本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2021/08

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本映画監督脚本家演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。

生涯
生い立ち
1932年昭和7年)3月31日岡山県玉野市で生まれた[注 1]。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身[1]。父親は農林省水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニエビの研究をしていた。

「渚」という名前もそこから付けられた[2]。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し[注 2]、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。


1950年京都大学法学部に進学。同窓には推理作家和久峻三、建築学者の上田篤俳優辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという[3]。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手
京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』[4]映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった[5]。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという[注 3]


1960年(昭和35年)10月日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧[6]を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。


1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。また、60年代には大島渚が南ベトナム軍を取材したTVドキュメンタリーも放映された。戦争の悲惨さを伝える内容だったが、放映後に寄せられた視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く、批判的なものは皆無だったという。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した『太陽の墓場』[7]でも高評価を得た。


1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年[注 4]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。

世界進出
1976年(昭和50年)、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた[8]第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能である。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板した。


その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。同作は第32回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった[注 5]。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール撮影監督ラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。

1990年代には早川雪洲ルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。


1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、死去までの30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画であった)であり、病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和54年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年平成8年)まで歴任した。

『御法度』と闘病
1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた[9]。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけし崔洋一という二人の映画監督俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。


2000年、紫綬褒章を受章。褒章受章は、若き日の大島の思想や生き方とは矛盾していた。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。

死去
2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去[10]。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。墓所は神奈川県鎌倉市建長寺回春院[11]


訃報を受けて坂本龍一岩井俊二松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した[12]。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り[13]田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った[14]。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った[15]。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けたことが影響したのか体調が悪化し、3日後の1月18日敗血症で死去した[16]


2019年12月4日、「大島渚賞」の創設が発表された[17]。選考対象は「日本在住で活躍し、過去に3本程度の劇場公開作品がある映画監督」[17]

詳しいことは、「大島 渚ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A
(wikiより)

73   Nagisa_Oshima_at_Cannes_in_2000

大島 渚

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⇧⇩ 「 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない  大島 渚 」

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宝篋印塔・五輪塔等の部材を組み合わせた石塔で石積みの壇上に安置されている。


このあたり一帯は時頼公が寂した最明寺の故地である。


父は時氏 ( ときうじ )、母は安達景盛 ( かげもり ) の娘で賢母と言われ 徒然草 ( 第184段 ) にも登場する。


松下禅尼の次男として、安貞元年 ( 1227 ) 生誕。


祖父三代執権、泰時の善政の後を受け継ぎ 寛元四年 ( 1246 ) 十九才で五代執権職につく。


ますます北条政権を確固たるものに築き一族の全盛期を迎える一方では禅宗に深く帰依した。


建長五年 ( 1252 ) 中国の高僧、大覚禅師 ( 蘭渓道隆 = らんけいどうりゅう ) を開山に迎え、わが国最初の禅の専門道場、建長寺を創建。


康元元年 ( 1256 ) には、この地、最明寺において、建長寺開山大覚禅師を戒師とし三十才の時出家。


僧名は覚了房道祟と号し執権職の長時にゆづる。


弘長三年 ( 1263 ) 十一月二十三日、三十七才の生涯を終える。
(案内板より)

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北条時頼

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佐田 啓二(さだ けいじ、本名・中井寛一1926年大正15年)12月9日 - 1964年昭和39年)8月17日)は、1940年代後半から1960年代にかけて活躍した日本俳優。身長171.2 cm[1]


俳優の中井貴一、女優・エッセイストの中井貴惠は実子。

来歴・人物
京都市下京区の商家に生まれる。京都市立第二商業学校(のちの京都市立西陣商業高等学校、廃校)卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学。学生時代、松竹の人気俳優佐野周二の家に下宿していた縁で、1946年(昭和21年)、松竹大船撮影所に入社する。芸名は、「佐野周二」の姓名から一文字ずつ譲り受けて名付けられた。


1947年(昭和22年)、木下恵介監督の『不死鳥』で、いきなり、大スター田中絹代の相手役に抜擢される。田中とのラブシーンは話題となり、早くもスターの地位を獲得。続いて、菊田一夫原作のNHKの人気ラジオドラマを映画化した『鐘の鳴る丘』に主演し、さらに人気を高める。


ほぼ同時期にデビューした高橋貞二鶴田浩二と人気を分け合い「松竹戦後の三羽烏」と言われた。その人気を決定的なものとしたのは、1953年(昭和28年)に公開された『君の名は』である。当時の大人気ラジオドラマを映画化したこの作品で岸恵子と共演し、名実共にトップスターの地位につく。その後、徐々に演技派に脱皮していき、特に、プロ野球選手スカウト合戦を題材にした1956年(昭和31年)の小林正樹監督の問題作『あなた買います』ではスカウトを演じ、伊藤雄之助を相手に鬼気迫る演技を見せ、毎日映画コンクールブルーリボン賞の主演男優賞を獲得した。その後も、木下の『喜びも悲しみも幾歳月』、小津安二郎の『秋刀魚の味』など戦後を代表する作品に出演。晩年は癖のある悪役なども演じていた。


1964年(昭和39年)8月13日から夏休みを兼ねて妻と信州蓼科高原の別荘に避暑に訪れていたが、NHKドラマ『虹の設計』の収録に参加するために帰京する途中、8月17日午前6時30分頃、山梨県韮崎市韮崎町の塩川橋手前の左カーブで、乗っていた車の運転手が前の車を追い越した直後に横滑りを起こし、佐田の乗っていた右側から橋柱に激突、さらに跳ね返されて追い抜いた車へも衝突する大事故を起こした。佐田はこの事故で頭の骨と右腕を骨折し、すぐに韮崎市立病院に運ばれたが午前11時過ぎ頃に死去した[2][3]。37歳没。


この時車に乗っていたのは佐田を含めて4名で、運転手は頭を打ち2か月の重傷、日刊スポーツ記者が顔の骨を折り1か月の重傷、義弟が右肩に1週間の軽症を負った。出演中であった『虹の設計』は生前の映像のコラージュにより製作された。葬儀は8月22日午後2時より青山葬儀場にて行われ、芸能関係者や一般のファンなど千人近くが参列した。


墓所は鎌倉・円覚寺にある。

主な出演
映画

※太字の題名は、キネマ旬報ベストテンにランクインした作品


1947年

不死鳥 - 八坂真一 役

1948年
・旅装 - 川崎新六 役
・彼と共に去りぬ - 光村雄二 役

・肖像 - 中島 役

・火の薔薇 - 石川文夫 役

鐘の鳴る丘 第一篇 隆太の巻 - 加賀見修平 役

1949年

鐘の鳴る丘 第二篇 修吉の巻 - 加賀見修平 役

・君待てども - 伊藤 役

お嬢さん乾杯! - 高松五郎 役

・朱唇(べに)いまだ消えず - 谷川 役

新釈四谷怪談 前後篇 - 小仏小平 役

・真昼の円舞曲 - 河野秀隆 役

・花の素顔 - 吉晴 役

鐘の鳴る丘 第三篇 クロの巻 - 加賀見修平 役

1950年

・母の調べ - 湯原恒夫 役

・乙女の性典 - 立花哲也 役

・危険な年令

・恋愛教室

・新妻の性典

・懐しの歌合戦

七つの宝石

・黒い花 - 中野宗一 役

・三つの結婚 - 望月敬三 役

1951年

おぼろ駕籠 - 小柳準之助 役

・愛情の旋風 - 増内桂助 役

カルメン故郷に帰る - 小川先生 役(初のカラー映画出演)

我が家は楽し - 内田三郎 役

自由学校 - 堀隆文 役

・憧れのホームラン王 - 木村先生 役

・天使も夢を見る - 大田黒英夫 役

・夢多き頃 - 高石修二 役

海の花火 - 鯨井民彦 役

・命美わし - 伊村修二 役

1952年

・この春初恋あり - 三田村五郎 役

本日休診 - 湯川春三 役

・伊豆の艶歌師 - 艶歌師潤 役

・母の願い - 阿部一雄 役

・華やかな夜景 - 小林和彦 役

ひばりのサーカス 悲しき小鳩 - 杉村健吉 役

・坊ちゃん重役 - 比野 役

・母は叫び泣く - 高木英樹 役

うず潮 - 健二 役

・若奥様一番勝負 - 杉浦吾郎 役

・わが母に罪ありや - 三上永之介 役

1953年

・春の鼓笛 - 杉浦啓一 役

・やっさもっさ - 赤松太助 役

・女性の声 - 三上達哉 役

・ひばりの歌う玉手箱

・落葉日記 - 熊岡嶺太郎 役

・その妹 - 野村広次 役

日本の悲劇 - 艶歌師達也 役

・旅路 - 津川良助 役

君の名は - 後宮春樹 役

君の名は 第二部 - 後宮春樹 役

・お嬢さん社長 - 秋山五郎 役


1954年

・家族会議 東京篇 大阪篇 - 京極錬太郎 役

・真実一路 - 矢津先生 役

・勲章 - 憲治 役

君の名は 第三部 - 後宮春樹 役

・陽は沈まず - 青木三平 役

・おとこ大学 婚前教育の巻 - 桂木昌平 役

・新婚たくあん夫婦 - 目白三平 役

・真実の愛情を求めて 何処へ - 伊能琢磨 役

この広い空のどこかに - 良一 役


1955年

・あなたと共に - 本堂克也 役

・続おとこ大学 新婚教室 - 桂木昌平 役

・亡命記 - 顔紹昌 役

・美わしき歳月 - 仲尾 役

・東京-香港 蜜月旅行 - 山下俊介 役

・花嫁はどこにいる - 八田圭介 役

・遠い雲 - 寺田俊介 役

・花ひらく - 下田歯科医 役

・お勝手の花嫁 - 嵐勇 役

・太陽は日々に新たなり - 新村保 役


1956年

・白い橋 - 内山軍平 役

・君のうたごえ

・泉 - 幾島暁太郎 役

・女の足あと - 浜田孝一 役

・青春の音 - 杉本正明 役

・花嫁募集中 - 牧直樹 役

・晴れた日に - 鷲尾謙吉 役

・俺は死なない - 関口浩二 役

・スタジオ超特急

・涙 - 山崎信也 役

・女優誕生

あなた買います - 岸本大介 役

・台風騒動記 - 吉成幸一 役


1957年

・白磁の人 - 五藤民弥 役

・正義派 - 藤田 役

土砂降り - 須藤一夫 役

・ただいま零匹 - 吉沢議員 役

喜びも悲しみも幾歳月 - 有沢四郎 役

・集金旅行 - 旗良平 役

風前の灯 - 佐藤金重 役


1958年

・花嫁のおのろけ - 熊沢伝七 役

・黒い花粉 - 木曾高志 役

・渡る世間は鬼ばかり ボロ家の春秋 - 五味司郎太 役

オンボロ人生 - シケタ先生 役

日日の背信 - 土居広之 役

・花のうず潮 - 槇五郎 役

・モダン道中 その恋待ったなし - 鶴川松夫 役

・噛みつかれた顔役 - 泉川 役

彼岸花 - 谷口正彦 役

眼の壁 - 萩崎竜雄 役


1959年

・春を待つ人々 - 洋画家西脇 役

人間の条件 第一・二部 - 影山少尉 役

・夫婦合唱 - 長島雄吉 役

惜春鳥 - 牧田英太郎 役

お早よう - 福井平一郎 役

・ハイ・ティーン - 寺崎伸一 役

・海の地図 - 外村義高 役

・暁の地平線 - 和夫 役

・三羽烏三代記 - 辰巳次郎 役

人間の条件 第三・四部 - 影山少尉 役

・大願成就 - 小宮 役


1960年

・朱の花粉 - 武中究二 役

・四万人の目撃者 - 高山正士 役

・白い波濤 - 滝良一 役

いろはにほへと - 天野竜一 役

・女の坂 - 矢追三郎 役

・暴れん坊三羽烏 - 桑原編集長 役

・「青衣の人」より 離愁 - 境道介 役

・最後の切札 - 立野駿介 役

・血は渇いてる - 木口高志 役

秋日和 - 後藤庄太郎 役


1961年

猟銃 - 門田礼一郎 役

・渦 - 中津洪介 役

・蒼い海流 - 高須弓雄 役

・女舞 - 西川昌三 役

・雲がちぎれる時 - 三崎 役

永遠の人 - 川南隆 役

・妻あり子あり友ありて

・京化粧 - 山岡 役


1962年

・千客万来 - 番取良介 役

・愛染かつら - 服部 役

・しのび逢い - 小坂敬三 役

・東京湾 ※企画のみ

二人で歩いた幾春秋 - 野中義男 役

・かあさん長生きしてね - 大島 役

・続・愛染かつら - 服部 役

秋刀魚の味 - 平山幸一 役


1963年

歌え若人達

無宿人別帳 - 宗像弥十郎 役

風の視線 - 久世俊介 役

危ない橋は渡りたい - 香川直行 役

・花の咲く家 - 木津隆三 役

結婚式・結婚式 - 奥山次郎 役

丼池 - 兼光定彦 役

踊りたい夜 - 津村忠雄 役


1964年

モンローのような女 - 水口志津夫 役

続・拝啓天皇陛下様 - 久留宮良介 役

暗殺 - 坂本龍馬

悪の紋章 - 高沢重治 役

甘い汗 - 辰岡 役

詳しいことは、「佐田啓二ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BA%8C
(wikiより)

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佐田啓二

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小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は日本の映画監督

人物・来歴
北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優田中絹代又従弟[1][2]に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。


同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。同年、『暁の合唱』(清水宏監督)、『風薫る庭』(大庭秀雄監督)に助監督として就いたのち、応召する。満州においてソ連国境線の警備にあたる。軍務の合間を縫ってシナリオ『防人』を執筆。1944年(昭和19年)に宮古島へ移動、飛行場建設作業に従事する。

1945年
(昭和20年)、宮古島で終戦を迎えるが、労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に収容される。


1946年(昭和21年)に復員して松竹大船撮影所に戻り、1947年(昭和22年)助監督として木下恵介監督につく。

1948年(昭和23年)の『破戒』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。

1952年
(昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、1953年(昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。同年安部公房の脚本により、無実の罪で投獄されたBC級戦犯を描いた重厚な作品『壁あつき部屋』を監督するが、アメリカ合衆国への配慮から1956年(昭和31年)まで公開が見送られた。その後、プロ野球の内幕を暴露した『あなた買います』や、基地の町の退廃を描写した1957年(昭和32年)『黒い河』などが評価される。


1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、五味川純平原作の大長編反戦小説「人間の條件」の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。完成した作品は、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞、毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞する。続く1962年(昭和37年)、滝口康彦の小説「異聞浪人記」を原作にした橋本忍の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。続いて小泉八雲の原作『怪談』をオムニバス方式で映画化した初のカラー作品『怪談』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。撮影は廃屋となっていた航空機の格納庫に大規模なセットを組んで行われ、ホリゾントに描かれた空の絵などに、美術を担当した戸田重昌の才気が光り、武満徹による音楽は、画や演技との掛け合いを行う音響のような効果を存分に発揮し、幻想的な世界を作り上げた。しかし、大規模なセット、長期に亘る撮影、スタッフ・キャストほか800名にもおよぶ大編成のため、製作費が大幅に膨らみ、多くの名作を世に送ってきた独立プロダクション「文芸プロダクションにんじんくらぶ」は、多額の負債を抱えて倒産するという憂き目に合う。


1965年(昭和40年)松竹を退社して東京映画と契約し、1967年(昭和42年)三船プロ第1作となる『上意討ち 拝領妻始末』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった。1968年(昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、1969年(昭和44年)には黒澤明、木下恵介、市川崑とともに「四騎の会」を結成。1971年(昭和46年)にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の1人として功労賞を受賞。同年から俳優座映画放送製作『いのちぼうにふろう』を監督や井上靖の長編小説をテレビドラマ化と同時に映画も製作した1975年(昭和50年)の『化石』などといった話題作を発表。


1982年
(昭和57年)には足掛け5年の歳月をかけて米国国防総省の保管フィルムや内外のニュース映像などをつなぎ合わせ、極東国際軍事裁判の長編記録映画『東京裁判』を完成させた。『東京裁判』は、立花隆などから肯定的な評価を得た一方、南京事件に関する映像に中国・国民政府が作成した信憑性の低い『中国之怒吼』のフィルムを挿入した事が批判を受けるなど、評価が分かれた(ただし作品中では『これは中国側のフィルムである』というクレジットを表記し、中立性に配慮を行っている)。この間、井上靖原作の「敦煌」の映画企画を長年温め、脚本も完成していたが、製作を決定した新生大映社長の徳間康快とのあいだで方針の食い違いを生じ、断念せざるをえなかった。1985年(昭和60年)円地文子原作の連合赤軍事件を題材にした『食卓のない家』を監督。これが最後の映画監督作品になる。


小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。身寄りがない田中は借金をしており、邸宅が抵当に入っていた。そのため、小林は、田中の法的な相続権もなく賃貸借の証文もないまま、田中のために奔走し、小林自らが借金をして抵当権を解除、田中の入院費をも負担した[3]。田中の死後の1985年(昭和60年)に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで毎日映画コンクール田中絹代賞が創設され、日本映画界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。晩年は大学時代の恩師会津八一の伝記映画の準備をしていたが、1996年(平成8年)10月4日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で80歳で死去。遺骨は、神奈川県鎌倉市円覚寺と、絹代の出生地であり墓がある山口県下関市の市営下関中央霊園に分骨されている。

作品


監督作品
息子の青春(1952年)

まごころ(1953年)

この広い空のどこかに(1954年)

三つの愛(1954年)

美わしき歳月(1955年)

壁あつき部屋(1956年)

あなた買います(1956年)

(1956年)

黒い河(1957年)

人間の條件・第一・第二部(1959年)

・人間の條件・第三・第四部(1959年)

・人間の條件・完結篇(1961年)

からみ合い(1962年)

切腹(1962年)

怪談(1965年)

上意討ち 拝領妻始末(1967年)

日本の青春(1968年)

いのちぼうにふろう(1971年)

化石(1975年)

燃える秋(1978年)

東京裁判(1983年)

食卓のない家(1985年)

その他の映像作品
破れ太鼓1949年12月7日公開、木下惠介監督、松竹) - 脚本

どですかでん1970年10月31日公開、黒澤明監督、東宝) - 企画

どら平太2000年5月13日公開、市川崑監督、東宝) - 脚本

栄典
・1990年 - 勲四等旭日小綬章受章[4]

評伝
・『映画監督 小林正樹』(小笠原清・梶山弘子編、岩波書店、2016年12月)[5]

  ・知人の回想、本人へのインタビュー、戦時中の日記などを収録。

展示
東京の世田谷文学館で「小林正樹展」が開催された(2016年7月16日 - 9月15日)[6]

脚注
出典
1.  NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは”. NPO法人田中絹代メモリアル協会. 2013年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月2日閲覧。
2. 倉本 2002, p. 137.
3. 倉本 2002, pp. 137-139.
4. 「「秋の叙勲」 東京で559人が受章」『読売新聞』1990年11月3日朝刊
5. “小林正樹の全貌に迫る書籍発売、木下惠介による講演や仲代達矢の寄稿文も収録”. 映画ナタリー. (2016年12月21日). http://natalie.mu/eiga/news/214165 2016年12月22日閲覧。 
6. 小林正樹の自筆資料など集めた展覧会が開催、仲代達矢によるトークショーも”. 映画ナタリー. 2019年7月2日閲覧。

参考文献
倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年。ISBN 4652077092

外部リンク
小林正樹 - allcinema

小林正樹 - KINENOTE

小林正樹 - 日本映画データベース

Masaki Kobayashi - インターネット・ムービー・データベース(英語)

小林正樹 | 新潟市會津八一記念館

映画監督小林正樹オフィシャルサイト(松竹公式)
(wikiより)


70 小林正樹

小林正樹

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田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日[1])は、日本女優映画監督。本名同じ。旧芸名は田中 錦華(たなか きんか)。


黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男清水宏木下惠介ら大物監督に重用され、約260本の作品に出演した。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[2]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。

来歴
生い立ち
1909年(明治42年)11月29日山口県下関市関後地村[3](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女(長男慶介、次男鼎、長女繁子、次女政子(早世)、三女光代、三男晴男、四男祥平、四女絹代)の末娘として生まれる。母の実家・小林家は下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた[4]。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた[3]1912年(明治45年)1月に久米吉は病死し、その後母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった[1]


6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう[3]1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学するが、はしかに罹り、ほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう[3]。さらに20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪[4] したことで一家は後ろ指を指されることになり、更に経済事情が悪化。ついに一家の生活も行き詰まってしまい、同年9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[3]。ところが、絹代は肺炎に罹り学校へも通えず1年半、療養生活を送った[3]。この間に華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡している[5]


1918年
(大正7年)4月、保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、天王寺尋常小学校3年に編入される[3]。幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、授業中に琵琶の教本を読んでいたのが見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう[3]。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり[6]楽天地の舞台に立つ[7]。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。

映画スターに
1924年(大正13年)7月、兄が松竹大阪支社で働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と二人で京都に移住した。10月に野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では腰元役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした[3]。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された[2]


1925年
(大正14年)は清水監督作品2作に助演後、6月の撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で中浜一三の妹役に抜擢され、以来島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もついた[3]


1927年(昭和2年)、五所平之助監督の『恥しい夢』で芸者役で主演し、出世作となる。同年7月に八雲恵美子吉川満子岡村文子坂本武松井潤子吉谷久雄横尾泥海男渡辺篤石山竜嗣高松栄子龍田静枝らとともに準幹部に昇格[8][9]。翌1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した[3]。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった[3][10]


また、以前から恋愛関係にあった清水監督とは、1927年に城戸四郎の提案で「試験結婚」という形で結婚したが、1929年に離婚した[1]


1931年(昭和6年)、五所監督による日本初の本格的トーキー映画マダムと女房』に主演。この作品は光喜三子主演で撮影が進んでいたが、彼女が恋愛事件で降板したため五所監督に口説かれ、下関訛りを理由に渋るも五所の窮地に同情して出演[3] し、その甘ったるい声で全国の映画ファンを魅了した。1932年(昭和7年)、野村監督の『金色夜叉』で下加茂の大スター林長二郎と共演、二人による貫一・お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となる[3] ほどの人気作となった。ほか、五所監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』、島津監督『春琴抄 お琴と佐助』などに主演していき、トーキー時代も蒲田の看板スターとして在り続けた。1933年(昭和8年)1月に大幹部待遇[11]1935年(昭和10年)に大幹部となった。


1936年(昭和11年)1月15日に撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じた。特に1938年(昭和13年)に上原と共演した野村浩将監督のメロドラマ愛染かつら』は空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作された[2][1]1940年(昭和15年)には溝口健二監督の『浪花女』に主演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。

戦後の活躍
戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役も演じた。1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。


1949年(昭和24年)10月、日米親善使節として渡米。ベティ・デイヴィスシルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学して、翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した[12]。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿[13] だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発[14][15]。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」(アメリカで小便をしてきただけで (短い滞在期間の意味) 、安易にアメリカ文化に感化された)などと形容された。「銃後を守る気丈な日本女性」[16] のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、それ以降自殺を考えるほどのスランプに陥った[12][17]


渡米を機に松竹を退社していたが、帰国してまず最初に新東宝で小津監督の『宗方姉妹』に出演することになり、同時に木下惠介監督の『婚約指環』を撮影。公開は撮影期間の都合で前者が8月、後者が7月となった[3]。しかし、両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが「老醜」とまで酷評[18] された。1951年(昭和26年)には映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[17]。ファンレターが1通も来なくなったと漏らしていたという[19]


1952年
(昭和27年)、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督による『西鶴一代女』に主演、御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出すという女の一生を演じる。作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中は一世一代の名演を披露、女優として完全復活を果たした[18]。同時に溝口もスランプから脱することに成功し、翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。

同年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表[1]。相談相手の成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』に監督見習いとして加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受けた。そして12月に『恋文』を公開、日本で二人目の女性監督の誕生となった[注釈 1]1954年(昭和29年)に溝口の『山椒大夫』と『噂の女』に出演したが、同年7月に監督2作目の『月は上りぬ』の製作を小津安二郎から推薦される。しかし、五社協定に加盟していない日活での製作のため、日本映画監督協会理事長である溝口に反対される。田中は小津の協力で映画を完成させたが、これが原因で溝口との関係を疎遠なものにしてしまう[20]


その後は主演作こそ少なくなるものの、成瀬監督の『流れる』、家城巳代治監督の『異母兄弟』などに重要な役で出演、1958年(昭和33年)公開の木下監督『楢山節考』では自分の差し歯4本を抜いて老婆を演じ[14]キネマ旬報賞女優賞を受賞。それ以降は脇役に回り、小津監督の『彼岸花』や市川崑監督の『おとうと』などで母親役を好演。一方、映画監督としては京マチ子主演の『流転の王妃』など5本発表している。


1965年
(昭和40年)、黒澤明監督の『赤ひげ』に出演した後、パーキンソン病に罹った兄の看護に専念し、仕事を断るようになった[3]1970年(昭和45年)、紫綬褒章を受章。


同年にNHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。


1974年
(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。


1977年(昭和52年)1月12日脳腫瘍順天堂病院に入院するが、3月21日午後2時15分に死去[21][1]。67歳没。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』[注釈 2]。同年3月31日築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟小林正樹が喪主、城戸四郎が葬儀委員長を務めた[22]。約2千人ものファンが参列し、みな焼香台の上に100円玉を置いていったという[23]法名は迦陵院釋絹芳。

没後
墓所は下関市の下関中央霊園にあり、1979年(昭和54年)の三回忌に小林正樹によって、神奈川県鎌倉市円覚寺にも墓が建立されて分骨された。小林も同じ墓に納骨されている[24]


1985年
(昭和60年)、小林により毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合


1986年(昭和61年)、新藤兼人が『小説 田中絹代』を週刊読売に連載され、翌1987年(昭和62年)にこれを原作に、市川崑監督・吉永小百合主演で『映画女優』として映画化された[1]


2000年(平成12年)、『キネマ旬報』発表の「20世紀の映画スター」で、著名人選出日本人女優部門で第5位、読者選出日本人女優部門で第4位にランクインされた。また、2014年(平成26年)には同誌の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第8位にランクインされている[25]


2009年
(平成21年)、生誕100周年となるこの年に上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[26] として、作品の上映会・DVD発売・CS放送ネット配信など各種イベントなどを開催。東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日から12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日から11月15日11月17日から12月27日の約3か月にわたって大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映した。第10回東京フィルメックス映画祭では、「ニッポン★モダン1930 〜もう一つの映画黄金期〜」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映した。このほかにも、各地で特集上映会が催された。


2010年(平成22年)、下関市の旧逓信省下関電信局電話課庁舎の建物に 下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館 がオープン。セレモニーには松坂慶子奥田瑛二安倍晋三らが出席した。


毎年、命日のころに「花嵐忌(からんき)」が開かれる。「花嵐忌」は絹代出演の代表作「愛染かつら」の主題歌の一節「花も嵐も踏み越えて」にちなみ、一般公募で名付けられた。市民墓参会が下関中央霊園(下関市井田)で、田中絹代ぶんか館で出演映画の上映がある。

人物・エピソード
溝口健二監督とは公私に渡る親交を結び、溝口は田中に惚れていて結婚を願望していた。しかし、田中の側は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[27]。また、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。


1936年、神奈川県鎌倉市の鎌倉山に「絹代御殿」と呼ばれる自宅を建築している。当時の鎌倉山は高級住宅地で、自宅の西隣りには近衛文麿の別邸、東隣りには藤原義江邸があった。1949年に岩田宙造の別宅(山椒洞)を購入して移り住むが、1954年には帝国ホテルを居所とした[28]。山椒洞は田中の没後に小林正樹が人手に渡したくないとして購入[29] し、料亭の檑亭別館として建物を保存していたが、店舗閉店後に檑亭の経営的理由で建物は解体され、みのもんたが自宅新築のため敷地を購入した。


最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である[30][31] 小林が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た小林正樹監督に尋ねたという。

詳しいことは、「田中絹代ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%B5%B9%E4%BB%A3
(wikiより)

70  Kinuyo_Tanaka_in_Jinsei_no_onimotsu_1935

田中絹代

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池島 信平(いけじま しんぺい、1909年12月22日[1] - 1973年2月13日、正字では池嶋[1])は日本の編集者文藝春秋社長(第3代)。

経歴

東京市本郷区春木町生まれ[2]。生家は牛乳の配達を営んでいた。東京府立第五中学校(四修)から旧制新潟高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業[1][注釈 1]。新潟高校時代の1929年、第6回全国高等学校ア式蹴球大会フォワードとして出場した。


1933年
文藝春秋社に第1期社員として入社[1]。「文藝春秋」編集部に入ることを望んでいたが創刊まもない小雑誌「」の編集部に配属され、雑誌記者として活動。「話」からリニューアルした月刊誌「現地報告」の編集長を1940年より務める。


1944年、「文藝春秋」編集長に就任[1]。まもなく召集されて横須賀海兵団に入隊。2週間後に北海道千歳第二基地に送られ、滑走路作りの工事に投入された。海軍に入ってすぐに体罰の横行を目の当たりにし、「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死」「万難を排して生きて帰ろう、と心に誓った」という[3]終戦は青森で迎えた。


1946年
菊池寛の意向により文藝春秋社が解散したため菊池から社名と誌名を貰い受け、専務の佐々木茂索社長に担ぎ出して11名の社員で文藝春秋新社を創立。


1966年3月、文藝春秋に改名。同年、第3代社長に就任。全共闘運動に戦前の全体主義と似た匂いを感じて反動的に保守化し、小林秀雄三島由紀夫保守思想家が集う日本文化会議に接近。その機関誌を出版しようとしたが社員からの猛反発に遭い、その代わりとして保守派オピニオン誌「諸君!」を1969年7月号より創刊した。1973年2月、在職中に急死。死の直前まで文筆活動を行っていた。


また、十返肇と二人で「文人海軍の会」を創設。源氏鶏太阿川弘之豊田穣などが会員だった。その関連もあって『別册文藝春秋』などで戦記特集を多く出した。

文献

伝記に、塩澤實信雑誌記者池島信平』(文藝春秋、のち文春文庫跋文司馬遼太郎

  新版改題『文藝春秋編集長 菊池寛の心を生きた池島信平』(展望社、2005年)

また『話』時代の記事を集めた『昭和十二年の週刊文春』(文春新書2007年、名義は「菊池信平」)がある。

著書
・編集者の発言 暮しの手帖社、1955年

・ジャーナリズムの窓から 修道社、1956年

・雑誌記者 中央公論社1958年中公文庫1979年、改版2005年

・歴史好き 三月書房、1971年。中公文庫、1983年

・池島信平文集 文藝春秋、1973年。巻末対談今日出海=永井龍男


編著・共著
・風流おかめ八目 扇谷正造共著・対談集 修道社、1955年

・縦横おかめ八目 扇谷正造共著・対談集 修道社、1956年

・文壇よもやま話 嶋中鵬二と聞き手:NHK編(上下) 青蛙房、1961年。中公文庫、2010年10・11月  

・歴史よもやま話 日本篇(上下、編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・歴史よもやま話 西洋篇 (編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・歴史よもやま話 東洋篇 (編) 文藝春秋、1966年。文春文庫、1982年

・文学よもやま話 対談集(上下) 文藝春秋、1974年恒文社1995年12月

脚注
注釈
1. マグナ・カルタを卒業論文の対象とし、渡英して原物にあたった。

出典
1. a b c d e 池島信平』 - コトバンク
2. 池島 信平』 - コトバンク
3. 池島信平と『諸君!』
(wikiより)


69a

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清水 崑(しみず こん、本名:清水 幸雄1912年9月22日 - 1974年3月27日)は昭和漫画家長崎県長崎市出身。妻は歌人清水恒子、その姉は俳人石橋秀野山本健吉夫人)。

人物
長崎市銭座町(現・天神町)出身[1]。旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)を卒業後上京、似顔絵描きをしながら絵の修行をする。その後横山隆一近藤日出造らの新漫画派集団に参加、1935年新青年』に「東京千一夜物語」を連載。これがヒットし後で内田吐夢監督によって映画化された。


戦後
新夕刊」の政治漫画を担当後、朝日新聞社嘱託。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。また日本ニュースでは「漫画の頁」という風刺コーナーを与えられ、執筆風景も含めてニュース映画に題材を提供した。


1953年からは週刊朝日で「かっぱ天国」を連載、黄桜酒造(2006年10月から黄桜に社名変更)社長・松本司郎の目に留まり1955年から同社のキャラクターとして採用された(後に小島功に引き継がれた。黄桜のホームページにて当時のCMを見ることが可能)。また同年にはカルビーの「かっぱあられ」に代表される菓子広告も手がけるようになり、現在でも往時の名称は「かっぱえびせん」に名残をとどめている。1953年3月はじめに、小説家の火野葦平の『河童』の装丁を描くことになり、出版社の編集者と一緒に打ち合わせのために訪問し、その場で二人は意気投合したという[2]。1974年、肋膜炎のため61歳で没した。


母校長崎市立銭座小学校に「なかよし」と称したかっぱの壁画がある。


林家木久扇
は弟子の一人で、清水が「面白い喋りをしている」という理由から3代目桂三木助に紹介した(その後三木助が亡くなり、8代目林家正蔵門下となった)。上述のように、河童の漫画で一世を風靡しているが、林家木久扇のネタのひとつ「河童」がこれに関係しているかは定かではない(ただし、「笑点」の2011年の長崎県での地方収録の際、大喜利の挨拶の中で、「清水崑先生を偲んで」と銘打ち、河童ネタを披露している)。また、木久扇が真打昇進した際には、その祝いとして、河童の絵を描いて贈った。


映画監督の市川崑は清水の大ファンで、旧名の「儀一」から「崑」に改名したのも清水の影響だと言われている。

作品
・『筆をかついで』 創元社、1951年

・『かっぱ川太郎』 朝日新聞社、1952年

・『かっぱ天国』 東峰書房、1955年

・『かっぱ天国 愛蔵版漫画集』 清水梢太郎編、らくだ出版 1993年

・『一筆対面』 東峰書房、1957年

・『ぼんやり山のぼんたろう』 学習研究社、1972年

イラスト
・『河童曼陀羅』 火野葦平著、1957年

・『かにむかし』 木下順二著、1959年

・『ふしぎなたいこ』 石井桃子著、1975年

・『吉田茂諷刺漫画集』 吉田茂記念事業財団編
 原書房、1989年→吉田茂国際基金(中央公論新社販売)、2005年

清水崑を演じた俳優
柄本明BS笑点ドラマスペシャル 初代林家木久蔵(2020年・BS日テレ

脚注
1. 清水崑プロフィール 清水崑展示館 2018年7月18日閲覧。
2. もりたなるお『芸術と戦争』産経新聞出版9ページ

関連項目
キザクラカッパカントリー - 黄桜記念館で黄桜CMの原画を展示

林家木久扇

外部リンク
清水崑展示館(長崎市・中の茶屋)

長崎県の河童伝説 - ウェイバックマシン(2000年9月25日アーカイブ分)

日本ニュース|NHK戦争証言アーカイブス(執筆中の清水含め、担当したコーナーを視聴できる)
(wikiより)



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清水 崑


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坂本 堤(さかもと つつみ、1956年4月8日 - 1989年11月4日)は神奈川県横須賀市出身の弁護士自由法曹団[1]オウム真理教幹部等によって殺害される(坂本堤弁護士一家殺害事件)。33歳没。

来歴・人物
神奈川県立横須賀高等学校[2]東京大学法学部卒業。法律事務所へ事務職員としての勤務を経て、1984年、27歳で司法試験合格、司法修習(第39期司法修習生)を経て、1987年より横浜法律事務所で弁護士業務に携わった。事務員時代に豊田商事破産事件管財人弁護士団を手伝っていたことがある。当時管財人弁護士団に参加していた宇都宮健児の事務員が、後の妻・都子であった(出産直前の1988年まで勤務)。


1989年
江川紹子からの紹介で [3]、オウム真理教に出家した信者の親たちの依頼を受け、教団と交渉した。またオウム真理教被害者の会を設立したが、教団から「翌年真理党からの出馬を決めている総選挙に向けての選挙活動に支障を来す」と恐れられていた。


同年11月4日未明、横浜市磯子区の自宅で教団幹部らによって、妻と長男・龍彦とともに殺害された。33歳没。遺体は殺害犯らにより、一家3人別々の場所に埋められた。


事件から6年後の1995年、殺害犯の一人の自供から遺体の遺棄場所が判明する。供述に基づき捜索したところ、同年9月6日、新潟県西頸城郡名立町(現・上越市)の山中から発見された。同じ日には富山県魚津市の林道脇から妻の遺体が、4日後の9月10日には長野県大町市の山中から長男の遺体が発見された。


同年10月22日、横浜市港北区横浜アリーナで、日本弁護士連合会横浜弁護士会による坂本堤一家の合同葬が営まれた[4]。参列者は土屋公献日本弁護士連合会会長、海部俊樹元首相、岡崎洋神奈川県知事、高秀秀信横浜市長、渡辺泉郎神奈川県警察本部長のほか、関係者、一般市民2万6000人にのぼり、一時は式場から新横浜駅まで約1kmの列ができた。戒名は「誠徳院碧巖宗堤居士」。墓所は神奈川県鎌倉市円覚寺松嶺院[5]

関連項目
坂本堤弁護士一家殺害事件

TBSビデオ問題

伊藤芳朗

・・滝本太郎

宇都宮健児

江川紹子

福島瑞穂(司法修習生時代の同期[6]

脚注
1. 紹介・自由法曹団
2. ようこそ同級生 神奈川県立横須賀高等学校同窓会
3. 「オウム真理教追跡2200日」(江川紹子著 1995年)
4. 1995年10月23日付朝日新聞「街包む怒り・悲しみ 坂本弁護士一家合同葬 横浜アリーナ /神奈川」。
5. 鎌倉 円覚寺
6. 週刊新潮」2010年6月10日号の、福島を特集したグラビアページより
(wikiより)

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開高 健(かいこう たけし/かいこう けん[2]1930年12月30日 - 1989年12月9日)は、日本小説家

生涯
大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、5月に国民学校教頭であった父が死去する。


第二次世界大戦
後に旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学するが、学制改革により1年で旧制高校を修了し、大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学した。当時の文学論の仲間に高原慶一朗がいた。大学在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加。1952年1月、同人仲間だった詩人牧羊子壽屋勤務)と結婚。同年7月13日に、長女開高道子が誕生。1953年2月、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社。1953年12月1日に大阪市立大学卒業。


1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。この時代に『裸の王様』で芥川賞を受賞する。 遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。開高は先に「群像(講談社)」に提出していた原稿を持ち帰り「文學界」に提出してその場を凌いだ。しかし、講談社の怒りを買って絶縁状を叩き付けられ、16年もの間講談社から干されてしまう[3]。これを機に壽屋を退職し、執筆業に専念する。


1960年、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として大江健三郎らとともに中国を訪れ、毛沢東周恩来らと会見。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。


1964年、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の3部作はこの戦争での凄烈な体験をもとに書かれている。


帰国後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが[4]、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる。その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一向井敏などの右派系文化人を世に出した。


熱心な釣師としても知られ、日本はもちろんブラジルアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。


開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と週刊プレイボーイの人気連載「風に訊け」で綴っている。また、同連載で開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。


1989年
食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去[1][5]。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社ノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。また、後半生の16年間を過ごした神奈川県茅ヶ崎市に開高健記念館が開設されている。

受賞歴
1958年 -『裸の王様』で芥川賞


1968年 -『輝ける闇』で毎日出版文化賞


1979年 -『玉、砕ける』で川端康成文学賞


1981年 - 第二十九回菊池寛賞。「ベトナム戦記」から「もっと遠く!」「もっと広く!」に至るルポルタージュ文学確立の功績


1987年 -『耳の物語』で日本文学大賞

著作

小説
(短編※は初出年。長編は刊行年)
・『あかでみあ めらんこりあ』私家版 1951。のち角川文庫・改版 

・「パニック」※1957

・「巨人と玩具」※1957

・「裸の王様」※1957。翌58年に第三十八回芥川賞受賞

・「流亡記」※1959

・『裸の王様』文藝春秋新社 1958。のち「パニック・裸の王様」新潮文庫・改版 

・『屋根裏の独白』中央公論社 1959

・『日本三文オペラ』文藝春秋新社 1959 のち角川文庫、新潮文庫・改版 

・『パニック』パトリア書店 1959

・『ロビンソンの末裔』中央公論社 1960 のち角川文庫、新潮文庫  

・『片隅の迷路』毎日新聞社 1962 のち角川文庫、創元推理文庫。徳島ラジオ商殺しがモデル

・『見た揺れた笑われた』筑摩書房 1964 のち角川文庫 

・『輝ける闇』新潮社 1968 のち文庫・改版。毎日出版文化賞 

・『青い月曜日』文藝春秋 1969 のち文庫、集英社文庫 

・『七つの短い小説』新潮社 1969 

・『夏の闇』新潮社 1972 のち文庫・改版。直筆原稿版2010

・『新しい天体』潮出版社 1974 のち新潮文庫、光文社文庫 

・『歩く影たち』新潮社 1979 のち文庫 

・『渚から来るもの』角川書店 1980 のち文庫 

・『ロマネ・コンティ・一九三五年』文藝春秋 1980 のち文庫・改版。短篇小説全6篇 

  ・「ロマネ・コンティ・一九三五年」※1978

  ・「玉、砕ける」※1978。翌79年に第六回川端康成文学賞

・『破れた繭 耳の物語1』新潮社 1986 のち文庫、イースト・プレス、岩波文庫

・『夜と陽炎 耳の物語2』新潮社 1986 のち文庫、イースト・プレス、岩波文庫

・『珠玉』文藝春秋 1990 のち文庫 

・『花終る闇』新潮社 1990 のち文庫 

・『二重壁・なまけもの 初期作品集』講談社文芸文庫 2004。大岡玲解説

・『ちくま日本文学 開高健』ちくま文庫 2008 

・『戦場の博物誌 開高健短篇集』講談社文芸文庫 2009

・『開高健短篇選』岩波文庫 2019。大岡玲編

詳しいことは、「開高 健ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%AB%98%E5%81%A5
(wikiより)

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開高 健

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長谷川 馬光 ( はせがわ - ばこう ) は、江戸事態中期の俳人です。


貞享四年 ( 1678 ) に生まれ、始めは藤原直行と称しました。


父は、本所に屋敷があった津軽弘前藩の藩医でした。


幼名を孫太郎といい、のちに親戚筋に当たる御家人・長谷川直隆の養子になりましたが、元禄七年 ( 1694 )、八歳にして直隆の跡を継ぎ、享保十一年 ( 1726 ) には西丸小十人 ( 御当番 ) に列しました。


馬光は、俳諧を蕉門十哲 ( しょうもんじゅってつ ) の一人、其日庵・山口素堂 ( やまぐち - そどう ) に学び、のちに其日庵二世を襲名しました。


享保十年 ( 1725 ) に中川宗瑞 ( なかがわ - そうすい )、松本珪林 ( まつもと - けいりん )、大場蓼和 ( おおば - りょうわ )、佐久間柳居 ( さくま - りょうきょ ) とともに「五色墨 ( ごしきずみ )」の運動を起こし、六年後には冊子刊行され、俳壇が蕉風復古に大きく傾斜していく契機を作ったと評価されています。
 
寛保三年 ( 1743 ) 頃には、寺内に芭蕉堂を作り、松尾芭蕉・山口素堂の像を安置しました。残念ながら、芭蕉堂は現存しません。


著書には「湯山紀行 ( ゆやまきこう )」、「藪鶯 ( やぶうぐいす )」、「かさね笠」などがあります。


馬光の門下として、「説叢大全 ( せっそんたいぜん )」を著した溝口素丸 ( みぞぐち - そがん ) 等が出ています。


宝暦元年 ( 1751 )、「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最期に六十五歳で没しました。
 
桃青寺は、松尾芭蕉わらじ脱ぎの伝説が残されています。


また、山号は芭蕉山、寺号が芭蕉の俳号のひとつである桃青を称する点からも、松尾芭蕉ゆかりの寺であったことを偲ばせます。
(案内板より)

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臨済宗妙心寺派寺院の桃青寺は、芭蕉山と号します。


桃青寺は、黙宗和尚が法光明幢禅師を開山として寛永3年(1626)に創建したといいます。

松尾芭蕉は数年にわたり、当寺に寄宿していたことから、山号は松尾芭蕉より、寺号は松尾芭蕉の俳号桃青より芭蕉山桃青寺と号しているといいます。


松尾芭蕉は数年にわたり、当寺に寄宿していたようで、江戸時代には寺内にあった芭蕉堂で著名でした。


また貞享4年(1687)に生まれ、俳壇の革新に尽力した俳人長谷川馬光の墓があります


桃青寺の縁起
桃青寺は、黙宗和尚が法光明幢禅師を開山として寛永3年(1626)に創建したといいます。


松尾芭蕉は数年にわたり、当寺に寄宿していたことから、山号は松尾芭蕉より、寺号は松尾芭蕉の俳号桃青より芭蕉山桃青寺と号しているといいます。


「本所區史」による桃青寺の縁起
東盛寺 ( 桃青寺 )

東盛寺は中之郷原庭町三十五番地に在り芭蕉山と號し臨済宗である。


堂中に安置してあつた松尾芭蕉翁の木像は、其の高弟小川破笠が晩年の作であつて高さ八寸五分あり、之と相列して西行法師、山口素堂の像があつた、地名辭書に「原庭町の東盛寺は、寺傳に寛文中黙宗禅師の建立にて定林寺といへりと。然れども延寶、元禄の諸圖に見えず。疑ふべし。


寛保の頃俳諧を學ぶの徒定林寺に芭蕉堂を置き寺號をも桃青寺と改め後ち寶暦中中興して東盛寺と改む。


此東盛寺芭蕉堂のことにつきて松浦侯の甲子夜話に一説あれども、皆信ずべからず云々。」とある。(「本所區史」より)


「東京名所図会」による桃青寺の縁起
東盛寺

東盛寺は。中之郷原庭町三十五番地に在り。芭蕉山と號し。臨済宗たり。


堂中に安置せる松尾桃青翁の木像は。其の高弟小川破笠が晩年の作にして。高さ八寸五分あり。此と相列して西行法師、山口素藤の像あり。


地名辞書に云。原庭町の東盛寺は。寺傳に寛文中黙宗禅師の建立にて。定林寺といへりと。然れども延寶、元禄の諸圖に見えず。疑ふべし。寛保の比俳諧を學ぶの徒。定林寺に芭蕉堂を置き。寺號をも桃青と改め。後ち寶暦中中興して東盛寺と改む。此東盛寺芭蕉堂のことにつきて。松浦侯の甲子夜話に一説あれども。皆信ずべからず。(東京名所図会より)


「すみだの史跡文化財めぐり」による桃青寺の縁起
臨済宗妙心寺末で、寛永3年(1626)の創建です。開山は法光明幢禅師、二世は黙宗和尚とされていますが、事実は黙宗和尚の創建で、後に師の明幢禅師を招いて開山としたものと言われています。


江戸時代には寺内の芭蕉堂によって著名な寺院でした。はじめ定林院と号していたのを延享2年(1745)に芭蕉山桃青寺と変えたのも松尾芭蕉の俳号桃青の二字によったもので、芭蕉は当寺に寄宿すること数年に及んだといい、その時期については定かではありませんが、芭蕉が出府したころであろうと考えられます。なお、宝暦2年(1752)6月、さらに白牛山東盛寺と改めましたが、明治25年6月に再び芭蕉山桃青寺にかえり、現在に及んでいます。(すみだの史跡文化財めぐりより)

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川尻清潭翁略歴

清潭翁は明治九年下谷二長町に生れ武蔵野家より川尻宝岑氏の養子となる


若くして劇界に入り後に松竹株式会社の嘱託となり多年歌舞伎の演出に従事し昭和二十九年十二月十四日老寿七十九才にて歿


戒名 寿昌院釋清潭


後此の功績を認められ昭和三十年四月文部大臣より賞状を送らる


ここに清潭翁の遺徳を偲び一周忌を記念して これを建つ 歌舞伎座


昭和三十年十二月十四日
(石碑文より)


側面に刻まれた久保田万太郎の句は「このひとつねにひとりをよろこべり」の前書きで「ひつきやうは老いの氣弱の小春かな」。


〇 川尻 清潭 ( カワジリ - セイタン )

明治 〜 昭和期の歌舞伎研究家、演劇評論家


生年 : 明治 9年 8月 1日 ( 1876年 )
没年 : 昭和 29 ( 1954 ) 年 12月 14日


出生地 : 東京・浅草蔵前


本名 : 川尻 義豊


別名別号 = 忘路庵、大愚堂、司馬 江猿


経歴幼少の頃から芝居を見つづけ、明治 40年「演芸画報」創刊時より社員となる。


大正 5年玄文社発行の「新演芸」記者となり、また松竹にも関係し、10年から晩年まで同社の舞台監事、室長を務めた。


「名優芸談」「楽屋風呂」などの著書があり、ほかに「菊五郎百話」などの編著がある。


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この墓碑は、元和 7年 ( 1621 ) の年紀をもつ古い宝篋印塔である。


太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。


阿茶局は、駿河 ( 現静岡県 ) の人で、徳川家康の側室として、家康の第六男・忠輝 ( 松平 ) の生母となった。


家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫 ( るたく ) 中の忠輝を案じながら、元和 7年 6月 12日、没した。


法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。


この寺の創建は古く、応永 22年 ( 1415 ) と伝えられ、家康の生母・伝通院 ( 於大の方 ) の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。

    浄土宗 吉水山朝覚院宗慶寺
(案内板より)


〇 茶阿局
茶阿局(ちゃあのつぼね、生年不詳 - 元和7年6月12日1621年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康側室松平忠輝松平松千代の母。名は。本姓は河村。法名は朝覚院

生涯
初めは遠江国金谷村鋳物師[1]の後妻[1][2]となり、娘(於八)[1]を生む。しかし、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることになったが、今度は家康がお久を娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室として「茶阿局」とした。なお、この夫の仇は長谷川八郎右衛門という者がとったとある。[1]


天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[3]。しかし家康は忠輝を冷遇したとされ、生後間もない弟の松千代に長沢松平家を相続させて深谷藩1万石の藩主とした。ところが慶長4年(1599年)松千代は6歳で早世し、後嗣として兄の辰千代が藩主となった。辰千代は慶長7年(1602年)に元服し忠輝となり、翌慶長8年に深谷は廃藩とされ信濃国川中島14万石を与えられた。その際、茶阿局は前亡夫の二人の息子(善八郎[1]、又八郎[1])を、先の長谷川八郎右衛門の一族であった木全刑部の養子にして忠輝の小姓として召し出し、娘婿となっていた花井吉成を忠輝の家老にした。彼らは後に松平清直山田勝重など、古参の家臣との対立を招いた。


茶阿局は聡明であったため、奥向きのことを任され、強い発言力と政治力を持っていたようである。故郷の金谷村には、周辺の寺を保護して寺同士の紛争の解決にも尽力し、弟が住職だったとされる能満寺の寺領のため奔走したとする慶長9年(1604年)の記録が残る(『能満寺寄進状[4]』)。


慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫正室として娶る。その後、順調に加増を重ね、越後国高田75万石を所領した。元和2年(1616年)、家康死去後は髪を下ろし朝覚院と号した。しかし、直後に忠輝は兄の秀忠により度重なる失態を責められ改易伊勢国に流罪になった。茶阿局は家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼し奔走したが、聞き入れられることはなかった。


茶阿局は元和7年(1621年)6月に病死した。法名は「朝覚院殿貞誉宗慶定禅尼」[5]。墓碑は、これに因む寺名を持つ宗慶寺東京都文京区小石川)にある。

出身・家系
既述のように、一般的に彼女は鋳物師の後妻であったが夫が代官に殺され、家康に訴え出たところを見初められて側室になったとされる。この話は「東曜婦徳弁」[6]、「以貴小伝」などによる。


青木昆陽がまとめた『諸州古文書』や『山田文書』、『津軽藩旧家伝類』によると、茶阿局は金谷村一帯を支配していた地侍山田氏の出身で父は山田八左衛門という旨が記述されている。現地には、彼女が幼少の頃に金谷村の寺洞善院の住職から手習いを受けていたこと、後年その恩に報いるために洞善院へ梵鐘を寄進しているという伝承が今も残っている。また、平戸イギリス商館長(カピタンリチャード・コックスの日記に、改易された忠輝が配流される道中でこの地で「叔父の家に泊まった」という記述がある。また、彼女が花井氏に嫁いで離縁された過去があること、家康の側室になるにあたって地元の更に有力な武士河村家の養女になったことが記録に残っている(ただし没落して鋳物師の妻となっていた可能性は残る)。


茶阿の実兄・山田上野介は石田三成に仕え、重臣となっていた。佐和山城が落城した時、上野介は三成の父や兄と共に自刃したが、息子の山田隼人正(山田勝重、妻は三成の長女)を脱出させており、親戚の孝蔵主は茶阿局のもとに送り届けた。茶阿はこの甥を息子・忠輝の家老にして取り立てた。

登場作品
徳川家康 (1983年NHK大河ドラマ)、演 : 武原英子

補注
1. a b c d e f 『柳営婦女伝系』。
2. 山田某。このとき先妻との間に2人の息子がいた。
3. 天正20年に辰千代、松千代を双子で生んだという記録もある
4. 吉田町HP、能満寺の古文書
5. 文京区教育委員会「茶阿局墓碑」説明板。
6. 弁は旧漢字で表示できなかったもの
(wikiより)

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杉村 文一(すぎむら ぶんいち、文久元年(1861年) - 明治11年(1878年7月27日)は明治時代初期の石川県士族。兄には忠告社社長の杉村寛正明治法律学校の創立にも関わった杉村虎一などがいる。


明治10年(1877年)の西南戦争勃発に際し、島田一郎ら5名と大久保利通暗殺計画の盟約を結ぶ。翌明治11年(1878年)5月14日、大久保襲撃に最年少メンバーとして参加し、東京・紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺する(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。


事件後すぐさま宮内省に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年18。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。


彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)

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杉本 乙菊(すぎもと おとぎく、嘉永2年(1849年) - 明治11年(1878年7月27日)は明治時代初期の石川県士族

概要
嘉永2年(1849年)、加賀藩士・杉本作左衛門の子として生まれる。


島田一郎ら5人と共に大久保利通暗殺を企て、明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。


事件後すぐさま宮内省自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬首刑に処せられた。享年30。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。


彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)

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浅井 寿篤(あさい ひさあつ、安政元年(1854年) - 明治11年(1878年7月27日)は明治初期の島根県士族警視庁巡査


大久保利通暗殺紀尾井坂の変)の実行犯のひとり。

経歴
鳥取藩士の子として生まれ、明治維新後、警視庁巡査となった。西南戦争従軍後、凱旋中に禁令を破り免職された。


島田一郎ら5人と共に大久保利通暗殺を企て、明治11年(1878年5月14日石川県士族以外ではただ一人、大久保利通の襲撃に参加した(紀尾井坂の変)。


事件後すぐさま宮内省自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると、同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年25とされている。明治22年(1889年)に大赦された。谷中霊園にある。


彼らを裁いた判事玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという(東京日日新聞・明治11年6月1日)。
(wikiより)

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脇田 巧一(わきた こういち、嘉永3年(1850年) - 明治11年(1878年7月27日)は明治時代初期の石川県士族

脇田直賢
の末裔。


嘉永3年(1850年)、加賀藩士・脇田八兵衛の四子として生まれる。


明治6年(1873年)頃、石川県変則中学の監正となる。生徒・松田克之(のちに紀尾井坂の変の際、朝野新聞に斬奸状を郵送し逮捕された人物)と県庁に民選議員設立を建言したが却下され、辞職。翌年、鹿児島から石川に帰郷した長連豪と親交し、西郷隆盛桐野利秋らの人柄を聞き信奉するようになる。西南戦争で西郷が死ぬと、島田一郎らと大久保利通暗殺を計画し明治11年(1878年)5月14日、東京・紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。


事件後すぐさま宮内省自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬罪に処せられた。享年29。明治22年(1889年)に大赦された。墓は谷中霊園にある。
(wikiより)

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長 連豪(ちょう つらひで(ちょう の つらひで)、安政3年(1856年) - 明治11年(1878年7月27日)は明治時代初期の不平士族。初名は此木小次郎。

生涯

能登国穴水(現・石川県鳳珠郡穴水町)に、加賀藩士・此木(長)連潔の子として安政3(1856)年に生まれる。幼い頃は漢文学者の豊島洞斎に師事。その後、加賀藩の藩校明倫堂で学ぶ。

西郷隆盛を尊敬しており、明治6年(1873年)~同8年(1875年)の間に2度、合計14ヶ月の間鹿児島に滞在し、桐野利秋別府晋介と親交を結んだ。


島田一郎
ら5人と共に大久保利通の暗殺を企て、明治10年(1877年)11月に上京する。そして明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井町の清水谷付近にて大久保を暗殺した(「紀尾井坂の変」とも呼ばれるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に斬首刑に処せられた。享年23。墓は谷中霊園にある。

エピソード
・大久保暗殺当日、長は五所紋付きの黒羽織を着用していた(東京日日新聞・明治11年5月15日付)。


・処刑されるに当たって、首打役の山田吉亮に言い残すことはないかと聞かれ、「北はどちらの方角ですか」と尋ねた。吉亮が北の方角を指し示すと、そちらに手を合わせて何事かつぶやき、「北は私の故郷で、今なお母が存命なもので」と吉亮に理由を説明したうえで、従容と首を差し出したという。吉亮はそのときの心境を後に「刀の錆にするのが惜しく感じられた」と語っている[1]

脚注
1. 篠田鉱造『明治百話(上)』(岩波文庫、ISBN 4003346920
(wikiより)

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島田 一郎(しまだ いちろう、嘉永元年(1848年) - 明治11年(1878年7月27日)は、明治時代不平士族。一名に一良(いちろう)、朝勇(ともいさみ)。大久保利通暗殺した主犯(紀尾井坂の変)。

来歴
嘉永元年(1848年)、現在の石川県金沢市加賀藩足軽の子として生まれた。


元治
元年(1864年)、長州征伐で初陣。明治元年(1868年)、北越戦争長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格。


廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するがその後に帰郷。不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年(1878年5月14日長連豪等と共に大久保利通を東京紀尾井町の清水谷付近で暗殺(「紀尾井坂の変」と言われるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に大逆罪により斬首刑に処せられ、31年の生涯に幕を閉じる。


島田一郎等6名の墓所は東京の谷中霊園にあり、6本の墓石が並んでいる。

エピソード
・台湾の役、征韓の時に東西を奔走し、有志を募って征韓論を主張した。


・あだ名は「西洋犬」だった。


・家督を長男に譲って隠居して、遊歴と称して4月15日に東京へ向かい、その後大久保暗殺の犯行に及んだ。(朝野新聞・明治11年6月9日付)


・大久保暗殺当日、島田は無地の羽織姿だった。(東京日日新聞・明治11年5月15日付)


・大久保暗殺時、島田は懐中に短銃を所持していたが結局使わなかった。(東京日日新聞・明治11年6月1日付)


・彼の斬首を行った9代目山田浅右衛門によると、斬首される直前に「愛国の諸君、御先に御免」と共に処刑される仲間達に向かって叫び、「何か申し残すことは」と問いかけても首を振って「ここに及んで申し残すことはない」と淡々と述べたという。


・辞世の歌は明治18年8月4日発行の「自由燈」によれば「あらうれし 花の都につきにけり 屍を晒す 処と思へば」


・もう一つ有名な辞世の歌は「かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき」


・明治8年(1875年)8月23日の土佐立志社が開いた全国愛国社集会に加賀代表で参加する。


・明治8年(1875年)に結婚した妻・ミネは武田耕雲斎の娘[1]

登場する作品
日本暗殺秘録 - 演:唐十郎

・「血風、紀尾井坂 島田一良」 - 徳永真一郎著『明治叛臣伝』収録

脚注
1. 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.221
(wikiより)


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憂国の志士吉田松陰は、弟子金子重輔と共に柿崎弁天島の祠 ( ほこら ) に身を隠し夜になって、ここ弁天島の浜辺より小舟漕ぎだした。


尊王攘夷の嵐の中で海外の事情を探るべく渡航せんものと必死になって荒波とたたかい米戦艦ポーハタン号に向かいつつある緊迫の場面である。


雄図空しく挫折したが、その国を思う気迫と精神は見る者に深い共感を呼び起こさないではおかない。


時に嘉永 7年 3月 27日の夜 ( 西暦 1854年 4月 24日 ) であった。


吉田松陰先生 下田平滑獄中の記


「 世の人はよしあし事もいはばいへ

         賤が誠は神ぞ知るらん 」


踏海 130年記念 下田氏柿崎行政区


協賛 柿崎観光協会
    下田ライオンズクラブ


 鷺島神社 ( 弁天社 ) の入り口には吉田松陰先生の「七生説碑」及び金子重輔先生の追悼碑が有ります。

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幕末の思想家・指導者として有名な吉田松陰が、黒船での渡航を企てた柿崎・弁天島。


弁天島にある吉田松陰の七生説の碑・金子重之助の顕彰碑と弁天社。


吉田松陰と金子重輔はこの祠に身を隠して西暦1854年4月24日の夜、密航を試みた。弁天島は現在陸続きになっている。

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⇧⇩ 吉田松陰先生の「七生説碑」

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⇧⇩ 金子重輔先生の追悼碑

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幕末の思想家・指導者として有名な吉田松陰が、黒船での渡航を企てた柿崎・弁天島。


弁天島周辺で見られる縞々 ( しましま ) の地層は、数百万年前に海底火山から噴出した火山灰や軽石が、波や海流によって運ばれてできた地層です。


こうした地層が地殻変動により隆起 ( りゅうき ) して地表に現れ、波で削られた場所が弁天島なのです。


斜めに交差する縞模様は斜交層理 ( しゃこうそうり ) と呼ばれ、当時の海流の向きや水深を推定するヒントになります。


 弁天島を含む周辺の斜交層理は、静岡県の天然記念物に指定されています。
(案内板より)

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アスコルド号乗組員の墓


戸田港でロシアに帰国したプチャーチン提督は、1858年、再度、アスコルド号で下田に入港した。


この時一名の水兵が死亡した。


十字架のみで墓石は建てられることなく、永い間、氏名、享年不詳であったが、岡山大学名誉教授 保田孝一氏の調査により、この乗組員は、機関誌、フィリップ・ユーディンと判明した。
(案内板より)

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1855年 5月 15日に戸田で死せる

フリゲート艦ディアナ号水兵ワシ―リー・バケーエフの遺体ここに眠る。 

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1854年 12月 11日の地震による下田町崩壊の日に世を去りし

フリーゲート艦ディアナ号水兵アレクセイ・ソボレフの遺体ここに眠る。

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1855年 3月 25日戸田で死せる

フリゲート艦ディアナ号下士官アレクセイ・ポショーチキンの遺体ここに眠る。

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〇 ディアナ号乗組員の墓所

ロシア使節プチャーチン提督座乗のディアナ号は 1854年 12月 11日の安政大地震による大津波で下田湾で大破、その後、修理の為に戸田 ( 西伊豆 ) に回航の途上、沈没した。


日露和親条約付録第三条により玉泉寺境内にロシア人墓所が設けられた。


1. 1855年 3月 25日戸田で死せるフリゲート艦ディアナ号下士官アレクセイ・ポショーチキンの遺体ここに眠る。


2. 1854年 12月 11日の地震による下田町崩壊の日に世を去りしフリーゲート艦ディアナ号水兵アレクセイ・ソボレフの遺体ここに眠る。


3. 1855年 5月 15日に戸田で死せるフリゲート艦ディアナ号水兵ワシ―リー・バケーエフの遺体ここに眠る。


〇 アスコルド号乗組員の墓

戸田港でロシアに帰国したプチャーチン提督は、1858年、再度、アスコルド号で下田に入港した。


この時一名の水兵が死亡した。


十字架のみで墓石は建てられることなく、永い間、氏名、享年不詳であったが、岡山大学名誉教授 保田孝一氏の調査により、この乗組員は、機関誌、フィリップ・ユーディンと判明した。
(案内板より)

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ハナミズキ アメリカ ヴァージニア州の花


アメリカ建国 200周年記念植樹


1976年 5月 16日


1976年アメリカ建国 200年となるので日米友好記念植樹として、アメリカの花 ハナミズキを昭和 51年 5月 16日 第 37回黒船祭に際し植樹する


アメリカの花ハナミズキが、我国に植えられたのは、明治 45年当時の東京市長尾行雄氏が先に日米親善のしるしとして、桜の苗木を送った返礼として、アメリカから贈られたハナミズキを、都内数か所に分散して植樹したのが最初で、現在は日比谷公園や尾崎記念館に数十本残っているにすぎません


ワシントンに贈られた桜はポトマック河畔に植えられて、見事に育ち、アメリカの桜の名所として、アメリカ市民に親しまれております


我が国では、アメリカと最も関係の深い玉泉寺の庭にアメリカを代表する花、ハナミズキを植えて、名所としたいです
(石碑文より)


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牛乳の碑

農林大臣 河野一郎


安政五年 ( 1858年 ) 二月米国総領事タウンゼントハリスは政務多忙を極め病床にありました。


侍女お吉は ハリスが牛乳を欲するのを知り禁を犯して下田近在から和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです。


その時ハリスが十五日間に飲んだ九合八勺の牛乳の代価が一両三分八十八文之は米三俵分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります。


このことが日本に於ける牛乳売買の初めといわれます。


爾来百余年牛乳は現在重要な国民栄養食糧として年生産一千余万石に達し酪農事業は重要な国策となりました。


乳業の発達は国富の充実と共に前途益々洋々たるものがあります。


タウンゼント ハリスは、一八〇四年米国ニューヨーク州に生れ

一八五六年来日し一八六二年帰国その間 初代米国総領事として日米親交の基礎を築く一八七九年二月七五才で没した


伊豆は当社創業の地であり且つ下田に工場をもつゆかりの地でありますので下田と牛乳とを記念して

一九六二年五月一七日


森永乳業株式会社
取締役社長 大野 勇建之
(石碑文より)

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1856年 9月 4日 ( 安政 3年 8月 6日 ) 始めて日本帝国の一角に領事旗を掲げ翌年 11月 23日までこの地に居住し 1858年 7月 29日江戸条約によりて日本の門戸を世界に開きたる、米国総領事タウンゼンド・ハリス記念の為 此の碑を建つ。


 最後に下田を去りたるは 1859年 6月 30日なり

  
 1927年 9月 4日

  
 建立者 子爵  渋沢栄一

  
 故中日米国大使 エドガー・エー・バンクロフト

  
 シカゴ 市民  ヘンリー・ エム・ウルフ


1856年 9月 4日 木曜日 ( ハリス 日記より )

興奮と蚊のため、ひじょうに僅かしか眠れなかった。

蚊はたいへん大きい


午前 7時に水兵たちが旗棹をたて上陸した。


荒い仕事。

はかどらぬ作業。

円材が倒れて、横桁が折れる。

幸に誰も怪我はない。


とうとう艦から加勢をうける。

旗棹が立った。


水兵たちが、それを廻って輪形をつくる。


そして、この日の午後 2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。


厳粛な反省一変化の前兆一疑いもなく新しい時代がはじまる。

敢えて問う.... 日本の真の幸福になるのだろうか?....
(案内板より)


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米国大統領来訪記念碑


アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領 ( 39代 )


昭和 54年 ( 1979年 ) 6月 27日玉泉寺来訪


随行者

ロザリン・カーター夫人 . サイラス・R・ヴァンス国務長官 .

エミー・カーター嬢 . W・マイケル・ブルメンソール財務長官 .
           ツピグネス・ブレジンスキー大統領領補佐官 .

(石碑文より)

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ジョン・D・ストーム


ポーハタン号の火夫 享年 27歳。


1855年 2月 2日 下田港にて死亡。
(案内板より)

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アレキサンダー・デューナン

ミシシッピー号海兵隊員 享年 負傷。


1858年 7月 31日 下田港にて死亡。
(案内板より)

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ロバート・ウィリアムズ


ミシシッピー号海兵隊員 享年 24歳。


1854年 3月 6日 江戸湾にてミシシッピー号上で死亡。


横浜の増徳院に埋葬されたが、その後、当所に改葬された。
(案内板より)

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G.W.パリッシュ


ポーハタン号水兵 享年 21歳。


1854年 5月 5日 下田港にて死亡。


コネチカット州ヘブロン群生まれ ポーハタン号にて雷鳴激しき日に任務中マストより転落死。
(案内板より)

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ジェームス・ハミルトン


合衆国海軍軍医准尉 享年 38歳。


1854年 9月 6日 サスケハナ号にて航海中死亡。
(案内板より)

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1854年 3月 31日 ( 嘉永7年 3月 3日 ) 日米和親条約が神奈川で調印されると、下田は即時開港され、黒船 ( ペリー艦隊 ) 7隻が下田港に入港した。


日米和親条約付録条約第5条により、玉泉寺境内にアメリカ人用の埋葬所が設けられた。


日本最初の外人墓地である。


本堂から右の墓石より


1. ジェームス・ハミルトン


2. G.W.パリッシュ


3. ロバート・ウィリアムズ


4. アレキサンダー・デューナン


5. ジョン・D・ストーム

(案内板より)

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⇧⇩ ジェームス・ハミルトン墓

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⇧⇩ G.W.パリッシュ墓

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⇧⇩ ロバート・ウィリアムズ墓

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⇧⇩ アレキサンダー・デューナン墓

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⇧⇩ ジョン・D・ストーム墓

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当時、領事館員の食料のため仏手柑樹の幹に牛を繋ぎ屠殺せるもの、昭和六年四月八日 東京牛肉商の手により牛王如来を建立し供養す。


樹は枯れたためハリス記念館に保存す。


後世村人は屠牛木と云う。
(案内板より)

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⇧⇩ 牛王如来。

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史跡 玉泉寺


昭和二十六年 六月 九日 国指定


嘉永七年 ( 安政元年 = 1854 ) 三月、日米和親条約により下田が開港され、続いて五月、下田条約 ( 和親条約追加九か条 ) が結ばれると、ここ玉泉寺は了仙寺とともに米人休息所に指定された。


安政三年 ( 1856 ) 七月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に来航した。


しかし、幕府が着任を拒否しようとしたため数日間もめた。


結局、条約の日本語訳に誤りがあったことが分かり、八月五日、日本最初の領事館が玉泉寺に開設され、星条旗が庭高く翻った。


ハリスは、通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人と共にここに住んだ。


ハリスの使命は通商条約の締結であったが幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。


健康を害しながらも辛抱強く交渉にあたったハリスは、安政四年五月二十六日、下田奉行との間に締結した「下田条約」( 米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など ) を足がかりに安政五年六月十九日、ポーハタン号艦上で日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。


米国に続いて日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。


通商条約により横浜が開港されると、安政六年五月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。


なお、境内には米人の墓五基、露人の墓三基が残されている。


昭和五十九年 一月 三十日


下田教育委員会
(案内板より)

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祭 神:大国主命


配 祀:中筒男命


創 建:康永年間(伝)

      式内:竹麻神社三座(論社)

      式内:多祁富許都久和氣命神社(論社)

      (合祀の武峯神社)


例祭日:十月十五日


社 殿:流造二社/南西向


住 所:下田市柿崎

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鈴木仙蔵翁は、安政元年三月五日、柿崎に生まれる。


翁は村会議員のほか多くの公職につき、村の発展に尽力した。


ことに郷土の進展を目指すには、人材を育てることが急務だと主張して、自ら私財を投げ出し、私立柿崎農業補修学校を設立するなどして村の青年子女に対し、教養勉学の機会をつくった。


郷土を愛し、その意志を実践した功績により賀茂郡教育会から表彰された。


さらに末永く伝えたいと願いこの碑を建てた。


もと柿崎小学校に建てられたが、のちここ三島神社に移設された。
(案内文より)

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「松陰とお吉 下田の裏表」


建碑由来


川柳中興の祖 井上剣花坊師は屡々下田に遊び この句を残す


碑石寄贈 山口県萩市長


昭和四十九年九月十一日 川柳黒汐吟社同人建之


句碑建立にあたり汎く全国の川柳人各位より多大な御芳志を戴き哀心より謝意を表す
(碑文より)

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道守る人も時には


埋もれども


みちしたゑねば


あらはれもせね


矩方
(石碑文より)

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古代下田港は奥深く入り込み


この境内は小島であったので鎌倉時代は「船戸明神」となった。


安政の津波には付近に大船が押し流されて来たが此処は浸水せず浮島さまと呼ばれた。

昭和五拾参年拾月吉日
(案内板より)

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明治初期建築。


明治初期の建物で、なまこ壁がきれいに保存されています。

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明治末期から大正初期建築。


なまこ壁と伊豆石の部分がうまく調和した建物です。

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明治末期建築。


伊豆石の土台の白壁が美しい。


隣にも白壁の蔵があります。

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下岡蓮杖
( 1823 ~ 1914 )


日本営業写真開祖の写場 ( スタジオ )。


〇 下岡蓮杖
下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日1823年3月24日) - 1914年3月3日)は、日本の写真家(写真師)、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍、上野彦馬鵜飼玉川らと並び、日本最初期の写真家である。


801 下岡蓮杖

⇧ 下岡蓮杖が慶応4年(1868年)に撮影した武州忍藩士・吉田庸徳の写真

801   Monument_and_Statue_of_Shimooka_Renjō

⇧ 静岡県下田市下田公園内にある下岡蓮杖の碑と像

経歴
生い立ち
伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市静岡地方裁判所下田支部裏付近)に桜田与惣右衛門の三男として生まれる。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。幼いときから絵を好んで下田で奉公するのを嫌ったため、天保6年(1835年)13歳で江戸に出て絵師になろうとする。しかし、何のツテも持たない少年が良い師につくことは難しく、結局日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公に出ることになった。しかし、これも合わず3年で下田に戻る。天保14年(1843年)には父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につくが、絵師への夢を捨てきれず、暇さえあれば絵を描いていた。これを見ていた上役の取次を得て、弘化元年(1844年)秋に江戸へ向かい狩野菫川に入門。菫川も伊豆出身ということもあって気に入られ、菫円(園)、菫古と号して、のちに全楽堂あるいは伝神楼とも号した。

写真術取得への道のり
ある日、師の用事である旗本家(一説に薩摩藩下屋敷)に出向くと、オランダ船のもたらした1枚のダゲレオタイプを見せられた。これに驚嘆した蓮杖は、以来写真術を学ぼうと決心し、菫川の許しを得てその門を離れた。しかし、菫川からの恩を忘れないため、「菫」の字が蓮の根を意味することから自分の身長より大きい5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作らせ、これを常に持ち歩いた。そのためいつしか蓮杖と呼ばれるようになり、自身もそう名乗るようになった。また、奥儒者成島司直(幕府の正史『徳川実紀』の編纂者)から、写真術の情報を聞いたのも、写真師を目指すきっかけの一つと言われている[1]


写真術を学ぶには外国人と近づくのが近道であると、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。そこで数回にわたってアメリカやロシア船舶の外国人に接したが目的を達することができず、諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船来航が起こる。日米和親条約で下田が開港すると、郷里の下田で次の機会を狙おうと考え、船で帰省する途中、今度は安政東海地震に遭遇する。どうにか辿り着いた下田は酷い惨状だったが、何とか肉親や縁者と再開することが出来た。菫川には自身の無事を知らせるため、紙の代わりに屋根板に手紙を書き、その板には「逆浪に追われて家も米もなし 楽しみもなし死にたうもなし」と記されていたという。


下田での蓮杖は開国以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年(1856年横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年(1859年)12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。


そのショイアー家にアメリカの写真家ジョン・ウィルソン(蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。宣教師S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、コロディオン湿板ネガから印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。文久元年末(1862年1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像得るのに成功した。

写真館開業
文久2年(1862年)蓮杖は40歳で横浜の野毛、ついで弁天通5丁目横町で写真館を開業した。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設しているとされる。長崎の上野彦馬の開業は、蓮杖と同年)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であった。写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好んだが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者もいた。蓮杖は注意したが外国人は応じず、蓮杖も諦めて撮影するようになった。開化期にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたとみられる。また外国人客は日本娘の写真を大変好んだため、蓮杖は多額の報酬でモデルを雇って撮影し、浮世絵美人画のような写真も販売した。文久年間には根強かった迷信も次第に無くなり、日本人客も来るようになり店は繁盛した。


蓮杖の門下からは、横山松三郎臼井秀三郎鈴木真一(初代)江崎礼二など日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出した。ほかに桜田安太郎、四身清七、桜井初太郎、平田玄章、西山礼助、船田万太夫、勅使河原金一郎などがいる[2]


一方で蓮杖はまた勤王の志が強く、箱館戦争台湾出兵などのパノラマ画を描き、作品は遊就館に納められた。また、元治元年(1864年)に来日、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学び、明治初期、蓮杖も自ら石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。


明治15年(1882年)、蓮杖は浅草公園第五区に写真館を移したがその後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。


蓮杖は1914年に浅草で没した。享年92。墓地は豊島区駒込染井霊園にあり、下田公園には蓮杖の記念碑と銅像が建立されている。

脚注
1. 大日方欣一、「下岡蓮杖」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
2. 幕末明治の写真師列伝 第三十回 鈴木真一 その一一般財団法人 日本カメラ財団

参考文献

・藤倉忠明 『写真伝来と下岡蓮杖』 神奈川新聞社、1997年5月、ISBN 978-4-8764-5216-3

・石黒敬章編 『限定版 下岡蓮杖写真集』 新潮社、1999年5月、ISBN 978-4-1072-0045-7

・斎藤多喜夫 『幕末明治 横浜写真館物語』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2004年3月、ISBN 978-4-6420-5575-8

東京都写真美術館監修 『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』 国書刊行会、2014年2月、ISBN 978-4-336-05782-2

関連項目
上野彦馬

鵜飼玉川

日本写真史

外部リンク

・『歴史写真. 大正6年10月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)

  ・写真館安政6年横浜大田町にて全楽堂を開業と説明

  ・撮影旅行の下岡

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について高橋信一(慶應義塾大学)
(wikiより)

24  下岡蓮杖

下岡蓮杖

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文政元年 ( 1818年 ) 建築。


江戸時代初期から伊豆石や炭などを江戸に運んで栄えた商家。

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森 斧治郎
( 1843 ~ 1915 ) 


日本薬剤師第 1号 森 斧治郎 ( もり - おのじろう )


「森斧薬局」初代、森斧治郎は 1849 ( 天保 14 ) 年 6月に松崎町伊那下神社、森家の次男として生まれる。


松崎において「金苔堂」の名で売薬、雑貨店を営む。


斧治郎は国内薬剤師の第 1号


斧治郎は 79 ( 明治 12 ) 年 11月 13日、静岡県平民として県より「薬舗開設仮免許」を得て、下田に移り薬舗を開業するかたわら、78 ( 同 11 ) 年に発行された「薬物学大意」を主に薬学を独習し、89 ( 同 22 ) 年、薬事法が発布され、薬剤師と言う名称が法的に明確にされるとさらに研さんを積み、 91 ( 同 24 ) 年 5月、49歳の時、東京において薬剤師という名称を日本で最初に取得し、同年 6月 3日、成績トップで「薬剤師試験及第の証 日本第一号」を認定された。


同年 7月 23日、薬剤師免状が内務相の品川弥二郎子爵より交付された。


その後は下田において「森斧薬局」として薬の販売に従事し、遠くは天城を越えて小田原方面まで売って歩いた苦難の道もあった。


1915 ( 大正 4 ) 年に 73歳で没す。


孫の一は雑誌「黒船」の創刊に参加した。

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