生涯
生い立ち
1932年(昭和7年)3月31日、岡山県玉野市で生まれた[注 1]。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身[1]。父親は農林省の水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニやエビの研究をしていた。
「渚」という名前もそこから付けられた[2]。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し[注 2]、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。
1950年、京都大学法学部に進学。同窓には推理作家の和久峻三、建築学者の上田篤や俳優の辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件(1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件(1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという[3]。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。
「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手
京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所で大庭秀雄や野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』[4]で映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩や吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった[5]。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという[注 3]。
1960年(昭和35年)10月、日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』[6]を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。
1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。また、60年代には大島渚が南ベトナム軍を取材したTVドキュメンタリーも放映された。戦争の悲惨さを伝える内容だったが、放映後に寄せられた視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く、批判的なものは皆無だったという。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した『太陽の墓場』[7]でも高評価を得た。
1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年)[注 4]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。
世界進出
1976年(昭和50年)、阿部定事件(1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二とアナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた[8]。第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能である。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作『日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板した。
その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。同作は第32回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけしや坂本龍一、デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった[注 5]。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール、撮影監督にラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。
1990年代には早川雪洲とルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。
1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、死去までの30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画であった)であり、病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和54年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年(平成8年)まで歴任した。
『御法度』と闘病
1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港で脳出血に見舞われた[9]。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけしと崔洋一という二人の映画監督が俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。
2000年、紫綬褒章を受章。褒章受章は、若き日の大島の思想や生き方とは矛盾していた。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症と右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。
死去
2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去[10]。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。墓所は神奈川県鎌倉市の建長寺回春院[11]。
訃報を受けて坂本龍一や岩井俊二、松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した[12]。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り[13]、田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った[14]。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った[15]。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けたことが影響したのか体調が悪化し、3日後の1月18日に敗血症で死去した[16]。
2019年12月4日、「大島渚賞」の創設が発表された[17]。選考対象は「日本在住で活躍し、過去に3本程度の劇場公開作品がある映画監督」[17]。
詳しいことは、「大島 渚ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A
(wikiより)
大島 渚
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