本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/11

成島 稼堂(なるしま かどう、享和2年(1802年) - 嘉永6年11月11日1853年12月11日))は、江戸時代儒学者。諱は良譲。字は倹卿。号は筑山・稼堂・秋榭。通称は桓吉、後に桓之助。

略歴
江戸幕府奥医師杉本宗春院の子に生まれ、成島東岳(成島司直)の養子となる。

養父とともに幕府奥儒者を務め、『後鑑』の編纂や『御実紀』副本作成を行った他、『南山史』『列国譜』『堀河百首』(和歌集)などを著した。

天保の改革
の挫折後に父とともに一時失脚するが、『御実紀』副本作成などが評価されて、嘉永4年(1851年)に奥儒者に復している。

父に先立って没し、子の成島柳北(養子説もある)が後を継いだ。

参考文献
・山本武夫「成島筑山」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4
(wikiより)

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佐々木 一(ささき はじめ、嘉永4年6月4日1851年7月2日) - 大正15年(1926年5月24日)は、新選組隊士(第三部隊)。

生涯
嘉永4年(1851年)、彦根藩士・小川友八(丞右衛門)の三男として生まれる(並河一の戸籍より)。


その後、清水家目付役・中山敬二郎の養子になったとされる

新選組入隊
京の治安維持に携わった新選組に入隊し、佐々木一と称した。なお、入隊時期は、慶応3年(1867年12月頃の隊士名簿『京都ヨリ会津迄人数』に局長附人数として記録されていることによって、慶応3年(1867年)6月10月頃と考えられている。


慶応4年(1868年1月鳥羽・伏見の戦いを経て、江戸に帰還。

3月1日には甲陽鎮撫隊として出陣し、6日の勝沼の戦(甲州勝沼戦争)に奮戦した。その時の活躍は以下のとおりである。


谷(神平衛)、軍卒を一所に集合し、改陣して近藤勢の背後より、筒口を揃えて発砲す。あたかも三面攻撃となり、いかに豪雄の新選組も前後に敵を引き受け、尚、また岩崎山より打ち出す側面攻撃に絶体絶命す。このとき、彦根藩士・佐々木一は敵中に斬り込み、当たるを幸い斬り立て血路を開きたり。

                   野田市右ヱ門『柏尾坂戦争記』


江戸敗走後は会津に移り、5月1日白河口の戦いに負傷した。『中島登名簿』に「辰五月朔日白川にて手負」などがある。左肩の貫通銃創による負傷のため離戦したかは、5月に作成された『会津三代在陣者名簿』には確認されていない。


また、箱館戦争に共に戦った間宮魁の人名簿『箱館脱走人名』には「一本木にて傷」とあるが、白河口と一本木関門については誤認であるものと思われる。白河口で負傷した左肩の貫通銃創については、子孫・並河一正氏の貴重な証言が残っている。「戦闘中で負傷した左肩の貫通銃創の写真はあったが、残念なことに可燃ゴミと一緒に燃やした。弾丸の貫通した傷は小さかったが、弾丸の突出した背中の傷は大きかったことは間違いないと記録している。」身体に刻み込まれた傷跡は、彼の獅子奮迅ぶりと勇猛果敢さを生涯にわたって証明し続けたと証言されている。


8月21日の母成峠の戦いに敗戦し、仙台榎本武揚旧幕海軍に合流して蝦夷地に移り、第三部隊に所属する。それ以前には西組一番の一員として市中警備の任務であったことは記録されている。 明治2年(1869年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃では、一本木に戦場するが負傷。その後、弁天台場に籠城したが、15日に降伏する。弘前の薬王院に収容された際の名簿が残っている。


放免後の明治4年(1871年1月29日吉村一策村上一とともに勝海舟を訪問。テレビン油製法に関する『海舟日記』には「元新徴組三人、七両遣わす」と書記されている。

明治維新後の出世・警察官
その後、幕臣の並河省三の娘・ツネの婿養子となって並河姓と名乗った。時期としては、明治5年(1872年10月27日、長男・広太郎が誕生した時期から推定されている。


明治7年(1874年2月23日新川県(現在では富山県)に「補十五等出仕」として出士、明治9年(1876年5月24日、次男・正雄が誕生する。 間宮魁の『箱館脱走人名』に「警部長となる」と記され、9月18日には石川県六等警部に任務された。 明治11年(1878年)には青森警察署長、明治13年(1880年)に野辺地警察署長、七戸警察署長、明治15年(1882年)に青森県警部、新潟県警部、新潟警察長等を歴代し、大正4年(1915年)の内務省神宮神部署静岡支署長就任を最後に、大正13年(1924年3月29日付で満期退職に伴う。


なお、並河家の家伝には新選組隊士だったことは欠落している。

晩年
大正15年(1926年)、静岡市鷹匠町に居住し、箱館戦争に関する資料の提供をしていたが、その後は宇都宮市今泉町居候の次男・正雄宅に移住した。


同年5月24日、死去。享年76。墓地は東京都豊島区雑司ヶ谷霊園に埋葬された。

参考文献
・新選組大人名事典(上・下) (新人物往来社 、2001、 解説は菊地明ほか)
(wikiより)

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垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者、国文学者

来歴
岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。1903年東京帝国大学国文科卒。東京帝国大学講師東京女子高等師範学校教授1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。


筆名として「まつみ」とも読ませた。

著書
単著
・『女子の玉づさ 習字兼用』中村春堂 (梅太郎) 書 精華堂 1911

・『石叫ばむ 国民生活』不老閣書房 1919

・『国語の力』不老閣書房、1922 国文学習叢書

・『国語教授の批判と内省』不老閣書房、1927・め『絵と文 作文学習』新泉社、1928

・『国文学体系』不老閣、1930

・『形象と理会 小学国語読本』文学社 1933

・『国語教育の理論と実践』不老閣書房 1933

・『実践解釈学考』不老閣書房、1933

・『国語教育科学 独立講座』全5巻 文学社 1934

共編著
・『現代文学』編 尚文堂 1921 国文学大系

・『近代文学』編 尚文堂 1922 国文学大系

・『国語読本文意の研究』土方義道共著 不老閣書房 1925

・『国文鑒』編 文学社 1926

・『読方教授の理論と実際 国語読本』斎藤栄治共著 目黒書店 1926
・『現代文鑑』編 明治書院 1928

・『女子現代文鑑』編 明治書院 1928

・『赫映姫篇』斎藤清衛共編 星野書店 1929 日本文学読本大系

・『兼好抄』斎藤清衛共編 星野書店 1929 日本文学読本大系

・『楠公父子篇』斎藤清衛共編 星野書店 1929 日本文学読本大系

・『標準漢和辞典』後藤朝太郎共編 正和堂書房 1929

・『秋成抄』斎藤清衛共編 星野書店 1930 日本文学読本大系

・『清盛篇』斎藤清衛共編 星野書店 1930 日本大学読本大系

・『国文学書目集覧』毛利昌共著 明徳堂 1930

・『俊寛篇』斎藤清衛共編 星野書店 1930 日本文学読本大系

・『真淵抄』斎藤清衛共編 星野書店 1930 日本文学読本大系

・『正徹本徒然草』川瀬一馬 校 文学社 1931 古典叢刊

・『文と絵の焦点 小学国語読本巻二学習指導』高橋喜藤治共著 育英書院 1933

参考
コトバンク:垣内松三とは

・『日本近代文学大事典』講談社、1984 

関連項目
青山なを(東京女子大学の教え子)
(wikiより)

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井上 正直(いのうえ まさなお)は、江戸時代後期の大名老中遠江国浜松藩主、上総国鶴舞藩主。官位従四位下河内守侍従。鶴舞藩知事。浜松藩井上家10代。

略歴
天保8年(1837年)10月29日、上野国館林藩主(のち浜松藩主)井上正春の四男として誕生。


奏者番
寺社奉行を経て、老中を都合2期務める。慶応2年(1866年)の第二次長州征討では14代将軍・徳川家茂に従軍し上洛した。


明治元年(1868年)、徳川家達駿府移封に伴い上総鶴舞に所領を移された。

年表
※明治5年までは旧暦。
1837年(天保8年) 10月29日、館林藩主・井上正春の子として生誕


1847年弘化4年)2月21日、正春死去、同年4月22日、藩主を襲封。


1851年嘉永4年)12月16日、従五位下・河内守に叙任。


1858年安政5年)10月9日、幕府の奏者番となる。


1861年文久元年)3月8日、寺社奉行を兼帯。


1862年(文久2年)閏8月23日、幕府組織改革により、奏者番を廃止。寺社奉行は留任。 10月9日、老中に異動。10月24日、従四位下に昇叙。河内守如元。 12月28日、侍従に遷任。河内守の兼帯如元。


1863年(文久3年)2月12日、外国御用取扱を兼帯。


1864年元治元年)7月8日、外国御用取扱を御役御免。 7月12日、老中を御役御免。江戸城中の席次は従前通り、雁の間詰。


1865年慶応元年)11月26日、老中に再任し、外国御用取扱を兼帯。


1866年慶応2年)6月19日、勝手入用掛を兼帯。

1867年(慶応3年)5月12日、外国御用取扱並びに勝手入用掛の御役御免。6月17日、老中御役御免。 江戸城中での席次は溜間詰となる。


1868年(明治元年) 戊辰戦争では朝廷に恭順。9月23日、上総鶴舞に転封。


1869年(明治2年)6月19日、版籍奉還し、鶴舞藩知事となる。

1871年(明治4年)7月14日、 廃藩置県により知藩事を免官


1904年(明治37年)3月9日、死去。享年68。

系譜
・父:井上正春(1805-1847)

・母:不詳

・正室:芳 - 松平忠固の娘

・継室:板倉勝明養女 - 板倉勝殷の長女

・生母不明の子女

  ・男子:井上正英

  ・次男:井上正詮

  ・女子:井上正義正室

参考文献
・大日本近世史料「柳営補任」、「増補 幕末明治重職補任 附諸藩一覧」東京大学出版会、「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版など。
(wikiより)

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井上正直

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夏目成美 ( なつめ - せいび )


生年: 寛延 2. 1. 10 ( 1749. 2. 26 )
没年: 文化 13. 11. 19 ( 1817. 1. 6 )


江戸中期の俳人。


名は包嘉。幼名、伊藤泉太郎。


通称 : 井筒屋八郎右衛門 ( 5代目 )隠居して、儀右衛門と改称。初号八良治。別号、随斎、不随斎など。


伯父の祇明 ( 寛延 1年 10月 4日没 ) は、点取俳諧の弊風を離れて蕉風を志向した四時観連のひとり。


成美は、この祇明の生まれ変わりということで、3歳になるまで父の実家・伊藤家に預けられた。


16歳で、江戸蔵前の札差・井筒屋の家督を継ぐ。


18歳で痛風を病み、その時以来右足の自由を失う


父 ( 俳号宗成 )、母、弟 ( 吟江 )、父の弟 ( 福来 ) らなど、一族挙げて俳諧を能くし、成美も早くから俳諧に親しんだ。


自ら「俳諧独行の旅人」と称し、一定の流派に属さないまま、2世 ( 仲 ) 祇徳、大島蓼太、加舎白雄、加藤暁台、高井几董らと交わり、小林一茶に対してはパトロン的立場にあった。


家業の余技として俳諧を楽しみつつ、「後の月葡萄に核の曇りかな」、「魚くふて口なまぐさし昼の雪」といった都会的で清雅な句を詠み、与謝蕪村と同じく去俗の俳論を提唱した。


同時に、松尾芭蕉の追悼や顕彰に協力、寄与している。


売名虚名にも迷わなかった彼は、人格円満で多くの人に慕われ、おびただしい数の序跋を与えている。


<参考文献>石川真弘編『夏目成美全集』

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田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日[1]1839年11月20日) - 1904年明治37年)2月4日[2])は、日本医学者。字は士行、号は節堂[3]

経歴
武蔵国埼玉郡小野袋村(現在の埼玉県加須市)出身[3]。医師の家に生まれ、江戸に出て佐藤一斎塩谷宕陰のもとで漢学を学んだ[3]。その後、林洞海のもとで蘭学を学んだ[3]1862年文久2年)より下野国佐野で開業[3]1869年(明治2年)、大学東校に入り、ウィリアム・ウィリスらについて化学解剖学生理学を学んだ[3]東京医学校教授、東京大学医学部教授、東京帝国大学医科大学教授を歴任[1]1887年(明治20年)、ドイツに留学し、翌年に医学博士の学位を得た。

著書
・『解剖攬要』(英蘭堂、1881年)

脚注
1. a b 東京帝国大学医科大学教授医学博士田口和美特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110142100 
2. 『官報』第6178号、明治37年2月8日。
3. a b c d e f 日本現今人名辞典 1903.
4. 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
5. a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、242頁。(ページ番号記載なし)

参考文献
・「東京帝国大学医科大学教授医学博士田口和美特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110142100 

・『日本現今人名辞典 第3版』日本現今人名辞典発行所、1903年。
(wikiより)

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田口和美

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山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1986年10月14日)は、日本の理論物理学者東京大学名誉教授理学博士(東京帝国大学、1938年)。従三位勲二等旭日重光章に叙される。神奈川県生まれ。祖父は山内堤雲(六三郎)。

活躍
東京大学理学部物理学教室の運営に力があった。

・特に群論を使った原子構造の解明などに業績を残し、1956年に「原子スペクトル理論への群論の応用」で日本学士院賞を受賞した。

・その著書「一般力学」(岩波書店)は研究者の卵のための力学教科書として、また「回転群とその表現」(岩波書店)は物理研究者のための群論としていずれも令名が高い。

小柴昌俊の大学院時代の恩師でもある。

略歴
府立一中一高を経て、

・1926年3月:東京帝国大学理学部物理学科卒業

・1926年4月:東京帝国大学理学部助手

・1927年:東京高等学校教授(1931年3月まで)

・1929年2月:東京帝国大学工学部講師

・1929年3月:東京帝国大学工学部助教授

・1942年4月:東京帝国大学第二工学部教授

・1949年4月:東京大学理学部教授(原子物理学第一講座)

・1959年10月:東京大学理学部教授(核反応講座) 理学部長(1961年10月まで)

・1963年3月:定年退官 

・東京大学退官後、上智大学理工学部教授

・1963年5月:東京大学名誉教授

・1972年:叙勲二等旭日重光章

・1986年:叙従三位

著作
単著
『一般力学』岩波書店、1941年。

・『量子力学概論』第1、河出書房〈物理学集書6〉、1947年。

・『廻転群及びその表現論』AKADEMEIA PRESS、1948年。

・『量子力学概論』第2、河出書房〈物理学集書18〉、1949年。

・『代数学及幾何学』第1巻、河出書房〈応用数学〉、1949年、6版。

・『物理数学』岩波書店〈岩波全書 第123〉、1950年。

・『量子力学概論』河出書房、1951年。

・『代数学および幾何学』基礎編 第1巻、山内恭彦、小谷正雄編、共立出版〈応用数学叢書〉、1956年。

・『回転群とその表現』岩波書店、1957年6月。ISBN 4-00-005146-6

・『一般力学』岩波書店、1959年4月、増訂第3版。ISBN 4-00-005020-6

・『物理数学』岩波書店、1963年。

・『科学と人生』講談社〈講談社現代新書〉、1966年。

・『量子力学』培風館〈新物理学シリーズ4〉、1968年。

・『雑叢 一物理屋の随想』岩波書店、1970年。

・『現代科学論 ある物理屋の見た世界』筑摩書房〈筑摩総合大学〉、1970年。

・『逸遊雑記』岩波書店、1977年6月。


・『物理数学へのガイド』サイエンス社、1977年12月。

共著・編著・共編著
『物理学コント集 趣味の物理学』第1、山内恭彦編、広文館、1948年。

・『最近物理学の諸問題 寺沢寛一博士還暦記念』落合麒一郎・山内恭彦共編、岩波書店、1948年。

・山内恭彦など『数学ハンドブック』定理篇、森北出版、1950年。

・山内恭彦、末岡清市共著『解析学』誠文堂新光社〈大学理科全書〉、1952年。

・『初等物理学講座』A篇 第1、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』A篇 第2 第1、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』A篇 第3、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』A篇 第5、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』A篇 第6、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』A篇 第7、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』B篇 第2、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』B篇 第3、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』B篇 第4、山内恭彦編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』B篇 第6、山内恭彦編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』B篇 第8、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第1、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第2 第2、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第5、山内恭彦編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第6、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第7、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第9、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第10、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第11、山内恭彦編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第12、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』E編 第2、山内恭彦など編、生活百科刊行会、1956年。

・『初等物理学講座』C篇 第3、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』B篇 第5、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』B篇 第7、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』C篇 第8、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』B篇 第9、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』C篇 第13、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』C篇 第14、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』C篇 第15、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』C篇 第17、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』D篇 第1,2、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』D篇 第3、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『初等物理学講座』E篇 第3、山内恭彦など編、小山書店新社、1957年。

・『力学 大学演習』山内恭彦・末岡清市共編、裳華房、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第1 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第1 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第1 第3、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第3 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第3 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第4 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第4 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第6、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第9 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第10 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第11、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第12、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第13 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第13 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第9 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第5 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第5 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第7 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第7 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第8、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第9 第3、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』A 第10 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第1 B、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第3、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第4 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第6 A、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第6 B、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第6 C、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第7 A、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第7 B、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第7 C、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第7 D、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第7 E、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第8 A、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第9、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第10 B、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第10 C、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第11、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第12 D、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第14 B、山内恭彦など編、岩波書店、1957年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第1 A、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第2 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第2 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第2 第3、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第4 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第4 第3、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第5、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第8 B、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第8 C、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第10 A、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第12 A、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第13 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第13 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第14 A 第1、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第14 A 第2、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』B 第12 B-C、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・『岩波講座現代応用数学』付録、山内恭彦など編、岩波書店、1958年。

・山内恭彦、杉浦光夫共著『連続群論入門』培風館〈新数学シリーズ 第18〉、1960年。

・『人間と機械 心身問題シンポジウム』山内恭彦編、岩波書店、1965年。

・山内恭彦、内山竜雄中野董夫共著『一般相対性および重力の理論』裳華房〈物理学選書 第10〉、1967年。ISBN 4-7853-2310-8

・『思考とは何か 数学・物理学・工学・行動科学・心理学・哲学の側面から』山内恭彦・梅岡義貴坂本百大編、ダイヤモンド社、1970年。

・『現代科学と人間』山内恭彦編、中央公論社〈中公新書〉、1970年。

・『現代科学の方法 自然・人間・社会の認識』山内恭彦編、日本放送出版協会〈NHK市民大学叢書20〉、1971年。

・『量子物理学 大学演習』山内恭彦・武田暁共編、裳華房、1974年。ISBN 4-7853-8013-6

・山内恭彦など『文明の懐疑=ニヒリズム』二玄社〈どう考えるか1〉、1974年。

・山内恭彦など『知識と人間』二玄社〈どう考えるか2〉、1974年。

・山内恭彦など『科学というもの』二玄社〈どう考えるか3〉、1974年。

・山内恭彦など『悪と死=倫理の課題』二玄社〈どう考えるか4〉、1974年。

・山内恭彦など『近代の成立と中世』二玄社〈どう考えるか5〉、1975年。

・山内恭彦など『中国今昔』二玄社〈どう考えるか8〉、1976年。

辻内順平ホログラフィー』山内恭彦・小谷正雄高橋秀俊編、裳華房〈物理学選書22〉、1997年11月。ISBN 4-7853-2323-X

上田和夫大貫惇睦共著『重い電子系の物理』山内恭彦・小谷正雄高橋秀俊編、裳華房〈物理学選書23〉、1998年10月。ISBN 4-7853-2324-8

詳しいことは、「山内恭彦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%81%AD%E5%BD%A6
(wikiより)



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吉田 茂八(よしだ もはち)は、江戸時代豊平川左岸の渡守であり、札幌開拓初期の人物である。

来歴
1825年文政8年)、北海道福山の荒物屋の三男として生まれる[1]


吉田は、1857年安政4年)に箱館奉行によって銭函千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により豊平川渡守となる。


『荒井金助事蹟材料』によれば、1858年(安政4年)から1861年文久元年)の間に、発寒番所の足軽・亀谷丑太郎が荒井金助に上申して吉田を取り立てたとされる[1]


1870年
明治3年)には後の創成川の上流部にあたる南3条から南6条の間の掘削工事を請け負い、その区間は「吉田掘」と呼ばれるようになった[2]


1871年(明治4年)、戸籍を福山町から東創成町5番地(後の札幌市中央区南1条東1丁目2番地)に移す。建設請負業はいたって好調であり、1873年(明治6年)1月から6月15日までの経済動向を収録した『総高取調』の請負渡世部門9万円のうち、吉田1人で1割を占めていた。約1300平方メートルの広い宅地には、家族3人に加えて奉公人12人を抱えていたという[2]


その後の吉田について詳しいことはわかっていない。孫娘「ラク」の戸籍謄本には1920年大正9年)7月5日に隠居の届出をした旨が記されているので、少なくとも95歳ごろまで生きていたらしいが判然とせず、1952年昭和27年)2月4日付で「年月日及び場所不詳死亡」として除籍された[2]


1981年(昭和56年)、吉田茂八碑顕彰保存会によって南4条東4丁目の豊平橋園地(位置)に「札幌開祖吉田茂八碑」が建てられた[1]


碑文には吉田が南部生まれとあるが、これは同名の別人と混同したためであるらしい[1]

参考文献
・片岡秀郎『札幌歴史散歩』ヒルハーフ総合研究所、2012年7月14日。ISBN 978-4-9906400-0-2

脚注
1. a b c d 片岡 2012, p. 120.
2. a b c 片岡 2012, p. 121.

関連項目
志村鐵一 - 豊平川対岸の通行屋を管理した。
(wikiより)

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新田邦光 ( にった - くにてる )


生年: 文政 12. 12 .5 ( 1829. 12. 30 )
没年: 明治 35. 11. 25 ( 1902 )


幕末明治期の神道家、神道修成派の教祖。


阿波国 ( 徳島県 ) 美馬郡生まれ。


先祖は新田 ( 脇屋 ) 義助と伝えられる。


幼時よりきわめて聡明であり、7歳で論語を読んだという伝えがある。


「我国は神国たり、民は神孫たり」との考えを抱き、神道を盛んにして人民を教導しようという志を立てる。


明治 1年 ( 1868 ) に神祇官御用掛となるが、同年、飛騨国 ( 岐阜県 ) 取り締まりに当たった際、一時忍藩に幽閉され、以後、宗教活動に専念。


同5年に教導職。


翌年 8月、門人を集めて神儒習合の修成講社を組織。


同 9年には、これが神道修成派として一派独立、その初代管長に就任した。


<著作>『教道大意』『回天策用行録』『軍備将略』

<参考文献>井上順孝『教派神道の形成』

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岡崎春石 ( おかざき - しゅんせき )


漢詩人。

東京生まれ。


名は壮太郎。

父は幕臣・岡崎規遵。


詩を大沼枕山に、文を依田学梅に学ぶ。

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鳴海要吉 ( なるみ - ようきち )
( 1883 - 1959 )

明治 - 昭和時代の歌人。
 
明治 16年 7月 9日生まれ。


38年上京し、田山花袋 ( かたい ) の書生となる。


のち青森師範第二講習所に学び、郷里の青森県で一時小学校教員を務める。


42年口語短歌「半島の旅情」を発表、大正 15年口語歌誌「新緑」を創刊した。


昭和 34年 12月 17日死去。76歳。


号は帆羊、漂羊、うらぶる、浦春。歌集に「やさしい空」「歌を作る人」など。
 
【格言など】あきらめの旅ではあった 磯の端末 ( さき ) の 白い灯台に 日が映して居た (「やさしい空」)

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千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本演出家俳優東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。

略歴
東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)ドイツ語科在学中から土方与志の舞台美術研究所に通い始める。1922年大正11年)に府立一中卒業後、早大独文科聴講生を中退して演劇の道に入る。関東大震災後の1924年、土方与志、小山内薫らによる築地小劇場の第一期研究生となり、第1回公演の『海戦』で初舞台を踏んだ。1926年村山知義佐野碩らと前衛座を結成した。


1927年
昭和2年)にドイツへ渡る。渡欧前の4月29日松平里子田谷力三、壇治衛(ジェームス・ダン)、石井漠石井小浪、人形座、前衛座が出演して千田是也を送る会が築地小劇場で開催された[2]。ドイツのラインハルト演劇学校に入学し演劇を勉強。卒業後、ドイツ共産党に入党した。ベルリンでは同じくドイツ共産党員となった元東京帝大医学部助教授の国崎定洞らとともにドイツ共産党日本語部を設立。「ベルリン反帝グループ」とよばれる在独日本人メンバーの一人として活動し、小林多喜二の『一九二八年三月十五日』など日本のプロレタリア文学をドイツ語訳している[3]


1931年
、現地で結婚したドイツ人女性・イルマとともに帰国(後に離婚)。同年に東京演劇集団を結成し、ブレヒト作『三文オペラ』を翻訳した『乞食舞台』を第一回公演として上演した。1934年には新築地劇団に参加し演出・俳優の両方で活躍し、左翼演劇のリーダー的存在となった。1940年5月、新築地劇団を脱退。同年8月19日の新劇弾圧により治安維持法などで検挙され、拘留された。1942年に出獄し、女優の岸輝子と結婚。また、築地警察署で拷問死した小林多喜二の遺骸を引き取り、デスマスクを製作した[3]


1944年
東野英治郎小沢栄太郎青山杉作らと俳優座を創立、亡くなるまで同座代表を務めた。1949年に俳優座養成所、1954年に俳優座劇場を開設し、俳優座のリーダー的存在として活躍した。


千田が新劇界に与えた功績はとても大きいものであり、西欧の近代劇や古典劇の上演の基盤をつくるとともに、日本の現代演劇において最初のまとまった実践的な演技論でリアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」(1949年)を著して、近代的な演技術・俳優術を理論化した。また、ベルトルト・ブレヒトの戯曲を翻訳紹介・上演も行なった。


テレビドラマへの出演はほとんど皆無に等しいが、1940年代から1970年代頃まで約100本の映画に出演している。


1979年
ドイツ民主共和国芸術アカデミーの会員となった。1987年にはチェルノブイリ原子力発電所事故を扱った『石棺』を演出した。


1994年
12月21日、肝臓癌のため東京都港区済生会中央病院で死去[1]。90歳。その2日前に国崎定洞生誕100周年の集いに出席したのが公の場に姿を見せた最後の機会であった[4]


1998年から、毎日芸術賞で目覚ましい活躍をした演出家に与えられる「千田是也賞」が設けられた。

人物・
関東大震災直後に、千駄ヶ谷において自警団朝鮮人と間違われ暴行された経験があり、芸名をつける際にこの体験から「千駄ヶ谷でコーリア」をもじって「千田是也」とした[5]。その際、先輩の土方与志が「朝鮮とコーリャン(高麗)」を文字ってつけた、とする説もある[6]。友人であり築地小劇場の創立同人である浅利鶴雄によると、ほとんどの人が「これや」と呼ぶのに対し、本人は「これあ」と発音していたという[5]。一方、東宝の助監督である梶田興治が「これやさん」と呼びかけたところ「これなりです」と訂正された[7] など、「これなり」と読むのが正しいとする意見もある[8]


1950年代の東宝特撮映画に多数出演していたが、特技監督の中野昭慶によれば千田は「特撮大好きおじさん」だったといい、SF・特撮映画の企画があると、当時助監督だった中野に、熱心に出演オファーを出してきたという[9]。孫の中川安奈も『ゴジラvsキングギドラ』で主演を務めている。 春日太一は、「1963年公開の『真田風雲録』で、ポニーテールにホットパンツ、網タイツというくノ一のビジュアルイメージを演出した」と話している。[10]

家族
・父:伊藤為吉(建築家)

・長兄:伊藤道郎(舞踏家、子に歌手・俳優のジェリー伊藤

・二兄:伊藤鉄衛(建築家)

・三兄:伊藤祐司(オペラ歌手)

・四兄:伊藤熹朔(舞台美術家)

・・六弟:伊藤貞亮(建築家)

・七弟:伊藤翁介(作曲家)

・長姉:嘉子(陸軍大将・古荘幹郎の妻)

・二姉:あい子(3代目阪東壽三郎の妻)

・三姉:暢子(画家・中川一政の妻)

・最初の妻:イルマ(ドイツ人、1939年に帰国した)

・子:モモコ(モモコと中川晴之助(中川一政と暢子の子)の子供が女優の中川安奈

・2番目の妻:岸輝子1942年に結婚)

役職
劇団俳優座代表

桐朋学園大学短期大学部 芸術科教授

日本演出者協会 理事長

日朝友好協会 副会長

日本演劇協会 常務理事

日本中国文化交流協会 常任理事(1956年に千田、井上靖團伊玖磨らが結成)

ブレヒトの会 主宰(1970年)

日本劇団協議会 初代会長(1992年 - 1994年)

受賞
芸能選奨(1952年)

毎日演劇賞 演出部門(1952年、1958年)

テアトロン賞(1957年)

週刊読売新劇賞(1958年)

芸術祭賞(1959年)

朝日賞(1977年)

芸能功労者(1979年)

出演
映画
空想部落(1939年、南旺映画) - 横川大助

女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 武田正憲

・わが恋は燃えぬ(1949年、松竹) - 稲垣大助

・真昼の円舞曲(1949年、松竹) - 坂崎義樹

・深夜の告白(1949年、新東宝)

風にそよぐ葦 後編(1951年、東横映画) - 楠見

善魔(1951年、松竹) - 北浦剛

恋人(1951年、東宝) - 父恵介

慟哭(1952年、新東宝) - 五味晃

加賀騒動(1953年、東映) - 前田土佐

・韋駄天記者(1953年、東映) - 市岡教授

旅路(1953年、松竹) - 瀬木博士

・広場の孤独(1953年、新東宝) - 編集局長

地獄門(1953年、大映) - 平清盛

太平洋の鷲(1953年、東宝) - 大本営陸軍大佐

思春の泉(1953年、新東宝) - 住職

女の一生(1953年、近代映画協会) - 父教信

黒い潮(1954年、日活) - 浜崎編集局長

・叛乱(1954年、新東宝) - 軍法会議判士長

・勲章(1954年、俳優座) - 三島善五郎

・女人の館(1954年、日活) - 住職

青春怪談(1955年、日活) - 奥村敬也

・うちのおばあちゃん(1955年、日活) - 佐貫博士

・新・平家物語三部作(大映)

  ・新・平家物語(1955年) - 左大臣頼長

  ・新・平家物語 静と義経(1956年) - 大江広元

・大地の侍(1956年、東映) - 神山外記

夕日と拳銃 日本篇 大陸篇(1956年、東映) - 王鳳閣

森は生きている(1956年、独立映画) - 総理大臣

月形半平太(1956年、大映) - 姉小路公知

女優(1956年、近代映画協会) - 保田

・花まつり男道中(1957年、東映) - 三本松の吉兵衛

・多情仏心(1957年、東映) - 桑木博士

大菩薩峠(1957年、東映) - 権田丹後守

美徳のよろめき(1957年、日活) - 藤井景安

・欲(1958年、松竹) - 黒河博士

陽のあたる坂道(1958年、日活) - 田代玉吉

美女と液体人間(1958年、東宝) - 真木博士

日蓮と蒙古大襲来(1958年、大映) - 重忠

大怪獣バラン(1958年、東宝) - 杉本博士

第五福竜丸(1959年、近代映画協会) - 木下博士

宇宙大戦争(1959年、東宝) - 安達博士

親鸞(1960年、東映) - 月輪兼実

松川事件(1961年) - 上村弁護人

釈迦(1961年、大映) - スッドダーナ

白と黒(1963年、東宝) - 宗方治正

五番町夕霧楼(1963年、東映) - 鳳閣寺和尚

宮本武蔵シリーズ(東映) - 本阿弥光悦

  ・宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)

  ・宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年)

徳川家康(1965年、東映) - 雪斉禅師

・スパイ(1965年、大映) - 加藤首相

けものみち(1965年、東宝) - 香川敬三

とべない沈黙(1966年、日本映画新社) - ホテルの大物

トラ・トラ・トラ!(1970年、20世紀フォックス) - 近衛文麿首相

さくら隊散る(1988年、近代映画協会) - 証言者

テレビドラマ
お気に召すまま(1962年、NETテレビ)第20話「しあわせは永遠(とわ)に」

詳しいことは、「千田是也ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E6%98%AF%E4%B9%9F
(wikiより)

2961 千田 是也

千田是也

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伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年2月24日文久4年1月17日) - 1943年昭和18年)5月9日)は、日本の建築家発明家伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。


クリスチャンであり[1]教会の建築も多く手掛けている。

来歴・人物
17歳で上京、尾崎行雄の家に寄宿し、工部大学校機械工学を学び、幸田露伴郡司成忠漢学の勉強をする。その後攻玉社に学僕として住み込み、片山潜と知り合う。22歳の時、片山とともに渡米、サンフランシスコ付近の修道会に学僕として住み込み、洗礼を受ける。学費捻出のためクリーニング店などで働き、イタリア人建築家カッペレッティ建築設計事務所製図工として働き、建築と物理学を学ぶ。1888年に帰国、日本最初のドライクリーニング店を開店した。ついでアメリカ式の家具製造を始め、さらに洋風建築の設計施工を始める。


銀座の初代服部時計店、日本博品館愛宕ホテル、本郷春木町の中央会堂(現在の本郷中央教会)、麻布教会(現在の鳥居坂教会)[2]などを建築設計する。1893年に郡司成忠が千島探検に出た際には、3時間で組み立てられるプレハブ式家屋を贈った。木造家屋の耐震・耐風化の研究や、建築用具の発明、職工徒弟の教育に力を注いだ。発明家として生涯に70近い特許をとり、和製レオナルド・ダ・ヴィンチと言われた。晩年は永久機関の開発に着手していた。


のちに東京工大田辺平学が提唱したものに先駆けて、コンクリートブロック式耐震構造から万年塀を考案、伊藤の万年塀は関東大震災に際しても破損しなかった。


伊藤のところに寄宿していた人物として、後の救世軍山室軍平がいる。

生涯
・1864年2月24日 伊勢国松坂近郊塩鼻村で宮大工の父弁治郎と母家寿(やす)の長男として生まれる[3]

・1882年 上京し、同郷の尾崎行雄宅の書生となる。工部大学校の自称「自由研究生」となり機械工学を学ぶ。菊池松軒の漢学塾で幸田露伴郡司成忠兄弟らと出会う。

・1883年 攻玉社の学僕となり、片山潜と知り合う。

・1884年 片山潜を渡米させる。

・1885年2月8日 渡米し、サンフランシスコに移住[3]

・1887年

  ・4月 帰国[3]

  ・9月 東京で日本初のクリーニング工場「伊藤組洗染所」を始める[3]

・1888年4月頃 下谷教会付属の駒込講義所(現在の西片町教会)ができる[4]。そこへ伊藤為吉が出席するようになり、受洗する[5]

・1889年

  ・3月1日 伊藤為吉が設計施工を行った、駒込教会の会堂が完成[5][6]

  ・3月25日 駒込教会の会堂で飯島喜美栄との結婚式を挙げる。司祭はチャールズ・イビー宣教師。[5]

  ・3月31日 駒込講義所が駒込教会と改められる[4]

  ・9月 伊藤建築事務所を設立する[3]

  ・11月 長女の嘉子誕生[3]

  ・芝愛宕ホテル及び5階の愛宕塔を建てる[3]

  ・麻布教会(現在の鳥居坂教会)の会堂を建てる[2]

1892年

  ・1月 長男の晃一誕生(夭逝)[3]

  ・静岡教会 2代目会堂を建てる[2][7]

  ・牛込教会堂を建てる[7][8][9]

・1893年4月13日 次男の道郎誕生[3]

・1894年 青山英和女子学校職業部[7]、日比谷の裁判所、鳥居坂の日本メソジスト教会などの工事に参加。銀座服部時計店を建てる。[3]

・1895年

  ・三男の鉄衛誕生[3]

  ・10月末ごろ 山室軍平、寄宿。

・1896年

  ・四男の裕司誕生[3]

  ・6月5日 駒込教会(西片町教会)が西片町に移転。

・1899年

  ・五男の熹朔(きさく)誕生。

  ・博品館を建てる。

・1902年

  ・1月 次女の暢子誕生[3]

  ・静岡教会 3代目会堂を建てる[10]

・1904年

  ・巻煙草包装機械を発明[3]

  ・7月15日 六男の圀男(千田是也)誕生[3]

・1905年7月7日 三女の愛子誕生[3]

・1907年2月 七男の忠雄誕生(夭逝)[3]

・1908年8月3日 八男の貞亮誕生[3]

・1911年2月26日 九男の翁介誕生[3]

・1917年3月 コンクリート製造研究所を設ける[3]

・1926年6月16日 伊藤式コンクリート製造所を独力で始める[3]

・1930年

  ・2月14日 古銅器コレクションを携えて横浜出発[3]

  ・5月27日 ロサンゼルス州立博物館で古銅器展がオープン[3]
・1932年8月25日 アメリカより帰国[3]

・1933年 大阪に「研究所」を設け、無限動力機関の発明に没頭する[3]

・1942年12月26日 妻の喜美栄、死去[3]

・1943年5月9日 大阪で没する[3]

代表建築

商業施設
・銀座の初代服部時計店(1894年 - 1921年頃)[7]

・日本博品館(1899年 - 1921年)[11]

・愛宕ホテル(1889年 - 1897年)[3][7]

・愛宕塔(1889年 - 1923年)[3][7]

第十六国立銀行[7]

第七十八国立銀行[7]

教会関係
・駒込教会(西片町教会)初代会堂(1889年 - 1896年に移転 本郷駒込東片町)[5][7]

・駒込教会(西片町教会)2代目会堂(1896年 - 1935年 現在の東京都文京区西片2-18-18)

・駒込教会(西片町教会)3代目会堂(1935年 - 現存 現在の東京都文京区西片2-18-18)

・中央会堂(現・日本基督教団本郷中央教会[7]

函館教会[7]

・相良教会堂[7]

静岡教会 2代目会堂(1892年 - 1902年に移転 現在の静岡県静岡市葵区追手町6丁目付近) [2][7]

・静岡教会 3代目会堂(1902年 - 1945年に空襲で焼失 現在の静岡県静岡市葵区追手町9丁目付近) [10]

・牛込教会堂(現・日本基督教団頌栄教会) (1892年 - 1934年?) [7][8][9]

甲府教会 2代目会堂(1891年 - 1916年 現在の山梨県甲府市中央2丁目付近) [7][12][13]

・麻布教会堂(現・日本基督教団鳥居坂教会) (1889年 - 1945年)[2][7]

弘前教会堂[7]

チャールズ・イビー宣教師邸[7]

家族
・妻 喜美栄(きみえ、1864年 - 1942年)は、動物学者で東京帝国大学教授の飯島魁の妹(1890年に結婚)。

  ・長女 嘉子(よしこ、1889年 - ?)は陸軍大将の古荘幹郎の妻[14]

  ・長男 晃一(こういち、1892年 - 夭逝)[14]

  ・次男 伊藤道郎(みちお、1893年 - 1961年)は世界的舞踊家で[14]、その妻はアメリカ人の伊藤ヘイゼル(子にジェリー伊藤)。

  ・三男 伊藤鉄衛(かなえ、1895年 - ?)は父と同じく建築家[14]

  ・四男 伊藤祐司(ゆうじ、1896年 - ?)はオペラ歌手でコスチューム・デザイナー[14][15]、妻は日系人舞踊家のテイコ・イトウ(子に伊藤貞司)。

  ・五男 伊藤熹朔(きさく、1899年 - 1967年)は舞台美術家[14]

  ・次女 暢子(のぶこ、1902年 - ?)は画家の中川一政の妻(子に中川晴之助[14]

  ・六男 伊藤圀夫(くにお、1904年 - 1994年)は千田是也として演出家・俳優で[14]、妻はドイツ人のイルマ(娘に中川晴之助の妻、孫に女優の中川安奈)と女優の岸輝子

  ・七男 忠雄(ただお、1907年 - 夭逝)[14]

・?

  ・三女 愛子(あいこ、1905年 - ?) 邦楽家。阪東壽三郎の妻[14]

  ・八男 伊藤貞亮(ていりょう、1908年 - ?)は父と同じく建築家[14]

  ・九男 伊藤翁介(おうすけ、1911年 - 2009年)は作曲家・ギタリスト[14]で妻は伊藤多津子

詳しいことは、「伊藤為吉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%82%BA%E5%90%89
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕安政4年4月23日1857年5月16日
死没明治32年(1899年5月21日
改名万之助(幼名)、定教
戒名観心院殿高誉不染寛郷大居士
墓所東京都豊島区駒込染井霊園
官位従五位正四位子爵
主君明治天皇
伊勢桑名藩知事
氏族久松松平家定勝
父母松平定猷
松平定敬
兄弟初子、定教
山岡鉄舟娘・鈴子
栄子
定晴

松平 定教(まつだいら さだのり)は、伊勢桑名藩知藩事明治時代の官僚華族。定綱系久松松平家14代。

生涯
安政4年(1857年)4月23日、藩主・松平定猷の長男として誕生した。安政6年(1859年)に父が死去したときには3歳の幼少であり、また妾腹の庶子であったため、家督は定猷の婿養子となった定敬が継ぎ、定教は定敬の養子となった。


慶応
4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで定敬が前将軍・徳川慶喜に従ったため、桑名藩は新政府と敵対することとなるが、在国していた定教は家老ら家臣の擁立もあり定敬に従わず、1月23日には新政府に降伏して蟄居を命じられた。1月28日には桑名城を無血開城し、尾張藩の管轄下に置かれることとなった。その後、謹慎が評価されて10月には桑名城に入ることが認められるが、定敬がまだ新政府軍に抵抗していたため存続の決定はなされなかった。


明治
2年(1869年)5月に定敬が新政府に降伏すると、8月15日になって従来の11万石から6万石に減封された上での桑名藩存続を新政府より許され、定教が家督を継いで知藩事となった。財政難で家臣の給与もままならず、知藩事の定教でさえ42石ほどの給与であったとされる(隣藩神戸藩知事の本多忠貫の給与は105石だった)。明治4年(1871年)、廃藩置県により知藩事職を免官された。その後、東京に移った。


明治5年(1872年)9月、就学のために横浜への寄留願いを提出する。その後、定敬と共に横浜市学校(修文館)、ブラウン塾サミュエル・ロビンス・ブラウンに英語を学んだ。明治7年(1874年)11月には定敬と共にアメリカに留学し、ニュージャージー州ラトガース大学で学んだ。明治11年(1878年)12月に日本に帰国した後、明治13年(1880年)3月からは外務省の書記官としてイタリア公使館で働いた。明治17年(1884年)の華族令子爵となる。明治21年(1888年)には式部官となった。


明治32年(1899年)5月21日に死去した。享年43。家督は定敬の四男である定晴が婿養子となって継いだ。

系譜
・父:松平定猷(1834年 - 1859年)

・母:不詳

・養父:松平定敬(1847年 - 1908年)

・正室:鈴子 - 山岡鉄舟

・生母不明の子女

  ・女子:栄子 - 松平定晴正室

・養子

  ・男子:松平定晴 - 松平定敬の四男
(wikiより)

2959 松平定教

松平定教

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⇧⇩ 松平定教墓

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⇧⇩ 奥様墓。

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山脇十左衛門
( やまわき - じゅうざえもん )


桑名藩重臣。


藩主・松平定敬が京都所司代に就任すると山脇はこれに従い在京。


定敬を補佐し、公武合体策を目指し、諸藩との折衝に当たる。


終始一貫して佐幕派の姿勢を貫き、戊辰戦争においても主戦論を唱え、徹底抗戦の行動を取った。

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⇧⇩ 山脇十左衛門墓。

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⇧⇩ 奥様墓。

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酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代後期の大名老中大老播磨国姫路藩8代藩主。雅楽頭系酒井氏21代。江戸幕府最後の大老である。

来歴
姫路藩分家の旗本酒井忠誨(5000石)の長男として生まれる。本家の姫路藩主酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。


文久
2年(1862年)5月、幕命により京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びて上洛・入京した。安政の大獄期に京都所司代に就任した若狭小浜藩主・酒井忠義は、万延元年に桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4か月間、臨時所司代の任にあたった。


京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に14代将軍徳川家茂の上洛が決定すると、常陸水戸藩徳川慶篤武蔵忍藩松平忠誠と共に江戸城留守居役を命じられる。ちょうど1年後の元治元年(1864年)6月18日に老中職を退いたが、8か月後の元治2年(慶応元年、1865年)2月1日には大老となった。そして第二次長州征討の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた尊王論に対しては「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」とし、元治元年に重臣・河合屏山を幽閉して多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている[2]


慶応3年(1867年)2月に隠居し、次弟で養子の忠惇に家督を譲る。ところが戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく江戸にいた忠績も謹慎をしていたが、憤懣やるかたない忠績は慶応4年(1868年)5月5日に江戸城の新政府軍大都督府に対して、謹慎の姿勢を貫いている徳川家の処遇への不満と共に、酒井家は徳川家譜代の家臣であり、徳川家との主従関係を断ち切ってまで朝廷に仕えるのは君臣の義に反するので、この際所領を返上したいとする嘆願書を提出する。対応に苦慮した新政府は、忠惇に替わり遠縁の伊勢崎藩主家から急遽養子に入って酒井宗家を相続した最後の藩主・酒井忠邦に忠績の翻意を促すよう命じるが、いまだ姫路藩の最高意思決定者を自負する忠績はもとより遠縁の別家から養子に入ったばかりの数え15の忠邦の言葉に聞く耳を持つ道理もなく、忠惇までもが忠績の考えに賛同する有様で埒があかなかった。立場をなくした姫路藩は新政府に迫られるままに藩内の佐幕派の粛清に乗り出し、忠績・忠惇の側近を一掃した(「戊辰の獄」)。改元あって明治元年となった直後の同年9月14日、忠績は実弟の静岡藩士・酒井忠恕方での同居が認められ、これで事態はやっと収拾された(後に忠惇もこの忠恕方に預けられている)[3]


明治13年(1880年)11月、終身華族となる。明治22年(1889年)5月には忠邦の子・酒井忠興の酒井伯爵家とは別に一家を立てることが許されて、永世華族に列して男爵を授けられた。明治28年(1895年)に死去、享年68。墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている[4][5]

経歴
文政10年6月19日1827年7月12日)、生誕


万延元年(1860年

  ・10月14日11月26日)、養父・忠顕卒去。

  ・12月9日1861年1月19日)、遺領を継ぎ、播磨姫路藩主となり、位階は四品格。座次は溜間格となる。


文久元年3月22日(1861年5月1日)、従五位下雅楽頭に叙任。同日、従四位下に昇叙し、侍従遷任。雅楽頭兼帯留任。また、溜間詰となる。


・文久2年(1862年)5月、上京し、同年9月末まで京都所司代の職務を臨時に代行する。


・文久3年(1863年

  ・6月18日8月2日)、老中に就任し、ただちに上座となる。

  ・10月11日11月21日)、勝手掛、海陸御備向掛も兼ねる。

  ・11月5日12月15日)、将軍・徳川家茂上洛に伴い、当該御用並びに御供となる。


元治元年6月18日1864年7月21日)、老中御役御免となり、溜間詰。


・元治2年(1865年

  ・1月15日2月10日)、左近衛権少将に転任。雅楽頭の兼帯留任。

  ・2月1日2月26日)、大老に就任。


慶応元年(1865年)

  ・11月12日12月29日)、大老御役御免となり、溜間詰。


・慶応3年2月28日1867年4月2日)、隠居。


明治22年(1889年3月2日、男爵を授爵。


・明治28年(1895年11月30日、死去。享年68。

栄典
1889年(明治22年)5月11日 - 男爵[6]

系譜
・父:酒井忠誨 - 御小姓組番頭

・母:不詳

・養父:酒井忠顕(1836-1860)

・正室:婉 - 本多助賢の娘

・生母不明の子女

  ・長男:酒井忠弘(1868-1936)

  ・男子:酒井光徳

  ・男子:酒井徳行

  ・四女:玉子 - 本荘宗義正室、のち離縁

  ・女子:鈴子 - 平野長祥正室

・養子

  ・男子:酒井忠敬(1848-1864) - 三宅康直の三男

  ・男子:酒井忠惇(1839-1907) - 酒井忠誨(5000石)の四男

脚注
1. 平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.639
2. 『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』176-177頁。
3. 戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』181-185頁。
4. 江戸幕府最後の大老、姫路城主・酒井忠績の墓が撤去危機 理由は…墓地の管理料滞納神戸新聞2019.2.25付(2019.2.26access)
5. 「東京都よりのお知らせ」
6. 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。

参考資料
・『柳営補任

・『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版

・『増補幕末明治重職補任・附諸藩一覧』東京大学出版会

・水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』八木書店、2011年。

・「東京都よりのお知らせ」東京都、2016年、染井霊園所在。
(wikiより)

2957 酒井忠績

酒井忠績

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濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本検事弁護士探偵小説家子爵貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけであるが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。

来歴
東京市麹町区男爵で医学博士の加藤照麿の四男として生まれる。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)・東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、第一高等学校に進学。1917年(大正6年)に一高を卒業し、翌年東京帝国大学に入学する。在学中に、枢密院議長にして元東大総長・文部大臣の濱尾新子爵の娘・操と結婚、婿養子となる。1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部を卒業する。演劇と犯罪心理を分析した研究書を多数著す。


1924年(大正13年)、東京区裁判所検事代理を命じられる。この時期、探偵雑誌「新青年」(博文館)の依頼で『落語と犯罪』、『犯罪落語考』などのエッセイを発表する。1925年(大正14年)、子爵を襲爵する。検事に任じられ、東京地方裁判所兼東京区裁判所検事局に勤務する。1928年(昭和3年)、検事を辞職し弁護士を開業する。


1929年
(昭和4年)、『彼が殺したか』を「新青年」に発表して探偵小説デビューする。これは横溝正史の誘いによるものだった(後述)。『殺された天一坊』を「改造」(改造社)に発表、『悪魔の弟子』と『黄昏の告白』を「新青年」に発表する。以降、毎年作品を発表した。


1933年(昭和8年)、書き下ろし長篇『鉄鎖殺人事件』(新潮社)を刊行する。同年、貴族院議員に当選し、以後は創作活動が停滞した。1934年(昭和9年)、『平家殺人事件』の連載を「オールクイン」で開始した。しかし元来虚弱体質であり、翌年脳溢血により40歳で急死した。長編『平家殺人事件』は未完となった。


没後の1936年(昭和11年)、『浜尾四郎随筆集』(春秋社)が刊行された。

親族
祖父は東大総長、貴族院議員などを歴任した教育家の男爵加藤弘之。コメディアンの古川緑波は実弟である。子に海軍士官の濱尾誠東宮侍従を務めた濱尾実カトリック教会枢機卿濱尾文郎がいる。

人物
趣味が広い上に多方面の才能に恵まれ、落語・演劇の通であり、洋楽の造詣が深く、清元は名取りで、日本麻雀連盟の総裁でもあった。


当時、本格派探偵小説を後押ししていた江戸川乱歩とは親しかったが、ユニークな点として両者は衆道に関する歴史的研究をも手がけており、その面の著述・考察でも親交が深かった。


乱歩と同じく、若いころから髪の毛が薄く、30代ですでにつるつるの禿頭だった。横溝正史の博文館退社の激励会では、「オデコがピカピカ」という森下雨村と並んで乱歩、浜尾の3人で「三光そろった光彩陸離」などと言われた[1]

「本格派探偵小説家」として
日本の探偵小説界でも珍しい、上流階級の司法専門家であり、その法律知識を活かした質の高い本格探偵小説作品をものしたことで知られる。

浜尾は短編ではその多くでテーマとして「人が人を裁くことの限界」を真摯に考察しており、優れた作品を残した。特に、天一坊事件を裁くことになった大岡越前守の立場から、裁く者の限界を厳しく突いた短編『殺された天一坊』(1929年)は、戦前日本の探偵小説の中でも屈指の秀作に挙げられている。

浜尾は「本格探偵小説の独自性」として、

1. 犯罪の発見
2. 被疑者の拘引(この被疑者は必ずしも1人とは限らない)
3. 名探偵の登場
4. 非常に論理的な推理に基づく捜査開始
5. 最後にその結果として真犯人暴露(逮捕とは記さず。必ずしも真犯人は捕まらず、自殺する場合があるから)


と定義づけ、「多少のヴァリエションはあっても、真の探偵小説はこの公式を出ない、否出られない」とした。


浜尾の持論はS.S.ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』に出会うことで確固たるものとなった。浜尾は「寔にドイル、ヴァン・ダインの二人は群れをなす探偵小説作家をはるかに抜くアルペンである」とし、ヴァン・ダインの「無類な理智的小説」を称揚、「私の如きは一生の中、ヴァン・ダインの諸作の一つに比すべきものを一つ書いてもそれでもういいと思っている」と述べるほどの心酔ぶりだった。


ヴァン・ダインに触発された浜尾の長編本格探偵小説執筆の念願は、1931年に発表した『殺人鬼』でついにかなった[2]。「元・東京地方裁判所の鬼検事」の私立探偵・藤枝真太郎がもう一人の名探偵・林田英三と鎬を削って推理闘争を繰り広げるこの作品は評判となり、以後、大衆の求めに応じて活劇調の通俗探偵小説が氾濫する傾向にあった昭和初期の時代に、論理的な本格探偵小説を追求した先駆者として、後世から評価される存在となった。


浜尾四郎と横溝正史
検事だった浜尾を文筆家として『新青年』に引っ張り出したのは、当時編集部にいた横溝正史だった。きっかけは、小酒井不木が手紙で横溝に「浜尾がひじょうな秀才で、かつて帝大の総長だった浜尾新の養嗣子で、子爵にして検事で、しかも探偵小説について深い造詣と関心をもっている」として、「何か氏に書いていただいたらどうか」と教示してきたことからだった。


横溝は浜尾の作品は未読だったが、当時は「探偵小説」といえば一般から侮蔑の目で見られていた時代で、そういう時代だからこそ、浜尾のような肩書きを持った現職の検事を探偵小説壇に引っ張り込むということが、探偵小説に対する一般の認識を高めるために有効なのではないかと考え、1927年(昭和2年)から1929年(昭和3年)ごろのある冬の夜に、さっそく原稿依頼に牛込の高級住宅街にあった浜尾の邸宅を訪ねた。横溝は浜尾について、子爵や検事という肩書から、いかめしい尊大な人物を想像してひそかに懼れていたが、そこに出てきたのは「鶴のごとき痩身をいたって無造作な和服の着流しにつつんだ、尊大とはおよそ正反対のいたって愛想の良い紳士」で、「とかくひとみしりをしがち」という横溝もすぐくつろいだ気持になり、小一時間も話し込み、「これほど座談のお上手なひとも珍しいのではないか」と思ったという。


横溝はその時、浜尾から一事不再理についてのトリックをいくつか教示してもらった。横溝は感心したが、深い法律的造詣が必要と思い、浜尾にこのトリックを使って作品を書くよう勧めた。横溝は「のちにクリスチーの『スタイルズの怪事件』に、そのトリックがうまく使われているのを読んで、いまさらのように浜尾さんの探偵小説的センスに敬服したものであった」と語っている。このときの依頼で浜尾が書いたのは『落語における探偵趣味』というふうな随筆だった。


横溝が浜尾と直接会ったのはそれきりで、他の雑誌に移ったため、それ以上親しくするチャンスを失った。「のちに、たとえ時期をへだててもおなじ本格探偵小説に肝胆を砕くようになったふたりなのだから、もっと深く謦咳に接しておくべきだったと、いまにして思えば残念でならない」と浜尾を偲んでいる[3]


この初対面時に、浜尾は横溝に、小冊子大の和綴じの春本を見せた。それは多数の男たちの一人の女に対する集団強姦を描いた「世にもえげつない場面の連続」で、筆致からすぐ責めの研究家として有名な某画伯を連想したが、「エロを通りこしてグロもよいところ」で、当時20代の横溝も「春情をそそられるどころか、腹の底が固くなるようなグロ・シーンの連続だった」という。実はこれは検事である浜尾が事件で押収した物件で、『新青年』から若い記者が来るからと、反応を試そうとわざわざ持ち帰っていたものだった。横溝が「腹の底をかたくしながら、負けおしみもてつだって最後まで見おわると」、「いたずらっけの強い検事先生」はその小冊子を取り上げ、「ひどいですね」と言いながら、「まるでやさしいメフィストフェレスみたいな顔をして、にこにこと笑ったものである」という[4]

詳しいことは、「濱尾四郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%B0%BE%E5%9B%9B%E9%83%8E
(wikiより)

2955 濱尾四郎

濱尾四郎

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岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日1864年2月10日) - 昭和13年(1938年5月30日)は明治から昭和の日本の医師医学者


帝国大学
耳鼻咽喉科学における初代の正教授[1]。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。

生涯
・文久4年(1864年)、伊予国新居郡本町(現・愛媛県西条市本町)に生まれる。

小学校卒業後、西條町病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。


明治22年(1889年)、帝国大学卒業。(まだ当時は帝国大学は一つしかなく、「東京」は冠していない)


・明治23年(1890年)、故郷西條町へ久方ぶりに帰郷。愛媛県で初めて帝大医学部を卒業した岡田を祝し、近隣の家々には提灯が出され、歓迎の花火が上がり、泊りがけで近郊の町村から人々が集まった。そしてこの歓迎する民衆の中に当時11歳の眞鍋嘉一郎がいた。


・明治28年(1895年)、帝国大学助教授就任。


・明治29年(1896年)、ドイツ並びにオーストリア留学


・明治32年(1899年)、留学を終え帰国。


・明治35年(1902年)、東京帝国大学教授就任(東京帝大耳鼻咽喉科学教室初代教授)。大日本耳鼻咽喉科会総会会頭就任。同仁会初代理事長(初代会長は長岡護美、評議員に北里柴三郎等)。


・明治38年(1905年)、能楽師初世梅若実に上野音楽会を開催を依頼。


大正5年(1916年)、第一回日本医師会総会が開催される。会長北里柴三郎、副会長岡田和一郎。


・大正13年(1924年)、東京帝国大学退官。


・大正15年(1926年)、大日本耳鼻咽喉科会総会会頭退任。


昭和3年(1928年昭和医学専門学校設立に伴い、初代校長に就任。


・昭和13年(1938年)、5月12日、昭和医専で講義を終えた後、体調が良くなく臥せる。主治医眞鍋嘉一郎が診るが、5月30日逝去。享年74。


・妻は榊俶榊保三郎らの妹。


6月3日の告別式には東大総長長與又郎を始めとして、三千数百人の会葬者が集まる。


平成17年(2005年)、東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室に岡田和一郎賞が創設される[2]


栄典
1912年(大正元年)12月18日 - 勲三等瑞宝章[3]

1923年(大正12年)12月28日 - 従三位[4]

1924年(大正13年)4月15日 - 正三位[5]

主な著作
・耳・鼻・咽喉

・社会政策と地方衛生機関の大改革

・日本と歐米との醫療器械の比較

・『鼻科学纂録』編 南江堂 近世医学叢書 1911

・『咽喉気管病纂録』編 南江堂 近世医学叢書 1912

・『耳科学纂録』南江堂 近世医学叢書 1912

・『国語科学講座 音声生理学』明治書院 1934

・『黎明期の日本医学』東亜公論社 1941

伝記
梅沢彦太郎編『岡田和一郎先生伝』日本医事新報社、1943 大空社 1998

脚注
1. 日本耳鼻咽喉科学会『日本耳鼻咽喉科学会史』2005年、p1、日本耳鼻咽喉科学会公式サイト(2009年9月5日閲覧)。
2. 加我君孝『教授室だより』第6号、2005年4月、東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室公式サイト(2009年9月5日閲覧)。
3. 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
4. 『官報』第3416号「叙任及辞令」1924年1月15日。
5. 『官報』第3509号「叙任及辞令」1924年5月7日。

関連項目
岡田清三郎 養嗣子

同仁会

外部リンク
西条石鎚ライオンズクラブ、11ページ、金子元太郎と真鍋嘉一郎
(wikiより)

2954 岡田和一郎

岡田和一郎

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古市 公威(ふるいち こうい[注 1]嘉永7年閏7月12日[3]1854年9月4日) - 昭和9年(1934年1月28日)は、日本学者工学博士帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長[4]東京帝国大学名誉教授男爵


帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。

来歴

幼少期からパリ留学まで
古市公威は、姫路藩士・古市孝の長男として1854年(嘉永7年)に江戸の藩屋敷で生まれた。1869年(明治2年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学し、1870年(明治3年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。1873年(明治6年)には開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)、諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領している。

帰国後
帰国した古市は1880年(明治13年)12月、内務省土木局雇いとなり、内務技師として現場で勤務するかたわら、翌年には東京大学講師を兼任することとなり、以後、官僚技術者と大学教官の二足の草鞋をはいた。


1886年
(明治19年)5月1日には32歳にして帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長に就任[5]

また、初代文部次官辻新次らと同年5月に仏学会(日仏協会の前身)、同年11月に東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学の前身となる)を設立し、東京仏学校の初代校長にも就任した[2]。1890年(明治23年)9月29日、貴族選議員に勅選[6]1894年(明治27年)には内務省の初代土木技監に就任して、土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上・行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威とされる。東京都文京区本郷2丁目に現存する1887年(明治20年)頃建てたと思われる古市の旧居は、住宅および蔵が2003年(平成15年)3月、国の登録有形文化財となった。


古市は、内務省が軌道条例を鉄道作業局(帝国鉄道庁から鉄道院を経て鉄道省へ改組)と共同所轄していた関係から、日本初の都市間高速電車(インターアーバン)となった阪神電気鉄道の成立にも関与している。本来、軌道条例は馬車鉄道や路面電車など、専ら道路上を走行する交通機関を前提とした法令であり、より高規格かつ長距離を運行する高速電気鉄道への適用は想定外の事態であった。だが、既設の官鉄線との競合を理由に私設鉄道法での大阪 - 神戸間電気鉄道免許出願を鉄道作業局から却下された阪神電気鉄道による、窮余の策とも言える軌道条例に基づく路線特許出願に対し、当時逓信次官であった古市は「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との見解を示して容認した。この見解は、ほとんど併用軌道区間のない高速電気鉄道が軌道条例→軌道法を法的根拠として特許を出願する際の根拠となり、以後の日本における鉄道路線網形成にきわめて重大な影響を及ぼしている[2]


この頃から鉄道行政にも携わるようになり、1903年(明治36年)3月31日に当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道作業局の長官に就任した。彼の在任時には中央本線の開業記念式典が行われた。しかし日露の緊張が高まったこともあり、9か月で鉄道作業局長官を辞して、戦時の補給路となる京釜鉄道の官選総裁に着任して、京城(ソウル)-釜山間の速成工事の指揮を行った。日露戦争後、韓国統監府鉄道管理局の長官にそのまま留任し、韓国の鉄道整備が一段落したことを受けて1907年(明治40年)6月に長官を辞任して帰国した[2]


ヨーロッパ
の視察をして、日本にも地下鉄が必要であると考えるようになった早川徳次は各方面に実現に向けて働きかけを行い、これに対して古市は大いに支援することになった。1920年大正9年)8月29日に設立された日本最初の地下鉄である東京地下鉄道株式会社の初代社長にも迎えられている。短期間で野村龍太郎に譲っているが、1925年(大正14年)の地下鉄建設起工式では最初に杭を打っている。古市は、各種官庁への率先しての交渉や鉄道省に技術者の派遣要請など、発足したばかりの東京地下鉄道の経営に大きな貢献を行った[2]


晩年は工学系の技術者の国際会議を東京で開催したり、日仏会館理事長を務めたりしたが、1934年(昭和9年)1月28日に満79歳で亡くなった[2]


業績・人柄
古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。1905年(明治38年)、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成したが、その設計を担当したのは古市だった。


帝国大学初代総長渡邉洪基(渡辺洪基)の意向を受け、工手学校(現工学院大学)の創立(1887年(明治20年))を推進した。渡邉洪基に継ぎ管理長(1901年(明治34年))に就任、その後も含めて約30余年間にわたって学院の発展に尽力した。


古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学技術の声価を高めることに寄与した。作家・三島由紀夫の本名、“公威(きみたけ)”は、内務官僚であった彼の祖父・平岡定太郎が恩顧を受けた古市公威の名をとって命名した[7][8]


古市は慎重な学者肌の性格で、政治的な駆け引きの世界や実業界からは離れていた。能楽を趣味とし、観世流能楽師の梅若実に入門して取り組んでいた。梅若流独立騒動に当たっては、古市が調停に奔走している[2]

古市の書き残した5年間の多数の講義ノートは、克明を極め正確な上に緻密で、古市文庫として東大工学部土木工学科に現存している[9]

栄典
位階
1884年(明治17年)8月30日 - 従六位[10][11]

1886年(明治19年)7月8日 - 正六位[10][12]

1891年(明治24年)12月10日 - 正五位[10][13]

1896年(明治29年)12月21日 - 従四位[10][14]

1898年(明治31年)9月20日 - 正四位[10][15]

1915年(大正3年)6月18日 - 従三位[10][16]

1927年(昭和2年)12月15日 - 正三位[10][17]

1932年(昭和7年)12月28日 - 従二位[10][18]

勲章等
1890年(明治23年)11月1日 - 藍綬褒章[10][19]

1894年(明治27年)6月19日 - 勲四等瑞宝章[10][20]

1896年(明治29年)3月26日 - 藍綬褒章飾版・銀盃一組[10]

1897年(明治30年)1月20日 - 勲三等旭日中綬章[10][21]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[22]明治三十七八年従軍記章[10]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[10]

1915年大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[10][23]

1918年(大正7年)5月23日 - 金盃一組[10][24]

1919年(大正8年)

  ・2月11日 - 金盃一個[10]

  ・5月24日 - 金盃一組[10]

  ・12月27日 - 男爵[10]

1920年(大正9年)11月1日 - 銀盃一組[10]

1923年(大正12年)1月10日 - 御紋付銀杯[10]

1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[10]

1929年昭和4年)1月30日 - 旭日大綬章[10][25]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[10][26]

1934年(昭和9年)1月28日 - 旭日桐花大綬章[27]金杯一組[10]

外国勲章佩用允許
・1896年(明治29年)10月23日 - カンボジア王国:ロワイヤルジュカンポジュ勲章コマンドール[10][28]

1901年(明治34年)3月13日 - デンマーク王国:ヂニダネプログ勲章コンマンドールドラプルミエルクラス[10][29]

1905年(明治38年)10月20日 - 大韓民国:勲一等太極章[10]

1907年(明治40年)8月19日 - 大韓民国:皇太子殿下嘉礼記念章[10]

1916年(大正5年)5月24日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章コンマンドール[10][30]

1926年(大正15年)11月12日

  ・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[10][31]

  ・ベルギー王国:レオポール第二世勲章グランクロア[10][31]

1934年(昭和9年)1月28日 - 満州帝国大満洲国建国功労章[10]

詳しいことは、「古市公威ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E5%85%AC%E5%A8%81
(wikiより)

2953 古市公威

古市公威

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久米幹文 ( くめもと - ふみ )
( 1828 ‐ 94 ( 文政 11 ‐ 明治 27 ))


江戸末期から明治初頭の歌人、国学者。


常陸国水戸の生れ。


水廼舎 ( みずのや )、水屋等と号した。


初め本居内遠の門に入り、のち平田鉄胤に学んだ。


東京大学講師,第一高等中学校教授などを歴任した。


本居豊頴 ( とよかい )、小杉榲邨 ( すぎむら ) とともに、1886年に設立された保守系の歌文学会 ( 大八洲 ( おおやしま ) 学会 ) の会主となり、古典派歌人として重きをなした。


歌集に《水屋集》、著書に《大八洲史》等がある。

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榊 俶 ( さかき - はじめ )

生年: 安政 4. 8. 28 ( 1857. 10. 15. )
没年: 明治 30. 2. 6 ( 1897 )


明治期の精神病学者。

江戸下谷生まれ。


明治 13 ( 1880 ) 年東大医学部卒業。


卒業後、眼科の助手として同大学に勤務していたが、15年のドイツ留学の際に精神病学を専攻、ベルリン大のウェストファルに師事した。


またウィルヒョウのもとで神経系統の病理解剖を学ぶ。


さらに法医学も研究して、19年に帰国。


同年、帝大医科大精神病学教室の教授となる。


翌年に東京癲狂院 ( のちの巣鴨病院、現在の松沢病院の前身 ) で治療を開始、22年には巣鴨病院医長を兼務した。


24年、医学博士の学位を受ける。


翌 25年、東京地方裁判所医務を嘱託され、法医学的、精神病学的視点から司法鑑定を行った。


神経系統の病理をふまえた近代の精神病学の祖であり、精神病患者の権利向上に寄与した人物でもある。

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緒方 正規(おがた まさのり、1853年12月5日嘉永6年11月5日) - 1919年大正8年)7月30日)は日本の衛生学者細菌学者東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。

経歴
1853年肥後国熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京帝大医学部を卒業。


翌年ドイツマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。


1884年
に帰国。1885年には東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所に着任し、衛生試験所に細菌室を創設する。同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている[1]


1885年に脚気病原菌説を発表するが、ドイツ留学中の北里はこの学説を批判した。現在では北里の批判が正しかったことが分かっている[2]が、この事件によって、北里は東大の医学部と対立しつづけることになる。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かったが、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている[3]


1886年
帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。


1896年台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している[3]。また、ペストはネズミノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した[4]


1898年
に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員[5]、第5回日本医学会総会会頭[6]などを歴任した。

1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去[7]

親族
妻のエツ(1870年生)は石原豊貫の次女[8]。石原は農商務権少書記官で[9]パリ万国博覧会 (1878年)では内務一等属・仏国博覧会事務官を務めた[10][11]


長男の緒方規雄(1887年生)は細菌学者、次男の緒方益雄(1891年生)は衛生学者。

栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[12]

1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[13]

1911年(明治44年)6月20日 - 従三位[14]

1919年(大正8年)7月31日 - 正三位[15]

勲章等
1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[16]

1908年(明治41年)12月25日 - 勲二等瑞宝章[17]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[18]

1919年(大正8年)7月31日 - 旭日大綬章[19]

出典
1. 緒方正規”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
2. 科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例(1) 事例2>緒方正規の「脚気病菌」の発見”. 佐野研究室. 2010年7月31日閲覧。
3. a b 北里柴三郎”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
4. 北里柴三郎と緒方正規”. 2010年7月31日閲覧。
5. 物故会員一覧 (50音順) ア行”. 日本学士院. 2010年7月31日閲覧。
6. http://www.isoukai2011.jp/history.html [リンク切れ]
7. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)76頁
8. 緒方正規『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
9. 『皇典講究所講演: 第101-110号』皇典講究所, 1893年、百一の六十一頁
10. 『東洋研究, 第 73~76 号』大東文化大学東洋研究所, 1985、p99
11. 第二篇日本部第一章事務官之事仏蘭西巴里府万国大博覧会報告書. 1(仏国博覧会事務局, 1880)
12. 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
13. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
14. 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
15. 『官報』第2098号「叙任及辞令」1919年8月2日。
16. 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
17. 『官報』第7652号「叙任及辞令」1908年12月26日。
18. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
19. 『官報』第2098号「叙任及辞令」1919年8月2日。

外部リンク
博士の肖像 -東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻
(wikiより)

2950 緒方正規

緒方正規

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緒方規雄 ( おがた - のりお )
( 1887 - 1970 )

大正 - 昭和時代の細菌学者。


明治 20年 1月 28日生まれ。

緒方正規の子。


ドイツに留学後、千葉医大 ( 現千葉大医学部 ) 教授、のち東邦大、日本歯大教授。


昭和 4年にツツガムシ病のリケッチア病原体説を確立し、浅川賞、野口英世医学賞を受賞。


昭和 45年 2月 6日死去。83歳。


東京出身。

東京帝大卒。


著作に「日本恙虫(つつがむし)病」。

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榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年安政6年) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。


沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。


1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。

著書
・『脚気病ト米穀トノ原因上関係』英蘭堂 1892

・『本邦産婦ニ適当シタル産科鉗子及挽出法』島村利助 1892

・『有毒米ノ研究』丸善 1902

翻訳
・クレーデ, ヴィンケル『産婆学』編訳 樫村清徳 閲 私家版、1888-1889

・クレデー, レヲポルド『産婆学 増益刪定』編訳 私家版、1897

・マックス・ルンケ『産科精義』私家版、1898

・ツワイフェル, レヲポルド『産婆学 増益刪定』編訳 私家版、1910、1911

参考
半澤周三『光芒の序曲 榊保三郎と九大フィル』葦書房
(wikiより)

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福原 実(ふくはら みのる、1844年11月24日天保15年10月15日) - 1900年9月24日)は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍少将貴族院議員沖縄県知事男爵錦鶏間祗候

経歴
長州藩士・福原政馬の長男として生まれる。戊辰戦争に従軍し、1871年兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、陸軍大佐に任官し陸軍省築造局長となる。築造局副長心得、第4局副長、兼第3局副長、アメリカ出張などを経て、1877年3月から11月まで征討軍団砲兵部長として西南戦争に出征した。砲兵本支廠御用掛、仙台鎮台幕僚参謀長などを歴任し、1878年11月、陸軍少将に進級。仙台鎮台司令長官を勤め、1879年10月、非職となり、1888年12月、予備役に編入された。


その他、元老院議官(1882年12月 - 1887年4月、1888年9月 - 1890年10月)、沖縄県知事(1887年4月 - 1888年9月)、貴族院議員(1890年9月29日[1] - 1900年9月)を歴任した。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。1900年5月、男爵の爵位を授爵し華族となった。

栄典
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[3]

1900年(明治33年)

  ・5月9日 - 男爵[4]

  ・9月21日 - 勲一等瑞宝章

親族
・一族 福原豊功(陸軍少将)

脚注
1. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
2. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
3. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
4. 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)

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⇧⇩ 福原 実墓。

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⇧⇩ 奥様墓。

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苗木藩士。


明治二年大参事として藩政改革。


後、易学で大成。

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時代江戸時代末期 - 明治時代
生誕嘉永7年7月21日1854年8月14日
死没明治37年(1904年1月6日
墓所染井墓地
官位従五位下宮内少輔子爵
幕府江戸幕府
下総高岡藩
氏族井上氏
父母父:井上正和
正室:徳川斉昭の十二女・愛子
正言(長男)


井上 正順(いのうえ まさより)は、下総国高岡藩の最後(11代)の藩主。子爵


嘉永
7年(1854年)7月21日、10代藩主・井上正和の長男として生まれる。慶応3年(1867年)3月28日、父の隠居により家督を継いだ。


慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従う。同年5月8日、従五位下、宮内少輔に叙位・任官する。版籍奉還により高岡藩知事廃藩置県で藩知事を免職となった。


明治8年(1875年)、警視庁15等を拝命し、翌9年(1876年)には警部補に昇進した。明治17年(1884年)の華族令で、同年7月8日、子爵に叙された[1]


明治37年(1904年)1月6日、死去。享年51。

脚注1. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
(wikiより)

2941 井上正順

井上正順

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2941b

2941c

⇧⇩ 井上正順墓。

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⇧⇩ 奥様墓。

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松平 恆雄(まつだいら つねお、新字体:恒雄、1877年明治10年〉4月17日 - 1949年昭和24年〉11月14日)は、日本外交官政治家外務次官、駐大使、駐大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任した。位階・勲等は従一位勲一等[1]

来歴・人物
1877年明治10年)4月17日、旧会津藩主で京都守護職を務めた松平容保の六男として福島県会津若松市御薬園で生まれた。母は容保の側室・名賀(川村源兵衛女)。


学習院
から第一高等学校を経て、1902年(明治35年)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官及領事官試験に首席合格して外務省に入省する。


ロンドン
在勤、清国在勤を経て天津総領事、欧米局長、外務次官、駐米大使、駐英大使を歴任した。ほかにロンドン海軍軍縮会議首席全権を経験するなど、恆雄も幣原喜重郎と並ぶ親英米派外交官として知られるようになっていく。


1928年
昭和3年)、長女の節子秩父宮雍仁親王の婚約が内定する(成婚後「勢津子」と改名)。


1936年
(昭和11年)、恆雄は二・二六事件で殺害された斎藤実内大臣の後任に擬せられたが、秩父宮が岳父が青年将校の標的になることを懸念してこれに反対したため、かわって3月6日に国政に関与しない宮内大臣に任じられた[2]。それでも、恆雄は外交官としての経験を生かしてイギリス王室との宮廷外交などを模索したが、時節柄その効果は限定的だった。


恆雄は宮内大臣として9年3か月にわたり在職したが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)、アメリカ軍による5月25日の山手大空襲明治宮殿を焼失した責任を負って辞任した。


戦後
枢密顧問官に任じられる。また、一時は大命降下を目前にして公職追放になった日本自由党総裁の鳩山一郎の後継に擬せられ、恆雄本人もこれを受ける意思があることを表明したが、数日後に鳩山と直接会ってみたところまったく折が合わず、この話は立ち消えとなった。新憲法の施行を目前に控えた1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に地元会津の福島地方区から立候補して当選する。恆雄も当選後は緑風会に所属するが、すぐに初代参議院議長に選出される。議長在任中には国立国会図書館館長選任問題[注釈 1]を裁定している。


1949年(昭和24年)11月14日午後5時25分、心臓麻痺のため東京都品川区荏原七丁目524番地の自宅で急死した。17日には史上初の参議院葬が執り行われた。墓所は青山霊園にある。戒名は鷲峰院殿真月常住法恒大居士。

栄典
位階
1902年(明治35年)12月27日 - 従七位[3]

1903年(明治36年)6月20日 - 正七位[3]

1909年(明治42年)3月1日 - 従六位[3]

1911年(明治44年)9月20日 - 正六位[3]

1916年(大正5年)2月12日 - 従五位[3]

1918年(大正7年)8月30日 - 正五位[3]

1922年(大正11年)7月20日 - 従四位[3]

1925年(大正14年)1月9日 - 正四位[3]

1928年(昭和3年)2月2日 - 従三位[3]

1933年(昭和8年)2月15日 - 正三位[3]

1936年(昭和11年)3月16日 - 従二位[3]

1941年(昭和16年)4月1日 - 正二位[3]

1949年(昭和24年)11月14日 - 従一位

勲章等
1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章[3]

1911年(明治44年)8月24日 - 勲五等双光旭日章[3][4]

1916年(大正5年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章大正三四年従軍記章[3]

1919年(大正8年)6月28日 - 勲三等瑞宝章[3]

1920年(大正9年)11月1日 - 勲二等旭日重光章[3]

1924年(大正13年)5月31日 - 勲一等瑞宝章[3]

1926年(大正15年)2月10日 - 金杯一組[3]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[3][5]

1931年(昭和6年)4月11日 - 旭日大綬章[3][6]金杯一組[3]

1934年(昭和9年)4月26日 - 金杯一組[3]

1937年(昭和12年)12月13日 - 日本赤十字社有功章[3]

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]

外国勲章佩用允許
1913年(大正2年)

  ・1月31日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[3]

  ・3月4日 - スウェーデン王国:北極星第三等勲章[3]

1914年(大正3年)3月21日 - 支那共和国:三等嘉禾章[3]

1916年(大正5年)7月11日 - 支那共和国:二等嘉禾章[3]

1919年(大正8年)3月17日 - 支那共和国:三等文虎勲章[3]

1920年(大正9年)6月28日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドゥール[3]

1924年(大正13年)5月19日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[3][7]

1927年(昭和2年) - ポーランド共和国:ポルスキー勲章グランクロア

1928年(昭和3年) - ペルー共和国:ソレイユ勲章グランオフイシエー

1930年(昭和5年) - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス

1939年(昭和14年)

  ・シヤム王国:クーロンヌ勲章グランクロア

  ・イタリア王国:サンモーリスエラザル勲章グランクロア[3]

1942年(昭和17年)2月2日

  ・満州帝国:勲一位景雲章[3]

  ・満州帝国建国神廟創建記念章[3]

家族
秩父宮妃勢津子、東京銀行会長を務めた松平一郎はそれぞれ長女、長男。甥に行政管理庁長官福島県知事松平勇雄が、孫に徳川宗家の養子となって第18代当主となった徳川恒孝がいる。長女・節子は秩父宮雍仁親王妃となって勢津子と改名したが、皇室典範で皇族男子の妃は皇族または華族の女子と規定されているため、節子はいったん叔父の子爵松平保男の養女となってから秩父宮に輿入れした。恆雄の長男で一郎の次男・恒孝は徳川宗家の徳川家正の養子となって第18代当主を相続した。徳川義宣は正子の長女三千子の夫。


・父:松平容保 - 旧陸奥会津藩主、京都守護職会津松平家10代

  ・異母兄:容大 - 旧陸奥斗南藩主、会津松平家11代、子爵貴族院議員(子爵互選)

  ・異母兄:山田英夫 - 山田繁栄養子、伯爵・貴族院議員(伯爵互選)

  ・異母兄:健雄 - 伊佐須美神社宮司

    ・甥:松平勇雄 - 参議院議員行政管理庁長官福島県知事

  ・恒雄

  ・異母弟:保男 - 海軍少将、会津松平家12代、子爵、貴族院議員(子爵互選)

・恒雄

・妻:信子 - 侯爵鍋島直大四女

  ・長男:一郎 - 東京銀行会長

    ・孫:徳川恒孝 - 徳川家正養子、徳川宗家第18代当主

  ・長女:節子(改名して勢津子)- 松平保男養女、秩父宮雍仁親王

  ・次女:正子 - 徳川義知夫人

  ・次男:次郎 - 夭折

補注
注釈1.
新設の国立国会図書館館長に推薦された中井正一共産主義者だとみなされたため、中井の就任に対し反対運動が起きた事件。この際、恆雄は参議院議長として中井を副館長とするという案でまとめた。


出典
1. 徳富蘇峰記念館公式サイト 人物検索ページ 「松平恒雄」
2. 『秩父宮』p.377
3. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 松平恒雄」 アジア歴史資料センター Ref.A06051184700 
4. 『官報』第8454号「叙任及辞令」明治44年8月25日
5. 『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日
6. 『官報』第1284号「叙任及辞令」昭和6年4月14日
7. 『官報』第3523号「叙任及辞令」大正13年5月23日

参考文献
保坂正康『秩父宮 昭和天皇弟宮の生涯中公文庫

関連項目
三淵忠彦
(wikiより)

1660 松平恒雄

松平恒雄

1660a

1660b



中村 光夫(なかむら みつお、1911年明治44年)2月5日 - 1988年昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭 一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者日本芸術院会員。私小説批判で有名。

来歴・人物
東京市下谷区練塀町(現在の東京都台東区秋葉原)生まれ。祖父木庭榮は医師。


1917年
本郷区の東京市追分尋常小学校に入学。東京市誠之尋常小学校に転じて卒業後、1923年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。附属中の同級生には、石川馨東京大学名誉教授)、島田秀夫日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。


1928年第一高等学校文科丙類(仏語クラス)入学。1931年4月東京帝国大学法学部に入学するが、6月退学。翌1932年4月東京帝国大学文学部仏文学科に再入学し、1935年3月に卒業。卒論のテーマはギ・ド・モーパッサン。この時期は、プロレタリア文学にも影響を受け、そうした習作も書いていた。


大学時代から『文學界』に評論を発表、1935年文芸時評を連載して新進の文芸評論家として注目される。1936年同誌に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞受賞。


1938年フランス政府に招かれて渡仏し、パリ大学に学ぶが、1939年第二次世界大戦勃発に伴って帰国。同年吉田健一西村孝次山本健吉と同人誌『批評』を発行した。1940年外務省嘱託となり、1941年これを辞して筑摩書房顧問となる。


戦後は鎌倉アカデミアで教鞭を執る。1949年より明治大学教授。同年丹羽文雄とリアリズムをめぐって論争し、1950年近代日本文学批判である『風俗小説論』を上梓する。また1951年にはカミュ異邦人」をめぐって広津和郎と論争。翌年読売文学賞受賞。『谷崎潤一郎論』を上梓、1954年『志賀直哉論』を上梓、いずれも大家を否定する内容であった。1956年芥川賞選考委員となる。1957年最初の戯曲「人と狼」を発表し話題となる。


1958 - 60年には、大岡昇平福田恆存三島由紀夫、吉田健一、吉川逸治との集い「鉢の木会」で、丸善を発行元に季刊同人誌『聲』を10号発行した。同時期に『二葉亭四迷伝』を上梓、再び読売文学賞受賞。1959年には「ふたたび政治小説を」を『中央公論』に発表して話題となる。1962年日本近代文学館理事。1963年京都大学へ講師に赴任したが、この時の教え子に十川信介がおり、十川のために数年間、毎年京大へ行ったという(十川『落ち葉のはきよせ』)。同年初の小説『「わが性の白書」』を発表、上梓。1965年戯曲『汽笛一声』で三たび読売文学賞、1967年明治期の作家長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞受賞。1967年日本芸術院賞受賞[1]、1970年秋に芸術院会員。1981年明大を定年退任。1982年秋に文化功労者。


1988年7月12日、肺炎のため神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の自宅で死去[2]。77歳だった。


戦後間もなく、『風俗小説論』で日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったと主張した。1955年から30年間芥川賞選考委員を務めたが、中村が退任した以降は選考委員は作家のみとなった。


近代仏文学の分野ではギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』も翻訳し、蓮實重彦と共同作業を行い、蓮實に影響を与えた。


独特の「ですます」文体による評論は、当人は「文章を長くして原稿料を余分に取るため」と韜晦していた。


姉しげ子は、作家深田久弥の二度目の妻。弟木庭二郎木庭三郎は共に理論物理学者。最初の妻との間に二児があったが、中村が43歳時に妻と死別、二度目の妻の木庭久美子は劇作家でもあった。没する直前にカトリック洗礼を受けた。

作品年譜
・1935年(24歳)

  ・ジヨルジユ・サンドへの書簡 フロオベル 文圃堂書店(のち創元選書)


・1936年(25歳)

  ・二葉亭論 芝書店


・1940年(29歳)

  ・フロオベルとモウパッサン 筑摩書房(のち講談社・名著シリーズ)


・1941年(30歳)

  ・作家論 中央公論社


・1942年(31歳)

  ・文学論 中央公論社

  ・戦争まで 仏蘭西紀行集 実業之日本社(のち筑摩叢書。中公文庫ほか)


・1946年(35歳)

  ・田山花袋集 中村編 東方書局


・1947年(36歳)

  ・近代への疑惑 穂高書房

  ・作家と作品 筑摩書房

  ・二葉亭四迷論 進路社

  ・青春と知性 鎌倉書房


・1948年(37歳)

  ・ベラミ モーパッサン 白水社


・1949年(38歳)

  ・作家の生死 創元社

  ・二十世紀の小説 筑摩書房


・1950年(39歳)

  ・風俗小説論 河出書房(のち新潮文庫講談社文芸文庫


・1951年(40歳)

  ・小説入門 弘文堂(のち新潮文庫)


・1952年(41歳)

  ・谷崎潤一郎論 河出書房(のち新潮文庫。講談社文芸文庫)

  ・異邦人論 創元社

  ・作家の青春 創文社・フォルミカ選書


・1954年(43歳)

  ・志賀直哉文藝春秋新社(のち筑摩叢書)

  ・小説の読みかた 要書房

  ・日本の近代小説 岩波新書


・1957年(46歳)

  ・「中村光夫作家論集」 大日本雄弁会講談社(全3巻)

  ・私の文学論 新潮社

  ・自分で考える 新潮社

  ・文学のありかた 筑摩書房


・1958年(47歳)

  ・人と狼(戯曲)中央公論社

  ・現代作家論 新潮社

  ・二葉亭四迷伝 講談社(のち講談社文庫。講談社文芸文庫)


・1959年(48歳)

  ・現代知性全集20 中村光夫集(日本書房)

    ・復刻「日本人の知性14 中村光夫」学術出版会(2010年)

  ・文学の回帰 筑摩書房

  ・明治文学史『現代日本文学全集 別巻』の一章(改訂版・筑摩叢書)


・1960年(49歳)

  ・想像力について 新潮社

  ・旅の話 筑摩書房

  ・パリ繁昌記(戯曲)講談社


・1962年(51歳)

  ・佐藤春夫論 文藝春秋新社


・1963年(52歳)

  ・わが性の白書 講談社(のち講談社文芸文庫)


・1964年(53歳)

  ・批評と創作 新潮社

  ・制作と発見 文治堂書店


・1965年(54歳)

  ・汽笛一声(戯曲) 筑摩書房

  ・言葉の芸術 講談社 (新版 同・名著シリーズ)


・1966年(55歳)

  ・百年を単位にして 芳賀書店


・1967年(56歳)

  ・贋の偶像 筑摩書房


・1968年(57歳)

  ・「中村光夫作家論集」 講談社(全4巻)

  ・日本の近代 文藝春秋(人と思想)、選集

  ・日本の現代小説 岩波新書

  ・対談・人間と文学 三島由紀夫と 講談社(改訂版 講談社文芸文庫)


・1969年(58歳)

  ・芸術の幻 講談社(新版 同・名著シリーズ)


・1970年(59歳)

  ・今はむかし ある文学的回想 講談社(のち中公文庫)

  ・時代の感触 時のなかの言葉 文藝春秋

  ・虚実 短編集 新潮社


・1971年(60歳)

  ・【中村光夫全集】 筑摩書房 全16巻(-1973年)


・1972年(61歳)

  ・明治・大正・昭和 新潮選書(のち岩波同時代ライブラリー)


・1973年(62歳)

  ・平和の死 講談社


・1974年(63歳)

  ・ある女 集英社

  ・憂しと見し世 文学回想 筑摩書房(のち中公文庫)


・1975年(64歳)

  ・青春と女性 第三文明社レグルス文庫

  ・世界文学全集 講談社 ボヴァリイ夫人(中村訳、のち講談社文庫)。なお「三つの物語」は蓮實訳


・1976年(65歳)

  ・ある愛 新潮社<純文学書き下ろし特別作品>


・1977年(66歳)

  ・雲をたがやす男(戯曲)集英社

  ・秋の断想 筑摩書房

  ・論考小林秀雄 筑摩書房(増補版 1983年)


・1978年(67歳)

  ・近代の文学と文学者 朝日新聞社(のち朝日選書・上下)

  ・論考川端康成 筑摩書房

  ・ドナウ紀行 日本交通公社出版事業局


・1979年(68歳)

  ・永井荷風 筑摩書房

  ・漱石白鳥 筑摩書房

  ・金銭と精神 日本書籍

  ・グロテスク 河出書房新社


・1980年(69歳)

  ・近代文学をどう読むか 新潮選書

  ・私小説名作選 中村編 集英社文庫。講談社文芸文庫(改訂版・上下)


・1982年(71歳)

  ・時の壁 新潮社

  ・小説とはなにか 福武書店


・1983年(72歳)

  ・鉄兜 成瀬書房


・1985年(74歳)

  ・老いの微笑 筑摩書房(新版 ちくま文庫)


・1986年(75歳)

  ・旅の断章 筑摩書房

  ・知人多逝 秋の断想 筑摩書房


・没後の1992年10月に「中村光夫全戯曲」筑摩書房

  ・収録作品は、人と狼、パリ繁昌記、汽笛一声、家庭の幸福、雲をたがやす男

脚注
1. 『朝日新聞』1967年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
2. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)242頁

参考文献
・「年譜」『風俗小説論』講談社文芸文庫、2011年

関連項目
筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧
(wikiより)

2939 中村光夫

中村光夫

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2939c



阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年明治39年)1月21日[1] - 1969年昭和44年)6月10日)は、日本詩人ドイツ文学者[2]

略歴・人物
福井県出身[1]。旧制芝中学校山形高等学校を経て、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部心理学科卒業。


戦前は文部省に務め、1955年(昭和30年)にお茶の水女子大学教授に就任した[1]


1931年
(昭和6年)第1詩集「雲の衣裳(いしょう)」を発表。以後、「貝殻の墓」などの詩集を刊行し[1]、小説、評論なども執筆した[1]

家族・親族
父は福井県知事や鹿児島県知事などを務めた阪本釤之助[3]、伯父は漢詩人・官僚の永井久一郎[4]、叔父は内務官僚・政治家の大島久満次[5]。兄は外交官阪本瑞男[3]、作家・詩人の高見順は異母弟[1][3]。政治家の古井喜実は義弟。小説家の永井荷風[1][3]と外交官の永井松三は従兄。狂言師の野村萬斎は孫(娘で詩人の阪本若葉子の長男)。タレントの高見恭子は姪[6]童謡歌手小鳩くるみも越郎の親族である[7]

系図については、「阪本越郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%9C%AC%E8%B6%8A%E9%83%8E

参考文献
小谷野敦 著 『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集幻冬舎幻冬舎新書)、2007年平成19年)9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-344-98055-6

脚注・出典
1. a b c d e f g 阪本越郎とは - コトバンク内のページ。
2. 『日本の有名一族』、86頁。
3. a b c d 『日本の有名一族』、86-87頁。
4. 『日本の有名一族』、85、87頁。
5. 『日本の有名一族』、87頁。
6. 『日本の有名一族』、86-88頁。
7. 『日本の有名一族』、87-88頁。
(wikiより)


2938a

2938b



三橋鷹女の生家の跡地で、現在は鬼澤家住宅と駐車場になっています。


鷹女が、学生時代にここから裏門続きの丘の上にある成田図書館によく通い、読書や作歌に励んでいたと伝えられています。


大正 5年 ( 1916 ) 成田高等女学校を卒業後、茶道や琴の稽古に勤 ( いそ ) しみました。


紫矢絣 ( やがすり ) の着物に、麻の葉絞りの昼夜帯を締めて町を歩く鷹女の美しい姿や住まいが前と後ろにあったことなどから、町の人は長谷川「カタ」と三橋「タカ」を勘違いして「夢二のオンナ」が通ると噂したといわれています。


この成田公民館左隣が鷹女の居住地です。
(成田公民館の説明版より)


三橋鷹女 ( みつはし - たかじょ )
明治 32年 ~ 昭和 47年 ( 1899 ~ 1972 )


大正 5年、成田高等女学校 ( 現成田高校 ) を卒業後上京し、兄・慶次郎のもとに寄寓。


兄の師事する与謝野晶子、若山牧水に私淑し、作歌に励みました。
  
大正 11年、歯科医師・東謙三と結婚。


夫の影響で俳句に転向し、原石鼎はらせきていが主宰する「鹿火かび屋」に入会し、夫と共に競詠。
  
昭和 9年、小野蕪子 ( ぶし ) 主宰の「鶏頭陣 ( けいとうじん )」に転じ、東鷹女と号す。


同 17年、長兄が病死したため、三橋家を継いで同 28年、「薔薇」の同人として参加。


句集に『向日葵 ( ひまわり )』『魚の鰭 ( うおのひれ )』『白骨 ( はっこつ )』『羊歯地獄 ( しだじごく )』『ぶな』。
  
鷹女は戦後、女流俳人の中で、橋本多佳子、中村汀女、星野立子と共に、「女流俳壇の 4T」と称されました。


鷹女は現在、成田高校裏門脇の白髪毛 ( しらばっけ ) と呼ぶ墓地に眠っており、句碑には「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」と刻まれています。


 ちなみに薬師堂の前には、三橋鷹女の像も有りますが訪問時( 2010年 10月 7日 ) には『薬師堂は工事中』でした。

2937 三橋鷹女の居住跡地

三橋鷹女

2937b

2937a



三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、千葉県出身の俳人。本名・たか子。幼名・文子。旧号・東文恵。原石鼎小野蕪子に師事。戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女星野立子橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。

経歴
成田町(現成田市)に生まれる。1916年成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓。慶次郎が若山牧水与謝野晶子に師事する歌人であったため、この影響で鷹女も作歌をはじめる。

1922年
、剣三の俳号を持つ俳人であった歯科医師・東謙三と結婚、俳句の手ほどきを受ける。1929年、謙三とともに原石鼎の「鹿火屋」に入会し原に師事。1934年、夫とともに「鹿火屋」退会、小野蕪子の「鶏頭陣」に入会。この頃より俳号を東鷹女とする。1936年「紺」創刊に参加し、女流俳句欄の選者を担当。1939年、夫ともに「鶏頭陣」を退会。


1942年、長兄の病死により、東家を廃し三橋家を継ぐ。以後三橋姓。1953年高柳重信の誘いを受けて富沢赤黄男の「薔薇」に参加、1958年、同誌の後継誌「俳句評論」に参加。1967年、「俳句評論」を辞す。1969年、湊陽一郎と同人誌「羊歯」を創刊するが、同年10号で「羊歯」を辞し、「俳句評論」顧問となる。1972年4月7日死去。戒名は善福院佳詠鷹大姉[1]

作品
代表的な句に、

・ひるがほに電流かよひゐはせぬか

・みんな夢雪割草が咲いたのね

・夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

・この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

・白露や死んでゆく日も帯締めて   

鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし[2]


などがある。写生の方法に拠らず、自在な口語表現・新興俳句の詩的表現などを駆使して女性の情念を詠む前衛的な句風で、当時の女性俳人の中でも異色の存在として知られ、「四T」内でも表現の激しさと前衛性において突出した存在であった。晩年は孤独と幽玄の度合いを深め、「老いながらつばきとなつて踊りけり」「墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み」といった鬼気迫る句も残している。句集に『向日葵』『魚の鰭』『白骨』『羊歯地獄』『ぶな』などがあり、没後『三橋鷹女全句集』『三橋鷹女全集』も出ている。

脚注
1. 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)222頁
2. 有島武郎惜しみなく愛は奪ふ』を援用。

参考文献
・齋藤慎爾、坪内稔典、夏石番矢、榎本一郎編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年

・坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版

・稲畑汀子、大岡信、鷹羽狩行監修 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年

・宗内敦「わが一書」 武蔵野書房『十三分の一』、2006年

外部リンク
現代俳句データベース 三橋鷹女の俳句

増殖する俳句歳時記 三橋鷹女の句(2015年5月17日時点のアーカイブ
(wikiより)

 句碑には「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」と刻されています。

2937 三橋鷹女の居住跡地

三橋鷹女

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⇧⇩ 句碑には「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」と刻されています。

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今村清之助
( 1849. 03. 03 ~ 1902. 09. 26 )


長野県下伊那の農家次男

16才の頃商人を志し横浜にて行商や露天商を経て明治 11年日本で初めての株式取引所を設立。


又、明治 17年から陸奥宗光と共に欧米先進国の経済文化を視察し外遊漫録を発刊、鉄道事業に思いを持ち明治 19年両毛鉄道の設立に奔走し社長となり鉄道事業の第一歩を踏み出す。


その後九州・関西・山陽をはじめ多くの鉄道事業の発足に関与し我が国の鉄道王と称された生涯であった。


明治 21年設立の今村銀行は鉄道王清之助の興業的役割をした。


農家の一青年に過ぎなかった清之助が時代の変遷と共に超人的努力を惜しまず近代社会の礎作りに大きく貢献しここに眠る。


長男・繁三は英国留学より帰国後家督を継ぐと共に英国文化に傾注し多くの社会事業の発展に貢献した。


成蹊学園 ( 現成蹊大学 ) の創立もそのひとつである。
(碑文より)

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 このページの項目名には、環境により表示が異なる文字があります。公式の表記では遼󠄁しんにょう)の点が二つです。


〇 司馬遼太郎

司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年)8月7日 - 1996年平成8年)2月12日)は、日本の小説家ノンフィクション作家評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。


大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

生涯
生い立ち
1923年(大正12年)8月7日大阪府大阪市南区難波西神田町(現・浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。


1930年
昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。


1936年
(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける[注釈 1]。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。


1939年
(昭和14年)、中学生だった司馬にも戦争が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃はボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し[2]、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍M1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず[3]、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、真珠湾攻撃による日本との開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた[4]。また、ドイツ国防軍Kar98k[5]、イギリス軍のリー・エンフィールド[6]ソ連労農赤軍モシン・ナガン M1891/30[7]など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。


司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している[8]


1940年
(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。


1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり[9]、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」[注釈 2][10]からであると述懐している[11]復員後は直ちに図書館通いを再開する。

記者時代
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[注釈 3]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。


翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。


同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている[12]


1955年
(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼󠄁太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる[注釈 4]。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。


1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚[注釈 5]。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[15]

小説家時代
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。


だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。のちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。


1971年
(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。


1981年
(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」[注釈 6]を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[17]


1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。


翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。


詳しいことは、「司馬遼太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

2934 司馬遼太郎

⇧ 司馬遼太郎

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⇧⇩ メチャ大きい墓石です。

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石塚宗通 ( いしづか - そうつう )
文政 8年 ~ 明治 41年 ( 1825 - 1908 )


表千家の茶人。

号、不染庵 ( ふせんあん )。


川上不白系の川上宗雪の門人で不白流石塚流の第 3代に請われて養子となり第 4代を継ぐ。


豊後福岡藩中川公に仕える。


弟子に蒔絵師梅澤隆真・辻宗謙がいる。


また、岡倉天心も茶をたしなんだが、直接の師はなく、妻の基が石塚宗通に習っている。84歳没。


明治 39年 ( 1906 ) 自書により墓を建てる。正面「不染庵石塚宗通居士」。

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トーマス・ブレーク・グラバー: Thomas Blake Glover1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人トマス・ブレイク・グローバーとも表記。


武器商人
として幕末日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船採炭製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。

生涯
スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859年上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年9月19日安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後にはフランシス・グルームと共に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店[1]として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[2]亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚森有礼寺島宗則長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。


1865年
4月12日(元治2年3月17日)[3]には、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。

本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。


明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。


私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚。長女ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎(Tomisaburo Kraba Glover)がいる。(ツル以前に内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。


晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、息子の倉場富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。

人物
太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。

・キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。

・彼をスコットランド系のフリーメイソンリーとする説があるが、記録はない。グラバー邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものが1966年昭和41年)に長崎市に寄贈され、長崎市によって観光目的で移設されたものである。長崎市もこの経緯を認めている[2]

関連書籍
野田平之助『グラバー夫人』新波書房, 1972 改訂新版 野田和子改訂 1994

・ブライアン・バークガフニ『花と霜 グラバー家の人々』平幸雪 訳. 長崎文献社, 1989

多田茂治『グラバー家の最期 日英のはざまで』葦書房, 1991

杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』(岩波新書) 1993

・山崎識子『隠れ間のあるじ トーマス・ブレイク・グラバー』栄光出版社, 1994.

・アレキサンダー・マッケイ『トーマス・グラバー伝』平岡緑訳. 中央公論社, 1997

楠戸義昭『もうひとりの蝶々夫人 長崎グラバー邸の女主人ツル』毎日新聞社, 1997

内藤初穂「トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商』アテネ書房, 2001

山口由美『長崎グラバー邸父子二代』集英社新書 2010

・マイケル・ガーデナ『トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて』村里好俊, 杉浦裕子訳. 岩波書店, 2012

山口幸彦「明治維新の大功労者トーマス・グラバー :フリーメーソンとしての活躍』長崎文献社, 2014

脚注
1. グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」
2. a b 片桐三郎 『入門 フリーメイスン全史 --- 偏見と真実』 アム アソシエイツ、2006年11月, p211-212
3. 唐津材木町年寄の平松儀右衛門の旅日記による(長崎県参与の本馬貞夫によって発掘された)。

関連項目
幕末の人物一覧

日英関係

死の商人

ジャーディン・マセソン商会

旧ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会中国本社(上海支店)

天津ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会天津支店

英一番館 - ジャーディン・マセソン商会横浜支店

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

外部リンク
三菱人物伝 トマス・グラバー(上)

三菱人物伝 トマス・グラバー(下)
(wikiより)

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日蘭修好 380周年記念碑


日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。


慶長 14年 ( 1609年 ) 平戸にオランダ商館が設立され ( 後に長崎に移る )、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。


オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。


とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好 380年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。


1989年 4月 20日  東京都中央区
(碑文より)  


〇 ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn (Lodensteijn), 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶揚子(やようす)。


教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である。

来歴
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリスウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年(慶長5年)4月19日豊後に漂着。


徳川家康に信任され、江戸城の内堀沿いに邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の千代田区にあたり、現在の中央区八重洲の地名は1954年に成立したものである。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる[1]


やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィアジャカルタ)に渡ったが帰国交渉がはかどらず、結局あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した。

記念像
八重洲地下街、外堀一番通り沿い(2019年現在)にある。LPJブラート作。

脚注
1. ヤン・ヨーステン記念碑

関連項目
八重洲

海外出身の武士の一覧

メルヒオール・ファン・サントフォールト-ヤン・ヨーステンと共にリーフデ号で来日した航海士。

ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー-同時代の朝鮮半島に漂着し、朝鮮王朝に仕えたオランダ人
(wikiより)

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ヤン・ヨーステン記念像 オランダ人・LPJブラート作


ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦 1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。


そのまま日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。


その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。


ここに彼を偲んで記念像を置く。
(碑文より)  


八重洲の由来となったオランダ人 

ヤン・ヨーステン
( ? ~ 1623 )


ヤン・ヨーステン ( オランダ人・日本名、耶楊子・やようす ) は、ウイリアム・アダムス ( 日本名、三浦按針 ) 等とともに慶長 5年 ( 1600 ) に豊後 ( 現・大分県 ) に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。


ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲 ( やよす ) 河岸といった。


「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治 5年 ( 1872 ) のこと ( 現・丸の内一丁目付近 )。


その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和 29年 ( 1954 ) には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。


日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。


また、慶長 14年 ( 1609 )、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。


のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア ( 現・ジャカルタ ) に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。
(碑文より)


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〇 尾台榕堂之碑
尾台榕堂 ( 1799 ~ 1870 ) は幕末に活躍した寛保の名医。


越後魚沼郡中条村 ( 現在新潟県十日町市中中条 ) の医師・小杉家に出生。


名は元逸、字は士超、通称は良作、号は榕堂また敲雲。


16歳で江戸に出、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬に儒学を学ぶ。


36歳で師浅岳の家を継いで尾台姓を称し、65歳のとき将軍徳川家茂に単独拝謁。


この地 ( 北槇町 ) に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医として世に謳われた。


著書は類聚方広義・方伎雑誌ほか多数あり、現代医療の一班を担う日本漢方医学の基盤を築いた。


撰文 小曽戸 洋
建立 平成23年(2011)10月19日
( 社 ) 日本東洋医学会
( 財 ) 日本寛保医学研究所
    東亜医学協会
( 社 ) 日本医史学会
    温知会
    東京十日町会
    十日町市     
制作  藤巻秀正
(碑文より)


〇 尾台榕堂
尾台榕堂 ( おだい - ようどう )


生年: 寛政 11 ( 1799 )
没年: 明治 3.11.29 ( 1871.1.19 )


幕末明治期の漢方医。


本姓は小杉。


医家の 4男として越後国魚沼郡中条村 ( 十日町市中条 ) に生まれる。


名は元逸,字は士超,通称良作,別号敲雲。16歳で江戸に出て尾台浅岳 ( 岑少翁の弟子 ) の門に入り,古方医学を学ぶ。


また儒学を亀田綾瀬に師事。


帰郷するが浅岳の没後再び江戸に出,請われて尾台姓を継いだ。


吉益東洞を信奉してその著書『類聚方』などを実用の立場から深く研究した。


名医の評判が高く,幕末の江戸にあって浅田宗伯と名声を二分した。


著書『類聚方広義』は今日の漢方界においても高い評価を得ている。


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〇 金鱗湖について

1. 金鱗湖 ( きんりんこ ) 名の由来
昔は湖と言わず池といい、由布岳 ( 1584m ) の下 ( もと ) にある池という意味から、由布岳の「由布」を省略し、更に「岳 ( たけ ) の下 ( もと )」を「岳 ( たけ ) ん下 ( した )」と発音して「岳ん下ん池」と称した。


明治 17年大分の儒学者、毛利空桑 ( もうり - くうそう ) が池のそばの露天風呂 ( 茅葺の屋根 ) の岳ん下ん湯、通称「下 ( した ) ん湯」から湖面を眺めていると魚が飛び跳ね、鱗 ( うろこ ) がおりしも夕日に映えて金色に輝く様を見て「金鱗湖」と名づけられる。


2. 金鱗湖の概要
やや長方形をして長辺約 100m、短辺約 70m湖底は緩やかな「すり鉢」状になって居り、最深部は、湖の山の手側にあって約 2mである。


水の流入は下ん湯の横、ハエ川の温水 ( 30度以上 ) と天祖 ( てんそ ) 神社境内の湧水、それに湖底深部にある湧水の供給から成り立っており、1日約 23,300m3が流出して大分川の源流になっている。


生息する魚は、鯉、鮒、ハヤ、うなぎ、ナマズ、テラピア ( 豊後鯛 )、グッピー、すっぽん亀、石亀等です。


3. 由布盆地の朝霧
朝霧は、秋から冬にかけ、晴れて冷え込みのきつい風がない朝、由布盆地を霧の海に沈めてしまう。


この現象を狭霧 ( さぎり ) 台 ( 野々草台上 ) や蛇越 ( じゃこ ) し峠 ( 川西地区 ) からの眺望は、まそに天下一品である。


朝霧発生の主因は、金鱗湖から流れ出る川の水蒸気であると言われている。
(案内板より)

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国指定重要文化財。

建築年代文久 3年 ( 1863 ) 長い鎖国が終わりを告げ長崎・神奈川・函館 3港は世界に門を開いた。


同時に諸外国商人は大浦居留地付近に居を構え貿易を営みます。
  
これら貿易商人の一人英国スコットランド出身トーマス・ブレーク・グラバー ( T.B.GLOVER 1838 ~ 1911 ) の住居は、数多い洋風建築の中で独特のバンガロー風様式を残している日本最初の木造洋館として貴重な文化財です。
  
グラバーは若冠 21歳で安政 6年 ( 1859 ) 上海経由で渡来し、ベテランの外商たちの中にあって武器船舶などを取り扱う嵐の商人としての仲間入りをしたが、やがて、彼は自己の信念に基づく立憲君主制国家としての日本再建に外商としての立場を超越した活躍を見せ始めた。
  
それには日本の若いエリートたちに国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋している。
  
こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が少なくない。
  
彼が期するところの立憲君主制の平和国家として日本が再出発することになるや、次に彼は産業立国の大方針を以て政府に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。


慶応元年 ( 1865 ) 大浦海岸にわが国初の蒸気機関車を試走させ、明治元年 ( 1868 ) 高島炭鉱を開発、また、同年海国日本の前途を計って小菅に修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる努力をした。
  
この家には息子・倉場富三郎、娘ハナ、妻おツルと共に住んでいた。


トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランドのフレーザーバラで生まれ、初等教育をアバディーンで受けた。


安政 6年 ( 1859 ) 9月、21歳の若さで、上海から長崎に来航し、ジャーディン・マセソン商会に勤務した。


その後、文久元年 ( 1861 ) この商会が中国に本拠地を移すと、その事務を引き継ぎ、グラバー商会を設立した。


慶応 2年 ( 1866 ) 、薩摩藩士・五代友厚に大阪で造船業を営む淡路屋の娘ツルを紹介され結婚し、長崎の西小島の私邸で長女・ハナと長男・富三郎が生まれた。


富三郎は、明治 32年 ( 1899 ) 英国人商人ジェームズ・ウォルターと日本人女性、中野エイ夫妻の次女、中野ワカと結婚したが、二人の間に子供ができなかった。


ハナは、後にウォルター・ベネットと結婚し、現在グラバー氏の子孫として、ベネット家がその血筋を現在に伝えている。


文久元年 ( 1861 ) 長崎でグラバー商会を開設し、西南諸藩との武器・艦船等の輸入、茶・絹等の輸出をするなど商会での経営は順調であった。


又、幕末から明治維新にかけても倒幕の志士たちと深くかかわりがあり、晩年、日清・日露戦争の功績により日本政府から勲二等旭日重光章を外国人として初めて授与された。

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わが国 西洋料理の歴史は 16世紀中頃、ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技 ( わざ ) は鎖国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。


1800年代にいたり、横浜、函館などが開港され、次第に普及し、更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和 ( ゆうわ ) され現代の隆盛となった。


ここに西洋料理わが国発祥を記念し この碑を建てる。

1977年 社団法人 全日本司厨士協会
(案内板より)


〇 自由亭
「自由亭」は、江戸時代の終わり頃、日本で初めて西洋料理のレストランとして、伊良林 ( いらばやし ) の神社前にオープンしました。


主人の草野丈吉は出島のオランダ人のもとで修行し、オランダ公使デヴィットにかわいがられ、大いに料理の腕を上げたと言われています。


当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライス、コーヒー、スポンジケーキなどがあったようで、「料金は一人前三朱、6人以上お断り、前日に予約すること」という記録が残っています。


三朱は今の 1万 3千円くらい。電話もない時代に前日に予約するのは大変なことだったと思います。


自由亭は大いに繁盛し、1879年には市内の馬町 ( うままち ) に進出すると同時に、建物も現在のものに新築。


長崎一のレストランとして、元アメリカ大統領、グランド将軍をはじめとした各国の賓客が次々と訪れるようになりました。


当時のメニューには「カーァヒイ ( コーヒー )、カアレイ ( カレー )、ゼリターツ ( ゼリータルト ) などと記されています。


この建物は検事正官舎として使われていましたが、昭和 49年グラバー園に移築復元されました。

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眼鏡橋(めがねばし)は、長崎市中島川に架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球王国だった天女橋を除くと、日本初の石造りアーチ橋である[1][2]1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定された[3]

概要
橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。2つの半円を描くアーチ形式の石橋で、水面に映しだされた姿が眼鏡のように見えるところからこの名がある[1][4]


1634年
(寛永11年)、中国から来日して興福寺の2代目住職となった黙子如定(もくすにょじょう)によって架けられた[5][2]。黙子は中島川の氾濫のたびに橋が流失されるのを見かねて、中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたといわれている[2]1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している[5][6]。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた[5][7]

1982年
(昭和57年)の長崎大水害では眼鏡橋を含む中島川の九つの石橋が被害に遭い[1]、そのほとんどが流失したが、眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた[8]


修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された[9]。橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている[10]


流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された[11]。眼鏡橋の辺りは増水時の氾濫対策として川幅を広げる必要があったが、橋などの姿をなるべく残すよう、川幅や橋はそのままにして、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けることで解決した[12]。この際、左岸側バイパス建設地の上から川の上にまで張り出した家屋や商店など46戸は約20年の交渉を経て全戸が移転し、跡地には歩道と街路樹が整備された。


「眼鏡橋以後に架けられた中島川の石橋はすべて単アーチである」のに対し、この眼鏡橋のみが2連アーチである[13]

交通
長崎電気軌道蛍茶屋支線(2・4・5号系統) めがね橋電停または桜町支線(3号系統)市民会館電停下車。

長崎県交通局長崎自動車 親和銀行前バス停または公会堂前バス停下車。

脚注
1. a b c 浅井建爾 2001, p. 220.
2. a b c ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 76.
3. 中島川遠眼鏡, p. 15.
4. ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 75.
5. a b c 中島川遠眼鏡, p. 12.
6. 眼鏡橋修理工事, p. 32.
7. 眼鏡橋修理工事, p. 32,42.
8. 災害普及工事, p. 4.
9. 眼鏡橋修理工事, pp. 31-34.
10. 眼鏡橋修理工事, p. 33.
11. 眼鏡橋修理工事, p. 19.
12. 濁流, p. 274.
13. 荒井裕則「石橋のルーツ「長崎眼鏡橋」」『Consultant vol.234 土木遺産Ⅴ』一般社団法人建設コンサルタンツ協会(2007年)25頁、(閲覧日2017年9月2日)

参考文献
浅井建爾『道と路がわかる辞典』日本実業出版社、2001年11月10日、初版。ISBN 4-534-03315-X

・川口栄二『濁流 雨に消えた299人』講談社、1985年3月。ISBN 4-06-201287-1

・長崎市『重要文化財 眼鏡橋保存修理工事報告書(災害復旧)』長崎市、1984年3月。

・長崎市土木部道路維持課『中島川石橋群橋梁災害復旧工事』長崎市、1987年3月。

・宮田安『中島川遠目鏡』長崎文献社、1977年8月。

・ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。ISBN 4-309-49566-4

関連項目
長崎めがね橋 - 眼鏡橋を中心に長崎について歌ったNHKみんなのうたの楽曲。

眼鏡橋 (諫早市)

外部リンク
石橋のルーツ「長崎眼鏡橋」 - 建設コンサルタンツ協会『Consultant』 Vol.234

長崎中島川のバイパス公園 -空間方程式が変わった- - 日本土木工業協会『CE建設業界』 Vol.662
(wikiより)

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碑文

長崎の鐘よ鳴れ

長崎の鐘よ鳴れ

私達の肉親を奪った

私達のからだをむしばんだ

あの原爆が

いかに恐ろしいものであるか

あの戦争が

いかに愚かなものであるか

長崎の鐘よひびけ

長崎の鐘よひびけ

地球の果てから

果ての果てまでも

私達の願いをこめて

私達の祈りをこめて

 

昭和五十二年七月二十日
長崎県被爆者手帳友の会
長崎県動員学徒犠牲者の会
会長 深堀勝一
松岡國一 刻

建立の経過
原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごい原子爆弾が、再びこの地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立したものである。遺族、被爆者、およそ21,000世帯の拠出金により建立された。

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平和記念像建立のことば

昭和 28年 8月 9日午前 11時 2分、一発の原子爆弾が、この地上空でさく裂し、方 5粁 ( キロメートル ) 一帯を廃きよと化し、死者 7万 3千余、傷者また 7万 6千余におよんだ。


哀愁悲憤の思いは、今もなお胸を裂くものがある。


私ども生き残った市民は、被爆諸霊の冥福を祈り、かつ、この惨禍が再び地上に繰り返されることを防ぐために、自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、その象徴として、この丘に、平和記念像の建立を発願した。


かくて、私たちは、平和記念像建設協賛会を組織し、内外の熱烈な協賛のもとに、昭和 26年春、工を起こしてより、ここに 4年、念願の像を完成し、除幕の式を挙げた。


この日原爆 10周年の日の前日である。


私は、30万市民とともに、この平和記念像が、万人に仰がれ、世界平和の保持に大きな貢献をなすものと信ずる。


昭和 38年 8月 8日

長崎市長 田川 務
(碑文より)

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正面円形の肖像は歌劇"蝶々夫人"の作曲家ジャコモ・プッチーニである。


イタリアの大理石で造られ、イタリア大使館から寄贈されたもの。
(案内板より)


〇 ジャコモ・プッチーニ
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。イタリアルッカに生まれ、ベルギーブリュッセルで没した。

生涯
プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。


1858年
12月22日イタリアトスカーナ地方にあるルッカで生まれる。


わずか5歳のときに父親ミケーレが没したため、叔父フォルトゥナート・マージより、温情をもって教育を与えられる。最初は教会オルガニストの職を得るが、ジュゼッペ・ヴェルディオペラアイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。1880年4声のミサ曲』(『グローリア・ミサ』の名で知られる)の完成をもって、初期の音楽修業と、家業である宗教音楽家の道に区切りをつける。この作品では、やがてミラノの舞台においてプッチーニが開花させることとなる劇的な表現力を、魅力的なまでにうかがわせている。実際、この作品の楽想は後に彼のオペラで転用されることとなる。


1880年から1883年までミラノ音楽院にてアミルカレ・ポンキエッリアントニオ・バッジーニに師事。1882年には、出版社ソンゾーニョ社主催による1幕物オペラの作曲コンクールに参加、入賞することはできなかったが、提出作品『妖精ヴィッリ Le villi』は後に1884年に舞台化され、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディに注目されるきっかけとなった。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』である。1891年には、トスカナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、終生にわたって仕事場兼自宅とした。プッチーニの亡骸が眠っているのもこの地である。


第3作の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれた。このうち『ラ・ボエーム』はプッチーニの最高傑作としてのみならず、それまでのプッチーニ作品の中では最もロマンティックなオペラの1つに数えられている。『トスカ』はその露骨な暴力描写、主役3人が舞台上で死ぬストーリー、そして扇情的な音楽などが話題となった。『蝶々夫人』は、初演時には敵意(そのほとんどはプッチーニのライヴァル達によって組織されたものであったが)をもって迎えられたが、後にかなり手直しされてからは、プッチーニの最も成功した作品のひとつになった。


それからは御難続きで作曲の筆が緩やかになる。1902年(または1903年)の2月下旬、珍しがりやの性格から、自動車を手に入れさっそく乗り回していたところ、交通事故を起こし、脚を骨折する。1906年にはジャコーザが他界。1909年には、プッチーニの妻エルヴィーラが、誤解から、プッチーニが女中と浮気していると責め立て、疑われた女中が服毒自殺、エルヴィーラが起訴されるというスキャンダル(ドーリア・マンフレーディ事件)に発展する。そして1912年には、恩人であったリコルディ社社主ジューリオが世を去る。


しかしながら1910年に会心の作品『西部の娘』を完成させ、1917年には『つばめ』を脱稿した。『つばめ』は、はじめオペレッタの作曲を試みながらも、自分の創作様式や能力が喜劇に不向きであると悟って、書き直された作品である。


<三部作>とよばれる1幕オペラの連作は、1918年に初演された。パリグラン・ギニョール劇場の様式による恐ろしいエピソードの『外套』、感傷的な悲劇『修道女アンジェリカ』、喜劇というよりは笑劇の『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる。『ジャンニ・スキッキ』は、名高いアリアのためにこのうち最も人気があるのに対して、『外套』は不人気である。『ジャンニ・スキッキ』は、たとえばマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やレオンカヴァッロの『道化師』、ツェムリンスキーの『フィレンツェの悲劇』やコルンゴルトの『ヴィオランタ』などの、他の作曲家の1幕オペラと1夜の連続公演が行われている。


プッチーニはヘビースモーカーとして知られていたが、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで、手術後に合併症を起こして急死した。最後のオペラ『トゥーランドット』は未完成のまま遺され、そのフィナーレは、彼の遺稿も参考にして友人フランコ・アルファーノが補筆することとなった。

しかし、アルファーノ補作の大部分は世界初演時の指揮者トスカニーニが冗長と見なしてカットしたため、その短縮した版が今日一般には公演で用いられている(もっとも、1980年代からは「アルファーノ完全版」の使用も散見される)。その他、1991年にはアメリカの作曲家ジャネット・マクガイアによるプッチーニ遺稿のより厳密な資料批判を経た補筆版、2001年にはルチアーノ・ベリオの独自稿による補筆版なども作成されている。


遺体は一旦ミラノのプッチーニ家の墓に埋葬されたが、1926年になって息子アントニオの手によりトッレ・デル・ラーゴ英語版イタリア語版の仕事場兼自宅に再埋葬された。

作品の特徴
プッチーニは、学生時代に書かれたいくつかの器楽曲(管弦楽曲数点と室内楽の小品1点)と宗教曲を別にして、オペラの作曲に余念がなく、現在ひんぱんに演奏されているのもオペラが中心である。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおいて最高の作曲家というものである。出世作の『マノン・レスコー』を皮切りに『ラ・ボエーム』と『トスカ』を次々に成功させて、オペラ作曲家としての地位を確立した。続く『蝶々夫人』では初演の評判は散々だったものの、徐々に評価を高め、今日ではプッチーニおよびイタリア・オペラの代表作とされている。


プッチーニの音楽は、イタリア・オペラの伝統にのっとり、劇的な展開と緻密な描写的表現、そのために繰り出される転調や印象主義音楽的な和声技巧、オーケストレーションの豊かさが特徴的だが、とりわけ旋律の忘れがたい美しさは特筆に価する。プッチーニの旋律は、しばしば息が長いにもかかわらず、覚えやすく、しかも口ずさみやすい。しかも、とってつけたようなぎこちなさがまったくなく、自然で滑らかに流れていく(オペラ作曲家としての訓練が比較的遅いことからしても、このような生来の旋律家ぶりが最大限に発揮された事実は驚異的ですらある)。このため、クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニ作品は親しみやすく魅力的である。



評価
同時代の作曲界や批評家は、その直感的な分かりやすさゆえに、大衆迎合的なお涙頂戴をプッチーニ作品の性格に見出し、必ずしも積極的な評価を与えようとはしなかった。しかし、カラヤンショルティシノーポリのような老練なオペラ指揮者は、同時代のヴェリズモ・オペラからの影響力を考慮しつつも、プッチーニの優れた心理描写や高度に洗練された作曲技法に、徹底して光を当てることにより、プッチーニの奥深さや独創性をたくみに浮き彫りにしている。一方で、アバドは、ヴェリズモ・オペラとプッチーニを生涯で一切取り上げなかった指揮者として知られている。一定の広範なレパートリーを持つ大指揮者が同国人の大作曲家を拒絶する例は非常に珍しい(ただし、アバドは「音楽の友」2013年3月号インタビューでも触れているように、言葉の上ではプッチーニを賞賛し、いつか指揮してみたいと語っていた)。なお、イタリアの戦後世代を代表する大指揮者としてアバドと並び称される存在であるリッカルド・ムーティも、長いキャリアの中でプッチーニを数回しか取り上げていない。むしろ外国人であるカラヤンが、4作品に計7回の全曲録音を残し(これは彼としてはヴァーグナーとヴェルディに次ぎ、自国系のモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスを上回る数字である)、2本のオペラ映画を製作するなど、強いこだわりを見せている。


ドビュッシー
がプッチーニ人気を快く思っていなかったのに対し、ラヴェルは、プッチーニがシェーンベルクに理解があるとの事実だけをもってしても、十分評価に値する芸術家であると見なし、自国の同僚たちのむやみなプッチーニ非難をこそ不快であると感じていた。


実際にプッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を熱心に研究し、実際の演奏にも触れ、これを傑作と呼んでいた。『トゥーランドット』には、しばしば群集やタイトルロールの異常心理を強調するのに、調性感の薄いパッセージが多用されており、それらにシェーンベルク研究の痕跡を認める研究者は少なくない。一方でシェーンベルクの側もプッチーニを20世紀の重要なオペラ作曲家の1人に数えており、そればかりかプッチーニのオペラに対する尊敬や愛着を認めていた。シェーンベルクによるバッハ作品やブラームス作品のオーケストラ用編曲には、音色感覚において、プッチーニの色彩的なオーケストレーションとの親近性が感じられる。

主な作品
作品についてはプッチーニの楽曲一覧をご覧ください。

・オペラ(初演年)
  ・『妖精ヴィッリ』1884年

  ・『エドガール』1889年

  ・『マノン・レスコー』1893年

  ・『ラ・ボエーム』1896年(アリア<冷たい手を><私の名はミミ>)

  ・『トスカ』1900年(アリア<歌に生き、恋に生き><星は光りぬ>)

  ・『蝶々夫人』1904年(アリア<ある晴れた日に>)

  ・『西部の娘』1910年

  ・『つばめ』1917年

  ・「三部作」1918年

    ・『外套

    ・『修道女アンジェリカ

    ・『ジャンニ・スキッキ』(アリア<私のお父さん>)

  ・『トゥーランドット』1926年(1924年作曲者の死により未完をアルファーノが補筆完成)(アリア<お聞きください、王子様><泣くなリュー><誰も寝てはならぬ>)


・管弦楽曲

  ・『交響的前奏曲 イ長調』

  ・『交響的奇想曲』

  ・『アダージェット』

・声楽曲

  ・『グローリア・ミサ』1880年

  ・『レクイエム』1905年

・器楽曲

  ・『菊の花』(弦楽四重奏)

  ・『スケルツォ イ短調』

  ・『弦楽四重奏曲 ニ長調』

  ・『フーガ』

  ・『失意の女』

  ・『ピアノ三重奏曲』(一部分のみ)

プッチーニを扱った作品
映画『プッチーニの愛人』(2008年、イタリアパオロ・ベンヴェヌーティ監督)

  「ドーリア・マンフレーディ事件」を題材にしている。

博物館
・プッチーニ博物館(ルッカ)生家

・プッチーニ博物館(トッレ・デル・ラーゴ英語版イタリア語版)晩年の家。中の一室に墓廟がある

詳しいことは、「ジャコモ・プッチーニウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
(wikiより)

2920  ジャコモ・プッチーニ

ジャコモ・プッチーニ

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日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦 環は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが長崎を主題としたオペラ

マダムバタフライ ( 蝶々夫人 ) を 30年の長きにわたり世界各国で歌い続け美しい名曲を通じて、広く海外に日本婦人の愛の美徳を紹介した


その功績をたたえるためプッチーニの肖像とともに、ゆかり深きこの丘に三浦 環の立像を建立して永く後世に伝えるものである


1963年 5月 26日

三浦 環顕彰会

三浦 環立像建設促進委員会
(碑文より)


〇 三浦 環
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名だった。元の名は柴田環(しばた たまき)、次いで藤井環(ふじい たまき)といった。

生涯
生い立ち
1884年(明治17年)2月22日、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区内の京橋地域)に生まれる[1][2][注 1]静岡県城東郡下朝比奈村(現・御前崎市)出身で公証人の柴田孟甫(本名・熊太郎)を父に、同県城東郡小沢村(現・菊川市)出身の永田登波を母にそれぞれ持ち[2][4]、3歳の頃から日本舞踊を、6歳の頃から長唄を各々習い始める[5]


その後、虎ノ門の東京女学館に入学[1][5]。そこで東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の音楽教師・杉浦チカから音楽家になることを強くすすめられ、1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学。ピアノ瀧廉太郎に、声楽幸田延にそれぞれ師事、更にはヴァイオリンもアウグスト・ユンケルについて学ぶようになる[5][注 2]。入学直前に父親の勧めで陸軍三等軍医正、藤井善一と結婚(1907年離婚)[6]

日本人初のオペラ
1903年(明治36年)7月23日、奏楽堂に於いて催された日本人の手による初めてのオペラ公演に出演し、成功を収める[7][5][注 3]1904年(明治37年)に卒業後、奨学金を得て研究科に入ると同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を教えるようになる[8]。その後、助教授となる。この間に山田耕筰らを指導した[9]1911年帝国劇場に所属して、1912年3月レコード初吹き込みを行い、プリマドンナとして活躍を続ける。



欧米各国での活躍
1913年に柴田家の養子医師(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツ留学する。しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。

1915年のイギリス・デビューの成功を受けて同年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『イリス』をニューヨークサンフランシスコシカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である[7])。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年にモンテカルロバルセロナフィレンツェローマミラノナポリの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた[10]


1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島パレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した[2]

永住帰国
パレルモで『蝶々夫人』自身出演2000回目を達成した環は、これを機に永住帰国を決断、1935年11月に帰国[2][11]


翌1936年の6月26・27両日、東京の歌舞伎座に於いて開かれた原語(イタリア語)による『蝶々夫人』公演に自身2001回目の出演を果たした[12][注 4]。以後、日本国内に於いてオペラへの出演やリサイタル開催、レコーディングなどを重ねていった[11]。ことに『蝶々夫人』に関しては、自身による日本語訳歌詞にて上演したりもした[14][注 5]


しかし、太平洋戦争第二次世界大戦)の激化から1944年3月に山梨県の山中湖(当時「中野村」→現在の山中湖村)に疎開[11]。その疎開先では、同じく疎開した母親の登波を看病する傍ら、ピアノも疎開先に持ち込み、地元民と気さくに交流したり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんだりしていた[16]。また、子供好きの性分から、近所の子供達に歌を教えたりしていたともいわれている[17]

終戦そして人生の終焉
太平洋戦争の終戦から4ヶ月弱経った1945年12月1・7両日、日比谷公会堂に於いてシューベルト作曲『冬の旅』全24曲のリサイタルを計4回開いた。この一連の公演では自身が疎開中に翻訳した日本語歌詞が用いられている[11]


1946年に入ると目に見えて衰弱し始め、3月には大東学園病院に入院、膀胱癌のため一人では歩けない身体となっていた[11][18][5]


それでも同年3月21日に日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』全20曲のリサイタルを開いたほか[11][18][5][注 6]、翌4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った《4月5・9・16各日》[注 7]


NHKに於ける3回目の録音から9日経過した1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に転院[19]。手術の可能性を探りたいという医師側の意向からレントゲン検査を受けていた[18][5]。しかし、翌5月22日には危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。なお、死の2日前(5月24日)には、昏睡状態の中、ドビュッシーの『バルコン(露台)』〔歌曲集『シャルル・ボードレールの5つの詩』から第1曲〕を口ずさんでいたという[19][18][5]


環の死去を受けて、死後2日経過した1946年5月28日に最初の入院先だった病院の母体である大東学園の講堂に於いて告別式が営まれた他、翌6月7日には日比谷公会堂に於いて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大『蝶々夫人』歌手の一人として知られたジェラルディン・ファーラーや、環との共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリ等から追悼メッセージが寄せられた[18][5]


亡骸は、生前残した「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言に基づき[16]、前年(1945年)に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸に程近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている[20][21]

評価
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共演する。


三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。


トッレ・デル・ラーゴのプッチーニ博物館(晩年の家)の歌手たちの写真を集めた一角には、日本語で「親愛なるジヤコモ・プチニ先生へ」と書かれたサイン付きの三浦環の写真が展示されている。ローマ歌劇場にも歴代のプリマ・ドンナと並んで写真が展示されている。

関係者
・著名な門弟に原信子、長坂好子、柳兼子、鈴木乃婦、関屋敏子小林千代子由利あけみがいる。


広田弘毅 - 夫の一高時代の親友で、三浦夫妻のシンガポール時代の総領事であり、アメリカ時代には参事官としてワシントンD.C.に赴任していた[23]


長井長義 - 夫の帝大時代の恩師[23]


・イギリス時代には、ヘンリー・ウッドアデリーナ・パッティ濱田耕作穂積重遠野上俊夫 (心理学者)曾我廼家五郎の妻・雪、井上勝之助夫妻らと交流を持った[23]


・アメリカ時代には、エルネスティーネ・シューマン=ハインクカール・ムックニュートン・ディール・ベイカー一家、エンリコ・カルーソーらと交流を持ち、15年間の滞米中に、ウッドロウ・ウィルソンウォレン・ハーディングカルビン・クーリッジと三代の大統領の前で歌う機会に恵まれた[23]


・環の元情夫と噂された新聞記者の千葉秀甫(秀浦)は、帝劇出演に際し環が世話になった人物で、環に結婚を迫り、シンガポール、ドイツまで追いかけたとされる[23]。千葉は語学が得意で、翻訳書などの著書があるほか[24]、渡欧後はスライドを見せながら日本の文化を紹介する講演会で各地を回り、第一次大戦でスイスに逃れたのちに落ちぶれてローザンヌで没したという[25]ウィーンで客死とも[26])。座光寺秀次郎(天卿)の名で書生芝居の役者をしていたこともあり、明治の女性落語家・若柳燕嬢の元夫[27][28]

くわしいことは、「三浦 環ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%92%B0
(wikiより)

1345  三浦環

三浦 環

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日本最古のボウリング場は、わが国最初の英字新聞であり初の近代活版新聞である「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に 1861年 ( 文久元年 ) 6月 22日の日付で新装開店の広告が掲載されたインターナショナル・ボウリング・サロンである。
 
この史実をもとに、昭和 47年より 6月 22日を「ボウリングの日」として制定した。


その後, 開港されていた横浜や神戸にも, ボウリングサロンが次々とオープンした。


1864年 ( 元治元年 ) 横浜 5月7日付の英字新聞「ジャパン・ヘラルト」に横浜開港当時, 外国人居留地であった現在の“港の見える丘公園"内にボウリングサロンが開店したという広告が掲載された。


1869年 ( 明治 2年 ) 神戸 4月 20日 神戸に, ボウリングレーン付の駐在外国人の会員制クラブ「ユニオンクラブ」が誕生した。


その後現在の神戸市庁舎南隣の東遊園地に移転し、「神戸クラブ」の名称で長い間親しまれた。


1952年 ( 昭和 27年 ) 東京 12月 20に、東京・神宮外苑、現在の秩父宮ラグビー場付近に、米軍の格納庫を利用し、民間商業施設として日本初のボウリングセンターがオープンした。


2002年で 509周年を迎えた。


2003年 ( 平成 15年 ) 6月 22日 「ボウリングの日」

社団法人 日本ボウリング場協会
( 社団法人化 30周年記念事業としてこの案内板を建てた )
(碑文より)

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龍馬のぶーつ像(りょうまのぶーつぞう)は長崎県長崎市にある銅像(ブロンズ像)。


坂本龍馬1865年慶応元年)に「亀山社中」を創設してから130年になることを記念し、1995年平成7年)に「亀山社中ば活かす会」が中心となって建立したもの。に乗っているような気分が楽しめる舵輪と大きなブーツがあり、実際に足を入れることができる。雨の日でも足が入れられるよう、ブーツの底には穴が空いている。ここから見ることのできる長崎の街並みは、「長崎都市景観賞」を受賞するなど評価されている。

所在地
長崎市伊良林2丁目

関連項目
亀山社中記念館 - 伊良林2丁目にある。

交通アクセス
長崎電気軌道新大工町電停より徒歩15分
(wikiより)

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亀山社中記念館(かめやましゃちゅうきねんかん)は坂本龍馬らにより1865年、長崎で結成された浪士結社・貿易結社「亀山社中」の跡を長崎市が整備した記念館である。

概要
元々は亀山焼という陶器を焼いていた場所であったが、慶応元年1865年)に廃窯となった。小曽根乾堂の資金援助を受けて亀山焼関連の跡地を高田利平が購入。龍馬らはその家屋を借り受けて、亀山社中を起こした。


その遺構を現在の建物所有者の厚意により、長崎市が当時の姿に近い形で整備し、平成21年(2009年)8月1日から公開を始めた。母屋は10畳、8畳、3畳の部屋と土間に分かれており、3畳の部屋と土間の上には隠し部屋である中二階がある。展示品としては、複製の龍馬の書簡や紋服、刀、ブーツ等がある。


平成23年
2月には、高知市立龍馬の生まれたまち記念館と姉妹友好館の締結を果たした。

施設情報
・所在地 - 長崎県長崎市伊良林2丁目7番24号

・休館日 - 年中無休

・開館時間 - 9:00~17:00

・入館料 - 一般 300円、高校生200円、小・中学生 150円

交通アクセス
長崎バス - 長崎駅前東口「50線市役所経由風頭山」行き「風頭山」下車 徒歩約11分

路面電車 - 長崎駅から長崎電気軌道3号系統で7分、新大工町電停下車、徒歩約15分

関連項目
海援隊

高知市立龍馬の生まれたまち記念館 - 亀山社中記念館とは姉妹友好館の関係

龍馬のぶーつ像 - 亀山社中記念館と同じ伊良林2丁目にある

外部リンク
亀山社中記念館
(wikiより)

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