

1947年(昭和21年)2月8日 - 旭日桐花大綬章[7][24]

外国勲章等佩用允許
1907年(明治40年)7月1日 - 大韓帝国勲三等八卦章[7]

1934年(昭和9年)

  ・3月1日 - 満州帝国大満洲国建国功労章[7]

  ・5月9日 - 満州帝国勲一位龍光大綬章[7]

1935年(昭和10年)9月21日 - 満州帝国満州帝国皇帝訪日記念章[7]

1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国建国神廟創建記念章[7]

脚注
1. 南弘先生顕彰会『南弘先生人と業績』(続)、1980年、p.49。
2. 『官報』第106号、大正元年12月6日。
3. 『富山大学経済学部五十年史』(1978年5月)p520
4. 同上p9
5. 1934年12月22日発令。『官報』第2395号、昭和9年12月24日。
6. 馬場久治『森鴎外伝』413頁
7. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 南弘」 アジア歴史資料センター Ref.A06051183800 
8. 『官報』第4448号「叙任及辞令」明治31年5月2日。
9. 『官報』第4764号「叙任及辞令」明治32年5月22日。
10. 『官報』第5380号「叙任及辞令」明治34年6月11日。
11. 『官報』第6025号「叙任及辞令」明治36年8月1日。
12. 『官報』第6783号「叙任及辞令」明治39年2月12日。
13. 『官報』第7394号「叙任及辞令」明治41年2月22日。
14. 『官報』第7529号「叙任及辞令」明治41年7月31日。
15. 『官報』第2241号「叙任及辞令」昭和9年6月22日。
16. 『官報』第4572号「叙任及辞令」昭和16年4月9日。
17. 『官報』第5726号「叙任及辞令」1946年2月16日。
18. 『官報』第7578号・付録「辞令」明治41年9月28日。
19. 『官報』第124号「叙任及辞令」大正元年12月27日。
20. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
21. 『官報』第2858号・付録「辞令」大正11年2月14日。
22. 『官報』第1585号「叙任及辞令」1932年4月14日。
23. 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
24. 『官報』第5726号「叙任及辞令」1946年2月16日。
(wikiより)

2929  南 弘

南 弘

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坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙1859年6月22日安政6年5月22日) - 1935年昭和10年)2月28日)は、日本小説家評論家翻訳家劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。

生涯
尾張藩領であった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)で、江戸幕末期に生まれた。父は尾張藩士で太田代官所手代を務めており、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻った。父から漢学書類を読まされた他に、母の影響を受け、11歳頃から貸本屋に通い読本草双紙などの江戸戯作俳諧和歌に親しみ、ことに滝沢馬琴に心酔した[2]


愛知外国語学校
(現・愛知県立旭丘高等学校)から1876年(明治9年)、東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、東京大学文学部政治科を1883年(明治16年)に卒業し文学士となる。在学中は西洋文学を学び、詩人の作品の他、同級の親友・高田早苗の勧めで西洋小説も広く読むようになった。1880年(明治13年)にウォルター・スコット『ランマームーアの花嫁』の翻訳『春風情話』(橘顕三名義)を刊行。また高田や、市島春城、小田一郎、石渡敏一などと神保町の天ぷら屋に通ったが、この時の経験が『当世書生気質』の題材になった。


その後、高田早苗に協力して、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となっている。1884年(明治17年)にウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳『泰西活劇 春窓綺話』(共訳、服部誠一名義)、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版。


1885年
(明治18年)に評論『小説神髄』を発表。小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。またその理論を実践すべく小説『当世書生気質』(「春のやおぼろ先生」名義)を著した。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。当時書生であった矢崎嵯峨の屋の作品を春の屋主人補助の名で出版されることもあった。


1889年
(明治22年)に徳富蘇峰の依頼で『国民之友』に「細君」を発表して後は小説執筆を断ち、1890年(明治23年)からシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。1891年(明治24年)、雑誌『早稲田文学』を創刊する。1897年(明治30年)前後に戯曲として新歌舞伎桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』などを書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。1906年(明治39年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。1913年大正2年)以降にも戯曲『役の行者』『名残の星月夜』『法難』などを執筆する。


『役の行者』は1913年に完成し、出版する予定となっていたが、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、作中の行者、その弟子の広足、女魔神の関係が、逍遥・抱月・須磨子の関係を彷彿させると考えて急遽、出版を中止した。1916年にこの改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表し、翌年『役の行者』の題で出版した。続いて1922年に再改訂作『行者と女魔』を発表。初演は1924年に、初稿によって、築地小劇場で最初の創作劇として上演され、高い世評を得た。その後も初稿および改訂版により上演が行われている。また同じ題材で、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』を1932年(昭和7年)に発表した。1920年には『役の行者』は吉江喬松によって「レルミット」(l'Ermite) の題でフランス語訳されて出版、詩人アンリィ・ド・レニュらによって賞賛を得た[3]


また、1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。


晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、訪ねて来るのは河竹繁俊くらいであったという[4]。町立熱海図書館(現・熱海市立図書館)の設置に協力しており、この図書館は「逍遥先生記念町立熱海図書館」「逍遙先生記念市立熱海図書館」を名乗っていた時期もあった(1936年7月より1944年8月まで)[5]。最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去した。


1935年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去。享年77。戒名は双柿院始終逍遙居士[6]

家族・親族妻
センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。2人には子がなく、逍遙は兄・義衛の三男・士行を7歳のときに養子に迎えたが、後年士行の女性問題が原因で養子縁組を解消している。また写真家・能笛家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女・くにを6歳の時に養女に迎えている。このくにの回想記『父逍遥の背中』(小西聖一編、中央公論社 1994年、中公文庫 1997年)には晩年の逍遥の様子が詳しく綴られている。甥の坪内鋭雄も早稲田大学を卒業後に作家となったが、日露戦争で戦死した。

主な作品
評論
・『小説神髄』1885年(明治18年)

小説
・『一読三嘆 当世書生気質』1885年(明治18年)

・『未来の夢』1888年

・『妹と背鏡』1889年

・『細君』1889年(明治22年)

戯曲
・『桐一葉』1894年(明治27年)

・『牧の方』1896年(明治29年)

・『役の行者』1916年(大正5年)

楽劇
・『新曲浦島』1904年(明治37年)

研究
・『シェークスピア研究栞』(『沙翁全集』40巻)1928年(昭和3年)

・『イプセン研究』(河竹繁俊編)1948年(昭和23年)

翻訳
・シェイクスピア全集の翻訳[7]

  ・『沙翁全集』全40冊、第一編(1909年(明治42年)12月)のみ冨山房と早稲田大学出版部との共同出版、第二編以降は早稲田大学出版部の単独出版。第40編は著述で『シェークスピア研究栞』(1928年(昭和3年)12月刊行)当初第23編迄は『沙翁傑作集』といい、第24編より『沙翁全集』と改称、以後最初の分も『沙翁全集』と改称している。


  ・『新修シェークスピア全集』全20函(全40冊、1函に2冊収納)中央公論社。上記早大出版部本の改訂であるが『オセロー』などはほとんど新稿といえるほど面目を新たにしている。(1933年(昭和8年)9月より1935年(昭和10年)5月迄配本)以後この版を底本として戦後に創元社(全1冊)、新樹社(分冊)等から新版が出されている。中央公論社版は誤植が目立ち、付録月報の『沙翁復興』には正誤表が掲載されている号がある。

書簡集
・逍遙新集『坪内逍遙書簡集』全6巻、早稲田大学出版部、2013年(平成25年)、ISBN 9784657138002

作品集
・『逍遙選集』全12巻、別冊3巻、春陽堂、1926年(昭和2年)-1927年(昭和3年) 編集者は無記名であるが坪内逍遙自選。明治24年以前の著作は旧悪全書だとして収録しない方針であったが、出版社などの要求により別冊として収録。


・『逍遙選集』全12巻、別冊5巻、第一書房、1977年(昭和52年)-1978年(昭和53年) 春陽堂版の復刊であると同時にそれに漏れた著作を別冊4巻、5巻に収録。事実上の全集。

脚注
1. 東京専門学校時代の学生 – 早稲田ウィークリー
2. 坪内逍遥「新旧過渡期の回想」(『早稲田文学』1925年3月号、『明治文学回想集(上)』岩波書店 1998年)
3. 河竹繁俊「解説」(『役の行者』岩波書店 1952年)
4. 2010年5月連載『私の履歴書』河竹登志夫
5. 熱海市立図書館 100年のあゆみ 第2回『逍遥先生記念町立熱海図書館』の開館」広報あたみ, 2015年5月号, p. 14
6. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)211頁
7. 夏目漱石は逍遙の「ハムレット」翻訳劇上演(1911年)を観て「沙翁劇は其劇の根本性質として、日本語の翻訳を許さぬものである」「博士はたゞ忠実なる 沙翁の翻訳者として任ずる代わりに、公演を断念するか、又は公演を遂行するために、不忠実なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた」と厳しく批判した。理由は「沙翁は詩人である、詩人の言葉は常識以上の天地を駆け回つてゐる」 「要するに沙翁劇のセリフは能とか謡とかの様な別格の音調によつて初めて、興味を支持されべきであると極めて懸らなければならない」(「坪内博士と『ハムレツト』」『漱石全集第16巻』岩波書店所収)。

参考文献
河竹繁俊柳田泉 『坪内逍遙』 冨山房、1939年

坪内士行 『坪内逍遙研究』 早稲田大学出版部、1953年

中村光夫 『日本の近代小説』 岩波書店、1954年

関連項目
日本の近現代文学史

イギリス文学

坪内逍遙大賞

早稲田大学坪内逍遙大賞

河竹黙阿弥

新舞踊

大野屋惣八

野口英世 - 『当世書生気質』を読んだのをきっかけに「英世」と改名する

外部リンク
坪内逍遥 | 近代日本人の肖像

財団法人 逍遥協会 - ウェイバックマシン(2013年10月26日アーカイブ分)

早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館

坪内逍遙 | 新潟市會津八一記念館

坪内 逍遥:作家別作品リスト - 青空文庫

著者・編者「坪内逍遥」の検索結果国立国会図書館デジタルコレクション

物語倶楽部インターネットアーカイブ

  ・ロミオとヂュリエット

  ・ヱ゛ニスの商人

  ・ヂュリヤス・シーザー

  ・お氣に召すまゝ

  ・十二夜

  ・ハムレット

  ・末よければ總てよし

  ・オセロー

  ・リヤ王

  ・マクベス
(wikiより)

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坪内逍遥

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谷 素外(たに そがい、1733年享保18年) - 1823年文政6年))は、江戸時代俳人談林派七世。号は一陽井

人物
1733年(享保18年)大坂の商家に生まれ、壮年のころ江戸に下り、神田お玉ヶ池に住居した[1]。俳諧は当初建部綾足(俳号涼袋)門だったが、後に江戸談林派小菅蒼孤につき、一陽井素外と号した[1]。師亡き後に江戸談林七世と称し、西山宗因に始まる談林俳諧の興隆に尽力した[1]中村仏庵山本北山沢田東江加藤千蔭柳亭種彦など、多くの江戸文人と交友があり、門弟には大名や浮世絵師も名を列ねた[1]。1806年(文化6年)、娘の素塵を点者に立てて、自身は著述に没頭した[1]。1823年(文政6年)2月8日没、享年91歳[1]


台東区慶養寺にその墓が残っている[2]東京都品川区利田神社に残る鯨塚には「江戸に鳴る、冥加やたかし、なつ鯨」という素外の句が刻まれている[3]


酒井藤吉日本浮世絵博物館旧館長)は、東洲斎写楽の正体の一人とする説を提出している[4]が、この説は後に中野三敏の研究[5]などによって否定された。

脚注
1. a b c d e f 谷素外寿碑 台東区ホームページ ”. www.city.taito.lg.jp. 2020年5月26日閲覧。
2. 谷素外墓碑 台東区ホームページ ”. www.city.taito.lg.jp. 2020年5月26日閲覧。
3. 利田神社・鯨塚” (日本語). しながわ観光協会 (2018年3月12日). 2020年5月26日閲覧。
4. 『"写楽"実は俳人"谷素外"』(『読売新聞昭和44年10月16日号)
5. 中野三敏 『写楽 江戸人としての実像』 中央公論新社、2017年2月。 

関連項目
算法少女 (小説) - 主要な登場人物の一人とされている。
(wikiより)

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風さむき

    ゆうべのそらの

            春雨に
 
               まだこゑほそき

                       かはづなく也

  伊能穎則

伊能穎則 ( いのう - ひでのり )
( 1805 - 1877 )

江戸後期 - 明治時代の国学者。
文化 2年 10月生まれ。

神山魚貫 ( なつら ) 小山田与清 ( ともきよ ) らに学ぶ。

嘉永 ( かえい ) 元年生地・下総 ( しもうさ ) 佐原 ( 千葉県 ) での呉服商をやめ江戸で開塾。小中原清矩 ( きよのり ) らに教えた。

明治 2年大学大助教。のち香取 ( かとり ) 神宮少宮司 ( ぐうじ )、権少教正( ごんのしょうきょうせい )。

明治 10年 7月 11日死去。73歳没。

通称は三右衛門。号は梅宇。

著作に「日本史類名称訓」など。

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天保年間 ( 1840 ) 吉原大門の側で厄除けのため白い豕「たぶん猪らしい」を飼育していたのを、死後この寺に葬ったそうです。


以来、この寺は、安政、関東の大震災、東京空襲の猛火を免れたと信じ人もいるそうです。


この豕塚には猪の絵が彫ってあり「火伏せの豕」と称される。

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白井権八に返り討ちに遭った本庄兄弟の弟・助八も兄・助七の首を洗うところを無惨にも権八のために討ち果された。


二人の霊を慰めんと首塚が建てられている。

歌舞伎の題材にもなっています。

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萩原秋巌 ( はぎわら - しゅうがん ) 
( 1803 - 1877 )

江戸時代後期の書家。

享和 3年生まれ。


巻菱湖 ( まき - りょうこ ) の高弟で、一派をなす。


宋 ( そう )( 中国 ) の徽宗 ( きそう ) の書体痩金書をこのんだ。


明治 10年 2月 19日死去。75歳没。


名は翬。字 ( あざな ) は文侯。通称は唯助、自然。別号に古梁漁史など。

編著に「墨苑異纂 ( ぼくえんいさん )」。


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暖を 

 ふり敷く物の 

        朧月


式部については不祥です。

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乾山窯元之碑は入谷鬼子母神 ( 真源寺 ) 側の交差点一郭にあります。


隣には、「入谷朝顔発祥之碑」があります。


琳派の創始者の画家・尾形光琳の弟で作陶が有名な尾形乾山が入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
(案内板より)

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跡見 花蹊(あとみ かけい、1840年5月10日天保11年4月9日) - 1926年大正15年)1月10日)は、日本教育者日本画家書家学校法人跡見学園の創設者。浦和画家跡見泰

人物・概要
摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。本名は滝野。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。


17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。その後1859年(安政6年)に大坂に戻り、父が大坂・中之島(現在の大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。


その後1866年(慶応2年)に京都に移って私塾を開く。1870年(明治3年)には京都の私塾を閉じて上京し、東京神田猿楽町で私塾を開く。次いで明治8年(1875年)には東京・神田中猿楽町(現在の東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。この跡見女学校が、現在の跡見学園のルーツとなっている。


幕末
明治維新の混沌を目の当たりにしたことで女子教育の重要性を認識したことが、跡見の教育方針の原点となっている。跡見女学校では古来の文化や風俗を重視し、漢学書道茶道体操などを導入し、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。


1871年
(明治4年)3月8日、外務省から清国向けの画帖を依頼される。この作品は現在、台北の国立故宮博物院に『故画 清花蹊女子冊頁』として所蔵されている。故画とあることから、当時の清国皇帝同治帝に献上されたものと考えられ、日清修好条規を締結する際に、日本国から清国皇帝に献上されたものの一つとされた可能性が高いとされる[1]


1887年
(明治20年)3月9日、『東京日日新聞』に花蹊訃報の誤った記事が掲載され、お悔やみを述べる使者が次々と訪れ、お供え用の花、菓子、香典まで届く事態となる。そのようななかでも花蹊は、いつもどおりに授業を行い、数日後には、跡見女学校の転居地として小石川柳町の土地を決める[2]。このエピソードは教育者としての花蹊の熱意を物語るものといえよう。


また教育者としてだけでなく、日本画家書家としても活躍した。明治5年(1872年)と26年(1893年)御前揮毫の栄誉を賜り、学校経営者としてのみならず画家としても著名だった。従妹の跡見玉枝も日本画家で、の絵を良くしたことで知られる。書家としても「跡見流」といわれる書風を築き上げた。


万里小路通房
の娘・李子を養女にし、跡見女学校の二代目校長とした。

参考資料
・展覧会図録 『江戸文化シリーズ11回 江戸の閨秀画家』 板橋区立美術館、1991年

蒲生重章「花蹊女史傳」:『近世偉人傳・初編』(明治10年)より

関連項目
学校法人跡見学園

跡見学園女子大学

跡見学園女子大学短期大学部

跡見学園中学校・高等学校

日根対山

脚注
1. 『跡見花蹊』(ミネルヴァ書房、2018年)102~104頁
2. 『跡見花蹊』(ミネルヴァ書房、2018年)139~141頁

外部リンク
学祖・跡見花蹊 学校法人跡見学園

跡見花蹊日記 岩田秀行らによる花蹊の日記の公開
(wikiより)

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跡見花蹊

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小室 信夫(こむろ しのぶ、天保10年9月30日[1][注 1]1839年11月5日) - 明治31年(1898年6月5日[2])は、日本貴族院勅選議員。実業家。初名は利喜蔵信太夫、号は訒葊。官位は従五位[3]


三井同族会理事を務めた小室三吉は次男[4]。自由民権運動活動家の小室信介は娘婿である。

経歴
丹後国与謝郡岩滝村(現在の京都府与謝郡与謝野町)に、絹商家の次男として生まれる。京都倒幕運動に参加し、足利三代木像梟首事件文久3年2月22日(1863年4月9日))に加わった。その結果、幕府に追われ、中島錫胤[注 2]とともに徳島に逃れ、豪商志摩利右衛門[5]徳島佐古大安寺近くの別邸に匿われるが捕えられ[6]慶応4年(1868年)2月まで徳島塀裏の獄中にあった[7]


戊辰戦争
が始まった1868年慶応4年)2月に釈放され、徳島藩士小姓に取り立てられた。


徴士として明治新政府に出仕、権弁事に任じられ、さらに岩鼻県知事に転じた。1870年(明治3年)に徳島藩で庚午事変(稲田騒動)が発生すると、政府より徳島藩大参事として派遣された。廃藩置県後は少議官、三等議官を歴任し、さらにヨーロッパ諸国へ派遣され、主に政治調査にあたった。 しかし、途中で退任し、自費留学に切り替えてイギリスで鉄道と産業の発展について研究した。 1874年(明治7年)、イギリスで政治研究をしていた古澤迂郎(後の古澤滋)を伴い帰国、後藤象二郎板垣退助副島種臣江藤新平らに民撰議院設立建白書の提出を説いて、古沢滋とともに起草にあたった。その後、大久保利通木戸孝允・板垣退助の間を取り持ち、大阪会議を斡旋した。


その後、実業界に転じ、奥羽鉄道、小倉製紙所、第八十九国立銀行、第百三十国立銀行、北海道製麻、東京製薬、京都鉄道の設立に関わった。1882年(明治15年)には品川弥二郎農商務大輔とともに共同運輸会社(後の日本郵船)を創設した。


1891年(明治24年)には貴族院議員に勅選された。 京都の平安神宮の建立にともない一対の手洗い場を寄進している。

脚注
注釈
1. 『百官履歴 下巻』(修史局編、日本史籍協会、1928年、P.519)では天保10年正月生まれとなっている。
2. 
 蜂須賀家家老稲田家の家臣。

出典
1. 『小室訒葊翁父子小伝』
2. 『官報』第4481号、明治31年6月9日。
3. 従五位小室信夫叙勲ノ件アジア歴史資料センター 明治30年5月28日)
4. 日本人名大辞典
5. 志摩利右衛門”. 徳島幕末維新期人名事典. 徳島県立文書館. 2018年1月11日閲覧。
6. 中島錫胤”. 徳島幕末維新期人名事典. 徳島県立文書館. 2014年3月11日閲覧。
7. 岡本由喜三郎 (1916年). “『贈従五位志摩利右衛門』第二章 勤王の事蹟”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2018年1月11日閲覧。   

関連項目
蜂須賀茂韶 - 徳島藩主。小室信夫を徳島藩士に取り立てた。

参考文献
山田立夫編『小室訒葊翁父子小伝』私家版、1924年。

・岡本由喜三郎 (1916年). “『贈従五位志摩利右衛門』第二章 勤王の事蹟”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2018年1月11日閲覧。
(wikiより)

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大上戸清隆 / 清恵波清隆 ( きよえなみ - きよたか ) / 清恵波一綱     
大正 12年 6月 24日 ~ 平成 18年 4月 25日 ( 1923 - 2006 )

関取。

本名、川端清隆のち大上戸清隆。

サハリンにて生まれ、石川県鳳至郡穴水町出身。

双葉山に推挙され立浪部屋に入門。

四股名・清恵波清隆のち清恵波一綱 ( かずつな )。

昭和 24年 ( 1949 ) 1月入幕。

8代中川の婿養子となる。最高位は前頭 2枚目。

昭和 35年 ( 1960 ) 1月引退。幕内在位、36場所。幕内成績、237勝 295敗。

9代中川を襲名し、昭和 40年 ( 1965 ) に中川部屋を開いたが、弟子に恵まれず部屋を閉じる。

監事・監察副委員長から警備担当となる。

昭和 63年 ( 1988 ) 6月 1日定年で辞す。不整脈で没する。82歳没。「大乗院釈紹隆」。

正面「南無阿弥陀仏」。台石「大上戸家」。

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東京大学医学部納骨堂    
東京大学医学部による献体者の墓。

この場所は、明治 8年 ( 1875 ) まで、現在天王寺境内にある大仏様があった所で、納骨堂の基壇は、旧大仏のものをそのまま使用している。

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菊池泰二 ( きくち - たいじ )     
明治 26年 ~ 大正 10年 ( 1893 - 1921 )

理学者・男爵。

父、菊池大麓。

逓信省電気試験所から理化学研究所に勤務。

大正 6年 ( 1917 ) 兄・箕作奎吾 ( 長男 ) が夭折のため、父・大麓の死去にともない家督および爵位を相続。

大正 8年 ( 1919 ) 理化学研究所より英国ケンブリッジの聖ジューン・カレッジに在学。

理化学研究中に没する。23歳没。

正面「菊池家累世之墓」。

父、箕作秋坪墓に並ぶ。墓碑に没年記載なし。

建立は大正 7年 ( 1918 )。墓誌は、本人以外は名前だけ。

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大橋陶庵 ( おおはし - とうあん )     
天保 8年 9月 10日 ~ 明治 15年 8月 6日 ( 1837 - 1882 )

儒家・詩人・文学者。

名、正燾 ( まさてる )。字、仲載。本姓、河田。通称、燾次 ( てるじ )。号、陶庵。

父、幕臣・河田興 ( 河田抽斎 )( 二男 )。

佐藤一斎の孫。

のち、大橋訥庵の長女・誠と縁組して養子となる。

栃木出身。

詩書を能くし、家塾を開いて子弟を教育する。

勤王家で、熱烈な尊王攘夷論者である養父・大橋訥庵が企てた、水戸藩浪士が老中・安藤信正を襲撃した「坂下門の変」に連座し幽獄される。

維新後大学教授となる。のち、家塾を開く。46歳没。

子に、東海銀行頭取の菊池長四郎がいる。

4男は、大橋正僴 ( 菊池修軒 : 菊池静軒仲盛の養子で 2代目・永之助 : 明治 39年 8月 26日没 : 35歳没 : 龍谷寺墓地 )

正面「陶庵大橋君之墓」。

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〇 『有子のしらべ』
藩士が登城する辰の刻 ( 午前 8時 ) を告げるため太鼓を打ち鳴らしていたのにちなんで現在では、午前 8時・午後 1時に太鼓が、夕方には梵鐘がなります。

山頂に城が築かれていた " 有子山 " の名前をとって、これを『有子のしらべ』と呼んでいます。


〇 辰鼓楼
出石のシンボル辰鼓楼 ( しんころう ) は辰 ( とき = 時 ) を告げた鼓楼で明治以降は時計台、往時はやや南寄りに大手門がありました。
(案内板より)


〇 辰鼓楼
辰鼓楼
(しんころう)は、兵庫県豊岡市出石の出石総合支所敷地(旧出石町役場、旧弘道小学校敷地)にある明治時代初期の時計台豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物である。

辰鼓楼のなりたち
辰鼓楼の楼閣本体は1871年明治4年)に完成され、辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であった。旧藩医蘭方医池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをした。忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈した。これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台となった。以後、弘道小学校では機械式時計の錘(おもり)を掛け替えるのが児童の大事な役割となった。現在は時計本体は入れ替えられている。


平成29年
5月から10月まで修復工事が行われた[1][2][3][4][5]。この間、内部見学会なども開催された。

日本最古の時計台
辰鼓楼は日本最古時計台とされることが多いが、時計台となったのは1881年(明治14年)であり、1878年(明治11年)完成の札幌農学校演武場に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも1881年である。いずれが古いかははっきりしない。しかし、建物から独立した洋式時計台、一般市民が時刻を共有するための洋式時計台、国以外が設置した洋式時計台としてはこれより古いものは知られていない。

交通アクセス
山陰本線京都丹後鉄道豊岡駅もしくは山陰本線八鹿駅から全但バス「出石」行きで約30分、終点下車。徒歩5分。

周辺情報
豊岡市出石伝統的建造物群保存地区

  ・出石城跡

  ・出石家老屋敷

  ・伊藤清永美術館

脚注
1. 90年ぶり大修理 「保存過程も見て」 来月から4回、内部公開 /兵庫
2. 出石の時計台「辰鼓楼」、平成の大修理へ 29日から外壁張り替え 兵庫
3. 大修理中の豊岡・出石「辰鼓楼」の内部公開 見学会に60人
4. 時計台「辰鼓楼」90年ぶり大修理へ 豊岡・出石
5. おかえり出石の象徴 修理が完了 観光客増へ期待 /兵庫
(wikiより)


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若柳 壽童、または寿童(わかやぎ じゅどう)は、日本舞踊若柳流名跡の一つである。若柳流の流祖である初世宗家若柳吉松が1905年(明治38年)に名乗った名前に由来する。

初世

初世壽童(1845年7月27日弘化2年6月23日) - 1917年7月22日)は、本名は若林勇吉(わかばやし ゆうきち)と言い、12歳で花柳流初世花柳壽輔の弟子となり、15歳で壽輔の幼名である芳松の名を与えられ花柳芳松(はなやぎ よしまつ)となる。壽輔と共同で多くの振付に携わり、また3代目花柳芳次郎と共に中村座の振付を担うなど花柳流の高弟に数えられていたが、壽輔との間で意見の相違が生じ1893年に破門される。その後若柳吉松(わかやぎ きちまつ)と改名し若柳流を創流すると、舞台の振付から離れ花柳界に勢力を求め、柳橋花街を中心に地盤を築いた。1905年に、還暦を機にで壽童と改名した。


墓所は谷中霊園。かつては浅草妙音寺にあったが戦争の空襲で焼失。戒名は「園林院壽童日宝居士」。
(wikiより)

「園林院寿童日宝居士」。

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藤間 勘右衞門(ふじま かんえもん、新字体:勘右衛門)は、藤間流勘右衛門派宗家家元名跡


三代目以降、歌舞伎役者が兼ねて襲名している。

二代目 藤間 勘右衛門(にだいめ ふじま かんえもん、天保11年2月12日または20日1840年3月15日または23日) - 大正14年(1925年1月23日)は、二世藤間流勘右衛門家元。晩年は藤間 勘翁(ふじま かんおう)を名乗る。本名は藤間 金太郎(ふじま きんたろう)。浜町の藤間大藤間と呼ばれた。


初代の実子。湯島天神町の生まれ、最初は歌舞伎役者の七代目市川團十郎の門下。初名を藤間金太郎。12歳で父が死去し藤間勘十郎の門下で19歳で二代目藤間勘右衛門を襲名。一時1867年に五代目西川扇蔵の養子となり六代目西川扇蔵を襲名するが、明治4年に藤間勘右衛門に戻る。花柳流の初代花柳壽輔九代目市川團十郎と対立し決別すると、團十郎からその後釜に迎え入れられ引き立てられる。團十郎との提携で『春興鏡獅子』『素襖落』などを振り付け、他にも坪内逍遥新歌舞伎舞踊お夏狂乱』等も手がけ一時代を築いた。今日にもその踊りは受け継がれている。


生年月日は2月20日とも。


養子が三代目勘右衛門。
(wikiより)

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墓所全景 ( 左、七代目・松本幸四郎 右、二代目・藤間勘右衛門 )

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細川 利永(ほそかわ としなが)は、江戸時代後期の大名肥後国熊本新田藩(高瀬藩)10代(最後の)藩主。官位従五位下若狭守

生涯
文政12年(1829年)1月24日、8代藩主・細川利愛の三男として誕生。嘉永6年(1853年)5月に従兄で9代藩主・細川利用の養子となり、安政3年(1856年)7月21日に利用が隠居したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、若狭守に叙任する。


元治
元年(1864年)4月、神田橋御門番、慶応元年(1865年)7月、佃島砲台警備などを務めた。慶応4年(1868年)7月25日、藩名を高瀬と改名する。明治2年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めた。明治3年(1870年)9月4日、廃藩となり、その所領は本家熊本藩に合併された。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。


明治34年(1901年)4月19日に死去した。享年73。

系譜
・父:細川利愛(1788-1841)

・母:山川氏

・養父:細川利用(1808-1864)

・正室:宇津忠誠

・側室:玉島(1837-?) - 錫子、宇津氏

・生母不明の子女

  ・男子:細川利義

  ・男子:水野忠宝

  ・男子3名

  ・長女:同子(1866-?) - 戸田康泰正室、のち細川利文正室

 ・養子

  ・男子:細川利祐(1847-1891) - 細川利用の三男

  ・男子:細川利文


側室の玉島は熊本県士族・宇津忠誠の三女・錫子(1837年生まれ)で、のちに本妻となる[1][2]。長女・同子(なみこ、1866年生まれ)は子爵戸田康泰と離婚後、1889年に公卿園基祥の次男・利文(1865-1944)を婿養子に迎える。利文の妹は明治天皇の側室・園祥子。利文は学習院東京專門学校に学び、明治天皇の皇女・常宮と周宮の御用掛を経て、御歌所參候を務めた[3]。その長男は細川利寿(1890-1946)、次男・利功(1896年生まれ)は子爵・長岡護美の死跡を相続し、長岡護孝と改名した[3]

栄典
1901年(明治34年)4月18日 - 従三位[4]

脚注
1. 細川利文 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
2. 華族細川利永妻宇津錫子之肖像『華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第2編 』横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
3. 
a b 細川利文 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
4. 
『官報』第5335号「叙任及辞令」1901年4月19日。

外部リンク
華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第1編第2編横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
(wikiより)

「大教正従三位子爵細川利永奥通紀」。

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細川利永

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⇧⇩ 長男の細川利義 ( 明治 20年 7月 19日没 ) 墓

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⇧⇩ 夫人錫子 ( ? - 1915 ) 墓

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大橋巻子 / 大橋槇子 ( おおはし - まきこ )    
文政 7年 10月 29日 ~ 明治 14年 12月 23日 ( 1824 - 1881 )

歌人・勤王家。

父、豪商・佐野屋孝兵衛こと大橋淡雅。母、民子。菊池教中の姉。

江戸出身。

父、大橋淡雅は、菊地家の養子だったが、大橋姓を名乗り、娘巻子が 19歳のときに商人ではなく儒者・清水正順 ( こと大橋訥菴 )を婿養子に迎え、大橋姓を継がせた。

国学を吉田敏成に、歌学を母民子から習い豊かな文才を現わした。

大橋訥菴が坂下門外事件に連座して入牢した際は、気丈夫な性格からその救済に奔走した。

当時の心境などをまとめた歌物語風の「夢路の日記」は志士に共鳴し評判となった。

夫は獄中で病気となり、出獄数日後に病没した。

夫の没後は、なお夫の開いた「思誠塾」で永く学生を世話した。58歳没。

長女・誠の婿養子は、大橋陶庵。

正面「大橋氏巻之墓」。「貞荘懐之大姉」。のちの人は、その功績を賞して「貞荘孺人」という。

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大橋 淡雅(おおはし たんが、天明8年(1788年) - 嘉永6年5月17日1853年6月23日))は江戸の豪商。書画コレクター・鑑定家として知られ渡辺崋山佐藤一斎などの文人・画人と交遊した。


名は知良・を温卿・通称孝兵衛のち良左衛門。晩年に淡雅とした。別号に東海享軒。下野国の生まれ。

略歴
下野国都賀郡の医師高橋英斎の子として生まれたが、15歳のとき宇都宮の古着商佐野屋を営む菊池家[1]の婿養子となる[2]


1814年(文化11年)、26歳のとき岳父孝古(治右衛門)から資財を受けて江戸日本橋元浜町(現日本橋富沢町日本橋大伝馬町)に佐野屋の別店を出す。以来、20年間商才を発揮して呉服商真岡木綿の中継問屋・両替商と事業を拡大。江戸を中心に関東一円に50店以上を持つ豪商となる。


財を成した晩年から書画をコレクション[3]し、書法の鑑定家として知られるようになる。また佐藤一斎渡辺崋山椿椿山立原杏所[4][5]など文人墨客と盛んに交遊し、同郷の画家高久靄厓を熱心に支援している。明の書家張東海に私淑して草書を能くし東海享軒[6]と号した。


著書『淡雅雑著』では商人の道義と徳を述べ、「余りあれば必ず施し、人を富まして自ら富む」と説いている。事実、天保の大飢饉では惜しみなく私財を投じて救民に尽くした。享年66。谷中天王寺に葬られる。


なお淡雅の妻民子(1795 - 1864)は雅号を倭文舎(しずのや)とし歌人として知られる。歌集『倭文舎集』・紀行文『江の嶋の記』を著した。息子の菊池教中、娘婿の大橋訥庵は勤王家として知られる。娘巻子も歌人として知られ、坂下門外の変で投獄された夫・訥庵と弟・澹如への思いを綴った『夢路日記』は勤王の志士を奮い立たせた。

著作
・『淡雅雑著』上巻「保福秘訣」・中巻「富貴自在」

脚注
1. 菊地とも。
2. 菊池家の婿であったが終生大橋姓を名乗った。
3. 書画商安西雲煙らと書画の展覧会・鑑定会を開催した。 佐藤温「豪商大橋淡雅における文事と時局」
4. 南画家の杏所は淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも、娘婿として儒学者を強く望んでいた淡雅の反対で想いは報われることはなかった。そもそも商家の淡雅に対し、杏所の本職は武家(水戸藩士)である。杏所は傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。
5. 他に山口管山塘宅山関藍梁大窪詩仏巻菱湖小山靄外大竹蔣塘相沢石湖山内香雪など
6. のちに菊池家が経営する東海銀行(名古屋の東海銀行とは別の銀行)の名の由来となる

参考文献
長嶋元重稲木宏済雨宮義人共編 「下野幕末の文人画人」下野文人・画人実行委員会、1984年(昭和59年)
(wikiより)

2894  大橋淡雅

大橋淡雅

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塩谷 温(しおのや おん、1878年7月6日 - 1962年6月3日)は、日本の漢学者東京帝国大学名誉教授。

来歴
東京に漢学者塩谷青山の子として生まれる。塩谷宕陰は大伯父。号は節山。1902年東京帝国大学漢学科卒。1906年母校助教授となり、ドイツのライプツィヒ大学、ついで国の北京および長沙にて研究、1912年帰国、1920年元曲に関する研究で文学博士号を授与され、同年教授、1939年定年退職、名誉教授となる。元の「全相平話」や明の白話小説集『古今小説』(「三言」の一書)を再発見するなど、支那近世の小説・戯曲の研究・紹介に多大な業績を残した。また『新字鑑』は標準的な漢語辞典として長く愛用された。


娘は漢文学者・辛島驍に嫁ぎ、辛島昇を儲けた。また弟良は山井家に婿入りし、その子は東京大学名誉教授山井湧である。

著書
・『支那文学概論講話』大日本雄弁会, 1919

・『朗吟詩選』弘道館 1930

・『学生必吟』弘道館, 1933

・『興国詩選 皇朝篇,漢土篇』弘道館, 1931-34

・『元曲 漢文講座』, 1934

・『王道は東より』弘道館, 1934

・『詩経講話』弘道館 1935

・『頼山陽と日本精神』日本精神叢書 文部省思想局 日本文化協会, 1936

・『皇国漢文選 弘道館記述義・新論鈔』目黒書店, 1936

・『皇国漢文選慎思録・言志四録鈔』目黒書店, 1936

・『楠公と頼山陽』多田正知共著 蒼竜閣 1937

・『孔子の人格と教訓』開隆堂, 1938

・『漢詩と日本精神』日本精神叢書 教学局, 1938

・『新字鑑』新字鑑刊行会, 1939

・『作詩便覧』弘道館, 1940

・『大東亞戰役詩史』弘道館圖書, 1944

・『支那文学概論』弘道館 1946-47 のち講談社学術文庫

・『天馬行空』日本加除出版, 1956

注釈・翻訳
左伝新鈔 弘道館, 1923

唐詩三百首新釈 弘道館(昭和漢文叢書), 1929

・楚昭公 国訳元曲選 鄭廷玉 目黒書店, 1939

元曲選 目黒書店, 1940

西廂記 昌平堂, 1947

・中国詩選 弘道館, 1948

回想記
・『東方学回想 Ⅱ 先学を語る〈2〉』(刀水書房、2000年)、座談会での関係者の回想を収録。
(wikiより)

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塩谷青山 ( しおのや - せいざん ) / 塩谷時敏 ( しおのや - ときとし )    
安政 2年 1月 27日 ~ 大正 14年 2月 2日 ( 1855 - 1925 )

漢学者。

父、塩谷簣山。

名、時敏。字、修卿。号、青山。

塩谷宕陰の甥。

父の教えを受けた後、昌平校に学ぶ。

維新後、芳野金陵・島田篁村・中村敬宇に師事。

簣山没後、下谷に家塾を開き生徒を教授する。

明治 8年 ( 1875 ) 内閣修史館勤務。帝国大学書官。

明治 22年 ( 1889 - 1920 ) 第一高等学校教授。

教授の傍ら、小石川の私塾「菁莪書院」で英才を教育した。

日下勺水 ( くさか - しゃくすい )・村山鶴堂らと廻瀾社を興し、雑誌「大正詩文」に力を注いだ。

剣道連合会会長。

著書 : 「文章裁錦」、「青山文抄」、「漢文類別」。71歳没。

正面「青山塩谷先生墓 / 配妙信山井氏墓」。 

 "塩"は、旧漢字。

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塩谷簣山 ( しおのや - きざん )    
文化 9年 5月 10日 ~ 明治 7年 9月 10日 ( 1812 - 1874 )

漢学者。

名、誠。字、誠之。通称、量平のち修輔。号、簣山・晩翠園・楠蔭書屋。

父、塩谷桃蹊 ( 二男 )。兄は塩谷宕陰だが、宕陰の嗣子となる。

父の命で医を修め、父を早くに亡くし 18歳で松崎慊堂に経学を学ぶ。

25歳時京阪で活動。

天保 11年 ( 1840 ) 老中・水野忠邦に登用される。

文久 3年 ( 1863 ) 幕府儒官。

ペリー来朝時にしばしば上申。

慶応 2年 ( 1866 ) 甲府典館督学。

維新後明治 3年 ( 1870 ) 大学助教授。

著書 : 「簣山文抄」、「西遊簿」、「避署録」、「叢語」、「漂民語録」、「研醜一覧」、「通史」。63歳没。

嗣子、塩谷時敏 ( 青山 ) 正面「簣山塩谷先生曁配 / 秋月恭懿両孺人墓」。

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秋吉金徳 ( あきよし - きんとく )     
天保 14年 ~ 大正 13年 1月 14日 ( 1843 - 1924 )

建築家。

従五位勲六等。81歳没。

関与した建築例
 ・帝国大学工科大学本館、辰野金吾設計・秋吉金徳施工(日本土木会社)、明治21年(1888)

・兵庫県公館(旧兵庫県庁)、山口半六設計・秋吉金徳(同和組)施工、明治40年(1907)

・旧トーマス邸/風見鶏の館(国指定重要文化財)、山口半六設計・秋吉金徳(同和組)施工、明治42年(1909)

正面「従五位勲六等秋吉金徳 / 室 政子 之墓」。「萬寿院金山清徳居士」。

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松野貞一郎 ( まつの - さだいちろう )     
安政 4年 12月 7日 ~ 明治 26年 2月 8日 ( 1857 - 1893 )

大審院判事。

旧弘前藩士。

江戸藩邸に生まれる。

幼きころより学を好み東京大学法学部に入り法学を修得。

明治 14年 ( 1881 ) 7月卒業。

東京裁判所判事補を経て明治 15年 ( 1882 ) 東京始審判事補。

明治 21年 ( 1888 ) 東京控訴院評定官。

法典問題・貴衆両院の決議に功績大。

大審院判事兼法典調査委員。英吉利法律学校幹事兼教授。東京大学・専修大学・高等商業学校・海軍主計学校各講師。従五位。37歳没。

「顕徳院仁貞一如居士」。法学博士花井卓蔵撰の略歴あり。左隣に子・松野松太郎墓あり。

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⇧⇩ 松野松太郎墓

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渡辺墨農 ( わたなべ - ぼくのう )     
天明元年 ~ 嘉永元年 5月 5日 ( 1781 - 1848 )

儒者・書家。

本名、渡辺栞。号、墨農。通称、慧蔵。

新潟県出身。

68歳没。

「渡部墨農墓碑」。墓碑は、亀田綾瀬撰文・菊地教中書。

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