本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2021/12

八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号菊屋俳名は可江。雅号橘中庵。


芝居茶屋
主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。


座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3486a

3486b

3486c

3486d

3486e

3486f

3486g



九代目 市村羽左衛門(くだいめ いちむら うざえもん、享保9年〈1724年〉 - 天明5年8月25日1785年9月28日〉)とは、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者屋号菊屋、俳名家橘

来歴
八代目市村羽左衛門の長男で、弟は三代目坂東彦三郎。享保16年(1731年)7月、市村満蔵を名乗り市村座で初舞台、延享2年(1745年)に市村亀蔵と改名。宝暦11年(1761年)3月、伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮ののち大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ、のちに京にも行きやはり五変化の所作を上演して名をあげる。同年11月江戸に戻った。


宝暦12年(1762年)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784年)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。


若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門がいる。

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3487 九代目・市村宇左衛門

九代目・市村羽左衛門

3487a

3487b

3487c

3487d

3487e

3487f

3487g



十代目 市村羽左衛門(じゅうだいめ いちむら うざえもん、寛延元年〈1748年〉 - 寛政11年2月15日1799年3月20日〉)とは、宝暦期から寛政期にかけての歌舞伎役者屋号は菊屋、俳名は亀全。


九代目市村羽左衛門
の息子。宝暦8年(1758年)11月、市村七十郎と名乗り初舞台を踏む。翌年11月に父市村亀蔵が九代目市村羽左衛門を襲名すると、その前名である亀蔵を襲名した。天明8年(1788年)9月、それまで控櫓だった桐座から興行権を取り戻して市村座を再興、十代目市村羽左衛門を襲名し晴れて座元となる。しかし前代からの市村座の負債はなお残り、一度は決着を見るもその後また大借金となった。その結果、寛政5年(1793年)には市村座はふたたび桐座に興行権を譲らざるを得なかった。そして十代目自身は退隠し、親類の福地茂兵衛の息子を養子にして十一代目市村羽左衛門の名を継がせている。寛政9年(1797年)、魚商をしていた老人という人物から借財整理の援助を受け翌年市村座は再興したが、その次の年に死去した。役者としてはあまり舞台に立たなかったという。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3488a

3488b

3488c

3488d

3488e

3488f

3488g



十一代目・市村羽左衛門

十一代目 市村羽左衛門

  ・十代目の養子、1791–1819(座元 1800 – 16)。実父は親戚筋の四代目福地茂兵衛。


  ・初代市村萬次郎 → 十一代目市村羽左衛門
(wikiより)

3489a

3489b

3489c

3489d

3489e

3489f

3489g



十二代目 市村羽左衛門(じゅうにだいめ いちむら うざえもん、文化9年〈1812年〉 - 嘉永4年8月20日1851年9月15日〉)とは、江戸時代後期の歌舞伎役者で江戸市村座の座元。俳名家橘屋号は橘屋。定紋は根上がり橘。


市村座の座元十一代目市村羽左衛門の次男。初め市村豊松、のち市村亀之助と名を改め、文政元年(1818年)11月に子役として舞台に立つ。文政3年(1820年)7月に父が死去し、同年11月に十二代目市村羽左衛門を襲名。以後座元と役者の双方を務めた。


天保
12年(1841年)10月、隣接する中村座が失火により全焼、隣接する市村座にも類焼し全焼した。これを機に森田座を含む三座は、町奉行所から浅草猿若町に移転を命じられる。嘉永4年(1851年)4月、実子の市村九郎右衛門に十三代目羽左衛門の名と座元を継がせ、自身は五代目市村竹之丞を襲名し舞台に専念するも同年6月、病により死去した。


上品な顔立ちで、私生活では成田山詣でをするのに大勢の幇間や芸者を伴い、そのついでに宴会をするなど、派手な遊びで江戸市中の話題を集めた。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3490 十二代目・市村宇左衛門

十二代目・市村羽左衛門

3490a

3490b

3490c

3490d

3490e

3490f

3490g



五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日天保15年6月4日)- 1903年明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらしま きよし)。


尾上菊五郎
としての屋号音羽屋定紋重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪俳名梅幸


市村羽左衛門
としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘


九代目市川團十郎初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。

来歴
寺島清は十二代目市村羽左衛門を父に、三代目尾上菊五郎の次女を母に、江戸の芝居町猿若町二丁目に生まれた。嘉永2年(1849年)11月市村座で二代目市村九郎右衛門襲名して初舞台。嘉永4年(1851年)4月には数え7歳で大名跡・十三代目市村羽左衛門を襲名し、市村座の座元となった。


御曹司
の羽左衛門がその大器の片鱗を見せたのは、安政4年(1857年)1月市村座で初演された二代目河竹新七(黙阿弥)作『鼠小紋東君新形』(鼠小僧)で蜆売り三吉を勤めた際のことだった。三吉は端役ながら、その出来は主役の四代目市川小團次を唸らせるほどのものだった。羽左衛門が開幕前に毎朝深川まで出かけて売りの一挙一動をくまなく観察していたことを後で知った小團次は、以後羽左衛門に一目置くようになる。そして羽左衛門も小團次の写実的な演出に傾倒していったのである。


母方の祖父・三代目尾上菊五郎には二男二女がいたが、二男はすでに亡く、長女の婿養子となっていた四代目尾上菊五郎が万延元年(1860年)に子なくして死去すると、次女の長男である羽左衛門がゆくゆくは菊五郎を襲名することが誰の目にも明らかになっていった。「市村羽左衛門」は寛永年間から続く最も歴史のある名跡の一つであり、市村座の座元を兼ねる由緒ある大名跡である。通常ならばそれが留め名となるような名跡だが、その一方で「尾上菊五郎」もまた三代目菊五郎が一代で江戸歌舞伎を代表する大名跡にまでのしあげた大看板だった。市村座座元としての仕事などそっちのけで日々役作りに没頭するこの外孫に、音羽屋一門は三代目の芸の継承者としてふさわしいものを見出していたのである。さらに羽左衛門には3歳年下の弟がいたことも手伝った。

市村座の方はこの弟に譲ればよかったのである。

そんな羽左衛門にとって、文久2年(1862年)は運命の年となる。この年の初めのある日のこと、河竹新七は両国橋で女物の着物を着た美青年を見かける。そこでふと思いつき、そのことを三代目歌川豊国に話すと、豊国はその光景を錦絵にし、さらに新七がそれをもとに書き上げた芝居が、この年3月に市村座で初演された『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)だった。新七が選んだ主役の名は「弁天小僧菊之助」。配役はもちろん、数え17歳になっていた羽左衛門である。弁天小僧は新七が羽左衛門の容姿や所作を意識して書いただけに、それは羽左衛門そのものだった。そしてその名にあえて「菊之助」を冠したことは、彼がいずれ「菊五郎」を襲名することを予告して余り有るものだった。果たして『白浪五人男』は大当たりとなり、弁天小僧菊之助は彼生涯の当たり役となった。


このときも羽左衛門は、弁天小僧が額に傷を負う場面で一工夫して、日本駄右衛門を勤める三代目關三十郎をいたく感心させている。傷を負う際、口紅をすばやく懐紙でふき取り、その懐紙で額を押さえ、自らが男だと名乗る時にその懐紙の紅を観客に見せる、そうすれば、懐紙には血がつき、唇からは口紅がとれて、一石二鳥というものだった。


弁天小僧で大評判をとった翌年、文久3年(1863年)に、羽左衛門はまず弟を十四代目市村羽左衛門として市村座座元を譲り、自らは八代目市村家橘を襲名する。そして5年後の慶應4年(1868年)8月、家橘は市村座で五代目尾上菊五郎を襲名した。まだ20代前半とはいえ、満を持した菊五郎襲名だった。


以後菊五郎は時代物世話物所作事などで明治の劇壇の頂点を極めてゆく。1887年(明治20年)4月には井上馨邸で、團十郎、左團次とともに天覧劇を披露、歌舞伎役者の地位向上に努めた。


最後の舞台は1902年(明治35年)11月、歌舞伎座の『忠臣仮名書講釈』の喜内と、生涯の当り役だった『青砥稿花紅彩画』の弁天小僧だった。すでに身体の自由が利かず、喜内は寝たきりのまま、弁天小僧では、「浜松屋」では花道の出を省き、また、幕切れでは本舞台から花道まで歩くのが体力的に困難なため、舞台を半廻しにして浜松屋の横手を見せ、土蔵の脇から南郷共々出ることにするなど、不本意な工夫を強いられている。「稲瀬川勢揃い」では舞台に鉄の棒を立て、そこに体を支えての渡り科白という壮絶なものだった。ただ、そうした満身創痍でも最後まで持ち前の諧謔精神は忘れず、「浜松屋」の化け現しの「知らざあ言って…」の決め台詞で「似ぬ声色で小強請騙り」の後、当時話題になった日本初の著作権侵犯裁判である「弁天小僧事件」で作者・河竹黙阿弥の遺族が勝訴したことを当て込んだ「それを此間(こないだ)横間(よこあい)から、ばかし物だという奴が、在ったそうだが、今度図らず御余光で、極めの付いた弁天小僧」[1] という、自ら考えた入れ事(アドリブ)」を入れるなど、意気軒昂なところも見せた。辞世の句は「散る梅に 見上ぐる空の 月清し」[注釈 1]。翌年2月に菊五郎が死去すると、そのあとを追うかのように團十郎と左團次も次々に死去、「團菊左」が逝ってここに明治歌舞伎の黄金時代が幕をおろした。


実子に六代目尾上菊五郎六代目坂東彦三郎、一女(うめ、菊五郎死後の1913年に四代目河原崎国太郎に嫁いだが[2]1919年に死別)、養子に六代目尾上梅幸二代目尾上菊之助がいる。なお、菊五郎と正妻・寺島さと(1937年1月28日没)との間には子供がなく、前記の二男一女はすべて、元柳橋芸者権妻の秋田ぎん(1926年8月31日没)との間の子である。[3]  

芸風
五代目菊五郎の芸風は、一口でいえば創意工夫に満ちた三代目菊五郎の芸と、どこまでも写実的な動きをもとめる家に伝わる形に尊敬する四代目市川小團次のやり方を折衷した芸風であった。成田屋の「歌舞伎十八番」に対抗し、音羽屋お家芸として「新古演劇十種」を撰んだ。


黙阿弥の世話物を得意とした。当り役は弁天小僧のほか、『勧進帳』の富樫、『源平布引滝』「実盛物語」の斎藤実盛、『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平、『義経千本桜』のいがみの権太・佐藤忠信、『東海道四谷怪談』のお岩・伊藤喜兵衛・佐藤与茂七、『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢、『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)のめ組辰五郎、『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の梅吉・竹垣道玄、『花街模様薊色縫』(十六夜清心)の鬼薊清吉、『怪異談牡丹灯籠』の関口屋伴蔵、『水天宮利生深川』(筆幸)の筆屋幸兵衛、『四千両小判梅葉』(四千両)の燗酒売富蔵、『曾我綉侠御所染』(御所の五郎蔵)の御所の五郎蔵など、後世の手本となったものは数多い。

人物
五代目菊五郎は研究心が旺盛だった。『加賀鳶』の道玄の衣装も自身で古着屋をさがしたり、『人情噺文七元結』(文七元結)では登場人物になりきるため左官の癖と道具の使い方を研修したり、明治24年 (1891) 1月歌舞伎座の『風船乗評判高閣』では風船乗スペンサーを演じるために慶應義塾を訪ねて英語を習ったりと、そうした逸話には事欠かない。


型にもこだわるたちで、舞台に出るとき頬かぶりの具合が気に入らないと納得するまで被り直しをいつまでも繰り返し、おかげでなかなか次の幕が上がらなかった。そのため見物客は芝居茶屋に戻って食事をしたり着替えたりすることもしょっちゅうだったという。夫婦喧嘩の最中に女房にその形じゃ芝居にならないと真剣に注意したという、伝説的な逸話もある。


性格はとなると、短気だが人をそらさぬ愛想のよい人柄で皆から愛され、謹厳実直で強持ての九代目團十郎とは対照的だった。ある日、若いころの榎本虎彦のしくじりに腹を立てた菊五郎は「おめえなんぞ、辞めちめえ!云々」と怒鳴りつけた。あまりの暴言に憤った虎彦が「音羽屋をぶっ殺してやる。」と口走ったことを聞いたとたん、態度が急変、「何!ほんとうかい!?そいつあいけねえ。おい、二両渡すから、なんとか宥めてくんな。」と弟子に一円札二枚渡し、「いかにも音羽屋らしい」と笑い話になった。


しかしそれでいて押さえるところはしっかりと押さえていた。『義経千本桜』「吉野山」の義経で自身の代役に出た弟の九代目家橘が好評だと聞くとほめると「本当ですかえ。本当ですかえ。わたくしは上手でも下手でも、まあまあこれで押して行かれますが、弟はこれからみなさんのお引き立てを願わなければならないから、評判がよいには何よりです。全く兄貴より旨うござんすかえ、そりゃありがたい」と何度も念を押すので「さすが音羽屋は如才ない」と言われている。


晩年にはそうした如才のなさが舞台に入れるくすぐりとなって客を沸かせていたが、時にはそれがしつこすぎて一部の観客や批評家から苦情が出ることもあった。1897年(明治30年)7月歌舞伎座『網模様灯籠菊桐』(小猿七之助)では、七之助が死霊の祟りに悩まされている父をたずねるくだりで、この年早世した養子の二代目尾上菊之助の悔やみ言を涙をこぼしながら延々と廻し続け、貰い泣きをした観客からも仕舞いには「あまりにも長たらしい」と呟かれるほどだった。翌年6月歌舞伎座『天竺徳兵衛韓噺』3日目は新聞劇評記者たちの招待日だったが、徳兵衛が異国の土産話をするくだりで、天竺には銀座通りという繁華街があると入れて客を沸かせると、次にそこには煉瓦づくりの店が並んでいるとやって大喝采を受けた。そこまでは良かったが、その次にそこには新聞社というものが沢山あると入れ、さらに西桟敷の記者たちをじろじろ見ながらそうした新聞社の人たちには女がむやみに惚れるとやったものだから、観客は一斉に記者たちの方を見てゲラゲラと笑い出す始末。記者たちは「去年にも懲りないで」とただ呆れるばかりだったという(岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』)。

脚注
注釈
1. 菊五郎死去直後に発行された死絵に、歌川豊齋筆の似顔絵とともに掲載されているが、「辞世」と銘打っているものの、当人が脳出血で三日間人事不省の状態であったため、実際は自作のものかどうか断定は難しい。


出典
1. 『五代目尾上菊五郎 尾上菊五郎自伝』、日本図書センター、1997.12
2. 『芸界通信 無線電話』田村成義著、青蛙房、1975.10復刊
3. 『六代目尾上菊五郎』戸板康二著、演劇出版社、1956.4

関連文献
・『五代目菊五郎自傳』伊坂梅雪編、先進社、1929.2

外部リンク
音羽屋 尾上菊五郎・菊之助 公式サイト
(wikiより)

3491 十三代目・市村宇左衛門

十三代目・市村宇左衛門

3491a

3491b

3491c

3491d

3491e

3491f

3491g



初代 坂東家橘(しょだい ばんどう かきつ、弘化4年12月18日1848年1月23日〉 - 明治26年〈1893年3月18日)とは、幕末から明治にかけての歌舞伎役者。市村座座元の十四代目市村羽左衛門としても知られる。屋号橘屋音羽屋俳名家橘。定紋は家橘の時には根割り橘、羽左衛門の時には根上がり橘。替紋は渦巻

来歴
十二代目羽左衛門の三男で十三代目羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)の弟。嘉永4年(1852年)に三代目市村竹松と名乗って初舞台を踏む(番付には嘉永元年〈1848年〉11月から若太夫として名が出る)。明治元年(1868年)8月、十四代目市村羽左衛門を襲名し座元となる。


しかし市村座にはこの時期にも大きな借金があり、それにより明治4年(1871年)8月、座元の地位を親戚の村山又三郎に譲り、みずからは九代目市村家橘を襲名した。その後は東京を離れて京都や名古屋などで旅回りをし、明治17年(1884年)東京に戻って坂東家橘と名乗る。その後ふたたび旅回りに出て、明治25年(1892年)には再興した市村座に出演もしたが、翌年腹膜炎にかかり死去した。


当り役は『仮名手本忠臣蔵』の勘平、『菅原伝授手習鑑』の桜丸など。役者としては坂東家橘時代に最も活躍し、晩年になるにつれて芸域も広がり、和事・実事双方に本領を発揮している。兄にあたる五代目菊五郎ほどの個性はなかったが品があったので「大納言」と称され、また口跡が鳩が鳴くようであったことから、鳩ポッポともいわれた。養子に三代目坂東竹松(のちの十五代目市村羽左衛門)がいる。

参考文献
・早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編 『演劇百科大事典』(第4巻) 平凡社、1986年

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3492 十四代目・市村宇左衛門

十四代目・市村宇左衛門

3492a

3492b

3492c

3492d

3492e

3492f

3492g



十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年明治7年)11月5日 - 1945年昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和歌舞伎を代表する役者の一人。屋号橘屋定紋根上り橘、替紋は渦巻俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。


二枚目
若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりもの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。

来歴
生い立ち
東京府出身。出生の事情については長らく謎だったが、死後里見弴が著書『羽左衛門伝説』の中で、十五代目はチャールズ・ルジャンドルと池田絲(いけだ いと)の間に生まれた私生児だったという説を発表、現在ではこれが定説になっている。


ルジャンドルはフランス生まれのアメリカ人で、南北戦争では北軍の陸軍大佐としてグラント将軍旗下で活躍、戦後除隊した後には陸軍准将に名誉進級されている。その後は外交に転じ、明治新政府の外交顧問として来日、日本の台湾出兵に決定的な役割を果たした人物である。また池田絲は、旧福井藩主で、四賢侯の一人と謳われ、幕末には幕府政事総裁職、維新後は新政府の議定民部卿大蔵卿などを歴任した松平慶永庶子である。

役者人生

当時の庶民から見れば雲の上の人のような出自だったかもしれないが、そこは混血の私生児として生まれた者の宿命で、数え四つになると十四代目市村羽左衛門に養子に出される。厳しい稽古に明け暮れる役者人生がここから始まった。1881年(明治14年)1月、坂東竹松を名乗って初舞台。後に二代目坂東家橘を襲名、1893年(明治26年)7月に十代目市村家橘を襲名。1903年(明治36年)10月には十五代目市村羽左衛門を襲名した。

「市村羽左衛門」ほどの大名跡ともなれば、その襲名口上には九代目市川團十郎を置いて他に頼む人はなく、すべてを彼に任せきりにしていたのだが、襲名披露興行の直前にその九代目が風邪をこじらせて急死してしまう。慶事を前にした「劇聖」の死で幕内は上を下への大騒ぎとなった。誰が代わりに口上をやるのか、そもそも何を言ったらよいのかと、余人が侃々諤々と意見をたたかわせる中、十五代目本人は至って冷静だった。


襲名披露公演の初日の幕が開くと、十五代目は九代目團十郎の遺影を舞台上手に、そしてやはり半年前に死去した叔父(養父の兄)の五代目尾上菊五郎(十三代目市村羽左衛門)の遺影を舞台下手に置いて、本人は團菊の真ん中に座り、そこで一人滔々と口上を述べた。今日では襲名する本人が締めくくりに何卒宜しくと一言口上を述べることが一般的だが、この当時にあってはそのようなことはもとより、本人の「一人口上」などというのは前代未聞の出来事だったが、十五代目はいかにも堂に入った様子でこれが大評判となった。

花の橘屋最
後の舞台
戦局がいよいよ怪しくなり、東京の空襲が日常的な頻度になると、羽左衛門も長野県湯田中温泉に疎開することになった。その前夜、国民服防空頭巾のいでたちの羽左衛門は、一人ひと気のない歌舞伎座の舞台に名残惜しそうに立ち続けていたという。羽左衛門が再びその舞台に立つことはなく、1945年(昭和20年)5月6日に湯田中の老舗旅館「よろづや」でひっそりと死去した。そしてその歌舞伎座も羽左衛門の後を追うかのように5月25日の大空襲で灰燼に帰してしまった。墓所は東京都豊島区雑司ヶ谷霊園


十五代目の訃報に接して、六代目尾上菊五郎は「上手い役者ではなかつたが、良い役者でした」と個人を偲んでいる。その六代目は初代中村吉右衛門とともに大正年間に「菊吉時代」と呼ばれる歌舞伎のひとつの黄金時代を築いていたが、彼らは「上手い役者」と評されることはあっても、「良い役者」と評されることはなかなか無かった。その意味で、十五代目市村羽左衛門の死は歌舞伎の一つの時代の終焉でもあった。


4か月後、ダグラス・マッカーサー副官として厚木に降り立ったフォービアン・バワーズが、日本の新聞記者に向かって真っ先に尋ねたのが「羽左衛門はどうしていますか?」という質問だったという。

芸風
新派のトップとして、そして何よりも美貌の女形として、花柳章太郎は大正から昭和のはじめにかけて絶大な人気を誇っていた。その花柳が、溝口健二監督に乞われて映画『残菊物語』の主役を演じることになったのは1939年(昭和14年)のことである。同作は、美男で鳴らした明治の名役者・二代目尾上菊之助の悲恋を描く実録物だが、その美形の菊之助を当代きっての美貌の女形・花柳に演じさせるというのが溝口の企みだった。しかし花柳にとってはこれが初めての立役であり、彼は立役をつとめることの難しさをここで痛感する。美貌の花柳は確かに絵にはなるかもしれないが、立役としてはどうにも様にならないのだ。その花柳が漏らした「なりたいのは羽左衛門」という言葉には、同じ美形でもその芸の奥深さがまったく違った十五代目羽左衛門に対する溜め息ともとれるような憧憬が言い表されている。


実際に、観客はいつも羽左衛門に白塗りの二枚目を期待し、羽左衛門はいつもその期待に応えて彼らを魅了していた。それが故に、善く言えば「永遠の前髪役者」、少々意地悪く言えば「何をやつても羽左衛門」などという、要するに「その美形が彼の財産」という評判が十五代目には終生つきまとった。しかしそれが決して「見映えだけで芸がない」という意味にはならないところが十五代目の真骨頂だった。立役であろうと悪役であろうと敵役であろうと、羽左衛門がつとめる役どころにはどこか晴れ晴れとした明るい魅力を感じさせるものがあった。それが十五代目の天性に拠るものだったのか、あるいはその完成された芸に拠るものだったのかは意見が分かれるところだが、いずれにしてもそれが他に例を見ない天下一品のものであることは誰の目にも明らかだった。里見弴が十五代羽左衛門目を「天才を超えた天品」と評したのはこのことを端的に表現したものである。


その美形に加え、美貌と高音の利いたさわやかな調子のよさが特徴的だった所演の役どころは、どれも傑作ばかりで、今なおその芸風は梨園の語りぐさとなっている。特に六代目尾上梅幸を相方とした演目は名高い。

当たり役
世話物

  ・『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の与三郎

  ・『雪暮夜入谷畦道』(三千歳と直侍)の直次郎

  ・『江戸育御祭左七』(お祭り左七)の左七など

時代物

  ・『源平布引瀧』「実盛物語」の実盛

  ・『本朝廿四孝』『十種香」の勝頼

  ・『義経千本桜』「鮨屋」のいがみの権太

  ・『助六』の花川戸助六

松羽目物

  ・『勧進帳』の富樫


これら十五代目一代の当たり役は、お家芸可江集」としてまとめられた。

人物
家族

実生活では極め付きの艶福家で、江戸っ子らしい意気な性格の持主だった。また周囲の人々に対して心配りの行き届いた情の深い性格で、多くの人から慕われた。


十六代目市村羽左衛門十六代目市村家橘三代目市村亀蔵を養子にしている。日本舞踊家の藤間政弥との間に儲けたといわれる女子が日本舞踊家の吾妻徳穂。オペラ歌手の関屋敏子は姪にあたる。

逸話
華やかさ
自らが持つ天性の華やかさというものを、十五代目は誰よりもよく理解し、それを臆面なく表に出すのが常だった。後の名脇役三代目尾上多賀之丞が初めて羽左衛門と舞台を共にした時、若手で経験の少ない多賀之丞は緊張して「あのう、わたしは舞台でどうしたらいいのでしょうか」と尋ねると、羽左衛門は微笑って「何にもしなくていいんだよ、どうせお客は俺しか見ないんだから」と答えたという。


華やかさでは梨園で右に出る者はいなかったが、その十五代目も初代中村鴈治郎の存在感にだけは一目置かざるを得なかった。どこまでも天真爛漫で茶目っ気があり、いい加減なようで実は緻密な芸に裏打ちされた鴈治郎には、自身とは全く性質の異なるある種の華やかさがあった。そんな鴈治郎を見るたびに、「成駒屋にゃァ勝てねえ」と十五代目は感嘆とも愚痴ともとれるような呟きを漏らすのが常だったという。

花道の後光

十五代目は花道の出で、照明をつけないよう裏方に申し入れることがよくあった。ある時照明係がいぶかしげにその訳を訊ねると、十五代目は「俺が出るだけで明るくなるンでえ」と答えて照明係を唖然とさせた。しかし実際に十五代目の舞台は、照明がなくても彼がそこにいるとまるで後光が差すようで、その場の雰囲気がパッと明るくなったという。


十五代目は70歳近くになると、シワが目立つから、と花道の面明かりを実際に止めさせてしまったが、歌舞伎評論家の戸板康二は、ある日照明のない花道に登場した十五代目のまわりが、ぼーっと発光したように見え、真っ暗な空間に十五代目の白塗りの顔が浮かび上がる奇跡を見た、とその著書に記している。

名言
欧米旅行中に訪れたパリルーブル美術館で、ある一角に人だかりができているのでいったい何かとのぞいてみると、そこにはあの「ミロのヴィーナス」が。しかし十五代目は一言、「手の切れた女にゃァ用はねえ」。

反骨精神
1940年(昭和15年)7月、日本俳優協会の会合で羽左衛門に会長就任が要請された。これを羽左衛門は「あっしゃあ、御免こうむるよ。如何しても嫌だ。たってと仰言るなら、あっしゃあ役者を止める。鎌倉山の百姓をしてもいい、兎に角僕あ嫌だ」と振切った。同席して感動した古川ロッパは「僕は一人で嬉しくってたまらなかった。これこそ市村羽左衛門である」「ああ僕は羽左衛門のために何とかしてやりたくなった」とその胸の高まりを書き連ねている。

関連書籍
三宅周太郎『羽左衛門評話』冨山房 1946

・『十五世市村羽左衛門舞台写真集』菱田正男編 舞台すがた社 1951

・里見弴『羽左衛門伝説』毎日新聞社 1955

竹田真砂子『小説・十五世羽左衛門』集英社文庫 1995 

・『名優アルバム 十五代目市村羽左衛門』演劇出版社・1999

脚注
1. 市村羽左衛門(15代目) コトバンク

外部リンク
秋山加代「十五代羽左衛門私考」
(wikiより)

3493a

3493b

3493c

3493d

3493e

3493f

3493g



十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年明治37年)1月15日 - 1952年昭和27年)10月4日[1])とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号橘屋定紋根上り橘、替紋は渦巻俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。

来歴
京橋区築地に生まれ[1]、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる[1]二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台[1]。以後成駒屋五代目中村福助片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目[1]市村家橘を襲名[1]。1947年(昭和22年)2月、東京劇場で十六代目市村羽左衛門を襲名した[1]


大らかな芸風で、養父の十五代目とは対照的な芸風を持っていた[1]。『演劇界』昭和27年第一号の巻頭特集では「「御曹子」という表現が、こんなにもピッタリとする役者」「品のよい、おっとりとした落ちつきは無類」「決して才走ってチカチカする役者ではありません」「器量の大きさは、やがて大物に仕上げていくにちがいありません。期待しましょう」と評された[2]世話物では養父が得意としていた若衆[1]時代物では殿様や奥方の役などを得意とした[1]所作事もよくし、『紅葉狩』の山神、『吉野山』の静御前[1]、『落人』の早野勘平などが当り役であった。もっとも、「特に発揮する役はなかった」とする評がある一方で、舞台ぶりは六代目尾上菊五郎にも評価されていたという[1]。逆に戦後間もなく上演された現代劇『銀座復興』での演技は酷評され、これで新作歌舞伎に向かないという評判が立ってしまった。それでも羽左衛門襲名後は着実に芸が伸び、特に1951年(昭和26年)6月の新橋演舞場での加藤道夫作『なよたけ抄』の小野連や[1]、翌年7月歌舞伎座北條秀司作『狐と笛吹き』の秀人[1]など、新作の王朝物という新領域で本領を発揮しようとした矢先に病を患い、秀人を演じてからわずか3か月後の10月4日に亡くなった[1]。48歳没。結果的に、秀人を演じたのが最後の舞台となった[1]

脚注
出典
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 市村 羽左衛門(十六代目)”. 歌舞伎 on the web. 歌舞伎 on the web事務局. 2018年10月6日閲覧。
2. #演劇界

参考文献
「写真特集 或る日 或る時 あの場所で」『演劇界』第10巻第1号、演劇界、1952年、 17頁。

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3494 十六代目・市村宇左衛門

十六代目・市村宇左衛門

3494a

3494b

3494c

3494d

3494e

3494f

3494g



十七代目 市村 羽左衛門(じゅうしちだいめ いちむら うざえもん、1916年大正5年)7月11日 - 2001年平成13年)7月8日)は、昭和から平成にかけての歌舞伎役者。屋号橘屋定紋は根上り橘、替紋は渦巻。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。


本名は坂東 衛(ばんどう まもる)。俳名に可江。舞踊名取藤間 善蔵(ふじま ぜんぞう)。


派手さはないが堅実な芸風をもった立役として時代物世話物で模範的演技を見せ、晩年は「歌舞伎の生き字引」とまで呼ばれた。また大名跡市村羽左衛門」を襲名した後も、自身は五代目菊五郎の孫であり、六代目菊五郎の甥である立場から、尾上菊五郎家お家芸を守る一人として菊五郎劇団で重きをなし、二代目尾上松緑七代目尾上菊五郎を長く支えた。

事績
・1921年(大正10年)10月 帝国劇場『名月八幡祭』の鶴吉で三代目坂東亀三郎襲名し初舞台

・1935年(昭和10年)3月 歌舞伎座『音羽獄だんまり』の奴伊達平で七代目坂東薪水を襲名、名題昇進

・1942年(昭和17年)10月 歌舞伎座『隅田川続俤』「双面」の押戻しで七代目坂東彦三郎を襲名

・1955年(昭和30年)10月 歌舞伎座『名橘誉石切』(石切梶原)の梶原景時で十七代目市村羽左衛門を襲名

・1978年(昭和53年)紫綬褒章受章

・1984年(昭和59年) 日本芸術院賞受賞[1]

・1988年(昭和63年) 勲四等旭日小綬章受章

・1990年(平成2年) 人間国宝に認定

・1991年(平成3年) 日本芸術院会員

・1999年(平成11年) 文化功労者顕彰

当たり役
時代物

  ・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木四郎兵衛盛綱・和田兵衛秀盛

  ・『摂州合邦辻』「合邦庵室」の合邦道心

  ・『仮名手本忠臣蔵』(忠臣蔵)の大星由良助・高師直・寺岡平右衛門・加古川本蔵

  ・『伽羅先代萩』(先代萩)の仁木弾正・渡辺外記左衛門・荒獅子男之助

  ・『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の武部源蔵・白太夫

  ・『本朝廿四孝』の長尾謙信

  ・『義経千本桜』の梶原景時

  ・『鬼一法眼三略巻』「菊畑」の吉岡鬼一法眼

  ・『妹背山婦女定訓』「三笠山御殿」の蘇我入鹿

  ・『楼門五三桐』(山門)の石川五右衛門

世話物

  ・『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)の日本駄右衛門・南郷力丸

  ・『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の弥太五郎源七

  ・『暗闇の丑松』の四郎兵衛

  ・『心中天網島』「河庄」の孫右衛門

  ・『三人吉三巴白浪』(三人吉三)の土左衛門伝吉

  ・『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の日陰町松蔵、

  ・『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の炊出しの喜三郎

歌舞伎十八番

  ・『勧進帳』の武蔵坊弁慶・富樫左衛門

  ・『矢の根』の曽我五郎

  ・『』の鎌倉権五郎直政・珍道震斎・ウケ

  ・『助六』のくわんぺら門兵衛・髭の意休

新歌舞伎十八番

  ・『北条九代名家功』「高時」の北条高時


特に晩年七代目尾上菊五郎と舞台を共にした『鼠小紋東君新形』(鼠小僧)の与惣兵衛は、人生の苦渋が滲み出た老役で絶品と評された。

ドラマ
襲名直前に放送が開始されたテレビにも精力的に出演したが、1970年代と晩年は舞台に専念した。


・『赤穂浪士』(1964年NHK大河ドラマ) - 阿部忠秋

・『明治天皇』第一部(よみうりテレビ、1966年)明治天皇

・『やつらの戦い』1(1983年)、2(1985年)(NHK

・『鬼平犯科帳・第8シリーズ・第9話「さらば鬼平犯科帳」(スペシャル)』(フジテレビ1998年6月10日松平定信

家族
長男に初代坂東楽善(八代目坂東彦三郎)、次男に二代目市村萬次郎、三男に四代目河原崎權十郎がいる。

脚注
1. 『朝日新聞』1984年4月5日(東京本社発行)朝刊、22頁。

外部リンク
市村 羽左衛門 (十七代目) - 歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇
(wikiより)

3495a

3495b

3495c

3495d

3495e



初代 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、元禄6年〈1693年〉 - 寛延2年9月2日1749年10月12日〉)とは、享保年間に活躍した歌舞伎役者女形の名優。俳名は路考、屋号濱村屋。通称は濱村屋路考。女形役者の初代瀬川菊次郎はその弟。

来歴
元は大坂道頓堀の貝塚屋仁三郎抱えの濱村屋吉次という色子で、弟の菊次郎とともに瀬川竹之丞の門下となって瀬川吉次と名を改める。宝永6年(1709年)正月、16歳の時に瀬川菊之丞と改名し、大坂で若女形として初舞台を踏んだ。しかし容姿顔貌は十人並みで声はしゃがれて低かったことからあまり人気が出ず、芸の行き詰まりを感じて25歳で役者を廃業し、大坂で源右衛門という男に身を託しともに暮らした。のちに京都夷川通りで商家を営む。


役者を廃業して三年が経った享保5年(1720年)、28歳で舞台に復帰する。かつての地味さはなくなり、艶やかな役者ぶりで、その芸が認められ次第に評判となる。享保13年(1728年)には京市山座において、『けいせい満蔵鑑』(けいせいまくらかがみ)の無間の鐘の芝居で名声を博す。享保15年(1730年江戸へ下り、「三都随一の女方」と讃えられた。


に取材した舞踊にも傑作を残し、『道成寺』や『石橋』の所作事を得意とした。なかでも延享元年(1744年)春に初演した『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)は、現在は曲、振付けともに絶えてはいるものの、のちに初代中村富十郎が『娘道成寺』を踊るにあたって土台にした物のひとつになった。また元文4年(1739年)の大坂で人形浄瑠璃の『ひらかな盛衰記』が初演されているが、その中の四段目に傾城梅が枝が手水鉢を使っての無間の鐘を演じる場面があり、これは初代菊之丞の無間の鐘の演技を写したものであるといわれる。


日常生活でも女装を通したという。芸論書に『女方秘伝』がある。

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年

杉浦日向子 『大江戸観光』〈『ちくま文庫』〉 筑摩書房、1994年

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

関連項目
相生獅子
(wikiより)

3508a

3508b

3508c

3508d

3508e

3508f



屋号 萬屋
生年月日 1693年
没年月日 1751年1月27日
襲名歴 1. 初代坂東菊松
2. 初代坂東彦三郎
俳名 薪水


初代 坂東彦三郎(しょだい ばんどう ひこさぶろう、1693年元禄6年) - 1751年1月27日寛延4年1月1日))は、歌舞伎役者。屋号は萬屋。俳名薪水


大坂
の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれる。


最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永3年(1706年)11月に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年(1711年)11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで京坂で活躍。


享保
14年(1729年)江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。元文5年(1740年)11月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた。
(wikiより)

3499a

3499b

3499c

3499d

3499e

3499f



三代目・坂東彦三郎家族墓。( 一世 ~ 七世 )

3500a

3500b

3500c

3500e



屋号 音羽屋
定紋 鶴の丸 Tsuru no Maru inverted A.png
生年月日 1754年
没年月日 1828年4月2日
襲名歴 1. 初代市村吉五郎
2. 三代目坂東彦三郎
俳名 橘子・薪水・楽善
別名 半草庵
八代目市村羽左衛門
兄弟 九代目市村羽左衛門

三代目 坂東彦三郎(さんだいめ ばんどう ひこさぶろう、1754年宝暦4年) - 1828年4月2日文政11年2月18日))は、江戸時代中期の歌舞伎役者。屋号ははじめ萬屋、のち音羽屋俳名に橘子・薪水・楽善。


八代目市村羽左衛門
の三男で兄には九代目市村羽左衛門がいる。初代尾上菊五郎門人。


宝暦8年11月 (1758) 頃から市村座の若太夫として出る。翌年3月には同座で市村吉五郎を名乗り子役で舞台に立つ。


明和7年11月 (1770) に三代目坂東彦三郎を襲名し、以後若衆方で活躍。8年後に元服して立役に転じた。文化10年 (1813) には完全に舞台を退き、京都黒谷で剃髪した後江戸に帰り、半草庵楽善と号して本所原庭に隠居して余生を送った。晩年風流に書画・俳諧茶道を嗜み余生を過ごした。


時代物
より世話物を得意とし所作和事武道を得意とした。
(wikiより)

3502a

3502b

3502c

3502d

3502e

3502f



坂東 彥三郞(ばんどう ひこさぶろう、 新字体:彦三郎)は、歌舞伎役者の名跡屋号は初代から三代目が萬屋、以後が音羽屋。三代目以後の定紋は音羽屋鶴の丸(おとわや つるのまる)、替紋は結び八重片喰(むすび やえ かたばみ)。

二代目 坂東彥三郎

  ・初代の子、1741 - 68。

  ・二代目坂東菊松 → 二代目坂東彥三郎
(wikiより)

3501a

3501b

3501c

3501d

3501e

3501f

3501g



初代 尾上菊五郎(しょだい おのえ きくごろう、享保2年〈1717年〉 - 天明3年12月29日1784年1月21日〉)とは、江戸時代歌舞伎役者屋号音羽屋俳名梅幸。幼名は竹太郎。

来歴
京都都萬太夫座の芝居茶屋出方音羽屋半平の子。初め若女形尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る。享保15年(1730年)京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台。享保20年(1735年)からは若女形として舞台に立ち評判を取る。


その後寛保元年(1741年)、大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保2年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後宝暦2年(1752年)立役に転じる。しかし明和3年(1766年)、江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経てふたたび江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した。


当り役は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『ひらかな盛衰記』の延寿・畠山重忠など。子に二代目尾上菊五郎がいる。

参考文献
・『尾上菊五郎一代狂言記』〈『新群書類従』第三 演劇其三〉 国書刊行会、1976年(復刻版) ※『梅幸集』付録


・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3503 初代・尾上菊五郎

初代・尾上菊五郎

3503a

3503b

3503c



寺島家門弟一同建立の碑。

3504a

3504b



寺島家門弟代々の墓。

3505a

3505b

3505c

3505d



初代 瀬川如皐(しょだい せがわ じょこう、元文4年〈1739年〉 - 寛政6年1月23日1794年2月22日〉)とは、江戸時代中期に活躍した歌舞伎役者。のちに狂言作者となる。俳名如考・如皐、雅号は東園。

来歴
大坂振付師市山流の初代家元市山七十郎の子、三代目瀬川菊之丞を弟に持つ。最初市山七蔵と名乗って明和4年(1767年)江戸に下り、二代目瀬川菊之丞の門下となり瀬川七蔵と名乗った。そののち市山七蔵、瀬川乙女と改名するが、天明3年(1783年)に役者を廃業して狂言作者に転じ、名を瀬川如皐と改める。翌年11月、立作者になり初代櫻田治助に次ぐ人気を得た。弟である三代目菊之丞に多くの演目を書いたほか、所作事を中心に多くの作を残し、長唄の『狂乱雲井袖』(仲蔵狂乱)や常磐津の『四天王大江山入』(山姥)が今に残る。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3511a

3511b

3511c

3511d

3511e

3511f



六代目 瀬川 菊之丞(ろくだいめ せがわ きくのじょう、1907年明治40年)3月25日 - 1976年昭和51年)11月3日)は、歌舞伎役者。屋号濱村屋定紋丸に結綿。本名は瀬川 豊太郎(せがわ とよたろう)。


東京浅草鳥越の生まれ。1918年(大正7年)に 母方のいとこに当たる岩井久次郎(のち九代目岩井半四郎)の養子となる。1924年(大正13年)10月、大阪弁天座で瀬川仙魚を名のって初舞台。のち二代目瀬川菊次郎を襲名し小芝居で活躍していたが、1932年(昭和7年)4月梨園を離れ前進座に参加、翌1933年(昭和8年)に六代目瀬川菊之丞を襲名した。


脇役として、新作、丸本物、世話物などで活躍、幅広い役柄と渋い老巧な演技とで舞台を引き締めた。その実力は、三代目中村翫右衛門の代役で彼の当たり役の『平家女護島』の俊寛を好演したことでも窺われる[要出典]


1976年(昭和51年)大阪中座の『新門辰五郎』の会津の小鉄が最後の舞台となり、同年11月3日梅田のホテル阪神で急死、69歳だった。
(wikiより)

3510a

3510b

3510c

3510d

3510e

3510f



五代目 瀬川菊之丞

・四代目の養子、1802–32。実父は初代瀬川路三郎(のちの初代嵐璃光)


・瀬川多門 → 五代目瀬川菊之丞
(wikiより)

3509a
3509a

3509b

3509c

3509d

3509e

3509f



贈四代目 瀬川菊之丞

・三代目の婿養子、1782–1812。実父は江戸木挽町芝居茶屋主人猿屋伊八といわれるが、実は二代目中村十蔵と伊八の娘とのあいだに出来た子だったという。


・坂東千之助 → 中村千之助 → 瀬川菊之助 → 瀬川路之助 → 四代目瀬川路考 → 贈四代目瀬川菊之丞(追贈)
(wikiより)

3508a

3508b

3508c

3508d

3508e

3508f



三代目 瀬川菊之丞(さんだいめ せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉 - 文化7年12月4日1810年12月29日〉)とは、化政期に活躍した女形歌舞伎役者屋号は始め富士屋、のち濱村屋俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。

来歴
上方出身。日本舞踊市山流の初代市山七十郎の次男として生まれる。はじめ父の元で修行し市山七之助を名乗り、明和2年(1765年)11月には市山富三郎と改名する。明和8年(1771年)、大坂の竹田芝居で『桂川連理柵』の信濃屋お半を演じて評判となり、これがきっかけで翌年5月に中の芝居に出る事になり、やはり信濃屋お半を演じた。


一方江戸では、安永2年(1773年)春に二代目瀬川菊之丞が死去する。その遺言によれば後継として、当時大坂にいた富三郎を指名したというが、これについては二代目菊之丞の弟子だった富三郎の兄、瀬川七蔵(のちの初代瀬川如皐)の口添えがあったともいう。富三郎は同年の暮江戸に下り瀬川富三郎と改名し、翌安永3年(1774年)春の市村座で二代目菊之丞一周忌追善として、『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となる[1]。同年11月市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名した。


人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍し、文化5年(1808年)には女形ながら座頭となったほどだった。風姿と口跡に優れ、地芸と所作を兼ねたほか、世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れていた。四代目岩井半四郎とともに「女形の両横綱」と称された。


寛政年間に京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現・東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋は、菊之丞の俳名「仙女」にちなんだ「仙女香」という名の白粉を販売した[2][3]。坂本屋が絵双紙の検査役でもあったことから、版元たちはご機嫌取りに絵双紙の中に仙女香の文字を入れ込み、それが宣伝となって仙女香は大ヒット商品となった[3]

脚注
1. 『百千鳥娘道成寺』は初代瀬川菊之丞以来の瀬川家のお家芸で、この時は『花形見風折烏帽子』(はながたみかざおりえぼし)という外題だった。なお菊之丞は『百千鳥娘道成寺』を天明3年(1783年)に森田座で勤めたあと二度と踊ることはなく、もっぱら初代中村富十郎所演の『娘道成寺』を踊るようになる。その結果初代菊之丞が初演した瀬川家の『百千鳥娘道成寺』は廃絶するに至った。
2. 仙女香(読み)せんじょこうコトバンク
3. a b 『時代を変えた江戸起業家の 商売大事典』ISM Publishing Lab ゴマブックス株式会社, 2013「第3章見えないところにまで気を配る伊達男・伊達女を支えたアイデア 3.コスメ産業は今も昔も情報が命」

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年

・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3507 三代目・瀬川菊之丞

三代目・瀬川菊之丞

3507a

3507b

3507c

3507d

3507e

3507f



二代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、寛保元年(1741年) - 安永2年閏3月13日1773年5月4日))とは、寛延から安政期に活躍した江戸女形役者。屋号濱村屋俳名は路考。通称「王子路考」。

来歴
江戸郊外の武州王子の富農・清水半六の子で幼名を徳次といった。5歳で初代瀬川菊之丞の養子となって瀬川権次郎を名乗る。寛延3年(1750年)9月に二代目瀬川吉次を名乗り、中村座で養父一周忌追善として石橋の所作を演じたのが初舞台。宝暦6年(1756年)11月の市村座顔見世で、初代菊之丞が演じた『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を披露し二代目瀬川菊之丞を襲名、翌宝暦7年には若女形の筆頭に置かれる。


容姿にすぐれ、地芸と所作、時代と世話を兼ねた。現在の歌舞伎・日本舞踊で人気演目のひとつになっている『鷺娘』は、二代目菊之丞が初演したものである(ただし当時の振付けは伝わっていない)。また当時の江戸の人気を一身に集め、路考髷、路考茶、路考櫛など、その名の付くものが庶民に流行するほどであった。男色家であった平賀源内との仲は有名であった。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

3506 二代目・瀬川菊之丞

二代目・瀬川菊之丞

3506a

3506b

3506c

3506d

3506e

3506f



松本 幸四郎(まつもと こうしろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は初代が大和屋、二代目以降が高麗屋定紋は四つ花菱(よつ はなびし)、替紋は浮線蝶(ふせ ちょう)。七代目は日本舞踊藤間流藤間勘右衛門も同時に名乗り、また八代目以降は日本舞踊松本流の宗家でもある。


本来は市川團十郎の弟子筋にあたる家だが、二代目松本幸四郎の実の父は二代目市川團十郎であったともいわれ、その縁からか、成田屋に市川團十郎の跡継ぎがいない場合には、常にこの高麗屋から養子が入って市川宗家を継いでいる。

四代目 松本 幸四郎(よだいめ まつもと こうしろう、元文2年(1737年) - 享和2年6月27日1802年7月26日))は、江戸歌舞伎役者。俳名は錦江、屋号高麗屋

人物
京都の生まれ。はじめ江戸の初代瀬川菊之丞門人で瀬川金吾。1744年(延享元年)春中村座で初舞台。若衆役として活躍するが、1754年(宝暦4年)11月江戸市村座『けいせい浅間鐘』で瀬川錦次の名で立役。


その後一時舞台を離れるが、1756年(宝暦6年)四代目市川團十郎の門に入り復帰。市川武十郎となる。師が主催した若手俳優養成塾の「修業講」で懸命に学んだことが評価され、1762年(宝暦12年)初代市川染五郎を襲名。翌年二代目市川高麗蔵を襲名。その間着実に力をつけ、1772年(安永元年)11月中村座の『大鐙海老胴篠塚』で四代目松本幸四郎を襲名する。


時代物、世話物に通じ、多くの役をこなした。特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした。門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心でもあった。それだけに性格も強く、五代目市川團十郎ら出演者としばしば衝突した。


とくに初代尾上菊五郎との確執は有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を根に持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味をいわれたという。


晩年は性格も温厚になり、1801年(享和元年)息子の三代目市川高麗蔵に五代目幸四郎の名跡を譲り、自らは男女川京十郎(おめがわきょうじゅうろう)を襲名、ほどなく死去した。墓所は東京押上の大雲寺。


四代目幸四郎によって確立された写実的な芸風は続く五代目幸四郎によって完成されたといわれている。

演じた人物
7代目染五郎

三井不動産ストーリー「福徳の森で」編(三井不動産のテレビCM) 2017年から放送

江戸時代の日本橋にタイムスリップし、本人演じる初代染五郎と出会うという内容。
(wikiより)

3512 四代目・松本幸四郎

四代目・松本幸四郎

3512a

3512b

3512c

3512d

3512e

3512f



松本 幸四郎(まつもと こうしろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は初代が大和屋、二代目以降が高麗屋定紋は四つ花菱(よつ はなびし)、替紋は浮線蝶(ふせ ちょう)。七代目は日本舞踊藤間流藤間勘右衛門も同時に名乗り、また八代目以降は日本舞踊松本流の宗家でもある。


本来は市川團十郎の弟子筋にあたる家だが、二代目松本幸四郎の実の父は二代目市川團十郎であったともいわれ、その縁からか、成田屋に市川團十郎の跡継ぎがいない場合には、常にこの高麗屋から養子が入って市川宗家を継いでいる。

五代目 松本 幸四郎(ごだいめ まつもと こうしろう、明和元年(1764年) - 天保9年5月10日1838年7月1日)は江戸の歌舞伎役者。屋号高麗屋。定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。俳名に錦升・金升・錦江、雅号に秋夜亭がある。江戸後期の名優で、その面立ちから俗に鼻高幸四郎(はなたか こうしろう)と呼ばれた。


父は四代目松本幸四郎。明和7年(1770年)市川純蔵と名乗り江戸中村座で初舞台。三代目市川高麗蔵を経て享和元年(1801年)11月、父の男女川京十郎改名とともに五代目松本幸四郎を襲名。天保9年(1838年)5月、中村座出演中に倒れて死去。


はじめ立役を演じていたが実悪に転じた。鋭い目つきと高い鼻が凄みを与え、東洲斎写楽初代歌川豊国三代目歌川豊国の芝居絵にもその芸風が窺われる。実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受けた。彼が舞台で見得をするとあまりの怖さに子供が泣出したと言われている。文化2年(1805年)11月市村座『けいせい吉野鐘』では評判記『役者大極丸』に「年若なれどもお江戸の大立者、実事実悪とも兼備たるお上手故めったにのぼす事ではないわいの」と書かれている。


当り役は『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王、『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『義経千本桜』の権太。とくに『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の仁木弾正(にっき だんじょう)は生涯の当り役となり、今日に至るまで彼に敬意を評して、仁木の左の眉尻にはホクロを描いたり(このホクロは五代目の顔の特徴のひとつだった)、四つ花菱三つ銀杏の紋様が衣装の至る所にちりばめられていたりする(四つ花菱は松本幸四郎の定紋、三つ銀杏は市川染五郎の定紋)。顔のもう一つの特徴だった高い鼻は、『菅原伝授手習鑑・車引』の松王が客席ではなく舞台下手に向かって横向きに見得を切るいう独特の型になって今日に伝わっている(元は幸四郎の鼻の高さを強調した演出だったのが定着した)。


四代目鶴屋南北と組み、時代物では『時今也桔梗旗揚』(馬盥)の武智光秀のような謀反人、世話物では『東海道四谷怪談』の直助権兵衛、『謎帯一寸徳兵衛』の大島團七などの悪役を演じた。いずれも冷酷な役どころで、とくに世話物では庶民の生々しい姿を写実的に演じ新しい芸風を確立。その後の歌舞伎に大きな影響を与えた。


子に六代目松本幸四郎、養子に三代目市川壽美蔵がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺。
(wikiより)

3513 五代目・松本幸四郎

五代目・松本幸四郎

3513a

3513b

3513c

3513d

3513e

3513f



松本 幸四郎(まつもと こうしろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は初代が大和屋、二代目以降が高麗屋定紋は四つ花菱(よつ はなびし)、替紋は浮線蝶(ふせ ちょう)。七代目は日本舞踊藤間流藤間勘右衛門も同時に名乗り、また八代目以降は日本舞踊松本流の宗家でもある。


本来は市川團十郎の弟子筋にあたる家だが、二代目松本幸四郎の実の父は二代目市川團十郎であったともいわれ、その縁からか、成田屋に市川團十郎の跡継ぎがいない場合には、常にこの高麗屋から養子が入って市川宗家を継いでいる。

六代目 松本幸四郎(ろくだいめ まつもとこうしろう、文化8年(1811年) - 嘉永2年11月3日1849年12月17日))は、江戸の歌舞伎役者。俳名は錦子、錦升屋号高麗屋


父は名優五代目松本幸四郎。はじめ松本錦子の名で父の元で修業をつむ。1814年(文化11年)11月江戸市村座において五代目市川高麗蔵を襲名し初舞台。父の死後、1844年(天保15年)3月中村座で六代目松本幸四郎を襲名する。2年後の1846年(弘化3年)俳名の松本錦升を名乗る。


荒事
や父譲りの『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の仁木弾正(にっき だんじょう)や『義経千本桜』の権太などの実悪を得意としたが、大成を前に早世した。
(wikiより)

3514 六代目・松本幸四郎

六代目・松本幸四郎

3514a

3514b

3514c

3514d

3514e

3514f



初代 中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう、慶長3年(1598年) - 万治元年6月9日1658年7月9日))は、江戸時代初期の歌舞伎役者、座元。生前は猿若 勘三郎(さるわか かんざぶろう)として知られた。江戸で初めての常設の芝居小屋となった猿若座/中村座の創始者。屋号柏屋定紋丸に舞鶴。出自は京とも、名古屋中村とも言われる。

人物
山城の武士中村勘兵衛の次男。出自の異説として中村一氏の末弟・中村右近の孫の勘三郎と同一人物だという説もあるが、定かでは無い。甲子夜話には、「生国尾州愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)」と記されている。このことから、名古屋の市民団体が寄付金を募り、2017年(平成29年)5月に名古屋市中村区にある中村公園に中村勘三郎の誕生記念の像を建立した[1]


兄の狂言師:中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして、生涯の傑作、舞踊『猿若』を創作したという。

元和8年(1622年)江戸に下る。寛永元年(1624年)2月15日、猿若勘三郎と名乗る。同年江戸市内の中橋南地に芝居小屋「猿若座」を建て座元となる。3月に興行開始。これが江戸における常設歌舞伎劇場の始まりとなる。


『猿若舞』が江戸中の人気を集める。寛永9年(1633年)、勘三郎は幕府の御用船「安宅丸」回航の際に船先で木遣り音頭を唄い、将軍家より陣羽織を拝領する。その後しばしば将軍家[2]に招かれ『猿若舞』を躍り名声を獲る一方、中村座の焼失や奉行所からの取り締まりにも悩まされる。


明暦
3年(1657年)の明暦の大火では中村座を失い、5月江戸を離れて一時故郷の京に上がる。京では後西天皇の御前で『猿若舞』『新発智太鼓』を子の中村勘治郎(のち二代目猿若勘三郎)とともに上演。褒美にビロード地に丸に三つ柏紋の羽織、勘治郎には「中村明石」の名をそれぞれ賜る。9月に江戸に帰り中村座の経営と役者業を勤めたといわれている。


万治元年(1658年)に死去。


以後勘三郎代々が中村座座元として経営に携わり、中村座は江戸で一番の権威ある劇場となった。


長男が初代中村勘九郎、二男が中村勘治郎(のちの二代目猿若勘三郎)。

補注
1. 【愛知】初代中村勘三郎の銅像除幕 生誕伝承の地、名古屋・中村区(中日旅行ナビ ぶらっ人)”. 中日新聞(CHUNICHI Web). 中日新聞社 (2017年5月29日). 2019年6月15日閲覧。
2. 慶安4年(1651年)1月と3月に、江戸城中で歌舞伎を興行している。『日本史年表』東京学芸大学日本史研究室・編、東京堂出版、1984年、231頁、文化・思想・一揆欄より。

関連項目
中村勘三郎
(wikiより)

3515a

3515b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
二代目 中村勘三郎

初代の二男、1647–74。


中村勘二郎 → 初代中村明石 → 中村明石勘三郎 → 二代目中村勘三郎
(wikiより)

3516a

3516b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
四代目 中村勘三郎

三代目の養子、1662 – 1713。


中村七之助 → 二代目中村明石 → 初代中村勘太郎 → 四代目中村勘三郎 → 初代中村傳九郎(隠居名)
(wikiより)

3517a

3517b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
五代目 中村勘三郎

三代目の子で四代目の養子、1666–1701。


竹松 → 五代目中村勘三郎 → 中村傳九郎
(wikiより)

3518a

3518b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
六代目 中村勘三郎

初代中村勘九郎の次男、または四代目中村勘三郎の弟、のち五代目中村勘三郎の養子、1688–1758。


中村又三郎 → 六代目中村勘三郎 → 二代目中村勘九郎(隠居名) → 中村傳九郎(隠居名)
(wikiより)

3519a

3519b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
七代目 中村勘三郎

六代目の長男、1717 – 75。


三代目中村明石 → 七代目中村勘三郎
(wikiより)

3520a

3520b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
八代目 中村勘三郎

六代目の次男、1719–77。


中村勝十郎 → 二代目中村傳九郎 → 八代目中村勘三郎
(wikiより)

3521a

3521b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
九代目 中村勘三郎

八代目の養子、1765–85。


初代中村七之助 → 三代目中村七三郎 → 九代目中村勘三郎
(wikiより)

3522a

3522b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
六代目 中村勘三郎

初代中村勘九郎の次男、または四代目中村勘三郎の弟、のち五代目中村勘三郎の養子、1688 – 1758。


中村又三郎 → 六代目中村勘三郎 → 二代目中村勘九郎(隠居名) → 中村傳九郎(隠居名)
(wikiより)

3523a

3523b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
・十一代目・中村勘三郎
八代目の娘婿、1766 – 1829。父は二代目・市川八百藏。
 
二代目・中村傳藏 → 三代目・中村傳九郎 → 十一代目・中村勘三郎
(wikiより)

3524a

3524b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説

当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々

十二代目 中村勘三郎

十一代目の次男、1800 – 51。


四代目中村明石 → 五代目中村傳九郎 → 十二代目中村勘三郎 → 三代目中村勘九郎(隠居名)
(wikiより)

3525a

3525b



中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説
当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

中村勘三郎代々
十三代目 中村勘三郎

十二代目の子、1828–95。


三代目中村傳藏 → 十三代目中村勘三郎
(wikiより)

3526a

3526b



 これからの記事は「合葬墓も多く」同じ画像が続きます。

中村 勘三郎
(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった(詳細は「鶴姫」項の「鶴字法度」節を参照)。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。

解説

当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。 これからの記事は


大雲寺には中村勘三郎累代墓が残る。[1]

・中村勘三郎代々
三代目 中村勘三郎

  ・初代の三男、1649–78。
  ・中村長三郎 → 三代目中村勘三郎
(wikiより)

3527a

3527b



福地家墓 ( 茶屋、版元 )

3528a

3528b

3528c

3528d

3528e



池田 孤邨(村[1])(いけだ こそん、 享和3年(1803年) - 慶応4年2月13日(1868年3月6日)[2])は、江戸時代後期の江戸琳派絵師酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟である。

略伝
越後国水原近辺(現在の阿賀野市)出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。


池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て、酒井抱一に師事したと見られる。水原は天領で、越後有数の米処として、干拓新田開発が積極的に行われた。その結果、廻船業などで富を成す素封家も多く、江戸や京阪の文人墨客が水原を訪れ、逗留することも珍しくなかった。父藤蔵は水原でこうした素封家と交流があり、弧邨が若くに江戸に出るのも、水原に来訪した文化人が関与したとする説がある[3]。また、抱一の弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢堤雨の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある[4]。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。嘉永6年(1853年)2月に父が亡くなると、同年4月水原の古刹西福寺に父の墓碑を建立している(大橋訥庵銘文)。


文政年間前期頃に抱一に入門[5]、抱一の号の一つ「鶯邨」の1字から孤邨を名乗ったと推測される[6]。抱一の死後30代の半ばから一時深川冬木町に住み、40代後半には両国久松町に移り、没するまで過ごした。しかし、深川時代の作品は関東大震災で多くを失ったとされ[7]、動向は不明な点が多い。安政6年(1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下に高し、然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画の鑑定に優れ、茶道を好み和歌に通じた教養人で、を好み「蓮菴」と号した。琳派の後継者を自認し、最晩年の元治2年『光琳新撰百図』上下(弟子の野沢堤雨跋、ボストン美術館など蔵)、慶応元年(1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。1882年にイギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサーが出版した『日本 その建築、美術と美術工芸』では、早くも『光琳新撰百図』が引用されている。一方、文中に「大和魂」「皇国」といった語句が散見し、孤邨が勤王思想を持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江大雲寺


孤邨は其一ほど多作ではなく、作品の質も振り幅が大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲に比べて画材に劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名や豪商の注文が少なかったと推測される[8]。しかし、代表作「檜図屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現がみられる。弟子に中村岳陵に最初の絵の手ほどきをした野沢堤雨、木村江村、鷲孤山、胝狐仙、胝狐松、八木沢松嶺、西崑山、高橋孤道、福島孤龍など。早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多くの印章コレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章も37顆含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館に所蔵されている[9]

詳しいことは、「池田孤邨ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%AD%A4%E9%82%A8
(wikiより)

3529a

3529b

3529c

3529d



〇 原首相遭難現場
大正 10年 11月 4日 午後 7時 20分、内閣総理大臣・原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向かっていた。


そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長 ( 初代 ) の肩をかすめ、いきなり刃わたり 5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。


原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。


犯人は、原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。
(案内板より)


〇 原敬暗殺事件
原敬暗殺事件(はらたかしあんさつじけん)は、1921年大正10年)11月4日、当時の首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺刺殺)された事件。

3531 原首相遭難現場

⇧ 

当時の現場。柱の陰に中岡艮一がいた。点線矢印が原が歩いた方向、×印が襲撃された地点。


経緯

大塚駅の転轍手であった中岡艮一は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていた。中岡の供述によれば、原が政商財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政権的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺を考えるようになったという。

1921年11月4日、翌日に予定されていた京都立憲政友会近畿大会へ出席のために、原は東京駅へ午後7時10分頃に到着した。その後、駅長室に立ち寄り、多数の見送り人に囲まれながら歩いて乗車口の改札口へと向かっていた。午後7時25分頃、周囲をとり囲んでいた右側群衆の中から突進してきた青年(後に中岡と判明)が短刀を原の右胸に突き刺し、原はその場で倒れた。凶行に及んだ青年はその場で逮捕され、原に随行していた望月圭介元田肇中橋徳五郎小川平吉らと東京駅長の高橋らが、原を駅長室に運び込み応急処置を施した。凶変の知らせを受けた夫人が東京駅へ午後7時40分頃に駆けつけ、8時10分頃に自動車で芝公園の自宅へ運んで診察と治療を施したが、突き刺された傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。


逮捕
された中岡は、死刑求刑に対して、東京地裁無期懲役判決を受けた。その後の東京控訴院大審院でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡の特別な処遇がなされ、3度もの減刑1934年には早くも釈放された。


さらに戦時中には、比較的安全な軍司令部付の兵となっていた(中岡艮一の項参照)こともあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者もいる[1]。中岡は第二次世界大戦後の1980年に、77歳の生涯を閉じている。

葬儀・告別式

同夜12時頃、首相官邸において臨時閣議が開かれ、葬儀後まで後任や政局問題は保留とされた。翌5日の協議員会と議員総会において党葬などが協議されたが、かねてより遺言書などで原が要望していた葬儀は簡素なものであり、家族も原の遺言に従いたいとの申し入れから、盛大なものでなく簡素な告別式が行われた[2]。東京から盛岡へ移動する夫人ら家族と霊柩の随行者として、閣員代表者や院外代表者、有志の者などが許された。


11月7日-東京・芝公園の自宅から午前8時に霊柩が出発、党本部大広間で各界要人らや議員、地方からの参列者などがり、同日午後8時まで告別式が執り行われた。その後、家族と霊柩並びに随行者は、道の両脇の群衆に見送られながら上野駅に向かい、午後10時に上野駅を出発した。途中駅でも拝礼者などがあり、翌8日の午前10時に盛岡駅に到着した。午前11時に同市古川端の原邸に安置され、遺言書に従って簡素なお通夜が営まれ、9日の夕方に埋葬された。10日、天皇の勅使が盛岡の原邸を訪問して誄詞や供物などを送るなど、埋葬後もその死を悼む弔詩が多く寄せられたとされる。

暗殺の真相

中岡が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した政治に対する不満のほかに、以下のような説もある。


玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。


・事件発生当時はワシントン海軍軍縮条約を協議する国際軍縮会議が開かれる直前であり、国内では「諸外国の圧力に屈して軍縮するべきではない」という官民タカ派の意見が声高に叫ばれていた。この軍縮協議に対する原の真意は不明だが、上述の右翼勢力が原を条約推進派とみなして暗殺の動機としたという説がある。


・前述の通り、理不尽な裁判進行と恩赦による減刑繰り返し、戦時徴兵時の配属先配慮等を根拠に、政官軍内部の原の政敵やワシントン海軍軍縮条約反対派の関与があったという説。


・犯行の1カ月前、中岡と上司・橋本栄五郎との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。腹を切る(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味)と言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、中岡が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

現場跡

東京駅の現場である現丸の内南口の北東面左端付近には、壁に事件の概要を記したプレートがあり、床面には円の内部に6角形という形をしたマークが埋め込まれている。


脚注
1. 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』文藝春秋,1995年
2. 家族が申し入れた内容は、同年2月に原が残した遺言書に「葬儀は盛岡にて営むべし、東京においては何の式も為すに及ばず。墓標には位階勲等を記さず、単に「原敬之墓」と銘記する事。葬儀は母や兄の例により、其以上の事を為すべからず。」があり、本人の希望に従い家族も盛大な式等は望まないとのことであった。

参考文献
・日本博学倶楽部 『図説 歴史の意外な結末』 PHP研究所、2003年、42-43頁。

豊田穣『西園寺公望』新潮文庫,1985年

・長文連『原首相暗殺』図書出版社

関連項目
伊藤博文 - 1909年10月26日安重根によって暗殺。

齋藤實 - 同郷で二・二六事件で暗殺。

高橋是清 - 二・二六事件で暗殺。

犬養毅 - 同じ新聞記者出身で五・一五事件で暗殺。

濱口雄幸 - 1930年(昭和5年)11月に東京駅で銃撃され重傷を負い9ヵ月後に死去。
(wikiより)

3531b

⇧⇩ 画像中央部の丸い印が襲われた現場です。

3531c



この一角は、田沼意次にとり入り、養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした中野碩翁の別邸で、隅田川に面して贅をこらしていた。


そこを明治の政商、大蔵喜八郎が受け継ぎ、大倉別邸としていた。


邸内の川に面して建てられていた、「蔵春閣」は船橋の「ららぽーと」に移築されている。
(案内板より)

3532a

3532b



表  「始祖豊広辞世」「死んでゆく地獄の沙汰はともかくもあとの始末は金次第なり」「二世広重建之」


裏  「明治貳拾年龍集丁亥第四月良辰」


刻印 「守田宝丹」「宝丹」


この石碑は、三世・歌川広重が明治二〇年 ( 1887 ) 4月、歌川豊広 60回忌に墨堤下に建立したもので、のちにこの地に運ばれました。


豊広は相弟子の豊国とともに歌川派の基礎を築きあげました。


豊国は役者絵、豊広は美人画で頂点を極め、多くの人材を育て上げました。


中でも豊広の後継者として大成したのが初代・歌川 ( 安藤 ) 広重でした。


広重は養女を門弟の重宣と妻 ( め ) 合わせ、二世・広重を名乗らせましたが後に別の門弟・重政と再婚させられました。


この重政が後の三世・広重ですが、はじめ二世・広重を用いました。この碑もそのひとつです


多くの絵師たちが生活し、活躍したこの地には、多くの句碑や狂歌碑が有りましたが、震災・戦災によってほとんどが失われました。


区民の手によって保護されてきたこの石碑は歴史資料として、また美術資料として貴重なものです。
(案内板より)  

3533a

3533b

3533c

3533d

3533e

3533f



堀 織部正利煕 ( おりべのしょうとしひろ )( 1818年 ~ 1860年 ) の墓


堀 利煕は文政元年 ( 1818年 ) 堀 利堅の四男として生まれた。


家督をつぎ、小姓組・徒頭になり嘉永六年 ( 1853年 ) には江戸湾 ( 東京湾 ) の海防のため監察として活躍した。


当時我が国は北からロシアが根室に来航し国交を迫ったが、幕府は「鎖国 ( さこく )」をたてに通商を拒否していた。


折りしもペリーは艦隊 ( くろふね ) を率いて東京湾に入り通商を要求した。


そのために江戸市中は大騒ぎになった。


利煕は、箱館 ( はこだて ) 奉行になった安政元年 ( 1854年 ) 樺太 ( サハリン ) に渡り調査をし、函館においてロシア使節と会談を行った。


安政五年、我が国初代の外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、横浜開港についての交渉を行った。


万延元年 ( 1860年 ) プロシアとの条約締結の交渉において幕閣と意見が対立し同年十一年自刃した。( 享年 42歳 )


狂歌 『太平の眠りをさます上喜選 ( 蒸気船 ) たった四はい ( 隻 ) で夜も眠れず』( 上喜選は茶の名 )
(案内板より)


堀利熙の辞世

石 ( いそ ) の上 ( かみ ) ふりにし世々の跡とひて 昔にかへる我身なりけり

3534a

3534b

3534c



熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県奈良県和歌山県大阪府に跨る。2004年に世界文化遺産に登録。

概要

熊野古道とは、主に以下の6つの道を指す。


紀伊路(渡辺津 - 田辺)

小辺路(高野山 - 熊野三山、約70km)

中辺路(田辺 - 熊野三山)

大辺路(田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km)

伊勢路伊勢神宮 - 熊野三山、約160km)

大峯奥駈道 (吉野 - 熊野三山)


これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産文化遺産)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。


熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。


熊野古道の中には、国道や市街地のルートと重複していて吸収されてしまったものもある[注釈 1]。これには紀伊半島の地理が関係している。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。このため、古来より交通開発が困難であり、往来に適する場所は限られている。現在もこの事情は同様であり、結果として、現代の主要な交通路は古人の拓いた道に並行[注釈 2]、あるいは重複することになる。


世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではない。これは、熊野詣それ自体の盛衰もあって正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートがありそのすべてが対象となっていないこと等による。なお、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。

歴史

熊野古道の特色は、中世期に日本最大の霊場として隆盛した熊野信仰という一貫した目的のために、1000年以上も使われ続けてきたことである[1]。近世になって、日本最大の霊場としての地位を伊勢神宮にとって代わられてからは、西国三十三所観音巡礼のひとつに姿を変えるようになったが、純粋な徒歩参詣道として熊野古道が残ったため、現在でも独自の形で賑わいを見せている[2]


熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、平安時代中期の延喜7年(908年)に行われた宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる[3][4][5]。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、弘安4年(1281年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた[4]


11世紀
から12世紀にわたり、院政期の上皇方が熊野詣でを繰り返すようになった[5]。熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより、上皇や法皇に伴われて皇后などの女院方や貴族が同行するようになり活況を呈し、後に京都の貴族の間で単独で熊野詣が行われるようになった[5]。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。鎌倉時代建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の日記によれば、旅は原則徒歩で移動し、荷物は伝馬で運ばせ、それらによって道が整備されていったという当時の様子について記されている[5]。この時代は、源氏平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍文覚も参詣した[3]源頼朝の妻・北条政子も鎌倉から上洛する機会を利用して、熊野参詣を2回行っている[5]。さらに承久の乱1221年)以後は、地方武士の参詣者も出るようになった[5]


また、主に12世紀から13世紀にかけて九十九王子が設けられた。これは、熊野古道(特に紀伊路、中辺路)の大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに、100近くの熊野権現を祭祀した末社である。参詣者は、九十九王子で休憩しながら熊野三山まで歩いた[3]。現存するものは少ない。


室町時代になると、貴族のほかに武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになり、「蟻の熊野詣」とまでいわれるほど、凄まじいほどの参拝者の大群であったといい[3]、熊野三山の繁栄も頂点に達し、熊野参詣道も広域道路として整備された[4]


江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ[要出典]


1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。


熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。


現在は、和歌山県観光振興課が中心となり、ルートが整備されスタンプラリーなどもできるように観光化も進んでいる。

詳しいことは、「熊野古道ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93
(wikiより)

3536a

3536b

3536c

3536d



熊野古道 大門坂に有る『大阪屋旅館跡』です。


南方熊楠が三年間滞在した 大阪屋旅館跡。
(案内板より)

3537a

3537d

3537b

3537c



那智滝(なちのたき)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智川中流にかかる。石英斑岩からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、その姿は熊野灘からも望見することができる[1]。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位。華厳滝と共に日本三名瀑に数えられている。


国の名勝に指定されている(1972年7月11日指定、指定名は「那智大滝〈なちのおおたき〉」)[1]ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部[2]

概要
那智山中の那智原始林には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった[3]。一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。その姿は、那智滝図一遍上人絵伝熊野那智参詣曼荼羅など宗教美術においてたびたび描かれている[1]


那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は飛瀧神社神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。


この滝を写した写真のキャプションとして「熊野那智大社と那智滝」などの様に題して、三重の塔(青岸渡寺)と那智の滝を1枚のフレームに納めたものがある。この名称は、明治期の神仏分離以前において、三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社が一体のものであった名残である。

那智四十八滝
詳細は「那智四十八滝」を参照


那智原始林内には多くの滝があるが、このうち48の滝に番号と神道を中心に、儒教仏教道教陰陽五行説などの諸宗教にもとづく名が与えられていた[3]。これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる裸形上人をはじめとする宗教者たちのほか、花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて、千日滝篭行をしたと伝えられている[4]。しかし、明治期の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な信仰が失われるとともに、明治初期からは所在や名称も不明となっていた。


1991年、わずかに残された古文書を手がかりに、地元の有志・新聞社・僧職などが四十八滝探査プロジェクトを行い、再発見に成功した[5]。また、1992年からは青岸渡寺の手によって、那智四十八滝回峰行が再興されている[6]



所在地
・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

脚注
1. a b c 那智大滝1972年〈昭和47年〉7月11日指定、名勝)、国指定文化財等データベース文化庁) 2014年9月28日閲覧。
2. 世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会、pp.39,75
3. a b 中嶋市郎、2002、「「那智四十八滝」探査プロジェクト」、別冊太陽編集部(編)『別冊太陽 - 熊野 - 異界への旅』、平凡社 pp. 114-115
4. 平凡社編、1997、『大和・紀伊』、平凡社(寺院神社大事典) ISBN 4582134025 pp.621-622
5. 高木亮英、2002、「現代の熊野修験」、別冊太陽編集部(編)『熊野 - 異界への旅』、平凡社 ISBN 4582943845 pp. 52-53
6. 宇江敏勝、2004、『熊野修験の森 - 大峯山脈奥駈け記』増補版、新宿書房〈宇江敏勝の本第2期〉 ISBN 4880083070、pp.11-22
7. 那智勝浦町章制定”. 那智勝浦町 (1964年10月1日). 2012年1月11日閲覧。

関連項目
日本の滝百選

熊野信仰

  ・熊野那智大社 - 飛瀧神社

  ・青岸渡寺

世界遺産 - 紀伊山地の霊場と参詣道

平成の名水百選

日本三大一覧

日本国指定名勝の一覧

日本の音風景100選

外部リンク
国土地理院地図閲覧サービス:紀伊勝浦

那智勝浦町観光協会

那智大滝 - 国指定文化財等データベース(文化庁
(wikiより)


3538a

3538b

3538c

3538d



向かって右の石碑が、平 貞胤の供養碑です。


観応 ( かんのう ) 二年 ( 1351 ) の紀年銘があります。 現在では判読不能。


平 貞胤は、千葉氏代十二代の当主で、京都で没しました。


彼の外護 ( げご ) を受けていた人々が、恩に報いるために建立したものと思われます。


なお左の石碑は、下総式板碑といい、元亨 ( げんこう ) 二年 ( 1322 ) の紀年銘あります。

〇 平 貞胤

時代鎌倉幕府後期 - 南北朝時代
生誕正応4年[1]12月15日1292年1月6日
死没正平6年/観応2年1月1日[1]1351年1月28日
別名千葉介[1]
官位従四位[1]
幕府鎌倉幕府室町幕府
下総伊賀両国守護職[1]
主君将軍守邦親王得宗北条貞時高時
後醍醐天皇足利尊氏
氏族千葉氏
父母父:千葉胤宗、母:北条顕時の娘
曾谷教信の姪
一胤氏胤


千葉 貞胤(ちば さだたね)は、鎌倉幕府末期から南北朝時代武将千葉氏の第11代当主。第10代当主・千葉胤宗の子。

生涯

北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権北条貞時より偏諱を受けて貞胤と名乗る[注釈 1]


正和
元年(1312年)、家督を継いで当主となり[1]伊賀下総守護職を継承した。元弘元年/元徳3年(1331年)9月、後醍醐天皇挙兵討伐のため在元弘の乱では鎌倉幕府方の北条貞直軍に属して楠木正成が守る河内下赤坂城攻めで功を挙げたが[1]、元弘3年/正慶2年(1333年新田義貞が幕府に反旗を翻して鎌倉を攻めると義貞に与し[1]武蔵国鶴見川付近で鎌倉街道下道を北上する北条貞将(貞胤の従弟にあたる)を破った。


建武政権
成立後は宮方につき、北朝方についた嫡流の従兄・胤貞と千葉氏の家督を争った。建武2年(1335年)には胤貞と相馬親胤に本拠の千葉荘を攻められるが、胤貞と親胤は同年11月足利尊氏の檄文に拠って上洛したため、下総での戦いは貞胤有利となり胤貞の本拠千田荘の土橋城を攻め落とす。


その後も貞胤は新田義貞の軍に属し足利軍と戦うが、建武3年(1336年1月16日には丹波国志賀郷にて嫡男の一胤を足利軍の細川定禅に討ち取られる。さらに、義貞軍は一時は足利軍を九州に追いやるものの、再起を果たし反撃した足利軍に攻め込まれ貞胤も恒良親王を擁しての北国落ちに従う。


そして、延元元年/建武3年(1336年)10月に吹雪の越前国木芽峠で義貞軍とはぐれて道に迷い、やむなく足利方(斯波高経)に降伏した[1]。だが、その直後11月19日に従兄の胤貞が急死したため貞胤は北朝方に寝返って下総守護を安堵された。その後は北朝方につき京と下総を往復するが、上洛していた正平3年/貞和4年(1348年)8月には、四條畷楠木正成楠木正行と戦い戦功を挙げた[1]


正平6年/観応2年(1351年)1月1日、61歳で京にて死去[1]。次男の氏胤が家督を継いだ。

3541a

3541b

3541c

3541d

3541e



↑このページのトップヘ