2021/09
6266 池田政鋹墓(台東区・谷中霊園)
経歴
岡山県生まれ。本籍地は東京府。池田詮政の二男。伯父(詮政の兄)で鴨方藩知事であった池田政保の養子となる。
1924年(大正13年)、慶應義塾大学法学部を卒業。同年以降、臨時帝室編修官補、拓務属、朝鮮総督秘書官となるほか、麻布銀行取締役となる、また拓務省、大東亜省各委員、朝鮮農地開発営団監事などになる。
1939年(昭和14年)2月、養父の死去に伴い子爵を襲爵。同年6月、貴族院子爵議員に選出された。
1945年(昭和20年) 死去。46歳没。
親族
・兄 池田禎政(旧岡山藩池田家第14代当主)
・弟 池田宣政(旧岡山藩池田家第15代当主)
・養子 池田政忠
参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
(wikiより)
池田政鋹
6265 池田政保墓(台東区・谷中霊園)
略歴
鴨方藩9代藩主で岡山藩10代藩主となった池田章政(政詮)の長男として誕生した。幼名は満次郎。
慶応4年(1868年)3月15日、父・章政が宗家の岡山藩を継承したため、その跡を受けて幼くして鴨方藩主となる。
明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官され、9月に東京へ移った。
明治17年(1884年)7月には華族令により子爵となる。
昭和14年(1939年)2月10日、満74歳で死去した。法名は高雲院。
栄典
・1873年(明治6年)12月8日 - 木盃一個[1]
系譜
・父:池田章政(1836年 - 1903年)
・母:不詳
・先妻:池田慶政の娘
・後妻:戸田氏良の娘
・養子
・男子:池田政鋹(1899年 - 1945年) - 弟・池田詮政の次男
脚注
1. 『太政官日誌』明治6年、第157号
(wikiより)
「霊雲院殿春山政保大居士」
池田政保
6264 小永井小舟墓(台東区・谷中霊園)
文政 12年 ~ 明治 21年 12月 10日 ( 1829 - 1888 )
儒学者・詩人・幕臣。
名、岳。字、君山。通称、五八郎。変名、司馬傭作。号、小舟。姓、平野。
父、佐倉藩・平野重美の末子。幕臣・小永井籐左衛門の婿養子となる。
千葉県佐倉出身。
若くして江戸に遊学し野田笛浦・古賀謹堂・羽倉簡堂に師事。
安政 6年 ( 1859 ) 咸臨丸に公用方下役として渡米。
帰国後、調役となり、徒目役より大阪調役になる。
維新後、一ツ橋侯侍読。
遣米使節新見正興に随行し渡米。文部省微官。
明治 4年 ( 1871 ) 尾張侯に招かれ尾張明倫堂教頭。
晩年浅草新堀に住み「濠西塾」を創設し諸生に教授する。詩文書で有名。
著書 : 「亜行日記」、「漢史一班」、「無弦琴」、「濠西小築」、「代画小説」、「天放集」、「清史略」、「小舟盧詩文」。60歳没。




6263 横田国臣墓(台東区・谷中霊園)
生涯
肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村[1](現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり、横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。
中津市立学校を経て1872年に上京した後は、慶應義塾に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。その後、1876年に司法省に出仕してからは、検事、司法少書記官と昇進し、1886年司法官の一員としてドイツに留学[2]。一人だけ官費での留学延長が認められ、5年間の留学の後、1891年に帰国した。
翌1892年1月に「刑法改正審査委員会」が司法省内に設置されると、横田は委員に任命され、翌月には委員長となり、以後刑法改正案の起草において責任者として中心的な役割を果たすことになる。また、同年11月には当時司法次官となっていた清浦に抜擢されて、初代民刑局[3]長に就任し、刑法改正審査委員会のほか、民事訴訟法調査委員会・刑事訴訟法調査委員会も取り仕切った。
横田は法典論争においては実施断行派であったが、1893年に法典調査会が設置されると、主査委員に任命され、民法典の編纂にも積極的に関わった。1896年10月には、第2次松方内閣で司法大臣となった清浦のもとで司法次官に昇進し、1898年1月には公務のかたわら和仏法律学校(現・法政大学)の校長にも就任した。
第3次伊藤内閣末期の1898年6月、高木豊三(後任の民刑局長)、加太邦憲(東京裁判所長)と組んで、春木義彰(検事総長)、北畠治房(大阪控訴院長)ら老朽司法官の淘汰を断行。一方、横田は検事総長、高木は司法次官、加太は大阪控訴院長に就任したため、北畠らは憤り、首相の大隈重信、法相の大東義徹を動かし、同年10月、横田は懲戒免官となった。
ところが、第1次大隈内閣(隈板内閣)は短命に終わり、官僚閥の第2次山縣内閣で再び司法大臣となった清浦により、1899年3月、わずか半年で懲戒処分を免ぜられて復職。後期法典調査会においては第三部(刑法典担当)の部長に任ぜられ、引き続き刑法改正案の起草責任者となった。
1904年には検事総長に返り咲き、1906年には大審院院長まで昇りつめた。以後、1921年に定年退職するまで約15年の長きに渡って院長を務め、歴代院長の中で最長在職期間(戦後の最高裁判所長官を含めても歴代1位)を記録している。1921年に裁判所構成法の改正により判事定年制が導入されたのは、横田が自発的に退職しなかったためであると言われる。大物大審院院長であった横田に引導を渡したのは原敬内閣であり、この法律は俗に「横田退治法」などと呼ばれた。
1915年12月1日、男爵を叙爵[4]。
親族
・横田五郎 - 弟。朝鮮総督府法務局長・朝鮮総督府高等法院長。
栄典
位階
・1885年(明治18年)2月6日 - 従六位[5]
・1923年(大正12年)2月24日 - 正二位[13]
勲章等
・1894年(明治27年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[14]
・1906年(明治39年)6月30日 - 勲二等瑞宝章[16]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[17]
・1915年(大正4年)12月1日 - 男爵[4]
脚注
1. 島原藩領の飛び地
2. この時のドイツ留学組には、高木豊三、加太邦憲、河村譲三郎、富谷鉎太郎、田部芳、石渡敏一などがいた。
3. 司法省の民事局と刑事局が合併した後に誕生した部局
4. a b 『官報』第1001号、1915年12月2日。
5. 『官報』第479号「賞勲叙任」1885年2月7日。
6. 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
7. 『官報』第2884号「叙任及辞令」1893年2月13日。
8. 『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。
9. 『官報』第6256号「叙任及辞令」1904年5月11日。
10. 『官報』第7193号「叙任及辞令」1907年6月22日。
11. 『官報』第8710号「叙任及辞令」1912年7月2日。
12. 『官報』第2089号「叙任及辞令」1919年7月22日。
13. 『官報』第3170号「叙任及辞令」1923年2月26日。
14. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
15. 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
16. 『官報』第6902号「叙任及辞令」1906年7月3日。
17. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
・楠精一郎『明治立憲制と司法官』慶應通信、1989年5月。ISBN 978-4766404197。
・七戸克彦「現行民法典を創った人びと(7)」『法学セミナー』第659号、日本評論社、2009年11月。
・鈴木正裕『近代民事訴訟法史・日本2』有斐閣、2006年9月。ISBN 978-4641134690。
・吉井蒼生夫 「現行刑法の制定とその意義」 『裁判と法の歴史的展開』杉山晴康編、敬文堂、1992年5月。ISBN 978-4767002927。
・『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年6月、323-324頁。(近代デジタルライブラリー)
・横田国臣 - ウェイバックマシン(2016年3月5日アーカイブ分) 谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー
(wikiより)
横田国臣
6262 福鎌芳隆墓(台東区・谷中霊園)
? ~ 明治 37年 4月 18日 ( ? - 1904 )
東京控訴院検事。
京都出身。
明治 7年 ( 1874 ) 吉見正家・山形清孝・高斉光正らと式部権大舎人。
明治 9年 ( 1876 ) 正院権少主記。太政官 8等属、8等属警視。
明治 14年 ( 1881 ) 新潟裁判所検事。
明治 15年 ( 1882 ) 神戸始審裁判所検事。奏任 4等・東京控訴院検事。
明治 36年ころ上司である桜井能監宅で研究会「毎夜回読会」が開かれ、福鎌芳隆・大森鐘一・高木豊三・薩?正邦・北垣国道・横田香苗などがその会員であった。従四位勲四等。
著書・編集 : 「本朝民鑑」、「布告提要」、「現行罰令彙纂」。
正面「従四位勲四等福鎌芳隆之墓」。「譲徳院殿謙誉帰一芳隆大居士」。


6261 上田良武墓(台東区・谷中霊園)
略歴鹿児島県に生まれる。薩摩藩士の上田良貞の次男。攻玉社から海軍兵学校に進み、1900年12月卒業。
1902年1月に海軍少尉、1903年9月に海軍中尉、1905年1月に海軍大尉、1910年12月に海軍少佐、1915年12月に海軍中佐、1919年海軍大佐となる。この間、1908年7月 - 1912年1月にアメリカに派遣され、1918年6月 - 1920年12月にはアメリカ駐在武官を務めている。1923年4月に航空機試験所長に任ぜられて、後に海軍技術硏究所に入り、1924年12月に海軍少将となる。1925年6月に海軍技術硏究所航空硏究部長に任ぜられ、1927年3月には広海軍工廠長、同年12月には海軍航空本部技術部長を務めて、日本の航空戦略に大きな影響を与えた。1928年12月に海軍中将となるが、翌1929年4月には予備役に編入され、以降は海防義会理事長や日本地政学協会会長を務めた。1945年4月1日に退役、終戦後の9月11日、A級戦犯容疑者に指定されるが、不起訴釈放となった。妻信との間に一男(良和)一女(利子)をもうけた。
参考文献
・人事興信所編 『人事興信録』第8版 人事興信所、1928年
・秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年 P187.
(wikiより)
「誠忠院浄光良武居士」
6260 平山陳平墓(台東区・谷中霊園)
天保 10年 5月 25日 ~ 明治 22年 1月 25日 ( 1839 - 1889 )
自由民権家。
父、幕臣・加藤進左衛門 ( 六男 )。
甲斐国甲府出身。
維新後、駿河に移住。
平山省斎の門に入る。のち養子となって家塾を預かる。
明治 8年 ( 1875 ) 「提醒社」に入り、静岡新聞の編集長を務める。
また、「鶯蛩新報」や「函右日報」などの民権ジャーナリズムの創刊もおこなう。
明治 12年 ( 1879 ) 1月最初の本格的な自由民権運動演説結社「参同社」を組織。
明治 14年 ( 1881 ) 静岡改進党で中心となり活動したが、2年後に離党。
明治 17年 ( 1884 ) 4等警視。
明治 19年 ( 1886 ) 非職。のち、静岡大務新聞記者。
明治 21年 ( 1888 ) 伴任 1等下。警視属書記局記録課長。
従七位。妻、真崎歌子 ( 嘉永 3年 2月 25日 ~ 明治 19年 12月 18日 )。51歳没。
※ 「函右日報」 : 明治 12年 ( 1879 ) 年 6月 1日はじめ「参同社」から発刊。
社主榊原正吉、編集長日野清芳、印刷兼発行人平山陳平。
翌年 1月「参同社」を離れ、平山の兄で県会議長の磯部物外を社長に迎えて「函右日報社」を設立し、そこから発刊する。[静岡県近代史研究会資料参照]
正面「従七位平山陳平/陳平妻真崎歌子 之墓」。墓碑は平成 22年 7月に改修。


6259 小野素水墓(台東区・谷中霊園)
文化 11年 ~ 明治 30年 ( 1814 - 1897 )
俳人。
長野県出身。
本名、宇治慶孝。通称、小野又右衛門。号、素水・黒元舎・成斎・灌山・明義。
信濃出身。
江戸で書法を松本薫斎と亀田綾瀬に師事。
俳諧を小蓑庵確嶺と孤山堂卓郎に師事。卓郎没後は月の本為山に師事。
明治 7年 ( 1874 ) 為山が俳諧教導職となり「教林盟社」を立ち上げるとき協力した。
明治 12年 ( 1879 ) 二条家から弓月の称号を許可され、教導職に列する。
明治 19年 ( 1886 ) 「教林盟社」社長。
明治 30年 ( 1897 ) 大教正となる。
共著 : 「簒註色蕉翁一代集」、没後明治 31年 ( 1898 ) 「ふゆこもり」。85歳没。
6258 山本速夫墓(台東区・谷中霊園)
文政 8年 12月 20日 ~ 明治 2年 11月 1日 ( 1825 - 1869 )
三河吉田藩士・若松県大参事。
本姓、穂積。名、重雄。通称、孫六。はじめ亀井氏。別名、山本一郎。
代々父、亀井六五郎左衛門。
吉田藩主松平家に剣道をもって仕えた。
若年から羽田野敬雄に国学を学び勤皇の志をもつ。
「禁門の変」の数日前に脱藩、山本一郎と改め、諸国を流浪し京都で侍従・鷲津隆聚の邸宅に坂本竜馬・田中顕助・藤村四郎・香川敬三らと共に時期を待ち、慶応 3年 ( 1967 ) 鷲津隆聚が密勅を奉じて高野山に挙兵すると、これに従い監察に任じ、東三番隊長を務める。
慶応 4年 ( 1868 ) 4月朝命により帰藩し同年 5月新政府出仕となる。
内国事務局権判事となり、三河裁判所に勤務。
その後武蔵国監察史、租税司判事、鉱山司知事を歴任。
廃藩置県後、山本速夫と改名。
若松県大参事等を努める。のち、宮内省出仕。東伏見・山階・華頂の 3宮家令。
正面「山本家之墓」。没年が 1874年の資料が殆どだが、墓誌は 1869年なので、これに従った。
生誕日は、碑に記述がある。しかし、享年は、碑も墓誌も 50歳となっていて、計算が合わない。






6257 荻澤貫一墓(台東区・谷中霊園)
6256 荻澤鈔太郎墓(台東区・谷中霊園)
6255 一木允墓(台東区・谷中霊園)
昭和 4年 8月 8日 ~ 昭和 60年 8月 12日 ( 1929 - 1985 )
松下電器システム推進部長。
古屋大学工学部卒。
昭和 29年 ( 1964 ) 松下電器に入社。
OAシステムの専門家で、59年 5月新設されたシステムエンジニアリング本部のシステム推進部長。
しかし、昭和 60年 ( 1985 ) 8月 12日翌日の大阪での会議に出席するために乗った日航 123便が墜落、死亡した。
著書・雑誌記事 : 「低周波増幅回路の設計」、「各種拡声機配線図集」、「電子部品活用マニュアル 」、「電子部品活用マニュアル : エレクトロニクス部品と機器設計の基礎」など。
「慈照院秋光妙允居士」


6254 一木喜徳郎墓(台東区・谷中霊園)
一木 喜德郞(いっき / いつき[1] / いちき[2] きとくろう、慶応3年4月4日(1867年5月7日) - 昭和19年(1944年)12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階・勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧氏名は岡田 丘平。
帝国大学法科大学教授、貴族院議員、法制局長官(第10代)、文部大臣(第26代)、内務大臣(第33代)、帝国学士院会員、宮内大臣(第9代)、枢密院議長(第16代)などを歴任した。
概要
公法学を専門とする法学者であり、帝国大学の法科大学にて教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことで知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めた。のちに天皇機関説事件において、美濃部らとともに激しい批判に晒された。また、貴族院議員に勅選され、政界に転じてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。宮中においては、宮内大臣や枢密院議長を務めた。また、父である岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた。
来歴
生い立ち
遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市)にて、岡田良一郎の二男として生まれた。初名は「岡田丘平」であった[3]。冀北学舎に学び、兄の良平が東京府第一中学を経て大学予備門に在学しているのに触発され上京、成立学舎に入学した。同期に町田忠治らが、教師には当時大学生(帝大生)であった有賀長雄や山田喜之助らがいた。
大学予備門には良平のアドバイスに従い最低級の三年級ではなく一級上の二年級から入った。同期に林権助ら。その後、帝国大学文科大学にあった政治科に入学。1887年(明治20年)に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。
内務官僚、法学者として
1887年、内務省に入省。1890年(明治23年)、自費でドイツに留学して行政法を学ぶ[4]。1894年(明治27年)、帰国して帝国大学法科大学教授となり、明治39年(1906年)に帝国学士院会員となる。法学者として天皇機関説を唱えるとともに、美濃部達吉らを育てた。 法科大学教授(憲法国法第一講座担当)とともに、1900年(明治30年)10月まで内務省に勤め、大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官を歴任する[5]。
政治家として
1900年(明治33年)9月26日、勅選議員として貴族院議員に就任した[6]。1902年(明治35年)には、法制局長官に就任した。また、第2次大隈内閣においては、大正3年(1914年)より文部大臣を務め、大正4年(1915年)からは内務大臣を務めた。
1917年(大正6年)8月14日、枢密顧問官に就任した[7]。それにともない、同年8月30日、貴族院議員を辞職した[8][9]。大正14年(1925年)には、宮内大臣に就任した。1933年(昭和8年)4月25日、多年の功により男爵に叙された[10]。
1934年(昭和9年)には枢密院議長に就任した。枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として、弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。昭和11年(1936年)の二・二六事件で内大臣斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間のみ内大臣臨時代理を務めている。なお事件中は宮中において昭和天皇の相談相手を務め、事件終息に尽力した。
また、旧制武蔵高等学校の初代校長や、社団法人大日本報徳社社長も務めた。
家族・親族
一木の実家の岡田家は、政治家や学者を輩出する一族として知られる。一木の父は報徳思想の啓蒙に努めた衆議院議員岡田良一郎であり、兄は京都帝国大学総長や文部大臣を歴任した岡田良平である。一木の実子には、検事の一木輏太郎、行政法学者の杉村章三郎がいる。また、輏太郎の長男充は松下電器のシステム推進部長であったが日本航空123便墜落事故の犠牲者となった。一木の実弟で母の実家・竹山家の養子となった純平の息子には、東京大学教養学部で教授を務めた小説家の竹山道雄、元建設省官僚、東京都立大学、日本女子大学教授で建築構造学の重鎮であった竹山謙三郎がいる。山梨大学教育学部教授の竹山護夫、東京大学名誉教授の平川祐弘は、一木の姪孫にあたる。
猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)イ一六二頁によれば、
・妻・さへ(養父喜三司の長女)
・嗣子・輏太郎
・二男・隩二郎
同妻・ミドリ(渋谷徳三郎の五女)
・二女・シク
・三女・家子(衆議院議員・貴族院議員尾崎元次郎の長男孝一に嫁す)
栄典
・1893年(明治26年)4月11日 - 従七位[11]
・1944年(昭和19年)12月17日 - 従一位[21]
勲章等
・1903年(明治36年)5月21日 - 勲四等瑞宝章・金杯一個[22]
・1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[23]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[24]
・1915年(大正4年)
・11月10日 - 大礼記念章(大正)[25]
・1928年(昭和3年)12月28日 - 旭日桐花大綬章[28]。
・1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章[29]
・1944年(昭和19年)12月17日 - 大勲位菊花大綬章[32]
外国勲章佩用允許
・1927年(昭和2年)2月1日 - スウェーデン王国:ワザ勲章グランクロア[33]
・1929年(昭和4年)7月22日 - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス[34]
・1931年(昭和6年)
・4月18日 - シャム王国:レレファンブラン勲章グランクロア[35]
・12月24日 - エチオピア帝国:メネリック第二世勲章グランクロア[36]
詳しいことは、「一木喜徳郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%A8%E5%96%9C%E5%BE%B3%E9%83%8E
(wikiより)

一木喜徳郎


6253 三代目・川井宝泉墓(台東区・谷中霊園)
6252 安東真鉄墓(台東区・谷中霊園)
宝暦 3年 3月 10日 ~ 文政 10年 7月 14日 ( 1753 - 1827 )
神道家・館林藩勘定役。
通称、一郎右衛門。号、一方。
父、安東直右衛門教典。
はじめ父に教育を受け、長じて加茂真淵の門下で国学を学ぶ。
但馬守秋元永朝に仕え勘定役となる。傍ら医術・儒学を研究。
また、父を助け紡績を業とした。川越織は真鉄の発明。
一方、わが国には、儒仏のほかに皇国固有の道があるとして、神道に入り感通術を悟り、70歳を過ぎて惟神道 ( かんながらのみち ) を体得。子の井上真鉄に教える。75歳没。なお、井上正鉄は弟子。正面「安東真鉄大人之墓」。
※ 安藤真鉄とする資料が多いが、墓碑銘は、安東真鉄である。また、生誕日は、6月の資料が多いが、墓誌より3月10日である。下谷慶安寺より改葬。


6251 江木哀墓(台東区・谷中霊園)
安政 5年 9月 19日 ~ 大正 14年 4月 8日 ( 1858 - 1925 )
弁護士。
号、冷灰。
父、岩国藩士・江木俊敬 ( 二男 )。
岩国学校 ( 現在岩国資料館のところ ) で英国人教師Herbert Augustus Stevens ( 1847 - 1878 ) に学ぶ。
明治 17年 ( 1884 ) 東京大学を卒業し警視庁に入り、司法・外務・農商務各省を歴任。
かたわら明治 18年 ( 1885 ) 英吉利法律学校 ( 中央大学 ) を東京府神田錦町に設立した一人で教鞭も執る。
他に増島六一郎、穂積陳重、高橋一勝などがいる。
フランス民法がもてはやされた中で、これを批判し「刑法汎論」を刊行。
明治 21年 ( 1888 ) 農商務大臣・井上馨の秘書官、のち外務省に移り、大隈重信の条約改正案に反対。
明治 24年 ( 1891 ) 内務大臣・品川弥二郎の秘書官。
明治 26年 ( 1893 ) 退官し、弁護士を開業。
明治 32年 ( 1899 ) 法学博士。東京弁護士会会長。
大正 8年 ( 1919 ) 臨時法制審議会委員。翌年陪審法調査会委員。
また、森槐南・本田種竹らと漢詩の「一詩社」をつくり詩集「冷灰漫筆」、「山窓夜話」などで政治批判をした。
号の「冷灰」は、漢詩にも才があり、この為のものである。
また、ヘビースモーカーでもあった。兄に江木千之がいる。
著書:「法律解釈学 ( 博文館 )」など。正面「冷灰江木先生之墓」。



6250 三島通陽墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日) は、日本の小説家・劇作家・演劇評論家。子爵。貴族院議員・参議院議員。文部政務次官。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京麻布生まれ、学習院卒業。ペンネームに三島章道(みしま しょうどう)。
祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純[1]。
ボーイスカウト運動
ボーイスカウト日本連盟初代理事長兼中央実修所所長を経て、ボーイスカウト日本連盟第4代総長。
・1922年(大正11年)、後藤新平を中心として初の全国組織「少年団日本連盟」が結成されると、25歳で副理事長に選任される。妻の純は翌年、日本のガールガイド・ガールスカウト組織として、「日本女子補導団」を設立。
・1950年(昭和25年)、三島家別荘の土地と家屋(栃木県西那須野町)をボーイスカウト日本連盟に譲渡。その地所は現在、ボーイスカウト日本連盟の常設野営場、那須野営場となっている。
・1951年(昭和26年)、全国総会において第4代総長に選出される。
・1953年(昭和28年)、ボーイスカウト日本連盟より功労章「きじ章」を贈られる。
・1961年(昭和36年)、英国ボーイスカウト連盟より功労章「ブロンズ・ウルフ章」を贈られる。
・1965年(昭和40年)
・2月25日から3月7日まで毎日新聞に「スカウト十話」を連載。これが絶筆となる。
・4月24日、日本連盟葬が執行された。
なお、琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県大津市)にある「日本ボーイスカウト初野営の地」の石碑の書は、三島の筆によるものである。
著・訳・編書
・和譯孟子(1918年、大同館)
・パトロールシステム(1925年、著:ローランド・フィリップス)
・少年団指導者教範(Aids to Scoutmastership, 著:ロバート・ベーデン・パウエル)
・満州及上海に正しき日本を観る 附國際聯盟と我裏南洋(1932年、東学社)
・世界少年団劇集(1933年、少年団日本聯盟)
・校外健児教育(1933年、著:ロアゾウ、少年団日本聯盟)
・日満健児工作(1934年、東学社)
・伊太利は奮起した(1939年、実業之日本社)
・少年団概論(1939年、著:ロアゾウ、教育研究会)
・世界児童劇集 附少年団劇集(1940年、章華社)
・戦時下の世界青少年運動(1940年、日本評論社)
・少年団指導の理念と実践(1942年、三學書房)
・音なき交響曲(1958年、宝文館)
・十人百話-9 ボーイスカウト十話(1965年、毎日新聞社)
映画
平和の勇士
・指揮:三島章道
・監督:曾根純三
・原作・脚本:山村魏
・製作:社会教育映画研究所
・1926年(大正15年)10月29日公開 (白黒、無声映画)
歌劇
・ボーイスカウト』(1925年、宝塚歌劇団・雪組)
脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年) p.671
参考文献
・紅野敏郎「逍遥・文学誌 80 「舞台芸術」―川口尚輝・三島章道・菊岡進一郎・渡平民ら」『國文學:解釈と教材の研究』43(2)、學燈社、[1998]
・末永航「子爵、ドゥーチェと会う―三島章道」『イタリア、旅する心ー大正教養世代のみた都市と文化』青弓社、2005年、ISBN 978-4-7872-7196-9
関連項目
・東京都出身の人物一覧
外部リンク
・『戦時下の世界青少年運動』三島通陽著 (日本評論社, 1940) 国立国会図書館デジタルコレクション
・ ウィキメディア・コモンズには、三島通陽に関するカテゴリがあります。
(wikiより)
三島通陽
6249 五島耕畝墓(台東区・谷中霊園)
五島耕畝 ( ごとう - こうほ )
明治 15年 ~ 昭和 33年 6月 11日 ( 1882 - 1958 )
日本画家。
本名、五島貞雄。
父、五島伝之允。
茨城県久慈郡 ( 日立市 ) 出身。
16歳で市内内田町の梶山太海に絵を学び、ついで水戸の松平雪江に師事。
明治 34年 ( 1901 ) 東京に出て原丹橋に師事。
ついで荒木寛畝に師事して花鳥画を学ぶ。
南北合派を研究。読画会会員。
明治 40年 ( 1907 ) 東京勧業博覧会で「秋」が褒状を受ける。
同年の文展開設で、正派同志会の結成に評議員として参画。
明治 41年 ( 1908 ) 第 2回文展に「塒はなれ」を出品。
明治 43年 ( 1910 ) 日英博覧会で銅賞。
以来、「初秋の朝」、「河原の朝」、「深山の秋」、「田家の秋」など文展・帝展に出品。
入選 11回、推薦 1回。宮内省買い上げとなる作品あり。
昭和 5年 ( 1930 ) から帝展推薦として最終展まで出品。
戦時中は、生家のある中里村に疎開、戦後は、那珂町菅谷で創作活動を続ける。
日本美術協会の創立時会員。日本美術協会絵画委員、同審査員。美術研精会・日本画会・同志会委員。読画会幹事。帝国絵画協会会員。77歳没。
6248 山科礼蔵墓(台東区・谷中霊園)
文久 4年 1月 ~ 昭和 5年 8月 24日 ( 1864 - 1930 )
海運界の功労者。
父、山科常左衛門 ( 長男 )。
広島県出身。
明治 5年 ( 1872 ) 広島の「遷喬社」で英語を、「桜南社」で長谷川桜南 ( 1829 - 1885 ) に漢学を学ぶ。
明治 17年 ( 1884 ) 上京し「吉備 ( きび ) 商会」を興し郷里に物産を扱う。
山科海事工業所を設立、築港・架橋・船渠・難破船引上げ・埋立工事等に従事。
特に難破船は百隻を超える。
東京商業会議所副会頭。
大正 10年 ( 1921 ) ジャパンタイムスを買収。日本海事工業会社取締役。山下汽船会社監査役。我が国実業特使を務める。
明治 35年 ( 1902 ) 衆議院議員 ( 憲政本党 )。従五位。67歳没。

6247 宇都宮新七郎墓(台東区・谷中霊園)
来歴・人物
常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で二度の8勝2敗がある以外2~5勝の成績に終始した。
現役時代のある時、師匠常陸山の代理で海軍提督たちの宴席に出席したが、ささいなことから料亭の従業員と大喧嘩になってしまう。このために破門にされそうになったが、常陸山と交際のあった(義兄弟の盃を交わした仲であった)八代六郎大将が仲裁に入って救われた。この一件で海軍幹部たちにも威勢の良い力士として知られることになり、海軍記念日の訪問興行の折東郷平八郎元帥から声をかけられたこともあったという。
引退後、年寄・放駒、のち九重を襲名。日本相撲協会の理事もつとめたが、ものごとをはっきり言い過ぎる性格のため他の理事と対立、一時除名処分を受けた。
口が大きく「ガマ」のあだ名があった。当人も「明治の三ガマといったら、浪曲の桃中軒雲右衛門、女優では松井須磨子、角界ではかくいう宇都宮新八郎だ」と称していた。
本家の出羽海部屋よりも郷里の後輩である栃木山守也の春日野部屋に入り浸ることが多く、新弟子時代の栃木山にシャモの肉をふるまった話をいつもするので、栃錦清隆ら春日野の弟子たちは「シャモの親方」とあだ名した。
主な成績
・幕内在位:17場所
・幕内成績:57勝57敗8分預48休 勝率.500
関連項目
・大相撲力士一覧
(wikiより)
左面「相撲協会理事 九重貴昭 宇都宮新七郎」。
6246 酒井美意子墓(台東区・谷中霊園)
略歴
・1927年(昭和2年)4月からロンドンで過ごす[1]。
・1930年(昭和5年)9月に帰国[2]、その後女子学習院に入学、昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王と同級・学友となる[3]。
・女子学習院卒業[4]。
・1943年(昭和18年) - 1945年(昭和20年)、外務省政務秘書官室勤務[5]。
・1945年(昭和20年)3月、従兄の酒井忠元と結婚[6][7]。
・1946年(昭和21年)、社交クラブをオープンする[8]。
・1959年(昭和34年)、評論家としての活動を開始する。専門はマナー、エチケット、その後皇室関係にも拡がる[10][11]。
・1973年(昭和48年)、ハクビ総合学院学長となる[12]。
・1977年(昭和52年)からは、百合姿きもの学院と京都きもの学院の学長を兼任した[13]。
著作物
著書
・1966年(昭和41年) - 『マナー小事典 : 基本から公式まで』 池田書店
・1969年(昭和44年) - 『若いふたりのマナー : デイト・ステディ・婚約・友人』 池田書店
・1971年(昭和46年)
・『酒井美意子のエチケットの本 : 愛される人になるために』 サンケイ新聞社出版局
・『和服の常識 : いつ、何を、どう着るか』 三崎書房
・1972年(昭和47年)
・『おヨメに行くとき読む本 : 女であるとは、どういうことか』 主婦と生活社
・『女の生き方 : 演技の値打ちを見直す本』 徳間書店
・『きものの常識 : ちょっぴり差をつけるための400項』 主婦と生活社
・1973年(昭和48年)
・『男を見る眼 : このずる賢くも、可愛い動物の研究』 主婦と生活社
・『最新・おつきあい読本 : 賢い女性のマナー集』 佼成出版社
・『一人暮しの経済学 : 優雅な生活のすすめ69章』 日新報道
・1974年(昭和49年)
・『縁談成功法 : 幸せな結婚への男性鑑別法と交際の作法』 講談社
・『会話のおしゃれ : 実用89の秘訣集』 三笠書房
・『君主学入門 : 加賀前田家“お家安泰"の秘密』 徳間書店
・『恋をしたときから読む本 : 愛されるための男性研究』 主婦と生活社
・『新マナー小事典 : 改まった場で困らないために』 池田書店
・『女性のマナー : 冠婚葬祭の常識』 ひかりのくに
・1975年(昭和50年)
・『子どもをしつける : 自信が持てるしつけ成功法』 読売新聞社
・『図解・マナー全科』 家の光協会
・『装いの設計 : 個性的なおしゃれプラン』 ひかりのくに
・1978年(昭和53年)
・『会話のおしゃれ』 三笠書房
・『女性よ、もっと貴女を演出しなさい』 潮文社
・『聡明な女の生き方 : ライフワークのみつけ方から知的生活の方法まで』 主婦と生活社
・1979年(昭和54年)
・『食通にささげる本 : 誰も言わなかった“味”“店”“雑学”』 青春出版社
・『こんなとき何を着るか : 冠婚葬祭、交際で成功する装い』 祥伝社
・1980年(昭和55年)
・『おしゃれ話術 : 魅きつける言葉のメイクアップ』 経済界
・『おヨメに行くとき読む本 : 女であるとは、どういうことか』 主婦と生活社
・1981年(昭和56年) - 『冠婚葬祭とマナー : カラー版』 家の光協会
・1982年(昭和57年)
・『ある華族の昭和史 : 上流社会の明暗を見た女の記録』 主婦と生活社
・『風雪を越えて : 山本信嗣の歩んだ道』 財界展望新社 ISBN 4-87934-013-8
・1983年(昭和58年)
・『あなたを美しく魅せるマナー : 最新版おもしろなるほど事典』 日本経営指導センター
・『女らしく生きる』 大和書房
・『「加賀百万石」前田家にみる危機に強い経営術』 日本経営指導センター
・『困った時はこう書く : すぐ役立つ手紙文例集』 PHP研究所 ISBN 4-569-21007-4
・『酒井美意子のマナーの本』 大和書房
・『モテる女への神話 : いい女への秘密』 大和書房 ISBN 4-479-18012-5
・1984年(昭和59年)
・『女ひと通りのことができなくちゃ : 新・暮らしと生き方の知恵15章』 主婦と生活社
・『女らしく生きる』 ダイワアート
・『風の戯れ』 中央公論社 ISBN 4-12-001299-9
・『酒井美意子のマナーの本』 ダイワアート
・『長男と結婚するとき読む本』 主婦と生活社 ISBN 4-391-10815-1
・『まごころの贈り物選び方と贈り方』 ロングセラーズ ISBN 4-8454-0187-8
・1985年(昭和60年)
・『酒井美意子のマナー美人になる本』 画:志摩ようこ 講談社 ISBN 4-06-189807-8
・1986年(昭和61年)
・『ある華族の昭和史 : 上流社会の明暗を見た女の記録』 講談社文庫 ISBN 4-06-183528-9
・『かしこい女性のマナー集』 ダイワアート
・『ほんものマナー秘訣集』 主婦と生活社 ISBN 4-391-10932-8
・1987年(昭和62年)
・『おしゃれ上手』 三笠書房・知的生きかた文庫 ISBN 4-8379-0199-9。新版2001年
・『酒井美意子のマナーの本 : 愛される人になるために』 大和書房 ISBN 4-479-18062-1
・『20歳からの魅力学 : あえて八方美人のすすめ』 大和書房 ISBN 4-479-18071-0
・『良妻の心得百科』 ぎょうせい ISBN 4-324-00850-7
・1988年(昭和63年)
・『会話のおしゃれ』 三笠書房知的・生きかた文庫 ISBN 4-8379-0282-0
・『皇室に学ぶマナー』 ダイワアート
・『ロイヤルマナー : 皇室・伝統の礼儀と作法』 大和書房、2001年 ISBN 4-479-01145-5
・『“おしゃれな女"が読む本』 三笠書房・知的生きかた文庫 ISBN 4-8379-0355-X
・『結婚式&お葬式』 広済堂出版 ISBN 4-331-00463-5
・『酒井美意子のお葬式で困らない本』 大陸書房 ISBN 4-8033-2367-4
・『20歳からの恋愛術・交際術』 大和書房 ISBN 4-479-18085-0
・1990年(平成2年)
・『お嬢様倶楽部 : フィニッシングスクールお入門』 丸善メイツ ISBN 4-89577-038-9
・『お嬢さまご用達読本 : 酒井美意子のマナー・エッセイ』 婦人画報社
・『冠婚葬祭事典 : すぐに役立つ、恥をかかない』 広済堂出版 ISBN 4-331-00477-5
・『素敵と言われるマナーブック』 青春出版社 ISBN 4-413-08026-2
・『花のある女性って、素敵ね』 主婦と生活社 ISBN 4-391-11300-7
・1992年(平成4年)
・『加賀百万石物語 秘史・前田家の戦争と平和』 主婦と生活社/角川ソフィア文庫、2001年 ISBN 4-043-60901-9
・1995年(平成7年)
・『写真集 華族の肖像』 清流出版 ISBN 4-916-02807-4
・『昭和マイラヴ : 思い出すことの多き日々かな お姫さまエッセイ』 清流出版 ISBN 4-916-02808-2
・『元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』 宙出版(主婦と生活社)/講談社+α文庫、2016年 ISBN 4-06-281677-6
詳しいことは、「酒井美意子ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%BE%8E%E6%84%8F%E5%AD%90
(wikiより)
6245 酒井忠興墓(台東区・谷中霊園)
略歴
・1879年(明治12年)6月6日、姫路藩第10代藩主・酒井忠邦の長男として生まれる(忠邦は忠興が生まれる前の3月25日に死去した)。
・1887年(明治20年)6月6日、先代当主酒井文子(7代藩主酒井忠顕正室)より家督を継承。伯爵に叙せられる[1]。
・1903年(明治36年)、第5回内国博覧会にオドントグロッサムを出品する。
・1919年(大正8年)9月22日、死去。享年40。
親族
・妻:夏子 - 公爵・三条実美の七女
・養嗣子:酒井忠正 - 備後福山藩第10代藩主で最後の藩主・阿部正桓の二男。
・長女:酒井秋子 - 忠正の妻。
・二女:酒井菊子 - 旧加賀藩主前田本家第16代当主・前田利為の妻。
墓所
都立谷中霊園 - 夫妻の墓がある。父母の墓も同所。
脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』上p.640
参考文献
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
関連項目
・ 酒井氏#雅楽頭酒井家系譜
(wikiより)
酒井忠興
6244 酒井忠正墓(台東区・谷中霊園)
人物
備後福山藩の最後の藩主だった阿部正桓の次男として生まれ、旧姫路藩主酒井家の酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法学部を卒業する。
1923年(大正12年)9月に貴族院議員となり、1945年(昭和20年)12月まで務める。阿部内閣にて農林大臣を務める。
第二次世界大戦後は日本中央競馬会第3代理事長として、アジア競馬会議の開催を提唱し、1960年(昭和35年)に実際に開催するなど、日本競馬の国際的な地位向上に努めた。
また大相撲の横綱審議委員会初代委員長、日本プロレス協会初代会長を務めるなど日本のスポーツ界にも足跡を残した。
酒井自身は頼まれると断らない人柄であったため、それ故に縁の薄い角界・プロレス界からも賓客の礼をもって迎えられた。
略歴
・1893年(明治26年)6月10日、備後福山藩最後の藩主・阿部正桓の次男として生れる。
・1919年(大正8年)10月10日、家督を相続して雅楽頭系酒井家宗家21代当主となる。
・1923年(大正12年)9月、貴族院議員となる。
・1939年(昭和14年)、阿部信行内閣にて農林大臣に就任。
・1940年(昭和15年)、同大臣を退任。
・1943年(昭和18年)、第11代大東文化学院総長に就任。
・1945年(昭和20年)12月、貴族院議員を退任。
・1954年(昭和29年)、相撲博物館・初代館長に就任。
・1957年(昭和32年)、日本中央競馬会理事長・第3代理事長に就任。
・1962年(昭和37年)、同理事長を退任。
・1968年(昭和43年)、相撲博物館・館長を退任。
・1971年(昭和46年)2月16日、死去。
栄典
・1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[2]
外国勲章佩用允許
・1927年(昭和2年)4月19日 - 千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章(ローマ法王庁)[3]
親族
・父:阿部正桓 - 備後福山藩10代藩主
・義父:酒井忠興 - 雅楽頭系酒井家宗家25代当主
・妻:酒井秋子 - 忠興の長女
・長男:酒井忠元 - 雅楽頭系酒井家宗家27代当主
・忠元の妻の酒井美意子は、前田利為(旧加賀藩主16代当主)と忠興の次女・菊子の娘で、忠正の義理の姪に当たる。
脚注
1. 『朝日新聞』1946年10月6日一面。
2. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
3. 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。
関連項目
・酒井氏#雅楽頭酒井家系譜
(wikiより)
酒井忠正
6243 伊達宗曜墓(台東区・谷中霊園)
伊達 宗曜(だて むねてる、明治13年(1880年)5月11日 - 大正11年(1922年)7月16日)は、明治時代から大正時代の華族。正四位。男爵。貴族院議員。伊予宇和島藩主・伊達宗城の十男。幼名は鉤一郎。明治25年(1892年)に兄・伊達宗倫の養子となり、同年10月31日に宗曜と改名した[1]。妻は伊予吉田藩主・伊達宗孝(宗城の実弟)の娘・富貴子。子に宗光、宗克、宣子(藤沢威雄夫人)、城善、直子(大浦康信夫人)、菊子(高津奈良夫人)、欽子(秋元順朝夫人)、美知子(初名孝子)。
学習院中退後、築地の文海学校に入るが中退し、家庭教師に勉学を学ぶ。大正9年(1920年)に貴族院議員となる。大正11年(1922年)に43歳で没した。家督は宗光が継いだ。
脚注
1. 『官報』第2806号、明治25年11月2日。
参考文献
・日本人物大辞典(講談社刊)
(wikiより)
6242 伊達宗倫(男爵)墓(台東区・谷中霊園)
6241 井関盛艮墓(台東区・谷中霊園)
経歴
藩主伊達宗城に仕え、安政6年(1859年)に山奉行、文久3年(1863年)に大目付役軍使兼寺社奉行を務め、後に藩命によって京都や長崎で政治工作にあたる。維新後は宗城に従って新政府に出仕して外国事務局や外務省に勤務、明治2年4月17日(1869年5月28日)に神奈川県知事に任じられる。神奈川県知事時代に伊勢山皇大神宮創建や横浜毎日新聞の創刊などの事業に関わった。明治4年(1871年)に宇和島県参事に任じられるが、赴任することなく同年のうちに名古屋県令に転じ、愛知県に改称後もそのまま県令に留まった。明治6年(1873年)に島根県権令に任ぜられ、翌年に県令に転じるが、明治9年(1876年)に退官して実業界に転じ、甲武鉄道発起人として東京-八王子間の鉄道敷設に尽力、また第二十国立銀行取締役、東京株式取引所肝煎頭取などを歴任した。人物写真の収集でも知られ、井関が所有していた勝海舟、近藤勇、木戸孝允、高杉晋作、岩倉具視、伊藤博文らの肖像など、幕末から明治中期にかけての古写真230葉が、東京都港区立港郷土資料館に収蔵されている。墓は東京の谷中霊園にある。
(wikiより)


6240 井深元治墓(台東区・谷中霊園)
嘉永元年? ~ 明治 6年 2月 5日 ( 1848? - 1873 )
元会津藩士・「束松事件」犯人の一人。
福島県出身。
戊辰戦争後、新政府は、会津の治世を越前の久保村文四郎に命令するが、暴虐貪欲で、とくに贋金作りの探索では、容疑があると調べもせず惨殺した。
また、会津藩士の死体埋葬を許可しなかったが、伴百悦等が手を尽くして埋葬を行った。
しかし、民政局筆頭・越前藩士の久保村文四郎より撤去命令が出た。
明治 2年 ( 1869 ) 7月久保村に激怒した会津藩士・伴百悦・井深元治・高津仲三郎・武田源蔵の 4名が河沼郡束松峠にて久保村を暗殺した「束松事件」を起こした。
元治は名前を上山大八と変え大阪に逃れ潜伏した。
しばらくして、久保村殺害の首謀者は処刑されて、政府は他の犯人を追及しないと聞き及び、東京に出て日下義雄の紹介・井上馨の斡旋で学業を始めるが、密告され捕り、明治 6年 ( 1873 ) 獄中にて死亡。25歳。
このときの判事は、玉乃世履。屍は、小塚原回向院に投げられたという。
建立は元会津藩士・日下義雄。
明治 27年 10月建立で死後 20年以上経っているが官職の地位で獄死者の墓を建てたのには、井深元治の行為に賛同するところがあったからだろう。



6239 伊藤樟堂墓(台東区・谷中霊園)
嘉永 4年 12月 ~ 明治 12年 8月 26日 ( 1851 - 1879 )
薬草学者。
父、伊藤圭介。
幼少より漢学洋文を学ぶ。
11歳で東京に出、13歳で帰る。19歳で中国に留学。
21歳で戻り東京医学校に入る。
明治 7・ 8年間は信州駒ヶ岳・御岳山・浅間山・日光・箱根・伊豆・菰野山などで薬草採りを行い、毒草薬草を分類整理し、書物に著す。
明治 11年 ( 1878 ) 胸を患い温泉地などで静養するも甲斐なく 27歳で没する。
碑文は下記のとおり ( 不正確御免 )。
伊藤君諱謙号樟堂尾張人伊藤圭介之子也
幼承庭訓長通漢学兼習洋文亦精医理十一
歳随侍東京十三歳帰尾州十九歳游浪華
二十一歳復来東京入医学校留心本草中事
明治七八年間採薬於信州駒嶽御嶽浅間嶽
諸山後?日光箱根伊豆勢州菰野山等処寄
花異草毒薬霊根莫不?採遂撰薬品名彙一
書広行於世又譯西人植物等学著為植学咯
解文部省亦刊行之十一年患胸病左肋膨脹
医治罔?自知不起常鬱鬱不楽頼親友勧慰
乃偕遊於?浦鹿島熊本九州諸勝地又浴於
有馬温泉帰東京養?亦手不釈巻故著述頗
富異日期付??至明治十二年病勢漸増攻
苦尚力以是益憊延及八月二十六日謝世傷
矣距生於嘉永四年十二月得年二十有七歳
又九越月也


6238 清水金生墓(台東区・谷中霊園)
? ~ 大正 7年 2月 7日 ( ? - 1918 )
陸軍大佐。
旧姓、岡田。
清水家の養子となる。
愛媛県出身。
明治 12年 ( 1789 ) 2月陸軍士官学校入学。
明治 14年 ( 1881 ) 12月卒業・陸軍歩兵少尉。
明治 16年 ( 1883 ) 4月陸軍大学校に入る。第 2期生となり、メッケルの講義を受ける。
明治 18年 ( 1885 ) 12月卒業。
明治 37年 ( 1904 ) 9月歩兵第 20連隊長・中佐。日露戦争に従軍。
明治 37年 ( 1904 - 1905. 7 ) 11月後備歩兵第 46連隊。
明治 38年 ( 1905 ) 12月歩兵第 59連隊長。大連に上陸し、休戦後は京城 ( ソウル ) の警備をする。
明治 39年 ( 1906 ) 12月陸軍歩兵大佐。
明治 40年 ( 1907 ) 8月予備役。従五位勲三等。妻、住江。
※ NHK「坂の上の雲」の秋山好古は、陸軍大学校第 1期生。
正面「陸軍大佐従五位勲三等清水金生之墓」。


6237 久世広業墓(台東区・谷中霊園)
生涯
安政5年(1858年)3月24日、先々代藩主・久世広周の次男として江戸関宿藩邸で生まれる。明治元年12月7日(1869年1月19日)に兄で先代藩主の広文(当時14歳)が戊辰戦争で関宿藩内の佐幕派に擁されて新政府と戦ったことで隠居・減封・官位剥奪の処分を受けたため、兄の養子として12月14日に家督を継いだ。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により関宿知藩事に任じられ、8月24日に従五位下に叙位された。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙任される。明治44年(1911年)11月7日に死去。享年54。
系譜
・父:久世広周(1819-1864)
・母:不詳
・養父:久世広文(1854-1899)
・正室:由 - 松平信宝の三女
・継室:有馬道純の四女
・生母不明の子女
・男子:久世広英
(wikiより)
久世広業
6236 久世広文墓(台東区・谷中霊園)
生涯
嘉永6年(1853年)、先代藩主・久世広周の長男として生まれる。文久元年(1861年)3月16日、老中・安藤信正と関係を深めるため信正の娘との婚約を願ったものの、幕府の許可が得られず、明治2年(1869年)10月23日に至って婚約を解消している。文久2年(1862年)8月16日、広周は幕政の失敗を理由に強制隠居処分となり、広文が家督を相続するが、5万8000石に減封された。さらに広周が11月20日に永蟄居処分に下されるや、さらに減封されて4万8000石となった。
若年のため、藩政は家臣団によって行なわれ、農兵の徴集や天狗党の乱の鎮圧などに参加している。慶応元年(1865年)2月15日、14代将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月25日に従五位下・出雲守に叙位・任官する。慶応4年(1868年)2月2日に隠岐守に遷任する。
戊辰戦争では、佐幕派として江戸城を守備したが、藩内はその主導権をめぐって佐幕派と尊王派に分裂した。
佐幕派は江戸にあった広文を擁して深川に移し、これを奪取しようとする尊王派と争う有様だったが、結果、佐幕派が主導権をとる。佐幕派は万宇隊を結成するなど彰義隊と協力して新政府軍と戦ったが、敗れた広文らは下総佐倉藩を頼って逃れる。後に帰国したが謹慎を命じられた。家臣による助命の嘆願運動などもあって、明治元年(1868年)12月7日、5000石の減封と強制隠居の処分を受け、官位剥奪などの処分で許された。
明治2年(1869年)9月28日に罪を許され、10月13日には官位も復された。明治32年(1899年)10月に死去、享年47。
系譜
・父:久世広周(1819-1864)
・母:不詳
・正室:なし
・婚約者:安藤信正の娘
・養子
6235 酒井忠邦墓(台東区・谷中霊園)
生涯
嘉永7年(1854年)正月15日、上野伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸の伊勢崎藩邸で生まれる。先代姫路藩主の酒井忠惇が将軍・徳川慶喜に従ってあくまで佐幕派の立場を貫いて江戸まで赴いたことで、姫路藩は朝敵とみなされた。このため慶応4年(1868年)5月2日、忠惇は強制隠居となって一族の忠邦が跡を継ぐこととなった[1]。忠邦は新政府に与することを明確にするため、新政府に対して15万両の献金や旧幕府派の家臣の大量処分(戊辰の獄)を行なっている。明治元年11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出[2]、版籍奉還実施により知藩事となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官されると、忠邦は東京へ出て、慶應義塾に入学した。同年12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国した。
明治12年(1879年)3月25日、26歳で死去した。長男の忠興の誕生は忠邦の死から2か月余り後の同年6月6日であり、酒井家当主の座には忠邦正室鏐子の父・忠顕の未亡人である文子が一時的に就き、忠興が満8歳になるまでその地位にあった。
略歴
・1854年(安政元年)、伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸に生まれる。
・1868年(明治元年)、酒井忠惇が強制隠居となり家督を継ぐ。
・版籍奉還により知藩事となる。
・1871年(明治4年)、廃藩置県により知藩事職を免官となる。
・1879年(明治12年)3月25日、死去。
系譜
・父:酒井忠恒(1811-1868)
・母:不詳
・養父:酒井忠惇(1839-1907)
・正室:鏐子 - 酒井忠顕の長女
・生母不明の子女
・長男:酒井忠興(1879-1919)
・女子:清子 - 前田利定夫人
脚注
1. 姫路藩酒井家は伊勢崎藩酒井家にとって宗家にあたるだけでなく、忠邦の兄たちとの間に姻戚関係もあった。酒井文子#系図を参照。
2. 薩長土肥の4藩主が版籍奉還を上奏 (明治2年=1869年3月2日) 1月20日
外部リンク
・長谷川君父子瘞髪碑語釈
(wikiより)
酒井忠邦
6234 吉村寅太郎墓(台東区・谷中霊園)
経歴
但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身[2]。1869年(明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。その他、東京女学館長、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)校長を務めた[2]。1902年(明治35年)、第四高等学校校長に起用された。1911年(明治44年)に退官し、1916年(大正5年)に第四高等学校名誉教授の称号を得た。
著作
・「広島英語学校年報」(『文部省第二年報附録』)
・「広島英語学校年報」(『文部省第三年報附録 第一』)
・「広島英語学校年報」(『文部省第四年報附録 第一』)
・「広島英語学校年報」(『文部省第五年報附録 第一』)
・「鹿児島県学事巡視功程」(『文部省第十一年報附録』)
・「学事巡視概況」(『官報』第719号、1885年11月21日 / 同誌第749号、1885年12月28日 / 同誌第764号、1886年1月21日 / 同誌第766号、1886年1月23日 / 同誌第771号、1886年1月29日 / 同誌第775号、1886年2月4日)
・「義塾懐旧談」(『三田評論』第253号、慶應義塾大学、1918年8月)
・「土地も建物も同人のもの」(『慶応義塾誌』 慶応義塾誌編纂部、1922年)
著書
・『日本現時教育』 金港堂書籍、1898年5月
訳著
・『視学提要』 金港堂書籍、1900年3月
脚注
1. 『明治時代史大辞典 3』。なお『官報』は叙勲が行われた1月15日死去と発表している(『官報』第1335号、1917年1月17日、257頁)。
2. a b 『豊岡誌 巻中』。
参考文献
・「第四高等学校名誉教授吉村寅太郎叙勲」 アジア歴史資料センター Ref.A10112833800
・「吉村寅太郎」(豊岡町編輯 『豊岡誌 巻中』 豊岡町、1942年10月)
・小熊伸一 「吉村寅太郎」(宮地正人ほか編 『明治時代史大辞典 3』 吉川弘文館、2013年2月、ISBN 9784642014632)
関連文献
・「吉村寅太郎」(内尾直二編輯 『第三版 人事興信録』 人事興信所、1911年4月)
・宿南保著 『明治期郷土出身文教の偉人群 浜尾新』 吉田学院、1992年2月
・吉家定夫 「豊岡藩と慶応義塾」(『近代日本研究』第17巻、慶応義塾福沢研究センター、2001年3月、NAID 120005347352)
・「吉村寅太郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
外部リンク
・谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 吉村寅太郎
(wikiより)
吉村寅太郎
6233 比丘妙運墓(上野桜木2-6-4・浄名院)
比丘妙運 ( びく みょううん )
文政 10年 1月 1日 ~ 明治 44年 ( 1827 - 1911 )
浄名院第 38世住職。
名、幸啓。字、妙運。号、無庵。
大阪出身。
天台宗学匠慧澄を戒師として得度、その指導を受ける。
25歳のとき日光山常観院にて地蔵尊信仰に触れ、1千体石地蔵建立の発願を立てる。地蔵比丘といわれる。
明治 9年 ( 1876 ) 浄名院第 38世となる。
明治 12年 ( 1879 ) 1千体の願いが満ちると、インド中天竺阿育大王の 8万 4千体の法塔建立の故事に習い、石地蔵 8万 4千体建立の大誓願に進み、上は佛祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願する。
これに呼応し、北白川宮能久親王殿下・徳川家・小松宮家・一条家・近衛家・毛利等各家の奉納があり、さらに各界の人の奉納が続いた。
明治 18年 ( 1885 ) 地蔵山総本尊を建立。85歳没。
※ 比丘 ( びく ) : 修行僧のこと。
正面「中央に地蔵図 右に発願主 上野浄名院比丘妙運 / 八万四千体之内第六千五百九十番」。
6232 石黒忠悳詩碑(神奈川県藤沢市江ノ島1-4-3・児玉神社)
( 碑文 )
出将入相無匹儔武功文勲伝千秋
英魂長鎮画島裡天明海洪浮白鴎
子爵であった石黒忠悳 ( いしぐろ - ただのり ) の奉献。
御祭神の文武の功績を比類なしと絶賛している。
石黒は陸軍軍医総監も務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に努め、日本赤十字社長などを歴任した。
(案内板より)
〇 石黒忠悳
石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、弘化2年2月11日(1845年3月18日) - 昭和16年(1941年)4月26日)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。
経歴
幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官の手代になり、奥州(福島県)の陣屋に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)[3]。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。私塾を開き、松代の佐久間象山に会って感銘を受けた。江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。
幕府が倒れ医学所も解散し一時帰郷するが、再び東京へ戻り、医学所の後身である大学東校(東京大学医学部の前身)に勤める。1871年、松本良順の勧めで兵部省に入り、草創期の軍医となった。
佐賀の乱、西南戦争に従軍。明治二十年(1887年)9月に、ドイツのバーデン国都カルルスルーエで開催された第四回赤十字国際会議に政府委員として出席し、北里柴三郎、森林太郎、尾澤主一らと出逢う[4]。1890年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長(陸軍軍医・序列第一位)に就任した。日清戦争のとき、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官をつとめた。日清戦争では脚気惨害の責任が指摘されている(詳細は、日清戦争での陸軍脚気大流行を参照のこと)。戦後、台湾での脚気惨害を知る高島鞆之助が陸軍大臣に就任すると、軍医制度を確立した功労者でありながら、1897年に医務局長を辞任した(事実上の引責辞任)[5]。
長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、その後も陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。1901年4月17日、予備役に編入[6]。1907年4月1日、後備役[7]、1912年退官。
後に貴族院勅選議員、日本赤十字社の第4代社長などをつとめた。1895年に男爵、1920年に子爵となった。
1941年、老衰のため死去[8]。没後に石黒家は襲爵手続を行わず、同年10月に華族の栄典を喪失した[9]。
茶人としても知られ、况斎・况翁の号がある。長男の石黒忠篤は東京帝国大学卒業後、農商務省に入り、穂積陳重の次女・光子と結婚、太平洋戦争終戦時の農商大臣をつとめた。
その他
・後藤新平の才能を見出し、愛知県病院長から内務省衛生局への採用を後押しした。そして相馬事件で後藤が衛生局長を非職となり、失脚しても長与専斎と異なり後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことが、児玉台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなった[10]。
・文学研究者には森鴎外の上官として、よく知られている(両者の確執が論じられることもある)。
・大倉喜八郎とは古くから交遊があった。大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に参加し、理事兼督長(現在の理事長兼校長)をつとめた。
・日比谷公園の開設に関わった。安寧健康上の設計を林学博士の本多静六から依頼され、洋風の公園となった。
・医師をめざして東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業した荻野吟子を、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する私立医学校・好寿院に紹介した。その後、それまで女性に開かれていなかった医術開業試験を受験できるよう内務省衛生局長であった長与専斎に紹介し、さらにみずから女医の必要性を長与に訴える等、荻野のために尽力した。のちに荻野吟子は近代日本における最初の女性の医師となった。
栄典
位階
・明治5年4月15日 - 正七位[11][12]
・1873年(明治6年)
・1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[11][15]
・1890年(明治23年)10月8日 - 従四位[11][16]
・1896年(明治29年)6月20日 - 正四位[11][17]
・1901年(明治34年)6月21日 - 従三位[11][18]
・1911年(明治44年)7月10日 - 正三位[11][19]
・1921年(大正10年)7月20日 - 従二位[11][20]
・1928年(昭和3年)8月1日 - 正二位[11][21]
・1941年(昭和16年)4月26日 - 従一位[11][22]
勲章等
・1878年(明治11年)12月27日 - 木杯一個[11]
・1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[11][23]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11][24]
・1895年(明治28年)
・8月20日 - 男爵・功三級金鵄勲章・旭日重光章[11][26]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[11][28]
・1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[11]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[11][29]
・1920年(大正9年)
・11月1日 - 大正三年乃至九年戦役従軍記章・金杯一個[11]
・1921年(大正10年)
・1924年(大正13年)1月10日 - 御紋付銀杯[11]
・1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[11]
・1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章[11][31]
・1934年(昭和9年)
・4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章・金杯一組[11]
・1936年(昭和11年)12月24日 - 旭日桐花大綬章[11]
外国勲章等佩用允許
・1895年(明治28年)7月30日 - 大清帝国:第二等第二双竜宝星[11][32]
・1897年(明治30年)6月11日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス星章付第二等勲章[11]
・1908年(明治41年)1月20日 - プロイセン王国:赤十字第三等記章[11]
・1910年(明治43年)6月6日 - 大韓帝国:李花大勲章[11][33]
・1919年(大正8年)4月5日 - 支那共和国:一等文虎勲章[11]
・1923年(大正12年)6月7日 - ポーランド共和国:ポルスキー勲章グランクロア[11][34]
・1927年(昭和2年)10月31日 - ドイツ国:赤十字第一等名誉章[11]
・1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国:大満洲国建国功労章[11]・
詳しいことは、「石黒忠悳ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E5%BF%A0%E6%82%B3
(wikiより)
石黒忠悳
6231 堀田正仲墓(神奈川県藤沢市西富1-8-1・遊行寺)
生涯
寛文2年(1662年)、当時は上野国安中藩主で老中であった堀田正俊の長男として誕生。貞享元年(1684年)8月、父が稲葉正休に暗殺されると、大久保忠朝や阿部正武らと協力して正休を討った。同年10月、家督を継ぐ。このとき、双子の弟の正虎に2万石(下野国大宮藩)を分与し、正高に1万石(下野佐野藩)を分与したため、自らの所領は10万石となった。
貞享2年(1685年)6月、出羽山形に移封される。貞享3年(1686年)7月には陸奥福島に移封された。しかし、これらの移封は父が暗殺されたために行われた処罰的な移封であり、しかも福島藩は悪地が多く実高が低かったため、藩財政が窮乏した。このため、正仲は家臣団の解雇を始め、年貢や運上金を厳しく取り立てる重税の措置を執った。さらに、領民に対して特産物である絹織物に絹役、飯坂温泉を始めとする領内の各温泉に湯投銭を課すなど、様々な重税を強いて領民を苦しめた。しかし5代将軍・徳川綱吉からは寵愛され、「頗る功あり」とまで賞された。
6230 堀田正盛 室・阿栗供養塔(神奈川県藤沢市西富1-8-1・遊行寺)
6229 堀田正盛供養塔(神奈川県藤沢市西富1-8-1・遊行寺)
堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、御側 / 大政参与。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。
母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。
出自
堀田氏は本姓紀氏であり、尾張中島郡の国人として、斯波氏・織田氏に服属した幕下層であったことは確実である[1]。天正10年(1582年)6月の本能寺の変後は豊臣秀吉に臣従したが、『寛政重修諸家譜』などでは堀田氏が豊臣恩顧の家柄であったことを明白に記すことを避けており、記述は乏しい。
堀田正貞の庶子・正秀は前田利家に仕えた。その惣領の正吉は小早川秀秋の家臣となった[1]が、秀秋が改易された慶長7年(1602年)から、幕府に召し抱えられた慶長10年(1605年)までの3年間の正吉の足跡については『寛政重修諸家譜』に記述がなく、伯父の堀田道空が重臣として仕えた豊臣秀頼の城地・大坂に身を寄せたとする説が有力である。こののち正吉は幕臣となり700石の旗本となったが、大坂の陣では伯父を敵に回しながら奮戦して1000石に加増された。その家督を継いだのが正盛である。
生涯
正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、酒井重澄と並ぶ寵臣として瞬く間に出世していった。
寛永3年(1626年)には小姓組の番頭となる。この当時は4000石から5000石級の旗本の任だったが、同年中に相模及び常陸国内にあった計5000石の領地に加えて、上野国内にも新恩5000石を与えられ、譜代大名として諸侯に列する。寛永10年(1633年)3月23日に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)となると、その後に相模・常陸・甲斐にそれぞれ5千石を得て、2万5千石で城主格となる。
その後も家光に深く寵愛され、寛永12年(1635年)3月1日に老中に就任し、3万5千石をもって武蔵川越藩主となり、はじめて城主となる。
寛永15年(1638年)3月8日、6万5000石を加増されて10万石となり信濃松本藩に転封[2]、老中の実務を免ぜられて家光の御側に回り、中根正盛と共に老中のまま大政参与となり家光を輔佐した。幕政に参画していたため松本藩の藩政にはほとんど関与せず、入国したのも入封した年の1回のみである[2]。
寛永19年(1642年)7月16日には1万石を加増されて下総佐倉藩に転封[2]、母方の従弟に当たる相模小田原藩主稲葉正則の後見も務めたが、家光の死去にともない慶安4年(1651年)4月20日に阿部重次と共に殉死した。享年44。
辞世は、
・「ゆくかたは くらくもあらし 時をゑて うき世の夢の 明ほのゝそら」
・「さりともと おもふもおなし ゆめなれや たゝことの葉そ かたみなるらむ」
正盛の出世は継祖母が春日局であったことを考慮に入れても異常な早さで、家光と正盛は男色関係にあったと見るのが有力である。殉死は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務であるからだと言い伝えられている。
佐倉藩は長男の正信が継いだが、万治3年(1660年)に幕政批判と無断帰国をしたため改易された。正信は預かり先で自刃したが、後に嫡孫の正休が近江宮川藩主となった。次男の脇坂安政は外様大名の信濃飯田藩主脇坂安元の養子となり、播磨龍野藩に転封された。三男の正俊と四男の正英は幕閣に入り、正俊は大老に、正英は若年寄に任じられた。後に正俊の子孫は佐倉藩に戻り、安政の子孫も譜代大名に昇格、正信の子孫と共に明治維新を迎えた。
脚注
1. a b 依田 2006, p. 350.
2. a b c 田中 2007, p. 38.
参考文献
・田中薫 『松本藩』 現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年5月。
・山本博文 『遊びをする将軍・踊る大名』 教育出版、2002年。ISBN 4316358901。
・下重清 『幕閣譜代藩の政治構造』 岩田書院、2006年。
・依田学海 『学海余滴』 笠間書院、2006年。
関連項目
・側衆
・喜多院
・寺尾 (川越市)
(wikiより)
6228 堀田正利 室・萬供養塔(神奈川県藤沢市西富1-8-1・遊行寺)
6227 堀田正利供養塔(神奈川県藤沢市西富1-8-1・遊行寺)
堀田正利 ( 正吉 )
( 1571 ~ 1629 )
旗本・堀田正秀の五男。
母は浅野長一の娘。
通称 勘左衛門。
正室は稲葉正成の娘萬。
織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。
関ヶ原の戦いののち、慶長 10年 ( 1605 ) 江戸幕府に出仕した。
墓所は、東京都台東区日輪寺。
この供養塔は、堀田正俊がせ延宝 5年 ( 1677 ) に建立。
(案内板より)
〇 堀田正利
堀田 正吉(ほった まさよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、江戸幕府旗本。
当初、織田信長、そして浅野長政に仕え、文禄元年(1592年)より、小早川隆景、次代の養子小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602年)に秀秋が没すると、慶長10年(1605年)に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年(1624年)、福島正則が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子・正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。
正室のまんは、稲葉正成の継室・春日局の義娘(先妻の子)にあたり、子の正盛は早くより将軍徳川家光に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、大名となり子孫は繁栄した。
(wikiより)
6226 加納久儔墓(台東区・谷中霊園)
加納 久儔(かのう ひさとも)は、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第5代藩主、後に上総一宮藩の初代藩主。一宮藩加納家5代。
寛政9年(1797年)、八田藩の第4代藩主・加納久慎の長男として生まれる。文化8年(1811年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政4年(1821年)10月6日、父久慎の死去により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下遠江守に叙任する。後に備前守、遠江守に改めた。文政9年(1826年)3月に上総一宮藩に藩庁を移転し、一宮藩主となる。
藩政では家臣・岩堀市兵衛を用いて洞庭湖という灌漑用水を築き[1]、天保9年(1838年)の天保の大飢饉では囲米の制を定めて困窮者の救済に務めた。文政10年(1827年)11月20日、大番頭に就任した。天保4年(1833年)6月24日に伏見奉行、天保9年(1838年)9月10日に奏者番となった。天保12年(1841年)11月14日、病気を理由に奏者番を辞任した。
天保13年(1842年)10月21日、家督を長男の久徴に譲って隠居する。同年11月4日、寛山と号した。弘化4年(1847年)7月10日に死去。享年51。
脚注
1. 着工年代については諸説ある。洞庭湖 (千葉県)の項を参照。
(wikiより)
6225 加納久周墓(台東区・谷中霊園)
経歴
宝暦元年(1751年)、上総勝浦藩藩主・大岡忠光の次男として生まれる。幼名は久弥と称した。
明和9年(1772年)伊勢八田藩第2代藩主・加納久堅の実子・久致が夭折したため、久堅の養女(松平信礼の娘)を娶り、久堅の養子として迎えられて加納久周と名乗る。同年、第10代将軍徳川家治に拝謁し、従五位下備中守に叙任された。
天明6年(1786年)、養父・久堅が死去したため、家督を相続し、第3代藩主となる。陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。
同年、大番頭を兼務し、遠江守に転任となり、寛政5年(1793年)、若年寄並に異動となる。3年後の寛政8年(1796年)、改革の功により、上野国の新田郡と佐位郡の両郡に3000石を加増され、石高は1万3000石を知行した。
翌、寛政9年(1797年)、若年寄並を辞す。寛政12年12月28日(1800年)、伏見奉行に就任。文化4年(1807年)、伏見奉行を辞す。翌、文化5年(1808年)、嫡男の久慎に家督を譲り、隠居した。その3年後、文化8年(1811年)に死去。享年59。
年表
・宝暦元年(1751年):出生
・天明7年(1787年):従五位下遠江守、八番組大番頭兼側衆
・寛政年間(1789年 - 1801年):上総国長柄郡一宮で貯水池(洞庭湖)の造成に着工[1]
・寛政8年(1796年):3000石加増
・文化5年(1808年):隠居
・文化8年(1811年):死去 享年59
脚注
1. 着工年代については諸説ある。洞庭湖 (千葉県)の項を参照。
関連項目
・寛政の三忠臣
(wikiより)
6224 加納久慎墓(台東区・谷中霊園)
加納 久慎(かのう ひさちか、安永5年(1776年) - 文政4年8月13日(1821年9月9日))は、江戸時代の大名。伊勢国八田藩第4代藩主。一宮藩加納家4代。
3代藩主加納久周の嫡男。母は大河内松平信礼の娘。正室は植村家長の娘。子は加納久儔(長男)。幼名は英次郎。初名は久敬。官位は従五位下・大和守。寛政11年(1799年)、久慎は実弟である第5代岩槻藩主・大岡忠正の家臣・児玉南柯の私塾・遷喬館(のち岩槻藩校)創設のとき、自ら筆を執り、塾名を大書したという(遷喬館扁額)。
寛政元年(1789年)2月23日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政3年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に大和守に改める。文化5年(1808年)6月20日、父久周の隠居により、家督を相続する。文化6年11月18日、大番頭に就任する。文政4年(1821年)に死去。享年46。その跡は嫡男の久儔が継いだ。
(wikiより)
6223 加納久堅墓(台東区・谷中霊園)
6222 加納久通墓(台東区・谷中霊園)
生涯
紀州藩士時代
延宝元年(1673年)、紀州和歌山城下で紀州藩士加納政直の子として生まれる。子は久武(長男)、久英(次男)。親族である加納久政の養子となり、貞享5年(1688年)には200石の家督知行を継承した[1]。幼少の頃から松平頼方(後の徳川吉宗)に仕える。頼方が紀州藩主に就任すると、同じく側近の有馬氏倫とともに同藩の改革を支え、知行1,000石を与えられた。
幕臣時代
享保元年(1716年)、吉宗が江戸幕府8代将軍に就任すると、有馬らとともに江戸城へ移り、御側御用取次となって将軍と老中の間を取り持ち、享保の改革を補佐する。有馬氏倫がどちらかといえば気の強い性格でしばしばトラブルを起こしたのに対し、久通は穏やかで慎み深い性格であり、良いコンビであったという。当初の知行は紀州藩時代と同じ1,000石であった。実質的に将軍の秘書長として改革を進めたため権勢も大きく、改革の助言者である室鳩巣は「両人の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老中などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候」と書いている。
将軍吉宗の信頼が厚く、所領も加増を続けた。享保元年に伊勢国内に1,000石を与えられたのを皮切りに、下総にも所領を与えられ、享保11年(1726年)には上野にも8,000石を与えられ、合わせて1万石となり、大名に列する(伊勢東阿倉川に陣屋を置く)。以後も吉宗の信頼は篤く、延享2年(1745年)、吉宗が嫡子家重に将軍職を譲って大御所となり江戸城西ノ丸に移ると、これに従って西ノ丸若年寄となり、没するまで吉宗に仕え続けた(この昇進事例は裏方であった御側用人・御側御用取次から幕府の表の役職である若年寄に昇進した初めてのケースであり、以後は将軍側近の御側御用人・御側御用取次から若年寄・老中へ昇進するルートが開かれた[2])。
寛延元年(1748年)、死去。享年76。谷中墓地に葬られた。養嗣子の加納久堅(実兄加納政信の五男)が家督を継いだ。
脚注
1. 小山誉城「大名に昇格した紀州藩士」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
2. 福留真紀『徳川将軍側近の研究』2006年3月、校倉書房)
参考文献
・『国史大辞典』(吉川弘文館)「加納久通」(執筆:大石慎三郎)
・『日本史大事典 2』(平凡社、1993年、ISBN 4-582-13102-6)「加納久通」(執筆:大石)
関連項目
・享保の改革
加納久通が登場する作品
テレビドラマ
・『八代将軍吉宗』(1995年、NHK) - 演:小林稔侍
映画
・『大奥〈男女逆転〉』(2010年、松竹ほか) - 演:和久井映見
漫画
・よしながふみ『大奥』(白泉社)
関連作品・
暴れん坊将軍(1978年 - 2003年、2004年、2008年、テレビ朝日 / 東映)
第1・第2シリーズで有島一郎、2008年のスペシャル版で伊東四朗が演じた加納五郎左衛門は、久通がモデルだとされている。
(wikiより)


6221 加納久朗墓(台東区・谷中霊園)
人物
横浜正金銀行入行後、ロンドンにて駐英大使吉田茂の親交を得る。ロンドン支店支配人となって国際決済銀行理事会副会長にも就任。取締役として同行北支最高責任者として経済情勢分析などにあたる一方、木戸幸一に蔣介石政権の真意や国民党と共産軍の意図など、現地の政治情勢を報告する(「重慶情報」)。北京で終戦を迎え、戦後の混乱の収拾に尽力した。
戦後のドッジ・ライン実施に際し、ジョゼフ・ドッジに意見表明と情報提供を行う。1955年日本住宅公団初代総裁に就任し、ステンレス流し、シリンダー錠など住宅部品の導入を発案、普及のために尽力するなど多大な功績を残した。 1958年、東京湾の埋め立て開発を提唱( 『東京湾埋立による新東京建設提案』:官庁や皇居の埋立地へ一部移転などを構想)し、自民党や財界の推挙により、農政官僚出身で漁民保護の立場から開発に消極的であった柴田等前知事を破り、千葉県知事となるが在任110日で急逝。開発政策は友納武人知事に引き継がれた。
カナモジカイの有力メンバーで、福田恆存を相手に論戦したり、県庁内の応接室を「オオセツマ」と表記させるなど、実行に熱心であった。
評伝に『国際人・加納久朗の生涯』(高崎哲郎、鹿島出版会、2014年)がある。
略歴
・1886年8月 子爵加納久宜の次男として生まれる
・1924年 カルカッタ支店長赴任(ボンベイ支店長兼任)[1]
・1943年3月 取締役
・1954年1月 参議院千葉県補欠選挙に無所属で立候補するが落選。
・1962年11月 千葉県知事
家系
加納氏は三河国加納村発祥である。明確でないが藤原氏末流とされている。
家族・親族
・曾祖父・立花種周(筑後三池藩第6代藩主)
・祖父・立花種道
・長男・久道
・二女・英子(実業家伊藤英吉に嫁する)
・妹・夏子(実業家麻生太吉三男・太郎の妻。実業家麻生太賀吉の母。元首相麻生太郎の祖母。)
・孫・久美子(元首相橋本龍太郎に嫁する)
・曾孫・橋本岳(政治家)
脚注
1. a b c d e 貴き者の責務 日本住宅公団初代総裁加納久朗第8回高崎哲郎、UR都市機構
参考文献
・『国際人加納久明の生涯』高崎哲郎 2014 鹿島出版会 ISBN 978-4-306-09434-5
(wikiより)
6220 加納久宜墓(台東区・谷中霊園)
概略
・貴族院議員、鹿児島県知事(「教育知事」「勧業知事」「行脚知事」)、千葉県一宮町長。
・文部省督学局中視学、石川県師範学校などを学事視察。華族学校(現学習院)を建議。岩手県盛岡師範学校初代校長。新潟学校校長。
・入新井村学務委員。入新井信用組合(現城南信用金庫)設立。産業組合中央会副会長。大森倶楽部会長。
・日本体育会(現学校法人日本体育大学)会長、日本体育会体操学校(現日本体育大学)校長。荏原中学校(現日本体育大学荏原高等学校)設立・初代校長。
・全国農事会幹事長、帝国農会初代会長。日本競馬会創設に尽力。「日本農政の父」と仰がれる。
・地方改良運動に尽力。地方改良講習会の臨時講師。
・日本赤十字社監事。
・官位は従二位勲二等子爵、遠江守。
経歴
立花種道(下手渡藩(筑後三池藩)主・立花種周の五男)の三男として生まれる。幼名は嘉元次郎。
安政2年(1855年)の安政江戸大地震で、本所の下屋敷が倒壊して下敷きとなり、自身は助けだされるが両親を亡くす。宗家立花氏の養子に入っていた深川の実兄・立花種恭(幼名:鐘之介)に引き取られる。兄・種恭に読書、習字、弓術の指導を受けるとともに、剣術は小谷精一郎、馬術は大坪本流磐井槍吉の指南を受けた。老中格で幕閣参政として軍制改革に取り組む兄の影響を受け、フランス兵学に興味を持ち、佐久間象山の高弟・蟻川功に師事して兵学を学ぶ。
慶応2年(1866年)、上総一宮藩主・加納久恒が急死したのを受けて急遽養子となり、19歳で藩主となる。新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にドイツから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていたこともあり、国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。折りしも鳥羽・伏見の戦いが始まると海路出陣、京都に向かうが、大時化(おおしけ)などで伊豆下田で足止めとなり、間に合わなかった。
維新後の版籍奉還により一宮藩知事となり、廃藩置県で免職となる。留学に備えて大学南校(東京大学の前身、後の開成学校)でフランス語など西洋の社会・人文諸学を学ぶ。周囲の反対で留学を断念し、明治6年(1873年)文部省督学局に出仕した後、岩手県師範学校初代校長、全国一の規模を持つ新潟学校長を歴任する。明治9年(1876年)立花鑑寛・立花種恭とともに華族学校の設立を建議する(校名は学習院となる)。
明治14年(1881年)には司法界に転じて熊谷始審裁判所長、大審院検事、東京控訴院検事などを務める。
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の発布、議院法と貴族院令が公布されると、上院(貴族院)において有爵者の任務を研究する「子爵同志研鑽会」の発足にかかわった。明治23年(1890年)、子爵の互選により兄の種恭とともに帝国議会貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月まで務める。第1回議会(明治23年(1890年))では弁護士法委員、両院交渉事務規定特別委員に選出されている。第2回議会(明治24年(1891年))では予算委員(第二科 外務省・司法省)、帰化法案特別委員に選出されている。会派が形成される以前であったが、積極的に会合(「同士会」(加納有志会))を定期的(月2回)にもっている。その後、侯爵中山孝麿が中心となっているグループ(有志者会)と合併するがやがて脱退し、無所属となった。
明治27年(1894年)1月20日、鹿児島県知事に就任[2]。同年、内村鑑三、新渡戸稲造と東京英語学校で同学で、札幌農学校に学んだ岩崎行親を知事顧問として招聘し、不偏不党の方針を掲げ農業、水産、土木、教育の諸事業に積極的に取り組んだ。農会の設置と系統化を通じた農業の近代化と生産力の向上に努め、米の生産量を75%増収し、みかんやお茶などの特産品を奨励した。鹿児鉄道の新設、鹿児島港の近代化、道路などインフラ整備にも尽力し、おおきな成果を挙げる。教育の面でも、全国に先駆け、小学校の授業料を無料化し、遅れていた就学率を男女とも全国のトップレベルに引き上げた他、中学校の増設、高等学校(現鹿児島大学)の創設などに努めた。知事の肩書きにとらわれず、私財を投じ自ら先頭に立つ姿勢、気さくな性格とあいまって、県民から親のように慕われた。西南戦争により無気力化していた鹿児島県を近代化に導き、その基礎を築いた知事として、高い評価を受ける。明治33年(1900年)9月8日に知事を休職[3]。明治36年(1903年)9月7日、休職満期となり退官した[4]。
鹿児島県知事を退任すると、東京都入新井村に居住した。ここでは、学務委員として地域の教育振興にも努め、明治35年(1902年)7月、英国の協同組合を見本に、大森山王の自邸を事務所にして、妻と2人で手作りで帳簿を揃えて、都内最古の入新井信用組合(現:城南信用金庫入新井支店)を設立し、荒廃していた地域を模範村にかえていき、村民から慕われる。
同時期の明治35年(1902年)、鹿児島県での実績から全国農事会幹事長に就任し、農業生産の拡大に尽力する。その後、帝国農会初代会長に就任するなど、全国の農政にも深く関与する。一方で、入新井信用組合の運営者として全国に信用組合の模範を示し、全国農事会の幹事長の立場でも産業組合運動の普及宣伝にも情熱を注ぎ、全国を遊説し、その普及活動に努める。
明治38年(1905年)には、産業組合運動の振興のため、入新井信用組合と全国農事会の主催により、全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し、自ら座長を務める。同年、大日本産業組合中央会副会頭に就任する(会頭は平田東助)。こうした活動で「産業組合の育ての親」と称される。
明治37年(1904年)、日本体育会(体操学校・現日本体育大学)会長(校長)として荏原中学(現在の日体荏原高等学校)を設立する。同年7月、再度、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任する。
明治39年(1906年)、安田伊左衛門などとともに東京競馬会の発足に尽力する。日本人による初の馬券付き競馬を、東京大森の池上競馬場にて開催する。明治43年(1910年)には、東京競馬会・日本競馬会・京浜競馬倶楽部・東京ジョッケー倶楽部を統合して東京競馬倶楽部が設立され、初代会長に就任する。
明治45年(1912年)に清浦内閣成立の折には、農商務省大臣就任が要望されたが、地元一宮町民の熱望により一宮町長に就任する。その任期中、特に農業畜産の振興、耕地整理による基盤整備、名士の別荘招致、海水浴場創設と植林、青年会等各種団体の育成、一宮女学校開設、他多数の事業を力強く推進した。
大正6年(1917年)、町長退任後も名誉町長格で毎日役場に出勤していた。同年、一宮町の農業青年70人を率いた大視察団とともに鹿児島県を訪れる。鹿児島入りしたときは、駅頭黒山の歓迎陣で埋まった。最初に発した言葉は「昔植えたミカンを早く見たい」であった。
大正8年(1919年)2月26日、避寒療養先の大分県で亡くなる。享年72(満70歳没)。「地方自治の恩人 加納子逝く 一昨夜別府で 享年七十有四」と『東京日日新聞』(2月28日)は報じている。葬儀は3月6日、東京谷中斎場で行われ、加納家墓地に葬られる。遺言は「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」。晩年の家庭でも鹿児島のことが話題の中心となり「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで話があったら冥土に電話せい」が口癖であったという。同年3月1日、長年の産業振興への貢献により藍綬褒章を受章した[5]。
大正11年(1922年)には遺徳を慕う一宮町民有志の懸請により、町を見下ろす城山に分骨を納めた「加納久宜公の墓」が建立されている。
墓前には、昭和18年(1943年)に鹿児島県知事加納久宜顕彰会から薩摩風石灯籠一対が寄贈されている。
昭和18年(1943年)に鹿児島県では記念行事が催され、また『加納知事顕彰会』より鹿児島県庁跡に記念碑が建てられ、一宮町の墓に薩摩灯篭が奉納されている。
平成24年(2012年)より、祥月命日の前に町民はじめ関係者有志による献花が行われている。
家族・親族
・祖父:立花種周(筑後三池藩第6代藩主)
・実父:立花種道
・正室:大久保教義の娘
・継室:原三蔭の娘
・長男:加納久元
・三男:加納久憲
・長女:嘉子(夭折)
・六女:夏子(実業家・麻生太郎(同姓同名の元首相の祖父)の妻)
・孫:麻生太賀吉(実業家、政治家)
・曾孫:橋本久美子(政治家・橋本龍太郎の妻)
・曾孫:麻生泰(実業家)
・玄孫:橋本岳(政治家)
・玄孫:麻生巌(実業家)
・玄孫:彬子女王(皇族)
・玄孫:瑶子女王(皇族)
栄典
位階
・1903年(明治36年)10月30日 - 正三位[7]
勲章等
・1894年(明治27年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[8]
脚注
1. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
2. 『官報』第3167号、明治27年1月22日。
3. 『官報』第5158号、明治33年9月10日。
4. 『官報』第6058号、明治36年9月9日。
5. 『官報』第1972号、大正8年3月3日。
6. 野田勢次郎・八重子夫妻の養子である野田健三郎の長男
7. 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
8. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
9. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
10. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
参考文献
・『鹿児島の勧業知事 加納久宜小伝』 編者 加納知事五十年祭奉納会 著者 大囿純也 春苑堂書店1969年。
・『加納久宜 鹿児島を蘇らせた男』大囿純也著 高城書房 2004年。
・『加納久宜集』松尾れい子編 冨山房インターナショナル 2012年。
・『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編 1990年。
関連項目
・加納久通
・立花種道
・立花種恭
・いだてん〜東京オリムピック噺〜(演:辻萬長)…2019年(平成31年)1月6日に放送された第1回に日本体育会の会長として登場。
外部リンク
・かごしまの概要 - 歴史・文化 - 近代・現代
・加納久宜公研究会 リンク集
(wikiより)

加納久宜
6219 加納久恒墓(台東区・谷中霊園)
6218 加納久徴墓(台東区・谷中霊園)
経歴
文化10年(1813年)、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第4代藩主・加納久慎の世子である加納久儔(後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる。天保元年11月1日、将軍徳川家斉に拝謁した。天保9年12月16日、従五位下大和守に叙任する。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年(1842年)10月21日、父の隠居により家督を継いで一宮藩主となる。
嘉永2年(1849年)1月28日に大番頭に任じられ、安政2年(1855年)2月に講武所総裁を兼任する。安政4年(1857年)閏5月1日に奏者番に任じられ、文久元年(1861年)7月15日に若年寄に任じられるなど、幕末期の要職を歴任した。和宮が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、江戸までの警護役を務めた。文久2年閏8月25日、若年寄を辞職する。
治績
天保15年(1844年)、領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた[1]。この記念碑は1981年(昭和56年)に一宮町指定史跡に指定されている[2]。
藩政では、幕閣として中央政治に従い、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない、弘化元年(1844年)には他藩に先駆けて砲台を建設するなどしている。文久3年(1863年)11月、真忠組の乱が起こると、下総佐倉藩や多胡藩、陸奥福島藩と協力して文久4年(1864年)1月に鎮圧するという功績を挙げた。その直後の元治元年(1864年)3月22日に死去した。享年51。
はじめに養子として迎えていた久成は文久3年(1863年)に早世したため、改めて迎えた養子の久恒が跡を継いだ。
脚注
1. 上総一宮郷土史研究会記念誌編集委員会編 『ふるさと今昔』 上総一宮郷土史研究会、2004年10月、90-91頁。
2. “洞庭湖記念碑【一宮町指定史跡】”. 一宮町ホームページ. 2016年7月15日閲覧。
(wikiより)