本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/10

時代江戸時代中期
生誕元禄7年1月8日1694年2月1日
死没寛保2年3月19日1742年4月23日
改名弁之丞、万千代(幼名)→直矩
戒名光煕院殿花岳浄桃大居士
墓所東京都墨田区向島弘福寺
官位従五位下、兵部少輔
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉家宣家継吉宗
越後与板藩
氏族井伊氏
父母父:井伊直興、母:春昭院(寺沢氏)
養父:井伊直朝
兄弟直通直恒直矩直惟直定
井伊直朝
正室:昭覚院阿部正邦の娘)
直陽


井伊 直矩(いい なおのり)は、遠江掛川藩の第4代藩主、越後与板藩の初代藩主。直勝系井伊家5代。近江彦根藩主・井伊直興の四男。


彦根藩の分家である掛川藩主・井伊直朝(正室は直矩の姉妹であった)の養嗣子となり、宝永2年(1705年12月3日に跡を継いだ。翌年1月16日、越後三島郡などに2万石を与えられて与板藩に移封となる。正徳5年(1715年)には徳川家康100回忌において日光祭礼奉行を務めた。享保16年(1731年2月27日、長男の直陽家督を譲って隠居し、寛保2年(1742年)3月19日に江戸で死去した。享年49。
(wikiより)

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池田 斉稷(いけだ なりとし)は、因幡国鳥取藩8代藩主。鳥取藩池田家宗家10代。


6代藩主池田治道の次男。母は側室の佃氏(浦の方)。正室は米沢藩上杉治広の三女・演姫(天殊院)。異母兄に池田斉邦、子に池田斉訓(次男)、長女・月鏡院素姫(ただひめ、佐竹義厚継室)、娘(池田斉衆正室)、娘(松平忠彦正室)など4男3女、養子に池田斉衆がいる。幼名、永之進。初名は道稷(みちとし)。官位は従四位下のち従四位上、侍従、因幡守、左近衛少将のち左近衛中将。

生涯
天明8年(1788年)、江戸藩邸で生まれる。父・治道の正室・生姫(伊達重村の娘)が寛政4年(1792年)に死去すると、一部の家臣によって兄・銀之進(斉邦)の対抗馬として推される。生まれ故郷の江戸でも治道の跡取りに永之進を推す声が高く、国許との間に対立が起きた。銀之進を世嗣に推す藩士の佐々木磯右衛門が治道の怒りを被ったことから見ると、父からも跡取りに期待されていたものとみられる。結果、磯右衛門が諌死したことにより兄が嫡男となったが、父から大変気に入られていたのか、のちに父から偏諱を与えられて道稷と名乗っている。


寛政10年(1798年)に父が亡くなり、兄・昭邦(のち斉邦)が家督を継いだが、文化4年(1807年)に嗣子なくして亡くなったため、弟である道稷が家督を相続する。兄同様、11代将軍徳川家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉稷に改名。従四位下を叙任する。斉稷は歴代藩主で初めて因幡守を名乗った。文化10年(1813年)、正室・演姫と婚姻した。


子沢山の家斉は主立った諸大名に自身の子を養子として出しており、文化14年(1817年)に鳥取藩も十三男の乙五郎を婿養子(養嗣子)として迎えた。これにより、斉稷は従四位上を叙任した。文政2年(1819年)、左近衛中将となり、葵紋を下賜される。江戸城伺候席も大広間から大廊下下に昇進した。文政7年(1824年)、養嗣子の乙五郎が父・家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉衆と名乗り、従四位上・侍従を叙任した。文政9年(1826年)、斉衆は疱瘡のために死去した。これにより斉稷の実子(次男)誠之進(のちの斉訓)が世嗣となった。


文政13年(1830年)5月2日に江戸屋敷で死去した。享年43。家督を斉訓が継いだ。法号は耀國院殿峻徳光隆大居士。遺命により江戸弘福寺に埋葬され、鳥取藩主池田家墓所に遺髪が葬られた。のち、関東大震災を機に昭和5年(1930年)、鳥取藩主池田家墓所に改葬された。


鳥取藩では池田家の血筋を守ってきたが、斉稷の代になり将軍家より嗣子を入れたため、その後他家からの養子を迎える道を開くことになった。

系譜

子女は4男3女
・父:池田治道(1768-1798)

・母:浦の方 - 佃氏

・正室:演姫 - 天殊院、上杉治広の三女

・室:高沢氏

  ・次男:池田斉訓(1820-1841)

・生母不明の子女

  ・長女:素姫(ただひめ) - 月鏡院、佐竹義厚継室

  ・女子:池田斉衆正室

  ・女子:松平忠彦正室

・養子

  ・男子:池田斉衆(1812-1826) - 徳川家斉の十三男

参考文献
・財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)

関連項目
松原仙右衛門
(wikiより)

2871  8代鳥取藩主・池田斉稷

池田斉稷

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2871b



池波正太郎のTV番組で有名な火付盗賊改の長谷川平蔵の幼年時の住居跡は、国道 14号線の錦糸町駅付近から両国よりの江東橋 ( 大横川にかかる ) のたもと付近に有ったそうです。


現在はそのすぐ傍に江東橋の交番があり、何かの因縁かもしれませんね。


長谷川平蔵はこの近くの狭い家に住み、放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。

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揺籃とは幼児期のこと。


この辺りが当時の勝家屋敷であった。

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当山は大坂能勢妙見山の全国唯一の別院であり、能勢家の子孫が再々守護に任じて居ります。


今より 195年前安永 3年 5月 11日の創建です。


この地は当寺下総ノ国葛飾郡本所横川町と称し、能勢筑前守頼直の江戸下屋敷であり、妙見堂を建立して知行所たる摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。


江戸末期幕臣勝小吉が愛息麟太郎後の海舟の開運勝利を水垢離を取って祈願したことは子母澤寛氏が「父子鷹」に詳しく記して居ります。


震災戦災と 2度の火災の為め宝物尽く鳥有に帰しましたが、妙見尊像は巨難を免れ、御内陣に奉安されて在ります。


境内に鴎大善神の祠あり、その黒札は魔よけの御守として江戸時代より能勢の黒札として有名なり。


昭和 44巳酉年 5月 能勢家 36代 能勢日妙誌す
(案内板より)


〇 勝海舟翁之像
勝海舟 9才の時大怪我の際妙見大士の御利益により九死に一生を得、その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創200年を迎え海舟翁の遺徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍つてこの胸像が建てられた。

昭和 49年 5月 12日
(碑文より)


此方には、勝海舟の父・勝小吉と勝海舟に熱烈な信仰を得ていたことで有名なのだそうです。


また勝海舟が 9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて 70日間 ( 50日間とも ) 生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。


このとき父の小吉は水垢離 ( みずごり ) をして息子の回復を祈願した。


これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという。

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日本左衛門は本名を浜島庄兵衛と称し侠骨剣豪の士として時の悪代官を斬り遠州を浪人し江戸に出で向島西方に居を構えた。


幕府はこの罪を以て奉行に召捕り方を命ず。


彼の神出鬼没にして剣豪のため奉行は召捕方を出来ず ここに幕府は本所築地奉行たる徳ノ山五兵衛に召捕方を命ず。


その前に日本左衛門は再三徳ノ山邸に現れたが黙殺放逐す。


その命が出て向島にて捕え、ここにおいて処刑さる時に寛文七年 ( 西暦 1667年 ) 捕われた時 五兵衛は日本左衛門に この世に思い残すことはないかと問われ彼は只一つ日光を見たことがないと申したので不憫に思い又他の罪のないため地内の戸崎氏に連行を命じ内々で日光見物の願いを叶えてやった。


無事に戻りその功により戸崎氏は今の石原町一ノ一西側三百坪を五兵衛より拝領し現在戸崎家の子孫はこの地の地主として今も下北沢に住む。


この碑は約三百年前由縁のここに建立され大正大震災戦災等の災禍で見る影もなく損傷し徳ノ山講員はこの史蹟を後世に残すべくこの石碑を再建す。


昭和四十年五月十九日 徳ノ山講 町内有志
(石碑文より)

〇 日本左衛門
日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) - 延享4年3月11日1747年4月20日))は、江戸時代中期の浪人の異名[1]。本名は濱島 庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊強盗団)の一味で、後に自首して獄門となった。歌舞伎白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデル。

概要
尾張藩の七里役の子として生まれる[2]。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。


延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される[3][4]。これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念[5]


延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞[6])に自首し[7]、江戸に送られ、北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29。


徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説あるが、確認されている被害は14件・2622両[8]、あるいは14件・2627両余り[9]と記す史料もある。


その容貌については、175cmほどの当時としては長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5cmほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている。肥前平戸藩松浦静山随筆甲子夜話」にも、日本左衛門の話が収録されている。後に歌舞伎青砥稿花紅彩画で義賊「日本駄右衛門」として脚色されたほか、白浪物などで様々に取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではない。

関連史跡
現在に残る日本左衛門の史跡として、東京都墨田区・徳之山稲荷神社に日本左衛門首洗い井戸の碑があり、ほかにも遠州見附・見性寺に墓があり、遠州金谷宿・宅円庵には首塚がある。 首塚には斬首の後に晒された首を日本左衛門の愛人が盗み出し、宅円庵で弔ったと言う言い伝えがある。首塚の脇にはその旨が記された看板がある。

その他
・随筆『耳嚢』巻之一によると、日本左衛門の処刑後、その子分の1人である山伏の逃亡話が記述されており、棒術を用い、相当な手だれであったが、機知を働かせた大阪の町同心によって捕縛されたとある。


・領内を荒され、しかも捕縛できなかった遠江国掛川藩小笠原長恭は、奥州棚倉へ転封となった。棚倉は懲罰的転封先として知られている。

脚注
1. 無宿十右衛門とも称す。
2. 歌舞伎では遠州浜松の生まれとされているが、京都の某家の生まれともいう。
3. 池波正太郎著作の「おとこの秘図」では火付盗賊改方長官としている
4. 日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっているが、本所築地奉行に任命されたのは代々の旗本徳山五兵衛でも徳山重政のみであり、年代が合致しない。
5. 当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった。
6. 牧野に今日は休日だから明日来いといわれて、その通り翌日に自首したという逸話がある。
7. 上記の碑には向島で捕縛されたとある。
8. 『磐田市史 通史編 中巻 近世』磐田市史編さん委員会編、磐田市、磐田、1991年、351ページ。OCLC 47578260
9. 『遠シュウ見附宿日本左衛門騒動記注解』渥美登良男・渡邊弘編、浜松市北部公民館古文書同好会、浜松、2003年、48~50ページ。
参考文献
(wikiより)


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東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網横網町公園内にある慰霊施設。1930年昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。震災と戦災の犠牲者16万3000柱を供養し、また毎年3月10日と9月1日に大法要が営まれる。

沿革と概要
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は1919年大正8年)に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になり、被服廠ひふくしょう跡と呼ばれた[1]


1923年(大正12年)9月1日、関東大震災この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。


震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。


その後、第二次世界大戦における1944年1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。


本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。

境内施設
・東京都復興記念館

・弔霊鐘(中華民国仏教団寄贈)

・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

・東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

・日本庭園

祭礼
・3月10日:春季大法要

・9月1日:秋季大法要

交通
JR東日本総武線都営地下鉄大江戸線両国駅」から徒歩5分

・都営地下鉄浅草線蔵前駅」より徒歩(蔵前橋経由)

・駐車場:なし

脚注
1. “関東大震災 200人超の証言テープ分析へ”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年1月1日). オリジナルの2013年1月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130104090236/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130101/t10014549761000.html 2013年1月2日閲覧. "現在の東京・墨田区にあった「被服廠(ひふくしょう)跡」と呼ばれる広場" 

関連項目
靖国神社

千鳥ケ淵戦没者墓苑

東京都戦没者霊苑

戦争祈念施設

外部リンク
公式ウェブサイト
(wikiより)

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⇩ 横網町公園内 ( 東京都復興記念館脇 ) にある震災記念屋外ギャラリーです。

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〇 鉄柱の溶塊
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内の鉄柱が、猛火により溶解し、かたまりとなってしまったものである。

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〇 釘の溶塊
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で、樽 ( たる ) に入った釘が震災の猛火による高熱のため、大溶塊となったものである。

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〇 魚形水雷
東京高等商船学校 ( 現東京商船大学 ) 内で焼損した魚形水雷 ( 魚雷 ) の残がいである。

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〇 破壊した大鉄管
当時、淀橋浄水場の敷地内に山積みされていた水道の幹線が、激震により無残にも損壊してしまったものである。

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〇 鉄筋コンクリート柱
東京の中でも悲惨を極めた地域のひとつであった、麹 ( こうじ ) 町 ( 現在の千代田区 ) 丸の内の内外ビル玄関脇の破損した柱である。

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〇 花崗岩
日本銀行の建築材として使用されていた花崗岩の残がい。


震災の猛威は頑強な建築物をも破壊してしまったのである。

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〇 鳥居の柱
浅草区 ( 現在の台東区 ) 駒形にある桜守稲荷の境内にあった鳥居が、激震により倒壊してしまったものである。

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〇 天水桶
湯島聖堂に備えつけてあった天水桶 ( 雨水を貯める桶 ) が猛火により焼損したものである。

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〇 自動車の残骸
自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。


この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。

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〇 百馬力電動機
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。

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〇 洋釘の溶塊
深川区清澄倉庫に貯蔵してあった樽 ( たる ) 入りの釘が、火災による高熱のため溶解し、ひとつのかたまりとなったものである。

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〇 印刷機
当時、神田区 ( 現在の千代田区 ) 美土代町にあった三秀社印刷工場内で、火災により焼損した印刷機である。

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〇 釘の溶塊
深川区 ( 現在の江東区 ) 平久町花島倉庫に保管されていた鉄釘 2万樽が、猛火による高熱のため溶解して、ひとつのかたまりとなったものの一部である。



建部 綾足(たけべ あやたり、享保4年(1719年) - 安永3年3月18日1774年4月28日))は、江戸時代中期の俳人小説家国学者絵師片歌を好み、その復興に努めた。書号、寒葉齋

生涯
享保4年(1719年)、陸奥国弘前藩家老喜多村政方と玉江(大道寺友山の娘)との次男として、江戸に生まれ、弘前で育った。幼名は金吾、元服名は久域(ひさむら)。政方の母は、山鹿素行の娘であった。


享保14年(1729年)11歳、父政方没。少年期の彼は文武に励み、槍術に優れたが、元文3年(1738年)20歳、兄久通嫁そねとの情事のため、弘前の家から追われた。翌々年、彼女は死んだ。出家して僧『円宗』となったが、9年後、還俗した。


俳諧を志し、各地を転々としながら、その道で名を成した。師は、まず蕉門志太野坡、ついで、伊勢派の彭城百川和田希因中森梅路らであった。俳号は、はじめ葛鼠(かっそ)、のちに、都因・涼袋・涼帒などを用いた。

享保2年(1742年)から三年間、武蔵国埼玉郡小林村に滞在。同地の文人墨客と交わる。


延享
4年(1747年)29歳、江戸浅草に『吸露庵』を構え、俳諧の弟子をとったが、その後も旅を多くした。寛延2年(1749年)門人らの援助を得て上方へおもむき、翌年長崎に寄寓して約半年、熊代熊斐石崎元徳に、南蘋派の画法を学んだ。宝暦元年(1751年)、大阪に留まり画業で暮らし、翌年江戸へ帰った。


宝暦
3年(1753年)35歳、母の勧めで、中津藩奥平昌敦に仕え、翌年、藩命により、ふたたび長崎で約1年半、費漢源山水画李用雲墨竹図を学んだ。目を患ったためか南蘋風の濃密精緻な彩色花鳥画より淡雅な筆致を好むようになる。画家としての号は、孟喬(うきょう)・毛倫・建綾岱・建長江・寒葉斎などであった。


宝暦
7年(1757年)39歳、遊女の紫苑(号、伎都)と結婚した。翌年中津藩を辞した。


宝暦12年(1762年)44歳、『寒葉斎画譜』を刊行。


宝暦13年(1763年)45歳、片歌を提唱し、『綾足』の号を用いた。賀茂真淵に入門した。明和3年(1766年)、歌道の冷泉家に入門した。明和5年、初めての小説『西山物語』を上梓した。京都に住み、片歌と国学とを講義した。この頃から浅草出身の僧侶金龍道人と交友を深める。


明和7年(1770年)52歳、片歌の祖と考えたヤマトタケル能褒野陵前に、片歌碑を建てた。花山院常雅から『片歌道守』の称号を得た。京都で万葉集古今集を講義した。


安永
2年(1773年)55歳、旅行中に病み、翌安永3年(1774年)、江戸の仮寓に没し、向島弘福寺に葬られた。『知足院即心是空居士』。墓碑は現存しない。


安永5年(1776年)、母玉江、没。

おもな著作
・1744年:『秩父縁起円通伝』

・1745年:『伊香保山日記』、『秩父案内記』、『桃の鳥』、『杖の先』

・1746年:『萩の薫り』

・1747年:『花先達』(彭城百川と共著)、『伊勢続新百因』、『俳諧琵琶の雨』

・1748年:『いせのはなし』、『枯野問答』、『希因涼袋百韻集』(共著)、『南北新話』(俳諧)、『続三匹猿』

・1751年:『芭蕉翁頭陀物語』

・1752年:『恋百韻』

・1753年:『太山樒』(みやましきみ)(門人麦龍舎雲郎編)

・1754年:『つぎほの梅』(独吟集)(門人編)

・1757年:『俳諧川柳』、『山居の春』、『俳仙窟』(青梅紀行)、『角合』(鈴木秋瓜との両吟)

・1758年:『田家の春』(歳旦帳)、『華盗人』(門人麦龍舎雲郎編)『桃八仙』、『あやにしき』、『南北新話後編』(俳諧)

・1759年:『旅の春』(春興帖)、『黒うるり』(俳諧)、『続百恋集』、『新涼夜話』(俳諧)

・1760年:『絵の山陰』、『於起の風』、『寒葉斎画譜』、『佐原日記』(門人青藍編)

・1761年:『はしの名』(歳旦帖)、『俳諧連理香初帖』、『その日がへり』

・1762年:『春興幾桜木』

・1763年:『俳諧 香爐峰』、『片歌草のはり道』、『古今俳諧明題集 (春)』、『片歌道のはじめ』、『片歌二夜問答』、『かたうた 多豆のあし』

・1764年:『片歌あさふすま』、『古今俳諧明題集 (夏秋冬雑)』、『寒葉斎画譜』、『褒貶片歌』

・1765年:『春興かすみをとこ』、『片歌東風俗』、『百夜問答』、『片歌磯の玉藻』、『歌文要語』、『歌文要語』

・1766年:『春興帖』、『はし書ぶり』

・1767年:『片歌旧誼集』、『片歌百夜問答二篇』

・1768年:『西山物語』(小説)

・1769年:『旧本伊勢物語』、『伊勢物語考異』、『奉納伊勢国能褒野日本武尊神陵請華篇』

・1770年:『とはじぐさ』

・1771年:『李用雲竹譜』、『女誡 ひとへ衣』、『いはほぐさ』

・1772年:『わすれ草』(随筆)、『孟喬和漢雑画』

・1773年:『続篇はしがきぶり』、『本朝水滸伝』(水滸伝による小説)前篇、『詞草小苑』

没後
・1775年:『建氏画苑』、1779年:『漢画指南』、1789年:『紀行三千里』、1794年:『すずみ草』、1798年:『漫遊記』

詳しいことは、「建部綾足ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E7%B6%BE%E8%B6%B3
(wikiより)

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玉菊(たまぎく、1702年 - 享保11年3月29日(1726年))は、江戸時代江戸新吉原遊女太夫


角町中万字屋勘兵衛のかかえで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、才色兼備、殊に河東節の三味線との妙手であった。

仲の町をあるくときは床几のこしかけるごとに、禿にもたせた100匹、200匹という目録を置いていった。

大酒のために若くして世を去った。


享保11年7月、盂蘭盆に吉原の茶屋は軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。

これが玉菊燈籠で、吉原三景容のひとつとなった。

享保13年7月、三回忌に二代目十寸見蘭洲が「水調子」という河東節をかたって、玉菊の追善供養をしたが、中万字でこの曲をひくと玉菊の霊があらわれるとつたえられた。


歌舞伎
講談に脚色された。

〇 玉菊灯籠
新吉原の年中行事の一。


盂蘭盆 ( うらぼん ) に灯籠を軒先にともすもの。


若くして死んだ玉菊という遊女の霊をとむらうため、新盆につけたといわれる。
(wikiより)

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単純に『陽石』( 男石 ) 『陰石』( 女石 )です。


遊女たちの商売繁盛、夫婦和合、子宝を願い信心されていました。


また此方の『金精和合稲荷大明神』は吉原、中万字屋に玉菊という売れっ子の遊女・玉菊が信心していました・・・


酒で、25歳の若さで死んでしまいました。


吉原の関係者達が、この金精和合稲荷大明神の側に墓を建てたそうです。

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⇧ 『陽石』( 男石 )

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⇧ 『陰石』( 女石 )


歌碑の由来


高度成長期の昭和 30 ~ 40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。


戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。


親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。


彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。


この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。


平成 15年 ( 2003年 )


歌碑設立委員会・発起人
総括責任者 深澤 寿一
(案内板より)

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このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間 ( 1861 ~ 64 ) の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。


当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密 ( ちみつ ) で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。


亀戸大根は、根が 30㎝程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。


明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。


しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。


秋から冬にタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。
(案内板より)

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多賀 務 ( たが - つとむ )    
文政 2年 ~ 明治 20年 12月 5日 ( 1819 - 1887 )

    
松本藩士・官史。

初名、渡辺幸右衛門。

幕末の国事多難なとき京都所司代・酒井忠義の家に住み、その指示に従い専ら京中浮浪の徒を取り締まる。

当時三条河原に池田屋という旅館があり、浪士達の出入りが多いのに気付き、乞食に変装して軒先で偵察、所司代および新撰組に通報、慶応元年 ( 1865 ) 新撰組により「池田屋事件」の摘発に至る。

大政奉還に際して帰藩して佐幕論を主張するも維新後は態度を変え姓名を多賀務と改めた。

明治元年 ( 1868 ) 12月藩議事局が創設されると上局議員筆頭に挙げられる。

明治 3年 ( 1870 ) 10月少参事。

明治4年 ( 1871 - 1873 ) 奥羽石巻県大参事。69歳没。

娘・春子は鳩山和夫に嫁す。孫に鳩山一郎、ひ孫に鳩山威一郎。鳩山一郎の妻・薫は、寺田 栄の長女。

また、鳩山威一郎の子に政治家鳩山邦夫・鳩山由紀夫がいる。「多賀務 / 妻 賢子 之墓」。

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〇 亀戸事件犠牲者之碑

犠牲者之碑誌


この犠牲者之碑を建立して 23年の歳月を経た。


この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。


当実行委員会は事件 70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。


なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。             


1993年 9月 5日  亀戸事件追悼会実行委員会


( 碑裏 )
1923年 ( 大正 12年 ) 9月 1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者 9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。


惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。


労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
 
1970年 9月 4日  亀戸虐殺事件建碑実行委員会
(碑文より)

〇 犠牲者氏名年令
川合 義虎 22
加藤 高春 27
北島 吉蔵 20
近藤 慶造 20
佐藤 欣司 22
鈴木 直一 24
平澤 計七 34
山岸 実司 20
吉村 光治 24

〇 亀戸事件
亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日関東大震災直後の混乱中に発生した事件。

概要
東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎平沢計七、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署[2]に捕らえられ、9月3日から4日(あるいは9月4日から5日)に習志野騎兵第13連隊によって亀戸署内あるいは荒川放水路で刺殺された事件[3]。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。


この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められ、翌日の新聞各紙に大きく報じられた[1]。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団の弁護士布施辰治山崎今朝弥南葛労働協会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。『種蒔く人』の刊行元・種蒔き社は、自由法曹団作成の資料に基づき、本事件の殉難記『種蒔き雑記』を刊行した[3]


このほか、9月3日から5日にかけて数十人の朝鮮人が亀戸署内で殺害された旨の複数の記述が残されており、また上述以外に何人かの日本人中国人が殺されているともいわれる[1][3]


1970年9月4日、現場近くの浄心寺に「亀戸事件犠牲者之碑」が建立され、実行委員会による追悼会が営まれている[4]

脚注
1. a b c d 二村一夫 (1968-03-). “亀戸事件小論”. 法政大学大原社会問題研究所『資料室報』138号. 2017年9月1日閲覧。
2. 現在の警視庁城東警察署
3. a b c 日本大百科全書(ニッポニカ)
4. 亀戸事件追悼会-真実を知りいま語ろう”. 日本国民救援会. 2017年9月1日閲覧。

関連項目
関東大震災

関東大震災朝鮮人虐殺事件

関東戒厳司令部

本庄事件 (1923年)

福田村事件

甘粕事件
(wikiより)

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大原 重朝(おおはら しげとも)は、幕末公家、明治期の官僚政治家貴族院伯爵議員。幼名は常丸。

経歴
山城国京都で、大原重徳の三男として生まれ、兄・大原重実の養子となる[1][2]万延元年(1860年孝明天皇の児に就任し、文久2年3月1862年)元服して重朝と改名し備後権介に任じられた[3]慶応2年2月1866年)左馬頭に就任[1]。同年8月、朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控を命ぜられた[1]。慶応3年2月1867年)赦免となる[1]


慶応
4年4月19日1868年6月9日)参与・弁事に就任[4]。以後、権弁官事、弁官事、神楽御人数などを歴任[4]1874年3月、宮内省九等出仕となる[1][3]1877年9月、養父が死去し、同年10月30日、家督を継承[2]1879年2月、外務省御用掛に就任した[1]


1884年7月8日、子爵を叙爵[5]1888年1月17日、父・重徳の勲功により伯爵に陞爵[6]1890年7月、貴族院伯爵議員に選出され、死去するまで在任した[7]

栄典
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[8]

1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[9]

系譜
・父:大原重徳

・母:不詳

・養父:大原重実

・先妻:寿賀子(土岐頼之三女、のち離縁)[2]

・後妻:今子(裏松勲光長女)[2]

・三男:大原重明(貴族院議員)[2]

・四男:秋田重季秋田映季養子)[2]

・五男:柳原博光柳原義光養子)[2]

脚注
1. a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』278頁。
2. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、321-322頁。
3. a b 『明治時代史大辞典 第一巻』368頁。
4. a b 『百官履歴 上巻』192頁。
5. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
6. 『官報』第1363号、明治21年1月18日。
7. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』24頁。
8. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
9. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。

参考文献
・修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。

・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。

・宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第一巻』吉川弘文館、2011年。
(wikiより)

2858  大原重朝

大原重朝

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大原重貴 ( おおはら - しげたか )     
元治元年 3月 30日 ~ 明治 33年 11月 9日 ( 1864 - 1900 )

御歌所寄人・旧公卿。

父、伯爵・大原重朝。

東京出身。

明治 17年 ( 1884 ) 従五位。養病し京都で没する。没後贈従四位。37歳没。

妻は、子爵・藤堂高寛の姉・芳子。

 歌所寄人 : 歌の選定にあたった人。正面「大敬院殿広誉重貴大居士」。

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大原 重明(おおはら しげあきら、1883年明治16年)12月31日[1][注 1] - 1961年昭和36年)2月20日[1])は、日本の雅楽家、政治家貴族院伯爵議員

経歴
東京府伯爵大原重朝の三男として生まれる[1]学習院を経て、1907年東京帝国大学文科大学国文科を卒業した[2][3]。父の死去に伴い、1918年12月28日、伯爵を襲爵した[1][4]


郢曲
綾小路有良に、琵琶豊原喜秋に、篳篥安倍季節にそれぞれ師事した[2][5]1909年宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った[2][5]


1922年
5月、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し[6]研究会に属して活動し、1925年7月まで在任した[3]。その他、維新史料編纂会補助員、臨時帝室編修官補、大喪使祭官、皇太后大喪儀祭官副長などを務めた[2][3]

著作
・『歌会の作法』郢曲会、1927年。

親族
・母 大原今子(裏松勲光長女)[1][7]

・妻 大原芳子(藤堂高義長女)[1]

・弟 秋田重季秋田映季養子)・柳原博光柳原義光養子)[1]

脚注
注釈
1. 『日本音楽大事典』610頁、『朝日日本歴史人物事典』326頁では、12月3日。

出典
1. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、321-322頁。
2. a b c d 『日本音楽大事典』610頁。
3. a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』24頁。
4. 『官報』第1923号、大正7年12月29日。
5. a b 『朝日日本歴史人物事典』326頁。
6. 『官報』第2931号、大正11年5月12日。
7. 『人事興信録』第6版、を54頁。

参考文献
・平野健次編『日本音楽大事典』 平凡社、1989年。ISBN ISBN 978-4-582-10911-5

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。
(wikiより)

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相良妙子 ( さがら - たえこ )    
天保元年 ~ 大正 4年 11月 16日 ( 1830 - 1915 ) ・・・1829説あり

大隈重信の姉。

父、佐賀県士族・大隈与左衛門。

同藩の砲術師・相良十郎左衛門と 19歳で結婚するが早くに死別。

大隈重信らが築地の私邸に「梁山泊」を構え伊藤博文や井上馨らと政談にふけったときの女主人 ( 女太夫 )。

子に相良剛造がいる。86歳没。

正面「相良妙子之墓」。相良剛造墓は、向かい側にある。

「松寿院妙秀日薫大姉」。建立者名は無いが、墓碑が大きく対の石灯篭もあり、個人墓であることから、弟・重信の建立と思われる。

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相良好子 ( さがら - よしこ )     
嘉永 5年? ~ 昭和 10年 4月 29日 ( 1852? - 1935 )

佐賀錦模様織りの考案者。

相良剛造と結婚。

姑の相良妙子から好子に佐賀錦が伝授され、のち、佐賀錦模様織りを考案。

明治期に衰退中絶したものを、大隈重信夫人綾子と、相良好子によって再興され、明治 43年 ( 1910 ) ロンドンで開催された「日英大博覧会」に「佐賀錦」を出品。その優美さが称賛された。

「鹿島錦」の呼び名がこの博覧会出展で「佐賀錦」に変わったとされる。 83歳没。「遠事院妙法日剛大姉」。

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相良剛造 ( さがら - ごうぞう )    
? ~ 明治 33年 5月 9日 ( ? - 1900 )

    
東京株式取引所理事。

大隈重信の姉・相良好子の子。つまり大隈重信の甥。

夫人は、相良好子。「剛入院遠造日豁居士」。

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小坂 梅吉(こさか うめきち、1873年明治6年)11月8日[1] - 1944年昭和19年)12月2日[2])は、日本の実業家、政治家。

経歴
父の小坂駒吉は信州伊那から江戸に上り、上野輪王寺御用商人となり、1872年(明治5年)に銀座に「松本楼」を開業した。父の事業を受け継ぎ、日比谷公園の整備に伴う入札で「日比谷松本楼」を開いた。さらに「大松閣」「大正軒」などの関連店舗を設立した。


また政界にも進出し、京橋区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員に選出され、非政友会の長老として重きをなした。


1936年
(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙立憲民政党から出馬し、当選を果たした。1939年(昭和14年)には貴族院多額納税者議員に選出された。


その他、新橋演舞場株式会社専務取締役、磐城炭鉱株式会社取締役を務めた。


孫文の支援者で、日活の創業者・梅屋庄吉は姻戚である。

親族
子に銀座6丁目、銀座松本楼があった場所に建てられた旧小松ストアー(現 ギンザコマツ)創業者の小坂武雄らがいる。庶子外務省庁舎を設計し、KDDIビルホテルオークラ設計に携わった小坂秀雄らがいる。

脚注
1. 衆議院『第七十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、2頁。
2. 
参考文献『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』239頁。

参考文献
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・『大信濃』長野県人東京聯合会、1940年。
(wikiより)

正面「小坂梅吉之墓」。「大雄院殿梅窓清薫居士」。

 「日比谷松本楼」:日比谷公園の中にある、由緒正しき洋食グリルの名店。

孫文とも強いかかわりがあることから、日中友好のシンボルでもある。

胡錦濤国家主席来日に際し、日本政府が非公式の夕食会場として松本楼が選ばれたのもこのため。

孫文が宋慶齢と結婚したのは日本に亡命中のことで、宋慶齢が愛用の山葉製 ( ヤマハ ) の国産ピアノ第 1号のピアノや記念写真など、貴重な品々を松本楼が譲り受け、現在も松本楼の 1階のロビーに展示されている。

また、多くの著名人も訪れ、夏目漱石・高村光太郎・松本清張らの小説の舞台にもなっている。

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覚王院義観 ( かくおういんぎかん )    
文政 6年 ~ 明治 2年 2月 26日 ( 1823 - 1869 )

上野戦争時の寛永寺執当職。

武州新座郡根岸村出身。


本名、金子劇蔵。出家名、堯運。


東叡山大慈院堯覚の弟子となり、ついで真如院義厳の弟子となる。


26歳で住職となり、輪王寺宮執当覚王院となる。


慶応 4年 ( 1868 ) 寛永寺を彰義隊の拠点とさせた。


同年 5月上野戦争で徳川方彰義隊が敗れたため、公現法親王を戴き会津若松や仙台の眺海山仙岳院に逃れたが、9月に捕らわれ東京に移された。


罪状確定前に病死した ( 自殺説あり )。47歳没。


輪王寺宮公現親王より寂静院の号を賜う。「寂静心院義観塔」。


〇 彰義隊
彰義隊(しょうぎたい)は、幕末期の1868年慶応4年)、江戸幕府征夷大将軍であった徳川慶喜警護などを目的として渋沢成一郎天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争明治新政府軍に敗れて解散した。

結成と経過
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸城へと移っていた。1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日、上野寛永寺に蟄居した。


これに不満な幕臣本多敏三郎幕府陸軍調役の伴門五郎が11日に檄文を発し、有志へ会合を持ち掛けた。翌12日、集会場所に指定した雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」には、一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話し合った。2月17日には四谷鮫ヶ橋の円応寺に場所を移し、30名ほどで会合を行っている。


同月21日に開かれた会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加している。その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国」(国に報いて忠を尽くす)とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成した。


23日に浅草本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成した。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いた。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持を受けて中心人物となった。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じた。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人博徒侠客も参加し、隊が千名を超える規模になった。4月3日に本願寺から寛永寺へ拠点を移動している。


4月11日
江戸城無血開城し、徳川慶喜が水戸へと退去した。彰義隊士は慶喜を千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。


慶喜が水戸へ移った後も、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して、徳川将軍家霊廟守護を名目に、寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。幕臣の勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し、最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がる。渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため渋沢は彰義隊を離脱(渋沢が一時期軟禁されたとの説がある)、一時姿を隠していたが、同志とともに飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺振武軍を結成し、独自に活動を展開した。渋沢の離脱に伴い彰義隊は隊を再編成したが、天野は頭並の地位に止まっている。


江戸開城
以降、関東地方各地で旧幕府陸軍兵士等が盗賊と化し、幕府復興を名目に放火強盗を働いた。彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく徳川慶喜の警護役をしていた幕臣・山岡鉄舟輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行った。しかし覚王院義観は彼を裏切り者と呼び、説得に応じなかった。京都の明治新政府は、関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考えた。新政府は彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げ、彰義隊を討伐する方針を決定。京都から西郷隆盛に代わる統率者として大村益次郎が着任した。


新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発[1]。軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出される。

上野戦争
詳細は「上野戦争」を参照


1868年7月4日(慶応4年5月15日未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に籠る彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩卍隊の正確極まる激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に遭い、撃退された。しかし正午から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王山に着弾し始め、午後は射程と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘を進め、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名と言われている。

大村が立案した彰義隊殲滅作戦を実施するには50万もの大金が必要だった。この調達の為に大村は米国より軍艦「ストンウォールジャクソン号」購入の為の資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、最終的には新政府の会計を司る由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて、何とか50万両を揃えた。これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃え開戦した。


渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

上野戦争後
逃走した彰義隊残党の一部は、北陸常磐会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。


彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。首魁の天野八郎は投獄後数ヶ月で死亡した。死因は肺炎とされる。江戸時代から明治時代初期にかけての牢獄は環境が劣悪で、囚人の生存率が低かった。改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降のことである。上野で戦死したことにして故郷にも帰れず、明治時代を戸籍なしで送った者もいたという。太平洋戦争終戦時に内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎の叔父は彰義隊に参加した上級武士だった為に生死が徹底的に調査され、全国へ指名手配された。原田左之助は上野戦争で戦死したとされるが、家族に迷惑が掛かるのを心配し戦死した事にしたという説もある。獄中の彰義隊士が自由の身になったのは1869年(明治2年)である。新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊の中で最も厳しかったと言われるが、大塚霍之丞のように謹慎後に明治政府へと登用され官吏や重役に就いた者も少なくない。


捕縛後の天野の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり、後ろを見たら誰もいなかったというものがある。彰義隊は江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し、新政府兵士へ集団暴行・殺傷を繰り返した存在としては覚悟が足りず、実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かったことが、一日の戦闘での崩壊となったとする説もある。

江戸では彰義隊の壊滅後、特に戦闘も起こることもなく新政府要人が集団で移転して来た。さらに明治天皇を迎え、元号は明治へ、街の名前も江戸から東京へと変わり、明治新政府の首都としての歴史が始まった(東京奠都)。


なお戦闘後、上野には200名を超える彰義隊士の遺骸が残った。徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たが、官はこれを容れなかったという。南千住(現:東京都荒川区)の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎がこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬した(上野公園内「彰義隊墓表之来由」)。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続いた。


1874年(明治7年)に元彰義隊士の小川興郷などの願が許可され、翌1875年(明治8年)に上野で彰義隊の墓が建立された。以降、小川家が墓守を務め、上野では大規模な法会が毎年営まれている。1881年(明治14年)には旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」を碑銘とする墓碑が新たに加わった。彰義隊を「賊軍」とみなす人々からの風当たりによる資金難、墓地の所有権を巡るトラブルなどはあったものの、戊辰戦争における立場を超えて彰義隊士を慰霊しようという環境は次第に好転し、現在に至っている。なお、上野戦争に参加した官軍側諸隊である山国隊の記録では、終戦の3日後から彰義隊の遺体処理を開始したとあり、また円通寺は大村益次郎からの指示で遺体の受け入れを行ったとの説があるなど、戦死者の処理については記録により差異がある。


彰義隊士の法要は長年、小川の志に協力した日蓮宗が担ってきた[2]2017年5月15日百五十回忌は、増上寺や寛永寺など都内5寺が宗派を超えて営んだ[3]


2018年7月には、「彰義隊子孫の会」が結成された[4]

幹部構成
結成当初
渋沢成一郎:頭取

天野八郎:副頭取

本多敏三郎:幹事

伴門五郎:幹事

須永於菟之輔:幹事

一次編成(4月頃)[5]
・頭取:本多邦之助

・第一青隊 - 隊長:朽原鼎 副長:近藤又三郎

・第一黄隊 - 隊長:浅川文三郎 副長:菅沼安太郎

・第一赤隊 - 隊長:土肥八十三郎 副長:林半蔵

・第一白隊 - 隊長:管間房次郎 副長:糸賀藤三郎

・第一黒隊 - 隊長:石川善一郎 副長:高木文八郎

・第二青隊 - 隊長:木下福次郎 副長:寺沢親太郎

・第二黄隊 - 隊長:百瀬雄二郎 副長:鳥飼常三郎

・第二赤隊 - 隊長:大谷内龍五郎 副長:高山健太郎

・第二白隊 - 隊長:加藤大五郎 副長:山崎雅五郎

・第二黒隊 - 隊長:織田主膳 副長:加藤光造

・第三青隊 - 隊長:松本勘吉 副長:野村徳太郎

・第三黄隊 - 隊長:佐久間末七郎 副長:岡田英次郎

・第三赤隊 - 隊長:比留間良八 副長:秋元寅之助

二次編成(上野戦争直前)[6]
・頭:池田長裕小田井蔵太

・頭並:菅沼三五郎天野八郎春日左衛門川村敬三

・頭取:吉田定太郎伴門五郎織田主膳本多敏三郎

・頭取並:小林清五郎大塚霍之丞加藤帰之助酒井宰輔近藤武雄新井鐐太郎杉山作左衛門

・会計掛:田中清三郎飯田豊之助百井求之助

・記録掛:金井禎次郎中川記代之助斎藤金左衛門窪田俊助小野安太郎安部杖策

・器械掛:松崎平三郎鈴木杢右衛門

・本営詰:秋元寅之助加藤大五郎丸毛靭負上原仙之助

・兵隊組頭:土肥八十三郎(一番隊隊長)、管間房次郎(二番隊隊長)、松本勘吉(三番隊隊長)、鳥飼常三郎(四番隊隊長)、朽原鼎(五番隊隊長)、浅川文三郎(六番隊隊長)、石川善一郎(七番隊隊長)、木下福次郎(八番隊隊長)、大谷内龍五郎(九番隊隊長)、山崎雅五郎(十番隊隊長)、加藤光造(十一番隊隊長)、佐久間末七郎(十二番隊隊長)、高橋真吉(十三番隊隊長)、比留間良八(十四番隊隊長)、安藤勘蔵(十五番隊隊長)、今井八郎(十六番隊隊長)、古谷萬吉郎(十七番隊隊長)、西村賢八郎(十八番隊隊長)


・天王寺詰:小川椙田花俣鉄吉斎藤亀吉

・真如院詰:高山健太郎

・遊撃隊隊長:村越三造

・万字隊取締:百瀬雄次郎

・神木隊取締:近田六郎太夫

・客将:竹中丹後細倉謙左衛門木城安太郎

・寄合衆:船越主計村上求馬

参考文献
・一坂太郎『幕末歴史散歩-東京編』 中央公論新社、2004年、167-175頁

・山崎有信『彰義隊戦史』隆文館、1904年

・『史談会速記録』史談会、1892-1932

・『舊幕府』旧幕府雜誌社、1897-1901

・「一橋家文書」(未刊、茨城県立歴史館所蔵)

・山崎有信 国立国会図書館デジタルコレクション 『彰義隊戦史』 隆文館、1904年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/1 国立国会図書館デジタルコレクション 

・『真説 上野彰義隊』中央公論社〈中公文庫〉、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8

脚注
1. 慶応4年5月7日(1868年6月26日)午後だけで以下の3事件が起きたことが『復古記』に記載されている。
2.  方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人~9人と遭遇し、彰義隊の屯所へ連行されるのを拒否して戦闘になり、薩摩藩兵1人が斬殺されたが、彰義隊士2人を討ち果たし、6人に手傷を負わせた。彰義隊の応援が大勢駆け付ける中、残った薩摩藩兵2人は囲みを掻い潜って駒込大観音の前まで辿り着いたが、深手を負っており追手が迫っていたので、薩摩藩兵1人が切腹し、もう1人の藩兵も切腹しようとしている所を彰義隊士に鉄砲射殺された。


・同尾張藩足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたところ、10人ほどの徳川家家臣に襲撃されて手傷を負った。

・同午後6時頃、体調不良で隊列から遅れた肥前藩士2人が、上野北大門町駕籠に乗って通りかかったところ、突如80人ほどの何者か分からない集団に斬りかかられ、止むを得ず応戦した。肥前藩士1人が斬殺され、もう1人の藩士は深手を負って午後9時頃に藩邸へ辿り着いた。

3. 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十冊』110頁112頁 『復古外記』東海道戦記 第二十六 明治元年5月8日 「薩摩尾張肥前三藩、書ヲ大総督府ニ上リテ、藩兵、彰義隊ノスル所ト爲リシ状ヲ申ス。」 (編著者:太政官豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和4年(1929年)9月15日) (2018年10月9日閲覧。)
4. 散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要”. 東京新聞夕刊2017年5月11日. 2017年5月18日閲覧。
5. 上野戦争 15日で150年 「彰義隊」慰霊で節目の法要 宗派超え都内5寺参加へ”. 毎日新聞ネット版2017年5月14日. 2017年5月18日閲覧。
6. 彰義隊鎮魂へ 子孫の会/来月シンポ「本当の姿知ってほしい」『読売新聞』朝刊2018年11月6日(都民面)。 7. 加来, pp. 150-151.
8. 加来, pp. 163-164.

関連項目
戊辰戦争

上野戦争

・『合葬杉浦日向子 - 時代の波に翻弄された、彰義隊の若き隊員たちの生と死を描いた作品。

・作家・子母沢寛 - 彰義隊に参加した梅谷十次郎(通称:斉藤鉄太郎、又は鉄五郎)の孫。
(wikiより)

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石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。

経歴・人物
山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。


初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。


1937年
、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。


1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。



出演作品
映画
・日本剣豪伝より 血闘柳生谷(1945年、東宝) - 吹川弦次郎

・或る夜の殿様(1946年、東宝) - 井上直人

銀嶺の果て(1947年、東宝) - 鹿の湯の主人

女優(1947年、東宝)

・第二の人生(1947年、東宝) - 社会実業家

・鶴と子供たち(1948年、東宝教育) - 役場の男

青い山脈(1949年、東宝) - 六助の父

また逢う日まで(1950年、東宝)

暴力の街(1950年) - 薬屋

・戦慄(1950年、東横) - 三輪警部補

・わかれ雲(1951年、新東宝)

・山河を越えて(1952年、文芸プロ) - 金持ちの旦那

早稲田大学(1953年、東映)

ひめゆりの塔(1953年、東映) - 南舎監長

蟹工船(1953年、現代ぷろ) - 大船頭・和田

雲ながるる果てに(1953年、重宗プロ)

ひろしま(1953年、日教組)

どぶ(1954年、近代映画協会)

太陽のない街(1954年、新星映画)

足摺岬(1954年、近代映画協会)

・ともしび(1954年、キヌタプロ) - 教育員戸川

・若い人たち(1954年、全国銀行従業員組合) - 大島

(1955年、近代映画協会)

・愛すればこそ(1955年、独立映画) - 近所の人

・終電車の死美人(1955年、東映) - 田中部長刑事

・由起子(1955年、中央映画) - 玉木屋支配人

真昼の暗黒(1956年、現代ぷろ) - 安原弁護士

女優(1956年、近代映画協会) - 明治座頭取

・嫁ぐ日(1956年、近代映画協会)

・或る夜ふたたび(1956年、松竹)

・今どきの嫁(1956年、桜映画社)

台風騒動記(1956年、山本プロ) - 坂下

多羅尾伴内 戦慄の七仮面(1956年、東映) - 捜査主任戸田

にっぽんGメン 特別武装班出動(1956年、東映) - 西島捜査二課長

・銀座のしいのみ(1957年、東映教育)

・白鳥物語(1957年、東映教育)

純愛物語(1957年、東映) - 自誠会指導員

・爆音と大地(1957年、東映) - 小森

・うなぎとり(1957年、歌舞伎座)

警視庁物語シリーズ(東映)

  ・夜の野獣(1957年) - 渡辺刑事

  ・七人の追跡者(1958年) - 渡辺刑事

  ・魔の伝言板(1958年) - 渡辺刑事

  ・一〇八号車(1959年) - 高山電気商会店主

  ・深夜便一三〇列車(1960年) - 干拓地の刑事

  ・血液型の秘密(1960年) - 古道具屋の主人

  ・不在証明(1961年) - 部長刑事

  ・十二人の刑事(1961年) - 宮城県警課長

  ・ウラ付け捜査(1963年) - 赤城捜査係長

・アルプス物語(1958年、東映教育)

・愛のジェット機(1958年、東映教育)

・空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣(1958年、東映) - 電飾係

・高度7000米 恐怖の四時間(1959年、東映) - 警備本部長

・消えた牛乳びん(1959年、東映教育)

・特ダネ三十時間シリーズ(東映)

  ・拾った牝豹(1959年) - 桜井

  ・東京租界の女(1961年) - 桑田部長刑事

・七つの弾丸(1959年、東映) - 松村巡査

・リスとアメリカ人 廃墟の銃声(1959年、東映) - 東洋玩具KK工場主

・からたち日記(1959年、歌舞伎座)

・二枚の絵(1959年、東映教育)

・鳩杖(1959年、東映教育)

・若い潮(1960年、東映教育)

・道(1960年、東映教育)

大いなる旅路(1960年、東映) - 老機関士

・砂漠を渡る太陽(1960年、東映) - 承徳院医師

・わが胸に鐘は鳴る(1960年、東映教育) - 坂田の親方

・私たちの結婚(1960年、東映教育)

・多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年、東映) - 松川刑事

・第三の疑惑(1960年、東映) - 医療器具支配人

・決斗の谷(1960年、東映) - 大津主任

・不死身の男(1960年、東映) - 捜査課長

・男ならやってみろ(1960年、東映) - 警視庁捜査課長

はだかっ子(1961年、東映) - 歯医者

・がめつい奴は損をする(1961年、ニュー東映) - 捜査主任

・荒原牧場の決闘(1961年、東映) - 消費組合理事

・ひばりの母恋いギター(1962年、東映) - 岩吉

・恐怖の魔女(1962年、東映) - 川島部長刑事

海軍(1963年、東映) - 谷真吉

・わが恐喝の人生(1963年、東映) - 清水刑事

・ギャング忠臣蔵(1963年、東映) - 部長刑事

昭和残侠伝(1965年、東映) - 戸川

・証人の椅子(1965年、大映)

男はつらいよ(1969年、松竹) - 道男の父

・やさしいにっぽん人(1971年、東プロ)

テレビドラマ
JNR公安36号 第27話「裁きの前」(1962年、NET

ダイヤル110番(NTV)

・テレビ指定席 隧道(1964年、NHK)

ウルトラQ 第5話「ペギラが来た!」(1966年、TBS) - 富士井船長

おはなはん(1967年、NHK) - 校長

光速エスパー 第12話「ウイルスの恐怖」(1967年、NTV) - 花村博士

天と地と(1969年、NHK) - 医師

東芝日曜劇場(TBS)

  ・第654話「なくてはならぬものがたり」(1969年)

  ・第718話「釣忍」(1970年)

鬼平犯科帳 第62話「罪ほろぼし」(1970年、NET) - 居酒屋の親爺

人形佐七捕物帳 第6話「雷の宿」(1971年、NET) - 宗兵衛

天皇の世紀 第12話「義兵」(1971年、ABC) - 山内民部

荒野の用心棒 第12話「群狼の宿に愛と死の花が散って…」(1973年、NET) - 仁兵衛

寺内貫太郎一家 第20話(1974年、TBS) - 竹中

華麗なる一族(1974年、NET) - 安田長兵衛

新五捕物帳 第21話「夜に咲く花ふたり花」(1978年、NTV) - 葛飾の老百姓
(wikiより)

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伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年明治40年)9月30日[1] - 1990年平成2年)5月6日[1][2])は、昭和期の政治家華族貴族院子爵議員

経歴

東京府出身。子爵伊東祐弘の長男として生まれる[1][3][4]。父の死去に伴い、1932年1月15日に子爵を襲爵した[1][5]1936年京都帝国大学経済学部を卒業[2][3]。同年、日興木材(宮城県)相談役に就任[2]

1946年8月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選、研究会に属して活動し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

親族
・母 伊東経子(つねこ、松平康民四女)[1][3]

・妻 伊東英子(ひでこ、石井徹二女)[1]

・長男 伊東祐昭[1]

脚注
1. a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、164-165頁。
2. a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』35頁。
3. a b c 『人事興信録』第14版 上、イ52頁。
4. 『華族畫報』下、626頁。
5. 『官報』第1511号、昭和7年1月16日。

参考文献
・杉謙二編『華族畫報』下、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
(wikiより)

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伊東祐淳

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曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日嘉永5年11月24日) - 1937年昭和12年)12月6日)は日本建築家


同郷の辰野金吾とともにジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱系貸事務所建築群の設計に関わった。のち後輩の中條精一郎1868年 - 1936年)とともに設計事務所を開設し、慶応義塾図書館、鹿児島県庁舎本館、明治屋京橋ビルなどを設計した。日本造家学会(現日本建築学会)創立委員・会長。

経歴
・1852年(嘉永5年)唐津藩士(祐筆)曽禰寸斉の子として江戸に生まれる

・1873年(明治6年)工部大学校入学

・1879年(明治12年)工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)卒業、工部省入り

・1881年(明治14年)工部大学校助教授

・1886年(明治19年)海軍に入り、呉鎮守府の建築委員になる

・1890年(明治23年)恩師コンドルの紹介で三菱社に入社

・1892年(明治25年)三菱一・二号館の建設が始まる(1894年・1895年に竣工)、以後丸の内に煉瓦造のオフィス街が生まれてゆく

・1906年(明治39年)三菱を定年退社、建築事務所を開設

・1908年(明治41年)中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所開設

・1936年(昭和11年)共同経営者の中條が逝去

・1937年(昭和12年)逝去



主な作品については、「曽禰達蔵ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E7%A6%B0%E9%81%94%E8%94%B5

系譜
・妻は高橋是清の実妹。

・妻(後妻?)に久保田政周の実姉しん(1867年生)[1]

・長女ミサは、貴族院議員、法制局長官山川端夫の妻[2]

・長男曾禰武は物理学博士。開成高校校長。

・次女は株式会社東洋電機元社長の上遠野氏の妻。

・次男の妻は、岩倉具視の孫。

・三男曾禰益は外交官。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)等に出席。旧民社党書記長。妻・春子は、東急創始者 五島慶太の一人娘。

・三女は、理学博士・阪大教授で文化勲章受章者の仁田勇の妻。

その他
・唐津藩主小笠原家の嗣子・長行小姓を勤めており、戊辰戦争の際は共に会津に向かうが、長行の命で唐津へ帰っている(設計作品の小笠原伯爵邸の当主は小倉藩主の方)。


・海軍から三菱に移ったのは海外視察をしたかったためだという。三菱入社後、1893年にシカゴ博覧会等のため渡米、1901年には岩崎久弥に随行しロンドンへ出張した。

著作・文献
・石田潤一郎著、増田彰久写真『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂、1980年)

脚注
1. 久保田政周 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
2. 
山川端夫 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

関連項目
建築史

日本建築史

日本近代建築史

西洋館   

片山東熊佐立七次郎 同級生

高松政雄徳大寺彬麿中村順平 事務所のスタッフ

歴史主義建築 

外部リンク
曽禰達蔵[リンク切れ]

唐津の八偉人/唐津市
(wikiより)


2845  曽禰達蔵

曽禰達蔵

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猿渡常安 ( さるわたり - つねやす / さるわたり - じょうあん )    
嘉永 2年 7月 5日 ~ 明治 32年 6月 24日 ( 1849 - 1899 )

    
医家。

高島藩士・菅沼豊八 ( 二男) 。

長野県諏訪出身。

猿渡盛雅の養子。

神田で医院を開業。

渋沢栄一の主治医で、王子の飛鳥山別邸において夫人・千代がコレラに罹った際に診察に当たった。

つづいてドイツ人医師 エルウィン・ベルツが治療にあたったが、手のほどこしようがなく、千代は翌日の夕方 42歳で没した。51歳没。

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 現在は撤去済みです。


黒田一道 ( くろだ - いちどう )
     
万延元年 ~ 大正 14年 7月 27日 ( 1860 - 1925 )

津山松平家家令。

本名、鷲三。

黒田家は代々作州津山松平家家臣。

日露戦争の際、父の名を継承し一道と名乗る。

勝山の儒者中西家に生まれる。

明治初年津山藩家老・黒田家の養子となる。

小学校教員。岡山県県会議員。

のち衆議院議員を断念して松平家の家令となる。

正面「黒田家之墓」。一道 : 「清節院殿道誉我山鷲巣居士」。

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明治の 九代目・団十郎の弟子、新蔵が目を患った時に願掛けて治癒したところから団十郎不動と呼ばれています。

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高斎単山 ( こうさい - たんざん )    
文政元年 ~ 明治 23年 6月 13日 ( 1818 - 1890 )

 江戸末期から明治期の書家。

名、有常。字、子恒。通称、精一。号、単山・三余堂。落款は、単山常。

父、滝沢友七。

田安家家臣・高斎清兵衛の養子となる。

巻菱湖に書を学び、菱湖没後は萩原秋巌に師事、晋・唐の諸礼を究め一家をなす。

頼山陽に認められる。

寛永寺 30余坊の僧侶を指導。

大沼枕山の隣りに住み、三枚橋畔両名山と称される。

明治 3年 ( 1870 ) 秋発行の「書家番付」の大家・名家欄には萩原秋厳、服部随庵、関雪江、柳田正斎、市河萬庵、山内香溪、樋口逸斎、高斎単山、高林二峯、永井盤谷、松本董仙らの名前がある。

書は、幼いころから父から学び、長崎で清人 ( 中国人 ) に師事したらしい。

門下に徳川家達・伊達本家・真田・小笠原の大名・書家説文学研究家の高田竹山 ( たかだ - ちくざん : 1861 - 1946 ) らがいる。

明治の英国外交官アーネスト・サトウは、書道の師である高斎単山から「静山」という号をもらったという。73歳没。

碑は、門人金田正誠の撰文、高田忠周 ( たかだ - ただかね : 竹山 ) の書。

 金田正誠 ( ? ~ 明治 30年 1月 29日 ) 墓は、了ごん寺墓地奥の塀際より 1本手前にある。

正面「至誠院殿真如学山居士 / 錦恕院殿貞房妙観大姉」。

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猿渡駒之助 ( さわたり - こまのすけ )     
元治元年 8月 23日 ~ 昭和 19年 6月 19日 ( 1864 - 1944 )

行政裁判所評定官。

父、猿渡盛雅。

大正元年 ( 1912 ) 10月従四位勲四等。81歳没。

正面「猿渡駒之助 / 猿渡レン子 霊」。

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下田芳沢 ( しもだ - ほうたく )     
寛延 3年 ~ 文政 3年 4月 24日 ( 1750 - 1820 )

江戸後期の儒者。

名、武卿。字、一甫。通称、三蔵。号、芳沢。

宮城県出身。

井上金峨に師事。

のち、江戸の盛岡藩儒員となり、文学を講説する。

折衷学派。

文化 3年 ( 1806 ) 盛岡藩校「稽古所」教授。71歳没。著書:「周易説」。

屋代弘賢篆額・山崎美成書・成島司直撰の「盛岡儒員芳澤下田先生之碑」が建つ ( 1821 )。

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⇧⇩ 盛岡儒員芳澤下田先生之碑。

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橘 公毅 ( たちばな - ひろたけ )     
? ~ 明治 16年 4月 3日 ( ? - 1883 )

福岡師範学校初代校長。

長崎県出身。

橘 彪四郎の父。

明治 10年井上政縄と福岡県 3等属に任ぜられる。

同年 12月福岡師範学校、初代校長に任ぜられる。正七位。

子に福井県立福井農林高校第 4代校長の橘 彪四郎がいる。

 福岡師範学校 : 明治 7年 ( 1874 ) 7月 5日教員伝習所の開設布達 ( 学科取調所から改称 )。

明治 9年 ( 1876 ) 年 4月 18日福岡県に旧・小倉県を併合。同年 7月 26日福岡師範学校と改称。

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⇧⇩ 橘 彪四郎。

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⇧⇩ 橘 公臣墓。

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亀田綾瀬 ( かめだ - りょうらい )
( 1778 - 1853 )

江戸時代後期の儒者。


安永 7年 7月 10日生まれ。亀田鵬斎の子。


父の学を受け、15歳の頃から父に変わって旗本などに講義する。


文政のはじめ下総 ( しもうさ ) 関宿 ( せきやど ) 藩 ( 千葉県 ) に仕え、藩校教倫館の儒官となった。


嘉永 ( かえい ) 6年 4月 14日死去。76歳。


名は長梓。字 ( あざな ) は木王。通称は三蔵。別号に学経堂。

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幕末三筆の 1人巻菱湖の顕彰碑。


篆額は日野資愛。朝川鼎 ( 善庵 ) の撰文を、菱湖四天王の 1人大竹培 ( 将塘 ) が書丹し、窪世升が鐫を採っている。


菱湖は市河米庵と勢力を二分し、一世を風靡した江戸の書家。


越後に生まれ、江戸に出て亀田鵬齋に師事した人で漢詩にも秀でていた。


千字文など書道手本も多く残し、明治初期の習字教育にも影響を与えている。


菱門の系譜は、当時四天王といわれた中澤雪城の下に西川春洞・日下部鳴鶴・巌谷一六らが、同じく萩原秋厳からは村田海石らが連なる。


この碑は何度も拓本に採られ、かなり磨耗しているが、しっかりとした楷書が刻まれている。


〇 巻 菱湖
巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。池田、後にを名襲名。大任致遠または起巌菱湖で、別号に弘斎通称右内と称した。


五言律詩行書双幅

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『五仙騎五羊』

2518   巻菱湖書


業績
明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている[1]

略歴
幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職にの手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書とを学んだ。以後、楷書欧陽詢褚遂良行書李邕王羲之草書を『孝経』・『書譜』・『十七帖』・『絶交書』、隷書を『曹全碑』に範をとり、以前の書法に傾倒した。


29歳の時、『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。

菱湖流
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。

菱湖書体
現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つが菱湖体である。タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多い。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、阪田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。

2518   巻菱湖書の将棋駒

巻菱湖書の将棋駒


門弟
門弟に菱湖四天王萩原秋巌中沢雪城大竹蒋塘生方鼎斎)や巻鴎洲(-おうしゅう、1814年 - 1869年)、中根半仙などがある。鴎洲は菱湖の子で、優れた才能を持ちながら病弱のため早世した。巻菱潭(-りょうたん、1846年 - 1886年)は鴎洲の門人で、鴎洲没後、養子となり跡をついだ。[2]



脚注
1.  林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「巻菱湖石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)
2. 飯島春敬 P.759 - 760

参考文献
・「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)

・藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X

・飯島春敬 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)

・林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)

関連項目
日本の私塾一覧

日本の書道史


外部リンク
巻菱湖記念時代館
駒の詩 書体への誘い2~菱湖
(wikiより)


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一勇斎歌川先生とは、幕末を代表する浮世絵師・歌川国芳のことです。


国芳は、寛政九年 ( 1797 ) に日本橋で生まれました。


15歳で初代歌川豊国の門人となり、文政十年 ( 1827 ) 頃「通俗水滸伝豪傑百八人一個 ( 一人)」の連作を契機に人気を博し、浮世絵のあらゆる分野で高い水準の作品を残しました。


この碑は、文久元年 ( 1861 ) に没した国芳の十三回忌にあたる明治六年 ( 1873 ) に建立されました。


撰文は学者の東條琴台、篆額と書は萩原秋巌、碑刻は宮亀年が受け持ちました。


碑文には国芳の出自や経歴、建碑の経緯などが刻まれています。


裏面には、建立者である弟子たちの名が刻まれており、その中には明治時代の浮世絵を代表する月岡芳年や新聞錦絵の落合芳幾、おもちゃ絵の歌川芳藤などがみられます。


芳年の画系は水野年方から鏑木清方、伊東深水、岩田専太郎と近代日本画の流れとして続きました。


国芳は向島に居住した時期もあり、この碑は墨田区の浮世絵に関わる豊かな歴史を示す貴重な文化財といえます。
(案内板より)

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明治 27年建碑。


8歳で囲碁を覚え天才の名を恣にした。


14歳の若さで鬼籍に入った後、その才能を称え、特別昇段を与えられた。


題額黒田長知、撰文福羽美静、書丹一亭渡邊智道、田鶴年鐫。

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明治 29年建碑。


篆額・榎本武揚、撰文・田中従吾軒、書丹一亭渡邊智道、田鶴年鐫。


小林の詳細は不明。 

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露の笹まろめて月の光なり


本名は平田虎右衛門。あだ名を「平虎」。


江戸橘町に住む畳職人で端唄を親しんでいた。


歌沢笹丸と共に行動するようになり安政四年 ( 1857 ) に歌沢相模と改名。


文久二年 ( 1862 ) に家元の笹丸の顕彰碑を向島木母寺に建て、笹丸の後継者という意味合いを込めて「二世歌沢虎右衛門」と碑面に無断で刻んだ事で一門の結束力が薄れるようになり、哥沢芝金らと袂を分かち一門を離れた。


晩年病に倒れ虎右衛門の名を譲った。


〇 歌沢 寅右衛門
歌沢 寅右衛門 ( うたさわ とらえもん ) は、うた沢節のうた沢寅派の名跡。


初代と 2代目は「歌沢虎右衛門」と漢字表記しそれ以降は女性が名乗ったため「歌沢寅右衛門」と表記した。


〇 初代
文化 10年 ( 1813年 ) - 明治 8年 ( 1875年 10月 2日 ) 本名は平田虎右衛門。あだ名を「平虎」。


江戸橘町に住む畳職人で端唄を親しんでいた。歌沢笹丸と共に行動するようになり、安政 4年 ( 1857年 ) に歌沢相模と改名。


文久 2年 ( 1862年 ) に家元の笹丸の顕彰碑を向島木母寺に建て笹丸の後継者という意味合いを込めて「2世 歌沢虎右衛門」と碑面に無断で刻んだ事で一門の結束力が薄れるようになり哥沢芝金等と袂を分かち合い一門を離れる。


晩年病に倒れ虎右衛門の名を譲っている。


〇 2代目
初代の門下。


〇 3代目
( 天保 9年 ( 1838年 10月 15日 ) - 明治 37年 ( 1904年 12月 6日 )) 本名は平田かね。

初代の実子。最初は歌沢美和。1881年に 3代目寅右衛門を襲名。


娘には 4代目。


〇 4代目
( 明治 5年 ( 1872年 8月 5日 ) - 昭和 18年 ( 1943年 3月 7日 )) 本名は平田ゆき。


東京の生まれ、初代の孫で 3代目実子。


明治 38年 ( 1905年 ) に 4代目寅右衛門を襲名。漢字表記を「虎右衛門」から「寅右衛門」とした。昭和 3年 ( 1928年 ) に実子に「寅右衛門」の名を譲り隠居し 2代目歌沢相模を名乗る。


〇 5代目
( 明治 34年 ( 1901年 4月 10日 ) - 昭和 58年 ( 1983年 12月 19日 )) 本名は平田秀子。


東京の生まれ、4代目の実子。若い頃から母の元で修行し昭和 3年 ( 1928年 ) に 5代目寅右衛門を襲名。実子は 6代目。


〇 6代目
5代目の実子で劇団青年座所属の俳優である歌澤寅右衛門が 6代目寅右衛門を襲名。現在は俳優業のほうが優先。


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明治 19年建碑。


篆額・九條道孝、自撰、書丹高村愛軒、田鶴年刻。


大島尭田 ( おおしま - ぎょうでん )
( 1805 - 1885 )

江戸後期 - 明治時代の書家。


文化 2年 8月生まれ。

代々武蔵 ( むさし ) 忍 ( おし ) 藩 ( 埼玉県 ) 藩主・阿部家に仕えた。


江戸にでて巻菱湖 ( まき - りょうこ ) に学ぶ。


維新後は東京師範で教えた。


明治 18年 10月死去。81歳。


本姓は矢島。名は信。字 ( あざな ) は立卿。

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明治 33年建碑。


梅庵居士書、鐫は井亀泉。

詳細不明。


〇 初代・助高屋小伝次 ( すけたかや - こでんじ ) 
( 1884 - 1899 )

明治時代の歌舞伎役者。

明治 17年 5月 2日生まれ。


七代目・沢村訥子 ( とっし ) の長男。


明治 20年 4歳のとき東京吾妻座 ( のちの宮戸座 ) で初舞台。


宮戸座の子供芝居の座頭となる。


のち新富座に移り大好評をえて前途を期待されたが、明治 32年 8月 24日死去。16歳。

東京出身。本名は伊藤政吉。

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八代目 澤村 訥子(はちだいめ さわむら とっし、明治20年(1887年11月6日 - 昭和38年(1963年3月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋定紋丸にいの字、替紋は三羽鶴俳名に訥子がある。本名は鈴木 大吉(すずき だいきち)。

来歴
東京浅草の魚商の子に生まれる。初代助高屋小傳次の門人となり、明治27年(1894年)1月に澤村大助を名乗って浅草座で初舞台。明治30年(1897年)1月には澤村傳次郎と改名した。こののち師の初代小傳次が死去すると、その父・七代目澤村訥子に師事。明治44年(1911年)帝国劇場が開場すると同時にその専属となり名題昇進。昭和2年(1927年)7月に師の七代目訥子の娘婿となり八代目澤村訥子を襲名した。その後は市川左團次一座、左團次死後は市村羽左衛門一座、そして戦時中には一時尾上菊五郎劇団に籍を置き、戦後関西歌舞伎に移って活躍した。昭和30年代に入って関西歌舞伎が崩壊の一途をたどると出場所がなくなり、世間に忘れ去られたかのようにひっそりと鎌倉の自宅で死去した。75歳だった。

芸風
傳次郎時代は中芝居の二枚目役者として名を売り、「猛優」の異名を取った七代目訥子に師事してからはその派手な芸風をよく受け継いでとにかく勇猛さが目立つ役者となったが、八代目訥子を襲名してからはそうした粗さがなくなり、むしろおとなしく堅実な脇役になった。


関西歌舞伎では老け役の第一人者となり、『梶原平三誉石切』(石切梶原)の青貝師六郎太夫や『源平布引滝』「実盛物語」の妹尾十郎などを当たり役として譲らなかった。また新作歌舞伎に印象に残る役が多く、『春風帖』の葛飾北斎、『国定忠治』の日光円蔵、『元禄忠臣蔵・大石最後の一日』の堀内伝右衛門などがあげられる。

人物
温厚な商家の大旦那のような地味な存在感があり、鎌倉を愛して関西歌舞伎に移籍した後も鎌倉の住処を離れなかったが、大阪の舞台に立つときは浪花座の楽屋に付属する寮を宿所にするほど暮らし向きは質素だった。寡黙で、芸談などを語ることは滅多にないほどだったが、他の者の芝居は常日頃から熱心に観て研鑽を怠らなかったという。

参考文献
澤村訥子 (八代目)Kabuki on the web

沢村訥子 (8代)kotobank
(wikiより)

2829  大日本俳優・澤村訥子之碑

八代目澤村訥子の泉岳寺長恩

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明治 9年建碑。


幕末から明治初めの漢詩人。


碑の題額は松平温齋題額、松本万年誌、中根義用銘、荒井直務書、井溢泉鐫。碑陽の 3分の 1が剥落している。


〇 青木錦村
青木錦村 ( あおき - きんそん )
( 1818* - 1874 )

江戸後期 - 明治時代の儒者、漢詩人。


文化 14年 12月 30日生まれ。


上野 ( こうずけ )( 群馬県 ) の人。


寺門静軒 ( てらかど - せいけん ) に学び、「西征詩鈔」をあらわした。


明治 7年 5月 15日死去。58歳。名は先孝。字 ( あざな ) は思孝。通称は敬蔵。

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明治 15年建碑。


明治のエコノミスト。


篆額は渋澤榮一、撰文并書丹は大澤正道、宮亀年の鐫。

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文政二年 ( 1819 ) の建碑。


大窪詩佛の楷書碑で、白髭神社の草書碑、三囲神社の隷書碑を合わせて詩佛の 3書体を見ることが出来る。


亀田興 ( 鵬斎 ) の撰文を、大窪行 ( 詩佛 ) 画書し、篆額も詩佛が揮毫している。

鐫は廣羣鶴。

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山東京傳の弟の京山が書いて建てたというが、何処に建ててあったものか不明。


〇 山東京山
山東 京山(さんとう きょうざん、明和6年6月15日1769年7月18日)-安政5年9月24日1858年10月30日))は、江戸時代後期の戯作者。本名は岩瀬 百樹(いわせ ももき)。は鉄梅。号は覧山・涼仙。山東京伝は兄。

略歴
江戸深川質屋の次男として生まれる。幼時に漢学や書画を学び、寛政3年に叔母猪飼氏養子となって篠山藩に仕えるが8年後に致仕する。その後、2度の結婚に失敗後に京橋に住まいを構え、篆刻合巻読本執筆を業とした。

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⇧ 『北越雪譜』二編 巻一(鈴木牧之著、天保12年(1841年)刊)


文化4年(1807年)に出された『復讐妹背山物語』や天保6年(1835年)の『昔模様娘評判記』が代表作であるが、ライフワークになった『大晦日曙草子』(天保10年(1839年)開始)や『教草女房形気』(弘化3年(1846年))など、婦女子を対象とした平易で温雅な作風に様々な教訓を盛り込んだ話を得意とした。また弘化4年(1847年)に書かれた随筆『歴代女装考』は近世風俗考証の上で貴重な史料となっている。90歳で亡くなるまで積極的に執筆活動を行った。


鈴木牧之北越雪譜』の刊行にあたり「京山人百樹」名義で同書の刪定(添削・修正)に当たったことでも知られる。

外部リンク
山東 京山:作家別作品リスト - 青空文庫
山東京山 - 東京文化財研究所
(wkiより)


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巌谷一六書丹。


明治 30年の建碑。


文部大臣・蜂須賀茂韶題額、陸軍軍医総監・石黒忠悳撰文、勅選議員錦鶏祇侯・巌谷修書丹。井亀泉刻字。

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明治 28年の建碑で篆額で〝郵便の父〟前島 密が篆額を揮毫、撰文は重野安釋、書丹は柳澤信太、彫刻は田鶴年。


碑主の佐々木は当時の飛脚問屋の総代で、前島が郵便制度を導入する際、佐々木を口説いて飛脚システムを取り込むことに成功したことで、今日の郵便制度がある。


郵便制度は民業圧迫であり、飛脚屋を苦しめるもので、佐々木は猛反対したが、結局前島に協力したという事です。


そのことに感謝して碑は建てられ、篆額の揮毫を前島が引き受けたということのようです。

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「バンクーバーの朝日」の実在した「バンクーバー朝日軍」の初代エース、テディーフルモト古本忠義。


法名 : 瑛林院浄徳日忠居士。

〇 バンクーバー朝日
バンクーバー朝日
Vancouver Asahi)は、1914年から1941年まで、カナダバンクーバーで活動していた、日系カナダ移民の二世を中心とした野球チーム[1]

球団史
1908年頃、カナダではビクトリアやバンクーバーに「ニッポン」を名乗る日系二世の野球チームが組織されていた。野球チーム設立の当初の目的は、日系カナダ移民の二世への教育目的があったという。


1900年代初頭当時、バンクーバーには日本人街もあり活気に溢れていたが、日本人は人種差別と過酷な低賃金労働に耐えながらも勤労に勤しんだため、現地の白人たちから「日本人が白人の仕事を奪っている」として排斥されたり、日本人街が襲撃されることもあったという。そんな中で、「日本人の誇りを白人に見せつけたい」という思いから、バンクーバー朝日(以下、朝日)は1914年に結成された[1]


初代の監督には宮本松次郎が就任した。宮本は「馬車松」とあだ名されるほど精力的な人物だったようで、「英語は話せなくても野球なら出来る」と当時15歳前後の日系二世の少年9人を選び抜いて猛特訓を開始する。当時の日系人社会を中心とした支援を受けながら、猛練習の末チームは力をつけていき、朝日は5年目の1919年に、マイナーリーグにあたるインターナショナル・リーグで優勝する。この頃のチームは一軍から五軍までの構成であったらしく、一軍以外は下からそれぞれ「クローバーズ」「ビーバーズ」「アスレチックス」「カブス」という愛称を持っていた(一軍も短い期間ながら「タイガース」と名乗っていたことがあったようである)。


1921年、朝日は日本運動協会の招待を受けて日本に遠征する。しかしこの時、理由は不明だが朝日はチーム分裂を起こす。二代目の監督であった笠原、主力選手のハリー宮本、トム的場、ジョージ伊藤らが脱退して別の野球チームを結成する動きがあった。本体のチームは結局4人の白人を加えての遠征となった。遠征における朝日の試合経過や結果はよく判っていないが、当時の雑誌の論評によれば、「守備はともかく打力がさっぱり」と酷評されていた。当時和歌山中と対戦し敗れた記録が残っているようである[1]。また函館太洋倶楽部とは3回戦を行い、1勝2敗の成績を残している[2]


遠征から帰国後、朝日はチームを再編成し、ハリー宮崎が監督を務めた。ハリーはブリティッシュ・コロンビア州各地の白人チームから有力な選手を引き抜く一方、堅い守りとバントやエンドランなどの緻密な機動力を駆使する「Brain Ball」(頭脳野球)と呼ばれた戦術を編み出す。1926年に朝日は前年から加盟していたターミナル・リーグで優勝を果たし、その後1930年1933年にもリーグ制覇を遂げている。当時ハリーは選手に対して、ラフプレーを禁じ、抗議も一切行わないよう指導した。これは当時の日本人社会と白人社会との間の軋轢を鑑みたものと考えられている。結果、朝日は日系人だけでなく、白人も応援するチームになっていった。


1935年
、結成されたばかりの大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が北米遠征を行った際には、バンクーバーで朝日との対戦を行っている[1]。その後1930年代後半は、毎年監督が変わり成績も伸び悩む時期が続いたようである。


1941年太平洋戦争が始まると、選手達は戦時捕虜収容所や強制疎開地などに送られ、朝日はチームとしての歴史を閉じる。ただ、当時朝日に所属していた選手達が、収容所内で野球大会をしていたという記録が残っている。

その後
1994年TBSテレビJNN報道特集』でこのチームを取り上げたドキュメント企画『知られざるカナダ朝日軍』が放映された[3]。これをたまたま見ていたという、かつて朝日に投手として所属し太平洋戦争前に帰国したテディ古本の息子である古本喜庸は、番組プロデューサーに送った手紙の返信で朝日のOBが存命でカナダに在住していることを知る。当地でOBと対面しチーム秘話を聞いた古本は「朝日の存在を知ってほしい」と本を執筆、父に敬意を表し英名風の「テッド・Y・フルモト」というペンネーム[4]2008年に『バンクーバー朝日軍』として文芸社[5]から出版された。なお本作を原作とした、原秀則の作画による同タイトルの漫画作品が『ビッグコミックスペリオール』(小学館)にて連載された。なお、漫画では登場人物の名前を一部捻るなど、セミフィクションの形式を取っている。詳細は『バンクーバー朝日軍』を参照。


2002年、朝日を取り上げたドキュメンタリー映画『スリーピング・タイガース』が製作された。またこの年の5月15日には、かつての朝日の所属選手のうちミッキー前川ら5人がトロントのスカイドームに招かれ、当時イチロー佐々木主浩が所属していたシアトル・マリナーズトロント・ブルージェイズとの試合の始球式を務めている。

2003年、朝日はカナダ野球殿堂入りチームとなった[1]。表彰式は同年6月28日に行われ、かつての所属選手ら5名(ミッキー前川、ケン沓掛、キヨシ菅、ケイ上西、マイク丸野)が招待された。


2010年
、3月26日に岩波書店から『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』が出版された。著者は後藤紀夫。出版に至る経緯などは民放出身者の親睦団体「日本民放クラブ」の機関紙[6]に記されている。


2014年、朝日を題材として石井裕也がメガホンを執り、妻夫木聡亀梨和也らが出演した映画『バンクーバーの朝日』が製作・公開された[7]。同年、現地でバンクーバー朝日が再結成された[8]


2017年
2月21日に放送された『世界の村で発見!こんなところに日本人』にて、賀来千香子がカナダにある小さな町カムループスを訪れ、ケイ上西こと上西功一と対面し、当時のエピソードを伺った。上西は2017年2月時点で95歳で、朝日の選手としては最後の存命者でもある[9]

脚注
1. a b c d e 私のカナダ物語 元『朝日軍』選手 ケイ上西(かみにし)さん
2. 今話題の映画「バンクーバーの朝日」 - 函館太洋倶楽部公式HP、2015年1月12日
3. 『バンクーバー朝日軍』漫画化決定小学館取材班がバンクーバーで現地取材 - JB PRESS、2012年6月25日配信
4. バンクーバー朝日軍の栄光(2013年4月25日時点のアーカイブ) - 東京新聞、2009年7月2日
5. 2009年に東峰書房より新装版が出る。
6. 日本民放クラブ2011年1月25日発行「民放クラブ」第100号28ページ「MY BOOK」欄
7. バンクーバーの朝日 シネマトゥデイ
8. “伝説の日系人球団再結成、カナダ 94年ぶり来日へ”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2015年2月18日). オリジナルの2015年4月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150402095002/http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015021801000925.html 
9. 世界の村で発見!こんなところに日本人 - gooテレビ番組(関西版),2017年2月21日

参考文献
・名古屋多文化共生研究会 第7回研究会(2004)[要文献特定詳細情報]

関連項目
日系カナダ人

カナダ野球殿堂

フレスノ野球団

バンクーバー朝日軍 - 原作/デッド・Y・フルモト、作画/原秀則による漫画

外部リンク
Virtualmuseum.ca(日本語あり)

Sleeping Tigers Film(英語)

テッド・Y・フルモトのバンクーバー朝日軍 - ウェイバックマシン(2013年8月6日アーカイブ分)

小学館コミック - バンクーバー朝日軍
(wikiより)

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纏 ( まとい ) 。


それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまでいわれていました。


この公園は、大震災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。


その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。

( 現在 社団法人 江戸消防記念会のもとに、11区 89組あり この纏は、第 6区 7番組のものをもとにしています。)
(碑文より)

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明治 28年頃の建碑。


東京書籍出版組合有志が建てたもので、碑主・長尾は活版印刷に功績があった人のようだ。


土方久元篆額。久米邦武撰文。櫻井能監書。

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