本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2021/07

島田 篁村(しまだ こうそん、天保9年8月18日1838年10月6日) - 明治31年(1898年8月27日)は明治時代漢学者。幼名は源六郎、諱は重礼(ちょうれい)[1]、字は敬甫。東京帝国大学文科大学教授正四位勲三等文学博士本姓源氏


江戸時代の伝統的な環境に学問形成の基盤を置いた最末期の学者で、特に海保漁村考証学的学風を受け継ぎ、次世代の漢学へと橋渡しを行った。その活動は著述という形ではあまり残っていないが、自塾双桂精舎や東京大学等で多くの弟子を育成し、教育行政にも少なからず関わった。

生涯
武蔵国荏原郡下大崎村東京都品川区大崎名主島田重規の7男2女の六男に生まれ、幼名を源六郎とした[2]。早くに両親を失い、長姉に育てられた[2]。兄が『先哲叢談』を読んでいると聞き、自分も学問を志した[3]嘉永5年(1852年)大沢赤城に学び、次いで海保漁村、安政6年(1859年)安積艮斎に業を受けた[3]。家には財産が残っておらず、長姉が機織り、紡績の内職をして学費を支えた[3]


文久
3年(1863年)昌平坂学問所に入学、慶応元年(1865年)同校大試甲科に合格し9月助教に就任、慶応3年(1867年)12月外国奉行調並に就任するも、程なく辞職した[3]越後国村上藩内藤信民に禄100石を以って賓師に迎えられた[2]因幡国鳥取藩支藩の池田氏も厚禄を以って招こうとしたが、篁村は固辞し、後に池田氏の方から学びに赴いた[3]


明治2年(1869年)、下谷長者町に私塾双桂精舎を構え、翌年練塀町に移った[3]。その後、高等師範学校女子師範学校学習院東京大学で教鞭をとった。明治17年(1884年)には加藤弘之に建議して、文学部に古典講習科漢書課を設置した[4]。明治29年(1896年)より、尋常師範学校等教員検定委員、尋常中学校教科細目調査委員を務め、修身科目に携わった[5]。明治31年(1898年)8月27日、小石川区の自邸で病死[2]。墓所は谷中天王寺。死後長男により『篁村遺稿』が出版された。

経歴
慶応元年(1865年)9月 - 昌平坂学問所助教[3]

・慶応3年(1867年)12月 - 外国調役並[3]

明治7年(1874年)2月 - 東京師範学校雇教師[3]

・同年5月 - 同校五等教諭[3]

・明治8年(1875年)12月 - 修史局三等協修[3]

・明治12年(1879年)9月 - 東京大学文学部講師[3]

・明治13年(1880年)9月 - 東京女子師範学校修身講義を兼任[3]

・明治14年(1881年)8月 - 東京大学教授[3]

・同年9月 - 従六位[3]

・明治19年(1886年)1月 - 文科大学教授[3]

・同年4月 - 奏任官二等[3]

・同年7月 - 教科用図書検定委員[3]

・同年9月 - 中学用漢文教科用書編纂委員[3]

・明治16年(1883年)2月 - 正六位[3]

・明治21年(1888年)5月 - 文学博士[3]

・同年10月 - 奏任官一等[6]

・明治23年(1890年)11月1日 - 従五位[7][8]

・明治25年(1892年)1月 - 東京学士会院会員[4]

・同年10月 - 学習院教授[4]

・明治27年(1894年)10月10 - 正五位[9][10]

・同年7月 - 高等官二等[11]

・明治28年(1895年)6月 - 勲五等瑞宝章[12]

・明治29年(1896年)12月 - 勲四等瑞宝章[13]

・明治31年(1898年)6月 - 従四位[14]

・同年6月 - 高等官一等[15]

・同年8月27日 - 死去。正四位[16]勲三等瑞宝章を追贈[5]

出自
美濃国土岐氏の出で、土岐満貞駿河国島田村に土着し、島田氏を名乗った[2]。島田若狭守重国は足利義晴に仕えるなど、武門の家柄だったが、後の代に農家となり、武蔵国荏原郡大崎で名主を歴任した[2]

家族
・長男:島田鈞一 - 漢文学者。

・次男:島田穀 - 夭折[2]

・三男:島田翰 - 書誌学者。

・長女 - 夭折[2]

・次女 - 安井朴堂に嫁ぐ[2]

・三女:服部繁子 - 服部宇之吉に嫁ぐ。

脚注
1. 島田重礼”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2017年8月7日閲覧。
2. a b c d e f g h i 塩谷時敏撰「篁村島田先生墓碑銘」『篁村遺稿』巻上
3. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 荻原善太郎編『日本博士全伝』岡保三郎、1888年
4. a b c 干河岸貫一編『明治百傑伝』青木嵩山堂、1902年
5. a b 東京帝国大学文科大学教授従四位勲四等文学博士島田重礼勲等陞叙ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112483400 
6. 文科大学教授島田重礼外一名陞叙ノ件
7. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
8. 文科大学教授正六位島田重礼外十三名陞叙並新叙ノ件
9. 『官報』第3388号「叙任及辞令」1894年10月11日。
10. 大蔵省主税局長目賀田種太郎外四百名進階ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110518700 
11. 
理科大学教授山川健次郎外二名官等陞叙ノ件
12. 内務大臣正三位勲二等子爵野村靖外二百四十二名勲位進級及初叙ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112444300 
13. 皇太后宮大夫正三位勲二等子爵杉孫七郎以下二百五十七名勲位進級及初叙ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112456600 
14. 正五位勲四等文学博士島田重礼叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110600300 
15. 東京帝国大学文科大学教授正五位勲四等文学博士島田重禮陞叙ノ件
16. 東京帝国大学文科大学教授従四位勲四等文学博士島田重礼特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110604500 

外部リンク
・『篁村遺稿 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

・『篁村遺稿 中』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

・『篁村遺稿 下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

関連項目
東京大学 (1877-1886)
(wikiより)

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芳野幹一 ( よしの - かんいち )     
明治 18年 ~ 昭和 45年 12月 22日 ( 1885 - 1970 )

学習院大学教授。

父、芳野世経 ( 長男 )。

東京出身。

錦城中学・成蹊中学教諭。成蹊高校教諭。

大正 14年 ( 1925 ) より学習院大学教授没。85歳。夫人、ヒデ。正面「吉野家之墓」。

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河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年明治19年)1月13日 - 1955年昭和30年)1月22日[1])は、日本の内務官僚政治家林内閣内務大臣阿部内閣文部大臣、官選の大阪府知事などを歴任した。

来歴・人物
美作鶴田藩士奥村就有の子として東京に生まれ、会津藩出身の農学者河原田盛美養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。


旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、 台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。当初は政友会系の内務官僚と見られていたが、近衛文麿の台頭とともにその側近として注目されるようになっていった。1937年(昭和12年)林内閣では近衛との関係もあってか内務大臣を拝命。退任後の1938年(昭和13年)1月7日に貴族院勅選議員に勅任されている[2]。同年産業報国連盟理事長[1]。1939年(昭和14年)には阿部内閣で文部大臣を拝命する。戦中の1943年(昭和18年)には官選の大阪府知事となる。同年に健康保険組合連合会会長。1946年(昭和21年)9月から公職追放[1]。同年5月14日、貴族院議員を辞職[3]


1952年(昭和27年)の第25回総選挙中選挙区福島2区から自由党公認で立候補して当選、再選も果たしたが、2期目在任中に死去した。

栄典
1920年(大正9年)11月1日 - 双光旭日章[4]

1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]

出典
1. a b c 河原田稼吉関係文書 | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館
2. 『官報』第3302号、昭和13年1月8日
3. 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
4. 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
5. 『官報』・付録 1941年11月21日 辞令二

参考文献
秦郁彦『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 河原田稼吉関係文書
(wikiより)

2878  河原田稼吉

河原田稼吉

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2878b



魚返 善雄(おがえり よしお、1910年1月8日 - 1966年3月27日)は、日本の言語学者中国文学研究者

来歴
大分県
玖珠郡北山田村(現・玖珠町)に生まれる[1]。信濃憂人の別号を持つ。1926年より上海東亜同文書院に学ぶが、病気のため1929年中退して帰郷。1933年文部省検定試験に合格し英語と支那語の教師資格を得、東亜学校で教える。1937年日華学会理事、NHK嘱託として北京語放送を担当、1939年より東京帝国大学東京大学文学部非常勤講師を27年務めた。戦時中、東京高等師範学校教授。戦後、東洋大学駒澤大学東洋大学客員教授。

著書
・華語基礎読本 三省堂 1941

・支那語の発音と記号 三省堂 1942

・支那語注音符号の発音 帝国書院 1944

・日本語と支那語 慶應出版社 1944

・民国の文芸 育生社 1948

・日本文学と中国文学 弘文堂 1952(アテネ文庫

・中国的考え方 宝文館 1952

・暗い時代の青春 日本出版協同 1953

・東洋人の心 東洋経済新報社 1953

・漢文の學び方 至文堂 1953(学生教養新書)

・趣味の漢文 旺文社 1956(学生ライブラリー)

・人間味の文学 明徳出版社 1957

・外来語小辞典 研究社 1959(研究社小辞典シリーズ)

・日本語心得帳 大修館書店 1961

・文学と東洋 小峯書院 1961

・お山のひっこし 放送童話集 小峯書店 1963(コスモス文庫)

・コオロギになった子 放送童話集 小峯書店 1963(コスモス文庫)

・言語と文体 紀伊国屋新書 1963

・漢文の世界 東京大学出版会 1963

・漢文入門 社会思想社 1966(現代教養文庫)

共編著
・支那語読本(編)日本評論社 1938

・時文読本  高田真治共編 大日本図書 1940

・大陸の言語と文学(編)三省堂 1940

・華日語法読本 双訳 王化共著 三省堂 1941

翻訳
・支那人の見た日本人 信濃憂人訳編 青年書房 1937

・支那言語学概論 カールグレン 岩村忍共訳 文求堂書店 1937

・現代支那語科学 デンツエル・カー 文求堂書店 1939

・支那人の精神 辜鴻銘 目黒書店 1940

・支那民衆の告白 信濃憂人訳編 青年書房 1940

・新支那の出発 信濃憂人訳編 青年書房 1940

・北京語の発音 カールグレン 文求堂 1941

・広東語の発音 ダニエル・ヂョウンズ、胡炯堂 文求堂書店 1942

・漢文華語康煕皇帝遺訓 大阪屋号書店 1943

・支那文法講話 劉復 中野昭麿共訳 三省堂 1943

・西洋文化の支那侵略史 E.R.ヒューズ 大阪屋号書店 1944

・東洋語の声調 ヂョーヂ・グリアスン 竜文書局 1945

・三民主義及自伝 孫中堂 増進堂 1946

・機械と精神 林語堂 朝日新聞社 1946

・東西の国民性 林語堂 増進堂 1946

・ソロモン 万人の聖書 生活社 1947

・民国の文芸 育生社 1948(芸林新書)

紅楼夢 奥野信太郎共編 好学社 1948

遊仙窟 張鷟 東書房 1948

菜根譚新訳 洪自誠 鎌倉文庫 1948 のち角川文庫

・新中国小説集 目黒書店 1948

・旧中国小説集 甲編 目黒書店 1949

水滸伝 改造社 1949 のち現代教養文庫

西遊記 改造社 1950 同

・中国文学入門 劉麟生 東京大学出版部 1951

・迷路の殺人 ヴァン・グーリック 大日本雄弁会講談社 1951 「中国迷宮殺人事件」文庫

・中国千一夜(今古奇観)抱甕老人 日本出版協同 1952-1953

・禅問答四十八章 慧開 学生社新書 1955

・中国文学史 オディル・カルタンマルクーゲキエ 高田淳共訳 白水社 1957(文庫クセジュ

・新しい論語 弥生書房 1957

・「論語」新訳 學生社 1957

・中国名詩選 学生社新書 1963

・宝のひょうたん 張天翼 小学館 1964(少年少女世界名作文学全集)

広東語小説集 俗話傾談 邵彬儒 小峯書店 1964

・禅問答四十八章 学生社 1978

脚注
1. 魚返善雄 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年9月4日閲覧。
(wikiより)

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田川 鳳朗(たがわ ほうろう、宝暦12年(1762年) - 弘化2年11月28日1845年12月26日))は、江戸時代の俳人。本名、厳島義長。通称、東源。別号に対竹、鶯笠、自然堂、藍蓼庵、京陵など。天保三代家の一人。

生涯
宝暦12年(1762年)、肥後国(現・熊本県)で生まれる。若い頃から俳句の道を志し、郷土の武久綺石に学び、江戸では、鈴木道彦の門弟となり、真正芭蕉風をとなえる。当時、俳諧の普及は史上空前で「床屋俳譜」とも称されており、次第に頭角を現した鳳郎は、桜井梅室成田蒼虬と共に「天保三代家」[1]に数えられた。

編著
・「蕉門俳譜師説録」

・「芭蕉葉ふね」

・「自然堂千句」

脚注
1. 「天保の三宗匠」とも呼ばれている。

関連項目
松尾芭蕉

鈴木道彦

肥後国
(wikiより)

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河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年明治23年)9月25日 - 1960年昭和35年)6月25日)は日本陸軍軍人、最終階級は中将富山県出身。

人物
1890年明治23年)9月、富山県礪波郡苗加村に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした。(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)


その後、1912年(大正元年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。このクラスは鈴木宗作櫛淵鍹一酒井康柴山兼四郎秋山徳三郎甘粕正彦岸田國士など多士済々であった。同年12月、名古屋城敷地内に駐屯する第3師団所属野砲兵第3聯隊に同期生細川忠康とともに配属。1921年(大正10年)には陸軍大学校第33期優等(軍刀組)で卒業している。以降、作戦畑を歩みながら関東軍参謀近衛野砲兵聯隊長第7飛行団長といった部隊職、ソビエト連邦ドイツ大使館付武官も経験している。


特に昭和軍事史のターニングポイントとなる柳条湖(溝)事件時は参謀本部作戦班長盧溝橋事件時は参謀本部戦争指導課長という枢要なポストにいて、独断専行の現地陸軍部隊を時の上司(満州事変時は今村均作戦課長日中戦争時は石原莞爾作戦部長)と協力して引留めようと努力した。とくに盧溝橋事件では、支那駐屯歩兵旅団長少将)だった実兄の正三が現場責任者という皮肉な巡り合わせを経験している。また、作戦課長時代には戦争指導のため出張、中国大陸の部隊を訪れている最中に、戦争拡大を目論む勢力によって浜松陸軍飛行学校教官へ左遷されるという憂き目にあっている。それ以降は、陸軍中央からは遠ざけられており、河辺が再び参謀本部への復帰を果たすのは戦争末期の1945年(昭和20年)に入ってからである。敗戦になった際には、参謀次長であった河辺中将は連合国と会談するため全権としてマニラに赴いている。


戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーに接近し、1948年(昭和23年)、軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成。辰巳栄一28期歩兵科)も関わる。河辺機関へのGHQからの援助は1952年(昭和27年)で終了したため、河辺機関の旧軍幹部(佐官級)はG2の推薦を受けて保安隊に入隊している。河辺機関はその後、「睦隣会」に名称変更した後に、内閣調査室のシンクタンクである「世界政経調査会」になった。そのため、初期の内閣調査室には河辺機関出身者が多く流入している[1]

略歴
1912年(明治45年/大正元年)

  5月 陸軍士官学校(24期)卒業。

  12月 砲兵少尉野砲兵第3聯隊附。


1915年(大正4年)

  12月 砲兵中尉陸軍砲工学校卒業。


1920年(大正9年)

  8月 砲兵大尉


1921年(大正10年)

  11月 陸軍大学校(33期)卒業。野砲兵第3聯隊中隊長


1922年(大正11年)

  11月 参謀本部附勤務(作戦課)。


1923年(大正12年)

  8月 参謀本部員。


1927年(昭和2年)

  7月 砲兵少佐


1928年(昭和3年)

  12月 陸軍大学校兵学教官。


1929年(昭和4年)

  4月 参謀本部員(作戦課)。


1931年(昭和6年)

  3月 参謀本部作戦班長。

  8月 砲兵中佐


1932年(昭和7年)

  1月 駐ソビエト連邦大使館付武官


1934年(昭和9年)

  3月 参謀本部附。

  8月 関東軍参謀。


1935年(昭和10年)

  8月 砲兵大佐。関東軍司令部第2課長。


1936年(昭和11年)

  3月 近衛野砲兵聯隊長


1937年(昭和12年)

  3月 参謀本部戦争指導課長。

  4月 兼軍令部員。

  11月 兼大本営海軍部参謀[2]

  12月 参謀本部作戦課長。


1938年(昭和13年)

  3月 浜松陸軍飛行学校教官。

  7月 少将浜松陸軍飛行学校附。

  10月 駐ドイツ大使館付武官。


1939年(昭和14年)

  12月 参謀本部付。


1940年(昭和15年)

  3月 下志津陸軍飛行学校附。

  9月 第7飛行団長


1941年(昭和16年)

  7月 防衛総司令部総参謀長

  8月 中将

  12月 陸軍航空総監部総務部長。


1943年(昭和18年)

  5月 第2飛行師団長第2航空軍司令官。


1944年(昭和19年)

  8月 陸軍航空総監部次長。


1945年(昭和20年)

  4月 参謀次長

  8月15日 終戦。

  10月 予備役

  12月 東海復員監。


1948年(昭和23年)

  「河辺機関」を結成。


1960年(昭和35年)

  6月25日 死去。

栄典
1913年(大正2年)2月20日 - 正八位[3]

1941年(昭和16年)9月15日 - 従四位

1943年(昭和18年)10月1日 - 正四位

著書
・『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社、1962年)

 のちに『河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(毎日新聞社、1979年)に改題して再刊。


・河邊虎四郎文書研究会 編『承詔必謹 陸軍ハ飽マデ御聖断ニ従テ行動ス』(国書刊行会、2005年) ISBN 4-336-04713-8

 防衛研究所所蔵の河辺日記と、上記回想録を対応する形で編纂された書籍。

脚注
1. 別冊宝島Real 『謀略の昭和裏面史 特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』 宝島社 p.170
2. 昭和12年11月20日付 海軍辞令公報 号外 第95号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072600 で閲覧可能。
3. 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
(wikiより)

2875  河辺虎四郎

河辺虎四郎

2875a

2875b



清水 誠 ( しみず - まこと )     
明治 27年 ~ 昭和 59年 3月 31日 ( 1894 - 1984 )

東京工業大学名誉教授・愛国短期大学初代学長名誉教授。

父、清水 済。従三位勲三等。旭日中綬章。90歳没。「澄泉院梅窓誠端居士」。

2874a

2874b



清水済 ( しみず - わたる )     
安政 3年 12月 15日 ~ 明治 26年 8月 19日 ( 1856 - 1893 )

工科大学教授・水利堤防の研究者。

父、幕臣・清水元一郎 ( 二男 )。

江戸駿河台出身。

明治 12年 ( 1879 ) 7月東京大学理学部土木工学科卒・工学士、9月内務省御用掛。

明治 15年 ( 1882 ) 土木局 11等出仕。

明治 16年 ( 1883 ) 9等出仕。

明治 17年 ( 1884 ) 内務技師。

明治 19年 ( 1886 ) 内務 1等技手、奏任 5等上、第 4区土木監督署勤務。

オランダ人技術者デ・レーケは、明治 11年 ( 1878 ) から毎年のように木曽川の現地調査を行っていたが、明治 17年 ( 1884 ) 内務省から改修計画の策定を命じられ、その補助者に任命されたのが、わが国で近代教育を受けた内務省技師、清水 済と佐伯敦崇 ( 明治 13年工部大学校卒 ) であり、木曽川改修工事で功績を上げる。

明治 22年 ( 1889  )独・仏・蘭・伊の 4ヵ国に留学。

土木監督署 4等技手、工学博士。

明治 24年 ( 1891 ) 1月帰朝、2月内務省技師兼工科大学教授。8月土木局製図課長。従六位。38歳没。

夫人は、逸見氏。子は、清水 誠。「元行院顕誉広斉居士」。

正面「清水家之墓」。左側「従六位工学博士清水済之墓」。墓誌は、植え込みに隠れて撮れず。清水斉の墓は、はじめ麹町心法寺にあった。

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2873b

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井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日[1])- 1949年昭和24年)6月19日[1])は、日本の実業家政治家貴族院勅選議員枢密顧問官

経歴
常陸国茨城郡水戸(現茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる[1]茨城県尋常中学校第一高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社[1]


以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた[1][2]。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた[1][3]1921年4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した[1][3]。その後、横浜取引所理事長、東京瓦斯 (株) 社長、三井銀行取締役、日本工業倶楽部理事長、日本経済連盟会会長、日本証券取引所総裁などを歴任した[1]


この他大日本産業報国会審議員[4]大政翼賛会総務[5]を務めた。


1944年
11月1日、貴族院勅選議員に任じられ、1945年11月24日[6]まで在任[1][2][7]。同年11月20日に枢密顧問官となり、1946年6月13日に依願免本官となり[1][8]公職追放となった[9]。この間、鉄道運賃審議会会長、大蔵省顧問、終戦連絡中央事務局参与などを務めた[2][7]

栄典
位階
1924年(大正13年)2月12日 - 正六位[10]

1940年(昭和15年)11月10日 - 従五位[10]

1945年(昭和20年)12月15日 - 正四位[11]

勲章等
1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等瑞宝章[10]

1934年(昭和9年)6月21日 - 銀盃一個[10]

1941年(昭和16年)4月29日 - 木盃一個[10]

脚注
1. a b c d e f g h i j 『日本近現代人物履歴事典』37頁。
2. a b c 『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第7巻』159-166頁。
3. a b 『20世紀日本人名事典 あ-せ』168頁。
4. 『朝日新聞』1940年11月24日朝刊一面。「大日本産業報国会役員一覧」
5. 『大衆人事録』第14版「東京篇」50頁、 昭和17年、帝国秘密探偵社。
6. 『官報』第5663号、昭和20年11月27日。
7. a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員』93頁。
8. 『官報』第5829号、昭和21年6月21日。
9. 公職追放の該当事項は「翼賛総務」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、164頁。NDLJP:1276156 
10. a b c d e 井坂孝」 アジア歴史資料センター Ref.A06051183000 
11. 井坂顧問官定例叙位」 アジア歴史資料センター Ref.A06050994800 

参考資料
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第7巻』東京大学出版会、1997年。ISBN 4130987178

秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。

・『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年。
(wikiより)

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蒲生聚亭 ( がもう - けいてい / しゅうてい )    
天保 4年 ~ 明治 34年 ( 1833 - 1901 )

幕末明治期の漢学者・詩人。

新潟出身。

名、重章。字、子闇。号、聚豪・聚亭・白襄子など。

幼くして両親に死なれ伯父に育てられる。

19歳で江戸で儒学を学び、越後村松藩の儒官となる。

執政と折り合いが悪く辞官。

諸国漫遊後、江戸麹町に「晴天白日楼」学塾を開設。

維新後、医学館に出仕。

議政官史官、修史局、大学教授を歴任。

著書 : 「聚亭詩鈔」、「聚亭文鈔」、「近世偉人伝」、「同義字集」、「夢見録」、「良寛詩集」、「下斗米将真伝」など。

墓誌なし。改装前は「聚亭蒲生重章之墓」であった。墓碑裏面にて確認可。

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新家春三 ( にいなみ - はるみつ )     
文化 11年 ~ 明治 23年 6月 27日 ( 1814 - 1890 )

江戸末期明治期の淘宮家 ( とうきゅうか )。

名、孝弟。通称、彦次郎。号、新亀斎春三。

父、新家純孝。

先祖は、新家作次郎で、徳川家康時代に功績がある。

神儒仏の 3教を崇拝。

春亀斎丸三に師事し天源淘宮術を学び、奥義を究める。権大教正。77歳没。正面「贈権大教正新家春三之墓」。

 淘宮術 : 天源術から派生した運勢判断の一。
天保 5年 ( 1834 ) 横山丸三 ( よこやま - まるみつ ) が創始した。

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小山春山 ( おやま - しゅんざん )    
文政 10年 3月 10日 ~ 明治 24年 1月 1日 ( 1827 - 1892 )

 漢学者・勤王家。

名、鼎吉・朝弘。字、毅卿・遠士。号、楊園・春山。

従五位・小山馨三郎の父。

下野真岡の裕福な家に生まれる。

子供のころより医師・満川日湖に師事。

のち儒教や歴史を会沢正志斎に師事。

家業の真岡木綿買継問屋が不振のため株を手放し、家督を弟に譲り、嘉永 6年 ( 1853 ) 江戸に出て医術を幕医・尾台良作に師事、漢学を儒者・藤森天山に師事した。のち真岡で医を開業。

傍ら、家塾を開き、詩文を揮毫して家計の足しとした。

大橋訥菴らと親交し尊王攘夷に傾注した。

文久 2年 ( 1862 )「坂下門外の変」の容疑で大橋訥菴らとともに捕縛され一時投獄された。

元冶元年 ( 1864 ) 子・小山馨三郎が天狗党に入り、この義挙に関わったとして佃島に流される。

維新後、武蔵大宮県判検事。

明治 2年 ( 1869 ) 浦和県権大参事となるがまもなく辞任し、明治 5年 ( 1872 ) 栗山誠一郎・岩崎維慊らと司法省 9等出仕。

明治 7年 ( 1874 ) 記録寮 9等出仕。

明治 10年 ( 1877 ) 大蔵 4等属。

累進して明治 15年 ( 1882 ) 1等属。

まもなく退官し、東京で家塾を開く。

下野の志士でありながら、日本画や書を残している。65歳没。

大正 7年 ( 1918 ) 贈正五位。

著書・紀行文 : 「妙義山金洞」、「小暇村観瀑」、「偕楽園看梅」、「春山楼文選」、「留丹録」。

正面「春山小山朝弘之墓」。小山馨三郎墓は見当たらない。

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関藤 藤陰(せきとう とういん、文化4年(1807年) - 明治9年(1876年12月29日)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。幼名は元五郎、は成章、は君達。養家の石川姓を名乗っていたため、通称と合わせて石川 和助(いしかわ わすけ、和介とも)と呼ばれる。江戸幕府老中福山藩主阿部正弘側用人(君側御用係)として幕政に関与する。明治維新の際には執政として藩論を新政府支持でまとめた。

生涯
頼山陽の門人
文化4年(1807年) 、備中国吉浜(現在の岡山県笠岡市)の医師・神官の関藤政信の四男に生まれる。温厚で純朴な人柄であったという。


生まれてすぐに両親が死去し、父の医師仲間であった同国の石川順介の養子となる。養父はその才能を高く評価して、別家に養子に出ていた藤陰の兄と相談の上、同国の小寺清先の元で学問を学ばせる。文政11年(1828年)、清先の死去すると儒学者の頼山陽の元を訪れて弟子となる。山陽の元での生活はわずか4年ではあったが、山陽は師弟の枠を越えた友人として遇するようになった。そのため天保3年(1832年)に山陽が危篤に陥ると遺言と校正途中であった『日本政記』の原稿を藤陰に託して病死する。藤陰は残りの校正作業と頼家の家産の整理を行って、『日本政記』を刊行にこぎつけた。その後、江戸に赴いて10年ほど勉学を続けた。

阿部正弘の側用人
天保14年(1843年)、故郷に戻っていた藤陰は隣国の福山藩の儒官となる。ところが、福山入りする直前の10月に突如、藩主・阿部正弘が老中に就任することになり、翌1844年に江戸へと呼び出され、君側御用係に任命された。以後、学問の教授や、正弘の使者・情報収集など側近として活躍した。また、この頃水戸藩主徳川斉昭が幕府の不興を買って隠居させられていたが、正弘に斉昭の赦免を働きかけて実現させ、やがて斉昭は幕府の海防参与に起用されることになった。


嘉永
6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリー浦賀に来航すると、老中首座として幕政の最高責任者となっていた正弘の命を受けて浦賀や下田にて状況を探索。藤陰は頼山陽譲りの尊王論を唱えて攘夷断行を進言するが、正弘は日米和親条約の締結を決断。徳川斉昭に条約締結の許可を求める使者をつとめた。


正弘が福山藩内に新しい藩校誠之館」を設立した際には、実際の企画などを行う一方、藤田東湖佐久間象山江川英龍など、攘夷派から開国派まで幅広い人物と交際をもって、海防や国内の諸問題について語り、朝廷と幕府との協力体制確立について論じ合った。


安政3年(1858年)から翌年にかけて、蝦夷地千島樺太の調査を2回にわたって行い、途中で重病になりながらも『観国録・蝦夷紀行』という報告書に纏めた。しかし、安政4年6月17日、主君・正弘が突然の病死、更に幕府による安政の大獄において捕縛された頼山陽の子・頼三樹三郎を福山藩で預かることになり、助命嘆願も通じずに処刑される。

幕末から維新へ
福山に戻ると、主君・正弘が遺した誠之館の運営と藩主・阿部正教(正弘の甥・養子)の教育にあたる。ところが、わずか3年で正教も急死、跡をその弟の阿部正方が継承し、藤陰は君側御用係となった。


文久
3年(1863年)、警備のために藩兵を率いて京都に向かうことになった主君の諮問に答えて『国論主義書』を著す。この中で、近いうちに徳川将軍家と朝廷が争う事態になる可能性を指摘した上で、阿部家は徳川家を朝廷へ恭順に導くのが譜代大名としての忠義であることを説いた。やがて幕府による長州征伐が決定されると、日本国内の混乱が増すばかりであることを正方に訴えて出陣を諫めるものの聞き入れられず出陣する。だが、藩主・正方は陣中で病に倒れ、指揮を家老・内藤角右衛門に委ね粕渕(島根県邑智郡)に留まるが、本隊は石見国益田(島根県益田市)で大村益次郎率いる長州藩と交戦して敗走する。その後、幕府軍が長州藩に敗北したため撤兵することになった。


慶応3年(1867年)、正方は無嗣のまま病死。これにより本来、阿部家はお家断絶となるはずであるが、大政奉還からわずか1か月後の混乱期に乗じて、正方の棺を寝室においたまま、未だに病気であると偽りの発表を続けた。そうこうしているうちに戊辰戦争が発生し、徳川譜代であり帰趨を鮮明にしない福山藩に対して長州藩の軍が福山城向かって進撃。藤陰は重臣達と対応を協議し、かつて著した『国論主義書』の趣意通り新政府軍に加わってその中で徳川家を救う方法を考えるという方針となり、福山藩家老・三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行った。長州藩側はここで初めて福山藩が藩主不在の事実を確認して対応を協議し、新政府に参加していた広島藩主浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に福山藩の恭順が許されることになった。しかし、新政府に加わり徳川家を救おうとする藤陰の意図とは裏腹に福山藩は新政府に命じられるがままであった。


明治2年(1869年)、版籍奉還によってその職務を終え隠居廃藩置県後、旧藩主・正桓の要請によって阿部家家政差配(かつての側用人)に就任して東京に移住。正桓の相談役をつとめながら、『文章規範筆記』『阿部家傳』『詩書筆記』などを著述して晩年を過ごした。


明治9年(1876年)、死去。墓は主君・阿部正弘と同じ谷中墓地内にある。
(wikiより)

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三宅鉱一 ( みやけ - こういち )   
明治 9年 ~ 昭和 29年 7月 6日 ( 1876 - 1954 )

精神病理学者・東京府立松沢病院院長。

父、三宅 秀 ( 長男 )。

東京出身。

明治 38年 ( 1905 ) ドイツ留学。

明治 42年 ( 1909 ) 医学博士。

東京帝国大学医科助教授・東京府立巣鴨病院副院長、大正 14年 ( 1925 ) 東京帝国大学教授・東京府立松沢病院院長。

昭和 11年 ( 1936 ) 退官。

同年、実業家・堀越久三郎の寄付により東大医学部に脳研究所を開設。正四位勲三等紺綬褒章。

長女栄は、平山洋三郎の妻。三女・照子は、島薗順次郎の長男で医学博士・島薗順雄 ( しまその - のりお ) の妻。

正面「三宅家之墓」。三宅秀に合祀。「大徳院殿耿誉鶴鶴翁普済居士」。

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三宅艮斎 ( みやけ - ごんさい )    
文化 14年 ~ 慶応 4年 7月 3日 ( 1817 - 1868 )

蘭方医。

肥前国島原 ( 佐賀県 ) 出身。

名、温。幼名、桃樹。通称、子厚。

父、医師・三宅英庵。

8歳で熊本において就学。

天保元年 ( 1830 ) 長崎の楢林栄建に師事。

天保 9年 ( 1839 ) 江戸で開業。

弘化元年 ( 1844 ) 佐藤泰然の勧めで下総佐倉藩医となる。

安政 5年 ( 1858 ) 神田お玉ヶ池の種痘所頭取。

文久 3年 ( 1863 ) 同所が西洋医学所と改名になると外科手術および繃帯学 ( ほうたいがく ) を教授。

漢訳洋書「西医略論」、「内科新説」などを復刻出版した。食道がんで没する。なお、艮斎の長男・三宅 秀 ( ひいず : 1848 - 1938 ) は、文久 3年 ( 1863 ) の第二回遣欧使節に随行し、のちに東京大学で最初の医学博士・名誉教授となった人物。

正面「三宅家之墓」。「観龍院殿総誉子厚英信居士」。

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三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日1848年12月12日) - 昭和13年(1938年3月16日)は、日本医師洋学者医学者貴族院議員東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。三宅家には、明智光秀[2]あるいは明智光秀の弟[3]の子孫であるとの家伝がある。錦鶏間祗候

略歴
三宅家は、肥前にて代々医業を行ってきた家系であり、秀は、お玉ケ池種痘所(現東京大学医学部の起源)の創設に携わった医師三宅艮斎(みやけ ごんさい)の長男として江戸本所で生まれる。


安政4年(1858年):川島元成のもとで蘭学を習い始める。


文久3年(1863年):田辺太一の従者として遣欧使節に随行。


元治元年(1864年):欧州より帰国後、横浜ヘボン塾明治学院高校の前身)で英学を学び、元アメリカ海軍医ウェッダー(Alexander M.Vedder)の助手となり医学を学ぶ。


慶応3年(1867年):加賀藩壮猶館にて英書翻訳や英学教授に従事。


明治3年(1870年):大学へ出仕、中助教、大助教、文部少教授を歴任。


・明治7年(1874年):東京医学校長心得となる。


・明治9年(1876年):渡米、万国医学会の副会長に選任。


・明治14年(1881年):東京大学医学部長、その後、医科大学教授、医科大学長を歴任。


・明治21年(1888年):東京大学初の医学博士に。


・明治24年(1891年)4月15日:貴族院勅選議員[4]


・明治36年(1903年):東京大学初の名誉教授となる。


・昭和13年(1938年):死去、享年91(満89歳)。

親族
佐藤尚中 - 妻 藤の父。順天堂創始者。


三宅鉱一(1876-1954) - 長男。精神医学者、東大医学部教授。東京府立松沢病院長も務め、1936年に同大医学部に脳研究所を開設し、1942年まで所長[5]。妻の栄は平山洋三郎三女。


三宅仁(1908-1969) - 孫(三宅鉱一の子)。病理学者、東大医学部教授。日本病理学会、日本血液学会、日本肝臓病学会の会長も務めた[6]


仁田勇 - 孫。三女 まつの長男。大阪大学理学部教授。


三浦謹之助 - 長女 教の夫。東大医学部教授。


佐々木謙一郎 - 四女 菊尾の夫。専売局長官、南満州鉄道副総裁。


・中村直次郎 - 五女 八重の夫。榛原 (和紙舗) 四代目。


堀越二郎 - 孫(菊尾の長女)須磨子の夫。

栄典・授章・授賞
位階
1890年(明治23年)12月8日 - 従四位[7]

1938年(昭和13年)2月11日 - 従三位[8]

勲章等
1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[9]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1891年(明治24年)6月27日 - 勲三等瑞宝章[11]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[12]

著書
・三宅秀編訳『病体剖観示要』島村利助、丸屋善七共同刊行、1879年

・三宅秀『病理総論』1881年

・三宅秀『薬品取扱方心得』青柳正辰、1890年

・三宅秀『人名医語字典』英蘭堂、丸善、1894年

・三宅秀、浜武亀代子ほか『家事衛生』大日本女学会、1901年

・三宅秀『修身衛生講話』国定教科書共同販売所、1908年

・三宅秀『安眠法』広文堂、1912年

・三宅秀、大沢謙二『日本衛生文庫:第1-6集』教育新潮研究会、1917-1918年

脚注
1. フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 4』講談社、2003年。
2. 小崎登明 「切支丹峠」『聖母の騎士』11月号、聖母の騎士社、1959年、19-24頁。『聖母の騎士』12月号、聖母の騎士社、1959年、7-12頁。
3. 三浦義彰 「西の長崎、東の佐倉」『千葉医学』70号、千葉医学会、1994年、211-216頁。
4. 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
5. 三宅鉱一(読み)みやけ こういちコトバンク
6. 三宅仁(読み)みやけ まさしコトバンク
7. 『官報』第2237号「叙任及辞令」1890年12月11日。
8. 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
9. 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
10. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
11. 『官報』第2398号「叙任及辞令」1891年6月29日。
12. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献
藤尾直史「三宅コレクションの世界」(『東京大学総合研究博物館ニュース Ouroboros』7巻1号、2002年5月10日発行)東京大学総合研究博物館webサイト、2008年10月30日閲覧

・三浦義彰「20世紀のわが同時代人(36)-三宅秀」(『千葉医学雑誌』76巻5号、2000年)

・三浦義彰「医学者たちの一五〇年 名門医家四代の記」(平凡社、1996年)
(wikiより)

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三宅 秀

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三宅 仁 ( みやけ - まさし )    
明治 41年 ~ 昭和 44年 12月 25日 ( 1908 - 1969 )

病理学者。

東京大学医学部名誉教授。

父、三宅鉱一 ( 長男 )。

昭和 7年 ( 1932 ) 東京帝国大学医学部卒。

同大学病理学教室に所属し、長与又郎・緒方知三郎・三田村篤四郎教授に師事。

昭和 22年 ( 1947 - 1968 ) 東京大学医学部教授。退官後、名誉教授。

多くの病理学に優れた業績を残したが、中でも原子爆弾症の研究は世界初の業績である。

正面「三宅家之墓」。三宅鉱一に合祀。「正源院殿徳誉仁堂明円居士」。

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石本 綱 ( いしもと - つな )     
天保 14年 11月 4日 ~ 明治 20年 9月 18日 ( 1843 - 1887 )

陸軍歩兵中佐。

陸軍大臣・石本新六の実兄。

名、石本為綱。幼名、従四郎。

父、姫路藩士・石本為延 ( 4男 )。母、福田氏。

江戸の旧姫路藩邸で生まれる。

和漢書史に詳しく、山鹿流長槍の名人。

洋式兵法を学び、維新時の陸軍大隊長兼教師。権少参事。

明治 5年 ( 1872 ) 陸軍大尉。

明治 8年 ( 1875 ) 歩兵第 8連隊第 2隊長。

明治 10年 ( 1877 ) 西南の役に従軍。歩兵第 9連隊大隊長。

明治 11年 ( 1878 ) 総務局報告課長。

明治 17年 ( 1884 ) 東京鎮台軍法会議判士長。

明治 18年 ( 1885 ) 軽重局判士長、次長。

明治 19年 ( 1886 ) 東京鎮台後備軍司令官。

明治 20年 ( 1887 ) 軍法会議判士長。小笠原島で病死。陸軍歩兵中佐。従五位勲三等旭日大綬章。45歳没。

甥に男爵・石本恵吉・満鉄理事・石本憲治・陸軍中将・石本寅三・東大教授・石本巳四雄・陸軍少将・石本五雄がいる。正面「陸軍歩兵中佐従五位勲三等石本綱之墓」。略歴あり。

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酒井 忠晄(さかい ただあきら、1887年(明治20年)8月28日 - 1923年(大正12年)1月18日)は、日本華族従五位子爵、旧出羽松山藩(松嶺藩)主酒井家第9代当主。

略歴
1887年(明治20年)8月28日 - 旧出羽松山藩主・酒井忠匡の長男として生まれる。


1911年(明治44年)4月30日 - 父・忠匡が死去する。


  ・5月16日、爵位を襲爵し子爵となる。


1923年(大正12年)1月18日 - 死去、享年35。 谷中霊園天王寺墓地に葬られる。

家族親族
・父:酒井忠匡 - 出羽松山藩(松嶺藩)第8代当主

・妻:酒井卷子 - 滋賀県士族・樹下宣之助の長女

・長男:酒井忠康 - 旧松山藩第10代当主

・長女:酒井慎子 - 酒井忠明(旧庄内藩主家第17代当主) 夫人

参考資料
・『庄内人名辞典』 編纂・出版:庄内人名辞典刊行会
(wikiより)

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酒井忠康 ( さかい - ただやす )     
大正 4年 ~ 昭和 42年 10月 23日 ( 1915 - 1967 )

旧松嶺藩主・酒井忠匡の孫・子爵。

父、子爵・酒井忠晃 ( 長男 )。旧羽後松山藩酒井家第 10代当主。掌典。

大正 12年 ( 1923 ) 襲爵。

妻は、伯爵酒井忠良の 4女千鶴。52歳没。正面「掌典酒井忠康墓」。

 掌典職 ( しょうてんしょく ) : 皇室で宮中祭祀を担当する部門。

〇 掌典職

掌典職(しょうてんしょく)は、日本皇室において宮中祭祀を担当する部門である。宮中三殿においてその職務を行う。


戦前、国家機関であった当時は、宮内省外局として国家機関の位置付けであった。

宮内省式部職掌典部
「宮内省官制」(明治40年皇室令第3号)制定当時は、「典式」として式部職の所掌とされ、式部職に掌典部が置かれ、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補を置くことが定められた。

それぞれの職務権限を述べると、


・「掌典長」は親任官又は勅任官とされ、皇室祭祀に奉仕し、掌典部・掌典職の事務を掌理し、所部職員を監督する。


・「掌典次長」は勅任官とされ、掌典長をたすけ、掌典長に事故があるときはその職務を代理する。


・「掌典」は12人を定員とされ、奏任官名誉官とすることもできた。)とし、祭事を分掌する。


・「内掌典」及び「掌典補」は判任官とし、「内掌典」のうち1人は奏任官とできた。ともに祭事に従事する。


  ・なお、「内掌典」は女性が就任する官職である。

宮内省掌典職
「掌典職官制」(昭和14年皇室令第4号)により、宮内省に掌典職が置かれ、掌典職には、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、事務官及び属を置くことが定められた。


・掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補は、宮内省式部職掌典部時代と同様の職掌である。


・「事務官」は奏任官として掌典職の庶務を掌り、「属」は判任官として掌典職の庶務に従事していた。

内廷機関としての掌典職
1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行に伴う同省の廃止(宮内府への移行)により、掌典職も国家機関としては廃止された。


その後も皇室費内廷費をもって人件費に充てられる職員が置かれる。現在は、天皇の私的使用人としての性格を有する『内廷の職員』とされ侍従のような宮内庁職員(国家公務員)ではない(皇室に直接雇用されている存在)。


責任者の掌典長をはじめ掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、出仕、雑仕等、宮内省掌典職時代と同職名の職員が置かれている。現在の掌典長は、前侍従次長の加地正人


1975年(昭和50年)以後伊勢の神宮勅祭社における祭典では、天皇の使者である「勅使」をつとめる。


関連項目
宮内庁侍従職

侍従

女官

高谷朝子(元内掌典)

皇室の儀式
(wikiより)


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村垣 範正(むらがき のりまさ、文化10年9月24日1813年10月17日) - 明治13年(1880年3月15日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本外交官外国奉行)。初名は範忠。は淡叟。通称は与三郎。官途淡路守

略歴
文化10年(1813年)江戸築地で旗本・村垣範行の次男として生まれる。村垣家は代々庭番役を勤め、祖父・定行松前奉行・勝手掛勘定奉行まで上った。その功により範正は天保2年(1831年)、新規に召し出され小十人格庭番となり、弘化2年(1845年)には細工頭、安政元年(1854年)には賄頭を経て勘定吟味役に抜擢。海防掛蝦夷地掛として同年3月より蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰府した。


同年、ロシアプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年(1856年)7月には箱館奉行に昇進し、9月には従五位下・淡路守に叙された。先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。1857年にはアイヌの間で蔓延していた天然痘対策のために幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた[1]。これは幕府が正式に認めた初の種痘であった。安政5年(1858年)には安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを買われた。

万延元年遣米使節
万延元年遣米使節」を参照


安政7年(1860年日米修好通商条約批准書交換のため幕府アメリカへ派遣する使節団の副使(正使は新見正興、目付は小栗忠順)を拝し、正月に米国軍艦ポーハタン号にて太平洋航路で出港。途中ハワイに寄港し、3月にサンフランシスコに到着。ワシントンD.C.に向かい、4月3日に批准書を交換。アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンと会見した。帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカインドを経由して帰国、9月27日に江戸へ到着した。この間、克明な航海日誌(『村垣淡路守公務日記』、『遣米使節日記』とも)を残した。

帰国後、功績により300石を加増され、500石取となった。同年11月プロシア(プロイセン)の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクとの間の日普修好通商条約締結にあたり、交渉中であった堀利煕が突然謎の自刃を遂げたため、その交渉の任を引き継ぎ、翌月、日本側全権として調印に臨んだ。


文久元年(1861年)ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件)に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。

文久3年(1863年)6月には作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年(1868年)には病のためと称して隠居、淡叟と号した。明治維新後は官職に就かず、明治13年(1880年)に東京にて没した。享年68。墓は谷中墓地東京都台東区)に建てられた。


遣米使節の護衛として咸臨丸に乗船した軍艦奉行木村喜毅(芥舟)は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、福地源一郎(桜痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。

子孫
作曲家の服部逸郎(レイモンド服部)は直系の子孫(曾孫)にあたる[2]

参考文献
・『国史大辞典』(吉川弘文館)「村垣範正」(執筆:三谷博

・『明治維新人名辞典』(日本歴史学会編、吉川弘文館1981年)979ページ「村垣範正」

・『ロシア人の見た幕末日本』(伊藤一哉、吉川弘文館、2009年ISBN 9784642080200

脚注
1. 「近代医学の先駆者 ハンターとジェンナー」p164-165 山内一也 岩波書店 2015年1月20日第1刷
2. 服部逸郎 『77人の侍アメリカへ行く――万延元年遣米使節の記録』 講談社講談社文庫〉、1974年2月15日、372頁。 

関連項目
新見正興

堀利煕

小栗忠順

エフィム・プチャーチン

海岸防禦御用掛
(wikiより)

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村垣範正 ( 左側 )

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下山寛一郎 ( しもやま - かんいちろう )     
文久 3年 9月 11日 ~ 明治 25年 7月 13日 ( 1863 - 1892 )

明治前期の教育家・文学士。

父、下山一敬 ( 長男 )。

茨木県結城郡出身。

明治元年 ( 1868 ) 父に従い静岡に移住。

明治 3年 ( 1870 ) 父が大蔵省に任官となり上京。共立学校に入る。

明治 12年 ( 1879 ) 大学予備門入学。

明治 16年 ( 1883 ) 文学部に入る。

病気で 2年休学後明治 22年 ( 1889 ) 東京大学文科大学史学科卒業。

高等官五等となり陸軍幼年学校勤務。

明治 25年 ( 1892 ) 陸軍学校教授。東京法学院・同専門学校・哲学館等教授。

病気再発のため没する。正 8位。30歳没。

著書:「史学原理」、「万国政治歴史」、ほか幼年学校教科書・万国歴史・与地学教程等。

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河田柳荘 ( かわだ - りゅうそう ) / 河田 羆 ( かわだ - たけし )     
天保 13年 9月 7日 ~ 大正 9年 1月 4日 ( 1842 - 1920 )

地理学者・「大日本地名辞書」および「大日本国誌」編纂のメンバー。

名、羆 ( たけし )。

父、河田迪斎 ( 三男 / 四男 )。河田貫堂 ( 熙 ) の弟。母は、佐藤一斎の娘。

田口卯吉は、母方の従妹町子の子。甥は甥は河田 烈。

安政 2年 ( 1855 ) 林家の家塾に入門。

文久元年 ( 1861 ) 1月昌平坂学問所の教授方出役。

同年 12月外国奉行支配調役並。

文久 3年 ( 1863 ) 新藤家の養子となる。

慶応 4年 ( 1868 ) 維新により免職となり駿府の静岡学問所の三等教授となる。

明治 5年 ( 1872 ) 廃校により免職。

間もなく内務省地理局地誌課勤務。このときの部下に、地理学者・河井庫太郎がいる。

明治 10年 ( 1877 ) 新藤家と離縁し河田姓に戻る。

渡邊 中・秦政治郎らと共に「大日本国誌」の編纂に大きく関与している。

しかし、明治 23年 ( 1890 ) 研究資金欲しさに河合庫太郎が詐欺事件を起こす。

依田学海のメモには、「庫太郎はこの外に内務地理局の河田 羆と連印して平沼より三千金を借用したりとぞ」と記している。この責任が河田柳荘にも及びクビになったため返済の手立てがなく、兄の河田貫堂がその金を償う。

詐欺事件の具体的な内容は明らかではないが、どうも本郷 4丁目の土井利與の土地に関することのようである。

そして数年表を歩けない状態となる。

また、兄・貫堂の信頼も失ってしまい、経済的にも打撃となった。

のち、明治 26年 ( 1893 ) 史誌編纂掛が廃止され、非職となる。

明治 27年 ( 1894 ) ころ岩崎弥太郎の援助で「静嘉堂文庫」の整理に従事する。

明治 29年 ( 1896 ) 以降、「支那彊域沿革図」、「支那彊域沿革略説」、「沿革考證 日本読史地図」、「沿革考證 日本読史地図図説」、「日俄戦記」、「大磯誌」を刊行する。

この間明治 33年 ( 1900 - 1905 ) 田口卯吉の依頼により、「東京経済雑誌」に連載する。

大正 9年 ( 1920 ) 脳出血で本郷の自宅で没する。77歳没。

 静嘉堂文庫 : 三菱創設者の岩崎弥太郎の弟岩崎弥之助が明治 25年 ( 1892 ) 頃自邸内に創設した文庫「静嘉堂」を起源としており、自分のコレクションを収蔵。

後継の子・岩崎小弥太が世田谷区に「静嘉堂文庫」を建設。

のち、財団法人として岩崎家と離すが、戦後に財政難となり運営を国立図書館の傘下とする。

のち、三菱の援助で独立し私立図書館となる。公開は、研究者を対象としており、一般には公開していない。正面「柳荘河田先生之墓」。

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⇧⇩ 奥様墓。

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石本惠吉 ( いしもと - けいきち )     
明治 22年 ? ~ 昭和 26年 2月 6日 ( 1889? - 1951 )

男爵・加藤シヅエの先夫。

父、石本新六 ( 長男 )。

東京出身。

明治 45年 ( 1912 ) 父の死去に伴い襲封。

はじめ三井鉱山に入社、三池炭坑勤務。

のち北支那・シベリアの鉱業視察。のち欧米視察。

大正 10年 ( 1921 ) 欧米諸国の書籍取り次ぎ業「大同洋行」を興す。

大正 13年 ( 1924 ) 我が国の人口問題解決策として北朝鮮・満州地方の資源開発を企画。また、労働問題の研究も行う。

社会問題研究家の広田シヅエ ( のちの加藤シヅエ ) と結婚するも、多額の債務を残し家を捨て中国に逃げたため、昭和 19年 ( 1944 ) 裁判により離婚される。62歳没。

著書 : 「日本工業政策論」。正面「石本家之墓」。

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京極 高福 (きょうごく たかとみ、生没年不詳)は、江戸時代後期の高家旗本。父は京極高正通称は兵庫。官位は従五位下侍従・丹後守。


天保3年(1832年)閏11月5日、家督を相続する。天保6年(1835年)11月1日、将軍徳川家斉御目見する。天保14年(1843年)6月、上知令により安房朝夷郡内428石を収公され、同年8月に下総豊田郡内660石を替地として与えられる。嘉永3年(1850年)10月28日、高家職に就き、従五位下侍従・丹後守に叙任する。慶応4年(1868年)2月22日、新政府に服属し、朝臣となる。
(wikiより)

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石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日嘉永7年1月20日[1][2]) - 1912年明治45年)4月2日[1][2])は、日本陸軍軍人陸士旧1期)、政治家。 最終階級は陸軍中将位階従五位勲等勲一等功二級爵位男爵

経歴
姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる[1]1869年開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ[1]陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学[1]西南戦争に従軍し、1877年7月、工兵少尉に任官[1][3]

1878年12月、陸士(旧1期)を卒業した[1][2]


後、フランスに留学し、1881年8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国[1]。欧州差遣(イタリア)、参謀本部第3局第2課員、参謀本部第2局員、陸軍省軍務局工兵事務課長、工兵課長、築城本部長、兼陸軍砲工学校長を経て、1898年3月、陸軍少将に進級した[1][2][3]


陸軍総務長官を経て、日露戦争時は陸軍次官(法務局長兼任)として寺内正毅陸軍大臣を支えた[1][2][3]1904年10月、陸軍中将に昇進[1][2][3]1907年9月21日、男爵の爵位を叙爵し華族となった[4]1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する[1][2][3]陸軍師団増設問題が懸案となり、2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中に死去した[2]。後任の陸相には上原勇作が就任。

年譜
・1877年(明治10年)7月5日 - 少尉


・1880年(明治13年)5月7日 - 工兵中尉


・1883年(明治16年)2月28日 - 工兵大尉


・1888年(明治21年)2月17日 - 工兵少佐


・1891年(明治24年)11月7日 - 工兵中佐


・1892年(明治25年)7月1日 - 軍務局工兵事務課長


・1894年(明治27年)1月10日 - 免兼海軍大学校教官[5]


・1895年(明治28年)

  ・1月29日 - 工兵大佐

  ・7月29日 - 高等官三等、兼任臨時台湾橙標建設部事務官[6]


・1896年(明治29年)

  ・5月9日 - 軍務局工兵課長

  ・11月20日 - 東京市区改正委員[7]


・1897年(明治30年)

  ・9月15日 - 築城本部長

  ・10月23日 - 兼陸軍砲工学校校長[8]


・1898年(明治31年)

  ・3月3日 - 陸軍少将

  ・3月10日 - 免土木会委員[9]


・1899年(明治32年)6月15日 - 築城本部長


・1902年(明治35年)4月17日 - 陸軍省総務長官兼理事兼法務局長


・1903年(明治36年)

  ・7月24日 - 高等官一等[10]

  ・12月5日 - 陸軍次官兼法務局長


・1904年(明治37年)

  ・2月27日 - 兼俘虜情報局長官

  ・7月9日 - 兼臨時陸軍検疫本部長[11]

  ・10月13日 - 陸軍中将


・1905年(明治38年)12月28日 - 免法務局長


・1907年(明治40年)9月21日 - 男爵叙爵


・1909年(明治42年)

  ・9月12日 - 人事局長事務取扱

  ・11月30日 - 免人事局長事務取扱


・1911年(明治44年)

  ・8月30日 - 陸軍大臣

  ・9月29日 - 免鉄道会議議員[12]

栄典
1890年(明治23年)7月3日 - 従六位[13]

1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[14]

1895年(明治28年)3月28日 - 従五位[15]

1898年(明治31年)4月30日 - 正五位[16]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[17]

1895年(明治28年)

  ・10月21日 - 旭日小綬章功四級金鵄勲章[18]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[19]

1898年(明治31年)11月24日 - 勲三等瑞宝章[20]

1905年(明治38年)5月30日 - 勲二等瑞宝章[21]

・1906年(明治39年)4月1日 - JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg 勲一等旭日大綬章JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg 功二級金鵄勲章明治三十七八年従軍記章[22]

1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [23]

JPN Zuiho-sho (WW2) 3Class BAR.svg 勲三等瑞宝章

外国勲章佩用允許
1887年(明治20年)5月18日 - Cavaliere OCI BAR.svg イタリア王冠勲章英語版カヴァリエーレ[24]

1904年(明治37年)12月2日 - 大清帝国二等第二双竜宝星[25]

・1905年(明治38年)8月8日 - 勲一等太極章[26]

・1909年(明治42年)11月30日 - Order of Saint Anne Ribbon.png 1等聖アンナ勲章英語版[27]

Legion Honneur Chevalier ribbon.svg レジオンドヌール勲章シュヴァリエ

墓所
天王寺 (台東区)

親族
・妻 石本えつ 安達松太郎(陸軍教授)の妹[1]


・嗣子 石本恵吉(1887-1951、実業家)[1] - 旧制第一高等学校(級友に岩波茂雄)、東京帝国大学工学部採鉱冶金科卒業後、三井鉱山勤務を経て、渡米。洋書取次業「大同洋行」を興し、外地での資源開発や労働問題の研究を行ない、30代半ばで中国に渡る。1914年に広田シヅエ(のちの加藤シヅエ)と結婚し二男をもうけたが、事業の失敗で負債を抱えて音信不通となり、離婚[28]。1938年に北京で中国人と再婚し二女をもうけるも、1949年に中国官憲に逮捕され日本に送還される[29]


・二男 石本憲治(南満州鉄道理事)[1]


・三男 石本寅三(陸軍中将)[1]


・四男 石本巳四雄東京帝国大学教授理学博士[1]


・五男 石本五雄(陸軍少将)[30]


・娘婿 瀧川政次郎法学博士[1]


・兄 石本綱(陸軍中佐)[1]


・妻の甥 安達十六(陸軍少将)・安達十九(陸軍中将)・安達二十三(陸軍中将)


・孫 石本新東京工業大学教授)- 恵吉の長男。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、19頁。
2. a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』72頁。
3. a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』49頁。
4. 『官報』第7272号、明治40年9月23日。
5. 『官報』 1894年1月11日 敍任及辭令
6. 
『官報』 1895年7月31日 敍任及辭令
7. 
『官報』 1896年11月21日 敍任及辭令
8. 
『官報』 1897年10月26日 敍任及辭令
9. 
『官報』 1898年3月11日 敍任及辭令
10. 
『官報』 1903年7月25日 敍任及辭令
11. 
『官報』 1904年7月11日 辭令
12. 
『官報』 1911年9月30日 辭令
13. 
『官報』第2104号「叙任及辞令」1890年7月5日。
14. 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
15. 官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
16. 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
17. 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
18. 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
19. 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
20. 『官報』第4625号「叙任及辞令」1898年11月29日。
21. 『官報』第6627号「叙任及辞令」1905年8月2日。
22. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
23. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
24. 『官報』 1887年5月19日 敍任及辭令
25. 『官報』第6433号「叙任及辞令」1904年12月8日。
26. 『官報』 明治38年8月11日
27. 『官報』明治42年12月4日
28. 石本惠吉(いしもとけいきち) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
29. 『心の軌跡』石本幸子、朝日新聞出版、2013、p385
30. 『日本陸海軍総合事典』第2版、18頁。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

『陸軍現役将校列次名簿』(明治36年7月1日調) 13頁
(wikiより)

2854  石本新六

石本新六

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藤野海南 ( ふじの - かいなん )    
文政 9年 ~ 明治 21年 3月 18日 ( 1826 - 1888 )

明治前期の歴史家。

名、正啓。字、伯廸。

松山藩員。

嘉永元年 ( 1848 ) 昌平黌で史学を学んだ。

同学にて重野成斎・三浦安針・巌谷修らと親交を結ぶ。

傍ら、蘭学を河野通猶、暦法を小松無極に、航海術を勝海舟に学ぶ。

嘉永 6年 ( 1853 ) 藩校「明教館」寮長。

万延元年 ( 1860 ) 再度江戸に出て昌平校舎長兼詩文掛となる。

戊辰の役の際松山藩の長州征伐や戦後処理に尽力した。

明治元年 ( 1868 ) 藩が朝敵として追討された際、藩論を統一し恭順させ、謝罪書を岩倉卿に哀をこうて事を収めた。

長州再征の役の際は、一番大隊を率いて出陣。

明治 2年 ( 1869 ) 昌平黌教授となり、藩政改革の際に帰藩し、諸官を歴任、権大参事となった。

明治 5年 ( 1872 ) には藤野海南の主導で「旧雨社」が創設され、その社盟には重野成斎、岡鹿門、鷲津毅堂、阪谷朗虚、南摩羽峰、木原老谷、那珂梧楼、小山春山、川田甕江・中村敬宇、秋月楽山、村山拙軒、萩原西疇、依田学海、信夫恕軒、亀谷省軒、島田篁村、股野藍田、日下勺水、小野湖山、岡松甕谷、小永井小舟、森春橙濤らが参加した。また同年東京府誌を編修。その後明治9年(1876)修史館編修者になり「先朝紀略」等を編纂した。修史局では、重野安繹と親交を持つ。63歳没。

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田代秀徳 ( たしろ - ひでのり )     
明治 33年 ~ 昭和 62年 11月 20日 ( 1900 - 1987 )

哲学者・新潟大学長。

父、田代義徳 ( 三男 )。

東京出身。

大正 14年 ( 1925 ) 東京大学文学部哲学科卒業。

立教大学・京都大学・弘前大学教授。東海大学客員教授。

昭和 34年 ( 1959 ) 新潟大学長。

著書 : 「日本の伝統的文化」、「生活と哲学的思索」、「東洋のこころ日本のこころ」、「歴史の哲学的意義」、「近代人と宗教」、「無一物中無尽蔵」、「生命的現実の哲学」など多数。87歳没。

秀徳 : 「仏心院道秀徳居士」。禅語の「柳緑花紅」 ( 柳は緑、花はくれない ) と記してある。

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田代信徳 ( たしろ - しんとく / のぶのり )     
明治 24年 ~ 昭和 39年 11月 25日 ( 1891 - 1964 )

日本大学医学部名誉教授。

父、田代義徳 ( 長男 )。

東京出身。

東京帝国大学医学部卒業。

大正 11年 ( 1922 ) ドイツ・オーストリア・イタリア・スエーデン各国を遊学。

大正 12年 ( 1923 ) 日本大学専門部医学科初代教授。日本大学医学部名誉教授。

昭和 2年 ( 1927 ) 医学博士。東京田代病院長。

昭和 35年 ( 1960 - 1965 ) 日本歯科大学初代教授。下谷医師会会長。73歳没。

長男の田代公徳は、東京田代外科八重洲クリニック院長。

信徳 : 法名なし。

公徳 : 法名なし。合祀。

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田代基徳 ( たしろ - もとのり )    
天保 10年 ~ 明治 31年 3月 21日 ( 1839 - 1898 )

陸軍軍医監・大学東校大助教。

父、中津藩儒医・松川修山。

従兄の中津藩医・田代春耕の養子。

肥?に師事し漢方を学ぶ。

のち大阪の適塾で緒方洪庵に師事し蘭学を学ぶ。

洪庵が西洋医学所頭取となると江戸に出て元治元年 ( 1864 ) 医学所句読師を拝命。

慶応元年 ( 1865 ) 軍医。

明治元年 ( 1868 ) 鳥羽伏見の役にて傷病兵の治療に従事。

同年居を下谷練塀町に移し、私塾「修文舎」を開き医学生を養成。

明治 2年 ( 1869 ) 足立 寛・相良有孚らと大学東校中助教。

明治 5年 ( 1872 ) 大助教。

明治 7年 ( 1874 ) 松本良順等と医学会の前身である「医学会社」を創立。
同年陸軍に出仕し二等陸軍医正。

明治 16年 ( 1883 ) 陸軍軍医監。

明治 25年 ( 1892  )陸軍医正。翌年退官。

整形外科の開祖と言われる。

養子に田代義徳がいる。正五位勲三等。

明治元年 ( 1868 ) 訳書「切断要法」を出版。著書 : 「外科手術」・「医事新聞」に寄稿。正面「田代基徳 / 室 千代子 墓」。

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田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日元治元年7月26日) - 1938年昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。

生涯
略歴[1][2]
1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる[3]。同年秋、長兄の勧めもあり上京し英語学校やドイツ語学校に通い、1879年(明治12年)東京大学予備門に入学した。


1883年
(明治16年) 医師(後に軍医総監)の田代基徳の養子となり「田代義徳」と改名し、基徳の長女春子と結婚する。1889年(明治22年)7月優秀な成績(席次6位)で東京帝国大学医科大学(学制変更により分化大学制となる)を卒業し[4]、同大第一外科講座に入りユリウス・スクリバ(Julius Karl Scriba)教授の助手となる。また、同年済生学舎において外科学講座を担当した。1891年(明治24年)4月田代病院を設立すると共に義父基徳が主宰していた「医事新聞」の発刊を継承した。1893年(明治26年)田代病院に専念のため大学を依願退職するが、1896年(明治29年)東京帝国大学に戻り緒方正規教授に指示し細菌学を学ぶ。1900年(明治33年)文部省留学生としてドイツオーストリアに向かい、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)他で外科学・病理学を学ぶ。


1903年
(明治36年)9月留学先で東京帝国大学医学部(学制変更により学部制となる)助教授に任じられ、翌年3月帰国。同年9月論文提出により医学博士号を授与され[5]、同月外科学第二講座担当を命じられる。1905年(明治38年)9月佐藤三吉教授の訪欧に際し外科学第一講座担当となり、その頃日露戦争による傷病兵を収容した東京陸軍予備病院にて治療を行う。1906年(明治39年)5月東京帝国大学医学部教授となり日本初の整形外科専門の教室を担当、同年10月整形外科としての診療を開始する。1907年(明治40年)富山県氷見地方に出張し、同県下で発生している奇病を調査する。1908年(明治41年)三井慈善病院(現三井記念病院)創立と共に初代院長兼外科部長に就任し、翌年第10回日本外科学会において会長に推される。1912年(大正元年)11月東京田代病院新本館が落成する。


1916年
(大正5年)7月欧米に第一次世界大戦における戦傷者治療の実際を視るため出張し、翌年8月帰国する。1921年(大正10年)4月東京帝国大学評議員に就任し、同月日本初の肢体不自由児療養施設クリップル・スクール「柏学園」創設に尽力し同学園顧問に就任する[6]。また、同月日本レントゲン学会会長となる。1923年(大正12年)9月関東大震災により東京田代病院が全焼する。同年10月定年により大学を退官し、翌11月名誉教授となる。なおこの年、レントゲン技術者の養成を目指し日本レントゲン協会を設立した。


1925年
(大正14年)下谷区会議員に当選し、次いで下谷区医師団等の推薦により東京市会議員に当選し3期議員を務める。市議として医事衛生から電気・水道・ガス問題等の委員となり、特に肢体不自由児童への対応に力を尽くし、1932年(昭和7年)6月1日に日本初の肢体不自由児専門小学校である東京市立光明学校(現・東京都立光明特別支援学校)創設を成し遂げた。また、東京府社会事業委員会第三部(救援)部長として、協会附属病院(現城東社会保険病院)開設に注力し初代病院長兼外科部長に就任した。1936年(昭和11年)1月脳溢血に倒れ、東京帝国大学時代の盟友入沢達吉が主治医として治療を行い一時快方に向かうが、1938年(昭和13年)12月1日逝去する。

栄典
1923年(大正12年)12月28日 - 正四位[7]

エピソード
田部井から田代へ
ある年の冬、軍隊訓練のため両毛地方へ軍と帯同していた医師の田代基徳が田部井家に泊まり、田部井家の三男又助が「朝から晩まで書物を読み、布団の中でもまだ辞書を離さない。」という話を聞き、また「近隣の評判も秀才として名が通っており」すっかり感心した田代は何としても又助を養子にしたいと考え、数ヵ月後正式に養子として迎えたいと田部井家に申し込んだ[3]

演説会
東京帝国大学同期生の入沢達吉によれば、学生時代当時流行していた政談演説を明治会堂などによく聴きに行き、ある時二人で騒ぎ過ぎ演説者の「植木枝盛」から怒られた。今で言えば活動写真を見に行く位のつもりだった。暫くすると学生が政談演説を聴くことが禁止されたため、次に二人は金子堅太郎・岩崎小次郎・鳩山和夫等の学術演説を聴きに行くようになった。しまいに二人とも聴くだけでは面白くなくなり同好の学生と語らって「有舌社」とか「リングア会」と言う会を作り演説の稽古を競って行っていた[1]

日本外科学会
1897年
(明治30年)11月三輪徳寛・木村孝蕨・田代正医師の留学送別の宴が上野精養軒で行われた。その席上日本外科学会創立に就いての話し合いが行われ、田代義徳・近藤次繁佐藤恒久が日本外科学会規則草案を起草することになった。1898年(明治31年)4月7日神田青年会館に於て学会設立の発起人会が開かれ、翌年4月に第1回日本外科学会を東京で開くことを決定した。また、第一回役員選挙の結果、会長佐藤三吉、幹事に近藤次繁・田代義徳・佐藤恒久が選ばれた[8]。田代は日本外科学会のほか日本レントゲン学会開設にも深く係わった。

整形外科命名
田代が1904年(明治37年)留学から帰国後、(英文Orthopaedics)の日本語訳を悩み、入沢達吉と漢学者を加え考えた結果康熙字典から「整体」の字を見出したもので、整形外科として文部省に届出採用された。「整」は「これを束ね、これをたたき、これを正しうす」という意味であり、形を整えれば機能も正しくなるということで「整形外科」とした[2]

明治医会
日本医史中、明治後期には二つの勢力が存在した。一つは「大日本医師会(後に帝国連合医会)」で1893年(明治26年)につくられた医術開業免状を持つ開業医の団体で、理事長に高木兼寛、理事に長谷川泰長与専斎佐藤進石黒忠悳等を中心にした東大設立以前または草創期の医師達の集まり。もう一つは「明治医会」と称し東大卒医師の集まり。明治会の中心はドイツ留学経験者でその主張の要点は近代医療を学んだ医師と江戸期から続く塾あがりの医師は知識・技術の点で差異があり同列に取り扱われること自体がおかしいとの意見を持っていた。田代は青山胤通・入沢達吉・川上元治郎等と共に明治医会の中心人物の一人であった。


1897年(明治30年)3月、第10回帝国議会以降、正規の医学校卒業生の特権を守ることに主眼を置く明治医会と在野開業医の医権養護に重点が置く帝国連合医会との間で医師法案を巡り激しく対立した[9]。結果的には、明治医会が重要とした1.漢方医の根絶、2.医術開業試験の全廃、3.歯科医の医業からの排除、4.医師会への加入の任意性の内1・3・4は事実上目的を達し、2.は8年後に廃止と決まったことから、明治医会の目的がほぼ達成された内容で1906年(明治39年)3月26日に貴族院の可決により「医師法」が成立した。

論文・著作
・「新纂医術後期試験問題答案軌範」(田代義徳・山田良叔閲 誠之堂 1893年)

・「外科類症鑑別」(桂秀馬・田代義徳閲 朝香屋 1896年)

・「外科手術関鍵」(エスマルヒ著、岡田和一郎・田代義徳訳 松崎留吉 1896年)

・「外科手術篇」(田代義徳著 半田屋書店 1893年)

・「摘要外科各論」(木村鉞太郎著・田代義徳閲 南江堂 1897年)

・「摘要外科全書」(木村鉞太郎著・田代義徳閲 南江堂 1900年)

・「智兒曼斯氏外科總論 卷1-巻3」(チルマンス原著・田代義徳譯 南江堂書店 1903年-1904年)

・「臨床応用按摩術指南」(田代義徳著他 誠之堂 1909年)

・「近世診療技術」(入沢達吉・田代義徳閲 南江堂 1911年)

・「最新結核病論 結核性股関節炎療法 田代義徳」(山谷徳治郎編 日新医学社 1915年)

・「整形外科学図譜 第1輯」(田代義徳著 高木憲次 1921年)

・「体育学理講演集 第2輯 姿勢に就て 田代義徳」(体育学理研究会 1922年)

・「脊椎「カリエス」患者の心得」(田代義徳著 克誠堂 1926年)

・「医学常識 第3巻 畸形の療法 田代義徳」(東西医学社 1931年)

・「東京医学会雑誌(20)22 1906年11月 富山県下ニ於ケル所謂奇病ニ就テ 田代義徳」(東京医学会)

・「日本外科学会誌 7(1) 1906年12月 稀有ナル膀胱結石ノ二例(附圖第二表甲)討論 山下隆 田代義德他」(南江堂)

・「第9回日本外科学会雑誌 1908年 腱移植術 田代義徳」(日本外科学会)

・「第15回日本外科学会雑誌2号 1914年 骨及び関節結核 田代義徳」(日本外科学会)

家族
・父 田部井森平 足利郡田中村の名主

・母 きせ

・兄 猪子(猪子助)代言人(現弁護士)となる。

・兄 光助

・妹 つな 医師・日本橋区会議員・東京市会議員、宮田哲雄に嫁ぐ。


・義父 田代基徳

・義母 とく


・妻 春子

・長女 菊子 歴史学者・東京帝国大学教授、辻善之助に嫁ぐ。

・長男 信徳 日本歯科大学初代教授。男爵本田政以の三女松子と結婚する。孫 公徳 東京田代外科八重洲クリニック院長。

・次女 桃子 和田信夫に嫁ぐ。

・次男 重徳 外交官・長春駐在日本領事等を歴任。判事明治大学総長、横田秀雄の長女千鶴子と結婚する。

・三女 米子 山本節民に嫁ぐ。

・三男 秀徳 東京大学文学部哲学科卒業、立教大学京都大学新潟大学教授。大審院検事関西大学学長、斉藤十一郎の三女島子と結婚する。

・四女 百合子 東京帝国大学理学部地理学科を卒業した地理・地形・地質学者、今村学郎に嫁ぐ。

・四男 寛徳

・五女 萱子

脚注
1. a b 「先考遺影」(田代秀徳編 南江堂 1963年)
2. a b 「月刊整形外科(17)5 1966年5月1日 田代義徳先生生誕100年祭」(南江堂)
3. a b 「小学校3・4年生社会科副読本 のびゆく足利かつやくした先人たち」http://kyouiku.ashi-s.ed.jp/senjin/g_tashiro.html
4. 「東京帝国大学一覧 1912年」(東京帝国大学)
5. 「学位大系博士録 昭和15-16年版」(発展社出版部)
6. 「整肢療護園のあゆみ」http://www.ryouiku-net.com/introduction/ayumi1.pdf
7. 『官報』第3416号「叙任及辞令」1924年1月15日。
8. 日本外科学会「日本外科学会の足跡」 http://www.jssoc.or.jp/aboutus/society/sokuseki.html
9. 社団法人大阪市南医師会「日本医事史抄・医師法成立以前3」http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi15.html

参考文献
・「伽羅山荘随筆 田代義徳君を語る」(入沢達吉著 改造社 1939年)
(wikiより)

2848  田代基徳

田代義徳

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鼓 包武 ( つづみ - かねたけ )     
弘化 2年 ~ 大正 3年 9月 20日 ( 1845 - 1914 )

陸軍少将。

父、島根県令・佐藤信寛 ( 二男 )。

島根県出身。

萩藩士・鼓氏を継ぐ。

はじめ文を岡本栖雲に学び、剣を北側万蔵に学ぶ。

のち山口騎兵塾で大村益次郎の教育を受ける。

その後、山田顕義に私淑する。ドイツ参謀官メッケルの指導を受ける。

明治 18年 ( 1885 ) 陸軍局に騎兵局が置かれると、その局長となる。

明治 25年 ( 1892 )病 気を理由に退官。

日清戦争時留守第 6師団参謀長・陸軍省軍馬補充部長。従四位勲三等。69歳没。

父、佐藤信寛の曾孫 ( 兄・信彦の孫 )には元首相・岸 信介・佐藤栄作兄弟がいる。

岸 信介の孫に安倍晋三元首相がいる。妻は、玉乃世履の娘・フミ ( 1855 - 1932 )。

正面「翠松院殿徳雄智威大居士 / 忍徳院殿寂幢善柔大姉」。

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室町公康 ( むろまち - きんやす )    
嘉永 6年 ~ 明治 23年 4月 4日 ( 1853 - 1890 )

伯爵・公家・藤原北家閑院流西園寺家一門。

家業は和琴、筝。

父、四辻公績。養父 ( 兄でもある )、四辻公賀 ( 1840 - 1880 )。

子に貴族院議員の室町公大 ( きんもと )。公賀の後継室町公康によって家名を四辻から室町に改める。

明治 18年 ( 1885 ) 華族局御用掛。

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豊原基臣 ( とよはら - もとおみ )     
嘉永元年 ~ 大正 7年 1月 12日 ( 1848 - 1918 )

大審院検事。

名、基臣。本姓、市川。

父、旧彦根藩士・市川曾右衛門安宣 ( 長男 )。

東京出身。

東京市長・松田秀雄の兄。

谷 鉄臣に文を学ぶ。

司法省に出仕。元老院書記官。のち検事として、東京・大阪・宮城控訴院を歴任。京都地方裁判所検事正。大審院検事。正五位勲五等。弁護士。京王電気軌道会社取締役。東京市会議員。71歳没。

 エピソード : 「井伊家の旧臣豊原基臣氏を筆頭として,大岡育造,田口卯吉,島田三郎,肥塚龍,藤田高之,小池靖一,江原素六,須藤時一郎の 9氏連署」により、直弼暗殺現場にちかい日比谷公園内に井伊直弼の銅像建設願書を、明治 32年 ( 1899 ) 3月 11日に東京市に提出したが、水戸家をはじめとして安政の大獄の被害者の関係者の反対もあって結局果たせなかった。

正面「正五位勲五等豊原基臣 / 室 政子 墓」。「元亨院釈基観居士」。

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原田 直次郎(はらだ なおじろう、1863年10月12日文久3年8月30日) - 1899年明治32年)12月26日)は、洋画家。父は兵学者の原田一道、兄は地質学者原田豊吉。兄の遺児で、のちに元老西園寺公望の秘書となる原田熊雄を引き取っていた[1]。また、森鷗外の小説『うたかたの記』の主人公、巨勢のモデルでもある。

生涯
1863年8月30日、幕府蕃書調所出役の原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生した。同年、遣欧使節に任命された池田長発に父が随行し(横浜鎖港談判使節団)、そのまま4年間留学した。開明的な父のもとで直次郎は、早くから外国語教育を受けており、1870年には大阪開成学校に入学してフランス語を学び、1873年には、神田の東京外国語学校(旧外語)フランス語科に入学した。1881年に外国語学校を卒業[2]し、8月に大久保正親の次女・大久保さだと結婚し、2年後に長女寿(ひさ)生まれる[3]

ドイツ留学
11歳の頃から、洋画家の山﨑成章につき、20歳で当時洋画家の最高峰であった高橋由一とその子源吉に1年弱学ぶ。源吉が編集した『高橋由一履歴』には門人一覧があるが、その末尾に原田直次郎の名がある。そして1884年、21歳でドイツに渡り、兄豊吉の友人画家ガブリエル・マックスに師事し、ミュンヘン・アカデミー(美術学校)に聴講生として登録。私費留学中は、ドイツ官学派(アカデミズム)の手厚い写実を身につけると同時にドイツ浪漫主義派の作風に影響を受け、世紀末趣味にも強い関心を示した。またミュンヘンでは、陸軍省派遣留学生の森鴎外[4]や画学生ユリウス・エクステルと交友を結ぶ。原田には自画像は殆どないが、エクステルは「ある日本人の肖像」という題で、原田の等身大肖像画を描いている(バイエルン湖城庭園管理局蔵)。


1886年夏、下宿先の1階にあるカフェ店で働くマリイと同棲し、避暑をかねて写生旅行に出かけた[5]。10月頃、欧州出張中に美術事情の視察も命じられた文部省専門学務局長の浜尾新を案内しており、11月22日に妊婦のマリイを残してミュンヘンを発った(マリイは原田を見送った)[6]スイスを経由し、ヴェネツィアでは長沼守敏に、ローマでは松岡寿に会い、翌年パリに移った。パリでは、短期間ながらエコール・デ・ポザールの聴講生になり、5月にフランスを後にした。

帰国と奮闘
1887年7月、東京にもどった。しかし国内は、洋画排斥の嵐のまっただ中にあり、10月に洋画科を置かないまま東京美術学校が設立されると(ただし開校したのは1889年2月)、11月に原田は岡倉覚三(天心)とフェノロサの支持母体で国粋主義的な龍池会に入会した。同月19日、華族会館での龍池会例会で、フェノロサの絵画改良論(洋画排斥論)と狩野派を批判する講演をした(「絵画改良論」として『龍池会報告』第31号に収録)。その後も、龍池会とその改組された日本美術協会にしばらく留まり、日本画の振興を目的とした美術展覧会に油彩を出品した。1888年に「東洋画会」特別会員になり、その機関誌に洋画を紹介。原田の日本画壇での啓蒙活動は孤軍奮闘の様相であった。同年10月次女福(とみ)誕生[3]。なお、東京美術学校が学生を受け入れる1か月前の1889年1月、本郷6丁目の自宅アトリエで画塾「鐘美舘」を開いた(無料)[7]。1894年に閉鎖されるまで水野正英小林万吾伊藤快彦和田英作三宅克己大下藤次郎などを指導した。


西洋画の団体「明治美術会」に活動の拠点を移し、仲間とともに東京美術学校に洋画科を開設するよう運動した。1890年、唯一洋画家も出品できる官展、内国勧業博覧会(第三回)に歴史画「騎龍観音」と「毛利敬親肖像」を出品。前者は、大作で人々の注目を集めたにもかかわらず、何も賞を受けなかった(2007年重要文化財に指定)。後者は、妙技三等賞にとどまった。原田は、洋画家の代表として審査官であったものの、審査委員長が洋画排斥の後ろ盾九鬼隆一であり、洋画に厳しい審査結果となった。また同年、東京帝国大学文学科教授で明治美術会賛助会員の外山正一が日本画・洋画にかかわらず、最大の問題として画題の貧困と思想の欠如とを指摘し、とりわけ原田の「騎龍観音」をやり玉に挙げた。その指摘は、多くの反発を呼び、中でも鴎外が外山を強く批判した。


1893年頃、原田は発病し、しだいに歩行が困難になり、やがて寝たまま制作するような状態となった。そうした中、画壇にも大きな変化が起こった。1894年、第六回明治美術会展では、新会員黒田清輝久米桂一郎などの外光表現が注目をあび、翌年の第七回展では、黒田など天真道場出身の画家が多く出品し、原田など古参会員の暗い画風との対比が明瞭になった。当時のジャーナリズムは、その対比を旧派と新派の対立として扇動的に伝え、旧派が批判された。1895年、原田は第四回内国勧業博覧会に歴史画の大作「素尊斬蛇」を出品[8]。1897年、第八回明治美術会展に最期の大作「海浜風景」を出品。弟子の木下藤次郎によれば、その作品も寝たまま、記憶のみで描いたという。1898年9月、療養のため、神奈川県子安村に転居。しかし翌年12月26日、東京帝国大学第二医院で没した。享年36。12月28日、天王寺に葬られ、竜蔵と熊雄の2児名が署せられた。

作風
若くして亡くなったため作品数は少なく、現存する油彩作品は35点程度である。男性の肖像画が多く、女性の肖像画や風景画静物画などはあまりない。原田はドイツで学んだ堅牢な絵画技術もさることながら、遠近法もよく理解していた。鐘美舘での教育も遠近法教授に力を入れ、『遠近法』という絵画技法書を出版する予定であった(草稿が東京国立博物館蔵)。そのため原田の絵には安定感があり、見るものに安心感と心地良さを与えている。

鴎外による人物評
鴎外によれば、原田は、留学中も帰国後もヨーロッパの色に染まらなかったが、留学先のドイツでたいそう師友に愛されていた。主に自然児として愛されていた。また、恬淡無欲の人であった。画塾「鐘美舘」では、謝金を受け取らなかった[9]。洋画の需要が最も少なかった時代、政財界人につてを求めて肖像画をかかせてもらったりすることがなく、むしろ日本赤十字社により昭憲皇太后の肖像画を描く最終候補者3人の1人に選ばれながら辞退した(金500円)。


なお鴎外は、『原田直次郎』(1889年12月)を次の段落で結んだ。「私の友人にも女房持のものは少なくないが、その家庭をうかがって見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鐘美舘がまだ学校であった時、原田はその奥の古家に住んでいた。(中略)。原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮らしていて、私が往けば子供は左右から、おじさんと呼んで取り附いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になってからも、永の年月の間たゆみなく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村附近の家を捜して歩かれたという一事である。思うに原田は必ずしも不幸な人ではなかった。」

年譜
1863年8月30日、原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生。


1868年6月、岡山に転居。


1869年3月、上京し、浅草の池田侯の邸に住む。


1870年3月、大阪に転居し、大阪開成学校に入学してフランス語を学ぶ。


1873年9月、東京の駿河台に転居し、10月に神田の東京外国語学校(旧外語)フランス語科に入学。


1874年頃、山﨑成章に洋画を学ぶ。


1881年、外国語学校を卒業、同年8月に大久保さだと結婚。


1882年天絵学舎高橋由一に師事し、洋画を学ぶ。


1884年2月、絵を学ぶため、妻子を残してドイツに渡った。ミュンヘンに住み、兄豊吉の友人画家ガブリエル・マックスに師事し、またミュンヘン・アカデミーに登録。ドイツ人画学生ユリウス・エクステルと親交を結ぶ。


1886年3月25日、森鷗外が下宿を訪問。8月、マリイと同棲し、また写生旅行に出かけた。10月頃、欧州美術事情視察の文部省専門学務局長、浜尾新を案内。11月22日、ミュンヘンを発ち、スイスとイタリアをへてフランスに向かった。


1887年5月にフランスのマルセイユを発ち、7月に東京着。10月、洋画科を置かないまま東京美術学校が設立。11月に龍池会フェノロサを批判する講演をした。


1888年、「東洋画会」特別会員になり、その機関誌に洋画を紹介。本郷にアトリエを新築。


1889年、本郷アトリエで画塾「鐘美舘」を開いた。


1890年、第三回内国勧業博覧会で審査官となり、「騎龍観音」と「毛利敬親像」を出品、後者で三等妙技賞。雑誌『国民之友』の表紙、挿絵を担当(以後、継続)。


1891年、森鴎外「文づかひ」の収録本の表紙絵と挿絵を描いた。


1895年、第四回内国勧業博覧会に「素尊斬蛇」を出品。病床での制作と伝えられている。


1897年、第八回明治美術会展に「海浜風景」を出品。


1898年9月、神奈川県子安村に転居し、静養。


1899年12月26日、東大病院で没。


1909年11月28日、東京美術学校で原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会を1日のみ開催。


1910年1月、「原田先生記念帖」刊行。


2002年、「靴屋の親爺」(東京芸術大学大学美術館蔵)が重要文化財に指定。


2007年、「騎龍観音」(護国寺蔵、東京国立近代美術館寄託)が重要文化財に指定。

作品
・「神父」 油彩・キャンバス 信越放送株式会社蔵 1885年

・「老人像」 油彩・キャンバス 三重県立美術館蔵 1886年頃

・「老人」 油彩・キャンバス 東京芸術大学大学美術館蔵 1886年頃

・「靴屋の親爺」 油彩・キャンバス 東京芸術大学大学美術館蔵 1886年

・「風景」 油彩・キャンバス 岡山県立美術館蔵 1886年

・「ドイツの少女」 油彩 東京国立博物館

・「西洋婦人像」 油彩・キャンバス 岡山県立美術館蔵 制作年不詳 同名の山本芳翠作の模写

・「島津久光像」 油彩・キャンバス 尚古集成館蔵 1888年

・「上野東照宮」 油彩・キャンバス 岡山県立美術館蔵 1889年 サイン「Naojiro H. 1889.Tokio」

・「毛利敬親像」 油彩・キャンバス 山口県立山口博物館蔵 1890年

・「騎龍観音」 油彩・キャンバス 護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託) 1890年

・「雪景」「連池」 油彩・板 森鴎外記念館津和野町)蔵 制作年不詳

・「新島襄像」 油彩・キャンバス 同志社大学同志社社史資料センター蔵 1890年

・「横井小楠像」 油彩・キャンバス 同志社大学同志社社史資料センター蔵 1890年

・「徳富淇水像」 油彩・キャンバス 水俣市立蘇峰記念館蔵 1893年

・「高橋由一像」 油彩・キャンバス 東京芸術大学大学美術館蔵 1993年

・「三条実美像」 油彩・キャンバス 東京国立博物館蔵

・「伊藤快彦像」 油彩・ボール紙 京都市美術館蔵 制作年不詳

・「風景」 油彩・キャンバス 東京芸術大学大学美術館蔵 1897年

・「安藤信光像」 油彩・キャンバス 東京国立博物館蔵 1898年 絶筆

脚注
1. 1909年7月11日、学習院の学生であった原田熊雄は、直次郎の遺作展を開きたいとして森鷗外を訪ねた。かつて東京美術学校で教職に従事していた鴎外が同校教授黒田清輝を発起人に巻き込み、同年11月28日(日曜日)、同校の校友会倶楽部で「原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会」が開催された。また2か月後、全出品作23点の写真と同時代人の回想とを掲載した「原田先生記念帖」が刊行されており、それは明治美術史の貴重な資料となっている。新関、60-61、138-140頁。

2. 東京外国語学校編 『東京外国語学校沿革』 東京外国語学校、1932年、57頁。 

3. a b 新収蔵品紹介岡山県立美術館 『美術館ニュース』(88) (岡山県, 2010-03)

4. 
鴎外は、原田の存命中から『うたかたの記』の主人公、巨勢のモデルが原田であることを公言していた。

5. 原田は、ミュンヘン時代の終わりにドイツ人女性と同棲した反面、著名な大学教授の娘で、原田を慕う才色兼備の美大生から逃げまわった。鴎外によれば、西洋の風習に必ずしも通じていなかった原田は、日本に残してきた妻のツの字を語るのも気恥ずかしいため、親しくなった鴎外にさえ妻のことを語らなかった。

6. 新関は、鴎外の小説『[[舞姫 (森鴎外の小説)|]]』との類似性を指摘(ドイツ語が得意で政府要人との接触・随行後、妊婦を置いて帰国した日本人留学生のモデルが原田で、その留学生とドイツ人女性を引き離したモデルが鴎外など)。なお鴎外は、『独逸日記』で日本人が外国に子供を残したケースを三つ挙げていた。新関、27-44頁。

7. 
久保田米斎が三木竹二の追悼文で次のように書いた。「帝国大学赤門の向うの憲兵屯所と煙草屋の間を左へ傾斜した細い路を行った所に、木造の西洋館と田舎の茅屋とが並んでいる一構が、森鴎外先生と親交のあった故原田直次郎画伯の画室と住宅とで、(中略)。十五年前の正月のある夜、カルタの大会が催された時(下略)」。カルタの大会には、鴎外や竹二なども参加した。小金井、135頁。

8. 「素尊斬蛇」は、関東大震災で焼失し、写真のみが残る。また、1980年に画稿が発見され、現在は岡山県立美術館所蔵(素戔嗚尊八岐大蛇退治画稿)。

9. 鴎外によれば、原田は、はなはだしい窮乏に陥ったことがないものの、豊かな暮らしをしたこともなく、寒生涯で終わった。

参考文献
芳賀徹『絵画の領分-近代日本比較文化史』朝日選書、1990年。ISBN 978-4-022-59512-6

森鴎外「原田直次郎」『鴎外随筆集』、千葉俊二編、岩波文庫、2000年、49-55、169-177頁。ISBN 978-4-003-10068-4

小金井喜美子『森鴎外の系族』岩波文庫、2001年。ISBN 978-4-003-11612-8

・新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京藝術大学出版会、2008年。ISBN 978-4-904-04903-7

鍵岡正謹 「原田直次郎 上野東照宮」『国華』第1413号、国華社、2013年7月20日、pp.27-30

・『2013年度特別展「鴎外と画家 原田直次郎 ~文学と美術の交響(シンフォニック)~」』 文京区立森鷗外記念館編集発行、2013年9月13日
(wikiより)


2844  原田直次郎

原田直次郎

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藤田 甫 ( ふじた - はじむ )     
嘉永 6年 1月 2日 ~ 大正 2年 7月 11日 ( 1853 - 1913 )

海軍軍医大鑑。正五位勲三等功五級。

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田母野秀顕 ( たもの - ひであき )    
嘉永 3年 ~ 明治 16年 11月 29日 ( 1850 - 1883 )

    
社会運動家。

幼名、留彦・惠寛・千秋・秀顕。

父、三春の神宮赤松某の庶子。

三春藩士。

福島県出身。

幼くて父を亡くし孤児となったため土地の常楽院に入り、修験者となる。

田母野と名乗る。

維新時は、王事に尽くす。

明治 10年 ( 1877 ) 頃、河野広中・松本茂らと青少年の政治教育のための「正導館」を設立し、民権思想の普及に尽力した。

河野広中らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたが、明治 15年 ( 1882 ) 福島県令三島通庸の暴政に対して起こした福島事件で石川島監獄に投獄され、明治 16年 ( 1883 ) 獄中でチフスに罹り死んだ。国事犯のため高等法院を開設した最初となる。

河野広中も投獄されたが、明治 22年 ( 1899 ) の憲法発布の恩赦で赦免となり、後に衆議院議員となる。

辞世 : "噫々獄中の鬼と化す 誰か之を悼まざらんや"。

同時に投獄された花香恭次郎墓と並んでいる。明治 17年 ( 1844 ) 5月苅宿仲衛の建立と思われる。「義岳秀顕居士」。

〇 福島事件
福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動のなかで1882年明治15年)、県令三島通庸会津三方道路工事事業に反対する福島県自由党員・農民を弾圧した事件[1]喜多方事件も含んでいう。民権激化事件のひとつ。

概要
1882年2月に着任した三島通庸は、着任すぐ会津地方から新潟県山形県栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために、会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせるか、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出させると布告した。さらに、工事に従事しない者の財産を競売に出すなどした。この布告に県会議長河野広中ら福島県会は反発する。各地で三島非難の演説会が開かれた。春から8月までに36回余りの演説会が開かれ、うち19回を解散させるというように警察の弾圧が激化した。そんな最中に福島県会が開会し、県側から前年度2.5倍の地方税増税が提案された。これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。しかし、三島は内務卿山田顕義から「原案執行」の特別許可を得、県会の議決を事実上無効にした。さらに、三島は自由党に対抗するため旧会津士族からなる帝政党をつくった。彼らに民権家を襲わせ、流血事件が続発した[2]


8月1日夜、河野ら幹部は福島自由党の本拠地「無名館」(福島市)に集まり、そこで密かに「無名館血誓書」をつくった。その第一条では、「吾党は自由の公敵たる擅制政府を顛覆し、公議政体を建立するを以て任となす」とし、第五条では「吾党の密事を漏らし、及誓詞に背戻(はいれい)する者ある時には、直(ただち)に自刃せしむべし」と厳罰を課した[3]


11月、佐治幸平らの逮捕をきっかけに、28日午後6時山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まった。彼らは隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させた(喜多方事件)。29日より東京都、福島県で弾圧が開始され、12月1日深夜には、無名館が巡査隊と福島監獄看守らにより包囲突入され、河野広中ら同志連25人が逮捕、たんすなどが封印された。一連の弾圧で約2000人が逮捕された。翌年1月中旬に「血誓書」が当局に発見され、「国家転覆」という目的が当局の機嫌を損ね、河野らは「国事犯」として裁かれる。逮捕者には容赦ない拷問がくわえられ獄死者が出た。大審院に設置された高等法院により、河野広中が軽禁獄7年、他5人は6年の判決が下った[3]


また、この事件に反抗した青年自由党員が加波山事件を起こすことになる。

処罰された人
愛沢寧堅

河野広中

原胤昭

脚注
1. 福島事件コトバンク
2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、98-99頁
3. a b 清水嘉兵衛編 『福島事件高等法院裁判言渡書 : 写真肖像入清宝堂、1883年。 

参考文献
・『会津高田町史』

関連項目
加波山事件

自由民権運動
(wikiより)


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京極 高正(きょうごく たかまさ、生没年不詳)は、江戸時代後期の高家旗本。父は京極高以通称は鋼之丞、采女。


文化
5年(1808年)12月25日、家督を相続する。生涯、表高家衆に所属し、高家職には登用されなかった。文化6年(1809年)4月1日、将軍徳川家斉御目見する。


天保3年(1832年)、家督を子の高福に譲った。
(wikiより)

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京極 高以 (きょうごく たかゆき、安永6年(1777年) - 文化5年(1808年))は、江戸時代後期の高家旗本京極高厚の長男。生母は池田氏。通称は兵勝、兵庫助。官位は従五位下侍従・近江守。


天明
元年(1781年)7月8日、家督を相続する。寛政4年(1791年)12月1日、将軍徳川家斉御目見する。文化4年(1807年)4月25日、高家職に就き、従五位下侍従・近江守に叙任する。文化5年(1808年)3月23日、辞職する。高家末席に列する。同年死去、32歳。


正妻は西郷員相の娘。
(wikiより)

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下野黒羽 ( しもつけくろばね ) 藩主・大関氏は、寛文元年 ( 一六六一 )、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。

  

その範囲は、現在の南千住一丁目一~八番・十・十一番の一部の辺りと推定される。

  

面積は抱屋敷を含めて八千百坪 ( 約二万六千七百平方メートル ) であった。

  

黒羽藩十一代の増業 ( ますなり ) は、膨大な図書の編纂と藩政改革で知られる。

  

文政七年 ( 一八二四 ) の隠居後、この下屋敷に閑居した。

  

また、十五代の増裕 ( ますひろ ) は若年寄 ( わかどしより ) 兼海軍奉行 ( かいぐんぶぎょう ) の要職にあり、軍艦奉行・勝海舟 ( かつ - かいしゅう ) とともに幕末に活躍している。

(案内板より)

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